長編 #4301の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
「あっ?」 微かに、愛美の胸の中で何かが動いた。 急いで愛美は、胸に抱いた父の手を見る。弱々しく痙攣するような動きだった。 しかしそれでも何かを伝えるかのように、父の手は指先を動かしている。 「お父さん」 愛美は顔を上げて、目を閉じている父の方を見た。 ゆっくりと、父の顔が愛美に向けられる。 ずっと閉じられたままだった瞼を、ゆっくりと開きながら。 震えるように、唇が動いている。 しかし呼吸器が邪魔となり、父の口から声が発せられることはない。 「先生! お父さん、なにか言おうとしている」 愛美は父の口元に耳を寄せる。けれど聞こえてくるのは、管を流れる空気の音 だけだった。愛美は手を伸ばし、父の呼吸器に手を掛けようとした。 「駄目だ! 愛美ちゃん」 医師の手が愛美の腕をつかみ、それを阻止する。 「でも、戸田先生。お父さん、なにか言おうとしてるの。それを聞かないと、私 一生後悔する。お父さんも、安心出来ないの!」 愛美が指さす先では、父が自由にならない右手をもどかしそうに動かしていた。 口もとの管を何とかしたいのだろう。腰のそばに置かれた腕が、何度か浮き上が る。しかしそれを口元に運ぶほど、もう父の力は残されていない。すぐに手は元 の位置、ベッドの上に落ちてしまう。それでも父は、何度も何度も、手を動かそ うとしている。 病院に運ばれてから、いままで昏睡し続けた父。 それがようやく目を開き、手を動かし、唇を震わせ、何かを愛美に伝えようと している。 奇跡を祈り続けた愛美だったが、いま父が見せているものが回復の兆しでない ことは分かっていた。言葉には出さず、考えないようにもしているが、それは父 が最期の力を振り絞ってのことだと気づいていた。だからこそ、聞かなければな らない。父が言おうとしている言葉を。 「先生、お願い」 ほんの一瞬、瞬きをするだけの時間、医師は考えるような仕種を見せたが、す ぐに父の口もとの管へ手を伸ばした。そしてゆっくりと呼吸器を外す。終始無言 のままで。 愛美以上に、父の状態を知っている医師は、その最期に何をしてやるべきか分 かってくれたのだ。 呼吸器が外された父の顔は、直接集中治療室の澱んだ空気にさらされる。 「お父さん、愛美よ。分かる、よね?」 愛美は強く父の手を握り、耳元で囁いた。微かに父の首が頷いた。 「ま、な……み」 空気の漏れて行くような声だった。よく耳を澄ましていなければ、愛美自身の 鼓動にかき消されてしまいそうな、弱々しい声。 「うん、なあに? お父さん」 出るだけ穏やかに、明確な声で話そうとするが、喉につまってしまう。 はっきりと父の顔を目に焼き付けておきたいのに、涙で視界が霞んでしまう。 「す、ま、な……い」 苦しそうな声。 違う。 愛美が聞きたいのは、こんな弱々しい声ではない。 愛美が聞きたいのは、こんな弱気な言葉ではない。 「やだ………なにを謝っているの。お父さんが私に謝ることなんて、なにもない のに。私ね、お母さんがいなくなっても、お父さんがいたから……平気だったん だよ。お父さんがいたから、今日まで生きて来れたの。お父さんと………いられ て、幸せなの。 だから………だから、お父さんが私に謝ることなんて、何もないんだよ」 父が微笑んだように見えた。 「がんばって、お父さん。そうだ………お正月になったら、一緒にお参りに行こ うよ。ほら、お母さんが元気だったとき行った、あの神社に。それから………私、 おせち料理作るから………お母さんみたいに、上手には出来ないけど……一生懸 命、作るから」 愛美は胸の中で、父の手をぎゅうっと抱きしめた。それに応えるように、父の 手が愛美の手を握り返してくる。 