短編 #0066の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
真夏の夕暮れの湘南海岸。 赤いオープンカーの中を潮風が優しく吹き抜け、ナオミの長くて柔らかい髪が僕の頬 をさすった。 僕は、(愛しているよ)と言おうとしたが、言葉が出なかった。喉元まで来ているの に何も言えない。なぜなんだ。自分で自分が嫌になる。本当に心から愛しているのにそ れを言葉に出せないなんて。突然、 「愛しているわ」 とナオミが僕の目を見つめて言った。その大きな二つの瞳の中に、ひ弱な僕の顔があっ た。「ぼ、ぼくも」と、言うのが精一杯だった。驚きと興奮が沸き上がってきた。こん なうれしいことはない。ナオミは目を閉じ顔を僕の方に向けた。僕はしっかりしろと自 分に言い聞かせてゆっくりと顔を近づけた。それが、ナオミとの初めてのキスだった。 甘い味がした・・・と思ったのはずっとあとの印象だった。 2年前、ナオミは高校卒業後、僕の親父の経営する油圧機メーカーに入社して僕の課 に入ってきた。僕は当時、大学を卒業して4年目であったが、親父の力ですでに今の課 長の地位についていた。いや、つけさせられたと言った方が正しい。親父は明らかに僕 を後継者として育てるつもりだった。この会社は従業員500人程度の中堅企業である が親父が一代で築き上げ、高い技術力を誇りにしていた。 ナオミが入社して1年目にあった慰安旅行で僕はナオミと親しくなった。それから、 週末に二人きりで会うようになった。 会社ではナオミは部品の組立をやっている。もっと楽な仕事につけさせようとしたが ナオミは、現場の方が気が楽だからと言って断わった。僕には理解できなかったがそれ 以上は強いて勧めなかった。 親父の気がかりは、僕の気の弱さだった。小さい頃から、いつもいじめられて泣いて いた。学校時代は目だたない大人しい性格で友達も少なかった。しかし、大学時代は好 きな山登りを思う存分出来たせいで、少しは明るく逞しくなったものの、相変わらず親 父には頭が上がらない。結局、就職も大手の会社には採用されず、強引に親父の会社に 入れられた。 そしてなんとなく数年の日々が過ぎ、ナオミとの交際も1年になり、やっと初めてキ スをしてお互いの愛情を確認できた。 そんなある日の午後、親父は僕を社長室に呼びつけた。またいつもの小言かと思って 行ったところ、いつになく上機嫌で隣には母もいた。 「タケシ、おまえもぼちぼち、嫁さんの事を考えてもいい年だな」 と、親父はしわがれた声で煙草を吸いながら言った。 「いい縁談があるのよ。タケシ」 とうれしそうに母は笑みを浮かべている。 僕は、しまったと思ったが、もう遅いと半分諦めた。この二人に逆らうことなど到底 出来ない相談だった。 「大手のK機械工業の重役の娘さんだぞ。こんないい縁談は願ってもないことだ。これ でおまえの将来もずいぶん明るくなったな。わっははは」 と、もうまるで縁談が成立したような言い方だった。 「先方の娘さんはね、あなたのことをご存じなのよ。ほら、毎月、K機械工業から書類 を届けてくれている若いお嬢さんがいらしたでしょ。あの方なのよ。美人で気が利くし 本当にいい娘さんだわ」 母は、そう言って和服の裾を気遣いながらお茶を入れた。 (僕には好きな人がいます)と言える余地はない、と思った。 「わかりました」 とだけ言って、部屋を出た。 その週の日曜日、僕はナオミに会ったが、縁談の事は口に出さなかった。2人で公園 に行ったとき、ナオミは2人の将来の事を話したがった。 「タケシは子供、何人欲しい?」 と聞かれたときはさすがにどきっとして何も言えなくなった。 僕の頭の中は縁談のことで一杯だった。そのことをナオミにどのように言えばいいか、 わからなかった。ナオミを僕は愛している。しかし、親父の持ってきた縁談も悪くはな い、と思った。いや、そう思おうとしているのかもしれない。歩きながら心の中でそう いったことが堂々めぐりをした。 「タケシ、いまさっきから何を考えているの? 