AWC 短編



#1017/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 3/13  23: 8  (191)
読本八犬伝本編「農事の功」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「本編 農事の功」

 八犬伝で最初に登場する犬士は、犬塚信乃戍孝(イヌヅカシノモリタカ)である。
その父は、大塚あらため犬塚番作一戍(バンサクカズモリ)。芝居がかったほど渋
いキャラクターだ。番作は、足利持氏の子・春王、安王の側近である父と共に結城
合戦に参加、戦い敗れて落ち延びる。里見義実(サトミヨシザネ)らと轡を並べて
戦った縁もあり、それだけで重要人物である資格は十分だ。その<重要人物>のキ
ャラクター及び事績は、馬琴が思い入れタップリに描いたものだろう。浪人の彼に
対し、馬琴が郷士であった先祖を重ね合わせたという説もあるが、やや説得力に欠
ける。番作は、馬琴の個人的な事情というより、社会に求められるべき人格として
描かれた、と考えたい。
          ●           ●
 番作さんは良い人だ。先端農業技術の本を書いて、地元産業に貢献しようとした。
十五世紀のことだ。とても偉い。何せ、日本初の農書(農業技術啓蒙書)は愛媛県北
宇和郡三間町の豪族・土居清良(ドイキヨヨシ)の事績を描いた「清良記(セイリョ
ウキ)」の巻七、通称「親民鑑月集」だと言われている。成立は十六世紀末から十七
世紀前半である。この日本初の農書に先駈けること一世紀以上、番作さんは、農書を
著したのだ! ……あれ?
 実は、「清良記」、あくまで土居清良の伝記であって、全体としては農書ではない。
伝記の一部に、戦国領主らしく農業を振興し富国強兵を図ろうとする清良に諮問を受
けた或る登場人物が、農業に就いて蘊蓄を垂れているだけなのである。しかし、蘊蓄
の垂れ方が半端ではなく、品種ごとに種蒔きや刈り入れを時期、留意点を詳細に亘っ
て列記している。立派な「農書」だ。ちょっと面白いのは、清良が富国強兵策を諮問
するために呼びつけた三人の庶民というのは、プロフェッショナルな農民(作意ある
百姓)「宮下村宗案」、とても真面目な男(正直にして功の入たる者)「黒井地村久
兵衛」、そして、イーカゲンな男(盗人心ありて横着成る者)「無田五郎左衛門」、
だった。清良には、優れたバランス感覚があったようだ。惜しむらくは、生まれた家
が小さすぎて、地の利にも恵まれず不遇ではあった。太平の世に生まれたら、君主に
はなれない、能吏にはなれた人物である。そういう清良の伝記に、実用的な農業技術
啓蒙書の性格があることは、、まことに以て、尤もなことだ。この「七巻」を切り離
し、便宜上、独立した「農書」として扱ってきた。
 本格的な農書は、十七世紀後半以降から書かれ始める。宮崎安貞の『農業全書』な
どである。因みに、安貞は浪人だった。「農書」が書かれるためには、条件がある。
まず、<農業技術が発展すると良いことがある><現在の農業技術に改善の余地があ
り、それは比較的容易に実現できる><農業に携わる者が、本を読める>などだ。
 農業技術が発展すれば、良いことがあるとしか思えない、なんて言うなかれ。例え
ば、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」年貢を絞り取ろうとした徳川家康みたいな
奴もいる。江戸初期は、農業の余剰生産を、ほぼすべて収奪するため、税率は六公四
民程度だったと言われる。収穫の六割が税だということだ。これでは、農業を営む者
は、いくら技術を発達させても、良いことなんかない。そして、次第に税率は下がる。
十八世紀には、収穫の四割、則ち四公六民と、「公」と「民」の取り分が逆転してし
まう。こうなると、農業に従事する者は、自分たちの食い扶持以外の剰余を手にする
ことが出来る。
 しかし、剰余があるというだけでは、嬉しくない。一日に五合しか米を食わないの
に、一日当たり七合の米があっても、あまり嬉しくはない。残った二合の米が、旨い
酒だったら、ちょっと嬉しい。旨い酒は、そう簡単に自分では作れない。ならば、旨
い酒を作る者から貰ってこなくてはならない。タダというわけにはいかない。剰余の
米と交換するしかない。……結局、物資の流通という前提がなければ、一般に、剰余
があっても仕方がない。則ち、それだけ経済が発展した段階にないと、剰余を求める
気にもならないということだ。また、農業技術の普及と一口に言っても、それは、新
肥料や新農具の使用を要請する。これらも、経済流通なくして入手できないものだ。
そして、農書が教える米以外の多様な作物、タバコだったり楮だったり藍だったり紅
花だったり綿花だったりするが、それらの作物を作っても、流通しなければ意味がな
い。生産者が豊かにならない。農書というのは、一定以上、経済流通が発展していな
いと、意味のない書物なのだ。
 そして、読者である農業関係者が農書を読めないと、意味がない。農業関係者が文
字を読み書きできるようになるのは、近世以降であると言われている。犬塚さんが書
いた農書は、大塚村の内部で複数人に貸借されている。多分、借りた人は、この農書
を書き写し、これを写本と言うけれども、次の読者にリレーしていったことだろう。
しかも、村長(ムラオサ)である大塚蟇六には、みんなでイヂワルをして回してやん
ないのである。
 則ち、<一村という限られた範囲の農業関係者の中で村長以外に本を読める者が複
数いる>ということだ。まぁ、この「村長」という語彙も近世っぽいというかアヤシ
イと言えばアヤシイが、それはさて措き、こんなにリテラシー(識字率)の高い農村
というのは、やはり、近世以降という時代設定でないと不自然だ。
 付言するなら、八犬伝の始め辺りで、里見義実が安房館山城を攻めた時、一種の情
報作戦を試みる。鳩の足に自己の正当性を書き連ね、城中に落とすのだ。六十年ほど
以前に敵国が日本本土にすら飛行機でばらまいた、「デンタン」と呼ばれる政治宣伝
ビラを思い起こせば良い。このデンタンが効いた。館山城中には、農業従事者が臨時
の兵として多く徴用されていたのだが、彼らは、このデンタンを読んで、里見義実の
呼びかけに応じて反乱を企てた。これが引き金となって、館山は落城する。しかも、
このデンタン、漢文で書かれていた。十五世紀半ばに、農業従事者たちが、こぞって
漢文を読み下すとは、なかなかに不自然だ。このような状況になるためには、少なく
とも馬琴が生きていた時代まで待たねばならないだろう。いや、それでも早すぎるか
もしれない。
 ウジャウジャ言ってきたが、要するに、農書が成立するためには、経済、文化の両
面で上記のような条件が揃わなければならない。なのに犬塚番作さんは、十五世紀に
<農村で読まれる筈がない>農書を書いた。
 そしてまた、もう一つ、農書成立のために第一の前提となるのは、<筆者が農業知
識を持っている>である。この番作さん、子供の頃に父親に連れられて戦場に赴き、
結城の城に籠城していた。戦いに明け暮れていたのである。落城後は逃亡生活を送っ
た。ケガを治すため、サナトリウムというか温泉宿でボオーとしていた時期も長かっ
た。大塚村に来てからは、村人に養ってもらったが、子供たちに勉強を教えて暮らし
ていた。
 番作さんは一貫して、武士もしくは浪人として生きている。農業には従事していな
い。もしかしたら、サナトリウムで暮らしていたとき、農業従事者の同宿者から技術
について教わったり話を聞いて回ったのかもしれない。でも、馬琴は、そんなことは
書いていない。だいたい、番作さんが農書を著そうと考えたのは、村人に養って貰う
恩返しとしてだ。サナトリウムに居たときは、そんなことなんか、コレっぽっちも考
えていなかった。また、まぁ大塚村に来てからは農業に接することもあっただろうし、
村民から、農業の知識を伝授されたこともあっただろう。しかし、そのレベルなら、
<村民が知っている>程度の話だ。わざわざ本にする程のモノではない。
 でも、番作さんは、農書を著した。農業のノの字も知らぬ筈の番作さんが、農村で
読まれる筈のない農書を著す意味は? やはり、農書は読まれたのである。八犬伝に
は、そう書いてある。八犬伝は、大まかな史実を採り考証めかして書いてはいるが、
近世、まさに馬琴が八犬伝を書いていた時代を背景にしている。だからこそ、十五世
紀の物語だというのに、登場人物たちは、十六世紀に伝来した筈の鉄砲を派手にブッ
放す。観光地の喫茶店には望遠鏡が置いてあり、挿し絵では眼鏡をかけた老人が描か
れている。女性の髪型は近世に流行した島田髷だし、人々は近世から用いられた木綿
の服を着ている。これは如何いう状況かというと、<江戸時代の捕物帖>と銘打った
時代小説で、スーツ姿の大岡越前守(オオオカエチゼンノカミ)や、警官の制服を着
た長谷川平蔵が登場し、拳銃を派手にブッ放したり、髪の毛を茶色に染めた別嬪さん
と絡む、というのと一般である。
 しかし、これを噴飯モノと断ずるは野暮というものだ。別に良いではないか。読者
は<いま>を生きている。時代考証が違う、とか指摘しても、自慢にしかならぬ。八
犬伝では「京都の将軍」(室町幕府の足利将軍)が登場するが、これが<江戸幕府の
徳川将軍>になっていないだけでも、オンの字だ。もっとも、そんなことを書いたら、
馬琴は処罰され、我々は完結した八犬伝を読めなかったであろうが。
 馬琴は八犬伝中、庶民に対して深い信頼を寄せている。それは、庶民が読者層であ
ったためかもしれない。しかし、読者である庶民に対し媚びを売っているとしたら、
尚更に、庶民の価値観に迎合、即ち、馬琴の庶民観が投影されているという事であり、
そして馬琴の作品がベストセラーになったことは、その庶民観が、ある程度、正確だ
ったことを示している。この場合、馬琴の「庶民観」とは、庶民が庶民に対して如何
に思っていたか、即ち、一定程度以上の数、<多くの庶民>が如何に自己規定し理想
像を描いていたか、という問題である。「多くの庶民」とは、数ある読本のうち、馬
琴の著作、就中、八犬伝をベストセラーに押し上げる程の割合、であろう。
 名もない庶民が前面に登場するのが、番作さんが落ち延びた大塚村の場面だ。大塚
村の人々は、戦い敗れ脚に障害を負った番作さんを、助ける。既に姉の亀篠(カメザ
サ)が蟇六(ヒキロク)という碌でもない婿を入れ、村長にしていた。番作さんは、
その不義の姉と絶交していた。言うなれば、番作さんは、<村長の敵>みたいなモン
である。しかし、村民たちは、銭を出し合って番作さんが住む家を購入、更に番作さ
ん一家の食料を確保するため、幾らかの田を「番作田」として設定した。領主もしく
は、氏神扱いである。とても良い人たちだ。馬琴なら、こう表現するだろう。「訥朴
たれば庶(チカ)し」。
 もっとも、村民たちの態度は、<イヤらしい村長>蟇六に対する、当て付けでもあ
った。だからこそ、村民たちはイヂワルをして、番作さんが書いた農書を蟇六に見せ
てやらなかったのだし、機会があれば蟇六を愚弄した。蟇六主催の宴会で、主人を嗤
ったこともある。近世の村長は、いわゆる豪農であり武士身分ではないが、<村役人>
すなわち役人、村政や徴税に権限を持つ者だった。その権限をもつ村長を、村民たち
は苛め、愚弄したのだ。何故に、そんなことをしたのか? <したかったから>であ
る。そして、したかったからした、というのは、一定程度以上の<自由な心>があっ
たということだ。いくら良心が命じても、状況が許さなければ、何も出来ない。彼ら
は「仁に庶い」者ではあるが、スーパーマンでも英雄でもない。そして、「イヤらし
い」村長に対立したということは、彼らが「良心」を持っていたということだ。何が
「イヤらしい」か、「良心」か、という問題は、ひとまず措く。馬琴も再三に亘り、
<善悪は拠って立つ所によって変わる>というような事を言っているし、此処で定義
することは出来ない。馬琴は、一般的もしくは伝統的な善悪の逆を言って<自由>を
連呼するような、単純で軽薄なステレオタイプ作家ではない。ただ、馬琴が蟇六を悪
役として、村民を善玉として描いていることは確かだ。
 雑兵たちも清々しい。犬阪毛野は河鯉権守(カワコイゴンノカミ)に秘密を打ち明
けられ協力するが、相談に先立ち、毛野は雑兵たちに襲われた。武勇の程を試された
のだ。このとき雑兵らは十手で打ってかかるのだが、かすりもせずに全員が投げ飛ば
された。毛野は、本気で襲ってきたのではなく河鯉の命で自分を試したのだと知ると、
雑兵たちに、手荒な真似をして悪かったと謝る。雑兵たちは冗談口を叩き、大笑いし
ながら毛野と仲直りする。爽やかなヤツらだ。キチンとした態度をとる人物を、彼ら
は正当に評価する。雑兵といえば、武士ではない。武家の下働きをさせられていた者
や、戦時に徴発された庶民だった。
 庶民、彼らこそ、八犬伝世界の倫理を支える者だった。抑も里見義実が館山城を奪
ったとき、家来は三人だった。兵力となったのは、領民だった。家来ではなく、まさ
に領民が義実を奉戴したのだ。その意味で義実は城を奪ったのではなく、迎えられた
のである。悪逆非道の、というより重い税負担を領民に求める領主・山下柵左衞門定
包は見捨てられ、代わって義実が選ばれたのだ。
 結局、庶民の為になる誰かが、待望されていた。それは、英雄的な活動で、既存の
何かを打破する者である。庶民は、自らアクションを起こさないが、英雄が登場すれ
ば、喜んで協力する。そういう、一種<理想的な庶民>が、八犬伝世界を支えている
のだ。理想的な庶民には、<理想的な英雄>である。別に英雄と言っても総身に知恵
の回りかねる武断の者ではない。その英雄とは、国の規模で言えば仁政を布いた義実
だし、大塚村のレベルで言えば番作さんだった。方や源氏の嫡流で国主、方や障害を
持つ素浪人、その人生の色彩やスケールこそ違うものの、二人は相似形だ。結城合戦
を戦い抜いたという共通点は、二人の親近性を暗示するものだと、思い当たる。
 八犬伝、その作品世界は一見、古くさい倫理体系によって構築されているように見
える。しかし、それは、罠だ。当時の倫理体系では、権力者を見捨てて新たな権力を
頂くという、最悪の場合、幕府の転覆すら肯定し得る論理が、主流となる筈はなかっ
た。しかし、その論理は、表面化している論理としては主流ではなかったかもしれな
いが、人々の思い、底流としては、<主流>ではなかったか。権力者の放逐もしくは
放伐という夢想が、言い換えれば激化した矛盾を無化するためには、世界全体の更新、
リセットボタン、<世直し>が求められていたのではないか。
 因みに、「世直し」という言葉が、例えば百姓一揆もしくは打ち壊し即ち庶民によ
る暴動に於いて使われだした時代というのは、どうやら十八世紀後半から十九世紀前
半辺りだったようだ。八犬伝が書かれていた時代に近い。専ら年貢減免など経済的な
要求を掲げて闘争していた庶民が、「世直し」という、より構造的な課題を、単に名
目のみかもしれないが、掲げ始めたのだ。即ち、そのころ社会矛盾が激化し庶民の許
容値を超えつつあったか、それとも庶民の欲望が膨脹したか、または、その両方か、
とにかく庶民の不満が社会の枠を溢れようとしていた。それは時代への逆行だったか
もしれない。
 暴動の鉾先は、成長しつつあった商業資本にも向けられた。庶民、それは全国的に
は農業従事者が殆どであった。都市には非農業従事者が集まっていたが、郊外には田
圃が広がっていた。商業資本は、農業従事者から作物を買い上げ金を貸し付け作物を
取り上げ、資本を蓄積しつつあった。自作農は借金のカタに耕地を奪われ、小作農に
転落していった。江戸幕府の改革は、農業生産の収奪により成立する封建制度政体と
したは当然のことだが、いつも農業の改革もしくは振興を図った。少なくとも幕藩と
農業従事者にとっては、それは殆ど日本全体なのだけれども、農業の振興は目指すべ
き目標点だった。
 此処に於いて漸く、<大塚村の英雄>番作が農書を書く意味を、明かすことが出来
る。単純なことだ。馬琴は、腐敗し退廃した封建制の「世直し」を夢想したのだ。農
業従事者が活き活きと働き豊かに暮らし、理想的な君主を戴く。大衆小説なんだから、
別に複雑な哲理とか理論は必要としない。馬琴の意図は、概ね其の程度のモノであっ
たろう。しかし、そこは江戸の大変態ぢゃなかった天才・馬琴、人々の心を見透かし
てはいた。それは、単に封建制の再編強化に留まらない、時の流れへと結果するので
ある。
(お粗末様)



#1018/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 3/13  23: 8  (178)
八犬伝読本「鳥だ スーパーマンだ いや、役行者だ!」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝本編「鳥だ スーパーマンだ いや、役行者だ!」

 社会の矛盾が激化し、世の中が乱れきったとき、待望されるのは新時代を拓く英雄、
超人、スーパーマンだ。しかし、スーパーマンは簡単に勝利を収めない。だいたい、
物語の前半は悪役が優位で、スーパーマンは苦しむ。民衆の淫靡な欲望を満たすため
にも、切なく喘ぎ身悶えなければならない。絶体絶命の危機に陥りながらも勝利を約
束されている、それがスーパーマンである。
            ●            ●
 苦しみ悩み、そして最後には衆生救済の宿願を成就する、まるでスーパーマンのよ
うな仏がいる。菩薩と呼ばれる諸仏だ。この菩薩が八犬伝中で重要な任務を遂げる。
伏姫の正体は観世音菩薩だし、物語の後半に登場して重要な役割を果たす地蔵菩薩、
そして八犬伝世界を主宰するのは、まさに神変大菩薩(ジンペンダイボサツ)である。
 神変大菩薩と言っても、あまり有名ではないかもしれない。日本人なのだ。俗名、
と言っても彼は法名を持っていないのだが、少なくとも子供の頃は<小角>と呼ばれ
た。フルネームは、<役君小角エンノキミオヅネ>である。父の名は、一説に拠ると
大角だが、犬士の一人・犬村大角とは別人だ。小角は奈良時代、大和国に大きな勢力
を張った地方豪族の一員で、空を飛んだり神を緊縛したり鬼を子分にしたりといった
説話の残るスーパーマンだ。出身地は大和国葛城上郡であることは、諸史料ほぼ一致
している。この地域は、実はかなり怪しい地域で、壬申の乱の時代から、天皇もしく
は親王たちは、困った事態に立ち至ると、此処らの近くに逃げ込んだ。吉野地方であ
る。南北朝時代との時代区分があるが、これは、「北朝」と「南朝」という二つの王
朝が、並立していた時代だ。このうち後醍醐天皇から始まる「南朝」は、何故に「南
朝」と呼ばれたかというと、比較的「南」に位置した吉野に在ったからだ。よく分か
らないが、天皇家にとって、一種の<聖地>だったのかもしれない。

 ところで小角、スーパーマンだから苦境にも陥った。讒言により捕縛され、伊豆国
に流刑された。源頼朝が配流された伊豆である。後日本紀(ショクニホンギ)という
日本書紀に続く正史に載せられているので、本当に空を飛んだか否かは別として、実
在の人物だった可能性が高い。やがて許されるが、いつ死んだか分からない。だいた
い、朝鮮半島に渡ったとか中国大陸に行ったとか虎に説教していたとかいう話が残っ
ているばかりで、明確に「死んだ」とさえ、伝えられていない。

 増補新訂日本大蔵経には、幾つかの伝記が掲載されているが、その殆どは江戸時代、
十七世紀から十九世紀に書かれたもので、小角の時代から千年ほど隔たっている。伝
記というより<伝説>である。何連も母親は大きな役割を果たすが、父親が、まぁ登
場するにしても蔑ろにされていて、とても可哀想だ。おらずもがな、殆ど<処女懐胎>
である。小角の偉大さを強調するために、歴史の闇に葬られた観がある。千年という
時の流れの中で、小角は菩薩にまで祀り上げられたのだろう。とはいえ、時代の近い
日本霊異記からして、一言主(ヒトコトヌシ)という神を縛り上げたとか、如何解釈
して良いか分からない奇妙な話を載せている。本当に空を飛んだとかは別として、変
わった人物だったことは確かだ。

 だいたい、小角はインドに実在した仏教哲学者・大乗仏教の確立者とされるナーガ
ール・ジュナ、龍樹(リュウジュ)菩薩と呼ばれる人物の生まれ変わりだとされた。
伝記には、法統図が載っているが、何連も龍樹と結び付けている。勿論、時代が全然
違うので直接、龍樹が小角と接触を持ったとは思えず、<生まれ変わり>とでもせね
ば、法統図そのものが、意味を喪う。小角を聖徳太子と結び付ける説もあるが、やは
り時代を異にしている。何せ、法統図というのは、役行者を宗祖とする後世の修験者
らがでっち上げたものだ。近世では、系統というものが重視された。遊廓なぞ、自ら
の正当性を、源頼朝まで溯って主張しようとしていた。<有名人と結び付けて自らを
権威づけする>とは、甚だ情けない性根だが、そんなことは言っておられない時代だ
ったのだろう。

 そもそも、この龍樹という人物、スケベェで卑怯者だった。金持ちのボンボンだっ
たのだが、隠れ簑というか、被ると姿を消せる術を手に入れた。それを使って友達と
王の後宮に侵入した。ハーレムである。居並ぶ美女に襲いかかって姦した。驚き騒ぐ
女房たち。しかし、王は賢かった。曲者がいると思しき辺りに灰をぶち撒けた。灰を
被ってモゾモゾ動く物体を片っ端から捕らえた。王の後宮に侵入した以上、死罪であ
る。不良少年たちは、殺された。そのとき独り、后のスカートの中に飛び込んで、飛
び込んで何をしたかは知らないが、生き延びたのが、龍樹である。共に悪事を働いた
友人が次々殺されていくのを、ただ震えて見守っていたのだ。スケベェで臆病で卑怯
者の不良少年である。
 まぁ、このような<悪人>でも心を入れ替えれば「菩薩」になる、というのが大乗
仏教の面白いところかもしれない。善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや(善人
でさえ極楽浄土に生まれ変わって幸福になるというのに、悪人が幸せになれない筈が
ないぢゃないか/仏は衆生の救済を目標に頑張っているんだけれども、善人が極楽に
行けるのは<当たり前>、当たり前に極楽に行けない悪人をこそ、仏は救いたがって
いる。だから、念仏さえ唱えれば、悪人をこそ、仏は浄土へ導く)という者まで現れ
る始末だ。これは、密教呪術から派生したのかもしれない。何せ、当時最高の利益で
あった極楽浄土への往生を、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで実現できるのだ。最強
最高の呪文である。この呪文を口語訳すれば、「阿弥陀仏に帰依いたしますぅ」。即
ち、「南無(ナム)」が「絶対的かつ全面的に帰依し奉る」という誓言らしいが、確
かに可愛い子猫に、「ニャムゥ」と甘えられたら、放ってはおけない。助けてやりた
くなるのが、人情だろう。阿弥陀仏というのは、なかなか侠気がある。けっこう良い
ヤツなのだ。良い意味での「ごろつき」なのかもしれない。まぁ、イーカゲンなヤツ
だとも言える。
 ……だから龍樹が少年時代にスケベェで卑怯で乱暴な強姦魔の「ごろつき」であっ
たという話は、遅くとも近世には、かなり博く流布していたと思われる。龍樹には、
吹けば飛ぶような枯れたイメージがない。獣じみた猛々しさ、とまでは言わないが、
<腕白坊主のなれの果て>、なのである。龍樹は、眼光鋭い「ごろつき」じみた風貌
が似合う。

 そして、その法統を引く小角は、獣じみた猛々しさを有っていた。いや実は龍樹の
法統の何処を如何嗣いだのかよく分からない。龍樹には、大智度論という莫大な著述
がある。しかし、小角は、呪術というか行法のマニュアルなどは多く残している、も
しくは、残したと伝えられているが、特筆すべき教義を建てたとは聞かない。だいた
い彼は、<僧侶>でもなかった。寺に入ることもせず、髪もそのまま、法名すらない。
彼は仏教者というよりは、<スーパーマン>として有名だったようだ。彼は信仰者で
はなく、彼こそが信仰の対象、神であった。

 江戸期に書かれた幾つかの伝記に於いて、彼は別に民を救済しようとはしていない
ように思う。一人で勝手に山に登り、色々と怪しいワザを行ってはいるが、何も人の
為になっていない。彼は民衆を惑わしていると訴えられ朝廷に捕縛される。彼自身は
術を使って捕手を翻弄するが、母親を人質にとられ、自ら縛に就く。母親すら救えな
いスーパーマンなのだ。結局、彼は<何だかよく分からないけれども、何だか凄そう
な人>に過ぎない。
 その何だか凄そうな人には凄味がある。前述の一言主に土木工事を命じるのだが、
一言主が「私は醜いから明るい昼間に働くのは恥ずかしいんですぅ。夜だけ働かせて
下さぁい」と願うのだが、「うるさい! 昼も夜も働けえっ」と怒鳴り上げ、遂に縛
り上げてしまうのだ。今でも一言主は、どこかに縛られたまま転がっているという。
此処に於いて子角は、単なるサディストである。このように、<恥ずかしい格好>で
縛り転がしておくのを、斯道の人は<放置プレー>と呼ぶらしい。酷い話だ。
 また役君形生記坤巻第二金峰山修行之事に「祈念金峰鎮護之霊神顕瑞相爾時出現弥
勒仏行者曰柔和慈悲御像也次化現千手観音行者曰守護此宝山済度濁悪衆生不可合此御
体其後現出釈迦仏行者曰此御像難有退六種魔境利益悪行深重衆生厥後堅固不壊金剛蔵
王踊出曰昔在霊鷲山説妙法華経今在金峰山示現蔵王身行者拝安置金峰山三国伝記曰後
従磐石内踊出金剛蔵王忿怒像而行者渇仰信受……」。
 小角は金峰山に籠もり、信奉すべき仏を考えていた。まず現れたのは、弥勒菩薩だ
った。小角は「柔和」な弥勒が気に入らないので、無視する。次に千手観音が現れる
が、趣味に合わない。こんな弱っちい仏では、金峰山を守護したり、「濁悪」の人々
を救済できないと思ったのだ。次に釈迦仏が登場したが、「悪行深重」な人々を幸せ
には出来ないと考え、やはり捨てる。
 そして最後に「踊出」たのが、蔵王だった。漸く小角は、信奉すべき仏と巡り会っ
た。変な趣味である。この蔵王、此処には書いていないが、この仏、役行者本記では
「青黒忿怒而右手杵金剛杵左手刀印押腰」(奇特分之三深秘分之一)という格好だ。
全身が青黒く、激怒した表情で、右手に先端が三つ又になっている刺殺武器、左手は
肘を突っ張らかして腰に押し当てている、という形だ。恐ろしげな仏像には、「青黒」
のものが多い。
 私だったら、微かな笑みを讃えた頬にソッと掌を添える、柳腰でスンナリした別嬪
さん、広隆寺蔵の弥勒菩薩あたり、好みである。大人の女という雰囲気で、艶っぽい。
何を好きこのんで、小角が、むさ苦しい蔵王権現なぞ選んだのか、気が知れない。小
角は、どうやら単純なサディストではなかったような気がする。
 単純なサディストでなければ、何だったのか? <複雑なサディスト>ではなかっ
たろうか。役行者顛末秘蔵記に拠ると「小角三歳書字従四五歳不雑賤子常以泥土作仏
像以草茎作堂塔投地礼拝……行者七歳之時書梵字養父不知梵文為手曲大怒……」。要す
るに可愛くないガキだったのだ。三歳で字を書いたのは、まだ「賢い子やねぇ」で済
むが、四五歳になると、通常なら子供同士でジャレ合ったり追いかけっこでもしそう
なものだが、たった独りで泥を捏ね回して仏像を作り、草を編んで仏塔に見立ててい
た。それだけだったら単なる泥遊びだが、大げさなに礼拝の真似までしていたのだ。
七歳になったら、サンスクリット語をスラスラ書いた。養父はそんなモノ教えた覚え
もないし抑も分からないから、悪戯ガキぢゃなかった悪戯描きだと思って大いに叱り
つけた。字がないから引用しなかったが、この後に坊様が通りかかり、小角の天才を
認めるというオチが付いている。何連にしろ、可愛くない。私がガキの頃、こんなガ
キが周りにいたら、きっと苛めていただろう。
 当時の子供たちも、きっと、そう思っただろう。さすがに豪族の子だから「賤子」
に苛められはしなかっただろうが、疎外されたに違いない。こういう奴に限って、ワ
ガママなサディストに歪み育ち、超人的な力を獲得したがるような気がする。まかり
間違えば、「ごろつき」になりかねない。……<疎外>、これは考えるべき問題だ。
小角は、そんな奴だから嫌われて、「民衆を惑わせている」と訴えられたのかもしれ
ない。

 何連にせよ、信仰とは魂の救済である。小角は、大悲によって優しく包み込んでく
れる諸仏を排した。激怒し、利器を握りしめ、敵する者を足下に踏みにじり、殺戮し、
屍肉を食らう、そんな仏を信奉した。そのような猛々しい仏に依らねば救済されぬ魂
……。どうやら、小角って、碌なヤツぢゃない。しかし、彼が民衆の人気を集めたこ
とは、ほぼ確かだったようだ。何故に、こんなワガママでサディスティックで多分は
内向的なスーパーマンが、庶民の人気を集めたのか? 実は、よく分からない。上に
引いた伝記は、みな近世、十七世紀から十九世紀に刊行されたものだ。即ち、既に戦
国の世は去り、とりあえずは平和が訪れた時代である。そして、社会は<固定>され
た。固定は、疎外すら、固定する。それは、差別に行き着く。差別を撥ね除けるのは、
超人的なパワーだ。

 因みに、小角を不用意に「神変大菩薩」と呼んだりしたが、これは決して通称では
ない。<公式>なモノなのだ。仏教では、三回忌とか五十回忌とかの供養をするが、
千百年忌にも供養をする。千百年とは、子孫も死に絶えているほどの遠い未来だが、
十八世紀末、寛政十一(一七九九)年が、小角の千百回忌であった。修験者を統括し
た寺院の一つ聖護院に、同年一月二十五日付けの史料が残っている。字がないから重
要部分だけ引用する。「勅 優婆塞役公小角……示特寵以贈徽号宜称 神変大菩薩」。
即ち「神変大菩薩」は、渾名でも何でもなく、公的な称号である。十五年後に刊行さ
れた八犬伝の挿し絵でも、小角を「神変大菩薩」と記している。源氏の守護神・八幡
宮は「八幡大菩薩」の称号を受けているが、これは、応神天皇を祀った神社だ。小角
は天皇の系譜ではない。皇族でもなければ、特筆すべき教義を整えたとも思えぬ、何
だかよく分からない小角に対する「大菩薩」号の授与は、異例だったのではないか。
小角の伝記が近世にいくつも刊行されたことと併せ考えれば、<役行者ブーム>とで
も言えそうな状況が、あったのかもしれない。
 また、役行者本記正系紐に拠れば、小角の父は、「高賀茂十十寸麿君(タカカモト
トキマトノキミ)」であり、始祖は「服狭雄尊(スサノオノミコト)」である。スサ
ノオ、あの暴れん坊、荒ぶる神、「ごろつき」のスサノオである。

 小角、ワガママでサディスティック、しかしスーパーマンじみた超能力を持った彼
が人気を集めたこと自体、何やら不健全である。まぁ、そういう世の中だったという
だけのことなのだが、一体、如何いう世の中だったのか? ……話の途中で行数が尽
きてしまった。今回はワザとではない。ちょっとイラン事を書きすぎた。反省してい
る。お詫びに代えて、次の機会にはスケベェ話でもしよう。
 とにかく今回の話は、八犬伝の主宰神たる役行者小角は<怪しい>ごろつき野郎だ
と言いたかっただけだ。そして、この「ごろつき野郎」のイメージは、更に如何に展
開し得るか、それを「傍若無人 精力絶倫 GoGo! ヤマブー」にて語ろう。
(お粗末様)



#1019/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 3/13  23: 9  (199)
八犬伝読本「本編 傍若無人 精力絶倫 GoGo! ヤマブー」
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝本編「傍若無人 精力絶倫 GoGo! ヤマブー」

 ヤマブーは、精力絶倫であった。それもその筈、「山ぶなれば精進せず」(義経千
本桜)。この場合「精進」とは、五辛食肉すなわち薬味になる大蒜とか葱や肉を口に
しないという仏教者一般のタブーだ。近世に書かれた山伏の入門書(修験道初学弁談
巻下五辛食肉経説)には、通常の仏教者は帯刀しないものだったが<仏教ではインド
の武器・三鈷杵(サンコショ)などで煩悩を退散させる知恵を象徴しており刀だって
金属武器だから煩悩を払う>とか書いているし、実際、深山の道なき道を行く山伏に
は山刀ぐらいは必要だったろう。そして、<必ずしも仏教では五辛食肉を禁じてはい
ない>と経典を引用しつt主張している。「山ぶ」は帯刀し、香辛料だって肉だって、
バクバク食ったのだ。精力絶倫にもなる筈である。因みに「山ぶ」とは、山伏(ヤマ
ブシ)のことだ。ヤマブー。 
 山伏の性生活だが、十七世紀に成立した笑話集・きのふはけふの物語には、次のよ
うな小咄がある。「吉野にて、ある若き男山中にて山の芋を掘りけるがふかく根へい
りければ腰より上を穴の中へ入て尻つき出だし掘る。折ふしかけでの山伏通りけるが、
無理にたしなませて通る。此男迷惑してぎぎめけ共かなはず。やうやう穴より起きあ
がる所へ友達の来りければ、さてさて不思議や。ただ今我尻からあれなる山伏が出て
行が何とした事ぞ。あとが損じたるか、みてくれよといへば、さしうつぶきしばし見
るに、ことこと鳴るを聞きて、いやいやまだ子山伏が出るやら奧に法螺貝の音がする
ぞ。だまれだまれ」。穴だったら何でも良い、という絶倫ぶりである。まぁ、絶倫で
あること自体は悪くないのだけれども、強姦するとは傍若無人、自由濫望、<ごろつ
き>である。
 八犬伝でも、犬江親兵衛仁(イヌエシンベエマサシ)は両国河原で便船を待つ間、
ごろつきの子分・枝独鈷素手吉(エドッコステキチ)に絡まれた。八犬伝では超人的
な、というか化け物じみた活躍をする仁も、見た目は、鼻筋通り目元は涼やか笑えば
片エクボの出る色白ムチムチ美少年なのだ。素手吉は仁に対して「只是逆旅の少年な
りと思侮り生拘り懲らして頑童にせばやと火急の情慾」を抱いた。仁を「単なる旅の
少年だと侮って、生け捕りにして痛めつけ、犯してやろうと思い立った」のだ。「鳥
だ スーパーマンだ いや、役行者だ!」に於いて、龍樹菩薩が少年期、強姦魔だっ
たと述べたが、強姦とは「ごろつき」の所行だ。
 勿論、山伏は、いくら密教僧の端くれだとは言え、「高野六十那智八十(深山で修
行に耽る密教僧は男色に耽っているので六十になっても八十になっても何だか艶があ
る)」ではあるまいし、諸国をウロついているから女性との出会いもあった。今昔物
語などの昔話では、山伏が山奥で、犬を夫にして幸せに暮らしている美女と出会い、
密かに犬を殺して美女の夫に収まったは良いが、旧悪露見して、美女に「夫の仇」と
殺されたりしている。……やっぱり、「ごろつき」である。
 まぁ、山伏が「ごろつき」であっても仕方がないかもしれない。山伏、彼らを修験
者、彼らの宗派を修験道というが、彼らが宗祖と仰いだ人物こそ、スサノオノミコト
から続く「ごろつき」の系譜、役行者小角(エンノギョウジャオズネ)なのだ。山伏
は法統のみならず、小角の猛々しさも受け継いだらしい。因みに修験者は、その拠っ
ている霊山により、熊野修験とか羽黒修験とか言われたし、日光山にもいたのだが、
仏教の宗派としては本山派、当山派の二流である。何連も、密教である。

 源平の戦いで安徳天皇を奉じた平家を<追討>するに大功あった源義経(ミナモト
ノヨシツネ)は上皇に寵愛された。何せ、美少女と見まごうばかりの美少年だった、
かもしれない義経である。十六歳の時、鞍馬山東光院から砂金商人・吉次(キチジ)
に連れられ奥州藤原氏の下へと逃げ出すのだが、途中、強盗に襲われた。強盗は義経
を女性だとばかり思った。しかも、ただの女性ではない。「きはめて色白く、鉄漿黒
に眉細くつくりて」と化粧までしてたもんだから、「玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃と
も謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人かともうたがふべし。傾城と心得て……」
と最高級の別嬪さんだったのである。中世の物語・義経記(ギケイキ)である。
 さて、その別嬪の義経が、不細工な兄・頼朝(「東照宮の牡丹と犬と梅」参照)に
憎まれるようになった。義経は奥州藤原氏を頼って逃げる。逃げるときに、武蔵坊弁
慶らと共に、山伏に変装した。関所で検問を受けるのだが、弁慶が機転を利かせ、義
経を扇でめった打ちにする。余りに酷く打擲するので、番人は憐れみ、そのまま通過
させた。色白美形の義経を色黒毛むくじゃらの弁慶がサディスティックに責め立てる。
義経記(ギケイキ)中、読者の淫靡な欲望を満たす名場面だ。弁慶は「タチオウジョ
ウ」(最期の戦いで一歩も引かず立ったまま往生/戦死した)で有名だが、義経との
関係では、タチだったとも言われる。義経がウケである。勧進帳だ。
 義経がらみの芝居で思い出したが、冒頭に掲げた義経千本桜、これは近世芝居の脚
本だ。「忠なる哉忠信なるかな信」という名文句で始まる。子狐が出てくる。尤も子
狐と言っても、ヨチヨチ歩きの子狐ではない。立派な成獣だ。妻もあれば子もいる。
この狐、人間に化けて登場する。名前は藤原四郎忠信(フジワラノシロウタダノブ)。
苗字は佐藤。「忠なる哉……」は、義経千本桜というタイトルを無視して忠信が主人
公であることを暗示している、という。
 この忠信は多分、実在の人物で、頼朝に追われて逃げる義経の従者だ。元は奥州藤
原氏の家臣だったとされる。追手が迫ったとき、義経に<化けて>一人で引き受け、
義経を「恋慕」しながら、凄まじい最期を遂げるのだ(「義経記」)。千本桜の忠信、
義経が院から与えられた鼓の子供だったのである。正確に言うと、この鼓は狐の皮で
作っていたのだが、その狐の子供が忠信に化けていたのだ。父母狐(の皮で作った鼓)
を慕って、義経のもとに来た。<狐は親子の情が篤い動物>なのだ。脱線である。
 まぁ、とにかく、義経一行が山伏に化けたのは、うろうろ歩き回るのに、都合が良
かったからだろう。義経が美形だからといって、女装なんかしたら、そりゃぁ巧く化
けるかもしれないが、不自然だ。すぐにバレる。全国の交通が、まだ余り発達してい
ない時代だ。女性がウロウロしてちゃぁ、いけない。それだけで、怪し過ぎる。
 ところで義経は<悲劇の貴公子>だ。八犬伝中で何度も引用されている太平記にも、
悲劇の貴公子は登場する。後醍醐天皇第二皇子・護良親王(モリナガシンノウ)だ。
親王は鎌倉幕府から追手をかけられたとき、山伏に化けて熊野へ走った。宿を貸して
くれた豪族に加持を頼まれたが、祈祷してやって、怪しまれずに済んだ。……怪しい
ヤツAが怪しくないヤツBに化けたら、これは怪しい。すぐバレる。しかし怪しいヤ
ツAが怪しいヤツBに化けたら、これは、なかなかバレない。実は、山伏は元々<怪
しい>。呪術を操るからではない。呪術を操っても、出自のはっきりした高僧なら、
畏怖されたとしても、怪しまれたりしない。山伏はウロウロしているから、何処の誰
兵衛か、ハッキリしない。
 人々が定住していた時代に、ウロウロしていたら怪しまれる。近世農村の、五人組
制度(複数の家族を一組として年貢や犯罪者の捕縛に連帯責任を持たせる制度。相互
監視という側面ももった)ではないが、人が関係を固定したがるのは、そうすると安
心できるからだ。一緒に育った者は、何となく信用してしまう。それに対して、行き
ずりの人間は信用されない。信用するとしたら、純真無垢/イノセントな人間だろう。
 せっかく太平記を持ち出したので、もう二カ所だけ引く。後醍醐天皇が、鎌倉幕府
もしくは其の実権を握っている北条氏を抹殺しようとしていた頃、北条高時の下で異
変が起きた。高時は田楽踊りや闘犬を好み連日浮かれて鑑賞し宴会を開いていたが、
座中の者がヘベレケに酔っぱらっているところへ、見知らぬ田楽一座が登場した。こ
の世の者とも思えず巧みな踊りだった。みな喜び、歌い囃した。が、部屋の外から覗
いた者には、一人の女房が障子の隙間を通して覗いたのだが、それは田楽の一座では
なく、山伏の格好をした天狗どもだった。驚いた女房は、退廃した北条眷属には珍し
い武人・城入道(ジョウニュウドウ)に報告した。武人は、武力を専らにするだけで
はなく、魔を払う力を持っていた。八犬伝中、火の玉姐さん音音(オトネ)の夫・与
四郎(ヨシロウ)が、こんなことを言っている。「大刀は武徳の名器にして非常を*
検し非常を防ぐ。この故に妖怪変化もこれに遇へば本形を顕さずといふことなし(「
*検」の扁はテヘン。但し意味は同様)」。閑話休題。
 ところで、入道は、押っ取り刀で駆け付けるが、異形の者どもは既に姿を消し、高
時はじめ眷属は皆、正体もなく酔い伏していた。ただ、座敷には鳥や獣のような足跡
が残されていた。<天狗山伏>である。現代でも天狗を描く場合、山伏の扮装をさせ
ることが多い。山伏から連想されるイメージに、<天狗>もあるのだ。この場面は、
北条氏滅亡の予兆として、意味がある。怪しい者が跳梁すると、国が滅ぶのだ。
 さて、太平記は復讐に次ぐ復讐、殺戮に次ぐ殺戮を描いているが、次の復讐も名場
面の一つだ。太平記序盤、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画が露見する。天皇は知らぬ
存ぜぬを押し通し、側近・日野中納言資朝(ヒノチュウナゴンスケトモ)らの独断だ
とされた。資朝は死罪となり、佐渡島に禁獄される。資朝には、阿新(クマワカ)と
いう息子がいた。阿新は、危険を顧みず佐渡へと赴く。救出は考えていない。父が死
ぬ前に、一目会いたかったのだ。
 阿新は、通りかかった僧の口利きで、本間屋敷に潜り込んだ。身分は明かした。本
間入道は阿新を哀れんで、丁重にもてなす。入道も、資朝がにくくて閉じこめている
のではない。命じられただけなのだ。とはいえ、阿新を資朝に会わせるワケにはいか
ない。幕府への聞こえもある。二人を隔離する。阿新に告げず、資朝を斬る。件の僧
が、資朝の遺骨を阿新に渡す。泣き伏す阿新。しかし、泣いてばかりはいられない。
遺骨を母の元へ贈り、自分は居残る。本間入道か、その息子を殺して、その場で自殺
しようと考えたのだ。言ってみれば<逆恨み>なのだが……。
 ある夜、本間入道、そしてその息子の部屋に忍び込む。夜這いではない。しかし、
その日に限って、本間父子は不在だった。どっか他の部屋で寝ている女性の布団にで
も潜りこんでいたのだろう。阿新はウロウロする。ここまで来たら、誰かを殺さなけ
れば引っ込みがつかないとでも思ったのか、偶々見つけた本間三郎、資朝の処刑を行
った刑吏役だが、「コイツで良いや」と、三郎を殺すことにした。
 メチャクチャな論理ではあるが、太平記というのは、全編こんな感じなのである。
<気分>次第で裏切りもし、殉死もする。太平記中で、もっとも理想的な武将は「悪
党(悪人というのではなく既存の権威に従属していない武士)」の楠正成(クスノキ
マサシゲ)だが、智恵もあり武勇もあり、とても冷静な人物だが、相当な気分屋で、
冷静かつ客観的に情勢を分析した挙げ句、負けると分かっている後醍醐天皇側に就き、
戦死する。後醍醐天皇や足利尊氏だってどうも、「気分」で動いているやに思える。
気分次第で戦争されたりしては、周りが迷惑するのだが……案外、真実かも。
 まぁ、阿新は三郎を殺す。三郎の悲鳴を聞いて警備の者が駆け付けると、三郎は既
に死亡し、血の付いた小さな足跡が残っていた。阿新が犯人だと察する。阿新は屋敷
から逃げようとするが、六メートルほどの堀に阻まれる。高い呉竹によじ登る。竹は
たわんで、小柄な阿新を対岸に降ろす。
 逃げ回る阿新は、一人の山伏に出会う。高貴な者と思しき少年が、着衣を乱し血に
塗れ怯えた様子でいるのを不憫に思ったか、山伏は事情を尋ねる。阿新は、この敵か
味方か分からない山伏に、ありのままを話す。山伏は逃がしてやると約束し、阿新を
背負って港へ向かう。しかし、船は遙か沖に碇泊している一艘のみ。いまにも出帆し
ようとしている。山伏は船に呼びかけるが、無視される。怒った山伏は、船に向かっ
て呪文を唱える。突如として強風が吹き、船は岸に打ち寄せられ、転覆しそうになる。
船の者たちは驚き慌て、山伏に助けを求める。懸命になって港へ漕ぎ戻す。山伏、阿
新は悠々と乗船する。船が港を出たところへ、漸く本間の追手百五六十騎が追い付く。
阿新は無事に帰り着く。
 名場面なので、ついつい長く引用してしまったが、阿新を助けた山伏、なかなか格
好の良い役回りだ。土地の者なら後難を恐れて阿新を捕らえこそすれ、助けることは
ないだろう。風来坊だからこそ、気分次第に振る舞えるのだ。逃げちゃえば、良い。

 とにかく山伏は、形津々浦々の虚実に通じ、各地の権力から比較的自由であり、そ
して実際に効果があったか否かは別として、呪力を持っているとされた。中世は、呪
術の時代でもあった。古代末期、平将門(タイラノマサカド)が「新皇」を名乗り、
朝廷の命に従わなくなった。三カ月後に藤原秀郷(フジワラノヒデサト)らに討たれ
た。このとき、朝廷は追捕使を送って武力鎮圧を試みると共に、密教僧に将門の調伏
を祈らせている。簡単に言うと、呪い殺そうとしたのだ。また、元寇すなわち中国の
元王朝が大軍を発して日本を攻撃したときも、武士に防衛線を張らせると共に、朝廷
は元軍を呪った。暴風雨が偶々起こり、元軍を潰滅した。「神風」だ。戦国の時代に
も、呪術が戦いに用いられた。戦いに於いて、呪術は武術と同様に、重要な要素だっ
たらしい。そして、山伏は、その呪力を有していたとされるし、戦いというのは縁起
を担ぐものだが、お祓いとか出撃日時の吉凶を占ったりもしたかもしれない。また、
より合理的に、山伏から隣国の情報を得て、攻撃の決意を固めることもあっただろう。
戦こそ、山伏のビジネスであった。

 八犬伝にも山伏もしくは修験者が登場する。山伏は近世に入ると、そうウロウロで
きなくなった。何せ、放っておくと厄介な連中である。武術も呪術も持っていた。だ
から幕藩により、定住を促された。道場で修行したりする。八犬伝に出てくる修験者
は、この定住後の修験者だろう。それは、下総猿嶋郡誼夾院村(シモウササシマグン
ギキョウインムラ)の修験院・誼夾院住持・豪荊(ゴウケイ)である。既に廃れたと
はいえ、以前は子院四十八カ寺を支配した大寺だったようだ。
 因みに、四十八とは六かける八である。六八、四十八。ロクハ、ロッパ、ロッパゥ、
ロッポー、六法。六法とは今では重要法規もしくは法全体を指すが、近世、「ムホウ」
を意味した。<無法>、「ごろつき」である。また、ごろつき山伏を指す場合もある。
 この豪荊、八犬士側の人物だが、出てきて何をするかというと、意気に感じて合戦
に参加するだけだ。子分じゃなかった、弟子筋の修験者と共に戦うだけ戦って、褒美
も受け取らずに帰っていく。一応は仏教者なのだから、それらしいことをしても罰は
当たらないはずだが、戦うだけだ。これでは、単なる野武士か義侠の輩である。
 ……多分、そうなのだろう。「誼夾院」という名は伊達ではない。豪荊は、義侠の
人なのだ。<良い子>が住んでいるのは、<良い町>である。ならば、誼夾院村に住
んでいるのは、義侠の輩だと決まっている。八犬伝は、<名詮自性>の世界なのだ。
折口信夫に拠ると、「駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼ら(山伏)の中に飛び込め
ば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だか
ら、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏になつたなどといふのが少くない。
……(中略)……(山鹿)素行以後のものは士道であつて、其以前のものは、前にも
言うた野ぶし・山ぶしに系統を持つ、ごろつきの道徳である。……(中略)……睨ま
れゝば、睨み返すのが、彼らの生活であつた。即、気分本意で、意気に感ずれば、容
易に、味方にもなつたが……(後略)」(「ごろつきの話」折口信夫全集第三巻 古
代研究・民俗学編 中公文庫)。山伏である豪荊は、「ごろつき」だったのだ。いや、
住職になる以上、ただの「ごろつき」ではなかっただろう。<すごいごろつき>だっ
たに違いない。

 ……行数が尽きた。いや、こんな積もりではなかった。スケベェの話になると、如
何しても長くなってしまう。これでも半分に切り詰めたのだが。まぁ、良い。先は長
い。とにかく、役行者は超人、スーパーマンではあるが、一筋縄ではいかない「ごろ
つき」・山伏の親玉なのだ。<ごろつき超人>である。甚だ物騒だ。物騒なコイツが、
八犬伝の主宰神なのである。困ったものだ……あ、いや、何でもない。ごろつきの親
玉が主宰する世界が、マトモである筈がない。だいたい八犬伝の作者・馬琴(バキン)
は、悪漢小説の圧巻たる椿説弓張月(チンセツユミハリヅキ)の作者である。「マト
モ」でないとしたら、如何か? それは、<とてもマトモ>なのだ。そこら辺のこと
は、またの機会、「ごろつきは世界を変える……か?」で申し上げよう。
(お粗末様)



