短編 #0454の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
病院の廊下は素足に冷たくて、踊るような足どりになる。 非常灯の緑と消火器のある赤のコントラストが目に痛い。 男物のパジャマを、うんとめくって着ているから、風が入って少し寒い。 凍える身体を抱きしめる。 胸を抱くように、右腕と左腕で。 まだ身体のあちこちが痛い。手術のあとがひきつれて、熱い。 でも右の二の腕のつなぎ目は、痛みじゃない熱さにうかされている。歯が抜けか かっているみたいに。 あたしはそっと左手を離し、右手の上に重ねる。 あたたかいね。まるで生きているみたいだね。 薄い皮膚の下で、あたしの血がどくどくと脈打っているのがわかる。右腕が抱い ているあたしの身体は寒くて鳥肌。気持ち悪くてごめんね。 少し湿った足の裏は、ぴたぴたとタイルをとらえてはじく。夜気が瞼の下にしみ て、目が潤んだような気がする。 「あなたはだあれ?」 あたしの言葉にあなたが傷つく。 黙って見つめる瞳の色を憶えている。 とまどう唇を知っている。 柔らかな耳たぶを、指でたどったことがある。 あたしを抱いた右腕も。 でもここにいるのはあたしの知らない人なのね。 あなたの存在はあたしの心を傷つける。だからもう、帰って。見えないところに 行ってしまって。 無駄に大きな病院だから、行きたい場所になかなか行けない。 身体はもうすっかり冷えてしまって屍体のよう。窓にうつる唇は蒼い。 警備員を何人やり過ごしたかしら。 足の裏はすっかり乾いてしまって、気持ち悪い。 生まれてからずっと、この道を辿ってきたような気がするけどそれはまちがい。 ほら、もうすぐ見えるわ。あの角を曲がって。 ほら、もう見えるわ。あの大きな窓の中。 今はもう、誰もいない大きなフラスコの中。 羊水だけが満たされた、からっぽのフラスコの、その前で彼と出会った。もうそ の日は帰らないけれど。 彼に会ったその時が、あたしの生まれた瞬間だった。 厚い硝子に頬を押して、彼のいた場所を眺める。 初めて出会った場所を眺めながら、最後に彼を見た場所を思い出す。 山を抜ける道路。夜の海が見えた。 瞼を閉じれば消えることのない炎。 熱と煙とガソリンの燃える嫌なにおい。火の粉と爆発。霧のような雨。 ガードレールを引き裂いて、車は燃え続けていた。ああ。 あたしが身体を起こしたのは、どれくらいたってから?きっと、そんなにはかか らなかった。あんなに車は燃えていたんだから。 どこも痛いと感じなかった。ただ、熱くて怖かった。隣にいたはずの彼が、どこ にもいなかったから。彼を捜さなくちゃ。 どこにいるの? ぱちぱちはぜる火の粉。風が巻き上げる。 どこにいるの? 熱に涙をあぶられて、涙も出ないようだった。 彼はいた。 ガードレールの向こう側、あと少しで断崖絶壁の所に。 少しの雑草と、水たまり。黒い泥に、半分埋もれるようにして。瞼を閉じて、眠 っているの?そうじゃない。 彼が死んで、あたしが生きている。彼がその直前にあたしを放り出したから。 彼の身体がずたずたで黒こげなのに、あたしが…… あたしの右腕がなくなっているのに、そのときはじめて気が付いた。 ボクノキモチハカワラナイヨ、とあなたは言うけれど。 あたしの気持ちは変わったわ。 彼を好きだった。 だから、一緒に逃げたのよ。硝子のフラスコから出してくれた彼。 歩き方、走り方、ご飯の食べ方。 見ること、聞くこと、笑うこと、楽しむこと、怒ること。 彼の用意した車に乗ったとき、遠足に行くみたいだねって笑ったのはあたし。 本当は、遠足なんて行ったことなかった。 あたしは硝子のフラスコしか知らないもの。 彼も笑った。今ならわかる。彼は、哀しそうに笑ったのよ。 彼を失ってあたし、二つ新しく憶えたの。 哀しいこと。それから、あいしてるってこと。 彼を好きだったけど、今は違う。 あたし、彼をあいしてるわ。 彼の燃えるにおい。きっとそれがあたしを変えたんだわ。 病院からお迎えが来て、生きてるあたしともう生きていない彼の身体を車に乗せ た。もう、遠足だなんて思わなかった。だって、哀しかったもの。遠足は楽しいよ 、って彼は言ったわ。 たくさん血が流れて、あたしも死にかけていたんだと先生は言った。 助かったのは奇跡だよ。 君はこの病院の中でしか生きられないんだから。もう逃げ出したりしちゃいけな い。 彼?彼のことは、残念だった。 彼も、ここでしか生きられなかったんだ。だって、死んでしまっただろう? 気付いてないと思ってるのね。 あんたたちが、車を燃やしたのよ。 あんたたちが、彼を燃やしたのよ。 彼が教えてくれたから、あたしは力の使い方を知ってるわ。 新しく憶えたこと。 あたしの頭の中にはたくさん言葉が詰まってるけど、それはみんな意味のない言 葉。言葉の意味を、憶えるには時間がかかると彼が言った。 新しく憶えたこと。 それは、復讐よ。 あんたたちが彼を燃やしたみたいに、今度はあたしがあんたたちを燃やしてやる わ。 あんたたちを憎んでるわ。哀しくて、つらくて、憎んでるわ。たくさん教えてく れてありがとう。 あんたたちを、殺してやるわ。 この右腕で殺してやるわ。 「さよなら」 元気でね。 心からそう思った。 あなたを好きよ。 でも、あたしは彼をあいしてる。だから、あなたを愛せない。 彼をあいしてることになったのは、あの時間。 雨の夜。車が走って、燃えたあのとき。 彼があたしを放り出したあの瞬間。 冷たく眠る彼の横顔を、残った左手でそっと撫でたあの日。 彼の時間はそこで止まって、その後はなし。 あなたは彼の続きかも知れないけれど、大事なところが欠落してる。あたしが彼 をあいした瞬間。 「元気でね」 彼が差し出した右手を、あたしの右手が取る。 ああ、同じ手だね。 同じ皮膚、同じ肉、同じ骨。 手触りも、爪の形も、かすかに浮かんだ血管も。 あたしとあなたの右手は、同じ。 少しも違うところはない。 だって、同じものだもの。同じ遺伝子を硝子のフラスコで育てて、同じ記憶を憶 えてる。彼の心を登録した、コンピュータからもらった記憶。 彼と同じ心。あたしを好きだと言った彼。 あたしに教えた。あたしに触れた。あたしを好きだと言った。 あなたも憶えている。あなたも知っている。 彼と同じ顔したあなた。 彼と同じ記憶を持つあなた。 たった一日、たった一日。 あたしが変わってしまった一日を憶えていないあなた。 あなた。 それなら、あたしをもう一人作りなさい。あたしが欲しければ、あの日、あの時 より前のあたしを作りなさい。 右手まで全部、あたしの細胞で出来た、完全なあたしをもう一度。 そう言ったら、あなた笑った。彼と同じ、哀しそうな笑顔。 ごめんね。 あたしの右手は彼の右手。もう変えられない。肘から先の、彼と一緒に燃えてし まったあたしの右手。 そこにあいつらは彼の右手を接いだ。それだけは感謝してる。 あなたの右手と彼の右手。同じだね。 さあ、右手をつなごう。さよならしよう。 あたしがすべてを燃やしてしまう前に。 この右手が、血で塗られる前に。 さあ。
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「短編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE