長編 #5025の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
* * アルビン=エリオットがこの春から勤めるという音楽大学を訪ねた相羽は、 心が弾むのを感じた。キャンパスの外見のこぎれいさだけでなく、設備や雰囲 気に一種、魅せられる。 大きな噴水を左手に、案内図の看板が立っていた。大小さまざまのホールが あると一目で分かる。カラフルなのは、主目的別に色分けされているから。 相羽はエリオットに指定されたホールの位置を確かめ、白煉瓦を敷き詰めた 道を進む。緩くカーブして、こじんまりとした林の中に入った。季節が夏なら、 木漏れ日と薫風に溢れるだろう。 そこを抜けると、ホールがあった。エリオットが六、七段の石段を昇ったと ころにある玄関口で、立ったまま待っている。相羽は肩を動かしコートの形を 整えながら、一気に駆けた。 気が付いたエリオットが、両腕を大きく広げた。 相羽は、これからこの場所でエリオットのピアノ演奏を聴けると思うと、胸 が高鳴るのをしっかり自覚した。大げさでなく、素直に喜びを感じる。 * * * (父さんの演奏に似ているところがある?) 相羽はそんな感想を胸の内に抱いた。 (気のせいかな? 記憶の中の父さんの音と違うことは違うんだけれど……で も、どこかでつながっているような) 音の記憶にもやがかかっている。もどかしい。 エリオットの演奏が終わった。座った姿勢のまま、肩越しに振り返るエリオ ットに、相羽は急ぎ足で近付いた。 近付くに従い、演奏が父に似てるなんていうのは、エリオットに失礼じゃな いかという思いが広まった。 (ピアノの演奏を聴くのって、久しぶりだから……恐らく、聴くもの全てを父 さんの演奏に結び付けてしまったのかな) どうにか自らを納得させてから、エリオットに感想を伝える。語句を費やし て飾り立てる必要はない。ただありのままに、感銘を受けたと言えば充分。 エリオットは、私の教え子にはもっと素晴らしいメロディを奏でる者がいる、 それもたくさん、と言って笑った。相羽にもそうなってみたくはないのかと、 誘いかけてくる。 相羽はジョークを考えた。「なおさら、J音楽院には行けなくなりました。 何故なら、ミスターエリオットがいないのだから」と。 しかし、さすがに言う気分にはなれない。今日、ここへ来たのは、冗談を言 って笑うためではない。 「質問があります」 「何だね?」 エリオットは受け答えながら、相羽に手近のパイプ椅子を指し示し、座るよ う促す。相羽が言われた通りにする間、鼻をなでて待っていた。 「この間の説明では不充分だったようだね、信一」 隣に腰を落ち着けた相羽に、エリオットはそう言って微笑した。 「いえ、あのときの説明は校風を知るのに充分でした。今の僕がお伺いしたい のは、根本的な質問です」 「根本的」 fundamental と呟くエリオット。 相手が首を軽く傾げたのを見て、相羽は単語の選択を間違えたかな?と小さ な不安に駆られた。英語の国語的意味から言って、今の場合の「根本的」に近 いのは、fundamental ではなかったのかもしれない。ならばbasic か? それ も違うような気がする……。 (何やってんだ、僕は) 相羽は首を横に振った。現時点ではどうでもいい問題ではないか。それこそ 根本的問題ではない。 「エリオットさんは僕をとても気に掛けてくださっています。少なくとも、僕 自身にはそう思えてなりません。何故でしょうか」 「素質ある人間に期待して、気を掛けてはいけないのだろうか? いやいや、 そんなことは断じてない」 笑みを絶やさず、しかし押しの強い言い方で続けるエリオット。 「私から言わせれば、君の行動こそ理解しがたいものだよ。J音楽院を受験し、 合格した。なのに入ろうとしない。理由が分からない。たとえるなら、砂糖を コーヒーに入れて何故甘い?と怒っているようなものではないかな」 「そのことは、今はお許しください。先ほどの続きになりますが……素質ある と言っていただき、大変光栄に思います。それでもなお、僕には分かりません。 あなたがここ日本に滞在中、僕のような者をずっと気に掛けてくださる行為が」 エリオットはしばらく黙り、やがて真顔で始めた。 「……私には大勢の教え子がいる。この歳になるとね、それはもう数え切れな いほどの人数だ」 「はい」 「試験に合格して入ってくること、それだけが条件だ。性別も年齢も、そして 国籍も関係ない。国籍は多種多様で、日本の若者にも教えたことがあるのは、 言うまでもない」 話を聞いた瞬間、相羽はまた父のことを思い浮かべた。 (年齢から言って……ひょっとしたら、父さんもエリオットさんに教わったこ とがあったかもしれないよな) 「たまたま私がそうなのかもしれないが、受け持った日本人には優秀な生徒が 多かった。そして人間的にも素晴らしい連中ばかりだ。卒業後何十年と経つと いうのに、近況を知らせる手紙をくれる。日本人は手紙が好きなのかな?」 「僕にはその件で他国との比較はできません。それよりも、エリオットさんが 先生として優れているからなのではありませんか?」 「そうであると嬉しいね。だが、残念ながら、私は大した先生ではない」 「え?」 急に低い声になったエリオット。相羽は思わず聞き返していたが、聞き取れ なかったわけではない。 エリオットはやや猫背気味に背を丸め、膝上に両腕を持ってくると、手を組 んだ。 「思い出したい記憶ではないが……私のせいで、一人の生徒の将来を奪ってし まったことがある。直接ではないかもしれないが、結果的に奪ってしまった。 その生徒が日本人だった」 「はあ……」 信じられないまま、ただ相づちを打つほかない相羽。一体、どんないきさつ があれば、一人の生徒の将来を奪うようなことになるのだろう? 「彼は――その生徒はとりわけよい人間で、才能ももちろんあった。開花させ つつあったと言っていい。それだけに、私はなおのこと悔やむ。そのときの苦 い思い出が、私を突き動かしているのだろうね。日本人には特別の思い入れを どうしても持ってしまうよ」 「……お話は分かりました」 相羽はピアノの鍵盤にそっと手を置いた。 (思い入れの対象は、僕じゃなくてもいいじゃない) 少しほっとする。肩の荷が降りたような。 相羽が黙っていると、エリオットは幾分しゃがれ声で言葉を重ねた。見れば、 目尻を押さえている。 「あのとき、私が喜びに任せて酒を飲み過ぎなければ、気が大きくなることも なかったろう……。気が大きくなっていなければ、ならず者連中に絡まれて言 い返したりしなかった。馬鹿みたいに強がったりはしなかったのに……。彼は、 私を助けるために、闘ってくれた。代わりがいくらでもいるこの老いぼれを守 って、自らの指に大怪我を負ってしまうなんて」 「――エリオットさん」 相羽は息を飲んだ。あまりにも似ている。以前、母から打ち明けられた話と 似通った点が多い。 「その、その生徒さんの名前は、何と言ったのか、覚えていらっしゃいますか」 「覚えているとも。どれだけ年月が経過しようと、忘れるはずがない。日本語 でどのような字を書くのかも教えてもらったのだが、さすがにそれは忘れてし まったがね。Sohji Sakohgawa と言った」 「……え」 相羽はピアノから手を離し、口元を覆った。目が自然と見開かれる。 エリオットは遠い目で斜め上を見つめ、淡々と語り続けていた。 「しばらく手紙をくれていたのだが、あるときふっつりと音信不通になってし まって、現在どこでどうしているのか分からない。しかし手紙には、立ち直っ てピアノ講師をしていると書いてあったから、今もこの日本でピアノを弾いて いるに違いないと信じているよ。この度来日できた私は、ぜひ会いたいと思っ て探してみているのだが、なかなかうまく行かないものでね。次回の楽しみに 取っておくしかなさそうだ」 エリオットは声を途切れさせると、相羽の顔を振り返った。 「そう、君を見ていると思い出す。どことなく、彼と似た雰囲気を感じる。何 より、演奏法が近い。これもまた、相羽信一君、君への思い入れの正体さ」 「僕は」 相羽は声を詰まらせ、深呼吸をした。 「僕は、酒匂川宗二をよく知っています」 「――おお?」 「僕は彼の息子です」 「何? 何だって?」 欧米人らしい振る舞いと言っていいだろう、エリオットは勢いよく立ち上が ると、腕を広げ、口をぽかんと開けて驚きを表現した。 「に、似ている感じは受けていたが……し、しかし、君の姓は?」 「『相羽』は母方の姓です。父は相羽家に入りましたから、このようになりま した」 相羽は息が荒くなるのを充分に自覚した。偶然の巡り合わせに、気持ちが乱 れる。生まれて初めて味わう感情かもしれない。 「そうか、そうだったのか」 しきりにうなずき、鼻、顎と撫でるエリオット。 「酒匂川の名を探して調べても、見つからないのも道理だ。宗二も人が悪いね。 知らせてくれればよいものを」 「それが」 相羽は切り出そうとして、口ごもる。父が結婚のことを恩師に知らせなかっ たのは、酒匂川家の他の者達との関係悪化を隠したかったからかもしれない。 父の死とは無関係なのかもしれない。 しかし、エリオットにはいずれ伝えねばならない事実だ。 相羽は一旦唇をきつく結び、意を決して話した。 「五年前、父は亡くなりました」 相羽の内面では、父の存在が再び影響を強め始めていた。 * * ――『そばにいるだけで 44』おわり
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