#1022/1336 短編
★タイトル (XRM     )  98/ 3/14   2:39  ( 81)
結局なんにも言えなかったナメクジの話    るるべー
★内容
・・・日常をもとにした或る一つの寓話
 湿った土の匂いのする或る森の一角でナメクジ君は生活しています。
家は彼の両親が懸命に作った、草で編んだ洞穴。その中はかわいらし
く家族個別の場所がしきってある。トカゲの父さんとカタツムリの母
さん。そして一番上のエリマキトカゲの兄さんとカエルの兄さん。
 ある日その話題を持ち出したのはエリマキトカゲの兄さんでした。
エリマキトカゲの兄さんは、この家があんまり好きではなかった。な
んといってもジメジメの湿気の多いことは我慢が出来ても薄暗いこの
立地条件は彼の性に合わなかったのである。くたっと家の周りにあち
こち垂れている腐りかけた草や蔦。それが彼の体にピタとくっついた
日には、仮は大声で叫び上げていた。嫌悪の声である。そこで彼はい
つも外出をする時は滑稽ななほど注意深く歩かなければならなかった。
ここを引っ越そう。そう切り出すチャンスを今か今かと身構えて待っ
ていたのである。
 そしてとうとうある日、そのチャンスは巡り来た。彼が前からずっ
と住みたいと思っていた場所の主が、ひょんな事で引越しをしたので
ある。
 その縄張りの主というのは、この家族にとっては天敵のようなもので、いばりん棒の
大きな毒蜘蛛だった。何が彼らにとってそんなに驚
異であったかというと、とにかく自分達よりも足が2本も多くある、し
かも、そいつの体には細かい彼らからは白い不健康だとしか思えない
苔を思わせるようなうぶ毛が、ビッシリ生えていることであった。そんな
忌々しい体をしているのにも関わらず、そいつときたらスタミナ抜群で、
精力的に獲物を獲得していた。6本の長い足は信じられないほど強く、
トカゲの父さんでさえてこずる。赤い筋の入ったお尻は禍禍しさをより
感じさせたし、ナメクジの父さんと母さんが生きる武器として身につけ
た見事な家作りと匹敵するぐらい上手に、巣を細い糸で張り巡らせる
ことが出来た。
 その蜘蛛が引っ越してしまった理由の顛末は次の通りである。
 毒蜘蛛は近くにすむクワガタと喧嘩をしたのである。たかがクワガタ、
されどクワガタである。クワガタは蜘蛛よりも小柄であるというハンデ
を持ちながら果敢に立ち向かっていった。何でも彼がやっとこさ見つけ
た木のうろの巣を例に酔って蜘蛛が馬鹿にしたとのこと。この毒蜘蛛は
何にでも難癖を付ける嫌みな奴で、きっと、お前にはそんな出来合いの
家がピッタリの能無しだとでも言ったのだろう。クワガタは自分の名誉
をかけて戦った。結果はひどい怪我を負うはめになった。しかし毒蜘蛛とて同じような
もので、その治療のために引っ越したのである。
 さて、この事をエリマキトカゲの兄さんが持ち出した時の家族の反応
は次の通りだった。
 両親は始め、この話には難色を示した。もちろん場所は申し分ない。
しかし、そういう場所だからこそ縄張り争いが激しく、父親独りで守っ
て行けるか心配だったからである。
 次男のカエルの兄さんは、その案が痛く気に入った。彼は、この家の
周りのジメジメと湿気の多いのは我慢が出来ても、近くにある水溜まり
が気に食わなかったのである。日が余り射さないのでいつでも蒸発する
ことはなかったし、その澱んだ水に葉が落ちて茶色く腐る。その様に美
的感覚にこだわるカエルの兄さんは我慢がならなかったのである。
 末っ子のナメクジはというと、ハラハラしていた。彼は実は彼の兄さ
ん達の毛嫌いする、腐りかけた草や蔦、澱んだ水溜まりが大好きだった
からである。よく彼はそれらにじゃれ付いて感触を楽しんだり、水浴び
をしていた。しかしそれは秘密であった。こんな事を好きだといったら
兄さん達に仲間はずれにされると思ったからである。
 しかし、注意してそれらと遊んでいても、それを兄さん達に発見され
てしまうことがしばしばあって、言い訳をするのにとても苦労していた。ご飯をおっこ
としちゃっただの、遊び道具を変なところに投げちゃった
だの、そのおかげで彼は家族からはとてつもなくオッチョコチョイだと
いう風に思われていたのである。
 彼は何としてでもここを離れたくないと思った。家族にも分かっても
らいたいと思った。しかし彼がそうやって必死に考えをまとめようと黙
り込んでいるうちにも、どんどん話は進んでいった。まずエリマキトカ
ゲの兄さんは母さんを説得し始めた。
「母さんが水を多く必要だってことは知ってる。でもあそこは河が流れ
ているから、その近くに家を作れば、その近くに家を作ればいつでも新
鮮な水が得られるよ。」
 次は父さんに向かってである
「僕、家作りも手伝うし、父さんと一緒にあの場所を守るよ。」 
 こういった力強い言葉に両親は満足げである。これはマズイ事になっ
たと慌ててナメクジ君は叫んだ。
「でも!!」
 しかしその叫びのような声は父さんの声に遮られてしまいました。
「おお、分かっている。あの毒蜘蛛がまた帰ってくるんじゃないかと思っ
ているんだろ。」
それはまるでいたわるような包容力のあふれた頼り甲斐のある一声でした。
しかし、父さんはあんまりナメクジ君のことを理解していたわけではない
ようです。続けてこう言いました。
「よくお前はあの蜘蛛にイジメられていたからな。でも、なあに、家族が
団結すれば、あんなこもの一匹や二匹、たいしたことではないさ。」
 そういってトカゲの父さんは満足気にカラカラと笑い声を上げた。他の
家族達も同じように満足気に自分の部屋に戻っていチた。一人獅ウれJ
メクジ君がその撃ヌうしかかニいえば、b蛯チと残念サうに笑っbセけだっ




#1026/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 3/29  23:10  (102)
大型コーヒー小説  「上を下へ」  ゐんば
★内容
 自動販売機にコインを入れ、松本喜三郎は缶コーヒーのボタンを押した。
 ドンガラガッシャンという音と共に出てきたコーヒーを左手で取り出し、缶に
右手をあてた。缶を上下持ち変えた。同じように右手をあて、怪訝そうな顔をし
た。
 缶の底を見る。逆手にして、反対側を見る。
「あれ?」

 コーヒーのボタンを押したらお茶が出た四二%、出てこなかった二六%、お釣
りが少なかった一二%。三本松コーヒーお客様相談室長杉野森弥三郎は先月分の
レポートをまとめていた。
「大変申し訳ありませんでした。お取り換えいたしますので恐れ入りますが着払
いで」
 オペレー夕ーの応対する声が聞こえる。最近の傾向としては販売機関係が多く、
コーヒー等の飲み物そのものについてのトラブルは減っているようだ。
「あの、室長」
 呼ぶ声に顔を上げるとオペレーターがなにやら困ったような顔をしている。
「いまお客様から、缶コーヒーのどっち側にも飲み口がなかったというお電話が
ありまして……」
 杉野森は一瞬オペレーターの言っていることが飲み込めなかった。
「両面……つるつる?」
「つるつる」
 長い間お客様相談室をやっているが、こんなトラブルは初めてだ。
「そう……か。いつ製造した物か確認しないとな。問題の缶は送ってもらうよう
にしたんだろうな」
「それが……」
 オペレーターはうつむいた。
「私が『お取り換えしますので着払いでお送り下さい』と言おうとしたら、今か
ら持っていきますと言って電話を切ってしまって……」
 杉野森は一瞬オペレーターの言っていることが飲み込めなかった。
「今から……来るの?」
「来ます」
「来ますって、その筋の人だったらどうするの、」
「すみませんっ」
「とにかく例のお詫びセット準備して。まったく」
 杉野森は溜息をついたが、すぐに電話を取り上げた。
「はい生産管理部です」
「あー相談室の杉野森ですが。テコナちゃんいる?」
「少々お待ち下さい」
 受話器の向こうのクスクス笑いが保留音に変わった。テコナちゃんといっても、
梅田手児奈はれっきとした生産管理部課長なのである。杉野森は彼女がまだ新人
の頃から未だにテコナちゃんと呼んでいるのだが、若い課員にしてみれば妙な響
きだった。
「はい梅田です」
「あー杉野森ですが。あのさ、両面つるつるのコーヒーがでてきちゃってさ」
「両面つるつるってなんですか」
「タブがどっちにもついてないの」
「そんなものあるわけないでしょう」
「それがあったの。とにかくさ、なんでそんなのが混じったのか調べてよ」
「工程上混じりっこありませんよ。現物はあるんですか」
「現物はね、いま客が持ってくる」
「客が、……持ってくる?」
「そうだよクレームマニアだよきっと。どうせ社長を出せとか言い出すんじゃな
いの」
「……」
「あんたタブのないコーヒーがあちこちからでてきたらうちは笑いもんだよ」
「とにかく現物見せてください。今から行きますから」
 十分もしないうちに梅田手児奈が資料をいっぱい抱えてやってきた。
「おーご苦労さん」
「杉野森さん、やっぱりタブのない缶なんてできるわけありませんよ」
「付け忘れたんじゃないの」
「あんなもの後から取り付けるわけないじゃないですか。最初からタブ付きの蓋
を作っておいて、後からはめるんですよ」
「じゃあ、そのタブ付きの蓋がただの蓋だったんだ」
「だって製缶工場から受け取るときだってチェックしてますし、完成品だって検
査しているんですよ」
「でもあれだけいっぱい作ってるんだから、紛れ込まないとも限るまい」
 二人が言い争っているところに受付から電話がかかってきた。
「松本さんという方がお見えですが」
「あー、来たか。応接室にお通して」
 応接室に向かう杉野森を梅田が追いかけた。
「私も行っていいですか」
「いいけどね、余計なこと言うんじゃないよ。クレームに対処するには、丁寧に、
しかしきっぱりと、だ」
 応接室にいたのは予想していたよりずっと若い男だった。
「お初にお目にかかります、私お客様相談室の杉野森ともうします」
「あ、どうもはじめまして」
「こちら生産管理を担当してます梅田です」
「梅田ともうします」
「松本っす」
「このたびはご足労をおかけしまして申し訳ありませんでした。商品は早速お取
り換えいたします」
「わあ、すみませんわざわざ」
「それからこれはご迷惑をおかけしましたのでお詫びのしるしです。当社のコー
ヒーの詰め合わせです」
「わお、こんなの貰っちゃっていいんですか。ありがとうございますぅ」
 どうも予想していたのとは雰囲気が違う。
「それでお客様のお買い求めになった品物なのですが」
「あ、これっすか?いやー僕もびっくりしちゃってこんなの初めてだから」
 喜三郎はテーブルに缶を置いた。ラベルが逆さまになっていて、底に製造年月
日が刻印されているのが見える。梅田はそれを上下逆にした。反対側もつるんと
した金属面であった。
「はあ……」
 梅田はまだ信じられないように缶を何度も逆さまにしている。杉野森にしても
見るまでは何かの勘違いではという思いが多少あったのだが。
 杉野森は深々と頭を下げた。あわてて梅田も頭を下げた。
「まことに申し訳ありませんでした。以後このようなことのないように品質管理
に努めて参りますので、今後も当社製品をよろしくお願いいたします」
「あ、そーか」
 喜三郎のすっとんきょうな声に二人は顔を上げた。
「缶切り使えばいいんだ」

                               [完]



#1029/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 4/ 5  22: 5  ( 72)
大型花見小説  「桜花粉症」  ゐんば
★内容

 二十世紀後半人々を悩ませ続けた花粉症は、特効薬の普及により急速に姿を消
しつつあった。
 しかしこの特効薬には妙な副作用があった。
 杉の花粉に対しては絶大な効果があったのだが、どういうわけだか今まで花粉
症と無関係だった桜の花粉による花粉症が起こりやすくなったのだ。
「やや喜三郎さん、ぐしゅ、どうですか一杯」
「これはこれは弥三郎しゃん、へっくしゅ、おたくも桜花粉症ですか」
「そうなん、ぐぢゅ、そうなんですよ、この季節になるとずるっ、ひどくでね」
「まままではご返杯、ずりっ、私もなんでずよ、あー、へくしゅ」
「じゃま乾杯、おっと、マスクしたまま飲めねえや」
「そう、外に出るときはぐしゅ、マスクがか、か、か、かかせないから……じゅ
るっ」
「二人ともそれでよく花見に来ますね」
「や、これは手児奈さん、相変わらじゅお美しい」
「そんなサングラスかけてマスクしてまで。過激派の生き残りかと思いましたよ」
「いやあ花見ばっかりは花粉症だからってや、やめるわけには……ずりっ」
「そうそうやっぱり春は花見をしないとしまらねえ……は、は、は、はあくしっ」
「弥三郎さん、ぐしゅ、酒を飛ばしちゃいけねえよ」
「そういう喜三郎さんも焼き鳥のかけらが、は、飛んだよ」
「汚いなあ」
「いやいやこれは失礼、手児奈さんは花粉症ないの」
「全然」
「いや花粉症でない人にはなかなかわからないと思うんだが、ずずっ、この、こ
の、あー目がしょぼつく、桜の下で鼻をすすりながら飲むってのがまた格別、ね
え喜三郎さん」
「そうそうこの鼻に来るところなんざあ……へ、へ、へ、へっくしょい……ティ
ッシュがなくなりました」
「あげましょう」
「どうも」
「勝手にとってぐださい。箱で持ってきまじたから」
「こりゃずびばせん。私もいつもだったら切らすことなんてないんだが、今日は
特にひどくて、ちーん」
「困ったときはお互い様です」
「ずびずば、あ、違った、これごみ袋じゃないや」
「喜三郎さんいけません、それはおつまみの袋です」
「ばっちいなあほんと早く拾ってよ。燃えるごみはここ、空き缶はこの袋、間違
えないでよ」
「あーあー怒って行っちゃったよ」
「ま、花粉症でない人には、この、ずっ、花粉症の苦しさはわかりませんよ」
「そ、ああいう人の痛みのわからない女はね、嫁の貰い手がありませんよ」
「そうそう、じゅっ、いやあしかし今年はいつもよりすごいね、こりゃ」
「ああ、こんなのは五年ぶりくらいじゃ、くしゅっ、ないかな」
「そうそう五年前の花見だよ、喜三郎さんがバーベキューの中に鼻汁飛ばしたの」
「そんなこと、ずずず、しましたっけ」
「しましたとも、ぐしゅん、それで鈴木さんが知らずにそのお肉食べちゃったん
じゃないですか」
「汚いなあもう、やめてよ」
「あら、まだいたの」
「なんで花見に来て鼻汁の話しなきゃならないのよ、まったくもう」
「だいぶ怒ってばすね」
「やっぱり桜の下で怒っぢゃいけませんよね」
「そう、花の下では風流でなくっちゃ」
「そうそう風流。ぶあっくし、うう、死にそう」
「ずしゅっ、ほんとに。まあ、桜の下で死ぬってのもねえ、ほら空海の歌みたい
で、風流じゃないでずか」
「なんでしたっけ」
「ほら花の下で死ぬぞって、くしっ、歌ですよ」
「ああありまじだね」
「えーと、願ばくば、花の下にて、ずずっ、春死なむ、そのきはっくしょん、如
月の、は、は、は、望月のころ」
「はいはいちょうど今の時期ですなあ、……それ空海でしたっけ」
「違ったっけ……ごめんごめん何が空海だ、弘法大師ですよ」
「そうそう弘法大師だ弘法大師」
「ははは空海だって、ごめんごめん弘法大師、へっくしっ」
「西行よっ」
「……西行だっけ?」
「そっか。どうも坊さんの名前ってのがみんな二文字で紛らわしいんだよな」
「だいたい空海も弘法大師も同じ人じゃないの」
「なら西行だって同じ人でいいじゃない、はっくしょん」

                                [完]



#1030/1336 短編
★タイトル (PRN     )  98/ 4/12  19:32  ( 64)
お題>子守歌   ジョッシュ
★内容

 目を覚ますと、まったく覚えのないところにいるというのは、よくあることだ
った。
 白い天井、白い壁、わずかばかり開いたカーテン。差し込む淡い白い光。
 わたしは横になっていた。シーツも白い。枕(ピロウ)も白だ。ぼんやりと見
える壁の絵も黒い縁どりの中は白っぽい馬が描いてある。
 目を閉じても、開いても無駄だった。視床底の風景は変わらない。
 そう。わたしは白の中にいた。意識してもしなくても、わたしのまわりはすべ
て白だった。無色透明ではない。明度は高いが、白だった。日が陰れば灰色に沈
んでゆくだろう白だった。
 わたしは何も身につけていなかった。裸で暮らしていた訳ではないから、どこ
かに脱ぎ捨てたのだろう。それもたぶん白い服だったにちがいない。
 それが自然なように思えた。それが当然だと。
 ただ、これまでとは違う決定的なものがあった。
 確かめたわけではない。あれこれ考えた結果でもない。ただ感覚的にわかった。
わたしの思考能力は鈍っていたが、それでも身体の奥深くで絶対的なものを感じ
ていた。
 このまま意識が途絶え、わたしは白く冷たい塊になる。
 あと五分くらいか・・・。わたしの消滅まで。
 五分・・・それが長い時間なのか短いのかさえ、もはや意味を持っていなかっ
た。
 わたしはじっと横になっていた。
 頭の中は白濁して・・・それはいつものことだったが、そして、下腹部が鉛で
も詰まっているかのように重かった。
 次にとるべきいかなる行動にも思い当たらなかった。体を動かす意味が見あた
らなかった。だからわたしは、ひそやかに息を吸い、長い時間をかけて吐いた。
 ざらざらとした自分の呼吸音だけが耳につく。
 呼吸はわたしに何も与えてくれない。酸素を取り入れるという生理は、わたし
を生かし続けてはくれないのだ。それは、わたしが生きるべくしてここにあるの
ではないことを物語っていた。
 思考はずるずると滑り落ちて行く。踏みとどまる縁(よすが)はない。
 わたしは死ぬ。
 嫌な気分だった。
 なぜ、わたしなのだ。誰だっていいじゃないか。わたしは選ばれたのか。それ
とも、どこかに厳然としてあるという外在律の差し金か。
 そもそもわたしの死はどこから始まったのか。そして、どう終わるのか。
 ああ、意味はない。そんなことを知ったって何の助けにもならない。
 わたしの心は平静だ。しっかりと受け止めるつもりだ。現実を。 
 いま、「わたし」は消えつつあるのだ。
 どこへ? さあ・・・。

「ごめんなさい」
 突然、女の声は謝ることから始めた。語尾が震えている。
「あたしが悪いんだ」
 女の声は続けた。閉じてゆく意識の扉を擦り抜けて、その声がわたしを錯乱さ
せた。身体がこわばる。どこかで誰かが女の声に反応していた。
「ちゃんと生んであげられれば・・・」
 びくん。
 わたしの身体が跳ねた。
 なぜだ。この女は悲しんでいる。そして、女の声にわたしの身体は反応してい
る。なぜだ。わたしは混乱した。答えを探そうにも、わたしの中で知識を引っ張
り出せる集積部は、まっさきに瓦解していた。溶けてゆく自意識にとって、第三
者の感情の揺れは遠い陽炎のようだった。
 はるか昔に似たようなことがあったかもしれない。つい昨日もそうだった気が
する。たった十年違いで生き損ねたこともあったし、ずうっとそのままだったこ
ともあった。
 思いは球形状に圧縮され、点になり、そして不安定な煽動を繰り返してから破
裂した。ちりぢりの意識の破片はゆっくりと拡散し、わたしは存在感を無くした。
「ああ、許しておくれ。無慈悲な母をどうか・・・」
 か細い声は、意識が完全に閉ざされる間際まで聞こえた。まるで子守歌のよう
に・・・。

(了) 




#1032/1336 短編
★タイトル (WJM     )  98/ 4/20  21:26  ( 92)
詩>一つの祈り               κει
★内容



            .. . ..  . ..

      世界の悲しみを知った少年は夜の沈黙のもたらす真空に
      耐えきれず
      精神の山の麓で形のない祈りのためにひざをつく

      自分の全てをささげるを願った少年は
      何もかもを失い
      やがて透明な祈りへと変えられていった

      無という命は名もない清澄な風に抱かれて
      大地に熱せられ昇ってゆく

      彼の煤けた指先は今は伸びやかな羽となる
      痩せた猫背の背に背負い続けた優しさが
      今は大きい透明な翼となり一度ゆっくりと羽ばたいて
      やがて先人とともに世界を渡る



            .. . .. . ..

      木立を過ぎていく風の湿気の正体は
      あのときのあなたの涙の意味だった
      執拗に僕にからみついたのが何よりの証拠

      一筋の木漏れ日が僕の目に落ちて
      光彩を放つ過去を走馬燈のように映し出す
      そして未着のレターが僕の胸に次々に届けられ始める

      その夜 僕はベランダで立ち尽くした
      蒼い大気を呼吸して百二十光年の距離の星を探す石像と変えられた
      僕の身体はすべての要求を忘れたし
      僕の心は生すら志さなかった

      無知や無力さ加減で弁護する言葉により汚された指先を
      今一度冷気へと伸ばしてみれば
      うそつき小僧が僕の手の甲から転げ落ちた



            .. . .. . ..

      凛とした頬を持つあなたの肌色が上気するのは
      秘められていた真実の再生に似ている

      また
      苦しくそれでいて蜜のように慕わしい
      未来の霧雨のなかへと
      静かに誘う美しいメロディに似ている

      そして
      背後からそっとあなたの小さな掌をとるとき
      委ねられるあなたの心の重みは
      今日の日の僕という弧影に注がれる
      一つの聖なる祈りに
      似ている



            .. . Pure . ..

      荒んだ街裏の路地の野良猫の溜まり場でみつけた泉は
      周囲を輝きに変えながら閑静に湧き水を湛えていた

      我に返った僕は不思議に沈静に
      あかぎれの手で質量の感じられない靄のような水を汲んだ

       瞳を閉ざすようなまばゆい輝きを発しながら
      澄明な水面は僕自身の姿を痛いほどにまざまざと映し出す

      いつしか操られるようにおずおずと手は口元へと運ばれた
      口の端からの一筋の流れが首筋をとおって胸元へと落ちる

      熱さと冷たさとが荒く荒く入り乱れ
      決してとけあうことのない厳しさを伝えていた

      やがて
      僕の身体に

      染み渡れ




                          .. . κ . ..






#1033/1336 短編
★タイトル (WJM     )  98/ 4/24   1:16  ( 96)
詩>春のなかで               κει
★内容




              疲れるとあなたが

              ぼくをささえてくれます

              薄いセーターごしの

              あなたの香り


              春の光がたくさんの蝶のように

              ちらちらと舞っていて

              ぼくの頬にもおちます


              やわらかい指先が

              ぼくの髪をゆっくりととかし

              ふと顔をあげると

              あなたの微笑みがありました


              夢と現実とのさかいで

              ぼくのなかの何かが静かに

              とけてゆくのを感じます



                  ○



              ぬくもりが夢となり

              夢が明日となり

              明日が風となり

              未来を巡って

              あなたへとかえる

              それを受けとめるあなたの

              掌が

              いまもう一度

              ぬくもりにかわる



                  ○



              あなたは木漏れ陽のように

              掴みどころがないから

              綺麗に洗った右の手を伸ばしても

              そのあいだから

              光の粉を漂わせるように

              するすると抜けてゆく

              たまらなくなるから

              ぼくは

              はっきりとしない意識のなか

              両手を広げて

              あなたの体を

              抱きしめよう







                           .. κ ..



#1034/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 4/25  19:32  ( 88)
大型ファンタジー小説  「ブンブクチャマガ」  ゐんば
★内容

 ある日、ブンブクチャガマとブンブクチャマガとブンブクチャママが幻のブン
ガクチャガマを探しに旅に出た。
 道は三叉路になっていた。
 片方の道には、「ブンラクチャガマ、こっち」と書いてある。
 もう片方の道には、「ブランクチャガマ、こっち」と書いてある。
「俺はブンラクチャガマの方だと思うな」ブンブクチャガマが言った。
「いや、俺はブランクチャガマだと思う」ブンブクチャママが言った。
「ではこうしよう」ブンブクチャマガがブクブクチャマガを取り出した。
「これを投げて、ブンラクチャマガが出たらブンラクチャガマ、ブンブクチャチ
ャチャが出たらブランクチャガマ」
 ブンブクチャマガはブクブクチャマガを投げた。
「どっちだ」ブンブクチャガマとブンブクチャマガとブンブクチャママは一斉に
ブクブクチャマガを覗きこんだ。
「これは……」ブンブクチャマガが言った。
「これは、ブンラクチャマガだと思う」ブンブクチャガマが言った。
「いや、ブンブクチャチャチャだ」ブンブクチャママが言った。
「ブンラクチャマガだ」ブンブクチャガマが言った。
「ブンブクチャチャチャだ」ブンブクチャママが言った。
「よし。ではこうしよう」ブンブクチャマガが言った。
「この道を次に来る奴が、ブンブクチャラマだったらブンラクチャガマへ、ブク
ブンチャガマだったらブランクチャガマにしよう」
 ブンブクチャガマとブンブクチャマガとブンブクチャママはブンラクチャガマ
とブランクチャガマへの三叉路で待ち続けた。
 ところがやってきたのはプンプクチャガマだった。
 ブンブクチャマガが言った。「あっ、あれはプンプクチャガマではないか。ブ
ンブクチャラマでもブクブンチャガマでもなくプンプクチャガマだとすると、ブ
ンラクチャガマにもブランクチャガマにも行けないではないか」
 ブンブクチャガマとブンブクチャマガとブンブクチャママはその場に座り込ん
だ。
「俺ねえ」ブンブクチャガマが言った。「よく考えると、ブランクチャガマの方
へ行くような気がしてきたな」
「俺もねえ」ブンブクチャママが言った。「よく考えると、ブンラクチャガマが
正しいと思うよ」
「ブランクチャガマだよ」ブンブクチャガマが言った。
「ブンラクチャガマだよ」ブンブクチャママが言った。
「よし。ではこうしよう」ブンブクチャマガが言った。「ここにブンブクチャラ
マがある」
 ホイッスルが鳴った。
 松本喜三郎が言った。「ブンブクチャラマはもう使いました」
「え?もう使ったっけ」ブンブクチャマガが言った。「えーと、じゃあね、えー、
そう、ここにフンフクチャガマがある。これが、プンプンチャガマになったら…
…」
 ブンブクチャマガは松本喜三郎を見た。
「プンプンチャガマはまだ使ってないよね」
 松本喜三郎は答えなかった。
 仕方なくブンブクチャマガは話し続けた。
「えー、プンプンチャガマになったら、ブンラクチャガマの方へ、フクフクチャ
ガマだったら、ブランクチャガマの方へ行こう」
「でも、フンフンチャガマだったら?」ブンブクチャガマが聞いた。
「フンフンチャガマだったら、ブンラクチャガマだ」ブンブクチャマガが言った。
「それは変じゃない」ブンブクチャママが言った。「フンフンチャガマだったら、
ブンラクチャガマじゃなくてブランクチャガマだろう」
「それを言うならね、ブランクチャガマになるのは」ブンブクチャガマが言った。
「フンフンチャガマよりむしろ、ブンブルチャガマだろう。……あっ!」
 ホイッスルが鳴った。
 松本喜三郎が指を一本立てて言った。
「ル」
 ブンブクチャマガが続けた。
「まあ、問題はブンラクチャガマかブランクチャガマかじゃなくて、我々の行き
たいのはブンガクチャガマなわけだから」
「じゅあ、とりあえずフンフンチャガマのときはブンラクチャガマにしとこう」
ブンブクチャママが言った。
 ブンブクチャガマとブンブクチャマガとブンブクチャママはフンフクチャガマ
を見守った。じっと見ていると、やがてフンフクチャガマはフンフンチャガマに
なった。
「フンフンチャガマだね」ブンブクチャママが言った。
「よし。ということは、ブンラクチャマガへ行こう」ブンブクチャマガが言った。
 ホイッスルが鳴った。
 松本喜三郎が指を二本立てた。
「ブンラクチャマガは、ブクブクチャマガの一形態です。行き先を言うならブン
ラクチャガマです」
「あーっ」ブンブクチャマガは頭を抱えた。
「では、ブンラクチャガマの方へ行こう」ブンブクチャガマは言った。
「まずはブンラクチャガマに行って、ブクブンチャマガを探そう」ブンブクチャ
ママが言った。
 ブンブクチャガマとブンブクチャマガは松本喜三郎を見た。
 松本喜三郎は手を大きく横に広げた。「セーフ」
「そうだな。ブクブンチャマガがあれば、ブンガクチャガマへの道がわかるかも
しれない」ブンブクチャガマが言った。
「あと、ブンブクチャガガが必要だ」ブンブクチャママが言った。
 ブンブクチャマガがうなづいた。「それと、ブンブクチャラマだ」
「退場!」
 松本喜三郎のホイッスルが鳴り響いた。
 ブンブクチャガマが感心したように松本喜三郎に言った。
「あんた頭いいね」
 主人公のブンブクチャマガが退場になったので、この話はここで
                               [完]



#1036/1336 短編
★タイトル (SGH     )  98/ 4/28   3:41  (109)
通勤電車創作日記  その1      沖田
★内容
                               【誘拐】

男は車を電話ボックスの前に停めると、エンジンをかけたまま電話ボックスに
入った。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け……)
男はゆっくりテレホンカードを差し込むと、震える指でプッシュホンのボタン
を押し始めた。頭の中で手順を確認しながら相手が出るのを待った。
(用件だけ伝える。10秒もあれば充分だ……そしてすぐにこの場から……)

Pururururu……   Pururururu……   Pururururu……

(くそっ早く出ろ!)

『はい、○○です』
「お宅の娘を誘拐した。身代金として五千万用意しろ。警察には知らせるな」
『うちには娘なんていません!』
ぷつっ。
「2時間後にまた……なに!?」
『ぷ〜っぷ〜っぷ〜っ』

男は数秒固まっていたが、受話器をフックに戻した。
(○○?  ちっ間違えたか……)
(落ち着け、娘をかっさらってから1時間も経ってない。まだ警察にも通報し
ていないはずだ……)
男は大きく深呼吸すると、テレホンカードを入れ直し、左手のメモを凝視しな
がらボタンを一つ一つ押し始めた。

『はい、☆☆です……』
「お宅の娘を……」
『……ただ今留守にしてます。御用の方は発信音の後にメッセージをどうぞ。
お急ぎの方は050−***−****へお電話ください。ぴぃ〜〜〜』

男は電話のフックを押し下げた。
(あのうちには専業主婦の母親とばばぁが居るはずだが……留守電じゃ声が残っ
ちまう。証拠を残す訳にはいかねぇ。)
(くそっ!)
男は数瞬考えたが、また同じ番号をプッシュした。

『……へお電話ください。ぴぃ〜』

(この番号は携帯、いやPHSか。医者のくせしてケチるんじゃねぇ。携帯く
らい持て、馬鹿野郎……)
男は言葉に出さずに毒突きながら乱暴にボタンを叩いた。

Pururururu……   Pururururu……   Pururururu……

『おかけになった電話は電波の届かない……』

男はフックを殴り付けた。
(仕方ねぇ。親父の病院に直接かけるか。だが、直接本人が出る可能性は低い。
多分受付けから呼び出しになる……まぁ、大丈夫だろう。まだ1時間も経って
ないんだし……)
男はくしゃくしゃになったメモをにらみ付けながら、予め調べておいた父親が
経営する個人病院の番号に電話をかけ始めた。

Puru…

「お……」
『ぴぃ〜ががががが……』

男は受話器をフックに叩き付けた。
(FAXだと!)
(待てよ。電話帳で調べた時にもう一つ電話番号が載ってたな。あっちか!)
男は足元の電話帳を取ると、めくり始めた。
(あった。これだ!)
男は電話帳を片手に、勢い良くボタンを押し込んだ。

Pururururu……   Pururururu……   Pururururu……

『はい、☆☆整形外科です。』
「△△と申しますが、院長先生をお願いします」
男は適当な名前をでっち上げながら言った。
『申し訳ございません。院長は急用で席を外しております』
「……何時頃お戻りでしょうか?」
『今日は戻らないとの事です。よろしければ御用件を承りますが?』
「いえ、結構です」

男は受話器をフックに戻すと、ため息をついた。
(待てよ、急用ってことは……自宅に戻ってるんじゃ……)
(10秒で用件だけ伝える!すぐにこの場から離れる!よっしゃ!)
男は、受話器を取るとテレホンカードが吸い込まれると同時にメモの番号を勢
い良く打ち込んだ。

『はっはいっ。☆☆ですが……』
「お宅の娘を誘拐した。身代金として五千万用意しろ。警察には知らせるな」
『待って下さい!娘は、幸恵は無事なんでしょうね!?』
「2時間後にまた連絡する」

(身代金の受け渡しが一番危険だが、なぁに、俺が考えたあの方法なら完璧だ。
これで借金を叩き返して、海外へ……)
電話ボックスから出ようとした男の動きが凍り付いた。
いつの間にか、目つきの鋭い男が二人、遮るように立っていた。
「ちょっとお話を聞かせてもらえませんか」
男の手にした手帳には、菊の紋章が輝いていた。

「逆探知ってのは今じゃ一瞬で済むんだよ。あとはいかに犯人をその場に留ま
らせるか、でね」
「きったねぇ……」
男はつぶやきは、誰の耳にも届かなかった。

夜のニュースでは、この誘拐事件についてほんの数十秒だけふれた。
『今日午後1時頃、東京都新宿区**で誘拐事件がありましたが、事件発生か
らおよそ70分という短時間で犯人が現行犯逮捕され、被害者の☆☆幸恵ちゃ
ん10歳は無事保護されました。』
『被害者のお子さんが無事だったのは、なによりでした。日本の誘拐事件の検
挙率は世界一だそうです。日本の警察は優秀ですからね……』

−終り−



#1037/1336 短編
★タイトル (SGH     )  98/ 4/29  17:59  (118)
通勤電車創作日記  その1(改訂版)      沖田
★内容
                          【誘拐】    作:沖田  珂圃    監修:永山  秀智

  男は車を路肩に寄せて停めると、エンジンをかけたまま電話ボックスに入った。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け……)
  男はゆっくりテレホンカードを差し込むと、震える指でプッシュホンのボタン
を押し始めた。頭の中で手順を確認しながら相手が出るのを待った。
(用件だけ伝える。10秒もあれば充分だ……そしてすぐにこの場から……)

Pururururu……   Pururururu……   Pururururu……

(くそっ早く出ろ!)

『はい、○○です』
「お宅の娘を誘拐した。身代金として五千万用意しろ。警察には知らせるな」
『うちには娘なんていません!』
  ぷつっ。
「2時間後にまた……なに!?」
『ぷ〜っぷ〜っぷ〜っ』

  男は数秒固まっていたが、受話器をフックに戻した。
(○○?  ちっ間違えたか……)
(落ち着け、娘をかっさらってから1時間も経ってない。まだ警察にも通報して
いないはずだ……)
  男は大きく深呼吸すると、テレホンカードを入れ直し、左手のメモを凝視しな
がらボタンを一つ一つ押し始めた。

『はい、☆☆です……』
「お宅の娘を……」
『……ただ今留守にしてます。御用の方は発信音の後にメッセージをどうぞ。
お急ぎの方は050−***−****へお電話ください。ぴぃ〜〜〜』

  男は電話のフックを押し下げた。
(あのうちには専業主婦の母親とばばぁが居るはずだが……留守電じゃ声が残っ
ちまう。証拠を残す訳にはいかねぇ。)
(くそっ!)
  男は数瞬考えたが、また同じ番号をプッシュした。

『……へお電話ください。ぴぃ〜』

(この番号は携帯、いやPHSか。医者のくせしてケチるんじゃねぇ。携帯く
らい持て、馬鹿野郎……)
  男は言葉に出さずに毒突きながら乱暴にボタンを叩いた。

Pururururu……   Pururururu……   Pururururu……

『おかけになった電話は電波の届かない……』

  男はフックを殴り付けた。
(仕方ねぇ。親父の病院に直接かけるか。だが、直接本人が出る可能性は低い。
多分受付けから呼び出しになる……まぁ、大丈夫だろう。まだ1時間も経ってな
いんだ、警察が居る訳はない……)
  男はくしゃくしゃになったメモをにらみ付けながら、予め調べておいた父親が
経営する個人病院に電話をかけ始めた。

『ぴぃ〜ががががが……』

  男は受話器をフックに叩き付けた。
(FAXだと!)
(待てよ。番号を調べた時にもう一つ電話番号があったな。あっちか!)
  男は足元の電話帳を取ると、めくり始めた。
(あった。これだ!)
  男は電話帳を片手に、勢い良くボタンを押し込んだ。

Pururururu……   Pururururu……   Pururururu……

『はい、☆☆整形外科です。』
「△△と申しますが、院長先生をお願いします」
  男は適当な名前をでっち上げながら言った。
『申し訳ございません。院長は急用で席を外しております』
「……何時頃お戻りでしょうか?」
『今日は戻らないとの事です。よろしければ御用件を承りますが?』
「いえ、結構です」

  男は受話器をフックに戻すと、ため息をついた。
(待てよ、ひょっとして自宅に戻ってるんじゃ……)
(10秒で用件だけ伝える!すぐにこの場から離れる!よっしゃ!)
  男は、受話器を取るとテレホンカードが吸い込まれると同時にメモの番号を勢
い良く打ち込んだ。

『はい。☆☆です』
「お宅の娘を誘拐した。身代金として五千万用意しろ。警察には知らせるな」
『ま、待って下さい!娘は、幸恵は無事なんでしょうね!?』
「2時間後にまた連絡する」

(身代金の受け渡しが一番危険だが、なぁに、俺が考えたあの方法なら完璧だ。
これで借金を叩き返して、海外へ……)
  電話ボックスから出ようとした男の動きが凍り付いた。
  いつの間にか、目つきの鋭い男が二人、遮るように立っていた。
「ちょっとお話を聞かせてもらえませんか」
  手にした手帳には、菊の紋章が輝いていた。

  男は弾かれたように車を振り返った。婦人警官が毛布に包まれた子供の様子
を確認しているところだった。

「逆探知ってのは今じゃ一瞬で済むんだよ。あとはいかに犯人をその場に留ま
らせるか、でね。最初の間違い電話、あれ、番号が違ってた訳じゃないんだ」
「きったねぇ……」
  男のつぶやきは、誰の耳にも届かなかった。

  夜のニュースでは、この誘拐事件についてほんの数十秒だけふれた。
『今日午後1時頃、東京都新宿区**で誘拐事件がありましたが、事件発生か
らおよそ70分という短時間で犯人が現行犯逮捕され、同時に犯人の車から被
害者の☆☆幸恵ちゃん10歳も無事に保護されました』
『被害者のお子さんが無事だったのは、なによりでした。日本の誘拐事件の検
挙率は世界一だそうです。日本の警察は優秀ですからね……』

−終り−

【後書き】
  UPしてから、フレッシュボイスで永山さんに色々教えていただいて、次回
は気を付けよう!と思っていたのですが、助詞を間違ってたのが発覚しました。
あと、UPする前に文章を削ったところの前後がやはり気になったので、反則
かもしれませんが、改訂版をUPしました。

  改訂前のやつを削除しようと思ったんですが、削除の仕方が判かりません。
  どの程度変わったか比較してもらうのも面白いと思うので、このまま置いて
おきたい気もしますが、いいでしょうか?



#1038/1336 短編
★タイトル (GVJ     )  98/ 5/ 1   9:20  (108)
お題>子守歌       青木無常
★内容
 永劫の呪詛にとらわれたその者どもにすれば、一瞬にもひとしい短い時間のでき
ごとだったかもしれない。
 獣たちは渇えていた。いつからそうだったのかはおぼえていない。そもそも、お
のれらがどのような運命に翻弄されていまの境遇におちいったのかさえ、さだかで
はなかった。ただ少数のものどもだけが、かつておのれらが人間と呼ばれる脆弱き
わまる存在であったことを、はじける寸前の泡沫のように記憶のかたすみにとどめ
ているだけだった。大半のものどもは、気がついたとき呪われた獣そのものとして
ただ、存在しているおのれを見出したのだ。
 世界は苦痛と混乱にみちあふれていたが、とりわけ獣らにとっては生そのものが
憎悪すべき枷にほかならなかった。外界にかげろうのようにあらわれては消えるさ
さやかな幸福や満足はかれらには無縁のものであるのみならず、そのかすかな芳香
がただそのみにくい鼻先をかすめるだけでも、おそるべき苦痛と憎悪と、そして絶
望とをかれらにもたらしてやまぬのであった。
 あふれだす呪詛と憎悪のいきつくどぶどろの底で獣どもはうめきつづけた。かれ
らを忌みきらい、そういった境遇にかれらを追い落とした人間どものもとへといつ
の日か舞い戻り、そののどもとにくらいついて思うさま苦痛を与えつつ永遠にでも
その魂をむさぼりつづける、ただそのときだけを夢みることが、かろうじてかれら
の底しれぬ飢餓にほんのわずかに、慰撫らしきものを与えてはいたかもしれない。
だが見果てぬ夢であることを、だれよりもかれら獣どもこそ知りつくしていた。
 そんなあるとき、不断の苦悶がうずまくかれらの世界に、いつのまにかひとりの
赤子が捨てられた。だれがそんなことをしたのか、あるいは、かれら獣どもに見と
がめられることなく、どのような存在にそんなことが可能だったのかはわからない。
そのようなことなど、どうでもよかったのだろう。ただかれらは、突如おとずれた
好機に、その呪われた脳髄を血一色に染めておどりかかった。
 だがふしぎなことに、群がる獣どものどの一匹として、赤子にその牙や爪をたて
ることはできなかった。がちがちと牙をならして迫る獣の、おそるべきするどい爪
があがくように飽きず薙ぎつづけたのは、ただ虚空ばかりであったのだ。
 まぼろしであるのかもしれない。認識は、呪われたる者どもに、以前にもまして
底知れぬ絶望をもたらす。血のよだれをまきちらして獣どもは地団太をふみ、決し
てとどかぬことを知ってでもいるかのように無垢に笑う赤子の姿にむけて、むなし
く群がるばかりだった。
 永劫の呪詛にとらわれた獣どもにすれば、一瞬にもひとしい短い時間のできごと
だったのかもしれない。永遠にもひとしい、一瞬。
 地をもがき虚空に牙をたてるばかりの獣どもが、みたされぬ飢えを血まみれの眼
にこめて見守るなか、赤子はゆっくりと、だが着実に成長していった。乳を与えら
れることも、ゆりかごにゆられることも、愛撫やささやきを受けることさえなくた
だ赤子はそこにありつづけるだけだったが、ガルガ・ルインのまわす車輪は着実に
世界を老いさせていく。そうしていつしか、赤子はすこやかな声をたててほがらか
に笑う幼女になっていた。
 娘が成長しても獣どもはあいもかわらずもがきまわり怒り狂い、みたされぬまま
ただ果てしれず膨張していくばかりの渇望に攪拌されつづけた。その者どものあさ
ましき姿を見て娘は無邪気に笑い、その笑いがますます獣どもを追いつめていった。
 そしてあるとき、なんの前触れもなく、不断の憎悪に力強くもがき苦しむばかり
であった獣どもの一匹に、かすかなかげりがおとずれる。
 どれだけ求めようと、決して手に入れることなどできぬのを、いまさらさとりで
もしたというのか。ふいにその獣は、こんこんとただひたすらわきだしつづけるば
かりであった怒りをついにとぎらせ――そのすきまに、悲哀をすべりこませたのだ。
 よわよわしく地に伏した獣があげた声音は、慟哭。
 その、おぞましくも哀切きわまる鳴声に幼女は気づき――そのとき初めて、ほが
らかに笑うばかりだった娘の目じりに涙が流れる。
 ウル・シャフラの吐息はつぎつぎに伝染した。群がりわめくだけだった獣どもへ。
いつしか絶望のどぶどろの底は、かつてそこには決して存在し得なかった悲しみに
深くみたされていた。
 慟哭は浄化をもたらす。呪詛も憎悪も、そしてあれほど深かった絶望すらも忘れ
られ、倦怠と、そして満足にもにた空虚とがおとずれた。
 獣どもは突然やってきた空白にぼうぜんと虚空を見やり――そんな獣どものさま
を見て泣きやんだ娘の顔に、やがてふたたび、おずおずと笑顔が戻る。
 だがもはや獣どもは、狂おしく牙をむく気力を失っていた。呆けたように娘を見
やり、その笑顔の意味をいぶかしむようにただ首をかしげる。
 泡沫のごとき時はさらにすぎゆく。幼女は成長して少女となった。いつもふしぎ
そうな顔をして、みにくい相貌の獣どもをしげしげと見まわしては、太陽のように、
花のようにくすくすと笑った。
 その笑顔が、獣どもの忘れ去られていた記憶のかけらを刺激したのかもしれない。
かつてそうであったかのごとく人の姿と魂をとり戻すことはついになかったが、そ
れでもかれらの内にどすぐろい暗黒の渇えとはべつの、あわく、はかない飢えが芽
ばえはじめた。
 それを言葉にすれば、まぼろしではなく少女がほんとうにそこに存在して、息吹
や感触をかれらにほんのすこしでもわけ与えてくれればいい、といったものになっ
たかもしれない。
 望みはかなえられた。奇跡はおとずれた。何者の手によってかは、さだかではな
い。ただそれはおとずれた。
 少女のほがらかな笑い声は肉声となってどぶどろの底の障気を吹き払い、世界の
果てのその場所にそれまでは決して存在し得なかったものが、さらに新たにおとず
れる。
 それを平安と名づけてもいいだろう。
 それを思い出したかれらは、もはや獣どもではなくなってすらいたのかもしれな
い。
 ともあれ、少女はその者どもの王女となり、そしてさらに時は加速する。
 そして終局の到来が。
 憎悪と呪詛の吹きだまりであることをやめたその場所に、生きた人間がおとずれ
るのは必然といってよかっただろう。だがおとずれた者が見目うるわしき若者では
なく、そのときが少女がたおやかで美しい乙女となったときでなかったとしたら、
運命はもうすこしちがった顔を見せていたにちがいない。
 乙女と若者とはとうぜんのように恋におち、かつて獣であった者どもは、ひさし
く忘れていたどすぐろいものがおのれらの胸の底にひっそりとしのび寄る気配に、
かすかなおののきをおぼえる。
 それでもかれらは、静かに、おだやかに、乙女と若者が笑いあい、恋をかたらい、
くちづけをして狂おしく求めあう姿をただ見守りつづけた。
 だがいつのときも、若者は旅立つ。あの山のむこうにあるかもしれない何かを求
めて、ただ茫漠と。
 けだるい眠りからさめたとき、かたわらにいるはずの恋人がいなくなっているの
に気づいた乙女は、泣き叫びながら想いびとを求めてさまよい歩き、やがて力つき
て病に伏せる。
 そして時は波濤のようにおしよせる。永劫の呪詛にとらわれた獣どもにすれば、
一瞬にもひとしい短い時間のできごとにすぎなかったのかもしれない。
 娘が悲しみのあまり塵となってふたたびまぼろしのむこうがわに消えていったと
き、ふたたび世界の果てのその場所を絶望がおおいつくした。
 娘をその場所に配したのは、憐憫の神ユール・イーリアであったか。あるいは、
ときに残虐な愉悦を求める運命の神アフォルであっただろうか。
 慟哭が呪詛と憎悪に戻るまでには、永劫を呪われたるかれらにしてみれば一瞬に
もみたない刹那のできごとに過ぎなかっただろう。さらなる底深き業を背負った者
どもは、以前にもまして凶暴無慈悲な新たなる獣へと転生し、ふたたび呪詛と憎悪
をばらまきはじめる。
 やがておとずれる無慈悲の王をかれらが迎えるとき、その憎悪のむけられる相手
はもはや人間のみにはとどまらぬのだ。世界をつかさどりしろしめす神々の失墜の
萌芽は、このときに芽生えたのだという。
                                 ――了




#1039/1336 短編
★タイトル (BYB     )  98/ 5/ 7  21:45  (117)
お題>ショータイム     つきかげ
★内容

(さあ、ショータイムです。存分にお楽しみ下さい)

  え?何ですって?
  そう急がないでよ。どうせ暇なんでしょ。
  ねえ、何て言う名前だったけ。ジュリ?ふうん。
  これは何?水晶球?これで占うわけね。
  ねえ、水晶って霊力があるって本当?あっそう。
  判ったわよ、話を始めるわ。
  私の話じゃないの。友達の話。とても親しい友達。
  彼女はね、好きな人がいたの。
  とても、とても好きな人。
  本当に、好きだったのよ。
  本当に、とっても好きだったの。
  いいえ、愛しているといったほうがいいのかしら。
  愛していたの。とてもとても愛していたの。
  彼にはもちろん告白したわ。
  とても好きだって。
 愛しているって。
  でも、彼は相手にしてくれなかった。
  彼女のことを愛することはできないって彼はいったの。
  でもそんなのは関係なかった。
  だって、とても愛していたから。
  いつもそういっていたわ。
  あなたが愛してくれなくても関係ない。
  私はあなたを愛し続ける。私をあなたの犬とでも思ってくれればいいって。
  彼女はそういっていた。
  私はあなたの為ならなんでもできる。どんなことでもできるって。
  そうしたら彼がある日いったの。
  ひとつお願いがある。一夜を共に過ごして欲しいって。
  とても嬉しかった。愛に応えてくれたのでは無いと判っていたけれど、
  たとえ弄ばれるだけと判っていても、それでもよかった。
 それで充分だったの。
  彼は山奥のある山荘に来るようにいったわ。
  そこは人里離れた場所だったけど、とても大きなお城のような建物があったわ。
  まるで西欧のお伽噺にでてくるような立派なお城。
  彼はその建物のことをこう説明してくれた。もともとテーマパークのシンボル
  となるはずの建物だったけど、バブルの崩壊でテーマパークのプロジェクトは
  消え去って、この建物だけが残ったって。
  そこで執事のような人に案内されて彼のもとにいったわ。
  召使いのような人がいっぱいいて、彼は忙しそうに指示を出していた。
 そして、彼は、こういった。
(さあ、これからショーの支度を一緒にしよう)
  その後は目が眩むほど慌ただしい時間だったわ。
  何人もの女の人が来て、服を脱がすととても素敵なドレスを着せてくれたの。
  そう、お姫様が着るようなドレスよ。純白のとっても手触りがいい生地なの。
  ホイップされたクリームみたいに柔らかくて、月の光のように輝いてるの。
  その前にとても素敵な匂いのする香料に満たされたお風呂にも入った。
  とてもたくさんの花の中に浸されているような気持ちになったわ。
  そして何人もの女の人がメイクアップしてくれたの。
  綺麗に着飾って素敵にお化粧した自分の姿を見た時、まるで自分が大輪の花に
  なったような気がしたわ。
  素敵だった。何もかもが。とても楽しく晴れやかな気持ちになったの。
 全てがきらきらと輝いて見えた。
  夜になると、豪華なリムジンが何台もお城に来だしたの。
  着飾った紳士や淑女が、お城に入って来たわ。
  彼は言ったの。
(みんな、ショーを見に来たんだよ)
  そして、みんな大きなホールに集まりだした。
  無数の宝石が散りばめられたような豪華なシャンデリアの輝きの下で、
 見たこともないような料理が並んでいたわ。
  そこにいる人たちはみんなお洒落でセンスがよくて、美しく着飾っていて、
 なぜか仮面付けていたわ。
  そして彼にエスコートされてそのホールへ入っていった。
  スポットライトを浴びてみんなの注目を浴びたの。
  賛嘆の声がホールを包んだわ。
  お姫様のように白く美しいドレスを来てホールの真ん中まで導かれていった。
  そこには一段高くなった円形の舞台があった。
  そこに上がって自分が世界の中心に捧げられた花のように感じたの。
  そして、その時天井から鉄の檻が落ちてきた。
  鳥のように鉄の籠に閉じこめられた時、彼がこういうのが聞こえたわ。

