長編 #5168の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
忘れたのは、あまり飲みたくないという気持ちが、無意識の内に表れたのか もしれない。と言うのも、つい最前まで、岩清水を手ですくって煽るシーンを、 何度も繰り返し撮っていたのだ。水は、スタッフが用意したミネラルウォータ ーを使ったのだが、撮り直しが続いて、いい加減、気持ち悪くなってしまった。 監督からOKをもらってほっとして、遅い昼御飯にありついたわけだが、飲 み物のことはすっかり失念していた。 「ありがとう」 断るのも気の毒だし、コップを受け取り、注いでもらった。麦茶の冷たさが、 じきに伝わってきた。 新部が立ったままでいるので、純子は一口飲んでみせた。すると今度は、隣 に座り込む新部。彼女はその姿勢で身体を横にずらし、純子との間隔を十五セ ンチほどまでに狭めた。 「−−もう食べたの?」 戸惑いを覚えつつ、平静な声で聞いた純子。新部はその大きな目を向けて、 はきはきと答えた。 「だって、少ないんだもん。ダイエットしてるから」 「ああ……大変だね、女の人は」 冷や汗を感じる台詞だ。 幸い、目一杯食べても太らない性質らしい純子には、縁遠い話だが、男の格 好をしているときに口にするには、やはりためらいがあった。 「新部さんは、どうしてお茶くみ係をしてたんだい? 誰かに頼まれたの?」 話題を換えようと、冗談めかして言ってみる。 新部は真剣な表情で、首を左右に振った。 「久住さんと仲よくしたいなあと思って。何か近付く用事がないかと探してた ら、お茶を持っていってなかったって分かったから、こうして持って来たの」 「はあ」 「迷惑?」 「いや、全然」 疲れて静かにしたいとき、新部の喋りはちょっと煩わしく感じることもある が、総じて、いい子だと思う。口の聞き方を知らない面は確かにあるものの、 まずい演技を直そうとする努力を欠かしはしない。加倉井もその点だけは認め る発言をしたのを、純子も耳にしていた。 「よかった。綾穂、他の人とは、まだ打ち解けられないから……」 「徐々に親しくなっていけばいいんじゃないかな。撮影が終わったとき、互い に笑顔でお疲れ様でしたと言えれば、それで充分だと思う」 「うん。でも、今は久住さんが一番頼りになる」 「僕なんか、まだ駆け出しで――」 「精神的な支えっていうやつ」 純子の言葉を遮り、笑顔を向けてきた新部。 「それに、映画の中では、恋人同士なんだから、実際にも仲よくしていた方が、 演技にいい影響が出るんじゃないかなって」 香村との仲がぎくしゃくしたが故に、映画出演を断ろうと決意した純子にと って、強くうなずける話ではあった。ただ、問題なのは、女の子同士だという 事実ではないだろうか。 (私生活でも恋人みたいに仲よく、と言ってるの? どうしよう……じゃなく て、無理だわ) これはうまくかわさねば、と思った矢先、純子の二の腕に、新部が寄りかか ってきた。身体を傾け、遠慮なく体重を預けてくる。 「に、新部さん、何を」 「そんな呼び方、嫌」 「え?」 純子が驚いたのは、新部の言葉の内容だけでなく、その声の響きにも。撮影 時でも聞いたことのない、甘えた感じが色濃く出て、語尾があとを引く。じん わり、まとわりついてくるような余韻さえあった。 「綾穂と呼んで」 目が点になる心持ちを味わう純子。さっき想像した通りの展開に、頬がひき つりそう。しかも、こんな艶っぽいやり取りをしているというのに、食べかけ のお弁当を手にした自分が、やけにおかしい。 「お願いよ。綾穂って、今、呼んでみせて。いいでしょうぉ?」 どうやら、新部には、弁当やお茶など、見えていない。彼女のその瞳には、 純子だけが、否、久住淳だけが映っている。 「できないよ」 とにもかくにも、それだけは答えることができた。 