長編 #4999の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
相羽はここで純子の肩に手を添え、頭を起こしてもらおうとする。が、うま く行かない。自ら屈んで顔を覗き込んだ。 (……普通の赤面じゃない) 相羽自身、パニックを起こし掛けていたが、三秒ほどで異変に気付いた。純 子の顔全体がほんのり朱色を帯びている。ほっぺたが特に赤いが、まさか、り んご病でもあるまい。 「もしかすると――おい誰か、純子ちゃんのグラス見てくれ!」 周りから注視されているのを承知の上で、相羽は命令口調で言った。そうで もしないと、大人達は動いてくれない気がした。うまく青木が反応する。 「多分、これじゃない? 彼女の手袋が横に置いてあったから」 「すみません、ひょっとしてアルコールの匂いがしてません?」 「ほ? ……ええっと、うん、酒臭いわ。カクテルね」 戸惑いながらも肯定の返事をよこした青木。そこへようやく鷲宇が駆けつけ た。彼はかなり飲んでいるはずなのに、あまり面に出ないタイプらしい。 「まさか飲んでしまったのか、涼原さん?」 鷲宇が険しい顔付きになった。純子を支えながら答える相羽。 「恐らく、そうです。色がジュースみたいだから、間違って」 酒類とノンアルコールドリンクとをはっきり分かるように区別しておかなか ったことに対して文句を言いたい衝動が起こったが、すぐに無意味だと思い直 した。だいたい、今はそれ以上に重要なことがあるじゃないか。 相羽は純子を引き寄せ、しっかり立たせると、 「部屋の外で覚ましてきます」 と早口で宣言した。そして半ば呆気に取られた皆の視線を集めつつ、純子を 連れてドアへ足を向けた。 扉の向こうには、薄明りに照らされて、長い廊下が続いていた。 夕焼けがすでに黒ずみ始めていた。窓を時折揺らす寒風が、建物の中にも染 み込んできているのか、空気が冷たい。震えるほどではないのが幸いだ。分か らぬ程度に暖房が効いているのかもしれない。 会場の外に出てからも、純子は涙ぐんだままでいた。時折、くすんくすんと 鼻を鳴らして、頼りない足取りでさまようように歩を進めている。 相羽は一瞬のためらいの後、純子の腰に腕を回し、引き寄せた。こうしてい ないと純子が床のタイルの境目に蹴躓き、転んでしまいそうな気がした。それ ほど純子の今の足取りは危なっかしい。 どう話し掛けるべきか言葉の選択に悩んだ挙げ句、とにかく一所に落ちつく のが先決と思い当たった。 「純子ちゃん」 「……」 返事はなかったが、かすかに、目だけで振り向いてくれた。まずは安心し、 話を続ける相羽。 「座ろう。歩き回ってると、いつまでも熱っぽいままになってしまう。涼しい 方がいいだろ?」 「……うん」 廊下にベンチが置いてあるわけはないので、エレベーターホールを目指した。 確かソファがいくつか並べたあったのを、この階に来たときに見たように思う。 果たしてその記憶は正しかった。人の気配のしないホールには、革張りのソフ ァが八脚も置いてあった。 手近のソファに二人並んで腰掛けた。しかし、隣り合わせのままではだめだ と相羽は思い直した。立ち上がると、純子の前に来て、膝を抱えるようにして しゃがむ。 座ってからの何分間かは、ともに黙っていた。 声を掛けるのがためらわれてならない。間違ってアルコールを摂ったという アクシデントがあったとは言え、泣かせた原因は僕にある。そんな思いが相羽 の中を占める。 「純子ちゃん」 絞り出すようにして、やっとできたのは、名前を呼ぶことだけ。 逆に、純子が口を開いた。 「私を……置いて行かないで」 相羽は戸惑った。これまでの人生で一番戸惑った。 (どうなってるんだ) 顔を覗く。じっと見つめる。表情が完全には見えない。思わず、純子の髪に 手を伸ばした。髪のカーテンを指先でめくる。 (唐沢と美術館に行ってたのは何なんだ? 僕の顔を見て走り去ったのは? 酔ったにしても、こんなこと言うなんて。まだ期待してしまう) 純子の右手が相羽の指を掴んだ。体温がいつもより冷たい気がする。 相羽の指を両手で包むように持った純子は、そのまま胸元へ引き寄せた。 「行くのなら……私も行く。行くから」 「それができるのなら」 それができるのならどんなに嬉しいか。それができるのならこんなに苦しま ない――と、最後までは言えなかった。言っても意味がないと思った。 だが、不意に、言うべきだという考えが鎌首をもたげる。実現不可能なこと だからといってあきらめ、黙っていては伝わらない。 「僕も君を連れて行きたい。でも、悔しいけれど、今の僕らにはできない」 そっと手を引き、逆に純子の手を包み込むと、目をじっと見つめる相羽。 純子も真っ直ぐ見返してきた。 (待っていてくれ!と言ってしまいそうだ。言いたい。けれど、そんな権利、 ふられた人間にはないんだ、畜生) もどかしさのあまり、相羽は――純子を抱きしめた。強く、優しく。 純子の息づかいが、耳のすぐそばで聞こえる。 「どうして、行くの?」 「それは」 「話を聞かせて」 正気を取り戻しつつあるのか、純子の口調が落ち着いてきた。だが、まだ呂 律が怪しく、舌足らずなところがある。 相羽は身体を離し、少し考えてから話し始めた。 「僕の父は――こんな言い方、堅苦しいな。