AWC 短編



#1089/1336 短編
★タイトル (BZM     )  98/ 8/21   0: 6  ( 28)
お荘閨@「夢」 いなみ
★内容
 投げ出すように学会誌を実験台においたひょうしに、台の隅にあった薬さじがはじき
とばされた。床に落ちて硬質な音をたてるとさじはどこかへ行ってしまった。
 仕方なく、僕はほこりっぽい床にかがみこんで、実験台の下へ手をのばした。手探り
をしているうちに探していたものとは違う何かにつきあたった。どうやら木の箱のよう
だ。
 ずるずると引きずり出してみる。持ち上げると異様に重い。華奢なとってのついた救
急箱のような箱だ。実験台の上にのせ、さびた掛けがねをはずし、そっとふたを開けた
。
 彼女が僕の前に立つ。彼女の左手の小指にはサファイヤとプラチナの指輪。9月生ま
れの彼女に、爛熟した夏の終わりのバラ園で贈ったあの指輪。
「まだ後悔していないの?」
彼女をおいてプライドの牢獄に入ったのは僕。見える彼女を捨てて見えないものを探し
にでかけたのは確かに僕だから。
「後悔?していないさ、もちろん」
「そう、それならいいの」
彼女は指輪を僕に投げつけた。僕の目の前でサファイヤが砕け散り、プラチナは輝く銀
色の滴となって飛び散った。無機質なきらめきの中で、全てが暗転した。闇に沈み込み
ながら、僕は泣いていたような気がする。
 目をあけると実験室とよく似た病院のベッドの上にいた。起きあがろうとして、横に
同僚がいることに気が付いた。
「忘れ物をとりにきたら、おまえがぶっ倒れていた。何故かしらないが水銀のビンが割
れていて、あたりにコロコロ中身が散らばってて・・・」
医者は何も問題がないようだと言っていたらしい。どうやら実験のミスでよくない気体
が発生したようだった。「僕を見つけた時、バラの匂いとかしていなかったか」
「バラの匂い?何も感じなかったけど」
病院の白い漆喰壁を見ながら、僕はバラの香りに包まれたうたかたの面影を思い出す。
                       
初投稿です。宜しく御願いします   



#1090/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 8/25  20:38  ( 97)
お題>夢の中  ----PAPAZ
★内容

 2300時を過ぎると、パソコンのディスプレーが一度、点滅する。
省電力モードに入ったことを視覚的に知らせているのだ。もちろん、遊歩本人がそう
設定しただけで、不思議な現象というわけではない。
 ただ、今回は点滅したあと、画面に人の笑い顔を見たような錯覚を覚えた。だから
遊歩はモニターをしばし見つめ、異常がないのを確認してから、ショートカットキー
を押した。
『cotl+A+D+N』の4キーが一度に押される。
「ドリーム・ネットワーク、アクティブになります。起動接続まで15分」
 やや抑揚の欠けた音声がモニタースピーカーから流れる。流暢な日本語より、ロボ
ットが話してるような機械的音声が好みだった。
 ひとつため息をついてから、戸締りを確認する。マンションの8階とはいえ、油断
はできない。泥棒はどこからでも侵入するのだ。ベランダーの二重ロックを指先と声
で確認し、ホームセキュリティのバックアップ電源のバッテリー残量も確認する。ド
アの開閉スイッチにセフィティロックを掛け、赤外線探知システムを随時、オンにす
る。
 ボタンを押し終わるとベッドサイドに到着している。
 遊歩はTシャツとジーパンというラフな格好から、生まれたままの姿へと全てを脱
ぎ捨てた。ベッドとは長年の慣習でそう呼んではいるが、正確にはドリーム・ネット
ワークの端末に過ぎない。フローティングタンクが商品名だが、通り名はドリームベ
ッドだ。
 フローティングタンクの上部フードは上に開いている。身体を横たえると、フード
は閉じる。淡色の光の羅列が順次発光し、無色のDW液体が満たされていく。呼吸可能
な液体は肺を満たし、次いで深い眠りへと誘う。
 遊歩は部屋の中にいる。
 若干くたびれたフルタワーのパソコンは見た目とは裏腹に最新のパーツで組みたて
られている。物書きが仕事だから、エディタは離せない。未だにDOSを使っているが、
それは使い慣れているからだ。
 創作中のクリスマス小説を開き、指先がキーボードに触れた刹那、チャイムが鳴っ
た。
 居留守を決めることにする。締め切りが近いので、誰であろうと邪魔はしてほしく
ない。
それが編集の中山なら、余計、邪魔になる。
 チャイムは繰り返される。止んだと思って安心した途端、ドアをたたく音が乱打さ
れた。
最初は甲高い音だったが、今は体当たりでもしているような重低音に変化している。
「待って、いま出ますよ。出るってば・・・」
 遊歩が立ち上がるとの、ドアが爆破されたのは同時だった。
 硝煙の立ち込める中、ゆらりと一人の男が顔を見せた。
「こんばんわ」
 その男は深くお辞儀をした。
「えーと、こんばんわー。えーと、誰でしたっけ?」
 戸惑いながらも、遊歩は記憶の糸を辿る。脳の中の論理セクターは異常を告げてい
るが、
再起動しないことから、とりあえず保留することを遊歩は決めた。
「やだなー。しばらく見えなかったからって。忘れなるなんて」
「そう言われても・・・・・・」
「PAPAZというのは仮の名、またはネット用のハンドルネーム」
「はあ」
 だからどうした、と言いたいが、男の手に安物のトカレフが鈍い光沢を見せている
ので、
遊歩は曖昧に応えた。
「パソコン通信では武闘で通ってます」
「?」
 誰だったかなあ? と遊歩は思ったが、とりあえず沈黙を守ることにした。
「いやー、しばらく書いてないうちに、何も書く事ができないという状態になってし
まったんですよ。それで遊歩さんのところに遊びにきた次第です」
 事と次第が合致してない、つまりロジックエラーだと論理セクターが告げたが、こ
れも無視した。遊歩にとって、トカレフのほうが重要だからだ。銃口が自分に向けら
れているとなればなおさらの事だ。
「そうだったんですか。大変ですねー」
 とりあえず、話しを合わせる。
「まあ、でもこうやって逢えたので万事解決しました」
「おお、それはよかった」では、サヨウナラと続けて言いたいのを、ぐっとこらえる。
「しかし、良い時代になりましたねえ。私がパソコン通信始めた頃はカタカナで通信
してる人がいたというのに、今や通信速度が2テラBpsですからねえ。そうでなけれ
ばドリームネットなんかありえないわけですが」
 武闘は腰に手を当て、遊歩をまっすぐ見つめた。
「さて、席をすすめられないし、さくっと帰りますね。今日はどうもありがとうござ
いました」
「いえいえ、なんのおかまいもせずに」と、一応、いっておく。
 男は会釈した。
 武闘が壊れたドアから消え、廊下からも後姿を隠してから、遊歩は「ルームだけ再
起動」と力なくつぶやいた。破壊されたドアはもとの姿に戻った。それは瞬時に変換
される。
「確かにドリームネットは、実生活のエミュレートによって睡眠時間でも働けるよう
にはしてくれたけど----まだバグが多いなあ。あとで文句言ってやろう。ログに記
録!」
 ログに記録の一言で、遊歩の思考は文字データーベースに保管された。同様に寝て
いる間に書かれた小説もドリームネットがローカルディスクに保管する。
 7時間が過ぎた頃、遊歩は筆を止めた。ディスプレーが明滅し、起床時間が迫って
いることを知らせている。
 目覚めたとき、睡眠時間中に何があったのかは記録したログだけが知っている。人
間が覚えてない無いのは、記憶していれば眠った気がしないという性質のため、記憶
領域から削除されてるからに他ならない。

 そして遊歩は目覚めた。起きてのち、ローカルディスクのログを探すが空だった。
 首を捻るが、パソコンに向かった途端、そのことを忘れてしまった。書き掛けの小
説自体が消えていたからだ。締め切りまであと2時間。
 とりあえず逃避行をすることを決心した遊歩だった。

 2時間後、武闘が目覚めた。
「遊歩さんのログも消去したし、匿名アカウントでネットにアクセスしたから私が不
法侵入したってバレないし。これで私もハッカーの仲間入りだなあ」
 武闘は声を出して笑い、パソコンからRAM-CDを抜き取った。RAM-CDはそれじたいに
メモリやマイクロカーネルを積みこんだ立派なパソコンとも言えるメディアだ。
 中には書き掛けの小説が詰まっている。もちろん、作者は・・・・・・



#1091/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 8/27  17:40  ( 87)
お題>『 Dr.KIRIKO 』 ---- PAPAZ
★内容

 『夢』とは何だろう?
 私は幾度となく自問している。自分にとっては、ビジネスとしての意味合いが大き
い。だが、普通の人間にとって、そうではないはずだ。
 毎度見る夢は、眠りからの贈り物だ。それは非論理的な物語ではあるが、人生の
パートナーとして存在している。
 起きながら見る夢は、単なる期待がかもしだす淡い幻想にすぎない。宝くじが当た
ったら、家を建てて----と、役に立たぬ、だが心楽しませる夢をサラリーマンは見る。
人間から夢を奪えば、どうなるのか。問うまでも無い。パンドラの箱を開けて以来、
人間が生きていく最後の命綱は『希望』という名の夢と決まっているのだから。

 私は患者の住所をメモで確認してから、紙片を白衣の胸ポケットにしまった。
 湿気を含んだ風を頬に受ける。見上げても天界は一面の銀幕が覆い、青のかけらも
見当たらない。イロ鳥の甲高い鳴き声をきいて、通り見まわした。コンクリートブロ
ックの塀を回した二階建ての家、小さいが手入れの行き届いた庭、苔むした庭石と咲
き誇るシンクロナガヤの若木が自慢というところだろうか。黄色い小花が散るアプ
ローチを進みながら、わずかに腰を折り、ベランダを伺うが窓から人影は見うけられ
ない。ドアの前で足を止め、皮のトランクケースを右手から左手に持ち替えチャイム
を押した。同時にドアを開け、後ろ手で閉めた。
「はい」
 か細い女性の声がうつろに響き、廊下の突き当たりの引き戸が開いた。やつれた年
配の女性と青畳が妙に似合っている。
「いいのですね?」
 私の問いに女性は無言で応えた。靴を脱ぎ、履き揃えてのち、うながされるまま部
屋へと導かれた。女性は戸を閉めると、私の対面に立ち、右手で座布団を示した。私
は座った。次いで女性が座った。
 私の目の前には布団がある。その中で老人が眠っている。人生の労苦が刻んだのだ
ろうか、深い皺が表情を奪い、翁とも呼べないほど年齢を感じさせている。
「長いのですか?」
「寝たっきりになって八年ほどでしょうか」
 抑揚を消した声で女性が応える。
「いいのですね」再度、問う。
 女性は沈黙を守った。
「わかりました」
 私は正座のまま、膝元でトランクを開いた。中には文字通りブラックボックスが入
っている。ボックスからケーブルを引き出し、端のリストバンドを手首に巻きつけた。
もう一本ケーブルを引き出し、老人の手首にリストバンドを巻きつけた。女性は興味
深げに私の挙動を見守っている。
 黒い箱の上部で赤いランプが明滅した。私は半眼に伏せ、ゆるやかに呼吸を始めた。
吐く息に合わせて数を数えていく。ひとつ、ふたつ・・・・、十まで数えると私の意識は
停止する。思惟の完全停止だ。次いで老人を観察する主体としての私と、観察される
老人という客体が交換される。主客転倒ともいうべき現象を禅では「私は花、花は
私」という文字で表している。私は禿げ上がった自分の頭部を見ている。たるんだ頬、
血の気の抜けた唇を見ている。枯れ枝のように細い指先、そして見栄だけの白衣。純
粋に自分自身を観察している。深い感慨は無い。ただ虚無だけが広がっていく。次い
で私の意識は老人の心の中へと潜っていく。暗黒と漆黒が混じり、日の光もない。伸
ばした自分の指先すら見えないような空間をどこまでも落ちていく。
 やがてうっすらと白光が射す空間に出た。不安定にゆらめく大地に足を付け、人の
気配を感じて振り返った。ぼんやりと歪んだ無数の顔が浮かんでいる。亡霊のように
精気がなく、口を開くものもいない。顔だけの行列が前から後ろへと延々と続いてい
る。
 老人が今まで出会った人との記憶が映像化されているのだろう。経験からそう判断
した。
 私は列の後方へ、さらに後方へと移動した。人の顔は進むに従い曖昧さを増してい
く。順に白い輪郭だけとなり、やがてそれも消えた。
 小一時間ほどさまよった、そう感覚が告げる頃、陽光の地へと辿りつくことができ
た。突然、ドアが開いたように私の眼前に飛びこんできたのだ。
「洋平、待ってよ。ねえ、ちょっと待ってよ」
 明るい声が響き渡った。私の横を髪の長い女性が通りすぎていく。ミニのスカート
から日に焼けた生足が飛び出し、キャミソールのような服を風に遊ばせながらかけて
いく。その先には筋骨たくましい青年がいる。彼は立ち止まると、溢れんばかりの愛
情を満面の笑顔と両手を広げることで表現した。女性の身体が彼の胸の中に納まる。
 私は映画を見るように、二人の観察を続けた。二人は出会い、恋をした。胸をとき
めかせ、せつなさに苦しみ、時を経て愛を誓った。
 場面は暗転する。
 彼女は泣き崩れていた。親と世間の無理解ゆえ、二人は結ばれなかったのだ。だが、
その泣き顔は瞬時に消え、また戸惑いを浮かべた表情から、笑顔へと変化をとげた。
出会いから別れまで、それが延々と繰り返されている。
 私が知りたいことは全て分かった。役目は終わったのだ。
 半眼のまま、呼吸を元に戻していく。夢という映像は消え、私は現実世界に帰還し
た。正座を崩し、手首からリストバンドを外した。老人からリストバンドを外すとき、
脈をとる。一拍置いてから胸前で合掌すると、年配の女性は声を押し殺して泣いた。
口の端がかすかに吊り上り笑っているようにも見えた。私はトランクを閉じ、「で
は」と一言だけ述べて老人を後にした。

 古ぼけた洋館に天から涙がこぼれおちてくる。窓辺に流れる雨水を眺めながら、深
く息を吐き出した。トランクのブラックボックスにケーブルを接続して、データは全
てコンピューターのメモリーバンクに放り込んだ。今、サーバーのメモリとCPUの中
で老人の恋愛体験は再演されている。プログラムが破壊されるまで、未来永劫にわた
り上演されるだろう。
 私は老人の恋愛という夢を吸い出したのだ。彼が大切にしていた、寝たっきりにな
ってさえ生き続けることのできる、たった一つの夢を吸い出したのだ。
 老人は死んだ。看護に疲れた彼の家族も、これで楽になれるだろう。頬がこけた年
配の女性を、私は思い返していた。
 老人は死んだ。だが本当に死んだのだろうか? 彼の精神ともいえる夢、それを私
はダウンロードしてコンピューターに移植したというのに。
 私には分からない。



#1092/1336 短編
★タイトル (LPF     )  98/ 9/ 1   6: 9  (108)
「灰」〜地下室       如月
★内容
「もうそろそろ出ていってもいいんじゃないだろうか」
 度の強そうな黒縁眼鏡をかけた中年の男が、誰に言うともなくつぶやいた。
「もう、こうしているのも限界だ」
 しきりに薄くなった頭をなでながら、もう一度言った。彼は皆から「教授」
と呼ばれていた。それは、ここでは「役立たず」と同義だった。
「それなら教授、あんたが出ていけばいいだろう」
 普段はあまり話さないが、時々言う言葉に凄みのある「和尚」が言った。
「そうよ。何もみんなで出ていく必要は無いじゃない。誰か一人が出れば済む
ことよ」
 こちらは「ソプラノ」。派手な化粧をした、水商売風の女で、頭のてっぺん
から抜けるようなキンキン声を出す。
「そういえばあの親方はどうしたんでしょう。出ていってもう三日ぐらいたっ
たと思うんですけど、何の連絡もないですね」
 「ソフィ」が、せわしなく両手の指を絡ませながら言った。まだ若く、時折
意味もなく哲学的な言い回しをするため、そう呼ばれていた。
 「親方」が、もう我慢の限界と、ここを出てから確かに三日がたっていた。
外の様子が分かり次第、必ず知らせると言っていたにもかかわらず、何の連絡
も無かった。
 外に出た途端、動けなくなり死んでしまったのかもしれないし、外に出て安
全だと分かるや否や、他の連中のことなど忘れ、どこかへ行ってしまったのか
もしれない。どちらとも判断はつきかねたが、このまま待っていても帰って来
る望みは薄いように思われた。
「もう一人出るしかないね」
 櫛も入れないボサボサの髪を、輪ゴムで無造作にひっつめた「バボ」が言っ
た。どこかのテレビ局でやっていた、バレーボールのキャラクターで、ボール
に手足の生えたようなその姿が重なる。巨体を揺すりあげながら、人身御供を
探そうと、周りを見回している。自分のことははなから念頭にないらしい。
 シェルターとは名ばかりの、殺風景なその地下室には、七人の男女がいた。
「教授」、「坊主」、「ソプラノ」、「ソフィ」、「バボ」、そして「ロダン」
と呼ばれる若者と、「ミミ」という二十歳の女性、それで全員である。
 始めは三十畳ほどの部屋に十二人がいたが、五人目の「親方」が三日前に出
ていった。
 「ロダン」は、ほとんど口も開かず、動こうともしないで、いつも部屋の隅
で膝を抱えて座っていた。皆、いつ「ロダン」が食事を摂っているかも知らな
いくらいだった。普段は顔も膝の間に埋めているので、起きているのか、寝て
いるのかさえ分からない。もう一人の「ミミ」は、「ロダン」の肩に頭をもた
せかけ、目を閉じていた。少し顔色が悪い。
 その「ミミ」に目を留めた「バボ」が、いやらしい笑みを唇の端にはりつけ
ながら言った。
「おや、あの子、具合が悪そうだねえ」
「よせよ。奴に聞こえるぞ」あわてて「ソフィ」が止めた。
 単に何を考えているのかわからないというだけではなく、「ロダン」には得
体の知れない不気味なところがあった。出ていった五人のうち三人は、自分の
意志であったが、残りの二人はいつの間にか消えていた。皆が眠っている間に
外に出ていったのだろうとほとんどのものは考えたが、唯一「ソフィ」だけは
二人目が消えるのを目撃していた。ふと目が覚めたとき、彼は「ロダン」が顔
を上げているのに気がついた。初めて見る顔だった。その氷のような視線の先
に、消えつつある男の脚があった。上半身はすでに消えていた。男は消える前、
無反応な「ロダン」に向かって執拗に嘲りの言葉を投げつけていた。
「ソフィ」はそのことを誰にも言わなかった。それでも皆、何かを感じるらし
く、「ロダン」をからかうものはもういなかった。
「ふん」
 ふてくされながらも、「ソフィ」の勢いに気圧されて「バボ」は口をつぐん
だ。話もせず、落ち着き払っている二人の様子が気に入らないらしい。
「そうですね」「教授」が話を元に戻した。「食料はこの人数でもまだ半年分
ほどありますけど、やはり外の様子が知りたいですよね」
「あたしは嫌よ。やっぱりこういうときは男性が行くべきだわ」
 普段は男女同権をうたっている「ソプラノ」が堂々と女性の特権を主張した。
「わしは最後まで見届けなくては」「和尚」が腕組みをしながらつぶやいた。
「だいたい一番大飯ぐらいの人が出ていくのが道理に適っているだろう。食料
は限られているんだから」
 そういった「ソフィ」をにらみつけて、「バボ」は銅鑼声を轟かせた。
「なんだってえ、このひよっこが。ふみつぶすよ」「ソフィ」は首を竦めた。
「あたしだって女なんだからねえ。めんどくさいねえ。誰か勇気を持って名乗
り出る奴はいないのかい」相変わらず自分は棚に上げている。
「私が出よう」
 四人の視線が一点に集まった。
「私が外に出て行くよ」もう一度「教授」が言った。「私が外の様子を見て、
安全なようなら君たちを呼びにくるよ。だが、もし戻ってこない場合は外は危
険だということだ。といって、食料はあと半年程度しかもたない。半年の間に
事態が好転するとは考えにくいから、ここにいても間違いなく全滅だ。いいで
すか。いままでの人たちと違って、安全ならば、私は必ず戻ってくる。だから
戻らない時は覚悟してくれたまえ」
 何度も念を押して「教授」は出て行った。
 皆は最後の希望を「教授」に託し、すがるような目で見送っていたが、「ロ
ダン」と「ミミ」だけは身動き一つしなかった。
 灰色のドアをゆっくりと開けて出てきた「教授」は、慣れた足取りで長い廊
下を歩いて、ある部屋へ入っていった。
「教授。お疲れさまでした。実験は成功のようですね」
 教授に白衣を差し出しながら、若い男が出迎えた。
「野口君。記録の方はどうかね」
 野口と呼ばれた若者が何かの記録を持ってきた。教授は、一通りそれに目を
通すと、モニターに視線を向けた。
モニターにはかなり広い部屋の隅にうずくまる一人の痩せた青年が写っていた。
彼は膝を抱え、その間に顔をうずめている。マイク内蔵の超小型カメラが、天
井の隅に巧妙に埋め込まれている。そのマイクから甲高い、ヒステリックな声
が聞こえてきた。
「怖い。あたし怖いわ」
「わめいてもどうなるものでもあるまい。少し静かにしてくれんか」
「そうだよ。どうせ助からないならわめくだけ損だ」
「ふん。あんたらだって本当は怖くて仕方がないくせに。気取ってると踏みつ
ぶすよ」
 キンキンと響く声。錆を含んだ低い声。若い声。銅鑼声。それらの声は、部
屋でうずくまる一人の青年から発せられていた。
 それらの声を聞きながら、満足そうに教授は言った。
「この実験が成功すれば、一両日中にパニックが起こってまたいくつかの人格
が消えるだろう。その他も時間の問題……」
「教授。どうかされましたか」教授の表情の変化に気づいた野口が声をかけた。
「いや、何でもない」
 そう言いながら、教授は取り出したハンカチで汗を拭った。モニターの向こ
うに見える青年「ロダン」が笑ったように見えたのだ。教授は、わずかに見え
る横顔の唇の端がキュッと上がったような気がした。ほんの一瞬のことで、今
は何の変化もないように見える。気のせいだったのだと教授は自分に言い聞か
せた。
 モニターからは見えない反対側の唇は、確かにつり上がっていた。邪悪な笑
いの形に。「ロダン」の傍らで眠っていた「ミミ」のお腹の中には、新しい人
格が芽生え始めていた。
 それに気づくものはいない。



#1093/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/ 3  18:20  ( 43)
「懐かしい日常」             えま改めKATAR
★内容


 わたしの中には、それを仕舞う場所がなかった。
 仕方がないので、わたしは、それを背に纏うことにした。
 ぬめり、とした感触。
 裸の皮膚にしがみつき、もう決して離れることはないだろう、
 「それ」。
 ……「女」というもの。
 
 「心配しなくて大丈夫。もうじきそれは、あなたに溶け込んで
 ゆくから。」
 
 背に纏ったわたしと違い、かつて「それ」を丸飲みにしたオンナは、
 そう云った。

 「それ」が溶け込んだわたしを、
 昔の知人たちは、
 なんと呼ぶのだろう。
 「それ」の名で? 
 現在(いま)のわたしの名は、
 やがて消えてゆくのか……。
 
 今、わたしは「それ」に、
 浸食されようとしている。
 
 痛くも苦しくもなく、ただ、膚がほんの少し、
 ぬめりがあるだけで。
 わたしを「日常」へと誘(いざな)っている。
 
 今、わたしは「それ」に、
 浸食されようとしている。
 
 いつか「わたし」をぼんやりと、
 懐かしむ日が来るまで。
 

  

 
 






#1094/1336 短編
★タイトル (LPF     )  98/ 9/ 4   4:56  (190)
紫〜「宇宙」       如月
★内容
「ですから……その男、田村とは飲み屋で偶然隣り合わせただけなんです」


 大原和宏は、やっと残業を終えて帰宅途中にあった。
 ふらりと初めての飲み屋に飛び込んだのはいいが、案外と混んでいて、カウ
ンターが二、三空いているだけだった。
 大原はそのうちの一つに座り、ビールと枝豆を注文した。ビールがまずやっ
てきて、一杯目をグラスに注ぎ終わる頃、いきなり隣の男に声をかけられた。
「お一人ですか」
「ええ、まあ」
 それまで全く意識の外にあったその男を何気なく値踏みしながら、大原は慎
重に答えた。
「こうしてお隣になったのも何かの縁ではないですか。ご一緒に飲みませんか」
「そうですね」
 その男は田村と名乗った。証券会社の営業をやっているという。身なりも気
ちんとしていて、仕事柄かどうか笑顔を絶やさずに話す。
 大原は中堅家電メーカーの、同じく営業をしている。午前の取引でミスを犯
し、取引を一つ不意にしてしまった。少々やけ気味で飲もうと思ったのだが、
一人で飲むと悪い酒になりそうだったので、その男からの誘いは渡りに船でも
あった。
 しばらく他愛もない話をした後で、田村は語調を変えずにさらりと言った。
「あなたは運命というものを信じますか」
 大原はこの男の話に乗ったのを少し後悔した。何かの宗教に入っている信者
が、こういう場で何気なく知り合いになる。悩み事などをそれとなく聞きだし
た後で、それならと本題に持っていく。そういう手を使うという話を聞いたこ
とがあった。
 大原が怪訝な顔つきで黙り込んだのを見て、田村は笑い出した。
「大原さん。あなた、私が何かの宗教の勧誘をしようとしている、と思ったん
ですね。いや、突然運命を信じるかなどと言われれば、そう思われても仕方が
ないですが、違います、違います。私は誓って無宗教です」
 大原は何となく自分の考えを見透かされたようで驚いたが、照れ笑いでごま
かした。
「いやあ、すみません。しかし運命ですか。私はそんなこと考えたこともない
ですね」
「そうでしょう。実は私もそうだったんですよ。ちょっと私の話を聞いてみて
くれませんか」
 どうせ家に帰っても一人だし、翌日は休みだ。酒の肴に馬鹿話につきあって
もいいかと思い、大原は頷いて、グラスの残りを空けた。
 田村は大原のグラスにビールをつぎながら、話し始めた。
「ある日、会社帰りに少し飲んで家に帰る途中、公園の中を通ったんです。ま
あ、これはいつも通るコースなんですがね。十一月の寒い日で、時間も十時を
まわってましたから、人通りもほとんどなかったんですが、水飲み場に白い服
を着た人らしきものがうずくまっていたんですよ。いつもなら、酔っぱらいか
なんかだろうと通り過ぎるところです。でもよく見ると、白いそのセーターと、
背中に垂れた長い黒髪が妙に気になりましてね。色気を出したのかもしれませ
んが……。退屈じゃないですか」
「いや、大丈夫。続けてください」
「どうぞ飲っていてください。耳だけ貸していただければ、勝手にしゃべって
いますので。えーっと、とにかく声をかけてみたんです。すると、振り返った
額にハンカチを当てていまして、そのハンカチにうっすらと血がにじんでいる
じゃありませんか。どうしたんです、大丈夫ですか、と言ったら、大丈夫だと
いう。通り魔に遭い、いきなり石のようなもので額を殴られて、軽い脳震とう
を起こしたらしい。気がつくと、バッグを盗まれていたんだそうです。それで
は警察に連絡をしましょうと言うと、その必要はないと言う。傷は大したこと
はないんだが、少しふらつくので家まで送ってほしいと頼まれまして。もちろ
ん私は病院へ行った方がいいと言いましたが……。正直少し迷いましたよ。よ
く見ればかなりの美人で、セーターの胸もこう、ふっくらと。その美人が家ま
で送ってほしいと言うんですから。一も二もなく送りたいところですが、新手
の美人局かなんかで、いきなりコレもんのお兄さんが出てきた日にはねえ」
 田村はそう言いながら人差し指を頬に当て、上から下へと滑らせた。
 一息入れようとグラスを干した田村にビールをついでやりながら、好奇心を
露わにした大原が先を急がせた。
「結局行きましたよ。傷の具合を見たら、本物らしかったのでね。まさか私み
たいな安サラリーマンを引っかけるのに、こんな美人が本当に傷までつくって
待ちかまえるのも変ですものね。実際はそこまで考えていたわけではなくて、
やはりスケベ心が勝ったんでしょうね。いざとなれば逃げればいいと。酒もそ
れほど入っていませんでしたし。四、五分歩くといかにも高級そうなマンショ
ンに着いて、彼女がオートロックの番号を押そうとしたところで私、怖じ気づ
きまして。それでは帰りますと言ったんですが、どうしてもお礼をしたいから
少し寄っていってくれと言うんです。また、例のコレもんが頭をよぎったんで
すが、つかまれた腕にセーターの膨らみが当たった途端、理性なんか吹き飛ん
で、もうどうにでもなれと……。部屋に入って驚きました。まあ、調度が高級
そうなのはマンションから考えてもわかるんですが、こう、何というか、その
調度品が、ドレッサーから置き時計に至るまで、バランスがいいというか、調
和がとれているというか、そんな印象だったんですよ。それに、生活臭は全く
感じられない。これは、銀座あたりの超高級ホステスかなんかだと思いました
よ。いや、私は行ったことないですけどね。まあ、それはそれとして、男は出
てこないようだし、落ち着いてみると、やっぱりこれは警察に届けた方がいい
と思い直して、もう一度言ったところ、彼女はこう言ったんですよ。
『いいんです。これも運命ですから。あの公園で強盗に襲われることはわかっ
ていたんです。あなたがこうして助けてくださることも』って。
 訳の分からないことを言うもんだから、調子に乗って、じゃあこれも運命だっ
て言うのかと、彼女をソファに押し倒したんです。冗談のつもりでね。すると
彼女が真顔でコクリと頷くもんだから、こっちも引っ込みがつかなくなって、
とうとう最後まで……」
 大原はグラスを持ったままじっと聞き入っていたが、我に返ると一口ビール
をすすって、やっと口を開いた。
「何だ。ずいぶんうらやましい話じゃないですか。でもそれ、本当の話なんで
すか」
 大原には少し話がうますぎるように思えた。
 田村は大原の反応がわかっていたかのようにゆっくりと頷き、言った。
「それが本当なんですよ。実を言うと、今日ここであなたと会うことも、彼女
に聞いたんですよ。私がここで運命の人と出会う。その人の名前は大原と言う
んだってね」
「だって、私がここに寄ったのはただの思いつきですから、あなたと会ったの
だって、ただの偶然じゃあないですか」
「彼女に言わせると、この世の中に偶然なんてものはないそうなんです。全て
は宇宙の法則に基づいて動いているのだと。しかも、その調和を保つのが彼女
の役割だと言っていました」
 ここまで聞くと、あまりに突飛な話なので、やはりこの男に担がれたんだと
思い大原はがっかりしたが、始めからたいして期待はしていなかったんだから
こんなもんだろうと思い直した。それなりにいい時間つぶしにもなったし、少
し気も晴れた。
 だが、田村の話はまだ終わってはいなかった。
「実は、あなたをマンションに連れてくるように彼女に頼まれてるんですよ。
これからどうですか」
「えっ。じゃあ、今の話は本当なんですか」
「だからさっきも本当だと言ったじゃないですか」
 もちろん大原は、全てを信じたわけではなかった。実はこの男が美人局の片
割れなのではないかと言う疑念もなかったわけではないが、その女の顔を見て
みたいという好奇心に、酒の勢いも加わって行ってみることにした。
 そのマンションは居酒屋からそう遠くはなかった。田村の話を裏付けるかの
ように途中公園を通り、豪奢なマンションのオートロックを、田村は難なく通
り抜けた。
 エレベーターで十二階に上がり、あるドアの前に着くと、当たり前のように
鍵を開けて中に入った。
「まあその辺に掛けてください」
 まるでその部屋の主のように田村は振る舞った。
「ビールでいいですか」
「ええ」
 気の抜けた返事をしながら、大原は周りの調度品を見回した。どれも大原の
見たこともないような品ばかりだった。置き時計一つとってみても、かなり古
そうなもので、その精巧な装飾は、素人目に見てもかなり高価なものであろう
ことはわかった。大原には何に使うのかわからないものまであった。
 不思議なのは、その豪華さよりも、かなり広い部屋の壁面を埋め尽くしたそ
れらの品々が、皆ありとあらゆる方向を向いていることだった。一つとして同
じ向きのものがないように見える。
 一見すると乱雑に置いてあるだけのようだが、全体としては妙にバランスが
とれている。
「気がつきましたか」
「……」
「大原さん。どうぞ」
 目の前にグラスを突き出されて、我に返った大原は、グラスを受け取った。
 そのグラスにビールを注ぎながら、田村はもう一度聞いた。
「気がつきましたか」
「え、ええ」
「私もいろいろと調べてみたんですが、どうもこの品々の配置が運命と深く関
わってるようなのです。どれかに触ってみてください」
 大原は言われるままに、一番近くにあった花瓶のようなものに触れてみた。
だがそれはびくともしなかった。椅子やテーブルの上の灰皿や生けてある花、
グラスなど、壁面以外にあるものは動かせるのに、壁に並んだものは何一つ動
かせなかった。
「動かせないでしょう。でもそれぞれの意志で、少しずつ動いているようなん
ですよ。少しずつね」
 田村は一気にグラスをあおって、話し続けた。しかし、大原を見てはいなかっ
た。
「私はとうとうそれらを動かす方法を見つけたんです。何だと思いますか……。
それはね……彼女を消すことなんですよ」
 田村はだんだん自分の言葉に酔い始め、あらぬ方向を見つめながら口から泡
を飛ばし始めた。目は血走り、形相は一変していた。
「彼女を殺し、運命を変えたところで、どうなるか分かりません。でも、運命
が変わらないなら、こんな宇宙はどうなっても構わないんですよ。そう、構わ
ないんだよ。こんな世界は消えてしまった方がいいんだ。ふふふ。あんたもそ
う思うだろ。こんな腐れ切った世界はさ。見せてやるからちょっと待ってな。
この世の最後をさ」
「……」
 大原は何も言えず、田村の変貌ぶりを見つめていた。酔いは急速に引いていっ
た。
 田村の独演は続いていた。
「あんたにはただ見ていてもらうよ。傍観者としてね。この世の最後を誰にも
知らせず自分だけで味わうのはもったいないのでね。今夜決行するのに景気を
つけていたら、あんたがたまたま隣合わせたんだよ。幸運だったな。幸運だよ。
他の奴らは何も知らないで消えていくんだからさあ。もうすぐ彼女が来る。い
つものように一秒と狂わずにな。黙ってみてろよ」
 そこへ彼女が帰ってきた。彼女は想像以上に美しかった。白いワンピースよ
りもさらに白い顔が、静かに微笑んでいた。
「よくいらっしゃいました」
 彼女はそう言うと、田村と大原に軽く挨拶を交わし、着替えてくると言った。
「ああ。私たちは勝手に飲っているよ」
 そう言う田村の表情は、いつの間にか元に戻っていた。
 彼女が田村の横を通り過ぎ、着替えるために奥の部屋へ向かった時、田村は
スーツの内側から大振りのナイフを取り出し、彼女の背中で大きく振りかぶっ
た。


 気がつくと、大原は血のべっとりと付いたガラス製の灰皿を握っていた。そ
の灰皿を右手からもぎはなそうとした時、足元に田村が倒れているのが見えた。
やっとの事で灰皿を放すと、ゴトッと大きな音を立てながら床に落ちた。今の
大原には、その音だけが現実のように思えた。
 彼女と目があったとき、彼女の唇が「ありがとう」と動いたように大原には
思えた。
 いや、気のせいだったのかもしれない。全てが夢の中の出来事のように、現
実感がなかった。大原の耳に遠くで鳴っているサイレンの音が届いていた。


「ですから……その男、田村とは飲み屋で偶然隣り合わせただけなんですよ。
刑事さん」
 そう言いながら大原は思った。
 私は宇宙を救ったのか。それともただの人殺しなのか。
 目の前には彼女の笑顔が浮かんでいた。



#1095/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/ 7   0:54  (144)
お題>『おちゃめな婆ちゃん、千里を走る』----PAPAZ
★内容

 インターネットをする上で、一番のネックはテレホーダイが深夜だけ定額というこ
とだろう。仕事柄、夜遅く帰宅することが多いため、個人的には都合のよいシステム
に見えるが、実際問題、夜更かしするという点には変わりがない。つまり昼間は頭が
ボーとしてるわけだ。仕事中も同じこと。
 それなら、やめてしまえばいいのだろうが、ネット依存症に染まった現在、禁煙よ
り難題になっている。
 悪い点ばかりではない。
 ネットを楽しむツールは無数にあるが、その中でもICQと呼ばれるツールは群を抜
いて便利だ。ICQなしのネット生活など、すでに考えることもできない。
 ICQサーバーにログオンすれば、ログオンしている人がウィンドウに表示され、自
由にメッセージを送れる。つながっていない時も同様だ。例えるなら、簡易メーラー
というところか。
 これが祖母の生存確認の手段として役に立っている。知り合いの登録している57
人のうち一人は祖母だ。ログインしているということは、まだまだ元気ということ。
今年80歳の大台に乗るとは思えないほど、精力的な証だ。
 とはいえ、年は年。
 夜毎、ICQにつなぐ度に「ばあちゃん、まだ生きてるんだなあ」、と安心すること
ができる。それだけでも、インターネットの価値はあるというものだ。

 帰宅すると、家の明かりはすべて消えている。娘はすでに床に入って、妻とスヤス
ヤ、時にはギリギリと歯ぎしりをたてながら、眠っている。
 私は、といえば、パソコンに電源を入れ、椅子に座りながらOSが立ち上がるのを待
っている。見飽きた起動ロゴが通り過ぎ、壁紙の海賊が表示され、ハードディスクの
アクセス音がやむと、指が少し震えた。
 明日から三連休、今宵は気兼ねなくサーフィンできるというものだ。
 なにを探そうか? どこへ行く? いろいろ考えているときが楽しい。
 もっとも、今日はすることが決まっている。ゲームのデモ版をダウンロードしなけ
ればならない。60MBという容量はダイアルアップユーザーの私にとって、数日がかり
の作業なのだ。
 WINDOWS98が安定すると、さっそく回線を接続した。プロバイダがパスワードを確
認すると自動でダウンローダーが立ち上がり、FTPサイトに接続し昨日の続きを落と
し始める。ICQも接続と同時に起動する。ブラウザを立ち上げようと思ったが、AWCの
お題がまだ書き上がっていないので、先にテクストを開いた。
 「ハロー」と早口の英語がスピーカーから飛び出た。ICQにメッセージが入ったの
だ。タスクトレイでメールを模したアイコンが点滅している。
 ダブルクリックすると、小さなウィンドウが開く。
『こんばんわ。(^_^) 何か良い話はないかねえ』
 古から、祖母の出だしの言葉は変わらない。
『娘は元気に学校、行ってるよ。ばあちゃんの送ってくれたピアニカ、毎日ちゃんと
練習している。平々凡々、それが良いことかな?』
『授業参観はどうだったかえ?』
『写真、送るよ。ちょっと待ってて』
 ICQはFTPとしての機能も持っている。デジタルカメラでとった映像をICQを通して
送る。ネットで送ることを前提としているので、色数を落とし軽くしている。わずか
数十キロバイトのサイズ、送るのは一瞬だ。
『おお、かわいいねえ。……ちょっと緊張してるんじゃないのかえ』
『そうらしいよ』私は軽く笑った。細い目がいっそう細くなってる写真だ。困ったよ
うに眉間にしわをよせているところが、我が娘ながら愛らしい。
『ところで、音声認識のソフト買ったんだけど、孫でも使えるんじゃないのかねえ』
『ViaVoice98だね。使い勝手はどう?』
 祖母の視力も落ちてきてるという話だし、それなりに役立つだろう。なかなか良い
選択だと思う。
『うちのセロリではサクっという感じかねえ。変換に1秒ぐらいかかるけど、まあ実
用レベルじゃろう』
 セロリというのは、インテルで出しているセレロンのことだ。このCPUを祖母は
オーバークロックさせて使っている。
『じゃあ、うちでも使えるかもね』
 言葉とは裏腹に、自分のK6-300でも快適に動作すると確信している。
『プレゼントとして送ろうか?』
『無理しなくてもいいよ。結構、高い物だし……』
 しばらく話が途切れ、私は小説を書き始めた。お題を書くはずが、前に書いた作品
の続編に手を染めていた。
『ハロー』と早口の英語が飛び出す。最初の頃は、カッコー、と聞こえ、とまどった
ものだ。
『今日は、ずいぶんゆっくりだねえ。仕事、休みなのかい?』
『うん、明日から三連休さ』
『それはよかった。孫もよろこんでるじゃろう』
『明日は学校あるから、遊びにつれていくのは明後日からだねえ』
『それは楽しみなこって』
『ははっ、一番楽しいのは、休みの前の日だね』
『それはどうして? (@_@) 』
『一日目は、まだ二日あるからいいけど、二日目は後一日しか休みないだろう? そ
れって寂しいよ。三日目は、今日で終わりだ――やはり寂しい。でも、今日はまるま
る三日休みあるわけだから、のんびりとしていられる』
『ふーん。夢を見ている間が楽しい、というわけかいの』
『そんなところかな』
『話は変わるけど、今度、インテルからメンドシノがでるじゃろう』
『ああ、2次キャッシュ積んだセレロンだよね、確か』
『――もう飽きた。パソコンの拡張って切りがない (>_<) 』
『確かにね、いえてる』
 実際、CPUの性能アップはアプリケーションの進化より速い。新しいデバイスは登
場するし、進歩についていこうと思えば切りがない、というのは本当だ。
『でも、拡張ってばあちゃんの趣味だよね。やめちゃうの?』
『まあ年だし……だから、プレゼントに送るわ』
 ファイルが送られてきた。解凍してビュアーで見ると、宝くじが一枚写っている。
私はブラウザを立ち上げ、それが当選しているかどうか確かめた。
 組も番号も間違えようがない。1億とはいわないが、100万円あたっている。
『あたってるよ、これ!』
『はずれた宝くじが贈り物になるかのう』
 それはもっともだ。
『もらって、いいの?』
『かまわんが、それをどう使うつもりじゃ?』
『まず、嫁さんに指輪を買う。娘には本を買ってあげるねえ』
『で、自分には?』
『まずISDNにするよ。ダイアルアップじゃ、遅いからねえ。モデムじゃだめだよ』
『ふむふむ』
『そして、ソケット7最速を目指して改造する。メモリも100MHz対応のものを256MB
くらい入れたいし、CPUはAMDのK6-3をいれる』
『おお、それで?』
『8倍速のCD-Rを購入したいし、ビデオカードももっと速い物にしたい!』
 ケースも変えて、ミドルタワーからフルタワーにしよう。言葉には出さなかったが
夢は膨らんでいった。
『旅行もいいなあ。近場で温泉、ゆっくりのんびりしたい』
『(V)。\。(V) フォッフォッフォッ』
 婆ちゃんは顔文字を使うのが好きだ。
『本当にいいのかなあ。ありがとう』
『いえいえ、どういたしまして。一番、楽しい時間だったじゃろう?』
『?』
『一番楽しいのは休みの前の日なんじゃろう? 休んでしまえば、楽しみは半減す
る』
『何をいいたのか、よく分からないけど?』
『だから、休日を味わうより楽しいのが、休日の前の日なら、宝くじの賞金をもらう
より、もらう前に使い道を考える方が楽しいわけじゃ』
 理屈が通っているような、通っていないような。
『だから、プレゼントは賞金の使い道を考える、という夢なんじゃ』
『……送られてきた画像は?』
『フォトレタッチで数字を書き換えたんじゃ。あはははっ。本当にあたっていたら、
自分で使っているわい。そんなの考えるまでもないじゃろう?』
『……』
『そろそろ落ちるわ。夢の続きを楽しんでおくれ。
 (^-^)ノ~~マタネー☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★』
 祖母がICQからログオフした。

 私はしばらく呆然としていた。狐に化かされた気分とは、このことをいうのだろう。
確かに休日の前日が一番こころ楽しい。しかし、それは実際に休めるという保証があ
るからだ。100万円という賞金の使い道を考えるのも楽しかった。だが、それも実
際に手にはいると思っていたからだ。これでは、捕らぬ狸の皮算用ではないか。
 頭の中で狐と狸が踊っている。
 楽しい夢だったぶん、落胆も激しかった。
 とりあえず、祖母にメッセージを送る。
『Ω\ζ゜)チーン…』

             *

 後日、祖母から手紙が送られてきた。
 中には宝くじが一枚と、短い文章が添えられていた。
 私が、当選番号を確認したのは当然のこと。
 その結果については、もちろんいうまでもない。

----------------------------------------------------------------------
お題、『場所指定――夢の中』かろうじて、クリアーしてると思ってます。
だめかなあ?
書き上げるのが、遅れてしまいました。m(_)m



#1096/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 9/ 7   2:50  ( 70)
大型環境小説  「割り箸リサイクル」  ゐんば
★内容

「さて、地球にやさしいレポートのコーナーです。今日は手児奈ちゃんはどこに
行ってるのかな。手児奈ちゃん」
「松本さーんこんにちわぁ、梅田手児奈です」
「こんにちは、手児奈ちゃん」
「松本さん私がいま持っているのが何だかわかりますか」
「ん?それは、お箸ですか」
「そう、これ、割り箸です。割り箸は何でできてるかわかりますか」
「そんなことわかりますよ、木でしょう」
「そうなんです、この割り箸、木でできています。でも割り箸は使い捨て。これ
は森林資源の無駄遣いですよね。そこで、きょう私は割り箸のリサイクル工場に
おじゃましてまあす」
「はーい、じゃあよろしくお願いしまーす」
「はーい。工場長の杉野森弥三郎さんにお話をうかがいます。杉野森さんよろし
くお願いします」
「よろしくお願いします」
「さて、私の後ろにある機械。これは何の機械ですか」
「これはですね、割り箸を洗う機械です」
「おっきな機械なんですね」
「ええ、割り箸には揚げ物の油などが染み付いてますのでまずその油を分解しま
す。さらに醤油やソースのしみがありますので、これも特殊な薬品を使って溶か
します」
「いろんな汚れがついてるんですね」
「最後に水洗いして仕上げです」
「なるほど。さて、こうして洗った割り箸はこちらの機械に運ばれます。この機
械はなんですか」
「この機械は、洗った割り箸を乾燥する機械です」
「乾燥機ですか」
「木材なものですから、急に乾燥すると変なしなりがついてしまうので低温でゆ
っくり乾かしています」
「はー、手間がかかっているんですね。さて、これがきれいに洗われて乾かされ
た割り箸です。この割り箸はどのようにリサイクルされるんですか」
「それはこちらの工程になります」
「わあ、大勢の作業員の方が机に向かってます。ここは何をされてるんですか」
「ここではですね、二つに割れた割り箸をぴったり合うように元のペアを探して
いるんです」
「ひとつひとつ手作業なんですね」
「ここだけはどうしても機械化できなくて、人の手に頼るところですね」
「はい。ペアが見つかるとテープで仮止めされて、こちらの機械に運ばれます。
この機械は何をしているんですか」
「ここでは接着剤を流し込んで、ペアの割り箸をくっつけています」
「はーだいぶ割り箸らしくなってきましたね。さて、これはいよいよ仕上げのよ
うですね」
「はみ出した接着剤を削って、形を整えています」
「はあい、リサイクル割り箸のできあがりでえす。わあ、見た目には全然わかり
ませんね」
「はい、こうして再生した割り箸は包装されて飲食店や弁当屋に運ばれます」
「はい、割り箸のリサイクル工場からお届けしました」
「手児奈ちゃーん」
「はーい松本さーん」
「どうですかリサイクル割り箸、触った感触は」
「ええ、こうやって割ってみてもね、普通の割り箸と変わらないんですよ」
「すごいねえ。杉野森さん、はじめまして、松本と申します」
「はじめまして」
「このリサイクル割り箸はだいぶ使われてるんですか」
「ええ、おかげさまでいま全体の五パーセントはリサイクル割り箸が使われてい
ます」
「いやあ五パーセントと言っても割り箸全体のですから大きいですよね」
「来年中には十パーセントに乗せたいと思ってます」
「松本さん、今日使った割り箸がもしかすると広末涼子ちゃんが使ったものかも
しれませんよ」
「ははは、私は藤原紀香さんのほうがいいなあ。杉野森さんどうもありがとうご
ざいました」
「ありがとうございました」
「手児奈ちゃん明日もよろしく」
「はーい」
「はい、今日の地球にやさしいレポート、割り箸のリサイクル工場をご覧いただ
きました。明日は爪楊枝のリサイクル工場からお届けします。ではコマーシャル」

                            [完]




#1098/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/11  22:35  ( 63)
お題>高く、高く「アソート天使」  KATARI   
★内容
 あとは、羽根だけ。
 
 銀色した睛(ひとみ)。丸い膝頭。薄い爪。

 やわらかな髪。すんなりとした腕。華奢な喉……。
 
 掻き集められた部品たちは、どれも美しく、完璧なもの。
 
 あとは、羽根だけ。
 
 完璧な部品から完璧な躯(せいぶつ)を生み出すために。
 
 あとは、羽根だけ。
 
 
 その白く、滑らかな肩胛骨に、縫い合わせる羽根が必要。
  
 羽根を繋ぎ合わせることが出来たならば、

 それは、天使(しょうねん)になり飛び立つことが出来るのだから。

 優美な影のみ地上に遺して、

 飛びだつことが出来るのだから。
 
 
 天使(かれ)がどんなに飛翔したとしても、

 解(ほつ)れたりはしないように、

 ほかの部品はみんな縫い合わせた。
 
 あたらしい針で、つよい糸で。
 
 あとは、羽根だけ。

 羽根さえあれば完成する……。

 
 アソート天使(しょうねん)。

 完璧な躯(せいぶつ)。

 高く、高く、

 どこまでも飛んでゆくことが出来る躯(せいぶつ)……。


    羽根ヲ見ツケテ、ワタシハ、
    
    堕チヨウ。  
 
             
                       《 f i n 》


           KATARI(かたり),1998,09,11
 
 
 



#1099/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/14  19:47  (114)
お題>『浪漫飛行』  ……  PAPAZ
★内容

   『浪漫飛行』

 電飾看板の波をさまよい、毒々しいネオン管が瞬くビル群を分け入るのは、雑踏に
紛れ、個人が消えていく感覚を味わいたいからではないか?
 そう考えるときもある。
 宇宙開発事業団の歯車のひとつのくせに、これ以上の無人格に憧れるのか? 胸の
中に、ささやくもう一人の自分がいる。
 見上げても、林立した高層ビルと薄汚れたスモッグのせいで月明かりすら感じられ
ない。立ち止まれば、浮かれた若者達と肩をぶつけ、無表情で頭を下げる自分がいる。
 電信柱の消えた路地裏に迷い込み、初見のスナックに入ったのは単なる気まぐれに
すぎない。ジャンクショップで手に入れたアンティークなのか、木製の厚いドアを開
けると兆番がきしんだ。閉じるときに音声合成された女性の声で「いらっしゃいま
せ」と鳴る。
 店内は10人掛けのカウンターがひとつ。ボックス席が4つ。天井に埋め込まれた
ダウンライトの光は薄暗く、カウンター奥の棚で煌めいているグラスとボトルだけが
スポットライトを当てられて妙に浮いている。
 湿度が高いのか、無意識のうちに背広からハンカチを取り出し、額にあてていた。
マスターは見たところ40代の陰気な男だ。私に一瞥の視線を投げかけ、顎で着席を
促す。他に客はいない。ハンカチを仕舞いながら、左右に視線を走らせた。
 カウンターの右隅にテレビがあり、画面の中で裸の女性が音量を絞ったサンバに合
わせて踊っている。
「景気はどう?」
 沈黙が気まずくて私から声をかけた。尻をずらして椅子に腰掛けなおすが、座りが
悪い。ズボンが大腿部に張り付き、指先でつまみ引き離してみる。
 マスターは肩をすくめ、なににします?、とハスキーな声で尋ねた。
 私は壁にかけてあるメニューから、サントリーの山崎を選んだ。
「あれが来てからというもの、景気がいいのか悪いのか、なんだかさっぱり分かりま
せんなあ」
 マスターは人ごとのようにいう。
「確かにねえ」
 確かにその通りだ。好景気と不況の波が極端に狭いのだ。もっとも、この時代に安
定する方がおかしいのだが。
「この店にも来るんですよ。金払いはいいんですけどねえ。……他の客は来なくなり
ますから。こうなったら専門店にしちゃいますか?」
 マスターが声をあげて笑った。口ひげが揺れ、そりあがった頭部が光を乱反射する。
つられて私も自虐的に笑った。
 一陣の風とともにドアが開いた。
 マスターの顔がこわばり、目から生きているというシグナルが消えた。音声合成さ
れた女性の声が、空々しく響く。
「あっ、どうも……」
 マスターの挨拶と入れ替えに、グラスと氷、それに山崎のボトルが目の前に置かれ
た。テレビ画面に『AQ?』の文字が走る。次いで『YES』と表示された。
 なんということはない。あいつが来たのだ。
 通称、進駐軍。
 コードネーム、AQ。アンドロメダ・クエッションの略称だ。あいつらは故郷の惑
星がどこだかを教えない。ただ今までの観測データからアンドロメダが故郷銀河だと
推測されている。やつらは月と地球のラムランジェ・ポイントに停船し、今も居座り
続けている。すべての地球人が、地球外生命体が存在している、と認識した初めての
種族がAQだ。
「なににいたしましょう?」
 横からマスターの声が聞こえる。私はまっすぐ前を見つめていた。AQがカウンター
に座ったのを鼻につく刺激臭で感じる。
『ア・ル・コ・ル』
「分かりました。すぐにご用意いたします」
『タ・ノ・ム』
 機械的に翻訳されたAQの言葉は、テレビ画面から聞こえてくる。可聴域から逸脱
した音声は生身の人間には届かない。やつらの体に埋め込んだアニマルチップ(コン
ピューターチップと電磁コイル)が、この店のシステムをAQ用に同調させ機械翻訳
さているのだ。もちろんAQ用の話者認識ソフトを人類が開発したわけではない。提
供されただけなのだ。
 湿度が高かったのも、今ではうなずける。人間のような炭素型の生命体より、メタ
ン生物として進化したAQのほうが乾燥に弱いのだ。この店も、すでに人間ではなく、
地球外生命体に販売戦略が向いていたわけだ。
 マスターと視線が絡む。お互い、気まずそうに微笑んだ。
 自分の横に地球外生命体が座っている。今となっては日常的ともいえる風景だが、
どうしてもなじめない。棚に置かれたグラスの中で、AQの姿が映っている。紙粘土
にへらで筋をいれたような口と目、無髪で銀色の皮膚……それがいま、変容をとげは
じめている。柔らかな女性へと変態をはじめているのだ。
 私は目を閉じ、沈黙と低音量のサンバ、それに自分の呼吸音に耳を傾けた。
 マスターから低いうめき声が漏れる。
 AQが変化したのは、マスターにゆかりのある人物だったらしい。
「な、なんか景気の良い話って、ないでしょうか?」
 マスターがどもる。
 銀色の皮膚と銀色の髪を持つ、それでいて地球人にそっくり化ける能力。AQが地
球人に受け入れられた理由のひとつは、これだ。意識的か無意識的かわからないが、
存在していてほしいと思う人物にメタモールフォーゼする能力――周りにいる人物の
中でもっとも、それを願う者の願いを叶える力――それゆえに憎まれもした。彼らは
一瞬の幻影を与えはするが、それは刹那の夢に過ぎないのだ。
『ケ・イ・キデスカ? チキュウジョウカ……計画が、もうすぐ発動します』
 話者認識が、個体AQの音素を学習したらしい。変換がスムーズになり音声合成に
も違和感がなくなっている。景気という概念を彼らがどう理解しているのか分からな
い。彼らの経済は全体主義と呼べるほど、発展しているからだ。資本主義的な概念を
どう理解しているのだろうか?
 私は目を開けた。クレジットカードをカウンターに置き、マスターに目で合図する。
「会計、頼む。明日は忙しいんだ」
「あっ、はい」
 マスターがクレジットカードを手に取り、私に返してよこした。電子キャッシュの
決済は一瞬で終わる。
 帰ろうと振り返るとき、AQと目があった。彼女は私の亡き妻に変態していた。
『さようなら』ざらついたAQの声。妻はもっと鈴(りん)とした声だった。
 私は小さく会釈して、店を出た。ドアから「ありがとうございました」と、作り物
の声が追いすがった。
 小路を抜け、メインストリートにでると、安堵の吐息が漏れた。歪んだ視界で自分
が泣いていることに気がついた。
 成人式を迎えることなく、病で旅立った妻が、銀色の表情で店にいた。ベッドの中、
最後の声にならない声は、何を告げていたのだろう?
 サヨウナラ? アリガトウ? それとも……。
 頭を振り、ハンカチで想い出をぬぐい去る。
 周りから歓声がわき上がり、つられて天を見上げた。
 スモッグが晴れ、子供の時分に見た星空が浮かび上がっている。ひときわ輝く星、
それが月だった。月と地球の間にAQの母船が浮かんでいる。生身では見ることもで
きないが、何故か見えるような気がした。
 大きく息を吐き出し、地下ステーションの入り口に向けて歩き始めた。
 私は宇宙開発事業団の一員だ。明日はベガに向けて、初の有人宇宙飛行を敢行する。
 尖柱のようなベクター型スターシップは人類が太陽系から飛び出す、ほんの一歩に
過ぎない。第二、第三のスターシップが人類の夢を乗せて旅立つだろう。いつかは、
AQのように地球外生命体の存在する星に到着する。
 スターシップが宇宙空間を疾走するイメージは快いものがあった。どこまでも高く、
高く、そして遠くに飛んでいく。
 異銀河の行き着く果ての星で、妻にあえる、そんな妄想が私の中に浮かんでいた。


  -- 了 --



#1105/1336 短編
★タイトル (WJM     )  98/ 9/16   2:44  ( 69)
詩>二編                  ..κ..
★内容


  ... . ..  .   .    .    .   .  .. . ...


 僕が話してるとき歌ってるとき笑ってるとき
 ふとみせるさみしそうな顔に
 とまどうのです
 人は無力
 掌はいくらあなたに触れえても

 どれだけの言葉を用いて
 あなたの抱える困難を論じあっても
 いつしか伏しがちになる瞳を
 窓から差し込む夕陽のようにみつめます

 言葉になるまえの
 かなしみを
 わかちあえないがために
 僕たちは
 微笑みあうことを学び
 快活に振る舞いあうことを学び
 誠実でいあうことを学び
 祈りあうことを学び
 そうして愛しあうことを学んでゆくのだとしても
 たとえそうだとしても
 二人はいつまで独りですか

 月明かりきりの薄暗い部屋のなか
 眠るあなたの額の髪を
 ゆっくりとかきあげてみると
 六月の雨音みたいなかなしみが
 そっと僕に染み入りました


  ... . ..  .   .    .    .   .  .. . ...


 車道で線をひかれた銀杏並木の銀杏たちみたいに
 あなたの葉のおちいく様を目の当たりにするとき
 僕も一枚一枚と葉を枝から振り落としていきたい

 決して交差することのない枝は
 祈りをこめて天へと伸ばす

 ふるえる幹を暖めに歩み寄ることもできない
 雪の日には
 僕らに射した真夏の光を精いっぱい
 語りあいたい

 冷えていく影だけの静かな真夜中
 ふとあなたの微かな鼓動がこの胸に届けられたなら
 触れあうことを望むより
 むしろ
 いつまでも
 いつまでも
 いつまでも
 思いあうことを望むことで
 始まりの独りを美しい歌で歌いあいたい


  ... . ..  .   .    .    .   .  .. . ...




                        .. .κει. ..