「あ、い……し、て、い、た………よ」 愛していた。 いつも愛美に辛く当たっていた父が、初めて口にした言葉。愛美はその一言だ けで、全てが報われた気がした。ただこれが、父の命の灯火が最期のゆらめきを 見せている時でなければ、どれほど良かっただろう。 「いやっ。どうして、過去形で言うの? だめだよ………お父さんがいないと、 私………お願い、だから………私を、独りぼっちにしないで!」 父の手が愛美の胸の中から動こうとしてる。何をしたいのか分からず、愛美は 父の手を抱いていた力を緩めた。手はゆるゆると、愛美の身体を這うようにして 登っていく。そして愛美の頬を優しく撫でる。 父は微笑んでいた。 愛美の気のせいではない。 母の死後、ずっと隠していた笑顔をようやく愛美に見せてくれた。 目にいっぱいの涙を浮かべて。 「し……あ、わ、せ………に…お、な……り」 頬に充てられた父の手から力が抜け、落ちていく。 すうっと瞼が閉じられる。 まるでコマ送りの映像を見るようだった。 「お父………さん?」 愛美の呼びかけに、父はもう応えない。 それまで静かに見守っていた戸田医師が、父の左胸をマッサージを始めている。 モニターの波が、真っ直ぐな線に変わっていた。 「う……そ。嘘だよね、お父さん。ねえ………起きてよ! お父さん………お父 さん!」 叫んでも、返事は返らない。 マッサージをしていた医師の手が止まった。それから腕を取って脈をみたり、 目にペンライトを充てたりしている。愛美には、その医師の行動が酷く事務的に 感じられた。 そして腕時計を見ながら言った。 「19時34分、ご臨終です」 「ごりん、じゅう?」 意味が飲み込めず、愛美は医師の言葉をオウム返しする。 「いやだ………先生、悪い冗談です。お父さんは、疲れて………眠っただけです ……ねえ、そうでしょう? 先生………」 分かっていた。 何が起きたのか、愛美にも。 それでも期待していた。医師が笑いながら、「ごめんよ愛美ちゃん。ちっとし た冗談だよ」と応えてくれるのを。 しかし愛美が期待した応えが返ってくることは、ついになかった。 代わりに、その瞬間を待ちわびてしたかのように、数人の看護婦が隣の部屋か ら現れる。そしてテキパキと、父の身体に繋がれた管を取り外していく。 「止めて! どうして、外してしまうの? それがないと、お父さん………死ん じゃうでしょ。だめ! 外さないで」 手を伸ばして、愛美は看護婦の作業を止めさせようとした。 「西崎さん、ここからは、遺族の方は見ないほうがいいですよ」 看護婦の一人が、愛美を部屋の外に出そうとする。言葉は優しいが、強い力で 愛美を押す。 「やだ、離して下さい。『遺族』って誰のことです? ねえ、看護婦さん」 「十分くらいしたら、また入っていいですからね」 そう言って、看護婦は集中治療室のドアを閉じた。 後ろで誰かが泣いている。 『誰? 誰が泣いているんだろう』 ゆっくり振り返ると、見覚えのある顔が四つ並んでいた。 駿、良太、美璃佳、そしてマリアの四人。 みんな悲しそうな顔をしている。美璃佳は、ぼろぼろと涙を流して、本当に泣 いていた。 どうしてこの人たちが、ここにいるのだろう。愛美は考える。 『ああ、そうか。私の家には電話がないので、藤井さんのところに病院からの電 話があったんだっけ。だから、この人たちも病院に来たんだわ』 それにしたところで、みんなが悲しそうな顔をしている理由が見つからない。 何かあったのだろうか? それが父の死に因るものだとは、愛美には考えつかない。 愛美に気づいた四つの視線が集中する。 どうしてそんな目で、私を見るのだろう? 「愛美ちゃん………」 遠慮がちに、駿が近づいてくる。 「その………いま、どんなことを言っても、なんの慰めにもならないだろうけど ………気を落とさないで………」 気を落とさないで。 