長編 #3737の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
パティシュラン村へ到着すると、いつも7〜8人の子供達がわぁっと集まって 出迎えてくれる。人里離れたこういう村の彼らにとって、バイクはもちろんのこ と、岡田の持っているすべての物が珍しく、彼らを陶酔させるらしい。ある子は まだ走っているバイクに触ろうと追いかけ、ある子は岡田の時計に魅入り、ある 子は岡田のデイバッグについているキーホルダーを指さして友達と何やら話して いる。こういった好奇心に満たされた小さな瞳と、外部の人間に慣れない奥ゆか しい笑顔を、岡田はこよなく愛した。 子供達に「バイクにいたずらするんじゃないよ」と軽く注意をしてから鶏舎に 出向いた。ちょうど一番気の合うインディヘナのマリア・ホセが鶏舎の前で掃除 をしている。マリアは片言のスペイン語で「オラ、カズ元気か?」と話し掛けて きた。岡田は決まり切った挨拶で答えた。 ラビナルを含むバハ・ベラパス県のインディヘナのほとんどが、アチ語という 現地語を使う。そのためになかなかスペイン語をきちんと話す人が多くなかった。 時々岡田は自分のスペイン語の方が上手いな、と思うときがある。 マリアと世間話でもしようかと思ったが、お互いスペイン語がままならぬ同士 なので、マリアの方が困惑してしまって笑ってごまかされた。 せっかくコミュニケーションをとろうとしたのに..。 岡田は少しずつでも彼らに打ち解けようと努力していたが、彼らの社会は日本 のそれと似ていて、結構閉鎖的だった。それでもマリアは、最も親しみやすく声 をかけてくるインディヘナにかわりはなかった。歳は32で、はにかみながらい つも笑いかけてくれる。 岡田は背中のリュックをおろしワクチンを取り出して、マリアに採卵鶏への投 与を促した。 ここの鶏舎は協力隊の援助で150羽の採卵鶏がいる。岡田が定期的に訪れて はワクチネーションプログラムに従ってワクチンを投与していた。今回は3ヶ月 に一度の、致死率の高いニューカッスル病用のワクチンを投与する日だった。 マリアが鶏舎の横の家に集まっていたプロジェクトのメンバー達に呼びかけ、 ワクチンの投与の準備を始めた。ウイピルを纏ったインディヘナの女性達が8人 と、プロジェクトのリーダーのホルヘが現れ、皆岡田に挨拶した。その中の少女 がマリアと同じような笑みを浮かべて、恥ずかしそうに胸の上で手を振っている。 マリアの姪のラウラはまだ16歳だが、2人目の子供を身ごもっていた。もう 5ヶ月目ということで、随分とお腹が目立ってきている。ひとりめの子供は、母 親の右足の近くに寄り添って立っていた。先週ここを訪れたとき、マリアから 「ラウラの夫は、3ヶ月前に首都へ出稼ぎに行ったきり、音沙汰がない」と聞い ていた。ラウラに微笑み返し、その子供にも手を振って笑いかけた。彼は親指を くわえたまま、恥ずかしそうに身を返し、母親の足に抱きついた。 岡田はラウラを正面から見据えることはできなかった。彼の若い夫はどうして しまったのだろうか。首都で悲惨な事件に巻き込まれたのか、危険な誘惑になび いたのか、それは誰にも分からない。それでも彼女の笑顔を岡田は好きだった。 はじめ、鶏舎の奥、4分の1のところに5人がかりで鶏を追い立て、網を張る。 網の中に追いやられた150羽の鶏を、一羽ずつホルヘが取り出し、それをふた りがかりで押さえ、岡田がワクチンをうつ。ワクチンは小さな容器に入っており、 目薬の要領で鶏の目に落とすだけでいい。鶏舎の中は鶏の鳴き声や、羽をばたつ かせる音で反響し、騒然としている。会話がし辛いために、岡田は身ぶり手振り で彼らに指導した。 今回のワクチンは、ニューカッスル病という、致死率の高い病気の予防用のも のだ。この病気にかかると、緑の糞が出たり、頭部が腫れてきたりして、もうそ の状態では助からないと言われている。岡田はこの病気にかかった実物の鶏を見 たことがなかったが、ワクチンを定期的に投与しておけば何も問題ないことは知 っていた。しかし、彼らインディヘナ達との定期的な会合で、各ワクチンの必要 性を問われたときはさすがに困った。それらをどう説明し、なぜ定期的にワクチ ンが必要なのかを、彼らに認識してもらわなければならなかった。しかし、岡田 にはそれに相当するようなスペイン語力と話術力がなかった。あのときは自分の 不甲斐なさに落ち込んだものだ。岡田は何となくあの頃のことを振り返ってみた。 ワクチンの投与が終わった採卵鶏達は、広い鶏舎の空間で飛び回っていた。もち ろん鶏なので飛んでいったりしない。