#1106/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/17   1:23  (169)
お題>『浪漫飛行2』  ……  PAPAZ
★内容

   『浪漫飛行2』

 サンダストリアの東部に宇宙開発事業団の敷地がある。東西12キロ、南北に7キロ、
やや台形の面積の大半は平地で、有人宇宙往還機の滑走路が中央部で交叉している。
 中央より、1キロほど北西よりにツインタワーと呼ばれる管制塔がある。タワー1
の最上階は一般の観覧も可能な展望室になっている。広大な敷地を見渡すことのでき
るこの場所は、観光客にも人気が高い。
 はるか北にはナンデスの山々がその霊峰をそびえさせているし、白い頂から流れ落
ちる滴は、カマーザス湾へと至る白き川の源流として存在を誇示している。太平洋に
注いだ水は、蒸発し、高みへと昇り、雲となり、頂に雪の結晶となって舞い落ちる。
 この場所から、すべてを観察することができる。
 今、赤みがかった空に、うっすらと青みを帯びた月が昇りはじめた。
 大気汚染によって、肉眼で見ることの叶わなかった月、それがいまや地球浄化計画
によって、はっきりと視認できるのだ。
 何度見ても飽きることがない。月はいつ見ても沈黙の光を放っている。
 ――静かだというならば、この場所も当てはまる。
 200平方メートルのフロアーに、私しか存在していない。2ヶ月前、ベクター型
スターシップが飛び立った時は、観客が詰めかけたものだが……。
 巨大スクリーンに映し出された人工の尖柱――ベクター型スターシップ一号艦は大
気圏外に設けられた宇宙ステーションから発射した。リビングで見ても、ここで見て
も同じようなものだが、感動を共有しよと沢山の人が詰めかけてくれた。
 シグナル音が鳴り、私は背後を振り返った。フロアーの中央に円筒形の柱がある。
機械的に駆動するエレベーターだ。赤いランプが点灯し、誰かが降りてくることを示
している。扉が開く。私が視線を投げかけると、AQのスリットのような瞼がこちら
を向いた。2本の脚、2本の腕、5本の指……スタイルは地球人と変わらない。それ
でも無髪で銀色の皮膚、溝のような目と口だけの顔というのが、地球人と大いに異な
っている。彼が脚を踏み出すと、背後で扉が閉じた。
『こんばんわ。また、あいましたね』
 AQから機械翻訳された声が響く。
 私は記憶の糸をたどり、酒場であったAQだと推測した。
「笑えるでしょう?」
 自虐的につぶやいた。
『……何を笑えばいいのでしょうか?』
 聞き逃すかと思ったが、そうではなかった。
「科学力の圧倒的な差ですよ。これが笑える……。
 地球が誇るスターシップは、海王星を過ぎたあたりでコンピューターがハングアッ
プ。0.15秒の停止のあと、一度連絡をよこし、あとは音信不通。すでに乗員は冷凍睡
眠に入っているのに……私たちは、彼らを捜し出すこともできやしない! 追いすが
るべき宇宙船は、未だ地にあるのだから」
『残念ながら、その通りです』
「500年後、彼らが目覚めた時に、ベガに到着するのか? それすらも分からない
……」
『地球人の中に、私たちのスターシップで救出すべきだ、という意見があることも知
ってます』
「だが、あなたがたはそれを拒絶した。なぜだ!」
 そう、彼らは一顧だにしなかったのだ。
『自分で蒔いた種を、他人が刈ることはないのです』
 AQが首をすぼめた。
「助ける力があるというのに、手をさしのべてはもらえないのか!」
 怒りとともに、私は宇宙空間に浮かぶ、AQの船を思い出した。正確な計測は船体
が不定形のために不可能だが、およそ500キロの球状と推定されている。どのよう
な駆動エンジンを搭載しているのか、そのメカニズムも皆目わかっていない。
『助ける力はあたたがたの内にあります』
 能面のようなAQから表情を読みとることは不可能だろう。
 私は、窓ガラス越しに、制作途中のスターシップ2号艦を眺めた。完成まで、あと
1年はかかるだろう。それでも早いくらいだ。だが彼らを見つけるには遅すぎる。
 私はAQがメタモールフォーゼを遂げ始めたことに気がついた。女性の形へと変化
していく。無髪な頭部から、若草の毛髪が萌えてくる。憂いを含んだ口元が誰のもの
であるか、すぐに分かった。
「やめてくれ! 妻に変わるのだけはやめてくれ……」
『それを望んでいるのに?』
「私は、……望んでなどいない……」
『そうですか。わかりました』
 再び沈黙が世界を支配した。
 それを破ったのは私。
「月は、あなたがたのものだ。あなたがたのテクノロジーで、月を居住可能な惑星に
改造している。あの青みを帯びた月……あれはあなたがたのものだ。だが、私の妻は、
私のものだ」
 苛立ちと、戸惑いが私を襲っていた。何故なのか? 分からないことがさらに苛立
たしかった。
『それは違います』
「?」
 薄青い月を見つめながら、私は口をつぐんだ。
『アステロイドベルトから氷を集め、呼吸可能でかつ低重力の居住惑星を作っている
のは、病弱な、もしくは老齢な地球の方々が楽に暮らせる空間を提供するためです』
 AQから表情は読みとれない。
「私たちのため、というのか? 笑わせる。そんな馬鹿げた話を信じろというの
か?」
『私たちがなぜ、この地球に来たのか、動機が分かりますか?』
 私は首を振った。
『あなたは、ただ友達に会いたいからと、その家を訪れたことはありませんか?』
 隣人に会いたいから、何万光年という距離もいとわず会いに来た、といいたいの
か?
『その通りです。相互理解が成り立って、私は嬉しい』
「――それならば、なぜスターシップの乗員を見殺しにする?」
『地球人は、友達が自分で自分を助けることができるとき、わざわざその邪魔をする
のですか?』
「地球浄化計画は、地球人の手ではクリアーできないから手を貸した。スターシップ
の乗員を助けにいかないのは、地球人がその手で助けにいくことができるから、だか
ら手を貸さないということなのか?」
 AQが頷いた。
 真実なのだろうか?
 嘘をついて如何なる得がある。彼らが地球を支配しようと思うなら、それは可能な
のだ。だが素直に受け取るには抵抗がある。
 私は、この件については保留し、根本的な疑問を発した。

「あなたがたは何者なのだ?」

『私から、質問してもいいでしょうか? ――あなたは何者ですか?』
 私は、しばらく考え込み、それから小さく笑ってしまった。
 答えようがないではないか。
「地球人の中には、オーバーテクノロジーを、そのまま渡してもらいたい、という意
見もある」
『幼稚園から大学にいけといっても、それは無理でしょうね。あなたはどう判断され
ますか?』
「思惟はいらない。私でも、無理だと思う」
 例えが面白くて、笑いが漏れてしまった。AQも肩を震わせて笑った。
 すでに日は沈みかけていた。月はいっそう高く浮かび上がっている。
 地球の唯一の衛星――月は地球から50万キロ離れている。月の重力が増大する度
に、軌道を離れていく。論理的に帰結するならば、その理由は地球の朝夕が狂ってし
まうからに他ならない。月の重力を増加させるのは大気を維持するため。もしAQが
真実を告げているなら、私の思考に誤りはない。
「君の名は?」
 私は彼の個人的な名前が知りたかった。彼らの誰もがAQ、ソレ、アナタ、どのよ
うに呼ばれても怒ることはない。だが、私は、また彼と会って話をしてみたいと、心
のどこかで願っていた。
『個体名は不在。もし名前が存在するとしたら、私は『メイ』と呼ばれたい』
 私にはAQが微笑んだように見えた。
    *

「それが、君と初めて話をしたきっかけだった」
 と、老人がいった。
 目の前、それでもはるか遠くには、釈迦が地獄に垂らした一本の糸――軌道エレ
ベーターが華奢な姿態を見せている。
 月と地球をつなぐ人工のエレベーターも、すでに役目を終え、今では生きた博物館
として、その価値の大半を占めている。
 月面はすべて居住空間となり、青い大気に包まれた快適な場と変化した。
「あの時はまだ40過ぎだった。まさか老後を地球化した月で暮らすとは想像もして
いなかった」
 老人は、大きく息を吐き出した。
「50を過ぎてメイに求婚するとは、それこそ想像していなかった」
 月の重力は地球の半分弱だ。そのぶん心臓に負担がかからない。
「そうですか?」
 メイが小首を傾げた。
 ブロンドの髪が風にたまたゆ。血色の良い肌が、淡く桃色に染まっている。
 老人は自分の顔に手を当て、皺の波をさすった。
「いや、違うかもしれない。そうなる予感があったのかもしれない。それとも、なか
ったのだろうか?」
 バルコニーに置かれたロングベンチに老人とメイは腰掛けている。小鳥が一羽、老
人の肩に止まった。老人が震える指を差し出すと、羽ばたき、はるかな高みへとのぼ
っていった。
「高く、高く、どこまでも遠くにいくがよい……」
 老人がつぶやいた。
「出発の時間ですわ」
 メイが腕時計に目を落とし、それから老人の肩に手を置いた。
 老人の背が崩れ、その上半身をメイにもたれかけさせた。
「君は分子間構造を変換させ女性に変容しても年はとらない。昔のまま、美しい。だ
が、私は年をとった」
「素敵に歳を重ねられましたわ」唇を細め目を閉じて、メイが答えた。
「昔、妻がベッドで何を告げようとしたのか、死の淵で何をいいたかったのか? 今
なら、私にも分かる気がする……」
「子供達が、飛んでいく。見えますか? あなた」
「ああ、よく見える。よく見えるとも。彼らなら海岸から一つの砂粒だって見つける
ことができる。インペシリウム級スターシップは私たちの子供が乗っているんだ」
 老人は目を伏せたまま、答えた。この場所からは水滴型のスターシップは見ること
ができない。視認できるのは、次元振動が描き出す大気の色彩の変化――7色に輝く
天上のオーロラ現象だけだ。
「本当に子供ができたならよかったのに」
「メイ、星を駆ける者達は、すべて私たちの子供だよ」
 老人が枯れ枝の指先で、メイの頬をさすった。
「ええ」メイが小声で頷く。
「これだけは、言わなくては」
「なにかしら」
「君と出会えてよかった。ありがとう……」
 そのまま老人は沈黙した。
 寡黙な風だけが二人にまとわりつき、何事もなかったように通り過ぎていった。

  --  了  --



#1107/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/20  16:50  ( 22)
「サアカス〜みだれあるきのひとびと〜」/KATARI
★内容
 猟奇の夢を見た團長は
  ライオンを鞭打ち
  象を飢えさせた

 團長の愛を夢見た鞦韆乗りは
 彼女自身をかけた技を彼に捧げ
  蜘蛛の糸で編んだネットを突き破った

 現実を夢見た綱渡りの男は
  鬣のなくなったライオンと皮ばかりとなった象を連れ
  觀客の世界へ逃げ込もうとした
 
  異世界のスタアだった彼らは
  侮蔑と恐れと沈黙に囚われ
  嘲笑に殺された

 サアカスが齎した狂いの雷火は
 天幕の姿が消えたあとも
 觀客の夢に美しい焼け野原をみせた
 

       KATARI,1998,09,20



#1108/1336 短編
★タイトル (CWM     )  98/ 9/21  21:45  ( 76)
お題>高く、高く                                    つきかげ
★内容
 おれは、苦痛の中で目覚めた。
 金属質の破壊音が鳴り響く派手な苦痛。
 おれは、獣の呻きをあげる。
 おれは、途轍もなく深く昏い闇の底から浮上してきたようだ。そして今おれの
味わっている苦痛は、おれに震えるような喜びをもたらしている。
(おれは生きている)
  苦痛はどうやら顔面に拳が浴びせられている為らしい。
  おれは血を吐きながら、身体を回す。おれを殴っているやつは、おれに馬乗り
なっている。うつむけになったおれの後頭部に、さらに拳が浴びせられる。
  おれは意識が昏くなるのを感じた。おれは呻く。冗談じゃない。あの闇の中へ
戻るつもりは無かった。
  おれの首に腕が回される。おれのその時の動きは本能的なものだった。おれは、
その腕に噛みついていた。
  背後にのしかかっていたやつが離れる。おれは立ち上がった。
  途方もなく広い場所におれは立っていた。光、歓声。それに絶叫。
  そこは、リングの上だ。おれにとって馴染み深い場所。おれにゆっくりと記憶
が戻ってくる。傍らにいるレフリーがおれに注意しているようだ。
  おれは思わず怒鳴った。
「うるせぇ、すっこんでろ」
  おれは、腹を見る。おれの記憶では腹を刺されたはずだ。燃えさかる炎が腹に
宿った苦痛の記憶。それがおれには残っている。
(あんたは死んだんだよ)
  おれの中で声がした。
(あんたはやくざに刺されて死んだ。もう30年以上昔のことだ。なぜ今更おれ
の身体を乗っ取ったんだ)
「これはおれの身体じゃない」
  どうやら憑依というやつらしい。目の前にいる男が叫んだ。おれ、というかお
れが身体を乗っ取った男が戦っていたらしいそいつは、何か抗議しているようだ。
そいつは日本人ではなかった。といってもおれがかつて戦った白人とも黒人とも
つかない。
(ブラジル人だよ、そいつは)
  おれの中で声がする。
(あんたの相手じゃない、おれの相手だ。消えろよ)
「あいにくと、どうやって消えればいいのかおれには判らねぇ。それによぉ」
  面白そうなやつだった。
  目を見る。
 いい目だった。
  殺す目。殺せる目。おれの全身に心地よい波動が走る。
(ブラジリアン柔術といってもあんたにゃ判らんだろうが、400戦無敗らしい)
「知ってるよ、バリトゥードだろ。こんなに面白れぇやつがいるたぁな」
  とてつもなくいい女を目の前にしたように、身の内からぞくぞくと立ち上って
くるものがあった。おれは笑った。野獣の笑み。血に飢えた欲情のようなものが、
おれの表情を歪める。
  やつはおれの気を受け流す。本物だ。
「続きをやろうぜ、あんた」
  やつは少し下がった。傍目にはやつが気圧されたか、怯えたかのように見えた
だろう。しかし、やつの目には一見、闘志もなく、恐怖もない。ただ、戸惑いは
あるはずだ。
  無理もない。何しろ目の前の相手が身体はそのままで、中身は別物となった訳
だ。400戦を戦ったにしろそんな経験は無いだろう。無敗ということは、勝て
ると判断した男としかやらなかったはずだ。おれの乗っ取った男にも勝てると判
断したのだろう。なら、今のおれはどうか。おれを殺せるのかおまえは。
  やつは退がっていく。
  それに合わせて、おれは前に出た。
  やつはコーナーにつまった。
  一見、おいつめられたように見える。
  しかし、やつは誘っていた。つまり、おれに勝てるとふんだのだ。おれに。
 この、おれに、だ。
  気がつくと、おれは咆吼していた。獣の叫び。
  やつは、少し笑ったように見える。
  おれは体勢を低くした。相撲のぶちかまし。おれにできるのは、多分それくら
いだった。
  おれの身体が流れる。マットにおれの吐いた血があった。それに足をとられた。
  アクシデントはやつに災いした。やつは、おれをかわすつもりだったのだろう
が、予想のつかない動きをおれがしたため、おれの拳がやつの急所に入ってしま
った。
  ファウルカップをつけているのだろうが、やつはのけぞって倒れ、後頭部をロ
ープでうつ。レフリーが制止に入るが、おれはそいつを投げ飛ばし、やつを引き
起こす。
  おれはやつの頸動脈に手刀を叩き込んだ。一時おれの代名詞となった技だ。
  二発、三発。
 やつの目はうつろだ。
  そのままやつの頭を抱え込む。
  ブレンバスターの体勢にはいった。
  やつの身体を抱え上げる。
  高く、高く。



#1109/1336 短編
★タイトル (HFM     )  98/ 9/22   5:18  ( 91)
『お終いの理由』     転がる達磨
★内容

 女は、いつも冷めきっている風だった。何故、自分がこういう選択をしたのか明確な
理由が、
いつまでたっても見つけられないままのようだった。
 男は、単純だった。自分は自分のしたいことをしている、という理由を自分の全ての
選択に当
てはめていた。少しの不安や不満も、そういう理由付けで自分に言い聞かせていた。そ
れは周囲
の人間だけでなく、自分自身さえも偽っていることになるのかもしれなかった。
 しかし結果は単純には、でない。

 男はある日、女に告白した。自分が女の眼の届かないくらい遠い地に行く、行きたい
という意
志をもっていることを、告げた。
 男の女への気持ちは、変わっていなかった。男にとっても、遠い地へ旅に出るのは不
安なこと
だった。男にとっては、かけだった。
 しかし、一体男がどういう気持ちで、それを女に告げたのかそれすら、明確な理由は
分からな
い。
「行ってきたら」
「いいのか」
「止めても行くでしょ」
「・・・多分」

 男の考えも、曖昧だった。この女と一緒にいたいという気持ちも、自分のしたいこと
だった。
遠い地へ独り旅立つというのも、自分のしたいことだった。女と一緒に旅に出たいとい
う思いが、
浮かんだ。
 どれが一番いい答えなのか、分からなかった。どれがいい結果になるのか、想像もつ
かなかっ
た。

 「あなたはだめよ、何を言っても。ともかく、縛られるのがイヤなんだから」
 「かもしれない。止められたら、益々、意地になって、行こうとするかもな」
 「だったら好きにしたら。私も好きにさせてもらうから」
 女は冷静だった。目の前で起きた突然の不本意な出来事を、しっかり受け止めようと
していた。

「必ず戻ってくるよ、待っててくれ」
 「それは無理、あなたが好きなようにするんだから、私だって好きにするわ。約束な
んて、で
きない」
 男は、自分の気持ちが揺れるのがわかった。女は、自分の考えに芯を持っていた。
「じゃ、二人の関係は終わりにするのか」
「仕方ないわね」
「俺が、どこにも行かなきゃ、いままで通りなのか」
 「もう駄目よ。あなたが、そのことを口に出した時点で、私たちがこれまで築き上げ
てきたも
のは、全部くずれちゃったの。わかる?」
「そんな単純なものなのか」
 「あなたは結局、何も分かってないのよ。私はいつか、あなたがこのことを言い出す
と、ずっ
と思ってたわ。そのために、いつも私はハラハラしてた、いつ自分は捨てられるんだろ
うって。
 そして、いつ言われてもいいように、覚悟の準備をするのがどれだけつらかったか。
あなたは、
いつも自分が大事なの。私はいつも二番、そのことに気づいてから、今日までが長かっ
たわ」
 「俺は別に、お前を捨てようなんて思ってない。そりゃ、何かを捨てなきゃ新しいも
のが手に
入らないってのは、わかるけど。でも俺はお前を、・・」
 「わかってるなら、覚悟してよ。私をあきらめなきゃ、何もできないんだって」

 女が何故そんなに冷静でいられるのか、男にはわからなかった。いまの今まで何の変
わりもな
く続いてきたことが、一瞬の判断と意志で簡単に崩れ去るものなのか。

「一緒に行かないか」
 男はすでに迷い始めていた。どれも自分のしたいことだった。そして、どれも自分中
心に考え
ていたことだった。
「無理よ、私には今の生活があるの」
 女は初めて自分の選択に、明確な理由を見つけていた。自分のしたいことは、自分で
決める。
 「今までだって、別にあなたに従ってたわけじゃないわ。ただ私のしたいことと、あ
なたのし
たいことが偶然、一致していただけなのよ。だけど今回は、一致しなかった。だからお
終いにす
るのよ」

 男はひとり、思い返していた。
 「俺はだれかに止めてもらいたかったんじゃないだろうか。遠い地へ行くことを、本
当に望ん
でいるんだろうか」
 どうすれば一番よかったのか、未だにわからない。だけど、どれもが自分のしたいこ
とだった
のには違いなかった。
              (了)




#1110/1336 短編
★タイトル (HFM     )  98/ 9/22   5:19  ( 78)
『ブリキの月』   転がる達磨
★内容

 月の明るい夜、騒がしい大通りに面した高層ビルの屋上展望台、
 地表を遠望する者、二人、地表を蠢く無数の物体を眺めいる、
「全くたいしたものだ、ここまで発展するとは」
「数々の苦難を切り抜けてナントカここまで来ましたよ、 見てくださいよ、
 見渡す限りの光の原」
 見渡す限り無機物の原が続く、下に目をやり、眩しそうに目を細める
「あぁ、立派なもんだ。カミは無くても命は育つ、実証しれくれたね」
「こいつら、何度も苦しんでましたよ。突然のウイルスによる攻撃、食料難、
 一度なんかこいつら同士の争いで危うく死に絶えそうになってましたよ。私
 も何度諦めようと思ったことか」
「良い良い、そうやって結局は自らの力だけでここまで来たんだから、 そこ
 を評価してやろう」
「はい、その通りです」

 風もない、ゆっくりと流れる細切れの雲、感慨深げに宙を見上げ
「お月様が出ているね」
「そうそう、 あいつはブリキ製です」
「なに、ブリキ製だって?」
「ええ、どうせニッケルメッキかなんかですよ」
「はあ、なんと!」
 月を見上げながら
「あの時は驚きましたよ、何かの拍子で月がここの重力圏に入ってきてゆっく
 りと落ちてきたんですよ」
 地表に目を落とし、かぶりを振る
「それでもこいつら、慌てることもなく立派に対処しまして」
 月を見入ったまま
「で、どうした?何故また月がブリキ製になったんだ?」
「はい、いとも簡単に月を粉々にしたんですよ」
「な、な、な、」
「見直しましたよ、こいつらのこと、見ませんでしたか、ココを取り巻いてい
 る輪っか、あれ、月の破片ですよ こっから見えるかな」
 宙を見上げる
「見てないぞ、こいつら躊躇せずにやってしまったのか」
「ええ、あっという間でした」
 パッと目を見開いて
「そ、そいえば他の生命も見てないぞ」
「そりゃっそうです、今や全ての命はこいつらが完全に管理してますからね」
 頭を抱え込んで
「なんということだ、ここには命の自由は無いと言うことか」
「自由が無いってことはないですけど、ま、確かにこいつらがここの支配権を
 握っているのは事実ですよ」
「そんなことが許されると思っているのか」
「いえいえ、そんなことはありません。そのことで彼らはかなり考え込んでま
 したからね。自分たち以外の命を管理していいものか、神のような振舞をし
 ていいのか、ちゃんと考えてましたよ」
 怒気をはらんで
「そして結果、それも良としたのか?」
「こいつらの間でも揉めてましたけど、仕方ないということで‥‥」
「ばかな、自分たちの器というものを分かっていないのか。まして他の命を支
 配するなど良いわけがなかろう。おまけに月まで壊してしまいよって」
 なだめるように
「仕方ないと思いますよ、彼らは自分たちが生きてく為に必死になって考えて
 ましたから」
「だからといって、我々の料簡にまで踏み込んでいいというのか」
「そう言いますけど、こいつらが必要としていた時にあなたはいなかったんで
 すから。彼らはその状況下でもあなたに対して何も言わず、自分たちだけで
 切り抜けてきたんです」
 考え込みながら、辺りをウロウロし始める。光り輝く大地に目をやり
「そんな勝手なことをして、自分たちが危機に陥っても知らんぞ。結局は全部
 自分たちに降りかかってくると言うことが分かってないのか」
「充分理解してますよ、その上で全ての危機を乗り気ってここまで発展したん
 ですから」
 深くため息をついて
「はあ、‥‥しかしだな、」
「まあまあ、大丈夫ですよ。彼らだってむやみやたらと行動しているわけでは
 ありません。(地表を遠望しながら)きちんと自分たちの行いを冷静に、客
 観的に判断して、しかも罪悪感を持ち ながら生きています。今だって必 
 死に模索してますよ。他の命に対しても寛 容です。なんとか共存しようと
 努力は怠っていません。
 いまさら彼らを叱っても仕方ないですよ、親は無くても子は育つって言って
 いたではないですか」
「‥‥‥」
「とりあえず、ここまできたことを評価してやって下さいよ」
 
 ガラス越しにテーブルを囲む彼らが見える。談笑する彼ら。
                       (了)




#1111/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/22  10:28  (181)
お題>『浪漫飛行3』  ……  PAPAZ
★内容

   『浪漫飛行3』

 ――インペシリウム級スターシップ・ソンブルの形状は水滴型で、中心軸は約1キ
ロ。鏡の煌めきを持つ艦体表面も、恒星から離れた空間では乱反射した光の競演を見
ることはかなわない。闇に混じり沈黙を続けている。
 恒星探査を目的として開発されたベクター型スターシップ一号艦が、赤色の発光気
泡に包まれ、中心に尖柱型の船体を隠しているのとは状態が異なっている。一号艦は
眩しいばかりの閃光を放射しながら、ベガを目指して飛び続けているのだ。航続距離
から換算して到着まで、470余年は見込まれる。――

「と、まあ、私なら航海日誌にそう書くだろう」
 口を開いたのはマイスタリー少佐。広い額に細い目、やせ形の体型から想像もつか
ないほど、精力的に活動する。ただし、職務ではなく、食事という原始行動に方向が
向けられているが。
「私なら、こう書くわ」
 話を継いだのは、マニュアレット。マニュアレット・ソーサー・ガリバン。
 13歳という年齢で特殊通信技師を勤めている。つまりESP系ミュータントだ。超
空間を通して、受けたイメージを送受信できる個体通信機として肉体を機能させるこ
とができる。
 マニュアレットの体にフィットした艦内服から、マイスタリーは裸体を想像してみ
るが、少年のイメージ以上のものは浮かばない。それでも、軽快に跳ね上げたブロン
ドのポニーテールから女性だと本能が告げる。鳶色の瞳から生命力という名前の強い
香りを嗅ぐことができる。
『だから、男っていやなのよ。いつの時代もHなんだから』
 笑い声と思念がマイスタリーの中に浮かぶ。
『女性に興味が無ければ、早期に人類は滅ぶからな』
 無言のまま答える。マニュアレットから微苦笑が伝わってくる。

 ――宇宙の孤児になったと思われたベクター型スターシップ一号艦が発見されたの
は、25年ほど昔のこと。人類が超空間通信の技術開発に至り、一号艦の定期的なパ
ルス放射を探知したのだ。今、われわれは歴史的なシーンに遭遇している。一号艦に
潜んだAQが姿を見せるのだ。――

「どうも今ひとつだな」
 小さなつぶやきは宇宙物理学者、カーネルのもの。
「なによう。マイスタリーよりはましよ、まし!」
 マニュアレットが口をすぼめ、頬を風船のように膨らませた。両肘を丸太を半割に
したテーブルにつけ、同じく丸太を切って作ったベンチの上で臀部をくゆらせた。
「いや、そうじゃなくて、1号艦の気泡が不安定なんだよ。ゆらめく境界線がわかる
だろう?」
 マイスタリーは3Dプロジェクターが投影した艦外景色を注視した。400立方
メートル程度の小部屋は、丸太小屋を再現している。木目の壁に明かりといえばアン
ティークなランプ。レトロなイメージに似合わないのは艦内通信用のインターカムと
持ち込んだハンドタイプの3Dプロジェクターだ。
「見たところ、発光現象がランダムのようだな」
 と、マイスタリー少佐。
「こちらの気泡が影響しているのか……気泡の同化に時間を使いそうだ。慎重なこと
にこしたことはないがね」
 カーネル博士がむき出しの頭部を手でさすった。
「ぶー、私は5分刈りのほうが気持ちよかったな。つるつるは気持ちよくなーい」
 テーブル越しにマニュアレットがカーネルに腕をのばした。細い指先がぺしゃりと
打ち、ついで優しくなであげる。
 3D映像はテーブル上に展開されているため、一号艦から腕がのびているように見
える。
「おやおや、おじょうさん。それでは観察できないのだが」
 と、カーネルが両手を広げおどけてみせる。
 マニュアレットがまねをする。マイスタリーはそれを見て、腹を抱えて笑った。乗
員124名のうち、レトロクラブに参加してるのは14名ほど。その中でもこの二人
は最高の組み合わせだ、とマイスタリーは考えている。
 マニュアレットが舌を出し、マイスタリーに「あにいってんのよ」といって満面の
笑みを浮かべた。
 私は、この娘が好きなのかもしれないな、とマイスタリーは想像した。横に並び座
ったマニュアレットがうつむき頬を染める。
 とくに、からかいがいのあるところが……、マイスタリーの思惟はそこで止まった。
 プロジェクターの投影された映像は3次元ベースで再構築されたもの。一号艦とイ
ンペシリウム級スターシップ・ソンブルが客観的に見られるよう処理されている。一
号艦の赤色気泡とソンブルの無色の気泡が同化し、白光を放った。一号艦のエアーロ
ックが拡大され、外壁が開く。中から銀色の球体が姿を見せる。
「AQとは不思議な生き物だな」
 カーネル博士が小声で口に出す。
「ええ、確かに不思議だわ。AQ本来の姿が球形で、超空間にパルスを流すなんて、
同じ生命体というのが信じられないくらい」
 マニュアレットがマイスタリーを直視した。少佐の胸にかすかな痛みが走る。
 AQは200メートルほど離れたソンブルに向けて上昇を始めた。索引ビームでひ
かれているのだ。ソンブルの円形エアーハッチが開き、一人の女性が姿を見せた。銀
色の裸身に銀色の髪、開かれた瞳は白銀の輝きを放つ。
「メイだわ……」
 マニュアレットがつぶやいた。
「それでも彼らは人間より人間らしい、そう思う」
「私も同感だね」
 と、カーネル博士がマイスタリーに同意した。
「マスメディアでは、ソンブル博士の意志を引き継ぐ、そういってたもの。愛してた
のね。誰よりも深く……」
「いやいや、高く、高く、だろう?」
 マイスタリーが口をはさむ。
「ソンブル博士の口癖だったからなあ。懐かしいよ。私たちは冥福を祈ることしかで
きないが」と、カーネル。
「確かに私たちは非番で見てるぐらいしかすることがない。ソンブル博士の設計した
艦内で鎮座してるのみだ。――だが、それでもできることがある」
 マイスタリーは右手を突き上げた。
「ベガは人類が初めて惑星をともなった恒星と発見された星だ。その第一歩を踏み出
す栄冠は一号艦に! だが、ソンブルはアンドロメダへ人類初の探求者となるのだ。
どこまでも高く、高く、より遠くへ……我々だって博士の意志を受け継いでいる!」
 マイスタリー少佐の芝居がかった演技を見ながら、残った二人は顔を見合わせ、そ
れからうなずきあった。
 3D映像の中、索引ビームが作り出した半透明なエレベーターをメイは降り、球体
AQは上った。交叉する瞬間、メイの体が溶解を始めた。わずかな時間ののち、球体
になる。
「メイは一号艦のブリッジに隠れるのね。そして宇宙に超空間ベースのパルスを発信
する……乗員は永遠にそのことを知らない」
「AQは人類の誇りを第一に考えてくれているからね」
 マニュアレットにカーネル博士が応える。
 映像はソンブルから7名ほどの乗員が移乗を始めたことを示している。航法コンピ
ュータのバグ修正が主な任務。もちろん彼らが手を加えた痕跡など、一号艦の乗員が
冷凍睡眠から醒めてさえ知ることはない。あくまで一号艦は単独の力でベガに到達す
るのだ。
 3D映像が消えても、彼らは口を開かなかった。
<<マイスタリー少佐、交代の時間まであと5分>>
 少佐の胸ポケットに埋め込まれたマイクロチップが教えてくれた。
「やれやれ、次の段階ではその5分で地球からアンドロメダに飛んでいけるというの
に……」と、マイスタリー。
「ぼやくな、ぼやくな。この船だって、220万光年を地球時間で一ヶ月もかければ楽
にいけるのだから」
「それでも、アンドロメダ銀河はもっとも近くにあるうずまき銀河なのよね。しかも
天の川銀河に属しているし……千年後の人類は、この船が銀河間の航行のため作られ
たなんて信じないかもよ。せいぜい遊覧船かしら?」
 マニュアレットはジョークともつかない言葉を口にした。
「なんと答えれば良いのやら……」
 距離と時間の関係は、技術革新に伴ってイメージを相対化するのが難しくなってき
ている。未来を考えるには歳をとりずぎたか、と苦い思いがカーネルに浮かんでくる。
「いつの時代も最初に訪れるのはスターシップと決まっている。転送機もスターゲイ
トも自分で飛べないのだから。恒星間であろうが銀河間であろうが、船の価値は絶対
的だ」
 マイスタリーが強い口調で断言した。
 そんな根拠は、どこにもないけどね――わずかに表層に出た思念をマニュアレット
は封印した。
 いって良いことと悪いことがある。これは悪いことだ。なぜならマイスタリーのプ
ライドを傷つけるから……マニュアレットは、そう判断した。
「1983年、IRAS(赤外線天文衛星)が、ベガが粒子の群れにとりかこまれているのを
発見して以来、未知の惑星をこの足で踏むことがすべての人の夢だった。
 われわれは、高く、高く、どこまでも遠くに飛んでいく。それはソンブル博士の遺
志というだけではない、古来から人間が持っている衝動そのものなんだ。――時に、
マイスタリー少佐、すでに勤務時間に入ってると思うのだが」
 マイスタリーが声にならぬ叫び声をあげて、部屋から出ていく。閉じたハッチを目
の前にして、カーネル博士がため息をついた。それからおもむろに口を開いた。
「マニュアレット?」
 カーネルが組んだ手に顎をのせ、マニュアレットを見つめた。
「あによー」
 ぶっきらぼうに答える。
「私たちは君たちとこれからも仲良くしていくことができるのだろうか。自分の死後、
人類とAQはどんな関係を築いていくのか、それが心配なのだ」
 マニュアレットの強い視線をカーネルは受けた。数秒ののち、彼女の瞳に優しさが
還ってきた。
「――先のことは私たちにも分からないわ。分かってしまえばつまらないもの。でも、
なぜ私がAQだと分かったの?」
「とりあえず、誰にでも、そう尋ねるようにしてるからかな」
「嘘」
 カーネル博士が頬をゆるめた。
「生身の人間が超空間通信すると考えるより、AQがやってくれているとイメージす
るほうが似合ってるから、そう答えればお気に召すかな? 構造変換できるなら、皮
膚の色も変えることができる、と考える方が理にかなう。それに一号艦に乗り込んで
るなら、この船にも乗り込んでると考える方が論理的だろう。……それも、より自然
な形で。違うかな?」
 マニュアレットは一つ息をつき、肩をすくめた。
「不思議なのは、なぜ私の思考を読まなかったのか? ということだな。君たちは嘘
をつかない。私の思考を読まなかったことは、明白だ」
「それは、カーネル、あなたが自分をさらけだすことを怖がってるから。いやがって
るから。だからしないの。それでは解答として不十分かしら?」
「いや、十分だよ。確かに私は怖い。心を裸にするには若すぎるよ。なあ、マニュア
レット。マイスタリーは怖がっていないのか?」
「かれは自分を知ってもらいたがっているのよ」
 マニュアレットがうなじに手を当て、ついで微笑みを浮かべた。


 ---- 了 ----

「次回予告」
 アンドロメダの縁円にたどり着いたインペシリウム級スターシップ・ソンブル。人
類がそこで出会ったものは、AQのシュプールではなく、荒れ狂う意識衝突前線だっ
た。破壊されていくマニュアレットの心と体。それをつなぎ止めようとマイスタリー
少佐は奮戦する。しかし、その願いはかなわない。
 滅び行くマニュアレットの精神に触れたとき、マイスタリー少佐は何を考えたの
か? 指先から消えていく温もりに、彼は何を感じたのか?

 次回「浪漫飛行4」閉ざされた世界。サービスしちゃうわよ。

-----------------------------------
 と、まあ次回予告を書いた時点で、浪漫飛行は終了です。
 おつきあいくださった皆様、ありがとうございました。




#1112/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 9/27   3: 1  (186)
無責任随想・今様女大学   夢幻亭衒学
★内容
思う所あって、インターネットでレズビアンのページを検索、幾つか行ってみた。
案の定、そう「大したことはない」。いや、素晴らしい絵や文章が掲載されている
ページもあったが、「単なる常人の発想」である。常民ではない。常人である。常
民とは……長くなるから止めた。
私がレズビアンとかサッフォーの末裔とかブッチとかダイクとか、それ系の語彙を
初めて知ったのはずいぶんと以前だが、当時は其等の語彙を、少なからぬ性的興奮
をもって眺めていた。何せ、私はカナリの女好きであったから、女と名が付くモノ
は女体山にさえ興味を向けた。「変態」である。しかし、何時の頃からか、静的興
味でしか眺められなくなった。結局、男も女も、ヤル事ぁさほど変わりはない。何
だか「当たり前」に思えて、性的興味は喪った。だいたい、カーマ・スートラでも、
レズビアンは奨励されこそすれ、禁じられてはいない。理由は、「女性が、より女
性らしくなるから」だそうだ。

ならば、義務教育課程で、しっかり仕込まねばなるまい。公立の小・中学校は、す
べて全寮制女子校とし、ソレ系の女性で教職員を固める。男の子は如何するかって?
男の学問は自ら為すべきであって、教育は免除する。当たり前の話だ。……ふと思
ったのだが、よく全寮制男子校だかギムナジウムだかパブリック・スクールだかを
舞台に、禁断の愛が如何のとかいう創作があるやに聞くが、さて、もしもソレらを
男性の創作家が全寮制女子校に置き換えて書くと、「単なるスケベェ」と言われる
かもしれないが、女性が男性同性愛者の話を書くと耽美だか何だかと言われるらし
い。不思議な話だ。スケベェはスケベェなのに。何時から耽美は、(或る種の)男
性同性愛の隠語になったのであろうか。また、全寮制共学校で、男女の相姦を描け
ば……やっぱり、単なるスケベェだ。
私は待望する。耽美と呼び得る異性愛物語もしくは女性同性愛物語を。薔薇の花背
負って愛し合う男女もしくは女女。……いや、女女の場合は、薔薇ではなく、百合
かもしれぬ。……いや、そんな事言うんだったら、男男は菊花だろう。……やっぱ
り、薔薇で良いや。

上記の如く、「女性らしさ」を育むに、同性愛に如くはない(らしい)。ならば、
義務教育課程を全寮制女子校にするのは金や手間がかかるとしても、国語の教科書
に、ソレ系の物語を必ず載せてジックリ教え込むぐらいは、即日にも実行すべきで
あろう。ちゃんと、宿題もだす。今の世の中、「女性らしさ」をもつ女性が、余り
にも少なくなっていると嘆く声を、よく聞く。私ぁそぉとは思わんが、まぁ、問題
があるなら改善せねばならない。

「女性らしさ」は、時代によって変わるかもしれない。が、短い期間の時の流れな
んぞでは、簡単に変わらない。変わるなら、ソレを、「らしさ」とは言わん。単な
る「流行」か何かだろう。抑も「らしさ」とは、本性から滲み出るものであり、一
種の「理想」でもある。そして、例えば、神話は、「理想」を語っている。

日本神話に於ける重要な女性は、イザナミ、ヒルメノムチ、ウズメの三人だろう。
説明を要しない程に有名だが、此処でも少しく紹介しよう。

イザナミとイザナギ、二人は協力して国産みをする。性交である。このとき、二人
は言葉を交わす。まず、何も考えないで、イザナミの方が「へっへっへっ、ニィち
ゃん、良ぇ男やんけ。一発やろうや」と曰う。受動的にイザナギが「あぁ、何て素
敵な女性でしょう。えぇ、ヤリましょう」と答える。で、失敗する。そんで言葉を
発する順番を逆にする。今度は、うまくいく。
さて、此処で重要なことは、「何も考えないで」、まず最初に行った方法が、イザ
ナミのリードによる性交だった点だ。妙な智恵を付ける前、始源の、白紙の状態で、
<自然>に行えば、イザナミがリードしちゃうのである。「らしさ」とは、本性に
対立しない「理想」だ。<当たり前の理想>なのだ。即ち、「へっへっへっ、ニィ
ちゃん、良ぇ男やんけ。一発やろうや」と先に声を掛け、あろうことか、のし掛か
り、嫌がる男を無理矢理、と迄は紀記も書いてないが、とにかく如此き性交じゃな
かった性向こそ、「女性らしさ」なのである。おそれおおくもかしこくも、紀記に
載せてあるのだから、間違いはない。
このように目出度く結婚した二人だったが、神も死ぬ日が来る。イザナミは、死ん
だ。イザナギは後家さんになっちゃうのだが、イザナミに会いたくて逢いたくて堪
らなくなる。死んだ妻をウジウジ思い詰める事こそ、「男らしい」態度だと知れる。
黄泉の国にイザナギはイザナミに会いに行く。其処で、醜く変貌したイザナミを見
てしまう。見られたイザナミは怒り狂い、イザナギを殺そうとする。逃げるイザナ
ギ。何と「女性らしい」イザナミであろうか。イザナギは、ひたすら逃げる。とて
も「男らしい」。イザナミ配下の鬼女は、イザナギが投げ付けた果物を貪り食うに
忙しくて遂にイザナギを逃がしてしまう。食い物に釣られることも、如何やら「女
性らしさ」のようだ。イザナギは安全な場所に辿り着き、「日に千人の人間を殺し
てやる」と猛々しく呪うイザナミに対し、「へへん、日に千五百人生んじゃうもん
ね」と言い返す。今まで逃げていたクセに、安全な場所に来ると途端に元気になっ
て罵声を返す。嗚呼、何て「男らしい」のだろうか、イザナギは。因みに、イザナ
ギが鬼女に投げた果物は、<魔除け>の効力があるとされるが、はて、果物は、鬼
を追い払ったのではなく、鬼を惹き付けたんだが……、まぁ、如何でも良いことだ。

続いてヒルメノムチとウズメだ。ヒルメノムチ……ムチである。ムチムチの女神だ
っただろう。土偶ぐらいムチムチだったかもしれない。何せ、原始農耕時代の「理
想」たる女性だ。痩せ形ではなかっただろう。ポッチャリして可愛いに違いない。
フックリ頬っぺなんか、リンゴみたいに真っ赤だったりするんだ。うひょぉ。抱き
心地も良さそうだ。でも、下手に寝て火遊びすると、火傷を負いかねない。何せ彼
女、太陽神なのだから。紀記では、太陽神になっている。それ以前の事は知らぬ。
噂では、オミズのオネェさんだったとも言うが、止そうじゃないか、過去の詮索は。
彼女は、遅くとも紀記の時代には、最高神・太陽として幸せになってるんだから。
ソッとしておこう。いや、ヒルメノムチ、水の神を出自とするとの説もあるんだが、
此処では無視する。

……幸せ、か。彼女は、本当に幸せだったのだろうか?

ヒルメノムチ、別名、天照皇大神は、最高神だから周りの男にチヤホヤされていた。
「フックラして可愛いっす」とか何とか。ソレは当時の美意識からして正直な感想
だったのだけれども、天照皇大神は「なんか、ちょっと違う」と疑っていた。男ど
もが、自分が最高神だからこそオベッカを遣っていると考えたのだ。疑い深いのも
「女性らしさ」かもしれない。思えば、最高神って、不幸な立場だ。
天照皇大神は、気が付くと或る女神の姿を追っていた。天鈿女(アメノウズメ)だ。
引き締まった肢体に仇っぽい表情、でも笑うと子猫の如くイジマシイばかりにキュ
ート。いつも周りに男を侍らせ、一緒になってギャハギャハはしゃいでいる。そん
な野を駆ける鹿の如く奔放な天鈿女に、天照皇大神は、何時しか惹かれていたのだ。
いや、天照皇大神は、日本を創造したイザナギ・イザナミの長女(?)であり、天
国を統治するため厳格に教育された姫様なのだ。帝王たることは、「女性らしさ」
に抵触しないことが明らかとなる。また、彼女はシッカリ者として成長せざるを得
なかった。でも、そんな自分に、ちょっぴり不満を抱いてもいた。上昇志向も「女
性らしさ」のうちらしい。ただ、彼女は嘘が嫌いだから、それも「女性らしさ」だ
ろう。紀記神代や伝説的天皇の時代、女性は嘘を吐かない。兄の陰謀に加担したは
良いが、嘘を言えずに謀反を事前に告白した女性までいる。翻って男といえば、嘘
吐きだらけだ。嘘とは「男らしさ」に属するらしい。余談である。
天鈿女のステージがあると聞けば、天照皇大神、ストリップ劇場へとお忍びで通っ
た。シッカリ者の筈なんだけど、興奮してテープは投げるは、おヒネリは投げるは、
熱狂して天鈿女の肉体へ手を伸ばし、用心棒の手力雄(タヂカラオ)に、「踊り子
さんに、触らないでください」と窘められたこともあった。興奮すると何をしでか
すか分からないのは、母・イザナミから受け継いでいる「女性らしさ」だ。
帰りには、オッカケ仲間の機織女(全員フックラ型)と喫茶店に寄って、「格好良
かったよねぇ」と溜息混じりにパフェをパクつくのであった(だから太るんじゃな
いか?)。とても、「女性らしい」。
天照皇大神は、同性のオッカケをしていたのだ。同性愛傾向である。やはり、レズ
ビアンは「女性らしさ」と不可分なのだ。そして、この「女性らしさ」は、世の中
うまく出来ている、「男らしさ」と密接な関係にある。それは、男らしい筈の、彼
女の弟たちを見れば了解される。弟は生まれて三年間足腰が立たず、可哀相なこと
に海に流され捨てられてしまった。「男らしさ」とは、役に立たぬことだ。その次
の弟はスサノオだから、言わずもがな。マッチョな髭親父になっても、ワンワン泣
きじゃくっていた泣き虫毛虫、これを「男らしさ」と表現するのだ。彼女は男兄弟
を頼りに出来なかった。男になんて頼らないのが、「女性らしさ」なのである。弟
たちだけではない。彼女の周りの男どもときたら、いつも玉を磨いている天児屋命、
まるで夏目漱石の坊ちゃんに登場する「うらなり君」みたいに陰性だったり、其の
磨いた石を使ってブツブツ呪文を唱えている天太玉命の如く何考えてるか分からな
い奴だとか、まったくデリカシーのない手力雄だったりしたのだ。皆、「男らしさ」
の代表だ。こんな「男らしい」奴らに囲まれていたら、女性に興味が向かない方こ
そ不自然、それこそ「変態」だろう。
天照皇大神は、天鈿女に恋していた。だからこそ、不肖の弟・スサノオの悪行に業
を煮やし、拗ねて岩戸に籠もったときにも、外で天鈿女がストリップを演じたら、
我慢できずに覗き見て、結局、引きずり出されてしまったなどという、可愛くも間
抜けなエピソードが残っている。気の強い天照皇大神が拗ねてたんだから、その後、
機嫌を直すにも<秘術>が必要だったろう。簡単なことじゃない。紀記には書かれ
ていないが多分、<慰め役>は天鈿女に決まっている。但し、如何に「慰め」たか
は、筆者の関知する所ではない。が、論理として考え得るのは、拗ねて無理にソッ
ポを向く天照皇大神をソノ気にさせるため、まずは天鈿女がリード、そのまま役割
を固定したか、機嫌を直し即ち外界へ働きかける積極性を取り戻した天照皇大神が
上に乗った……か、其処までは判らない。何連にせよ、天鈿女なら、巧く対応した
だろう。
天鈿女、このバイ・セクシャル、男女ともに魅了するストリップ・ティーズは、し
かし、ちょっとした変態性も有っている。「女性らしさ」とは、変態をも含意する
のだ。彼女は、性的に強力な存在であるだけでなく、いや、もしかしたら其れ故に、
対面した相手を引き込む力を持っていた。女王様タイプだったのだ。「女王様」が
「男らしい」とは誰も思うまう。女性だから、「女王様」なのだ。故に、「女王様」
は、「女性らしい」。天鈿女、実はアテネの如き軍神の雰囲気もある。軍神は、古
代ギリシアでも日本でも、女性の機能のうちである。まぁ、戦争なんて女でも男で
も出来るから、男がやっても良いんだけど。因みに、神武天皇の軍団には「女兵
(オンナイクサ)」も組織されていた。軍事は、「女性らしさ」と対立しない。ま
ぁ、ストリップ・ティーズだから体の線はシッカリしてて綺麗だから、天鈿女、武
装も似合ったことだろう。
ところで猿田彦という男神が地上にはいた。巨大でグロテスクな姿であったが、そ
の実、ちょっぴり臆病な、お人好しだった。「男らしい」奴だったのだ。猿田彦は、
いつものように暢気な顔をして散歩をしていた。ちょうど、其処に天鈿女が降りて
きた。天鈿女は、けっこう面食いだったので、グロテスクな猿田彦を悪役だと決め
つけた。他の神々は、猿田彦を恐れて後ろの方に縮こまっていた。
「ほえぇ、今日も良い天気だなぁ。そうそう、布団、干さなきゃ」と猿田彦が家に
戻ろうとすると、コツコツコツコツ。振り返ると、15センチのハイヒールを音高
く鳴らし、一人の女が近づいてきた。コートの襟を掻き合わせ、やや上目遣いに凄
みを帯びた笑みを浮かべていた。「わぁ、綺麗な人だなぁ」と見とれる猿田彦の眼
前で、女は立ち止まった。「アンタ、名前は?」居丈高に女が訊いた。「へ、ボク?
ボク、猿田彦っていいます」「そう、アタシは天鈿女」「は? はぁ」「ふふふっ」
「え?」「ふははははははっ」「え、なになに?」「へっへっへっへっへっ」「う
わあぁ」猿田彦は驚き後ずさった。女がイキナリ、コートの前をはだけたのだ。肌
も露わなボンデージ・ファッション、いや、其れは良い、露わ過ぎる、パンティー
も穿かずに、陰部を剥き出しにしているのだ! 「ひっ、ひいいいいっっ」痴女の
突然なる出現に恐れ戦く猿田彦、「ぐへへへへっ、そぉら、おマ●コだぞぉ、ほぉ
れ、ほぉれ」甲高く哄笑し、コートをバタつかせ、猿田彦の周囲を跳び回り、踊り
狂う天鈿女。「あぅあぅ、ご、ごめんなさいいいっ、ごめんなさああぃぃぃ」巨体
を縮めガチガチと震える猿田彦は、ワケも分からず謝り啜り泣いた。ひれ伏した猿
田彦の後頭部をピン・ヒールでグリグリと踏みにじる天鈿女、「お前はアタシの下
僕だよ」、「は、はい、私は下僕でございますぅ」「女王様と、お・呼・び」「じ
ょ、女王様ぁ」。かくして猿田彦は天鈿女に服従し、天孫が地上を支配する道筋が
つくのであった。男が男らしく、女が女らしかった神話時代の一齣である。

長々と書いて申し訳ないが、天照皇大神と天鈿女は大略、上記の如き女神である。
ちょっとだけ(?)膨らませはしたが、現代人たる私のイメージに合わせただけの
ことであって、根幹は変えていない。即ち、天鈿女は妙に天照皇大神と親和性が高
く、かつ女陰を晒す事によって多分は強大な神としてイメージされた猿田彦を服従
させてしまう。また、岩戸に隠れた天照皇大神を誘い出すために、スッポンポン、
陰部を晒して踊った。ぐらいの要約なら、穏当か。

此処に於いて、世に通用している所謂「女性らしさ」「男らしさ」の大部分は、我
々日本人の本来の姿とは、まったく懸け離れたモノであると言わねばならない。何
処で間違ったのであろうか。このままでは、<日本民族>が、光輝ある国体が、消
滅してしまう。別に構わんが……。
……あ、いや、イカン、断じてイカン。日本撫子の「女性らしさ」を取り戻すため
に、やはり、根本的な教育改革が断然必要だ。そのためには、まず手始めに、上記
の如く、レズビアン小説を義務教育の国語教科書に掲載すること、また、其のため
には教科書に掲載すべき傑作を生み出すことが急務になっているのではなかろうか!
って、んなワケぁねぇだろ。
(お粗末様)



#1113/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/28  19:56  ( 35)
「瑠璃の抱擁」/KATARI
★内容
 わたつみの都に住む青年は
 その都の王となるために
 瑠璃の玉杯に
 きよらかな魂を注ぎ
 飲み干すことを
 運命(さだめ)として生まれた

 きよらかな魂をその躯に抱(いだ)く少年は
 都の永久(とわ)の繁栄のために
 瑠璃の玉杯に
 魂を注がれ
 自らを抜け殻とすることを
 運命として生まれた

 魔道師たちは
 魂狩りを行なった
 きよらかな魂を得るために
 青年を王とするために
 
 瑠璃の玉杯は美酒を好む
 少年の魂は極上の美酒
 瑠璃が抱くに相応しい

 少年から絞り出された魂は
 瑠璃に抱かれた

 わたつみの都にすむ青年は
 それを飲み干す運命を
 そして彼自身を呪い
 正気と狂気の狭間に沈んだ

 
 わたつみの都の王は
 瑠璃の玉杯を割り
 都を殉教の地と為した



#1114/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 9/30  22:36  ( 73)
大型安全小説  「ファールボールにご注意を」  ゐんば
★内容

 プロ野球はシーズンたけなわ。三本松スタジアムは首位を走る地元ドルフィン
ズが二位テンボスを迎え撃つとあって満員の観客であふれていた。
 右に大きく切れた打球を見届けて、ウグイス嬢の梅田手児奈はいつものように
マイクのスイッチを上げた。
「ファールボールにご注意ください」
 マイクのスイッチを切った後、手児奈はふと考えていた。
 この台詞を今年だけで何百回口にしただろう。しかし、効果があるのだろうか。
 これだけ注意を繰り返しても、飛んできたファールボールに当たって医務室に
かつぎこまれる人が毎年必ずいる。幸い軽い打撲等で済んでいるものの、当たり
どころが悪ければ大ケガになりかねない。
 手児奈はその原因がわかったような気がした。
 ボールが飛んでいってから注意したのでは遅いのだ。
 アナウンスが入るときには、ボールはすでに客席に落ちた後だ。そのときに注
意しても、どうしようもないではないか。
 ファールボールが客席に飛び込む前に、観客に危険を知らせる。事故を避ける
ためにはそれが必要なのだ。
「梅田さん、次のバッター」
 電光掲示板の操作係の杉野森弥三郎の言葉で手児奈は我にかえった。グラウン
ドではさきほどのバッターが出塁し、ネクストバッターズサークルからドルフィ
ンズの主砲松本喜三郎が歩いてくる。
 手児奈はマイクのスイッチを上げた。
「四番、ファースト松本。ファールボールにご注意ください」
 松本がこけるのが見えた。
「どうしたの梅田さん、松本さん変な顔でこっち見てるよ」
 弥三郎がけげんそうに手児奈を見る。
 わかっている、今のはいくらなんでも早すぎた。早すぎる注意は効果がない。
 松本がバッターボックスに入り、主審がプレイを宣告した。ピッチャーはラン
ナーを気にしながら、セットポジションから一球目を投げた。
「ファールボールにご注意ください」
 松本のバットが空を切った。
「今日はなんか変だよ、梅田さん。あーあー松本さん怒ってる」
 手児奈も自分でも変だと思ったのだ。投げるたびにアナウンスを繰り返したの
では、聞くほうも慣れっこになって注意する意味がない。となるとやはり、実際
にファールを打ってから客席に飛んでいく前に注意するしかない。とはいうもの
のその間は一秒ない。手児奈はマイクの前で待ち構えた。
 キャッチャーが外角に構えた。ピッチャーはセットポジションに入り、二球目
を投げた。松本のバットがボールをとらえ「ファールボールにご注意ください」
手児奈は早口でアナウンスし、ボールは一塁側内野席にすいこまれた。
「梅田さん、今のファボって何?」
 電光掲示板にファールボール注意のメッセージを出しながら弥三郎が尋ねた。
「え、なにファボって」
「梅田さん今言ったじゃない」
「えーファボなんて言わないよお。ファールボールにご注意ください、って言っ
たんだよ」
「ファボとしか聞こえなかったけどな」
 やはり観客席にボールが飛んでゆくまでの間にこの台詞を全部喋るのは無理が
ある。手児奈は途方に暮れた。
 しかし、落ち着いて考えると、観客に警告の意志が伝わればよいのだ。センテ
ンスそのものをきちんと伝える必要はない。
 そんなことを考えているうちにピッチャーは三球目を投げた。松本は積極的に
打ちにいった。
「ファール」
 そう、要はこれだけで警告になるのである。
 手児奈はマイクのスイッチを切ろうとしたが、いくらなんでもこれだけじゃ変
かなあと思い次を続けようかどうしようか迷っていた。しかし早くしないとピッ
チャーが次の構えに入りそうなのでとりあえず続けた。
「ボールにご注意ください」
 弥三郎が心配そうに手児奈を見た。
「梅田さん、具合悪いんじゃない」
「え、別に」
「だってさっきから変だよ」
「いや、ちょっとね。いろいろと研究してんのよ」
「行った!」
 弥三郎がグラウンドに向き直り電光掲示板の準備を始めた。松本の打球は左翼
手の頭上を大きく越え、外野席をめがけて飛んでいる。
 手児奈も松本の何号ホームランであるかを確認し、マイクのスイッチを入れて
気がついた。
 そうだ。事態は同じだ。
 手児奈はアナウンスを入れた。
「ホームランボールにご注意ください」

                              [完]



#1115/1336 短編
★タイトル (LPF     )  98/10/ 3   5:26  ( 10)
お題「高く、高く」       如月
★内容
「父さん。俺、会社辞めるわ。このままじゃ食っていけないしさ」
「や、辞めるって突然、おまえ」
「お父様。私もこの家を出ます。子供たちも一緒に」
「洋子さん。あ、あんたまで。いったいどうしたんだ」
「史郎。もう一度考え直してくれないか。なっ。洋子さんも落ち着いてよく考
えてごらん。うまくやってこれたじゃないか、これまで」
「ちっ。あんたの家族を演じるのはいいが、こっちにも家族はいるんでね。そ
うのんびり構えてもいられないんだな。洋子も同じ意見らしいぜ」
「いったいどうしたらいいんだ」
「ギャラだよギャラ。ギャラをもっと高く、高くしてくれればいいんだよ」



#1116/1336 短編
★タイトル (HFM     )  98/10/23   0:42  (110)
霞(かすみ)        転がる達磨
★内容
   『沖縄の梅雨明け』    転がる達磨

 車が一台やっと通れるくらいの道に、街灯がぽつぽつと光の輪を落としてい
た。午後十一時、酒の入った体を引きずって門限前になんとか宿に辿り着いた。

 国際通りという繁華街から歩いて十五分ほど、下町といった風情の静かな住
宅街に、僕が泊まる宿はあった。二〇人も入らない相部屋当たり前の小さなボ
ロい民宿である。周囲の民家は明かりこそついているものの、静寂に包まれて
いた。
 玄関の引き戸を開けると、食堂兼談話室から笑い声が聞こえてきた。宿のオ
ヤジ主催の酒盛りが行なわれているのだろう。宿が小さいだけにこういう家族
的な雰囲気ができあがるのか、意外にも泊まり客のほとんどが参加して夜毎の
宴が行なわれる。
「ただいま」
 とりあえず帰った事をオヤジに伝えるため、談話室の扉を開けた。煙草の煙
が冷房の効いている締め切った部屋に充満していた。泊まり客のほとんどが連
泊しているので、顔馴染みである。赤い顔したみんなが僕のほうを見て口々に
言う。
「おかえり、早よ、飲みや」
「なんや、今日も酔っ払ってきたんか」
 オヤジが皮肉にも取れるようなことを、言ってきた。このオヤジとはどうも
反りが合わない。前日の、楽しいはずの酒盛りの場でちょっとした口論をして
しまっていた。その声を無視して、
「すいません、今日のとこは失礼しますわ、もう僕で最後ですかね?鍵閉めま
しょか」
 毎晩一人になるまで酒を飲んでいる人間が真っ先に部屋へ戻るのが信じられ
ないのか、それともまだ帰っていない客がいないか探すためか、みんな、首と
眼をキョロキョロさせている。
 そんなに酔っていたわけではなかったが、妙に疲れていた僕は、返事を待た
ずにそそくさと二階へと階段を上っていった。談話室では、またすぐに談笑が
起こっていた。

 八重山諸島石垣島から本島に戻ってきたのは一昨日の朝だった。沖縄が暑す
ぎるせいか、旅が長くなりすぎたせいか、このところ僕の頭はもうもうと温か
い霧に包まれていた。どんな風光明媚な景色を見ても、名所旧跡を訪ねても、
心踊ることなく神経は弛緩したままだった。ほどよく湿り弾力に富み過敏なほ
どに反応していた精神は、今や膿んできていた。
 八重山の海は、太陽の暑い光りを目一杯受けているにもかかわらず、温かく
なることも沸騰することもなく、涼気を帯びていた。波は蒼く澄んだ海面に、
ときおり白い濁点を作り出す。そんな海を見ていた。そろそろ潮時かな、唯一
そう反応した僕の頭のままに石垣島を離れた。
 人の少ない隔絶された世界から戻ってきた時、那覇の繁華街は刺激に満ちた
場所に感じれるはずだった。甘かった。弛み切った心の糸に引っかかるものは
なかった。久しぶりに歩く人混みの中でも、排気ガスに満ちた熱気の中でも、
僕の持つ好奇の根が震えることはなかった。
 逆に気持ちとは裏腹に、見るもの聞くもの触れるものすべてに煩わしさを感
じていた。

 人がすれ違うのもままならないくらい狭い廊下を過ぎて、自分の部屋に入っ
た。四畳半の部屋には、セミシングルとでも言うような小さなベッドが二つ。
テレビ、灰皿、ごみ箱、枕。そしてリュックサック、Tシャツ、文庫本、目覚
まし時計、観葉植物。物が詰まりすぎているこの部屋に、熱い空気までが詰ま
っていた。窓を開ける。生ぬるい風が階下のテレビの音声といっしょに入って
きた。ベッドに腰掛けて帰りがけに買ってきたジュースの栓をあける。那覇の
過ぎる熱気とほどよい酒精で火照った体に、冷たい液体が沁みわたった。背中
を流れる汗をにわかに、敏感に感じ取った。
 Tシャツを脱ぎ捨てて、テレビをつけた。枕元にある煙草を取り出して火を
つける。もうだめかな、ぼやけた思いが頭に浮かぶ。
 テレビでは、とりとめの無いバラエティ番組をやっていた。どこで笑ってい
いのか、どういう感情を起こせばいいのか、まったく解せない。階下の談話室
とテレビのスピーカーから同時に笑い声が響いてきた。枕元の灰皿を引き寄せ
て、煙草の灰を落とす。煙が温かい風に翻弄されながら、幾重にも絡みつつ消
えていく。つい先刻火を付けたライターは早くも見えなくなり行方不明になっ
ている。けれどもアルコールの入った僕の頭は、まったく必要の無い事象とし
て受け付けない。深い歎息をつきながら横になると、視界の周りに薄い霧がま
とわりつきだした。どこかでヤモリがトッケッケッと泣いていた。
 しばらくして、うつろな眼を灰皿に向けると、煙草の火は根もとまで燃やし
尽くして消えていた。階下から何やら怒鳴り声が響いてきていたが、テレビで
は相変わらず笑い声が起こっていた。
 煙に巻かれた視界の定かでない孤独な妄想から、ふと現実に耳をすましてみ
ると、宿のオヤジと相部屋の兄ちゃんの声である。また酔っ払ってもめとるな。
気に止めえることもなく勝手な想像を膨らましていると、ドタドタという足音
の後に部屋の扉が開いた。
「おお、わかった、わかった!」
 隣のベッドの占有者が入ってきた。続いて同じようにわめきながら、
「お前は何様のつもりや」
 オヤジまで入ってきた。僕は途切れ途切れになった神経をつなぎ合わせて、
扉のほうを見た。廊下から数人の見知った顔が覗き込んでいた。みんな顔をし
かめている。
 自分のベッドの上に散らかった荷物をまとめながら、兄ちゃんが言い放つ。
「あんたにかかったら、神もお客もぼろくそじゃね」
「ええから、早よせえよ、お前見たいな神さんいらんねん」
 大阪育ちのオヤジの声が、窓の向こうにまで響いていく。二人ともなかなか
上手いこというな、と眠気と酒気と熱気にとらわれた頭で感心しながら、惚け
た眼で見ていた。
「お前も何しとるねん、毎晩毎晩酔っ払って帰ってきやがって」
 気がつくとオヤジは僕に向かって怒鳴っていた。あらら。ベッドに座り直し
て煙草に火をつけた。毎晩毎晩ってまだ来て三日目やんけ、音にならない声で
応えた。
 「部屋も散らかすな言うとるやろ、ほんで寝るんやったら寝るで、ちゃんと
テレビ消せ。電気代かてバカんならんねんぞ」
 微かに意識が残っている脳味噌が思いを紡ぎ出す。『旅行中はいつ、どうゆ
う状態でトラブルに巻き込まれるかわかりません』ガイドブックの片隅に必ず
書かれてある、普段気にも止めていない言葉が浮かんだ。ははあ、こういうこ
とか。初めてその言葉の真意を得て、僕はベッドの上でほくそえんだ。
「なに笑っとるねん、聞こえたんやったら、さっさと片づけんかい」
 隣の兄ちゃんは、明らかに不機嫌な顔をして黙々と荷造りにいそしんでいる。
廊下にいた客たちは飛び火を恐れてか、もうそこにはいなかった。蒸し暑い空
気だけが、部屋の中で立ち往生していた。

 ようやく神経がつながり始めた。兄ちゃんと僕は、小さな公園のベンチに座
り込んでいた。日付が変わっている。
 「ごめんな、僕のせいやね。巻き込んでしもうて、これからどうする?」
 にいちゃんは、激情覚めたようすで俯いていた。空には薄い雲が掛かってい
て月も星も見えない。すぐそばの木の下では、ホームレスらしきオッチャンが
眠っている。車がけたたましいエンジン音を響かせて走っていった。兄ちゃん
の問いには応えなった。かわりに足元の大きな荷物を見ながら、声にならない
笑いを噛み締めた。
「くっくっくっ」
 沖縄は、もうすぐ梅雨が明ける。



