長編 #3742の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
岡田は時間が夜7時になるのを待って、タイのJICA事務所に電話した。も うここまで来たら香山とも話がしてみたいと思ったのだ。 事務所に電話したのはタイの隊員宿泊所の電話番号を聞くためであったが、ち ょうどそのとき、タイの同期隊員である足立が事務所にいて話すことができた。 「岡田さん、お久しぶりですね」足立はビックリした口調で言う。 「うん、赤井君のこと聞いてさ..。ものすごくショックでしたよ」 「まったくです。もうとにかくこっちはパニックでしたよ。日本はもちろんの こと、世界中からも弔電が続々と届いていますし、それを整理するのも皆で手分 けしてやっています。同期で仕事している奴は誰ひとりいませんよ」 足立の声は岡田にとって、素直に暖かく感じられた。 「いま他の同期隊員は、ナコンラチャシマでの葬儀の準備をしている最中で、 御両親が着き次第、僕も一緒に行くことにしています」 彼は早口でいまの状況を簡単に説明した。きっと随分忙しくて朝から事務所に いたのだろうが、岡田の電話にも快く応対した。 「忙しいところを申し訳ないんですが、香山さんがそちらに行ったという話を 聞いたんですが..」 岡田は恐る恐る聞いた。本当にタイに行ったのだろうか、まだ彼は半信半疑だ った。 「ええっ..! よく知っていますね、岡田さん。ひょっとしてブルガリアに電 話したんですか? ああ、そうですか。確かに彼女は昨日来ましたよ。事前に一 応連絡がありましたけど、僕もまさか本当に来るとは思っていませんでした。高 木ちゃん達と一緒に空港まで迎えに行きましたからね」 「来てるんですか、やっぱり..」 やはり香山さんはタイに行っていたのか..。 岡田は胸の鼓動が高鳴るのを素直に受け止めた。 「ついさっきまでここの事務所にいたんですけど、高木ちゃんと一緒に花を買 いに行きましたよ..。こっちから電話させましょうか?」 「いや、とんでもない。隊員宿泊所にいるでしょ? 電話番号教えてください。 こちらから電話します」 岡田はタイの隊員宿泊所の電話番号を控え、何度も足立にお礼を言って電話を 切った。 香山さんと話したって何を話せばいいのか..。 岡田は目を強くつむって唇を噛んだ。 伊藤が作った夕食を、高柳と岡田はひとつのテーブルで食べている。伊藤は複 雑な気分だった。高柳と岡田とのあいだに奇妙な親密感があったが、それはどう してなのかまったく分からない。それは愛情ではないだろうことだけは確信があ る。岡田が噎び泣く高柳を抱き寄せている現場を見てしまったが、こうして一緒 に食事をしていると、何事もなかったように振る舞うふたりがいる。伊藤はそん なふたりに戸惑いを感じた。もっと気を使ってぎくしゃくした態度をとると思っ ていたからだ。 伊藤は何かふたりか、またふたりに関連するもので、何か重大なことが起こっ たのではと気付いていた。岡田もそうだったが、特に高柳の態度が相当妙だった からである。相手の大事なものを、自分のせいで壊してしまった翌日のように、 やけに物腰が柔らかく、岡田に気を使っているような気がした。 伊藤も伊藤で、ふたりとなるべく自然に振る舞えるように話題を提供した。ふ たりとも伊藤の話に耳を傾けては、ちゃんと相槌をうった。岡田はそれほどでも なかったが、高柳はたまに笑顔も見せた。 「岡田さんはいつラビナルに戻るの?」 ふいに伊藤が尋ねた。岡田はそのときはじめて、いつかは自分がラビナルに帰 らなければならないことに気付いた。自分の生活の場であるラビナルを、心の中 ではるか遠い場所に追いやっていたように感じるのだった。 「そうですねぇ..」と岡田は考える振りをした。そしてほんの少しの苛立ちを 感じた。 岡田がいつ帰ろうかと思いを巡らせているあいだに電話が鳴った。岡田が席を 立とうとすると、高柳が「いいから..」と言って席を立った。高柳は電話の相手 にビックリして自己紹介している。 彼女の知っている人か..と思い、恐らく香山さんが電話してきたんだろうと想 像した。 高柳は電話の受話器をゆっくり横に置いて「香山さんからよっ!」と慌てて岡 田を呼んだ。しかし岡田は「うん..」と言ったきりで、あまり驚いた態度を見せ なかった。 「もしもし、岡田です..」 岡田は何を話そうかまったく考えていなかった。彼女は嘆き疲れて相当神経質 になっているのでは、と勝手な想像をする。そして彼女の最初の言葉を待った。 「お久しぶりですね、岡田さん。電話をくれたそうで」 香山のはっきりとして、それでいて落ち着いた口調に、岡田は耳を疑った。 