難しい顔をして。いつものタケシらし くない」 ナオミはそう言って手を組んできた。そしてふいに 「愛してる?」 と聞いてきた。 僕はその瞬間、縁談の女性とナオミを思わず比べてしまった。僕は、返答できなかっ た。んんん、小さくとうなるだけだった。ナオミは敏感に僕の心を読み取ったのかも知 れない。ナオミは急に泣き声をあげ、涙を流しながら、 「いやー、なんか言って!」 と僕の胸を叩いた。僕はそんなナオミがたまらなくいとおしくなった。そして縁談なん かしない、と決意してナオミに言った。 「ごめん。ちょっとどうかしていただけさ。泣くことないじゃないか」 と言って、涙で濡れたナオミの顔に口付けをした。しょっぱい・・・と感じた。そして もうこんな悲しい味のキスはしたくないと思った。 それから3日後の夕食時、親父が 「今度の日曜日、例のお見合いだ。いいな。恥をかかすなよ」 と一方的に言った。僕は、親父のしわがれた大きな声を聞くともう何も言えなくなって しまう。恐いのだ。親父が恐くて何も反発出来ないのだ。 「わかりました」 といつものように素直に言うほかなかった。 ファーザーコンプレックス・・・それには20才の頃に気が付いた。しかし、それを 乗り越えようという努力よりもそれを忘れようとした。そのため山登りに情熱を注ぎ込 み山に何日も閉じ込もり、親父から逃げようとした。しかし結局は逃げきれなかった。 そうして今もなお親父の手の上で操られている・・・ 日曜日のお見合いは堅苦しいものだった。相手の名前は、エリと言った。エリはギリ シャ彫刻を思わせるような彫りの深い顔をしており、親父が冗談を言ってもほとんど笑 わなかった。その日の午後は親の勧めもあってエリと2人きりでドライブに行った。車 の中でエリは、こう言った。 「ホテルに行ってもいいわよ。あなた、私を抱きたいでしょ」 僕は危うくハンドルを切り損ねて電柱にぶつかるところだった。車を道路脇に止めて 「い、いいよ。まだ。今日、初めてあったばかりだし」 と言うのがやっとだった。 エリは端正な横顔を僕に向けたまま、言った。 「私、あなたと結婚してもいいわ。パパがあなたの会社をずいぶんほめてたわ。きっと 大きな会社になるって。そしてあなたと結婚すれば、必ず社長婦人になれるって言って たわ。それが嘘でなければ結婚してあげる。あなたにとっても大会社の重役の娘の私と 結婚しても損はないはずよ」 僕は唐突なエリの言葉に驚いたが、本当の気持ちを言おうと決心した。 「・・・僕には好きな人がいる。だから、あなたの方から断わってくれませんか」 僕は静かに、しかし、はっきりと言った。エリにとっては予想外のことだったらしく 驚いた顔を僕の方に向けて狼狽した声で言った。 「だ、だめよ。あなたはわたしと結婚するの。・・・もし、断わればあなたの会社をつ ぶすわよ。私の父の力をあなたも知っているでしょ。・・・もちろん、私と結婚してか らもその女の人とつきあえばいいわ。私も好きな男とつきあうから」 エリは妖しいほどに美しい瞳を輝かせて僕を見つめた。僕は蛇ににらまれた蛙のよう な心境になり、何も言えなくなった。エリは両手を僕の首に回した。 「心配しなくてもいいわよ。いい奥さんになれると思うわ、私。そしてあなたをきっと 愛せるようになれると思うの」 と、僕の耳元でささやいて、その形の素晴らしく整った淡いピンクの唇を強く僕の口に 押し付けてきた。僕の魂が吸い取られていく・・・心地よい快感の中で。ジンフィズを 一気に飲んだ様な味だった。僕も両手をエリの背中に回していた・・・ それからというもの魔法にかかったかのように僕は心も体もエリの虜になっていき、 週末はシティホテルで2人の夜を過ごすようになった。ナオミのことは忘れようとした が心の片隅に宝物のようにきらめいていた。しかし、それもしばらくの間であり、次第 に官能の魔術によって蓋を閉じられてしまった。 エリとの結婚式があと1月後と近づいたある日の昼休み、僕はまだ慣れない部長室で 昼食を取っていた。