(さあ、ショータイムです。存分にお楽しみ下さい)

  彼は一頭の犬を連れてきた。黒くて大きく獰猛な犬。
  彼はその犬を檻の中に解き放った。その黒い犬は私に噛みついた。
  その犬は私を食いちぎった。
  その犬は私の胸を食いちぎったの。
  その犬は私の足を食いちぎったの。
  その犬は私の腕を食いちぎったの。
  その犬は私のお尻を食いちぎったの。
  その犬は私のお腹を引き裂いて、内蔵を食いちぎったの。
  気が付くと、私はその光景を眺めていた。
  楽しげに、上品に、穏やかに笑いながら私が喰い殺されていくのを眺めている
  人たちと一緒に、私はその光景を眺めていたの。
  私は不思議に思った。
  黒い犬に殺されている彼女は誰?
  それを眺めている私は誰?
  きっと、彼女は私の友達なんだわ。とっても親しいお友達。
  私はそう思った。だって私は生きているんですもの。
  そう。
  そうね。
  あなたのいう通りだわ、ジュリ。
  私は死んだのね。
  では、今いる私は誰?
  え?
  鏡ですって。
  これを見るの?
  あら。これは彼だわ。
  鏡の中にいるのは私の愛している、そして私を殺した彼。
  これはどういうこと?
  え?
  ソウルイーター?
  判りやすく言ってね。私あたま悪いの。
  そう、彼が私の魂を取り込んで自分の一部にしたの。
  じゃあ、私は彼の一部になれたのね。
  よかった。
  とても嬉しいわ。
  だって私、とても彼を愛しているんですもの。
  私が彼の一部になれたなんて、こんな素敵なことは無いわ。
  だって、とても愛しているんですもの。
  とても。
  とても。
  愛している。
  とても。
  とっても。




#1041/1336 短編
★タイトル (ARJ     )  98/ 5/12  17:38  ( 72)
お題>子守歌  みのうら
★内容

 駅に着いたら、やっぱり雨が降ってた。

 やることなすことうまくいかないってのじゃないけど、最近運が悪いってよ
り、気合いが足りないのかな。あんまり占いとか信じてないけど、隣の席の子
に雑誌見せてもらったら今月の天秤座は最悪。一気にやる気なくなるよね。
 まあ結婚してからこっち、うまくいったことなんてなーんにもないもん。し
なきゃよかったよー、結婚。母性愛なんて、嘘だよね。父親どもが勝手に作っ
た幻想。女ばっか働かせようと思ってさ。第一あの子、あたしよかダンナのが
絶対好きだし。
 仕事して、帰ったら子供引き取って夕飯作って、風呂わかして、なんであた
しだけこんなに働くの? ダンナは仕事しかしてないのに。あたしは時給もら
ってもいいくらい働いてるよ。母さんがいつまでうちの子預かってくれるかも
わかんないし、仕事やめたらやっぱブラウス一枚買えない人生になっちゃうの
かな。それだけはイヤ。
 駅のそばのスーパーで、卵とほうれん草とにらと、それからいろいろ買う。
火曜日は特売日だから。混んでるから大変だけど、でもミヤザキくんがいるか
ら楽しい。
 あと邪魔者は四人。ミヤザキくんまであと三人。細かいものいっぱい買った
から、いつもより時間かかるしね。前のおばさん、カゴゆがむほど野菜つめて
んの。あれじゃ漬け物になっちゃうわ。やーだ、魚のパックを一番下に入れる
バカがどこにいる〜ってここか。あーあ、もうちょっとアタマ使えよなあ。
 あと二人。ミヤザキくんは背が高くて、ちょっと猫背なのはレジが低いから。
高校んときつきあってた子に少し似てる。声は高いかな。鼻にかかった声。は
っぴゃくななじゅうえんのおかえしですぅ〜なんて変な声。
 あたしの番が来た。ミヤザキくんがあたしのさわった牛乳や、卵や、ほうれ
ん草を隣のカゴに移してる。あたしは時間が気になるふりをして、向こうの時
計を見る。ミヤザキくんばっかり見ないの。だって恥ずかしいじゃん。向こう
も迷惑かもしんないし。
 お金を渡すときと、お釣りをもらうときだけ、ちょっとだけ目が合う。ミヤ
ザキくんの目は茶色い。色が白くて、ウサギみたい。小さな名札に「宮崎」っ
て書いてあるけど、あたしのミヤザキくんはレシートに打ち出された「担当:
ミヤザキ」なのよね。

 買い物袋を両手に下げて、バックは幼稚園がけにして、ぎしぎしのバスに乗
る。同じ団地でみんな降りるのに、痴漢してくるヤツがいるって信じらんない
よね。あーバカバカ。わざとらしく揺れたりしないでよ! 卵が割れるでしょ。
ミヤザキくんはおとなしそうで、きっと痴漢なんかしないよ。うちのダンナは
しただろうなー、きっと。今もしてたりして。あーヤダ。娘になんていいわけ
するつもりかしら。
 ひとしきりあたしの腰やらお尻やらさわったあげく、あたしが動かなかった
もんだから胸に手を出してきた。ばっかでー、揺れて女の胸につかまりました、
とか言うつもり? 
 でも待ってたんだ、わざわざ戸口近くのこの位置。荷物置くスキマがあるか
ら、ここに来ると絶対来る痴漢。会社の子に教わった方法で、思い知らせてや
る。
 ヤツの手があたしの右胸をぎゅ、って掴んだ瞬間、あたしは子供用の小さい
ホチキスをすごい勢いで二回、ヤツの手に打ち込んだ。あーっ、とか何とか悲
鳴あげてたけど、ちょうどカーブでよかったじゃん。痴漢したらホチキス喰ら
いました、とか言わなくて済んでな。次はよく切れないカッターにしよう。錆
びたやつ。ちょうど会社の机の間から出てきたんだよね。通販で買った文具セ
ットに入ってた、小さいやつ。あ、ホチキスも針、錆びたのにすればよかった
んだ。くやしい。
 ヤツは団地の一駅前で降りた。薬局があるからだと思うけどね。あたしはち
ゃんと自分の駅で降りたけど、なんとなく怖くなって走って帰った。子供は母
さんに連れてきてもらおう。玄関で電気付けたら、胸のとこに血のシミがあっ
た。イヤだけど、洗って落とそう。捨てられないもん。

 夕飯食べて、子供寝かせて、ダンナも隣で寝てるのに、あたしはいつも眠れ
ない。今日も明日と同じ一日だ。明日はミヤザキくんバイト休みの日だから、
いつもより悪い日。でも天秤座最悪なんだから、今月は仕方ないよね。
 ミヤザキくんミヤザキくん。あたしの家計簿には、彼の名前が入ったレシー
トが、どんどん積み重なってる。下の方はもう黄色くてかすれてる。ダンナは
家計簿なんてまともに見ないから、きっとミヤザキくんには気づかない。
 これって浮気かな。気持ちだけでも浮気? でもダンナにだって本気になっ
たことないしなー。ミヤザキくんとえっちしたいって思ったこともないし。で
もミヤザキくんいいよね。ミヤザキくんミヤザキくん。
 ミヤザキくんの青いエプロンがまぶたの裏に広がって、ようやくあたしは眠
りにつける。あーあ、次の土曜日草むしりだっけ。自治会のオヤジ、やっぱ手
に包帯でもしてくるんかなー。思ったより傷深いみたい。ざまあみろって、女
房になんていい訳すんのかな……あの傷。




#1042/1336 短編
★タイトル (PRN     )  98/ 5/16  20:49  (141)
お題>ショータイム    ジョッシュ  
★内容

「今日は学校を休みなさい」
 カロリー制御された朝ごはん「カロリー・フレンド」を不味そうに食べていた
父が突然そう言った。その一言にそれまでぼんやりとテレビの「銀河ニュース・
朝はどこから」を見ていた母が緊張するのが分かる。
 トモコは手にしたビタミン剤をテーブルにおいて「はい」とかしこまった。
「そう言えば、地球防衛軍江ノ島ベースの花火大会は今夜だったわね」
 母が急に思いあたったかのようにわざとらしいと惚けた顔で言う。壁に貼られ
た特大ポスターは毎日のように見ていたはずなのに。
「うむ。そこで特別室を予約しておいた。相手はわたしの後輩、地球防衛軍江ノ
島ベース勤務のカンノだ」
 父は重々しく宣言した。トモコの見合いの相手だった。
「あらあ、地球防衛軍ということは、国家公務員じゃないのぉ。素敵じゃなーい」
 母が今度はミーハーな声をあげた。

 トモコの父は地球防衛軍の一期生である。もう既に引退したが、宇宙全人類の
ふるさとである地球を守るという仕事に誇りをもっており、一人娘の結婚相手は
なんとしても地球防衛軍の男と決めていた。
 父の言うカンノという男をトモコはまったく知らない。母はパイロットだと言
うが、それがどういう仕事なのかイメージが湧かなかった。
 今、宇宙のあちこちで武力紛争が起きていることは「銀河ニュース」を見てい
れば知識としてはいってくる。しかし、自宅と学校を往復するだけの毎日は、ま
ったく平穏で退屈なくらいだった。銀河ニュースの紛争はトモコにとっては別世
界の出来事でしかなくて、地球防衛軍と言ってもぴんとこなかった。
 ただ、だからといってトモコはカンノとの見合いが嫌ということではない。父
が選んだのなら間違いのない相手だろうし、トモコも15歳になっていた。相応
の結婚相手を定めて繁殖活動に入る。
 そんな時期になっていた。ただそれだけだった。

「花火大会には浴衣よね」
 一番はしゃいでいるのは母だった
 サイバー・ショッピングで浴衣を買い、ヘア・オンデマンドを予約して「アン
トニオさん」と指名した。
「アントニオさんはとっても上手なのよ。トモコの髪は見違えるようになるわ」
 母のうきうき声。
「こんな時じゃないと、髪のカットなんてできないから」
 トモコは頭をすっぽり覆っている減菌キャップの上から、耳の上に僅かに生え
たヘアを確かめた。

 江ノ島へは、最寄り駅から電車で出かけた。磁気の反発力で走る無音のオダキ
ューは、家族3人をあっと言う間に江ノ島海岸へと運んでくれた。江ノ島の上、
舞い上がった塵で年中真っ暗な空には、前時代的なイルミネーションが輝いてい
る。
「祝・地球防衛軍江ノ島ベース・満25周年」とか「地球防衛軍・万歳!」とか。
 空から見物するつもりらしい無重力型ヤカタブネが由比ケ浜上方にひしめき合
っている。
「馬鹿ものどもが。花火というのは地上から鑑賞するものだと平成の昔から決ま
っておる」
 父は特別室の展望窓越しに吐き捨てるように言った。

 特別室に現れたカンノは普通の男だった。少なくともトモコにはそう見えた。
ピンク色の制服には金銀のバッジが光っている。無口なカンノに代わって、父が
一々それらを説明してくれた。それらはカンノの地球防衛軍における活躍の印だ
った。
 しかし、残念ながら狂喜する母ほどにはトモコには感銘を与えなかった。地球
防衛軍について、何も知らないトモコだから宜なるかな、であった。
 それよりも、カンノが普通の男だったことにがっかりした。
 最近、トモコの学校では「マルチ遊び」が流行っていた。男は女の、女は男の
生理的機能を埋め込んで、気分によって自分の好きな方を選んで遊ぶというやつ
だった。もともとは深刻な出生率の低下対策として、繁殖機能を高めるために開
発されたものらしいのだが、最初は子供たちのままごと遊びとして爆発的に売れ、
いつのまにか学生の中では必須アイテムになっていた。
 カンノにはマルチのサインがなかった。ひょっとしたらマルチ遊びそのものを
知らないかもしれない。
 カンノはろくにトモコの方を見ようとはせず、父と熱心に話し込んでいた。も
ちろん、トモコの珍しい浴衣姿についても何も言わなかった。
 こんな男は嫌だなとトモコは思った。

 やがて、何の前触れもなく花火大会が華々しく始まった。
 上空から散る白や青の火花、江ノ島ベースの上で弾ける赤い光り。斜めに鋭く
走り、素早く回転しながら上昇してゆくレーザー光線。予算で苦しんでいる地球
防衛軍にしては、派手な花火大会だった。
 トモコは母と展望窓から眺めていた。22世紀になったと言っても、これほど
のまばゆい光景はなかなかお目にはかかれない。
「危ない! その窓から離れて!」
 あんぐりと口を開けて、花火大会に見とれていた母子二人に向かって、カンノ
が叫んだ。窓の向こうから見慣れない球形のものがかなりの速度で近づいていた。
母子二人は足がすくんで動けない。
 球形のものは窓にぶつかると共に爆発して、特別室が大きく揺れた。
「ちょっと花火大会にしちゃ、やりすぎなのじゃないかね」
 父がカンノに話しかけたとき、ウーウーウーと第1種空襲警報が鳴り響いた。
「これは銀河反乱軍の攻撃です。カンノ直ちに出陣します」
 カンノはそれまでの穏やかな顔から、見事に彫りの深い戦闘用の厳しい顔にな
り、直立不動で敬礼した。くるりと180度体を回すと、駆け足で特別室を出て
いく。
 トモコはカンノの見事な変身が気に入った。
 −−マルチもいいけど、あんなのもいいかな−−

「花火大会に来て、地球防衛軍の出撃が見れるとはラッキーね」
 母はのんきなものだ。敵軍の登場は花火大会を盛り上げるための演出だと思っ
ている。父も嬉しそうにトモコの手をとった。
「見ていなさい。これからがショータイムだ。噂に聞いた地球防衛軍の華麗な戦
いぶりを。おまえの婚約者・カンノの活躍を、しっかりと見るんだ」
 真っ暗な空には色とりどりの飛行物体が目まぐるしく飛び交っている。こんな
にたくさんいたら、どれが味方でどれが敵だと分かるのだろうか。トモコにはも
ちろん区別は付かない。
「ほーら、あれが地球防衛軍の迎撃隊だ」
 父が興奮している。
 江ノ島ベースの上空に豆粒のような編隊が現れたかと思うと、一斉に花火のよ
うな光線の中に飛び込んできた。豆粒軍団はひとかたまりになって、さっきから
特別室目掛けて執拗な砲撃を繰り返している敵軍らしき一団に向かっていく。防
衛軍はさっと敵軍の顔面にまで迫ったかと思うと、一気に反転して退避する。
「あれが地球防衛軍の最新戦術、ダッチロールだ。究極の専守防衛術として私が
編み出した。全宇宙で特許公開されているんだぞ、すごいだろ」
「あの、お父さん」と母。「地球防衛軍は花火は打たないのですか」
 トモコも同感だった。地球防衛軍のほうからはまったく応戦がない。
「あれは花火ではないぞ、母さん。敵が使っているのは本物の武器だ。だけどな、
地球防衛軍は地球を守るためのものなんだ。例え、敵と言っても決して攻撃して
はならない。これは平成の昔からそう決まっておる。あくまでも、武器を使わな
い平和的な解決が第1なのだよ」
「そうすると父さん、地球防衛軍は一体いつまで、ああやってダッチロールを続
けるんですか」
「そうじゃな。敵があきらめて帰るまで、だな」
 父は重々しく頷いた。
 その間にも、江ノ島ベースの上空で地球防衛軍は、行っては戻り、突っかけて
はさっと逃げるという華麗な専守防衛を展開していた。敵軍もそろそろうんざり
しかけたらしい。火花の上がる頻度がだんだん落ちてきた。

 それまで腕を組んで戦況を見つめていた父が突然
「あ、カンノ、ばか」
と呟くように言った。
 江ノ島上空を、きりもみ状態で墜ちてゆく地球防衛軍機らしいものが見える。
「あ、カンノ、撃たれてしもうた」
 父があんぐりと口を開けて、見送っている。
「あ、あ、そのような無体な」
 母は髪を振り乱して喚いた。
 最後っぺのような敵軍の一発が、偶然にもカンノの操る軍機に命中してしまっ
たらしい。
 カンノの地球防衛軍機は漆黒の江ノ島海岸に墜落した。

 帰りのオダキューで、母は落胆を隠さなかった。父は腕を組んだまま、虚空を
睨んでいる。気まずい沈黙だった。トモコの見合いはカンノの戦死であっけなく
破談になってしまった。
「トモコ、明日は学校へ行きなさい」
 父が唸るようにやっとそれだけの言葉を吐き出した。
 さすがに母の方が立ち直りは早かった。がばっとトモコを抱き寄せると耳元で
こう囁いたのだ。
「まあ、いきなり戦争未亡人にならなくて、不幸中の幸いよね」
「はい」

(おしまい)



#1066/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 6/ 1   0:32  (199)
大型茶道小説  「利休の畳」  ゐんば
★内容

「弥三郎。今日呼んだのは他でもない」
 豊臣秀吉が天下を取り、いくさもしばらく落ち着いたある日、松本喜三郎は家
臣の杉野森弥三郎に語りかけた。
「はい」
「うむ。実はこのたび我があるじ織田有楽斎殿が、関白殿下の命により千宗易殿
の茶室を作ることになった」
 千宗易とは言うまでもなく、後に千利休と呼ばれることになる茶の湯の開祖で
ある。織田有楽斎は信長の弟で、本能寺の変の後は秀吉に仕えていた。
「茶室……とは?」
「茶の湯をする部屋らしい。そんなわけで我が松本家が有楽斎殿より茶室の畳を
用意するお役目を賜ったのだ」
「かしこまりました」弥三郎は平伏した。「宗易殿の茶室にふさわしい畳を、ご
用意いたしましょう。で、畳はいかほど必要で。千畳?二千畳?」
「いや」喜三郎はそっけなく言った。「二畳」
「に……二畳?」弥三郎は目を丸くした。「二畳では親子三人寝るのは無理かと」
「いや、別に、親子三人寝なくてもよいのじゃ。茶の湯をするのだからな」
「それにしても狭い」
「うむ、わしも不思議に思って有楽斎殿に聞いてみたのだが、どうも極限まで切
り詰められた空間のなんたらというやつらしい」
「かしこまりました」弥三郎は平伏した。「ではこれぞ極限まで切り詰められた
空間のなんたらという畳を早速ご用意いたします。では」
「あ、こりゃ、待て」喜三郎は早くも下がりかけた弥三郎を呼び止めた。「その
畳だがな、ただの畳ではいかんのだ」
「もちろんただの畳なぞは使いません。金を払います」
「当たり前じゃ。そうではなくて、ちょっと変わった畳なのじゃ」
「と申しますと」
「穴の空いた畳が必要なのだ」
「はあ?そのような欠陥畳を、宗易様にお使いいただくわけには」
「そうではない。ほら、茶の湯となれば湯を沸かすであろう」
「沸かしますな」
「その湯を沸かすための炉を、部屋の一角に作るのじゃ」
「はあ」
「そのための切り欠きじゃ」
「はあ……」
「わかってないな。いいか、茶の湯となれば湯を沸かすであろう」
「沸かしますな」
「そのために部屋の中に炉を作るのだ」
「作りますな」
「部屋の中に炉があると言うことは、その上には畳は置けないであろう」
「置いたら焦げますな」
「だから、その分切り欠きを作った畳を置くのじゃ」
「はあ。なんとなくわかりました」
「わかったか」
「はい。しかしそのような畳は見たことがござらん」
「わしだってないわ。しかしそういう畳をあつらえねばならん。よろしく頼む」
「かしこまりました」

「喜三郎殿」
「うむ」
「さっそくあのあと越後屋を呼びましてくだんの畳あつらえるよう申しつけまし
た」
「うむ、ご苦労」
「で次の日に越後屋が来て申しますには、畳職人に申しつけましたところ切り欠
きといってもどのような切り欠きを作るのか、丸いのか四角いのか細長いのか平
べったいのか、そこのところがわからないとどうにも作れないとの申しようにご
ざいます」
「それもそうだな。畳に炉をつけるのだから、やはり炉の形に穴が空いているの
ではないか、どうだろう」
「私に聞かれても困ります」
「でも、普通ああいうものは真四角かなにかであろう」
「真四角にしても、その穴が畳のどの辺に空いているのでございますか」
「そうだなあ。では有楽斎殿に聞いて参ろう」
「よろしくお願いいたします」

「弥三郎」
「はっ」
「有楽斎殿が宗易殿に聞いてこられたには、やはり穴は真四角だそうだ」
「なるほど」
「で、畳の右上の隅に空くそうな」
「心得ました。早速越後屋に伝えて参ります」
「よいな、右上の隅だぞ」

「喜三郎殿」
「なんだ」
「越後屋がまた訪ねて参りまして、隅の穴というのは隅ぴったりに作るのか、そ
れとも少し離して作るのかと畳職人から質問があったそうです」
「というと、どういうことじゃ」
「つまり、畳の一つの隅が完全にえぐれた形のものを作るのか、それとも畳はや
っぱり長四角で、中に四角の穴が空いたものを作るのかと言う話なのですが」
「ふむ。えぐれた形と言うと、どういう形じゃ」
「えー、例えて言うと、そうですね、煎餅をかじったような形」
「歯形が丸く残るではないか」
「ですから、歯並びが四角い人がいたとして、その人が煎餅をかじったような形」
「なんだかよくわからんが、言いたいことはなんとなくわかった。それとあと一
つは」
「えー、例えて言うと、えー、内側から煎餅をかじったような形」
「内側から煎餅がかじれるか」
「まあ、かじれませんが、かじったとして」
「ふむ。ふむ……ああ、なるほど、そういうことか」
「おわかりいただけましたか」
「そりゃあ畳だもの、長四角であろう」
「というと、内側から煎餅をかじったような形」
「じゃないかなあ。と思うよ」
「本当ですか」
「ああ、じゃあ、有楽斎殿に尋ねてみる」
「よろしくお願いいたします」

「弥三郎」
「はい」
「こないだのはわしの間違い。悪かった。やはり、右上がえぐれた形だそうだ」
「といいますと、煎餅を外側からかじった形ですな」
「そう。で、炉の大きさは一尺五寸四方だそうな」
「一尺五寸四方」
「さように越後屋に申し伝えい」
「ははっ」

「喜三郎殿」
「なんだ」
「畳の形の件越後屋に伝えましたところ、これで仕事にとりかかれるとのことで
たいそう喜んでおりました」
「うむ。そうか」
「いろいろお手数をおかけいたしました」
「いやいやそなたこそご苦労であった。あとは畳ができるのを待つだけだな」
「まことに」

「喜三郎殿」
「うむ?」
「実はさきほど越後屋が参りまして、畳職人から質問があったそうで」
「うむ」
「畳のへりをどうしようかとの問いかけにございますが」
「へり?」
「つまり普通ですと畳の長い方の二箇所にへりが付くのですが、今回の畳は変形
ゆえいかが取り計らいましょうとのことで」
「付ければよいではないか」
「いやそれはもちろん付くのですが、普通の畳ですと縁が四つありますな」
「あるな」
「ところがこの畳は切り欠きがありますから、縁が六つになりますな」
「ん?ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、いつ、なるほど」
「で、畳職人の申しますには、へりは畳の目と交わる向きに付けるのだそうです」
「ふむ」
「ですのでこの場合も切り欠きによってできた縁のうち、畳の目と交わる方に付
けるのがよろしいのではないかとの話なのですが」
「うむ。それでいいのかなあ」
「いかがでしょう」
「……うむっ」
「はっ」
「有楽斎殿に相談して参る」
「ははっ」

「弥三郎」
「はい」
「有楽斎殿に相談したところ、有楽斎殿も迷っておられた」
「はあ」
「とどのつまり、宗易殿に尋ねてみるとの仰せであった」
「さようですか。では越後屋にそう申して参ります」

「喜三郎殿」
「なんだ」
「越後屋から、例の畳のへりの件はどうなったかとのお尋ねがありましたが」
「おおそれそれ。有楽斎殿に宗易殿の意向を尋ねたところ、宗易殿もそれでよい
のではないかとおっしゃっているとのことであった」
「さようですか」
「そのように越後屋に答えてやれ」
「かしこまりました」
「いや、今度こそこれで畳ができるのを待つばかりだな」
「まことに」

 ようやく茶室もできあがりが近づき、いよいよ畳を入れる日になった。
「喜三郎殿、喜三郎殿」
「どうした」
「えらいことです」
「だからどうした」
「畳が入りません」
「なに?」
 大急ぎで茶室に駆けつけてみると、職人が小さなにじり口から畳を入れようと
四苦八苦している。
「あの、なんで、この部屋はこんなに入り口が小さいのでしょうか」
「入り口の話なぞ聞いておらんぞ」
「とにかくこれでは畳が入りません」
「ちょっとまて、有楽斎殿に尋ねてくる」
「ははっ」

「あのな、有楽斎殿に聞いたら」
「はっ」
「それが宗易殿おっしゃるところのわびさびだそうだ」
「なんですかそりゃ」
「とにかくなんとしてでも畳を入れろ。えーいそこの障子をはずしてみろ。そし
てそのまま斜めに、この際障子の桟の一本や二本壊してもかまわん、後で直しと
け。よしそのまままっすぐ、もう少し右だ、ほら、入ったじゃないか」
「喜三郎殿、畳が入りません」
「入ったじゃないか」
「いえ、床に入りません」
「なにっ?」
 見ると畳の入っていない床には炉が右上に据え付けられており、畳には左上に
切り欠きがある。
「これはどうしたことじゃ、あれほど右上を切り欠くのだと申したでは……ちょ
っとまて、畳ってどっちが上なんだろう……どっちだ。長いほうか、短いほうか」
「さあ」
「それがわからんことには有楽斎殿に報告もできん」
「確認して参りますっ」

「喜三郎殿っ」
「うむっ」
「越後屋を通じて畳屋に確認したところっ」
「うむっ」
「平べったいほうが上だそうです」

                              [完]



#1067/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 6/ 8  19: 1  (138)
大型ミュージック小説 「TOP10カウントダウン」 ゐんば
★内容

 皆さんこんばんはーお元気ですか梅田手児奈です。毎週ごっきげんなhit
chartをお送りする「TOP10カウントダウン」、あなたの一押しの曲は
さあ今週何位でしょうか。
 それではさっそくお届けしましょう今週の「TOP10カウントダウン」、ま
ず今週の第十位は。
 第十位、先週の六位からRank down、TAWASHIの「魚の骨」で
した。バラエティにドラマに大活躍中のTAWASHI、リーダーの霧島君はた
だいまニューヨークでダンスのレッスン中だとか。では聞いてください今週の第
十位TAWASHI「魚の骨」。

  なぜか朝からイライラ にらむ視線がピリピリ
  肩に手触れただけで 噴火しちゃいそうな君
  「ほっといてよ」とサラサラの 髪を振り乱し怒るのさ
  カルシウム足りないんじゃない?
  Hey!Hey!Hey!Hey!
  魚の骨かじってるかい
  牛乳飲んでるかい
  バリバリ魚の ゴリゴリ骨かじって 微笑んでおくれよ
  僕はカルシウムになれるさ

 第九位です。第九位は先週の四位から後退、ペペロンチーノでした。メンバー
のRIKAはもうすぐ高校卒業、短大目指して頑張ってるとか。では今週の第九
位、ペペロンチーノ「魚の骨」。

  Bone of fish! 頭から食べようなんて
  Bone of fish! 思ったらダメさ
  だって私は骨が付いてる
  Bone of fish! むしゃぶりつこうなんて
  Bone of fish! 虫がいいんじゃない
  歯を磨いて出直しな
  骨なし娘とつきあってきたのね 煮ても焼いても食えやしないよ
  女はとろけそうなプリンばかりじゃない 覚悟はできてるね
  きらめく夜の中で ストレス溜めないでよ
  Bone of fish! あなたには初めての味よ
  魚の骨はくずれない Bone of fish……

 第八位、先週の六位からRank down、無敵隊の「魚の骨」でした。横
浜アリーナのコンサートは超満員、来月にはベストアルバムも発売されます。そ
れでは第八位無敵隊「魚の骨」。

  降り止まぬ雨の中 お前は飛び出した
  行き先があるならば 帰る場所だってあるさ
  見られたくない目と 隠しておきたい夢と
  雨に打たれても冷えない心を抱いて
  打ち捨てられた生ごみに 泥にまみれた街角に
  お前はいつものせりふを繰り返した
  魚の骨は人のためにあるんじゃない
  魚の骨は魚のためにあるのさ

 今週の第七位は。先週の十二位からRank in、西寺綾さんでした。最近
めっきり女っぽくなったと評判の彼女、今度の新曲では新しい彼女を見せてくれ
ます。では、今週の第七位西寺綾「魚の骨」。

  時には子猫になって あなたの膝でじゃれてみたくなる
  あたたかいぬくもりの中で 丸くなりながら
  あなたなんていなくても 生きてゆけるよって顔をして
  そのくせご飯のときになると ちゃっかりと帰ってくるの
  魚の骨 分けてほしい私に
  魚の骨 あなたの愛を
  あなたにとっては食べ残し 魚の骨にしがみつく私
  プライドは許さないのに……

 第六位はかおり様が入りました。ドラマの主題歌にもなったこの曲、相変わら
ずのかおり節を聞かせてくれます。今週の第六位秋月かおり「魚の骨」。

  手に届くときには 四角くなっている
  口にするときには 切り離されている
  魚に骨があることを 知らない子供たちの前で
  伝えることなら多すぎる
  抱えきれない未来と 押さえきれない昔と
  なにもかもは伝えられない
  いつかは知る世界と いつか忘れる日々と
  そして気がつく 魚には骨があることに

 それではTOP5の発表です。まず、今週の第五位はデルコラソンでした。二
年ぶりのNew Album レコーディング中の彼ら、今回のアルバムではよ
りアコースティックなサウンドを聞かせてくれるとのことです。では今週の第五
位デルコラソン「魚の骨」。

  背びれから尾びれへ まっすぐに切り下ろし
  赤身を取った後は なぜか空しい
  君の瞳は 魚の目とにらめっこ
  わさびと醤油が テーブルを飾る
  青い地球を 三枚におろして 君とどこまでも ゆけたらいいね
  魚の骨 水槽で泳いでるよ

 第四位です。第四位は、マックスモナムールでした。ライブツアーをスタート
したばかりの彼ら、今年はもっと激しいサウンドを届けたいと張り切っています。
今週の第四位マックスモナムール「魚の骨」。

  喉にささった骨を 取り除いてくれよ
  このままじゃ 息がつまりそうさ

  平凡な毎日が突き刺さる お前の声が小骨のように
  こんなことしてる場合じゃないんだ でも小骨は突き刺さる
  飯を飲み込め お茶を飲み込め
  NO NO そんなことじゃ取れやしないぜ
  お前の舌が絡まるように 俺の喉の奥を締め付ける
  喉に 首に 胸に 足に 体じゅう巻き込まれてゆく
  喉にささった骨を 取り除いてくれよ
  このままじゃ 息がつまりそうさ

 続きまして今週の第三位は、演歌久々のTOP3入りです。水無月宏子「魚の
骨」。

  魚の身をはがすのが下手な人 あなたが食べた魚だったら
  幾千もの魚の骨があっても 私きっと見分けられる
  そんなことなら あなたがわかる
  あなたは今日も出てゆく 後には魚の骨が残る

 第二位です。詩織ちゃんが先週の一位からRank down。CMに引っ張
りだこの彼女、今月末には初の写真集も発売されます今週の第二位、村上詩織
「魚の骨」。

  朝ごはん食べたらすぐ いわしの頭に祈るの
  学校についたらすぐ 黒板消しに祈るの
  あなたは振り向いてくれるかな あなたは気がついてくれるかな
  友だちだけじゃNO! Only you
  魚の骨でも猫のしっぽでも 駅前の交番でも電信柱でも
  私何にでも願いをかけちゃう あなたとK・I・S・Sしたい

 そしていよいよ今週の第一位は!
 やっぱり第一位はこの人でした。初登場第一位、松本喜三郎「魚の骨」。

  魚……魚……なぜ……骨がある

 今週の「TOP10カウントダウン」いかがだったでしょうか、それでは順位
のおさらいです。
 第十位TAWASHI「魚の骨」、第九位ペペロンチーノ「魚の骨」、第八位
無敵隊「魚の骨」、第七位西寺綾「魚の骨」、第六位秋月かおり「魚の骨」、第
五位デルコラソン「魚の骨」、第四位マックスモナムール「魚の骨」、第三位水
無月宏子「魚の骨」、第二位村上詩織「魚の骨」、そして堂々の第一位は松本喜
三郎「魚の骨」でした。
 それでは来週の「TOP10カウントダウン」お楽しみに、お相手は梅田手児
奈でした。See you next week,Good bye……。

                              [完]



#1072/1336 短編
★タイトル (CWM     )  98/ 7/10  18:34  (174)
お題>場所指定:「夢」の中                          つきかげ
★内容
 タタモモンポリスへの御案内

1.はじめに
 タタモモンポリスの実在については、周知のように様々な議論を呼んできました。
果たして夢の中にのみ存在し、夢を見ることによってしか辿りつくことができない
都市を実在していると言うべきか。このことについてここで考察するつもりはあり
ませんし、今までなされた議論をこで振り返るつもりもありません。
 ただここでは、フッサール現象学において語られるように、経験的にかつ間主観
的にその存在を本質直感的に認められるのであれば、その実在は妥当であるとだけ
しておきたいと思います。
 又、タタモモンポリスが都市では無く人間であるという指摘について多少説明を
試みたいと思います。これは古の魔導師エリファス・レヴィの著作において、あた
かもひとつの人格として語られていたところからきていると思われ、さらに遡れば
シモン・マグスの伝説に関わると考えます。
 ただタタモモンポリスという名が示す通り、これが都市であるということが明白
なのは幾度も夢の中で訪れたと語る魔導師ジョン・ディーやローゼンクロイツの著
作の中で示されています。私としてはパラケルススの言うように松果体に宿る都市
であるとでもしておきましょう。
  それではさっそく、タタモモンポリスの風景を紹介していきたいと思います。

2.街の風景
(1)北斗宮
 北斗宮は古の王の伝説に度々現れてくるように、主に支配者の夢に登場すること
が多いようです。この壮大な迷宮はその名が示すようにタタモモンポリスの最北に
位置します。その外観は漆黒の城壁に覆われ、あたかも巨大な丘陵の影が立ち上が
ったかのようです。この迷宮の奇異なところは闇色の外観だけでは無く、出口も入
口も存在しない閉ざされた迷宮であるというところにあります。
  そして閉ざされているにも関わらず、私たちはその内部に展開されている壮麗な
回廊、巨大な螺旋階段、壮大な礼拝堂、縦横に走る地下通路の存在を感じとること
ができます。北斗宮の内部は夢の中の都市であるタタモモンポリスのさらなる夢、
夢中夢のような存在なのでしょう。
 この迷宮の中に棲む唯一の生き物は、人類が地上に現れる前から生きている亀だ
といわれており、数万年を生き続けたその亀は迷宮の奥深くで眠り続けているとい
う伝説があります。
  北斗宮を訪れた王たちは、現実の世界でそれを模倣し再現しようとする妄想に取
り憑かれることになります。しかし、夢の中の夢であるその迷宮は決して実現され
ることは無く、迷宮を再現しようという試みは常に亡国への道となりました。

(2)水路
 タタモモンポリスの中は、無数の水路によって各地を結ばれています。それは人
の体内を巡る血液のように、各地へ物資や人を運ぶ役割を果たしています。水路を
渡る小舟は場所によっては翔ぶように速く移動し、又、別の場所では漂うように緩
やかに進みます。水の流れは常に一定のように見え、色はとても深みのある青です。
 水路の底は決して見ることができず、その底に沈むと決して浮かび上がることは
ありません。ただそのようなことは稀であり、水路に落ちたものはたいてい水がそ
れを受け入れることを拒否するようにその水面に浮かびます。
 水路の水はそれ自体が何か意志を持っているかのようであり、又、この街がひと
つの生き物であることを現しているかのように感じさせます。私たちが小舟で水路
を渡るときに時折空中を浮遊するようなとても穏やかで満ち足りた思いを感じるこ
とがあり、それはこの街が私たちに示す歓迎の意志表示のようです。

(3)南聖門
  八角形をした巨大な建物である南聖門は、タタモモンポリスと他界を繋ぐ通路と
して知られています。その建物はタタモモンポリスの南端に位置する湖上にありま
す。この透き通って透明なシアンの輝きを持つ湖の水はそのまま水路へと繋がって
おり、タタモモンポリスを行き来する小舟は南聖門から現れ、南聖門へと帰ってゆ
くようです。
 この八角形の建物の八面にはそれぞれ巨大な門があります。その全てが南聖門へ
の入口であり出口でもあります。門を通り過ぎる瞬間に私たちは一瞬幻惑を、感じ
とることでしょう。そして幻惑が去った後に、全く見知らぬ風景が目の前に開けて
いるのを見ることができます。
 このそれぞれの門は常に一定の異世界へと繋がっている訳では無く、日によって、
あるいは時間によって違う世界へと繋がるようです。又、その門を通る者の精神状
態も繋がる世界の決定に影響があるようであり、在る種の法則性は存在していると
言われています。ただ、その法則を知るタタモモンポリスの住人以外にとってまる
きり恣意的に異世界へと繋がっているとしか思えません。
 ごく稀に異世界との接触が断たれ、南聖門の内部を見ることができる時がありま
す。そういうときに門をくぐると、宇宙のように高く昏い南聖門の天井を見ること
ができます。その天井には炎のように深紅の羽を持つ鳥が棲むといわれており、そ
の鳥こそがタタモモンポリスの真の支配者であるという伝説があります。

(4)塔
 タタモモンポリスの東部には、湿地帯が広がっています。青ざめた龍が棲むとい
う伝説のあるその湿地帯はいつも霧につつまれていますが、時折その霧の合間から
聳え立ついくつもの塔を見ることができます。この塔は魔法使いの塔と呼ばれます
が、その呼び名にある魔法使いと出会うことはまずありません。
 湿地帯に聳える塔は霧につつまれていますが、蒼白い闇のような霧は在る種の空
間の歪みとして知られており、塔が存在する時空間自体がとても不安定なものであ
ることを示しているようです。
 この塔を昇っていったとしましょう。私たちが塔の窓から見る風景は、タタモモ
ンポリスの湿地帯ではなく見知らぬ異世界の風景となります。そしてどんな時間に
塔へ昇ったとしても、そこから見える風景は夜の世界となります。
 もしも運がよければ、塔の窓から異世界の星空を見ることができます。その深い
藍色に輝く夜空に見える星たちは私たちの知らない星座を形成しており、ひときわ
大きく輝く惑星たちは、私たちの知らない軌道を進んでゆきます。
 私たちが塔の頂上に辿りつくことは、めったにありません。たいていは昇ってい
たつもりがいつのまにか元の地上へ戻ってしまうことになります。塔は私たちの理
解を越えた輪を形成して閉ざされているからです。でも時折その頂上に辿り着くこ
とがあり、その時には壮大な闇が頭上に広がっているのを見ることができます。
 塔の中で流れている時間は速さが外の世界とは異なっている為、塔から戻ったも
のは自分が数年後の世界にいるか、数分後の世界にいるのかをまず確かめねばなり
ません。やっかいなのは過去に戻ってしまった時であり、そうした場合はいつのま
にか自分の存在自体が希薄になって消えてしまわないよう、因果律を狂わせないこ
とに最大の神経を使うことになります。。

(5)集合住宅
 タタモモンポリスの南西部には広大な住宅地があり、何層にも重なり合って存在
するその地域は広大な迷路のようでもあります。大通りには無数の市場が開かれ、
この街の住人が大勢行き交います。
 市場の立つ場所やそこで売られるものは一日のうち何度も変わり、ほんの数時間
で街の風景が一変してしまうこともあります。ここに集う人々も入れ代わりが激し
く、しかし、皆古くからここに住む住人のようです。この住宅地は生きた街である
タタモモンポリスの中でも特に活動が激しい場所になります。
 ここはたんなる迷路のような場所では無く、本当に生きた迷路であり、ここに迷
い込むとほんの数時間で変わってしまう街の風景の中から出られなくなってしまい
ます。そのうち心の中まで街にとりこまれてゆき、うっかりすると自分の過去すら
無くしてしまうことさえあります。
 一度この地域に迷い込んだ場合は、とにかく水路を探し出して船にのること以外
に出る方法はありません。どんなに心を取り込まれていたとしても、水路の水を見
つめているうちに必ず過去を取り戻すことができます。
 この住宅地の中心には巨大な獣神の神像があります。この住宅地の中からであれ
ばどんな場所からでも見ることができる程、高く聳えています。この変化の多い街
の中で唯一不変のものは、この神像のみと言っていいでしょう。
 ただ、この神像の側に近づくことは不可能と言われています。どんなに神像に向
かって歩いていっても、いつのまにか遠ざかっていくことに気がつきます。むしろ
意識せずに歩いていると、思い掛けぬほど近くに見えることがあると言われますが、
それも稀にしかありえないことです。

(6)工房
  タタモモンポリスの西には白亜丘陵と呼ばれる丘があります。この丘には純白の
翼を持った虎たちが棲んでいます。そしてこの虎たちと共に暮らしているのが、工
房に住む工芸家たちです。
 この丘に棲む翼を持った虎たちは、卵を産みます。工芸家たちは卵を回収して自
分の工房へ持って帰ります。この卵は思念を吸い込んで育ちます。その思念の力が
強い程、卵は大きく育ってゆきます。
 やがて虎の子どもが孵った時、それまで卵に吸い込まれていた思念は一つの形を
持って残ることになります。それは固定化された幻影とでもゆうべきものであり、
或る種の感情を付加された風景ともいえます。
 それらは一見ただの卵の形をした黒い影のように見えます。それを見つめ続けて
いるうちに、一つの思念が心の中に湧きあがってきます。
 そしてその感情に付随した風景が、その影の中に見えてくるのです。それは古の
神の姿であったり、日の沈む湖の輝きであったり、流星が流れる夜空の風景であっ
たりします。工芸家たちはその風景とその風景に魅せられた感情を一つにして、幻
影を造り上げるのです。
 この幻影をじっと見つめ続けるといつか心が完全にその風景と同化し、気がつく
とその風景が現実のものとなっていることがあります。その幻影を造り出す元とな
った場所へ、時間と空間を飛び越えて辿り着いてしまうことがあるのです。
 たとえその場所にたどりついてしまったとしても、たいていはしばらく目を閉じ
ていれば元にいた場所に戻ることになります。

(7)墓地
  タタモモンポリスの北東には、黒蛇山と呼ばれる山がありその山の中腹には墓地
があります。その墓地は死んだ物語の墓地とでもいうべき場所です。
 そこに去来するのはもう誰も思い出すことのなくなった伝説たちであり、行き場
を失ったそれらの伝説は墓地の中を吹き荒ぶ風のように満たしています。その死せ
る物語に触れてみると、触れた者の心はその物語にとりこまれます。例えば、復讐
の為に生き殺戮だけを繰り返した伝説の騎士の心が甦ったりします。
 しかし、その死んだ物語は決して支配力を持たず、訪れたものを一瞬惑わせるこ
とはあってもその心の中にとどまり続けることはできません。それが物語の死の意
味です。ただその死せる物語たちの中に長い間とどまり続けると、心が疲弊し世界
に対する意欲を失ってしまいますので誰もその墓地を訪れようとはしません。
 死んだ物語だけが永遠に、その誰も来ることの無い場所にとどまり続けます。時
折この墓地に訪れる黒い翼を持った鳥たちが、その物語を運んでゆくことがありま
す。タタモモンポリスの街中で突然虚しい気持ちに襲われることがあれば、近くに
黒い羽の鳥がいないか探してみることです。たいていは、その鳥が運んできた死せ
る物語の仕業でしょうから。

3.おわりに
 タタモモンポリスの風景の一部を紹介しました。この夢の中にだけ存在する街は、
様々な人々の夢の中に現れ、その存在を示してきました。ここに語った風景は、そ
の夢の中でタタモモンポリスに訪れた人たちの話を総合したものですが、タタモモ
ンポリスはここに語られていることが全てでは無く夢みる人それぞれに違った側面
を見せる街です。
  ただタタモモンポリスに辿り着いた者は、必ずそこが伝説の街であることを確信
することができます。それはおそらく万人の心の中に存在するという集合無意識の
中に存在する街であるからと語られています。そこは大地ではなく夢の元型の上に
築かれた街であると考えることができるでしょう。
 タタモモンポリスを訪れることは、それほど危険なことではありません。ただあ
なたがその街で経験したことを誰かに語りたいと思ったなら、細心の注意を払う必
要があるでしょう。街はあなたが語る言葉を通じてあなたの心を支配しはじめ、い
つしかあなたは自分が語っているのか自分が街に語らされているのか判らなくなっ
てしまうでしょうから。
 それでもあなたが語ることをやめなければ、あなたは完全にその街に支配され街
の住人になってしまうでしょう。例えば、私のように。



#1073/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 7/18   0:39  (166)
読本八犬伝番外編「ゴロツキは世界を変える……か?」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本「番外編 ゴロツキは世界を変える……か?」

  錦を纏った少年が、獣じみた男に組み敷かれていた。「や、やめろっ」少年は藻掻
こうとするが、男に制圧され、只その発達しきっていない筋肉を些か強張らせたに過
ぎなかった。麻裃を着けた男は、偉丈夫で知られる吉宗公の孫だという、醜いほどに
逞しかった。白面優美な少年の敵う相手ではない。暑い午後、袴を剥ぎ取られた少年
の、少女と見間違うほど白く華奢な肢体は、懸命に抵抗したためか、汗ばみ淫らに輝
いていた。大きく広げられた脚が、圧倒的な膂力によって、胸に付くほど屈められた。
 暴かれた部分に、男の屹立したモノが宛われる。「くうぅっ、やめろ」少年は固く
瞼を閉じ、顔を背ける。しかし少年は、経験によって知っていた筈だ、幾ら拒絶しよ
うと、男が欲望を達成することを。少年の拒絶の言葉は、本来の内包を喪っており、
単に自らへの言い訳として発話されたに過ぎない。凌辱は、まさに現在進行している
事実であって、回避可能な未来ではないのだ。また、少年は気付いていなかった、己
の端正で気の強そうな横顔が、美しく歪み涙に濡れるとき、男の劣情を殊更に掻き立
ててしまうことを。「うぐうっ」貫かれた少年が、くぐもった悲鳴を上げる。男の呼
吸が荒くなる……。分厚い胸を押し退けようとしていた、しなやかな腕が、背中に回
り、しがみつく。「あっ、あっ、あっ、ああっ」女のような自分の喘ぎに恥じらい、
少年が掌で顔を覆う。男が乱暴に手首を畳に押し付ける。少年は顔を背けようとする
が、頬を掴まれる。哀願するような目が、男に向けられる。「や、やめっ、あはああ
っ、……やめてっ」少年は、しゃくり上げる。「やめてやろうか。だがな、俺なしで
生きていけると思っているのか」男は殊更に激しく少年を突き上げる。「あああっ、
やっやめっ、くううっ、や、やめっ……」少年の仰け反った喉が、苦しそうにヒクつ
く。噛み締めた唇が小刻みに震える。「ん? そうか、分かったよ、やめてやるよ」
男は卑しく嗤いながら、少しだけ腰を引いた。「あふっ、やめっ、ああっ、ああああ
あっ、やっ、やめないでえええっ」。

 久しぶりだからスケベェ話を書いてみた。単なる読者サービスだ。他意は、余り無
い。因みに、上記「少年」は二十歳前後、「男」は三十絡みの設定だ。場所は……ま
ぁ大きな御城と言っておこう。城の書院、若殿様と宿老の間で日夜繰り広げられてい
る暗闘を描いてみた。「二十歳前後」は少々トウが立っているかもしれないが、まぁ
昔の人は成長が遅かったってことで……。

 <寛政の改革>という言葉を聞いたことがおありだろう。八犬伝が刊行を開始する
二十年ほど以前、十九世紀初頭に断行された、江戸幕府の政治改革だ。リードしたの
は白河藩主・松平越中守定信(マツダイラエッチュウノカミサダノブ)、幕府中興の
祖と謂われ、十八世紀中葉に<享保の改革>と呼ばれる幕政改革を行った八代将軍・
吉宗(ヨシムネ)の孫だ。優秀ではあったが腐敗した官僚・田沼意次(タヌマオキツ
グ)の邪魔がなかったら、将軍になっていたかもしれない。
 定信の改革は、一定の成果を挙げた。財政を緊縮、同時に無能な地方官を大胆に更
迭・異動・処罰し、更に農地の拡大を図り、以て財政の立て直しに成功した。門閥や
賄賂ではなく、武士の器量と学問、武芸に(或程度)応じて、人材を配置した。文武
の教育体制を整えた。凶作に備え、食料の備蓄を計画した。また、帝国主義列強すな
わち欧米がアジアの利権を狙って日本近海にも姿を現すようになっていたが、大規模
な海防計画さえ提案した。学識・教養に優れ、また、尊皇の態度を明らかにして、口
性ない京童、公家衆にすら一目置かれた。天皇が、単なる父親(←天皇に即位したこ
とがない人物)に「太上天皇」の尊号を与えようとして幕府に諮問したとき、断固と
して反対した(尊号一件)。確かに、天皇未経験者に太上天皇の尊号を与えると、君
臣の関係がグチャグチャになるので、思い付く方が如何かしていたのだ。また、同じ
頃、十二代将軍・家斉(イエナリ)が父の一橋治済を江戸城西之丸に迎え「大御所」
にしようとしたが、これにも断固として反対を押し通した。定信、一本筋の通った男
だったのだ。
 因みに定信亡き後、家斉は将軍職を家定に譲り自分が「大御所」におさまった。指
揮系統が二本になり、幕政は混乱した。「大御所時代」だ。この混乱の中でトンデモ
ナイ奴が権力の階梯を昇ることになるのだが、それは後で触れる。
 寛政の改革は、三十歳の定信と十五歳(いずれも数え年)の家斉がペアリングして
スタート、六年後に破綻する。破綻と言っても、定信が失政を犯したのではない。改
革は、順調に進んでいた。しかし、ある時、それは七月の残暑厳しい頃だったが、突
如として定信は老中職を辞任するのだ。
 実は定信、ちょっと変な所がある。いや、変というより<マトモ過ぎる>のだ。彼
は若い将軍と衝突する度に、「そんなら辞めてやる!」と息巻き辞表を提出していた
のだ。そのつど将軍が「あぁん、やめないでぇ」と泣きを入れていた。十五歳年上の
親戚、頼れるアニキに辞められたら、困るのだ。少年将軍が、三十男に弄ばれ辱めら
れている図である。可哀想に。しかし、状況は徐々に変わった。尊号一件で朝廷を敵
に回した定信は、何となく孤立するようになった。将軍の父親を大御所として扱う件
でも反対し、将軍の機嫌を損ねてもいた。
 定信は寛政五(一七九三)年五月、いつものように「辞めてやるぅ」と駄々をこね
た。翌日、いつもの様に将軍が「あぁん、やめないでぇ」と泣きついた。しかし定信、
いつもなら「へっへっへっ、まぁ、そこまで言うなら」と翻意するのだけれども、魔
がさしたんだろうか、「いいや、やめてやる」とダメを押してしまった。七月、突如
として将軍が定信の辞意を受理すると申し渡した。二人の関係は破綻した。定信は、
「まさか、本気にするなんて」みたいな言葉を後に漏らしたらしい。多分、定信とし
ては、孤立したまま筆頭老中の座に就いているより、より風当たりの弱いタダの老中
として幕政をリードしようとしていたのだろうが、ちょっと計算を間違えたらしい。
 定信、老中になる十年ほど前に、白河藩主になった。実質的には、それ以前から継
嗣として藩政に関わっていた。全国は大規模な飢饉に見舞われた。<天明の大飢饉>
である。特に奥州の被害は酷く、間引きは当然、親が子を食う惨劇が繰り広げられた。
地獄のような状況にあって、白河藩のみは、餓死者をださずに切り抜けた。定信の智
恵と果敢な行動力で、白河藩は逸早く食料を備蓄、飢饉の折に放出したのだ。定信は
まだ十代だったが、ソコラの無能なオヤジとは、ちょっと違っていたのだ。
 時に幕府を、賄賂政治で有名な田沼意次(タヌマオキツグ)のような腐敗官僚が牛
耳っていた。このうえなく育ちの良い定信には、腐敗ってのに我慢ならなかった。い
や実は白河藩も、若い定信が従四位の高位に叙任するよう<運動>を行った。定信も
自著で認めてるんだけれども、通常の賄賂より、かなり低い相場の<運動>しかしな
かったようだ。これは、<常識の範囲>挨拶程度と解釈出来る。何せ当時の人々が定
信を「清廉」と評しているのだから、清廉なのである。本シリーズは、事実よりもイ
メージを優先する。
 定信は二十代の頃、同志の親藩・譜代大名とグループを作り、腐敗政治に悲嘆慷慨
しながら酒を飲んでいたともいう。天下を論じ憂国しながらメートルを上げるバンカ
ラ学生の図を思い浮かべれば良い。まぁ、武士なんだから、バンカラなのは当然なん
だけれども。

