長編 #3901の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
7 次の朝、田上紀子の机の上は、端から端まで太いマーカーでぎっしりと落書き されていた。 『死ね、カンニング女!』 『ヒキョウものは帰れ』 『バカアホクソデブ』 紀子は一目見て立ちすくんだ。じわりと涙がにじむ。 すでに教室中に知れ渡っているらしく、全てのクラスメイトが、紀子の方を見 ながら、何かひそひそと話したり、くすくす笑ったりしていた。中には、露骨に 軽蔑の視線を投げる生徒もいた。落書きの指揮を取ったにちがいない美奈代は、 狼狽する紀子の顔を見て、楽しそうに微笑んでいた。 反射的に教室を飛び出して行きそうになったが、ぐっとこらえて自分の席に座 ろうとして、椅子の上に光る物を発見した。画鋲が数個置かれていた。 机の中に手を入れると、ゴミや汚れた雑巾が突っ込んである。 ちらりと周囲を見回すと、昨日まで仲の良かった女子生徒たちが、すっと視線 をそらした。机に対する被害よりも、そちらの方が胸を突き刺した。 朝のホームルームが始まるまで、十分ほど残っている。紀子はまず、机の中の ゴミをゴミ箱に落とすと、雑巾を取って机の上をごしごし磨き始めた。幸い、マ ーカーは水性だったので、少しこすると簡単に消えた。 もちろん誰も手伝おうとしなかった。 教室に入った由希は、すぐにいつもとは異なる空気を感じ取った。部外者であ っても感じ取ることができただろう。生徒たちの表情や視線に、明らかな変化が 見られる。 出席を取りながら、それが何に由来しているのかを探った。返事をする生徒の 顔を観察するだけで、ある程度のことがわかった。 生徒たちは由希に何かを隠していた。 これは珍しいことではない。というよりも、何でもかんでも教師に打ち明ける ような素直な高校生が、今どき存在するはずはないのだ。彼らにとって、親や教 師は、ある共通項でくくることができる存在にすぎない。それは単純に「大人」 であったり、ときには「敵」であったりするが、要するに「ぼくの(あたしの) ことなんか分かってくれない」人種のことだ。由希はかなり生徒たちに信頼され てはいるが、彼らの仲間になれたと考えるほど、うぬぼれてはいなかった。 従って、一人や二人が隠し事をしているのなら、由希は少しも奇妙に感じたり しなかっただろう。 だが、クラス全員が何かを隠しているとは。 なおも観察を続けると、ある生徒はそれを誇らしげに感じているが、別の生徒 は後ろめたく思っているらしいことがわかった。前者と後者の比率は、およそ七 対三。そして、前者の生徒たちの視線の先は、ほぼ二カ所に別れていた。藤澤美 奈代と田上紀子である。 「田上紀子さん」 「はい」 紀子は消え入りそうな声で返事をした。その顔を見た由希は、心の中で驚きの 声をあげた。紀子は今にも泣き出すのをこらえているような表情で、半ばうつむ いていた。いつもは、まっすぐ顔を上げて由希を見ていたのに。 それが無意識に助けを求めるサインであることを、由希はたちどころに悟った。 だが、由希は何も言わずに出席を続けた。 「藤澤美奈代さん」 「はーい!」 美奈代の方は、いつもと全く変わらず元気に返事をした。これも、おかしいと いえばおかしかった。昨日、返却したテストがあれほど悪ければ、多少後ろめた くなっても不思議ではない。 「さて。今日は特に連絡事項はありません。みんなテストが終わってほっとして るかも知れないけど、気を抜かないようにね。成績の総合順位は、あさってぐら いに掲示される予定よ。それから、テスト中にもかかわらず、先生にお手紙くれ た人がいたけど、勉強そっちのけで手紙を書くのは感心しないわね。手紙自体は なかなか力作だったんだけど、先生は現代文の教師じゃないから……」 時間潰しにどうでもいいことを話しながら、由希は自分の気付いたことを、生 徒たちに問い質すべきかどうか少し迷った。だが、今、不意に「何があったの、 あなたたち」と訊けば、得られる答えは真実か、その場しのぎの嘘のどちらかに なるだろう。生徒たちを嘘をつかざるを得ない状況に追い込むことはしたくなか った。完璧なシナリオができているならばともかく、中途半端な嘘であれば、由 希は矛盾点を追求しなければならない。追求しなければ、由希の教師としての力 量が取るに足らないものだと思われ、次の嘘をつくのが平気になってしまうだろ う。かといって、厳しく追及すれば、当事者は由希を恨むことになる。子供でも 大人でも、うそつきと呼ばれて嬉しがる人間はあまりいないだろうから。 「それではホームルームを終わります」由希は考えをまとめられないまま、立ち 上がった。「勉強がんばってね、みんな」 由希はいつも、「起立、礼」は省略することにしている。そのまま教室の外に 出ると、後ろから美奈代が呼びかけた。 「由希先生」 「どうしたの藤澤さん」 「先生、世界史のテスト、悪かったこと怒ってない?」美奈代は小声で訊いた。 「怒ってるわけないじゃない。誰だって、調子の悪いときはあるしね。それに、 藤澤さん、もともと世界史は苦手だったんでしょ」 「ほんと!よかったあ」美奈代は大げさに両手を組み合わせた。「次は絶対にが んばるからね!田上なんかに負けないから」 「え?」 由希は訊き返したが、そのときチャイムが鳴り始めた。美奈代は教室に飛び込 んでいってしまった。 藤澤美奈代と田上紀子。テスト前に、美奈代は数を頼んで、何やら紀子を責め 立てていた。その件がうやむやになっていたことを、由希は思い出した。ぜひと も、二人から話を訊かなければならない。 