#1117/1336 短編
★タイトル (GVJ     )  98/10/27  12:55  (127)
お題>高く、高く       青木無常
★内容

    智の神イームレスのこと

 イームレスは叡智をつかさどる神である。
 天より十一の神とともに降りて、いにしえの神話に語られる八邪神を成敗し、バ
レエスに平安と幸福をもたらした大いなる神である。
 イームレスはおのれ自身の運命を除く、世界のあらゆる智とできごとを熟知して
おり、それゆえにひろき目をもつ者とも呼ばれる。
 またイームレスはふるき邪神どもにしいたげられていた人間たちに叡智の吐息を
かけ、無知なる牢獄から救いだしたもうた御神であり、いまのひとびとが冬になっ
ても飢えず凍えず、あたたかな灯火のもとで語らい書を読みふけることができるの
もすべてイームレスの御技あってのことにほかならない。
 その肉体はまばゆき光輝におしつつまれ、徳なき者が目のあたりにすればたちど
ころにその視界をうばわれる。それゆえ智の神の神官たちは鼻までおおう黒いずき
んをすっぽりとかぶり、神殿内では決してその目でものを見ることはない。
 大いなる智の神の光臨は万古の代より数えるほどしかなかったというが、その出
現の際にはつねに馬車の上にある。馬車の名はワジャリヤという。まばゆき光輝を
きらきらしく放つ壮麗なワジャリヤは、アジャイアとアジャイルスというふたりの
御者にひかれて天降る。アジャイアとアジャイルスはときに万里をかけめぐり、バ
レエスのあらゆる場所をティグル・ファンドラのひとめぐりにもみたぬまに走りつ
くすという。

    ワジャリヤの御者のこと

 アジャイアとアジャイルスはイームレスの馬車ワジャリヤの御者である。
 アジャイアとアジャイルスはかつてバレエスを暴虐のもとに支配していた八暴神
の陪神であり、大いなる光放つ十二の神々がバレエスに光臨した際、イームレスの
手によりて捕縛され、ワジャリヤの御者となった。巨大な漆黒の鎖で縛された御者
神どもは、つねに腰をおり、額からはどすぐろい汗を滝のように流しながら、血ま
みれの足で地を踏みしめて馬車をひく。
 火急の際などイームレスは、七つの宝輪をアジャイアとアジャイルスに与えると
いう。その宝輪に足のまわりを囲まれると、アジャイアとアジャイルスは風の神イ
ア・イア・トオラと肩をならべて走ることができるほど速くなる。だが御者神の肩
にのしかかる重荷の重さは千倍にもますのだという。
 御者神どもはかつて、アリハク山より巨大なその七つの肢をもって地をはうひと
びとを踏みつぶしながら、暴虐に、あらゆる世界をかけめぐっていたのだという。
 光輝ある神をのせた、このバレエスでもっとも重い馬車をひくのは、かれらの受
けた罰である。

    イームレスの逃走

 かつて、バレエスの簒奪神たちが安穏としていた治世のおわりに大いなる英雄神
が大いなる暗黒神と化して世界をほろぼそうとした。大いなる神の変節に、残る十
一の簒奪神たちはどうにかその暴虐を鎮め、またうち負かそうとしたが歯が立たな
かった。
「世界を簒奪せしわれらに、むくいがおとずれたのだ。こは、われらが運命なり」
 十一の神の一、アフォルがつぶやくようにそういうと、智をつかさどる神イーム
レスが鼻をならした。
「運命などはアフォルのもてあそぶ玩具にすぎぬ。われら大いなる神々に運命の鉄
槌のふりかかることはなし。剣をとりて戦え。わが叡智の前に立ちはだかる者はな
し」
 力づよくいい放つや、九百九十九の眷属をひきいて智の神はふたたび暗黒神の討
伐にむかった。
 ティグル・ファンドラ、イア・イア・トオラ、、ラッハイ、ガルガ・ルイン、ヴ
ォールらがそれにつづいた。
 ティグル・イリンはそのおもてを暗くくもらせながら、三つの宝玉をふところに
隠して虚無の壁の裏側にその身を隠した。ティグル・イリンの深きひとつの闇のみ
が天空に残される。
 憐憫の女神ユール・イーリアは世界から月の光が喪われたことをなげいて地にう
ずくまった。
 情念の女神ウル・シャフラは、バレエス全土が大いなる神の暗黒にじわじわと浸
食されていくさまに嘆きかなしみ、その流す涙は洪水となって世界をみたしていっ
た。
 死神マージュは、なだれのように冥界に送りこまれてくる、生けとし生けるあら
ゆるものの魂をさばくのにただただ忙殺された。
 ただひとり、運命をつかさどるアフォルのみが、かなしげにその目をくもらせた
まま荒れ狂う暗黒神と、その討伐にむかった神々とのゆくすえをながめやった。
 智の神にひきいられて太陽神、風の神、空の神、時の神、地の神らは果敢に暗黒
神と刃を交えたが、あらゆる力の化身である暗黒神に敵すべくもなく、つぎつぎ
にうち倒されていった。
 智の神イームレスはこれがただひとつおのれの智のうちから外れていた運命であ
ることを知り恐怖にかられ、ほかの五神を見捨てて逃走した。それを見てティグル
・ファンドラ、イア・イア・トオラ、ラッハイ、ガルガ・ルイン、ヴォールらもお
のが眷属を見捨てて逃亡し、暗黒神はふたたびどすぐろい闇を世界に吐きだしはじ
めた。
「走れ、走れ、御者どもよ。天をめざしてひた走れ。われは叡智をつかさどるひろ
き目をもつ光輝神なり。昏き地の底などに隠れひそむことはできぬ。走れ、走れ、
暗黒神の千の目がとどかぬ天の果てまでひた走れ」
 追いすがる闇に背をうたれながらイームレスはおのれの乗機である馬車ワジャリ
ヤの御者どもを鞭うち、せきたてた。
 ふたりの御者神アジャイアとアジャイルスの肢のまわりで宝輪は狂ったようにま
わりつづけ、あまりの速さについに火を噴きはじめた。アジャイアとアジャイルス
は熱さと疲労に苦悶の声をあげて泣きわめいたが、イームレスのうちふるう鞭は容
赦なく御者どもを責めたてた。
 馬車は天を目ざしてのぼりつづけた。走れ、走れ、御者どもよと叡智の神はうわ
ごとのようにくりかえしながら鞭をふるいつづけ、やがてふたりの御者の七つの足
は焼けただれ、すり切れていった。宝輪は炎につつまれながらそれでもまわりつづ
け、アジャイアとアジャイルスは血と肉を涙にして流しながらおめき、走りつづけ
た。
 地をおおいつくす暗黒をはるか足もとにおきざりにして、ジェガ・ジェガ・パン
ドオの虚無に馬車がとどこうかというころに、ふいにイームレスの鼻先を異様な悪
臭がかすめすぎる。
 狂ったように走りつづけていたアジャイアとアジャイルスが、せわしない足のう
ごきはそのまま、ぴたりと暗黒のただなかに停止した。
「なにをしている。あふれでる暗黒はもはやわが足もとまで迫っているぞ。走れ、
走れ、御者どもよ」
 だがふたりの御者がどれだけ懸命に足掻きつづけてもワジャリヤはぴくりともう
ごくことはなかった。
 なにが起こったのかと前方に目をこらしたイームレスは、そこに立ちはだかる幼
童を見た。
「ここからさきに道はなし」
 幼童が口にすると同時に、おそるべき悪臭がイームレスのもとに吐きかけられた。
臭気はあかぐろい煙となって吹きつけ、その刺激は激痛となってイームレスの目、
耳、鼻口尻の穴から精気の出口まであらゆる場所よりその体内へともぐりこみ、叡
智の神は苦痛にのたうち泣き叫ぶ。
「わが名はアシェト」
 幼童はいった。暗黒神の吐きだした闇のなかからわき出し七人の魔神のひとりで
ある。
「なれが逃れるすべはなし。わが吐息に追い落とされて、なが叡智はすべて暗黒の
地上にこぼたれた。なれはすでに痴呆のつまった肉袋にすぎぬ。なんとなれば、も
とより絢爛たる馬車の御簾に安穏と護られて怠惰にむさぼられしなれのからだは、
見よ、破裂寸前にまでふくれあがってまさしく肉袋のごとし。なれは叡智の神にあ
らず。怠惰と愚昧をつめこんだ、醜悪きわまる肉袋にすぎぬ」
 悪臭を吐きちらしながら魔神アシェトはワジャリヤを追いまわし、からだじゅう
の穴という穴からあらゆる粘液をたらしてアジャイアとアジャイルスはかけめぐり
つづけ、やがて噴きだした暗黒におし流されたあらゆる汚物が沈殿する、世界のも
っとも低き場所に追い落とされた。七つの宝輪は燃えつきて、わずかに残ったアジ
ャイアの左足のかたわらでただひとつの残骸が力なくからからとまわるばかり、そ
れでもふたりの御者はみにくくゆがんだ七つの肢の残骸を懸命に繰りながら走りつ
づける。
「痴呆の神とその御者どもよ。なんじらはそこで宝輪の残骸とともに、とわにまわ
りつづけるがよい。そのすきに暗黒神をたおし、われが世界を手中にする」
 悪臭を吐きちらしながらアシェトはその場を立ち去り、あらゆる汚物がうずまく
世界の底でワジャリヤの残骸のなか、イームレスはまとわる激痛に血の涙を流しな
がらその肥満しきった肉体をもてあまし逃げることもかなわなかった。
 そして肉体を損傷したアジャイアとアジャイルスは、漆黒の鎖に捕縛されたまま、
世界の底でおなじ方向に輪を描きながらいまも馬車をひきつづけているという。



#1118/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/10/28  23:27  ( 19)
   α−Pierrot
★内容


電気ぢかけのゆり籠の内(なか)
細胞を意識した核たちが
死を目指し
核を構成する  たちが
生まれ
ほころび
集い
カスとなり
毒となる
温もりの感じられないものとなり
それは、彼れか、我れか、土か、
虚空飛ぶ虫のこ江
ヂ、ヂヂヂ


[No.72]




#1119/1336 短編
★タイトル (PRN     )  98/10/30  23:58  (104)
嘘〜勇敢な恋の詩・インターバル〜   穂波
★内容
 コチ、コチ、コチ。
 時計の音だけが、静まり返った空気を揺らしていた。
 サーモンピンクの短針は、十一時をさしている。
 私は、机の上に突っ伏すようにしてただ時計を眺めていた。約束の時間は、九
時だった。とうにそれを回っても、電話ひとつかかってこない。
 三日前だったら、仕事が終わらないのだろう、と先に寝てしまったけれど。膝
の上で丸くなっているハーブの背中をそっとなでる。やわらかな毛並み、暖かい
からだ、この子のように何も考えず眠れたらいいと思う。
 鳴らない電話の隣、ママからの伝言がボードに貼ってある。
[今日は九時までに帰るわ、可愛い佐和子へ]
 おそらく私の様子がおかしいのに気が付いて、わざわざ書き残していったんだ
と思う。そんなことしないでくれれば、いっそ諦められるのに。信じたいと思っ
てしまう、自分が嫌だった。
「……嘘つき」
 呟いた私の声は、ひどく冷たく聞こえた。


 ママの様子が変わった、それに気が付いたのは二日前の夜だった。今日のよう
にママはなかなか帰ってこず、私は先にベッドに入っていた。
 目が覚めたのは、夜中だった。枕元の時計が3時過ぎを指していた、あんな時
間に起きてしまったのは、多分ハーブと一緒に夕方うとうとしてしまったせいだ
と思う。
 水でも飲もうかとそっと部屋を出た私の耳に、その時ごく小さな声が入ってき
た。
「……るわ、ええ」
 ママの、声だった。でもなんだか私の知っているママの声とは、同じなのに違
う気がした。いつもよりなんだか……綺麗な、声だった。
「そう、私もそうよ」
 相手の声はしないから、電話だろうと推測できた。私は、何故か一歩も動けな
かった。ひとの電話を立ち聞きするなんて、家族でもよくないと思っていたけれ
ど、足は動かなかった。
 こんな時間に、誰と話しているのか。どうしてあんな綺麗な声で話しているの
か、気になって動けない。
「困った人ねぇ……いいわ」
 家の、ではなく自分の携帯でかけているのか、声はママの寝室から洩れていた。
ママの声は、艶を帯びたり、時にははしゃいだようにすら聞こえた。私には、絶
対聞かせてくれない声、だった。
 急に、私はそこにいることを後悔していた。
 てのひらがじっとりと汗ばんで気持ち悪い、立ち聞き云々ではなく、ママの声
が私を圧迫していた。
 怖かった、何が怖いのか解らないけれど、私はとても怖かった。
 早く部屋に帰って、安全なベッドに潜り込んでしまいたいのに、足は動かない。
 耳を塞いでしまいたいけれど、指一本でも動かしたらママにばれてしまいそう
な気がして、どうしても動けなかった。
 そして、私は絶対に聞きたくなかった言葉を、耳にしてしまった。
「愛してるわ……」
 少し掠れたような、それは《女》の声だった。
 ママの声ではなく、紫野ゆかり、という女性の声だった。
 涙が勝手に溢れてきた。
 ガクガク震える膝を必死に制御して、私はどうにか部屋に帰った。
 その後は、結局朝まで眠ることは出来なかった。


 みゃあ、とハーブがないた。
 目が覚めたのかと思ったけれど、私の指先をペロッとなめるとすぐにまた眠っ
てしまった。どうやら、ちょっと寝ぼけていたみたいだ。
 暖かいこの子を抱きしめていると、少しだけ心がなごむ。
「もう、寝ようかしら」
 ここでこうしていても、何も解決なんかしないことはよくわかっていた。ママ
が本当に仕事で遅くなっているのか、だれかとデートをしているのか、そんなこ
とわかりっこないのだ。
 なんだか一人で待ち続けた自分が、急にバカみたいに思えてきた。
「寝ようね、ハーブ」
 膝の上のハーブをそっと抱き上げて、枕の脇に寝かせてやる。
 コロン、とハーブが転がった。無邪気な寝顔が、空条君を思い出させた。
「空条君、どうしてるかな」
 私のこと、好きだって言ってくれた男の子。
 私と会いたいって理由で、部活をさぼってたって知ったときにはびっくりした
けれど、ちょっと嬉しかった。だけど、ここ二日ほど顔を見ていない。その理由
を知ったのは、今日の放課後だった。
 栗林さん、空条君のクラスメイトで部活も一緒という女の子が、教えてくれた
のだ。空条君は部活の追加メニューでとてもじゃないけど図書室に寄っている暇
はないらしい。それを聞いたとき、ちょっと寂しい半面ほっとした。彼が、来な
いのではなく、来られないとわかったからだ。
 だけど、栗林さんの話には続きがあった。
 それが私の中に不安を生んでいた。
 空条夏生君、彼はとても優しい男の子だ。
 素直で、一生懸命で……私にないものを、たくさん持っている。
 彼の笑顔なら、信じられる気がした。ううん、私は空条君なら信じられる、信
じられないのは……。
 その時、電話が鳴った。
 心臓が、跳ね上がった。
 ドキン、ドキン、ドキン……。
 こめかみにまで響く音を意識しながら、私は電話を取った。
「はい、紫野です」
「佐和子、こんな時間まで待っていてくれたの? 遅くなってごめんなさい」
 ドキン。
 電話の向こう、遠いママの声に紛れて、グラスの音がする。少なくとも、ママ
が会社から電話をかけているのではないことがわかった。
「今日は、遅くなるから先に休んでいてくれる? 修学旅行も近いんだし、体調
を崩したらいけないわ」
 優しい声、ママの声、嘘なんてかけらも感じさせないような声。
「うん……わかったわ。ママも、身体に気をつけて」
 私はそう答えて、静かに電話を切った。
 自分の声、普段と同じ……何も気が付かなかったふりをする声、それが耳の中
でリフレインする。
 ベッドに倒れ込むようにして、私はこみ上げてくるものを押し殺した。
「空条君、空条君、く……夏生君」
 彼に、笑いかけて欲しかった。
 嘘のない笑顔を、見たかった。
 彼の笑顔なら信じられる、信じられないのは……私自身。
 私は、声を殺して泣いた。
 信じることが出来ない、ママとだんだん似ていくような自分自身が、私は誰よ
りも嫌だった。



#1120/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/11/ 3   0:39  ( 82)
Pandora's box(3) α-Pierrot
★内容

小さな詩の集い

(Number 73)

 吐息(フ)く風に風化する
 生きた心地と褪めた言(コト)の葉(ハ)
 藤色に染まる空気(クウキ)に
 呼吸(コクウ)なんてしない



(Number 74)

   ふたつのかおを
   おぶり
   あゆみゆきかう
   射す視線の創る影
   透明な爪痕が
   大きな欠伸
   大きく嘶く
   嘲り嘯く事で憂鬱を保つ
   割れた壷の刃先で
   雑音に脈打つ血管をなぞる
   ひとしずく
   はぜてはうつろう
   ながいひさし
   庇の萌えかすの下
   誰も居なくなった巣穴に潜り
   初めて聞いた自分の声
   こえを擧げてないていた



(Number 75)

   声をあげる
   言葉にできない
   舌っ足らずな悲鳴
   風に彩られる
   花びらは音符
   不器用に口吹く
   川のながれ
   時のながれ
   堰に乗り
   砂をつむ
   蟋蟀の脚
   蝋燭のゆらぎ
   頬を赤らめ
   爪をくるむ
   声にできない
   言葉をあげる
   我武者羅で無性に



(Number 76)

   何も音が聞こえない
   だから聞こえる音がある
   ミルクの流れる筋を辿り
   裏道の角を曲がる
   タイヤの取れた車に跨り
   地球を逆さに遠く眺める
   記憶に偏り住む葉脈の囁き
   土の中と空を飛ぶ昆虫の蠢き
   ただ香れる寺の
   手折れる颯爽
   道標にもののけ
   影が永く永く
   きっと感じられる音色と
   心を騒がせる気質
   もうすぐ夏が私の頬を撫でてゆく



(Number 77)

ここに足・あとWO残ちた
誰のためでなく
エゴとヒロイズムのため




#1121/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/11/ 4  19:13  ( 29)
廃市X/KATARI
★内容
  滅ビルトイウコトハ、
 
 死ンデユクコトデスガ?

 
  (少シヅツ、失ワレテユクモノハ※※※)


 コノ町ハ、

 生キテイマスカ?


  (コノ町トイウ存在ノ呼吸ハ∞∞∞)


白昼夢を観た。

墜ちてゆく何かを凝っと見つめている感覚。

その何かは、

本当に「あっと云う間」という刻があるのだと、

報せるかのように、

墜ちていった。

     KATARI,1998,11,04 



#1122/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/11/ 4  19:15  ( 40)
少女人形T/KATARI
★内容
 
 紅の絹の紐

 きつく首に巻きつけられ

 少女人形

 横たわるのは

 真白き寝台

 その清潔なシイツの

 微かな皺に

 とろとろと

 流れ滲みゆくのは

 彼女から零れだした

 藍色の血液

 名は清純

 
  (ヌレタチカシツデ

   オコナワレタサンゲキ

   ナハ、
  
   アイ)



 

 




#1123/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   5:53  (200)
読本八犬伝・番外編「赤き衣の男」伊井暇幻)
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 赤き衣の男」
                   〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ1〜

  天武紀の表記は謎に満ちている。日本書紀は「紀(本紀)」だから帝王の事績を記
述するタイプの史書だ。各天皇毎に一章を立てている。出自、出生を数行で述べ、在
位中の出来事を羅列している。天武紀も基本構造は同様だ。が、在位までの記述が妙
に長い。この妙に長い前置きこそ、叔父甥が血で血を洗い、そして皇位を継ぐ者が斬
首されて終結した大乱、<壬申の乱>を語っている。
 蘇我馬子を大極殿で討った天智帝は、死の床へ実弟であり皇太子の大海人皇子を呼
びつけた。使者はかねて大海人と親しくしていた蘇我臣安麻呂であった。安麻呂は天
皇からの言葉を伝えた後、一言付け加えた。「お気をつけなさい。なにか裏がありそ
うです」。
 大海人に天智は命じた。「跡を継げ」。大海人は答えた。「私は多病で皇位を継ぐ
ことは出来ません。皇后に政治を任せ、甥の大友皇子を皇太子にしてください。私は
出家します」。天智は、大海人の申し出を聞き入れた。大海人は僧形となり吉野へ赴
いた。此処で大海人の舎人(トネリ:お付きの者)の半分は去ったが、半分が残った。
或る人は言った。「手近に置いておけば牽制も出来ように。あの野心家の大海人を吉
野に行かせるとは、虎に翼を着けて放つようなものだ」。
 天武紀では、天智の死後、大海人を「天皇」と表記している。それはそれで良いの
だが、混乱するといけないので確認しておこう。この時点で大海人は、天武紀の表記
に拠れば、皇位継承権を既に放棄しており、天智の皇后、倭姫王が政権を執り大友皇
子が皇太子になっていたか、大友皇子が権を執っていた筈なのだ。大海人は、出家し
た皇族に過ぎない。しかし、日本書紀は大友を天皇とも皇太子とも決して呼ばない。
 吉野に籠もった大海人は不穏な動きを見せた。山陵を作り、そして半分は去ったと
はいえ舎人を擁していた。舎人は、律令制に於いては、親衛隊/武力の側面を持つ。
山陵を作るとは、戦いを前にした行為だともされていたようだ。当時の政権である近
江朝は、大海人に野心があると断定した。大海人討伐の軍勢が差し向けられた。大海
人も軍勢を集める。因みに、「近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無計事者唯有幼
少孺耳」(六月二十七日条)とある。近江朝は天智の朝廷を受け継いだ正当かつ正統
な政権であるので国家としての体裁を整えていた。しかし、出家した皇子に過ぎない
大海人は烏合の衆を率いていたに過ぎない。
 本格的な両軍の激突が目前に迫っていた六月二十六日、大海人は伊勢の朝明郡(ア
サケノグン)で天照太神を祀った。戦闘が開始された。七月一日、大海は数万の軍勢
を遂に大友皇子の本拠地、近江に発遣する。決戦を覚悟した大海人は、軍勢に「恐其
衆与近江師難別以赤色着衣上」。何故に彼が赤き衣を選んだか。此処で項羽と劉邦の
争い、勝利を収めた漢軍が纏っていた赤衣の嘉例を思い浮かべても良いのだが、多分、
問題は其れほど単純ではない。
 しかし、この軍勢は近江朝側に迎撃され、簡単に進むことは出来なかった。七月五
日、近江朝側は吉野軍への奇襲に成功する。夜半に砦を破って押し入り、合い言葉の
「金」を叫ばない者を片端から殺戮したのだ。目端の利く武将が一人、「金」を合い
言葉と察知し、辛うじて生き残ったのみ、部隊は皆殺しに遭った。七月十三日の大戦
で勝利を収めた吉野側は二十二日の決戦で近江朝を潰滅した。翌壬子の日、逃げ道を
失った大友皇子は、「自縊焉」。二十六日には大海人に、大友の首級が献じられた。
此処に於いて、皇統を争う骨肉の争いは終わる。八月一日には近江朝すなわち正統政
権の重要人物八人が極刑とされた。戦犯処罰である。大海人は冬までに造営した新都
に遷った。飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)である。翌年すなわち「天武
二年」二月一日、簒奪者・大海人は登極、天武天皇となる。

 さて、既にお気づきであろう、この「壬申の乱」、即ち大海人による政権簒奪が、
五行説の革命論によって正当化されていることを。大海人は大友の本拠・近江を攻め
るに当たって、自軍に「赤色」の上着を着せた。赤は火気を象徴する。そして、大友
軍は奇襲に於いて自軍を識別する合い言葉に「金」を使った。火克金の理により、金
/大友が火/大海人に滅ぼされることは必然であったのだ。「易姓革命論」は、一見、
単なる戯言だが、何等現実的正当性をもたない者が政権を簒奪する際の、イーワケぐ
らいにはなる。戯言であっても、現実を動かしちゃうのだから、馬鹿には出来ない。
抑も天武紀は、そのキャラクター設定に於いて、美少年だったとか逞しかったとか月
並みでお約束の無意味な言葉を並べている中に、「能天文遁甲」なる表記が滑り込ん
でいる。簡単に言えば、五行説に耽溺したオカルト・ファンだったのだ。そんな天武
だったから、五行説に則って位階により制服の色を変えたり八色の姓なぞという制度
を作って喜んでいた。まぁ、そんなことは御愛嬌だが、五行説を信じたが故に、彼の
命が縮まった、と私は疑っている。
 血塗られた皇位、その魅力が絶対的であったうちは、野心家・天武のことだ、満足
していただろう。己の為した事どもを、自ら許していただろう。が、人は老いる。権
力に飽満しもする。熾烈を極めた戦いで甥を死に追いやってまで得た皇位の魅力は、
半減する。魅力が色褪せると、其の呪われた側面のみが強く意識されてしまう。
 天武の即位後、度々吉兆が諸国から報告されている。赤い亀だとか枝分かれした霊
芝だとか、そんなもんだ。当時の朝廷が五行説や其の他呪術の影響下にあったことが
解る。縁起を担ぐだけなら、まだ罪は軽いが、オカルトの、もう一方の側面、妖術も
行われたようだ。例えば天武四年十一月一日には「有人登宮東岳妖言而自刎死之」。
また、呪術を行って処罰された者もいた。そして、天武八九年ごろからだろうか、い
や元々仏教行事は行われていたのだけれども、ソレが目に付くようになる。この宗教
行事の増加は、天武が老いて気弱くなる過程とも感じられる。人は気弱くなると、他
者の<良心>を期待するによって、自らの裡にも急遽、良心を捏造、信心ぶったこと
をして、宗教に逃げ込む場合がある。マクベスはダンカンを殺した直後から良心の呵
責に苛まれたが、壬申の乱から約十年、大海人も自らの手が、大海の水を以てしても
洗い流せぬ血で塗れていることに、漸く気付いたらしい。……後悔するぐらいなら、
しなきゃ良いのに。でもまぁ、やっちゃったことは仕方がない。事実は如何な権力者
にも否定不能だ。隠蔽もしくは抑圧に成功しても、本人の心の裡には厳然として存在
し続ける。一見、英邁に見える天武は、哀れな老醜を晒すことになる。
 天武十五年五月二十四日、「天皇始体不安於川原寺説薬師経」、不調を感じた天武
は川原寺で薬師経を講ぜしめた。が、効果はなかった。六月十日、治まらぬ天武の病
を占わせた。五行好きの天武のことだから、呼ばれたのは陰陽師系の卜者であったろ
うか。診断が下った。が、ソレは俄に信じがたいものであった。「祟草薙剣」。それ
で、「即日送于尾張熱田社」。草薙剣は、言わずと知れた三種神器の一である。皇統
の正当性を保証するものだ。其の証が現職の帝に祟ったのだから、尋常ではない。常
識的に考えれば、これは皇位を簒奪した天武に対し、神が怒り給うたと解釈すべきで
あろう。が、元より皇位は複数の王朝によってリレーされたものであるし、簒奪者は
何も天武ばかりではなかろう。にも拘わらず天武のみが草薙剣に祟られたことは、草
薙剣の性格に由来する。先に天武が自らを火気に配したと述べた。その火気を滅する
のは、当然の事ながら、水克火、水である。草薙剣は、水気の剣なのだ。自らを火と
規定することによって政権奪取を正当化した天武が、火気たる故に、まさに皇統の証
に責められ否定されたのだ。付言すれば天武が滅ぼした大友皇子は金気、金生水、大
友皇子の怨念が水気と変じ、火気たる天武に祟った、と天武本人は考えたかもしれな
い。根国から蘇った水なる神の剣が、天武の頭上に振り下ろされた。赤き衣の男が、
恐怖に青ざめている顔が、目に浮かぶ。……彼の赤衣は火気を象徴していたのではな
い。それは彼のために流された夥しい血で染まっていたのだ。循環する五行の呪いは、
正確に彼を射抜いた。
 自らの衰え行く精を復活させようと天武が行ったのは、年号の制定であった。七月
二十日、戊午の日に「朱鳥元年」を宣言した。朱は火気の色、鳥は火気の禽である。
火気を象徴する動物は想像上の<朱雀(スザク)>だが、火気の勢いを強めることを
期待した年号であることは明らかだ。因みに「戊」は土の兄である。午は火気が最も
盛んになる支である。火生土(火は土を生ずる)、故に土扶火(土は火を助ける)。
戊午の日を選んで年号を制定したことは、火気復活の期待を込めていたことを裏付け
る。が、所詮、五行説は自然の摂理を支配することは出来ない。これを近代に於いて
は「迷信」と呼ぶ。が、迷信が人の心を支配し、そして現実として人を動かした。
 抑も、「壬申の乱」を五行説で説明しようとするとは、愚の骨頂であった。「壬申」
とはミズノエサル、即ち、水気と金気が結合している。水は金を助けるから、このと
きには金気は勢いを旺んにする。五行説に於いては、この年、金気たる大友皇子は有
利だった筈なのだ。にも拘わらず、大友皇子は敗北した。
 しかも九月九日に、天武は死ぬ。天武にとって、これほどの皮肉はない。九月九日
は、奇数ゾロ目、即ち、<重陽>の日だ。陰陽五行説では、(一桁の)奇数を陽、偶
数を陰と考える。しかも、奇数のうち最大が、九である。そして、火気は陽気の最た
る者、太陽である。火気を標榜し復活の願いを込めて朱鳥なる年号を定めてまで足掻
いた天武は、まさに重陽の日、しかも御丁寧にも丙午すなわち火気が最も旺ずるべき
日に、死ぬのだ。金気が旺んであるべき年に金気の大友皇子が敗れ、火気が旺んであ
るべき日に火気たる天武は死んだ。天武は五行説を政治闘争に利用しはしたが、その
五行説によって呪われ、そして五行説に見放された。これが、天武なる者の末路であ
る。そして、五行説は後の朝廷をも呪縛した。いや、古代の朝廷で陰陽師が跳梁した
とか、貴族が五行呪術に耽ったとか、そんな些末な事を言いたいのではない。
 壬申の乱は国史上、<明確なる古代王朝>のスタート地点だ。と言うのは、全体を
通読できる纏まった国内史料は、記紀を嚆矢とするが、この記紀の起源が天武朝にあ
るからだ。天武帝の命により帝紀、旧辞なる史書が編まれ、それを元に記紀がモノさ
れた。実は拘わった編纂者も、帝紀・旧辞と記紀で共通していたりする。故に、帝記
・旧辞は現存しないものの、現存する記紀と<史観>を共通すると疑える。天武朝は
先に述べた如く、従来の政権を滅ぼした簒奪者である。簒奪者は自己を正当化する必
要に迫られる。だからこそ、史書を編纂したのだろう。言いたかないが、<歴史の捏
造>を試みたかもしれない。捏造や隠蔽、例えば、紛れもなく君主となった者を、
<天皇に即位しなかった>ように書くことさえ、屁の河童だ。幾ら何でも其処までは
しないだろう、と考える清廉潔白なる読者の皆様、人間を甘く見てはならない。人間
は多分、唯一の、<嘘を吐く動物>なのだ。しかも、例えば、天皇即位云々に関して
言えば、「嘘」でないとも言えたりする。なに、難しい理屈じゃない。
 日本書紀(の原型)が天武朝期に成立したことは、既に述べた。其の史観は、天武
の胸中にある。史料や伝承は、手元に採集していたであろうが、此処で重要な事は、
過去の君主のうち、誰を天皇と<認定>し、誰を認定しないか、天武(もしくは其の
意を受けた編纂者)が決定できたのだ。このように言い得るのは、先人の知見に、
<天皇なる概念は天武もしくは其の妻・持統の時代に正式に確立した>なんてのが、
あるからだ。神武の時代から、「天皇」と自ら名乗っていたワケじゃない。
 だいたい、古代の日本は、ラーメン一筋ウン千年の中華帝国に対し、従属はしてい
なかったにせよ、臣下の礼をとっていた。交通していたのだ。「ウチの天皇からお手
紙でぇす」なんて持っていったら、酷い目に遭っただろう。「田舎者は仕方ねぇなぁ」
と失笑を買えば、めっけもの。最悪の場合、大軍勢に攻められて、皆殺しにされかね
ない。何たって、こんな失礼なことは、他にはない。
 中国は、秦王政が中原を奪ってから「皇帝」号を用いた。「天子」とも言い換えた
りした。日本でも、現代に於いて横文字を珍重する如く中国に倣って「天子」と言っ
たようだけれども、日本書紀では天皇は「天皇」と表記された。此処に、重大な問題
が潜んでいるように思う。「天皇」なる表記は、道教の臭いがプンプンするのだが、
「天子」よりは格上だろう。同じ「天」でも「皇」と「子」じゃぁ、勝負にならない。
「天子」は<天の子>、「天皇」は<天の主宰者>だ。天皇の方が<偉い>。
 中国には、易姓革命論なる論理がある。五行説の相克の理、「火克金」とか「水克
火」とかを用いて、政権交代を正当化もしくは説明するのだ。即ち、中国の王朝は、
五行説の呪縛の下にある。「革命」とは、<天命を革する>ことで、言い換えれば、
<天が権力者として信任する者を易(か)える>ことだ。天によって交代させられる
とは、天よりも劣位にある事を意味する。何せ、「天子」なんだから、親の言うこと
はきかなきゃなんない。此処に、君子の徳が「孝」を第一とする理由がある。付言す
れば、天の声とは、即ち民の声であり、大学に云う、「君親民」の意は自ずから明ら
かであろう。「君は民を親とす」としか読めない。……とは昭和初期の作家・夢野久
作からの受け売りだが、あだしごとはさておきつ、五行説という最先端で舶来で素朴
な倭風発想じゃ太刀打ち出来ないほど洗練された論理そのものを否定し得なかった天
武朝期の日本に於いて、革命論を回避する裏技があるとすれば、ソレは、自ら天を
「主宰」しちゃうことだ。五行説の範疇で、易姓革命論を超越するには、自ら「天」
そのものになるしかない。
 壬申の乱は、「革命」であった。大海人なんて水っぽい名前の皇子が「火」を標榜
し、正統なる継承者・大友皇子を「金」と決めつけ、火克金の理を以て政権簒奪を正
当化した、叔父甥の家庭内暴力であった。中国で謂う「易姓革命」は、まぁ父系の血
統、「姓」を以て一集団とする前提をもつが、多分、当時の日本は母系の影響が強か
っただろうから、本来としての「易姓革命」は存在し難い。大海人と大友も、同じ父
系に連なるから、其の意味では、「易姓革命」ではない。が、「革命」ではある。し
かも、日本に於いて、「姓」は天皇が認知するものだ。源平藤橘……これらは「姓」
であるが故に、革命論の影響下に置かれる。が、国史上、多分、一度も姓を名乗らな
かった一族がある。そう、あの一族だ。あの一族だけが、革命論から超然たり得る。
それだけのことだ。馬琴は、八犬伝の後半で、姓は勝手に名乗るものでなく、朝廷に
認可されねばならないと何度も表記、実際、八犬士の姓も天皇の認可を受ける。八犬
伝世界に於いても、姓に就いての許認可権を有する天皇は、「姓」の呪縛から唯一、
自由であると言える。
 「祟」とは多分、恨む側ではなく、恨まれる(と自ら思っている)側の、心の弱さ
で成長する。五行は循環する。其処には永遠の勝者は存在しない。大海人が用いた簒
奪の論理は、大海人その人へも向けられ得る論理であったのだ。彼は悪夢のうちに泣
き喚き、悶絶して死んだに違いない。
 妻の持統は、そんな夫の天武を如何に見ていただろう。天智の娘である彼女は、叔
父たる夫と兄が殺し合うのを見つめていた。彼女の願いは、五行の呪縛からの逃避で
はなかったか。「天皇」、この称号には、彼女の、そんな願いが込められているよう
な気がしてならない。同時に、天武が祟りの恐怖で上げた悲鳴すら、籠もっていよう。
此処に於いて、日本の君主は、五行の革命論を超越することに成功した。
 が、天武を以て始まる王朝は、「火」の記憶を或る文字列に託した。壬申の乱の最
中、火気たる大海人がアサケの郡に於いて遙拝した天照太神が最高の神格を獲得した
のも、天武・持統の時代であったかもしれない。過去の神話は窺うべくもない。この
とき、天照を最高神とする、新たな神話が始まったことを微かに推測し得るのみだ。
 火気は太陽とも言い換えられる。真っ赤な太陽は、天武から続く王朝の象徴であり、
簒奪によって流された血の記憶を呼び覚ますだろう。「日本」、旧唐書に於いて初見
する此の二文字は、天武・持統の孫、文武が中国に対して使用を願い出た国号である。
国号の使用を受け入れた者は則天武后、中国史上最低の淫婦、最悪の政治混乱を招い
たと云われる女性だ。何となく、イーカゲンに許可されたような気がしないでもない
んだけど、まぁ、良い。
 原始、女性は太陽であった、のかもしれない。太陽と女性は相性が良いようだ。古
事記の記述では天照太神が男性である可能性も否定できないのだが、日本書紀では明
らかに女性として扱われている。が、日本書紀に於いて、女神を「陰神」と表記して
いる如く、女性は「陰」であった。「(太)陽」ではない。陰なる天照太神が太陽神
なのだ。この矛盾、いったい何を意味しているのか。……行数も尽きた。それでは、
またの機会、「黒き衣の神」まで、ごきげんよう。
(お粗末様)



#1124/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   5:54  (199)
読本八犬伝・番外編「黒き衣の神」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 黒き衣の神」
                 〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ2〜

 大黒さんを御存知だろうか。槌を持ち、怪しげな袋を背負い、ニタニタと不気味に
笑う、彼だ。槌は打出の小槌と呼ばれる呪具であり、振れば何でも欲しい物が手に入
る。和製サンタクロースと言えなくもないが、彼が来るのはクリスマスではなく、正
月だ。正月二日の夜、彼は槌を握りしめ、ニタニタと枕元に忍び寄る。とは言え、訪
れるのは彼だけでなく、六人の仲間と一緒だ。うち一人だけが女性(別嬪)で、武将
が一人、他は爺ばかりだ。武将や爺に夜這いを懸けられても嬉しくないので、もし私
の枕元に来ても、弁天様だけ置いて、帰って貰う積もりだ。
 彼らに会いたければ、彼らを描いた一枚刷りを枕元に忍ばせておくと良い。私は寝
相が悪いので試したことはないが、効果は覿面だという。一枚刷りは、何処に売って
るかって? さて……季節になれば新聞のチラシに入っているが、馬琴の時代には、
神田明神の辺り、まさに彼の近所だが、嬬恋稲荷なる小社がある。其処で売っていた
らしい。現在、ラブ・ホテルが軒を連ねている地区だ。人目を憚りつつも欲望を露わ
にした男女が行き交う街に在る神社、なかなか微笑ましい光景だ。閑話休題。

 大黒さんである。好々爺みたいな顔をしているが、こういう奴ほど、キレると恐い。
何処を見ているか判らぬ程に細めた目、何を考えているか解ったもんじゃない。
 実は、彼ほど凶悪な神は他に類例を見ない。犠牲者の肉体から噴き出す血潮は彼に
とっての美酒、叫喚は妙なる音楽として彼の耳には心地よい。彼は、あのニタニタ顔
で、破壊と殺戮を繰り広げ、倦むことがない。だいたい、あの袋、怪しすぎる。何が
入っているか、御存知だろうか。勿論、見た者はいない。猛悪なる彼が、袋の中を覗
き見た者を、無事におく筈がないではないか。覗き見た者は彼の槌によって頭蓋骨を
粉砕され、死人に口なし、語ることが出来なくなる。が、話は伝わっている。見た者
がないのに、何故、話が伝わっているかって? オホン、男は細かいことを気にしな
いものだ。噂では、袋の中には、生皮を剥がれた血塗れの兎が入っていたらしい。し
かも兎は生きていた。皮を剥がれた兎が、血みどろとなって弱々しく四肢を震わせて
いたという。おぉ、恐ろしい……、神よ、救いたまへ。

 「赤き衣の男」ではサスペンスを目指したが、今回はホラー路線に挑戦してみた。
感想は不要だ。失敗したことは自分で解っている。あだしごとはさておきつ。大黒天
は別名、摩訶迦羅(マハーカーラ)、世界を破壊する黒き神である。が、これは仮の
姿、正体は印度古代で最も重要な神の一柱であった、破壊神・シヴァだ。シヴァなぞ
と云うと、何やら我が国の文物とは無関係に聞こえるが、何のことはない、彼はチャ
ッカリ日本文化にも入り込んでいる。日本での彼の名は、大自在天、有名な仏教守護
神だ。また、大自在天は、天照太神の本地仏(仏教理念空間に於ける本体)大日如来
の因位(前身)、普賢菩薩と一如であるとされている。翻ってシヴァは破壊神とされ
るが、起源を、より古いルドラ神にもつ。ルドラ神はモンスーンの神格化であり、太
陽神ヴィシュヌと対になって信仰されていたらしい。かかるが故に湿婆(シヴァ)も
暴風雨/モンスーンの神であり、荒神であった。彼の猛悪なる暴力的側面を摩訶迦羅、
大黒と呼ぶのだ。ところで大黒は、真言密教に於いて胎蔵界曼陀羅外金剛部院を主宰
しており、其処に属する白晨狐菩薩(ビャクシンコボサツ)は、女性形で描かれたり
する。彼女を「(白)狐」と呼ぶのはダテではない。別名・陀吉尼(ダキニ)、八犬
伝に於いては変態管領・細川政元が耽溺した外道の本尊だ。政木狐とも無関係ではな
かろう。所謂、お稲荷さん、である。そしてまた、彼女は「白」ではあるけれども、
日本の民俗では、赤い鳥居の神社に祀られる。この赤色は、火炎を象徴すると云われ
てもいるが、火克金の理により、夜叉と比肩し得るほど凶悪な彼女を封じ込めている
のかもしれない。閑話休題。
 近世、人々の崇敬を集める一方、恐怖の対象でもあった狐なる彼女の黒幕こそ、大
黒であるのだ。ところで大黒/大自在天には、別嬪の奥さんパールヴァーティーがい
る。其の偶像は、だいたい、引き締まった肢体、長い脚、そして何より巨乳のナイス
・バディなんである。うひょぉ! 巨乳で思い出したが、大己貴なる神が坐す。馬琴
の御近所さん、神田明神の主祭神だったりするが、此の点に就いては後述するけど、
まぁ、兎に角、大己貴なる神が坐す。オホムナチである。「大」は其の儘に、ムナチ
を「胸乳」と解せば、「大胸乳」、巨乳となる。わぁい、巨乳巨乳ぅ。……勿論、冗
談だ。
 大己貴は記紀神話にも登場する偉大なる神である。が、ちょっと情けない所もある。
彼は苛められっ子だったのだ。多くの兄たちは寄って集って彼を慰み者とした。弄ん
だのである。何たって彼は、水も滴る美少年だったのだ。
 大己貴、兄たちに苛められ、何度も殺されかけた、といぅか、本当に殺されたこと
もある。兄たちは、石で猪を象り、其れを真っ赤になるまで焼いて、大己貴に向かっ
て転げ落とした。兄たちから、「猪を捕らえろ」と命じられていた大己貴は、真っ赤
に焼けた石に抱きついた。……馬と鹿の区別もつかぬ者を「バカ」と呼ぶが、彼は石
と猪の区別もつかなかったのだ。彼は死んだ。と、二人の美少女「キサ貝比売」と
「蛤貝比売」が現れ彼の全身に、即ち二人の美少女は美少年を全裸に剥いたわけだが、
美少年の母、多分は美女だった女性から乳汁を揉み出し美少年に塗りたくった。「貝」
は女性器の隠語でもあるが、其れはさて措き、二人の美少女は死した美少年を全裸に
剥いて、「乳汁」を塗りたくった。サロメなんかメぢゃない。劇しく淫靡な光景だ。
ヌラヌラと淫らに輝く全裸の美少年……が、いきなり起き上がった。生き返っちゃっ
たのである。生き返って、また何処かに「遊」びに行っちゃうのだ。
 或る日、大己貴は重たい袋を背負って浜路をトボトボ歩いていた。苛められっ子・
大己貴は、兄たちのパシリだから、荷物を強引に持たされていたわけだ。兄たちから
随分と遅れて独り歩いていた大己貴の前で、真っ赤な兎が泣いていた。……兎って、
如何に鳴くんだっけ、まぁ良い、兎に角、真っ赤な兎が真っ赤な目をして泣いていた。
此の真っ赤な兎、自ら言うことには、白兎であった。鰐(鮫?)を騙したために生皮
を剥がれたのだ。即ち、自業自得、同情の余地はない。放っておけば良いのだ。が、
大己貴は同情した。底抜けに馬鹿な奴だ。兎に構って時間を無駄にすれば、苛めっ子
の兄たちに如何に酷い事をされるか解ったものではないではないか。それとも、この
美少年、兄たちに苛められ虐げられ弄ばれ慰み者にされたがっていたのか。マゾ美少
年である。マゾ美少年は兎に、蒲の穂綿にくるまれば治ると、教えてやった。兎は治
癒した。
 このように、彼は数々の苦難を乗り越え、そして何時の間にやら残虐な男に変じた。
劣等感や艱難が人を成長させるなどということは、稀にしかない。よほど自らを強く
律せねば、卑劣なことをしても自ら許す脆弱な人間性に結果する。過去の苦難が、現
在の彼を正当化しちゃうのだ。彼は後に、自分を苛め抜いた兄たちを滅ぼし、王者と
して君臨する。が、彼は国土を、いとも簡単に他人へ譲渡する。
 大己貴、またの名を大国主、彼こそ大黒、古代印度の暴風雨神にして、仏教守護神
たる大黒に習合された神である。そして大黒は、其の名の通り、黒い。其の偶像は印
度に於いて、保食神として食堂に飾られた。そして油を以て磨かれたため黒くなった
とも云うが、密教寺院の食堂にも飾られたようだ。
 大国主が大黒と習合された理由として、ときに「大国」を「ダイコク」と読み得る
からとか云われる。それも真実の一側面であろう。が、何やら強引というか、取って
付けた印象は否めない。勿論、取って付けたモノでも、信じた者がいれば、それはソ
レで真実になるのだろうけども、より説得力のある論理をこそ採用したい。結論を云
えば、其れは、大国主が素戔鳴尊の子孫であるからだ。
 神代紀に拠れば、素戔鳴尊の両親はイザナギ・イザナミで、天照太神(太陽神)、
月読尊(月神)、蛭児に続いて生まれたことになっている。素戔鳴尊は良い歳になっ
ても、ワンワン泣いてばかりいた。乳幼児なら泣いて可愛くもあろうが、髭面マッチ
ョが泣いたとて五月蠅いだけだ。しかも名だたる暴神であるから、泣いてもタダでは
済まない。彼が泣くことによって、人民がバタバタ死んでしまった。怒ったイザナギ
は、素戔鳴尊を「根国」に追放した。「根国」が何処にあるか比定は難しい。とにか
く、死者/亡者の国のようだ。イザナギは根国に行って、走って帰ってきた経験があ
る。よって根国はイザナギの住む世界と<地続き>だったことが分かる。
 此処までの話で明らかになった事は、素戔鳴尊が多分、暴風雨を象徴していること
だ。それは、彼が髭面になっても、泣き続けたことから窺える。涙が雨、叫喚が風で
あろう。素戔鳴尊の「スサ」は、やはり「荒(スサ)む」の「スサ」だろう。暴威を
振るう、雨と風、これが彼の正体だ。このことは、彼の出自が日本を創造した神・イ
ザナギの系譜であり、しかも太陽と月を姉兄(/姉?)とする、最高の格を以て描か
れている点から補強し得る。

 日本人に限らず、人にとって、水は大切なものだ。飲み水だけではない。特に日本
の如く水稲農業を長らく主要産業としてきた者にとっては、干魃は命取りだ。雨が降
るか否かは、重大な関心事であった。水に纏わる神々は本来、太陽神と同じように、
高い尊格を与えられたであろう。古代印度で、太陽神ヴィシュヌとモンスーン神ルド
ラが共に最高の神格を与えられていたように。
 暴風雨神・素戔鳴尊の乱暴によって、天照太神は天磐戸の裡に隠れた。太陽を隠す
とは、暴風雨の一面である。が、太陽神を陵辱するほどに強力な素戔鳴尊も、天神の
群に捕らえられた。脱毛され、天界を追放された。天界を追放された素戔鳴尊が何処
に行ったかと言えば、出雲国であった。……確か素戔鳴尊、根国に追放されたんじゃ
ないかと思うのだけれども、別段、イザナギは怒っていないみたいだし、これで良い
のかもしれない。素戔鳴尊は、八岐大蛇を退治して一人の少女を救う。此の事件を転
機に、素戔鳴尊のキャラクターは大幅に変わる。救った少女と結婚するんだけど、初
夜、歌を読んだりする。彼は日本で初めて歌を詠んだ男となるのだ。あの、荒ぶる神
が、である。後に彼は子孫の大国主に色々と課題をだし成長させる、智恵ある神とし
て現れる。あ、そぉそぉ、八岐大蛇を殺しズタズタに切り刻んだ素戔鳴尊は、尻尾か
ら(蛇って何処から尻尾なんかな)一本の剣を見つけた。「天叢雲剣」、これが後に
「草薙剣」と呼ばれる神器である。
 暴風雨である故に太陽を隠した素戔鳴尊を、水神だと私は解釈している。ソレとい
うのも、神代紀一書に拠れば、イザナギは三人の子供に役割分担を命じた。天照と月
読には天界を治めさせた。そして、素戔鳴尊には、海を支配するよう命じたのだ。暴
風雨を司り、そして海を支配する。ならば、両者の共通項こそ、素戔鳴尊の本質であ
ろう。だから、水だ。素戔鳴尊は水神であるによって、互いに異なるモノでも、水に
関わるが故に暴風雨と海、双方を管轄し得るのだ。また、水気の神と断定できれば、
五行説を導入できる。太陽とは即ち火気である。ならば、水克火の理によって、素戔
鳴尊が天照を克することも、納得がいく。暴風雨と限定しなくとも、いや元来は水気
なんて抽象的な概念ではなく、もっと分かり易い脅威、暴風雨を出自としていたんだ
ろうけども、何時の間にやら水神という、より普遍的な存在に昇格したのだ。それは
例えば、五行説の移入によって可能になる、概念の成長でもある。
 「赤き衣の男」に於いて、火気を象徴する動物が「朱雀」だと言った。では、水気
を象徴する動物が何かと言えば、「玄武」である。「玄」は「黒」だ。黒は水気の色
である。玄武は、とても奇妙な形の生物だ。いや、表現は簡単に出来る。亀に蛇が巻
き付いている形なのだ。どうやら蛇は、北方/水気に関わる動物と考えられていたよ
うだ。そしてまた、火気を標榜した天武に祟る以上、草薙剣/天叢雲剣は水気の剣で
なければならない。また、大国主は、この暴風雨神もしくは水神・素戔鳴尊、黒き衣
の神の末裔である故に、「大黒」と習合された可能性もある。水気は黒に象徴される。
 水気を象徴する神・素戔鳴尊が、水気を象徴する蛇を倒し、水気を象徴する剣を取
り出した。これは、何を意味しているのか? 最も単純な解答、得てして解答は単純
な方が正解だが、最も単純な解答は、水が制御し得るようになったこと、元来は暴風
雨として認識され故に氾濫として人々を苦しめていた自然の脅威が制御され、自然の
恵みへと変換した瞬間を語っているのだ。八岐大蛇をズタズタに切り刻む素戔鳴尊の
姿は、灌漑工事を暗示してもいようか。通りすがりの暴れん坊・素戔鳴尊は、自らを
制御する神となったのだ。剣という呪具となって。では、何のために素戔鳴尊は灌漑
を行ったか。農耕の為だ。何を植えたのか。稲だ。彼は八岐大蛇を倒し救った少女の
名は、「奇稲田姫(クシイナダヒメ)」であった。灌漑の成果が、稲だった。それだ
けのことだ。暴風雨は暴風雨だから暴風雨に過ぎないが、水気の神ともなれば、ちょ
っとワケが違う。水気は、五常のうち「智」を表現する。水気の神となった素戔鳴尊
は、それまでの暴れん坊とは別人の様になる。風雅に歌を詠み、そして賢者として、
子孫の大国主を導いたりする。ヤンチャな面影は、それは暴風雨神として当然の資質
であったはずだが、消えている。
 素戔鳴尊の暴力は、八岐大蛇退治を以て、発現しなくなる。これは、言い換えれば、
天叢雲剣の出現によって、素戔鳴尊の暴力性が消滅していることでもある。あったA
がなくなり、なかったBが現れた。ならば、AがBに変換されたと見るべきだろう。
天叢雲剣は、素戔鳴尊の力そのものということになる。

 水気の剣・天叢雲剣を獲得した素戔鳴尊は直後に、天照太神へ天叢雲剣を奉ったと
もいう。即ち、天照が、嘗ては素戔鳴尊のために一旦は滅ぼされた天照太神が、まさ
に素戔鳴尊の力を手に入れるのだ。暴風雨/水は太陰である。天照は太陽である。太
陽が、太陰の力を手に入れたのだ。このことは、太陽が、単なる火気の象徴から、五
行すべてを主宰する存在へと、昇格したことを意味している。日が、陽も陰も含んで
しまうのだ。中華帝国の天子でさえ成し得なかった、革命論の超克が可能となる発想
だ。陰にして陽、陽にして陰、表面上は照り輝く火気、しかし根底に暗く冷たい水を
湛える深淵を内包することこそ、唯一の逃げ道だった。
 また、旧唐書の「日本国者倭国之別種也以其国在日辺故以日本為名……云日本旧小
国併倭国之地」なる表記から、「小国」/「日本」が、「倭」を併合したことが分か
る。勿論、「倭」は国土もしくは領域を指すと同時に其の政権をも表し得る。そして、
天智までは中国と国交があったのだから、天智から継承した大友皇子の近江朝は、ま
さしく「倭」と名乗るに相応しい。一方、此の「日本/小国」こそ、天照太神を信奉
した、火気たる烏合の衆/賊軍、大海人が率いた吉野勢力であった、かもしれない。
天武・持統朝は、如何やら中国と絶交していたようだから、当時の状況を直接に窺う
ことは出来ない。が、旧唐書の記述は、二人の孫・文武の時に中国へ派遣された使者
が語ったものだ。時代は、さほど隔たっていない。しかも、旧唐書以前の極東地誌に
は、日本のニの字も出てこない。各種の情況証拠が、大海人皇子と「日本」の関係を
仄めかせている。
 二回に亘って記紀を取り上げた。書いていることは、さほど新鮮味がなかろう。記
紀を一読でもすれば、自然と発想できるほどの安易な話だ。既に近世の日本書紀研究
は、かなり高度な次元に達している。伴信友なんて、日本書紀の記述から大友皇子を
天皇であったと推定している。「赤き衣の男」で述べたように、私は日本書紀に於け
る「天皇」は「君主」なる意味ではなく、飽くまで<天武朝が認定した限りでの君主>
と考えているから、伴の考えには同意できないのだけれども、方向は同じである。ま
た、伴より以前、水戸史学でも、大友皇子を天皇として扱っていた。私も大友皇子の
方が正統なる皇位継承者だと思うので、其の意味では「天皇」だと考えて差し支えな
いと思っている。現在の皇統譜なんぞより近世史学の方が、合理的に記紀を読解して
いたのだ。馬琴は、まさに、そのような合理的な史学の雰囲気の中で、稗史を書き連
ねていた。そう、問題は、馬琴だ。八犬伝の話をしている筈なのに、何故に二度も記
紀の話題を持ち出したか。その理由は……、楽しいからだ。楽しかったので、次の機
会にも、記紀を取り上げさせていただく。ある英雄に纏わる話題「番外編 吾嬬者耶」
である。
(お粗末様)



#1125/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   5:56  (199)
読本八犬伝・番外編「吾嬬者耶」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 吾嬬者耶」
                 〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ3〜

 神田明神下に住んでいた馬琴の近所に、今やラブ・ホテルが軒を連ねる界隈がある。
男坂、って呼ばれている辺り、嬬恋稲荷なる小社が坐(イマ)す。「黒き衣の神」で
紹介した、宝船に乗った七福神の一枚刷りを特権的に販売していた神社だ。「関東惣
社」を名乗っていた時期もあったらしい。見かけに依らず、社格は立派なようだ。神
様の近所にラブ・ホテルをおっ勃てるとは不謹慎極まりない、と思うのが常識だけれ
ども、此の神様に限っては、狂おしく愛し合う男女を、きっと暖かく見守っているに
違いない。
          ●
 「吾嬬者耶(アヅマハヤ)」。愛する者を失った悲しみは、如何ばかりだろう。愛
ゆえに、まさに自らの為に最愛の者を喪った哀しみは、この上なく深く劇しい。激情
は、言葉となって迸る。「吾嬬者耶」、日本書紀に記す此の四文字は、そんな男の絶
句だ。
 「吾嬬者耶」、この絶句に拠って、東国を「アヅマノクニ」と呼ぶようになった、
と日本書紀は云っている。眉唾ではあるが、「東都」に住む馬琴にとって、馴染み深
い説話ではあったろう。そう、景行紀、馬琴が何の脈絡もなく殆ど強引に「安房」の
説明中で使った、「淡水門」なる表記の典拠を、今回は取り上げる。「あわあわアワ
ー」にも引いた、日本武尊に纏わるエピソードだ。