だが、新部は即座に追撃してきた。 「どうして? 久住さんには、もう決まった女性がいるの?」 なかなかの飛躍ぶりだ。純子が呆気に取られ、返事が遅れると、新部は続け ざまに言った。 「そうよね。久住さんほどの人に、いない方がおかしいわ。だったら、綾穂が こんな風に言い寄っても、迷惑なだけというんですね」 何故か急に丁寧語になる新部。 純子は、かつらを押さえながら考えてみた。都合がいいからと、ここで認め る発言をしたらどうなるか。噂になって、「久住淳に恋人が?」などと芸能誌 に書かれるのは困る。鷲宇達が最も嫌うスキャンダルだ。それに、相羽に何と 思われるか……。 仕方ない。ノーの返答をすることにした。人差し指を伸ばし、新部の鼻先を 差すようなポーズを作る。彼女の注意を惹きつけてから、優しい口調で言った。 「勝手に話を作らない。僕に、そんな人はいないんだからね」 「え、だけど。それじゃあ、何で」 綾穂と呼んでくれないの?と、目で訴えかける新部。 純子はまたも熟考し、適切な答を考え出した。 「こと、演技に関しては、君の方が先輩だからさ。先輩の名前を、呼び捨てに なんかできないよ」 そうすると同時に、昼食を再開してみせる。会話の空気を、なるべく気安い 方向に持って行きたい。 「そうだったの」 安心のため息をつく新部。わずかながら曇っていた表情が、あっという間に 晴れ渡った。感情の起伏が、意外と激しいようだ。 「なーんだ、心配して損した気分」 「ごめんごめん。心配させるつもりはなかったんだ。でも、名前の呼び捨てだ けは勘弁してよ」 口をもごもごさせながら、片手で拝む格好をする純子。ようやく、肩の荷を 降ろせた気がする。 「分かりました」 新部がまた丁寧語になった。純子は少し警戒し、背筋を伸ばした。 「じゃあ、綾穂ちゃん、で」 「綾穂、ちゃん?」 「そう。これから、私のことは、綾穂ちゃんと呼んで」 純子はお茶を一口飲んだ。これは、本当に飲みたくなったが故の行動。 (相手は年下なんだから、『ちゃん』付けでも不自然じゃないわよね。これく らいなら、変な噂にもならないでしょう) 純子は口元を拭い、しっかりとうなずきを返した。 「分かったよ、綾穂ちゃん」 「きゃー、嬉しい!」 盛大に手を叩く新部。座ったままだというのに、何だか飛び跳ねているよう な感じがある。 「さあ、綾穂はあなたのことを、どう呼ぼうかなあ」 にじり寄られ、純子は後ずさった。当たり障りのない返事をしておく。 「僕と分かる呼び方なら、何でもいいよ」 「……淳でいい?」 少し、くすぐったいような気がした。本名と音が重なってるからかな、と純 子は想像した。 (変な気分。でも、同じ『じゅん』て呼ばれるのなら、私の方も余計な神経使 わなくてすむから、ちょうどいい) そう判断して、純子は承諾した。 そこへ、休憩の終了を告げる掛け声が届く。メガホンを通し、少し割れ気味 の声音に、新部が眉をしかめる。 ところが、純子が顔を覗こうとすると、途端に見事な笑みを作る。さらに、 小指を鉤型に曲げて、すっと差し出してきた。 「それじゃ、淳。一緒に頑張りましょ」 指切りげんまんだと気付いた純子は、微苦笑混じりで応じた。 「最後まで、よろしく」 言って、食べかけのお弁当を片付けようとしたが、新部がいつまでも指を絡 ませている。 「どうかした? 離してくれないと……」 純子の声が聞こえないのか、手を取り、しげしげと見つめる新部。が、突然、 顔を起こした。 「淳の手って、きれいだなと思って。女の子みたい」 「――そうかな」 とっさに、短く答えた。こんなとき、純子は、近しい男子の反応を思い出し て、参考にしている。 「細くて、手入れもちゃんとしてあって」 「綾穂ちゃん」 穏やかに言って、手を引っ込める。 「昔から、外で遊ばなかったからかな。お稽古ごとも、ピアノだったし」 前半は嘘で、後半は本当だ。 「大人しかったんだ?」 「そう。人前に出るのが、恥ずかしくて。それが何の因果か知らないけれど、 歌を唱ったり、こうして映画に出たり」 純子が肩をすくめてみせると、新部は目をまん丸にし、その直後、ころころ 笑った。 「私と反対ね!」 手のひらで口を隠しながら、新部は駆け出した。 早くするようにと、催促がやかましくなった。 夕刻になって、脚本に大幅な直しが入り、主役クラスの何人かが、新しい台 詞と演技を一から頭に叩き込む必要に迫られた。 純子は特に長口上を与えられ、その暗記に躍起になっていた。台本を両手で 抱え込んで、ある程度覚えたと思ったら、目を閉じて、つぶやく。なかなか完 全にはこなせず、再び覚え直す。これの繰り返しだった。 今日最後の夕闇のシーンを前に、純子は平べったい石に腰掛け、その新たに 加えられた箇所の暗唱に努めていた。 「久住君は熱心だね。そんなに根を詰めなくてもいいのに」 「――星崎さん」 台本から面を起こし、見上げる。右横に立つ星崎は、すっかりリラックスし た体で、肩を回したり、腕を振ったりしている。 「そのシーンは、明日回しなんだから。これからやるシーンに集中した方がい いんじゃないかな」 「そうしたいんですけど、新しいのは明日の早朝だから、今から掴んでおかな いと間に合わないかもしれない……それに比べたら、これから撮る分は、台詞 だけなら頭に入れてきましたから」 「それは頼もしい。さぞかし名演が」 「あの、プレッシャーかけないでほしいんですが……」 「ああ、ごめんごめん。そんなつもりはなかった。本当に、感心してるんだ。 歌から出た人が初めてやるにしては、勘のいい演技だなってね」 恥ずかしくなって、顔を台本で隠す純子。 (本当は初めてじゃないんですよーっ。でも、どっちにしたって、演技は全然 たいしたことないです。周りの人に引っ張られてるだけ) 撮影開始以来、同じことを、しょっちゅう心の中で叫んでいる気がする。 「着いていくのに必死で、上手下手を考えてる余裕はありません。歌の方が、 まだ楽かなあ」 本当は、歌も演技も同等に神経を使って、疲れるのだが。 「僕は歌の方が、よっぽど恥ずかしいよ。映画やドラマなら、のめり込める」 「歌でも人気ある人が、そんなこと言ったら、マネージャーさんが泣きますよ」 「かもね。――そろそろだ。行こうか」 開始を告げる声に、星崎の表情が真剣になった。笑みこそ残っているが、醸 し出す物が変化した。 「はい――あ」 返事をして立ち上がろうとした純子だったが、足場は小石の転がる地面。し かも、背を高く見せるために、いくぶん厚底の靴を履いている。うまく立てな くて、後方に倒れそうになる。 「――危ないっ」 先に歩き出そうとしていた星崎が、純子の短い悲鳴を聞き咎めたか、立ち止 まった。振り向きざまに異変に気付き、同時に腕を伸ばす。純子の腰と腕をし っかり掴まえ、支えた。 瞬間、息を飲んだ純子。転びそうになったことにでなく、星崎に助けられ、 抱き留められたことに。 (正体が、ばれる?) 危機感から身を固くする。顔を、不自然にならない程度に、なるべく背けた。 星崎は、純子の腰に腕を回したまま、かすかに口を開き、何か言いかけたか と思うと、つばを飲み込んだ。 「……あの、星崎さん。離してください」 純子は、叫び出したくて、普段の女の子の声になるのを懸命に抑え、久住淳 として言った。 「助けてくれたのは、嬉しいのですが、このままじゃあ、演技じゃなく、社交 ダンスになっちゃいます」 「あ、ああ。そうだね。離しても、もう大丈夫だな?」 確かめてから、手を離した星崎。そのあと、自らの手のひらを見つめるのは、 感触を奇異に思っているため……? ――つづく
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