その夜、由希は美奈代と紀子のことを考えながら、いつものように届いた手紙 に目を通していた。 生徒からの手紙は、一時に比べてぐっと数が減ったものの、毎日数通は必ず届 いていた。今では、大体常連が決まっていて、中には日記代わりに書いている生 徒もいる。毎日では切手代もばかにならないので、由希は廊下の端に小さなポス トを設置して、そこに投函しておくように指示した。返事の方は、由希が朝早く 学校に来て、各自の机の中に入れておく。 一つの封筒の裏を見た由希は、軽く眉をひそめた。差出人の名前がない。 差出人の住所氏名がない手紙は読まないで捨てる、と宣言したものの、そのよ うな手紙でも一応目だけは通していた。由希は封を切った。 中に入っていたのは、ワープロで印字された横書きの手紙だった。 由希先生へ。 中間の世界史のテストで不正が行われたと信ずべき理由があります。 それが誰かはここには書きませんが、先生のクラスの女子です。 でも、ご安心下さい。二度とこのようなことは起こらないでしょう。 手は打ちました。 署名はなかったが、「藤澤美奈代」であっても不思議ではないような気がした。 「一体、どんな手を打ったのよ……」由希はつぶやいたが、それもだいたい想像 がついた。 放課後にでも、何とかすべきだった、と由希は悔やんだ。美奈代か紀子のどち らか一人とこっそり話をするべきだったのだ。だが、あいにく、今日の放課後は 定例の職員会議があって、明日に延期せざるを得なかった。 衝動的に電話を取り上げた。生徒名簿をめくり、三年二組のページを開いたと ころで、由希は手を止めて時計を見た。 午後十時近い。 こんな時間に電話がかけられたら、たとえ相手が担任であっても不審に思わな い親はいないだろう。生徒個人の部屋に電話がひかれていたとしても、名簿には 載っていない。 それに電話はしょせん音声だけの情報でしかない。相手の目をまっすぐ見るこ とで得られる情報量とは比べ物にならない。中途半端に探りを入れるのは百害あ って一利なしである。口裏を会わせる時間を稼がせ、巧妙な嘘を練り上げる余裕 を与えることになる。真実を突き止めるのならば、一撃で相手を直撃しなければ ならない。 由希は電話を戻した。視線が本棚の一角を占める書籍類に走った。 いじめ関係の白書や報告書や研究文献だ。 「明日ね」由希はつぶやいた。「手遅れでなければいいけど」 次の日、焦る心を抑えて、いつも通り平静な顔で教室に入った由希は、田上紀 子の席に誰も座っていないのを見て、一瞬で心が凍りついた。 紀子の机の上に、合成木材のベージュ色とは別の色が見えた。教室の隅にいつ も置いてある水性マーカーによるものらしい。 おそらく誰かが落書きをして、紀子が登校してくるのを待っていたのだろう。 だが、紀子は現れず、書いた生徒は慌てて消さざるを得なかった。その努力はほ とんど成功していた。机の上に残るマーカーは、何かの拍子についた、と言われ れば納得せざるをえないぐらいには消えていたからだ。 由希はいつもの通り出席を取った。紀子の名前は、あらかじめ分かっていたか のように飛ばした。 「以上と。田上さんは、体調を崩してお休みです。今日の当番は山口くんだった わね。各授業で配布されたプリントがあったら、田上さんの分ももらっておいて ね。六時限目が終わったら、先生のところに持ってきて」 「はい」 「特に連絡事項はありません。先生、ちょっと授業の用意があるから、今日はこ こまで。一限が始まるまで五分残ってるけど、隣のクラスはまだホームルーム中 だから、静かに自習してること。いいわね」 何とか早口にならないように告げると、由希は教室を出た。ゆっくりと歩いて 二組から遠ざかり、階段まで来ると全力で職員室に向かって駆け下りた。 「三年二組の田上紀子……」初老の事務職員は首を横に振った。「いえ、連絡は 入ってませんよ、先生」 「そうですか。ありがとう」 「橋本先生、どうかしましたか?」数学の男性教師が訊いてきたが、由希は内心 の動揺を覆い隠して微笑んでみせた。 「いえ、うちのクラスの生徒が休んでいるのですが、連絡が入っていないので。 私から自宅の方にかけてみます」 由希は男性教師に背を向けて、受話器を取り上げると名簿を見ながら番号を押 した。 男性教師は心配そうな顔で由希を見守っている。もちろん、この男の関心が、 自分の担当でもない生徒などではなく、由希のブラウスの中身にあることはわか っていた。 由希が押したのは、自分の部屋の番号だった。留守番電話が応答すると、由希 は話しはじめた。 「おはようございます。田上さんのお宅でしょうか?私、星南高等学校で、紀子 さんの担任をしております橋本と申します……いえ、いえ、こちらこそ、至らぬ ばかりで。実は、紀子さんの欠席の連絡をまだ受けていないので、お電話した次 第なのですが……はい……はい……まあ、それはいけませんね。わかりました。 テストも終わったことですし、今日一日ゆっくりと休息させてあげてください… …ええ、大事なプリント類はお届けしますので……はい。はい。それではお大事 に。ごめんくださいませ」 由希は受話器を戻すと、事務職員と男性教師に向かってにっこり笑った。 「軽い風邪だそうですわ。熱が38度あるので、これから病院に行くそうです。 連絡するのをすっかり忘れていたみたいですね」 「ああ、そうですか。受験生は何かと大変ですね」 「本当に。私、授業の準備がありますので」 由希は足早にその場を離れた。
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