僕の父さんは、ピアニストを目指 していたんだ」 純子は「うん」とうなずいた。 「結婚する前、ずっと若いときからなんだって。両親の反対にあっても振り切 って、頑張ってお金を貯めて、外国の音楽学校に入った。それが、J音楽院」 「うん」 「十八歳の頃に入学して、順調に進んでいたのが、あるとき、街の喧嘩に巻き 込まれて手を痛めてしまって……ピアニストの夢を断念しなければならなくな った。帰国したあと、母さんに出会って、おかげで立ち直れたんだってさ。そ れから勉強し直して、音楽、特にピアノの先生として生活できるようになった んだけれど、そのあともピアニストになれなかったのが心残りのように言って いた。なれなかったことよりも、中途半端な形であきらめざるを得なかったこ とが、悔やまれてならない。そんな風にね」 今は亡い父のことを話せて、相羽はいくらか晴れ晴れとした心持ちになれた。 「僕にピアノを教えてくれたのは、父さんなんだ。弾き方の他に、楽しさを教 わった。あれが父さんのピアノなんだと思う。僕がピアニストを目指すのは、 父さんの影響がある。父さんが断念した道だからじゃない。ピアノが好きだ。 好きなピアノで、父さんと同じ道を辿ってみたい。その先を知りたい」 「……あなたが決めることだから、やめてなんて私には言えないけれど……」 言いかけた純子だったが、続きは出て来ない。逡巡の瞬きを繰り返し、唇を 固く結ぶ。やがて、まなじりを決したように改めて口を開いた。 「でも、行かないで!」 「純子ちゃん――」 「自分勝手なのは分かってるっ。けれど、あなたもよ! 何も言わずに行くな んて……ひどい」 純子の涙に乾く暇はなかった。 「私の、私達の気持ち、考えて。どうでもいいの?」 「違う。大切だよ。離れたくない」 「嘘。だったら」 台詞が止まる。相羽の手が純子の頬に触れた。 決意した。もうだめだ。これ以上、泣かせられない。 「離れるもんか。行かない」 「……本当に?」 目をこすりながら、それでも一瞬たりとも視線を逸らすまいとする純子。 「本当だよ。信じてくれないの?」 「だって、だって……相羽君、最近、何考えてるのか分かんない」 涙がしずくになって、落ち始める。指を当てて拭ってあげた。何度も何度も。 「――僕は、君が大好きだ。君のそばにいるだけで、嬉しくて、楽しくて、幸 せで……だから、離れない」 言い切った直後の一瞬、「ふられた相手に何を言ってるんだろ?」と、気恥 ずかしさが脳を突き抜ける。しかし、そんなくだらない感情は明け方に見る夢 よりも短い運命で、霧散した。 純子がにじり寄るようにして身を接してきた。肩や足が触れ合う。 「見せて」 「何を?」 「あなたの『大好き』、見せて」 思わぬ懇願に戸惑いが最高潮に達する。 まだ酔いが抜けきっていないんだ。純子の瞳や態度、口調から相羽は悟った。 現にほら、おでこに手を当てると熱っぽい。 それにしても、どうしたらいいんだろう。爪を噛む思いがする。相羽は純子 の前髪をなで上げ、次に何もできないでいた。 純子は相羽の手を払うと、大きく深呼吸をした。細い身体の胸や肩が上下す る。そうして。 「キスして」 「え」 前言撤回。戸惑いは最高潮に達していなかった。今、限度を突破する。 「そして約束して。外国なんか行かないって」 心持ち上を向き、両目を閉じる純子。右手が胸元に添えられ、左手はさらに その右手の上に。かすかに背伸びするような姿勢。 相羽は、かすかに呼吸を乱した。 (酔っている……。キスなんて、そんなこと、できない) 頭の中でブレーキを掛ける。だが、効きが悪い。理性が飛びそう。手の甲で 唇を拭った。唾がたまったような、それでいて喉の渇きを覚える不思議な感覚。 「お願い」 純子がつぶやいた。と同時にふわりと傾き、相羽の胸に身を任せてきた。 「あ」 抱き留めた。シャボン玉をつかまえるよりも優しく、そっと抱き留めた。今、 自分の腕の中では、世界で一番大好きな女の子が待っている。 (涼原純子) 相羽も目を閉じる。そして、純子の――おでこに口づけをした。 どのくらいそうしていたのか、時間は分からない。相羽は長く感じたが、実 際はずっと短かったかもしれない。 やがて純子の額から唇を離し、相羽は何て言おうか迷い、困った。純子を抱 き留めた姿勢が続く。 「約束、守るから。行かないから。君のそばを離れないから」 全身が熱っぽくなるのを感じながら、言葉を絞り出す相羽。だが、声を掛け ても純子からの反応がない。 「純子ちゃん?」 腕を伸ばし、距離を取ると、相羽は純子の顔を覗き込んだ。 目を閉じた純子から、すーすーと寝息が静かに聞こえる。幼子に戻ったみた いに、手を握っている。 「寝ちゃったか……」 ほっとしたような苦笑い。今頃になって、心臓の鼓動が激しくなる。 眠ったのはキスのあとなのか前なのか、相羽には分からなかった。ただ、純 子の寝顔は安心し切った表情に見えた。 * * ――『そばにいるだけで 43』おわり ※参考文献 『ジュリアードの青春』(ジュディス=コーガン/木村博江 訳 新宿書房) 作中のJ音楽院はジュリアード音楽院をモデルとしましたが、細かい点(あ るいは大きな点)において、実際とは異なる設定をしています。よって、別の 音楽学校と受け取ってください。
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