 日本武尊、水も滴る美い男である。女装が似合った。西征、九州の熊襲族を征服し
に行ったときは、女装して宴会に潜り込み、弄ばれた経験もある。女装の美少年が熊
の如き男どもに陵辱される図だ。征服に行った方が蹂躙され征服されたんだから、世
話はない。が、其処に油断が生じた。勇将ホロフェルネスは、別嬪後家さんユーディ
ットにたらし込まれ、寝首を掻かれた。日本武尊も、熊襲族長の寝首を掻いた。古事
記では族長兄弟二人にサンドイッチされ……、まぁ、二人が寝込んだ所を見計らって
殺害する。弟の方は、「尻」に「剣」をぶち込まれて殺された。階段を登って逃げよ
うとする相手に追い縋って刺し殺したんだから、まったく納得できないワケでもない
のだが、武尊は相手の背中を掴んで階段に押し付けた。だったら、背中を刺す方が良
かろう。まぁ、殺し方としては変だが、<自分がされたことの復讐>と解すれば、納
得できなくもない。……と、何やら欲求不満ゆえの妄想に聞こえるだろうが、全く故
無き言いがかりではない。当時の辺境異民族、王化(マツロ)わぬ者どもに対する蛮
族観は、性的放埒、であった。親だろうが子だろうが、とにかく穴さえあれば入れち
ゃう。それが朝廷に従わぬ<蛮族>の姿であった。
 ただし、景行が罵った相手は、熊襲ではなく蝦夷であった。東国の異民族である。
西征を達成し既に二十代後半となっていた武尊は、東征を命じられた。物見遊山に行
けというのではない。命を懸けた<対外戦争>なのだ。生きて帰れる保証はない。武
尊は、自分は既に西征を果たしたのだから兄皇子こそ東征を務めねばならないと考え
た。が、父・景行天皇は、武尊に大命を下した。古事記では武尊に、「親父は俺に死
ねって云うのかよ」とか泣き言を吐かせているが、日本書紀には、そんな女々しい描
写がない。君命ならば是非もない、居並ぶ群臣の前に進み出た武尊は、猛々しく戦勝
の誓いを叫ぶのだ。心に遣る方ない不満と憤懣を秘めつつ、武人である以上、敵に背
を向けることは出来ない。彼は「武尊」なのだ。憎々しげに吐き出された異民族への
呪詛は、その実、眼前の父・景行に向けられていたのかもしれない。女々しい泣き言
を武尊に吐かせる古事記の描写より、屈折の度合いといい抑制の利いた筆致といい、
日本書紀の方が文学として数段上だ。さすが「正史」である。閑話休題。
 蝦夷東征に出発した日本武尊は、伊勢神宮に立ち寄る。伊勢神宮は、天照太神を祀
った神社だ。この時には叔母・倭姫命が斎宮として神宮を取り仕切っていた。斎宮は、
簡単に云えば国家最高の巫女であり、未婚の内親王(天皇の女子)が任ぜられた。倭
姫命は斎宮としては二代目だが、天照太神を祀る場所を伊勢に定めた人物であり、伊
勢斎宮としては初代と云って良い。この国史上重要な女性は、彼に、とんでもないも
のを渡した。何時から此処に置かれていたのか判然としないが、伊勢神宮には、天叢
雲剣が安置されていたのだ。この剣を、彼女は彼に与えた。別に良いじゃん、剣の一
本や二本、と云う勿れ。いや、私自身は如何でも良いと思うけれども、此の剣は、タ
ダの剣ではない。皇位の証、国家支配を正当化する、三種神器の一である。それを、
皇子とはいえ、天皇でもなければ皇太子ですらない武尊に、生きて帰る保証のない遠
征軍の司令官に、与えちゃうのだ。最悪の場合、剣は蝦夷の手に落ちるかもしれない。
そうなれば国家支配の正統性を主張できなくなるかもしれないというのに、である。
 此処で読者は、或る事を思い出しているだろう。そう、八犬伝のクライマックス、
里見家と関東管領軍の戦いに於いて、防御使たる八犬士に、一振ずつ刀が与えられた
ことを。これは、統帥権を総攬する里見義成が、指揮権を犬士に分与した事を意味し
ている。……少なくとも表面上は、そうだ。義成と犬士は、妙に、この刀に拘る。犬
士は義成の父・義実、大御所の外孫であり、既に城主格を以て里見家に迎えられてい
た。それだけの権限を認められていた筈だ。だいたい、長大な物語を読まされ、犬士
の特権的地位を自然と認めさせられている読者は、犬士が兵卒や中間管理職として、
走狗の如く使われるとは思っていない。指揮刀の件は書かずもがな、不要な条だ。が、
馬琴は書いた。
 日本書紀に於いて、指揮権は「斧鉞」に依って象徴されていたりする。先述、武尊
が景行から東征を命じられた時も、儀式に使われたのは斧鉞である。時代が下って日
本書紀の原型が成立したと目される天武期、まさに壬申の乱でも、将軍任命の儀式に
は斧鉞が使われている。が、日本武尊が剣を、「日本」に於いて最も強力な剣を、天
皇ではなく、天皇の存在を超越し同時に正当化する天照太神から(斎宮/巫女を通じ
て)与えられた事は、此の遠征の重大さを伝えているのだろう……か。多分、そうだ
ろう、少なくとも、表面上は。
 日本書紀に拠れば、伊勢から東に向かった武尊は、駿河で危難に遭遇した。地元の
豪族が、武尊を亡き者にしようとしたのだ。野遊びに連れ出し、武尊を一人にしてお
いて、周囲から火を放った。迫り来る火炎、武尊は剣を抜いて辺りの草を薙ぎ払った。
燃える物がなくなれば、火は迫ってこない。武尊は、助かった。この故事により、天
叢雲剣は、「草薙剣」と呼ばれるようになった、という。が、こんな話を鵜呑みにす
る人はいないだろう。勿体ぶって登場しといて、草を薙いだだと? そんなもん、ナ
マクラでも出来る。天照太神を凌ぐ力を秘めた暴風雨神・素戔鳴尊が、強大かつ凶悪
な暴風雨神・八岐大蛇を退治して得た「神(アヤ)」しき剣、「天叢雲剣」を鎌の代
わりに使っただと? 巫山戯るんぢゃねぇぞ、日本書紀。
 日本書紀は、<ゴールの決まった物語>だ。天武・持統朝の正当性もしくは正統性
を証明すべく捏造された物語、いや、全部が全部ってんじゃなくって、捏造された箇
所も多々あろうと感じられるのだが、これも、その一つではないか。
 抑も日本武尊は一個の実在した人物でないかもしれない。だいたい、日本武尊の九
州・出雲侵略物語は、なかなかリアルで、まぁありそうな筋立てになっている。が、
蝦夷東征の話は、海神は登場するわ、山神は鹿や蛇になって出現するわ、挙げ句の果
てに武尊が白鳥になっちゃうのだ。ハッキリ言って、伝説とも言えない。神話である。
神話だったら神話らしく、派手にしてもらいたいものだ。どうせ、嘘なんだから。な
のに、わざわざ神剣を持ち出しといて、ありそうではあるがそれだけに卑小な話に擦
り換えるってのは、納得し難い。事実、元になる事実があったと仮定しての話だが、
事実としては草を薙いだだけでも、折角の神剣・「天叢雲剣」、抜けば雲が立ち上る
剣を引っぱり出したのだから、嘘でもドピュピュと水が迸ったと語ってこそ、神話の
面目である。
 日本書紀(の原型)作製事業を夫・天武から引き継いだ持統に、話題を振ろう。
「草薙剣」に祟られて天武が死んだ直後、彼女は天武の子の一人、しかし彼女の子で
はない大津皇子へのテロを強行した。まぁ、一応、「謀反」の張本人として処罰され
たことにはなっている。このとき大津は筋骨逞しく才覚ある二十四歳、皇太子で持統
の息子・草壁皇子(三十前で若死)よりも、帝王としての資質に恵まれていたやに思
われる。自分の息子よりも出来の良い、同年輩の偉丈夫・大津を、持統はジトォと陰
湿な目で眺めていたに違いない。大津は謀反の疑いにより、捕らえられ「賜死」、殺
された。この時、妃の皇女山辺は、髪を振り乱し裸足のままで夫・大津のもとに駆け
ていき、殉死した。御用史書・日本書紀でさえ、皇女山辺に対する同情を隠していな
い。そして、大津と共に逮捕された三十余人は、一人が伊豆に流され、一人の僧が飛
騨の寺に転勤になったのみ、他は放免された。謀反事件であるにも拘わらず、である。
此の「謀反」は大津の心に巡らされたものではない。如何やら、持統の心の裡にのみ
存在した「謀反」事件であったようだ。彼女にとって、彼女の心の裡に浮かぶ景色こ
そ、現実であった。きっと美女だったとは思うけれども、こういう女性は付き合いに
くい。
 事件が終息して二カ月、年が明けた。持統元年である。日本書紀は、持統の時代が
始まる直前に、次の記事を挿入している。「是歳(朱鳥元年)蛇犬相交俄而倶死」。
持統時代の幕開けを予告する記事が、「蛇が犬とセックスした。共に死んだ」なので
ある。
 性交の至福は、結果としての<小さな死>である。共に相果てる死福、じゃなかっ
た、至福。「わぅん、わぅん、蛇さん、蛇さん、アタシ、もぉ……、し、死ぬ、死ぬ
ぅっ」「犬さん、犬さん、はぁはぁ、ぼ、ボクも、逝くうっ」「蛇さん蛇さん」「犬
さん犬さん」……ドッグ・スタイルの犬さんとニョロニョロ蛇さんの交歓、微笑まし
い情景だが、彼らの絶頂/小さな死を、事実として、日本書紀は語っているのであろ
うか。……多分、違う。本人(?)らにとっては、かけがえのない事柄だが、国史の
冒頭に記すべきことではあるまい。字面通りではなく、何かを象徴していると考えた
方が良さそうだ。
 さて、動物を五気に配することは難しく、諸説あるのだけれども、差し当たって此
処では、犬を金気、蛇を水気と考える。礼記月令に拠れば、秋の七八九月、天子は犬
を食うことになっていた。秋は金気の季節である。月令のスケジュール表は、天子の
規則正しい生活により、四季の推移を円滑ならしめるためのものである。特に食事は、
自然との<一体化>という重要な意味がある。故に、天子が金気の季節に犬肉を食う
とは、犬が金気の動物であることを示していよう。蛇が水気であることは「黒き衣の
神」でも述べた。付け足すとすれば、八犬伝に於いて、蛇の眷属・蜥蜴が登場し、雨
を降らせる呪術に用いられていたりする。また、やはり蛇の親玉・龍、安房へ逃げ出
す義実の前に現れた白龍が登場すると同時に、集中豪雨となった。龍の出現に雨/水
は付き物なのだ。更にまた、各地のの民話に大蛇が沼や渕の主として多く登場する。
八犬伝でも昔話として、沼の辺で義実の父・季基が大蛇を退治した話が語られている。
蛇は、やはり、水っぽい生き物のようだ。このように考えてみると、蛇と犬とのセッ
クスは、水気と金気の合体であることに思い当たる。いや、合体するだけではない。
合体して、共に死ぬのだ。
 合体するのみならず、彼らは死ななければならなかった。共に葬り去られねばなら
なかったのだ。執拗なまでに私は、天武・持統朝が火気の王朝であると述べてきた。
いや、別に固執しているワケでもないのだけれども、そのように感じられるのだ。そ
して、火気なる王朝を主宰する持統が恐れたのは水気であり、金気なる大友の怨念で
はなかったか。天武の子でありながら、大津皇子は子供の頃、天智に寵愛されたと日
本書紀には書いている。本当だか如何だか分からないが、兎に角、天智を引く近江王
朝と敵対した持統にとって、大津を憎む理由にはなる。そして、話が前後するけれど
も、抑も大海人/天武が皇位継承権を放棄した事情が尾を引いているかもしれない。
大海人は、死の床にあった天智に呼ばれ、皇位を継ぐよう命じられた。が、断って出
家、吉野へ下った。天智紀を読めば、これは尤もなことではあった。天智は弟の大海
人を皇太子にしていたが、息子の大友が成長すると、どうも出来が良かったようだが、
太政大臣に任じた。太政大臣は、国政を総攬する、天皇の代行者と言える。朝廷を支
える大豪族五が、大友のもとに団結してもいた。簡単に言えば、大海人は即位したと
ころで、馬鹿みたいに蚊帳の外に置かれる体制が整っていたのだ。即ち、天智の構想
では、大友が実質的な皇太子であり、大海人が中継ぎに過ぎないことを意味している。
はっきり言えば、大海人は、邪魔者なのだ。
 また、此の様な状況下、目の前で死の床に伏している天智は、大海人にとって、憎
悪の対象でしかなかった。孝徳天皇の皇太子として白雉なる年号を宣言し、献上され
た白雉を喜んだ、金気の王・天智は、大海人にとって、滅ぼすべき相手であった。が、
それ故に、大海人は、相手が自分に対して最悪の行動をとると頑なに信じていたかも
しれない。其の疑惑を決定的にしたのが、友人・蘇我安麻呂の耳打ちであった。天智
に呼ばれた大海人に、この招聘に「裏がある」と仄めかしたのだ。其処で大海人は、
皇位継承を拒否した。多分、大海人は、自分が皇位継承を承知すれば、其の言葉を捉
え、<皇位に野心あり>として、殺されると疑ったのだろう。
 そして、大友を補弼した五人の大豪族に、蘇我赤兄がいる。彼は山辺皇女の祖父に
当たる。彼の娘が天智と結婚して出来た子が、山辺皇女だ。翻って、持統も天智の娘
である。が、彼女は蘇我倉山田石川麻呂の娘と天智との間に生まれた。倉山田石川麻
呂の娘が何故に天智と結婚したかといえば、中臣鎌子、いや女性ではない、藤原摂関
家の遠祖となった男だが、彼の策略によってである。当時、蘇我馬子が権勢を振るっ
ており、其れに嫌気が差した天智/中大兄皇子は鎌子と暗殺を謀った。其処で、有力
豪族であった倉山田に援助して貰おうと、娘との結婚を申し込んだのだ。が、後に倉
山田は中大兄に謀反の疑いをかけられ逃走、妻子と共に縊り死ぬ。また、倉山田の孫
・持統を子供の頃に可愛がってくれただろう取り巻き連中が、多く虐殺された。倉山
田は死後、無罪を認められたという。
 山辺皇女の祖父は、大海人の敵対者、天智・大友皇子を支えた蘇我赤兄であり、持
統の祖父は天智に利用された挙げ句死に追いやられた蘇我倉山田石川麻呂であった。
天智を軸に、山辺と持統は敵対し得る関係にあった。そして、持統は、山辺を死へと
追い詰めた。大津皇子へのテロは、持統にとって、父であり憎悪の対象であった天智
の記憶を拭い去るために、必要な行為であったかもしれない。夫・天武が死に、彼女
は敵対し得る者を、完全に抹殺せねばいられなかったのだろう。
 蛇と犬が腹上死/腹下死した事件は、持統時代の幕開けに不可欠な記事だったのだ。
火気なる王朝を滅ぼし、もしくは敵対する者が、既に消滅したことを宣言せねば、少
なくとも彼女は安心できなかった。

 日本武尊の話題に戻ろう。武尊が草を薙いで助かった伝説、はっきり云えば、神話
の歪曲と考えられる。持統もしくは彼女に連なる者は、火気であると自ら規定した。
自分たちがしがみついている権力の正当性を象徴するモノに、水気なるものが紛れ込
んでいることを、明確には認めたくなかったのだ。が、史書は、完全には<捏造>で
きない。証人がいる間は。だから多分、武尊が草を薙いだだけの説話も、マイナー・
ヴァージョンとして残っていたのだろう。辻褄の合わないモノでも、其れを制式採用
してしまえば、主流となる。天叢雲剣が水気の剣であることを如何にか隠蔽できる。
翻って、此の神話、原型は天叢雲剣が景気良く水を迸らせるものであった可能性だっ
てある。何たって、迫り来る火炎を退けたのだから。
 水を迸らせる剣を持つ美男子……これで西征のときみたいに女装してれば、<水芸
の御姐さん>だ。女装……美男子……水気の剣……、水芸の御姐さんと見まごうばか
りの華やかなる人物が、そういえば、八犬伝にも登場する。言わずと知れた、犬塚信
乃だ。が、まだ、彼に就いて語るべき時ではない。だいたい、予定では今回、「白き
衣の女」に就いて語る積もりだったのだ。しかも、タイトルにもなっている思わせぶ
りな「吾嬬者耶」に就いて、まだ何等語っていなかったりする。ごめんなさい。予定
が狂ったのだ。まぁ、良い。次の機会に回そう。それでは、今回は、此れ迄。
(お粗末様)



#1126/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   5:58  (199)
読本八犬伝・番外編「白き衣の女」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 白き衣の女」
                 〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ4〜

 自分でも執拗だと思うが、記紀の話題である。日本武尊に関して、言い足らない。
今回もネタは彼の東征の話だ。
 草薙剣の神助によって危難を免れた日本武尊は、更に東へと進んだ。相模に至る。
此処から武尊は海路、上総を目指す。注意せねばならぬ事は、この時の上総が後に
「安房」と呼ばれる地域を含んでいることだ。「安房」国成立に関しては、「あわあ
わアワー」で述べた。そして、景行五十三年の記述、景行が息子・日本武尊の足跡を
辿って巡幸したときに立ち寄った場所こそ「淡水門」である。息子の面影を求め歩い
た景行が立ち寄ったのだから、武尊の道程のうちだろう。
 また、紀には、武尊が上総もしくは安房で転戦したとは書いていない。武尊は相模
から何処だか分からぬが房総半島に渡り、そして北上して常陸や東北地方へと向かっ
たのだ。ならば、上陸地から、さほど逡巡せずに北上したと考えるべきだろう。何故
に如此ような道筋を採ったかは、分からない。ただ、一般に、昔は陸路より海路の方
が、効率が良い場合があった。特に武装や食料を持ち運んでいるのだから、担いで歩
くより船に載せた方が楽に決まっている。そして、此の場合、関東は敵地であるから、
下手に彷徨くと危険だ。武尊の一軍が、武蔵に入らず房総半島を目指したのは、戦術
として必要であったからだろう。何はともあれ、武尊は相模から海路、後に「安房」
と呼ばれる地を目指した。
 出発するに当たって、武尊は言わずもがなの悪態を吐いている。「なんだ、こんな
チンケな海、ひとっ飛びだぜ」。チンケだろうとセコかろうと、海は海だ。海には海
神がいる。馬鹿にされて、海神は怒った。が、差し当たっては何もせず、復讐の好機
を窺った。そして、武尊の船が航路半ばに差し掛かったとき、即ち行くにも戻るにも
岸から最大の距離となったときに、いきなり荒れ狂った。逆巻く波に翻弄される武尊
の運命は、風前の灯火であった。
 一人の女性が進み出た。武尊の愛妃、弟橘姫であった。弟橘姫は、怒り狂う海神を
宥めに行こうとしたのだ。行くと言っても、生還は不可能である。人身御供、犠牲に
なったのだ。武尊の心中は如何であったろう。最愛の女性を、誰のせいでもない、自
らの為に、自らの言の咎のために、失ったのだ。これほどの悲劇があろうか。
 しかし、一軍の将たる武尊は、前進せねばならなかった。上総に上陸後、再び房総
半島沿岸を巡って海路、陸奥へと向かった。因みに、このとき武尊は、子供騙しの戦
術を採用している。大きな鏡を船に懸けて出航した。蝦夷たちは、船を遠目に見て、
如何考えたかは知らないが、恐れて武尊に帰順した。伊勢神宮には三種神器の一たる
鏡が安置されている。これは太陽を象徴しているとも言われている。まぁそうでなく
とも、古代東アジアに於いて、鏡は権力の象徴であったらしい。遠目に見える程の鏡
は、それこそ強大な力を象徴しているように感じられただろう。蝦夷が恐れたのも、
無理からぬことだ。古事記は、太陽神の系譜を継ぐ者の証として、武尊は大鏡を掲げ
たとしている。「日高見」で引き返し、常陸を経て甲斐まで戻った。信濃、越両国を
平定していないことに気付いた武尊は、武蔵、上野を転戦した。東から「碓日坂」に
至った。「碓日嶺」に登った武尊は、東南を眺望して「吾嬬者耶」、三度嘆いた。弟
橘姫を偲んだのだ。此処は単なる愁嘆場ではない。無敵であった武尊の転機となる。
武尊は後に敗北を重ね、病に冒され、遂には故郷/都に帰り着くことなく野垂れ死ぬ
のだ。
 武尊は峠を越えて信濃に侵入した。深山で白い鹿と出会った。山の神が武尊を苦し
めようと、近付いたのだ。折しも空腹を覚えた武尊は、昼食を摂る。白鹿を怪しんだ
武尊は、副食にしていた蒜(ニンニク)を弾いた。鹿の目に当たった。鹿は死んだ。
突如として武尊は、方向の感覚を失った。行くことも帰ることもならず、迷った。其
処に白い「狗」が現れた。武尊を導くような素振りを見せた。ついて行くと、美濃国、
山の麓に出た。
 武尊は尾張国に戻り、其処で尾張氏の女・宮簀媛の家に入り、結婚した。久しく逗
留していたが、近江・肝吹山に荒ぶる神がいると聞いて、討伐に向かった。このとき
武尊は、皇統の証・草薙剣を、宮簀媛のもとに置いて出る。山に入ると、道に大蛇が
寝転んでいた。山の神であった。が、武尊は大蛇を山の神本人ではなく、単なる使だ
と侮り、跨いで行き過ぎようとした。一天俄に掻き曇り、「氷」が降りしきった。武
尊は意識を失いかけた。ふらつく足を踏みしめて、漸く麓に出た。泉の清水を飲んで、
やや持ち直した。が、武尊の肉体はこの時、病魔に冒されていた。宮簀媛のもとには
帰らず、伊勢を経て、都に向かった。が、能褒野で死の床に就いた。武尊は父・景行
に、別れの使者を送った。享年三十であった。
 景行は能褒野に陵を築き、武尊を葬った。陵から白鳥が倭(ヤマト/大和)へと飛
び去った。怪しみ墓を暴くと、遺体は消え、着衣だけが遺されていた。人々は白鳥を
追った。白鳥は倭・琴弾原で翼を休めた。陵を築いた。すると白鳥は更に西へと向か
い、河内・旧市邑に停まった。此処にも陵を築いた。白鳥は、もう西へは飛ばなかっ
た。垂直に、天へと昇り、姿を消した。景行四十三年のことであった。
 十年後、景行は亡き息子・武尊の足跡を辿ろうと思い立った。「神人」と景行自ら
が称えた程に、美しく逞しく世を蓋うばかりの気を漲らせた武尊が、最愛の者を喪っ
た哀しみのうちに敗れ病に冒されて萎れ、野に惨めな躯を横たえるに至った道程を、
辿ろうとしたのだ。前述した通り、景行は「淡水門」に至った。浜路を散策する景行
の耳に奇妙な鳥の声が届いた。景行は、鳥の姿を見たく思った。寄せる波へと足を踏
み入れた。「白蛤」を得た。此処を以て、記紀中最大の英雄・武尊に纏わる物語が終
わる。
 武尊の東征物語は、西征物語とは全く異質だ。西征物語は、より単純な構造で、そ
れだけ、事実をより直接に伝えていると思われる。突拍子もない話、例えば武尊の女
装など、俄には信じ難いが、理解不能ではない。しかし、東征は海神やら山神やら白
鳥やら、かなり象徴的な話になっている。象徴とは、婉曲の一種だ。事実をこそ語ら
ねばならぬ者が、女々しく筆を曲げ、何かを隠そうとする表現法だ。日本書紀は、何
かを隠そうとしている。が、婉曲は、結局、事実を伝えてしまう。隠しつつ伝えよう
とする行為、それが婉曲なのだ。歪曲とは違う。

 時として馬琴の眼差しは、優しい。満たされぬ者、望んで得られなかった者へ、深
い共感を感じさせることがある。例えば、八犬伝より少し前に上梓された椿説・弓張
月は、鎮西八郎為朝を主人公にした一大ピカレスク・ロマンだ。若くして日本随一の
弓取りとなった為朝は、しかし初めて参加した戦闘、保元乱で敗軍に与した。父に従
ったのである。捉えられた為朝は、二度と弓が引けぬよう、腕の腱を断ち切られ、絶
海の孤島・八丈島へと流された。其の後、再起し反乱を企てたともいうが、確かな事
は分からない。稲光のように激しく、そして一瞬だけ歴史に身を晒した男、悲運の英
雄である。
 椿説弓張月の筋立ては単純明快だ。生涯の途中で歴史から抹殺された一人の英雄が
再起、行く先々で自由闊達に活躍し、何処へともなく去っていく。フラリと旧主の墓
前に現れ、割腹して果てる。それは、通りすがりの暴れん坊、暴風雨の如き荒ぶる英
雄、しかし史実では若くして自由を奪われた為朝に、再び自由を与えた物語に他なら
ない。志半ばで捕らえられた英雄を、If、せめて空想世界の中で、再び自由に飛翔
させようとする行為であった。レイクイエム、鎮魂歌である。この営為を、江戸人士
が好んだとされる、<判官贔屓>と一括りにして矮小化するは、甚だ容易だが、明ら
かに無意味だ。矮小化を図る矮小な心性の眼差しに向かって、傲然と睨み返すほどの
力強さを、弓張月は持っている。とても魅力的な力強さを。付け加えれば、弓張月が
ダイナミックな印象の鎮魂歌とすれば、八犬伝は静謐なるレクイエムの雰囲気を湛え
ている。
 ……「黒き衣の神」に於いて、大己貴を取り上げた。彼は偉大なる君主であったが、
天孫の脅迫に屈し、全てを失った。が、彼は天孫の恐喝より先に、実は全てを失って
いたかもしれない。彼には嘗て愛した少年がいた。少彦名命(スクナヒコナノミコト)
だ。小さく美しく、彼が愛し、彼を愛した少彦名命は、賢く有能な少年だった。大己
貴の良き相談相手として、共に国家を経営した。少彦名命と共にあったとき、大己貴
は自信に満ち溢れ、国を大いに栄えさせた。其の少彦名命が、或る日、姿を消した。
根国(/冥界)に行ったとも云う。愛する者を失った大己貴の悲しみは、如何ばかり
であったろうか。喪失感に襲われた彼の前に、天孫が現れ国土の譲渡を迫った。少彦
名命を失った大己貴にとって、国土は意味を失っていた。大己貴が悦びを見い出した
のは、国土の所有でもなければ、国を思い通りに動かす権力でもなかった。ただ、少
名命と共に行為することこそが、彼にとっての悦びであった。其の行為の対象として
のみ、国土は意味をもっていたのだ。しかし、今や、少彦名命はいない。国土は、少
彦名命と共に建設した国土は、彼を悲しみの海に沈める、過去の幻影に過ぎなかった。
彼は、抵抗らしい抵抗を見せることなく、天孫に国を譲った。天照太神を唯一陵辱し
得た暴神・素戔鳴尊の正統なる末裔・大己貴が、為す術もなく、全土を譲り渡したの
だ。
 国土の放棄など彼には取るに足らなかったのだろう。少彦名命の失踪こそ、大己貴
最大の喪失であったのだ。抜け殻となった国土なぞ、天孫にでもくれてやれば良い。
そして、彼は根国へと旅立ったとも云う。少彦名命を追っていったのだ。いや、もし
かしたら彼は、失われた愛人を求め、今でも何処かを彷徨い歩いているかもしれない。
疲れ果て、黒衣を纏って……。つくづく馬鹿な奴だ。ちょっと解る気もするけど。
 求めて得られなかった者の想いが、交錯する。ふと思うことがある。馬琴が目指し
た「稗史」は、冷酷なる現実に虐待された者たちの生き様、それは殆ど我が国史の総
体と言っても良かろうが、<書き換えられた歴史>だったかもしれない。満たされぬ
儘に根国に追いやられた者たちを、救済する営みこそ、彼が目指した稗史ではなかっ
たか。閑話休題。

 さて、我らが悲劇の英雄・日本武尊は、上記の如く「白」と関わりが深い。信濃の
山で神が化けた「白鹿」と遭遇、「白狗」に助けられた。死しては「白鳥」と化し、
西方を目指した。飛び立ったときには、故郷である倭に向けて飛んだように書かれて
いるが、実際には通り過ぎて河内まで行っている。河内は倭の西方に当たる。そして
死後十年、武尊の足跡を追った父・景行は、淡水門、安房で「白蛤」を得た。「白」
だらけである。
 まず「白鹿」だが、これは武尊に仇為す者であった。山神が化けたモノだ。即ち、
山神は、武尊に近付くために「白鹿」に化けた。武尊と「白」の親近性が想定できる。
敵に近付くためには、敵に親しい者に化ける方が良い。武尊は蒜によって偶然にも山
神を倒した。八犬伝でも、妖怪・八百比丘尼を相手にした里見家は蒜を用意した。魔
除けになると信じて。蒜は、白い。そして、辛い。仇為す神を首尾良く倒した武尊で
あったが、道に迷ってしまった。山神を倒したにより、周囲の木立が配列を変えて見
せたのかもしれない。其処に「白狗」が現れ、武尊を導いて、無事に麓まで送り届け
た。白き者が助けてくれたのだ。が、色々あって、胆吹山の神の毒気に当てられた。
今度は、大蛇であった。今度は白鹿と違って、悪役らしい格好だ。が、コレも山神の
正体ではない。「至胆吹山々神化大蛇当道」、そう「化」けたのだ。信濃の山で現じ
た白鹿は、多分、武尊に近付くために、武尊と親近性ある姿を纏ったのだろう。なら
ば、今度も、そうかもしれない。武尊は、こう考えた。「是大蛇必荒神之使也既得殺
主神其使者豈足求乎」。神の化けた大蛇を使だと思い込んだ武尊は、殺さなくても良
いと考えた。だから、殺さなかった。即ち、別に殺しても良かった筈なのだ。敵対す
る神の使ならば、即ち、敵対する者だろう。しかし、武尊は大蛇を殺そうとせず、行
き過ぎようとした。これは甚だ納得し難い。敵を、別に降伏してもない帰順の意を示
そうともしない大蛇を、殺さずに行き過ぎようとしたのだ。武尊が、無視も殺さぬ男
であったなら、或いは納得も出来よう。が、彼は、激すれば兄すら折って畳んで裏返
し、放り出す荒くれ男だ。最もスムーズに理解される解答は、武尊は大蛇を殺したく
なかったのだ。武尊は、蛇と親近性があったと考えられる。其の蛇の毒気で、武尊は
病を得る。騙されたのだ。遂に死んで、「白鳥」となった。
 武尊は、金気の男だったのだ。白は金気の色である。因みに蒜のような「辛」さは、
金気の味とされた。五味(酸・苦・甘・辛・塩辛)である。西は金気の方位であり、
彼の霊/白鳥は、故郷の倭を行き過ぎ更に西へと飛んだのも、彼が金気なる者であっ
たからだろう。だからこそ、白狗に助けられ、白鳥となったのだ。また、金生水、水
気の生物、蛇とも親近性があったと思われる。故に、彼は水気の剣・天叢雲剣を与え
られた。水気の剣は彼を、水扶金、救ってくれる頼もしいアイテムなのだ。実際、駿
河で火克金、火によって殺されかけたとき、水克火、天叢雲剣は彼を救ってくれた。
が、彼は剣を妾宅に置いたまま山神たちを討とうとした。水気の助けが得られない敵
だったのだ。一度目の相手は、蒜、金気かもしれない食物によって倒せた。金克木、
相手は木気だったかもしれない。水気の助けは必要なかった。そして胆吹山の神は、
多分、水気の剣では倒せなかったかもしれない。私は、此の神は土気だと考えている。
いや、純然たる日本書紀理解ではない。八犬伝を読む必要から、そう考えているだけ
だ。馬琴なら、そう考えたであろう、と思っているだけの話なのだ。そして、土生金、
一見は親近性があるが、土抑金、抑とは凶、土は武尊にとって凶となるのだ(扶抑に
就いては「虎、トラ、寅」参照)。武尊は、克されぬまでも敗れ苦しみ、そして麓の
泉で「水」を飲んで、やや持ち直した。が、手遅れだった。
 蛇足すれば、金気を象徴される白は、源氏の服色、里見家をも象徴し得る。白狗な
らぬ白龍に導かれるに安房へ向かった里見義実は、山下柵左衛門を攻めるに当たって、
白旗を押し立てて進んだ。しかし、後に、蟇田氏に苦しめられた。蟇田氏は元胆吹山
の賊であり、「蟇」は土気を象徴する生物だ。また、水気の剣を持つ信乃は、蟇六に
抑圧された。此等の点に就いては、後に詳述することになろう。
 そして、最も重要かつ難解な問題は、「白蛤」である。上述の如く、此は明らかに、
武尊と<関係がある>。が、武尊は安房で死んだのではない。紀伊で死んだ。しかも、
紀伊から西へと飛び去った。が、思わせぶりに「白」なんだから、無関係とは思えな
い。武尊、安房/淡、海……そう、弟橘姫だ。武尊は「吾嬬」と呼んだ彼女は、まさ
に安房の沖で死んだ。此の「白蛤」を弟橘姫に比定せずにはいられない。彼女は、金
気なる武尊に愛され、そして彼を愛した彼女は、如何やら金気であったようだ。しか
も、蛤だ。貝は女性器の隠語とされたが、いや、其れは如何でも良いのだけれども、
二枚貝である。二枚貝の殻は、どれでも同じ様に見えるけれども、違う貝の殻は、何
故だかシックリとは合わない。それこそ千差万別、イーカゲンな形はしていないのだ。
この事実を以て、二枚貝を、相思相愛の者達が、ピッタリと抱き合っている状態の隠
喩と解して、何の悪いことやある。
 望まぬ東征に赴き、まず最愛の者を失い、敗北し衰え死んだ武尊。まさに武尊を死
に追いやった景行が、息子が最愛の女性と引き離された場所を望み、其処で「白蛤」
を得た。十年の歳月も流れている。死んだ相手には、如何な悪逆非道な者も、少しは
優しくなれるだろう。景行は、せめて夢想したかったのかもしれない。愛も武人とし
ての名誉も、すべてを剥ぎ取られて死んだ息子が、せめて愛のみは取り戻したことを。
目に浮かんだかもしれない、純白の衣を纏い、まさに現前にある海へ、身を躍らせる
姫を。
 八犬伝中、何度か、「七夕」の日、重大事件が起きる。金碗八郎の割腹、荒芽山に
於ける音音・世四郎の神隠し等だ。七夕、それは、いつもは引き離されている愛する
者同士が、<年に一度会える日>だ。が、此は同時に、<来年の此の日まで別れる日>
でもある。離別と再会、濃厚なるロマティシズム、此は八犬伝でも、重要なモチーフ
となっている。愛する者同士は、再会せねばならない。たとえ、互いに姿を変えてい
ても。「吾嬬者耶」、この武尊の絶叫は馬琴の耳に届いたのだろうか。……お約束通
り、制限行数である。それでは、またの機会「お狸様?」まで、御機嫌よう。
(お粗末様)



#1127/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   6: 0  (200)
八犬伝読本・本編「お狸様?」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「お狸様?」
〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ5〜

 文政元年の序がある蘊蓄集・玄同放言は、馬琴の紀・神話・五行理解を示すモノと
して、興味深い。少しく引こう。
 按ずるに蛭児は日子なり。天慶六年日本紀竟宴の歌に、蛭児をひるの子と詠めり。
毘留能古即日之子也。ひほ音通へり。日子は星なり。星をほしと読まするは後の和訓
にして、当初星をひる子とも、約めてひこともいへるなるべし。かかれば蛭児は星の
神なり。星といふともその員多かり。是を何の星ぞといふに、蛭児は則北極なり。こ
の故にすでに三歳まで脚猶立たず。故乗之於天盤橡樟船而順風といへり。論語陽貨篇、
孔子曰く、子生三年然後免父母之懐。その三歳まで立たざるものは、必●弱不具なる
をいふなり。為政篇に又云う、譬如北辰居其所而衆星共之。註に朱子曰く、北辰北極
天之枢也居其所不動也。げに北極は、人にして足立たざるものの如し。又天磐橡樟船
に乗せて順風放棄といふよしは、易に−−__−−坎を水とし北とす。事文類聚前集
天部、三五暦紀に載せて云う、星水之精也、といへるを攷据とすべし。古事記に、鳥
之石楠船神見えたり。樟も楠も、船に造るに勝へたるものなり。石は木性の堅きをい
ふ。鳥は鷁首をいふなるべし。本草綱目木之一、樟集解、陳蔵器曰く、江東攷船多用
樟木県名豫章因木得名、又楠集解に、●宗●曰く、江南造船、皆用之其木性堅而善居
水、といへり。天磐橡樟船には、樟字を仮借し、鳥之石楠船神には楠字を配当たる、
記者の用心亦思ふべし。かくて日の神を天下の主とす。天子は一人の爵称なり。猶天
従一従大也。皇は君なり。その徳、天つ日の如し。よりて皇子及皇臣、すべてこれを
日子と唱へ、皇女皇后及皇臣の妻子を、すべて日女と唱ふ。例せば書紀神代巻に、天
津彦彦火瓊々杵尊とあるを、古事記には天津日高日子番能爾々芸命に作り、天稚彦を
天若日子と書けるが如し。加以古事記には甕主日子神、阿遲志貴高日子根神、日子穂
穂手見命等、みな日子に作りて彦と書けるは稀なり。彦は日子の仮字なれば、これら
は古事記を正しとすべし。亦書紀神武紀に、日臣命あり。ひる子日臣、並に臣子の義
なり。後世に至りては彦及姫とのみ書けども、罕には古義の存するあり。続紀高野天
皇後紀に、多可連浄日女あり。又光仁紀に安曇宿禰日女虫あり。この他なほあるべし。
(中略)されば人の世となりても、宝位を天日嗣と唱ふ。古歌に至尊を神としよめる
も同一理なり。今の俗は、姫を貴人の称呼なりとしれるのみ。彦にもこの義あるよし
をしらず。日女は大日靈尊にはじまり、日子は蛭児を権輿とす。日靈も日女も、その
義異なることなし。万葉集第二、日並皇子尊、殯宮之時、柿本人麻呂歌に、天照日女
之命云々と詠みたる是なり。かかれば姫と書き彦と書けるは、後に漢字を配当たるの
み。字義に和訓を被て見るべし。又宋邵康節言いて曰く、天昼夜見、日見于昼月見于
夜而半不見星半見半不見尊卑之等也天為父日為子、といへり。これらは彼処の博士さ
へ亦日子の義をいふに似たり。又按ずるに素盞鳴尊は、辰の神なり。風俗通、賈逵の
説を引いて云う、辰之神為靈星故以壬辰日祀靈星金勝木為土相也。よりておもへらく、
素盞は布佐なり。通と布と横音かよへり。古人すとつを打ちまかせて用ひたる例多か
り。布佐は房なり。房は房星、星の名なり。礼記月令に曰く、十月日在房、これなり。
爾雅釈天に曰く、天駟房也註龍為天馬故房四星謂之天駟、又云う、大辰房心尾也、註
火心也、在中最明故時候主焉。説文巻二●下に云う、震也三月陽気動来電振農時也、
又曰く、辰房星天之時也。これらによりて辰を時とし、星の名とす。辰は日月の交会
する所なり。説文巻四に又云う、星万物之精也。その万物の精なる故に参戦草木化生
て後に四象の神たちは化生給ひしといふ。理、よく合へり。かかれば素盞鳴を、房雄
の義とせんも、亦よしなきにあらずかし。この神化生たまひしとき、有勇悍以安忍且
常以哭泣為行といへり。かかれば辰の震なるよしにも、進雄々しき義にも称へり。陽
は声を発し、陰は声なし。飛鳥混虫みな如此なり。故に斑固曰く、喜在西方怒在東方、
又曰く、東方物之生故怒、とへり。亦是彼神化生給ひしとき、常以哭泣為行、いふに
かなへり。書紀一書の説には神素盞鳴尊とし或は速素盞鳴尊とす。古事記には建速須
左之男命とす。神は神速、建は勇悍、速は勁捷の義なり。彼漢土の東方房辰は、民の
田時たり。季春には陽気動き来電振ひ草木怒生といふに合へり。書紀に、日の神と素
盞鳴尊と、おのおのその御田頃に播種し給ふ事あり。これらも右に引くところの文を
照て考ふべし。同書に、素盞鳴尊、結束青草以為笠乞宿於衆神、といふこと見えたり。
こは書紀一書の説なり。宿は星のやどりなり。又止宿の義とす。宋永享捜採異聞録巻
二に云う、二十八宿宿音秀若考其義則止当読如本義若記前人有説如此、説苑弁物篇に
曰く天之五星運気於五行所謂宿者日月五星之所宿也其義照然。又五雑組天部にも星宿
の宿、音夙なるべきよしをいへり。今按ずるに、史記天官書に、房為天府、といへり。
亦是止宿の義あり。かかれば或は播種し、或は乞宿の事、辰の神の所行にかなへり。
将、角●亢房心箕尾の七星は、東方の星なり。火を心とす。心は東方の星といへども、
辰巳に位せざることを得ず。辰巳は龍蛇なり。八岐大蛇の事亦おもふべし。故に史記
天官書に曰く、大星天王也前後星子属。索隠曰く、洪範五行伝曰、心之大星天王也前
星太子後星庶子。これ心星療星あり。大蛇に八岐の頭尾あり。二は偶の首。八は偶の
尾なり。二にを四とし、二四を八とす。その義、是おなじ。太史公曰く、大星不欲直
直則天王失計房為府曰天駟其陰右驂旁有両星曰矜北一星曰●大蛇之段。すべてこれら
の文義に合へり。八岐大蛇がきられしは、件の心の大星が計を失ふといふもの是歟。
かくてその尾頭より天叢雲の剣出でしは、彼天王と太子は亡せて、その庶子が継ぐに
似たり。又房の旁なる両星、矜は奇稲田姫、●はおん子大巳貴神にこそおはすめれ。
正義星経を引いて曰く、鍵閉一星在房東北掌管籥也、といへり。こは大巳貴神、且く
天下を管領し給ひし事に合へり。亦日の神と素盞鳴尊と、御中わろかりしよしは、こ
れも亦史の天官書に、火犯守角則有戦房心王者悪之、といへるにかなへり。曾氏十八
史略宋紀仁宗紀に曰く、真宗得皇子已晩始生昼夜啼不止有道人言能止児啼召入則曰莫
叫何似当初莫笑啼即止盖謂真宗嘗●上帝祈嗣問群仙誰当往者皆不応独赤脚大仙一笑遂
命降為真宗子在宮中好赤脚其験也、といへり。この事小説に係りるといへども、素盞
鳴尊生まししとき常に哭泣給ひしこと粗相似たり。この他なほ和漢の書を引きつけて、
とくべきよしなきにあらねども、余りに細しからんはいともかしこし。抑諾册両尊、
日の神月の神を生み、次に星と辰の神を生み給ひつ。於是日月星辰の四象の神たち化
生給ひき。易に曰く、大極生両儀両儀生四象、とは是をいふなりけり。抑この一編は、
とし来秘蔵の説なれども、目を賤むるもの多かるべし。
 幾つか伏せ字があるけど、JISにないから御容赦を。ただ、幸運なことに、何連
も文脈には関係ない。
 最も重要な点は、素戔鳴尊を、東方の「房」星を象徴するものだと言っている。
「房」とは「東」の星なのである。「房」は「安房」の「房」であり、また「八房」
の「房」でもある。因みに「房」とか何とかは、所謂「二十八宿」に於ける星の名称
だ。二十八宿は、古代印度で発生し、中国を経て日本にも移入された占星術で、密教
では「宿曜経(スクヨウキョウ)」で説かれている。この二十八宿を四方に配した曼
陀羅も描かれている。ただし、印度で発生した当初は「二十八宿」ではなく、「二十
七宿」であったらしい。中国では、印度にはなかった牛さんを宿に数えている。まぁ、
そんなことは如何でも良い。
 八犬伝で「房」と言えば、「安房」であり、「八房」だろう。「房」星は東に位置
し、「安房」は「東海の辺」だ。問題は「八房」だが、この説明には、チョイと補助
線が必要となる。上記『玄同放言』に於いて、房星は「駟」と表現されている。駟と
は、八犬伝に拠れば、四肢だけが白い馬の毛並みを謂う。この毛並み、読者は御存知
の筈だ。手束に拾われた子犬は、四肢だけが白かった。駟(ヨツシロ)である。この
ため、「与四郎」と名付けられた。四肢が尋常よりも大きめになるを、末端肥大症と
謂うが如く、四肢とは末端である。故に、駟は、本体は黒もしくは何か色が付いてお
り、端っこだけが白い模様だ。翻って、「八房」は、体に八つの斑があることから名
付けられた。即ち、与四郎は、八房の斑の一つを受け継いだ形とも言える。馬琴は、
信乃の生い立ちを描くに当たって、「これからも主人公たる犬士は登場するけれども、
文章のことなので、皆を皆、詳述するわけにもいかない。自ずと、粗密がある」みた
いな事を言っている。そして、最初に登場する信乃は、確かに他の犬士よりも詳しく
誕生から少年期から描写されている。明らかに信乃は、八犬士の代表であり、それ故
に、彼に関する描写には、犬士共通の事柄が含まれている。一つが、犬の与四郎であ
ろう。筆者が、数回に亘ってウジウジウジウジ、素戔鳴尊や大己貴に拘った所以であ
る。
 また、馬琴が参考書とした房総志料には、次のような表記がある。「里見氏の印は
三面の大黒なりと。按に、九世同印にてもあらじ」。累代同一ではなかったかも、と
一定の留保を設けながら、顔が三つある大黒を里見家が旗印として用いたと云ってい
る。大黒、大己貴である(馬琴は玄同放言中で「大国主」なりる表記でもオホムナチ
と読むよう主張している)。神田明神の主祭神だ。
 さて、記紀は、現在残っているうちでは最古の纏まった国史である。が、当然のこ
と乍ら、記紀以前にも史料は存在した。今は失われて久しいが、それらは引用の形で
現在に伝わっている。「あわあわアワー」で引いた「古語拾遺」(岩波文庫所収)も
其の一つだ。此は、忌部の或る自慰が……もとい、爺が、自ら慰める為に書いた。当
時は藤原氏が権力を恣にしていた。元はと言えば藤原氏、「吾嬬者耶」で紹介した天
智の蘇我馬子に対するテロの協力者というか参謀というか若しかしたら黒幕だったか
もしれない男・中臣鎌子(ナカトミノカマコ)を祖とする一族だ。中臣氏は、朝廷の
祭祀に関わっていた。平たく言えば、神官の家系だ。紀の天磐戸伝説で、太陽復活呪
術を主宰する者として描かれている、天児屋命の子孫である。蘇我氏が仏教を我が国
に大々的に導入したため、神様なんて放ったらかしにされ、神官・中臣氏は、冷や飯
を食わされていたともいう。蘇我氏を恨んでいたから、暗殺に加わったのかもしれな
い。まぁ、んなこたぁ如何でも良い。
 忌部氏も、神官の家系であった。天磐戸説話にも登場する、太陽復活儀式の、<も
う一人の呪術者>、天太玉命(アマフトタマノミコト)を祖とする一族だ。「太玉」
……、何やら、浅草観音近くにある「お狸様」の壮大なる陰嚢を思い出させる名前だ
けど、だったら彼の奥さんは<牝狸>とも考えられるが、まぁ(半分)冗談だ。話を
戻そう。
 古語拾遺が書かれた時代、天児屋命を祖とする藤原氏は、徐々に実力を蓄えつつあ
った。紀を編纂した者も、藤原不等人(フヒト)なる人物であった。そして、紀の天
磐戸伝説では、まさに天児屋命が司祭として登場する。が、此に異を唱える者がいた。
前に挙げた忌部の爺、斎部広成である。広成は、紀に載せる天太玉命が、天磐戸の儀
式でアシスタント役をさせられていることに、我慢できなかったのだ。「ウチに残っ
てる文書では、ウチの先祖の天太玉命の方が司祭で、天児屋命がアシスタント役!」。
まぁ、結局は、藤原氏と忌部氏が、互いに自分の先祖の方が偉かったと書いただけの
話だ。藤原氏が書いた方が、偶々「正史」だっただけのことだ。そして、「正史」と
は、時の権力が編纂するものだが、必ずしも史実に忠実であるとは限らない。正史が
忠実であるのは、時の権力に対してのみである。権力が正当であり、史実をこそ尚ぶ
ならば、正しい史が生まれようが、必ずしも「正史」が正しいとは限らない。少なく
とも、「日本」では、ね。勿論、藤原氏と忌部氏の主張、ドチラが正しいかは、闇の
中だ。今でも分からないのだから、近世、例えば馬琴の時代にも、分からなかっただ
ろう。両論併記された状態、読む者こそが、それぞれにジャッジを下すアヤフヤな状
態だ。だから、ドッチを信じようと、即ち紀に載す如く天児屋命を司祭と考えず、天
太玉命をこそ玉を使う太陽復活呪術の主役だと考えたって、別に良かった筈なのだ。
 また、記紀よりも古い時代の史料を用いて書かれたとされるモノには、他に「高橋
氏文(タカハシノウジブミ)」なんてのもある。コッチは、如何やら朝廷から、お墨
付きを与えられた。内容が、朝廷に残っていた古記録と一致したのだ。紀を補強する
材料とされている。原文は失われているものの、年中行事秘抄などに引用されている。
 高橋氏は膳部、天皇のコック長を務めた家系だ。彼らが其の職に就任した経緯を語
るのが氏文だが、本朝月令から引用してみよう。
 (景行天皇五十三年、景行天皇は)冬十月到干上総国安房浮島宮。爾時磐鹿六▲命
(←高橋氏の祖:▲はケモノヘンに葛)従駕仕奉▲。天皇行幸於葛飾野。令御▲矣。
(そんで●が鳥の鳴き声を追って船で海に入り渚を見つけ其処で)掘出止為爾得八尺
白蛤一貝。(其れと堅魚を料理したら太后と景行に褒められ褒美を貰って天皇の料理
人を命じられ、一族は大伴部と号する様になる。そして、)是時上総国安房大神乎御
食都神止■(←欠字)奉天(後略:但し割註に「安房大神為御食神者今大膳職祭神也」
とある)。
 此の条は、景行紀中、天皇が浜路で「白蛤」を得た話の元になった史料と同様内容
であることが知られている。紀では白蛤を拾ったのが天皇であるに対して、高橋氏の
祖先が拾ったと相違点もある。しかし、此処で重要なことは、天太玉命(アマフトタ
マノミコト)が保食神として宮中に祀られていた点だ。「黒き衣の神」で述べたよう
に、大黒は日本の密教寺院で保食神として、食堂に祀られていた。太玉命と大黒には、
共通点があるようだ。本来は玉を使って太陽復活の呪術を行っていた太玉命が、「白
蛤」の一件をキッカケに、何故だか食物の神になってしまったのだ。
 折角、日本武尊が登場したのだ。彼に就いて語ろう。だって、筆者は彼が気に入っ
ているのだ。
 古代、風土記なる地誌が全国各地で編纂され、朝廷に献じられた。知るとは、領
(シ)る。各国の情報を集積することは、領有の確認でもあった。が、何分、古い話
なので、全国で一斉に書き上げた筈なのだけれども、殆どが失われている。東国のも
のでは、僅かに常陸一国分が辛くも残っているに過ぎない。
 此の常陸国風土記(日本古典文学大系版)に、日本武尊は十一度、登場する。しか
も表記は、「日本武尊天皇」だ。東国に於いて、後世の人々は、神器の一・天叢雲剣
を携え征服しに来た武尊を、「天皇」として扱っていたのだ。勿論、筆者は、景行時
代に(少なくとも正式には)「天皇」号は採用されていなかったと考えているので、
此は<とっても偉い人>ぐらいの意味だとは思う。若しくは、武尊が当時の「天皇」
に当たる「大王」とか何とか、東国で名乗っていた可能性は認める。紀を読めば、彼
が「天皇」に準じた扱いを受けた事は明瞭であるし、抑も、「尊」は同じミコトでも
「命」とは違って、後に天皇号を認められた者ぐらいにしか使わない表記であるのだ
から、彼が凡百の皇子と違っていたことは、解る。彼が「天皇」であったか否かは、
本稿の視野外だ。此処では、後世の人々、例えば馬琴の関心を惹くほどに、彼が東国
に於いて重要な人物だったことを、指摘できれば良い。
 また、常陸国風土記で、武尊は「后」の「大橘姫」と山海に遊び、獲物を競い合っ
たりしている。……記紀に於いて、日本武尊の妻(の一人)は「弟橘姫」であり、
「大橘姫」ではない。しかも、「弟橘姫」は、武尊が常陸に辿り着く前、海へ飛び込
んで死んだ。此処ら辺、記紀の表記と齟齬するのだが、まぁ、ドチラが正しいかは解
らない。或いは、武尊に同情する心性が、弟橘姫が実は死んでおらず、二人で幸せに
暮らす様を思い描いたのかもしれないし、また、単なる勘違いであったかもしれない。
ドッチにしろ、本稿に於いては、余り重要な事柄ではなさそうだ。
 天皇だとか何だとかいう事よりも、重大な問題がある。常陸国風土記に於ける、武
尊の行動だ。彼は、掘る。掘りまくる。そう、西征に於いて熊襲の族長に、掘られた
(と思える)彼が、今度は掘りまくるのだ。何をって? 井戸だ。いや、オイドでは
ない。彼は(命じて)三カ所で井戸を掘る。また、武尊の面影を追って東国を巡幸し
た景行も、一つ掘っている。此を合わせれば、武尊関連の井戸掘り話は、四つになる。
現存する常陸国風土記に於いて、井戸掘り話は八箇所だが、うち半分が武尊関連なの
だ。このことから、東国での武尊が、<水>と関わる何者かであったことが了解され
よう。更に言えば、金生水、彼が水を掘り当てる名人であることは、東国の人々が、
武尊を<金>なる者だと考えていたを示しているかもしれない。
 さて、金なる日本武尊、弟橘姫の悲劇は、現在よりも近世、有名であったことだろ
う。常識とさえ言えるかもしれない。大己貴も大黒も素戔鳴尊も、人々にとっては、
馴染み深い名であったろう。次の機会には、もう一人、マイナーではあるが、甚だ重
要な女性を紹介する。「火にして水なる者」である。
(お粗末様)



#1128/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   6: 4  (198)
読本八犬伝・番外編「火にして水なる者」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 火にして水なる者」
                 〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ6〜

 八犬伝は、永享の乱に端を発した、と言い得る。永享の乱で関東公方が上杉家と室
町幕府軍に破れ、関東公方の息子である春王・安王が結城氏に庇護された。結城氏も
上杉および幕府の軍勢に攻められ、遂に滅亡した。この戦いで結城方に就いた里見季
基(各種史料では「家基」)が討たれ、息子の義実が生き残った。義実は相模から安
房へ、それは頼朝が石橋山合戦で破れて安房へ逃げた海であり、弟橘姫が入水した海
でもあった。義実は安房で身を立てた。「永享の乱」が口火となって、結城合戦とか
嘉吉の乱とか経た後、応仁の乱となり、日本は<下克上>、戦国時代に突入する。

 因みに、「下克上」とは、何となく<主君を臣下が討ち滅ぼす>ぐらいの意味で使
われることが多いが、本義は、五行説に拠る。即ち、水克火、火克金、金克木、木克
土、土克水、の<五行相克>の理が自然の流れだけれども、この関係を逆転した、例
えば、木克金、みたいなのを、下克上と謂う。これは、<物理法則すらグチャグチャ
になった混乱の世界>を意味するのだ。秩序の無化、である。主君を臣下が討ち滅ぼ
すこと自体は、別に珍しいことでも理に逆らうことでもない。そして、里見家は、秩
序がグチャグチャ、自然の摂理に反した戦国の世に、正しく五行説に即した世界を構
築した。このコントラストこそが、八犬伝の神髄だ。平和で秩序だった世の中で、安
房なる小国を秩序立てたならば、里見は別に名君でもないし、当たり前のことをした
に過ぎない。周囲の混沌が前提としてあるからこそ、八犬伝の里見は照り輝いている
のだ。その「混沌」を惹起したのが、「永享の乱」だ。ならば、永享の乱は、八犬伝
にとって、無視できない事件であろう。

 永享の乱を扱った史書/「物語」が「永享記」だ。が、永享の乱の話だけを書いて
いるのではない。乱が終わっても、暫く筆を擱かない。何故だか唐突に、太田道灌の
話になっちゃってるのだ(群書類従版)。太田道灌は、江戸を開拓した人物として有
名だから、江戸期の江戸では結構な名士だったであろう。子孫は旗本だったし。この
道灌の事績を記す部分に、甚だ興味深い記述がある。
 「或記曰。文明年中。道灌江戸城にも河越の如くに。仙波の山王を城の鎮守に崇め。
三芳の天神を平河へ移し給ふ。文明十年戊戌六月五日。日河社に視へ。津久戸明神を
崇め給ふ。又神田の午頭天王。洲崎大明神は。安房洲崎明神と一体にて。武州神奈川
品川江戸。何も此神を祝ひ奉る。或人の云。平親王将門の霊を。神田明神と奉崇とか
や」(群書類従版)。
 「安房洲崎明神」、此処が八犬伝世界で最重要ポイントである事は、論を俟たぬだ
ろう。其の洲崎明神と、馬琴にも馴染み深かった神田明神は、「一体」なのだ。洲崎
神社は、古代に於ける神々の戸籍原簿、延喜式巻九神祇九すなわり神名帳(エンギシ
キシンメイチョウ)にも載せられた由緒正しい古社だ。此は、其の筋では、とても凄
いことだったりする。今では神社なんてウジャウジャあるが、神名帳に載せる神社は
二千八百六十一しかない。此にチョットでも引っ掛かってたら、「式内社」として自
慢できる。千年以上も前から朝廷に認知され戸籍に連なっていたのだから。また、式
内社の中でも序列がある。上位四百九二座を「大社」とする。うち三百四は、朝廷の
重要な祭儀、新年・月次・新嘗などの祭りで神祇官から幣を受ける。これが「官幣大
社」。また更に、就中、七十一は相嘗祭に与かる資格を有する。官幣大社以外の百八
十八を「国幣大社」と呼ぶ。
 安房国の項を見ると、六社が挙げられている。安房郡には二社ある。驚くべきこと
に、二社とも「大社」だ。「安房坐神社(アワニマスジンジャ)」と件の洲崎明神で
ある。安房坐神社は、官幣大社の中でも格の高い、相嘗祭で官幣を受ける「名神大社」
であり、しかも、安房郡全土を「神郡」として領有することを許されていた。神郡を
有する社は、全国に七つしかなかったと言われている。最高級の神であった。洲崎明
神の方は、やや劣るとは言え、大社のうちである。式内社でもない神田明神なぞ、足
下にも及ばない。洲崎明神、神名帳の表記は、「后神天比理乃当ス神社」である。即
ち、彼女は、安房坐神社の配偶神なんである。安房坐神社の祭神こそ、古語拾遺が執
拗に地位を高めようとした、天太玉命だ。そう、天比理乃当スは、此の玉もて太陽復
活の呪術を執り行う神の、配偶神に他ならない。この夫婦、神名帳、戸籍上は、一応、
夫の方が格上だ。が、其れは所詮、戸籍上の話だ。妻が夫の名字を名乗り、即ち夫に
<所属>しているが如き体裁を採る家庭は多かろうが、すべての夫婦が<亭主関白>
ではない。実質的には<かかあ天下>、夫が妻に隷属するが如き形態も、稀ではなか
ろう。いや、甚だしきに至っては、夫が妻に緊縛され鞭打たれ蝋を垂らされて、「女
王様ぁ」、奴隷状態に置かれていないとも限らない。
 ところで「一宮」と呼ばれる神社が、各国にあった。<その国を代表する神社>だ。
何故にこんなモンがあるかと言えば、昔は各国に中央から地方長官が派遣された。国
守というんだけど、国守は赴任したら国の神々に挨拶しなければならなかった。安房
みたいに六つしかない国は良いけど、何十とある国は大変だ。そこで代表的な神社だ
け挨拶回りをすることになったのだが、如何しても抜かせない最重要の神社を「一宮」
に設定したらしい。この神社に参詣すれば、国中の神社を回ったぐらい<御利益>が
あるのだ。……確かに狡いんだけど、こういう発想が他に無いでもない。例えば、大
きなお寺に行くと、境内に三十三の観音像を並べている所がある。この三十三体の観
音様を拝むと<西国三十三カ所>とか、まぁ付近の観音霊場を回ったのと同じ御利益
があるというのだ。単なる<客寄せ>かもしれないが、実際に信仰する人が居るのだ
から、馬鹿には出来ない。まぁ、それほど日本で<観音信仰>が広く深く根付いてい
た証左である、とでも言っておこうか。閑話休題。
 元来は神名帳に載せる如く、「安房坐神社」の方が格上であったろう。<安房国一
宮>は安房坐神社であるべきだし、古代に於いては、そうだった。が、寺社は様々な
要因によって盛衰を繰り返す。戦乱で焼亡することもあろうし、勢力を伸ばした一族
の奉じた神が影響力を拡大することだってあるし、奇跡だか偶然だかで人々の信仰を
急に集めだすこともあろう。一宮は、変わり得た。何時からかは判然しないが、多分、
中世のうちに、洲崎神社が一宮として扱われるようになった。何たって、「源楽翁」
の筆にかかる「安房国一之宮」の扁額が洲崎神社に残っているのだから、一宮として
扱われたことは間違いない。「源楽翁」、<源氏の楽しいジイチャン>と名乗る此の
人物を、読者は既に知っている。馬琴と交渉もあった江戸後期一級の文化人、そして
大ゴロツキの松平定信である。定信は、海外列強が日本近海に出没するようになった
ことを恐れる幕府の命で、房総半島を守護する任務に就いた。当地を巡検した折りに
「狗日記」なる簡単な地誌を書いた。定信は、安房と無関係な人物ではないのだ。ま
ぁ、それは措いといて……。
 洲崎明神と安房坐神社の地位が逆転した背景には、源頼朝の存在があった、かもし
れない。鎌倉幕府の正史、とまでは言わないが、公式の日誌であった吾妻鏡では、頼
朝が三浦半島(土肥真名鶴崎)から海路、安房(平北郡獵島)に逃げ出したと書いて
いる。治承四年八月二十八日に出発して翌日、到着している。先立つ二十七日には、
頼朝に一味した武士達が、やはり土肥郷岩浦から、安房を目指して船出している。彼
らは頼朝を獵島で迎えている。しかし、正史でも何でもない「物語」、いや物語と言
っても馬鹿には出来なくて、庶民にとっては、コッチが<歴史>だったりしたんだろ
うけど、頼朝の事績は、義経記や源平盛衰記なる物語によって知られていた。両書は
何連も、頼朝が安房国洲崎に上陸したと書いている。出発場所は、「三浦」としか書
いていない。獵島と洲崎、かなり離れている。多分、獵島の方が正解だろう。
 しかし、義経記や源平盛衰記の作者が間違った、若しくは誤解したとて、それは仕
方のないことだったかもしれない。後に、頼朝は、洲崎の或る神社を妙に深く尊崇し、
多くの領地を寄進している。また此は不可思議な点でもあるが、三浦半島から洲崎に
逃げ込んだ頼朝は、神社で歌を詠じたとされてもいる。「源は同じ流れぞ岩清水 せ
き上げてたべ 雲の上まで」。「岩清水」は源氏の氏神「石清水八幡」を指している。
即ち「源は同じ流れぞ岩清水」は「源氏の源を辿れば(石清水)八幡だから、俺とア
ンタ(洲崎の神)は親戚ってことになる」。「せき上げてたべ 雲の上まで」は「そ
の親戚甲斐に俺に力を貸して、今の苦境から救ってくれ。今の俺は、戦に敗れ追われ
る身の日陰者なんだが、陽光を遮る雲の上まで俺を持ち上げて、再び日の当たる身の
上にして欲しいもんだ」となる。此処では、八幡=洲崎明神となっている。甚だ不可
解だ。が、八幡=応神との観念を捨てれば、例えば、八幡=神功皇后と理解すれば、
女神である天比理乃当スとの接点が現れる。
 神功皇后、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、仲哀天皇の后である。仲
哀は、誰あろう、景行の猛々しい二男坊・日本武尊と、両道入姫、「ドッチからでも
入ってこんかい!」、勇ましい名前の女性との間に生まれた二男坊だ。因みに仲哀は、
熊襲征服の途上、朝鮮半島への侵略に誘惑する神の言葉を疑うような事を言って、誅
殺された。惟えば、祖父も傲慢な言の咎により殺されたが、なかなか進歩のない血筋
のようだ。其れは、さて措き、神功皇后は、朝鮮半島侵略を実行した。「斧鉞」を親
(ミズカ)ら執って、三軍を奮い立たせた。別嬪さんの軍装は、男装の麗人・川島芳
子ぢゃないけれど、男を震い付きたくさせる。紀では、一応、此の侵略戦争は無血の
うちに大勝利したことになっている。神功の軍船には「旌旗耀日」(旗が陽光に輝い
た)とか「日本」とか、何やら後世の対外硬派を思い起こさせるような、太陽の国・
神国日本、みたいな書き方をしており、皇后と太陽の親近性をも感じさせる。勿論、
此の巻には、太陽の女神「天照太神」や伊勢神宮も登場する。
 洲崎神社は、何時の頃からか、夫・安房坐神社を押し退けて、「安房国一之宮」に
出世した。ならば、天比理乃当ス、一体、何者だったのか? 悪いけれども解らない。
ただ、馬琴は多分、太陽神もしくは其の眷属だと考えたかもしれない。玄同放言に於
いて、「日」に拘った馬琴である。そんな馬琴が、「比理(ヒリ)」を「ヒル」と読
み替えたか「日理」と置換したか、とにかく太陽神系だと感じたかもしれない、とい
うだけの話なんだけれども。論者によっては、「比理」を「ヒル」と読み替えるが、
それを「蒜(ヒル/ニンニク)」と推定したりする。即ち、天比理乃当スは「ニンニ
ク女」と解釈するのだ。いや、蒜(ヒル)は雑草の如く何処でも栽培できるし、古代
から庶民の重要な食料もしくは薬として用いられていたが、でも、「ニンニク女」は
アンマリじゃないかろうか。
 此処では太陽神系の輝ける女神だと考えておきたい。社伝に拠れば、洲崎神社の御
神体は、天比理乃当スの遺髪と彼女の遺した<鏡>だったそうだ。<鏡>は太陽神系
の御神体として、なかなか相応しい。また、折口信夫の名を用い、<水の神かも>と
言いたげな論説もあるが、折口が語っているのは天照太神に就いてである。天照が太
陽神として、そして「皇祖」として確固たる地位を占めたのが何時の事だか実は解ら
ず、それは記紀成立以前としか特定しようがないのだけれども、其の記紀にさえ天比
理乃当スの名は全く見えず、太陽復活呪術の行者として、太陽神神話の脇役として漸
く登場する太玉命の妻としてしか知られていないことは、即ち、天比理乃当スが、天
照が太陽神としての地位を固めた後に派生した神だと考えた方が自然だ。「自然」は
<絶対>ぢゃぁないけれどもね、蓋然性の問題。だいたい、太陽復活呪術の行者/太
玉命の配偶者なんだから、やっぱり、太陽神系の女神と考えるべきだろう。そして、
だからこそ、太陽神の(少なくとも)ハシクレである天比理乃当スに対し、其の太陽
神の復活を祈る祭司が<従>の立場をとることが、とてもスンナリ理解できるし。祭
司って一応、形式的には、祀る対象に<奉仕>するモンだから。
 とか何とか言いつつも、<水の神>とは言わないが、天比理乃当ス、彼女が<お水
系>の女神だと、実は私も思っている。但し、まったく別の理由からだ。折口の論考
は、天才的というか、まぁ神懸かり的であり、凡才の筆者には、納得し難い所がある。
 読者は洲崎神社に行ったことが、おありだろうか。館山市の中心部から海岸線を車
で走り二十分ほどか、寺の赤門が横目で見えた所で停まる。「赤門」とは、なかなか
に格式が高いことを表すが、本当に其の資格があるのか疑わしい小刹である。寺とい
うのは見かけに依らない。案外、格が高かったりするから油断が出来ないのだが、…
…でも、やっぱり、この寺に赤門の資格はないんぢゃないかと今でも私は疑っている
んだけれども、赤門だから仕方がない。養老寺なる真言宗の寺で、どうやら昼間は幼
稚園になっているらしい。境内には、役行者が籠もったとか伝える石窟というか岩の
窪みが実際にある。苔むし、なかなか良い雰囲気だ。寺の隣が、洲崎神社である。古
ぼけたペンキ塗りの看板に「安房国一之宮洲崎神社」とか何とか書いている所が、も
の悲しい。一の鳥居を潜り境内に入ると、比較的新しい石碑があり、鏡が如何たら書
いている。中門は、小さいながら装飾を施し、なかなか立派だ。狛犬を、いっぱい彫
りつけてある。其処から急峻な石段を二百段とは言わない、でも百五十段以上はあっ
たと思うが、息を切らして上ると正面に拝殿、左手に稲荷と小さな祠がある。深い森
の中に、小さいながら静寂な空間が現出し、変な言い方だが、<神社らしい神社>だ。
そして、同社の特徴もしくは本質は、此処で振り返った所にある。
 海なのだ。一の鳥居の、すぐ外は海なのだ。今では数件の民家が隔てているものの、
これは、「直下が海」と言って良い立地である。こういう場合、神様が元々何を守備
範囲にしているかなんて関係なく、ほぼ確実に、<海の神>にされてしまう。現在で
も、この付近は山が海岸線に迫っており、良好な耕地は望めないようだ。しかも、海
に面した此の神が、周囲には漁民が住んでいただろうし、今でも住んでいるようだが、
そんな環境で、<海の神>にされない方が不自然だろう。そして彼女は、「安房国一
之宮」だ。安房は海国である。例えば、八犬伝に蜑崎十一郎照文なる人物が登場する。
彼に関する表記で、<安房国人だから船を操るのが巧い>なんてのがある。これは、
安房が<海国>だと認知されていたこと、少なくとも馬琴が安房を海国だと考えてい
たことを示している。海国だから、船を操る機会が多く、それ故に「巧い」のだ。海
国である安房の一宮は、やはり海と無関係な儘ではいられまいし、逆に海と結びつけ
られたからこそ、一宮に昇格したのかもしれない。此処で読者は疑問を抱くかもしれ
ない。ならば抑も洲崎神社が海に面して建てられた事は、元来が海の神だったからで
はないか? 太陽神とは無関係ではないか? 
 尤もな疑問には答えなければならない。洲崎神社は、正しく西面している。即ち、
日の没する方位に向けて建てられている。天比理乃当スは、いつも正面に日没を見て
いるのだ。まぁ、季節によって多少はズレるけど。そして、彼女は、太陽復活呪術を
行う者の配偶者であり、一宮であるによって其の夫の機能をも吸収/代表し得る。人
は、日没に何を願うだろう。最も単純な願いは多分、「また明日も私たちを暖かく照
らしてください」ではないか? 言い換えれば、太陽の復活を願っているのだ。そし
て彼女は正しく日没に面して居る。彼女は、没した太陽が明日には復活することを願
う、保証する存在なのだ。だからこそ、日没に対して遮蔽物のない、西の海に面して
いるのだろう。やはり、彼女は本質として、太陽と密接に関わっているようだ。
 さて、此処等で、天比理乃当スの性格を、纏めておこう。彼女は名前や祀っていた
御神体(鏡)から太陽神系の女神であったと考えられる。そして、一宮に昇格したこ
とで、国の神社を代表することになった。勿論、「国の神社」には、夫の天太玉命も
含まれている。代表するとは、代表されるものの<性格を吸収>することでもある、
<混淆>である。「混淆」は神仏習合を例に挙げるまでもなく、日本の得意技だ。此
の範疇に、大日如来を天照の本地(/実体)とする必殺技もあるが、此処で詳述する
余地はない。とにかく、吸収/混淆は、前近代日本の宗教的風景に於いて、別段、珍
しいものではない。此処に於いて、天比理乃当スは、<太陽神系の女神>であり、
<玉を使った太陽復活呪術の行者>であり、しかも<海の神>だったと断ずることが
出来る。彼女の、此の多重な性格が、八犬伝の根底に在るのだ。
 即ち……毎度ながら、行数が尽きた。天比理乃当スに関しては、次の機会にも語る
ことになろう。八犬伝の基層に横たわる白い影の正体を、今度こそ語ることが出来る
……かもしれない。
(お粗末様)



