短編 #0437の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
Jが野菜を洗う水音で目が覚めた。 ゆうべはJが来たのだった。ねぼけ眼で私はもそもそとカーディ ガンを羽織り、台所を覗き込んだ。Jのしなやかな、やさしいよう で所々に筋肉のすじの盛り上がった凛々しい腕が、レタスを剥いで ゆく。ちゃぷちゃぷとボウルの水が私の頬にまで跳ねた。 跳ねた水の行方が気になったか、ふいに彼がふり返る。「おはよ う、サチ。」 剥がされてゆくレタスが、ゆうべの私たちを回想させた。私が、 Jの身に着けた白い真っ白なシャツを引きちぎるかのように脱がし た。彼の、私にとっては魅惑のチョコレートが露になり、熱っぽい 視線が絡み合い私たちは冷たい床の上で、こぼれる赤いワインをも 忘れて静かに、そして激しく貪り合った。 彼のあのりりしい黒い腕が私のすべてを知っているのだ。私の味 を。それは彼にとって蜜のように甘いに違いない。私にはしたたか な女の酸味がするだろう。けれど彼は知らない。彼は私には純情の 過ぎるチョコレートなのだ。 Jの背中にぴとりとはりついて、私の爪は彼のシャツを床に落と した。再びふり返る彼と甘酸っぱい恋に溺れる私は、夕べのまどろ みにまた、堕ちた。 Jがここに来るのは、2〜3ケ月に一度。独占欲の強い私が、よ くこのままごとに絶えているものだとつくづく思う。それは、彼に 対して常に保ってきた、私の必死のプライドからなる平静だ。 私が彼に勝てる、唯一の武器が心だ。 彼の心の中を支配できる私が存在する。それはたくましいか、いや たくましくなどない。やさしいか、柔らかか、甘いのか。彼のみぞ 知る、彼の中で彼を支配する私。 「ひとりですか。」 カタコトの日本語で、彼は最初にそう云った。「そう。ひとり」 私は彼が理解しやすいように、ゆっくりと答えた。 普段なら、どんな声をかけられても一切の受け答えをしない私が、 ここでどうしてやさしい答えを出したのか、彼がロクに喋れぬ日本 語で必死に質問してきたからなのか、そのとき既に私が彼に一目見 て、恋の息吹を感じたからなのか、未だにわからない。 真面目な顔をしてしどろもどろ、私にとっては当り前にこなせる 日本語を伝えようと必死の彼を見つめていたらば、私は途端に笑い の頂点に達した。突然に吹き出した私に腹を立てる様子もなく、そ れが自分に対して当然の報いとでも云うかように、彼はおとなしく その場に佇んでいた。 「ごめんなさい。おかしくって」私は彼のような“お誘い”に慣 れていないことを云い訳に詫びた。彼は、ビジネスで日本にやって 来た。このまま、日本でなんの交流もないままに、じき帰らねばな らないのは寂しい、だから少しでも日本語を学んで帰りたいと云っ た。六本木のこの店の週末は、常連客でかるく賑わう寂しいものだ。 だからこそ私は、週末をここで過ごす。寂しがりの私が、寂しい寂 しいと誰かにすがりたくてもすがれぬプライドのおかげで見つけた、 たったひとつの寛ぎのバーだ。私は寂しかった。 けれどここの誰にもそれを悟られてはならない。私のプライドの 安定が計れなくなる。あの女は独りぼっち。あの女のすべてがここ にある。誰かがそうして私を笑うだろう。 誰に声をかけられても私は知らない。 私に初対面で寂しいと告げたこの男は、もうじき日本を離れると 云う。この男は私が毎週末、ここでどんな顔をしてグラスを傾けて いるかを知らない。私がこれからの毎週末、やはり独りでグラスを 傾け続けることを彼は知らないはずだ。 私の口は、嘘の塗りかためられたこの唇は、別の生き物のように 音を立てた。 「ここはうるさいから、どこか別の場所へ行かない?」 彼は迷ったか、迷ったのなら一目で魅かれたのは私だけだ。この 恋は私から始まったのかもしれない。寸分違わず彼は席を立った。 私たちの夜はなまめかしく、私はあの夜をくっきりと思い描ける。 彼の腕がやさしく私をつつみこむ。私のうぶ毛が燃えるように立上 がり、私は全身でこの人が恋しいと、この人に寂しいと叫んだ。 彼の黒い肌から幾つもの滴が流れ落ち、私の肌をなぞって伝わっ た。それから再び会うまでの半年の間、私はちっとも寂しくなんて なかった。いままでの出口のない闇夜のような私の日常に比べたら、 彼からの便りがひかり。電話からふりかかるような彼の声が心地好 いひかり。その頃、私の孤独はどこか別の場所にあった。 二度目の夜は素晴らしかった。 彼が私を待ち遠しく思う気持ちが、私に流れ込む。熱い、熱くて私 たちは焦げてなくなるすんぜんまで互いを愛した。 半年に一度がやがて、三つきに一度。私たちは日常の半分以上の 時間を、互いを思う情熱にかまけてしまっていたのではなかろうか。 私だけだったのかもしれない。かまけていたのは。彼には家庭が あった。 彼のグリーンの澄んだ瞳を受継ぐ、愛くるしい瞳の少年がいた。 こどもは混血で、いつか見たトムソーヤのように無邪気な笑顔を持 っていた。彼が帰るべき場所に帰って、この子を見れば、たちまち 彼の日常はこの子の支配を受けるであろう。 彼のサラダを食べながら、知らずのうちに涙をこぼす自分に気付 いた。バスルームにシャワーをとめる音が響いた。 涙を。 気付かれてはいけない涙。 これを見たら彼はどんな顔をするだろうか。私たちは終わるのか、 ここで終わって、彼は家庭に戻ってなにが変わるでもなく、いまま でどおり、在るべき場所におさまるのか。 私は何をしてきたのだろう。おとなしく彼の情婦を演じてきた。 私の心は貪欲で煮え狂っていたと云うのに。私は彼に対する欲望と 情熱でいっぱいだ。なのに彼をここに引止めて帰さないこともでき ないなんて。 私はいままで何をしてきたのだろうか。 このままごとは、彼に一体、何を残して終わるのか。私の中に絶望 が生まれると云うのに、彼には何が残るのか。 蜜はこぼれかかっていた。 私の中に蜜が、その蜜は必死だった。誰にも見られないように蜜 は守られてきた。傷付くたび、消えてなくなりそうな私の中で、と ろけてなくなりそうなこのマグマがなくならない。私を立ち上がら せた。孤独と引替えに、私は蜜のちからを手に入れたのだろうか? 私の甘いこれは、彼のチョコレートにはかなわなかったのだ。ほ ろ苦い、今までのチョコレートの味は忘れた。 甘い甘い、ブラックチョコレート。 私を溶かす勢いで、私のすべてをさらってしまった。甘い、甘い、 チョコレート。 Black Chocolate Ψ HIKO / UVA88080
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