 バンカラたる彼の真面目(シンメンボク)は、参内の折に発揮された。<尊皇家>
である彼は、天明八(一七八八)年に焼亡した宮廷を往事の如く再建しようとした。
朝幕会談のため京を訪れ、天皇に謁見した。
 幕府の京都出張所、京都所司代など役人が朝廷に参内することは、ままあった。彼
らは公家礼法に則って参内することはなかった。天皇に謁見するとき、畳の上を前後
に這いずり回った。彼らは彼らなりに礼を尽くした積もりだっただろうが、見度茂な
いこと此の上ない。公家衆は、「関東の犬這」と嘲った。
 京を訪れた定信を、人々は注目した。名君・吉宗の孫であり、学才の誉れ高い有名
人だったからだ。公家衆も、一種のライバル視を以て見つめていたことだろう。<何
か下手をすれば大声で論ってやろう>。此処で定信が「犬這」をすれば、格好の餌食
になっただろう。
 しかし定信は、「犬這」をしなかった。公家礼法も無視した。膝行したのである。
武家礼法である。正座、男子は両膝の間に拳が一つ入るぐらいに開けるが、肩幅まで
広げた形で膝立ちする。この形は体を回転し易く、敵に襲いかかられても迅速に対応
できる。武芸のフットワークにも用いられる移動法だ。
 下手をしたら大声で論ってやろうと手ぐすねひいていた公家衆は、意表を衝かれた。
この心理的落差を埋めるため、彼らは定信を称賛するしかなかったのだろう。定信の
評判は上がった。
 確かに定信、格好良かっただろう。妙にヘコヘコするのは、却って礼を失する。礼
法とは、或る空間を一定の目的で秩序立てるパフォーマンス規則だ。この場合、天皇
を引き立てつつ何らかの雰囲気を醸し出すために演技すれば良い。定信は、独自の遣
り方で、見事に武家の代表を演じきったのだ。
 しかし、定信の此の遣り方、礼というものを極めている様にも思うが、甚だ興味深
い。どうやら、彼は<個>もしくは<孤>だったようなのだ。関係性のみにかかずら
う、集団思考する下等生物ではない、といぅアタリマエの結論でもあるが。アリテイ
に言えば、彼は天皇を無視していた疑いがある。傍若無人。彼は、天皇の<肉体>な
ど如何でも良かった。彼にとって御簾の奥に座っていたのは、単なる御神体だったの
だ。御神体なんてモノは所詮、生ける人間に都合良く飾られているに過ぎない。言い
換えれば、定信が敬意を示したとすれば、対象は<天皇という理念>であり、肉体を
有つ天皇の称号を与えられた人間の実存ではない。四五十年後、東照大権現の旗/理
念を奉じつつ東照宮に大砲の弾を撃ち込み以て官僚を脅かす男が出現するが、定信だ
って、天皇の理念を守るためにこそ、天皇の意思を無視した。前述した、「尊号一件」
である。
 また、一説に拠れば、定信は上京の帰途、後醍醐天皇陵を行き過ぎた。『太平記』
で同情的に描かれた、南北朝の争乱を開いた天皇である。彼は南朝の天皇として自ら
を規定したが、一方で北朝にも天皇が存在、一天二君が両立する現象を引き起こした。
定信は、この後醍醐天皇陵に対し、敬礼しなかった。彼の説明は、「依為謀反天子不
拝云々」だったという。これを、公家衆は批判した。(参照:日本歴史弟六百号)
 後醍醐天皇は正当に皇位を嗣いだのだが、一度は退位する。次の天皇が立つ。しか
し、後に再び皇位に就いた。天皇が二人になった。後醍醐天皇側を南朝、もう一方を
北朝と称する。そして現代では、南朝の天皇は皇統にカウントしない。南朝は北朝に
吸収合併されてしまったのである。ただし、後醍醐天皇の一度目の即位は正統である
から、皇統に数える。人皇第九十六代である。但し、当時の歴史学会では、南朝を正
当とする説もあった。
 にも拘わらず、定信は後醍醐陵に敬礼しなかった。「謀反」、天皇に楯突いた天皇
だからである。天皇に楯突いたって、天皇は天皇だから天皇として遇するべきだと、
当時の公家衆は指摘したが、定信は認めなかった。此処に、定信の定信たる所以が凝
縮されているやに思う。上述した如く、定信は、天皇の理念をこそ尊重し、実存する
人間としての天皇は眼中になかったのではないか。傍若無人なゴロツキ、そう、定信
は、<ゴロツキ>だったのである。ゴロツキだからこそ、実際の人間(関係)よりも
自らの良心/意思を尊重したのだ。そうでなくて、腐敗もしくは無能の地方官を容赦
なく大量処分し、改革の実を上げることが出来ただろうか。詳細は省くが、処分され
た地方官の中には、家康以来二百年近くも関東郡代を任された名家もあった。

 此処に於いて問う、「ゴロツキは世界を変える……か?」。<ゴロツキのみが世界
を変える能力を有する>。再び問う、「ゴロツキは世界を変える……か?」。<ゴロ
ツキは世界を変えること能はず>。
 定信は、ゴロツキであるが故に思い切った改革を断行し、一定の成果を挙げる事が
出来た。しかし一方で、ゴロツキであるが故に周囲から孤立、将軍の信任も喪って、
権力の中枢から離脱せねばならなかった。言い換えれば、ゴロツキだから改革に成功
し、ゴロツキだから改革に失敗したのだ。

 定信は三十六歳で老中を辞し、後は一親藩大名もしくは文化人として過ごした。白
河藩主としては、海外列強から江戸を防備するため房総半島の守護を命じられた。こ
れに関連して彼は、『狗日記(イヌニッキ)』と題する簡単な安房地誌を著している。
海防のため同地を巡視した折のメモ書きだ。また、文人としては、新たに手に入れた
馬の名前に就いて、滝沢馬琴という名の作家に相談したこともある。焼き蛤で有名な
桑名に引っ越したりもしたが、七十二歳の長寿を全うした。ゴロツキのくせに長生き
なのだ。

 以上、一人のゴロツキに関して駆け足で紹介した。今回は「番外編」、単なる予備
知識として書いから、<結論>らしきものがない。ただ、今回ウジウジ書き連ねた事
どもが、後に必要となってくる筈なのだ。そういうワケで尻切れトンボだけれども、
ごめんなさい、今回は、これまで。
(お粗末様)



#1074/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 7/18   0:40  (200)
読本八犬伝番外編「四海こんきう」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 四海こんきう」

 困窮である。困ってしまう。ワンワンワワン。しかし、犬のオマワリさんは、困っ
てばかりもいられない。子猫の為に、立ち上がらねばならないのだ。

 ところで書、即ち『書経』、大禹謨に云う。「四海困窮、天禄永終」。禹(ウ)が
先帝・舜(シュン)から位を受け継ぐときに贈られた、戒めの言葉だ。舜、禹は、古
代中国、伝説上の王、所謂、<五帝>のうちである。二人の前に堯(ギョウ)っての
もいて、三人が<聖帝>として扱われる。堯は暦を定めた。舜と禹は、それぞれ先代
から、子供でも何でもないのに、器量を認められ、帝位を譲られた。こういう帝位継
承を、<禅譲>という。武力で簒奪するのが、<放伐>。共に<革命>と呼ばれる。
後世、だいたいは放伐によって革命/王朝交代は為されるし、帝位継承は世襲による。
禹は、やはり器量の者に帝位を譲って死ぬのだが、臣下が遺志に反して禹の子を奉戴
した。以後、帝位は世襲制となる。因みに、禹を初代とする王朝が、<夏>である。
殷、周、秦、漢……と交代していく。聖なる帝、権力の行使に満度の才能を持った者
の時代が終わる。社会体制が、純粋に個人の特性によって左右される時代が終わり、
<誰が頂点に立っても、さほど変わらない>体制へと移行したとも言える。個から組
織/集団の時代になったのだ。個の時代とは、<理想としての原始状態>だったりも
する。余談だが、舜は有名人で、色々と言及されることが多い。とてつもない、お人
好しだったのだ。舜は身分の低い家に生まれたが、母を早く亡くした。父は再婚した。
後妻を愛した。しかし、後妻は舜を嫌った。後妻の子すなわち舜の弟と父と結託し、
何度も舜を殺そうとした。にも拘わらず、舜は父母に孝を尽くし、仕えた。親孝行の
見本みたいに云われる。まぁ、単なるウスラトンカチなよぉな気もするのだが、偽の
父親と継母に苛められ抜く、礼の犬士・大角を彷彿させもする。
 話を戻そう。「四海困窮」である。このフレーズ、いや、漢文の宿命だけれども、
読みが一定でない。「四海困窮……」は、「四海の困窮をせば、天禄、永く終(オ)
えん」とも、「四海困窮せば、天禄永く終(タ)たん」とも読むのだ。前者は帝位へ
の祝福/補強のニュアンスで、「世界の困窮を治め無くせば、帝位/権力は永続でき
る」と訳せる。しかし後者は、「万民が困窮に陥ったら、それは帝の責任だから、永
久に抹殺されるのだぞ」と呪詛/脅迫する雰囲気が漂う。似たような意味ではあるが、
前者の方が意味の据わりは良い。後者の方が、字面に素直だ。ドチラを採るかは、好
みによって左右される。

  天保八(一八三八)年一月、八犬伝第九輯下帙上が刊行された。八百比丘尼の偽計
により、犬江親兵衛仁が体よく安房から追放され、河鯉孝嗣と契りを結ぶ辺りから、
結城の大法会を終える段までだ。翌年一月には第九輯下帙中、天保十年一月には第九
輯下帙之下甲号が出版された。
 ……何だか変な刊行の仕方だ。第九輯下帙上、同中とくれば、次は第九輯下帙下で
終わりだろう。それが、第九輯下帙之下甲号、同乙号上套、同下套、第九輯下帙下編
上、同中、第九輯下帙下編之下、第九輯下帙結局編と、ズルズル延びていく。本屋の
都合で物語が引き延ばされたこともあろう。商業主義というヤツだ。しかし、商業主
義だからといって、内容が無いと断ずることは出来ない。当初の予定が変更されただ
けのことだ。結果として面白ければ、作品は享受さるべきであろう。そして、こうい
った場合、当初の計画を変更、引き延ばしたんだから、<エピソードの挿入付加>を
意味することは、想像に難くない。即ち、第九輯下帙辺り以降、<当初の予定>にな
かったエピソード、後からくっつけた挿話がありそうだ。閑話休題。

 天保八年二月、即ち八犬伝第九輯下帙上が刊行された翌月、読者は、大詰めを迎え
た物語を読みながら、時代も大詰め若しくは行き詰まりに来ていることを感じていた、
かもしれない。十九日早朝、大坂市民は火災と喧噪によって飛び起きた。犬のオマワ
リさんならぬ町奉行所の与力・同心数十人が一揆、数百の民衆を率いて暴れ回ってい
たのだ。ワンワンワワン。一団は街並みに放火、豪商を襲い、米銭を奪って路上にバ
ラ撒き、人々の取るに任せた。治安・民政の責任者たるべき大坂町奉行は役所に引き
籠もり、または大坂城に逃げ込み、繁華街・天満で落馬したりと、<華々しく>醜態
を晒した。抑も庶民が、武士に偉そうにさせていたのは、いざ外敵が来たりしたとき
守ってくれる筈だったからだ。それが、あろうことか、一方で与力・同心たちが放火
・暴動、一方では奉行・与力・同心が右往左往、これでは単なる迷惑野郎どもだ。大
坂町奉行が無為無能に逃げ惑ううち、二百数十人の市民が死傷、二万世帯近くが家を
失った。近世大坂で最大の犠牲をだした、未曾有の大火であった。<大坂一件>、俗
に謂う<大塩平八郎の乱>である。

 乱の首謀者・大塩平八郎(オオシオヘイハチロウ)四十五歳は、元大坂町奉行所力、
引退後は専ら自らが開いた私塾で陽明学を講じていた。与力・同心のほか、庶民も門
弟になっていた。因みに陽明学とは、王陽明を祖とし、<知行合一>即ち学問を自己
の修練と捉え学び得た知識/知恵と行動の一致を旨とする学派である。<偉そう云う
て口だけぢゃイカンぞ>と主張する連中だ。
 もうちょっとだけ、平八郎を紹介しよう。彼は、よくいる無能な官吏ではない。与
力時代は切支丹の女性を論破し改宗させ、多くの破戒僧を検挙、或る疑獄を調査して
腐敗した官僚の実態まで突き止めた。探偵小説の主人公にしたって、出来過ぎのオマ
ワリさんだったのだ。武芸にも秀で、槍を執っては関西随一と謳われた。陽明学者と
しての著書が幾つかあり、既に名を成していた。硬いばかりではなく、愛人もいたり
した。
 彼は学者であったから、民政にも一家言持っていた。儒学は<道徳>ではない。そ
の主要課題は、政治学である。平八郎の思い付いたプランは、こうだ。則ち、諸大名
・旗本ら武士階級に対し商家が金を貸すことを禁じる。武士たちは「こんきう」する。
無理にでも領内から米を掻き集め、大坂に持ってきて売る。大坂の米が増える。庶民
の口に入る……。平八郎は息子の格之助をして、町奉行・跡部山城守良弼(アトベヤ
マシロノカミヨシスケ)に建議させた。しかし跡部は、「差し出がましい」と罵り辱
め、献策を退けた。跡部は、暗愚であったのだ。まぁ、跡部も商人からかなりの借金
をしていたみたいだから、平八郎のプランを受け入れる筈がなかったのであるが。
 また、平八郎は与力の時に疑獄を調査しただけあって、官僚機構の腐敗、贈収賄に
よって政策が決定され人事が異動されている実態を知悉していた。無能な奴らが、の
さばっていたのだ。<出来過ぎ>の男・平八郎の脳裏には、世襲によらない権力の継
承、堯舜の伝説が浮かんだかもしれない。同時に既存の権力体制に対し、憎悪を感じ
たことだろう。

 天保八年、折からの凶作により、大坂では米が不足した。大坂で不足してるんだか
ら、京都も江戸も不足だ。京都から大坂に買い出しに来た者が、奉行の命によって逮
捕されたりした。このとき、平八郎の献策を跡部が思い出して実行すれば、多少の事
態改善が出来たかもしれない。しかし、跡部は奇妙な行動をとった。密かに大量の米
を江戸に輸送させたのだ。ハナから少ないってのに、ドッサリ持ち出すのだから、堪
らない。大坂では、餓死者まででた。跡部は、自分が責任を負うべき大坂市民を餓死
させてまで、江戸の高官たちに<良い顔>をしようとしたのだ。女々しい奴だ。同時
代の江戸町奉行たち、例えば遠山左衛門尉景元(トオヤマサエモンノジョウカゲモト)
などは、トンチンカンな老中のトンチンカンな命令に対し、庶民の側に立って抵抗を
試みたというのに、跡部には、そんな気骨はなかったようだ。クラゲ男め、士道不覚
悟である。
 平八郎は起った。目的は、「救民」/豪商から奪った米銭を庶民に分配する事と、
トンチンカン奉行・跡部への「天誅」/殺害であった。別に体制転覆なぞ夢にも考え
なかっただろう。彼の目的は、単なる強盗殺人および現住建造物放火だった。……は
ふぅ、疲れた。ちょっと興奮してしまっているようだ。此処で、筆者は休憩して、平
八郎本人に、主張する所を語ってもらおう。彼が暴動を起こすに当たって近国に頒布
した、「檄」である。

四海こんきういたし候ハゝ天禄なかくたゝん、小人に国家をおさめしめは災害并至と、
昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆへ
東照神君ニも、鰥寡孤独におゐて、尤あわれみを加ふへくハ、是仁政の基と被仰置候。
然ルに●(「玄」並列・ココニ)二百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこ
りを極、太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし、立身重キ役ニ
経上り、一人一家を肥し候工夫而已ニ知術を運し、其領分知行所之民百姓共江過分之
用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上江右之通無体之儀を申渡、追々入用かさみ候
ゆへ四海の困窮と相成候付、人々上を怨さるものなき様ニ成行候得共、江戸表より諸
国一同右之風儀ニ落入、
天子ハ足利家●(欠字・「以」?)來別而御隠居同様賞罰之柄を御失ひニ付、下民之
怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき様ニ乱候付、人々之怨気天ニ通し、年々地震火災
山も崩水も溢るより外色々様々の天災流行、終ニ五穀飢饉ニ相成候。……中略……此
節米価弥高直ニ相成、大坂之奉行并諸役人とも万物一体之仁を忘れ得手勝手の政道を
いたし、江戸へ廻米をいたし、
天子の御在所之京都江は廻米之世話も不致而已ならす五升一斗位之米を買に下り候も
の共を召捕杯いたし、……中略……何れの土地にても人民ハ
徳川家御支配之ものニ相違なき処、如此隔を付候は全奉行等之不仁にて其上勝手我儘
之触書等を度々差出、大坂市中遊民計を太切ニ心得候は前ニも申通道徳仁義を不存拙
なき身故にて甚以厚ケ間敷不届之至……中略……孔孟之徳はなけれ共無拠天下のため
と存血族の禍をおかし、此度有志之ものと申合下民を悩し苦候諸役人を先誅戮およひ
可申候間、右之者共穴蔵ニ貯置金銀銭等諸蔵屋敷内ニ隠置候俵米夫々分散配当いたし
遣候間、摂河泉播之内田畑所持不致もの、たとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方
難出来程之難渋ものへハ右金米等取らせ遣候間、いつにても大坂市中ニ騒動起り候と
伝聞へ候はゝ、里数を不厭一刻も早く大坂へ向駈可参候面々江右米金を分け遣し可申
候。……中略……
奉天命致天誅候
天保八丁酉年月日       某            (後略。引用終わり)

 「四海こんきういたし候ハゝ天禄なかくたゝん」。読者は既に、このフレーズが、
権力への呪詛/脅迫のニュアンスを含み、しかも堯舜時代、器量の者が権力の座に然
るべくして就く時代に語られたことを知っている。この一言が、平八郎の心情を、雄
弁に物語っている。無能な腐敗官僚どもが社会を食い物にしていることに、<出来過
ぎ>の男・平八郎は、我慢ならなかったのだ。檄文には、大坂市民の「こんきう」に
よって裏打ち若しくは正当化された、平八郎の熱い想いが込められている。

 気持ちは、よく解る。しかし、彼の行動は犯罪に過ぎなかった。目的としたアホ奉
行・跡部の殺害すら、果たせなかった。大坂城代の兵が出動し、平八郎らは呆気なく
蹴散らされた。城代は西国三十三カ国の仕置きを任された駐屯部隊、軍隊なのである。
奉行所よりも格上。また、平八郎は逃走するが三月下旬、市内に潜伏しているところ
を城代に察知され、取り囲まれた。本来、捕り物は奉行所の職掌だが、手柄を横取り
しようとしたのか如何だか、とにかく大坂城代は秘密裏に平八郎を探し当てた。しか
し、慣れない事は、するもんじゃない。大坂城代の連中、隠れ家を取り囲んだは良い
が、如何して良いか分からない。ワイワイ騒ぐだけ。周囲の者は何事かと覗きに来る。
訊けば、「いやぁ、ちょっとした捕り物ぢゃよ」と間抜けな答え。極秘裏の行動だか
何だか、よく分からない。ウカウカするうち日が暮れ夜が明けた。連中、無為の儘、
日を過ごしたのである。ピクニックにでも来ている積もりだったのか。夜が明け、ボ
ンヤリ隠れ家を見ていると、いきなり火の手が上がった。慌てた連中、アレヨアレヨ
と騒ぎ惑うが、如何しようもない。漸く鎮火、恐る恐る覗き込むと、真っ黒に焼け焦
げた死体か二体。ドレが誰やら、分かったモンじゃない。脇に落ちていた刀が、「ど
うやら大塩のモンみたいだなぁ」といぅことで、死体を平八郎と断定した。事件が事
件だけに、とにかく「平八郎」を捕らえねばならなかったのだ。
 お上に楯突いた者の死体は塩漬けの上、左右から三十本の槍で貫き磔にする。どう
やら、平八郎(?)の死体にも、この刑が行われたようだ。死んでんだから痛くも痒
くもないが、まぁ、見せしめといぅヤツだ。<大塩の塩漬け>、これが近世で最も重
要な暴動の結末である。因みに騒動の原因を作ったアホ奉行・跡部は数年後、大目付
に栄転する。洒落にもならないオチだ。

 平八郎の起こした暴動は、単なる犯罪だ。反乱ではない。反乱ではないが、後に重
大な影響を与えることにもなった、かもしれない。平八郎は、現実の権力に対して、
独自の<評価>を下した。勿論、当時の庶民も人間である以上、何等かの評価は権力
に対して下していただろうが、それを最もアカラサマな形、暴力という手段で表現し
た点、しかも被支配者層ではなく、歴とした二百石取りの直参御家人が権力を<評価>
した点に、事件の重大性が在る。
 権力は<絶対>の夢を見る。しかし、それは甘えた夢想に過ぎない。<評価>とは
<相対化>である。他者による相対化/評価を受け入れることこそが、器量というも
のであるが、狭量な権力主体は、<相対化>という回避できない現実/必然を嫌い、
ヒステリックに追い払おうとする。尤も、既に寛政の頃には、滑稽本の如く、当時の
権力者を揶揄する文学も現れていた。揶揄も<相対化>の一種である。また、農民一
揆や庶民による都市暴動は、単に目先の食い物を確保しようというだけでなく、<世
直し>を求めるモノとなりつつあった。<世直し>は、二つの前提を要件とする。即
ち、<現世は住み難い>と感じる不満と、<現世は変わり得る>とする信念だ。「変
わり得る」とは、現世とは異なった理念/モデルの想定を出発点とする。<相対化>
に他ならない。この相対化を、近世になって初めて、大規模にアカラサマに、しかも
権力に連なる階級の側から表現してみせたのが、平八郎の乱であったのだ。
 平八郎の不満は、博く共有され得るものだった。平八郎以外、大々的に表現する者
がいなかっただけの話である。取り締まる側、大坂城代・土井利位の家老、鷹見泉石
は日記に「京大坂辺下々にても大塩様の様にまで世のために思召候儀有難しと申者八
分通りの由」(日本庶民生活史料集成巻十一解説より)というし、江戸でも評判は良
かったようだ。また、乱後、(実際には平八郎と無関係な人物たちによる)「大塩門
弟」を旗印にした暴動、生田万(イクタヨロズ)の乱など、幾つか起こっている。現
実もしくは<常識>によって自ら己の不満を押し殺していた者達が、殻を破って起つ
ようになったのだ。また、近世約三百年のうちに六千八百件以上の農民一揆、都市騒
擾、村方騒動が起こったと言われているが、天保期以降四十年足らずのうちに、二千
四百件以上が集中している(参照:青木虹二『百姓一揆総合年』三一書房)。これは、
民衆が比較的容易に、武力闘争を選択するようになったことを示していよう。言い換
えれば、嘗ては圧倒的武威により殆ど絶対化されていた幕藩権力に対する<相対化>
が進行したことを意味している。また、平八郎の乱は、オマケとして、国土を守るべ
き武士たちが、頼りにならない若しくは恐るるに足らぬ者だと、満天下に示しもした。
アホ奉行・跡部の醜態である。……周囲の<常識>を無視し、己の良心に基づいて表
現行為を行う。筆者は、これを<ゴロツキ>と称している。平八郎は、ゴロツキ、大
ゴロツキであったのだ。
 さて、ゴロツキが起こした暴動を、何故に読本八犬伝番外編で取り上げたか? …
…いや、種明かしは、もう少し贅言を弄してからにしよう。平八郎に就いて、言い足
らないこともある。「種明かし」は、ちょっとしたスケベェ話になる予定だ。スケベ
ェは、最後の最後まで<溜めた>方が宜しい。それでは、今回は、これまで。




#1075/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 7/18   0:40  (152)
読本八犬伝番外編「侠なれば狂なり」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 侠なれば狂なり」

 平八郎、この大ゴロツキでさえ、世界は変えられなかった。跡部の様に無責任だが
上役にコビを売る女々しい奴が、良い目を見る。義とか理とか、そんなモノは糞の役
にも立たぬのだ。
 近世、中斎(チュウサイ)と号した儒者が言った。(当時、幕府公認の学問とされ
た朱子学を建てた大儒)程朱は当時に在りて、奸人の陳公輔、何若、王淮、陳賈等の
讒毀誣妄を免るる能はず。而して曲学偽学の禁、天下に詔諭るに至る、何ぞ其れ悖罔
の極まれるや。然り而して天定まれば則ち讒毀して志を一時に逞しくする者、皆虫の
ごとく滅び草のごとく亡びて、而して程朱の学は天地日月と悠久の光明を争へり。…
…中略……然れども奸人の曲学偽学を以て之を抹殺するは、何の故ぞや。吾れ請ふ一
言を以て其の由を弁ぜん。夫れ聖賢の言行は、大いに俗情に反せり。俗情とは何ぞ。
盗跖の云ふ所是れのみ。其の言に曰く、人の情、目は色を視るを欲し、耳は声を聴く
を欲し、口は味を察せんと欲し、気は盈たんと欲す。人は上寿百歳、中寿八十下寿六
十。病痩死喪憂患を除き、其の中、口を開いて笑ふもの、一月の中、四五日に過ぎざ
るのみ。天と地と無窮なるに、人の死には時有り。時有るの具を操りて無窮の間に託
すること、忽然として騏驥の隙を過ぐるに異なる無きなり。其の志意を説ばし、其の
寿命を養ふ能はざる者は、皆道に通ずる者に非ざるなり。丘の言ふ所は、皆吾の棄つ
る所なりと。此れ荘子の寓言なりと雖も、今古貴賎上下の心口相期する所のものは、
斯の数語を出でざるなり。而して聖賢の道は則ち之に反す。……中略……常人の口を
開いて笑ふものは、淫戯放逸の事に非ざるは莫きなり。……中略……常人は天地を視
て無窮と為し、吾を視て暫しと為す。故に欲を血気の壮なる時に逞しくするを以て務
めと為すのみ。而るに聖賢は則ち独り天地を視て無窮と為すのみならず、吾を視るも
亦た以て天地と為す。故に身の死するを恨まずして心の死するを恨む。心死せざれば、
則ち天地と無窮を争ふ。是の故に一日を以て百年と為し、心は凛乎として深淵に臨む
が如く、須臾も放失せざるなり。故に又た嘗て物を以て志を移さず、欲を以て寿を引
かず、要は人欲を去つて天理を存するのみ。彼は則ち天理を去り人欲を存するなり。
天理を去り人欲を存するは、是れ乃ち常人の期する所なれば、則ち人欲を去り天理を
存する教は、安ぞ其の耳に逆はざるを得んや。彼は耳と心とに逆ふを以て自らを揣れ
ば、則ち聖賢の教を以て、必ず人情を矯むと為す。人情を矯むと為せば、則ち其の勢
吾に曲と偽とを教ふと謂はざるを得ざるなり。……中略……曲に非ずして曲と為し、
偽に非ずして偽と為し、曲にして曲に非ずと為し、偽にして偽に非ずと為す。理と欲
と倒置し、是と非と逆為す。……中略……程朱の一時に抑へられて万世に伸びしは、
固より大なり。然れども其の身後世に在らば、則ち亦た何ぞ之を尊ばんや。只だ其の
之を尊ぶや、死して言はざるを以てなり。如し死すと雖も、理と欲を判ち、是と非を
正すこと生前の如くんば、之を厭ひ之を悪んで、誰か敢て之を師とし尚ばんや。何を
以て之を知るや。君陳に曰く、凡そ人未だ聖を見ざれば、見る克はざるが如くす。既
に聖を見れば、亦た聖に由ること克はず。爾其れ戒めよやと。(岩波書店日本思想体
系所収『洗心洞剳記』上)
 要するに、あんまり厳しく倫理を振り回していたら、みんなから嫌われる、との謂
いだ。人は重力に逆らえないのと一般に、欲の求める所、情の流れる所へ転がってい
く。易きに流れる人の性ってヤツだ。
 ……なるほど、ね。なかなか解った風な口を利くじゃねぇか、え、中斎さんよ。だ
ったら何かい、義を唱える者の敗北は必然だってぇのかい? 天保八年に起った犬の
オマワリさん・平八郎は、犬死にしたってぇのかい? なに物分かりの良さそうなコ
ト言って澄ましてんだよ、このヘッポコ学者。そりゃぁ、「世の中こんなモンだよ」
と嘯いてりゃぁ安穏無事に過ごせはしようってもんだがな、アンタが言う通りなら、
平八郎は犬死にぢゃねぇか。おきゃぁがれってんだ。何とか言ってみろ、アホ中斎!

 中斎、又の名を大塩平八郎後素、元大坂町奉行所天満与力にして陽明学者である。
……平八郎、自分の行為が無駄だって、頭じゃ解ってた。四十五歳、分別盛りの元官
吏、学者である。ソコらの跳ねっ返りと同日に論ずることは出来ない。また『剳記』
の中で平八郎は、こうも言っている。孔子の弟子が、さほど多くない事を疑問に思っ
ていた平八郎が、自分なりの回答を見いだした段である。
 ……子曰く、中行を得て之に与せずんば、必ず狂狷か。狂者は進んで取り、狷者は
為さざる所有るなりと。又た曰く、郷原は徳の賊なりと。……。孔子は道を開き教を
立て、特に其の晨星よりも鮮なき狂狷を取る。而して其の室に入るを願はざる者は天
下滔滔たるの郷原なり。宜なるか乎、当時其の教を受くる者の寥寥たるや。吾れ亦た
奚ぞ疑はんや。嗚呼、道の貴き所は此に在り。道の行はれざる所も亦た此に在るかな
と。
 人間の理想状態は、多方面に強いベクトルを秘めつつ均衡させた原点静止状態/中
庸だが、聖人のみが到達できる境地だ。即ち、現実には存在し得ない状態と言い切っ
ても良かろう。倫理に積極的過ぎる者(狂)、倫理の戒めばかり気にして動けない者
(狷)は、決して理想の状態ではない。また、世の中に星の数より多くメジャーであ
るのは、倫理を無視する者達(郷原/偽善者)だ。狂狷の者は、批判されてしかるべ
き至らぬ者達だが、それとて極めて珍しいマイノリティーだ。このマイノリティーし
か孔子は弟子にとらなかった。だからこそ、孔子の門人は少ないのだ。
 平八郎は儒者であった。聖人になれないまでも、絶えず中庸を目指し心懸けるべき
者である。いくら努力してところで狂狷の域から抜け出せないとしても、中庸をこそ
目指すべき者であった。しかし、平八郎は、狂となった。狂っちゃったのである。現
世に堯や舜がいるワケではない。この世は偽善者/郷原だらけだ。程朱ほどの大儒で
さえ、奸佞の者たちに貶められ苦境に喘いだ。ならば、狂となるしかないではないか。
郷原の目を覚ますには、狂とならねばならなかったのだ。
 ……ゴロツキの陥り易い陥穽に、お約束通り填った平八郎であった。その陥穽とは、
単純に「郷原」が此の世の圧倒的多数を占めると考えたことだ。確かに私も含めて世
の中、郷原ばかりだが、絵に描いた様な、人格の総体がマルゴト郷原ってのも、逆に
珍しいと思っている。世の中、そう捨てたモンじゃない。大坂町奉行・跡部良弼は幕
閣にコビを売り、大阪市民を犠牲にした。一方で江戸町奉行・遠山左衛門尉は、庶民
経済を滞らせる虞があるほどの厳しい倹約令に抵抗した。跡部と遠山、ドッチもいる
のが世の中だ。跡部一人を殺したとて、浜の真砂より多い偽善者が絶滅するワケでは
ない。にも拘わらず平八郎は、世の中の殆どが完くの郷原野郎だと考えた。狂狷すら
極少数だと考えたのだ。其処には、自らを、中庸には至らぬまでも極少数派の狂狷と
規定しようとする、一種の<特権意識>が仄見える。
 確かに、平八郎の言い分に、正義はあった。しかし、平八郎は、標的とした跡部を
討ち取ることが出来ぬまま、二百七十人以上と言われる死傷者を出し、一万八千世帯
以上の家を焼いた。折からの食糧不足の中、家族を殺されたり怪我を負ったり家を焼
かれた者こそ、「こんきう」の極みだ。到底、是認できはしない。
 医は仁術、と迄は云わないが、当時の知識層を構成し且つ怪我人の側に立つのは、
医家であろう。此処で、天保期の大坂に於ける風聞や事件に関する資料を偏執的な迄
に書き残した医家を紹介しよう。名無権兵衛さんだ。……実は、名前は分かっていな
い。ただ、『浮世の有様』と銘打った、私的な記録集を残した彼は、「大坂の医家」
であったらしい。この『浮世の有様』が絶品なのだ。役所の史料と思しきものから姿
勢の風説、刊行物まで筆写している。大塩の乱に関しての資料も多く、積極的に関係
者を取材してまで、事実を追究しようとしている。タダ者ではない。膨大なエネルギ
ーを要したであろう。……しかし、『和漢三才図会』といい、「大坂の医家」は暇人
ぞろいだったのか? まぁ、如何でも良い。オカゲで楽しむことが出来るのだから。
 『浮世の有様』、とにかく面白い。大塩の乱に話題を限っても、楽しい情報が満載
だ。例えば、大塩一党は「東照大権現」の旗印を押し立てて乱妨し回ったとか、(大
塩家の裏手にあった)東照大権現を攻撃し以て防備責任者の町奉行・跡部山城守を誘
き出そうとしたとか、乱後に姿を消した大塩の行方を知るため役人たちが口寄せ(霊
媒に死霊を依らせ不知の情報を得ようとするオカルト術)に頼ったとか、平八郎はキ
リシタンを捕まえた経験があり斯道の知識を有していたのでバテレンの秘術で姿を消
しているのだとか、その他ドタバタ劇が枚挙の遑がないほど羅列されているのだ。記
録者は、怪しげな風説をも、「馬鹿馬鹿しい」と云いながら、ウヒョヒョと喜びなが
ら書き記したに違いない。

 ことほど左様に大きく取り上げられた大塩の乱に対する記録者の態度は、何処とな
く否定的である。乱は、平八郎の、高慢だとか何だとか、パーソナリティーの特殊性
によって、偶々起こったとする立場なのだ。もとより、如何な事件でも、何らかの人
格の特殊性に影響はされるのだが、ソコん所を強調する立場だ。しかし、かと云って、
暴動の標的となった悪徳官僚らに、擦り寄っているワケでもない。記録者の立場は、
より精確に云えば、こうだ。<大塩の馬鹿野郎がハネっ返って騒いだから大迷惑だ。
それにしても奉行所は情けない。たかが二三十人の与力・同心が、烏合の衆を引き連
れて乱暴したとて、如何程のことやある、即時に鎮圧して然るべきだろうが。奉行所
がモタモタビクビクして手を拱き、大塩一党を放置したから、死ななくても良い者が
死に傷付かなくても良い者が傷付き、焼け出されなくても良い者が焼け出された。だ
いたい、武士が権を執っているのは、イザって時に矢面に立って闘い社会を守る筈だ
ったからだ。そうでなくて、なんで偉そうにさせるもんか。臆病者どもめ>。煩雑だ
から一々原文は掲げない。興味のある人には、三一書房『日本庶民生活史料集成』第
十一巻をお読みいただくとして、記録者、かなり激した調子でまくし立てている。近
世未曾有の人災を前に、親とはぐれ泣き喚く子供、呻き苦しむ人々を前に、一人の医
家が感じた率直な気持ちだろう。暴動の張本たる大塩を批判しつつも、無為無能のま
ま大坂を燃えるに任せた奉行所の連中、彼らの退廃をこそ、記録者は厳しく糾弾して
いる。そんな記録者だから、乱後も屡々武家官僚たちに批判の矢を向けている。大塩
に対する明らかなシンパは見せないが、書いていることは平八郎と似たようなモンだ。
結局する所、平八郎の主張は、博く共有さるべきものであったようだ。ただ、遣り方
がマヅかったに過ぎない。

 あぁ、また行数が予定を超えてしまっている。まぁ、悪徳官僚に心の底までは迎合
していない『浮世の有様』の記録者、巷間で流布していた武家官僚に対する悪口雑言
を多く記録している。ソレだけ官僚に対する不満が博く流布していた証拠ともなる。
大目付に栄転が決まった悪徳官僚・跡部山城守が、大坂を去るときのエピソードだ。

先月被召帰跡部山城守、信濃守と改名し大目付に転役す。此人元来身に徳分多き役な
る事ゆへ長崎の町奉行になりたがり、種々様々に手入せしかとも、兄の先生の手にも
及はざりし事にや。案外のことに転役す。此人在坂中、灘辺の豪家大坂市中等にて仰
山に金子を借入しが、町奉行の役柄を思ひしにや、市中の借財には聊の仕法立なして
引取しが、灘辺の豪家の向は悉く踏散して引取しゆへ、何れも大に迷惑すと云事也。
自己もまた長崎奉行の心組違ひて聊も賂ひ手に入らざる大目付に転役せしかは、主従
共に望を失ひ大に困窮すと云。おかしきことゝ云べし

 名誉の職、大目付より袖の下を多く得られる地方官になりたがったというのだ。こ
こまで腐敗すれば、却って尊敬に値する。人間、なかなか此処まで腐敗できないもの
だ。何事も、極めれば、道。因みに跡部は、この後も要職を歴任、閣僚級の若年寄に
出世、慶応四年すなわち明治維新の年まで生き残る。
 確かに組織の枢要に無能腐敗の者が蔓延っていても、何とかなる。却ってマトモな
人間ばかりだと組織の小回りが利かなくなる場合だってあるだろう。しかし、それは、
慣性の法則のみで時代が動いているときの話だ。動く時代にトンチンカンな奴が組織
の枢要に、あろうことか頂点に立ったとき、組織は崩壊の道を辿ることになる。そろ
そろ次回は、腐敗官僚の御大に、御登場願おう。「めっぺらぽんのすっぺらぽん」、
今回書き連ねた番外編の〆である。
(お粗末様)



#1076/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 7/18   0:41  (200)
読本八犬伝「番外編 めっぺらぽんのすっぺらぽん」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝番外編「めっぺらぽんのすっぺらぽん」

 <天保の改革>と謂うのがあった。八犬伝が刊行されていた時代のことだ。十九世
紀前半、既に貨幣経済が進展しつつあった。封建制を出自とする幕藩体制は内部に矛
盾を蓄積していた。……などと言うと如何にも小難しいが、要するに、幕府や藩によ
って人々を支配する政治形態が、時代遅れになっていたのだ。改革が必要だった。
 改革の断行には、強力なリーダーシップが必要だ。但し、問題は、そのリーダーシ
ップとやらの<質>だ。無能なトンチンカンが、カネコネコビの三種神器を以て、あ
ろうことか権力の中枢に迄食い込み、偉そうにのさばるのも、「リーダーシップ」の
一形態なのだ。<天保の改革>は、そういう「リーダーシップ」に引きずられた失政
に対する呼称である。この失政が、二十年後に実現する倒幕の遠因となった。
 ところで、「四海こんきう」末尾で、悪徳官僚・跡部山城守良弼(アトベヤマシロ
ノカミヨシスケ)の小人ぶりを紹介したが、「長崎の町奉行になりたがり、種々様々
に手入せしかとも兄の先生の手にも及はざりし事にや。案外のことに転役す」(『浮
世の有様』)とあったことを覚えておられようか。……書いてあったのだ。どうやら、
彼の兄は、幕府人事に影響を及ぼし得るほど、権勢を誇っていたらしい。
 血は争えない、そりゃぁ、弟が悪徳官僚なのに、兄が清廉潔白ではいられないだろ
う。そう、良弼の兄こそ、腐敗官僚の中の腐敗官僚、ザ・モースト・トンチンカン・
オブ・ジ・エド・エラ、悪政<天保の改革>をリードした御勝手掛(オカッテカカリ)
老中、水野匠頭忠邦(ミズノタクミノカミタダクニ)である。
 忠邦は元来、九州・唐津藩主であった。九州は古代から、異国との窓口であった。
江戸期、鎖国下でも、長崎は開港していた。唐津藩は、国家防衛の最前線/長崎への
駐屯を義務づけられていた。最前線の防衛を任された者が、江戸に居続けする老中に
はなれない。しかし、忠邦は、老中になりたかった。
 唐津藩主であっても、能力があれば、まずは他の藩に異動して、老中や大目付など
幕閣に就任させる場合はあり得た。しかし、忠邦は、無能だった。そうまでして、老
中に据える器量の人物ではなかった。とはいえ、忠邦は、老中になりたかった。最近
ハヤリの<自己主張>といぅヤツである。この「自己主張」とは多くの場合、自己を
全く客観的に見られない者が、ハッタリや他人への誹謗中傷によって相対的に自己の
上昇を図る、即ち己を持てる器量以上に見せようとするエリマキトカゲ、<自己失調>
に他ならないが、忠邦が、まさに、そうであった。女々しい兎野郎だ。
 忠邦は、賄賂をばら撒いた。まずは唐津から浜松への異動に成功した。更にカネコ
ネコビで、出世街道を進んだ。途中、幕閣への登竜門でもある、大坂城代に就任する
(文政八年)が、役職をカサに豪商から大金を恐喝、あ、いや一応は借りたのだが、
思いっきり踏み倒している。実弟・跡部山城守と同じ事をしている。さて、その金が
如何に消えたか? 因みに唐津藩主の頃は、大坂にある蔵屋敷を通じて当地の豪商か
ら矢張り金を借りまくっていたが、ソレは出世の為の賄賂に用いたようだ。勿論、こ
の借金も踏み倒している。そうこうするうち、遂には天保五年、老中にまでなった。
 しかし、就任直後は、ネコを被っていた。自分を引き立てた権力者の手前、余り派
手なことは出来なかった。要するに、忠邦は<優等生>、周囲に、特に上位者に迎合
する才能を多分に持っていたのだ。その権力者、「大御所」と呼ばれていた人物が死
ぬと、自分を引き立ててくれた者達さえ排除し、同じ穴の狢ばかりで周囲を固め、そ
してトンチンカンな失政を次々に強行した。それまでバラ撒いた賄賂を回収しようと
したのか如何か知らないが、今度は専ら収賄を重ねた。これを、<天保の改革>と呼
ぶ。因みに、収賄が後に彼の命取りになる。贈賄側が御丁寧にも賄賂の帳簿をつけて
たりしたもんだから、それが証拠となって、失脚を余儀なくされたのだ。
 ところで、彼は二度死ぬ、ぢゃなかった、二度も失脚する。だいたい失脚は一度と
相場が決まっているのだが、二度もするのだ。こんなに失脚したヤツも、そうはいな
い。実は一度、返り咲く。勿論、贈賄に依ってだ。大奥に贈賄して復帰のキッカケを
掴んだと噂になった。馬琴なら、こう云うだろう。「女謁内奏は佞人の資なり(ニョ
エツナイソウハネイジンノタスケナリ)」。ただ、一度目の失脚が決定的であり、復
帰後は権勢が殆どなかった。
 一度目の失脚は、庶民にとって朗報だった。役宅/官邸から私邸に引き上げる忠邦
を数百の群集が襲い、投石したという。とことん嫌われていたのだろう。……多分、
忠邦も庶民が嫌いだっただろうけど。一回目の失脚は決定的であったが、二回目の失
脚は致命的であった。彼は犯罪者として領地を取り上げられ、軟禁状態のうちに死ん
だ。<体の良い獄死>である。まぁ、グダグダと当時の政治課程や「改革」の評価な
んかしても面白くないだろうから、史料を掲げる。
「四海こんきう」に続いて「浮世の有様」から、当時流行したチョボクレを紹介しよ
う。

ヤンレー私欲如来――。抑(ソモソモ)、水野が工(タクラ)みを聞ネェ。する事な
す事忠臣めかして天下の政事を自(オノ)が気儘にひつかき廻して、なんぞといふと
は寛政(カンセ)の倹約、倹約するにも方図(ホウズ)が有(アラ)ふに、どんな目
出たひ旦那の祝儀も献上(ケンジョ)の鯛さへお金で納ろ。あんまりいやしひきたな
い根生(コンジャウ)、御威光(ゴイコ)がなくなる。塩風くらつてねじけた浜松、
広ひ世界をちいさい心で、世智弁斗(バカ)りじや中々いけネェ。隠居が死なれて僅
半年、立や立ぬに堂寺潰て御朱印取上、あまだなこはして路頭に迷はせ、芝居は追立、
素人付合ちつともするなの、千両役者も浄留り太夫も、めつぺらぽんのすつぺらぽん
と坊主に仕やうの、奴に仕やうの、あげくのはてには義太夫娘を手鎖で預けておやじ
やお袋ひぼしで殺て、面白そふなる顔付するのは、どんな魔王の生れ替りか、人面獣
心古今の佞姦、扨々(サテサテ)困民世間の有様、老中(ロウジュ)で居ながら論語
も読ぬか、よひも悪ひも先の旦那が仕置た事だに、三年所か一年待たずに、あんまり
無慈悲の改革呼はり、世の中洗ひや身上直しを出しに遣って下の難儀にや少しも不構
(カマハズ)、お坊さんそたちの旦那をあやなし、夜昼かかつて己の邪魔なる桜田、
林も美濃部もみじめを見せつけ、初手は自分が握つた親玉、ちよひと乍(ナガ)らひ
つくりけひつて、尤(モットモ)らしく何処を押へたら、そんな音があるやら。忠臣
ぶつても今までお金を取られた諸侯のお臍がびらつく。矢部も最初は道具に遣つて、
そろそろすかしてすとんと落して、其跡自分のお部屋のおぢさん、さつさと引出しむ
やみに立身、一つ穴からむじなや狐が段々はひ出し、とどの詰りはどんな底意が有か
もしれねへ。寛政本間の名代の越中ふんどしかつぎにや、よつてもつけねひ、白河気
取は見下た大馬鹿、一体生れが違て居るものに。世上の権門、厳敷(キビシク)止さ
せ、自分独でどつさり〆上、強欲非道は日増に増長、あのまま置たら花のお江戸はこ
もつかぶりと宿なし斗で居処が有めへ。時に水戸さん、どふしたものだよ、面白おか
しく賢人めかして、評判させても逆巻水野の勢ひこはいか、闇もやたらに鎧着、獅子
狩お山に引込、ためいきばかしてだまつて見ていちや昔のお定(ジャウ)さつぱり違
ふぞ。一つふんばりや旦那を諫めて、狐も狸も化けの生体(ショウタイ)直ぐ様顕し、
世界の人をば救はニヤなるめへ。今の景色で三年置たら、すてきにたまげたそうどが
おころふ。いつか一度はお為になる様(ヨ)な目鼻の揃ふた人が出かけて、押付太田
も再勤させます。其の時初て天下泰平天下泰平。(引用終わり)
 秀作ラップだ。特に「めっぺらぽんのすっぺらぽん」というフレーズが効果的に使
われている。禿頭を表現した擬態語であるが、間抜けな響きの裡に、吐き出したよう
な辛辣さを秘めている。この言葉を投げつけられた者は、己が批判されていることを
痛感せずにはいられまい。
 言うまでもないが、「塩風」は大塩平八郎の乱、「隠居」「先の旦那」は大御所、
「越中ふんどしかつぎ」「白河」は白河藩主だった松平越中守定信であり、他の人名
は当時の幕閣である。江戸城で演じられた政治の三文芝居を描写している。興味深い
のは、忠邦を非難するに当たって、定信を引き合いに出している点だ。定信は必ずし
も万人に愛された政治家ではなかったが、いざ政治が腐敗すると懐かしく思い出され
る人物であったようだ。