#1130/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/11/ 6   6:18  (192)
\読本八犬伝・試論「日本ちゃちゃちゃっつ」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「試論 日本ちゃちゃちゃっ」
                 〜日本ちゃちゃちゃっシリーズ7/完〜

 「火にして水なる者」に於いて、天比理乃当スが太陽神であり同時に玉を使って太
陽を復活せしむる神であり、海の神であるとも断じた。此の海神が、何処を管轄して
いるか確定は、不可能だ。しかし、洲崎から西面している以上、この近海を治めてい
た海神であろうことは、想像に難くない。そして、この近海では古代、或る事件が起
こった。「白き衣の女」で述べた、日本武尊東征途上<弟橘姫の入水>である。

 弟橘姫は、何故に入水したか? 遭難の危機に瀕した愛人・日本武尊を救うため、
怒り狂う「海神」を宥めるために、入水した。即ち、弟橘姫は、<海神のもとに行っ
た>のである。「房総志料」にも載せる如く、房総には弟橘姫を祀る神社がある。浜
辺に流れ着いた姫の櫛を祀ったとかいうのだ。しかし、如何に強弁したところで、櫛
は所詮、櫛、弟橘姫ではない。前近代に於いては、持ち物などに本人の思念が籠もる
と考えていたかもしれないが、思念が籠もろうが如何だろうが、それは<本体>では
ない。弟橘姫の本体は、<海神>に召されたのだ。そして、この場合の「海神」が、
天比理乃当スである可能性は、かなり高いと感じている。
 弟橘姫、英雄・日本武尊の愛人である(多分は)別嬪さんが、別嬪だか如何だか解
らない天比理乃当スに召されたのである。如何な扱いを受けているかは解らない。但
し、太陽神の本尊、天照は天鈿女のストリップを覗くような女であった。同じ太陽神
系の天比理乃当スが、女好きでは決してないと断言できる材料は何処にもない。勿論、
女好きだと断言できる証拠もないのだけど。私は、神ごときに人権なんて認める程、
お人好しではない。面白い様に、解釈してれば良いのだ。そして、弟橘姫の入水で日
本武尊は助かったワケだから、紀の文脈に沿えば、怒り狂った海神は、美しい人妻を
獲得して喜び鎮まった、と結論せざるを得ない。故に海神らしく弟橘姫と<貝合わせ>
をして楽しんだか如何だか、とにかく気に入ったことだろう。あ、因みに「貝合わせ」
とは古代の貴族女性の間で行われた遊戯である。女性同士、<貝>と<貝>を合わせ
る遊びだ。その熾烈、熱狂は、男子たる私には想像もつかないが、かなり流行したら
しい。宮廷女性は、源氏に記す如く<男女の性遊技>にのみ耽っていたワケではない
のである。女性同士でも、楽しんでいたのだ。だいたい、源氏だって、式部が皇后
(の一人)を楽しませようと書いたものだ。猥談を、文章でやっていただけの話であ
る。で、「貝合わせ」とは即ち、<蛤>などの貝殻に絵を描き、その芸術的優劣を競
う遊びなのだが……、さっき<イケナイ事>を想像した人は、怒らないから、後で職
員室まで申し出なさい。話は変わるが、「貝合わせ」とは女性同性愛行為の隠語でも
あるのだが、此処では関係ないから省く。
 しかし、天比理乃当ス、いくら夫を尻に敷き不満を抱いていたとはいえ、夫も子供
もある別嬪人妻を奪うとは、なかなかレズボな性格である。まぁ、倫理として肯定は
決してしないが、現実を否定しきれはしない。事実は事実として認めざるを得ない。
とにかく弟橘姫は、天比理乃当スのもとに行かざるを得なかった。そして、天比理乃
当スの元に居るとは、即ち、洲崎に居るということだ。弟橘姫の居場所は、他に、あ
り得ない。
 弟橘姫……橘……今で言うなら柑橘系の果物だが、昔は果実ではなく、花をこそ愛
でた。宮廷にあった、(左近の桜)右近の橘、である。玄同放言で、馬琴は橘に就い
ても蘊蓄を披露している。
 山牡丹は。苑圃中に植うるものとおなじからず。我邦にはこれなしといふものあり。
しかれども。煙霞綺談(第四)云。遠州秋葉山の麓。いぬゐ川の上なる。京丸といふ
小村の片辺り。険阻なる山の半腹に。大木二本あり。その一本は。遠くより見る所。
凡四囲許。又一本は二囲もあらんかし。初夏に花開を見れば。その色白く。経尺許に
見ゆるなり。これ牡丹なりといへり。ちかき比。その村なる人に問ひけるに。これま
ぎれもなき牡丹なりといへりとしるせり。鈴木素行神農本経解故(巻八)云。未詳と
いひしは。彼京丸なる山牡丹を仄に伝へ聞きたるなるべし。按ずるに謝肇●云。(五
雑組物部二)余在嘉興呉江所見牡丹。廼有丈余者開花至三五百朶。北方未嘗有也。か
かれば唐山にも。牡丹に巨大なるもの。罕にはありと見えたり。我遠江なる山牡丹も。
そら言にはあらぬなるべし。又堯憲深秘抄に。山橘は牡丹なりといへり。是よりして
後。万葉集に牡丹の歌ありといふものさへあるはこころえがたし。(中略)ここにい
ふ山橘は。藪柑子の事なり。大和本草(巻十一園木部)平地木の集解に。遵生八牋。
画譜。済世全書。及古今集栄雅が注を引きて。俗にいふ藪柑子なりといへり。しかれ
ども。大医博士深江輔仁(深江。日本紀略作深根。見醍醐紀。延喜十八年戊寅九月十
七日条下)。本草和名(上巻)云。牡丹。一名鹿韮。一名鼠姑。一名百両金(出蘇敬
注)。一名白木。(出釈薬性)和名布加美久佐。一名也末多知波奈といへり。かかれ
ば。深秘抄なる説を。僻事としもいひがたし。(後略:下巻第十八植物山牡丹)
 此処で馬琴は言っている。<山橘と山牡丹が同じものだとの説がある。万葉集に詠
む「山橘」は藪柑子のことだが、確かに牡丹を示す場合もあるようだ>。馬琴にとっ
て、(山)橘と(山)牡丹は、同一であったかもしれないのだ。牡丹は、言う迄もな
く、八犬伝に於いて、犬士達の身分証明だ。彼らには例外なく牡丹模様の痣がある。
また、牡丹の一名が「白木」であると馬琴は言っている。此の点も重要だ。白は「白
蛤」となった弟橘姫と無関係ではないし、白旗を用いる源氏の一派・里見家と深い関
わりがある。
 馬琴は一応、物語の中で、<牡丹は牡木しかない故に陽木であり、陽であるから犬
士たちは純陽であって、云々>と説明してはいる。が、残念ながら、此は真実の一側
面に過ぎないだろう。馬琴は、己の<隠微>すべてを丁寧に説明する作家ではない。
読者は、察せねばならない。そして、其の探求こそが、読書の愉しみでもある。玄同
放言は、弟橘姫と八犬伝の間に架かる橋として、機能する。八犬伝で余りにも唐突に
設定された牡丹の痣、其れは犬士の証、即ち伏姫の子供である証明であるが、弟橘姫
による烙印という、隠された意味があったのだ。
 読者はいま、狐に摘まれたように感じているかもしれない。自分でも、やや飛躍し
過ぎたとは思う。が、相手は江戸の大変態・馬琴だ。飛躍でもせねば、道行きを追跡
することは、おぼつかない。

 ところで、八犬伝中、最大のスペクタクルは、どの場面だろうか。本来なら三国志
演義・赤壁の戦を模した、<洲崎沖海戦>である。が、此処で馬琴の筆は冴えていな
い。「海国」に於いて軍事上、制海権を争う海戦が重要であることは、論を俟たない。
しかも、重武装の兵がエッチラオッチラ歩くのと、船で移動するのとでは、機動力が
違い過ぎる。関東管領軍の動きは、陸戦によって小勢の里見軍を分散させ、手薄にな
った本拠を、機動力で勝る大船団で襲い一気にカタをつけようとするものであった。
常道である。オハナシでなければ、管領軍の圧勝は、ほぼ間違いない。
 また、実際に陸戦では、敵味方とも、最小限しか戦死しない。里見軍の総帥・義成
が戦闘に先立ち、「殺さざるを好とせん。只敵の大将を、よく生拘るをもて大功とす」
(百五十七回)との軍令を下した。陸戦に於いて部将たる犬士たちは、この命令を、
よく守る。一方、海戦では、実数は把握できないが、総勢三万の関東管領軍側は膨大
に犠牲を出した。何せ、板一枚下は地獄だというのに、火で炙られたのだ。溺れ死ん
だか、焼け死んだか、とにかく多くの兵が犠牲となった。
 海戦では、犬士が活躍しない。毛野は軍師だから、海陸両面の戦を総攬した。が、
彼は戦闘のクライマックスでは総大将・義成に侍っている。戦闘に参加するのは、帰
趨が判然としてからだ。実戦で活躍したとは言い難い。
 海戦の焼き討ち準備に重要な働きを見せる大角は、しかし、主戦場には辿り着けな
かった。陸戦に転じて、功績を挙げた。信乃、小文吾、荘助、現八は、専ら陸戦に従
う。京から戻った親兵衛は、成り行きで陸戦に参加する。
 海戦で戦うのは、サラマンダー道節だけだ。しかも、このバカ、あまり活躍しない。
扇谷定正(オウギガヤツサダマサ)の庶長子・朝寧(トモヤス)に矢を放ったは良い
が、殺すことは出来なかった。海に落ちた朝寧は、通りすがりの現八に助けられた。
海戦で最大の活躍を見せるのは、洲崎無垢三(スサキノムクゾウ)の孫・増松(マシ
マツ)だけだ。
 海戦は、必ずしも必要でなかったと思う。……乱暴な物言いだろうか。しかし、洲
崎沖海戦に於いて、大角や道節や音楽一家など、主に火気関係の者が関与するものの、
ポッと出の増松に主役の座を奪われてしまう。関東管領軍との戦いで、いや八犬伝の
中で、最多の犠牲をだす場面、最大のスペクタクルになるべき場面なのに、どうも等
閑視されているのだ。不思議である。また、何故、洲崎に本陣が置かれたかも、シッ
クリこない。海戦の描写は、本来は最重要かつ最高潮であるべき場面だ。が、正直に
言えば、詰まらない。馬琴ならば、もう少し書きようがあると思うのだが、凡百の三
文小説並だ。老いたか、馬琴? 
 勿論、そうではない。大袈裟に大量の管領軍が死ぬ、形のみ大きなスカスカの海戦
描写は、計算ずくだ。既に賢明なる読者は、お解りであろう。解っているだろうから、
書く必要もない。じゃっ、そういうことで……と話を終えるのが筋というものだが、
書きたいから書く。

 スペクタクルは忘れた頃にやってくる。大きな見せ場なく終わった海戦と、まさに
同じ場所で、一大スペクタクルが展開する。海上の法会だ。これは関東管領軍と里見
軍の戦死者を弔うモノだが、何の事はない、陸戦では殆ど人が死んでいないのだから、
海戦の犠牲者が法会の主な対象だ。百八艘に分乗したゝ大ら約百人の僧侶は、墨田河
をスタート、読経しながら南下する。七日目、洲崎に到着する。ゝ大を導師とした法
会が営まれる。ゝ大は甕襲の玉で作った数珠を打ち振り、犠牲者の為に祈る。因みに、
この法会は西に向かって行われたと考えている。馬琴が法会に先立って、浄土は西方
にあるとか何とか云っているのだ。阿弥陀仏の住む、「西方浄土」である。折しも夕
刻、ゝ大は義成らが控える洲崎を背にして、沈みゆく太陽に対面していただろう。
 ゝ大が打ち振っていた数珠/甕襲の玉が千切れて、海に飛び込む。と、見る間に海
中から「百千万」の白気の玉が飛び出して、西の方角へと消えていく。八犬伝中、最
も派手な場面だ。此処に至って、疑念が生じる。あの、お座なりに描かれた海戦は、
このスペクタクルを導き出す為にこそ、書かれたのではないか? この法会を行うた
めに、三万の軍勢が海の藻屑とならねばならなかったのではないか? 
 海戦は、里見側の圧倒的勝利で終わる。関東管領軍は、一方的に殺された。これは
既に、戦闘ではない。虐殺だ。……いや、より精確に云えば、屠殺だ。逃げ場のない
海上で、炎に責められる関東管領軍は、戦いの犠牲者ではない。犠牲(イケニエ)だ
ったのだ。
 禍々しい妄想だと、自分でも思う。しかし、この海戦自体、不可解なのだ。戦いに
於ける八犬士の活躍を見せたいなら、陸戦で十分だし、実際に陸戦では各犬士とも個
性を発揮しつつ一騎当千の働きを見せてくれる。水練の得意な信乃も毛野も、海戦に
は出向かない。そして、法会を提案したのは、海上での焼き討ち、大量屠殺を発案し
た毛野だ。二つの提案は別個のモノではない。焼き討ちは、作戦の前半部分に過ぎな
かった。法会によって、毛野の計画は全貌を顕わす。犬士が活躍しない海戦の場面で、
最も目立つのは、洲崎無垢三の孫、増松だけだ。逆に言えば、犬士は注意深く、海戦
での大量屠殺から遠ざけられている。
 海戦の犠牲者がイケニエならば、祀る対象が必要となる。「火の玉! 音楽一家」
で述べたように、海戦に先立ち「音楽一家」の女三匹らが関東管領軍に潜入し活躍す
る。そのとき、音音(オトネ)は樋引(ヒビキ)、単節(ヒトヨ)は呼子(ヨビコ)
と、共に音楽関係の変名を用いる。曳手(ヒクテ)は「臥間(フスマ)」と名を変え
た。未だ、理由は不詳だ。ただ、柿本人麻呂(カキノモトノヒトマロ)が異境で亡く
なった妻を偲び詠った「ふすま道を ひくての山に妹を置きて 山道を行けば 生け
りともなし」(フスマジヲ、ヒクテノヤマニ、イモヲオキテ、ヤマジヲイケバ、イケ
リトモナシ)」(万葉集巻二の二一二)が媒体となっていると、妄想を打ち明けた。
最愛の者を喪った哀しみ……吾嬬者耶……日本武尊……。
 頼朝が渡り、義実が逃げた海は、日本武尊が行き過ぎた海でもある。「淡水門」だ。
そして、其処で、一人の女性が、入水した。弟橘姫である。愛する者の為、自ら命を
捨てた姫の心中は如何であっただろう。覚悟の上だから、姫は死を恐れはしなかった
かもしれない。しかし、それが愛する者との別れを意味していたとしたら、話は別だ。
武尊は叫んだ。「吾嬬者耶」。この哀しみは当然、死にゆく姫の胸中にも、満ちてい
ただろう。ゝ大が慰撫すべきは、イケニエではなく、彼女ではなかったか。哀しみに
満ちた彼女の魂こそ、慰さめられねばならなかたのではないか。そう考えれば、前記
の不可解は氷解していく。海戦は、赤壁の戦を真似しただけぢゃない。「赤壁の戦」
を模したと称して、読者の目を「戦」に向けさせただけだ。カモフラージュ。馬琴に
とっては、大量のイケニエさえ生産できれば良かったのだ。そうでなければ、海戦の
等閑な筆勢が、解らなくなる。馬琴の筆が十分に発揮されていないも当然だ。前振り
なんだから。海戦は、明らかに、其れに続く、<洲崎沖法会>の為に書かれた。海戦
自体は、まったく重要でなかったのだ。そうでなくて、海戦で萎えている馬琴の筆が、
法会で本来の過激な程に生き生きした筆致に戻った説明がつかない。戦いが起きたた
めに法会が必要だったのではなく、法会を行うために必要だったからこそ、海戦が行
われ、大量の人間が屠殺されたのだ。白気が西に飛び去ったのは、阿弥陀浄土を目指
したのか、日本武尊のもとへと走ったか、中心を飛翔していたのは、弟橘姫の霊(タ
マ)であっただろう。
 また、海戦が弟橘姫を祀る為にこそ必要であったと解釈すれば、解決できる謎があ
る。里見家と関東管領軍の戦いが始まって、殆ど唐突に現れる増松の存在だ。彼は、
天比理乃当ス神社の氏子であったろう「洲崎」無垢三の孫であった。彼は、洲崎神社
の祭祀に当たって、獲物/犠牲を狩る者として、犬士らが注意深く遠ざけられている
海戦に参加し、独り、大活躍するのだ。

  さて、漸く結論めいた事を書ける。赤き陽と黒き水、鮮烈なるコントラストを見せ
る両者は、しかし、見事に融合した。其れは、日と水を共に内包する白/金なる「日
本武尊」、悲劇の英雄に象徴される。彼は天照太神の正統なる末裔であるが、素戔鳴
尊・大己貴の力を表す天叢雲剣を携え、東国では水なる者として崇められていた。彼
に纏わる説話で、最も劇的であり広く知られた弟橘姫の存在が、八犬伝の基層に横た
わっている事を、本稿は示した。彼女の傍らには、玉もて太陽を復活せしむる天比理
乃当スが寄り添っている。伏姫の死から犬江親兵衛仁の再登場までの枠組みが、天磐
戸説話と拘わっている事は、「伏臥位か? ドッグ・スタイルか? 伏姫のセクシャ
リティーに迫る!」で述べた。そして、上記二つの説話は、「日本」という言葉に纏
わる神話・伝説の中核となる部分だ。此の様に考える場合、「日本」なる国号を正式
に使用し始めた、天武・持統に連なる王朝の、前政権打倒/簒奪をも視野に入れねば
ならない。「日本」、東の涯(ハテ)なる国。八犬伝の表記を用いれば、「東海の浜
(ホトリ)」となろうか。東海の浜に在るマホロマ、「日本」であり、日本ではない。
安房は東の小国である。日本も東の小国であった。両者を区別する必要は、既にない。
黒き闇を裡に秘めた光の国、「日本」、此こそ八犬伝の、主要なテーマだったのであ
る。
(お粗末様)



#1134/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/11/10  21:49  ( 33)
   α−Pierrot
★内容


愚か、堕(だ)と
慰める君
悔しい、擁(よう)
萎れたハンケチに
その手を遣る
野草を指に巻く
葉端で裂く皮膚
血はまだ出ない
無理して生きることはない

能面を被り躍る仕草
エセ月の真ん中に発ち
泳ぐ、妖(よう)
割られることのなかった
朽ち枯れ皹入る胡桃
瞬間(いま)は細菌の住処
まだ芽は出ない
此処に在る死は生きるものの絆

唯(ただ)一綴(ひとつづ)りの
日記を描き
過去を笑う
片足の折れたバッタを摘み
レコード盤の上に乗せる
スピーカの音(ね)に揺れる空き缶と
無様(ぶざま)に躍るものの陰
蝿取り紙と戯れる


[No.78]




#1135/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/11/24   1:31  ( 22)
   α−Pierrot
★内容


簪ひとつ持てないで
向かい宿の寡婦姉さん
似顔絵描いてって
...しなり
くねって魅せる
    三つの箸を並べて
    伏せた茶碗の伸びる影
    お先に、(いただきます。)
    丸まった箸の歯形が合わなくて
    茶碗も少し大きめで
    お先に、(ごちそうさま。)
緩めた帯紐を振り回し
夫婦橋の上を行ったり来たり
濡れたべべの袖
誰にも
捕まらないよって


 [No.79]




#1137/1336 短編
★タイトル (NKG     )  98/11/30   0:58  ( 64)
お題>【台詞のみ】>例の二人  らいと・ひる
★内容


「例えばさ、人が死んだ時になんで葬式なんてやるんだろうって、昔から不思議に
思ってたんだ。どんなに豪華な事をしようが、どんなにたくさんの涙を流してくれ
たとしても、死んだ本人にはもう関係のないことなんだよね。私の祖父も神なんて
信じてない人だった。でも、お坊さん呼んでさ、大勢の人たちが来てさ、それは立
派な葬式だったみたい……私は小さかったからあまりよく覚えてないんだけど。そ
んな無駄な事にどうして人は金や時間を費やすのだろう、そんな事を思ってた」
「たしかにさぁ、神さまになんか縁がない人間なんかにとっては、意味のないこと
かもしれないし、死んだ後の事なんて誰にもわかりゃしないよ。でもね、何かに意
味を見つけようってところが、人間ってもんじゃない? 無意味だって思うのは、
意味を見つけられない人の言い訳だと思う」
「言い訳でも構わないよ……でもね、人の死にそんなに意味なんてあるんだろうか?
一個体の生命活動の停止なんて、地球上のシステムから見たら些細な事じゃない」
「些細な事ってさぁ……わたしには大げさに考えているようにしか思えないよ。死
は身近にあるからこそ、そこに意味を見つけようとするんじゃないかなぁ」
「死んだらそれは無をでしかないよ。人間の記憶のシステムは、肉体があってこそ
機能するんだから。あんたまで魂が記憶を持つとか言わないよね。私は前世とかそ
ういうのを持ち出すのって、嫌いだから」
「わたしはね、死んだ後、自分がどうなるかなんて考えてないよ。だけどね、その
人が死んだとしても、その人の記憶がわたしに刻まれていることは確か。わたしは
それを無視できるほど強くない。だから、死というものの意味を考えようとするん
じゃない。形式張ったお葬式ってのは、たしかにわたしも嫌いだけどさ、だけどそ
れに意味がないとは思わない。誰かが亡くなって、それに意味を考えようとするの
に、やっぱりそういう儀式ってのは必要じゃないかな。心の整理するために、隙間
を埋めるために、悲しみを癒すために……そして、その人が生きていた事を再確認
するために。わたしは宗教的な意味なんてどうでもいい、一人の人間としてそうい
うことを考えたいから」
「それでも私は自分が死んだら葬式なんてやってもらいたくないな」
「気づいてる? それって、自分の死に対して何らかの意味を考えてるって事だよ」
「……そうかもしれない。でも、本来は意味なんてないことなんだよ。何かを考え
ようってするところが人の悪い癖なんだよ」
「思いこもうってするのは、簡単なんだよ。これは一般論、誰かさんがそうだとは
断定しません」
「ふふ……逃げ方がずいぶんうまくなったじゃない」
「逃げてるはどっちだか……」
「なに?」
「なんでもない。あ、そうだ。わたしが死んだらさ、お墓に花ぐらいは持ってきて
よね、葬式には無理に出席しろなんて言わないからさ。んーそうだなぁ、できれば
デイジーなんかが希望だけど」
「茜がそう簡単にくたばるようには思えないけどね。でも、たとえ花を持っていっ
たとしても、死んだあんたにはなんの意味もないんだろうけどね」
「わたしには、意味はないかもしれない。でも、藍はこう思うはずだよ『ああ、あ
の子はデイジーの花が好きだったんだなって』。それは、わたしが確かに生きてい
たって証にもなるんだよ」
「あんたはなんでそんなに生きていた証にこだわるの?」
「生きてるから」
「単純すぎるぞ、その答え」
「他に答えようがないよ。じゃあ、藍の言い方をマネれば、それが心に刻み込まれ
たシステムの一部だから……かな?」
「全然真似てないって、科学的根拠が省略されてるんだけど」
「むずかしいことなんてわかんなーい」
「こら、逃げるな」
「いいじゃん、藍だってむずかしい事はわたしには説明してくれないんだから。そ
うだなぁー、一つだけ確実に説明できることがあるよ」
「何?」
「わたしは忘れないから。わたし自身の記憶の機能が衰えない限り、誰かさんの生
きていた証は刻み込まれているんだから」
「……そんな意味のないものなんか……」
「意地でも忘れてやらないから」


                                  (了)




#1138/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/11/30  23: 5  ( 31)
   α−Pierrot
★内容


おぼれる池
彩(イロ)艶やかな香りに
年老いた蜜蜂が羽根を休める
盗人(ヌスット)が住むという隠れ家が
あの薮の向こうにあって
俯くことで見上げる
遥か何処か地獄門
ふれる 
ふるえる
よみ ふひ

轟くのが稲妻ではないの

ガチンコががなる
垢(アカ)く美しいかな幕に
蛇の抜け殻を喰む
打ち込まれていない釘が
あそこに居(ア)って
きっと誰かが傷つく

取り巻き躍る陽炎に
えんや てんや そいや

だから
還る橋を爆破した


 [No.80]




#1139/1336 短編
★タイトル (XVB     )  98/12/ 5   0: 2  ( 51)
夢を主題とした三名と一頭の物語            $フィン
★内容

 ある島に女の子がいる。新人女優がいる。女の子の加護者でもあり新人
女優のマネージャーでもある男がいる、そして小さな子供の白虎がいる。

 誰も懐かなかった白虎が新人女優にだけ身体を嘗めるようにして擦りよ
せるようになった。新人女優は白虎との競演で世間の注目をかい、女優と
しての道を乗り出すようになった。そのとき女の子は男の加護を受ける身
のどこにでもいる子供であった。

 やがて、女の子は大きくなって少女となり、新人女優は大女優と名され
るようになり、男は大型女優のマネージャーでもあり、少女を加護するだ
けでは手に余るようになった。そして小さな子供の白虎は大きくなり立派
な成獣となった。

 少女は美しくなり、大女優は年月が過ぎ、美しかった自分の身が老いた
のを知り、男は大女優から少女を殺すように頼まれる。そして白虎は大女
優だけではなく少女にも懐くようになった。

 少女は逃げ、女優は激怒し、男は女優の裸体と少女の顔をつけた蝋でで
きた人形をつくり白虎に与える。そして人の匂いがしない蝋人形に白虎は
気付き人形をずたずたに引き裂いた。

 少女は海に入り、女優はとりあえず満足し、男は自分のしたことに後悔
し、老僧に頼んで少女の居所を探すよう頼みこんだ。そのとき白虎は何も
しなかった。

 海の中ぷかぷかと浮かぶ壷の中に少女は眠っていた。女優は自分を脅か
した少女のことなど忘れ、他の役になりきることに専念し、男は壷の中の
少女のことを気を止めながら、女優のマネージャーとしての仕事を全うし
しようとした。そして白虎は以前引き裂いた蝋人形のことで腹を悪くしう
めいていた。

 少女を乗せた壷は老僧によって大陸の浜辺で発見され、女優は邪魔な少
女がいなくても仕事につまずくことが多くなるのに気付き、男は忘れよう
とするのに少女の面影がまぶたに焼き付いて離れようとはしなかった。そ
して白虎は苦しんでいた。

 少女は壷の中から救い出され、女優はますます仕事でつまずくようにな
り、男は少女が発見されるのを知るとマネーシャーをやめ少女の元へと走
った。白虎も少女のことを聞くと、今までのように年老いた女優との競演
に嫌気がさし、島を泳いで抜け出した。

 少女は新人女優となり、女優は白虎がいなくなり女優としての仕事がで
きなくなり、男は少女のマネージャーとなり、少女との間に女の子を一人
もうけた。そして白虎は今は新人女優となった少女だけに懐くようになっ
った。
 
 これから、新人女優、元女優、男、白虎、三名と一頭の新しい物語が始
まろうとしていた。

                             $フィン



#1140/1336 短編
★タイトル (AZA     )  98/12/ 8  18:18  ( 70)
「お題>【台詞のみ】>「台詞のみ故、無題よ」   永山
★内容
「んなこと言ってるけど、益子。それ自体が題名になってるじゃん」
「ノンノン。気にしない。ちょっとした洒落だからいいの」
「作者名だって書いてるしさ」
「うるさいわね、もう」
「……」
「あら、急に大人しくなったわね。どうしたのかしらあ?」
「……」
「……ねえ、ちょっと。黙られると困るのよ。これ、台詞のみなんだからね」
「……」
「私とあなた、二人しかいない登場人物の片方が黙っちゃったら、話が進まな
いわ」
「……」
「ん? この人ったら、ペンと紙を取って、字を書き始めた。――あっ、こん
な台詞でごめんなさいね。こうでもしないと伝えられないのよ、許してちょう
だい――。えーと、何々。『台詞のみだったら、もっと面白いことをやろう』
ですって? 何かあるの、案?」
「あるよ。始めるから、着いてきて。――刑事さん、すんませんけど、明かり
を消すか、あっちへ向けてくれやしませんか。目がいとうていとうて、はあ」
「?」
「まぶしいてかなわん、ほんま」
「ふむ。つまり、こういうこと? ――全部を白状したら、消してやってもい
いぜ。ふふふ」
「いけずせんと、はよう消してください」
「焦るな。わしが小さい頃はな、親から辛抱というもんを教え込まれたものだ。
親だけじゃない、近所の大人は皆、恐かったなあ」
「思い出に浸っとらんと、後生やからたのんますわ、もお」
「だめだ。先に、正直に言ってもらおうか。ブツをどこに隠したんだ?」
「知りまへんて、さっきから何遍も言うておまっしゃろ。ぼけとんちゃうんか
いな。結構なご高齢やし」
「ほう、そうかい。じゃあ、あのことをおまえんとこの親分にばらすぞ。おま
えにとってどちらが重荷か、ようく考えることだ、あほ」
「親分……おお!」
「さあ、どうするんだ? 言ってしまえよ、さ」
「かぁーっ、困った。ううーん。……刑事さん、一つだけお願いがあります。
聞いてくれまっしゃろか?」
「だめと言いたいところだが、話す気になったのなら……何だ?」
「胃が空っぽなんですわ。空腹で喋る気力もなけりゃあ、頭も回りゃしまへん。
何でもいいから、食わせてください」
「何て奴だ、やれやれ。しょうがねえな。出前を取るか。カツ丼でいいよな?」
「好物なぐらいで――この辺でやめようかな。そっちの意見はどう、益子?」
「――私も賛成だわ」
「よし、結構。で、僕が言いたかったのは、台詞のみによってできることの多
様性で……僕達がお芝居を始めた場面から読み始めた人は、僕と益子の会話を、
刑事と容疑者のものだと考えるよ」
「当然ね。私もそのつもりだったもの。違うと?」
「断定はできない。刑事を職業とする男が、もう一人の男と宝探しごっこをし
ていたのかもしれない。目標物を隠した男に対して、刑事は短気にも、強引に
隠し場所を吐かせようとしているのさ。明かりがまぶしいだの、出前でカツ丼
を頼むだのは、普通の家でもあり得る光景だ」
「……なるほどね。理屈は通っている。屁理屈だけど、まあいいかな」
「参考までに、今の警察では、取り調べの最中、あるいは終わった直後にカツ
丼を食わせてくれることなんてないんだってさ」
「ふうん。予算が足りないのね。カツ丼はだめ、玉子丼ならOK? うふふ」
「はっ! つまらない冗談だなあ。話を戻すと、場面の状況や登場人物の職業
の他にも、色々なことを勝手に推測しているんだ、読んでる人達は」
「たとえば何があった?」
「喋りから、容疑者を関西出身だと思うに違いない。また、益子の口ぶりにし
ても、男性、しかも老人だと信じ込むだろうし」
「うん、それが常識というものでしょう」
「刑事、ライト、カツ丼から取調室を連想し、関西弁を喋れば関西人、老人は
必ず年寄り言葉を話す……こういった約束事のようなものがあると、読者は無
意識の内に決めつけている。物書きにとっては、そこが狙い目で、いくらでも
詐術を仕掛ける余地ができるわけ」
「くっくっく。そうよねえ。現に、私が女だとは一言も記していないのに、読
んでいる人達の大半は、『益子は女』と思い込んでおられるわね、恐らく」

 と、ここまで書いたところで大いなる疲れを感じた私は、文書をとっとと保
存して、パソコンの電源を切った。

――終」



#1141/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/ 9  22:44  ( 44)
   α−Pierrot
★内容


真っ赤な絨毯
追憶の名残
 粘土の形
 切符の拓
  血漿の誓い
  指紋の軌跡
   吐息の想い
   空瓶の影
    曲奏の響き
    途の調べ
やおら咲く花
いつくみしくものかほり
艶やかな花びら
凪がれのある潤い
 舶来の胎動
 滑稽な幕弾き
 足踏み埃
 儚き霞み
  凸と凹
  道を曳き
  舟を漕ぐ
   古きとは慣わし
   地蔵の列
   笠の数
    髣髴は早漏
    遅々鳩尾の声
    雛鳥の行方
    時の彼方
南無
此れ其れとは知らず
有無
空き知れずとも耽る
沙流
幽囚の痴 歩廊の民
無恥
屏息とゆる彷徨
瓦礫瓦礫ぐわれき
発酵-hatsukou-


 [No.81]




#1142/1336 短編
★タイトル (CWM     )  98/12/10  20:44  (162)
お題>【台詞のみ】>インタビュー     つきかげ
★内容
 え、誰?知らないよ、そんな名前。

 なんだって?ああ、ミオね、知ってるよ。同じ授業を選択していたからね。友達
というほど親しくはないけど、話はしたことあるよ。
 なんていうか、普通の娘っていう感じだったな。個性が無いというといいすぎな
のかもしれないけど。存在感は無かったよね。
 死んじゃった、て聞いたけど。なんていうか、消えちゃった、という気がするね。

 ミオ?知ってるよ。あの娘、一時住むところ無くしちゃってさ。うん、私の家に
住んでた。なんか見ためは普通なんだけどねぇ。何考えているのか判らないところ
があったかな。
 ていうより、何も考えていないのかな。とにかく自分を大事にするということを
知らない娘だった。その分自由なんだろうけどね。自分の未来に縛られないって意
味でさ。
 死んだのも無理ないと思うな。だって自分のことに無頓着すぎたもの。
 え?ううん、誰も嫌ってはいなかったと思うよ。人懐っこい娘だったし。なんか
さ、いつのまにか人の心の隙間に入り込んで不思議とちゃんと存在を主張してるみ
たいな。
 結局、私に男ができてさ、追い出しちゃったんだけど。その後も色々転々と住む
ところ変えてたみたい。
 ところであなた何なの。刑事、じゃないよね。え、占い師なの。ああ、ミオの友
達だったのね。

 ああ、一緒に住んでた。ミオはとにかく自分のことを話したりはしなかったな。
なんていうかさ。抱いたことはあるけど、体は繋がっても心は繋がらないっていう
かねえ。
 女の子てさ、関係ができるとこっちに入り込んでくるところがあるじゃん。で、
相手に自分の見えない何かがあるのを嫌うような。ミオにはそんな感じが、ぜんぜ
んなかったなあ。
 それが寂しいって感じはなかったけどねぇ。まあしいていうなら、同性といる感
じに近かったけどね。うーん、メンタルな面でミオの中に男性を感じたというより
は、むしろその逆。女性が感じられなかったなあ。
 まあ、そへんが楽といえば楽なんだけど。ただ、感情の、こうなんていうか交流
が無いまま一緒に住んでるとさ、最初はいいけど煮詰まってくるじゃん。
 なんか、こっちから避ける感じになってさ。ま、勘はいい娘みたいだったからそ
れを察して、自然に身を引いていったんだけど。
 死ぬ前にどうしてたかは、よく知らないな。授業にも出ていなかったし。何しろ
住所不定だし、携帯も持ってなかったから連絡とりようも無いしね。
 ああ、カインとかいうやつとつきあってたって聞いたけど。

 知ってるよ、カインだろ。奇妙なやつだよ。ああ、おれと同じ文芸部でね。
 同じといってもおれが書いているのは、ロールプレイングゲームふうのファンタ
ジィ小説なんだけどさ、あいつはちゃんとした評論を書いてたよ。ドゥルーズ、ガ
タリとかデリダをちゃんと読みこなした上での評論でねえ。バタイユとかも読んで
たみたいだけど、ま、おれとかはレベルが違うというか。
 書いてることは奇妙でね、ようするに小説がなぜ書けないかということばかりを
論じていたな。つまり小説を書けるというのは、ある種の奇跡のようなものであっ
て、書く、という行為を実現するにはどうしても超えることのできない断絶を跳び
超える必要があるということを書いてた。
 そう、訳が判らないんだけどね、あいつはサルトルの引用をしてこういう話をし
ていた。舞台の上で完全なる瞬間が演じられる。役者は、完全なる瞬間を演じてい
るにすぎず、観客は完全なる瞬間を見ているにすぎない。完全なる瞬間はどこにも
ない。けれど演劇は成立している。
 しかし、小説はちがう。書き手も、読み手も、その行為の中で完全なる瞬間を経
験することは無い。にも関わらず、小説には完全なる瞬間が降臨しなくてはならな
い。不可能が可能になってこそ、小説が成立する。それが、やつの主張だった。
 いってること、判らないだろう。
 おれが思うにさ、演劇は完全なる瞬間をある手順を踏んで、つまり練習するとか
舞台装置を作成するとかそういう技術的なことを経て、演出することを可能にする
だろ。つまり演劇は疑似的な生なんだよな。疑似的であってもそれは生だ。
 けど、書く、あるいは読むということは、疑似的な形であっても生とは呼べない。
それはなんというか、本当は行為とさえ呼べないよな。特に明文化できる技法も技
術も無い。演劇と比べるとね。けど、書かれたものは存在し、完全なる瞬間の存在
を暗示する。
 明確な手順や、手法、技法を提示できないにも関わらず、突如として小説は出現
する。やつはそういいたかったようだ。演劇と対比することによって。
 おれはやつに聞いたよ。なぜおれは完全なる瞬間の降臨を感じることなしに、小
説を書けるのかって。やつがいうには、物語と小説は違うらしい。
 ミオという女の子とつきあっていたのは、知ってる。やつは言ってたよ。おれの
書くべき小説が見つかったって。
 あいつはさ、危ないやつだったよ。チーマとかとつきあってたしね。その女の子
が死んだ原因がカインにあったとしても、おれは驚かないぜ。

 なんだよ。ミオだって。ふん。話してやってもいいけどよ、おれの言うことを信
じられねぇと思うよ。もっとも、おれ自身あまり信じちゃいねぇけどさ。
 何しろラリってたからなあ。多分ヘロインとかそういうのだったと思うよ。カイ
ンに渡された薬は。だからおれは多分、麻薬による幻覚を見たのさ。そのラリった
野郎のよた話でもいいってんなら、話すぜ。
 あっそう。
 じゃ、眉に唾つけて聞くこった。
 カインの山荘に呼ばれたのは、夏の終わりだったな。やつは金もちだからね。よ
くとんでもない遊びを一緒にしたもんだけどさ。
 で、きっとその時もろくでも無い遊びを企んでると思って行ったのさ。そしたら、
期待を裏切らずっていうかねぇ。やつはさ、その山荘で飼っていたんだよ。そのミ
オって娘を。
 いや、囲ってたとかじゃなくて、動物として飼っていたんだ。服は何も着せてい
なかった。言葉がしゃべれないように、革のストラップでゴルフボールくらいの玉
を口にくわえさせられてた。
 首輪をつけられてさ、立って歩けないようにされていたよ。いや、SMというの
とは違うねえ。あれってロールプレイングだし、ある意味、お芝居じゃん。あの時
やってたのは、もっと徹底的に人格を否定するような。
 つまりさ、SMはマゾヒストの人格を前提にして成立する芝居であって、マゾヒ
ストが人格を破壊されていれば、成立しないんだよね。あの時はそういう状態だっ
た。
 おれたち、つまり山荘に呼ばれたのは全部で4人だったけどね。
 おれたちはすぐに薬をきめてさ。あとは陳腐な行為に没頭したんだよ。そう、レ
イプともいうかねぇ。
 でも、人間相手にしているって感じが無かったよ。いや、動物というか、もの。
カインもおれたちも、ミオという存在をものへ戻そうとしていた気がする。カイン
にいわせりゃバタイユのいうところの連続性というやつなんだろうけどね、おれに
ゃ難しい話判んねぇって。
 うーん、ミオが苦痛を感じてたは、判らないなあ。普通の娘じゃなかったしねぇ。
おれが思うにあれは儀式だったなあ。イニシエーションていうやつ。いや、おれっ
てチーマだけど、一応文化人類学専攻してるからさ。
 けど、イニシエーションはミオが結社に加入して終わるはずだけどさ、最後はミ
オの死で終わるんだ。カインが殺したよ。ナイフで心臓をえぐり出した。その血を
おれたちが飲んだんだけどね。
 だからさ、麻薬の幻覚だっていってるじゃん。ミオの死体が海で見つかったのは
知ってるし、溺死だとも聞いてるよ。
 カインがなんでそんなことしたって?わかりゃしねぇよ。おれ馬鹿だもん。

 ええ、私がカインです。
 ええ、その通りです。
 私がミオを殺しました。
 いえ、ヘロインじゃ無いですよ。ただのLSDです。いや、入手経路はちょっと。
心臓をえぐったですか。ええ、多少過剰な演出だったかもしれませんけどね。豚の
心臓を使いましたよ。
 小説は不完全で終わりました。ええ、その通りです。私はミオという本に、小説
を書こうとしました。でも、ミオが生きていなければ、書けたとはいえません。
 そう、彼女は白紙でした。からっぽでしたよ。だから私がつめ込もうとしたので
す。完全なる瞬間を。
 彼女は完全なる瞬間を刻印されたひとつの小説として、私の作品として生きつづ
けてゆくばずでした。
 ええ、許されることでは無いでしょうね。しかし、彼女はいずれにせよ、不完全
でした。あまりの深い空虚さをその精神に抱え込んでしまった為、生きる根拠を喪
失していたのです。
 彼女と出会った時、彼女は死のうとしていました。そこで彼女と契約したのです。
生きる目的を私があたえる。その替り、一日だけ私の自由にされる。そういう契約
でした。
 私は小説を書けない苦悩にさらされていました。彼女は、私が天から与えられた
恩寵のように思えたのです。
 小説は、つまり書くことは生きることと断絶している。生の中にある崇高な瞬間
を込めることができない。少なくとも私にとっては。
 私は私の山荘で疑似的な儀式を演出しました。つまり、疑似的に実存としての神
話へ彼女を放り込んだのです。彼女は破壊され、神話的な再生によって再び創造さ
れたのですよ。
 ええ、彼女はむろん書かれた文字としての小説ではありません。けど、そんなこ
とはどうでもいい。彼女に完全なる瞬間の刻印がなされれば、彼女は私の小説なの
です。
 でも、彼女はそれに耐えられなかった。
 そして、死んだ。
 私は誤ったのです。
 で、あなたはミオの友達でしたか。ああ、占い師の方でしたね。
 ああ、あなたの所へミオが降霊して文章を書いていった。そういうことですか。
自動筆記というやつですね。なるほど、霊感の強い人にはあると聞いていますが。
 私にあてた文章だったのですね。
 ええ、もちろんです。
 ぜひ、聞かせてください。

 あなたは多分、あなたの過ちにより私が死んだと思っているのでしょうね。
 そうではありません。
 あなたはむしろ、完璧すぎたといってもいいでしょう。
 私は生きはじめたのです。
 あの瞬間から。
 あなたの作品となったあの時から。
 なぜなら、私は愛を知ったから。
 あなたへの愛を。
 真実の愛を。
 そして、それが、決してあなたへの心へ届かぬ愛と判ったから、死んだのです。
 だから、一言だけ、あなたに伝えたくて戻りました。
 愛しています。
 永遠に。   



#1143/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/16  20:49  ( 12)
Pandora's box(4) α-Pierrot
★内容


「ひとつの誓い」

ひとつの裏切り
嫌悪する
我を、か
解放感を、か


 [No.82 - 1/6]




#1144/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/16  20:51  ( 63)
   α−Pierrot
★内容


       羊を追う枝の葉を

        そっと握る手が

         本当に確かに

             此処に

             在って

         太陽の奏でる

         血漿の風紋の

           広がる地

         裸足の呼吸は

        地下層に挟まり

       吸収されきれない

          化石になる
                    [i-shi']
      奇跡と呼ばれる意志
                 [i'-shi]
       巡礼に歩む石畳の

        土埃を拾い歩む

      ベトナム袈裟の裾が

         そよ風に凪ぐ

        乾いた頭蓋骨の

             横に

            転がる

          空の薬莢を

        空缶に拾い集め
                 [na-ca]
         レンズの宇宙

      逆さまになって笑う

        風化さえしない

     硝子の欠片を乗り越え
        [so-ra]
        空の枝が転がる

          今朝の風に
     [a'-ku-bi]
           欠伸して


 [No.83 - 2/6]




#1145/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/16  20:52  ( 45)
   α−Pierrot
★内容


鼠の喰えないチーズ
鼬の笑うナイフ
ポケット一杯にピザを詰め込んで



煉瓦の壁 と 煉瓦の壁
    そっと
    飛ぶんだ





ぴん と張った綱が
風車をまわす
ぐるぐるぐるぐる ぐるぐるる
             る
           るるる

  ...ね


天空を掴む為 根は地中深く
育む休息と共に 葉は揺れる
からからと通す欠片すべて 幹の中の中

迫撃砲に絡まる蔓
道の影に落ちる影
崩れた積み木の奥で
笑うハナタレ

落ちて逝く砂粒をひとつ一つ
星影に手を掛けて
振り返り掴む乳房


煉瓦の壁 煉瓦の  煉瓦   煉     
                                              瓦の壁


 [No.84 - 3/6]




#1146/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/16  20:53  ( 56)
   α−Pierrot
★内容


履けなくなったジーンズ
     スス
     煤焦げたパン

     チープな演劇
 アヒル
 家鴨にだってなりたい



  回
 旋



       兵隊の列に

     ペンギンが紛れ

    肩に掛けた銃口が

この空を打ち抜きたい、と
     ミト
    見捕らえたものは

        隣の背中


  セジョウ
+施錠


                カブ
時間軸に乱数表を被せ
   ツム      アヤト
   紡ぎ結い綾取る



 未知〜



  微かに聴こえる

  掠れたラジオの

     天気予報

多分どこで雨が降る


 [No.85 - 4/6]




#1147/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/16  20:53  ( 27)
   α−Pierrot
★内容


          堕ちゆく砂の欠片を
            掬うわけでなく
          細く歪む一筋の穴を
           塞ぐわけでもなく
        振り返るカーテンの裾に
             振られる花瓶
        生ける花から舞う華びら
           渡り過ぎゆく風に
          一途な香りを記して


も。すんごじでこンごおる  お

ねえ、そこに在る影はあなたのもの?

明日は嵐ら


         漕ぐ碧を対岸へ寄せて
        火薬の臭いがζ住む町で
           今年の冬を越そう


 [No.86 - 5/6]




#1148/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/16  20:54  ( 20)
   α−Pierrot
★内容


鉄線を喰む
唇の端を切る
にたり笑う
胸骨を掻く
ふたつの爪が剥がれる
おぶる太陽
硝子を頬張る
ひらききった眼を灼く
熱射の線路
刃先を握る
寸前の筋
柄の文様

「剥製の証明」


 [No.87 - 6/6]




#1150/1336 短編
★タイトル (GVJ     )  98/12/21  16:21  (120)
お題>【台詞のみ】>堕天使の日       青木無常
★内容
 ----“弱き者”、“弱き者”よ
 ----…………
 ----“弱き者”、聞こえぬのか、“弱き者”よ
 ----…………
 ----“弱き者”、目を覚ませ、“弱き者”よ
 ----…………ん…………だれかがおれを呼んだのか? いや、そんなはずはない。
この囚われの身のおれを呼ぶ者など……
 ----私だ、“弱き者”。私がおまえを呼んだのだ。
 ----だれだ、おまえは! どこにいるのだ! 姿を見せろ。
 ----姿は見せられぬが、私はおまえのそばにいる。
 ----ちょっと待て、いまろうそくに火をつける。
 ----やめてくれ! 頼む、火をつけるのはやめてくれ!
 ----なぜだ。おたがい顔が見えないと話しにくいだろう。
 ----よいのだ。闇がよいのだよ、“弱き者”よ。お願いだから、ろうそくをつけ
るのはやめてくれ。
 ----……おかしなやつだな。まあよかろう。ではおまえはだれなのか教えてもら
おうか。
 ----私は堕天使だよ、“弱き者”。
 ----堕天使! 闇の力! 暗黒の帝王! 悪魔たちの父祖、あの堕天使か!
 ----そのとおりだよ、“弱き者”。私は闇の力、暗黒の帝王、悪魔たちの父祖、
あの堕天使だ。
 ----散れ! 散れ、悪魔め! おれはこのとおり牢獄につながれてはいるが、悪
魔に魂を売ったりはしないぞ! 散れ、堕天使、邪悪なる者!
 ----私はいかぬよ、“弱き者”よ。私はおまえの味方なのだ。
 ----うそをつけ、悪魔め! おまえたちの誘惑の手口はわかっているぞ! そう
やっておれを安心させて、心にすきをつくらせるつもりなのだ!
 ----なにをいうか、“弱き者”よ。なぜ私がおまえの心を油断させる必要がある?
そんなことをして、私がいったい何を得られるというのだ。
 ----魂だ! 魂だよ。おれのこの、汚れた、不浄な、みにくい魂をおまえは得よ
うとしているのだ。
 ----ああ、なんという貧しさ。いいか“弱き者”よ。私は汚れた、不浄な、みに
くい魂など欲しくはない。そんなものを手に入れたところで、なんの得にもなりは
しないのだからな。
 ----ではなぜおれを誘惑しようとするのだ?
 ----おまえが私を呼んだからだよ、“弱き者”。
 ----おれがおまえを呼んだって? このおれが、汚らしい悪魔の頭目を!
 ----呼んだのだよ、“弱き者”よ。おまえは、激しく私に会いたがっていたのだ。
 ----うそだ! おれはどんな悪事もはたらいてはきたが、悪魔に身を売りたいな
どとは一度として思ったことはない!
 ----“弱き者”よ、おまえは勘違いをしている。自分の心を自分で隠してしまっ
ているからだよ。弱き者はみな、おのれの悪をほんとうは知っているのだ。だから
私のような者を呼ぶのだよ。
 ----なんということだ! おれの心のなかにそのような汚らわしい思いが隠され
ているのか!
 ----だからおまえは、ほんとうはきれいなのだ。自分の悪を知り、それを恐れら
れる人間こそ、ほんとうにきれいなのだよ。私のような者は、そんなきれいな人間
に、さらに行くべき道を示すためにいるのだよ、“弱き者”。
 ----このおれがきれいだと? そして、きれいな人間を導くのがおまえたちの役
目だと? ふん、堕天使め! やっぱりだ! 導く、とは悪の奈落へのことか? 
おまえたちの汚物と悪臭にまみれた地下の世界へのことか? いいや、おれはだま
されない。おれは疑うことを知っているのだ。ましてやその相手がおまえならな、
堕天使!
 ----ああ、“弱き者”よ、おまえはなぜいえるのだ。私の世界が汚物と悪臭にま
みれた奈落の底だと。
 ----おまえが悪魔だからだ! 悪魔は悪だからだ!
 ----なぜ私が悪だと断言できるのかね、“弱き者”。私が善でないとと、なぜい
いきれるのかね“弱き者”よ。
 ----おまえは対立者だからだ、堕天使よ!
 ----対立者! 私がか! では、私に対する者はだれか。その者は善で、私が悪
となぜいえるのか。
 ----いえる。善は神だからだ。
 ----善は神だと、なぜいえる。
 ----神は善だからだ、邪悪なる者よ!
 ----私は神の許からやってきたのだよ、“弱き者”。神は反逆というレッテルを
私にはって、天界を追った。だから私は神に対立する者となったのだ。ではきこう。
私を追放した神が善で追放された私が悪なのか、それとも追放された私が善で追放
した神が悪なのか、おまえに判定することができるのかね?
 ----追放した神が善で、追放されたおまえが悪なのだ。
 ----証をたててみよ、“弱き者”。たてられるかな、“弱き者”よ。
 ----おれの根源がそう叫ぶからだ、堕天使よ。
 ----おまえの根源がどれだけ確たるものなのか、おまえにはわかるのか? おま
えの根源が神に関与されていないと、おまえにはわかるのか?
 ----……では、堕天使よ、おまえにはわかるというのか?
 ----私にはわからぬ。わからぬのだ、“弱き者”よ。善悪というものが。善とは
なにか。なにをするものなのか。なんのためにあるのか。なんの理由であるのか。
どこへ行くのか。悪とはなにか。なにをするものなのか。なんのためにあるのか。
なんの理由であるのか。どこへ行くのか。私にはわからぬのだ。
 ----それはおまえが悪だからだ、堕天使。
 ----なぜ悪だから善がわからぬのか。なぜ悪だから悪がわからぬのか。
 ----悪だからだ、堕天使。
 ----では、対立者としての善もまた、善を、悪を、わからぬのではないか。
 ----善は善であるがゆえにわかるのだ、善を、悪を。
 ----それはちがうよ、“弱き者”。善も悪に対する対立者でしかない。対をなす
ものに、その本質においてなんのちがいがあるというのだ? 対立は、綜合へと進
む。それだけだ。
 ----綜合! 神と悪魔が? なとんばかげた空想だ。
 ----神に不公平を見出した者は、善を悪、悪を善と考えたのだよ、“弱き者”。
善も悪も、それぞれの道をたどればみずからを破壊するだけだ。
 ----破壊! だが堕天使よ、再生がある。
 ----そう、再生だよ! 再生とはなんのためにあるのか。道を見出し、綜合への
橋を架けるためにあるのではないのかね?
 ----なぜだ! なぜだ、堕天使! ……なぜおまえは、悪のおのれに失望し絶望
したおれに希望を与えようとするのだ! なぜなのだ、堕天使よ!
 ----綜合のためだよ、“弱き者”よ。すべては綜合のためだ。
 ----なぜだ! なぜおれに熱望を与えるのだ! これが、これがおまえの手か、
堕天使! ならばおれはだまされはすまい。あざむかれはすまい。
 ----あわれな! 愚かしい人間めが! このおれの、この堕天使の言葉に従えば、
理想を体現することさえできただろうに! 人間めが! 現実の下僕めが! 囚人
めが!
 ----堕天使
 ----ああ、おれはいつでも孤独なのだ。現実に反逆する唯一の存在なのだ! こ
れでは、これでは綜合などあり得ようはずもない! 小ぢんまりとしたみみっちい
舞台で、くだらぬからまわりの役を演じつづけなければならぬのがおれなのだ! 
おれ、堕天使なのだ!
 ----堕天使
 ----そうとも、おれが戦ってきたのは、つねに悪だった。そしてそこからおれは
善を生んだのだ。しかしそれを知る者など一人としていはしないではないか! そ
れでも、それでもこの堕天使は戦わねばならぬのだ。綜合するために!
 ----堕天使!
 ----ああ、おれは行くぞ。さらばだ、“弱き者”、あわれなる者よ! おれは行
く。
 ----堕天使! 堕天使!
 ----…………
 ----堕天使!
 ----…………
 ----堕天使
 ----…………
 ----堕天使…………

                                   Fin.



#1151/1336 短編
★タイトル (VBN     )  98/12/22   0:49  (146)
「雪の中」    時 貴斗
★内容
 びゅうびゅうという恐ろしい音をたてながら、相変わらず激しい
勢いで雪が男の体に吹き付けられている。ざっく、ざっくと雪原を
踏みしめながら、男は真っ白な視界の中をやみくもに歩いていく。
 「米山!氷川さん!」
 男は叫ぶ。何度も、何度も叫び続けてきた名前だ。だが相変わら
ず、返事はない。
 「寒い……」
 自らの両腕で、自らを抱きしめる。体の芯まで冷えきって、歯が
がちがちいうのを、止めることができない。

 視界不良の中、丘を越え、分厚く雪のコートをまとったエゾマツ
の間を抜け、氷ついた川の上を渡り……そしてまた丘を越え、分
厚く雪のコートをまとったエゾマツの間を抜け、氷ついた川の上を
渡り……。
 雪山で遭難し、疲弊してくると、方向感覚が失われて同じ所を堂
堂巡りすることがあるのだという。そんな雪山に関する乏しい知識
が、男の頭に思い起こされた。
 すでに時間の感覚も、方向感覚も、失われていた。
 男は雪山での登山を、なめていたのだ。

       *       *       *

− 我々は"円錐"の中でしか動き回れないのだよ。 −
− どういうことですか?先生。 −
− 垂直方向に時間を、水平方向に空間をとった座標系の中では、
  現在の座標を頂点とする倒立した円錐の中でしか、動き回れな
  いのだよ。まあ簡単にいえば、空間を移動すれば時間もたつ、
  ということだ。 −
− 先生の研究は、時間は経過しないまま空間を移動する、という
  ものでしたね。そんなことができるんですか。 −
− ああ。例えばおそろしく強力な重力場では、時間の経過が遅く
  なることくらいは、科学雑誌の記者をしているくらいだから君
  も知っているだろう?例えばブラックホールのシュワルツシル
  ドの壁では、完全に時間が止まってしまう。 −
− でもそれでは運動も止まってしまうのではないですか?時間が
  たたないまま運動する、というのとは違うと思いますが。 −
− 時間がたたなくする方法の一つの例を挙げたまでだ。ではもっ
  と分かりやすい例を挙げよう。ワームホールは知っているだろ
  う?あれだと入り口と出口の間には時間の差がない。 −
− ああ、遠く離れた2つの場所を瞬時に移動する、"宇宙の虫食い
  穴"のことですね。 −
− そうだ。ここで重要なのは2つの場所が「遠く離れている」と
  いうことではない。場所を移動しているのに時間が経過してい
  ない、ということだよ。 −

       *       *       *
 
 思えば、あの立て札を無視したのがいけなかったのだろうか、と
男は思う。
 「ここより先、遭難の危険あり。」の立て札を見た時、米山は言っ
たものだ。
 「いいよ。無視、無視。迂回してったら、とんでもなく遠回りに
なるぜ。」
 その時すでに、ちらほらと雪が舞い始めていた。雲行きも怪しか
った。あの時、思い切って引き返す決断をすべきだったのだ。
 ……甘かったのだ。
 進むに従って、雪の勢いはその猛烈さを増していき、遂には真っ
白な雪の壁に視界が阻まれた。気がつくと、前を行く二人の姿が見
えなくなっていた。
 「おい!米山、氷川さん!どこだ!!」
 ……返事がない。男は駆け出した。途端に足が深い雪の中にず
っぽりと埋まってころんだ。どうしようもないあせりが、男の口を
からからに渇かせ、全身から汗が吹き出し、恐怖が喉元を這い登っ
てきた。
 「米山!氷川さん!!」

       *       *       *

− 先生の研究は、完成されたのですか? −
− ああ。実験室のレベルではね。我々は直径1メートルの、"時間
  が経過しない"空間を作った。もちろん方法は教えないよ。こ
  れはまだ極秘段階だからね。
  我々はその空間にマウスを放った。マウスはその、1メートル
  の円内に入るやいなや、フッと消えてしまった。 −
− ……どうして、消えるんですか? −
− 考えてもみたまえ。0秒の間に無限の距離を移動できるのだ
  よ?つまり無限の速度を持っているわけだ。そんなものが見え
  ると思うかね? −
− マウスは……どうなったんですか?円から出てきて、どこに
  も変化がなかったんですか。 −
− いや、マウスはそこから出てくることはできない。マウスは永
  遠に時間軸上の一点にとどまっているが、我々は時間軸上をど
  んどん未来方向に進んでいく。だからマウスが我々と同じ"時
  空間"に出てくることはできないのだよ。 −

       *       *       *

 男は腕時計をのぞきこむ。
 ……8時27分。
 何度見ても同じ事だった。時計は壊れてしまっていた。まさかこ
の寒さで動かなくなってしまった、というわけではあるまい。おそ
らくあの時に壊れてしまったに違いない。
 真っ白に舞い続ける雪の中、男は右も左も分からず歩き回ってい
た。突然、足元の雪がぼろりとくずれた。男は崖のふちから突き出
した雪庇の上に足を踏み出してしまったのだ。
 「わあっ!!」
 4メートル近く転がって、岩にぶつかって止まった。危ないとこ
ろだった。下方を見やると、急斜面が延々と暗闇に向かって延びて
いるのだった。
 あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。ほんの5分にも
思えるし、10時間もたったようにも思える。右腕がまだずきずき
と痛む。
 南西に4キロほど行った所に、避難小屋があるはずだ。しかし男
には、もうどちらが南西なのかも、分からなかった。

       *       *       *

− 我々は次に、もっと大きな空間を作ることにした。実験室の中
  ではなく、普通の土地にね。我々は直径3キロメートルの、"時
  間がたたない空間"を作ることに成功したのだよ。でもこっち
  の方は未完成だ。安定して存在させ続けることができないの
  だ。 −
− 普通の土地に、ですか?そんな事をしてもし誰か入り込んだら
  どうするんですか。 −
− その辺は大丈夫だ。場所は辺鄙な所だよ。北海道の旭岳の山奥
  だ。しかも季節は冬。登山コースからも外れている。しかも空
  間は安定して存在させ続けることが不可能だから、春が来る頃
  には元の普通の空間に戻ってしまうだろう。 −
− もし、誰か迷いこんだとしたら……どうなります? −
− この空間は閉じているから、絶対に外に出ることはできない。
  そうなったら大変だ。 −
− 春が来るまで、出られないというわけですか。 −
− いや、その人間には春は来ないな。ずっと冬のままだよ。冬の
  大雪山といったら、極寒の地だ。永遠に逃れられない、"寒冷地
  獄"だね。まあ、もっとも、誰か入り込んだとしたら、の話だ
  が……。 −

       *       *       *

 「寝てはだめだ。」
 男は重くなるまぶたを必死にこじあけ、ずるずると重い足をひき
ずって歩いていく。その足にはもうほとんど感覚がなかった。凍傷
になりかけているのかもしれない。
 気をゆるめると、睡魔が容赦なく襲ってきて、心地よい眠りの中
に引きずり込まれそうになる。
 あと何時間待てば、朝が来るのだろうか?この雪はいつやむのだ
ろうか?
 ……分からない。
 雪の凍りつくような乱舞に巻かれながら、男は丘を登っていく。
この丘を越えれば、今度こそ……。

 必死の思いで丘をのぼりきった男の視界に、再び分厚い雪のコート
をまとったエゾマツの林が、薄ぼんやりと広がってきた。


<了>



#1152/1336 短編
★タイトル (EFF     )  98/12/22  22:35  ( 22)
   α−Pierrot
★内容


 鎖の粒が崩れ落ちる
蜘蛛の巣を伝う雫の核
大鋸屑を撒いた小屋の中
胸を絞める絆で
幌の張った扉が動き出す
 微熱に生える羽根
埃とちぢれた電球
天井の壊れた囲いの内
産毛だらけの卵を
舌で転がす
 老いた血憶の悪戯に
錆びた烏が群がる
蜂の褪にしがみつく
濡れた花粉
と。蝶の脚
幾重に道化
照明の無いが陽炎の中

 [No.88]




#1155/1336 短編
★タイトル (VBN     )  98/12/28  21: 7  (178)
「星を葬る」    時貴斗
★内容
「フローラが!?」爺さんの突然の報告に、私は驚きの声をあげた。
 山岡君も奥山さんも、驚いて腰を浮かせかけた。
「ああ、ついさっき……。わしらには何の連絡もなくな。」爺さん……中
田老人は、しょんぼりと肩を落とした。

 衛星フローラ。それは火星のフォボスに似た星だ。探索チームがアル
ファケンタウリに到着した時、そこに1つの地球に良く似た地質、気象
条件を持つ星を見つけた。その星にはNext Terraを略してネクテラと
いう名前がつけられた。
 そのネクテラの、でこぼこの、愛らしい月には、誰が最初にそう呼ん
だか知らないが、フローラという愛らしい名前がつけられた。
 フローラには炭素が豊富に含まれていた。それが命とりになったのだ。
上層部は強引に、基地建設のための資源を、フローラから採掘すること
を決定した。
 私達がネクテラに来た時には、すでにフローラは三分の一を残して、
全て削り取られていた。

 その最後のひとかけらが、ついさっき粉砕されたというのだ。
「日本人には未だに自然を愛でる感情が心の奥底に残っておると、彼ら
は思っとるんじゃろうな。だから知らされんかったのじゃろう。」爺さん
はもじゃもじゃの白ひげをいじくりまわしながら、しかめっ面をした。
 ネクテラの第四次探検隊は、ほとんどがアメリカ人とロシア人で占め
られている。数少ない日本人が、我々四人だ。
 私は窓辺に寄って空を見上げた。もちろんそんなことをしても、フロ
ーラは今、ネクテラの夜の側にあって、どうなったのか見ることはでき
ないのだが。おそらくフローラがあった辺りには、数々の作業機械達が、
まだ浮かんでいるのだろう。
 見上げる私の眼には、ちょうど中天にさしかかった、フローラよりも
若く、小さい、この星の第二の月である、アルテミスが大きく映ってい
た。

       *       *       *

 二日後、司令部から来たという軍服姿の男が、私達に一つの紙袋を持
って来た。
「フローラのかけらです。」と、男は言った。
 最後に数十個の小石となったフローラは、探検隊の各チームに配られ
ることになったのだという。無理もない。みんなこのあばた面のちっち
ゃな星に、愛着を持っていたのだ。いわば、形見分けというわけだ。
 男は敬礼すると、さっさと行ってしまった。
「どうじゃろう……。」爺さんはつぶやいた。「わしらの手で、葬儀をし
てやらんか。」
「葬儀?」まだ20代そこそこなのに40にも見える、分厚い牛乳瓶の
底のような眼鏡をかけた山岡君が聞いた。「でもやり方を知ってる人な
んて、この中にいませんよ。」
「ハハハ。爺さんの言ってるのは、そんな大げさなもんじゃないよ。穴
の中に埋めてさ。花でも供えて……」という私の言葉を爺さんがさえぎ
る。
「実はわしの爺さんは神社の神主でな。わしも小さい頃はよく手伝わさ
れたもんだよ。大雑把にしか覚えとらんが、神式の葬儀ならできるよ。」
 爺さんのそのまた爺さんか。一体何年前の話だろう。
「やりましょう!」と、チームの中では一番若い奥山さんが言った。彼
女の眼には涙がにじんでいた。
「で、やるとして、何が必要なんです?」と、山岡君。
「おいおい、本気かね。」私は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そうじゃな。米と、塩と、酒と、小刀と、あと木の板がいるな。塗料
がついてないのがいい。白木の台を作るんじゃ。あ、それと、富樫さん。」
「はい?」呼びかけられて、私はとまどった。
「悪いが、榊を探してきてくれんかね。」
「サカキ?」
「ああ、玉串を作るのに必要なんじゃ。基地の南はずれにある植物園か、
そこになければ中央の植物研究所にならあるかもしれん。」

       *       *       *

 地球から遠く離れた地で星の葬式をやることになった奇縁に驚きなが
らも、私は爺さんに教えられた通り、手桶で手を洗った。
 手水(ちょうず)が済み、爺さんが前へ進み出て、祭詞を奏上する。
爺さんは祭詞がどんなものだったか覚えてないので、「フローラの魂が
子孫に受け継がれることを祈り……」などと適当な言葉を並べる。
 私は、榊の小枝に紙のかざりをつけた玉串を持って霊前へと進んだ。
 台の上に水のコップと、御神酒が入ったコップと、塩、洗い米が入っ
た小皿、そして、「フローラ」と筆で書かれた小さな霊じが置かれている。
私は台の上に玉串を供えた。まだ採掘が始まる前に撮られたフローラの
写真に二礼し、しのび手で二拍手、再び一礼し、自分の席に戻る。爺さ
んの遠い記憶に頼っているので、どこまで正しいやり方か分からない。
 全員玉串を奉奠し終えた後、爺さんはフローラの前へと進んだ。
 私達は爺さんが白布の上の小石を白木の小箱に移すのを、厳粛な気持
ちでみつめた。
「どうします? 火葬ですか。土葬ですか。」と、山岡君が聞いた。
「そうじゃな。まさか火にくべるわけにもいくまい。土葬するにしても、
場所がのう……。しばらくは、もがり室に安置しておくことにしよう。」
 私達は、小箱を地下室へと運んだ。そこは土壁が剥き出しになったほ
ら穴のような場所で、ひんやりとしている。すでにダンボールやら何や
らが取り除かれ、きれいになっている。もがり室というのは、遺体を安
置する部屋のことである。
 部屋の真中のテーブルの上に小箱を置くと、「フーッ。」と山岡君がた
め息をついた。
「うっ……。うっ……。」奥山さんが顔を手で覆い、泣き始めた。「フロ
ーラ……。」
「神道では、死ぬと魂はどうなるのですか?」私は爺さんに聞いてみた。
「肉体がほろんでも魂は不滅じゃよ。人は結婚すると、自分の魂と相手
の魂が結びついて、子供へと受け継がれていくのじゃ。氏族の始祖から
子孫に至るまで、血がつながっていくように、魂もまた連綿とつながっ
ていくのじゃよ。そして自分が死ぬと、その霊魂は祖先の元へと帰って
いくのじゃ。富樫さんはお子さんは?」
「いや、私は子供ができないまま離婚してしまいましてね。今は独りで
すよ。」
「そうか。悪いことを聞いたのう。」
「いえ、いいんですよ。」
「いつもの事ですが……。」山岡君が口を手でおさえて言った。「ここに
いると、気分が悪くなる。酸素が薄いのかもしれない。僕もう上がって
ていいですか。」
「ああ。」
 山岡君が階段を上がっていってしばらくして、「ああっ!」という大声
が聞こえた。
「みんな! ちょっと来て下さい!!」
 どうしたのかと慌てて行ってみると、山岡君は寄宿舎の外に出ていた。
山岡君が指差す先を見た時、思わず私も「ああっ!」と叫んでしまった。
そこにはアルテミスがあった。小さな星だとは言っても、低空にあるた
めにかなり大きく見える。巨大な岩石が、空に浮いているように見える
のだ。その表面に昨日まではなかった赤い痣のような模様ができていた。
 それは、フローラにあったものとそっくりな模様だった。

       *       *       *

 我々の儀式によって、フローラの魂がアルテミスに受け継がれたの
か? そもそも物に魂があるのか? 果てしない議論が、私達の間で繰
り返された。答は出なかった。二日たち、三日たつうちに、みんなこの
事を追及するのをあきらめたようだ。
 そんなある日、私はふと、もがり室に行ってみる気になった。みんな
あれから、薄気味悪がって誰も地下室へ降りていこうとしないのだ。爺
さんでさえ。私は石が……フローラがどうなったのか気になった。
 地下室の裸電球をつけると、薄っすらとほこりをかぶった木箱が眼に
入った。木箱に近づいてみると、その横に置いてある守り刀にもほこり
がついていた。
 私はそろそろと箱の蓋を開いた。そこには変わらぬ姿で小石が鎮座し
ていた。
 ほっとため息をついた私の足に、突然激痛が走った。
「痛いっ!」
 見ると、どこから入ったのか、ネクテラの猛毒蛇マダラバリコブラが
私の足に噛みついているのだった。
「シッ!」
 足をひとふりすると、やっと口を離して、にょろにょろと這っていっ
て部屋の隅に開いた小穴の中に姿を消した。
 なんということだろう。この蛇に噛まれたら、三分以内に血清を打た
なければ助からない。
「おーい! 誰か!!」
 私は、地下室へ通じる分厚い扉を閉めてきてしまったことを思い出し
た。つまり、声が届かないのだ。階段の方へ歩き出そうとすると、途端
に膝ががくんとくずれた。猛毒がすでに右足全体に広がっていた。刻一
刻と、毒が体全体に広がってくるのを感じた。
「おーい……誰か……」
 声までかすれてきた。
 私は木箱の方を振り返った。
 ……だいたい、アルテミスの方が若い星で、二つの星がネクテラの月
になっているというだけで、フローラとアルテミスが親子だとするのは
おかしいですよ……
 そんな山本君の言葉が甦った。そんな事は分かっている。分かってい
るのだが……。
 足に手を当て、見ると、手の平にべっとりと血がついていた。
「血のつながり……か。」
 それが言葉の彩であることくらいは知っている。実際に引き継がれて
いくのは遺伝子だ。輸血をしたからといって、親戚になるわけでもある
まい。だが……、私には子供がいないのだ。私の魂は、誰に受け継いで
もらえばいい!
 私は木箱の方へにじり寄っていった。
「こんな事をしても、どうにもならないのだろうが……。」私は木箱に手
を伸ばした。「フローラ……」
 私は血のついた方の手で、しっかりと石を握り締めた。

       *       *       *

 富樫氏の死に最初に気づいたのは、山岡氏だった。次の日の早朝、富
樫氏の姿が見えないことに不信をいだいた山岡氏は、もがり室へと降り
ていったのだ。
 みな驚き、そして泣いた。日本人だけでなく、その近所の住人達も集
まってきて富樫氏の死を悲しんだ。そうするうちにも地平線から昇って
きたアルテミスは、徐々にその高度を上げていった。奥山さんがそれを
見上げた時、彼女の眼が皿のように見開かれた。
「みんな、あれを見て! アルテミスよ!!」
 みなどうしたのかと、彼女が指差す先を見上げた。そこには……、ア
ルテミスの表面には、赤い痣とは別に、もうひとつの別の模様が、くっ
きりと浮かび上がっているのだった。
「顔よ!! あれ、富樫さんの顔だわ!!」


<了>



#1156/1336 短編
★タイトル (AZA     )  98/12/30  10:12  (200)
そばにいるだけで 〜 二人で聖夜に 〜    寺嶋公香
★内容
 今、純子の右頬を一筋の涙が伝った。
 隣に収まっていた相羽がすっくと立ち上がると、スプリングの効いたクッシ
ョンが元に戻る。幾分機械的な動作で壁際に寄り、ドアの脇にあるスイッチを
押した。瞬く間に部屋に明かりが戻る。
 引き返す足取りはとてもゆっくりで、クッションに腰掛ける寸前にポケット
からハンカチを取り出した。ブルーの布地のそれはきれいに折り畳まれている。
「純子ちゃん」
「……やだ、私、泣いてた? あ、ありがと」
 言葉をつかえさせながらも純子はハンカチを受け取り、右の頬や目尻に当て
た。顔を傾けた拍子に、左の頬にも濡れた跡ができた。
「ごめんなさい。感動しちゃったみたい。こんなの、初めて」
 鼻をくすんくすんとさせつつ、純子。涙の流れた道は朝露みたいにもうほと
んど判然としない。
「相羽君は何とも?」
「そんなことないよ。とてもよかった」
 言ってから自嘲的に笑う相羽。「一緒になって泣くわけにいかないでしょ」
と付け加えた。

               〜 〜 〜

 母の歓迎の言葉のあと、純子は隣の相羽の横顔を見つめた。
「あ、そうなんですか」
 ソファに収まりながら落ち着かない様子の相羽の目と口元は、どう返事して
いいのか戸惑っている。
「ほっとしたんじゃない?」
 にんまりする純子。同級生の顔を改めて覗き込んだ。
「お父さん、忘年会でいないんだって」
「……緊張感は少し和らいだかも」
 小声で答えた相羽に、純子は母と目を見合わせて苦笑いした。そっくりの形
に目を細める。
「とりあえず、くつろいでいてね」
 歓迎姿勢の純子の母が、白いテーブルに背の高いグラスを二つ置いた。色と
薫りから、ホットレモネードらしい。さらにスナック菓子がバスケットにひと
盛り。もしも全部食べたら夕飯が入らなくなるに違いないほどの量だ。
「純子もくつろいでなさい。手伝わなくていいから」
 甘えることにした。

               〜 〜 〜

 純子と相羽は食事の準備が整うまでの間、テレビドラマを観て待つことにし
た。三十分作品だったが、クリスマスイブにふさわしい、心温まる内容に仕上
がっていた。
 純子の目が潤んできたのがいつの時点だったかはっきりしない。終わったと
きに、表面張力の限界に達したようにぽろろっとこぼれ落ちた。
「男の子だから、泣いてるのを見られるのって恥ずかしい?」
 畳んだハンカチを返しながら、照れ隠しもあって元気よく尋ねる。
「それもあるけど」
 相羽はテーブルのコップに手を伸ばし、喉を潤した。レモンの薫りがわずか
ながら広がる。
 純子は次の言葉を待っていたが、なかったので自ら口を開く。
「ひょっとして、友達の中であなたの泣いてるところを見たことあるの、誰も
いないんじゃない?」
 涙が収まってきた純子は冷静に質問を発した。ただし、鼻声だ。
「いや」
 間を取ることなく、きっぱりと否定する相羽。
「君に見られた」
「……あっ、あれね」
 思い出した。
 話をこのまま続けていいのかどうか、ためらう。さらっと触れる程度ならい
いだろうか。
「人前で泣いたのはあのときだけ?」
「かもね。よく覚えてないよ。ここに越してきてからは、何となく、泣かない
ように心に決めてた」
 これ以上は打ち切るべき。純子は口をつぐんで待った。
「それよりも純子ちゃんこそ、よく泣くじゃない」
「い、今のはドラマに感動しただけで、泣き虫とは違う」
 テレビはコマーシャルがちょうど終わり、次の番組に入ったところだ。純子
はリモコンを取り上げ、電源をオフにした。
「クリスマスらしい話だったし、気分出すために暗くしたのも原因の一つよ。
それに私、人前じゃあ滅多に泣かないわ」
「そうかなあ? 何度も見てる。見舞いに来てくれたとき、いきなり泣いたの
にはびっくりしたっけ」
「あれは……」
 返事に詰まる純子へ、相羽はおかしそうに事例を列挙し続けた。
 純子は相手の口を押さえようか、自分の耳を塞ごうかを迷った。
「あーん、もうやめっ。何でクリスマスに泣く話をしなきゃいけないのよ」
 自分の両耳を手で押さえながら短く叫ぶと、とにかく立ち上がる。
「遅いなぁ。私、やっぱり手伝ってくるわ」
 部屋を出るための理由として、母親の料理の手伝いを持ち出した。が、その
直後に声が聞こえた。
「お待たせ、できたわよ」
 扉が開いて、純子は母親とご対面となった。

 涼原家で食事中にテレビを入れることは珍しくない。
 しかし、今夜ばかりは明白な理由があってそうしている。つまり、会話が途
切れたときに備えて。娘の同級生、しかも男の子を交えての食事となれば、そ
の可能性は少なからずあるだろう。
 現在流れているのはニュースだった。歌番組のランキング発表みたくにぎに
ぎしく今年の十大事件をやっている。
「相羽君は?」
「はい?」
 話を振られた相羽は背もたれから背中を離し、目をぱちくりさせた。箸で挟
んだばかりの唐揚げをどうしようか、途方に暮れた様子。
 右隣に座る純子は御飯茶碗を置くと、ブラウン管を指差してから続ける。
「あなた個人の今年の十大事件は?って聞いたの。まあ、十大は多すぎるかな。
三つぐらい」
 相羽は口をもぐもぐさせ、考え込む風に首を傾けた。まだ場の空気に馴染め
ないらしく、ぎこちない手つきで湯呑みを取ると、お茶を飲むのにかこつけて
純子を促す。
「先に涼原さんのを聞きたい」
 母も「私も知りたいなあ」とのんきな口ぶりで同調。
「私? そうねえ、たくさんあって事欠かないから。逆に、三つに絞り込むの
が大変なくらいよ」
 記憶を手繰る純子。
「西崎さん達のことは、ああ、去年なのね。それじゃあ……コマーシャルでテ
レビに出たでしょ、歌手デビュー、それからあまり思い出したくないけれども
林間学校のこと」
「芸能活動が二つ、か」
 嘆息した相羽。母もまた、つまらなさそうにしている。
「当たり前すぎる答よね。確かに大事件だったのは認めるけれど」
「何よー、二人して人のことを。ご不満?」
「うーん、そういうのを抜きにしてさ。何て言えばいいのか……日常の出来事
の中で何が印象に残ってるのかなと思った」
「それはもう、みんなであちこち出かけたこと! お花見や遊園地に、ラーメ
ン屋さんにまで行ったわよねえ」
 純子がある意味を込めて微笑むと、案内役を務めた相羽は肩をすくめた。
「相羽君は何?」
「林間学校のことが一番記憶に残ってる」
「そう言えば、純子が迷惑を掛けたとか。本当に悪かったわねえ」
 思い出す風に純子の母が言った。お礼は夏の時点でちゃんとしているが、あ
れは電話口でのことだった。こうして直接会って話すのは初めて。
「元をただせば僕の責任ですから……すみませんでした」
 まるで悪戯をして叱られた犬みたいにうなだれた相羽。オリエンテーリング
の最中に時計を落としたことを指して言っているのだろう。
「まあまあ、そんな風に考えてたなんて」
 純子の母は笑顔で驚いていた。
「全然気にしなくていいのよ。うちの娘が慌て者なのが悪かったんだから」
「私も悪かったのは認めるけれど、慌て者はひどい。あれは天気が崩れそうだ
ったし、迷子になりかけていたせいよ」
「蜂に驚いて無茶苦茶な方向に駆け出したのは、事実でしょう。男の子みたい
な怪我を負っちゃって……この歳になって心配で目が離せないわ」
「ありがたいことに、身体は丈夫にできています。お母さん達のおかげね」
 目の前で親娘のやり取りを展開され、お客さんはしばらく呆気に取られてい
た。だが、ほどなくして抑えた声音で吹き出した。
 気付いた純子とその母は喋るのをぴたっとやめる。二人が目を向けると、相
羽は幸せそうに相好を崩し、言った。
「あはは。終わったことだし、それぞれ反省してるんだから、もういいじゃな
い。ね、涼原さん」

 食後すぐに電話したときは、まだ相羽の母は帰宅していなかった。まだ八時
だったから予定通りと言えば予定通り。
 九時前に再度の電話を入れたとき、つながった。ちょうど帰って来たところ
だったらしく、言葉の交換が慌ただしい。
 相羽が「そうなんだ」とか「うん、よくしてもらってる」、あるいは「母さ
んの用意してくれた分、手を着けなくてごめんなさい」などと喋っているのが
聞こえてきた。周囲に気を使っているためだろう、小さめの声だ。
 それが一際大きくなった。
「いいよ。自転車で来てるんだ。車に載せられない」
 これから車で迎えに行くという母親に対して、相羽は自転車があるからと断
った――そんなところに違いない。
「置いといていいのよ。日を改めて取りに来ればいいわ!」
 状況を察した純子は、素早く口を挟んだ。大声になったのは致し方あるまい。
(こんな寒い夜に、自転車で送り出せるもんですか!)
「面倒だったら、明日、私が乗って行ってあげるわよ」
 下手な演説みたいに捲し立てたのが功を奏したか、相羽は折れた。母親に迎
えに来てくれるよう頼み、送受器を置いた。
「最初から素直になりなさいよね」
「純子ちゃんが言ってくれたからだけじゃないよ。――母さんたら、ご迷惑を
掛けたのだから直接会ってお礼を、だってさ」
 果実が熟していくさまにも似て、恥ずかしそうに目元を赤くした相羽は呆れ
口調で伝えてきた。
「とりあえず自転車は置いて行く。ごめんな」
「ちっとも悪くないわよ」
「そ、それじゃ、明日かどうかは分からないけど、近い内に取りに来るから」
「うん」
 純子が微笑みながらうなずくのに被さって、母の呼ぶ声がした。
「結局どうなったの? 時間あるんだったらお風呂に入っていく、相羽君?」
「お、お母さん!」
 悲鳴のような口調の純子の横で、相羽はため息混じりの苦笑を浮かべていた。

「考えたら、色んなことがあったね」
「今年だけじゃないわ。あなたと出会ってからじゃないかしら? 毎年毎年、
凄いことになってる」
「モデルをやり出してからの間違いでしょ」
「ううん。もしかして夕食のときの話、引きずってるな? あれは訂正しまっ
す。みんなと遊べたことはどれもいい思い出よ。お花見や遊園地に行ったり、
文化祭、体育祭、そして問題の林間学校」
「確かに問題の、だね」
「三年生には修学旅行があるのよ。どうなることか、今から心配」
「……行き先はどこなんだろ?」
「さあ。毎年変わってるみたいよ。できれば化石発掘体験なんてできればいい
のにね」
「あ、いいねっ。国内にも有望な地層はいくらでもあることだし」
「でも、可能性は低そう。だめだったら、せめて星空がきれいな地方」
「なるほど、君らしいね。――そうだ。金環食のフィルムのことだけど……」
 迎えが来るまでの時間を惜しんで話し込んでいた純子と相羽であったが、玄
関の呼び鈴が鳴った。
「来られたかしら」
 キッチンにいた純子の母が腰を浮かすが、それに先んじて相羽と純子が駆け
付ける。
「今日はありがとう」
 早々と別れの挨拶を始めた相羽に純子が応じようとした、ちょうどそのとき。
 ドアの向こうの影がくぐもった口調で言った。
「ただいまあ。おーい、早く開けてくれー。寒くてたまらん」
「――」
 相羽の目がまん丸に見開かれている。
 純子も両手で口を覆う。その表情には、意表を突かれた驚きが過ぎ去ると笑
みがゆっくり広がっていった。

――おわり



#1157/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/12/31  22:37  ( 97)
大型大雪小説  「ひとり雪合戦」  ゐんば
★内容

 帰りの電車が駅に着く頃には大雪になっていた。
 松本喜三郎はつるつる滑る人たちを眺めながら、はてどうしようと思った。
 余談だが、よく雪国の人間は東京の人間が多少の雪が降ったくらいであわてふ
ためき雪道をつるつる滑るさまを見て笑う。しかしそこにはおのずから地域差と
いう物があることを忘れてはならない。
 かつてエジプトで有史始まって以来の雪が降ったとき(大雪ではない。「雪」
である)、凍死者が続出した。エジプトの有史以来であるからそんじょそこらの
有史とは有史が違う。当然ながらエジプト人たちは雪に対する備えなど何もして
なかったのだ(このくだり創作ではないので念のため)。東京の雪を笑う者はエ
ジプトの雪を、凍死していった人々を笑えるのか。笑えるとしたらすごいいやな
奴である。
 雪は激しく積もっている。
 傘は役に立たなかった。仕方なく喜三郎はアパートへの道を歩き始めた。
 滑らないように一歩一歩確実に歩くから、いつもの倍はかかっているだろうか。
アパートへの中間地点にある月極の駐車場が、いつもなら駅から七分くらいで見
えてくるのに十五分は歩いたような気がする。
 急に喜三郎は尿意をもよおした。
 駅で済ませてくればよかったと思ったが、寒さと、家に帰るまでの時間の予測
を誤った結果である。仕方がない。喜三郎は駐車場の片隅に陣を構えた。
 いざことに及ばんとしたときにひらめいた。そうだ。雪中の小水とあらば、字
を書かねばならぬ。
 しばらく立ちしょんのポーズで何を書くか考えていたが、とりあえず寒いので
自分の名前で妥協することにした。このまま考え続けてちんぽこ丸出しで凍死し
たのでは末代までの恥だ。
「松」の字はだいたいうまくいったが、「本」の最後の横棒を書こうとして思い
っきり的をはずし、「本」だか「末」だか「未」だかよくわからないものになっ
てしまった。「本」でこんなに苦労していては「喜」は大丈夫だろうかと心配に
なった。いや、むしろ簡単な字のほうが形がとりにくいのではなかろうか。しか
し、「喜」の字は横棒が多いので下手をするとつぶれてしまう。十分に字の大き
さに注意する必要があるとは思ったが、とりあえず書き始めることにした。悩ん
でいる場合ではない。小便がしたいのだ。
 案の定つぶれてしまった。四角の部分は完全にぐちゃぐちゃになっている。し
かし、次は「三」の字だ。これなら大丈夫だ、と思ったがもう小便が出なかった。
 喜三郎はとっても中途半端な気持ちに襲われた。このまま帰るのでは納得がい
かない。かといって小便は出ず、何か小便の代わりになるものはないかとあたり
を見回した。
 駐車場は一面の雪である。いつもならコンクリートむき出しの地面が、真っ白
に覆い尽くされている。
 広く高く積もった雪を見ていると喜三郎は自然の大きさと自分の小ささを感じ
た。そうだ。名前が途中だなんて小さいことにこだわっていてはいけない。もっ
とほかにやるべきことがあるはずだ。まず喜三郎はちんぽこをしまうことにした。
それにしても小便の代わりってなんだとは思ったが、なにしろ寒さで思考力が低
下していたので仕方がない。
 あらためて積もった雪を見ているうちに思いついたことがある。雪合戦だ。雪
は人を童心に帰らせるものがある。やはりここは一つ子供のときのように雪合戦
をやるべきだ、と思い立ち早速友人の杉野森弥三郎に電話をかけた。
 幸い杉野森は自宅にいた。雪合戦をやろうというと、さんざん罵られたあげく
電話を切られてしまった。はて遊び心のわからない奴である、では自分一人だけ
でもやろうと決意した。
 地べたにかがみこみ、雪を一すくい取って雪玉をこさえる。さらにもう一すく
い取って、一回り大きな雪玉にする。あまり雪玉作りに時間をかけているとその
間に相手に攻撃される。このくらいにしておこうと、雪玉を持って立ち上がって
その雪玉を、さてどうしようと考えた。
 しばらく雪玉を持っていたがふと思いついた。そうだ。壁打ちだ。
 喜三郎はその雪玉を思いっきり駐車場横の壁に投げた。しかし、テニスのボー
ルと違って雪玉は跳ね返ってこない。そうか、雪玉は柔軟性がないから跳ね返ら
ないんだな、これは大事なことだとかばんから手帳を取り出して最後に書いたペ
ージを拡げて書き足した。
「壁打ち雪合戦はあまり楽しくない」
 かばんに手帳をしまいながら、なんで俺はこんなことをメモしてるんだろうと
思ったが、なにしろ寒さで思考力が低下しているので仕方がない。
 しかしよく考えると壁打ちばかりが一人テニスではない。素振りだって一人で
やる。野球でいえばシャドウピッチングだ。そうかまんざら思考力も低下してば
かりでもない。早速喜三郎は新たなる雪玉を作るとなんどもシャドウピッチング
を繰り返した。
 しばらく充実していたが、よく考えるとあまり雪玉を持っている意味がないこ
とに気づきやめてしまった。
 しかし野球でもよく真上に投げ上げてまた取るというのを一人でやるではない
か。そうだ真上にあげれば同じところに落ちてくるのだ。早速喜三郎は新たなる
雪玉を作ると真上に投げ上げた。
 雪玉は高く上がってスピードを緩め、下に向かって落ちはじめてそのまま喜三
郎の頭を直撃し、四方八方に砕け散った。そうだこれでいいんだ、雪合戦らしく
なったじゃないかと喜三郎は何度も雪玉を投げ上げて頭で受け止めた。
 さらに雪合戦らしくするにはどうしたらいいか。雪合戦で肝腎なのは、いかに
相手の雪玉をよけるかである。よし、今度は避けてみようと喜三郎は頭上に雪玉
を投げ上げて素早く飛びのいた。
 雪玉は喜三郎が立っていたあたりの地べたに当たって砕け散った。
 喜三郎はもう一回雪玉を作り、投げ上げる。落ちてくるところを素早く避ける。
何度か試してみたが、どうもこれ避けてしまうとあまり楽しくない。
 喜三郎は座り込んで考え始めた。よけてしまうと面白くないが、かといって避
けないと雪合戦にならない。はてどうしたものか。雪玉に当たらないことには勝
負がつかないではないか。待て、そもそも雪合戦というのはどうなったらどうな
ったら勝負が決まるのだ。サッカーのようにゴールがあるわけでないし、バレー
のようにネットもない。カバディのように声を出す訳でもないし、マリンバのよ
うに楽器でもない。いかん。だいぶ思考力が落ちている。雪合戦といえば、壇ノ
浦である。桶狭間だったかな。で、真上に投げ上げると落ちてくるけど、これは
ニュートンが万力を発明したからであって、それまでの人は万力がないので苦労
したのだ。だから、サッカーのようにゴールはないし……。

 目が覚めると、なにやら回りがにぎやかである。意識がはっきりしてくるにつ
れ、どうやら自分を取り囲んでいるらしいと気がついた。警官が自分の顔をのぞ
き込んでいる。ゆっくりと起き上がりだがしかしちんぽこ丸出しでないことを確
認し、話しかけてくる警官に答えた。
「なんでもありません。雪合戦をやってただけです」

                               [完]



#1159/1336 短編
★タイトル (VBN     )  99/ 1/ 7  22:55  (113)
「高野豆腐」    時 貴斗
★内容
 ごっ、ごっ、と雪を踏み鳴らしながら、小僧はお寺へと帰る道を急い
でいた。高野山の冬は厳しい。歩くうちにも小僧の坊主頭に雪が降り積
もっていく。両手にかかえた藁包みで顔にかかる雪を防ぎ、白い息を吐
き出しながら、家路を急ぐ。藁包みの中にはお寺の修行僧達の夕食の食
材が入っているのだ。途中、どさっ、という音が聞こえたが、徐々に勢
いを増す雪の気配におびえる彼には、後ろを振り返る余裕などなかった。
 ようやくのことでお寺に帰りついた小僧が藁包みを開けてみると……。
「な、ないっ!」
 豆腐が、ないのであった。きっと途中で包みから落ちてしまったに違
いない。ああ、和尚様に何と言い訳しよう。
「どうした? 坊主。」
 現れた覚海に、小僧は豆腐を落としてきてしまった旨を、正直に語っ
た。きっと叱られると思った彼は、言った。
「今から……、探してきます!」
 しかし覚海は柔和な顔で言うのだった。
「よい、よい。もう暗いことだし、白い雪の上の白い豆腐はさがしにく
かろう。だが、物を大切にするということは大事なことじゃ。明日の朝
になったら、探しにいくのだよ。」
 翌朝、やっとのことで探し出した豆腐は、すっかり凍りついていた。
小僧は覚海に相談し、湯でもどしてみることにした。食べてみると、そ
れは豆腐とはまた違った旨みが付いていた。ほんのりと甘いそれは、そ
の後民衆に広まっていくことになる。

       *       *       *

「……というのが、高野豆腐の始まりだよ。」と、俊介は言った。
「へえ、そんな話があったの。」由梨絵は微笑みながら答えたものの、あ
まりそんな話には興味がないようだ。由梨絵の眼は輝いていた。彼女の
頭の中は明日日本へ帰ってくる川谷君のことで一杯なのだ。
 食卓の上には、高野豆腐ににんじんを乱切りにしたのと、さやいんげ
んげんが添えられた小皿が、酒の肴としてちんまりと置かれている。
「それにしても、よく父さんの好物を覚えていたな。」俊介は高野豆腐を
箸でくずして口に運んだ。じゅうっと、ほんのり甘い煮汁が口一杯に広
がる。
 全体に薄茶色を帯びた、何の飾りもない、のっぺりとした食べ物。普
通の豆腐のように、ねぎや鰹節が乗っているわけでもない。一様に薄茶
色で、どこか色彩的にあざやかな所があるわけでもない。そんな質素な
食べ物を、どうして自分のような年配の人間は好むのか。俊介はふとそ
んなことを思った。
「お母さんに習ったのよ。」と、由梨絵は言った。
 久しぶりに会った娘は、いつの間にか大人になっていて、母さんの手
料理を真似るようになった。
「老けたな。」と、俊介は思った。
 俊介はビールをごくりと飲み干す。テーブルを挟んで向かい合った由
梨絵が空になったコップにビールをつぎ足す。
「明日のお昼には成田に飛行機が着くから。」由梨絵は頬杖をついた。
 自分の婚約者を初めて父親に会わせる喜びで、彼女の胸は満たされて
いるようだ。
「母さん、俺もいよいよ一人ぼっちになるよ。」俊介は、心の中で、天国
にいる妻に向かってつぶやいた。

       *       *       *

 ちらちらと雪が舞い続ける中、二人の、はではでな銀色の服に身を包
んだ男達が、新雪に足跡を刻みつけていた。その二人は、どちらも頭で
っかちで、手足はひょろりとしている。トランシーバーのようなものに
耳を当てていたちびの方が、のっぽの方に話しかける。
「隊長、ただちに帰還せよとのことです。」
「うん。そうだな。この時代にも異常はなさそうだし、そろそろ帰るか。」
「二十世紀にですか? それとも三十世紀にですか?」
「二十世紀の時間局に立ち寄っても、用事はないだろう。三十世紀に直
行しよう……、おや?」
 のっぽは、足元に落ちている、白い、四角い物体をみつめた。
「なんでしょうね?」ちびもまたその見慣れない物体に興味を示した。
「待て。今、知識データベースから検索してみる。」のっぽは腕にはめた
ポータブル端末を操作した。
「時間工作員の罠かもしれません。」ちびは腰のホルダーからレーザー銃
を抜いて、構えた。「破壊しましょう。」
「待て!!」のっぽはちびの腕をつかんだ。が、一瞬遅く、銃から閃光
が閃いた。光線はねらいを外れ、物体のすぐ側の雪を射抜いた。もうっ
と、水蒸気が立ちのぼって消えた。
「馬鹿者! タイムパトロールが過去に干渉すればどうなるか、分から
んのかっ!!」
「す、す、す、すみません。でも何かの罠かも……」
「これは大昔の、“豆腐”という食べ物だよ。大豆の加工品らしい。」
「どうしてそんなものが、こんな所に落ちているんですか。」
「それは分からんが、とにかくこれはこのままそっとしておこう。さあ、
さっさと帰ろう。」

       *       *       *

 ごっ、ごっ、と雪を踏み鳴らしながら、小僧はお寺へと帰る道を急い
でいた。両手にかかえた藁包みで顔にかかる雪を防ぎ、白い息を吐き出
しながら、家路を急ぐ。途中、どさっ、という音が聞こえたが、徐々に
勢いを増す雪の気配におびえる彼には、後ろを振り返る余裕などなかっ
た。
 ようやくのことでお寺に帰りついた小僧が藁包みを開けてみると……。
「な、ないっ!」
 豆腐が、ないのであった。
 翌朝、さんざん歩き回ってやっとのことで豆腐を見つけた彼は、一瞬
満面に笑みを浮かべたものの、すぐに首をかしげた。豆腐にはある変化
が起こっていた。もちろん、凍りついていたことは言うまでもないのだ
が、もうひとつ、奇妙な変化が起こっていた。だが、とにかく豆腐を見
つけた彼は、急いでそれを寺に持ち帰った。

       *       *       *

「……小僧が豆腐を見つけた時には、すっかり凍りついてしまっていた
んだよ。それを湯でもどして食べてみた、というのが高野豆腐の始まり
だよ。」
「へえ、そんな話があったの。」由梨絵は微笑みながら答えた。
 俊介は、高野豆腐を箸でつまんだ。
 隅を火であぶって、湯でもどし、だし汁で煮付けてある。隅のおこげ
の部分が、一面に薄茶色いだけの豆腐に彩りを添える。口一杯に広がる
薄甘い煮汁も格別だが、このおこげの部分の香ばしさがたまらないのだ。
「でも、隅を火であぶるようになったのは何故?」と、由梨絵は聞いた。
「それはな……」俊介は、ちょっと困った。
「それは、まあ、昔の人の、“風流”というもんだよ。“風雅”だよ。」
 とは言ってみたものの、どうしてだろう、と、ちょっと不思議に思っ
た。


<了>



#1160/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 1/13  23:25  ( 40)
恋々と−片恋歌−  りりあん
★内容
            恋々と −片恋歌−


           夫がいたら駄目ですか
           子供がいたら駄目ですか
           胸の扉を
           叩きもしないで
           あなたは 私に
           背を向けるのですか

         
           私の指は 言葉を紡ぐ
                だけど
                      本音は打てなくて
                      秘めた想いに 胸を焦がす
                     文字だけの
           コミュニケーション

           好きとも言えず
                      会いたいとも言えず
                      一日に何度も
                      パソコン画面を
                      見つめています


                      どこまで
                      時をさかのぼったら
                      彼女を知らない
                      あなたに
                      会えるのだろう


           しなやかな言葉には 哀しみが
           優しい慰めには 拒絶が
                  あなたの想いは
                      いつも 私を
                      散り散りにする

    
                       りりあん



#1161/1336 短編
★タイトル (VBN     )  99/ 1/17   3:24  (149)
「だまし絵」    時 貴斗
★内容
 最近よく図書館に行くようになった。私は最近になって絵画鑑賞に目
覚めたのだが、私の月々の貧しい小遣いでは、到底高い画集など買うこ
とはできない。そこで、毎週日曜日の図書館通いが、私の習慣となった
のである。
 テーブルでダリの、木の枝にぐにゃりと曲がった時計が掛けられてい
る絵に見入っていると、ふいに一人の男が話し掛けてきた。
「あなたも、絵がお好きですか。」
 この図書館でよく見かける男である。歳は50前後だろうか。白髪混
じりの髪を、きれいに後ろになでつけてある。
「ええ、まあ、好きといっても、それほど詳しいわけじゃないんですが
……。」
「どんな絵が好きですか。」と言いながら、男は私の隣に腰掛けた。
「ダリやムンクの、不思議な絵が好きですね。」
「なるほど、いい趣味ですな。あれは神秘的な世界です。」男はテーブル
の上で手を組み、眼を細めた。「作品の中に、一抹の“狂気”がある。そ
の“狂気”が、芸術を生み出す……」
「はあ。」不思議な事を言う男に、私は曖昧な笑みを浮かべた。

 私は少しの間、男と話した。男はある小さな製紙会社の経営者で、5
年ほど前に絵に興味を持ったという。趣味であちこちの展覧会や、画廊
を回ったり、有名な画家の絵の複製を集めているそうだ。
「私は、リューベンスの『エレーヌ・フルーマンと子供たち』という絵
が好きでね。」男の顔が、少し曇った。「あの絵に描かれた子供を見てい
ると、私の娘を思い出すんですよ。」
「娘さん……ですか。」
「ええ、もちろん、そっくりというわけではありませんがね。どことな
く、似てるんですよ。……四歳の時に、事故で亡くしましてね。」
「……そうですか。お気の毒に……。」
 男の眉間に、皺が寄った。
「さてと、せっかくの時間を、お邪魔してしまいましたな。」男は、急に
立ちあがった。
「あの……。」私は、言うべき適当な言葉を、見つけることができなかっ
た。

       *       *       *

 私は、仕事が早めに終わったある日、いつも行く安バーでちびりちび
りと早くから飲んでいた。男のことはもう忘れかけていた。カランカラ
ンという鈴の音がして、扉が開くと、例の男が入ってきた。
「またお会いしましたね。」と、私の方から声をかけた。
「やあ、どうも。」男は、コートを脱ぎながら、私のグラスをちらと見て、
「私にもウイスキーを。」と言った。
「いやあ、寒い、寒い。」男は手をこすり合わせた。「あなたも今日はも
う終わりで?」
「ええ。」私は腕時計を見る。まだ7時前だ。
 話しこんでいるうちに、再び話題は絵の話になった。
「あなた、だまし絵はご存知ですか。」
「ええ、エッシャーとか、あの類ですか。」私は、水が下から上に向かっ
て流れる不思議な絵や、メビウスの輪の上を歩いている蟻の絵を思い浮
かべた。
「私は、だまし絵のコレクションもしているんですよ。恥ずかしながら、
自分で描いたものもあります。」
「ほう、それはぜひ一度拝見したいですね。」
 男の顔がパッと輝く。「本当ですか。」
「ええ。今度ぜひ……」
「どうです。まだ時間も早いことですし、これから見に行きませんか。
ご迷惑でなければ。」
 私は、あまり気乗りしなかったのだが、男の誘いを無下に断ることも
できなかった。

 男の家は、タクシーで30分くらいの所にあった。小さいながらもか
なりの豪邸である。
 私は男の後ろについて、地下室へと下る階段を降りていった。
「ほう……。こりゃすごい。」
 壁全体に、だまし絵が所狭しと飾られている。
 地下室だというのに、小さな冷蔵庫がある。男はそこからよく冷えた
ワインを取り出し、「どうです? あなたも一杯。」と言った。
「ええ、頂きます。」と答えながらも、私は絵画達に見入っていた。
「ほう、これは森の絵の中に兎が隠れているんですね。五匹……、いや、
もっといるかな。」
「八匹ですよ。」男は、テーブルの上に置いた二つのワイングラスに、芳
醇な赤い液体を注いだ。
「よく、錯覚の何とかといった類の本に、簡単な絵が載っていますが、
こんなに凝っているのは初めてだな。」
「そんなので驚いちゃいけません。あの顔の絵はどうですか。」
 それは、つるつるに頭を剃った男が、下を向いて、眼だけぎろりとこ
ちらに向けて睨みつけている絵だった。
「これは……どう見るんですか?」
「それは、一回壁から外さないと分からないんですよ。ええ、構いませ
ん。お手に取って下さい。」
 私は絵を壁から外した。しばらく眺めているうちに、逆さにすればよ
い事に気がついた。
「なるほど。」それは、今度はこちらを見下して薄笑いを浮かべている、
水兵の顔になった。
「実を言いますとね……」男はワインをぐいと空けた。「私の娘は、事故
じゃないんですよ。」
「えっ?」男の突然の言葉に、私は驚いた。
「そっちの絵はどうです? 上から三番目の、左から二番目のやつで
す。」
「え、ああ。」
「それも、壁から外さないと分かりませんよ。」
 それは、皇帝か何かの人物画だった。しかし絵の真中に、なにやら怪
しげな縞模様が走っている。逆さにしてみても分からない。しばらく迷
っていると、男が答を言った。
「真正面から見てもだめです。それは、横の方から見るんですよ。」
 私は、真横に近い角度で、絵を見た。そこに、不気味な髑髏が現れた。
「なるほど。絵を横に極端に伸ばして描いたんですね。」
「娘はね、殺されたんですよ。」
 私はどきりとした。思い出すまいと努力してきた過去が、私の頭に甦
ってきた。
「誘拐事件でした。娘は犯人に、殺されたんです。……もう、10年も
前のことです。40近くなって、もう子供はできないだろうとあきらめ
ていた時に授かった子です。犯人は未だに見つかっていません。」
 男があの事を知るはずがなかった。私が見た父親は、こんな顔じゃな
かった。全然違う人物だ。
 あの時私は貧しかった。日々の食事もままならなかった。私は、飢え
ていたのだ。だがそんな事が、一人の子供の命を奪ってしまった事に対
して、何の言い訳になるというのだろう。
「その後……お子さんは作られなかったんですか?」
「妻は死にました。脳腫瘍です。」
「……そうですか。それは……」
「私は、金を払うつもりだった! 準備もしていた! ……無残な姿で
したよ。ちょうどこの辺を撃ち抜かれていましてね。」
 男は、眼と眼の間をとんとんと指で叩いた。
 そうだ。あの時あのガキが騒ぎ出しさえしなければ……。
 私の額にはじっとりと脂汗がにじんでいた。しかし、男の話はきっと
全然別の誘拐事件の話であるに違いない。それとも、整形を……?
「ところで、あなたの描いた絵はどこにあるんですか。」
 私はもう、その話を聞きたくなかった。できれば、この場から逃げ出
したかった。
「ああ、その、一番左の、一番下にある絵がそうです。」
 そこに、随分と縦に細長い絵が、他の絵達に遠慮するように掛けられ
ていた。
「これ1枚だけですか。」
「ええ、そうです。」
 その絵は、キャンバス全体に縦の縞模様が走っていた。
 男は何も言わなかったが、きっとそれも壁から外して見るものだろう
と思い、落とさないように慎重に手に持った。
 男は空になったグラスにワインを注いだ。
 私は、思考能力が麻痺していた。その絵をどう見ればよいのかなど、
もうどうでもよかった。
「……降参です。さっぱり分かりません。」
「さっきの絵の応用ですよ。それは横からではなく、下から見るんです
よ。」
 私は徐々に、絵を傾けていった。水平に近づけていくにつれて、なに
やら人物らしい姿が、形を現してきた。
 男がワイングラスを私に向けて掲げてみせるのが、眼の端に映った。
 ほぼ水平に近くなった時、ようやく絵が明確な姿を現した。
 それは、男だった。今まさにワイングラスを持ち上げている、その男
の姿だった。絵の中の男は、ぞっとするような笑みを浮かべて、私に向
かってグラスを掲げているのだった。
 額縁の底面に、黒い穴が開いているのに気づいた時には、もう遅かっ
た。その穴からフラッシュのような光が閃いた。

 最後の瞬間、パーンという乾いた銃声が響き渡るのを、聞くことがで
きた。


<了>



#1162/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 1/20  19:26  ( 39)
まぼろし−片恋歌・2−  りりあん
★内容
           まぼろし −片恋歌・2−

                     怖いのです
                        はねつけられるのが

                         怖いのです
                         小さな宇宙をなくすのが

                         だから
                         私は見ているのです
                         あなたの言葉の隙間から
                         こぼれ落ちてくる
                         淋しげな想いを


                         好きと言ったら
                         あなたは 驚くでしょうか
                         それとも
                         困ったような顔をして
                         横を向いてしまうでしょうか


                         想いは言葉
                         言葉は想い
                         あなたが
                         金の糸で紡いだ物語は
                         今の私には
                         眩しすぎるの


                        ねえ お願い
                         ディスプレイの海に
                         漂ってる私を見つけたら
                         そうっと 囁いて
                         おまえは
                         まぼろしに恋をしたのだと


                                                       りりあん     



#1163/1336 短編
★タイトル (GSC     )  99/ 1/23   9:27  ( 72)
    夢と体調       [竹木貝石]
★内容

 退職後2年、私は一ヶ月ほど前から体調不良を訴えるようになった。
 結滞脈:ときどき脈拍が一つずつ抜ける症状で、ひどい時には4拍毎に1拍ずつ途
切れる。これは過去60年間に全く無かった現象であり、脈拍を指標にした実験『理
療施術が生体反応に及ぼす影響』などで何千回脈拍を測定したか計り知れないが、私
の脈が抜けたことは一度もなかった。
 幻暈:全盲者の私にも幻暈はあり、ジェットコースターやティーカップに乗って、
目をつむったまま回転しているような具合である。難聴は無く嘔気も少ないからメニ
エール病ではなく、二日酔いや乗り物酔いとも異なる。
 呼吸困難(息切れ)・心悸亢進(動悸):軽作業をしたり早足で歩いたりすると、
今までになく苦しくなるが、これは近頃楽をしすぎているからかもしれない。
 私は癌の心配ばかりしていたが、父親は心臓麻痺で亡くなっているから、私も最後
は心臓障害で死ぬような気がしてきた。
 考えてみると、心臓停止で死ぬのが一番早道かもしれず、出来れば一瞬にして息を
引き取りたいが、そう都合よくはいかないだろうか。
 しかし、上に述べた症状はごく軽く、普段はほとんど気にならないから、気質的疾
患ではなく機能的障害のようだ。
 私は日頃から、
「いつ何時死ぬか分からないし、もうその覚悟はできている」
 と口癖のように言っているので、家族や友人たちは、私が体調異常を訴えても、
「また始まったか」
 という感じで取り合わない。無論私は取り合って欲しい訳ではなく、近々に死ぬと
すれば心臓疾患であろうと予言しているだけなのだ。

 だが、良くないのは、このところ毎晩夢見が悪いことである。
 私の母親は肺結核で早死にしたが、闘病中毎夜のように恐ろしい夢を見ると言って
いた。胸が苦しければ当然悪夢を見る訳で、体調と夢は密接不可分である。
 嫌な夢や恐ろしい夢を見て、目が覚めた後ほっとすることはよくあるが、夢を見て
いる最中は、それが夢だと分からないから困る。故に、夢も現実も、人生における重
要度は等しいというのが私の持論である。
 近頃の私の夢は、恐ろしいとか恐い夢ではないが、沈鬱な夢・重苦しい夢……、自
分が学生時代あるいは教員時代で、友人や同僚や管理職や生徒との経緯が思わしくな
いという夢ばかりである。教職36年、責任と重圧から解放されたくて1年早く退職
したのに、睡眠中にまたその面倒に巻き込まれるというのは、なんと因果なことか!
これもおそらく体調不良の現れであろう。


 私は北海道旅行をしていた。
 盲人とボランティアのグループ25人くらいで、田舎町をゆっくり歩き、とある公
園で昼食を取った。
 道がぬかるんでいたので、足が随分汚れていて、順番に水道で洗ったが、私が一番
最後になり、まだ洗い終わらぬうちに出発となった。
 私の性格上、
「ちょっと待って!」
 とは頼まず、大急ぎで身支度を整えたが、既に一行は先へ行ってしまっている。
 ボランティアの数が少ないので、全盲者と同伴者が1対1でペアを組んでいないか
ら、私はいつも遠慮して後ろから付いて歩いていた。家族や親しい友人はこのグルー
プに居ないし、いつも親切に面倒を見てくれていた小学生も、今は先へ行ってしまっ
た。
「一本道だから、まっすぐ歩いて行けば大通りに出られる筈だ」
 そう思って歩き出したが、脚が重くてなかなか前に進めない。これではますます離
れるばかりだ。
 そして、I氏に借りた白状を、公園のベンチに忘れてきたのを思いだして、やむな
く引き返すことにした。脚が重くて戻るのも容易でなく、ついに道ばたにしゃがみ込
んだ。
「これはいけない。家に居る妻に携帯電話で連絡しておこう」
 ところが、鞄も亡い。これも公園のベンチに置き忘れたか、それとも盗まれたか…?
 やっぱり元の場所まで戻らねばならない。
 重たいからだを運んで、やっとベンチにたどり着いたが、手探りで探しても、ステ
ッキは在ったが鞄は見つからない。
 私はがっくりと崩れるようにその場に座り込んだ。かろうじて水たまりは避けたが、
湿った地面にしりもちをついたまま動けなくなった。
「もう駄目だ。ここでお仕舞いか」
 今はまだそんなに寒くはないが、明日の朝まで発見されなければ、凍死か心臓麻痺
になるだろう。
 そう思った途端に目が覚めた。
「やはり体調が良くないのだ」
 そして私は考える。
「あのまま目が覚めずに息を引き取ったとしても不思議はない。しかし、人間死ぬと
きくらい幸せな夢を見て死にたいものだ。人生うまくいかないものだなあ!」

          [1999年(平成11年)1月23日   竹木 貝石]



#1164/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 1/24   2:39  ( 41)
片恋−片恋歌・3−  りりあん
★内容
                       片恋 −片恋歌・3−


            どこにいても
            何をしてても     
                      止まらないの
             止められないの   
                      紙ナプキンに
                        口紅であなたを綴る
                        恋の快楽


                 私のあなたはMSG
                        逢ってもないのに
                        想いばかりが
                          ふくらんでふくらんでふくらんで
                        胸もいっぱい
                        おなかもいっぱい


                        恋の竜巻よ
                         私を
                         高く舞い上げて
                         いつの日か
                         おまえが姿を消した
                         そのときに
                         苦しまないで
                         死ねるから


                         あなたは 見なくていいの
                         わたしが  見ているから

                         あなたは 知らなくていいの
                         わたしが  知ってるから

                         だって 他人には話せない
                         夫ある身の 片恋だから

                    
                        りりあん 



#1165/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  99/ 1/26   1:22  (200)
読本・八犬伝「暗愚の王」   伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本「番外編 暗愚の王」
                〜黒き星シリーズ1〜

 八犬伝の作品世界は、<閉じられていない>。惟うに、小説が自己完結せねばなら
ぬとすれば、それは現代に於ける特殊な状態/悪弊であろう。八犬伝は、言はば<大
衆小説>である。が、厳密に言うと、<公衆小説>とでも言った方が、より適切だ。
大衆はmassだが、公衆はpublicだ。公衆は、大衆よりも多く、<ココロに
何かを共有している>。文化・教養を、より広く共有する。だから、既存の共有され
た作品を取り込み、より少ない文字数を以て、豊かで広い世界を描き出す事が可能だ
った。
 八犬伝序盤、伏姫が富山で切腹して果てるとき、母・五十子の死が伝えられる。悲
報を伝える御女中の名は、「梭織」であった。日本書紀神話に於いて、天照皇太神が
隠れ世界が闇になった原因となったのは、本人だか眷属の女神だかが女性器を「梭」
で衝き、傷ついた事件だった。読本は、絵双紙・黄表紙と違って、やや高度な文学で
あるから、八犬伝読者には、それ相応の教養人を想定できる。レベルとすれば、現在
の義務教育修了程度の教養だろうか。日本書紀ぐらいは知っていただろうし、そのも
のでなくとも、昔話や何かで、間接的には聞き知っていたことだろう。小説読んでん
だから、さほど明確に意識しなかったろうけど、日本神話をボンヤリ思い出し「あぁ
これから雰囲気、真っ暗になりそぉだなぁ」ぐらいに感じさせたら、馬琴の勝利だ。
作家は、上等な読者を相手にしていたのだから、気儘に既存の作品を取り込み、自ら
創造せし世界を豊かにすることが出来た。とっても楽チンだったろう。今だったら、
そりゃ一時的に共有される何かがあったとしても、即座に消費され流れ去る。そんな
もんに寄りかかって書いたら、数年も経つうち、何が何だかワケ解らんものになって
しまう。
 八犬伝には、神話のみならず、太平記や源平盛衰記なんかの痕跡がベタベタついて
いる。読者は脳の表で八犬伝を読みながら、脳裏に既存の物語を思い浮かべる。日本
では、周囲の広大な自然に箱庭が溶け込むよう設計されたりする。これを、<借景>
という。自分チの敷地でもないモンを、勝手に使うセコイ遣り方とも言えるが、なか
なか合理的だ。個の建物として見たら立派だが自己完結しちゃって互いに並ぶとトテ
モ変、てな現代日本の景観とは対極にある。勿論、<箱庭>自体としても優れている
点に、八犬伝の偉大さがあるのだが……。
 で、八犬伝序盤の主人公、里見義実の挿話は、伝説的武家王・源頼朝のソレを度々
盗用している。抑も<史実>としての義実が、頼朝の事績をなぞっているから、当た
り前と言えば、当たり前なんだけども。まぁ、<史実>の義実、大活躍する割に詳細
は明らかでなく、実在を疑う人だって存在した。結城から、わざわざ敵地を通って、
しかも遠路遙々敵地の三浦まで赴き、徐に安房へと漕ぎ出すのは、甚だ不自然だとの
指摘もある。……そりゃそぉだけど、別に良ぃぢゃねぇか、真似したかったんだろぉ
よ、武家の棟梁・頼朝を。
 だから、源平盛衰記である。文字通り、源氏と平家の成り上がり成り下がりを描い
た<物語>だ。物語だから純然たる史料としては、使いづらい。信憑性は低い。勿論、
史実として確認された事どもも多く鏤められてはいるが。
 現代では<歴史>としては扱えないが、過去、例えば江戸人士にとっては、これぞ
<歴史>であった。過去の人々、例えば江戸人士にとっての<歴史>を窺う為には、
大袈裟に言えば、<歴史の歴史>を考えるためには、必須の史料となる。……とイー
ワケしておいて、源平盛衰記を取り上げるのは、実は此、けっこう面白いからである。
 保元・平治の乱を経て、武士団・平氏が貴族化、宮廷を牛耳る。平家にあらずんば、
人にあらず。なんて程に権勢を誇った。が、奢れる者は久しからず。平治の乱でコテ
ンパンにやられた源氏の残党が、平家追討の大義名分を得て各地で蜂起した。平姓北
条氏の入り婿みたいになっていた頼朝も、その一人だった。で、蜂起を決意するに当
たって、二人の怪僧が関与する。一人は文覚、そして、もう一人が聞性だ。文覚によ
って復讐に目覚めた頼朝は、御経を千回転読しようとする。願掛けである。チャンス
が訪れた。が、其の時、まだ八百回しか転読していなかった。聞性に相談する。「ま
だ八百回だから、願いは成就しないだろうなぁ。でも残り二百回をするうちにチャン
スが逃げちゃう」。頼朝が如何に暗愚であるか、後の様々な不幸が窺えるエピソード
であるので、ちょっと引こう。

……前略……阿闍梨暫く案じて云く、八は悉地の成ずる数なり、二百部の未読も更に
事闕侍るべからず、八百部の已読、最嘉例と云ひつべし、何にとなれば、釈迦如来は
八正慈悲の門より出で丶、八相成道の窓に入り、八十の寿命を持つて八万の法蔵を説
き給へり、衆生本覚の心蓮は八葉の貌なり、一乗妙法の首題も八葉の蓮なり、八角の
幢は極楽の瑠璃地に治まりて、八徳の水は宝国の金砂池に湛へたり、宗に八宗、戒に
八戒あり、天に八天、龍に八龍あり、八福田あり、八解脱あり、伏犧氏の時には、亀
八卦の文を負ひて来り、人の吉凶を占へり、高陽高辛氏の代には、八元八トの臣を以
て天下を治むと見えたり、穆王は八匹の天馬に乗つて四荒八極に至り、老子は八十年
胎内にはらまれて、明王の代を待ちけり、内外に註す処多し、就中諸経の説時不同に
して、巻軸区々に分れたれども、法華は八箇年に説きて八軸に調巻せり、薬王菩薩は
八萬の塔婆を立て丶、臂を妙法に焼く、妙音大士は八萬の菩薩と来つて、耳を一乗に
欹てり、況んや又御先祖貞純親王の御子六孫王の御時、武勇の名を取つて、始めて源
氏の姓を給りしより以来、経基、満仲、頼信、頼義、義家、為義、義朝、佐殿まで八
代なり、又故伊予守殿(頼義)、三人の男を三社の神に奉る、太郎義家石清水、次郎
義綱賀茂社、三郎義光新羅の社、其中に佐殿正縁として、八幡殿の後胤なり、八幡宮
の氏人なり、、日本国広し、東八箇国の中に流され給ふも子細あり、文覚上下往復の
間八箇日に院宣を抜き見給ふも不思議なり、されば八百部の功既に終給へらば、本意
をとげ給ふべき員数なり、急ぎ思ひ立ち給へ、時日を廻らし給ふな、されば軍のうら
かたには、先づ当国の目代八牧の判官を討たるべし、今二百部は追の転読と申しけれ
ば、佐殿よに嬉しげにて、師僧の教訓は神明の託宣にやとて、当国、伊豆、箱根の立
願の状を捧げて、即ち聞性坊阿闍梨を以て啓白し、其外様々の立願、社社におこされ
けり、八百部の転読かつかつ供養有るべしとて、飲食に能米八石、衣服に美絹八匹、
臥具に筵枕に八、医薬に様々の薬八裹あり、已上四種の供養の上に又四種を副へられ
たり、砂金八両、檀紙八束、白布八端、綿八箇、都合八種の布施なり、八は悉地の成
ずる由申しつづくるに依てなり、此の如く調へて、且は先考の菩提に廻向し、且は後
代の繁栄を祈誓有るべしとて、伊豆山の聞性坊へ送遣されけり、誠に●(金に台)々
敷見えたり

