長編 #5139の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
えらそうにじいさんはおれの肩をぽんぽんと叩き、 「実はな。おまえさんは0.5秒、時間を遡行したのじゃよ」 ときた。なるほど。 底なしのため息をつきたくなったが、どうにかがまんして八割りがたはおつきあ いの質問を口にする。 「0.5秒、ですか」 「そのとおり。たったそれだけの時間だからおまえさんには実感はないだろうが、 ほれみなさい、そこの計器に、はっきりと記録されておる」 じいさんが指さす先には確かにメーターのようなものがあって、針は0.5の位 置をさし示していた。ただしそのメーターは一周しても一にしか届かず、位をあげ ていくためのデジタル表示も見あたらない。 だがそのことを指摘するまも与えず、じいさんの饒舌がおれを圧倒する。 「よいか。0.5秒などというと実に些細な時間に過ぎんと思うかもしれんがさに あらず。0.5秒をさかのぼることができた、というこの事実こそが実に重要なの じゃ。これで理論は実証されたし、その理論に従って構築したシステムにも不都合 がないことが証明されているわけだな。だからつまり、この偉大なる一歩によって タイムマシンの完成への大きな突破口が記されたと、こういうわけなのだ。わかる か? ん? わかるじゃろう。いかにこの実験の成功が偉大なものであるか、とい うことがな。今日は0.5秒に過ぎんかった。が、これが明日には1秒に。そして 来週にはなんと10秒もの過去に遡行することが成功しておるかもしれん。どうじ ゃ」 どうじゃ、といわれても、0.5秒が10秒になったからといってどれほどの違 いがあるのだろう、と思ったがあえて何もいわずにおく。 それよりも、では実験をつづけよう、というたぐいのセリフがじいさんの口から 出てくるのではないかとびくびくしていたのだが、 「ご苦労じゃった」 マッドサイエンティストは満面の笑みとともにおれの肩になれなれしく手をまわ して――ないしょ話をするように、耳に口をよせてきた。 「ところで、バイト料のことなんじゃがな。すこし待ってもらいたいんじゃ」 まっとうな仕事を終えたあとなら冗談じゃない、とごねまくるところだが、まず 何より自分が対価に値する労働を終えたという実感がまったき欠落していたせいで、 即座にかまいませんよというセリフが口をついて出る。もちろん後悔などない。一 刻もはやく、この怪奇の館から退散したかったからだ。 「うむ、すまぬな。見てのとおりの貧乏学者じゃ。貯えはすべて研究につぎこんで おるゆえ、現金などのもちあわせはないのでな。なに、心配することはない。今回 の実験の成功によって、この画期的なマシンの実用化も目処が立ったというものだ からな。あとは特許さえとってしまえば自動的に金は入ってくる。むろん新しい研 究のために金などいくらあってもたりぬが、なに、おまえさんのバイト料程度なら すぐにでも払えるようになるさ。そういうわけで、この研究が世に認められたあか つきにはまっさきにおまえさんのところへいくから、楽しみに待っていてくれんか。 だいじょうぶ。すぐにその日がくるとも。安心していなさい」 安心などどうでもいい。おれはてきとうに生返事を返し、住所と電話番号を教え るとじいさんが送りにでるというのも遠慮してとっととひとりで階段をのぼり、薄 闇の立ちこめる狂気の館をあとにした。門をでるまでに都合五回、つまずいてすっ ころびそうになったことをつけ加えておこう。 角を曲がって荒れさびれた館の姿が視界から見えなくなったとき、ようやくおれ の口から安堵のため息がもれる。 そのときになってようやく、陽が暮れかかっていることに気がついた。門をくぐ ったのが午後一だったので、半日近くをあの地下で過ごしたことになる。それほど の時間を費やしたとはとても思えなかったので、まるでタイムマシンにでも乗せら れたようだとぼんやりと考え――冗談じゃいと激しく首を左右にふるうや、おれは 足早にその場をあとにした。 じいさんがおれの部屋をたずねてきたのは、意外にもその日の夜だった。 夕食を終えてインスタントのコーヒーで一服しているところに、なんだかせわし ないノックの音が立てつづけになりまくったのだ。 新聞屋かと警戒心もあらわに誰何すると、××研究所のものじゃ、と記憶に新し いだみ声。あけるかどうかひどく逡巡したものの、老人を扉の前にしめ出しておい ては近所の人間にどう思われるか知れたものではない。しかたがないので、ドアノ ブに手をかける。 と、扉がひらく間ももどかしいように、ずいとすきまから封筒が前進してきた。 だみ声はそれを追うように届けられる。 「遅れてすまなんだ。