長編 #4032の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
潮の匂い 叙 朱 3 午後の柿山のクルーは、軽い陸トレ(陸上トレーニング)の後、河口でのタイ ムトライを繰り返した。2000メートルという正確な距離ではないが、河口の 堤防の切れ目から対岸の米海軍施設のゲートあたりまで、実際のレースを想定し て時間を計測しながら漕ぐのである。 S高校漕艇部ではスタートのやり方をこの合宿から変えた。エイト出身のコー チの提案で、スタートの100メートル位をハーフストローク・ダブルピッチ (半分の漕ぎ長さで倍速)で漕ぐのだ。こうすれば、スタート時の加速が効率的 にできるはずだ、というコーチの考えだった。いわゆるスタートダッシュをやろ うというわけだ。 このスタート方法では、通常以上に整調のピッチの正確性が要求された。当た り前だが、いくら倍速で漕いでも、漕ぎ手のタイミングがずれたら何にもならな い。効率的なスタートのはずが、惨憺たることになる。スタートダッシュの鍵は 正確な整調のピッチにかかっていた。 ところが午後の柿山クルーのタイムトライははかばかしくなかった。3回トラ イしたが、どうにもタイムがあがらない。原因ははっきりしていた。青鹿のピッ チが微妙に狂っているのだ。スタートでもラストスパートでもピッチを上げよう とすると、あの機械のように正確なはずの青鹿のパドルのピッチが狂っていた。 青鹿は自分でもそれに気づいているようで、しきりに頭を振っている。まるで悪 い夢でも見ているのかのように、かなり強く頭を振っているときもある。 「アオ(青鹿)、どうしたんだ」 4回目のタイムトライに入る前に、たまりかねて柿山は声をかけた。艇はライ トパドルで仮想スタートラインの堤防へ戻るところだった。名指しされた細身の 整調は苦笑いをした。 「分かっている、けど、どうにもだめなんだな」 青鹿は小さくつぶやいた。オールが海面を叩く音にまぎれて、柿山は聞き取れ ない。 じっと青鹿の表情を窺っている。青鹿には原因は分かっていた。昼飯のときも、 いや、昼前からずっと頭にこびりついて離れないものがあった。まるで、太陽の 直射を網膜に受けたように、目に焼き付いて離れないもの。暗やみの中に浮かび 上がる白いもの。柔らかな丸みを帯びた裸身。そして、背後からかけられた「待 って」というか細い声の余韻。それらすべてが幻のようでありながら、執拗に青 鹿の脳裏から離れなかった。 青鹿は突然立ち上がった。 「危ない!」 大きく艇が揺れる。喫水線が高いうえに重心の不安定なナックルフォア艇は、 青鹿が立ち上がっただけでバランスを失なった。 「イージーオール(漕ぎかた止め)。おいどうした」 柿山は艇を必死で操りながら、青鹿を見上げる。2番の篠崎もあっけにとられ ている。艇は青鹿が立ち上がった不安定な状態のまま、転覆は免れて何とか海面 に静止した。青鹿は「S高校」マークのTシャツを脱ぎ捨てた。そしてそのまま、 青い海へと飛び込んだ。柿山が止める間もない。反動で艇がまた大きく揺れた。 「おいおい、どういうつもりなんだ」 篠崎が笑いながら柿山を見た。一体、青鹿は何をしようとしているのか。海面 に頭を出した青鹿は、クロールで泳ぎ出している。海岸や河口には向かっていな かった。岬に沿うように、沖を目指していた。 「3番とバウでライトパドル用意」 柿山は解せない気分のまま、青鹿を追いかけることにした。篠崎が青鹿のオー ルを引き上げ、そして自分のオールは膝の上に置いた。3番とバウの二人が、柿 山の指示で前掲姿勢をとる。 青鹿の立てる水しぶきは、そのうちにどんどん艇から遠ざかっていくばかりだ。 「ロウ(漕げ)」 柿山の合図で、ナックルフォア艇もゆっくりしたピッチで追いかける。午後に なり、微風が出てきたようだった。細かいさざ波の立つ海面を切り分けるように してナックルフォア艇は進んでいった。その前方には、小さな水しぶきを立てな がら泳ぐ青鹿。 柿山はあえて、青鹿に追い付こうとはしなかった。午後の青鹿の様子はおかし かった。あれほどの正確さを誇っていたピッチが狂っていた。それは青鹿の体調 か精神的なものか、柿山には想像する由もない。ただ、いきなり海に飛び込んだ 青鹿の行為には、そんな自分をなんとかしたいという意図もあるような気がした。 しばらく気が済むまで、やらせよう。舳先の前方に見える小さな水しぶきを見な がら、柿山はそう思った。 「青の奴、また、あの小島に行くつもりのようだな」 体をねじらせて、艇の行方を見ていた篠崎が振り返って柿山にそう言った。艇 の前方には確かに昼前に立ち寄った小島が見えていた。岬に沿って泳ぐ青鹿は、 真っすぐに小島を目指しているようでもあった。 小島? 柿山は首をひねった。小島に一体何があるというのだ。 4 小島の岩に取り付いた青鹿は、簡単に岩を登り、向こう側の砂地に飛び下りた。 砂地は湿っていた。潮が満ち始めているのかも知れない。裸足の足の裏に、湿っ た砂がまとわりつく。青鹿は真っすぐに洞穴に向かった。しかし、青鹿が洞穴の 入り口に立つ前に、頭上から呼び止められた。 「やっぱり来たね」 見上げると、岩山の頂から麦藁帽子を被った丸い顔がのぞいている。ちょうど 太陽の逆光になっていて、顔はよく分からない。が、それが昼前の若い娘である ことは間違いがなかった。 「すぐに行くから少し待って」 麦藁帽子はそう言うと、岩山にひっこんだ。青鹿は洞穴の入り口に立って、中 を透かしてみた。誰もいないようだ。中へと進む。洞穴の中はひんやりとして静 かだった。湧き水らしい甘い匂いがする。入り口は狭いが、洞穴の中は意外と広 かった。しかも湧き水の向こうに、洞穴はまだ続いているように見える。 奥の暗がりから、麦藁帽子が揺れながら現れた。駆けてきたらしい。白っぽい ワンピースが暗やみの中に浮き上がっている。一瞬青鹿は、昼前に見たと思った 娘の裸身は、この白いワンピースだったのかもしれないと思った。 「ここを知ってる人は少ないの」 娘は麦藁帽子を取りながら、そう言った。麦藁帽子の下の顔には見覚えがあっ た。それは、昼前、驚いて立ち上がった白い裸身の娘だった。青鹿の脳裏で白い ワンピースと柔らかな裸身とがオーバーラップした。急に胸が高鳴ってくる。喉 も乾いていた。何かを言わねば、と青鹿は焦ったが、言葉が見つからない。黙っ たまま、娘の唇が動くのを見つめていた。 「S高校のボート部でしょ。ここから、ずっと練習を見ていたのだけれども、誰 も気づいてくれなかったね」 一度湧き水の脇で立ち止まった娘は、喋りながらまたゆっくりと青鹿のほうへ 近づいてきた。青鹿は黙って立っていた。自分が一体何をしにここに来たのか、 とっさに分からなくなっていた。来なければ、という強い思いがあったのだ。ど うにもならない胸のもやもやがあったのだ。しかし、今こうして洞穴の中で、娘 と相対している青鹿には、何をすればよいのか、いや、何がしたいのかが分から なくなっていた。ただ黙って近づいてくる娘を見ていた。胸が鼓動を打つ。鼓動 は耳のすぐ近くにまで聞こえた。 若い娘は青鹿のすぐ目の前まで来て止まると、にこりと笑った。