長編 #5023の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「こんにちは」 顔を確かめてから挨拶をすると、相手の唐沢は、身体を半分に折るような具 合でお辞儀してきた。と言っても素早い動作だから、おかしくはない。 「他人行儀な挨拶だなあ。ま、いいや。こんにちは、涼原さん」 学校指定のコートに身を包んだ唐沢は、ポケットから両手を抜いて、目を細 めながら言った。 「それで唐沢君、今日は何?」 「涼原さん、俺を励ましてよ」 食堂で出されたお冷やを飲むように、ごく当たり前の流れで唐沢はさらりと 言った。純子は思わず、首を前に突き出し、目元をしかめた。 「はい?」 「受験、あと一踏ん張りしなきゃいけないのに、今のままだと意志がくじけそ うだ。涼原さんに言ってもらえたら、がんばれそうな気がする」 「……何て?」 おかしなことを頼むわねと不思議さを感じつつも、純子は問い返した。 「うーん、励ましの言葉なら何でもいいよ。『唐沢君、がんばって』とか『フ ァイト!』とかさ」 「そんなのでいいの?」 「もう、充分すぎるくらい励みになる」 「――唐沢君、がんばって。私もがんばるから、一緒の高校に行こっ」 「サンキュ」 頬を緩めて笑うと、唐沢はポケットに手を戻した。そして純子に背を向け、 立ち去っていく。 あんなにはっきりと嬉しそうに笑う唐沢を、純子は初めて見たかもしれない。 「あの! 一緒に勉強する?」 何故か印象的に感じてしまって、自然と声をかけていた。 唐沢は立ち止まると同時にかかとでターンし、コートの裾をくいっと持ち上 げた。 「ありがとう! でも、遠慮するよ。俺、ここから先は自分の力で勝負したい からな!」 再びポケットから手を――今度は右手のみ出し、上方に掲げて大きく振った 唐沢。純子が肩の高さで手を振り返すと、唐沢はしっかりうなずき、今度こそ 帰っていった。 * * 相羽信一が一心不乱に受験に集中できているかと言われると、もちろんそう ではなかった。 「――いい?」 自分の部屋で密かに練習した通りの説明を、たった今、母にし終えた信一だ が、安堵感は全然なかった。暗い洞窟を長時間に渡ってさまよい歩き、やっと 抜けることができたと思ったら、目の前には見知らぬ世界が広がっていた。そ んな感じだ。怖々と、母の顔を見る。 「つまり、好きな子と離れたくないから、やめるのね」 母は淡々とした口調で、息子の言いたいことを繰り返した。 「はい」 いつになく堅い返事をしてしまった。 信一は自分の気持ちを脚色することなく、素のままで母に伝えた。それ以外 の方法は採れなかった。 「とにかく、座りましょうか」 仕事から帰宅したばかりで話をされた母は、今やっと着替え終わったところ である。キッチンのテーブルを挟んで、親子ともども座った。静かな時間は二 分以上あったことだろう。母は両肘をつき、腕を組み、何度か吐息を交えて首 を捻った。 元日の午後、エリオットの話を聞いた際に、信一は悩む素振りを見せておい た。無意識の内に、今日のための伏線を張ろうとしたのかもしれない。おかげ で、エリオットには呆れられた節があったが、それでも未だに熱心に説得の電 話が掛かってくる。 エリオットのことは置こう。 母はその元日、漠然とではあるが、息子の気持ちを感じ取ったに違いない。 今も難しい表情こそしているが、驚きとは無縁の様子である。 やがて口を開いた。 「最初に、あなたに確かめておきたいことがあるの」 「うん」 「J音楽院を受ける前に、好きな子への想いは断ち切ったんじゃなかったの?」 母の瞳が、のぞき込んでくる。信一の目を、心を。でも、優しい目だ。決し て、追いつめるような怖い目つきではない。 「僕自身、そうしたつもりだったよ」 唇を尖らせ、言い訳がましくなるのをこらえつつ、相羽は応じた。 「状況が変わったと言えば分かってもらえるかどうか、自信ないけれど……と にかく、状況が変わって、気持ちも変わった。元に戻ったんだ。離れたくない」 「その好きな子は――まだるっこしいわね、純子ちゃんはあなたに何か言って きたのかしら、信一? 行かないでくれとか?」 「言われた。泣かれた」 即答してから、口元に拳をあてがい、思慮する信一。アルコールのことを言 及しておくかどうかを考え、結局これも言うと決めた。 「……」 純子が間違ってお酒を飲んだことについては、母は何も言わなかった。代わ りに尋ねてきた。 「本当に好きなのね」 今さら答えるまでもない。信一は黙ってかすかな動作でうなずく。 「何だかほっとしたわ」 母の意外な言葉に、信一はテーブルに腕を置き、にじり寄るようにした。 「今までの信一は、お父さんのことが最上位にあったでしょう」 「それは……」 当たっている。信一はかすかにうつむき、唇をかみしめた。 「お父さんを一番に考え、次に私、かな。自分のことは三番目か、下手をする ともっと下かもしれないわね」 「そんなこと……ないよ」 「今度のJ音楽院の受験だって、それはね、私は嬉しいと感じたけれども、一 方で、この子ったら、またお父さんのことを真っ先に考えてしまって、知らな い内に無理をしてるんじゃないかしらって……」 信一は、無理なんかしていない、と答えようとした。