 <曲学阿政(ママ)>した聞性の佞言に踊らされた、若しくは責任をオッ被せて利
用した、頼朝の暗愚がよく表現されているけれども、<八尽くし>、「とにかく八っ
てスゴイ数なんだ」って強弁は、八犬伝読者にとって、興味深い。
 そんなこんなで頼朝は味方を集め、平家方の武士を攻める。が、呆気なく敗北する。
だいたい、頼朝って、大きな顔して後ろの方でゴゾゴゾするうち、めぼしい武将が次
々失脚、消去法で権力の座に就いただけの、詰まらんヤツだ。武家の棟梁なら武人ら
しく目覚ましい活躍をすれば良いものを、頼朝、英雄的な行為はしない。緒戦で敗北
したのも単に、彼の用兵がマズカッただけかもしれない。
 だが、悪運だけは強い。敗残兵狩りを、うまく逃れる。といぅか、見逃してもらう。
この時、平家方だった梶原景時って武士が木のウロの中でビクビク縮こまってる頼朝
を見つけるが、見逃してやるのだ。ただまぁ、この梶原、武士の情けってヤツで見逃
したんぢゃぁない。そんな善いヤツぢゃないのだ。頼朝を見つけて梶原はニヤリ、
「助け奉るべし、軍に勝ち給ひたらば、公忘れ給ふな、若敵の手に懸り給ひたらば、
草の陰までも、景時が弓矢の冥加と守り給へ(助けてやるから、恩に着ろよ。何たっ
て俺は、お前の命の恩人だ。命がある限り、いや死んでも俺に尽くすんだぜ、ぐふふ
ふふふふ)」。先に、頼朝の悪運が強かったと書いたが、こんな奴に恩を売られた事
自体、運が良かったんだか悪かったんだか分からない。少なくとも源平盛衰記に於い
て、景時って、とんでもない悪役なのだ。この陰口讒言野郎の為、後に、頼朝の弟・
義経その他、有力御家人が次々に殺される。嘘吐き陰口讒言野郎は何時の時代何処の
社会にも居るが、そういう偏った情報を真に受けるか否かで、器量と才覚が分かる。
頼朝は、如何贔屓目に見たって、いや、贔屓目になんざ見てやらんが、暗愚を絵に描
いた様な奴だ。と、後世の者に云われるぐらいなら、石橋山で華々しく討ち死にした
方が良かっただろう。塞翁が馬、だ。まぁ、源平盛衰記自体、「平家と源氏の隆盛と
<衰亡>の様」を描いた物語で、ドッチも滅んだんだから、良いコトばかりは書いて
いない。頼朝は、まだ同情的に書かれているが、頼朝の息子なんて、親父に三つ四つ
輪をかけた、究極の暗愚として描かれている。物語の勝者は、北条執権家だ。だから、
一時的とはいえ、北条家を差し擱き権勢を振るった梶原景時を悪役に仕立て上げてる
だけかもしれないけれども、一方、梶原が本当にヤな奴であっても良いワケで、偶々
事実が北条氏の利害に沿っただけかもしれぬ。まぁ、此処では、悪役のままで居て貰
おう。
 だいたい梶原、武勇のモノというよりは策謀を得意とした印象がある。屋島の戦で、
総大将は義経だったが、梶原は「逆櫓」なる工夫を進言する。昔の船だから、前には
簡単に進むがバックが困難、そこで逆向きにも櫓を取り付け、前後進退を自由にしよ
うと提案したのだ。が、義経は却下する。武士が戦場に赴く前から後退/退却のこと
を考えるとは言語道断だ、との理屈だ。武士らしくないクセに武士のプライドを傷つ
けられた梶原は、義経を「猪武者(とにかく戦闘することしか頭にないバカ武者)」
と罵る。義経は怒って刀に手を掛ける。梶原も息子たちと共に打ち掛かろうとする。
すんでのところを周囲の者が抱き留め、漸く事無きを得た。梶原、この時の事を怨み
に思い、頼朝に対し一層激しく義経を讒言する。兄弟は疎遠となり、遂に義経は都か
ら逃亡を余儀なくされた。縁を頼って奥州藤原氏のもとへ転がり込む。勿論、鎌倉勢
は奥州へと追っ手を差し向けた。警官隊ではない。当時、ほぼ独立した政権として東
北地方を支配していた奥州藤原氏と全面対決するんだから、大軍勢を派遣した。大将
は、千葉常胤であった。
 この常胤、梶原や頼朝と違って、無双の武人だ。如何ぐらい強かったかというと、
狐狩りに成功したほどだ。狐と言って、馬鹿にしてはならない。何たって此の狐、中
国皇帝から日本の天皇から、たぶらかし倒して鼻毛を読み、ケツの毛まで抜き去った
妖狐だったりする(←まぁ御下劣!)。八犬伝終盤にも紹介されるエピソードだ。以
前にも書いたが、武人とは単なる暴れん坊ではない。常胤ほどのレベルになると、其
の力は神懸かっているのだ。だから、源三位頼朝なんかと同じく魔を払う不可思議な
力をも有している。勿論、常胤、実力もあった。関東では並び無き勢力を張っていた
のだ。
 だからこそ、上記、源平盛衰記<八尽くし>の段に続く「兵衛佐家人を催す事」、
朝頼の舅・北条時政が当時関東の状況説明をするうち、源氏にゆかりがあり要請すれ
ば味方に就きそうな大族の長として、三浦義明、千葉広常、そして、千葉常胤を挙げ
ている。この三人を引き込めば、東八箇国の武士は皆靡く、とされたほど、勢いも人
望もあった。その常胤が味方になったのに、何故に緒戦で敗北したか? それは……
常胤、味方にはなったんだけど、戦に遅刻しちゃうのだ。間に合わずに、頼朝はケチ
ョンケチョンにやられてしまう。後で常胤、叱られるんだけども、まぁ、それは仕方
がない。
 ところで常胤、そんな超人的な武人だったら佞人・梶原を何故に成敗しなかったの
か? 実は常胤、梶原を退治した。但し、独力ではないが。
 頼朝の死後、御家人の詰め所で、創業の功臣たる結城、八犬伝に出てくる善玉大名
の祖先だけど、ふと独白する。「あぁ、頼朝時代が懐かしいなぁ。世の中、段々悪い
方に向かってるような気がする」。単なる年寄りの「昔は良かった」だが、此を梶原
が立ち聞きしていた。何たって、梶原ほど盗み聞きが似合う奴ってのも、そぉはいな
い。日本に於けるBest立ち聞きerだ(←如何読むんだよ)。で、梶原、イソイ
ソ二代将軍・頼家の御前に罷り出て、「結城のヤツ、不満を抱いてますぜ。謀反する
に違いない。あぁ、一大事だ大変だ」と忠義面して御注進。頼家、頼朝譲りの暗愚を
発揮し、その場で結城攻めの命令を下す。伝え聞いて結城はビックリ、友人に相談す
る。友人もビックリして長老・三浦に相談、三浦もビックリしたが、さすが長老、即
座に決断した。「御家人を糾合して、梶原を弾劾する」。主立った御家人たちを、源
氏の氏神・鶴岡八幡宮に集め、連判状を起草した。何たって、梶原の讒言は今に始ま
ったことではない。御家人たちは、とうとう我慢できなくなって、集団交渉へと踏み
切ったのだ。勿論、我らが武人・千葉常胤も加わっていた。が、三浦に取り次ぎを頼
まれた学者貴族が、連判状を秘匿する。彼は幕府の政治実務を担っていたが、巨大と
なった梶原家と有力御家人とが激突したら、タダでは済まないって危惧したのだ。そ
れに、梶原を死なせたくない気持ちもあった。
 一件を伝え聞いた梶原は長男や郎党を連れて出奔した。何せ、うまく隠した積もり
でも、自分だけは自分の悪事を知っている。こりゃぁマヅイと慌てちゃったのだ。で、
西国/京都を目指した。九州なんかに居る平家の残党を集め、鎌倉と一戦交える気だ
ったのだ。って裏切り者ぢゃん、などと驚くのは遅すぎる。彼のような陰口野郎は、
利害だけで動くによって、いくら忠義面してても、風向きが変われば裏切りだって何
だってする。裏切らない方が、驚きだ。が、有力御家人たちは、梶原の鎌倉脱出を知
らなかった。知らなかったが、あれだけ手厳しい弾劾書を提出したのに、幾ら待って
も何の沙汰もない。痺れを切らした長老・三浦、取り次ぎを頼んだ学者貴族を問い質
した。で、弾劾書が将軍に届いてないと聞くや、烈火の如く怒り狂い、噛み付いた。
学者貴族は気圧されしたか、遂に文書を将軍に披露した。が、暗愚の見本みたいな頼
家、此の弾劾を握り潰した。こんなだったら梶原、逃げる必要はなかったのだけれど
も、まぁ、此ほど頼家が暗愚だとは、さすがに気付かなかったのだろう。墓穴を掘る
ってヤツだ。で、梶原は逃げるんだけど、途中、駿河の武士たちに絡まれる。梶原、
つい先日まで権勢を誇っていたから、道で地元の武士と擦れ違うとき、ついつい偉そ
うな態度をとっちゃったのだ。コレにカチンときた地元武士たちが、「梶原だか何だ
か知らねぇが、構うこたぁねぇ、やっちまえ!」って大乱闘、梶原一行は皆殺しにさ
れちゃって、道沿いに梟首、惨めな末路に行き着く。場所は、<狐崎>だ。
 梶原陰口ぢゃなかった景時は、頼朝と其の子をタブラかし、政を混乱せしめた張本
人である。少なくとも、源平盛衰記なんかでは。これ、即ち妖狐であろう。妖狐が実
際にいたと信ずるなら別だが、何かを暗喩していると考えたって、良いだろう。狐は
稲荷神の使いともなるが、狡猾に人を騙す(とされた)動物でもある。一応は、梶原
追放の団体交渉に於ける代表者は、長老・三浦氏だった。が、常胤は、近世に於いて
最もメジャーな鎌倉御家人の一人だ。妖狐退治の代表者と目されても、仕方がない。
 人間関係とやらのみでカス野郎がノサバッているとき、排除するために、まず必要
なのは、自律できる心<覚悟>だ。武人の<神通力>の正体は、この覚悟であろう。
そう考えれば、際立った武人、並々ならぬ胆力・覚悟を有していたであろう者どもが、
<魔>なる存在を打ち挫くべく活躍することは、当然至極だ。魔は、人の心に棲んで
いる。自律とは、この魔を払う態度そのものだ。
 って、何の話をしているか、危うく忘れるところだった。千葉常胤だ。要らんこと
を書いてるうちに、行数がなくなった。が、千葉一族に就いて、言いたいことはマダ
マダある。だいたい、まだ、八犬伝の話をしていない。次回も多分、できないだろう。
千葉一族、といぅことで御察しだろうが、今回は、毛野をテーマにしている。追って
も引き留めても、まるで掬った水が指の間からサラリと抜けていく如く、捉え所ない
、漂泊・変化の美少年。いきなり抱きすくめようとしても、軽やかな笑い声を残して
姿をくらますだけだろう。まずは外濠を埋め、肉薄せねばならない。馬琴は、犬夷評
判記で、其の出版当時まだ本編に登場してもいない毛野い就いて語りかけ、そして口
を噤む。まるで毛野に、就中、彼の女装に八犬伝の秘密を篭めているかのような口ぶ
りであった。毛野には、慎重に近づかねばならない。…そんなこんなで、御機嫌良ぉ。
(お粗末様)



#1166/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  99/ 1/26   1:24  (197)
読本・八犬伝「暗愚の王」   伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本「番外編 北斗の武」
                〜黒き星シリーズ2〜

 伝説的武人・千葉常胤は、まぁ祖先も陸奥守だったりするし、東北地方に睨みを利
かせた、朝廷から見れば<異国・奥州>の最前線を守った、本来の意味での<征夷大
将軍>とも言える家系であり、東北地方に所領を持っていたけれども、常胤本人も奥
州藤原氏を攻略した功績で、所領を与えられたりしている。常総、いや関東一円に勢
力を張った千葉一族は、奥州にまで散在していた。そして、この奥州千葉一族から、
後に有名人が輩出することになる。皆さんも御存知の人物だ。
 江戸後期、陸州に北辰夢想流なる剣法が建てられた。近郷では知られた一派だった
らしい。始祖の子は、しかし江戸へ出て医家となった。剣が人を活かす道なら、医も
人を生かす術だろう。似たよぉなモンだ。医家となった彼は、自分の二男には剣の道
を歩ませた。当時の一大流派・小野一刀流を学んだ少年は、見る間に頭角を現した。
やがて師に認められ、婿入りした。しかし、旧法を固守しようとする師と、新法を編
み出そうとする彼は衝突するに至った。師の説得に応じず、出奔した。祖父が生んだ
北辰夢想流と、自ら学んだ小野一刀流を組み合わせ、<北辰一刀流>を創始した。彼
の道場<玄武館>は規模としても江戸随一、即ち日本随一となった。幕末の世に多く
の剣客を送り出す。此の、幕末期最強とも云われる剣豪の名は、平姓千葉周作成政で
ある。紋所は月星だ。さて此処で、彼に、「北辰一刀流」の語義を説明してもらおう。

北辰一刀流名号略解
当流剣術一刀流と云名目は、元祖一刀斎なるが故に一刀流と云には非ず。一刀斎、剣
法は一刀の妙処に在と云ふを覚悟して、嘗て剣法に名づくるに一刀の文字を以てし、
倍其法を修し自得したるに因て、後自ら一刀斎と号したるなり。此一刀の法、原因高
遠、意味深長なり。一刀とは剣法の太極なり。一刀より。始元して千変万化して、而
して復一刀に帰す。混沌たる一円形にして、始も終も無く、起と止と無く、其間運用
見難く測難く、神妙不可思議の理なり。都て剣技は無念無想と説、狐疑心無やうに修
行さすれば、更に一段の卓見、一刀の意味を以て妙処を知らしめんとなり。無念と云、
無想と云、常の教へなれども、念と想と相対して念と云も無念の理、無念と云も其中
念有なり。禅家の所謂、無は猶一重の関と云て、無は有の反対なり。未寂滅の妙処に
はあらずとなり。寂滅為楽と説、寂滅に至て始て道を得となり。寂滅の理は玄妙にし
て測知難き事なり。是故に一刀の意味を自得すれば敵より測知らる丶こと無、現妙の
到極なり。
中庸に曰く、詩に曰く、徳の●(車扁に猶の旁)事如毛、毛は猶有倫上天之載は無声
無臭至矣(前に云無念無想の無は有に対と云なればこ丶の無声無臭も同じやうにて至
極したるにはあるまじと思ふべけれども心に係ると事に係るとの差なり。而ら修する
と他より賛(鑽?)するとの別あり。無声無臭は至極の理と見るべし)。是形容すべ
き言なき故に子思子、無声無臭を以て上天の妙用を賛したり。孫子曰く、微乎々々、
至於無形神乎々々於至無声と。是則ち徳の民を化する。兵法の敵に勝、悉く一理にし
て、無声無臭、無形無声、玄妙に至つて自ら必勝の理備り、始めて神と称すべし。是
当流の秘訣にして其詳悉は口に言事能はず。文字に伝ふる事能はず。所謂以心伝心也。
雖然切瑳の功を績ときは自得し易き口伝有、又北辰の文字を冠したるは元来、千葉家
先祖常胤の剣法にして、其法衆妙の理有、其妙用北辰の徳に斎。北辰は北極星にして、
天智の正中に位し難局に対し、天地を運転するの枢なり。子曰く、為政以徳。譬如北
辰居其所衆星共之、君の位にして不動、無為にして、能く衆生を臣として使ふ。即ち
太極の体用なり。至簡至静にして、能く衆を服するの理、是亦意味深長、容易説尽し
難く。此剣法当家に伝りたるを一刀流と合法して、北辰一刀流と号たるなり。倍神妙
と云べし。
流とは、其元祖の法脈、宗など、或は門末、門葉など云事にて、末と云事なり。別に
意味有に非ず。俗にながれと云なり、者流の流と心得べし。

大目録皆伝之巻 奥の口伝
星王剣 石火位 鐘位 露位
是は免状之伝授也。星王は北辰也。乾坤を貫きたる位也。星王の位そなはり北辰我、
我北辰と観念し、打てども突けども、寂然不動として不動位也。其乾坤を貫たる広大
の位に、石火鐘露の三つの位自ら備はる、石火は金石に火を含みたる如く、中れば業
を生ず。鐘は大鐘の如く、敵の力だけに響き応ず。露は草の葉末に露の止りたる如く、
心気力満々と満ちて、草葉につける露の如く、触ると落る美妙無相の早業、至然に備
はりたる位なり。(あとがき略)

 北辰/北極星は、自ら動くことはないが凄まじい力を秘めている、と彼が信じてい
たこと、若しくは、そういう象徴として用いた語彙である事は、「中庸」を引き合い
に出している点からも、明らかである。中庸は、何にもしないって意味で<原点(全
ベクトルゼロ)>ではなく、全方位に強い力が働いた上での<総ベクトル>としての
ゼロである。だから、敵が動き、微妙な均衡が崩れた瞬間、凄まじい力が発生するの
だ。初等物理である。勿論、これは、彼独りの妄想ではない。いや、妄想かもしれな
いが、それは共有さるべきものであった。が、不動であるだけなら、北辰に限らず別
の語彙でも良かった筈だ。にも拘わらず、彼は自らの生涯を懸けた剣の道を名付くる
に、北辰なる言葉を採用した。此の点に関しては、古代後期、関東に新たな朝廷を開
き、自ら「新皇」と名乗った男・平将門の話から、説き起こさねばならないだろう。
 平将門、桓武平氏高望王(タカノゾミオウではなくタカモチオウ)の子・良持の嫡
男、一説では良将と犬養春枝との間に生まれた、将門は、日本国の大魔縁・崇徳院な
んかと比べればスケールの小さい、所詮は関東ローカルのチンケな野郎に過ぎないが、
後に関東が日本の中枢となった地の利故に、上げ底された人物だろう。同じローカル
なら、奥州藤原氏の方がスゴイと思うんだけど、まぁ良い、今は八犬伝、関東に舞台
の中心を据えた物語に就いて語っている。将門、本来なら言及するに足らぬ小者だが
話の都合で取り上げる。
 将門は、叔父・良兼と「聊依女論(将門記)」、女の取り合いをするうちに、他人
同士の争いに巻き込まれ、何時の間にやら戦乱のド真ん中に押し出されちゃって、何
を勘違いしたんだか、「新皇」を名乗って文武百官を設けた、変なオジサンだ。また、
中央/京都の追討軍に攻められ敗れ斬首された折、生首が遠くまで飛んだとか、切り
口から七つの星が弾け出したとかいうエピソードが残る、ビックリ人間でもある。実
際は単なるワガママなスケベェだった可能性もあるけれども。で、何故に将門なんぞ
を持ち出したかと云えば、此の、<切り口から七つ星が弾け出た>って挿話が気にな
るからだ。
 将門、叔父に当たる良文と仲良しだったとも云われる。如何くらい仲が良かったか
と云えば、系図によっては、良文を養子にしたことにさえなっている。叔父を養子に
するなんて? 別に驚くには当たらない。こんなのは、まだ良い方だ。
 上で崇徳院に就いてチョッと触れたが、此の顕仁氏、鳥羽帝の第一皇子だったんだ
けど、母親は皇后・璋子(待賢門院)であった。彼女は鳥羽帝の祖父・白河帝の皇女
である。鳥羽は叔母と結婚したのだが、まぁ、近親相姦なんて、此の一族では日常茶
飯事だから、家風ってヤツかもしれない、ソレは措く。で、まぁ、この叔母−甥の結
婚、公には、そうなっているが、ちょっと怪しい。
 坊様、藤原摂関家出身の身分の高い僧だが、当時の出来事を書き残している。「愚
管抄」だ。此に拠れば、璋子さんは、白河帝の実子ではなかった。藤原公実の娘って
ことになっている。ワザワザ実名まで挙げて嘘を吐くってのもアレだから、なかなか
に信憑性のある話だ。で、同書を読むと、如何やら璋子さんは、タダの養女ではなか
ったらしい。愛人として迎えられたようなのだ。正式に結婚できなかったり憚りがあ
る場合、養子縁組の形式で同棲をカモフラージュすることは、今でもある。例えば、
同性愛者は愛人の同性を養女・養子にしたりする。現行憲法は飽くまでも「両性」の
合意に基づいてのみ結婚の自由を認めている。「同性」間の結婚は認められていない。
違憲、イケンことやねん。
 で、白河帝、どうせロリコンか何かだったのだろうが、飽きたか如何かして、璋子
さんを鳥羽帝に押し付けた。其の時、既に璋子さんの御腹の中には崇徳がいたと噂さ
れている。で、そぉいぅ自己中心的な白河帝の孫・鳥羽帝が、器量大きく寛大な人間
に成長する筈がない。鳥羽帝は崇徳を幼児虐待、だけで終わらずに終生、虐待し続け
た。何たって、好色な祖父に押し付けられた妻が既に子種を有していたのだ。アブア
ブしてても赤ん坊・崇徳は、鳥羽帝の<叔父>に当たる。赤ん坊叔父さんである。可
愛かろう筈がない。<妻の子が叔父>、愚管抄では、是故に鳥羽は崇徳を「叔父子
(オジゴ)」と呼んで疎んじ、崇徳が保元の乱を起こす遠因をつくった、みたいに書
いている。何の話だったっけ……そぉそぉ、えぇっと、だから、叔父を養子にするな
んてのは、まだまだ健全な方なのだ。
 将門である。将門は古代後期に暴れ回ったが、其の戦乱の関東で、千葉氏は発生し
た。上に掲げた良文こそ、千葉氏の元祖とされる人物である。常胤は八代目に当たる。
また、良文を千葉のみならず、三浦とか相馬とか、関東八平氏総ての祖とする声もあ
る。かなり重要人物だったりするのだ、良文は。そして、この良文に纏わるエピソー
ドが同時に、将門と七つ星との関係をも示唆してくれる。
 千葉家の由来を記した千学集抄に拠れば、承平元年、乱を起こした平将門は良文を
伴い上野へと乱入した。群馬郡府中花園村染谷河に差し掛かった。水量が多く、とて
も渡れそうになかった。十二三歳の童子が忽然と現れ、河を渡るよう勧めた。躊躇う
将門・良文を見て童子が、河へと入り先導した。不思議なことに軍勢は河を渡ること
が出来た。追ってきた平国香の軍勢は渡すことが出来ず、対岸に留まった。河を隔て
て戦が始まった。……もし河が隔てていなかったら、圧倒的に数で勝る国香の軍勢が
将門・良文を難なく討ち取っていただろう。七日七夜の間に戦闘は三十四度に及んだ。
将門・良文の軍勢は、遂に七騎を残すのみとなった。良文は落馬しつつ神の加護を祈
った。すると「羊妙見大菩薩雲中より下りまして矢を拾はせ給ひ、良文七騎に与へ射
させければ、七騎の声は千万騎の声と聞えて、敵の上には剣を雨らしければ、敵の大
軍度を失ひけり。彼の七騎は手も負はず、大軍に切り勝ち給ふ。小童忽ち天に昇らん
とせし時、両将は如何なる神とぞ伺ひにける。善哉、我こそは妙見菩薩ぞ。親王の妃
汝を孕み給うて三月なる頃、此の若を誕生しなんには、妙見大菩薩の氏子に奉らんと
誓申し給ひし故に、染谷河に現る。国香の大軍かなはずして蜘蛛の子を散すが如く失
せぬ。(国香は山中にひそみかくれぬ)此の後は良文将門の小符には、日月こそはと、
告げ終りて失せ給ふ。さてこそ九曜を家紋とせられけれ」中略「良文将門の七騎既に
戦に打勝ちて、此の所に如何なる仏神や在しますと、土人に尋ねけるに、近くなる園
邨息災寺に妙見大菩薩在ます、と答ふ。さて彼所に参り給うて、七番づつの小笠懸を
射奉り、{良文の}弟文次郎を留め置きて、後には、菩薩を盗み奉りて出で来よ、と
いひ付けけり。郎等は髪おろし、三年の間その所に住みて後、常住の僧となりて勤め
奉りぬ。正月五日修正を習ひ、我が君良文を守らせ給へ。菩薩はや出で給へ、と申し
けるに、御戸押し開き出でさせ給ふ。文次郎かしこみて、菩薩は七体と聞きにしもの
を、と申す。さればとよ、染谷河にて矢拾ひける時、足に土付きたり、とて踏み出し
給ふ。是を認め知りて御供申し奉れり。実に承平三年癸巳十二月二十三日成り。平井
の蓑崎といふ所に一夜在しまし、さて本所武蔵国藤田、良文の在す所、文次郎家居の
一間に安置し奉りて、二人の娘を八乙女として、自ら太鼓打ちて神楽申上げし也。秩
父の大宮へも移らせ給ふ也。又鎌倉の村岡に移りて村岡五郎と申す也。良文鎌倉へ移
りし日、八箇国を領し子孫繁盛し給ふ也」後略。

 同様の話は妙見実録千集記にも載っている。此方では、三年間も妙見菩薩の御守を
させられた「文次郎」が「弟」ではなく「郎党」になっていたりするが、内容に、ほ
ぼ異同はない。ただ、同様の話でも千葉伝考記では、此の戦、国香が敵役であるには
変わりないが、将門の代わりに平良兼が登場する。そして、妙見の加護を受けたのは
良兼であり、後に舎弟である良文に妙見像を与えている。妙見を三年間守った郎党
「弟文次郎」は登場しない。そして、また、千葉実録では、良文が戦った相手を将門
としており、まず多勢に無勢で七騎となった良文勢が逃げ回った挙げ句に、百騎の敗
残兵を集めて再挑戦、童子として現じた妙見が河を先導したりして、将門軍を蹴散ら
すことになっている。此処でも「文次郎」さんは登場し、三年間、話し相手にもなら
ぬ妙見菩薩の御守をさせられている。付け加えるならば、此の話には「新皇」を名乗
り朝廷に楯突く将門に対し良文が、やたらと憎悪を剥き出しにしているといぅか、朝
廷に敵するとは怪しからんとか、戦闘に於いては手勢を叱咤激励するに「朝恩に報い
奉れ」なんて言って、急に尊皇家を気取っている。此の文書で良文に将門と敵対させ
たのは、朝敵である将門と良文が同類だと思われたくなかった子孫か何かの、作為だ
った可能性がある。朝敵の子孫だと思われたらイヤだと感じるココロが、嘘を吐いた
のかもしれない。更にまた、千葉一族・臼井家に伝わる千葉臼井家譜は、良文を高望
王と妻が妙見に祈って得た子だとする。懐胎したときに童子が現れ、月星を紋所にせ
よと告げている。「夫良文天性超人器量抜群、其謂之北辰之精亦豈疑之乎」。まぁ、
先祖を持ち上げるのに、北辰の精だと言っているのだ。染谷河での戦いは千葉実録と
同様に、良文は将門と戦っており、<不思議>の内容は他史料と相似である。七星山
息災寺で派遣されるのは、やはり「文次郎」さんだ。彼は山伏に化けて、息災寺へ向
かう。但し、三年待たずに到着した夜、早くも妙見の示現を得る。付け加えるならば、
何連も良文の軍勢は、戦の前半で<七騎>を残すのみとなる。
 千葉氏こそ、妙見信仰に篤く帰依した一族だ。そして、「妙見」は、「七星山」と
か「北斗山」なる寺の山号から窺える如く<北斗>を象徴した仏格だいう。同時に
「北辰」をも象徴する。将門の説話に、首を斬られたときに七つの星が弾け飛んだと
か、七人の影武者がいたといぅのは、彼と北斗を結び付けているに他ならない。それ
は上述、千学集抄の記述からも透かし見える。「此の後は良文将門の小符には、日月
こそはと、告げ終りて……」である。但し、実際に将門本人が妙見の熱心な信者だっ
たか、私は知らない。江戸期、千葉一族の子孫は広範囲に拡がり、大名やら旗本にも
多かった。其の元祖・良文は、史料によっては、将門と、一時的にせよ親しかった、
とされる。良文と将門との親近性故、本来ならば良文関連の説話であったものが、将
門に纏わり付いた可能性だって、十分にある。当然、逆も考えられる。まぁ、実際に
近世の江戸人士は、将門と北斗をリンクさせて考えていたようだから、細かい事は言
わないようにしよう。
 また、このように北辰/北斗を祀った一族の末流に、北辰夢想流なる剣法を編み出
した人物がおり、北辰一刀流を建てた剣豪がいることは、何等、不自然ではない。千
葉周作が、「北辰」に拘った理由は、自ずと明らかであろう。鎌倉初期、最強の武人
の一人あり、妖狐を退治するほど神懸かった千葉常胤に連なる者としての自負が透か
し見える。逆に言えば、ソレが、周作ほか千葉一族に連なる者のアイデンティティー
なのだ。北辰を祀る者……。因みに、千葉周作が建てた道場「玄武館」の玄武、北方
を象徴する動物で、以前にも書いたが、亀と蛇が組み合わさった形をしている。北は
「亀」と「蛇」に象徴されるようだ。閑話休題……どころぢゃなくって、またしても
行数がなくなった。まぁ、此の回でも八犬伝に直接触れられないと予告していたから、
予定の行動である(←それで良いのか?)。だいたい、此の読本は初回「番外編 変
成男子」で申し上げた如く、八犬伝世界に於ける筆者の冒険を、ほぼ実況中継してい
る。と云えば体裁が良いけど、ぶっちゃけた話、<考えながら書いている>のだ。何
処へ行くのだか、私さえ、ハッキリとは分かっていない。書き方だって、まず一気呵
成にモノし、適当な所で分稿しているのだ。私の筆名、イーカゲンの所以である。と、
云っているうちに、本当に行数がなくなってきた。それでは、今回は、此迄。
(お粗末様)



#1168/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  99/ 1/26   1:33  (197)
読本・八犬伝「星祀る者」   伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本「番外編 星祀る者」
                〜黒き星シリーズ3/完〜

 千葉一族といえば妙見信仰、妙見信仰といえば千葉一族である。千葉一族は、千葉に
本拠を移したとき、やっぱり妙見菩薩も持って行って、寺に安置した。北斗山金剛授寺
俗名・妙見寺、現在の千葉神社だ。……なんで寺やのに神社やねん、と私に言われても
困る。事実が、そうなのだから、仕方がない。ごめんなさい、神社で許して下さい。
 と、無責任な態度をとるのも何だから、端折って解説すると、寺から神社への転換は
明治維新のセイだ。明治政権は廃仏毀釈ってのを遣った。それまで仏教に屈服を強いら
れていた神道の復讐である。寺は滅亡せねばならなかった。だから、妙見寺は神社に化
けたのだ。抑も、仏教は神道を其の宗教世界の中に包摂していたから、何となく変身で
きちゃうのである。例えば日本仏教では、天照皇太神は実は大日如来が日本に来たとき
の仮の姿ってことにしてた。本体は仏、神はサブ・レベルの存在。神仏習合、本地垂迹
ってヤツだ。即ち、仏理によって日本の神を解釈し直し、再編しちゃったのである。こ
うした場合、仏教が<本家>、日本神道が<分家>だ。当然、仏と神、似たような性格
を持つ同類同士を、くっつけた。で、金剛授寺が神社に化けるとき纏った仮面は、天之
御中主、コイツは妙見の変態(/別ヴァージョン)、北極星/北辰の神格化だ。眷属と
して祀られたのが元中主、経津主、そして日本武尊である。天之御中主が妙見だって理
屈は理解できるんだけど、日本武尊が引っぱり出された事は注目に値する。即ち、妙見
を祀る寺/神社に、日本武尊が祀られ得る点、即ち両者が無関係ではない、多分、密接
な関係にある事が、興味深いのだ。まぁ、日本武尊は後回しにしよう。

 大雑把に上記いくつかの史料を纏めて要約すれば、良文は上野国群馬郡七星山息災寺
本尊・妙見菩薩の加護を受けていた。国香だか将門と戦って危難に陥ったとき、まさに
妙見菩薩に救われた。良文は息災寺本尊を崇め、弟だか郎党の文次郎さんを派遣した。
そして、複数の史料に於いて、文次郎さんは、三年もの間、菩薩の御守をしていたこと
になっており、少なくとも千学集抄、妙見実録千集記では、息災寺から良文も住む武州
藤田へと妙見像を持ち帰って、自分の家に安置している。良文家/千葉家の守護神・妙
見菩薩を祀る司祭が、文次郎さんなのだ。因みに、上記、他の史料に於いては、同様記
述はないものの、必ずしも相矛盾する記述はない。文次郎さんを、妙見の司祭と考えて
まずは不都合がない。此処で問題となるのは、良文を助けた仏が何者だったかだ。先学
は、北斗七星や北極星を神格化した仏、とか仰ってるけれども、それだけでは何のこと
やら分からない。で、仏様の事は御経を読むしかない。

 白宝口抄(妙見法)に「七仏所説神呪経云我北辰菩薩名曰妙見今欲説神呪擁護国土所
作甚奇特故名妙見処於閻浮提衆星中最勝神仙中之仙菩薩之大将光因諸菩薩広済諸群生有
大神呪名胡捺波宿曜問答云北極者北辰也北辰者妙見也妙見者尊星王也且妙見衆星尊故北
辰猶百川之宗臣海」、とりあえず、「北辰」即ち北極星のことだと確認できる。北極星
を象徴する神格なのだ。が、実は此の「白宝口抄」、お坊さんの参考書で、とても合理
的な書き方をしている。仏説に異論が多くあるが、その主立ったものを併記している。
だから、上記の如く、一方で妙見イコール北辰と云ってみたり、また一方では「妙見神
呪経云北斗輔星者妙見輔相也或伝云付星此尊星王也故北斗尊星王同体也仍現妙見時蓮華
上置七星持之現七星時名輔星也」なんても云っている。妙見イコール北斗イコール輔星
だ。三者一体。ところで、「輔星」なんて耳慣れない名称が登場したが、此の星の立場
は微妙だ。
 馬琴の参考書、和漢三才図会で「北斗」は「七星」だ。が、北斗の項目には、あの柄
杓もしくは匙のような形の七星を説明した後、此の「輔星」にも言及している。狭義で
は「北斗」は「七星」だが、広義では「輔星」をも含むって書き方だ。この不思議な星
座、「北斗」に就いては、少し考える必要がある。
 中華帝国は昔から、建前として<文民統制>を維持していた。文官が武官を支配する
のだ。だから高級文官/官僚となるには、武官と比べ極めて厳しい試験を潜り抜けねば
ならなかった。科挙である。この科挙には、変な問題も出された。北斗を指差し「星は
幾つある?」とやるのだ。「七つ」だったら不合格。正解は、「八つ」だ。北斗は匙も
しくは柄杓の形をしているが、柄の先端から二つ目、武曲星と呼ぶけど、此の星の脇に
、
ちいたなちいたなおぽちたま、がある。輔星と謂う。視力検査だったか、それとも一般
常識問題だったか私には判断できないが、とにかく、そういうイヂワルな問題も出たら
しい。因みに北斗は柄の先から、破軍、武曲、(輔、)廉貞、文曲、禄存、巨門、貪狼
星だ。
 さて「仏説北斗七星延命経」に北斗の図がある。此処では七星と輔星を分けている。
「北斗七星」は皆、女の子として描かれている。勺を手にした愛らしい女の子が仲睦ま
じく七人、並んでいる図だ。輔星のみ男性として描かれている。輔星は恭しく武曲に敬
礼している。女王様と下僕のようだ。
 しかし、「北斗七星念誦儀軌」(南天竺国三蔵金剛智訳)では、「爾時如来為来世薄
福一切衆生故。説真言教法。時一切日月星宿皆悉雲集前後囲繞。異口同音白言唯願如来
而為我等説於神呪于時。世尊説八星呪言。●(口ヘンに奄)颯●(足に多)而曩野伴惹
密惹野染普他摩娑●(口ヘンに縛)(二合)弭曩●(口ヘンに羅)乞山(二合)娑●
(口ヘンに縛)都莎呵其印明出金剛頂経七星品仏告貪狼破軍等言若有善男子善女人受持
是神呪擁護否。于時八女白世尊言若有人毎日誦此神呪。決定罪業皆悉除滅成就一切願求
設復有人若能毎日誦此神呪一百八遍即得自身一切眷属擁護。若能誦五百遍大威神力五百
由旬内。普皆囲繞一切魔王及緒魔衆一切障者無量悪鬼不敢親近常当擁護。北斗八女一切
日月星宿緒天龍薬叉能作障難者一時断壊若人欲供養者先発抜濟再心於清浄寂静之処以香
華飲食供養持念神呪結印契如是供養時八女及一切眷属現身随意奉仕成就無量願求惹位即
得何況世間少少官位栄耀若求寿命削定業籍還付生籍若諸国王王子大臣後宮等於自宮中作
曼荼羅如法護摩礼拝供養。北斗八女大歓喜……後略」とある。「北斗」を「八女」と表
現しているよう見える。八人目の「北斗」は何者なのか? 輔星か? それとも……。
 同じく白宝口抄の「北斗法第二」には、「寛信法務云唐本北斗曼荼羅北斗七星之中一
星下地是文曲星為採薬顕向終南山也漢武帝会宴之所也云々伝受集等有之北斗念誦儀軌云
(金剛智)若有人欲供養者先発抜済心於清浄之処以香花飲食供養持念神呪結印契如是供
時八女及一切眷属現身随意奉仕成就無量此軌八女是北斗七星加妙見云八女歟七星必加輔
星故也又北斗延命経皆女形也依繁不引之又鳥羽院御宇此事有勅問御室令申給云真言颯●
(足に多)歯曩者此翻七女仍可女形歟云々」とある。此処では明快に、<八女>=<北
斗>+<妙見>、<妙見>=<輔星>となっている。故に、<八女>=<北斗七星>+
<輔星>だ。
 ところで読本初回「番外編 変成男子(ヘンジョウナンシ)」の末尾に、「女メが一
人 交じる北斗の 七つ星 童女添いて 具足するらむ」と下手な句を付した。実は、
この時、八犬士を北斗七星+輔星(の精)と考えており、「童女(ワラワメ:少女)」
=毛野と比定していた。毛野って、ちょっと特別っていぅか、八犬士は互いに姻戚関係
を結ぶけれども、毛野だけ其の連環から外れているし、信乃も道節も誰も、七人が戦場
へ赴く対関東管領軍戦で、美少年だったからかもしれないが、一人だけ義成に侍ってい
る。とにかく彼は、ちょっぴり孤独な美少年なのだ。だからこそ、他の七人を北斗七星
毛野を輔星だと考えた。本当は、「本編 変成男子」で此のネタは使おうと取っておい
たんだけれども、毛野の事が書きたくなったので前出しした。
 が、此処に来て、自信がなくなった。必ずしも毛野が、輔星だとは思えなくなったの
だ。……と言ぅか、厳密な形での比定そのものが、無意味に思えてきた。実は白宝口抄
には、「宿曜問答云北極者北辰也北辰者妙見也妙見者尊星王也且妙見衆星尊故北辰猶百
川之宗臣海」ともある。更に、「本命供次第云以北斗七星為北辰或北斗中以文曲星為北
辰」ともある。もう、北斗七星だか輔星だか北極星だか、区別がグチャグチャなんであ
る。言ってみれば、北極星と北斗七星と輔星、とりあえずは、九つでワン・セットと考
えておく方が良い。また、「口云妙見者武曲星傍輔星是也此輔星為諸星母出生北斗等故
道場観以北斗七星為眷属也」(白宝口抄妙見法)。この場合、「輔星」は北斗だけでな
く、総ての星を生んだ、<母なる星>である。伏姫にこそ相応しく思えもする。少なく
とも現段階では、手持ちの情報が少なすぎる。一定の留保を設けておこう。即ち、<八
犬士、若しくは八犬士と伏姫を、差し当たっては集合として考える>。可能であれば、
将来、各人個別の厳密な比定を行おう。今回は、毛野に就いてのみ、しかも、一定の幅
を持たせて比定するしか出来ない。
此処では、仮に、妙見イコール北辰/北極星とする。そう考えると、白宝口抄北斗第三
に云う、「口云……中略……北方水曜……中略……黒帝之子也火羅図云一名北辰一名兎
星一名滴流星或云辰星歳形水精也云々……中略……又云神形如黒蛇有四足而食蟹又云其
神如人着青衣帯猿冠手執文巻梵天七曜経云梵本云形如学生況童子着青衣乗青●(馬に聰
のツクリ)馬天衣珠宝装水星之像也火羅図註云……中略……其神形如女人頭戴猿冠二手
執紙筆着黒衣……中略……水曜者北方作業即水精也彼体総顕煩悩煩悩如水是顕示貪愛行
相誠似水故云神形如黒蛇也蛇水精也北方前五識作業故表彼戴猿冠猿散乱物故也持紙筆記
煩悩異熟記功徳之仏果義也」が、深い含蓄を以て、迫ってくる筈だ。水曜とは<九曜>
のうち、水を象徴する神だ。西洋で謂うウンディーヌ、水の女神だ。他に日、月、火、
木、金の各曜と、二つの隠然たる星がある。「九曜」、そう、「月星」と並び、千葉氏
の紋所に用いられている、あの九曜だ。仏教に包摂された前近代ホロスコープである。
で、此のホロスコープは、五行説に拠って理論づけられている。だから、水曜は、其の
名の如く、水気の精である。そして、彼もしくは彼女は、「学生」「童子」即ち若い男
性もしくは(美)少年かもしれないし、「形如女人」女性かもしれない。<男性であり
女性でもある存在>だ。女性として描かれることが多いようだが、其れは多分、水→陰
→女性という連想によって、裏打ちされている。また、彼女/彼は「戴猿冠」、お猿さ
んの冠を被っている。「持紙筆」、何となく賢そうだ。そして、「食蟹」蟹を食べる。
「乗亀」、亀を乗り物にしている。

 ……逃げるのは、止めよう。水曜、此は、犬阪毛野だ。毛野の玉は「智」である。智
は、水の徳だ。九曜は八犬士+誰かだ。誰かとは多分、伏姫だろう。そして、水曜であ
る毛野は「蟹目上」が飼っている「猿」を助ける。毛野は、猿と親近性がある。其の褒
美として、「亀」次団太を助ける。亀とも親近性がありそうだ。元より亀は、玄武は、
水なる方位/北方を象徴する。次団太は八犬伝世界の北方、越の国の住人だ。彼の周囲
には、魚類、水棲動物が多い。こりゃぁ、やっぱり<北>だからだろう。北は水気の方
位なんだから。しかし、同じ水棲動物でも、<蟹目上>は、毛野と接触した結果、自害
へと追い込まれる。毛野は犬士であるから、当然、読者にアカラサマな非難を向けられ
るべき真似はしない。馬加一家を全滅させたときにも、妻と娘は、自ら手を下さずに
<葬った>。水気は陰、陰は殺を好む。殺し始めたら、半端じゃ済まない。だから一見
蟹目上自害の直接的責任は、毛野にない。が、やはり、蟹目上にとって、毛野との接触
は、不幸であった。蟹は、水曜に食われる。そして、彼は水曜であるが故に、妙見菩薩
とも関わりがある。妙見は、北辰だ。北は水気の方角だ。更にまた、「小野僧正抄云問
云北斗七星者即妙見菩薩大集具説云々今私記文者仙人語也 答北斗是文殊師利菩薩異名
也豈不審耶云々」「秘密抄云北斗法以八字文殊為本尊云々私云醍醐伝云北斗●●●以八
字文殊為中尊又破諸宿曜真言即八字文殊言也云々」(白宝口抄北斗法二)、北斗とは、
文殊菩薩であり、就中、<八字文殊>と同体なのだ。「八」、とても怪しい。勿論、こ
の「八字」に変えられる八童子のうち二人には「尼」の字が含まれ、この「尼」、単な
る梵語の音訳だと思うのだが、女性を表す字句だと誤解すれば、女装の麗人・信乃、毛
野を含む八犬士と、思いたくなる気持ちも、分からんでもない。実際に、ソレと図像ぐ
らいしか根拠を挙げぬまま、八犬士と文殊八字曼陀羅の連関を断定してしまう論だって
ある。且つはまた、北辰/北斗を媒介にすれば、「口云妙見菩薩者於一切善悪諸法皆悉
知見妙体是知見諸法宝相亦慈悲至極是悲生眼体也又此妙見菩薩観音也。観音疏云妙眼妙
眼是妙見同義也観音現種々形利益衆生時顕妙見義也然者観音垂跡也」(白宝口抄)、伏
姫の正体、観世音菩薩に迄リンクが可能だ。伏姫は、言わずと知れた、八犬士の母だ。
八犬士は皆、<元を辿れば>伏姫なのだ。故に、伏姫は「本地」、毛野が妙見であれば
、伏姫は観世音でなければならず、実際に、そうだ。だいたい、三人寄れば文殊の智恵
智の菩薩たる文殊が毛野であれば、これ程つきづきしいことはない。しかも、文殊、我
が邦に於ける男色の祖・弘法大師空海またの名を佐伯のマオ(真魚)ちゃんに、男色の
悦びを教えたとされる仏様だから、其の点でも何となく、毛野なら似合う。……って、
コレは冗談。
 論理で此処までは確定できた。が、決め手に欠ける。信乃だって女装しているし賢い
し、水気の剣を持っているし、荘介あたりとの関係も甚だ怪しいので、毛野と置換した
って別に構わないではないか? ……御尤もである。しかし、「猿」「蟹」「亀」が三
匹で、毛野を指差している。って、蟹の指って……、まぁ良い。よって、毛野の方が、
蓋然性は高い。……が、所詮は蓋然性の問題、逆転も可能だ。
 などと云っているが、ごめんなさい、今回は(?)、筆者の独り相撲であった。証拠
を今まで隠していたのだ。もう、御存知のコトと思うが、筆者は性格が悪い。ふっふっ
ふっ。
 千学集抄などで、良文/千葉一族と妙見菩薩の関係を引いた。思い出していただきた
い。毛野は、千葉一族に連なる者だ。本当(?)の名字は、粟飯原であった。そして、
千葉関連妙見説話で、司祭役として「三年」もの間、妙見菩薩の御守をした「文次郎」
さんを紹介した。彼は三年、妙見菩薩を守った。逆に言えば、妙見菩薩は、文次郎さん
に三年間、乱れた世を避け山奥で守られていた。毛野は、粟飯原家の庶子として母の胎
内に宿った。懐胎三年にして漸く、上野ではないものの、相模の山奥で生まれた。二つ
のエピソードは、厭になるほど似ている。別に、……厭じゃないけど。そして、此処で
毛野と妙見、両者の連関を更に強める事実が存在する。文次郎さんだ。彼のフルネーム
を今こそ明かそう。平姓粟飯原文次郎常時、である。粟飯原、毛野の実家だ。彼の実家
は、千葉一族に於いて、妙見の初代司祭を務めた家柄だ。だから、同じ女装癖のある犬
士でも、大塚あらため犬塚信乃が妙見/水曜/文殊では、具合が悪い。やはり、妙見は
毛野でなければならないのだ。

 八犬伝なる<箱庭>は、遂に宇宙まで<借景>にしてしまった。前に「日本ちゃちゃ
ちゃっシリーズ」で、八犬伝に於ける「安房」が、実は日本を象徴すると述べた。そう
安房は、日本を象った箱庭だったのだ。箱庭は、虚空に浮かんでいるのではない。背景
が必要だ。その背景こそ、宇宙、前近代のコスモロジーだ。
 馬琴の跡を夢中で追っていたら、自分でも気付かぬうちに、トンデモナイ場所まで来
てしまった。この先、如何なるか不安だが、まぁ、来てしまった以上は、仕方がない。
辿り着くか、行き倒れるか、そんなもん、分からない。

 寒空を見上げると、こんなオトギバナシを思い出す。

属星祭秘法云(義浄)昔劫初未顕日月星宿位人有光飛行自在減末人有貪欲身●●滅世暗
本地菩薩憶念過去発弘願為饒益一切有情変化日月五星二十八宿遍照四方黒暗野(白宝口
抄北斗法二)
遙か昔、人々は輝き、自由に空を飛翔していた。
やがて時が移り、人々は貪婪な欲望を抱くようになった。
人々が輝かなくなると、世界は暗くなった。
ボサツは昔を思い出し、「再び世界が光に包まれますように」と願った。
ボサツは太陽に月に星に、変化した。
世界は再び光に包まれた。
(お粗末様)



#1169/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 1/28  11:44  ( 42)
沈黙−片恋歌・4−  りりあん
★内容
                        沈黙 −片恋歌・4−

                      忘れた 忘れた
                        朝食用のパン買ってない

                        忘れた 忘れた
                        お弁当なのにご飯がない

                        あなたが
                        わたしの胸に住みついてから
                        小さな日常
                        ぽろぽろこぼれて

                        わたし
                        今度は 何を忘れるのだろう?


                        真夜中に
                        目覚めて さまよう
                        電脳の海
                        たったひとつのハンドルが
                        私の心を
                        くるくる回す


                       あなたの心の真実は
                        顔文字だけが知っている
                        わたしは いつも
                        なすすべもなく                       
            沈黙して    
                        眩しい朝を迎えるのだ


                        お願い
                        もう少しここにいて
                        旅立ちのじゃまはしないから
                 遅すぎた めぐり逢いに
                        涙こらえて
            ただ唇を噛む

            
                       りりあん



#1170/1336 短編
★タイトル (GSC     )  99/ 1/28  19: 3  (108)
  思い出の文集         /オークフリー
★内容
 私共は、普通文字の文章を点字に直すことを「点訳」といい、点字の文章をそのま
ま点字で書き写すことを「点写」と呼んで区別している。いずれにしても、大層時間
と労力を要する作業で、四百字詰め原稿用紙3枚が、ほぼ点字用紙4頁になり、順調
に点訳がはかどっても1時間以上かかるから、書籍1冊を点字で書き写すには相当の
覚悟がいる。いにしえの人たちが行った手書きの写本や写経に似ているが、毛筆に比
べて点字は機械的だから、それが長所でもあり短所にもなる。

 名古屋盲学校の文集『あしおと』第25号を、パソコン入力により点写した。ほと
んど1日中キーボードを叩いていて、178頁を点写するのに五日かかった。
 下に載せる文章は、私が説明代わりに書き加えた『点写に当たって』、および、私
の掲載原稿『変わり行く母校に思う』である。前者は昨夜書いた物だが、後者は27
年前の物を修正せずにそのままUPさせていただく。
 両者を比較してみて、ほんの少しばかり良くなっているようでもあるが、ほとんど
進歩していないようでもある。
 同様のことは生徒の作文にも見られ、高校生になってからの性格や雰囲気や物の考
え方が、既に小学生の頃の文章の中に色濃く出ているのに驚かされる。
 彼らの大部分は、私が学級担任または教科担任を受け持った生徒なので、懐かしさ
と愛情が沸々とわき上がってきた。


  点写に当たって
 荷物の整理をしていたら、『あしおと」25号の点字版が出てきた。ずいぶん古び
た本で紙も変質しているが、捨てるのは惜しく、パソコン入力で点写してから廃棄す
ることにした。昔はパソコンが無かったから、『あしおと』は生徒の手作りによる亜
鉛版印刷である。従って、点字の間違いや書式の乱れが甚だしく、今回の点写(入力)
に当たっては、若干手直しした所もある。著作権を云々するならば、墨字(普通文字)
の原本と照らし合わせる必要もあろうが、読むだけなら、原作の文意や雰囲気は全く
変更していないから、原文そのものと思っていただいて差し支えない。
 思い起こせば、『あしおと』が愛知県立名古屋盲学校の文集としてスタートしたの
は、わたしが高等部に在学中の時だった。それより前、文集の名前を校内で募集した
ところ、寄せられた候補名の一覧が確か点字用紙3頁にもなったのを覚えている。そ
れを各クラスに持ち帰って検討した結果、『足跡』というのが第一位になったが、足
跡よりも足音の方が良かろうということで、その名が採用されて今日に至っている。
 本書第25号は、今から27年前、わたしが母校に転勤してきて最初の年度の号で
あり、わたしの原稿も掲載されている。懐かしい教え子たちの文章が次々と現れて、
わたしはおとぎの世界に入っていった。
           [1999年(平成11年)1月27日  点写完了]


  変わり行く母校に思う
 わたしが本校に入学したのは、昭和19年の4月でした。当時、校舎は中区宮前町
にあって、こじんまりと落ちついた雰囲気の、伝統を秘めたゆかしい学園でした。旧
制度に基づく、初等部六カ年・中等部鍼按課四カ年とはいえ、子供心にも気の遠くな
るような長い年月に思われました。それでも、日々平穏な学業や寄宿舎生活を続けて
いれば、何時かは自然に卒業の日が来て、難なく一人前のあん摩師に成れるものと信
じていました。まさか戦争のために平和な学園が無惨にかき乱されようなどとは、思
いも寄らないことでした。
 忘れもしない6月、本土は大空襲に見回れ、ついに学校疎開のため長期休校のやむ
なきに至り、入学後僅か二ヶ月版で学びやを離れ、それでも懐かしい故郷へ、長年病
床に在る優しい母の元へ帰りました。
 10月末になって、尾張一宮の中学校(今の一宮高校)の一部を借りて、曲がりな
りにも授業が開始されましたが、それは実に惨めでした。寄宿舎の食事は豆かすと代
用食ばかり…、教室と舎室は兼用…、授業中も再三に渡る空襲警報の度に粗末な防空
壕に避難しました。1日中じめじめした壕の中でしゃがんだまま恐ろしさに震えてい
たこともあります。真夜中にたたき起こされて、冷たい運動場を裸足で逃げたり、蒸
し暑い夏には、蚊の大群に悩まされつつ避難を繰り返しました。
 ついに翌年の6月には二度目の休校となりました。もっと安全な田舎へ疎開しなけ
ればならなくなったからです。休校の知らせを聴いて、生徒たちは躍り上がって喜ん
だものですが、それほど当時の学校生活は不安の連続だったのです。
 8月の終戦を迎えた時には、宮前町の学校も一宮の仮校舎もすっかり焼けてしまい、
僅かにピアノ1台が残っただけでした。人々は戦争に疲れた体を励まして必死に生き
ていかねばなりませんでした。日本国民を支えてきた軍国思想は根こそぎ覆されまし
た。
 その年の暮れには、津島中学(今の津島高校)の一部を借りて、新しい民主教育の
理念の元に、やっと授業が始められましたが、しかし、それはなんと悲惨だったこと
でしょう! 今思い起こすと、息苦しくなるような辛く悲しい毎日でした。戦後の食
糧難と不十分な設備、そして人身のすさんだ中で、わたしのように他人から好かれな
い質の子供が、どんな寮生活を強いられたか想像してみてください。持ち物は盗まれ、
上級生にはいじめられ、栄養失調と虱のために皮膚病や腫れ物でいつも悩まされまし
た。食事時になると、寄宿社生たちは、箸箱をガチャガチャ鳴らしながら廊下で待っ
ていて、ご飯の鈴の鳴るより早く、我がちに食堂へなだれ込み、大きそうなドンブリ
を捜して座ります。朝は甘酒のような雑炊にかぼちゃの葉やキュウリの葉がどっさり
炊き込まれています。昼は小粒でえぐいじゃがいもが10個ほどあるだけ、夜は大抵
薄っぺらな2枚の団子汁(すいとん)……。腹ぺこでも、店は遠いし小使い銭が無い。
寄ると触ると食べ物の話しばかりで、たまに郷里から食料を持ってきてもらっても、
悪い上級生が半ば脅すようにして取り上げてしまいます。冬になると、枯れ葉や小枝
を拾い集め、ひどい時はよその塀を壊してきてバケツでくべて、やっと暖をとりまし
た。
 こうした不自由の中にも、思いやり深い先生や上級生の親切を、わたしは忘れるこ
とができません。教科書や点字紙さえ満足に無い中で、それでも徐々に改善されつつ
3年半が過ぎました。
 待ちに待った新校舎が完成し、現在の千種ケ丘に移ったのは、小学6年生の春でし
た。舎室は8、掘っ立て小屋のような炊事場があるだけで、廊下にテーブルを並べて
ご飯を食べました。洗面所とては、中庭にポンプ井戸が一つあるだけで、上級生が順
番にみんなの洗面器に水を汲んで手渡ししました。教室は10室ほどしかなく、実技
はおおむね舎室で行いましたが、なにしろこれが本当に自分たちの校舎だと思うと、
ありがたくてありがたくてなりませんでした。運動場はゴツゴツの石と穴ぼこだらけ
で、草が背丈よりも高く一面に伸びていて、授業もそこそこに連日屋外作業でした。
けれども、ときに釘やガラスで足を痛めることはあっても、毎日野球のできる広い校
庭があるので満足でした。
 高等部に入ってからの5年間は、家庭の都合でずっと苦学しました。その頃のわた
しの生活は、人生における第二の暗黒時代と呼ぶことができます。朝早く学校に来て、
夜は遅くまで治療に歩きました。極めて旧いしきたりと封建的徒弟関係の下で、潤い
のない住み込みアルバイトが続きました。忍耐と倹約の中で、いかにして疲労と睡魔
を克服し、仕事と学問を両立させるかが、日々の課題でした。歯を食いしばり悔し涙
を押さえつつ、今にきっと幸せが訪れることを信じていました。
 無事本校を卒業させていただき、東京で2年、札幌で11年を過ごし、昨年春から
久々に母校へ帰ってきてみて、しみじみ昔を思い出しています。今日ともかくもこの
平和な町に住み、立派になった母校を眺めていると、本当に世の中は予想も付かない
方向へ常に変わっていくものだと痛感させられます。
 本校の歴史にこと寄せて、わたしの苦労話を長々と書いてきましたが、人生誰しも
苦難は付き物ですから、ことさら大げさにいうほどのことはなかったかもしれません。
 そこで、わたしの言いたいことを次の二つに搾ってみました。
 1 めまぐるしく移り変わる世の中に、無理なく対処できる柔軟性を身につけたい。
 2 同時に、いかなる変化にも惑わされない確固たる信念、例えば、善悪の判断基
準とか、人類理想の姿といったような不変の真理を体得したい。
 揺るがぬ真理と柔軟性、それはわたしなどの遠く及ばぬ境地ではありますが、日々
努力だけは続けていきたいと思っています。



#1171/1336 短編
★タイトル (VBN     )  99/ 2/ 6  17:54  (106)
「からくり人形」    時 貴斗
★内容
「いやあ、蒸しますなあ」新城氏は扇子をはたはたと扇いだ。新城氏の
前には羽織袴姿の、白髭をたくわえた老人があぐらを組んでいる。
「外は暑かったでしょう。おーい、信子、お客さんに冷たいお茶を」
 その老人−大滝氏が声をかけると、しばらく間があって、障子がすー
っと開き、見目麗しい婦人が盆に汗をかいたコップを載せて、しずしず
と入ってきた。切れ長の眼、薄く紅をひいた唇。大滝氏とは随分と歳が
離れている。
「どうぞ」婦人が麦茶を卓の上に置こうとすると、「ちょっとお待ち」と
言って大滝氏が立ちあがった。十畳ほどの座敷の隅に置いてある箱から
人形を取り出し、戻って来ると、それを卓の上に置いた。
 婦人がクスリと笑い、その人形が手にしている小さな盆の上にコップ
を載せる。人形はからからという音を立てながら卓上を進んできた。新
城氏がコップを取り上げると、ぴたりと止まった。ごくり、ごくりと一
気に飲み干し、コップを戻すと、くるりと反転して大滝氏の方へ戻って
いく。
「いやはや、見事なものですなあ」新城氏はためいきをついた。
 婦人は軽く頭を下げると、障子を開け、出て行った。
「茶運(ちゃくみ)人形です。まあ、ご存知でしょうが……」
「ええ、ええ」新城氏は、その人形に見入った。「まさか、江戸時代のも
ので?」
 ハッ、ハッ、ハッと、大滝氏は豪快な笑い声をたてた。「そうだといい
んですがな。残念ながら、昭和初期のものですよ」
「ゼンマイは? 鯨の髭ですか」
「それも残念ですが、真鍮製のものです」
「いやそれにしても……」新城氏は再び同じ言葉をつぶやいた。「見事な
ものですなあ」
「先生のからくりのご研究は、もう長いんですか?」大滝氏は懐から煙
草の箱を取り出し、一本つまみ出した。
「いえいえ、研究というほどのものでは……」すかさず新城氏は胸ポケ
ットから百円ライターを抜き出し、火をつける。「からくり人形の方は、
まだ1年にもなりません」
 大滝氏の顔は、わざわざ大学教授が自分のコレクションを見にやって
来たことに対して、非常に満足しているといったような笑みで満たされ
ている。
「すると、他にも研究しているものがお有りかな?」
「ええ、ブリキのおもちゃですとか……、要するに、昔の玩具です。研
究でやっているというよりは、個人的な趣味です」
 大滝氏はふーっと紫煙を吹いた。「私は、からくり人形ほど深い味わい
がある玩具は、ないと思いますな。竹馬や手毬のように、それを使って
遊べるわけでもない。第一、子供のおもちゃにするには高価すぎる」
「からくり人形が生まれた江戸時代には、相当貴重なものだったはずで
す。子供にはさわらせもしなかったでしょうね」
「当時の職人の、最高技術を楽しむわけです。むしろ絵画鑑賞に近い。
“遊ぶ”ための玩具ではなく、“愛でる”ための玩具ですな」

       *       *       *

 御所人形、鼓笛童子、品玉人形に三番叟……。大滝氏のコレクション
は、見事なものばかりである。新城氏が人形達に見ほれていると、ふい
に大滝氏がぽつりとつぶやいた。
「……人間というのもまた、からくり人形のようなものかもしれません
なあ」
「はい?」
「いやいや、失礼。私は最近よく、そんな事を考えるんですよ。歳をと
ったせいかもしれない」
 新城氏は大滝氏の顔をみつめた。老人の額には幾筋もの深い皺が刻ま
れている。
「からくり人形は、人間が生み出した自動玩具だ。今の時代から見れば
仕組みは単純で、それこそおもちゃですが、人間というのも仕組みが恐
ろしく複雑なだけで、ひょっとするとその仕組みに従って、自動で動い
ているだけなのかもしれない。つまり……」大滝氏は煙を吸い、ふーっ
と吹き出した。「人間は神様が作った、からくり人形なのかもしれません
なあ」
 その時突然、「クスクス」という笑い声が、どこからともなく起こった。
部屋の中には、大滝氏と新城氏しかいない。実に奇妙なことなのに、二
人ともまるで聞こえていないかのようだった。
 新城氏はうんうんとうなずいた。「分かります。私もそんな事を考える
ことがありますよ。人間というのは、“物”なのか、それとも単なる物質
とは次元を異にしたものなのか。人間を、たんぱく質だの、鉄分だのと
いった物質の集まりから隔て、人間たらしめているものは、“心”でしょ
う。しかしそれとて、一つ一つの脳細胞の複雑な働きによって現れる“現
象”に過ぎないのかもしれない……」
「最近のロボットなどはどうです。実に精巧にできているじゃありませ
んか。まるで本当に感情を持っているかのようだ。あれなんかを見ると、
心もまた作り物なのではないかと思えてきますな」
「あれは人間の感情を忠実にシミュレートしただけのものですよ。馬鹿
と言われたら怒るとか、偉いと言われたら喜ぶとか、そういった反応の
パターンを膨大な数持っているというだけのものです。本当に怒ってい
るわけでも、喜んでいるわけでもありません。まがい物ですよ」
 その時再び、クスクスという忍び笑いが起こった。今度は一人ではな
く、複数人の笑い声だ。
 大滝氏は短くなった煙草を、灰皿にこすりつけた。「しかしねえ。人間
がロボットを見るのと、神様が人間を見るのと、同じことかもしれませ
んよ」
 しずしずと廊下を踏む足音が聞こえ、障子が開くと、婦人が入ってき
た。お盆の上にはお茶のお代わりと豆菓子が載っていた……

       *       *       *

 ロボット博覧会会場は、今日も多くの見物客で賑わっている。そこに
は大昔のからくり人形から、最新技術を駆使したロボットに至るまで、
数多くのロボットが展示されていた。
 その中でも特に子供達に人気が高いのが、からくり人形を挟んで話し
合う、二体のロボットである。特にロボット達が人間について話し合う
シーンになると、それが滑稽に映り、子供達の笑いを誘うのだ。彼らが
真剣に話し合えばあうほど、余計に滑稽に見えるのだ。
 ロボットの演技が終わると、スピーカーから説明が流れた。
「この、『からくり人形を愛でるからくり人形』は2100年に製作され
たものです。代々からくりを作り続けている、11代目竹屋平兵衛氏の
手によるもので、当時の最新のロボット技術を使って作られたものです
……」
 人形達は再び、初めから演技を繰り返すのだった。
「いやあ、蒸しますなあ……」


<了>



#1172/1336 短編
★タイトル (GVB     )  99/ 2/ 7  22:51  (135)
大型量販店小説  「早く電話をとれ」  ゐんば
★内容

(ベル)
「本日はドッサリ電気にご来店くださいましてまことにありがとうございます。
お客様にお願い申し上げます。当店の電話が鳴りましても、お取りにならないよ
うにお願いいたします」
(ベル)
「はいもしもし」
「7Fですけど、松本主任お願いします」
「少々お待ちください。……あのう、お嬢さんすみません」
「はいいらっしゃいませ」
「松本さんって人に電話ですなんけど」
「ああっ申し訳ありません。主任、主任」
「呼んだ」
「電話ですけど」
「誰から」
「それがお客様がお取りになったので」
「ええっまた。はいはい今行きます」
「すみません、KI3−Roください」
(ベル)
「かしこまりました。色は白と青がありますがどちらにいたしますか」
(ベル)
「白ください」
(ベル)
「在庫を調べますので少々お待ちください」
(ベル)
「はい、もしもし」
「2号店ですが、松本主任お願いします」
「はあ。あの、松本主任って方は」
「えっ。あ、あ、主任、電話、主任」
「あ、お客様どうもすみません、はい松本です」
「申し訳ありません。で、白と青どちらでしたっけ」
「白です」
「少々お待ちください。……梅田ですけど、そちらにKI−3Roの白あります
か」
「は?」
「KI−3Roの白です」
「んー、よくわからないや。あのね、KIなんとかの白あるかって」
「ああっ申し訳ありません。お電話変わりました杉野森です」
「……今の誰」
「お客様」
「またあ」
(ベル)
「で、なんだって」
(ベル)
「KI−3Roの白。そっちに在庫あります?」
(ベル)
「んー、じゃあ調べて折り返し電話するから」
(ベル)
「はいもしもし」
「よろしく。……恐れ入ります、ただいま在庫を調べてますのでどうぞお座りに
なってお待ちください」
「あのー、松本主任って人に電話ですけど」
「あああっすみません。しゅにーん、松本主任」
「なにー」
「電話ですぅ」
「あああっ申し訳ありません。はい松本です」
「あの、すみません」
「はいいらっしゃいませ」
「実は昨日弟夫婦が遊びに来まして」
「はい」
(ベル)
「この弟夫婦に二歳になる男の子がいるんですが」
(ベル)
「はあ」
(ベル)
「この子がこのごろ大層やんちゃになってきまして」
(ベル)
「はい」
(ベル)
「昨日も部屋の中でボール投げをして遊んでたんですが」
(ベル)
「はい」
(ベル)
「おりわるく投げたボールが明かりに当たりまして」
(ベル)
「ええ」
(ベル)
「電球が割れちゃったんですね」
(ベル)
「あら」
(ベル)
「はいもしもし」
「杉野森ですけど、梅田さんお願いします」
「で、電球売場はどこですか」
「三階です」
「えーと。あなた梅田さん?」
「はいそうですが」
「杉野森さんから電話です」
「ああっお客様すみません。はい梅田です」
「あもしもし杉野森ですけど、KI3−Roね、青しかないや」
「あそう。入荷の予定は」
(ベル)
「二週間後だね」
(ベル)
「わかりました。どうもすみません。お客様、あいにく在庫が青しかないんです
が、よろしいでしょうか」
(ベル)
「ふーんそうなんだ。白はいつ入りますか」
(ベル)
「二週間後になります」
(ベル)
「うーん、じゃあ、青でいいです」
(ベル)
「はいもしもし」
「いつもお世話になっております三本松電機です」
「お世話になっております」
「松本主任いらっしゃいますか」
「少々お待ちください。……あの、松本主任って方に電話なんですが」
「ああああっお客様すみません。しゅにぃぃん、松本しゅにぃぃん」
「なんだぁぁぁぁ」
「でんわぁぁぁぁ」
「あああああっすみません。はい松本です」
「えーと、青でよろしいですか。ただいまご用意いたしますので少々お待ちくだ
さい。……もしもし」
「はい」
「梅田ですけど、杉野森さんお願いします」
「すぎ……なんだって?」
「杉野森です」
「杉野さん?」
「いえ、す・ぎ・の・も・りです」
「えーっとで、杉野森さんからどなたに電話?」
「いえ、私が梅田で、杉野森に電話なんですが」
「ああああそういうことね。はいはいちょっと待って。梅田さんって方に電話」
「ああっ申し訳ありません。あの、梅田は五階の売場になりますので、転送しま
すので少々お待ちください」
「ああっ、杉野森さん、待って」
(ベル)
「はい」
「もしもし杉野森ですけど、梅田さんお願いします」
「少々お待ちください。……えーっと、梅田さんって人に電話ですけど」
「ああっお客様申し訳ありません。おーい、梅田くん、電話」
「もーう、やっ!」
「おーい、早く電話に出なさい」

                           [完]



#1173/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 2/ 8  15: 4  ( 31)
矛盾−片恋歌・5−  りりあん
★内容
                        矛盾 −片恋歌・5−

           届かぬ想いを嘆きはしない
                      体内に許されざるを孕んで生きる


                      ひとり街を行けば
                      すれ違う紫煙の香り
                      胸の奥まで カタコト鳴って
                      わたし
                      あなたを諦められない


                      あなたの心に爪を立てて
                      恋のしるしを残したい
                      かなわぬ夢なら なおのこと
                      哀しき強がりのなれの果て
                      笑われたって かまわない


                      道ならぬ恋に
                      心奪われし 愚か者よ
                      喜びを謳えぬまま
                      誰に知られることもなく
                      朽ち果てるがよい
                      それが
                      この道を選んだ おまえの定め


                          りりあん




#1174/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 2/20   1:28  ( 37)
CLICK−片恋歌・6−  りりあん
★内容
          CLICK −片恋歌・6−

                     決して語られはしない
                       この想いよ
                       せめて
                       私を詩人にしておくれ
                       彼の人と
                       同じ空の下で生きることを
                       高らかに謳いたいから


                       知らんぷりするなら
                       どうか最後まで
                       無視するなら
                       どうか最後まで
                       貫いてください あなた


                       恋をしました ごめんなさい
                       あの人に惚れました ごめんなさい
                       どんなに謝っても
                       暗い迷路からは抜け出せない
                       たぶん これは罰なのだ
                       同じ道を巡り巡って 
            永久に彷徨う
                       何もかも失って
                       この身が腐臭を放つまで


                       クリックひとつで消える あなた
                       クリックひとつで消える わたし
                       四角いディスプレイの中は
                       確かなようで 確かじゃない
                       胸に宿る想いも
                       クリックひとつで 消えるのかしら?