この場合、子供達のようにはしゃぎまわる、 という表現が適切だろう。騒々しい鶏舎の中で、少し一服しようかと身振りでホ ルヘに合図すると、他のインディヘナ達が一斉に鶏舎の外に立っているある人物 のほうへ指をさした。岡田はどうしたのかと思い、彼らの指が示す方へ顔を向け た。 そこには高柳が立っている..。 岡田は呆然と立ち上がり、首に巻き付けてあったタオルを取り出した。そして、 顔や首の回りの汗をゆっくりと時間をかけて拭った。高柳へ向けた視線はそらさ ずに..。 高柳は夢に出てきたような、焦りと、不安と、恐怖と、死相とを持ち合わせた ような表情ではない。言うならば、『絶望』の一言であろうか。不安も、恐怖も 通り越えたものが瞬時に読みとれるのだ。 岡田の鼓動が150羽の鶏よりも騒々しく鳴り響いて、体が芯から震えた。彼 女に近づこうとする足があまりにも重く、近寄っても近寄っても彼女にはたどり 着けない錯覚に陥っていく。 鶏舎の戸口に歩み寄った。高柳の肩越しから、バイクの横に MITSUBISHIのワンボックスが停められている。セサルがポケットに手 を突っ込み、車に寄り掛かってうなだれている姿が見えた。 岡田は高柳の顔を見て、その表情から胸が押しつけられるような、苦しい風が 心を貫き通った。そしてすぐに誰かの『死』を感じた。それも自分達には共通の 誰か。田中や菊村は知らない誰かの死を..。 高柳は何も言わず、岡田に一枚のFAXを渡した。そのFAXのタイトルは、 『タイのナコンラチャシマにて交通事故死した赤井清次森林経営隊員に関する緊 急連絡事項』と書かれていた。 目の前が真っ白..というのはまさにこのことだった。 赤井がどのようにして交通事故に遭ったのかそのFAXには書かれていたのだ ろうが、岡田はまったく読めなかった。これは岡田が後から聞いたことだが、岡 田が首都へ帰ったあの日、赤井は日本から届いた機材を任地に同僚の車で運んで いる最中、不幸にも降り注ぐ雨の水たまりにタイヤの自由をとられ、急カーブを 曲がりきれず崖へ転落し、即死したそうだ。運転していた同僚のドライバーは重 傷だが、命は取り留めたという。 FAXを持つ岡田の手が、どうしようもなくブルブルと震えた。 高柳の手が彼の手に伸び、彼の手を押さえようとしっかりと握った。 岡田は何も言わず焦点を宙に泳がせた。手だけがまだ震えている。 高柳も焦点が合わず、岡田の胸の辺りをぼんやりと見ていた。ただ岡田の手を 握る手に力が入るだけだった。高柳も、何かに支えられたり、支えていなければ 耐えられないと思ったからだ。 岡田は「すいません..」と、か細い震える声で言った。 「すぐに電話しなくて」と続けるつもりだったが、後から言葉がつまって出て こない。喉が焼けるように熱く、そして渇いていた。 高柳も「どうして謝るの?」とは聞かず、黙ってゆっくりと頷いた。 パティシュランを覆う大自然は、降り注ぐ太陽光線の下でみずみずしい色彩を 放っている。爽やかな風は木々を揺らし、鳥や虫の言葉がそれらのざわめきと美 しい調和を保っていた。それは変わることなく、永遠に続く自然の法則のような ものだ。たとえ岡田の心にうつる情景が、一瞬にして別なものとすり変わってし まったとしても。 遠い遠い、遥か遠い記憶が甦るように、あの言葉が思い出される。 「幸せとは..会いたいときに、会いたい人に会えること」 † いつも陽気でスケベなセサルも、今日ばかりは何も言わなかった。事の重大さ を知っているようだ。ラビナルまでの老年期の地形を通り、岡田の家へ寄ってバ イクを置いた。岡田が少しの荷物を車に積むと、セサルはグアテマラシティーへ 向かって車を飛ばした。 高柳もほとんど何も話さなかった。当たり障りのない言葉はかえって岡田の心 を傷つけると、高柳は知っていた。 岡田は快適な車内空間の中で眠りたかった。そしてずっとグアテマラシティー に着かないで欲しいと思った。あそこには恐ろしい現実が待ちかまえていると知 っていたからだ。 いまからでも遅くない、高柳さん。何度でも謝ります。もし歓迎会の会計報告 のことで怒っているのなら、冗談はここら辺で勘弁してください。何度でも謝り ます..。いまなら笑って許すことができる..。 だから.. 何度でも謝ります.. 首都に入ってきたところで岡田は起こされた。いつの間にか岡田は熟睡してい た。そして高柳の普段見せない絶望的な表情を読みとると、あれが夢でなかった ことを思い起こさせる。そして深い深い奈落の底へと突き落とされた。 それにしても、いくら睡眠不足だからといって、こんなときによくも眠れるも んだ..。