だが、やめた。「知ら ない内に」と付言されると、そうかもしれないと思えなくもない。自分自身の ことは、立ち止まって振り返りでもしないとよく分からない。振り返っても分 からないかもしれない。 「やっとお父さんが二番目になった。そう思って、ほっとしたのよ」 「……」 「お父さんも案外、ほっとしてるんじゃないかしら」 「そうかなあ……がっかりしてるかも」 「がっかりして、ほっとしてるわね、きっと」 「それなら……まあいいか」 母から目線を外し、頭をかく。顔をほのかに赤くした信一は、深呼吸をして 話を本題に引き戻した。 「それで、母さんっ。J音楽院――」 「私はかまわない。あなたの好きなようになさい。ただし」 不意に語気を強める母。信一は自然と身を固くした。 「今は純子ちゃんの方が大事だ、ピアノなら何年後かにまた始めればいい、な んて思ってるんだとしたら、それは間違いよ。本来なら、小さな頃から継続し て習うのがいいそうだから。極端な言い方をすれば、やり直すなら、信一の今 の年齢がラストチャンスかもしれない」 「分かってる」 「本当に? ――とにかくね、よく考えて結論を出すのよ。時間はまだあるの だから」 そうは言っても、結論を先延ばしにしていられるほどの余裕はない。 「断ったら、エリオットさんに失礼かな?」 「そんなことは関係ないでしょう。気遣う気持ちはあっていいと思うわ。でも、 あなたの判断には無関係」 「そうだよね。ただ……あの人、凄く熱心に誘ってくださるから」 エリオットの熱意には、信一自身が驚かされるほどだった。元々親日派らし いが、その点を勘案しても度が過ぎているのではないか。公的に何の実積もな い単なる一学生に、どうして。 エリオットが昨年末に来日したのは、別の所用があったためだ。今春から日 本にある音大で客員教授を務めることが決定しているエリオットは、その下見 にやって来たのだ。滞在中の予定は他にもあっただろうに、多くを相羽信一説 得のために割いている。 「母さん。もう一度、エリオットさんの話を聞いてみようと思うんだけど」 「聞くことで、信一の今現在の決心が揺らぐ可能性、あるのかしら」 「……とにかく、よく考えてみたい」 * * (あ……しまった) 唐沢はレコーダーでも隠し持っておけばよかったと、半ば本気で後悔をし始 めていた。ポケットの中をまさぐり、この大きさなら充分入ったのにと思う。 「録音しておけば、何度でも聞けるのにな」 苦笑とともにつぶやいたあと、急いで黙る。喋れば、記憶が薄れてしまいそ うだ。記憶の中にある純子の声と表情と仕種が。 唐沢は脳裏にしっかり焼き付け、よしっと両手でガッツポーズをした。 (これでどうにか、目標を再確保できたってところだな) 純子と初めて二人きりになり、美術館に出かけたあの日、唐沢は正直言って 浮かれていた。相羽がふられた話を聞き、さらにはその相羽が外国に行くかも しれないという状況を踏まえた上で、行動を起こした自分を責める気持ちもわ ずかばかりあった。だが、それを上回って余りある心地よさ、手応えに、唐沢 は浮かれていた。 しかし、同じ日の昼過ぎには、その浮かれ気分は急速にしぼんだ。それは、 相羽と白沼のペアに偶然会ったあとの純子の態度で、何となく見えたような気 がしたため。 純子は相羽が好きなのだと、唐沢には見えてしまった。どんな事情で純子が 相羽の告白を断ったのかまでは分からない。とにかく、見えてしまった気がす るのだ。 自分の勘違いであってくれ。そう思い込もうとした。でも、無理だった。 おかげで、唐沢は受験勉強に身が入らなくなってしまっていた。純子と同じ 高校に行きたくて、緑星という唐沢にとって少々きついランクを志望校に据え たのだ。それなのに。 考え、悩んだ挙げ句、今は自分自身をごまかすことに決めた。 純子から励ましの言葉をもらったら、その気になれる――唐沢の狙いは功を 奏しそうだ。 (なあに、事実、チャンスが消えたわけじゃない。今からでも涼原さんの目を 俺の方に向かせることは、できなくはないさ) 言い聞かせ、己を鼓舞する。唐沢はこれまでのキャリアもあって、意外に自 信を持っていたりする。絶対的な自信ではなく、部分的な自信だが。 (俺が女の子を誘ってふられたのは、たった一度きりだ) かつて本気で好きになった女子の顔を思い浮かべ、一瞬後、唐沢は激しく頭 を振った。現在の俺には関係ない。 「純子ちゃーん。今の俺は君一筋だからね」 いつものおちゃらけた自分になって、口の中でつぶやいてみた。 心の中で「純子ちゃん」と呼ぶことはあっても、声に出したことは滅多にな かったなと気が付いた。三回ぐらいではなかろうか。それも、どの場合もふざ けた口調でしか言っていない。 (そう言えば、相羽の奴も下の名前で呼んでたっけな) 同じにすべきかすべきでないのか、それが問題だ――と唐沢は思った。 * * ――つづく
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE