長編 #4076の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
ノックの音がした。 ゆっくりと。きっぱりと。三度。 彼女のノックだ。 ぼくはもうろうとした頭をふりながら立ちあがる。うす闇のなかを寝ぼけまなこ で移動しながら――かすかな違和感。 扉のノブに手をかける。重い扉。毛足のながいじゅうたん。そう。ここはぼくの 部屋じゃない。ホテルの一室。ぼくはここで……。 ひらいた扉のむこうに思考は中断される。 微灯がならぶ無機質な廊下。いくつものドア。彼女の姿はない。ぼくはぼうぜん とそこに立ちつくす。彼女の姿はない。とうぜんだろう。彼女はもう、この世には 存在しないのだから。 酔いの底におしこめられていた非現実感がふたたびぼくの頭蓋内部に重く膨張す る。 存在しない。彼女はもう。この世のどこにも。 ノックの音。無気力に占拠された重く浅い眠りからぼくをひきずりあげたあのノ ックの音は、彼女の呼びかけではなかったのか。ただの夢の残滓にすぎなかったの か。 ぼくはなおも、静寂のあふれかえった、だれひとり存在しないうすぐらい廊下に、 ぼうぜんとした視線をさまよわせたままながいあいだ、ただたたずんでいた。 やがて、足をひきずりながら扉の前をはなれてせまい無機質な室内へととってか えし、さっきまでつっぷしていたソファ前のサイドテーブル上に乱雑にならぶグラ スとボトルに視線を投げる。 酒精はひどくきいたが、すべてを忘れ去るにはあまりにも非力だった。しらじら しい感覚ばかりがにぶく脳裏に増殖し、やりきれなさがもうろうとクローズアップ されて眠りのなかにまで侵入し、悪夢となってぼくの思考を占拠していた。 力なく、ぼくはベッドに身を投げだし、蒼白い天井に視線をさまよわせる。 いすわりつづける非現実感。 なぜ彼女は帰ってこなかったのだろう。二年半前、政情不安なエルサレムからは 元気に帰ってきたのに。この平和な日本の、それも多少は辺鄙だがなんの変哲もな い静かな山あいで。 おさえこんでいた狂おしいかなしみが、また胸の奥底から溶岩のようにあふれか える。ぼくはひとり、胸を抱えこんでからだをまるめ、かすかにうめきながら夜の 底でふるえる。 くりかえしくりかえし、波のようにおとずれてはきりきりと胸をしめつけるこの 耐えがたい苦痛。これは幸福なときにひとにおとずれる、切ないまでのあの感覚と おなじ種類のものなのか。この痛みの強さはかつての幸福の量に比例するのか。あ れほどしあわせだったことが、ぼくのこの苦痛の伏線にしかすぎなかったというこ となのか。 かすかにうめくこと。それだけしかできずにぼくは、深夜のホテルの一室でひと り、すがるものもないまま静かに、深く、苦しみつづける。 ハイキングに毛のはえたようなものだったはずだ。ひとりで彼女が出かけたのも いつものことだったし、無事に帰ってこない可能性など毛ほどもうかびはしなかっ た。 二年半前。そうだ。あのときの不安にくらべれば。 ふたつの宗教の不安定な蜜月がやぶれて暗い明日が垣間みえはじめた世界の聖地 を、たよれる相手もなくただひとりでたくましくへめぐっていた彼女が、これほど 平和な国でこれほどあっけなく死んでしまう……非現実感。 両肩を抱いてからだをふるわせながら、ぼくはここでなにをしているのだろうと 異様な疑問がうかぶ。心不全。まるで意味のない言葉。二十五年間彼女の命を不断 にささえつづけてきた器官の、とつぜんの、あっけない反逆と終局。 「かならず帰ってくるから」 エルサレムにたつちょうど一週間前、彼女はぼくにそう約束した。あのころはま だ出会ったばかり、むすばれたばかりでぼくたちはおたがいの心をまさぐりながら、 静かに、ゆっくりと、新しい明日を手さぐりはじめたばかりだった。 世界を三分する二大宗教のせめぎあう聖地へのあこがれを彼女が熱っぽく語って いたのは、ぼくたちがつきあいはじめるずっと以前からのことだったし、ちょうど ステップアップのための転職をひかえてまとまった時間をとることができる、おそ らくは彼女にとっての最後のチャンスだったこともたしかだ。 ぼくはといえば、とうぜんのごとく二週間もの休暇をとることなど不可能と同義 語。ぶっそうなテロルの潜在する国に彼女をひとりでやることなど、もちろん反対 にはちがいなかったが、それでもとめることができなかったのは、彼女がほんとう にかの地をおとずれることを熱望していたのを狂おしいほどよく知っていたからに ほかならない。 それでなくとも、仕事からなかなか解放されることのないぼくをあっさりとおき ざりにして彼女はよく、ひとりで山歩きにでかけてもいた。だからぼくがいくらと めてもたいした抑止力にはならなかったのかもしれない。 「かならず帰ってくるから」 そうぼくの胸にささやいた彼女に、ぼくはぶっきらぼうにこたえたものだった。 「いってほしくない。きみがどう約束しようと、どうしようもない事態だってある じゃないか」 すると彼女は笑いながら、そんなことは日本でふつうに暮らしていても起こり得 ることでしょ、と軽くあしらい、そしていったのだ。 「じゃあ、もしむこうで死んじゃったら、幽霊になって帰ってきてあげる」 ベッドサイドの微灯にてらされて、ぼくの顔が一瞬ゆがんだのを見のがさなかっ たのだろう。彼女はからかうように笑いながらぼくの肩を幾度もたたいた。 怪談話にぼくが極端によわいことを思い出したからだろう。 「わかった。じゃあ、死んで幽霊になっても、あなたの前には姿はあらわさないわ。 そのかわり……そうねえ。エルサレムの花を一輪、あなたの部屋にとどけてあげる。 それがわたしが帰った証ね。あなたがいつも書きものをしてるあの机の上に、おい ておくわ。これなら、化けて出なくてもちゃんと約束どおり帰ってきたってわかる でしょ?」 「生きて帰ってきてくれよ」 しかたなしにぼくはそういって、また彼女の笑いをさそったのだった。 約束ははたされ、彼女は病気にかかることもなく元気に帰ってきた。 それから二年半。波風がなかったわけでもないけれど、おおかたは幸福な日々が 奇跡のようにつづいた。 そして――森の奥に隠された泉のように変化にとぼしい、だが静かでやすらぎに みちたながい明日が、このままずっとつづいていくんじゃないだろうか――そんな ばかげた錯覚すらがぼくの脳裏にいすわりはじめた矢先の、とつぜんの死のしらせ。 この三年で――否、この五年間ではじめて、ぼくはすべての仕事を投げうって強 引に長期休暇をもぎとり、彼女がたおれていたという山間の遊歩道へとおとずれた。 ふりそそぐ夏の陽ざしが地をまだらに染め、四囲には無数の緑と蝉の声がみちあ ふれた、なんの変哲もないハイキング・コースだった。すれちがうひとびとはだれ もがほがらかな微笑をうかべて汗をぬぐいつつ、やけにはっきりとした口調で「こ んにちは」と呼びかけてきた。ぼくには無縁の世界だった。 こんなことになるのなら、ぼくも多少むりをしてでも彼女について山を歩いてい ればよかったかもしれない。そうしていたなら、彼女の変調にもいちはやく気づく こともできただろうし、もしかしたら一命をとりとめることも……。 暑熱とともに平安をそそぎつづける夏の陽光をあびて汗をだらだらと流しながら ぼくは、そんな愚にもつかない思考のループをくりかえし反芻していた。 彼女がたおれていた場所まで案内してくれた地元の青年団のおじさんは、所在な げに、ぼくのかたわらにたたずんでいるだけだった。 下うつむき、ぼうぜんとした視線をさまよわせていたぼくの視界に、そのとき、 奇妙にあざやかな色がとびこんできたのをおぼえている。 四囲の緑に反逆するようにやけに明るい浅黄色の群落。 まぼろしのような光景だった。 彼女もまた、あの光景を目にしたのだろうか。それとも、そんなことには気づく まもないまま、ひとり静かに、すみやかに息をひきとっていったのだろうか。
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