自分自身に憎悪さえ沸き上がってきた。 隊員宿泊所に着いたときは、夕方を過ぎていた。同じ隊次の井上康隆、吉岡今 日子、秋田圭子の3人が揃って居間で待っていた。いないのは荒木だけだった。 井上は岡田の顔を見ると、無言で右手を挙げて挨拶した。口を横にしっかり結 んで、何か言いたいことを言わないでいようとする態度だった。井上の大人っぽ い落ち着いた謙虚さが素直に現れている。 5人で集まると、2階へ上がり、ソファに腰掛けてちょっとした話し合いをし た。高柳が昨日のうちに、赤井の実家へ弔電と花を送るよう、日本の友達に頼ん だと言う。そのことについては5人とも承諾した。 高柳は真っ先に、岡田に「承認してくれるでしょ」と尋ねた。岡田が赤井と一 番仲がよかったことは誰もが承知していることなので、彼女なりの気遣いだった。 岡田はこういった高柳の的確な行動力に感嘆した。無線で自分を呼び続けたこ と、仕事を休んでパティシュランまで来たこと、絶望的な表情、適時の判断力、 すべてが岡田にとって嫌味のないものだった。 皆が集まってはみたものの、だからと言って話すことなどなかった。 少しのあいだ沈黙が続き、井上が「人の命なんてあっけないね」と呟いた。 皆が頷いた。 秋田も「気をつけなくちゃね、私達も。これを教訓にさ」と言った。 皆も頷いた。 そんな会話をぼんやりと岡田は聞いていた。膝の上においた両手に目を落とし、 (キョウクン?)と心で反芻しながら。 居間のテレビで隊員が3人、日本から送られてきたバラエティー番組を見てい る。彼らの大きな笑い声が階下から響いた。 そのうちのひとりが「今日子ちゃーん! ちょっとこっち来ない? 面白いよ、 このビデオ..」と2階に向かって叫んだ。 吉岡は「あ、ちょっと待ってくださーい。もう少ししたらすぐ降ります!」と 答えた。そして再び振り返って「でもちゃんとまた巻き戻してくださいねぇー」 と叫ぶ。彼女は皆の方へ振り返り、それぞれの表情を読みとろうとして上目遣い で見回すと、高柳の意味ありげな視線にぶつかった。吉岡は左上に目玉だけを動 かし、肩をすくめてうなだれた。 高柳はため息をひとつつき、岡田を横目でちらりと見た。岡田は膝の上で重ね ている手のひらを無表情で見つめている。そうしていると、高柳の視線を感じて 彼の瞳が一瞬神経質に動いた。高柳はすぐに目をそらし、幾度か瞬きをした。 何を話すこともなく、皆方々を向いて黙っていた。 それぞれの息づかいまで聞こえてきそうな静けさの中、ひとりひとりの周りに は別々の空気が漂っている。 そんな時間が数分続いたようだ。少し耐え難い雰囲気がそこにあった。 キッチンで夕食の支度をしていた女性隊員が、「上にいる人達もご飯食べます かぁ?」と階下で叫んだ。 井上が「はーい。よろしくお願いしまーす」と叫ぶ。「とりあえずご飯食べよ う。まぁ皆も腹が減ってると思うし」と井上。 「そうね」と秋田。 「うーーん..」と大きく伸びをする吉岡。「メシにしますか」 高柳は岡田の顔を見た。 岡田はそれに気が付き、「うん?」ととぼけた顔をする。 「食べられる?」と高柳。 「大丈夫、大丈夫」と照れながら岡田。 岡田はうつむいて、皆に見えないように大きく欠伸をすると、ボリボリと頭を 掻いた。 テレビの前のテーブルに配膳して、総勢10人くらいで食べた。平日だという のに今日はなぜか隊員宿泊所の人口が多い。 「ヒロちゃん、今日は結構奮発したねぇ。このきんぴらゴボウ最高!!」と吉 岡。 「うん、うまいうまい」と秋田も同意する。 「最近作ってなかったからねぇ」夕食を作った女性隊員は照れながら答えた。 「岡田さん、この前教えたビーフシチュー作ってみました?」 「いや..」岡田はちゃんと彼女の方を向いて答えたが、どうもぶっきらぼうな 口調になってしまう。「あれは難しいですよ、僕には」手に持っている茶碗に目 を移しながら答えた。 「ビーフシチューなんて簡単じゃん。カレーとおんなじだろ。俺にもできるよ」 とさっきまでテレビを見ていた隊員のひとりが言う。 「ルーもちゃんとトマトソースから作るんですよ」その女性隊員はひとつため 息をついて答えた。もうこれなんだから..とでも言いたげな顔して、肩をすくめ る。 「え? マジ? 岡田ちゃん、そんなことまでして作るの?」 岡田は返事をしなかった。何だか随分遠いところから質問されているようなの だ。前夜高熱を出した後、朝早く無理矢理起こされて尋問されているような気分 で、なぜかいちいち答えるのが億劫だった。
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