「ブルガリアに電話したら、任短したとかで..」 『任短』という言葉が口から出るとき、少しあいだがあったような気がした。 「そう。タイに行きたいって言ったら任期短縮するならいいよ、って調整員か ら言われたんです。調整員は絶対しないと思って諦めさせるために言ったんだと 思うんですが、それじゃぁ任短させてくださいって、思い切って言いました。さ すがに驚いてましたよ。調整員様は..。でもすっきりしました」 香山の太いハスキーボイスは相変わらずだったが、ある程度明るい口調で話す 彼女に、岡田はどうやって答えていいのか分からなかった。香山は少し間を置い てから「これでよかったんだと思う..」と幾分調子を落として呟いた。 「こっちの赤井さんの仕事仲間にもバンコクで会って少し話をすることができ たんですが、皆赤井さんをすごく尊敬していたみたいなんです。私が彼の恋人だ と紹介すると、赤井さんがどれくらい皆に好かれていたかを教えてくれました。 皆私に話しながら、彼を偲んで泣くんです」 「グアテマラではどうだか分かりませんが、ブルガリアでもやっぱり途上国の人 と異文化の中で対等に渡り歩いていくのはちょっと大変で、私もよく他の隊員と 愚痴をこぼしあったりしました。これでも毎日のように、ブルガリア人の悪口を 言ってたんですよ。でも彼は、そういう不平みたいなことは一度も言ったことが なかったんです。そう聞きました。彼の手紙にも、一度だって弱音は書いてなか ったし、現地の人に対しても、いつも尊敬しているというようなことを書いてい ました。いつも私の愚痴に応えてくれていただけだったんです。日本から持って きた服は任地の住民にほとんどあげちゃったり、自分は現地の人と同化するんだ って言って、現地の人と同じような格好で生活してたらしいんですよ。ハハ、岡 田さんだって、私に送られてきた彼の写真を見れば、おかしくって笑っちゃいま すよ」 香山は想い出したように、低い声で笑った。 「でも、やっぱりだからこそ、ここの住民を心から愛し、また愛されていたん だなって思ったんです」 「すごい人だったんだなって改めて思ったんです」 「そう思ったんです..」 香山は普通こんな風に話さない。もっと雲に霞んだように、とらえどころのな いようにぼんやりと話す。口調はゆっくりで、もっと大人びていた。岡田は香山 を哀れと感じずにはいられなかった。 岡田は香山にこれからどうするのか、と聞いた。聞いてはいけないことのよう にも思えたが、香山のこの調子ならそれ程神経質にならなくてもいいだろうと思 ったからだ。香山は、分からない..とりあえず日本に帰る。とだけ答えた。仕事 を探してはやく落ち着きたい気持ちもある、と言う。そしていい人を見付けて結 婚するかもしれない、そう言った。 岡田はちゃんとした返事をしなかった。なにか理由を付けて、はやく電話を切 りたいと思った。 香山は言葉を続けた。 「でも、やっぱり死んだ人は永遠ですね。きっとまたこれからいつか恋をする ときがくるかもしれないけれど、もう恋に落ちたりすることは2度とないかもし れません。そう思います」 やはり香山は落ち着いた調子で言った。 「たとえどんなに素晴らしい恋がこれからあったとしても、赤井さんを忘れる ことなんてできない。それだけは確かです。うまく言えませんが..あんな短い訓 練期間の中で盛り上がって、相手のいいところだけしか知らなくって、死んでか らも彼の周りの人間から讃えられて、私自身も誇りに思えるほどの人であって..」 そこで香山は言葉を切った。 「それで逝ってしまったなんて..」 「ちょっとずるいですね」 香山は自分自身に言い聞かせるように繰り返した。 「赤井さんはずるいです ね..」と。 岡田は目を閉じ、なにも答えなかった。 「岡田さんは知らないと思いますが、どうして私達が付き合ったか知っています か」 岡田はまたもどきりとした。そして、香山のお喋りに歯止めが効かなくなって きているような気がした。 「皆は赤井さんが毎週日曜の早朝に、訓練所のマラソンコースを独りで走って いる姿を見て私が惚れた、と思っているようですね。私だって噂をちらりと耳に して、皆がどう思っているかを知っているんです。でも、もちろんそうではあり ませんよ。そんな理由だったら、赤井さん以外でも毎週日曜に走っていた橘さん や、松井さんまで私は好きにならなくちゃならないですからね」 無言の岡田に香山は話し続けた。コンクリートの壁に、彼女が戯けたり微笑ん だりしてひたすら話し掛けている姿を想像した。 「赤井さんは私の秘密を見抜いた唯一の人なんです」 岡田はこれから始まるであろう、香山の告白を冷静に聞いた。 「実は私の右耳は幼い頃の病気のせいでまったく聞こえないんですが、他の人 は私がぼぉっとしているだけだと思ったり、反応が遅いのろまな女だと思ったり するんです。でもなぜか彼だけはすぐに分かったようで、彼から声をかけてきて くれたんです」 「どうしてだか分かりますか? 実は彼の場合、左目がまったく見えないんです。 彼は誰からも指摘されたことがないって言ってました」 「私はどうやって立体に物を見たり触ったりしているのか、と聞きましたが、彼 も小さい頃からなので慣れてしまって、まったく不自由はないと言っていました。 不自由はないけれどもコンプレックスはあるらしんですよね、不思議なことに。 と言うわけで、彼が時々遠くをぼんやり見ていたのは、そのせいなんです。実際 に右目しかコンタクトレンズ入れてないんですよ。はじめて見たときは私もビッ クリしました」 「私の素振りを見てすぐに分かったのは、彼も似たようなコンプレックスを持っ ていたからなんです」 「赤井さんから聞いていました?」 岡田は突然質問されて我に返った。「いや、知らなかった..」そして「ビック リしたよ」とも言った。 岡田の言葉はやけにぶっきらぼうだった。香山の話はまるで自分の知らない誰 かの噂話のようで、やけに客観的に聞こえた。岡田は相変わらず冷静だった。 香山はほんの少しだけ間を置いたが、すぐに言葉を続けた。彼女はいま思いつ くことをなんでもいいから、とにかく話したい衝動にかられているようなのだ。 「いまでも時々夢じゃないかって思うときがあるんです。タイに来ている自分 に面と向かっていても、そう思ってしまいます。次の日が来たら、ブルガリアに 戻っているんじゃないかって..。そして昼頃になったら赤井さんから手紙が来て たりして..。元気にやってるかって、タイは暑くて大変だ。ブルガリアはきっと 涼しくて快適だろう、なんて書いているに違いないんです。そして私は、ブルガ リアも夏はとても暑いです、冬はまだ来てないから知りません。と手紙の返事を 書くのです」 「実は私、あまり筆まめではないので、赤井さんの手紙に毎回返事を書いていな いんです。今度から彼の手紙が来たら、毎回返事を書きたいです。彼のひとつひ とつの質問にちゃんと答えてあげたいです。自分もいろいろタイのことやナコン ラチャシマの質問をしてみたい。何を質問しましょうか..」 岡田はちょっと聞くに耐え難くなってきた。 「タイには綺麗な人がいっぱいいると言っていましたから、ナコンラチャシマに もたくさん美人な人がいるか、とか」 「困ったときに助けてくれる人は周りにいるか、とか」 「いざ考えてみると、なかなか思い浮かばないものなんですね..」 「もしも朝目が覚めて、私がブルガリアにいたら、彼の手紙が来ていなくとも、 ダッシュで電話局へ行って、タイに国際電話します。そしてどんなにお金がかか ろうとも、彼と心ゆくまで話をします。そしてブルガリアも結構夏は暑かったっ て言うんです。彼は一体何の話しだい? と聞くでしょうね。そして私はこう答 えるのです」 「日本に帰ったら結婚しましょう、と..」 岡田は受話器を当てている反対側の右耳を塞いだ。 「もしかしたら次の日目を覚ましたら、ブルガリアではなくて日本にいるかもし れませんね。協力隊に参加したのも夢だったりするかもしれません。もしそうな ら赤井さんとも知り合っていませんね。でも、それでもいいです。彼が生きてい たら..。彼が生きていて、協力隊じゃなくても、普通の会社員でも何でもいいで す。また違うところで出会えるかもしれませんし..。いつか日本のどこかの街の はずれですれ違うかもしれません。たとえ彼が私のことを知らなくても、私は彼 に振り返って、ごきげんよう、って言うんです。彼のきょとんとした表情が目に 浮かびます」 岡田は両耳を塞いで叫びたい衝動に襲われた。 「もしかしたら次の日目を覚ましたら、赤井さんのそばにいるかもしれませんね。 どこか遠い遠い雲の上か何かに一緒にいるかもしれません。それが何だか一番簡 単な方法のような気もします..。でもどうしてか、ふたりとも幸せそうではあり ません。ハハ、なぜなんでしょうね..」 「香山さんっ!!!!」 岡田はいつの間にか冷や汗をたっぷりかいていた。そして彼の絶叫がふたりの 会話に遥かなる静寂をもたらせた。静かに食事をしていた伊藤も高柳もその手を 止めた。 香山はほんの少し間をおいて、さらに言葉を続けた。
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