 忠邦の失政は枚挙に遑がないけれど、此処で一つだけ挙げる。忠邦は、こともあろ
うに、暫く行われていなかった、将軍の日光社参を強行した。現職の将軍が、自分の
権威の源泉である、初代・家康の墓参りをしたのだ。こう書くと何でもなさそうだが、
タダ事ではないのだ。将軍独りが行くのなら良いのだが、大名、旗本、御家人、陪臣、
十三万三千の完全武装集団を率いて江戸城から下野国日光まで、パレードしやがるの
だ。これに、人足二十六万八百三十人、雑兵六十二万三千九百人、馬が三十二万五千
九百四十頭付く。約百万の大軍団だ。ちょっとした戦争ぐらい、金も手間もかかる。
 ときに幕府の財政は逼迫していた。幕府最大の財産である、<公儀>としての<権
威>もしくは<信頼>もしくは<怖さ>も、徐々に低下していた。上記の如きチョボ
クレが流行すること自体、既にバカにされている証拠だ。また、それだからこそ忠邦
は、一発キラビヤカな墓参りをカマして、権威の復旧を果たそうとしたのかもしれな
い。
 思い付くのは勝手だが、実際に強行した点が、無能の所以である。金も手間もかか
る日光社参は、幕府に対してのみ負担を強いるものではない。沿道の住民にも、臨時
徴発をかけた。そして最大の問題は、参加する旗本・御家人に対して大きな負担を強
いた点だ。幕府は、親藩・譜代・家門の大名と、旗本・御家人によって、直接支えら
れていた。経済が十二分に発達していた当時、彼らは社会の寄生階級に過ぎなくなっ
ていた。しかも、彼らの収入は領地からの年貢や主君からの扶持米だが、原則として
半永久的に据え置かれるものであり、ベースアップは望めない。しかし支出は増えた
から、貧乏になる宿命だった。家計がピーピーなのに、その上、負担を強いられたの
だ。
 日光社参は一種の軍役である。だからこそ、完全武装で参加せねばならない。そし
て、封建制は、<御恩(領地や扶持米の授与)>と<奉公(軍役)>の交換で成り立
っているのだけれども、言い換えれば軍役は、武士階級の自己統一性を保証するもの
であった。普段着では行かれない。
 太郎興邦(オキクニ)という鉄砲組同心がいた。サンピン・レベルの御家人だ。将
軍の鉄砲隊を構成する彼は、社参に当たって、新しい十匁(モンメ)銃を欲しがった。
値段は五両である。しかし、そんな余裕はなかった。彼は如何したであろうか? 十
四歳、紅顔の美少年である彼は、薦(コモ)を抱えて夜道に立ち、通行人の袖を引い
て肉体をひさいだであろうか? いや、夜鷹の料金は二十四文、五両といえば二万文
に当たるから、延べ八百三十四人を相手にせねばならない。ほとんど<千人斬り>だ。
そんな時間はなかった。ならば、芳町の陰間茶屋に身を売ったか? しかし、芳町の
陰間は、だいたい十歳かそこらから訓練を受けたプロフェッショナルであるから、十
四歳の彼は、既にトウが立っていた。ならば、羽振りの良い念者をタラシ込んで、稚
児におさまったか? 
 正解は、<オジイチャンに、おねだりした>である。このオジイチャン、頑固で有
名なのだけれども、どうやら孫には甘かったらしい。大切にしていた世界に一冊しか
ない本、実は彼が書いたのだけれども、人々が再三求めたにも拘わらず決して手放さ
なかった本を、五両で売った。孫に十匁銃を買い与えた。五両、大金か否かは意見が
分かれるところだ。米なら、だいたい四百キロから八百キロほど買える。しかし、場
合によっては、餅を五つしか食えない。上記のように夜鷹なら八百三十四回分だが、
吉原の遊郭には十回しか行けない。十回と言っても、最初から遊女と仲良くはなれな
いから、実質は五六回分だろう。
 その後、オジイチャンは売った本を如何しても買い戻したくて色々と工面したよう
だが、遂に五両を調えることが出来なかったという。元々は蔵書家だったオジイチャ
ンだが、孫のために御家人株を買ったとき、めぼしい本をあらかた売り尽くし、金を
作っていた。もう、金目のモノは残っていなかった。そう、太郎は元々町人で、金で
御家人の身分を買ったのだ。何連にせよ、この御家人一家にとって五両は、間違いな
く大金であり、日光社参によって、その後の生活に影響を受けたことにもなろう。日
光社参というトンチンカンな「改革」は、幕府自らの首を絞めただけではなく、幕府
を直接支えている旗本・御家人の生活をも圧迫したのだ。因みに、売り払った本のタ
イトルは「兎園小説(トエンショウセツ)」、オジイチャンの名は滝沢解(タキザワ
トク)、曲亭主人や馬琴などのペンネームで知られた、有名作家である。

 此処に於いて、権力というものに就いて思い巡らさざるを得ない。ゴロツキ老中・
定信は、ゴロツキであるが故に、己の意志にのみ忠実であることを以て、情実を排し
綱紀を粛正し、財政でも一定の成果を挙げた。世界を変えられたかもしれない。しか
し、ゴロツキであるが故に、その独善性ゆえに、改革半ばにして、老中の座から退か
ざるを得なかった。結局は、世界を変えるには至らなかった。
 一方、忠邦はカネコネコビの三種神器を以て、老中にまで登り詰めた。彼は上位者
に迎合する才能を多分にもっていた。定信と対照的な<優等生>であった。そんな優
等生だからこそ、無能であるのに、権力の中枢にまで食い込んだのだ。勿論、無能と
言うのは、権力を振るう力量に於いてだ。権力を握ることに於いては、この優等生、
すこぶる有能であった。何せ、唐津藩主の立場から、器量もないのに老中にまでなっ
たのだから。
 権力を握るための才能と、権力を振るう才能は、如何やら全く別物であるようだ。
そして、両者を兼備するケースは、極めて稀だろう。ほぼ確実に、存在しないと思え
るほどだ。そして、当然、権力を握る才能に恵まれた者が、権力を握るに至る。故に、
権力を握った者は、ほぼ確実に、権力を振るう器量を有していないと言える。それが
権力の宿命と言えば、それまでなのだけれども、だからこそ、絵空事の中では、理想
的な君主、権力を振るう器量に恵まれた者が権力の座に就いている。これは、絵空事
でしかないが、絵空事でなければ存在しない事象なのだから、仕方がない。
 偉大なる作品は、強い力をもって、読者に夢を見せてしまう。既に庶民の一揆や暴
動は、単に目先の経済的な事由、年貢の減免や食い物の強奪を求めるものではなく、
政治構造の変革を、<世直し>という漠然とした形ではあったが、指向するようにな
っていた。大塩平八郎の乱も、権力が<絶対>ではなく、変革し得るものだとの前提
に立って、起こされた。
 八犬伝中の里見義実は、冒頭近く、安房滝田城主になる過程で何度か、「民は国の
基」と語る。これは別に、義実が思い付いた言葉ではない。儒教政治学の基本原則だ。
江戸の五代将軍・綱吉が下した或る布告も、このフレーズで始まっている。そして、
その布告は、忠邦が天保の改革をスタートさせるに当たって役人達に送付した通達の
冒頭に引用されてもいる。江戸期、「民は国の基」は、(建前上)幕府の政治姿勢を
示す言葉でもあったのだ。しかし、如何やら現実はそうでなかった。だからこそ、一
揆や暴動や平八郎の乱が起こったのだろう。
 再び云う、偉大な作品は、強い力をもって、読者に夢を見せてしまうのだ。八犬伝
は、字面では、決して幕府を批判するが如き物語ではない。幕府が標榜する建前を、
忠実に描いているようにも見える。しかし、幕府の現実は、<天保の改革>を見ても、
その建前と懸け離れて、腐敗していた。逆に言えば、八犬伝は、幕府の現実から懸け
離れた理想像を描いて見せた。これほど辛辣な、現実への批判はなかろう。ゴロツキ
の所行である。適当に容認し、適当に逃避する、そんな柔弱な、優等生的な、権力へ
の迎合が欠片も見られない。
 当時の読者は、八犬伝を如何に読んだだろうか。作中に描かれた、極めて魅力的な
権力を、如何に感じただろうか。ふと目を上げれば、ソコには腐敗した現実があった。
読者は、如何に感じたろうか。……解らない。民衆は、寡黙である。ただ、八犬伝が
刊行された後、歴史の流れは、たとえ一時期とはいえ、目の前の腐敗した現実を変革
しようとする、逞しい力が漲るものとなった。
 三度云う、偉大な作品は、強い力をもって、読者に夢を見せてしまう。その作品の
タイトルこそ、「南総里見八犬伝」である。
(お粗末様)



#1077/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 7/18   0:41  (200)
読本八犬伝番外編「京の都は変態だらけ」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「番外編 京の都は変態だらけ」

 八犬伝は、いよいよ大団円が近付いた終盤、突如として刊行形態が変になった。第
九輯下帙上、中と順調に流れてきたのに、続いて刊行されたのは、第九輯下帙之下甲
号、同乙号上套、同中套……。ズルズル引き延ばされる格好になった。どうやら、何
かの事情で、エピソードを挿入したのだろう。その第九輯下帙之下甲号(天保十年一
月刊行)、同乙号上套(同十一年一月刊行)に収められている挿話は、お伽噺のよう
で、ちょっと他の部分とは雰囲気が違う。絵に描いた虎が実体化し京の都を暴れ回る。
我等が色白ムチムチ美少年、犬江親兵衛仁が退治するのだけれども、何やら謎めいて、
釈然としない。長くなるが、要約して紹介しよう。

 丹波国桑田郡薬師院村に竹林巽(タケバヤシタツミ)という名の浪人が住んでいた。
元々九州は豊後、大友家の家臣だった。友人である同僚の妻と不倫し駆け落ち、流れ
てきたのだ。多少の絵心はあったものの、手に職はなく、貧窮していった。妻が隣家
に住む老絵馬師の家政婦として働いた。よく仕えたので気に入られ、夫の巽も店員と
して雇われた。外面の良い夫婦だったので、身寄りのない老人の養子に迎えられた。
家業を継ぐことになった。程なく老絵馬師死んだ。夫婦は本性を現した。働きもせず
に過ごし、絵馬屋の営業免許を取り消された。老絵馬師の菩提を弔わず、墓を朽ちる
に任せた。巽は急に病を得て、失明した。巽は、失明を仏罰だと思い当たり、老絵馬
師の墓を甲斐甲斐しく掃除し、精進生活に入った。禁酒し、妻と褥を別にした。快復
した。そんな或る日、大寺の稚児が訪ねてきた。稚児とは、上級僧侶の身の回りを世
話する為に寺に住み込み奉公した、少年である。僧侶は女色を禁じられていたが、男
色は何となく許されていたようで、「稚児(チゴ:八犬伝の表記は「行童」)」には、
男色の受け手との密かな含意がないでもない。
訪ねてきた美しい稚児は巽に、古代の画伯・巨勢金岡(コセノカナオカ)作という虎
の画を見せた。手本にして、虎の絵馬を描くよう注文した。ところで画虎には、瞳を
描き入れていなかった。金岡が嘗て描いた仁和寺の画馬は、余りに真に迫っていたた
め魂が宿り、折々絵から抜けだして徘徊したとの伝説が残っていたりする。そんな金
岡だったから、虎を描いたは良いが、実体化すると困るので、ワザと瞳を描き入れな
かったというのだ。
 巽は、人間離れした雰囲気の稚児を、寺に安置されている寅童子(所謂十二神将の
一)の化身だと気付いた。素直に注文を受けた。稚児は、決まって巽の妻が不在の折
に訪ねてきて、絵の手ほどきをした。巽は腕を上げた。そうこうするうち、妻が稚児
の存在に気付いた。妻は巽が稚児を引き込んでイケナイ事をしていると決めつけた。
そんな妄想に取り憑かれること自体、変態性欲の発露だと思うのだが。巽の妻は、嫉
妬に狂った。巽を厳しく責め、小刀を執って襲いかかった。知人が飛び込み、仲裁し
た。巽は、妻を宥めるためか、再び枕を並べるようにした。酒を飲み、生臭物を口に
し、酒を飲んだ。爛れたセックスに溺れた。精進を破り、再び堕落した生活を送るよ
うになった。一方、妻は夫婦家喧嘩を仲裁してくれた知人に、巽と稚児を二度と会わ
せない手だてを相談した。知人は稚児を銃殺するよう提案、妻の躊躇いを無視して、
準備を進めた。或る日、稚児が訪ねてきて、穢れた巽に、注文の取り消しを通告した。
返すこと言葉なく項垂れる巽。稚児が出ていく。木陰に潜んでいた知人が銃撃する。
頽れる稚児、と思いきや、血塗れになって倒れたのは、巽の妻であった。厳密な態度
を採るならば此の稚児と妻の入れ替わりの部分、馬琴の表記は言葉足らずだが、まぁ
良い、話を進めよう。目の前で妻を撃ち殺された巽が飛び出して、知人を撲殺した。
激情に駆られて知人を殺した巽だが、我に返って逐電。画家と称して京に上ったが、
稚児に教わって上達した筈の技は何故だか失われており、落書きすら描けぬようにな
っていた。稚児から預かった虎の画幅を売ろうと考えた。時に先代将軍・義政は東山
・慈照寺銀閣に隠居していたが、民から重税を絞り上げ、その金で珍器奇物を買い集
めていた。巽は、骨董商に仲介を頼んだ。首尾良く、管領・細川政元に取り次いでも
らえることになった。
 因みに此の頃、主命によって犬江親兵衛仁(イヌエシンベエマサシ)が京を訪れて
いたが、政元に気に入られ抑留されていた。政元は、こう考えたのだ。「他は武勇と
表裏にて女にして見まほしき美少年なるものをモシ●(ニンベンに尚)我臥房の友と
做さば恩愛是より濃にして年闌ずとも我股肱の家臣にならまく願ふべし。我は愛宕の
行者にあなれば敢女色に親しまず男色も亦今までは然ばかり懸念せざりしかども只是
他が与ならば多年の行法空になるとも惜むに足らず悔もせじ。艶簡をや遣らん媒酌を
もて思ふ心を知せんか。否、それよりもうちつけに口説てこそ……」。<男の身勝手>
全開である。欲望の暗い炎を燃やしつつ政元は仁を軟禁した。
 政元は一応の知性は有していたが、トンチンカンな所がある。虎の画幅を見た政元
は、瞳を描き入れるよう巽に命じた。金岡の伝説、瞳を入れたら虎が実体化するとの
言い伝えは、未完成の絵を高く売りつけようとする詐術に過ぎないと、キメ付けたの
だ。命じられた巽は、恐る恐る画虎に瞳を描き込む。拙くなっていた筈なのに、何故
だか此の時ばかりは、巧く描けた。点晴された画虎は、まるで生きているようだった。
一陣の風が吹き込んできた。画幅が揺れた。と、見る間に、画虎が実体化、巽を食い
殺し、生首をくわえ、飛び出していった。警備の兵は蹴散らされ逃げ惑い、何等、有
効に機能しなかった。翌日、巽の首が洛外で発見された。刑の作法に則り、晒されて
いた。
 画虎実体化の責任を追及された政元は、「妙な絵を持ってきたヤツが悪い」と、骨
董商を死罪に行った。理不尽である。馬琴は此処で「苛政は虎より酷しとぞいふなる、
古人の格言思べし」と論評を加えている。でもまぁ、此の論評は、馬琴も自らフォロ
ーしているけれども、適切とは言い難い。実は、此の「骨董商」悪徳商人だったのだ
から、理不尽に殺されたからといって、読者は余り同情しないのだ。しかし、此処で
「苛政は虎より酷しとぞいふなる、古人の格言思べし」と云いたかったからこそ、馬
琴は云ったのだろう。まぁ、云いたかったんだから、「適切」でなくとも、仕方がな
い。だいたい、実体化した画虎、<悪役>との印象が薄い。巨大で槍も刀も通じない
虎が暴れ回るのだから、さぞ京の市民は酷い目に遭っただろうと思いたくなるのだけ
れども、そんなことはないのである。死んだのは巽と、実体化したときに取り押さえ
ようとした雑兵、または政元の命令で捕縛に向かった狩人、風聞では市民も犠牲にな
ったとされるが確かではない。傷付いたのは、上記の如く虎を捕縛しようとした者達
と、若干の悪役だけなのだ。また、この事件に乗じて里見家に敵対し仁を陥れようと
した悪役二人が、美しいお姫様を浚って京から脱出しようとするが、その悪役を傷つ
け、お姫様を救うのは、実は此の虎だったりする。抑も此の虎は寅童子という仏様が
化けた稚児が、巽に預けた絵から実体化したモノだ。ソレだけで、<悪役>ではない
気がする。
 さて、骨董商を死刑にした政元だったが、もとより、そんなことで責任逃れは出来
ない。室町幕府での発言力も低下し、如何しても虎を退治しなければならない仕儀に
追い込まれた。しかし、今まで政元の権勢に媚びて、好き放題にのさばっていた者達
は、殆どが有効に機能しなかった。怪我をしていたり、虎退治から逃げ回ったり。唯
一頼りになる親しい男(秋篠将曹)は、朝廷の警護役であるから、虎退治に出動出来
なかった。失望し孤立感に打ちひしがれる政元に、救いの手を差し伸べたのは、仁で
あった。というか、監禁され貞操の危機に瀕していた仁は、虎退治と引き替えに、安
房への帰国を願ったのだ。
 政元は悩んだが結局、仁の申し出を受け入れた。詳細は略するが、仁は首尾良く虎
を退治した。二本の矢で虎の目を射抜き、赤松の大木に縫い付けたのだ。虎は消滅、
代わって画幅の中に像が再び現れた。画虎の瞳は、描かれぬままの状態であった。仁
は抑留を離れ、目出度く安房への帰途に就いた。ちょっとした邪魔はあるが、まぁ順
調に旅を続けた。が、途中で馬が死んでしまった。虎退治でも仁と行動を共にし、功
績のあった名馬である。仁は丁重に馬を葬った。大きな布でくるんで埋めた。仁は此
の時、蘊蓄を垂れる。「我聞唐山古昔の制度に狗を埋るに蔽蓋を以し、馬を埋るに蔽
帷を以すといへり。この事礼記の檀弓に載てあり」(百六十六回)。因みに、礼記檀
弓下第四に、仁の引用箇所があるが、その直前に、有名な句「苛政猛於虎也」がある。
馬琴が、悪徳骨董商の刑死に当たって唐突に持ち出した「苛政は虎より酷しとぞいふ
なる、古人の格言思べし」の典拠である。
 仁が安房へと向かっているとき、京では、ちょっとした事件が起こっていた。虎の
画幅は当初の予定通り、足利義政の所蔵となっていた。珍しモン好きの義政は、この
画幅を座右に掛けて喜んでいた。フラリと禅宗の高僧・一休宗純が現れた。一休は、
近世に於いても有名な坊様で、何種類か伝記も刊行されたようだ。その中での一休さ
んは、頓知が利くといぅか人を舐めきっているといぅか、奔放といぅか天衣無縫とい
ぅか、まぁとにかく変なヤツだ。「衆道狂い(男色が好きで好きで堪らない)」と暴
露され、少年にラブレターを送ったり得意の頓知でウマく思いを遂げたりしている。
また、能の大成者・世阿弥のパトロン&愛人だった室町幕府三代将軍・足利義満に、
絵の虎を捕らえよと命じられ、「だったら此の場で虎を絵から追い出してみろ」と切
り返したって逸話も残っている。天皇の落胤だとも伝えられている。その一休さんが
突如として義政を訪ね、云いたい放題に諫言する。「虎が暴れ回ったのは結局、お前
のセイだ!」と。抑も虎の画幅が持ち込まれたのは、義政が珍器奇物を好み金に糸目
を付けずに買い漁っていたからだ。そうでなきゃ、悪徳商人が跳梁し、怪しげな物を
売りにも来なかった。そんな放蕩ばかりして、政を顧みないから、世が乱れているの
だ。亡国である。亡国は、妖怪の跳梁によって、予言される。今回の画虎は、まさし
く天の警告であったと云うのだ。
 ならば一休さんは、画虎が実体化して暴れたことを肯定しているのかと云えば、聊
か歯切れが悪い。続けて、こんな事を言っている。「譬ば、本性奸佞にて、且邪智あ
る者、或は亦庸才なるも、憖に漢学して眼其用を做すときは、心高慢り己に惚て、博
に誇り俗を欺き、利を尋ね名を鬻ぎて、反て身を修め心を正しくし、家を成し、道を
行ふ、真の学問には疎にて、只世俗を非とし賤しめて、身は是魔界に在るを思はず、
甚だしきに至りては、乱を起して刑せられ、衆と争ふて兵せらる。かくの如き白物の、
悪名を貽すが如きは、瞳子なかりし這虎の、眼に点して遂に那禍事を惹出せしと、亦
年を同くして論ずべし。……中略……眼目の資助は人によるべし」
 即ち一休さんは、虎の実体化を政権の腐敗・退廃のためだとして責任を追及しつつ
も、虎そのものに対しては否定的なのだ。また、従来、八犬伝読みの先人たちは、こ
の画虎実体化事件を、大塩平八郎の乱に重ねて見てきた。是認すべき解釈であろう。
確かに大塩の乱の首謀者、平八郎の、高慢だとか何だとか、特殊なパーソナリティー
故に起こされたものだとも、当時は説明されていた。まだ幕府の権力は強大だった。
少なくとも公刊の場で、あからさまな批判は慎むべきものだった。コレは則ち、幕府
に敵対する者を批判しなければならないことをも意味する。敵に敵対しない者は即ち
敵であるという、幼稚でヒステリックな心性が陥り易いトンチンカンを幕府が有して
いたならば、もしくは有していると目されていたならば、庶民は保身のために、幕府
に敵する者にこそ敵対する態度を見せねばならない。それは心の真実を表現したもの
ではない。処世術といぅヤツだ。
 とはいえ、私は馬琴が保身のために、心にもなく虎の実体化に、<下手に学問して
慢心した者が、智恵を付けて今まで見えなかったモノが見えだしたため不磨をもつに
至り、暴動を起こした>との隠喩を付したと断言したいワケではない。まぁ、その気
持ちは嘘ではなかっただろう。ただ、一休さんの会話文中、虎を聖なるものと規定し
て権力の腐敗・退廃を責める部分と、虎への否定的な評価の部分は、文章表記上かな
り接続がギコチない。義政への批判が飽くまで本筋であり虎への否定的評価は<取っ
て付けた>印象が拭えないのだけれども、まぁ、其処までは追及できない。義挙であ
ろうが暴動であろうが、多くの人々が命を落とし傷付き焼け出されたとしたら、その
行為を肯定評価することは出来ない。馬琴が、例えば一休さんの如き仏教者にシンパ
を抱いていたならば、禅宗を排撃した平八郎より一休さんの立場に近かったなら、尚
更だ。

 上記要約で、仁を除いて、キーパーソンは三人いる。巽の配偶者、細川政元、そし
て一休宗純だ。巽は重要な機能を果たすが、彼の転機は、駆け落ちも再び堕落して稚
児に見放されるのも、配偶者の存在に依る。鍵となるのは、配偶者の方である。この
キーパーソン、考えてみれば皆、変態だ。一休さんは、まぁ八犬伝中ではオイタをせ
ずに澄ましているが、要約の中に滑り込ませた如く、変態和尚だった(ことに少なく
とも近世ではなっていた)。政元が愛宕信仰、即ちダキニ法の熱心な行者であったこ
とは、どうやら事実であったようだから女色を注意深く避けた事も本当だろう。男色
に耽っていたとしても、不自然ではない。また、巽の妻も変態だ。一休さんと政元は、
その環境になければ、男色家にならなかったかもしれない。しかし、巽の配偶者だけ
は、別だ。彼女は、女性である。夫と見知らぬ少年が、一つ屋根で過ごし事を以て、
<ヤったんだろう!>とキメ付ける。かなり不自然である。そりゃぁ、「稚児」には、
僧侶の<性的対象(desired)>なニュアンスも確かにある。しかし、だから
といって、キメ付けるか? 普通。夫が斯道を嗜んだ<前科>があれば、また別だが、
そんな設定には、八犬伝は触れていない。
 ……巽の妻、夫との爛れたセックスに溺れるだけでは飽き足らず、夫と男の子のセ
ックスを妄想したのだ。一休さんや政元より、変態だ。二人は、まぁ性欲の存在を前
提とするならば、<仕方無しに>男色に走ったとも弁護し得る。しかし、巽の配偶者
には、そんな必要はない。<好きで>オトコとオトコのセックスを妄想したのだ。こ
れを変態と云わずして、何をか変態と云う。
 ……此処で疑問が涌く。巽の配偶者が女性であるとの前提に立てば、確かに変態だ。
では、男性であるとの前提に立てば? ……やっぱり変態である。しかし、変態は変
態でも、両者の質は相違する。巽の配偶者が男性であれば、唐突に夫が男色を犯した
とキメつけるトンチンカンは、不自然ではなくなるのだ。男性なら、男性である巽と
のセックスに溺れていたなら、他の男性と巽が仲良く一つ屋根で過ごせば、<ヤった
んでしょ!>と激しく嫉妬しキメ付けることは、不自然でなくなるのだ。そういえば、
巽の配偶者、当時の女性としては、何だか妙な名前だったが……。そうそう、巽の配
偶者の名前は、「於兎子」だった。「オトコ」である。だから、オトコとオトコのセ
ックスは、当たり前、自分が日常で、やってることなのだ。だから,夫と稚児の間に
性交渉があったと疑うことは、正当なのである。
 「●●子」といぅ女性名は、前近代には主に貴人に使われ、庶民や下級武士の女性
名に、決して使われなかったとは云わないが、少なくともフィクションの中で使った
ら不自然な印象を与えかねない。ベテラン作家・馬琴が、そんな失敗をする筈もない。
何かの必要があって、名付けたに違いない。「於兎(オト)」でも立派に女性名とし
て通用する筈なのに、わざわざ「於兎子」と付けた以上は、やはり「オトコ」と読ま
せたかったからだろう。
 但し、作中では、あくまで女性として描かれている。だから、オトコは完全なオト
コではないが、オトコの形質を有するモノと考えられる。巽はオトコを妻としていた、
だから他でもない「稚児」、性的な対象との含意を有つ種の男性が訪れる。配偶者で
あるオトコが、関係を邪推する。<男色>を媒介に、一連の事実は、イメージ上の連
鎖をする。とりあえずは、そういうことにしておこう。
 しかし、それだけでは不十分だ。単純すぎる。相手は馬琴だ。もう一歩だけ妄想を
進めよう。於兎子は、オトコである。但し、やはり、女性である。即ち、於兎子は、
或る男性をモデルにしていると、私は疑っている。そして、だからこそ、於兎子は稚
児と誤認され殺された。いや、ソレは誤認ではなく、両者は共通した何かだった。彼
女は、稚児でもあったのだ。そして更に彼女は、怨念を消去された八百比丘尼でもあ
る。同時に、仁の気が最高潮に達することを約束する存在でもあるのだ。この説明に
は、少々行数を要する。残念ながら、此処ではできない。またの機会、「虎、トラ、
寅」まで、ご機嫌よう。
(お粗末様)



#1078/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 7/18   0:41  (186)
読本八犬伝本編「虎、トラ、寅」伊井暇幻
★内容
伊井暇幻読本・南総里見八犬伝「本編 虎、トラ、寅」

 我、奇襲ニ成功セリ。太平洋戦争緒戦・真珠湾攻撃の成功を報告する電文である。
報告を受け、極秘裏に作戦を進めていた(積もりだった)関係者は、大きな開放感を
感じたことだろう。しかし、後の経緯は御存知の通りだ。奇襲とは結局、弱者の戦法
だ。多くの弱者は、当たり前の話だが、負ける。それ故か、弱者の軍勢には、裏切り
者が出易い。寄らば大樹の蔭とか云うが、「大樹」とは征夷大将軍の異称でもある。
幕府に楯突こうとしたが、裏切り者の密告によって失敗した奇襲事件を、読者は知っ
ている。<大塩平八郎の乱>だ。

 八犬伝読みの先人たちは、<画虎事件>に<大塩平八郎の乱>をも重ねて見てきた。
私も、半分だけ賛成している。事件解決後、一休宗純が唐突に現れて、虎の戻った画
幅を燃やす。そのとき一休さんは、事件の意味する所を彼一流に解釈する。画虎の出
現は、義政の驕った悪政が原因としつつも、虎自体に就いては否定的見解を示す。点
晴により画虎が実体化した事件は、学問を得たために従来は見えていなかったモノが
見えだし以て社会に不満を抱いた者が暴動を起こすのだ、と説明した。確かに平八郎
は、当時の篤学であったし、暴動を自ら経営する私塾の門弟によって組織した。一休
さんは、学問が社会不満を惹起した一例として捉えているのだろう。無知無学ならば、
社会に不満すら抱かないとの論理だ。必ずしも賛同できないが、まぁ、それは措く。
 一休さんが政治腐敗を批判する箇所と、学問によって社会不満を抱いたハネっ返り
を批判する部分とは、甚だ接続が悪い。まるで<取って付けた>ような印象だ。また、
登場人物の発話に著者は責任を持たねばならないが、著者の真意であるとは限らない。
里見義実を見よ、彼は物語序盤に於いて、故事蘊蓄を振り回し一応の状況説明を読者
に披露するが、度々的を外す。八犬伝に於いて、登場人物の発話は、他の(作中)事
実によって裏付けられねば信用できないのだ。
 地の文で馬琴が表現していることは、まだしも信憑性が高くなる。(作中)事実と
して、画虎は、寅童子の化けた稚児が携えて来た物であった。また、実体化した虎は、
悪役を刑戮し悪役に浚われた女性を救出する働きを見せた。虎は犬江親兵衛と対決す
るが、親兵衛に退治されることで、其の帰国の糸口となった。結果として、虎の存在
は、善玉の役に立つのだ。確かに虎は迷惑千万だが、善玉に本質として敵対する者で
はない。馬琴は作中で、こう漏らした。「苛政は虎より酷しとぞいふなる、古人の格
言思べし」。
 とはいえ、虎が迷惑であることに違いはない。虎は、悪政によって出現する。虎が
<世に出る>こと自体、悪政の証明だ。此の意味で、虎は悪政の象徴たり得る。
 「京の都は変態だらけ」末尾で、於兎子(オトコ)が或る男をモデルとし、稚児で
あり、八百比丘尼の成れの果てだと口を滑らせた。その理由を説明せねばならない。
まず、「或る男」とは誰か? 水野忠邦(ミズノタダクニ)が怪しいと、私は睨んで
いる。忠邦は、九州から出てきて老中になった。その過程で、なりふり構わず権力者
と取り巻きを媚び倒して出世した。大塩平八郎が乱を起こした時には、老中の座に就
いていた。定信ほどの能力はなくとも、一応は清廉であった寛政の遺老は既に絶滅し、
再び腐敗した者達が幕政が牛耳っていたのだ。於兎子は九州から出てきて、近所に住
む老絵馬師に取り入り尽くし気に入られ、巽と共に家業を相続することになる。九州
から出てきた調子の良い媚売媚五郎と媚子だ。忠邦と於兎子のキャラクターは共通す
る。だいたい、八犬伝では西日本が殆ど無視されているのだが、何の脈絡もなく九州
出身者が登場する。ソレだけで怪しい。
 上記の如きは情況証拠に過ぎないのだが、より確かな材料として、名前の一致を挙
げることが出来る。「忠邦」と「於兎子」、ほぉらソックリ! ……あれ? ごめん
なさい、落丁である。「忠邦」の本名は、水野於莵五郎忠邦(ミズノオトゴロウタダ
クニ)だ。「於莵五郎」。そして、「莵」はクサカンムリだから、何となく植物に思
えるけれども、いや実際に植物の名前にも使うんだが、「兎」の<別字>だったりす
る。内包が<兎と同じ>なのである。また、「於莵」と二字の熟語にすれば、<虎>
といぅ意味になる。中国・楚地方の方言らしい。馬琴は漢語のみならず、中国の俗語
に精通していたといわれる。馬琴が参考書にした『和漢三才図会』では、虎の別名を
「於兎」としている。「於莵五郎」は<虎五郎>、「於兎子」は<虎子>なのだ。ト
ラゴロウとトラコ、忠邦と於兎子の名前は共通している。
 於兎子は、その名の示す如く兎でもあるが、実は虎でもある。彼女が寅童子の化身
たる美少年に間違えられ、撃ち殺されたのは、伊達や酔狂ではない。彼女が<虎>で
もあったからこそ、重なって見えたのだ。
 於兎子/虎子のトンチンカン<巽と稚児はヤったに違いない!>が、画虎の実体化
の機縁となった。於莵五郎/忠邦/虎五郎のトンチンカンは、社会の不満を惹起し、
後に平八郎の乱のような暴動が再発することさえ、想定できる情況となる。「めっぺ
らぽんのすっぺらぽん」で紹介したチョボクレの終盤付近にあった、「今の景色で三
年置たら、すてきにたまげたそうどがおころふ(忠邦みたいなトンチンカンな老中が
馬鹿を続け三年も経てば、驚天動地の騒動が起こるに違いない)」である。
 此処に於いて、画虎実体化事件の真相を顕らかにすることが出来る。即ち、画虎事
件は、その刊行二年前に勃発した大塩平八郎の乱を読者に思い起こさせたであろう。
しかし、大塩中斎ばかりが学問の徒ではなく、平八郎だけが社会に不満を抱いていた
のではない。画虎事件は、大塩平八郎の乱のみならず、より一般化した<社会不満に
よる暴動>を示していると考えた方が、適切であろう。馬琴の目は、過去を語りつつ、
<いま>若しくは<未来>に向けられていたのだ。天保期、農民一揆や都市騒擾など、
暴動は激増し、そのまま維新期の動乱への雪崩込む。即ち換言すれば、八犬伝は、大
塩の乱が、平八郎の、傲慢だとか何だとか、個人の特殊なパーソナリティー故に起こ
された偶発的な暴動ではなく、必然として起こった事件だと、馬琴は指摘しているの
だ。「四海困窮、天禄永終」、政権に対する最悪の呪詛、脅迫である。<ゴロツキの
論理>だ。

 ……と、此処までは表層の話である。画虎事件は、どうやら平八郎の乱や忠邦と関
係がありそうだ。時事に関連させ、以て読者サービスしたのだと思われる。背景には、
ドル箱である八犬伝シリーズを延長させたい本屋の都合があったかもしれない。しか
し、これだけ派手なエピソードを挿入したのだ、下手な話なら、全体の構想からはみ
出すことになりかねない。八犬伝は既に二十五年もの長期連載となっていた。此処で
ストーリーの基層をブチ壊されたら、馬琴も堪らないだろう。八犬伝の構造に合致し
た解釈をせねばならないだろう。もとより馬琴は一筋縄で捕らえきれる作家ではない。
二本目の縄を準備しよう。インビな馬琴を、緊縛するのだ。

 ところで、画虎実体化事件に対する馬琴の態度を示した言葉「苛政は虎より酷しと
ぞいふなる、古人の格言思べし」は、礼記・檀弓下第四にある有名な句「苛政者猛於
虎(苛政ハ虎ヨリモ猛キ)」を出典としている。「檀弓」である。まぁ、この字句自
体は人名で、別に重要な人物でも何でもないのだが、「礼記檀弓」は言葉として有名
だったりする。また、礼記は武道の中で弓術を勧める書でもある。唐突だけど、そう
なのだ。戦争は別だが弓道の試合は、相手が如何に動こうと関係ない。競技者は相手
ではなく、的に向かっているからだ。激しい闘志を秘めつつ、相手に順番を譲るとか
何とか、<礼>を尽くすことが出来る。しかも、勝とうが負けようが、痛くも痒くも
ない。当たれば的が破れるだけだ。試合を終えて、ノーサイド、腹蔵なく酒を酌み交
わすことが出来る。まぁ、個人競技は、だいたいそうなのだけれども。……しかるに
よって、弓術は<礼>を養うに絶好の武道なのである。弓道と礼記は、相性が良いの
だ。また、八犬伝中、京で五人の武芸者が登場する。その中には犬飼現八の兄弟弟子
もいるのだが、唯一性格が良いのは秋篠将曹だけだったりする。他の四人は悪役もし
くは小人として描かれている。後に二度、勅使に選ばれている。朝廷の信任も厚い宮
城護衛の士である。この秋篠将曹が得意とする武術が、弓なのだ。そして、礼記・檀
弓下に於いて、上記「苛政者猛於虎」のエピソードの暫く後に、同じく孔子の挿話が
載せられている。孔子の飼い犬が死んだとき、孔子は下男なんかではなく高弟の子貢
にワザワザ命じて、手厚く葬らせた。この挿話は、平八郎が『剳記』に於いて、孔子
の仁心の篤さを表現したモノだと解釈を下した部分でもあるが、まぁ、ソレは措く。
親兵衛は画虎事件を解決、目出度く安房への帰途に就く。仁は馬に乗って帰る。が、
程なく馬が急死する。仁は、馬を葬る。そのとき仁が披露する蘊蓄が、「我聞唐山古
昔の制度に、狗を埋るに蔽蓋を以てし、馬を埋るに蔽帷を以てすといへり。この事礼
記の檀弓に載てあり」(第百六十六回)。まさに、上に掲げた礼記檀弓下第四である。
画虎事件に関して、馬琴、何やら礼記檀弓に拘ったようだ。「礼」もしくは「弓」…
…。そういえば犬江親兵衛は、名馬の力を借り、弓を使って虎を退治した。馬は火気、
火気の徳は礼……。江戸初期、九州に領した加藤清正だって、弓みたいな飛び道具な
んか使わず、槍で虎を倒したことになっている。弓や鉄砲で虎を退治するより、素手
とか刀で倒した方が、親兵衛の化物じみた武勇の証明になろう。しかし、親兵衛は、
馬と弓を使った。……またしても脱線だ。話を戻そう。

 岩波文庫版(八巻)第百四十一回の挿し絵は、寓意に満ちている。画中、喧嘩して
いる於兎子と巽の間に樵六が割って入って仲裁している。しかし、画面には、変なモ
ノが描かれている。部屋の壁に兎の絵が貼っているのは良いとして、画面の右に犬が
描かれている。犬が表戸の間から、何だか笑顔で中を覗き込んでいるのだ。視線の先
には、於兎子がいる。
 『五行大義』論害に云う、「両両相害名為六害、……寅与巳、卯与辰……(リョウ
リョウソウガイナヅケテロクガイトス、イントミト、ボウトシント)」、巳と寅は相
性が悪く、辰と卯は相性が悪いので、巽/辰巳と兎/卯であり虎/寅である於兎子の
相性は最悪だ。また一方、実は五行説は、相性の良さ「合」にも言及している。合の
理に於いては「故卯与戌合(ユエニボウトジュツトゴウス)」(論合)、戌/犬と卯
/兎は相性が良いのだ。いや、そんな事を言おうとしたんじゃなかった。

 この犬、大きさといい、雑毛であるところといい、八房にソックリだ。八犬伝の挿
し絵は馬琴自らラフ・スケッチを描き指示を与えて描かせたという。犬も馬琴が描か
せたのだろう。しかし、何故、馬琴は八房と思しき犬を画面に配し、笑顔で於兎子を
眺めさせているのだろう。お手元にあったら、御覧になるが良い。その犬の表情は、
ナリこそ大きいが、まるで母親に対する子犬の如く愛らしい笑顔なのだ。

 於兎子は別に浮気をしたりはしない。いや、抑もは浮気をして巽と駆け落ちしたん
だが、巽以後は浮気をしていない。相性の良い犬/戌に関係があると思われる異性と
の接触は記されていない。ならば、犬が於兎子を笑ましげに見つめる意味は? 別に
愛人関係だけが人の絆ではない。親子の情も、恩愛である。そして、この笑う犬が八
房であるならば、話は如何にか繋がってくるのだ。八房は、幼くして母犬を亡くした。
母親代わりとして八房を育てたのは、狸だった。実は、この狸に玉梓の怨霊が取り憑
いていたのだけれども、八房にとって母親(代わり)であることには相違ない。於兎
子は、狸なのだ。……兎と云ってみたり虎と断じてみたり、自分でも小忙しいが、そ
う思っているのだから仕方がない。何故に於兎子が狸かと云えば、於兎子が虎だから
だ。
 五行大義巻五は、「三十六禽」を論じている。動物の種類は数多いが、それらをま
ず動物に擬した十二支で代表させ、その十二支に眷属各二種を配する。動物の代表と
考えても良さそうだ。また、一セットとなった三種は、各々「朝」「昼」「暮」に配
される。そして、此処で問題にしているのは、トラである。トラの三禽は次の通りだ。
「寅朝為狸昼為豹暮為虎(トラノアシタヲタヌキトナスヒルヲヒョウトナスクレヲト
ラトス)}。即ち、トラの気は、「狸」から始まり、「豹」を経て、「虎」になる。
虎は、狸の後身なのだ。
 八百比丘尼/狸は、滝田城に於いて、亡びた。死体には、「如是畜生発菩提心」八
字が烙印の如くに現れていた。この八字は、八房のときと同様、怨念が消滅すること
を約束している。怨念が消えた狸は、五行説に拠って虎へと変化し、虎子/於兎子と
して八犬伝に登場する。八百比丘尼と同様に於兎子は<好色>で、浮気して巽と駆け
落ち、爛れたセックスに耽る。が、里見家への怨念は消え失せているので、完全には
悪役ではない。道義上は堕落しているが、人様に多大な迷惑を直接及ぼすことなく、
殺された。変態管領・細川政元に監禁され貞操の危機に瀕していた仁が、解放される
のは、まさに、この虎が登場したオカゲだったりする。虎を十二支の寅と解すれば、
それは旧暦一月に当たり、冬を越した季節が春、生命が蠢動する春を幕開けする月で
もある。春は<木気>の季節であり、<仁>は木徳である。仁の玉をもつ犬江親兵衛
仁が、抑圧から解放される標識が寅/虎であれば、これ程つきづきしいことはない。
そしてまた、親兵衛が抑圧から解放される原因となった、オトコという名前の女性は
「於兎子」であり、件の挿し絵に兎がワザワザ描き込まれている点を考え併せれば、
やはり、<兎>でもあった。兎は十二支の<卯?であり、卯は東/木の正位である。
ならば、挿し絵中、笑ましげに於兎子を見つめる八房っぽい犬は、房八の息子・親兵
衛と重ね合わせるべきかもしれない。

 八犬伝に於いて犬/八房の母は狸/玉梓であった。『五行大義』論扶抑に云う、
「抑者以止退立名……子遇母為抑……抑者凶(ヨクハシタイヲモッテナヲタツ、コハ
ハハニアウヲヨクトス、ヨクハキョウナリ)」。母なる狸に抑圧され、凶を為される
犬ども……。しかし、狸は虎へと変化する。虎は於兎であることから、兎に置換され
る。兎は相合の理に拠れば、犬と相性の良い動物である。此処に於いて、<狸の呪い>
が消滅している事を、読者は明らかに知る。狸から兎の変換は、<凶>を<合>へと
シフトさせるのだ。滝田城合戦で八百比丘尼/狸は滅んだ。ソレを現象として表した
のが、於兎子の存在であり、画虎事件であったのだ。

 さて、読者は首を傾げていることだろう。玉梓の呪いが、八犬伝の発端であった。
ならば、画虎事件で物語は終息してしまう。何故、馬琴は画虎事件で物語を終わらさ
なかったのか? 尤もな質問だ。答えなければならない。
 実は、玉梓の背後に、より大きい存在が透かし見える。そう、より大きく、より深
い哀しみだ……。慰撫されねばならない霊、その形は、まだ判然としない。しかし、
辛うじて色だけは認識できる。海よりも深いブルー/哀しみ、しかし色は白だ。蒼海
に浮かぶ白鴎、走る帆のイメージだ。白は金気の色であり、里見家が属する源氏を象
徴する。次の機会には、まだボンヤリとしか見えないモノを、何処まで追い詰められ
るか試してみたい。読本・試論「日本チャチャチャッ」である。
(お粗末様)



#1079/1336 短編
★タイトル (NFD     )  98/ 7/29  21:55  (199)
怪談『鏡』     ・峻・
★内容
 以前、短い間でしたが、富山県の山地の小学校に勤めたことがあります。交通事故
で入院した教員の穴埋めに、一年間だけという代用教員でした。

        ◇      ◇      ◇

  新しい任地は、雪が残る山々に囲まれた小さな盆地の町だった。
 学校も小さく、全校生徒を合わせて百名にも満たない。それまでいた東京の小学校
の五分の一の規模だったが、職員室内のごたごたに嫌気がさして、八年間勤めた学校
をやめた私には、その小ささが嬉しかった。
 教員用の住宅の近くに『五地蔵沼』と呼ばれる沼があり、学校からの帰り道、私は
よくその沼に立ち寄った。
 周囲が切り立った崖にかこまれ、きれいな円形をしている。水は澄みきって、夕日
を映した水面は燃えるように赤く輝く。美しく神秘的な風景そのものが信仰の対象に
なることがある。沼の東側には祠があり、その前に五体の地蔵が並んでいて、静寂の
中で、老婆が額づいているのを見かけることもあった。
 こういう安らぎこそ、私が望んでいたものだった。

 一学期の終わり頃、私は三日かけて受け持ちの生徒達の家庭訪問をした。
 家々を訪ねてまわるうちに、奇妙なことに気付いた。どこの家でも鏡に黒い布が掛
けてあるのだ。鏡台や姿見だけでなく、洗面所の小さな鏡までも垂れ幕のような黒布
で覆われている。わけを尋ねても、昔からそういう習わしになっている、という以上
の答えは返ってこない。
 学校に戻って職員室の同僚達に聞いても、
「怪我をした前の先生もそうだったけど、よそから来た人はどうでもいいことを気に
するんですね」
 と笑われるだけだった。
 ふと、昔のことを思い出した。
 子供の頃、私が通う小学校の近くに鏡坂という長い坂があった。子供たちの間では、
その坂の途中で鏡に自分の顔を写すと死ぬ、という話が広まっていた。たまたま、近
所の少女が何かの病気で死んだときも、少女が鏡坂で手鏡に見入っていた、という噂
がまことしやかに伝えられた。単純な作り話ほど信じられやすいものだ。

 私は朝が苦手だ。
 寝ぼけまなこで歯ブラシをくわえていると、鏡に写った口の周りが赤く見えた。目
を擦って見直せば、なにも異常はない。
 ほっとする間もなく、生暖かいものが口の中に湧き上がってくる。吐き出すと、洗
面台が真っ赤に染まった。
 鏡に片手をついて体を支えようとした。その手がぬるりと滑り、手が触れた鏡の表
面から、たらたらと血が滴り落ちた。
 叫び声を上げて、目が覚める。
 家庭訪問を終えた頃から、続けてこんな夢を見るようになっていた。

 夏休みになると、私は車で二時間かけて市立図書館へ行った。気になっていること
は確かめなければならない、と思ったのだ。
 何かにせかされるように、書名に鏡の文字が入った本を片っ端から開いていった。
この地方の郷土誌や民話の本も読み漁った。
 図書館通いを始めて三日目だった。
「鏡に興味がおありですか」
 書架の前で声を掛けられた。痩せた黒縁眼鏡に見覚えがあると思っていると、
「ここの職員です」
 と言う。いつもカウンターの向こう側で貸し出しの手続きをしている二十代の男だ
った。
「ええ、ちょっと確かめたいことがあって」
 私が毎日、鏡に関係した本ばかりを借りるので、覚えていたのだろう。
「じつは私も、半年ほど前から鏡のことを調べているのです」
  今日は非番だという図書館員は、私の腕を引っ張るようにテーブルの席に着かせ、
自分も向かい側に腰をおろすと、身を乗り出しながら私の顔をじっと見つめた。
「鏡に黒布を掛けておく風習のことじゃないですか?」
 驚いて、
「そうです」
 と声を上げると、嬉しそうに笑う。
「あの盆地の町ですよね。去年、あそこに住んでいる知人の家を訪ねて、初めてその
風習のことを知ったのです」
 その知人も、ただの古い習わしだ、というだけで、いわれなどは知らなかった。そ
のことでかえって鏡の謎に引き込まれていったということも、私と同じだった。
 私より早くから調べ始めていただけあって、図書館員の話は私に大きな刺激を与え
た。
「『鏡洗い』という言葉を聞いたことがありますか」
 鏡を洗う? 何のことだろう。
「銅や青銅の鏡を磨く旅職人のことは、ここの本にありましたが」
「それは『鏡磨ぎ』ですね。富山の薬売りのように定期的に決まった家々を訪れて、
錆びて曇った鏡を研いでまわったのです。明治になって板ガラスの鏡が普及すると、
消滅しました」
「そのことではないのですか」
  今度は私の方が身を乗り出していた。
「ええ、鏡洗いというのは、鏡に取り憑いた悪霊を祓う一種の祈祷師なのですが、記
録がほとんどなくて実像はよくわかっていません」
  私が調べた書物の中には、そのような記述はまったくなかった。だが、鏡にはもと
もとそういう要素があったことは確かだ。
 太古、人は自分の顔を見るには、水面に写すほかに方法がなかった。初めて、磨か
れた銅鏡に写ったもうひとつの明瞭な自己を見たときの、人間の驚きは大変なものだ
ったろう。科学的な光の知識などない時代、それは魔術そのものだったはずだ。
「鏡は元来神秘的なものです。鏡の中にその持ち主の魂が宿ると考えるのはごく自然
なことでしょう。悲しみや憎しみ、病や狂気も鏡に吸い取られます」
「それを洗い流すのですね、鏡洗いは」
「そうなんです」
 と、図書館員はうなづいた。
「そんな商売なら、現代でも十分成り立ちそうな気がしますね。星占いや手相見だっ
て生き残っているんだから」
「でも、完全に消えてしまった」
「どうしてなんですか」
 私はすっかり図書館員の話しに引き込まれていた。
「平安時代の末期や、鎌倉末期、戦国時代と、不安定な時代になると鏡洗いが現れる。
古くからの伊勢神道と密教仏教が融合してできた、一種の異端の宗派だったのではな
いかと、私は考えています。
 彼らは『鏡洗いの里』に一族をなして住まい、そこから全国に散って儀式を行った。
最初は悪霊祓いをするだけだったのが、やがて他人に呪いをかける仕事も引き受ける
ようになる。目的の人物の鏡を盗み出して呪いをかけたり、呪いをかけた鏡を相手の
持ち物の中に忍び込ませたり。
 鏡洗いは不気味で反社会的な存在になっていったのでしょう。江戸時代にはすでに
鏡洗いは見られなくなります。非合理的なものを憎んだ信長が、かれらの本拠地を壊
滅させのかもしれませんが、はっきりした記録はない。鏡洗いの里がどこにあったの
かもわからないのです」
 図書館員はそこまで語り終えると、一息ついてから、
「私の家に来ていただけませんか。面白い資料があるんですよ」
  と言った。
 私はすぐさま、ええ、とうなづいたが、そんなところに行くべきではなかったのだ。

 図書館員のアパートは、図書館から二十分程歩いた商店街の裏手にあった。
 どうぞ、と言って通された部屋の中を見て、私は拍子抜けした。
「本は職場にいくらでもありますからね」
 と当人は笑っているが、一人暮らしらしい薄汚れた部屋にはまともな本棚すらない。
歴史や民俗学の書物を集めているのだろうと思っていたのに、見えるのは、壁に寄り
かかるよう積み上げた漫画本と、『超能力』とか『UFO』とか、小中学生が読むよ
うな通俗的な表題の本ばかりだ。
 私の熱は急速に冷めていった。
 図書館員は、私と自分のために座布団を並べ、冷蔵庫から麦茶を持ってくると、一
人で持論を展開し始めた。しかし、さっきはあれほど私の心を捕らえた説も、冷静に
なってみると裏付けとなる文献はまったくないのだ。鏡洗いなど、本当に存在したの
かどうかも疑わしい。
  私はもうなんの興味もなくなって、早くこの部屋から出たかったが、図書館員はま
すます熱がこもって、机の引き出しから何枚かの写真を持ち出してくる。
「これをお見せしたかったんです」
 私が毎日見ている沼の写真だった。
「何に見えます?」
「五地蔵沼でしょう」
「鏡ですよ、鏡。これは古代の銅鏡を表しているんです」
 続いてもう一枚、夕日を赤く反射した沼の写真を示した。
「血鏡です。鏡洗いが人を呪うとき、指で鏡の表をなぞるんです。すると、鏡から犠
牲者の血が滴り落ちる」
 完全な妄想だ。この男は私に話しているのではない。自分の中の妄想を反芻してい
るだけなのだ。
 私は何も言わなかった。
 さらに、五地蔵の祠の写真を並べた。五体の地蔵を一つひとつ後ろ向きにして撮っ
てある。
「地蔵の背中に刻み目が並んでいるでしょう。数えてみると、どれもちょうど百本あ
るんです」
 図書館員はさらに妄想を膨らませていく。
「かつて、あの土地には鏡洗いの一族が住んでいたが、彼らを憎む者達に襲われ滅ぼ
されてしまった。一族の死体はあの沼に捨てられ、怨念を鎮めるために祠が建てられ
た。五地蔵の五百の刻みは殺された一族の人数だと思うのです」
 なんの根拠もない。第一、地蔵の大きさや古さもまちまちじゃないか。だがこうい
う男に反論することは、火に油を注ぐだけの結果になる。
「鏡に黒布を掛けるのは、滅ぼされた鏡洗いの怨念が、鏡を通じて身に及ぶのを恐れ
たからです。その風習が現代まで残っているということなのでしょう」
 もうこれだけ聞いてやれば十分だろう。
「仕事が残っているので」
 と立ち上がった。
 図書館員は自説の完璧さに酔ったままの様子で、私を戸口まで見送った。
「そのうちに、あの沼に潜ってみます。きっと証拠が見つかりますよ」
「がんばってください」
 その日から二度と市立図書館に近づかなかった。半月もたつと図書館員のことも鏡
のことも忘れていた。
  八月の半ば、夜にかかってきた電話からその男の声が聞こえたとき、私は寒気がし
た。
「貸し出しカードで電話番号を調べたんですよ」
 それからは毎晩のように、電話で鏡洗いの怨念だとか、血鏡の儀式だとか、わけの
わからないことを聞かされ続けた。
 こういう男はこちらが態度を曖昧にしているといつまでもつきまとってくる。かと
いって、急に冷たくすると何をされるかわからない。私はとんでもない男と知り合い
になってしまったらしい。
  夏休みの終わり頃になると、神経がもたなくなっていた。今夜こそ、いいかげんに
しろ、と怒鳴りつけてやろうと決心を固めていると、九時過ぎに電話がかかってきた。
「私は大変な勘違いをしていました」
 いつもの自分に酔ったような調子が影を潜めている。
「そうですか」
 私は素っ気なく応えた。
「鏡の黒布は、鏡洗いの怨念を恐れたからではありませんでした」
 あたりまえじゃないか、と言いかけた。
「鏡洗いは今も生き残っています。黒布は鏡洗いの一族の印なのです」
 と、脅え声を出す。
 もうたくさんだ。受話器を叩きつけようとすると、
「お話できるのはこれが最後になりそうです」
 と言う。
「私とこうして話をしていたことは、その町では決して口にしてはいけませんよ」
 黙っていると、男はひとりで話し続けた。
「私は知り過ぎてしまいました。もう、どこへ逃げても助からないでしょう。明日、
沼に潜ってみます。最後に自分の目で確かめたいのです。さようなら」
 私が、ああ、と言っている間に電話が切れた。
 男の妄想はさらに膨れ上がっただけだ。きっとまた電話をしてくるに違いない。
 翌朝、私は急な旅行に出た。あの男が本当に沼に潜るつもりなら、私のところに立
ち寄ることは十分に考えられる。絶対に顔を合わせたくなかった。
 四日後、新学期が始まる前日に、旅行から帰るときも不安だった。家の前で待ち構
えているのでは、と胃まで痛くなってきたが、何事もなかった。

 市立図書館の職員が、数日前、五地蔵沼で水死したと知ったのは、翌朝の職員室で
のことだった。
 その夕方、沼はいつもよりさらに赤く、血の色に燃え上がっていた。
 ふと、男が言った血鏡の儀式という言葉が心に浮かんだ。
 五地蔵の祠を覗くと、いつの間にか真新しい地蔵が一つ増えていた。

    ◇      ◇      ◇

 同僚の話では、あのような祠は近隣にいくつもあり、信心深い人がときおり新しい
地蔵を寄進するのだそうです。
 図書館員の妄想に付き合わされる重荷からは完全に解放された私でしたが、その月
のうちに代用教員の職を辞して、東京に戻りました。ああいう田舎は肌に合わなかっ
たということです。
 六つ目の地蔵の背に、刻み目がいくつ付けられていたのかは、確かめていません。



#1080/1336 短編
★タイトル (NFD     )  98/ 7/29  21:55  (  8)
怪談『鏡』あとがき ・峻・
★内容

 怪談シリーズの第11話です。

 前作の『居酒屋』が1月末だったから、半年ぶりということになります。

 だんだんペースが落ちてくる。今年はこれで終わりかな。

                      ・峻・



#1081/1336 短編
★タイトル (NKG     )  98/ 7/30  23:17  ( 53)
寒い        らいと・ひる
★内容

 寒い。

 冷たくなった私の身体。そして凍えそうな心。

 太陽の光はこんなにも眩しいのに。


 どうしてあなたはそんな事を言うの?

