長編 #4680の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
マリィの言葉に少女が悲しげな顔をする。 名前がないこともないのであろうが、少女はそれを伝える術を持たない。 「ルウ!」 閃き、と言うよりは忘れていたはずのものが突然甦って来た、と言ったほうが 正しいだろう。ふいに頭の中に浮かび上がった言葉を、マリィはそのまま口にし た。 自分が思っていたよりも、大きな声になっていたらしい。少女が、そしてデニ スが、身体をびくっと震わせて反応する。 「ルウ、でどうかな?」 少し身を強張らせている少女に、マリィはそう言った。 それからマリィは、少女がきょとんとした表情を固まらせたままで、自分を見 つめていることに気がつく。 「あ、ごめんなさい。ちゃんと言わなきゃ、分かんないよね………あなたの本当 の名前が分かるまで、『ルウ』って呼んでもいいかしら?」 それからマリィは、「ねっ?」とつけ加え、笑顔で小首を傾げて見せた。 固まっていた少女の表情が緩み、マリィに応えるかのように微かな笑みを浮か べる。それからいままでの質問の中でも、一番はっきりと頷いてくれた。 「それじゃ決まりね。あなたは今日からルウよ」 そう言ってマリィは少女、ルウの腕の下をつかむようにして抱き上げる。赤ん 坊よりさらに軽いだろうと思われるルウの身体は、マリィの力でも易々とその視 線の高さまで上げられた。 「………」 声が出ていないので、はっきりとは分からない。しかし確かに少女の薄い唇は、 『ルウ』と発音する形を刻んでいた。 「いいのか? マリィ………」 抱擁し合う二人から、やや距離を置いていたデニスの静かな声。 「えっ?」 振り返ったマリィは、なぜデニスがそんなことを言ったのか、分かっていた。 マリィが忘れようと努めていた名前を、なぜこの少女のために持ち出したのか疑 問だったのだろう。だがそれは、マリィにも言葉で答えることが出来ない。思い 出すことが、身を切られるより辛い名前だったはずなのに。 言葉で返すことが出来ないマリィは、ただ笑顔を見せるしかなかった。けれど その笑顔は、いままでデニスにも見せたことのない、自然なものになっていたと 思う。 「そうか、分かった」 そう答えたデニスも、きっと明確な言葉として理解した訳ではないだろう。た だルウと名付けられた少女に、マリィと同じものを感じたのに違いない。 雑踏を避け、デニスはビルの間の路地へ直接座り込んでいた。そこから通りを 行き交う人々を、ただ見つめる。 あのスラムから、わずか二十分ばかり歩いた街の中心部。そこはまるで別世界 であった。 軍需工場のあったスラムと違い、ここは戦争の直接的被害をほとんど受けてい ない。加えて元から裕福な人々が多く住んでいたこともあって、その復興には目 覚ましいものがあった。デニスのようにスラムに住む、貧しい者にとっては妬ま しいことだった。けれどこの街が裕福であるがため、スラムの人々がそのおこぼ れによって生きて行けるのもまた事実なのだ。 「これだけ、たくさん人間がいるって言うのによ。どうして俺の客になるヤツが いないんだ」 ため息とともに、ついつい愚痴がこぼれてしまう。 傍らに置いていた、商売道具が詰め込まれた鞄を後ろへ回し、それを枕代わり にデニスは横になった。ビルとビルとの間から覗く空は青かった。 時刻はもうそろそろ三時になるだろうか。朝早く、陽が顔を出しきる前からあ ちこちと場所を移し、商売を続けているが、いまだ一人の客も取れないでいた。 デニスの仕事は似顔絵書きを中心に、靴磨き、ドブさらい、煙突掃除………要 するになんでもやる。だがこのご時世、いかに裕福な人々の多い街ではあっても、 皆食べることへ優先的にお金を使う。衣食住に必要不可欠というわけではないも のに関わる仕事は、そうそう人に頼みはしないのだ。まして似顔絵など、よほど お金の余っている酔狂な者でない限り、描いてもらおうなどとは思わないだろう。 実際、デニスが本業として自称する似顔絵描きが、お金になったことはいまだな い。 