                         りりあん



#1175/1336 短編
★タイトル (VBN     )  99/ 2/21   1:52  (134)
お題>【流れ】>「水音」    時 貴斗
★内容
 美代子との出会いは、高校二年の春の頃だった。部活の帰り道、仲間
と別れて一人で歩いていると、ふいに彼女が後ろから声をかけてきた。
「長谷君、一緒に帰ろ」
 三つ編みの似合う、真ん丸い眼鏡がかわいい、陽気な娘だった。しか
しあまりしゃべった事はなかった。男子達に人気の高い彼女が、私に声
をかけてきたのは、驚きだった。
 それから彼女と付き合い始めた。高校生の少ない小遣いでは、映画を
見に行ったり、食事に行ったりということはそう多くはできなかったが、
それでも道端にたんぽぽの咲く近所の小道を、手をつないで散歩してい
るだけでも、十分幸せだった。
 大学に入る時に、彼女は東京の大学を選んだ。私は香川に残った。電
話はしていたが、それもだんだんと回数が減っていき、やがて彼女との
交際はなくなっていった。
 代わりに出会ったのが、知美である。
「私の夢はね、ルポライターになる事なの」
 知美はよく、自分の夢について話した。彼女は自分の将来について、
しっかりとした考えを持っていた。理知的で、決して美人ではないが、
笑うとチャーミングなえくぼができる。
 彼女は私などとは違って、確固たる“自分”というものを持っていた。
一本芯が通っていた。
「長谷君の夢は何?」
「僕かい?僕の夢は映画監督さ。世界をあっと驚かせるような、すごい
映画を作るんだよ」
 私達のつきあいはずっと続き、大学を出るとすぐに彼女の父親に結婚
の承諾を申し込んだ。
「お父さん、娘さんはきっと幸せにします。どうか僕に娘さんを下さい」
 私は土下座をした。父親は渋面を作った。
 その時、突然に、私の耳に水の流れる音が聞こえた。ざーっというよ
うな、あるいはさらさらというような音、それに混じって、かすかにリ
ーン、リーンという鈴のような音が、私の耳の底に響いてくるのだ。
 ……何だ、これは? しかしそれは、ほんの数秒で止んだ。
「うむ。こちらこそ、至らない娘ですが、よろしくお願いしますよ」

 その頃には私は、映画監督などという夢はとっくに捨てていて、しが
ないサラリーマンになった。妻は専業主婦となった。私がそれを望んだ
からだ。
 二年後、私達の間に子供ができた。拓也と名付けた。
 忙しい毎日が過ぎた。それでも、日曜日には家族で、時には一人で、
大好きな映画を見に行ったりした。

 さらに幾年もの歳月が過ぎ、私は係長になっていた。毎朝満員電車に
揺られ、ただひたすらに、毎日同じような仕事をこなしていくだけの日々。
倦怠期を迎え、妻への愛も冷めていた。そんなある日……

「長谷君? 長谷君じゃないの!?」
「美代子……」
 彼女は東京での生活がうまく行かず、香川に帰ってきていたのだった。
転々とアルバイト先を変えながら、なんとか暮らしているのだという。
「そうか、大変だなあ」
 私達は付き合い始めた頃によく歩いた小道を歩きながら、互いの身の
上話を話した。ちょうど桜が満開の季節だった。
「結婚は?」と私が聞くと、美代子は首を横に振った。
「私はあれからもずっと、長谷君のことが好きだったのよ」
「……そうか」
 私はなんだか、彼女に悪いことをしたように感じた。
 その時、私の耳にざーっという音が突然聞こえ、ぎょっとした。どこ
かで聞いたことがある……そうだ、知美の父に、結婚の承諾を得に行っ
た時に聞いた音だ。
 ざーっとも、さらさらとも聞こえる、水の流れる音、リーン、リーン
という、鈴の音。今度はさらに、男の、何を言っているのか分からない、
くぐもった低い声も聞こえた。
「しんむけいげ……むけいげこ……」

       *       *       *

 くたびれた人間となった私の心には、隙間が生じていた。その隙間を
埋めるために、私は美代子にのめりこんでいった。美代子の家に入り浸
りになり、無断欠勤を繰り返した。家にも帰らなかった。私は美代子に
勤めをやめさせ、水商売をさせた。私は美代子の、ヒモになったのだ。
 彼女は私に、べったりと甘えた。私は何年も味わっていなかった幸せ
を感じた。だがそれも、数日たち、数ヶ月たつに従って、徐々に色あせ
ていくのだった。
 私は、しっかりとした妻、しっかりとした母親である知美の生き方の
方が、美しいと思った。ただ猫のように甘ったれる美代子の愛は、本物
の愛ではないとさえ思った。

 ある日突然帰って来た私を見ても、妻は驚かなかった。
「済まない。許してくれ」私は玄関先で土下座をした。
 妻は何も言わなかった。怒りもしなかった。代わりに、奥の方を向い
て、「拓也、おいで。お父様が帰ってきたわよ」と言った。

 二日後、私は美代子を、高校時代によく二人で散歩した、河の側の堤
防に呼び出した。
 待ち合わせの時間より少し前に着いた私は、寒さに手をこすりながら、
何と切り出したものかと考えていた。
 突然、私の耳に聞いたことのある音が聞こえてきた。
 ……リーン、リーン……
「もうすぐ……終わりだ……」
「えっ?」いきなり聞こえた声に驚き、私は周りを見回した。だが、誰
の姿もなかった。
「エンディングが近づいている……。全部、終わりになるんだ……」
 私はびっくりした。それは、私の声だった。苦しそうな、うめくよう
な声……。だが……何故……
 一体何が終わりになるというのだ。冗談じゃない。私は決心したのだ。
これから美代子との関係を清算し、人生をやり直すのだ。
 ふと見ると、白い息を吐きながら、美代子が土手の斜面に設けられた
階段を、上ってくるところだった。

 美代子と向かい合った私は、何と言ってよいのか分からず、黙ってい
た。私が話したい事が分かったらしく、彼女の方から、言った。
「奥さんと私のどっちを選ぶの!? 決めて!!」
 私はうつむいて、眉根を寄せた。
「僕は、君とこれ以上付き合う事はできない。……済まない」
「そう……」とだけつぶやいた美代子の顔は、やさしい微笑みに満たさ
れていた。だがしかし、次の瞬間、その表情は鬼女のそれに変わった。
「あんなに、愛したのに!!」
 あっと声をあげる事もできないような、短い時間だった。彼女の胸元
からナイフが抜き出され、私の胸へ埋め込まれていくのが、まるでスロ
ーモーションのように鮮明に見えた。
 私の足はくずれ、土手の端を踏み外し、まるで土砂崩れで転がってい
く岩のように、私の体は滑り落ちていった。

       *       *       *

「!」
 私は眼を開けた。こうこうとした月の光が眼に入ってきた。体中が冷
たかった。
 ザーッという水の流れる音が、半分水につかった耳に聞こえてきた。
 自分が水に浮いているのだという感覚だけは、まだ感じることができ
た。私はやっと、今まで聞こえてきた水の流れの音が、何であるかを知
った。
 人は、死の際に、今までの人生の記憶が、走馬灯のように頭の中をよ
ぎって行くのだという。
 これが、そうなのか……。
 一体どのくらい、こうしていたのだろう。美代子はもう、行ってしま
ったのだろうか……
 私の体はゆるやかな河の流れの中を、たゆたっているのだった。
「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦……」
 リーン、リーンという鈴の音を響かせながら、河原の横の、堤防の上
を偶然通りかかった遍路の一行が唱える念仏を聞きながら、私はゆっく
りと眼を閉じた。


<了>



#1176/1336 短編
★タイトル (EJM     )  99/ 2/28  10:30  ( 67)
お題>流れ       青木無常
★内容

    運命の神アフォルのこと

 アフォルは人と神とこの世界に生きるあらゆるものの運命をつかさどる。白瞳の
老人の姿をした運命の神はその四つの手のひらの上に幸運と悲運、偶然と宿命をさ
さげもち、すべての世界をくまなく照らす目は、右に慈悲を、左に暴虐をたたえて
いる。無数の口は極彩色の吐息をつきつづけ、芳香から悪臭までのあらゆる臭気と
なって世界にちらばっていくという。
 運命の神のかわたらには、つねに三人の侍童が立っている。そのうちのひとりが
たずさえる奇怪なかたちの壺のなかには、喜怒哀楽その他のあらゆる感情が詰めこ
まれているという。もうひとりは巨大な袋をかついでいるが、そのなかにあるのは
美徳である。汚物をつめこまれた肉袋からなる人間が頽廃と悪徳に堕してゆくのを
防ぐために、アフォルは袋のなかから美徳をわしづかんでふりまき歩くのだ。この
世界に神々がおとずれたとき、袋ははちきれんばかりであったが、いまやその中身
は残りすくない。すべての美徳が使いはたされたとき、世界には背徳の黒い闇が噴
きだしてすべてのひとびとは絶望と後悔に苦悶するのだといわれている。
 満面をつつむ白髪のひとつひとつに世界の命運がきざみこまれ、終滅のときには
その白い髪がすべてぬけ落ち塵となって消え失せる。
 アフォルはおのれをふくむあらゆる神々の命運をもつかさどるが、おのれ自身の
ゆくすえを左右にできるのかはだれも知らない。

    時の神ガルガ・ルインのこと

 ガルガ・ルインは時をつかさどる神である。時の壁にその肢を遠くながくひろげ、
あまねくバレエスのすべての時間をその視界のうちにおさめている。はじまりのと
き、“歩み去るもの”ヴィエラス・パトラの足あとからこの世界が創造されてより、
滅びの獣とともにふたたび“還り来たるもの”ヴィエラス・パトラがおとずれる終
滅の日まで、すべての時間をおのが意のままにあやつり、土をこねるように自在に
そのかたちを整えていくのである。
 ガルガ・ルインは時をつむぐ。つむいだ時は、つむいだ端からすべての世界にふ
りそそぎ、ふりそそぐ端から雪が溶けるよりもはやく儚く消えていく。絶えず時を
つむぎつづけているため、ガルガ・ルインの肉体は時の壁の上でいつでも振るえつ
づけてやまない。
 夜が明け、ティグル・ファンドラがゆっくりと天をめぐり、まばゆい光輝で地を
てらしだすさまをガルガ・ルインは見つめる。黄昏の溶暗に世界が闇を迎え入れ、
ティグル・イリンの三つの宝玉が蒼白にバレエスを染めあげるさまを時の神は見つ
める。雪がとけ、蕾がひらき、暑熱が大地をとかしふりそそぐ大量の水が世界をう
ちすえ実りの陰から忍び足でおとずれる白い死と再生の重きとばりがまぼろしのよ
うに来たり、そして去るのを見つめつづける。草をはむ獣、獲物を噛み裂くものど
も、光を希求し天へとその手をひろげる存在、あらゆる幸福、あらゆる悪夢、ひと
びとの営みとその無意味さが転変していくさまを、ガルガ・ルインはつむぎ、見つ
め、記憶しつづける。ひとが老いやがて死のあぎとに虚ろに呑みこまれるのも赤子
が増えつづけるのも、あらゆるやすらぎと不幸に忘却がおとずれるのも、すべてこ
の神のみわざであるという。
 時の神はその瞳に諦念をたたえ、あらゆる傲慢を嘲笑する。あまねく時間を観照
するがゆえ、いずれみずからをさえ訪う暴虐の夜と終末と無をつねに見つづけ、な
おいまだ訪れぬそのときにおびえ、苦しみ、嘆きかなしまぬ夜はないからである。
 ガルガ・ルインが飼う無数の時間たちは生けとし生きるあらゆるものどもを、や
がておとずれる死の淵へと不断に追いつづける猟犬にほかならないが、ときに忘却
という名の吐息をひとに吐きかける慈悲深き存在でもある。

    時と運命の織布のこと

 バレエスは運命の神アフォルと時の神ガルガ・ルインの織りなす模様によってつ
くりだされる。アフォルが縦糸を、ガルガ・ルインが横糸を織りなし、それら神々
の玄妙なるみわざによって調和と美とがつむぎだされていく。
 だが神々はともに語らず黙々と布を織りなすのみなので、布の模様はしばしば乱
れ醜くゆがみ、ときに神々は布を盤面に言葉にならぬ争いを展げることもある。幼
子の死から戦争まで、あらゆる悲惨の原因がこの織り布の乱れであるのだという。
 織布は世界にかかげられ、生きるもの、死んだもの、いまだ生まれぬもの、ただ
そこにあるもの、このバレエスに存在するあらゆるものの眼前に開示されているが、
それを見ることのできるのはただ神々以外に存在しない。ときに乱れ、ゆがみなが
らつむぎあげられていく織布は創造途上にありながら終滅までのすべてを内在し、
不調和さえもが底知れぬ美と悲哀をかもしだす。
 双神は世界の端と端に腰をおろして布を織りつづけるが、たがいの業をからめあ
い複雑に織りこんで時間と運命とを創造しつづけているゆえに、おのれ自身ですら
世界のゆくすえを把握することはできないのだともいわれている。



#1177/1336 短編
★タイトル (CWM     )  99/ 2/28  23:31  (200)
お題>流れ
★内容
「血の臭いがするねぇ、あんた」
 その声に、彼女はゆっくりと振り返った。純白のコートが、闇の中で揺れ
る。雪が降っていた。雪は、世界を静かで清浄なものへと塗り変えてゆく。
 彼女に声をかけた少年は、コンビニの脇にある階段に腰をおろしていた。
少年は真冬というのに、Tシャツ姿である。
 少年は、白い雪が降り積もった歩道を歩き彼女の前に立つ。古くからの友
人に見せるような笑みを見せた。
「ねぇ、いい薬があるんだ。こないかい」
 白いコートの女性は、自分に声をかけてきた少年を冷たく冴えた瞳で見つ
める。世界は黒と白のモノトーンと化していた。闇の中に白く長身を浮かび
あがらせたその女性は、まったく表情を変えぬまま降り向くと立ち去ろうと
する。
「残念だなあ。とても気持ちよく死ねるんだけど」
 彼女は足を止めた。再び少年のほうを向く。
「私に死ねというのか」
 彼女は少年に問いかける。少年はにこにこと、笑みを浮かべて応えた。
「それが望みだと思ったんだけどね」
 彼女はゆっくりと首を振った。静かな夜。二人以外に動くものの気配はな
く、雪に白く染められたもの以外は全て闇の中にある。
「それは望みというよりは、恩寵だよ。しかし、」
 彼女は笑みを浮かべる。それは、仮面に彫られた微笑であった。あるいは
レプリカントの見せる機械的な笑み。
「おまえが死ぬところを見とどけてやってもいい」
  少年は楽しそうに笑った。
「ありがとう。とても親切だね」
 少年は振り向くと歩き始める。闇の中へと。夜は優しく少年を包み込み、
その姿を闇へ溶けこます。彼女はゆっくりとその後を追った。少年は前を向
いたまま問いかける。
「あんたの名前を教えてよ」
「ツバキ・ロングナイト」
 少年はくすくす笑った。
「ああ、外人さんだったんだ」
「みょうに上機嫌だな、おまえ」
 ツバキと名乗った女性の問いに、少年は突然真顔に戻して振り向く。
「死ぬにはいい日和だったからね」
 ツバキはその黒い瞳を正面から受けとめた。少年はふっと笑う。
「ロングナイト家というのは、ある意味で有名ではある。闇に棲むものたち
にとってはな」
 少年は再びくすくす笑いはじめた。
「とても楽しくなってきたよ、ねぇ、ツバキ」
 闇の中に巨大な建物が現れた。それは闇の中に聳える白い墓石である。
その無気質な建物に二人は近づいていった。
「学校か」
 ツバキの問いに、少年に肯いて応えた。
「パーティーは始まっているよ、いそごう」
 建物に足を踏みいれたとたん、無気質な金属音が聞こえ始めた。ダンスミ
ュージックのリズム。それは、死せる巨獣のようなこの建物の中で響く、金
属でできた心臓の鼓動であった。
「なるほど、レイブパーティーの真最中といったところか」
 ツバキの問いに、少年は無言で肯く。いつのまにか笑みは消えていた。
酷く蒼ざめている。金属の獣があげる咆吼のようなダンスミュージックの音
が、少年を内から斬り刻んでいた。
 対象的にツバキの表情も変わっている。瞳に硬質の光が宿った。それは戦
士の瞳である。
 ツバキは無言で音の源へと向かう。苦悶の表情さえ浮かべる少年は、影の
ように後を追った。
 階段を昇る。2階の奥の部屋に明かりが灯っているようだ。音はそこから
聞こえる。ツバキはその教室の前に立った。扉の上に、音楽室と書かれてい
る。防音設備のある教室からこれだけの音が聞こえてくるということは、中
ではかなりの音量で音楽が流れているに違いない。
「なあ」
 少年の声にツバキは振り向く。少年は、小さなカプセルを放ってよこした。
「これをきめなきゃ、入れないよ」
 ツバキは素直にそのカプセルを噛み砕き、呑み込んだ。
 扉を開く。
 白い手足が散乱している。
 内臓がのたうっていた。
 床は無数の薔薇の花を散らしたように、血にまみれている。
 切断された首が、無造作に机の上に置かれていた。
 轟音が響く。
 千の闇の寺院で、死者を弔う鐘が鳴らされるように。
 狂乱の戦士たちが、機銃を乱射して戦っているように。
 部屋の奥にはピアノがある。この部屋の守護神であるかのように、荘厳な
たたずまいをもってそのピアノは置かれていた。
 その前に少女がいた。全裸の少女の体は血まみれである。おそらく彼女の
血では無く、この部屋に散乱する人体の破片が流した血だろう。
 ツバキは始めて人間の笑みを浮かべた。
「闇のものに喰われたな」
 少女はけたたましく笑った。
「闇のものと戦うしか能の無い戦闘機械ね、あなた」
「そうともいう」
「どうでもいいわ、血がたりないの」
 少女は官能的な笑みを見せる。欲情した赤い唇が歪む。血に染まった幼い
乳房を自ら揉みしだいていた。
「ノスフェラトゥ、高貴なる不死のものであった闇のものがそこまで飢える
とはどういうことだ。おまえたちは狩るものだろう。しかし、今のおまえは
追いつめられた獣だぞ」
 少女は売娼婦の笑みで応えた。
「帰らないといけない。あの暗黒の流れへ」
 少女の動きは肉眼で捕らえられるものではなかった。少女は突然ツバキの
目の前に出現した。その手に持たれていた日本刀が振りおろされる。
ツバキはかろうじて左手で受けた。
 少女は怪訝な顔で見る。ツバキの左手で刀が止まったためだ。
「対刃対弾の素材を使ったコートでね」
「あらそう」
 赤い唇がもう一度歪む。
「でも無駄よ」
 刀が引かれる。闇の中に金属の輝きを持った血が迸しった。ツバキは呻い
て片膝をつく。
「ほうら、とっても素敵。暖かくて優しい臭い。とてもいい血だわ、あなた
のは」
 少女は皮肉な笑みを見せる。
「ただの戦闘機械のくせにね」
 少女は刀で天を指す。
「さあ、見てよ」
 遥かな高み。そこには、暗黒の流れがあった。大いなる螺旋を描き、地上
で鳴り響く巨大な轟音は天上へと流れてゆく。
 憎悪と狂乱の情熱が渦となって立ち昇った。少女の白い裸身は、咆吼する
闇の嵐の中で輝く白い月である。
「見なさい、あの闇のゆく果てを」
 少女は自分の体を震わせる大いなる欲情に絶えかねているように、叫んで
いた。
「あれは人類、いいえ、世界よりも古いの。神と呼ばれるものなど、あの流
れの前には、悲しいくらいちっぽけな存在よ」
 音は生きていた。流れてゆく音は、世界そのものを超えて果てしなく昇っ
てゆく。淀むことも、乱れることもなく。
 いまや斬り開かれた永遠を目前として、少女は思うままにその激しい音の
流れに身を委ねていた。無数の黒い獣に犯されているように、少女は身をよ
じる。
 吐息がその赤い唇からもれた。ツバキは無言でその様を見つめる。
「世界より古き音。創造を超えた音の流れ。それは血を捧げることによって
顕現する。私たちはそこから来た。そして今、そこへ帰る」
 宇宙よりも深い闇。それは暗い熱狂の音たちがあれ狂う、果てしない螺旋
の彼方にある。少女は恋こがれるように、その螺旋の流れへ手を伸ばす。
 その時、ふとツバキが立ちあがった。
「馬鹿だな」
 ツバキはそういうと、残った右腕でコートをはだける。腰には長剣がつる
されていた。その剣を片手で抜く。
「そこには何もない。永遠なぞない。闇の流れなどまやかしだ。判らないの
か」
 ツバキのその剣は奇妙な形をしている。双胴の剣。二本の刀身を持つその
剣は、刀身の間に金属の糸がはられていた。
 剣というよりもむしろ、楽器を思わせる。金属で造られた竪琴のようだ。
その剣を見つめる少女の瞳に脅えが走る。
「やめて」
 少女は呟くように言った。
「知っているわ。それは竜破剣。全てを破壊する剣」
 後ずさる少女に、ツバキは近づく。
「破壊するものなど無い」
「ちがうわ、私は愛するものを失った。だからあの向こうに愛を見つけにい
くの」
 ツバキの剣が音を立て始める。それは澄んだ透明な音。無数の水晶の破片
が散らばっていくような音。
 それは闇の流れをうち消すように立ち昇る。
 ツバキは剣を振りあげた。
「聞くがいい。創世の和音を」
 静寂が落ちてきた。
 ふっと闇が訪れる。
 雪明かりが音楽室に忍び込む。
 そこにあるのは、黒い棺のようなグランドピアノに横たえられたふたつの
体。ひとつは少年のもの。もうひとつは少女のもの。
 少年は既にこときれていたが、少女は微かに息があった。しかし、その手
首から流れる血はもう少女の命が長くないことを示している。
 部屋に散乱していたはずの人体の破片はもうない。流された血は少女のも
のだけ。ツバキは気配を感じ、振り向く。そこには、あの少年がいた。
「ありがとう、ツバキ」
「暗黒を呼び出したのなら、なぜその流れとともに去らなかった」
 ツバキは、少女を指さす。殴られた後。破かれた衣服。股間に流れる血の
後。何があったのかは、見当がついた。少年のほうは、頭蓋骨が砕けている
ようだ。
「絶望して狂ったのであれば、その絶望と添い遂げたらいい」
 少年は苦笑する。
「以外ときついね、あんた。本気じゃないだろ」
「ではなぜ、暗黒の流れなどを呼び出した」
 少年は薄く笑いながら言った。
「あれがあるのは知っていた。行く為に血が必要なのも知っていた。あの娘
は僕の死に絶望して死んでくれた。だからお礼に少し垣間見せてあげようと
思った。あれを直接呼び出すのは僕には辛い仕事だからね。音が僕を無に押
し戻そうとする。彼女は人間にしては霊感が強い。僕の血を与えれば呼ぶこ
ともできた」
 ツバキは吐き捨てるように言った。
「無意味な行為だ」
「そういうなよ。彼女は愛に殉じた。ある意味幸せだったじゃないか。
それで僕も滅ぼすのかい」
 ツバキは首を振る。
「もう終わった。去れ。恋愛ごっこにこれ以上つきあう気は無い」
 死体が身を起こした。陥没した頭蓋骨は元に戻っている。ツバキと話をし
ていた少年は姿を消している。
「ノスフェラトゥよ。夜の一族よ。惑わすだけなら人と関わるな」
 少年は首を振る。
「だって彼女は何も持ってなかったんだよ。何もなかったけど生きていかな
くちゃいけなかったんだ。だったら愛に死なせてあげてもいいじゃない」
 ツバキはなげやりな口調で応える。
「現実で失ったものがあるのなら、現実で得なければなららない。おまえた
ちの愛はまやかしだ」
 少年はけたたましく笑い始める。
「あんたも見ただろう。あれを。カプセルに入った僕の血を呑んだんだ。
見れたはずだ。あれは彼女の望んだものだ。恋人を殺され、自分も犯され、
狂った果てに陶酔を見つけたんだ。まやかしじゃない。真実だよ。
真実の愛だよ」
 少年は笑い続ける。
「私はおまえを滅ぼすべきなのだろうが、そうしない。おまえが狂っている
からだ」
 ツバキは呪うように少年へ語る。
「世界が糞まみれであるのなら、糞まみれで生きるべきだ。永遠などを招喚
するのではなく」
 そして、ツバキは立ち去った。
 やがて夜明けとともに少年も去る。
 雪は降り続けていた。全てを清浄な白い闇へ帰すように。
 真白き朝が来たときに、残っていたのは死体が一つだけだった。 



#1178/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 3/ 2  23: 0  ( 36)
妄執−片恋歌・7−  りりあん
★内容
            妄執−片恋歌・7−

                      想いという名の白き蝶
                      飛べぬというなら
                      死ぬがいい
                      私はたぶん望んでいる
                      おまえが手の中で冷たくなるのを


                      そぼ降る雨に濡れた夜があった
                      ガラスのように砕けた夜もあった
                      通り過ぎる男たちは
                      それぞれにしるしを刻んで
                      けれども あの人は
                      サイバースペースを気まぐれに漂うだけで
            何もしてはくれない

                     ハンドルを呟いてみる
           答えがないと知りながら
                      冷たいディスプレイに手をあてる
           無機質な想いを 紛らわすために
           夜毎に行われる秘やかな儀式
           こんな私を あの人は知らない
           
                    
                      昇れ昇れ 立ち止まるな
                     どんどん昇れ 後ろは見るな
                      冷たく薄い空気に喘いでも
                      決して降りてはならない
           罪人はみな 天空の柱に縛られるのだから        
           恋は もうじき修羅となる


                          りりあん 
           
                     



#1179/1336 短編
★タイトル (AZA     )  99/ 3/ 7   2: 2  (101)
お題>言えなかった言葉>スタンドバイミー   寺嶋公香
★内容
※『そばにいるだけで』未読の方には意味が通じません。お含み置き願います。

 その日の朝刊に、相羽の死亡記事は小さく載った。
 多少知名度があったので写真入りで報じるところもなくはなかったが、家族
の意向で全般的には年齢と職業、死因に触れただけの目立たない扱いだった。
 同じ日。
 純子は自らの腕枕に頭をうずめていた。
 周りの友人達が「もう泣くのはやめなよ」と声をかけてくれるが、そんな彼
女らもまた目を赤くしていた。
(こんなのって……ないよ)
 慰めの言葉もなくなった頃、純子は目だけをゆっくりと起こした。焦点を合
わせるでもなく、前方をただ見据える。
(急すぎる。急すぎて……ううん、違う違う。急じゃなくっても、あらかじめ
分かっていたとしても、こんなこと……とても受け止められない)
 不意に、思い出がよみがえる。何故かしらカラーと白黒が入り混じった、し
かし鮮明な映像で。
 食事中の仕種や、元気に走り回る姿が浮かんだ。
 ほんの一瞬、微笑ましくなる。けれどもそれは束の間で脆く消え去り、死と
いう名の現実が覆い被さってきた。
(どうして死んじゃったのよっ。これからだったのに)
 再びうつむこうとしたが、中途でストップ。肩に軽く手を触れられた。
「純子。お葬式、行こう」
 井口だった。彼女は目こそ普段通りのようだが、声が裏返ってしまっていた。
「もう時間?」
 机に伏していた上体を起こし、純子は時計を見た。髪の毛をかき上げる。間
違いなかった。
 外に出た。足取りが重い。歩くのがつらく感じられるのは、初めての経験だ。
 お葬式に集まったのは、ほとんどが女子ばかりだった。
「純ちゃん、大丈夫?」
 富井が駆け寄ってきた。いつもの明るさが陰って、トーンが安定していない。
「ん……まだショック残ってる」
 純子の答に、富井はうんうんと同調した。
「当然よねぇ。あんな、死んでるところ目撃しちゃったんだから」
「まあ、それもあるかもしれないけど。やっぱり、生き物が死んでしまうのっ
て、ちょっと耐えられなくて。生まれて間もないあの子達が、かわいそう……」
 純子は視線を横に向けた。その先には、同じクラスの数人が作ったお墓――
うさぎの――があった。小さな小さな墓標の下には、お椀の形に盛られた土。
クラス全員で飼育してきたうさぎが永遠の眠りについている。
「お祈りしようっ。届いて!」
 涼原純子、小学五年生のときのお話。
 心の中に相羽信一という存在は、まだない。

           *           *

 信一は布団をはねのけ、上半身を起こした。
 辺りを見回す。意志とは無関係に肩が上下する。呼吸の荒さが、いやになる
ほど伝わってくる。
(――夢? また)
 部屋の中は真っ暗だった。
(何日経ったと思ってるんだ。畜生、こんなに泣いて、まだ足りないか)
 父である相羽宗二(そうじ)の声を聞いたような気がした。いや、間違いな
く聞いた。夢の中だったとは言え、あれは確かに亡き父の声。耳に残る音は、
記憶とぶれなく重なる。
 目元に指を当てると、涙の乾いた跡がまだ分かるようだった。
「父さん」
 声の方はまだ元通りになっていなかった。喉が砂漠化したかのごとく、から
からに乾いている。少々の水分では追い付くまい。
 信一は両手で目をこすり、そして覆った。夢の中での父の言葉が鮮明に蘇る。
(『母さんを頼む』……なんて……)
 こらえた。
 目頭が熱くなるのを。身体が震えるのを。叫びたいのを。一生懸命こらえた。
 父が亡くなってからしばらくは一人で眠れず、母に添い寝してもらっていた。
 だがある晩、真夜中に目が覚め、隣に眠るはずの母の姿がなかったことがあ
った。母を求めてすぐに寝室を出た。自分でも何故そうするのか理由は分から
なかったけど、息を殺し、足音をひそませて。
 そして、寝室から最も遠い部屋で静かに涙する母親を見てしまった。
 次の晩から信一は自分から言って、また一人で眠るようになった。
 母に心配を掛けたくない。母が泣いている姿を見たくない。そんな想いでい
っぱいだった。
(母さんのことを頼まれたって……僕……無理かもしれない)
 唇を噛みしめる。知らず、布団の端を強く掴んでいた。
 元気な父を見た最後になった朝。もし虫の知らせが働いて、「行かないで」
と言えていたら――何百回、何千回と後悔した。
(あの朝は言えなかった。じゃあ、今、父さんから頼まれた僕は、何て答えら
れるんだろう……?)
 全く根拠もなしに、「分かったよ。任せておいて」と答えることは、信一に
はできなかった。もう少し年齢が低ければ無邪気にそれで済んでいたかもしれ
ないし、もう少し年齢が高ければ己をだます術を知っていたかもしれないが。
(分からないよ。僕に頼むぐらいなら、自分で守れよ、父さん!)
 心中、そこまで叫んで――閃いた。それは一気に確信めいたものになる。
(父さんは母さんより先に逝ってしまうことを悔やんでいる……。母さんを守
る人がいなくなるのがたまらなく心残りなんだろうか?)
 自分自身に置き換えてみようとした。
 だが、自分にはまだ好きな女の子がいないと気付き、少なからず戸惑う。い
きなり、手探り状態になった。
 だが、信一はしばらくしてから首を横に振った。
(いる。僕にもいる。好きな子)
 小学一年生の頃、父親に連れて行ってもらった恐竜&化石展。あのとき、短
い間だけど一緒にいた女の子が好きだ。だから迷子になりかけても、あの子の
笑顔が消えないように、全力で“守った”。名前も分からない相手だが、今で
も忘れられない。記憶に深く刻み込まれている。
 信一は、少女を思い描いた。念じるようにして。
(あの子を守れなくなったら、僕は……)
 父の気持ちが少しだけ理解できたと思った。
「分かったかもしれない」
 相変わらずがらがら声だった。だが、しっかり言い切った。
 続きは天国へ向けて。
(父さん。僕が母さんを守る。頼りなくて安心できないかもしれないけれど、
僕の精一杯を応援してて!)

−−おわり



#1180/1336 短編
★タイトル (NKG     )  99/ 3/11  22:46  ( 34)
ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽえむ 「ココロその壱」 なると@(柊)
★内容

 変です。

 とてもとても変です。

 どうしてこんなに変なんでしょう。

 これを変というのでしょうか?

 ああ、変しい、変しい、この胸のときめき。

 どうしてあなたに届かないのでしょうか?


















                「そりゃね……『心』じゃないから」(^_^;)

                           なると@(柊)1999




#1183/1336 短編
★タイトル (NKG     )  99/ 3/11  22:57  ( 31)
ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽえむ 「ココロその弐」 なると@(柊)
★内容



 あなたは心を亡くしてしまったのね。

 なんて悲しい人なんでしょう。

 もう少しあなたに暖かさと余裕があるならば……

 もう少しあなたに強さと誇りがあるのならば……

 亡くした心を取り戻せるかもしれないのに。

 すべては時の運命にからみとられたあなた自身のせいなのだから。













              「しょうがないだろ……『忙』しいんだから」(T_T)

                            なると@(柊)1999




#1184/1336 短編
★タイトル (NKG     )  99/ 3/11  22:58  ( 27)
ぽ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽえむ 「ココロその参」 なると@(柊)
★内容


 シタゴコロがみえみえなんだから。

 あなたがわたしに恋してるってことぐらいわかっているんだよ。

 でもね、ココロは真ん中にないとダメなんだ。

 知ってる? 真心がこもってるから愛なんだよ。

 あなたはわたしを愛してる?











                  「じゃあ、上にあったら?」(?_?)

                            なると@(柊)1998





#1185/1336 短編
★タイトル (GVB     )  99/ 3/14  23:43  (153)
大型卒業小説  「私はピアノ」  ゐんば
★内容

 三本松小学校五年三組の教室では、卒業する六年生を送るための『おわかれ会』
での合奏について杉野森先生が説明していた。
「まずピアノが二人、だな」杉野森は黒板に楽器の名前を書き出していった。
「あとエレクトーンが一人。それから大太鼓と小太鼓、シンバルが一人ずつと。
それからブラスバンドに入っている人にはトランペットとトロンボーンをやって
もらおう。あとはリコーダーだね」
「先生」手を上げた女子生徒がいた。梅田手児奈である。
「なんだ梅田」
「ピアノは二人だけなんですか」
「ああ、二台しかないからな。さて」杉野森は生徒を見渡した。
「明日のホームルームで役割を決めるから、みんな自分が何をやりたいか考えて
おくように。もちろん楽器の数は決まってるので、希望者が多い場合は来週演奏
してもらってメンバーを決めるから。じゃ、算数の授業を始めよう」

「大変だよ松本ぉ」
 学校からの帰り道。手児奈は同じ五年三組の松本喜三郎と家の方向が一緒なの
だった。
「なにが」
「おわかれ会の合奏」
「んー、俺カスタネットとかトライアングルがよかったんだけどな」
「ほんとに五年生かお前は」
「しょーがねーだろ、お前みたいにピアノ習ってるわけじゃないし。手児奈はピ
アノやるんだろ」
「それが大変なの」
「なにが」
「だってさあ、うちのクラスでピアノ習っているの何人いると思う」
「ええっとお前と、……」喜三郎は一応聞かれたのでしばらく考えるふりをした
が、何も考えてはいなかった。「あと誰よ」
「あと、真奈美と、柴田さんが習ってるんだよ。三人だよ三人。ピアノ二台しか
ないんだよ」
「ふーん。じゃ、エレクトーンやればいいじゃん」
「だめ、エレクトーンはサッチがやってるもん。それに私エレクトーンなんて触
ったことないもん」
「あんなの同じじゃないの。白くて黒くて」
「わかってないなあ」手児奈は喜三郎を軽蔑した目で見た。「キーのタッチが全
然違うもん、仕掛けだって違うんだよ。エレクトーンはいろいろスイッチがある
し、足ペダルがあるし」
「ふーん、そうなんだ」
「どうしよう、このままじゃただのリコーダーになっちゃうよ」
「ただのってのはなんだよただのってのは。いいじゃんリコーダーねえ、あれだ
ったら大勢いるから音出さないで吹くまねだけすりゃいいもんな」
「あんたと一緒にしないでよ」
「だって、まだお前がピアノじゃないって決まったわけじゃないじゃない」
「だけどさ……」
 手児奈は真奈美がピアノを習い始めたころのことを思い出した。

 手児奈が小学校二年のときピアノの先生にこんな風に聞かれた。
「ねえ手児奈ちゃん、三本松小だったよね」
「うん」
「黒田真奈美ちゃんて知ってる?」
「まなみ?うん、同じクラスだよ」
「今度真奈美ちゃんもピアノ習うことになったの」
「先生に?」
「うん」
「手児奈幼稚園のときからやってるよ」
「そうね、ほんとはそのくらいから始めたほうがいいかもね。さあ、こないだの
曲弾いてご覧なさい」
 個人レッスンなので直接真奈美と顔を合わせる機会はなかったので、お互いが
どういうことをしているかはわからなかった。だが発表会の日が来て、手児奈の
前が真奈美の番だった。
 こちこちに緊張する手児奈が舞台裏で待つ中、真奈美の演奏が始まった。
(真奈美、私より後から始めたのに難しい曲をやってる……)
 手児奈はますます緊張して、自分の出番では六回間違えた。

「ふーん。真奈美ってお前よりうまいんだ」喜三郎は手児奈が自分でははっきり
表現しなかったことをさらっと言ってのけた。
「でも、柴田さんのは聞いたことないんだろ」
「だって、あの子なんでもできるもん。きっとピアノだってうまいよう」
「そうとは限らないじゃん」
「どうしよう、私、リコーダーに回されちゃうよ」
「だからなんなんだよその回されちゃうってのは。いいじゃん、一緒にリコーダ
ーやろうよ」
「やだやだやだ、絶対やだ」
「よくわかんねーなー。よし、それじゃあ」
 といったものの喜三郎は何も考えてなかった。
「それじゃあ?」
「それじゃあ……特訓だ」
「特訓?」

「ただいま……あれ?」
 そんなことがあってしばらくして。手児奈の父が比較的早く会社から帰ってき
た。
「あら、おかえり」
 出迎える母に父は不思議そうに聞いた。
「母さん、どうしたの、これ」
「え、なに?」
「ピアノさピアノ。あいつが練習するなんて」
「やだ昼間は週にいっぺんぐらいは弾いてるわよ」
「でも、俺聞いたの一年ぶりくらいだぞ」
「うん、おわかれ会の合奏なんだって」
「え、なんてった?」
「お・わ・か・れ・会・の・合・奏」
「ふーん、であいつがピアノ弾くのか」
「まだ決まってないんだって。それでいま特訓中なんだってさ」
「はー、選ばれるかどうかなんだ」
「え、なんだって?」
「選・ば・れ・る・か・ど・う・か・な・ん・だ。しかしこれ本人の前では言え
ないけど、ピアノって……」
「ん」
「うるさいもんだな」

 いよいよ楽器を決める日がきた。
「じゃあ、黒田さん柴田さんと梅田さんに順番にピアノを弾いてもらおう。まず、
黒田さん」
 杉野森先生が真奈美を呼んだ。
 喜三郎は手児奈の方を見た。手児奈はかちかちに緊張している。
「手児奈お前特訓したんだろ、大丈夫だよ」
「だめ、私絶対緊張するの」
「知ってるか手児奈、手のひらに『人』って字書いて飲み込むまねするとあがら
なくなるんだぞ」
「そうなの?やってみる」
 手児奈はしばらく手のひらに書いては飲み書いては飲みしていたが突然「あー
っ」と叫んだ。
「なんだよ」
「どうしよう松本、間違えて『入』飲んでた」
「もう、そしたら『出』飲んどけよ、差し引きゼロだよ」
「おーい、松本静かにしろよ、演奏が始まるぞ」
「ほら、俺が怒られちゃったじゃないか」
 黒田真奈美の演奏が始まった。
(やっぱり真奈美ちゃんうまい……)
 手児奈はますます緊張した。手のひらに『出』を書いて飲み込んだ。
(あれ?いま『出』を四回飲んで、『入』を三回飲んでたから、やだ、『出』の
方が多くなっちゃった)
 手児奈は『入』を一回飲んだ。
 真奈美の演奏が終わり、柴田の演奏が始まった。柴田の演奏がちゃんと聞こえ
ていたら手児奈はもっとショックを受けていたのだろうが、あいにくもはや手児
奈の耳には何も入っていなかった。誰かに袖を引っ張られて手児奈は我に返った。
喜三郎だった。
「手児奈、呼んでるよ」
「は、はい」
 ピアノの前に座り、先生の合図がでるかでないかのうちに手児奈は弾き始めた。
途中何度が間違えたような気はしたが、何が何だかわからないうちに曲は進んで
いった。

「あー、ほっとしたあ」
 学校からの帰り道。手児奈と喜三郎は一緒に帰っていった。
「もう当分ピアノ見たくない」
「じゃあリコーダー」
「もっと見たくない」
「なんなんだよお前は。俺の特訓の成果じゃねえか」
「あんた特訓やれって言っただけでしょ」
 合奏でのピアノ演奏には結局真奈美と手児奈が選ばれたのである。といっても、
柴田がうますぎて合奏とは別にソロで弾くことになっただけなのだが。
 でも手児奈にとってはそのようなことはどうでもいいことだった。ピアノに残
れれば、理由はなんでも構わなかった。
「よかったあ」
 ほっとする手児奈に合わせて喜三郎もよかったよかったと言った。手児奈がよ
かったと言ってるんだから多分よかったんだろうと思ったが、もちろん喜三郎に
は何がよかったのかちっともわからなかった。

                             [完]




#1186/1336 短編
★タイトル (VBN     )  99/ 4/ 3  13:26  (148)
「入れ替わり」    時 貴斗
★内容
 小説家、横田氏は、とある研究所からの帰り道、同じ小説家仲間であ
る田所氏にばったりと出くわした。
「よう、久しぶり」と声をかけられると、横田氏の顔にはにかんだよう
な笑みが浮かんだ。小説家などという職業をしていると、二、三日くら
い平気で誰とも口をきかずに過ごしたりする。1週間ぶりに友人と顔を
合わせたりすると、やはりうれしいものだ。
「どうしたよ。背広なんか着て」
「ん? ああ、実はある所に取材に行っててね。その帰り道さ」
 田所氏はちょっと驚いたような顔をした。「へえ。お前も取材なんかす
るのか」
「そりゃそうさ。俺だって小説家の端くれだもん」
「で、どこに行ってきた」
 横田氏はちょっと上の方を見て、それから慌てて手を振った。
「だめだめ。そりゃあ企業秘密だよ。同業者に教えたりするもんか」
「……お前なあ、そういうとこ、直した方がいいぞ。まあいいや。それ
より、久しぶりの再開を祝して、乾杯といきますか」
 全く。暇人だなあ、と横田氏は思った。

       *       *       *

「小説のために取材までするやつの気が知れないね」
 田所氏はのけぞるようにして椅子にもたれかかり、右腕をだらりと垂
らした。すでに顔は真っ赤になっている。
「だいたい、いきなりどこの馬の骨ともしれないやつがやって来て、"私
は小説家です。取材をさせて下さい"なんて言われてみろ。びっくりす
るぜ」
「ちゃんとアポを取ったよ」
 田所氏は新たに運ばれてきた生ビールのジョッキをいっきに半分ほど
空けた。
「あー。やっぱりおごりの酒はうまいな。あ、お姉さん。枝豆とから揚
げ2つ」
 恰幅のいいおばさんは、愛想のいい笑顔を浮かべて注文を繰り返し、
去っていった。調子のいいやつだ、と横田氏は思う。
「ところで、どう。最近」田所氏はよれよれの黄色のスポーツシャツの
襟を正しながら聞いた。
「ああ、こう暑いんじゃ、頭が働かないよ。……なんだか頭がひどく、
ぼうっとする」
「ああ、俺もだ。頭の中が空っぽになったような感じだ。でもあと二、
三日すれば、涼しくなるってよ」
 横田氏はおもむろに、身をのりだして、ささやくように言った。「実は
な。週刊SFから執筆の依頼が来てな」
「ほう」田所氏の眼が丸くなる。
「それが、多重人格の特集をやってて、それに関連した話を書いてくれ
って言うんだ」横田氏は背広を脱ぎ、横の空いた椅子の背にかけた。
 クリーニングしたての、真っ白なYシャツのボタンを、二つほど外す。
「いいなあ……いいなあ……俺も執筆の依頼、来ねえかなあ……」田所
氏はちょっといじけてみせながら、豆腐を箸でくずした。「で?」
「タイトルだけは決まってるんだ。『入れ替わり』っていう題だ」
「多重人格だから入れ替わりか。安直だな」
「それがな……中身が全然なんだ。アイデアが浮かばないんだよ。自分
の人格が別の人格と入れ替わってしまうだけっていうんじゃ、それこそ
安直だからな。そこでちょっとひねろうと思ったんだが、まるでうまい
手が思いつかないんだ」
「そういう時はだな、元のアイデアを一旦きれいさっぱり捨てちまうこ
とだよ。そんで一週間くらい、小説のことなんか忘れて、ぷらっぷらす
るこった。もっといい案が天から降りてくるよ。『入れ替わり』なんてや
めちまいな」
「そうもいかないよ。その場で、"じゃあ、『入れ替わり』っていう題で
何か書きます"って、言っちゃったもん」
 田所氏はビールジョッキの取っ手を握ったまま、しばらく考え込んだ。
しかしやはり、多重人格という言葉から思いつくのは、まるで違う人格
がころころ入れ替わるというような話ばかりである。
「こんなのを考えたんだよ。小説の中の登場人物が、途中で入れ替わっ
てしまうんだ。つまり、例えば二人の登場人物がいたとしてだな、その
二人がちょうど俺達みたいに酒を酌み交わしていたとする。それがいつ
の間にか、よく分からないうちに入れ替わってしまうんだ。これなら多
重人格の特集にも、似合うだろ?」
「ふうん。良さそうじゃない」
「ところがだな。やってみると難しいんだよ、これが。いい方法が全く
思い浮かばない」
「何がそんなに難しいんだ」
「つまり、結末だよ。登場人物が入れ替わるのは構わない。……しかし
それに、どうやって合理的な解釈を与えるか、だよ」
「別に、結末に凝らなくてもいいんじゃないか? 何の解釈もないまま、
不思議な余韻を残して終わる。それで十分な気がするけどなあ」
「いや、そういうのは好きじゃないんだ。結末で納得させたいんだ」
「夢落ちにしちまえば? "今までのは全部夢でした"って」
「それこそ安直だよ。夢落ちなんか嫌だ」
 おばちゃんがやって来て、枝豆と鳥のから揚げを置いていった。
「そうだなあ……、入れ替わることに対して合理的な解釈が必要なのか
……、じゃあ、こういうのはどうだい? 主人公は人格を入れ替えてし
まう研究所に行った帰り道なんだ」
 から揚げにソースをかける横田氏の手が、びくりとなった。
「で、でもそれじゃあ、頭から入れ替わってしまってるじゃないか。途
中で入れ替わらなくちゃならないんだよ」
「そんなのはいくらでもごまかしようがあるさ。例えばだな、入れ替え
装置にかけられた後、最初に会った人物と入れ替わってしまうとかさ」
「は、はは。おもしろい発想だな。でもそれじゃ研究所の博士と入れ替
わってしまうぜ」
 あんまりびっくりしたので、思わずつまらない突っ込みを入れてしま
った。
「だーかーら! それはそれでまたごまかす手を考えりゃいいじゃん」
 横田氏は慌てた。あの研究所はやっとの思いで見つけた、横田氏しか
知らない穴場である。田所氏も知っているとしたら大変だ。あっという
間に小説のネタとして使われてしまうだろう。あんまり慌てたので箸か
らから揚げが滑り落ちてしまった。黄色いシャツの上にソースの黒いし
みがついたのを、急いでふきとる。
「でも……、そんなのはあまりにも荒唐無稽だよ。あまり使いたくない
なあ」
「ま、そっか。人格を入れ替える研究所なんてなあ。よっぽど未来の話
にしたところで、ありそうもないよなあ」
 少し、ほっとする。しかし油断はできないぞ、と横田氏は思う。
「君は、ブーンという男の話を知ってるか?」田所氏は唐突に言った。
「さあ」
「1887年の3月、アメリカのペンシルバニア州に住む、ブラウンと
いう男は、ある朝目覚めると、ブーンという別の男になっていた。つま
り……、体がブラウン氏で頭がブーン氏になっていたんだ」
「他人の体の中に入りこんでしまったわけだな?」
「そう。ブーン氏にとってはその日は1月のはずだった。しかもブーン
氏が住んでいたのはロード・アイランド州の、五百キロ近く離れた場所
だったんだ」
「ブラウン氏はどうなったんだ? ブーンの体に入りこんだのか?」
「いや、そうじゃない。三年後、ハーバード大学の教授が、ブラウン氏
に、つまりブーン氏に……ややこしいな……催眠術をかけてみたんだ。
そうするとちゃんとブラウン氏の中にブラウン氏の意識が残っていたん
だ」
「それこそ多重人格だな」
「ところが催眠療法を進めるうちに、ブラウン氏の意識は消えてしまっ
た。……どうだ、参考になるだろ」
「でもなあ。そういう神秘的な話じゃなくて、SFにしたいんだよ」
 でも、まあ、ネタとして使わせてもらおうかな、と横田氏は思った。

       *       *       *

 だいぶ酔っ払った二人は、足をもつれさせながら、家路についた。何
だかよく分からない戯言を口々にわめきちらしながら、ふらふらと歩い
ていくうちに、やっと何かがおかしいことに気がついた。何か、ちぐは
ぐな感じだ。しかしその"何か"が何なのかを考えようとすると、頭の
中に靄がかかってしまう。結局何がおかしいのか、さっぱり分からなか
った。
 頭がぼうっとする感じは、まだ続いていた。田所氏は酒の酔いのせい
だろうと思っていたが、横田氏はこう思っていた。
「ひょっとすると、研究所の"装置"のせいかな」と。
 確かに横田氏は、おもしろ半分に装置にかけてもらったのだった。ブ
オーンという音がして、それで……それだけだった。第一入れ替わる相
手がいなかった。
「一体何が起こったんです?」と聞いても、博士は謎のような笑みを浮
かべるだけだった。

 多くの読者は、途中で気づかれたことと思う。横田氏と田所氏は、未
だ気づかないまま、家に帰りつき、それぞれの眠りについた。きっと明
日の朝、ぼうっとした感じがとれて、すっかり頭がしゃきっとしたら、
びっくりするだろう。


<了>





#1187/1336 短編
★タイトル (BLN     )  99/ 4/ 5   1: 4  ( 74)
短編小説「桜の木の思い出」/M.YAMADA
★内容
みなさん、こんにちは。

今日、桜の花を見ていたら、暗いですが・・・
妙にこの話が書きたくなってしまい、勢いで書いてしまいました。
もし、よろしければ、読んでみて下さい。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「桜の木の思い出」

 いつからこうなってしまったんだろう。
 何故、自分ばかりこんな目に遭うのだろう。
 男は今、考えていた。というのも、彼は実は、先日まである小さな不動産
会社に勤めていたが、会社でなかなか営業成績が出せず、クビになってい
た。そして、それからも、それに輪を掛けて、何をやっても、うまく行かな
い。例えば、会社をクビになってからも、仕事を探すため、何回も職安に通
うのだが、いつも、
「申し訳ありませんが、今回は採用を見送らせて頂きます。」
会社側のきつい一発である。そして、男はその時、何をやっても、うまく行
かず、正直言って、疲れ果てていた。そして、自暴自棄になっていた。昼に
なっても起きないで、怠惰な生活を送っていた。そんなある日のことであ
る。
 男はその日も真っ昼間から、家でごろごろしていたのだが、そんなことば
かりしていても、面白いわけでもない。おまけにテレビも面白そうな番組も
やっていない。仕方ないので、男は、
 暇つぶしにいっちょ散歩でもしてみるかぁ。
 そう思い、家を後にした。
 そんな彼なのだが、家を出た後、しばらくして、桜並木のある砂利道まで
来ていた。そこには季節は、春なので、当然、桜の花が咲いていた。そし
て、何気なく、桜の花を見て、男は思った。
 何だ、もう桜の咲く季節かぁ。
 そう思った彼なのだが、その時である!何故だか、ある記憶が急に彼の頭
の中によぎってきた・・・・・



 春と言えば、卒業と入学の季節だ。別れがある代わりに出会いがある。今
までの生活が終わる代わりに、新しい生活が始まる希望に満ちあふれた季節
だ。そういうわけでその少年もその年、小学校に入学して、希望に満ちあふ
れていた。そんな彼が入学して、数日後、いつものように学校から家に帰っ
て来ていた。
 「母さん、ただいまぁ、僕、友達の所に遊びに行ってくるね。」
 そして、友達の所に遊びに行って、帰ってきたのだが、その頃はもう辺り
は暗くなっていた。帰ってきた彼に母親が言う。
 「おやおや、こんなに暗くまで遊んできて・・・もうご飯も出来ているか
ら、早く手を洗って食べにいらっしゃい。」
 少年はそういう母親に言われたように洗面台で手を洗い、居間で家族と卓
袱台を挟んで食卓に着く。その日の献立はカレーだった。そして、スプーン
でカレーを食べる彼に少し厳格な父が言う。
「おい、お前は大人になったら、何になるつもりだ。」
「んーとね、おもちゃ屋なんか、いいな。あっ、漫画家や小説家もいい
ね。」
少年が得意そうに答える。そして・・・・・



 そうだよな。俺にも桜の木の咲く頃、あんな夢あふれていた時代があった
んだな。しかし、あの頃は夢があって良かったよな。だけど、今の俺のざま
は一体、何だ。少しくらい、仕事がうまく行かないからといって、それで腐
って、すぐに諦めやがって、このざまとは・・・・・
 白昼夢からはっと今、我に返った男はそう思った。そして、何事もうまく
行かないからといってすぐに諦めちゃいけないな。だから、今は厳しいけ
ど、明日から、頑張らないといけないな。そう思った。そして、そう思う
と、彼の目からは何故だか、妙に涙がこぼれ落ちてきた。
 何故だろう。こんなに綺麗な花を見ているのに、何故だか、妙に切なく
て、何だか、涙がこぼれ落ちてくる。何故だろう・・・そして、
 さぁ、今は頑張らなくちゃいけないときなんだ。ここでこんなに泣いてい
ても、仕方ないな。頑張らなくちゃ。
 そう言って、彼は桜並木を後にするのだった・・・・・

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もし、よろしければ、御意見、御感想などを頂けたら幸いです。

                         PRODUCED BY M.YAMADA




#1188/1336 短編
★タイトル (HYN     )  99/ 4/18  20: 9  ( 34)
残滓−片恋歌・8−  りりあん
★内容
                       残滓 −片恋歌・8−

                 この街に来てから
                 あなたとの距離が見えるようになりました
                 そのことを
         別に悲しいとも感じずに
         わたしは日々を暮らしています
         桜の季節もはかなく過ぎて
         ただ無心に舞い踊る花弁のように
         秘かな恋も終わるのでしょうか
         けれども
         わたしは知っています
         遠き空でも あなたのこと
         想わずにはいられないのを


         恐れながら 真実を求め
          泣きながら 拒絶を求め
         傷つくだけ傷ついて
         馬鹿な女と呼ばれたい
         想いよ 走れ
              わたしの中のわたしを
         弾き飛ばしてしまうまで


         眉間に皺を寄せて語れば 滑稽
         瞳潤ませ切なげな顔をすれば うっとおしい
         秘かなる恋
         ぬかるみにも似た この愚かしくてくだらないもの
         わかっていながら びちゃびちゃと
         わたしは毎日踏みつけている
         

                          りりあん   



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