 わたしの気も知らないで。

 もう、わたしには……あながたが何を考えているのかわからないの。

 きっと、あなたはきっとあなたの道を進んでいくのでしょう。

 わたしには関係のない事ね。

 でも、わたしはいつでもそっとあなたの事を見ているの。

 だって、目をそらすことなんてわたしにはできないから。






 そして、今日もあなたは言っていた。







「この電話、誰もでんわ」

「布団がふっとんだ」



 あなたの駄洒落は続いていく。




                             さぶい……。


 この作品は完全なフィクションであり、心あたりのある人がいたとしてもそれは
それです。(笑)





#1082/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 7/31   0:20  ( 83)
大型テロ小説  「声明文を書こう」  ゐんば
★内容

 えーっと。書き出しはっと。
 拝啓。
 拝啓ってことはないな。えー、新緑の色もみどりになりますます元気づいてま
いりました。
 なんか文章が変だな。新緑とみどりは同じじゃないか。新緑の色も青々とし。
うーん、新緑が青いのはやっぱ変かなあ。でも、信号の青だって緑だもんなあ。
 そうだよ手紙じゃないんだから時候の挨拶なんていらないんだよ。これは犯行
声明文なんだから。うん。えーっとでは……。どうも挨拶がないと書きにくいな
あ。
 まあいい、書き出しは後、後。先本文いこう。そうだよ肝腎なのは中身だよ。
 えー、線路のボルトをはずすのは大変でした。でも一生懸命はずしました。
 待てよ、一生懸命ってこれ正しかったかなあ。なんか本当は別の字書くんじゃ
なかったっけ。
 そういえば国語辞典って持ってなかったなあ俺。英和ならあるんだけどな。英
和で調べようがないもんな。
 そうか、英和で一生懸命にあたる言葉を引けばいいんだよ。頭いいな俺。英語
で一生懸命ってなんていうんだろう。そういえば和英持ってなかったな俺。
 めんどくさい、一生懸命はやめ。やめやめ。えー一生懸命に代わる言葉ってな
んだ。頑張ってだな。ボルトをはずすのは大変でした。でも頑張ってはずしまし
た。うん。これでいいや。
 他に何を書けばいいのかなあ。脅迫文じゃないから要求はいらないんだよね。
 だいたい今日買ってきたこの、すぐに役に立つ文例集ってやつ、声明文の書き
方が載ってないんだもんな。んな役にも立たない見合いの断り方なんか載ってて。
えーまことにすてきなお嬢様なのですが私には過ぎたお話で、こんなもん書き写
してどうするんだっての。
 そう。声明文だから、声明がいるんだよな。声明。声明ねえ。声明ってえと、
まず自分が犯人ですってこと書かなきゃなんだな。
 えー私が犯人です。
 これで終わりかなあ。なんか短いような気がするな。
 あそうか、これ俺が書いてるから私が犯人です、でわかるんだけど他の人が読
んだら私が誰で何の犯人だかわからないや。うん、こういうのなんかで習ったぞ。
そうだそうだ、5W1Hとかいうんだ。
 えーと、5WのWってえと、まずWHOだな。誰がを書くんだな。えーと誰か
というと、この私松本喜三郎が、と。
 次のWはなんだっけな。WHATがあったな。何を、だね。んー電車のレール
のボルトはずしを、あとはWHENか。
 先週の日曜日。待てよ。俺いまこの前の日曜日のつもりで先週の日曜日って書
いたけど、これって今週の日曜日かなあ。でも、今週の日曜日って言ったら次の
日曜日のことか。いやでもあれはきっと来週の日曜日だよな。あれが来週の日曜
日だとすると、こないだの日曜日はやっぱり今週の日曜日だな。うん。
 いやでも今週の日曜日っというとやっぱり……日付で書こう。
 えーと、7月26日(日)。かっこにちかっことじは書かなくてもいいのか。
かっこにちかっことじ無し。
 えーWHOWHATWHENときて、WHEREか。線路で。当たり前だなこ
れじゃ。線路以外でどこでレールのボルトをはずすってんだ。なるべく詳しく書
かなきゃな。えー三本松電鉄東鼻頭線臍曲駅の数えて三つ目の踏切をちょっと過
ぎたあたりで。
 えーとWHOWHATWHENWHEREだろ、えー……あと一個……ほ……
W…………ほ……あー……WHALEじゃないしなあ……いつどこでだれがなに
をくじら、そんなわきゃねえもんな。
 いい。あと一個のW後回し。先にH行こう。HOWってえと、どのように、か。
えーと最初ペンチを使おうとしたんだけどそんなものではとうていはずれないこ
とがわかったんでスパナを買ってこようと思ってところが近所のコンビニにはス
パナは売ってなかったんでスーパーに行ったんだけどスーパーにもそんな大きな
スパナはなくて結局隣の駅のホームセンターまで行ってスパナを買ってきてボル
トをはずした、と。
 4W1Hまで書き終えちゃったなあ。あと一つのWがねえ、うーむ。えーとり
あえず辞書をぱらぱらとめくってみてだ。
 あっ、WHICHか。そうだ。WHICHだよ。
 えーどっちを。うんそうなんだ。線路の内側のボルトをはずそうか外側のボル
トをはずそうか迷って、作業しやすいのは外側なんだけど、なんかさびついてい
てはずれにくそうだったんで、結局内側のをはずしたんだよな。内側、と。
 よーし何となくできた。
……何か大事なこと書き落とした気もするんだけどな。でも、5W1Hはちゃん
と書いてるしな。
 よし。清書しよう。
 えーっと……書いたり消したりしてるうちに自分でもどれ生かしたのかわかん
なくなっちゃった。まあいいや。とりあえず一度そのまま書こう。
 拝啓。
 新緑の色も青々としみどりになりますます元気づいてまいりました。
 ボルトをはずすのは大変でした。でも頑張ってはずしました。
 まことにすてきなお嬢様なのですが私には過ぎたお話で、私が犯人です。
 この私松本喜三郎が電車のレールのボルトはずしを先週の今週の日曜日、7月
26日(日)かっこにちかっことじは無し、線路で三本松電鉄東鼻頭線臍曲駅の
数えて三つ目の踏切をちょっと過ぎたあたりで、最初ペンチを使おうとしたんだ
けどそんなものではとうていはずれないことがわかったんでスパナを買ってこよ
うと思ってところが近所のコンビニにはスパナは売ってなかったんでスーパーに
行ったんだけどスーパーにもそんな大きなスパナはなくて結局隣の駅のホームセ
ンターまで行ってスパナを買ってきてボルトをはずした、内側。
……はあ。テロリストの気持ちなんて、わかってもらえないよなあ。

                              [完]



#1086/1336 短編
★タイトル (PRN     )  98/ 8/ 9  18:27  (131)
お題>夢の中  ジョッシュ
★内容

 「 夢の中 」   ジョッシュ 

 ひとつ大きな悪いことが起きると、連鎖的につまらないドジが続くものらしい。
 結婚を申し込もうと意気込んで出かけた昼下がりの喫茶店で、あっさりと利絵
子に振られた私は、意気消沈して戻った事務所でも、客先の名前を言い違えると
いう単純なへまを3回繰り返し、とうとう半白髪の先任弁護士から「業務の遂行
に著しい遅滞をもたらす」という理由で早退を言い渡された。
 ちまちまと積み上げてきた法律専門家への道と、深く愛していた利絵子を同時
に失い、生きる意味を無くしたような気がして、私は車を運転しながら涙が流れ
て仕方がなかった。
 中途半端な昼下がりの帰り道は、車も少なくて空いていた。多摩川を渡り川崎
に入っても、私の気持ちは暗く沈んだままだった。
「ああ、いっそこのまま死んでしまいたい」
 それは、ふっと出た悪魔のささやきだった。
 新しくできた横浜青葉のインターチェンジが近づいてきた。真新しい陸橋の橋
脚がぴかぴか光っている。
「あそこにこのままぶつかれば、それでジ・エンドだなあ」
 アクセルを踏み込んだ。車はぐんとスピードを上げた。120キロを超え、1
40キロくらいか。
 中央分離帯のポールが猛スピードで後ろに流れてゆく。
「そうだ、シートベルトも外した方がいいな」
 シートベルトのお陰で助かった、なんてシャレにもならない。私は急いでシー
トベルトのバックルを押した。かちゃっと軽い音がして、腹の辺りにあった圧迫
感が消えた。
 なんだか気持ちがせいせいする。猛スピードで走るというのはとても爽快だ。
嫌なことを忘れさせてくれそうだ。
 バックミラーに何かがちらりと見えた。
 ぐんぐん迫ってくる。私よりスピードを出しているようだ。スピードメーター
は145キロあたりで振れている。後ろから来る奴はそうすると150キロ以上
の速度ということだ。
 いくら何でもそりゃあ危ない。そんなにスピードを出すってことは、よほど嫌
なことがあったのに違いない。
 後ろは赤い車らしかった。あっと言う間に私の車を抜き去り、そのまま追い越
し車線を突っ走っていた。
「あ、利絵子・・・」
 赤い車の運転席に、唇をかみしめた利絵子の横顔が見えた。ほんの一瞬だった
が、間違いなく利絵子だった。
 丸の内でOLやってるはずの利絵子が、なぜこの時間に赤い車で、東名高速を
ぶっ飛ばしているのか?
 私は横浜青葉の橋脚にぶつかるのはとりあえず中止して、利絵子の赤い車を追
いかけることにした。
 思い切り、アクセルを踏み込む。
 エンジンがきしみ音をあげて、車は加速した。メーターは155キロ目盛りの
上でダンスを始める。車はがたぴし振動しながらも、赤い車に少しずつ追いつい
ていった。
 赤い車の後ろ姿は、喫茶店から小走りで出ていった利絵子の小柄な後ろ姿に見
えた。まるで私から逃げるような・・・。
 でもどうして?
 見習い弁護士は収入が少ないんだ。だから、結婚してくれ、と言っただけなの
に。結婚すれば、食事、洗濯、掃除、アイロンかけ、小遣いの心配からも解放さ
れるし、溜まっているアパート代も払えるようになれるかもしれないし。
 追い越し車線を突っ走りながら、赤い車が尻を振る。私はさらにアクセルを踏
み込んだ。
 バックミラーに何かが映る。また車らしい。今度は銀色の大型車だ。ぐんぐん
と私の後ろに迫ってくる。こっちは155キロで走っているんだから、銀色の車
はそれ以上、まるでレーシングカー並みのスピードに違いない。
「あっ」私は息を飲んだ。
 風のように追い越していった銀色の車の運転席には、半白髪の先任弁護士が乗
っていたのだ。
「いったい、何度言ったら分かるんだ。弁護士には守秘義務があるんだ。クライ
アントの打ち明け話を、おもしろおかしく飲み屋で喋りまくるなんて、言語道断
だ。ばかもの!」
 顔を真っ赤にして怒った先任弁護士の言葉がよみがえった。
 私だってそのくらいは知っている。だから、固有名詞はいっさい出さずに喋っ
たのだ。ちょっと運が悪かった。飲み屋の中にそのクライアントがたまたま居合
わせて、向こうが私の顔を覚えていた。それで、事務所の方にクレームが来たの
だろう。
 銀色の車は、みるみるうちに遠ざかっていき、いつの間にか利絵子の赤い車も
視界から消えていた。先任弁護士も私というへまばっかりの見習い弁護士から逃
げ出したかったのだろうか。
 今さらアクセルを踏み込んでも駄目だった。
 すでにアクセルペダルは床に着くくらいに踏み込まれている。車はがたぴしと
振動しながら走り続けていた。
 気がつくと、私の車のスピードが落ちてきていた。エンジンがオーバーヒート
気味になっているらしい。ボンネットから、湯気が立ち上り始め、足元も焦げ臭
い。
 それでも私はアクセルペダルを踏み続けた。
 クランクシャフトから異音がする。マフラーから黒い煙が吐き出され、バック
ミラーの視界を遮った。
 前方に白いオートバイが見えた。あのスピードなら追いつける。私は力一杯ア
クセルを踏み続けた。右足が痺れている。でも、大丈夫。あのオートバイになら
追いつける。
 車はゆっくりと確実にそのオートバイに近づいていった。 

 横に並ぶと、白いヘルメットに水色の制服姿が笑っていた。
 私も窓を下ろすと思いきり笑い返した。
「あのなあ」白バイに乗った警察官は私の車に併走しながら言った。「警察の車
に追い越しをかけるというのは、どういう了見なんだ」
「置いてきぼりばっかりだったもんで、追いつきたかったんですよ」私は笑いな
がら答えた。なにやら、無性に嬉しくて、そしてそんな自分がおかしかった。
「まあ、停まりなさい。スピード違反、それからシートベルト不着用だね」
「ああ、そうですか」私は痺れた右足をアクセルペダルから外そうとした。しか
し、床まで踏み込まれたアクセルペダルは、まるで右足にくっついてしまったか
のように下がったまま。いうことをきかなかった。
 私はエンジンを切ることにした。それから左足でブレーキを踏めばいいだろう。
「ところで、質問していいですか」キーを回しながら私は声をかけた。「私の前
に赤い車と銀色の車が、160キロくらいの猛スピードで走っていたはずなんで
すけど、見かけませんでした?」
「赤い車? 銀色の車? はてなあ。横浜青葉から横浜町田インターの間を行っ
たり来たりしているんだが、スピード違反は君の車だけだね。この時間はほとん
どトラックしか走っていないしね」
「は? そんなバカな。横浜青葉と横浜町田の間に出口ってありましたっけ」
「いや、ないね」
「ということは、私の車を猛スピードで追い越していったあの車二台は、いった
いどこへ行ったのでしょう」
「さあねぇ。昼間っから夢でも見たんじゃないの」
 夢? 利絵子と先任弁護士の車、あれは白昼夢だったということ?
 私は左足でブレーキを加減しながら、先導する白バイの後をついて路側帯に近
づいた。エンジンが停まった車のボンネットからは白い煙が猛烈に立ち上ってい
た。先を走る白バイが煙の中で揺れ、やがてその姿が煙に紛れて見えなくなった。
急に私は不安になった。
 まさか、この警察官も白昼夢?
 私は力一杯、ブレーキを踏み込んだ。タイヤが甲高い音をあげ、車体がスリッ
プした。ボンネットからの煙で視界は閉ざされている。急いでハンドルを切り返
してみるけれど、車のスリップは停まらない。まるで氷上を滑っているような感
じだった。
 これも白昼夢に違いない。
 私はそう思いこもうとした。ハンドルにしがみついたまま、ブレーキを力一杯
踏みつけながら、私は必死に頭を巡らせた。
 いったいどこから夢が始まったのだろう。昼間の喫茶店での利絵子との会話。
あそこが私の空想(ファンタジー)の始まりか。それとも弁護士事務所での先任
弁護士の叱責。あそこから夢想がはじまったのか。
 車はスライドを続けた。それは短い時間のようだったし、長くも感じられた。
 でも夢ならきっといつかは醒める。必ず醒める。どんな悪い夢でも、どんな楽
しい夢でも朝になったらきっと醒める。そしたらまた、やり直せばいいさ。
 ボンネットからの白い煙に一瞬の切れ間ができた。
 その向こうには、白バイを降りて仁王立ちした警察官がいた。顔が恐怖に歪ん
でいる。その警察官めがけて、私の車は確実にスライドしていった。 

(了) 



#1087/1336 短編
★タイトル (SGH     )  98/ 8/13  21:11  (153)
夏休日記      沖田 珂甫
★内容
  ♪ぶんぶんぶん  ハチがとぶ
  蜜バチだったら、まだ可愛気もあるだろう。

  うちの実家は、山林だった場所を20年前に宅地造成したところにある。実
家はその一番奥まった区域に位置している。これは父が生前、
「このへんなら、住宅が増えても静かだろう」
  という考えで選んだものだ。

  確かに、20年経って家屋が増えてた今でも、交通量の増加は最小限であろ
う。私の部屋から見える風景は、昔も現在も”緑一色”だ。植生が変わって、
私が住んでいたころは雑木林だったものが竹林になってはいるが。

  こんな環境だから、帰省すると薮蚊は言うまでもなく、歓迎したくない様々
な”自然”が待ち受けていることがある。今年はスズメバチが飛び回っていた。
それも、最近都市部に進出著しい「キイロスズメバチ」ではなく、それより一
回り大きいオレンジ色の種類である。名前は忘れた。キイロスズメバチは以前
ちょっと調べたから覚えていただけだ。

  刺激しなければ害はない、と頭では分かっているが、母は来年還暦だ。刺さ
れて死なれでもしたら面倒だ。会社員時代に同僚の母親が刺されて入院する騒
ぎもあったし。千キロ以上離れてるから帰って来るだけでも一日仕事なのだ。

  どこぞの地方都市では保健所が駆除してくれるそうなのだが、同僚が住んで
いた横浜市ではそういうサービスはやってなかった。業者の紹介はしてくれた
けど。結局、業者が手一杯で駆除がいつになるか分からないというので、同僚
のうちのキイロスズメバチの巣は、焼肉食べ放題という報酬で私が駆除した。

  暇でもあるし、ハチ退治をすることにした。

  今回は巣の位置が分からないため、まず捜索から始めることにした。
  材料は、
  ・お肉少々
  ・ビニール紐少々
  である。

  肉を団子にして、ほぐしたビニール紐を30cmくらい結び付ける。これを
ハチが巣に持ち帰る時に追いかける訳だ。昔は綿を撚って細糸にしてやってい
たらしい。今回ビニール紐をほぐしたのは、手近にあったから代用したのだ。
消毒用の綿があったのだが、撚って糸にするのは面倒だったのだ。

  刺された時のために、バーナータイプのライターと、接触鍼用の鍼を持って
行くことにする。ちなみに、鍼は直径4mmほどである。どうやって使うかは
簡単に予測できると思うが、刺されたら、鍼を真赤に焼いてその箇所を焼くの
だ。素人がやると火傷の痕が残ったりするので、良い子は絶対真似しちゃいけ
ない。東洋医学で「火鍼」「烙鍼」などと呼ばれる鍼法である。

  ちなみに、刺された場合の正しい対処方法は、
  ・流水で傷口を洗いながら毒を絞り出す。
  ・すぐに病院に行く。
  である。

  スズメバチの毒に対しては、市販薬で有効なものは無い、と言っても良い。
  もちろん、アンモニアも効かない。アンモニアが有効なのは蜜バチだけだ。
  口で毒を吸い出すのもやらない方が良い。どうしても、飲み込む可能性が捨
てきれないからだ。経口の場合は問題になることは少いはずではあるが。
  最近ではアウトドアショップなどで毒を吸い出すリムーバーを売っているが、
気休め程度には有効である。

  脱線ついでに、刺されるとどうなるか、過去の経験を書いておこう。
  まず、鋭い痛みが襲って来る。一瞬、動けなくなるほど強い痛みである。
  痛みはすぐにズキズキという感じになる。同時に腫れてくる。刺されて数分
もすると、場所によっては、本当に漫画のようにぷっくりと腫れあがる。
  刺された箇所は、熱を持ってそれから4〜5日は痛む。人によっては発熱す
ることもある。
  痛みが治まりだすと、今度は猛烈に痒くなる。掻くと痛いので冷すしか無い。
  気にならない程度に回復するには、一週間くらいはかかる。
  病院に行って、点滴を射ってもらえば、翌日には回復するはずである。

  スズメバチに刺されたかどうかは、刺された部分の近くに顎で噛みつかれた
傷跡があるかどうかで判断できることがある。また、噛みついて離れずに何度
も刺すことが多い。
  自分の命と引き換えに一度だけ刺す蜜バチとは大違いである。スズメバチは
何度刺しても死んだりしない。

  話は本線に戻る。
  とりあえず、囮の餌を3個作り、30cm位のビニール紐をほぐして縛り付
ける。出来上がったものは5mmくらいの肉団子というか、脂肪団子にビニー
ルの細い糸がくっ付いているだけのものである。

  2階の私の部屋の前がスズメバチの巡回コースのようなので、窓の外に並べ
て待つことにする。

  1個目は失敗。トンボが持って行った。……トンボも肉食だわな、確かに。
  餌をトンボには持てないくらいにすれば大丈夫かな?  と考え、残った2つ
を一つにしてみた。この大きさでは、無駄なような気もするが、2個目は首尾
良くスズメバチが食い付いた。

  本来は、ハチの後を走って追いかけるのだが、不精して眼で追うだけ。気温
35度の中を走り回る自虐的な趣味はない。

  目測で2〜30mくらいまで追ったが、見失った。方向も分かったし、餌を
もう2つ作って次を待つ。今度は見失ったあたりまで予め行っておけば良い。

  サングラスと灰銀のライダージャケット、ジーンズという格好で表に出る。
  サングラスは、スズメバチは黒い部分を攻撃するという話を、昔聞いたこと
があるので、眼を守るためである。頭を守るためにヘルメットを被ろうかとも
考えたが、暑いのでパス。ジャケットとジーンズではスズメバチの針にはなん
の役にも立たないが、気休めくらいにはなるし、薮の中に入るだろうから、蚊
除けである。

  10分もしないうちに次の目印が飛んで行った。薮の中に入って行ったが、
餌を持っているのだから、巣に一直線に戻るであろうと考え、まっすぐ進むこ
とにする。

  10mくらい入ったところで、5〜6匹のスズメバチが飛び回っているのが
見えた。巣が近いはずだ。ゆっくり近づくと、周りでスズメバチがカチカチと
顎を鳴らして威嚇しだした。刺激しないようにゆっくり後退する。安全と思わ
れる位置まで下がって偵察開始。

  5分もしないうちに、最後の糸が飛んで来た。
  巣は、10mくらい離れた木の幹にくっ付いていた。高さは2mちょっと。
サッカーボールくらいに見えるが、もう少し大きいかもしれない。

  周りが開けている、というのはあまり有難くない。土の中などなら簡単に駆
除できるのだ。もっとも、土の中に巣を作るのは黒いスズメバチだったような
気もする。今回追いかけてきた奴はオレンジ色だった。

  駆除方法は、以前は硫黄を焚いていたらしい。亜硫酸ガス攻撃である。硫黄
なんて手元にないし、亜硫酸ガスは人体にもしっかり有害である。以前、横浜
で私が使ったのは、ゴキブリ駆除用のバル*ンだった。

  しばし観察することにした。
  飛び回っているのは、十数匹くらいだが、巣の中には当然、まだ居るはず。
数十匹は居てもおかしくない。

  しばらく、ぼ〜っと飛び交うスズメバチを眺めていた。
  夜になって、スズメバチが飛び回らなくなってから、巣を落とそうかな。
  風上から殺虫剤をまくか。
  ハチの子を取ったら、バターで炒めて、仕上げに醤油をたらしてビールのつ
まみにしよう!
  思考の方向が微妙に逸れたりもした。

  ついでに話も逸れるが、私は食べ物の好き嫌いがほとんど無い。基本的には
毒でなければ、なんでも食べる。ハチの子はもちろん、毛虫のテンプラという
ものまで食べたことがある。
  唯一敬遠しているのは、〆鯖だけである。鯖も焼いたり煮たものは大丈夫だ
し、刺身なんか大好きである。〆鯖だけはメンタル的に駄目なのだ。

  閑話休題。
  不思議なもので、眺めていると恐怖心が薄らいできた。変なもので、ブンブ
ンという羽音も可愛く思えてきたりする。考えてみれば、彼らは害虫駆除をし
てくれているんだし、そもそも人間が後から彼らの領域に侵入してきたのだ。

  結局、なにもしないことにした。
  食べるため以外の殺生は止めておこう。
  こんな事を考えるのは、齢を重ねたからだろうか。
  ただ、面倒臭くなっただけかもしれない。これからも蚊取り線香は焚くし、
ゴキブリを見ると迷わず殺虫剤かけるのは間違いないから。

  放置して、誰か刺されたらどうするのか?
  運が悪けりゃ、死ぬだけさ。

−終り−



#1089/1336 短編
★タイトル (BZM     )  98/ 8/21   0: 6  ( 28)
お荘閨@「夢」 いなみ
★内容
 投げ出すように学会誌を実験台においたひょうしに、台の隅にあった薬さじがはじき
とばされた。床に落ちて硬質な音をたてるとさじはどこかへ行ってしまった。
 仕方なく、僕はほこりっぽい床にかがみこんで、実験台の下へ手をのばした。手探り
をしているうちに探していたものとは違う何かにつきあたった。どうやら木の箱のよう
だ。
 ずるずると引きずり出してみる。持ち上げると異様に重い。華奢なとってのついた救
急箱のような箱だ。実験台の上にのせ、さびた掛けがねをはずし、そっとふたを開けた
。
 彼女が僕の前に立つ。彼女の左手の小指にはサファイヤとプラチナの指輪。9月生ま
れの彼女に、爛熟した夏の終わりのバラ園で贈ったあの指輪。
「まだ後悔していないの?」
彼女をおいてプライドの牢獄に入ったのは僕。見える彼女を捨てて見えないものを探し
にでかけたのは確かに僕だから。
「後悔?していないさ、もちろん」
「そう、それならいいの」
彼女は指輪を僕に投げつけた。僕の目の前でサファイヤが砕け散り、プラチナは輝く銀
色の滴となって飛び散った。無機質なきらめきの中で、全てが暗転した。闇に沈み込み
ながら、僕は泣いていたような気がする。
 目をあけると実験室とよく似た病院のベッドの上にいた。起きあがろうとして、横に
同僚がいることに気が付いた。
「忘れ物をとりにきたら、おまえがぶっ倒れていた。何故かしらないが水銀のビンが割
れていて、あたりにコロコロ中身が散らばってて・・・」
医者は何も問題がないようだと言っていたらしい。どうやら実験のミスでよくない気体
が発生したようだった。「僕を見つけた時、バラの匂いとかしていなかったか」
「バラの匂い?何も感じなかったけど」
病院の白い漆喰壁を見ながら、僕はバラの香りに包まれたうたかたの面影を思い出す。
                       
初投稿です。宜しく御願いします   



#1090/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 8/25  20:38  ( 97)
お題>夢の中  ----PAPAZ
★内容

 2300時を過ぎると、パソコンのディスプレーが一度、点滅する。
省電力モードに入ったことを視覚的に知らせているのだ。もちろん、遊歩本人がそう
設定しただけで、不思議な現象というわけではない。
 ただ、今回は点滅したあと、画面に人の笑い顔を見たような錯覚を覚えた。だから
遊歩はモニターをしばし見つめ、異常がないのを確認してから、ショートカットキー
を押した。
『cotl+A+D+N』の4キーが一度に押される。
「ドリーム・ネットワーク、アクティブになります。起動接続まで15分」
 やや抑揚の欠けた音声がモニタースピーカーから流れる。流暢な日本語より、ロボ
ットが話してるような機械的音声が好みだった。
 ひとつため息をついてから、戸締りを確認する。マンションの8階とはいえ、油断
はできない。泥棒はどこからでも侵入するのだ。ベランダーの二重ロックを指先と声
で確認し、ホームセキュリティのバックアップ電源のバッテリー残量も確認する。ド
アの開閉スイッチにセフィティロックを掛け、赤外線探知システムを随時、オンにす
る。
 ボタンを押し終わるとベッドサイドに到着している。
 遊歩はTシャツとジーパンというラフな格好から、生まれたままの姿へと全てを脱
ぎ捨てた。ベッドとは長年の慣習でそう呼んではいるが、正確にはドリーム・ネット
ワークの端末に過ぎない。フローティングタンクが商品名だが、通り名はドリームベ
ッドだ。
 フローティングタンクの上部フードは上に開いている。身体を横たえると、フード
は閉じる。淡色の光の羅列が順次発光し、無色のDW液体が満たされていく。呼吸可能
な液体は肺を満たし、次いで深い眠りへと誘う。
 遊歩は部屋の中にいる。
 若干くたびれたフルタワーのパソコンは見た目とは裏腹に最新のパーツで組みたて
られている。物書きが仕事だから、エディタは離せない。未だにDOSを使っているが、
それは使い慣れているからだ。
 創作中のクリスマス小説を開き、指先がキーボードに触れた刹那、チャイムが鳴っ
た。
 居留守を決めることにする。締め切りが近いので、誰であろうと邪魔はしてほしく
ない。
それが編集の中山なら、余計、邪魔になる。
 チャイムは繰り返される。止んだと思って安心した途端、ドアをたたく音が乱打さ
れた。
最初は甲高い音だったが、今は体当たりでもしているような重低音に変化している。
「待って、いま出ますよ。出るってば・・・」
 遊歩が立ち上がるとの、ドアが爆破されたのは同時だった。
 硝煙の立ち込める中、ゆらりと一人の男が顔を見せた。
「こんばんわ」
 その男は深くお辞儀をした。
「えーと、こんばんわー。えーと、誰でしたっけ?」
 戸惑いながらも、遊歩は記憶の糸を辿る。脳の中の論理セクターは異常を告げてい
るが、
再起動しないことから、とりあえず保留することを遊歩は決めた。
「やだなー。しばらく見えなかったからって。忘れなるなんて」
「そう言われても・・・・・・」
「PAPAZというのは仮の名、またはネット用のハンドルネーム」
「はあ」
 だからどうした、と言いたいが、男の手に安物のトカレフが鈍い光沢を見せている
ので、
遊歩は曖昧に応えた。
「パソコン通信では武闘で通ってます」
「?」
 誰だったかなあ? と遊歩は思ったが、とりあえず沈黙を守ることにした。
「いやー、しばらく書いてないうちに、何も書く事ができないという状態になってし
まったんですよ。それで遊歩さんのところに遊びにきた次第です」
 事と次第が合致してない、つまりロジックエラーだと論理セクターが告げたが、こ
れも無視した。遊歩にとって、トカレフのほうが重要だからだ。銃口が自分に向けら
れているとなればなおさらの事だ。
「そうだったんですか。大変ですねー」
 とりあえず、話しを合わせる。
「まあ、でもこうやって逢えたので万事解決しました」
「おお、それはよかった」では、サヨウナラと続けて言いたいのを、ぐっとこらえる。
「しかし、良い時代になりましたねえ。私がパソコン通信始めた頃はカタカナで通信
してる人がいたというのに、今や通信速度が2テラBpsですからねえ。そうでなけれ
ばドリームネットなんかありえないわけですが」
 武闘は腰に手を当て、遊歩をまっすぐ見つめた。
「さて、席をすすめられないし、さくっと帰りますね。今日はどうもありがとうござ
いました」
「いえいえ、なんのおかまいもせずに」と、一応、いっておく。
 男は会釈した。
 武闘が壊れたドアから消え、廊下からも後姿を隠してから、遊歩は「ルームだけ再
起動」と力なくつぶやいた。破壊されたドアはもとの姿に戻った。それは瞬時に変換
される。
「確かにドリームネットは、実生活のエミュレートによって睡眠時間でも働けるよう
にはしてくれたけど----まだバグが多いなあ。あとで文句言ってやろう。ログに記
録!」
 ログに記録の一言で、遊歩の思考は文字データーベースに保管された。同様に寝て
いる間に書かれた小説もドリームネットがローカルディスクに保管する。
 7時間が過ぎた頃、遊歩は筆を止めた。ディスプレーが明滅し、起床時間が迫って
いることを知らせている。
 目覚めたとき、睡眠時間中に何があったのかは記録したログだけが知っている。人
間が覚えてない無いのは、記憶していれば眠った気がしないという性質のため、記憶
領域から削除されてるからに他ならない。

 そして遊歩は目覚めた。起きてのち、ローカルディスクのログを探すが空だった。
 首を捻るが、パソコンに向かった途端、そのことを忘れてしまった。書き掛けの小
説自体が消えていたからだ。締め切りまであと2時間。
 とりあえず逃避行をすることを決心した遊歩だった。

 2時間後、武闘が目覚めた。
「遊歩さんのログも消去したし、匿名アカウントでネットにアクセスしたから私が不
法侵入したってバレないし。これで私もハッカーの仲間入りだなあ」
 武闘は声を出して笑い、パソコンからRAM-CDを抜き取った。RAM-CDはそれじたいに
メモリやマイクロカーネルを積みこんだ立派なパソコンとも言えるメディアだ。
 中には書き掛けの小説が詰まっている。もちろん、作者は・・・・・・



#1091/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 8/27  17:40  ( 87)
お題>『 Dr.KIRIKO 』 ---- PAPAZ
★内容

 『夢』とは何だろう?
 私は幾度となく自問している。自分にとっては、ビジネスとしての意味合いが大き
い。だが、普通の人間にとって、そうではないはずだ。
 毎度見る夢は、眠りからの贈り物だ。それは非論理的な物語ではあるが、人生の
パートナーとして存在している。
 起きながら見る夢は、単なる期待がかもしだす淡い幻想にすぎない。宝くじが当た
ったら、家を建てて----と、役に立たぬ、だが心楽しませる夢をサラリーマンは見る。
人間から夢を奪えば、どうなるのか。問うまでも無い。パンドラの箱を開けて以来、
人間が生きていく最後の命綱は『希望』という名の夢と決まっているのだから。

 私は患者の住所をメモで確認してから、紙片を白衣の胸ポケットにしまった。
 湿気を含んだ風を頬に受ける。見上げても天界は一面の銀幕が覆い、青のかけらも
見当たらない。イロ鳥の甲高い鳴き声をきいて、通り見まわした。コンクリートブロ
ックの塀を回した二階建ての家、小さいが手入れの行き届いた庭、苔むした庭石と咲
き誇るシンクロナガヤの若木が自慢というところだろうか。黄色い小花が散るアプ
ローチを進みながら、わずかに腰を折り、ベランダを伺うが窓から人影は見うけられ
ない。ドアの前で足を止め、皮のトランクケースを右手から左手に持ち替えチャイム
を押した。同時にドアを開け、後ろ手で閉めた。
「はい」
 か細い女性の声がうつろに響き、廊下の突き当たりの引き戸が開いた。やつれた年
配の女性と青畳が妙に似合っている。
「いいのですね?」
 私の問いに女性は無言で応えた。靴を脱ぎ、履き揃えてのち、うながされるまま部
屋へと導かれた。女性は戸を閉めると、私の対面に立ち、右手で座布団を示した。私
は座った。次いで女性が座った。
 私の目の前には布団がある。その中で老人が眠っている。人生の労苦が刻んだのだ
ろうか、深い皺が表情を奪い、翁とも呼べないほど年齢を感じさせている。
「長いのですか?」
「寝たっきりになって八年ほどでしょうか」
 抑揚を消した声で女性が応える。
「いいのですね」再度、問う。
 女性は沈黙を守った。
「わかりました」
 私は正座のまま、膝元でトランクを開いた。中には文字通りブラックボックスが入
っている。ボックスからケーブルを引き出し、端のリストバンドを手首に巻きつけた。
もう一本ケーブルを引き出し、老人の手首にリストバンドを巻きつけた。女性は興味
深げに私の挙動を見守っている。
 黒い箱の上部で赤いランプが明滅した。私は半眼に伏せ、ゆるやかに呼吸を始めた。
吐く息に合わせて数を数えていく。ひとつ、ふたつ・・・・、十まで数えると私の意識は
停止する。思惟の完全停止だ。次いで老人を観察する主体としての私と、観察される
老人という客体が交換される。主客転倒ともいうべき現象を禅では「私は花、花は
私」という文字で表している。私は禿げ上がった自分の頭部を見ている。たるんだ頬、
血の気の抜けた唇を見ている。枯れ枝のように細い指先、そして見栄だけの白衣。純
粋に自分自身を観察している。深い感慨は無い。ただ虚無だけが広がっていく。次い
で私の意識は老人の心の中へと潜っていく。暗黒と漆黒が混じり、日の光もない。伸
ばした自分の指先すら見えないような空間をどこまでも落ちていく。
 やがてうっすらと白光が射す空間に出た。不安定にゆらめく大地に足を付け、人の
気配を感じて振り返った。ぼんやりと歪んだ無数の顔が浮かんでいる。亡霊のように
精気がなく、口を開くものもいない。顔だけの行列が前から後ろへと延々と続いてい
る。
 老人が今まで出会った人との記憶が映像化されているのだろう。経験からそう判断
した。
 私は列の後方へ、さらに後方へと移動した。人の顔は進むに従い曖昧さを増してい
く。順に白い輪郭だけとなり、やがてそれも消えた。
 小一時間ほどさまよった、そう感覚が告げる頃、陽光の地へと辿りつくことができ
た。突然、ドアが開いたように私の眼前に飛びこんできたのだ。
「洋平、待ってよ。ねえ、ちょっと待ってよ」
 明るい声が響き渡った。私の横を髪の長い女性が通りすぎていく。ミニのスカート
から日に焼けた生足が飛び出し、キャミソールのような服を風に遊ばせながらかけて
いく。その先には筋骨たくましい青年がいる。彼は立ち止まると、溢れんばかりの愛
情を満面の笑顔と両手を広げることで表現した。女性の身体が彼の胸の中に納まる。
 私は映画を見るように、二人の観察を続けた。二人は出会い、恋をした。胸をとき
めかせ、せつなさに苦しみ、時を経て愛を誓った。
 場面は暗転する。
 彼女は泣き崩れていた。親と世間の無理解ゆえ、二人は結ばれなかったのだ。だが、
その泣き顔は瞬時に消え、また戸惑いを浮かべた表情から、笑顔へと変化をとげた。
出会いから別れまで、それが延々と繰り返されている。
 私が知りたいことは全て分かった。役目は終わったのだ。
 半眼のまま、呼吸を元に戻していく。夢という映像は消え、私は現実世界に帰還し
た。正座を崩し、手首からリストバンドを外した。老人からリストバンドを外すとき、
脈をとる。一拍置いてから胸前で合掌すると、年配の女性は声を押し殺して泣いた。
口の端がかすかに吊り上り笑っているようにも見えた。私はトランクを閉じ、「で
は」と一言だけ述べて老人を後にした。

 古ぼけた洋館に天から涙がこぼれおちてくる。窓辺に流れる雨水を眺めながら、深
く息を吐き出した。トランクのブラックボックスにケーブルを接続して、データは全
てコンピューターのメモリーバンクに放り込んだ。今、サーバーのメモリとCPUの中
で老人の恋愛体験は再演されている。プログラムが破壊されるまで、未来永劫にわた
り上演されるだろう。
 私は老人の恋愛という夢を吸い出したのだ。彼が大切にしていた、寝たっきりにな
ってさえ生き続けることのできる、たった一つの夢を吸い出したのだ。
 老人は死んだ。看護に疲れた彼の家族も、これで楽になれるだろう。頬がこけた年
配の女性を、私は思い返していた。
 老人は死んだ。だが本当に死んだのだろうか? 彼の精神ともいえる夢、それを私
はダウンロードしてコンピューターに移植したというのに。
 私には分からない。



#1092/1336 短編
★タイトル (LPF     )  98/ 9/ 1   6: 9  (108)
「灰」〜地下室       如月
★内容
「もうそろそろ出ていってもいいんじゃないだろうか」
 度の強そうな黒縁眼鏡をかけた中年の男が、誰に言うともなくつぶやいた。
「もう、こうしているのも限界だ」
 しきりに薄くなった頭をなでながら、もう一度言った。彼は皆から「教授」
と呼ばれていた。それは、ここでは「役立たず」と同義だった。
「それなら教授、あんたが出ていけばいいだろう」
 普段はあまり話さないが、時々言う言葉に凄みのある「和尚」が言った。
「そうよ。何もみんなで出ていく必要は無いじゃない。誰か一人が出れば済む
ことよ」
 こちらは「ソプラノ」。派手な化粧をした、水商売風の女で、頭のてっぺん
から抜けるようなキンキン声を出す。
「そういえばあの親方はどうしたんでしょう。出ていってもう三日ぐらいたっ
たと思うんですけど、何の連絡もないですね」
 「ソフィ」が、せわしなく両手の指を絡ませながら言った。まだ若く、時折
意味もなく哲学的な言い回しをするため、そう呼ばれていた。
 「親方」が、もう我慢の限界と、ここを出てから確かに三日がたっていた。
外の様子が分かり次第、必ず知らせると言っていたにもかかわらず、何の連絡
も無かった。
 外に出た途端、動けなくなり死んでしまったのかもしれないし、外に出て安
全だと分かるや否や、他の連中のことなど忘れ、どこかへ行ってしまったのか
もしれない。どちらとも判断はつきかねたが、このまま待っていても帰って来
る望みは薄いように思われた。
「もう一人出るしかないね」
 櫛も入れないボサボサの髪を、輪ゴムで無造作にひっつめた「バボ」が言っ
た。どこかのテレビ局でやっていた、バレーボールのキャラクターで、ボール
に手足の生えたようなその姿が重なる。巨体を揺すりあげながら、人身御供を
探そうと、周りを見回している。自分のことははなから念頭にないらしい。
 シェルターとは名ばかりの、殺風景なその地下室には、七人の男女がいた。
「教授」、「坊主」、「ソプラノ」、「ソフィ」、「バボ」、そして「ロダン」
と呼ばれる若者と、「ミミ」という二十歳の女性、それで全員である。
 始めは三十畳ほどの部屋に十二人がいたが、五人目の「親方」が三日前に出
ていった。
 「ロダン」は、ほとんど口も開かず、動こうともしないで、いつも部屋の隅
で膝を抱えて座っていた。皆、いつ「ロダン」が食事を摂っているかも知らな
いくらいだった。普段は顔も膝の間に埋めているので、起きているのか、寝て
いるのかさえ分からない。もう一人の「ミミ」は、「ロダン」の肩に頭をもた
せかけ、目を閉じていた。少し顔色が悪い。
 その「ミミ」に目を留めた「バボ」が、いやらしい笑みを唇の端にはりつけ
ながら言った。
「おや、あの子、具合が悪そうだねえ」
「よせよ。奴に聞こえるぞ」あわてて「ソフィ」が止めた。
 単に何を考えているのかわからないというだけではなく、「ロダン」には得
体の知れない不気味なところがあった。出ていった五人のうち三人は、自分の
意志であったが、残りの二人はいつの間にか消えていた。皆が眠っている間に
外に出ていったのだろうとほとんどのものは考えたが、唯一「ソフィ」だけは
二人目が消えるのを目撃していた。ふと目が覚めたとき、彼は「ロダン」が顔
を上げているのに気がついた。初めて見る顔だった。その氷のような視線の先
に、消えつつある男の脚があった。上半身はすでに消えていた。男は消える前、
無反応な「ロダン」に向かって執拗に嘲りの言葉を投げつけていた。
「ソフィ」はそのことを誰にも言わなかった。それでも皆、何かを感じるらし
く、「ロダン」をからかうものはもういなかった。
「ふん」
 ふてくされながらも、「ソフィ」の勢いに気圧されて「バボ」は口をつぐん
だ。話もせず、落ち着き払っている二人の様子が気に入らないらしい。
「そうですね」「教授」が話を元に戻した。「食料はこの人数でもまだ半年分
ほどありますけど、やはり外の様子が知りたいですよね」
「あたしは嫌よ。やっぱりこういうときは男性が行くべきだわ」
 普段は男女同権をうたっている「ソプラノ」が堂々と女性の特権を主張した。
「わしは最後まで見届けなくては」「和尚」が腕組みをしながらつぶやいた。
「だいたい一番大飯ぐらいの人が出ていくのが道理に適っているだろう。食料
は限られているんだから」
 そういった「ソフィ」をにらみつけて、「バボ」は銅鑼声を轟かせた。
「なんだってえ、このひよっこが。ふみつぶすよ」「ソフィ」は首を竦めた。
「あたしだって女なんだからねえ。めんどくさいねえ。誰か勇気を持って名乗
り出る奴はいないのかい」相変わらず自分は棚に上げている。
「私が出よう」
 四人の視線が一点に集まった。
「私が外に出て行くよ」もう一度「教授」が言った。「私が外の様子を見て、
安全なようなら君たちを呼びにくるよ。だが、もし戻ってこない場合は外は危
険だということだ。といって、食料はあと半年程度しかもたない。半年の間に
事態が好転するとは考えにくいから、ここにいても間違いなく全滅だ。いいで
すか。いままでの人たちと違って、安全ならば、私は必ず戻ってくる。だから
戻らない時は覚悟してくれたまえ」
 何度も念を押して「教授」は出て行った。
 皆は最後の希望を「教授」に託し、すがるような目で見送っていたが、「ロ
ダン」と「ミミ」だけは身動き一つしなかった。
 灰色のドアをゆっくりと開けて出てきた「教授」は、慣れた足取りで長い廊
下を歩いて、ある部屋へ入っていった。
「教授。お疲れさまでした。実験は成功のようですね」
 教授に白衣を差し出しながら、若い男が出迎えた。
「野口君。記録の方はどうかね」
 野口と呼ばれた若者が何かの記録を持ってきた。教授は、一通りそれに目を
通すと、モニターに視線を向けた。
モニターにはかなり広い部屋の隅にうずくまる一人の痩せた青年が写っていた。
彼は膝を抱え、その間に顔をうずめている。マイク内蔵の超小型カメラが、天
井の隅に巧妙に埋め込まれている。そのマイクから甲高い、ヒステリックな声
が聞こえてきた。
「怖い。あたし怖いわ」
「わめいてもどうなるものでもあるまい。少し静かにしてくれんか」
「そうだよ。どうせ助からないならわめくだけ損だ」
「ふん。あんたらだって本当は怖くて仕方がないくせに。気取ってると踏みつ
ぶすよ」
 キンキンと響く声。錆を含んだ低い声。若い声。銅鑼声。それらの声は、部
屋でうずくまる一人の青年から発せられていた。
 それらの声を聞きながら、満足そうに教授は言った。
「この実験が成功すれば、一両日中にパニックが起こってまたいくつかの人格
が消えるだろう。その他も時間の問題……」
「教授。どうかされましたか」教授の表情の変化に気づいた野口が声をかけた。
「いや、何でもない」
 そう言いながら、教授は取り出したハンカチで汗を拭った。モニターの向こ
うに見える青年「ロダン」が笑ったように見えたのだ。教授は、わずかに見え
る横顔の唇の端がキュッと上がったような気がした。ほんの一瞬のことで、今
は何の変化もないように見える。気のせいだったのだと教授は自分に言い聞か
せた。
 モニターからは見えない反対側の唇は、確かにつり上がっていた。邪悪な笑
いの形に。「ロダン」の傍らで眠っていた「ミミ」のお腹の中には、新しい人
格が芽生え始めていた。
 それに気づくものはいない。



#1093/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/ 3  18:20  ( 43)
「懐かしい日常」             えま改めKATAR
★内容


 わたしの中には、それを仕舞う場所がなかった。
 仕方がないので、わたしは、それを背に纏うことにした。
 ぬめり、とした感触。
 裸の皮膚にしがみつき、もう決して離れることはないだろう、
 「それ」。
 ……「女」というもの。
 
 「心配しなくて大丈夫。もうじきそれは、あなたに溶け込んで
 ゆくから。」
 
 背に纏ったわたしと違い、かつて「それ」を丸飲みにしたオンナは、
 そう云った。

 「それ」が溶け込んだわたしを、
 昔の知人たちは、
 なんと呼ぶのだろう。
 「それ」の名で? 
 現在(いま)のわたしの名は、
 やがて消えてゆくのか……。
 
 今、わたしは「それ」に、
 浸食されようとしている。
 
 痛くも苦しくもなく、ただ、膚がほんの少し、
 ぬめりがあるだけで。
 わたしを「日常」へと誘(いざな)っている。
 
 今、わたしは「それ」に、
 浸食されようとしている。
 
 いつか「わたし」をぼんやりと、
 懐かしむ日が来るまで。
 

  

