長編 #4906の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
首、のようにも見えた。男は戦慄する。目的の堂は、樹間に見えていた。だが、 まだ遠い。 膿のかたまりだった。じゅくじゅくと汚汁をにじませた無数の瘤。それがひとつ に寄せ集まって、首のようなかたちを形成しているのだ。 ぐじゅぐじゅと膿汁の弾ける音をたてながら、ふわりと浮きあがった。 口らしき部位をいっぱいにひらき、その奥から異様な音声を発する。咆哮かもし れない。 男はふるえあがり、あわてて背を向け、走りだす。 ぼ、お、お、お、お、お、お、お、とうめき声のような咆哮をあげつつ化物は、 宙を滑空して追跡してくる。 三日にわたってくり広げられた逃走劇だ。男の体力はすでに限界に達しかけてい た。それでも、逃げないわけにはいかない。 一度だけ、対峙して攻撃を試みたことがある。 無駄だった。 道ばたの杭を棍棒がわりに、打ちかかったのだ。膿のかたまりはぐじゃりと弾け、 地面に汚らしい汁をまき散らしながら一度は四散した。 が、すぐにぐじゅぐじゅと寄り集まってあっというまにもとの形態をとり戻し、 泣きわめきながら追跡を再開したのだ。 狙いは、男の喉くびにあるらしい。汚物まみれの口を全開にして、執拗にかみつ こうとくりかえす。もっとも、動作がにぶいのでよけるのに苦労はなかった。ただ、 この化物はあくことを知らないのだ。いつまでもいつまでも、どこまでもどこまで も、執拗に男を追いつづけてやまない。 逃げるしかなかったが、それにも限界がある。どこかに隠れて一生を終えるわけ にもいかなかった。 必死の逃走の途中で、逃げる男に声をかけた者がいる。西の森のお堂へいけ、と。 意味はわからなかったが、ほかに当てもなかった。 ふらふらになった足を必死に動かして走りつづけ――ようやくたどりつく。 昏神、暗黒の神と呼ばれる神の堂だった。もともとは漆黒にぬられていただろう 壁や屋根や柱も、いまでは色あせ、ほとんど朽ちかけてすらいる。 つまずきながら堂の階段をよろめき上がり、半分がた崩れかかった扉をくぐった。 うめきともとれぬ異様な音声は遠くからゆっくりと、だが確実に近づいてくる。 「どうしろってんだよ」 泣きごとをつぶやき、男は堂床に崩れ落ちるようにして倒れこんだ。木床は湿っ た感触がした。腐りかけているのだろう。あまり体重をかけると、抜けるかもしれ ない。 それでも、ぴくりとさえ動く気力もわかなかった。 そのまま荒い息をつきつづけた。 声がかけられたのは、その息がようよう整いかけてきたころだ。 「で、何に追われておる」 しわがれた声音にびくりと、男は顔を上げる。 うす汚れた風体の、痩身の老人が、堂奥の暗がりに立て膝で腰をおろしていた。 頭は禿げあがり、そのかわりとでもいいたげに、口もとをみごとな白髭がおおい つくしている。 男はあとずさろうとしたが、体がついていかなかった。右手のさきがぴくりと動 いただけで、ほかはまるで反応がない。 どうとでもなれ、と自棄くそ気味に男はうつぶせからあおむけに姿勢を変え、 「あんた、だれだ」 問うた。 「見てのとおりの老人だよ。おまえさんは?」 「ただの鋳掛け屋だ」 「そのただの鋳掛け屋が、なぜあのような化物に追われておる?」 思わず、上体を起こしていた。 傾いた扉の向こうに、膿のかたまりのあの化物が右に左にゆらめきながら、呪詛 にみちたうめき声をあげて男をねめ上げている。 ひい、とぶざまにわめきざま尻で後方にいざった。 が、奇妙なことに気がついた。 扉の傾きは、首がくぐるに充分なすきまを形成していた。にもかかわらず、化物 は見えない壁に阻まれてでもいるように、一向に堂内に入ってこようとはしないの だ。 「どうなってやがる……?」 「結界をはってあるのさ。このあたりは、物騒な妖物がうろついておるからのう」 「あんた、道士か?」 「まあ、そうだな」 ありがてえ、と男は叫んだ。なぜ西の森のお堂へいけという声がかけられたのか も納得した。 道士とは特殊な修行により妖魔を調伏することのできる、神秘的能力を獲得した 者のことだ。この老人なら確かに、男を窮状から救いだしてくれるかもしれない。 「頼む、あの化物を退治してくれ。金なら払う。持ち合わせはねえが、働いて返す。 だから後生だ。あの化物をどうにかしてくれ」 ふむ、と老人はながくたれた白い顎髭をしごきながら、男と、そして入口でうろ うろする化物とを、ためつすがめつながめやった。 「金などいらんよ。そんなものはなくとも、わしはこうして充分暮らしていける。 