これが約束の謝礼じゃ。すこし色をつけておいた。満足して もらえると思うぞ」 壜底めがねをにぶく光らせながら、マッドサイエンティストはいった。 見ると、なぜかアロハを着ている。肌でも焼けていれば海帰りの元気なじいさん で通用したかも知れないが、残念ながら地下で見たままの青白さだ。派手ないでた ちが異様に似合わない。 もちろんじいさんはそんなことなど露ほども気にせず、 「どうしたのだ、青年。ありがとく受けとらんか」 さしだした茶封筒をひらひらと上下させた。 いや、でもずいぶんと早かったですね、としどろもどろにいいながらとりあえず 封筒を手にする。じいさんはぐいとおれにそれを押しつけるように渡しつつ、 「うむ。からくりがあってな」 にんまりと笑った。 からくりですか、と間抜け顔できき返すと老人はうれしげに説明をはじめる。 「いや、実をいうとな。特許をとるのにずいぶん手間どってしまってのう。しかも わしのこの偉大な研究成果を横どりしようと、謎の組織がさまざまな暗躍をおこな ってきたのじゃよ。それを退けるのにてんやわんやでのう。結局、すべてが順調に 運ぶまでに、十年以上もかかってしまったというわけなんじゃよ。まったく、浮き 世の些末事にかかずりあうのは、まこと気骨のおれるものじゃわい。わしはやはり 研究室にこもっていろいろとやっておるほうが向いておるよ」 最後のセリフにだけは心からの同意を覚えつつ、おれは首をひねる。 「はあ。でも十年かかったといっても、まだお別れしてから数時間しか経っていま せんが」 もっとも、返答は予想できた。 「何をにぶいことをいっとるのかね」得意満面でじいさんは、予想通りのセリフを 口にする。「十年も報酬未払いでは申し訳なかろうと思って、タイムマシンで時間 をさかのぼってきたのじゃよ。ほれそうすればおまえさんにも即日で渡すことがで きるだろう?」 理屈はあっているので、不承不承おれはうなずいた。 「それでな」じいさんはさらにつづける。「この十年のあいだに、どうやら紙幣の デザインと額面が一新されてしまったらしいのじゃよ。あいにくわしは、見てのと おりの浮き世離れした科学者ゆえ、いつごろ新しい紙幣が流通するようになったの かとんとわからんが、十年以内であることはまちがいなかろう。まあそういうわけ で、すまぬがこの報酬はまだ何年かは使うことができないと思うのだ。なにしろま だ発行されていない紙幣なのでな。うっかり使用してしまうと、偽札あつかいされ るぞ。まあそういうわけだから、すまぬがしばらくはこの報酬も死蔵せざるを得ま い。申し訳ないが、そのぶんの迷惑料も上乗せしておいた。どうか悪くとらんでも らいたい」 いって、じいさんはちらりと上目づかいでおれをながめあげた。 壜底めがねのつるの端から、ちらりとじいさんの裸眼が見えたような気がする。 もっとも一瞬のことなので、それがやけに澄んで見えたように思えたのも、気のせ いに過ぎなかったかもしれない。 いや、ぜんぜんかまいませんよ、わざわざすみませんでしたと笑顔で告げると、 浮き世離れの老科学者も心底安堵したような笑みを見せ、それではわしは新しい研 究にとりかからんといかんのでこれで失礼する、見送りはいらんよ、また実験の折 りには広告をだすので、ぜひアルバイトにきてほしい、と言語道断なひとことを最 後に、くるりと背を向け夜の闇のなかへと消えていった。 その背中をおれは、ずいぶんながいあいだ無言で見送っていたと思う。 あの怪奇の館にもういちど立ち寄るつもりには二度となれないと思っていたが、 なぜかひどく名残りおしいような気もしていた。 部屋に戻って封筒をひらいてみると、アインシュタインが舌をだしている絵のつ いた十万円札が一枚、ひらりとでてきた。一応和紙だが印刷は荒く、物理学者の図 柄もなんだかコピーじみていて、十年が百年だろうと使えるようになるとは、とて もじゃないが考えがたい。 おれはかすかに苦笑いで口端を歪ませつつ、金庫がわりのひきだしの底に、もと どおりに封筒内部に戻した十万円札をうやうやしくしまいこんだ。 その後、じいさんがどうなったのかはわからない。怪奇の館はいつのまにやら人 手にわたったらしく、あれからしばらくして解体業者が取り壊しにかかりはじめた。 跡地にはマンションが建てられるらしい。 十万円札が発行される、という話はいまだに出ていないが、おれはいつか来たる べきその日を心待ちに、アインシュタインが舌をだしながら日の目をみるときを待 ち受けるひきだしの奥を、ときどき思いだしては微苦笑をうかべながら暮らしてい る。 タイムマシン――了
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