 
 






#1094/1336 短編
★タイトル (LPF     )  98/ 9/ 4   4:56  (190)
紫〜「宇宙」       如月
★内容
「ですから……その男、田村とは飲み屋で偶然隣り合わせただけなんです」


 大原和宏は、やっと残業を終えて帰宅途中にあった。
 ふらりと初めての飲み屋に飛び込んだのはいいが、案外と混んでいて、カウ
ンターが二、三空いているだけだった。
 大原はそのうちの一つに座り、ビールと枝豆を注文した。ビールがまずやっ
てきて、一杯目をグラスに注ぎ終わる頃、いきなり隣の男に声をかけられた。
「お一人ですか」
「ええ、まあ」
 それまで全く意識の外にあったその男を何気なく値踏みしながら、大原は慎
重に答えた。
「こうしてお隣になったのも何かの縁ではないですか。ご一緒に飲みませんか」
「そうですね」
 その男は田村と名乗った。証券会社の営業をやっているという。身なりも気
ちんとしていて、仕事柄かどうか笑顔を絶やさずに話す。
 大原は中堅家電メーカーの、同じく営業をしている。午前の取引でミスを犯
し、取引を一つ不意にしてしまった。少々やけ気味で飲もうと思ったのだが、
一人で飲むと悪い酒になりそうだったので、その男からの誘いは渡りに船でも
あった。
 しばらく他愛もない話をした後で、田村は語調を変えずにさらりと言った。
「あなたは運命というものを信じますか」
 大原はこの男の話に乗ったのを少し後悔した。何かの宗教に入っている信者
が、こういう場で何気なく知り合いになる。悩み事などをそれとなく聞きだし
た後で、それならと本題に持っていく。そういう手を使うという話を聞いたこ
とがあった。
 大原が怪訝な顔つきで黙り込んだのを見て、田村は笑い出した。
「大原さん。あなた、私が何かの宗教の勧誘をしようとしている、と思ったん
ですね。いや、突然運命を信じるかなどと言われれば、そう思われても仕方が
ないですが、違います、違います。私は誓って無宗教です」
 大原は何となく自分の考えを見透かされたようで驚いたが、照れ笑いでごま
かした。
「いやあ、すみません。しかし運命ですか。私はそんなこと考えたこともない
ですね」
「そうでしょう。実は私もそうだったんですよ。ちょっと私の話を聞いてみて
くれませんか」
 どうせ家に帰っても一人だし、翌日は休みだ。酒の肴に馬鹿話につきあって
もいいかと思い、大原は頷いて、グラスの残りを空けた。
 田村は大原のグラスにビールをつぎながら、話し始めた。
「ある日、会社帰りに少し飲んで家に帰る途中、公園の中を通ったんです。ま
あ、これはいつも通るコースなんですがね。十一月の寒い日で、時間も十時を
まわってましたから、人通りもほとんどなかったんですが、水飲み場に白い服
を着た人らしきものがうずくまっていたんですよ。いつもなら、酔っぱらいか
なんかだろうと通り過ぎるところです。でもよく見ると、白いそのセーターと、
背中に垂れた長い黒髪が妙に気になりましてね。色気を出したのかもしれませ
んが……。退屈じゃないですか」
「いや、大丈夫。続けてください」
「どうぞ飲っていてください。耳だけ貸していただければ、勝手にしゃべって
いますので。えーっと、とにかく声をかけてみたんです。すると、振り返った
額にハンカチを当てていまして、そのハンカチにうっすらと血がにじんでいる
じゃありませんか。どうしたんです、大丈夫ですか、と言ったら、大丈夫だと
いう。通り魔に遭い、いきなり石のようなもので額を殴られて、軽い脳震とう
を起こしたらしい。気がつくと、バッグを盗まれていたんだそうです。それで
は警察に連絡をしましょうと言うと、その必要はないと言う。傷は大したこと
はないんだが、少しふらつくので家まで送ってほしいと頼まれまして。もちろ
ん私は病院へ行った方がいいと言いましたが……。正直少し迷いましたよ。よ
く見ればかなりの美人で、セーターの胸もこう、ふっくらと。その美人が家ま
で送ってほしいと言うんですから。一も二もなく送りたいところですが、新手
の美人局かなんかで、いきなりコレもんのお兄さんが出てきた日にはねえ」
 田村はそう言いながら人差し指を頬に当て、上から下へと滑らせた。
 一息入れようとグラスを干した田村にビールをついでやりながら、好奇心を
露わにした大原が先を急がせた。
「結局行きましたよ。傷の具合を見たら、本物らしかったのでね。まさか私み
たいな安サラリーマンを引っかけるのに、こんな美人が本当に傷までつくって
待ちかまえるのも変ですものね。実際はそこまで考えていたわけではなくて、
やはりスケベ心が勝ったんでしょうね。いざとなれば逃げればいいと。酒もそ
れほど入っていませんでしたし。四、五分歩くといかにも高級そうなマンショ
ンに着いて、彼女がオートロックの番号を押そうとしたところで私、怖じ気づ
きまして。それでは帰りますと言ったんですが、どうしてもお礼をしたいから
少し寄っていってくれと言うんです。また、例のコレもんが頭をよぎったんで
すが、つかまれた腕にセーターの膨らみが当たった途端、理性なんか吹き飛ん
で、もうどうにでもなれと……。部屋に入って驚きました。まあ、調度が高級
そうなのはマンションから考えてもわかるんですが、こう、何というか、その
調度品が、ドレッサーから置き時計に至るまで、バランスがいいというか、調
和がとれているというか、そんな印象だったんですよ。それに、生活臭は全く
感じられない。これは、銀座あたりの超高級ホステスかなんかだと思いました
よ。いや、私は行ったことないですけどね。まあ、それはそれとして、男は出
てこないようだし、落ち着いてみると、やっぱりこれは警察に届けた方がいい
と思い直して、もう一度言ったところ、彼女はこう言ったんですよ。
『いいんです。これも運命ですから。あの公園で強盗に襲われることはわかっ
ていたんです。あなたがこうして助けてくださることも』って。
 訳の分からないことを言うもんだから、調子に乗って、じゃあこれも運命だっ
て言うのかと、彼女をソファに押し倒したんです。冗談のつもりでね。すると
彼女が真顔でコクリと頷くもんだから、こっちも引っ込みがつかなくなって、
とうとう最後まで……」
 大原はグラスを持ったままじっと聞き入っていたが、我に返ると一口ビール
をすすって、やっと口を開いた。
「何だ。ずいぶんうらやましい話じゃないですか。でもそれ、本当の話なんで
すか」
 大原には少し話がうますぎるように思えた。
 田村は大原の反応がわかっていたかのようにゆっくりと頷き、言った。
「それが本当なんですよ。実を言うと、今日ここであなたと会うことも、彼女
に聞いたんですよ。私がここで運命の人と出会う。その人の名前は大原と言う
んだってね」
「だって、私がここに寄ったのはただの思いつきですから、あなたと会ったの
だって、ただの偶然じゃあないですか」
「彼女に言わせると、この世の中に偶然なんてものはないそうなんです。全て
は宇宙の法則に基づいて動いているのだと。しかも、その調和を保つのが彼女
の役割だと言っていました」
 ここまで聞くと、あまりに突飛な話なので、やはりこの男に担がれたんだと
思い大原はがっかりしたが、始めからたいして期待はしていなかったんだから
こんなもんだろうと思い直した。それなりにいい時間つぶしにもなったし、少
し気も晴れた。
 だが、田村の話はまだ終わってはいなかった。
「実は、あなたをマンションに連れてくるように彼女に頼まれてるんですよ。
これからどうですか」
「えっ。じゃあ、今の話は本当なんですか」
「だからさっきも本当だと言ったじゃないですか」
 もちろん大原は、全てを信じたわけではなかった。実はこの男が美人局の片
割れなのではないかと言う疑念もなかったわけではないが、その女の顔を見て
みたいという好奇心に、酒の勢いも加わって行ってみることにした。
 そのマンションは居酒屋からそう遠くはなかった。田村の話を裏付けるかの
ように途中公園を通り、豪奢なマンションのオートロックを、田村は難なく通
り抜けた。
 エレベーターで十二階に上がり、あるドアの前に着くと、当たり前のように
鍵を開けて中に入った。
「まあその辺に掛けてください」
 まるでその部屋の主のように田村は振る舞った。
「ビールでいいですか」
「ええ」
 気の抜けた返事をしながら、大原は周りの調度品を見回した。どれも大原の
見たこともないような品ばかりだった。置き時計一つとってみても、かなり古
そうなもので、その精巧な装飾は、素人目に見てもかなり高価なものであろう
ことはわかった。大原には何に使うのかわからないものまであった。
 不思議なのは、その豪華さよりも、かなり広い部屋の壁面を埋め尽くしたそ
れらの品々が、皆ありとあらゆる方向を向いていることだった。一つとして同
じ向きのものがないように見える。
 一見すると乱雑に置いてあるだけのようだが、全体としては妙にバランスが
とれている。
「気がつきましたか」
「……」
「大原さん。どうぞ」
 目の前にグラスを突き出されて、我に返った大原は、グラスを受け取った。
 そのグラスにビールを注ぎながら、田村はもう一度聞いた。
「気がつきましたか」
「え、ええ」
「私もいろいろと調べてみたんですが、どうもこの品々の配置が運命と深く関
わってるようなのです。どれかに触ってみてください」
 大原は言われるままに、一番近くにあった花瓶のようなものに触れてみた。
だがそれはびくともしなかった。椅子やテーブルの上の灰皿や生けてある花、
グラスなど、壁面以外にあるものは動かせるのに、壁に並んだものは何一つ動
かせなかった。
「動かせないでしょう。でもそれぞれの意志で、少しずつ動いているようなん
ですよ。少しずつね」
 田村は一気にグラスをあおって、話し続けた。しかし、大原を見てはいなかっ
た。
「私はとうとうそれらを動かす方法を見つけたんです。何だと思いますか……。
それはね……彼女を消すことなんですよ」
 田村はだんだん自分の言葉に酔い始め、あらぬ方向を見つめながら口から泡
を飛ばし始めた。目は血走り、形相は一変していた。
「彼女を殺し、運命を変えたところで、どうなるか分かりません。でも、運命
が変わらないなら、こんな宇宙はどうなっても構わないんですよ。そう、構わ
ないんだよ。こんな世界は消えてしまった方がいいんだ。ふふふ。あんたもそ
う思うだろ。こんな腐れ切った世界はさ。見せてやるからちょっと待ってな。
この世の最後をさ」
「……」
 大原は何も言えず、田村の変貌ぶりを見つめていた。酔いは急速に引いていっ
た。
 田村の独演は続いていた。
「あんたにはただ見ていてもらうよ。傍観者としてね。この世の最後を誰にも
知らせず自分だけで味わうのはもったいないのでね。今夜決行するのに景気を
つけていたら、あんたがたまたま隣合わせたんだよ。幸運だったな。幸運だよ。
他の奴らは何も知らないで消えていくんだからさあ。もうすぐ彼女が来る。い
つものように一秒と狂わずにな。黙ってみてろよ」
 そこへ彼女が帰ってきた。彼女は想像以上に美しかった。白いワンピースよ
りもさらに白い顔が、静かに微笑んでいた。
「よくいらっしゃいました」
 彼女はそう言うと、田村と大原に軽く挨拶を交わし、着替えてくると言った。
「ああ。私たちは勝手に飲っているよ」
 そう言う田村の表情は、いつの間にか元に戻っていた。
 彼女が田村の横を通り過ぎ、着替えるために奥の部屋へ向かった時、田村は
スーツの内側から大振りのナイフを取り出し、彼女の背中で大きく振りかぶっ
た。


 気がつくと、大原は血のべっとりと付いたガラス製の灰皿を握っていた。そ
の灰皿を右手からもぎはなそうとした時、足元に田村が倒れているのが見えた。
やっとの事で灰皿を放すと、ゴトッと大きな音を立てながら床に落ちた。今の
大原には、その音だけが現実のように思えた。
 彼女と目があったとき、彼女の唇が「ありがとう」と動いたように大原には
思えた。
 いや、気のせいだったのかもしれない。全てが夢の中の出来事のように、現
実感がなかった。大原の耳に遠くで鳴っているサイレンの音が届いていた。


「ですから……その男、田村とは飲み屋で偶然隣り合わせただけなんですよ。
刑事さん」
 そう言いながら大原は思った。
 私は宇宙を救ったのか。それともただの人殺しなのか。
 目の前には彼女の笑顔が浮かんでいた。



#1095/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/ 7   0:54  (144)
お題>『おちゃめな婆ちゃん、千里を走る』----PAPAZ
★内容

 インターネットをする上で、一番のネックはテレホーダイが深夜だけ定額というこ
とだろう。仕事柄、夜遅く帰宅することが多いため、個人的には都合のよいシステム
に見えるが、実際問題、夜更かしするという点には変わりがない。つまり昼間は頭が
ボーとしてるわけだ。仕事中も同じこと。
 それなら、やめてしまえばいいのだろうが、ネット依存症に染まった現在、禁煙よ
り難題になっている。
 悪い点ばかりではない。
 ネットを楽しむツールは無数にあるが、その中でもICQと呼ばれるツールは群を抜
いて便利だ。ICQなしのネット生活など、すでに考えることもできない。
 ICQサーバーにログオンすれば、ログオンしている人がウィンドウに表示され、自
由にメッセージを送れる。つながっていない時も同様だ。例えるなら、簡易メーラー
というところか。
 これが祖母の生存確認の手段として役に立っている。知り合いの登録している57
人のうち一人は祖母だ。ログインしているということは、まだまだ元気ということ。
今年80歳の大台に乗るとは思えないほど、精力的な証だ。
 とはいえ、年は年。
 夜毎、ICQにつなぐ度に「ばあちゃん、まだ生きてるんだなあ」、と安心すること
ができる。それだけでも、インターネットの価値はあるというものだ。

 帰宅すると、家の明かりはすべて消えている。娘はすでに床に入って、妻とスヤス
ヤ、時にはギリギリと歯ぎしりをたてながら、眠っている。
 私は、といえば、パソコンに電源を入れ、椅子に座りながらOSが立ち上がるのを待
っている。見飽きた起動ロゴが通り過ぎ、壁紙の海賊が表示され、ハードディスクの
アクセス音がやむと、指が少し震えた。
 明日から三連休、今宵は気兼ねなくサーフィンできるというものだ。
 なにを探そうか? どこへ行く? いろいろ考えているときが楽しい。
 もっとも、今日はすることが決まっている。ゲームのデモ版をダウンロードしなけ
ればならない。60MBという容量はダイアルアップユーザーの私にとって、数日がかり
の作業なのだ。
 WINDOWS98が安定すると、さっそく回線を接続した。プロバイダがパスワードを確
認すると自動でダウンローダーが立ち上がり、FTPサイトに接続し昨日の続きを落と
し始める。ICQも接続と同時に起動する。ブラウザを立ち上げようと思ったが、AWCの
お題がまだ書き上がっていないので、先にテクストを開いた。
 「ハロー」と早口の英語がスピーカーから飛び出た。ICQにメッセージが入ったの
だ。タスクトレイでメールを模したアイコンが点滅している。
 ダブルクリックすると、小さなウィンドウが開く。
『こんばんわ。(^_^) 何か良い話はないかねえ』
 古から、祖母の出だしの言葉は変わらない。
『娘は元気に学校、行ってるよ。ばあちゃんの送ってくれたピアニカ、毎日ちゃんと
練習している。平々凡々、それが良いことかな?』
『授業参観はどうだったかえ?』
『写真、送るよ。ちょっと待ってて』
 ICQはFTPとしての機能も持っている。デジタルカメラでとった映像をICQを通して
送る。ネットで送ることを前提としているので、色数を落とし軽くしている。わずか
数十キロバイトのサイズ、送るのは一瞬だ。
『おお、かわいいねえ。……ちょっと緊張してるんじゃないのかえ』
『そうらしいよ』私は軽く笑った。細い目がいっそう細くなってる写真だ。困ったよ
うに眉間にしわをよせているところが、我が娘ながら愛らしい。
『ところで、音声認識のソフト買ったんだけど、孫でも使えるんじゃないのかねえ』
『ViaVoice98だね。使い勝手はどう?』
 祖母の視力も落ちてきてるという話だし、それなりに役立つだろう。なかなか良い
選択だと思う。
『うちのセロリではサクっという感じかねえ。変換に1秒ぐらいかかるけど、まあ実
用レベルじゃろう』
 セロリというのは、インテルで出しているセレロンのことだ。このCPUを祖母は
オーバークロックさせて使っている。
『じゃあ、うちでも使えるかもね』
 言葉とは裏腹に、自分のK6-300でも快適に動作すると確信している。
『プレゼントとして送ろうか?』
『無理しなくてもいいよ。結構、高い物だし……』
 しばらく話が途切れ、私は小説を書き始めた。お題を書くはずが、前に書いた作品
の続編に手を染めていた。
『ハロー』と早口の英語が飛び出す。最初の頃は、カッコー、と聞こえ、とまどった
ものだ。
『今日は、ずいぶんゆっくりだねえ。仕事、休みなのかい?』
『うん、明日から三連休さ』
『それはよかった。孫もよろこんでるじゃろう』
『明日は学校あるから、遊びにつれていくのは明後日からだねえ』
『それは楽しみなこって』
『ははっ、一番楽しいのは、休みの前の日だね』
『それはどうして? (@_@) 』
『一日目は、まだ二日あるからいいけど、二日目は後一日しか休みないだろう? そ
れって寂しいよ。三日目は、今日で終わりだ――やはり寂しい。でも、今日はまるま
る三日休みあるわけだから、のんびりとしていられる』
『ふーん。夢を見ている間が楽しい、というわけかいの』
『そんなところかな』
『話は変わるけど、今度、インテルからメンドシノがでるじゃろう』
『ああ、2次キャッシュ積んだセレロンだよね、確か』
『――もう飽きた。パソコンの拡張って切りがない (>_<) 』
『確かにね、いえてる』
 実際、CPUの性能アップはアプリケーションの進化より速い。新しいデバイスは登
場するし、進歩についていこうと思えば切りがない、というのは本当だ。
『でも、拡張ってばあちゃんの趣味だよね。やめちゃうの?』
『まあ年だし……だから、プレゼントに送るわ』
 ファイルが送られてきた。解凍してビュアーで見ると、宝くじが一枚写っている。
私はブラウザを立ち上げ、それが当選しているかどうか確かめた。
 組も番号も間違えようがない。1億とはいわないが、100万円あたっている。
『あたってるよ、これ!』
『はずれた宝くじが贈り物になるかのう』
 それはもっともだ。
『もらって、いいの?』
『かまわんが、それをどう使うつもりじゃ?』
『まず、嫁さんに指輪を買う。娘には本を買ってあげるねえ』
『で、自分には?』
『まずISDNにするよ。ダイアルアップじゃ、遅いからねえ。モデムじゃだめだよ』
『ふむふむ』
『そして、ソケット7最速を目指して改造する。メモリも100MHz対応のものを256MB
くらい入れたいし、CPUはAMDのK6-3をいれる』
『おお、それで?』
『8倍速のCD-Rを購入したいし、ビデオカードももっと速い物にしたい!』
 ケースも変えて、ミドルタワーからフルタワーにしよう。言葉には出さなかったが
夢は膨らんでいった。
『旅行もいいなあ。近場で温泉、ゆっくりのんびりしたい』
『(V)。\。(V) フォッフォッフォッ』
 婆ちゃんは顔文字を使うのが好きだ。
『本当にいいのかなあ。ありがとう』
『いえいえ、どういたしまして。一番、楽しい時間だったじゃろう?』
『?』
『一番楽しいのは休みの前の日なんじゃろう? 休んでしまえば、楽しみは半減す
る』
『何をいいたのか、よく分からないけど?』
『だから、休日を味わうより楽しいのが、休日の前の日なら、宝くじの賞金をもらう
より、もらう前に使い道を考える方が楽しいわけじゃ』
 理屈が通っているような、通っていないような。
『だから、プレゼントは賞金の使い道を考える、という夢なんじゃ』
『……送られてきた画像は?』
『フォトレタッチで数字を書き換えたんじゃ。あはははっ。本当にあたっていたら、
自分で使っているわい。そんなの考えるまでもないじゃろう?』
『……』
『そろそろ落ちるわ。夢の続きを楽しんでおくれ。
 (^-^)ノ~~マタネー☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★』
 祖母がICQからログオフした。

 私はしばらく呆然としていた。狐に化かされた気分とは、このことをいうのだろう。
確かに休日の前日が一番こころ楽しい。しかし、それは実際に休めるという保証があ
るからだ。100万円という賞金の使い道を考えるのも楽しかった。だが、それも実
際に手にはいると思っていたからだ。これでは、捕らぬ狸の皮算用ではないか。
 頭の中で狐と狸が踊っている。
 楽しい夢だったぶん、落胆も激しかった。
 とりあえず、祖母にメッセージを送る。
『Ω\ζ゜)チーン…』

             *

 後日、祖母から手紙が送られてきた。
 中には宝くじが一枚と、短い文章が添えられていた。
 私が、当選番号を確認したのは当然のこと。
 その結果については、もちろんいうまでもない。

----------------------------------------------------------------------
お題、『場所指定――夢の中』かろうじて、クリアーしてると思ってます。
だめかなあ?
書き上げるのが、遅れてしまいました。m(_)m



#1096/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 9/ 7   2:50  ( 70)
大型環境小説  「割り箸リサイクル」  ゐんば
★内容

「さて、地球にやさしいレポートのコーナーです。今日は手児奈ちゃんはどこに
行ってるのかな。手児奈ちゃん」
「松本さーんこんにちわぁ、梅田手児奈です」
「こんにちは、手児奈ちゃん」
「松本さん私がいま持っているのが何だかわかりますか」
「ん?それは、お箸ですか」
「そう、これ、割り箸です。割り箸は何でできてるかわかりますか」
「そんなことわかりますよ、木でしょう」
「そうなんです、この割り箸、木でできています。でも割り箸は使い捨て。これ
は森林資源の無駄遣いですよね。そこで、きょう私は割り箸のリサイクル工場に
おじゃましてまあす」
「はーい、じゃあよろしくお願いしまーす」
「はーい。工場長の杉野森弥三郎さんにお話をうかがいます。杉野森さんよろし
くお願いします」
「よろしくお願いします」
「さて、私の後ろにある機械。これは何の機械ですか」
「これはですね、割り箸を洗う機械です」
「おっきな機械なんですね」
「ええ、割り箸には揚げ物の油などが染み付いてますのでまずその油を分解しま
す。さらに醤油やソースのしみがありますので、これも特殊な薬品を使って溶か
します」
「いろんな汚れがついてるんですね」
「最後に水洗いして仕上げです」
「なるほど。さて、こうして洗った割り箸はこちらの機械に運ばれます。この機
械はなんですか」
「この機械は、洗った割り箸を乾燥する機械です」
「乾燥機ですか」
「木材なものですから、急に乾燥すると変なしなりがついてしまうので低温でゆ
っくり乾かしています」
「はー、手間がかかっているんですね。さて、これがきれいに洗われて乾かされ
た割り箸です。この割り箸はどのようにリサイクルされるんですか」
「それはこちらの工程になります」
「わあ、大勢の作業員の方が机に向かってます。ここは何をされてるんですか」
「ここではですね、二つに割れた割り箸をぴったり合うように元のペアを探して
いるんです」
「ひとつひとつ手作業なんですね」
「ここだけはどうしても機械化できなくて、人の手に頼るところですね」
「はい。ペアが見つかるとテープで仮止めされて、こちらの機械に運ばれます。
この機械は何をしているんですか」
「ここでは接着剤を流し込んで、ペアの割り箸をくっつけています」
「はーだいぶ割り箸らしくなってきましたね。さて、これはいよいよ仕上げのよ
うですね」
「はみ出した接着剤を削って、形を整えています」
「はあい、リサイクル割り箸のできあがりでえす。わあ、見た目には全然わかり
ませんね」
「はい、こうして再生した割り箸は包装されて飲食店や弁当屋に運ばれます」
「はい、割り箸のリサイクル工場からお届けしました」
「手児奈ちゃーん」
「はーい松本さーん」
「どうですかリサイクル割り箸、触った感触は」
「ええ、こうやって割ってみてもね、普通の割り箸と変わらないんですよ」
「すごいねえ。杉野森さん、はじめまして、松本と申します」
「はじめまして」
「このリサイクル割り箸はだいぶ使われてるんですか」
「ええ、おかげさまでいま全体の五パーセントはリサイクル割り箸が使われてい
ます」
「いやあ五パーセントと言っても割り箸全体のですから大きいですよね」
「来年中には十パーセントに乗せたいと思ってます」
「松本さん、今日使った割り箸がもしかすると広末涼子ちゃんが使ったものかも
しれませんよ」
「ははは、私は藤原紀香さんのほうがいいなあ。杉野森さんどうもありがとうご
ざいました」
「ありがとうございました」
「手児奈ちゃん明日もよろしく」
「はーい」
「はい、今日の地球にやさしいレポート、割り箸のリサイクル工場をご覧いただ
きました。明日は爪楊枝のリサイクル工場からお届けします。ではコマーシャル」

                            [完]




#1098/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/11  22:35  ( 63)
お題>高く、高く「アソート天使」  KATARI   
★内容
 あとは、羽根だけ。
 
 銀色した睛(ひとみ)。丸い膝頭。薄い爪。

 やわらかな髪。すんなりとした腕。華奢な喉……。
 
 掻き集められた部品たちは、どれも美しく、完璧なもの。
 
 あとは、羽根だけ。
 
 完璧な部品から完璧な躯(せいぶつ)を生み出すために。
 
 あとは、羽根だけ。
 
 
 その白く、滑らかな肩胛骨に、縫い合わせる羽根が必要。
  
 羽根を繋ぎ合わせることが出来たならば、

 それは、天使(しょうねん)になり飛び立つことが出来るのだから。

 優美な影のみ地上に遺して、

 飛びだつことが出来るのだから。
 
 
 天使(かれ)がどんなに飛翔したとしても、

 解(ほつ)れたりはしないように、

 ほかの部品はみんな縫い合わせた。
 
 あたらしい針で、つよい糸で。
 
 あとは、羽根だけ。

 羽根さえあれば完成する……。

 
 アソート天使(しょうねん)。

 完璧な躯(せいぶつ)。

 高く、高く、

 どこまでも飛んでゆくことが出来る躯(せいぶつ)……。


    羽根ヲ見ツケテ、ワタシハ、
    
    堕チヨウ。  
 
             
                       《 f i n 》


           KATARI(かたり),1998,09,11
 
 
 



#1099/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/14  19:47  (114)
お題>『浪漫飛行』  ……  PAPAZ
★内容

   『浪漫飛行』

 電飾看板の波をさまよい、毒々しいネオン管が瞬くビル群を分け入るのは、雑踏に
紛れ、個人が消えていく感覚を味わいたいからではないか?
 そう考えるときもある。
 宇宙開発事業団の歯車のひとつのくせに、これ以上の無人格に憧れるのか? 胸の
中に、ささやくもう一人の自分がいる。
 見上げても、林立した高層ビルと薄汚れたスモッグのせいで月明かりすら感じられ
ない。立ち止まれば、浮かれた若者達と肩をぶつけ、無表情で頭を下げる自分がいる。
 電信柱の消えた路地裏に迷い込み、初見のスナックに入ったのは単なる気まぐれに
すぎない。ジャンクショップで手に入れたアンティークなのか、木製の厚いドアを開
けると兆番がきしんだ。閉じるときに音声合成された女性の声で「いらっしゃいま
せ」と鳴る。
 店内は10人掛けのカウンターがひとつ。ボックス席が4つ。天井に埋め込まれた
ダウンライトの光は薄暗く、カウンター奥の棚で煌めいているグラスとボトルだけが
スポットライトを当てられて妙に浮いている。
 湿度が高いのか、無意識のうちに背広からハンカチを取り出し、額にあてていた。
マスターは見たところ40代の陰気な男だ。私に一瞥の視線を投げかけ、顎で着席を
促す。他に客はいない。ハンカチを仕舞いながら、左右に視線を走らせた。
 カウンターの右隅にテレビがあり、画面の中で裸の女性が音量を絞ったサンバに合
わせて踊っている。
「景気はどう?」
 沈黙が気まずくて私から声をかけた。尻をずらして椅子に腰掛けなおすが、座りが
悪い。ズボンが大腿部に張り付き、指先でつまみ引き離してみる。
 マスターは肩をすくめ、なににします?、とハスキーな声で尋ねた。
 私は壁にかけてあるメニューから、サントリーの山崎を選んだ。
「あれが来てからというもの、景気がいいのか悪いのか、なんだかさっぱり分かりま
せんなあ」
 マスターは人ごとのようにいう。
「確かにねえ」
 確かにその通りだ。好景気と不況の波が極端に狭いのだ。もっとも、この時代に安
定する方がおかしいのだが。
「この店にも来るんですよ。金払いはいいんですけどねえ。……他の客は来なくなり
ますから。こうなったら専門店にしちゃいますか?」
 マスターが声をあげて笑った。口ひげが揺れ、そりあがった頭部が光を乱反射する。
つられて私も自虐的に笑った。
 一陣の風とともにドアが開いた。
 マスターの顔がこわばり、目から生きているというシグナルが消えた。音声合成さ
れた女性の声が、空々しく響く。
「あっ、どうも……」
 マスターの挨拶と入れ替えに、グラスと氷、それに山崎のボトルが目の前に置かれ
た。テレビ画面に『AQ?』の文字が走る。次いで『YES』と表示された。
 なんということはない。あいつが来たのだ。
 通称、進駐軍。
 コードネーム、AQ。アンドロメダ・クエッションの略称だ。あいつらは故郷の惑
星がどこだかを教えない。ただ今までの観測データからアンドロメダが故郷銀河だと
推測されている。やつらは月と地球のラムランジェ・ポイントに停船し、今も居座り
続けている。すべての地球人が、地球外生命体が存在している、と認識した初めての
種族がAQだ。
「なににいたしましょう?」
 横からマスターの声が聞こえる。私はまっすぐ前を見つめていた。AQがカウンター
に座ったのを鼻につく刺激臭で感じる。
『ア・ル・コ・ル』
「分かりました。すぐにご用意いたします」
『タ・ノ・ム』
 機械的に翻訳されたAQの言葉は、テレビ画面から聞こえてくる。可聴域から逸脱
した音声は生身の人間には届かない。やつらの体に埋め込んだアニマルチップ(コン
ピューターチップと電磁コイル)が、この店のシステムをAQ用に同調させ機械翻訳
さているのだ。もちろんAQ用の話者認識ソフトを人類が開発したわけではない。提
供されただけなのだ。
 湿度が高かったのも、今ではうなずける。人間のような炭素型の生命体より、メタ
ン生物として進化したAQのほうが乾燥に弱いのだ。この店も、すでに人間ではなく、
地球外生命体に販売戦略が向いていたわけだ。
 マスターと視線が絡む。お互い、気まずそうに微笑んだ。
 自分の横に地球外生命体が座っている。今となっては日常的ともいえる風景だが、
どうしてもなじめない。棚に置かれたグラスの中で、AQの姿が映っている。紙粘土
にへらで筋をいれたような口と目、無髪で銀色の皮膚……それがいま、変容をとげは
じめている。柔らかな女性へと変態をはじめているのだ。
 私は目を閉じ、沈黙と低音量のサンバ、それに自分の呼吸音に耳を傾けた。
 マスターから低いうめき声が漏れる。
 AQが変化したのは、マスターにゆかりのある人物だったらしい。
「な、なんか景気の良い話って、ないでしょうか?」
 マスターがどもる。
 銀色の皮膚と銀色の髪を持つ、それでいて地球人にそっくり化ける能力。AQが地
球人に受け入れられた理由のひとつは、これだ。意識的か無意識的かわからないが、
存在していてほしいと思う人物にメタモールフォーゼする能力――周りにいる人物の
中でもっとも、それを願う者の願いを叶える力――それゆえに憎まれもした。彼らは
一瞬の幻影を与えはするが、それは刹那の夢に過ぎないのだ。
『ケ・イ・キデスカ? チキュウジョウカ……計画が、もうすぐ発動します』
 話者認識が、個体AQの音素を学習したらしい。変換がスムーズになり音声合成に
も違和感がなくなっている。景気という概念を彼らがどう理解しているのか分からな
い。彼らの経済は全体主義と呼べるほど、発展しているからだ。資本主義的な概念を
どう理解しているのだろうか?
 私は目を開けた。クレジットカードをカウンターに置き、マスターに目で合図する。
「会計、頼む。明日は忙しいんだ」
「あっ、はい」
 マスターがクレジットカードを手に取り、私に返してよこした。電子キャッシュの
決済は一瞬で終わる。
 帰ろうと振り返るとき、AQと目があった。彼女は私の亡き妻に変態していた。
『さようなら』ざらついたAQの声。妻はもっと鈴(りん)とした声だった。
 私は小さく会釈して、店を出た。ドアから「ありがとうございました」と、作り物
の声が追いすがった。
 小路を抜け、メインストリートにでると、安堵の吐息が漏れた。歪んだ視界で自分
が泣いていることに気がついた。
 成人式を迎えることなく、病で旅立った妻が、銀色の表情で店にいた。ベッドの中、
最後の声にならない声は、何を告げていたのだろう?
 サヨウナラ? アリガトウ? それとも……。
 頭を振り、ハンカチで想い出をぬぐい去る。
 周りから歓声がわき上がり、つられて天を見上げた。
 スモッグが晴れ、子供の時分に見た星空が浮かび上がっている。ひときわ輝く星、
それが月だった。月と地球の間にAQの母船が浮かんでいる。生身では見ることもで
きないが、何故か見えるような気がした。
 大きく息を吐き出し、地下ステーションの入り口に向けて歩き始めた。
 私は宇宙開発事業団の一員だ。明日はベガに向けて、初の有人宇宙飛行を敢行する。
 尖柱のようなベクター型スターシップは人類が太陽系から飛び出す、ほんの一歩に
過ぎない。第二、第三のスターシップが人類の夢を乗せて旅立つだろう。いつかは、
AQのように地球外生命体の存在する星に到着する。
 スターシップが宇宙空間を疾走するイメージは快いものがあった。どこまでも高く、
高く、そして遠くに飛んでいく。
 異銀河の行き着く果ての星で、妻にあえる、そんな妄想が私の中に浮かんでいた。


  -- 了 --



#1105/1336 短編
★タイトル (WJM     )  98/ 9/16   2:44  ( 69)
詩>二編                  ..κ..
★内容


  ... . ..  .   .    .    .   .  .. . ...


 僕が話してるとき歌ってるとき笑ってるとき
 ふとみせるさみしそうな顔に
 とまどうのです
 人は無力
 掌はいくらあなたに触れえても

 どれだけの言葉を用いて
 あなたの抱える困難を論じあっても
 いつしか伏しがちになる瞳を
 窓から差し込む夕陽のようにみつめます

 言葉になるまえの
 かなしみを
 わかちあえないがために
 僕たちは
 微笑みあうことを学び
 快活に振る舞いあうことを学び
 誠実でいあうことを学び
 祈りあうことを学び
 そうして愛しあうことを学んでゆくのだとしても
 たとえそうだとしても
 二人はいつまで独りですか

 月明かりきりの薄暗い部屋のなか
 眠るあなたの額の髪を
 ゆっくりとかきあげてみると
 六月の雨音みたいなかなしみが
 そっと僕に染み入りました


  ... . ..  .   .    .    .   .  .. . ...


 車道で線をひかれた銀杏並木の銀杏たちみたいに
 あなたの葉のおちいく様を目の当たりにするとき
 僕も一枚一枚と葉を枝から振り落としていきたい

 決して交差することのない枝は
 祈りをこめて天へと伸ばす

 ふるえる幹を暖めに歩み寄ることもできない
 雪の日には
 僕らに射した真夏の光を精いっぱい
 語りあいたい

 冷えていく影だけの静かな真夜中
 ふとあなたの微かな鼓動がこの胸に届けられたなら
 触れあうことを望むより
 むしろ
 いつまでも
 いつまでも
 いつまでも
 思いあうことを望むことで
 始まりの独りを美しい歌で歌いあいたい


  ... . ..  .   .    .    .   .  .. . ...




                        .. .κει. ..





#1106/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/17   1:23  (169)
お題>『浪漫飛行2』  ……  PAPAZ
★内容

   『浪漫飛行2』

 サンダストリアの東部に宇宙開発事業団の敷地がある。東西12キロ、南北に7キロ、
やや台形の面積の大半は平地で、有人宇宙往還機の滑走路が中央部で交叉している。
 中央より、1キロほど北西よりにツインタワーと呼ばれる管制塔がある。タワー1
の最上階は一般の観覧も可能な展望室になっている。広大な敷地を見渡すことのでき
るこの場所は、観光客にも人気が高い。
 はるか北にはナンデスの山々がその霊峰をそびえさせているし、白い頂から流れ落
ちる滴は、カマーザス湾へと至る白き川の源流として存在を誇示している。太平洋に
注いだ水は、蒸発し、高みへと昇り、雲となり、頂に雪の結晶となって舞い落ちる。
 この場所から、すべてを観察することができる。
 今、赤みがかった空に、うっすらと青みを帯びた月が昇りはじめた。
 大気汚染によって、肉眼で見ることの叶わなかった月、それがいまや地球浄化計画
によって、はっきりと視認できるのだ。
 何度見ても飽きることがない。月はいつ見ても沈黙の光を放っている。
 ――静かだというならば、この場所も当てはまる。
 200平方メートルのフロアーに、私しか存在していない。2ヶ月前、ベクター型
スターシップが飛び立った時は、観客が詰めかけたものだが……。
 巨大スクリーンに映し出された人工の尖柱――ベクター型スターシップ一号艦は大
気圏外に設けられた宇宙ステーションから発射した。リビングで見ても、ここで見て
も同じようなものだが、感動を共有しよと沢山の人が詰めかけてくれた。
 シグナル音が鳴り、私は背後を振り返った。フロアーの中央に円筒形の柱がある。
機械的に駆動するエレベーターだ。赤いランプが点灯し、誰かが降りてくることを示
している。扉が開く。私が視線を投げかけると、AQのスリットのような瞼がこちら
を向いた。2本の脚、2本の腕、5本の指……スタイルは地球人と変わらない。それ
でも無髪で銀色の皮膚、溝のような目と口だけの顔というのが、地球人と大いに異な
っている。彼が脚を踏み出すと、背後で扉が閉じた。
『こんばんわ。また、あいましたね』
 AQから機械翻訳された声が響く。
 私は記憶の糸をたどり、酒場であったAQだと推測した。
「笑えるでしょう?」
 自虐的につぶやいた。
『……何を笑えばいいのでしょうか?』
 聞き逃すかと思ったが、そうではなかった。
「科学力の圧倒的な差ですよ。これが笑える……。
 地球が誇るスターシップは、海王星を過ぎたあたりでコンピューターがハングアッ
プ。0.15秒の停止のあと、一度連絡をよこし、あとは音信不通。すでに乗員は冷凍睡
眠に入っているのに……私たちは、彼らを捜し出すこともできやしない! 追いすが
るべき宇宙船は、未だ地にあるのだから」
『残念ながら、その通りです』
「500年後、彼らが目覚めた時に、ベガに到着するのか? それすらも分からない
……」
『地球人の中に、私たちのスターシップで救出すべきだ、という意見があることも知
ってます』
「だが、あなたがたはそれを拒絶した。なぜだ!」
 そう、彼らは一顧だにしなかったのだ。
『自分で蒔いた種を、他人が刈ることはないのです』
 AQが首をすぼめた。
「助ける力があるというのに、手をさしのべてはもらえないのか!」
 怒りとともに、私は宇宙空間に浮かぶ、AQの船を思い出した。正確な計測は船体
が不定形のために不可能だが、およそ500キロの球状と推定されている。どのよう
な駆動エンジンを搭載しているのか、そのメカニズムも皆目わかっていない。
『助ける力はあたたがたの内にあります』
 能面のようなAQから表情を読みとることは不可能だろう。
 私は、窓ガラス越しに、制作途中のスターシップ2号艦を眺めた。完成まで、あと
1年はかかるだろう。それでも早いくらいだ。だが彼らを見つけるには遅すぎる。
 私はAQがメタモールフォーゼを遂げ始めたことに気がついた。女性の形へと変化
していく。無髪な頭部から、若草の毛髪が萌えてくる。憂いを含んだ口元が誰のもの
であるか、すぐに分かった。
「やめてくれ! 妻に変わるのだけはやめてくれ……」
『それを望んでいるのに?』
「私は、……望んでなどいない……」
『そうですか。わかりました』
 再び沈黙が世界を支配した。
 それを破ったのは私。
「月は、あなたがたのものだ。あなたがたのテクノロジーで、月を居住可能な惑星に
改造している。あの青みを帯びた月……あれはあなたがたのものだ。だが、私の妻は、
私のものだ」
 苛立ちと、戸惑いが私を襲っていた。何故なのか? 分からないことがさらに苛立
たしかった。
『それは違います』
「?」
 薄青い月を見つめながら、私は口をつぐんだ。
『アステロイドベルトから氷を集め、呼吸可能でかつ低重力の居住惑星を作っている
のは、病弱な、もしくは老齢な地球の方々が楽に暮らせる空間を提供するためです』
 AQから表情は読みとれない。
「私たちのため、というのか? 笑わせる。そんな馬鹿げた話を信じろというの
か?」
『私たちがなぜ、この地球に来たのか、動機が分かりますか?』
 私は首を振った。
『あなたは、ただ友達に会いたいからと、その家を訪れたことはありませんか?』
 隣人に会いたいから、何万光年という距離もいとわず会いに来た、といいたいの
か?
『その通りです。相互理解が成り立って、私は嬉しい』
「――それならば、なぜスターシップの乗員を見殺しにする?」
『地球人は、友達が自分で自分を助けることができるとき、わざわざその邪魔をする
のですか?』
「地球浄化計画は、地球人の手ではクリアーできないから手を貸した。スターシップ
の乗員を助けにいかないのは、地球人がその手で助けにいくことができるから、だか
ら手を貸さないということなのか?」
 AQが頷いた。
 真実なのだろうか?
 嘘をついて如何なる得がある。彼らが地球を支配しようと思うなら、それは可能な
のだ。だが素直に受け取るには抵抗がある。
 私は、この件については保留し、根本的な疑問を発した。

「あなたがたは何者なのだ?」

『私から、質問してもいいでしょうか? ――あなたは何者ですか?』
 私は、しばらく考え込み、それから小さく笑ってしまった。
 答えようがないではないか。
「地球人の中には、オーバーテクノロジーを、そのまま渡してもらいたい、という意
見もある」
『幼稚園から大学にいけといっても、それは無理でしょうね。あなたはどう判断され
ますか?』
「思惟はいらない。私でも、無理だと思う」
 例えが面白くて、笑いが漏れてしまった。AQも肩を震わせて笑った。
 すでに日は沈みかけていた。月はいっそう高く浮かび上がっている。
 地球の唯一の衛星――月は地球から50万キロ離れている。月の重力が増大する度
に、軌道を離れていく。論理的に帰結するならば、その理由は地球の朝夕が狂ってし
まうからに他ならない。月の重力を増加させるのは大気を維持するため。もしAQが
真実を告げているなら、私の思考に誤りはない。
「君の名は?」
 私は彼の個人的な名前が知りたかった。彼らの誰もがAQ、ソレ、アナタ、どのよ
うに呼ばれても怒ることはない。だが、私は、また彼と会って話をしてみたいと、心
のどこかで願っていた。
『個体名は不在。もし名前が存在するとしたら、私は『メイ』と呼ばれたい』
 私にはAQが微笑んだように見えた。
    *

「それが、君と初めて話をしたきっかけだった」
 と、老人がいった。
 目の前、それでもはるか遠くには、釈迦が地獄に垂らした一本の糸――軌道エレ
ベーターが華奢な姿態を見せている。
 月と地球をつなぐ人工のエレベーターも、すでに役目を終え、今では生きた博物館
として、その価値の大半を占めている。
 月面はすべて居住空間となり、青い大気に包まれた快適な場と変化した。
「あの時はまだ40過ぎだった。まさか老後を地球化した月で暮らすとは想像もして
いなかった」
 老人は、大きく息を吐き出した。
「50を過ぎてメイに求婚するとは、それこそ想像していなかった」
 月の重力は地球の半分弱だ。そのぶん心臓に負担がかからない。
「そうですか?」
 メイが小首を傾げた。
 ブロンドの髪が風にたまたゆ。血色の良い肌が、淡く桃色に染まっている。
 老人は自分の顔に手を当て、皺の波をさすった。
「いや、違うかもしれない。そうなる予感があったのかもしれない。それとも、なか
ったのだろうか?」
 バルコニーに置かれたロングベンチに老人とメイは腰掛けている。小鳥が一羽、老
人の肩に止まった。老人が震える指を差し出すと、羽ばたき、はるかな高みへとのぼ
っていった。
「高く、高く、どこまでも遠くにいくがよい……」
 老人がつぶやいた。
「出発の時間ですわ」
 メイが腕時計に目を落とし、それから老人の肩に手を置いた。
 老人の背が崩れ、その上半身をメイにもたれかけさせた。
「君は分子間構造を変換させ女性に変容しても年はとらない。昔のまま、美しい。だ
が、私は年をとった」
「素敵に歳を重ねられましたわ」唇を細め目を閉じて、メイが答えた。
「昔、妻がベッドで何を告げようとしたのか、死の淵で何をいいたかったのか? 今
なら、私にも分かる気がする……」
「子供達が、飛んでいく。見えますか? あなた」
「ああ、よく見える。よく見えるとも。彼らなら海岸から一つの砂粒だって見つける
ことができる。インペシリウム級スターシップは私たちの子供が乗っているんだ」
 老人は目を伏せたまま、答えた。この場所からは水滴型のスターシップは見ること
ができない。視認できるのは、次元振動が描き出す大気の色彩の変化――7色に輝く
天上のオーロラ現象だけだ。
「本当に子供ができたならよかったのに」
「メイ、星を駆ける者達は、すべて私たちの子供だよ」
 老人が枯れ枝の指先で、メイの頬をさすった。
「ええ」メイが小声で頷く。
「これだけは、言わなくては」
「なにかしら」
「君と出会えてよかった。ありがとう……」
 そのまま老人は沈黙した。
 寡黙な風だけが二人にまとわりつき、何事もなかったように通り過ぎていった。

  --  了  --



#1107/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/20  16:50  ( 22)
「サアカス〜みだれあるきのひとびと〜」/KATARI
★内容
 猟奇の夢を見た團長は
  ライオンを鞭打ち
  象を飢えさせた

 團長の愛を夢見た鞦韆乗りは
 彼女自身をかけた技を彼に捧げ
  蜘蛛の糸で編んだネットを突き破った

 現実を夢見た綱渡りの男は
  鬣のなくなったライオンと皮ばかりとなった象を連れ
  觀客の世界へ逃げ込もうとした
 
  異世界のスタアだった彼らは
  侮蔑と恐れと沈黙に囚われ
  嘲笑に殺された

 サアカスが齎した狂いの雷火は
 天幕の姿が消えたあとも
 觀客の夢に美しい焼け野原をみせた
 

       KATARI,1998,09,20



#1108/1336 短編
★タイトル (CWM     )  98/ 9/21  21:45  ( 76)
お題>高く、高く                                    つきかげ
★内容
 おれは、苦痛の中で目覚めた。
 金属質の破壊音が鳴り響く派手な苦痛。
 おれは、獣の呻きをあげる。
 おれは、途轍もなく深く昏い闇の底から浮上してきたようだ。そして今おれの
味わっている苦痛は、おれに震えるような喜びをもたらしている。
(おれは生きている)
  苦痛はどうやら顔面に拳が浴びせられている為らしい。
  おれは血を吐きながら、身体を回す。おれを殴っているやつは、おれに馬乗り
なっている。うつむけになったおれの後頭部に、さらに拳が浴びせられる。
  おれは意識が昏くなるのを感じた。おれは呻く。冗談じゃない。あの闇の中へ
戻るつもりは無かった。
  おれの首に腕が回される。おれのその時の動きは本能的なものだった。おれは、
その腕に噛みついていた。
  背後にのしかかっていたやつが離れる。おれは立ち上がった。
  途方もなく広い場所におれは立っていた。光、歓声。それに絶叫。
  そこは、リングの上だ。おれにとって馴染み深い場所。おれにゆっくりと記憶
が戻ってくる。傍らにいるレフリーがおれに注意しているようだ。
  おれは思わず怒鳴った。
「うるせぇ、すっこんでろ」
  おれは、腹を見る。おれの記憶では腹を刺されたはずだ。燃えさかる炎が腹に
宿った苦痛の記憶。それがおれには残っている。
(あんたは死んだんだよ)
  おれの中で声がした。
(あんたはやくざに刺されて死んだ。もう30年以上昔のことだ。なぜ今更おれ
の身体を乗っ取ったんだ)
「これはおれの身体じゃない」
  どうやら憑依というやつらしい。目の前にいる男が叫んだ。おれ、というかお
れが身体を乗っ取った男が戦っていたらしいそいつは、何か抗議しているようだ。
そいつは日本人ではなかった。といってもおれがかつて戦った白人とも黒人とも
つかない。
(ブラジル人だよ、そいつは)
  おれの中で声がする。
(あんたの相手じゃない、おれの相手だ。消えろよ)
「あいにくと、どうやって消えればいいのかおれには判らねぇ。それによぉ」
  面白そうなやつだった。
  目を見る。
 いい目だった。
  殺す目。殺せる目。おれの全身に心地よい波動が走る。
(ブラジリアン柔術といってもあんたにゃ判らんだろうが、400戦無敗らしい)
「知ってるよ、バリトゥードだろ。こんなに面白れぇやつがいるたぁな」
  とてつもなくいい女を目の前にしたように、身の内からぞくぞくと立ち上って
くるものがあった。おれは笑った。野獣の笑み。血に飢えた欲情のようなものが、
おれの表情を歪める。
  やつはおれの気を受け流す。本物だ。
「続きをやろうぜ、あんた」
  やつは少し下がった。傍目にはやつが気圧されたか、怯えたかのように見えた
だろう。しかし、やつの目には一見、闘志もなく、恐怖もない。ただ、戸惑いは
あるはずだ。
  無理もない。何しろ目の前の相手が身体はそのままで、中身は別物となった訳
だ。400戦を戦ったにしろそんな経験は無いだろう。無敗ということは、勝て
ると判断した男としかやらなかったはずだ。おれの乗っ取った男にも勝てると判
断したのだろう。なら、今のおれはどうか。おれを殺せるのかおまえは。
  やつは退がっていく。
  それに合わせて、おれは前に出た。
  やつはコーナーにつまった。
  一見、おいつめられたように見える。
  しかし、やつは誘っていた。つまり、おれに勝てるとふんだのだ。おれに。
 この、おれに、だ。
  気がつくと、おれは咆吼していた。獣の叫び。
  やつは、少し笑ったように見える。
  おれは体勢を低くした。相撲のぶちかまし。おれにできるのは、多分それくら
いだった。
  おれの身体が流れる。マットにおれの吐いた血があった。それに足をとられた。
  アクシデントはやつに災いした。やつは、おれをかわすつもりだったのだろう
が、予想のつかない動きをおれがしたため、おれの拳がやつの急所に入ってしま
った。
  ファウルカップをつけているのだろうが、やつはのけぞって倒れ、後頭部をロ
ープでうつ。レフリーが制止に入るが、おれはそいつを投げ飛ばし、やつを引き
起こす。
  おれはやつの頸動脈に手刀を叩き込んだ。一時おれの代名詞となった技だ。
  二発、三発。
 やつの目はうつろだ。
  そのままやつの頭を抱え込む。
  ブレンバスターの体勢にはいった。
  やつの身体を抱え上げる。
  高く、高く。