まあ助けぬなどというつもりもないが、そもそも、なぜあんなものに狙われておる のかね、おまえさんは」 「わからねえ。よくわからねえんだ」 老人は眉根をよせた。対する男の顔貌にも、負けず劣らずの困惑がありありと浮 かんでいる。 「向こうにある村の広場で、おれはただ店をひらいていただけなんだ。で、頼まれ ものをかたづけるために道具を用意し、いざげんのうをふり上げると、わきの草む らから何かが起きあがったんだ」 そのときの光景を思い出して、男はぞくりと背すじをふるわせた。 がさがさと音をならしながら起きあがったそれは、死体だった。目は腐って落ち かかり、裂けた頬にはウジがたかっていた。無数のハエがぶんぶんと四囲をとびま わる。 ぶきみなことに、死体は眼窩にかろうじておさまった形の片目をぎろりと男に向 け、ぶぢゅぶぢゅと汚泡が弾けるような声音で男に向かってこういったのだ。 「そのげんのうで、おれの頭を打ち砕く気か?」 あまりのできごとに、呆然としたまま男が反応できずにいると、化物はさらにこ ういった。 「そのげんのうで、おれを殺すつもりなんだ。そうなんだな? まちがいない」 ぎろりと目をむき――拍子に、腐って支えを失っているせいか、目玉がぐるりと 裏返った。 「ひどいやつだ、おまえは。なぜそんなことをするんだ。おまえは人間じゃない」 意味不明で理不尽なセリフを、好き勝手にわめき散らしたあげく、死体はにやあ、 と笑った。 そして、大口あけて男の喉くびめがけて、とびかかってきたのだ。 あわてて飛びのきざま、手にしたげんのうを無意識に右に払った。 ばじゃ、と音がした。 ついで、異様な臭気がもうもうとわきあがった。あまりの刺激臭に咳きこみなが ら男はあとずさった。 死体は、熟れすぎて落ちた果実のように、地面に弾けていた。 「なんなんだいったい」 うめきつつ、嫌悪に顔をしかめて男は汚物の山を見つめた。 と、信じられぬことが起こった。 ぶちゅ、ぐじゅと、きくに耐えない異様な音をたてながら、四散した汚物がひと つにより集まりはじめたのだ。 見守る前で汚物はまたたくまにひとつのかたまりへと変じ、唐突にふわりと宙に うきあがった。 それから今日まで三日のあいだ、男は逃げつづけた、というわけだ。 「だから、なぜこいつにおれが狙われてるのか、おれにだってさっぱりわからねえ んだ。げんのうで殺すつもりなのかとか、ぬかしてやがったが、そいつはどう見て も最初っから死体だった。殺すも何もはなっからありゃしねえし、第一そんなこと する理由すらおれにはねえってのによ」 かきくどくように男がうったえるのを、老人はしたり顔でふむふむとうなずきな がらきいていたが、やがてこういった。 「“妄”じゃの」 「もう?」 「“妄魂”ともいうがな。疑心暗鬼にとりつかれたまま死んだ人間の魂から、変じ て生まれる妖物じゃよ。猜疑心のかたまりのような、異常に憶病で、かつ異常に僻 みっぽい人間からしかそのような化物は生まれぬものだが、そんなものに遭遇して しまうとはおまえさん、運がないのう。まあもっとも、最近はひとびとの暮らしも よくなってきたせいか、この手の化物もそう珍しいもの、ともいえぬかもしれんが のう」 「そりゃいったいどういうことだ」 「どういうことも糞も」老人は苦笑した。「要するに、その目の前で背のびをしよ うと手をふりあげただけで、殴りかかろうとしているのだと思いこんでしまうよう な人間が変じた化物があの“妄”よ」 「なんだって?」と男は情けなげに眉をよせる。「じゃ、あの化物はまったくいわ れのないことでおれを恨んでいるってのか」 「そういうことじゃな。死ぬにいたった理由には無理からぬこともあるかもしれん。 もともとが、ちょっとしたことにもいちいちびくびくして、自分に害意が向けられ ているのではないかと大騒ぎしたがるような人間だったわけだからな。周囲の者ど もも疎ましく感じ、迫害のひとつもするだろうさ。その結果、死に至ったのかもし れん。だが、容易に想像がつくとおもうが、こういった人間は状況判断がまるでで きん。周囲がまったく見えておらぬのだから、それも道理じゃろ。従って、そうい う人間から生まれた“妄”も、だれが自分をこんな目にあわせたのか、などという ことはまったく考えない。とりあえず目の前にいた人間に、すべてをかぶせて恨み を晴らそうとするわけじゃ」 ああ、と男は天をあおいで嘆息した。 「で、おれはどうすればいい?」 うむ、それだがな、と老人はふたたび髭をしごき始める。
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