「この分だと、今日も稼ぎは期待できそうにないなあ」 呟く言葉も、自嘲的になってしまう。 稼ぎがない。 そのことに対し、デニスはいつになく苛立っていた。稼ぎがなく、一週間二週 間を水だけで過ごしたことも幾度と知れずあった。運がよければ飲食店の裏で、 残飯を手に入れられることもある。お金がなくとも、自分一人だけならどうにか 生きて行ける。 しかし今日からは事情が異なる。 ルウがいる。 デニスよりも遥かに稼ぎの見込めるマリィなら、ルウ一人を食べさせるくらい はなんとかなるだろう。けれどデニスにもプライドがある。ルウは自分が拾って きた少女なのだ。それを人の良さにつけ込んで、デニスなど比較にはならない、 辛い仕事をしているマリィの稼ぎをあてにしたくはない。 「くそっ!」 やにわにデニスは身を起こし、自分の手を見つめる。広げた指を曲げて、また 開く。開いてはまた曲げる。 「やるか?」 焦りと疲れで曇っていた目に、眼光が射す。誰かその目を見る者があれば、決 してデニスに近づこうとはしないだろう。 デニスの生まれ育った村は貧しかった。痩せた土地では、大した作物も穫れな い。その上、働き手である父を兵隊にとられたデニスの家では、ある年の凶作を 乗り切ることが出来なかった。だからデニスは売られた。工場の労働力として。 工場がなくなり自由となっても、デニスは村へは帰らなかった。風の噂で父が 戦死したことを知り、母も病死したと聞いた。他に身寄りもなく、帰る理由もな い。 強制労働からは解放されたが、自由と引き替えにそれまで人から与えられてい た食べ物を、自分で得なければならなくなった。しかし戦中、戦後の混乱の中で 13、14歳の少年がまともな方法で、それを手にすることは適わない。 生きていくために、デニスは手を汚した。暴力的な方法は滅多に使わなかった が、置き引き、スリについては一流と自負出来るだけの技術を身につけた。 このまま真面目に商売に励んでいても、収入があるとは思えない。けれどルウ のためには、手ぶらで帰る訳にも行かない。 通りを行き交う人々へ、デニスの鋭い視線が向けられる。そしてそれは、一人 の白い髭を蓄えた老紳士に固定された。着ている服、身につけた装飾品、どれも 決して派手ではないが上質なものであることはデニスにも分かる。商人ではない。 おそらく貴族、しかもかなり位の高い家柄であろう。 「あれなら、金も持っていそうだ」 デニスは鞄を肩に担ぐと、路地を出て大通りを歩き始める。獲物に定めた老紳 士の位置を確認し、しかし直接視線を向けることなく近づいていく。相手もまた、 デニスに気を留める様子もなく、こちらへと近づいて来る。 すれ違いざまの一瞬が勝負である。 相手に気取られてはならない。老紳士に関心を持つ素振りは見せず、それでも 横目で距離を計る。そして。 前から来る別の男性を避けるふりをして、老紳士に軽く肩をぶつける。その瞬 間デニスの手は、老紳士の懐に入れられる………はずだった。 「あっ、すいません」 デニスは軽く会釈をして、そのまま通り過ぎてしまった。 失敗ではない。 老紳士の財布を抜き取ろうとしたとき、デニスの脳裏にマリィの顔が浮かんだ のだ。あのときの言葉とともに。 『悪いことはもうしない。他人に迷惑を掛けるような真似は、もう二度としない。 いい? 約束だよ』 あのときの真剣な眼差しが、いまも自分を見つめているようで手を動かせなか ったのだ。 「くそっ」 人に聞こえぬよう、デニスは小さく吐き捨てる。スリに失敗したことにでなく、 スリを行おうと考えた自分に対して。 『ごめん、悪かったよ………マリィ。金輪際、もうバカなことを考えたりしない。 誓うよ』 心の中で、届くはずのない誓いをマリィに立てる。 「君!」 なにも取らぬままに行き過ぎようとしたデニスへ、背後からの声が掛かった。 振り向くとそこには、先刻まで標的にしていた老紳士が立ち止まって、こちらを 見ている。 「は? な、なにか………」 まさか財布を盗もうとしていたことを悟られてはいまいと思いながらも、後ろ めたさが先に立ち、ついつい萎縮してしまう。 