#1109/1336 短編
★タイトル (HFM     )  98/ 9/22   5:18  ( 91)
『お終いの理由』     転がる達磨
★内容

 女は、いつも冷めきっている風だった。何故、自分がこういう選択をしたのか明確な
理由が、
いつまでたっても見つけられないままのようだった。
 男は、単純だった。自分は自分のしたいことをしている、という理由を自分の全ての
選択に当
てはめていた。少しの不安や不満も、そういう理由付けで自分に言い聞かせていた。そ
れは周囲
の人間だけでなく、自分自身さえも偽っていることになるのかもしれなかった。
 しかし結果は単純には、でない。

 男はある日、女に告白した。自分が女の眼の届かないくらい遠い地に行く、行きたい
という意
志をもっていることを、告げた。
 男の女への気持ちは、変わっていなかった。男にとっても、遠い地へ旅に出るのは不
安なこと
だった。男にとっては、かけだった。
 しかし、一体男がどういう気持ちで、それを女に告げたのかそれすら、明確な理由は
分からな
い。
「行ってきたら」
「いいのか」
「止めても行くでしょ」
「・・・多分」

 男の考えも、曖昧だった。この女と一緒にいたいという気持ちも、自分のしたいこと
だった。
遠い地へ独り旅立つというのも、自分のしたいことだった。女と一緒に旅に出たいとい
う思いが、
浮かんだ。
 どれが一番いい答えなのか、分からなかった。どれがいい結果になるのか、想像もつ
かなかっ
た。

 「あなたはだめよ、何を言っても。ともかく、縛られるのがイヤなんだから」
 「かもしれない。止められたら、益々、意地になって、行こうとするかもな」
 「だったら好きにしたら。私も好きにさせてもらうから」
 女は冷静だった。目の前で起きた突然の不本意な出来事を、しっかり受け止めようと
していた。

「必ず戻ってくるよ、待っててくれ」
 「それは無理、あなたが好きなようにするんだから、私だって好きにするわ。約束な
んて、で
きない」
 男は、自分の気持ちが揺れるのがわかった。女は、自分の考えに芯を持っていた。
「じゃ、二人の関係は終わりにするのか」
「仕方ないわね」
「俺が、どこにも行かなきゃ、いままで通りなのか」
 「もう駄目よ。あなたが、そのことを口に出した時点で、私たちがこれまで築き上げ
てきたも
のは、全部くずれちゃったの。わかる?」
「そんな単純なものなのか」
 「あなたは結局、何も分かってないのよ。私はいつか、あなたがこのことを言い出す
と、ずっ
と思ってたわ。そのために、いつも私はハラハラしてた、いつ自分は捨てられるんだろ
うって。
 そして、いつ言われてもいいように、覚悟の準備をするのがどれだけつらかったか。
あなたは、
いつも自分が大事なの。私はいつも二番、そのことに気づいてから、今日までが長かっ
たわ」
 「俺は別に、お前を捨てようなんて思ってない。そりゃ、何かを捨てなきゃ新しいも
のが手に
入らないってのは、わかるけど。でも俺はお前を、・・」
 「わかってるなら、覚悟してよ。私をあきらめなきゃ、何もできないんだって」

 女が何故そんなに冷静でいられるのか、男にはわからなかった。いまの今まで何の変
わりもな
く続いてきたことが、一瞬の判断と意志で簡単に崩れ去るものなのか。

「一緒に行かないか」
 男はすでに迷い始めていた。どれも自分のしたいことだった。そして、どれも自分中
心に考え
ていたことだった。
「無理よ、私には今の生活があるの」
 女は初めて自分の選択に、明確な理由を見つけていた。自分のしたいことは、自分で
決める。
 「今までだって、別にあなたに従ってたわけじゃないわ。ただ私のしたいことと、あ
なたのし
たいことが偶然、一致していただけなのよ。だけど今回は、一致しなかった。だからお
終いにす
るのよ」

 男はひとり、思い返していた。
 「俺はだれかに止めてもらいたかったんじゃないだろうか。遠い地へ行くことを、本
当に望ん
でいるんだろうか」
 どうすれば一番よかったのか、未だにわからない。だけど、どれもが自分のしたいこ
とだった
のには違いなかった。
              (了)




#1110/1336 短編
★タイトル (HFM     )  98/ 9/22   5:19  ( 78)
『ブリキの月』   転がる達磨
★内容

 月の明るい夜、騒がしい大通りに面した高層ビルの屋上展望台、
 地表を遠望する者、二人、地表を蠢く無数の物体を眺めいる、
「全くたいしたものだ、ここまで発展するとは」
「数々の苦難を切り抜けてナントカここまで来ましたよ、 見てくださいよ、
 見渡す限りの光の原」
 見渡す限り無機物の原が続く、下に目をやり、眩しそうに目を細める
「あぁ、立派なもんだ。カミは無くても命は育つ、実証しれくれたね」
「こいつら、何度も苦しんでましたよ。突然のウイルスによる攻撃、食料難、
 一度なんかこいつら同士の争いで危うく死に絶えそうになってましたよ。私
 も何度諦めようと思ったことか」
「良い良い、そうやって結局は自らの力だけでここまで来たんだから、 そこ
 を評価してやろう」
「はい、その通りです」

 風もない、ゆっくりと流れる細切れの雲、感慨深げに宙を見上げ
「お月様が出ているね」
「そうそう、 あいつはブリキ製です」
「なに、ブリキ製だって?」
「ええ、どうせニッケルメッキかなんかですよ」
「はあ、なんと!」
 月を見上げながら
「あの時は驚きましたよ、何かの拍子で月がここの重力圏に入ってきてゆっく
 りと落ちてきたんですよ」
 地表に目を落とし、かぶりを振る
「それでもこいつら、慌てることもなく立派に対処しまして」
 月を見入ったまま
「で、どうした?何故また月がブリキ製になったんだ?」
「はい、いとも簡単に月を粉々にしたんですよ」
「な、な、な、」
「見直しましたよ、こいつらのこと、見ませんでしたか、ココを取り巻いてい
 る輪っか、あれ、月の破片ですよ こっから見えるかな」
 宙を見上げる
「見てないぞ、こいつら躊躇せずにやってしまったのか」
「ええ、あっという間でした」
 パッと目を見開いて
「そ、そいえば他の生命も見てないぞ」
「そりゃっそうです、今や全ての命はこいつらが完全に管理してますからね」
 頭を抱え込んで
「なんということだ、ここには命の自由は無いと言うことか」
「自由が無いってことはないですけど、ま、確かにこいつらがここの支配権を
 握っているのは事実ですよ」
「そんなことが許されると思っているのか」
「いえいえ、そんなことはありません。そのことで彼らはかなり考え込んでま
 したからね。自分たち以外の命を管理していいものか、神のような振舞をし
 ていいのか、ちゃんと考えてましたよ」
 怒気をはらんで
「そして結果、それも良としたのか?」
「こいつらの間でも揉めてましたけど、仕方ないということで‥‥」
「ばかな、自分たちの器というものを分かっていないのか。まして他の命を支
 配するなど良いわけがなかろう。おまけに月まで壊してしまいよって」
 なだめるように
「仕方ないと思いますよ、彼らは自分たちが生きてく為に必死になって考えて
 ましたから」
「だからといって、我々の料簡にまで踏み込んでいいというのか」
「そう言いますけど、こいつらが必要としていた時にあなたはいなかったんで
 すから。彼らはその状況下でもあなたに対して何も言わず、自分たちだけで
 切り抜けてきたんです」
 考え込みながら、辺りをウロウロし始める。光り輝く大地に目をやり
「そんな勝手なことをして、自分たちが危機に陥っても知らんぞ。結局は全部
 自分たちに降りかかってくると言うことが分かってないのか」
「充分理解してますよ、その上で全ての危機を乗り気ってここまで発展したん
 ですから」
 深くため息をついて
「はあ、‥‥しかしだな、」
「まあまあ、大丈夫ですよ。彼らだってむやみやたらと行動しているわけでは
 ありません。(地表を遠望しながら)きちんと自分たちの行いを冷静に、客
 観的に判断して、しかも罪悪感を持ち ながら生きています。今だって必 
 死に模索してますよ。他の命に対しても寛 容です。なんとか共存しようと
 努力は怠っていません。
 いまさら彼らを叱っても仕方ないですよ、親は無くても子は育つって言って
 いたではないですか」
「‥‥‥」
「とりあえず、ここまできたことを評価してやって下さいよ」
 
 ガラス越しにテーブルを囲む彼らが見える。談笑する彼ら。
                       (了)




#1111/1336 短編
★タイトル (KSM     )  98/ 9/22  10:28  (181)
お題>『浪漫飛行3』  ……  PAPAZ
★内容

   『浪漫飛行3』

 ――インペシリウム級スターシップ・ソンブルの形状は水滴型で、中心軸は約1キ
ロ。鏡の煌めきを持つ艦体表面も、恒星から離れた空間では乱反射した光の競演を見
ることはかなわない。闇に混じり沈黙を続けている。
 恒星探査を目的として開発されたベクター型スターシップ一号艦が、赤色の発光気
泡に包まれ、中心に尖柱型の船体を隠しているのとは状態が異なっている。一号艦は
眩しいばかりの閃光を放射しながら、ベガを目指して飛び続けているのだ。航続距離
から換算して到着まで、470余年は見込まれる。――

「と、まあ、私なら航海日誌にそう書くだろう」
 口を開いたのはマイスタリー少佐。広い額に細い目、やせ形の体型から想像もつか
ないほど、精力的に活動する。ただし、職務ではなく、食事という原始行動に方向が
向けられているが。
「私なら、こう書くわ」
 話を継いだのは、マニュアレット。マニュアレット・ソーサー・ガリバン。
 13歳という年齢で特殊通信技師を勤めている。つまりESP系ミュータントだ。超
空間を通して、受けたイメージを送受信できる個体通信機として肉体を機能させるこ
とができる。
 マニュアレットの体にフィットした艦内服から、マイスタリーは裸体を想像してみ
るが、少年のイメージ以上のものは浮かばない。それでも、軽快に跳ね上げたブロン
ドのポニーテールから女性だと本能が告げる。鳶色の瞳から生命力という名前の強い
香りを嗅ぐことができる。
『だから、男っていやなのよ。いつの時代もHなんだから』
 笑い声と思念がマイスタリーの中に浮かぶ。
『女性に興味が無ければ、早期に人類は滅ぶからな』
 無言のまま答える。マニュアレットから微苦笑が伝わってくる。

 ――宇宙の孤児になったと思われたベクター型スターシップ一号艦が発見されたの
は、25年ほど昔のこと。人類が超空間通信の技術開発に至り、一号艦の定期的なパ
ルス放射を探知したのだ。今、われわれは歴史的なシーンに遭遇している。一号艦に
潜んだAQが姿を見せるのだ。――

「どうも今ひとつだな」
 小さなつぶやきは宇宙物理学者、カーネルのもの。
「なによう。マイスタリーよりはましよ、まし!」
 マニュアレットが口をすぼめ、頬を風船のように膨らませた。両肘を丸太を半割に
したテーブルにつけ、同じく丸太を切って作ったベンチの上で臀部をくゆらせた。
「いや、そうじゃなくて、1号艦の気泡が不安定なんだよ。ゆらめく境界線がわかる
だろう?」
 マイスタリーは3Dプロジェクターが投影した艦外景色を注視した。400立方
メートル程度の小部屋は、丸太小屋を再現している。木目の壁に明かりといえばアン
ティークなランプ。レトロなイメージに似合わないのは艦内通信用のインターカムと
持ち込んだハンドタイプの3Dプロジェクターだ。
「見たところ、発光現象がランダムのようだな」
 と、マイスタリー少佐。
「こちらの気泡が影響しているのか……気泡の同化に時間を使いそうだ。慎重なこと
にこしたことはないがね」
 カーネル博士がむき出しの頭部を手でさすった。
「ぶー、私は5分刈りのほうが気持ちよかったな。つるつるは気持ちよくなーい」
 テーブル越しにマニュアレットがカーネルに腕をのばした。細い指先がぺしゃりと
打ち、ついで優しくなであげる。
 3D映像はテーブル上に展開されているため、一号艦から腕がのびているように見
える。
「おやおや、おじょうさん。それでは観察できないのだが」
 と、カーネルが両手を広げおどけてみせる。
 マニュアレットがまねをする。マイスタリーはそれを見て、腹を抱えて笑った。乗
員124名のうち、レトロクラブに参加してるのは14名ほど。その中でもこの二人
は最高の組み合わせだ、とマイスタリーは考えている。
 マニュアレットが舌を出し、マイスタリーに「あにいってんのよ」といって満面の
笑みを浮かべた。
 私は、この娘が好きなのかもしれないな、とマイスタリーは想像した。横に並び座
ったマニュアレットがうつむき頬を染める。
 とくに、からかいがいのあるところが……、マイスタリーの思惟はそこで止まった。
 プロジェクターの投影された映像は3次元ベースで再構築されたもの。一号艦とイ
ンペシリウム級スターシップ・ソンブルが客観的に見られるよう処理されている。一
号艦の赤色気泡とソンブルの無色の気泡が同化し、白光を放った。一号艦のエアーロ
ックが拡大され、外壁が開く。中から銀色の球体が姿を見せる。
「AQとは不思議な生き物だな」
 カーネル博士が小声で口に出す。
「ええ、確かに不思議だわ。AQ本来の姿が球形で、超空間にパルスを流すなんて、
同じ生命体というのが信じられないくらい」
 マニュアレットがマイスタリーを直視した。少佐の胸にかすかな痛みが走る。
 AQは200メートルほど離れたソンブルに向けて上昇を始めた。索引ビームでひ
かれているのだ。ソンブルの円形エアーハッチが開き、一人の女性が姿を見せた。銀
色の裸身に銀色の髪、開かれた瞳は白銀の輝きを放つ。
「メイだわ……」
 マニュアレットがつぶやいた。
「それでも彼らは人間より人間らしい、そう思う」
「私も同感だね」
 と、カーネル博士がマイスタリーに同意した。
「マスメディアでは、ソンブル博士の意志を引き継ぐ、そういってたもの。愛してた
のね。誰よりも深く……」
「いやいや、高く、高く、だろう?」
 マイスタリーが口をはさむ。
「ソンブル博士の口癖だったからなあ。懐かしいよ。私たちは冥福を祈ることしかで
きないが」と、カーネル。
「確かに私たちは非番で見てるぐらいしかすることがない。ソンブル博士の設計した
艦内で鎮座してるのみだ。――だが、それでもできることがある」
 マイスタリーは右手を突き上げた。
「ベガは人類が初めて惑星をともなった恒星と発見された星だ。その第一歩を踏み出
す栄冠は一号艦に! だが、ソンブルはアンドロメダへ人類初の探求者となるのだ。
どこまでも高く、高く、より遠くへ……我々だって博士の意志を受け継いでいる!」
 マイスタリー少佐の芝居がかった演技を見ながら、残った二人は顔を見合わせ、そ
れからうなずきあった。
 3D映像の中、索引ビームが作り出した半透明なエレベーターをメイは降り、球体
AQは上った。交叉する瞬間、メイの体が溶解を始めた。わずかな時間ののち、球体
になる。
「メイは一号艦のブリッジに隠れるのね。そして宇宙に超空間ベースのパルスを発信
する……乗員は永遠にそのことを知らない」
「AQは人類の誇りを第一に考えてくれているからね」
 マニュアレットにカーネル博士が応える。
 映像はソンブルから7名ほどの乗員が移乗を始めたことを示している。航法コンピ
ュータのバグ修正が主な任務。もちろん彼らが手を加えた痕跡など、一号艦の乗員が
冷凍睡眠から醒めてさえ知ることはない。あくまで一号艦は単独の力でベガに到達す
るのだ。
 3D映像が消えても、彼らは口を開かなかった。
<<マイスタリー少佐、交代の時間まであと5分>>
 少佐の胸ポケットに埋め込まれたマイクロチップが教えてくれた。
「やれやれ、次の段階ではその5分で地球からアンドロメダに飛んでいけるというの
に……」と、マイスタリー。
「ぼやくな、ぼやくな。この船だって、220万光年を地球時間で一ヶ月もかければ楽
にいけるのだから」
「それでも、アンドロメダ銀河はもっとも近くにあるうずまき銀河なのよね。しかも
天の川銀河に属しているし……千年後の人類は、この船が銀河間の航行のため作られ
たなんて信じないかもよ。せいぜい遊覧船かしら?」
 マニュアレットはジョークともつかない言葉を口にした。
「なんと答えれば良いのやら……」
 距離と時間の関係は、技術革新に伴ってイメージを相対化するのが難しくなってき
ている。未来を考えるには歳をとりずぎたか、と苦い思いがカーネルに浮かんでくる。
「いつの時代も最初に訪れるのはスターシップと決まっている。転送機もスターゲイ
トも自分で飛べないのだから。恒星間であろうが銀河間であろうが、船の価値は絶対
的だ」
 マイスタリーが強い口調で断言した。
 そんな根拠は、どこにもないけどね――わずかに表層に出た思念をマニュアレット
は封印した。
 いって良いことと悪いことがある。これは悪いことだ。なぜならマイスタリーのプ
ライドを傷つけるから……マニュアレットは、そう判断した。
「1983年、IRAS(赤外線天文衛星)が、ベガが粒子の群れにとりかこまれているのを
発見して以来、未知の惑星をこの足で踏むことがすべての人の夢だった。
 われわれは、高く、高く、どこまでも遠くに飛んでいく。それはソンブル博士の遺
志というだけではない、古来から人間が持っている衝動そのものなんだ。――時に、
マイスタリー少佐、すでに勤務時間に入ってると思うのだが」
 マイスタリーが声にならぬ叫び声をあげて、部屋から出ていく。閉じたハッチを目
の前にして、カーネル博士がため息をついた。それからおもむろに口を開いた。
「マニュアレット?」
 カーネルが組んだ手に顎をのせ、マニュアレットを見つめた。
「あによー」
 ぶっきらぼうに答える。
「私たちは君たちとこれからも仲良くしていくことができるのだろうか。自分の死後、
人類とAQはどんな関係を築いていくのか、それが心配なのだ」
 マニュアレットの強い視線をカーネルは受けた。数秒ののち、彼女の瞳に優しさが
還ってきた。
「――先のことは私たちにも分からないわ。分かってしまえばつまらないもの。でも、
なぜ私がAQだと分かったの?」
「とりあえず、誰にでも、そう尋ねるようにしてるからかな」
「嘘」
 カーネル博士が頬をゆるめた。
「生身の人間が超空間通信すると考えるより、AQがやってくれているとイメージす
るほうが似合ってるから、そう答えればお気に召すかな? 構造変換できるなら、皮
膚の色も変えることができる、と考える方が理にかなう。それに一号艦に乗り込んで
るなら、この船にも乗り込んでると考える方が論理的だろう。……それも、より自然
な形で。違うかな?」
 マニュアレットは一つ息をつき、肩をすくめた。
「不思議なのは、なぜ私の思考を読まなかったのか? ということだな。君たちは嘘
をつかない。私の思考を読まなかったことは、明白だ」
「それは、カーネル、あなたが自分をさらけだすことを怖がってるから。いやがって
るから。だからしないの。それでは解答として不十分かしら?」
「いや、十分だよ。確かに私は怖い。心を裸にするには若すぎるよ。なあ、マニュア
レット。マイスタリーは怖がっていないのか?」
「かれは自分を知ってもらいたがっているのよ」
 マニュアレットがうなじに手を当て、ついで微笑みを浮かべた。


 ---- 了 ----

「次回予告」
 アンドロメダの縁円にたどり着いたインペシリウム級スターシップ・ソンブル。人
類がそこで出会ったものは、AQのシュプールではなく、荒れ狂う意識衝突前線だっ
た。破壊されていくマニュアレットの心と体。それをつなぎ止めようとマイスタリー
少佐は奮戦する。しかし、その願いはかなわない。
 滅び行くマニュアレットの精神に触れたとき、マイスタリー少佐は何を考えたの
か? 指先から消えていく温もりに、彼は何を感じたのか?

 次回「浪漫飛行4」閉ざされた世界。サービスしちゃうわよ。

-----------------------------------
 と、まあ次回予告を書いた時点で、浪漫飛行は終了です。
 おつきあいくださった皆様、ありがとうございました。




#1112/1336 短編
★タイトル (ZBF     )  98/ 9/27   3: 1  (186)
無責任随想・今様女大学   夢幻亭衒学
★内容
思う所あって、インターネットでレズビアンのページを検索、幾つか行ってみた。
案の定、そう「大したことはない」。いや、素晴らしい絵や文章が掲載されている
ページもあったが、「単なる常人の発想」である。常民ではない。常人である。常
民とは……長くなるから止めた。
私がレズビアンとかサッフォーの末裔とかブッチとかダイクとか、それ系の語彙を
初めて知ったのはずいぶんと以前だが、当時は其等の語彙を、少なからぬ性的興奮
をもって眺めていた。何せ、私はカナリの女好きであったから、女と名が付くモノ
は女体山にさえ興味を向けた。「変態」である。しかし、何時の頃からか、静的興
味でしか眺められなくなった。結局、男も女も、ヤル事ぁさほど変わりはない。何
だか「当たり前」に思えて、性的興味は喪った。だいたい、カーマ・スートラでも、
レズビアンは奨励されこそすれ、禁じられてはいない。理由は、「女性が、より女
性らしくなるから」だそうだ。

ならば、義務教育課程で、しっかり仕込まねばなるまい。公立の小・中学校は、す
べて全寮制女子校とし、ソレ系の女性で教職員を固める。男の子は如何するかって?
男の学問は自ら為すべきであって、教育は免除する。当たり前の話だ。……ふと思
ったのだが、よく全寮制男子校だかギムナジウムだかパブリック・スクールだかを
舞台に、禁断の愛が如何のとかいう創作があるやに聞くが、さて、もしもソレらを
男性の創作家が全寮制女子校に置き換えて書くと、「単なるスケベェ」と言われる
かもしれないが、女性が男性同性愛者の話を書くと耽美だか何だかと言われるらし
い。不思議な話だ。スケベェはスケベェなのに。何時から耽美は、(或る種の)男
性同性愛の隠語になったのであろうか。また、全寮制共学校で、男女の相姦を描け
ば……やっぱり、単なるスケベェだ。
私は待望する。耽美と呼び得る異性愛物語もしくは女性同性愛物語を。薔薇の花背
負って愛し合う男女もしくは女女。……いや、女女の場合は、薔薇ではなく、百合
かもしれぬ。……いや、そんな事言うんだったら、男男は菊花だろう。……やっぱ
り、薔薇で良いや。

上記の如く、「女性らしさ」を育むに、同性愛に如くはない(らしい)。ならば、
義務教育課程を全寮制女子校にするのは金や手間がかかるとしても、国語の教科書
に、ソレ系の物語を必ず載せてジックリ教え込むぐらいは、即日にも実行すべきで
あろう。ちゃんと、宿題もだす。今の世の中、「女性らしさ」をもつ女性が、余り
にも少なくなっていると嘆く声を、よく聞く。私ぁそぉとは思わんが、まぁ、問題
があるなら改善せねばならない。

「女性らしさ」は、時代によって変わるかもしれない。が、短い期間の時の流れな
んぞでは、簡単に変わらない。変わるなら、ソレを、「らしさ」とは言わん。単な
る「流行」か何かだろう。抑も「らしさ」とは、本性から滲み出るものであり、一
種の「理想」でもある。そして、例えば、神話は、「理想」を語っている。

日本神話に於ける重要な女性は、イザナミ、ヒルメノムチ、ウズメの三人だろう。
説明を要しない程に有名だが、此処でも少しく紹介しよう。

イザナミとイザナギ、二人は協力して国産みをする。性交である。このとき、二人
は言葉を交わす。まず、何も考えないで、イザナミの方が「へっへっへっ、ニィち
ゃん、良ぇ男やんけ。一発やろうや」と曰う。受動的にイザナギが「あぁ、何て素
敵な女性でしょう。えぇ、ヤリましょう」と答える。で、失敗する。そんで言葉を
発する順番を逆にする。今度は、うまくいく。
さて、此処で重要なことは、「何も考えないで」、まず最初に行った方法が、イザ
ナミのリードによる性交だった点だ。妙な智恵を付ける前、始源の、白紙の状態で、
<自然>に行えば、イザナミがリードしちゃうのである。「らしさ」とは、本性に
対立しない「理想」だ。<当たり前の理想>なのだ。即ち、「へっへっへっ、ニィ
ちゃん、良ぇ男やんけ。一発やろうや」と先に声を掛け、あろうことか、のし掛か
り、嫌がる男を無理矢理、と迄は紀記も書いてないが、とにかく如此き性交じゃな
かった性向こそ、「女性らしさ」なのである。おそれおおくもかしこくも、紀記に
載せてあるのだから、間違いはない。
このように目出度く結婚した二人だったが、神も死ぬ日が来る。イザナミは、死ん
だ。イザナギは後家さんになっちゃうのだが、イザナミに会いたくて逢いたくて堪
らなくなる。死んだ妻をウジウジ思い詰める事こそ、「男らしい」態度だと知れる。
黄泉の国にイザナギはイザナミに会いに行く。其処で、醜く変貌したイザナミを見
てしまう。見られたイザナミは怒り狂い、イザナギを殺そうとする。逃げるイザナ
ギ。何と「女性らしい」イザナミであろうか。イザナギは、ひたすら逃げる。とて
も「男らしい」。イザナミ配下の鬼女は、イザナギが投げ付けた果物を貪り食うに
忙しくて遂にイザナギを逃がしてしまう。食い物に釣られることも、如何やら「女
性らしさ」のようだ。イザナギは安全な場所に辿り着き、「日に千人の人間を殺し
てやる」と猛々しく呪うイザナミに対し、「へへん、日に千五百人生んじゃうもん
ね」と言い返す。今まで逃げていたクセに、安全な場所に来ると途端に元気になっ
て罵声を返す。嗚呼、何て「男らしい」のだろうか、イザナギは。因みに、イザナ
ギが鬼女に投げた果物は、<魔除け>の効力があるとされるが、はて、果物は、鬼
を追い払ったのではなく、鬼を惹き付けたんだが……、まぁ、如何でも良いことだ。

続いてヒルメノムチとウズメだ。ヒルメノムチ……ムチである。ムチムチの女神だ
っただろう。土偶ぐらいムチムチだったかもしれない。何せ、原始農耕時代の「理
想」たる女性だ。痩せ形ではなかっただろう。ポッチャリして可愛いに違いない。
フックリ頬っぺなんか、リンゴみたいに真っ赤だったりするんだ。うひょぉ。抱き
心地も良さそうだ。でも、下手に寝て火遊びすると、火傷を負いかねない。何せ彼
女、太陽神なのだから。紀記では、太陽神になっている。それ以前の事は知らぬ。
噂では、オミズのオネェさんだったとも言うが、止そうじゃないか、過去の詮索は。
彼女は、遅くとも紀記の時代には、最高神・太陽として幸せになってるんだから。
ソッとしておこう。いや、ヒルメノムチ、水の神を出自とするとの説もあるんだが、
此処では無視する。

……幸せ、か。彼女は、本当に幸せだったのだろうか?

ヒルメノムチ、別名、天照皇大神は、最高神だから周りの男にチヤホヤされていた。
「フックラして可愛いっす」とか何とか。ソレは当時の美意識からして正直な感想
だったのだけれども、天照皇大神は「なんか、ちょっと違う」と疑っていた。男ど
もが、自分が最高神だからこそオベッカを遣っていると考えたのだ。疑い深いのも
「女性らしさ」かもしれない。思えば、最高神って、不幸な立場だ。
天照皇大神は、気が付くと或る女神の姿を追っていた。天鈿女(アメノウズメ)だ。
引き締まった肢体に仇っぽい表情、でも笑うと子猫の如くイジマシイばかりにキュ
ート。いつも周りに男を侍らせ、一緒になってギャハギャハはしゃいでいる。そん
な野を駆ける鹿の如く奔放な天鈿女に、天照皇大神は、何時しか惹かれていたのだ。
いや、天照皇大神は、日本を創造したイザナギ・イザナミの長女(?)であり、天
国を統治するため厳格に教育された姫様なのだ。帝王たることは、「女性らしさ」
に抵触しないことが明らかとなる。また、彼女はシッカリ者として成長せざるを得
なかった。でも、そんな自分に、ちょっぴり不満を抱いてもいた。上昇志向も「女
性らしさ」のうちらしい。ただ、彼女は嘘が嫌いだから、それも「女性らしさ」だ
ろう。紀記神代や伝説的天皇の時代、女性は嘘を吐かない。兄の陰謀に加担したは
良いが、嘘を言えずに謀反を事前に告白した女性までいる。翻って男といえば、嘘
吐きだらけだ。嘘とは「男らしさ」に属するらしい。余談である。
天鈿女のステージがあると聞けば、天照皇大神、ストリップ劇場へとお忍びで通っ
た。シッカリ者の筈なんだけど、興奮してテープは投げるは、おヒネリは投げるは、
熱狂して天鈿女の肉体へ手を伸ばし、用心棒の手力雄(タヂカラオ)に、「踊り子
さんに、触らないでください」と窘められたこともあった。興奮すると何をしでか
すか分からないのは、母・イザナミから受け継いでいる「女性らしさ」だ。
帰りには、オッカケ仲間の機織女(全員フックラ型)と喫茶店に寄って、「格好良
かったよねぇ」と溜息混じりにパフェをパクつくのであった(だから太るんじゃな
いか?)。とても、「女性らしい」。
天照皇大神は、同性のオッカケをしていたのだ。同性愛傾向である。やはり、レズ
ビアンは「女性らしさ」と不可分なのだ。そして、この「女性らしさ」は、世の中
うまく出来ている、「男らしさ」と密接な関係にある。それは、男らしい筈の、彼
女の弟たちを見れば了解される。弟は生まれて三年間足腰が立たず、可哀相なこと
に海に流され捨てられてしまった。「男らしさ」とは、役に立たぬことだ。その次
の弟はスサノオだから、言わずもがな。マッチョな髭親父になっても、ワンワン泣
きじゃくっていた泣き虫毛虫、これを「男らしさ」と表現するのだ。彼女は男兄弟
を頼りに出来なかった。男になんて頼らないのが、「女性らしさ」なのである。弟
たちだけではない。彼女の周りの男どもときたら、いつも玉を磨いている天児屋命、
まるで夏目漱石の坊ちゃんに登場する「うらなり君」みたいに陰性だったり、其の
磨いた石を使ってブツブツ呪文を唱えている天太玉命の如く何考えてるか分からな
い奴だとか、まったくデリカシーのない手力雄だったりしたのだ。皆、「男らしさ」
の代表だ。こんな「男らしい」奴らに囲まれていたら、女性に興味が向かない方こ
そ不自然、それこそ「変態」だろう。
天照皇大神は、天鈿女に恋していた。だからこそ、不肖の弟・スサノオの悪行に業
を煮やし、拗ねて岩戸に籠もったときにも、外で天鈿女がストリップを演じたら、
我慢できずに覗き見て、結局、引きずり出されてしまったなどという、可愛くも間
抜けなエピソードが残っている。気の強い天照皇大神が拗ねてたんだから、その後、
機嫌を直すにも<秘術>が必要だったろう。簡単なことじゃない。紀記には書かれ
ていないが多分、<慰め役>は天鈿女に決まっている。但し、如何に「慰め」たか
は、筆者の関知する所ではない。が、論理として考え得るのは、拗ねて無理にソッ
ポを向く天照皇大神をソノ気にさせるため、まずは天鈿女がリード、そのまま役割
を固定したか、機嫌を直し即ち外界へ働きかける積極性を取り戻した天照皇大神が
上に乗った……か、其処までは判らない。何連にせよ、天鈿女なら、巧く対応した
だろう。
天鈿女、このバイ・セクシャル、男女ともに魅了するストリップ・ティーズは、し
かし、ちょっとした変態性も有っている。「女性らしさ」とは、変態をも含意する
のだ。彼女は、性的に強力な存在であるだけでなく、いや、もしかしたら其れ故に、
対面した相手を引き込む力を持っていた。女王様タイプだったのだ。「女王様」が
「男らしい」とは誰も思うまう。女性だから、「女王様」なのだ。故に、「女王様」
は、「女性らしい」。天鈿女、実はアテネの如き軍神の雰囲気もある。軍神は、古
代ギリシアでも日本でも、女性の機能のうちである。まぁ、戦争なんて女でも男で
も出来るから、男がやっても良いんだけど。因みに、神武天皇の軍団には「女兵
(オンナイクサ)」も組織されていた。軍事は、「女性らしさ」と対立しない。ま
ぁ、ストリップ・ティーズだから体の線はシッカリしてて綺麗だから、天鈿女、武
装も似合ったことだろう。
ところで猿田彦という男神が地上にはいた。巨大でグロテスクな姿であったが、そ
の実、ちょっぴり臆病な、お人好しだった。「男らしい」奴だったのだ。猿田彦は、
いつものように暢気な顔をして散歩をしていた。ちょうど、其処に天鈿女が降りて
きた。天鈿女は、けっこう面食いだったので、グロテスクな猿田彦を悪役だと決め
つけた。他の神々は、猿田彦を恐れて後ろの方に縮こまっていた。
「ほえぇ、今日も良い天気だなぁ。そうそう、布団、干さなきゃ」と猿田彦が家に
戻ろうとすると、コツコツコツコツ。振り返ると、15センチのハイヒールを音高
く鳴らし、一人の女が近づいてきた。コートの襟を掻き合わせ、やや上目遣いに凄
みを帯びた笑みを浮かべていた。「わぁ、綺麗な人だなぁ」と見とれる猿田彦の眼
前で、女は立ち止まった。「アンタ、名前は?」居丈高に女が訊いた。「へ、ボク?
ボク、猿田彦っていいます」「そう、アタシは天鈿女」「は? はぁ」「ふふふっ」
「え?」「ふははははははっ」「え、なになに?」「へっへっへっへっへっ」「う
わあぁ」猿田彦は驚き後ずさった。女がイキナリ、コートの前をはだけたのだ。肌
も露わなボンデージ・ファッション、いや、其れは良い、露わ過ぎる、パンティー
も穿かずに、陰部を剥き出しにしているのだ! 「ひっ、ひいいいいっっ」痴女の
突然なる出現に恐れ戦く猿田彦、「ぐへへへへっ、そぉら、おマ●コだぞぉ、ほぉ
れ、ほぉれ」甲高く哄笑し、コートをバタつかせ、猿田彦の周囲を跳び回り、踊り
狂う天鈿女。「あぅあぅ、ご、ごめんなさいいいっ、ごめんなさああぃぃぃ」巨体
を縮めガチガチと震える猿田彦は、ワケも分からず謝り啜り泣いた。ひれ伏した猿
田彦の後頭部をピン・ヒールでグリグリと踏みにじる天鈿女、「お前はアタシの下
僕だよ」、「は、はい、私は下僕でございますぅ」「女王様と、お・呼・び」「じ
ょ、女王様ぁ」。かくして猿田彦は天鈿女に服従し、天孫が地上を支配する道筋が
つくのであった。男が男らしく、女が女らしかった神話時代の一齣である。

長々と書いて申し訳ないが、天照皇大神と天鈿女は大略、上記の如き女神である。
ちょっとだけ(?)膨らませはしたが、現代人たる私のイメージに合わせただけの
ことであって、根幹は変えていない。即ち、天鈿女は妙に天照皇大神と親和性が高
く、かつ女陰を晒す事によって多分は強大な神としてイメージされた猿田彦を服従
させてしまう。また、岩戸に隠れた天照皇大神を誘い出すために、スッポンポン、
陰部を晒して踊った。ぐらいの要約なら、穏当か。

此処に於いて、世に通用している所謂「女性らしさ」「男らしさ」の大部分は、我
々日本人の本来の姿とは、まったく懸け離れたモノであると言わねばならない。何
処で間違ったのであろうか。このままでは、<日本民族>が、光輝ある国体が、消
滅してしまう。別に構わんが……。
……あ、いや、イカン、断じてイカン。日本撫子の「女性らしさ」を取り戻すため
に、やはり、根本的な教育改革が断然必要だ。そのためには、まず手始めに、上記
の如く、レズビアン小説を義務教育の国語教科書に掲載すること、また、其のため
には教科書に掲載すべき傑作を生み出すことが急務になっているのではなかろうか!
って、んなワケぁねぇだろ。
(お粗末様)



#1113/1336 短編
★タイトル (EDX     )  98/ 9/28  19:56  ( 35)
「瑠璃の抱擁」/KATARI
★内容
 わたつみの都に住む青年は
 その都の王となるために
 瑠璃の玉杯に
 きよらかな魂を注ぎ
 飲み干すことを
 運命(さだめ)として生まれた

 きよらかな魂をその躯に抱(いだ)く少年は
 都の永久(とわ)の繁栄のために
 瑠璃の玉杯に
 魂を注がれ
 自らを抜け殻とすることを
 運命として生まれた

 魔道師たちは
 魂狩りを行なった
 きよらかな魂を得るために
 青年を王とするために
 
 瑠璃の玉杯は美酒を好む
 少年の魂は極上の美酒
 瑠璃が抱くに相応しい

 少年から絞り出された魂は
 瑠璃に抱かれた

 わたつみの都にすむ青年は
 それを飲み干す運命を
 そして彼自身を呪い
 正気と狂気の狭間に沈んだ

 
 わたつみの都の王は
 瑠璃の玉杯を割り
 都を殉教の地と為した



#1114/1336 短編
★タイトル (GVB     )  98/ 9/30  22:36  ( 73)
大型安全小説  「ファールボールにご注意を」  ゐんば
★内容

 プロ野球はシーズンたけなわ。三本松スタジアムは首位を走る地元ドルフィン
ズが二位テンボスを迎え撃つとあって満員の観客であふれていた。
 右に大きく切れた打球を見届けて、ウグイス嬢の梅田手児奈はいつものように
マイクのスイッチを上げた。
「ファールボールにご注意ください」
 マイクのスイッチを切った後、手児奈はふと考えていた。
 この台詞を今年だけで何百回口にしただろう。しかし、効果があるのだろうか。
 これだけ注意を繰り返しても、飛んできたファールボールに当たって医務室に
かつぎこまれる人が毎年必ずいる。幸い軽い打撲等で済んでいるものの、当たり
どころが悪ければ大ケガになりかねない。
 手児奈はその原因がわかったような気がした。
 ボールが飛んでいってから注意したのでは遅いのだ。
 アナウンスが入るときには、ボールはすでに客席に落ちた後だ。そのときに注
意しても、どうしようもないではないか。
 ファールボールが客席に飛び込む前に、観客に危険を知らせる。事故を避ける
ためにはそれが必要なのだ。
「梅田さん、次のバッター」
 電光掲示板の操作係の杉野森弥三郎の言葉で手児奈は我にかえった。グラウン
ドではさきほどのバッターが出塁し、ネクストバッターズサークルからドルフィ
ンズの主砲松本喜三郎が歩いてくる。
 手児奈はマイクのスイッチを上げた。
「四番、ファースト松本。ファールボールにご注意ください」
 松本がこけるのが見えた。
「どうしたの梅田さん、松本さん変な顔でこっち見てるよ」
 弥三郎がけげんそうに手児奈を見る。
 わかっている、今のはいくらなんでも早すぎた。早すぎる注意は効果がない。
 松本がバッターボックスに入り、主審がプレイを宣告した。ピッチャーはラン
ナーを気にしながら、セットポジションから一球目を投げた。
「ファールボールにご注意ください」
 松本のバットが空を切った。
「今日はなんか変だよ、梅田さん。あーあー松本さん怒ってる」
 手児奈も自分でも変だと思ったのだ。投げるたびにアナウンスを繰り返したの
では、聞くほうも慣れっこになって注意する意味がない。となるとやはり、実際
にファールを打ってから客席に飛んでいく前に注意するしかない。とはいうもの
のその間は一秒ない。手児奈はマイクの前で待ち構えた。
 キャッチャーが外角に構えた。ピッチャーはセットポジションに入り、二球目
を投げた。松本のバットがボールをとらえ「ファールボールにご注意ください」
手児奈は早口でアナウンスし、ボールは一塁側内野席にすいこまれた。
「梅田さん、今のファボって何?」
 電光掲示板にファールボール注意のメッセージを出しながら弥三郎が尋ねた。
「え、なにファボって」
「梅田さん今言ったじゃない」
「えーファボなんて言わないよお。ファールボールにご注意ください、って言っ
たんだよ」
「ファボとしか聞こえなかったけどな」
 やはり観客席にボールが飛んでゆくまでの間にこの台詞を全部喋るのは無理が
ある。手児奈は途方に暮れた。
 しかし、落ち着いて考えると、観客に警告の意志が伝わればよいのだ。センテ
ンスそのものをきちんと伝える必要はない。
 そんなことを考えているうちにピッチャーは三球目を投げた。松本は積極的に
打ちにいった。
「ファール」
 そう、要はこれだけで警告になるのである。
 手児奈はマイクのスイッチを切ろうとしたが、いくらなんでもこれだけじゃ変
かなあと思い次を続けようかどうしようか迷っていた。しかし早くしないとピッ
チャーが次の構えに入りそうなのでとりあえず続けた。
「ボールにご注意ください」
 弥三郎が心配そうに手児奈を見た。
「梅田さん、具合悪いんじゃない」
「え、別に」
「だってさっきから変だよ」
「いや、ちょっとね。いろいろと研究してんのよ」
「行った!」
 弥三郎がグラウンドに向き直り電光掲示板の準備を始めた。松本の打球は左翼
手の頭上を大きく越え、外野席をめがけて飛んでいる。
 手児奈も松本の何号ホームランであるかを確認し、マイクのスイッチを入れて
気がついた。
 そうだ。事態は同じだ。
 手児奈はアナウンスを入れた。
「ホームランボールにご注意ください」

                              [完]



#1115/1336 短編
★タイトル (LPF     )  98/10/ 3   5:26  ( 10)
お題「高く、高く」       如月
★内容
「父さん。俺、会社辞めるわ。このままじゃ食っていけないしさ」
「や、辞めるって突然、おまえ」
「お父様。私もこの家を出ます。子供たちも一緒に」
「洋子さん。あ、あんたまで。いったいどうしたんだ」
「史郎。もう一度考え直してくれないか。なっ。洋子さんも落ち着いてよく考
えてごらん。うまくやってこれたじゃないか、これまで」
「ちっ。あんたの家族を演じるのはいいが、こっちにも家族はいるんでね。そ
うのんびり構えてもいられないんだな。洋子も同じ意見らしいぜ」
「いったいどうしたらいいんだ」
「ギャラだよギャラ。ギャラをもっと高く、高くしてくれればいいんだよ」



#1116/1336 短編
★タイトル (HFM     )  98/10/23   0:42  (110)
霞(かすみ)        転がる達磨
★内容
   『沖縄の梅雨明け』    転がる達磨

 車が一台やっと通れるくらいの道に、街灯がぽつぽつと光の輪を落としてい
た。午後十一時、酒の入った体を引きずって門限前になんとか宿に辿り着いた。

 国際通りという繁華街から歩いて十五分ほど、下町といった風情の静かな住
宅街に、僕が泊まる宿はあった。二〇人も入らない相部屋当たり前の小さなボ
ロい民宿である。周囲の民家は明かりこそついているものの、静寂に包まれて
いた。
 玄関の引き戸を開けると、食堂兼談話室から笑い声が聞こえてきた。宿のオ
ヤジ主催の酒盛りが行なわれているのだろう。宿が小さいだけにこういう家族
的な雰囲気ができあがるのか、意外にも泊まり客のほとんどが参加して夜毎の
宴が行なわれる。
「ただいま」
 とりあえず帰った事をオヤジに伝えるため、談話室の扉を開けた。煙草の煙
が冷房の効いている締め切った部屋に充満していた。泊まり客のほとんどが連
泊しているので、顔馴染みである。赤い顔したみんなが僕のほうを見て口々に
言う。
「おかえり、早よ、飲みや」
「なんや、今日も酔っ払ってきたんか」
 オヤジが皮肉にも取れるようなことを、言ってきた。このオヤジとはどうも
反りが合わない。前日の、楽しいはずの酒盛りの場でちょっとした口論をして
しまっていた。その声を無視して、
「すいません、今日のとこは失礼しますわ、もう僕で最後ですかね?鍵閉めま
しょか」
 毎晩一人になるまで酒を飲んでいる人間が真っ先に部屋へ戻るのが信じられ
ないのか、それともまだ帰っていない客がいないか探すためか、みんな、首と
眼をキョロキョロさせている。
 そんなに酔っていたわけではなかったが、妙に疲れていた僕は、返事を待た
ずにそそくさと二階へと階段を上っていった。談話室では、またすぐに談笑が
起こっていた。

 八重山諸島石垣島から本島に戻ってきたのは一昨日の朝だった。沖縄が暑す
ぎるせいか、旅が長くなりすぎたせいか、このところ僕の頭はもうもうと温か
い霧に包まれていた。どんな風光明媚な景色を見ても、名所旧跡を訪ねても、
心踊ることなく神経は弛緩したままだった。ほどよく湿り弾力に富み過敏なほ
どに反応していた精神は、今や膿んできていた。
 八重山の海は、太陽の暑い光りを目一杯受けているにもかかわらず、温かく
なることも沸騰することもなく、涼気を帯びていた。波は蒼く澄んだ海面に、
ときおり白い濁点を作り出す。そんな海を見ていた。そろそろ潮時かな、唯一
そう反応した僕の頭のままに石垣島を離れた。
 人の少ない隔絶された世界から戻ってきた時、那覇の繁華街は刺激に満ちた
場所に感じれるはずだった。甘かった。弛み切った心の糸に引っかかるものは
なかった。久しぶりに歩く人混みの中でも、排気ガスに満ちた熱気の中でも、
僕の持つ好奇の根が震えることはなかった。
 逆に気持ちとは裏腹に、見るもの聞くもの触れるものすべてに煩わしさを感
じていた。

 人がすれ違うのもままならないくらい狭い廊下を過ぎて、自分の部屋に入っ
た。四畳半の部屋には、セミシングルとでも言うような小さなベッドが二つ。
テレビ、灰皿、ごみ箱、枕。そしてリュックサック、Tシャツ、文庫本、目覚
まし時計、観葉植物。物が詰まりすぎているこの部屋に、熱い空気までが詰ま
っていた。窓を開ける。生ぬるい風が階下のテレビの音声といっしょに入って
きた。ベッドに腰掛けて帰りがけに買ってきたジュースの栓をあける。那覇の
過ぎる熱気とほどよい酒精で火照った体に、冷たい液体が沁みわたった。背中
を流れる汗をにわかに、敏感に感じ取った。
 Tシャツを脱ぎ捨てて、テレビをつけた。枕元にある煙草を取り出して火を
つける。もうだめかな、ぼやけた思いが頭に浮かぶ。
 テレビでは、とりとめの無いバラエティ番組をやっていた。どこで笑ってい
いのか、どういう感情を起こせばいいのか、まったく解せない。階下の談話室
とテレビのスピーカーから同時に笑い声が響いてきた。枕元の灰皿を引き寄せ
て、煙草の灰を落とす。煙が温かい風に翻弄されながら、幾重にも絡みつつ消
えていく。つい先刻火を付けたライターは早くも見えなくなり行方不明になっ
ている。けれどもアルコールの入った僕の頭は、まったく必要の無い事象とし
て受け付けない。深い歎息をつきながら横になると、視界の周りに薄い霧がま
とわりつきだした。どこかでヤモリがトッケッケッと泣いていた。
 しばらくして、うつろな眼を灰皿に向けると、煙草の火は根もとまで燃やし
尽くして消えていた。階下から何やら怒鳴り声が響いてきていたが、テレビで
は相変わらず笑い声が起こっていた。
 煙に巻かれた視界の定かでない孤独な妄想から、ふと現実に耳をすましてみ
ると、宿のオヤジと相部屋の兄ちゃんの声である。また酔っ払ってもめとるな。
気に止めえることもなく勝手な想像を膨らましていると、ドタドタという足音
の後に部屋の扉が開いた。
「おお、わかった、わかった!」
 隣のベッドの占有者が入ってきた。続いて同じようにわめきながら、
「お前は何様のつもりや」
 オヤジまで入ってきた。僕は途切れ途切れになった神経をつなぎ合わせて、
扉のほうを見た。廊下から数人の見知った顔が覗き込んでいた。みんな顔をし
かめている。
 自分のベッドの上に散らかった荷物をまとめながら、兄ちゃんが言い放つ。
「あんたにかかったら、神もお客もぼろくそじゃね」
「ええから、早よせえよ、お前見たいな神さんいらんねん」
 大阪育ちのオヤジの声が、窓の向こうにまで響いていく。二人ともなかなか
上手いこというな、と眠気と酒気と熱気にとらわれた頭で感心しながら、惚け
た眼で見ていた。
「お前も何しとるねん、毎晩毎晩酔っ払って帰ってきやがって」
 気がつくとオヤジは僕に向かって怒鳴っていた。あらら。ベッドに座り直し
て煙草に火をつけた。毎晩毎晩ってまだ来て三日目やんけ、音にならない声で
応えた。
 「部屋も散らかすな言うとるやろ、ほんで寝るんやったら寝るで、ちゃんと
テレビ消せ。電気代かてバカんならんねんぞ」
 微かに意識が残っている脳味噌が思いを紡ぎ出す。『旅行中はいつ、どうゆ
う状態でトラブルに巻き込まれるかわかりません』ガイドブックの片隅に必ず
書かれてある、普段気にも止めていない言葉が浮かんだ。ははあ、こういうこ
とか。初めてその言葉の真意を得て、僕はベッドの上でほくそえんだ。
「なに笑っとるねん、聞こえたんやったら、さっさと片づけんかい」
 隣の兄ちゃんは、明らかに不機嫌な顔をして黙々と荷造りにいそしんでいる。
廊下にいた客たちは飛び火を恐れてか、もうそこにはいなかった。蒸し暑い空
気だけが、部屋の中で立ち往生していた。

 ようやく神経がつながり始めた。兄ちゃんと僕は、小さな公園のベンチに座
り込んでいた。日付が変わっている。
 「ごめんな、僕のせいやね。巻き込んでしもうて、これからどうする?」
 にいちゃんは、激情覚めたようすで俯いていた。空には薄い雲が掛かってい
て月も星も見えない。すぐそばの木の下では、ホームレスらしきオッチャンが
眠っている。車がけたたましいエンジン音を響かせて走っていった。兄ちゃん
の問いには応えなった。かわりに足元の大きな荷物を見ながら、声にならない
笑いを噛み締めた。
「くっくっくっ」
 沖縄は、もうすぐ梅雨が明ける。



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