どうして? なぜ気を落とすの? 分からない。 おぼつかない足どりで、美璃佳が駆け寄ってきた。その顔は、涙でくしゃくし ゃになっている。 美璃佳が勢い良く抱きついてきたので、愛美はわずかによろめいた。 「ふぁ………ふうっ、あっ、ふぐっ………」 はっきり文字で表現するのが困難な声を出し、美璃佳が泣いている。 いったいみんな、何があったと言うのだろう。 ぽとり。 その時、愛美は自分の頬から雫が落ちるを感じた。 「あれっ?」 目元を指でなぞる。熱く濡れた感触が伝わる。 『私も、泣いている?』 ああ、そうか。 愛美は思い出した。 父が死んだということを。 なぜだかすっかり忘れていた。ほんの数分前のことだと言うのに。 だから駿たちは、悲しそうな顔をしていたのか。 けれどどうして、駿たちが悲しむのだろう。自分たちとは、全く無関係の人間 の死に。 まさか駿たちは、どこかで人が死ぬ度に悲しんでいる訳でも在るまいに。 そして、当の愛美自身がそれほど悲しく思っていないのは、なぜだろう。父の 死後数分までは、あんなに悲しかったのに。集中治療室の外に出されてから、ま るで心の一部をえぐり取られてしまったかのように、「悲しみ」の感情が消えて しまった。 そんな自分が、そして駿たちが滑稽に思えた。口元が動くのを感じた。笑って いるのだ。愛美はその口元に、笑みを浮かべているのだ。 「愛美お姉ちゃん?」 そんな愛美を、怪訝に思ったのだろう。良太が不安そうな目で見つめている。 「何だか暑いわ」 そう言って、愛美は抱きついていた美璃佳の身体を、そっと押し戻した。 「少し、風にあたってきます」 愛美は、よろよろと歩き出した。 愛美が立ち去っても、美璃佳は泣き止むことがなかった。 それどころか一層激しさを増し、わんわんと声を上げて泣き出す。 駿は涙を拭いてやるためハンカチを出そうとするが、あいにく忘れてきたらし い。どのポケットを探しても見当たらない。そうしているうちに、マリアの方が 先にハンカチを出して美璃佳の顔を拭いていた。 「ほらほら、美璃佳ちゃん。泣かなくていいのよ」 「だって………まな、み……おね、ちゃん…かわ……そ、だよ」 感性が豊かなのか、優しすぎるのか、美璃佳は愛美の不幸を自分のことのよう に感じてしまっている。悪いことではないがこれから先の生活を思うと、その優 しさが美璃佳自身を辛くしてしまうのではないかと不安だった。 「心配しなくてだいじょうぶだよ、美璃佳ちゃん。愛美ちゃんの顔を見たろ? そんなに辛そうじゃなかった………すぐに元気になるよ」 「駿、それは違うよ」 美璃佳を胸に抱き上げ、マリアが言った。 「大好きなお父さんが、死んじゃったんだもん。愛美ちゃんはとっても辛いの。 辛すぎて悲しい顔が出来なくなっちゃったんだよ」 駿はまた、マリアのもう一つの表情を見た。 いつもの無邪気なマリアからは想像のつかない、大人びた顔。神々しいとさえ 思える。 「だけど………」 愛美の父親は、まともに仕事もせず愛美がアルバイトして稼いだお金を、酒や ギャンブルに使っていた。愛美を怒鳴りつける声を、駿も何度か耳にしている。 そんな父親が死んで、それほど悲しいものだろうか。 そう思った駿だったが、良太や美璃佳の手前、口には出せず言葉を飲み込んだ。 「ううん」 駿の言おうとしたことを察したのか、マリアは首を振って否定する。 「愛美ちゃんのお父さん、優しい人だったよ。迷子になった、美璃佳ちゃんによ くしてくれたもん。だから美璃佳ちゃんも、こんなに悲しんでるんだもんね。 お父さんが愛美ちゃんに優しくしなかったのは、訳があるんだよ。本当はお父 さんも、愛美ちゃんのことが大好きだったのに」
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