短く不揃いに 切った前髪の下には、ふっくらとした人懐こい笑顔がある。丸顔に見えたのは、 麦藁帽子のせいのようだ。青鹿が突っ立ったまま何も言わないので、娘のほうが ぽつりとつぶやいた。 「やっと来てくれた。うれしい」 娘の声はか細かった。そして青鹿は娘の言葉の意味を測りかねた。ただ、青鹿 は歓迎されているようだった。 いつの間にか、娘の息遣いが感じられるような近さに青鹿は立っていた。駆け てきた余韻が娘の肩をまだゆっくりと上下させ、胸を膨らませていた。青鹿は息 苦しくなった。息苦しさから逃れるためにも何か言わねば、と思った。喉が乾い ていた。 「湧き水があるというから...」 やっと絞り出した青鹿の声は自分でも意外なくらい低かった。そうだ、自分は 水を飲みにきたのだ。青鹿はそう思い込もうとした。そうでもしなければ、自分 を失いそうな位気持ちが高ぶっていた。娘の笑顔がいっそう鮮やかになった。 「ああ、だから呼び止めたのに。さっさと逃げてしまうんだもん。さ、どうぞ、 ゆっくり飲んでいっていいよ」 娘は体をずらして、湧き水への道を開けた。向こうに湧き水が黒く光っている。 息苦しさの原因はこの屈託のない娘だった。いや、娘の白いワンピースが連想さ せるあの妖しい裸像。あの柔らかい体が、このワンピースの下に隠れているのか と思うだけで、青鹿を突き上げるものがあった。。 今、白いワンピースが少し動いて、青鹿は軽くため息をついた。湧き水に向か って急ぎ足に歩き出す。娘の脇を擦り抜けた。 「ああ、良い匂い」 通り過ぎる青鹿に娘が話しかけた。匂い? 青鹿は怪訝に思いながら、しかし 歩を緩めずに湧き水のところまで進んだ。 「きみは潮の匂いがする」 娘が楽しそうにそう言った。青鹿はかがみこんで湧き水を素手ですくった。冷 たい。外の暑さからは想像できないくらいに湧き水は、冷たかった。そのまま、 ごくりと飲み込む。冷たい湧き水が喉を滑りおち、熱くなった青鹿の体と気持ち を、すうっと冷ましてゆくようだった。立て続けに3杯飲んで、青鹿はやっと人 ごごちがついた。 青鹿はゆっくり振り返った。娘は相変わらず可愛らしい笑顔のままで立ってい た。 5 柿山が静止したナックルフォア艇の上で、いらいらし始めた頃にようやく、青 鹿が小島の岩の上に姿を見せた。篠崎も青鹿を認めて、やれやれという顔になっ た。 「おーい、アオ。もうそろそろ上がり(終わり)だぞ」 柿山は大声を出した。コックス特有のがらがら声だった。青鹿は柿山の声に手 を上げて答えると、岩の上から直接海へと飛び込んだ。水しぶきが大きく跳ねる。 青鹿は猛烈な勢いで艇に向かって泳ぎ始めた。 おや? 柿山は青鹿が飛び込んだばかりの岩の上に白い服を認めた。麦藁帽子 を被り、艇に向かって大きく手を振っている。 「おい、あれを見ろ」 柿山に言われて、篠崎も小島を見た。 「おやおや、女か」 篠崎の言う通り、麦藁帽子は若い女のようだった。柿山は泳ぎよる青鹿と手を 振る白い服を見比べて、思わず唸ってしまった。青鹿の乱調の原因が女だったと は、柿山には俄かに理解できなかった。クルー仲間で、女の話はよく出た。しか し、そんな話には一番興味がなさそうな顔をしていたのが青鹿だった。それだけ に、柿山の驚きは大きかった。今夜はこの話で持ちきりになりそうだ。 「こりゃあ、今夜の晩飯のおかずだな」 柿山の思いを見透かしたかのように、篠崎が大きな声を出した。 (以下、つづく)
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