「落とし物だよ」 そう言って差し出された老紳士の手には、一冊の画帳が握られていた。肩をぶ つけた際に落としたのだろう。スリを行うことに意識を遣っていたデニスは、大 切な画帳が落ちたのに気がつかなかったらしい。 「あっ、あ………すいません。ありがとうございます」 デニスは慌てて画帳を受け取る。マリィの言葉さえ思い出していなければ、今 頃財布を盗まれていたであろう老紳士の、優しげな笑顔が眩しかった。 「君は、絵を描くのかね?」 「えっ、はい。似顔絵を描きます。そ、それだけじゃなくて、靴磨き、煙突掃除、 ドブさらい、なんでもやりますが………あ、よろしければお礼に似顔絵を描かせ て下さい」 「あいにく今日は先を急いでいるのでな。また今度にしてもらおう。では」 老紳士は軽く手を挙げ、再び歩き出した。が、数歩でまた立ち止まってデニス を振り返る。 「君はいつも、どこで商売をしているのかね?」 「はい、特に決まってはいませんが。似顔絵ならときどき、セントラル・パーク で」 描いています、とは言わない。まだ実際に似顔絵がお金になったことがないか らだ。 「そうか、ありがとう」 一瞥しただけで、デニスが貧しい者であることは老紳士にも分かっていたはず だ。にも関わらず、他の裕福な人間がするように、デニスを見下した態度を執る ことがない。デニスはそんな老紳士から、財布を盗もうとしていた自分が恥ずか しくなる。 「ん?」 踵を返して歩き出す老紳士の背中を見送りながら、デニスは気がついた。老紳 士に歩調を合わせている三人の男がいることを。考えてみればあの老紳士が貴族 であるなら、警護の二人や三人が着いていても不思議ではない。もしデニスが財 布をスリ取っていたら、即座にあの男たちに捕まっていたのかも知れない。 「ちっ、遅くなっちまった」 陽は沈み掛けていたが、いつもならまだ仕事を終わりにしている時間ではない。 けれどデニスは帰路を急いでいた。 そろそろマリィが商売に出掛ける時間なのだ。その前にアパートへと戻らなけ ればならない。新しい住人、ルウの面倒をマリィから引き継ぎ、夜の間はデニス がみるという約束を守るために。 「へへっ、ちび………じゃない、ルウのヤツ喜ぶかな?」 ポケットの中に手を入れ、一粒のキャンディの存在を確認し、呟く。 今日は午後になって思わぬ仕事にありつくことが出来た。商家の前を通りかか った際、主に声を掛けられたのだ。たいして面倒な仕事でもない。薪代わりに集 めた廃材を、かまどにくべられる大きさにするだけのこと。男手一つあれば、わ ざわざ人に頼まなくてもどうにかなりそうなことであったが、生憎、いやデニス にとっては幸いに、その主は最近足を悪くしたばかりだった。急ぐ仕事でもなか ったが、たまたま通りかかったデニスを見つけ、声を掛けてくれた。 少しばかり量が多かったため、時間を食ってしまったが、その分報酬も高かっ た。仕事を頼んできた主の機嫌も良かったらしい。おかげで予定より帰りは遅く なってしまったけれど、ルーベンの店でツケを綺麗にした上に、たった一粒では あったがルウへの土産にキャンディを買うことも出来た。 「ありゃあ………やっぱ、遅かったか」 暗がりの中、あの戦争の傷跡を痛々しいほどに刻み込んだアパートの前に立ち、 デニスは眉をしかめていた。 陽は既に沈み、黄色の名残ももう消えている。デニスとマリィ、そして昨夜か らはルウの寝床となっている暗色の建物に、人の気配は感じられない。 まさかマリィが小さな少女を残して、仕事に出たとは思えない。明かり一つ灯 されていないところを見ると、ルウも連れていったのだろう。 「ルウと一緒じゃ、仕事にならないだろうが」 言いながら、それも自分の帰りが遅れたからだとデニスは知る。 「仕方ねぇ、ルウを迎えに行くか」 今日のマリィはどこで商売をしているのだろう。あの街角だろうか。思案しな がらデニスは、いま来た道を戻り始めた。
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