エリとの婚約が決まったとき体裁を良くする為、親父が僕を部長に 昇格したのだ。 トントンとドアをノックして、ナオミがいきなり入ってきた。 「タケシさん、いえ、もう部長さんって呼ばないといけないわね。とにかく婚約おめで とうございます。それだけ言いたくて来ました。今日がこの会社で働く、最後の日なん です。私のことは忘れて下さい。そして、会社をりっぱにして、いい家庭を作って・・ ・そしてりっぱな社長になってください」 そう言うとナオミは懸命に涙をこらえ、うつむいて部屋を出て行こうとした。 「待って!」 僕は、急いで席を立ち、ナオミの肩をつかんだ。 「悪かった。君に何も言わないでこんな事になってしまった。しかし、これも会社の為 なんだ。それだけはわかって欲しい」 と、僕が言うと、ナオミは急に泣きだして顔を僕の胸に埋めた。そして 「最後にもう一度キスをして」 と言って目を閉じて、涙で濡れた顔を上げた。僕は優しくナオミの小さな口にキスをし た。はっとするような衝撃が走った。それは機械油の味であった。きっと作業中に何か のはずみで油が口に付いたのだろう。苦い味だった。そしてキスをしている最中に、工 場の中で黙々と働くナオミの姿が脳裏に浮かんだ。汗と油にまみれて機械の組立をする ナオミ、仕事が終わった後、明るい笑顔を振りまくナオミ・・・力強くひたむきに生き るナオミの姿・・・ 長いキスの後、ナオミは、ありがとうございました、と言って部屋を出て行った。 僕はその場に立ったまま、動けなかった。油の味は僕の唇に微かに残り、僕はその味 をもう一度味わった。何なんだろう、この胸の内から沸き上がるものは? 今、何か最 も大事な何かがここにある。それは確信できた。僕にとって、僕の人生にとって大事な 何か・・・神の啓示のようなものがここにある・・・ その日の午後、僕は会社を出て町をさまよった。人の群れに身を任せて歩いた。静か な公園より人混みの中の方が孤独を感じ、自分の心の真実と対話出来るのは不思議なこ とだった。そしてはっきりと自分自身が見えてきた。これからどうすればいいかも雲が 晴れるように恐ろしくはっきりとわかってきた。 気が付くと自分の会社の前に来ており、もう4時半になっていた。5時になるとナオ ミは会社を出て、明日からはもう来ない。 もはや躊躇はなかった。僕は、まっすぐナオミの職場に行った。ナオミは仕事の後始 末をしていたが、僕は構わず近づき、 「あとで僕の部屋に来て欲しい。必ず・・・」と言って、自分の部屋に戻った。そして 両親宛の手紙を書いた。 ナオミは、5時ちょうどに荷物を持って僕の部屋に来た。 「さあ、行こう」 と、僕は晴れ々した気持ちで言った。 「どこへ?」 ナオミはきょとんとした顔をしている。 「新天地だ。僕はすべてをやり直すことにした。君もついてきてくれるよね。」 ナオミはなおも何がなんだかわからないといった風だ。 「僕は今日の昼、君とキスしたとき目が醒めたんだ。そして勇気も与えてくれたんだ。 これからどこで何をすればいいかなんて何もわからない。でも、一番大切なことは、自 分に正直に生きることだと気が付いたんだ。今、行動を起こさないとたぶん、僕は一生 後悔することになる」 ナオミはようやく、僕が今、何をしようとしているかわかってきたようだった。 「私、あなたについていきます。私、あなたがずっと好きでした。しかし、今はもっと 好きです。どうしてそんなに急に逞しくなったのかわからないけど、私とてもうれしい わ」 とナオミは、笑みを浮かべて言った。 「さあ、行こう。これから駅に行って、そこでどこにいくか決めよう。恐いかい?」 「いいえ。どこへでも行くわ。あなたが一緒なら恐くない」 僕はナオミの瞳に逞しくなった自分の姿が写っているのが見えた。そして、その可憐 な唇に優しくキスをした。もう機械油の味はしなかったが、本当の幸せの味がした。 (完) 1993.6.20 ポパイ
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