長編 #3736の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
† 岡田は夜中に魘されて、ぼんやりと目を覚ました。なぜだかものすごく気持ち が悪い。頭がぐらぐらして焦点が定まらなかった。這うようにして本棚のすぐ近 くにあった煙草を手に取り火を付けて吸ってはみたが、ゲホゲホとせき込んで、 すぐに飲みかけのビール缶の中に捨てた。ベッドからのそりと這い出たが、すぐ にめまいがしてテーブルの脇に両膝をつき、胸を押さえてしばらくじっと動かな かった。 恐ろしく奇妙な夢を見たのだ。 岡田は隊員宿泊所にいた。閑散としていて、誰もいなかった。外はもう暗かっ たが、建物の中は電気もなにもついていなかった。居間のカーテンの隙間から、 庭の外灯のほのかな明かりが侵入しているだけだ。岡田はそちらの方に近づき、 カーテンを少し開けて外を眺めた。 振り向くと、そこに高柳がいた。彼女の顔が青白い外灯に照らされて、鮮明に 浮かび上がっている。その高柳の表情は、いまだかつて見たことのないそれだっ た。焦りと、不安と、恐怖と、死相とが同居した顔だった。そんな顔の高柳が、 いつもより妙に好感が持てた。いつもこんな風だったら、自分も卑屈にならずに 済むのに..。なぜかそう思える岡田だった。 そして彼女は言うのだった。 「ラビナルに帰らないで。いま帰ると、あなたは死んでしまうのよ!」 と菊村のように、両手を胸の前で握って岡田にすがりついた。岡田は動揺し、彼 女をしげしげと見つめた。そして何度かかぶりを振り、彼女を無視して宿泊所を 後にした。 ラビナルの道中は、いつもの通りだった。オンボロのバスに、たくさんの乗客 を乗せていた。バスが停車するたびに、何度も自分の隣に座るグアテマラ人が入 れ替わった。そして気がつくと、あの人なつっこい老人がそこにいた。 彼は岡田にいつもの笑顔で、いつものような質問をした。 「グアテマラは..ラビナルは..好きかい?」 そして岡田もいつものように答えた。 「ええ、ラビナルは好きです」 岡田はなにか彼に質問しようと思いを巡らせてみたが、すぐには頭に浮かんで こなかった。すると、彼が落ち着き払った表情をして、岡田を見据えていたこと に気が付いた。岡田は彼の笑顔に心を奪われ、なにも言わなくとも、心が通じ合 えるような気持ちになった。いままで彼に見つめられると、心のどこかで、焦り に似た緊張感を抱いていた。それがなぜかいまは違う。彼の微笑みに包まれて、 まだ大人になれない、心の奥深い神経質な感情が溶かされていくような錯覚を覚 えるのだった。そして体の内側から、ほのかな暖気が充満していくのを感じた。 老人と岡田は野原にいた。老人の肩越しにはなにもない空が見える。野原は永 遠に、空との境界線まで続いていた。岡田はそれがどこなのか分からないことに 小さな不安を抱いたが、この老人と一緒にいたいと思った。老人は優美な微笑を 浮かべ、異国の青年に語りかけた。 「ラビナルに行くと、君は死ぬよ」 「どうして引き返せるでしょうか。あそこには、僕を必要としている人がいる のです」 「しかし、君が行く必要はないじゃろう」 「それはどういうことですか」 「他にも手助けしてくれる人はいるのじゃから。君以外にも、君がおこなって くれることを十分に把握し、考慮し、快く引き継いでくれる人はいるのじゃ」 「僕は自分の意志でここまでやって来ました。他の人でもいいというのでした ら、はじめから志願などしていません。僕がやらなくとも、誰かがやってくれる だろうという考えは好きではないのです」岡田は強い調子で言った。 「それがたとえ自分の命と引き替えてでも..」老人は低い口調で言った。岡田 を見つめるその目が一層細くなっていく。 岡田はその瞬間、ためらいがちに目を伏せた。そしてすぐに、老人の目を正面 から見据えた。 「本当に僕がラビナルに行けば、死んでしまうのでしょうか」 「死なないかもしれない。でも死ぬ可能性は高い」 「それでは..引き返した方がいいのでしょうか」 「生きてさえいれば、ありとあらゆる可能性を手に入れることができる。そう 思わないかい。君がここで犠牲になり、人生すべてを台無しにする必要はないの じゃ。君がいまラビナルに背を向けても、時は不変に流れていく。君の死によっ て、風は泣き、山は哀れんでくれるか。昼間は太陽が、夜は星たちが、あいも変 わらず輝き続けるのじゃ。それは絶えず変わらないことなのじゃよ。私たちの死 にはなんの関係もないことなんじゃ。君が生きていようが死んでいようが、この 大自然にはなにひとつ関係のないことなんじゃ」 「分かるかい。人は夢を求めて進んでいく。夢を目指しているときの充実感と、 夢を実現させたときの達成感が人を成長させていく。それは理解できるじゃろう? しかし君は夢を達成させた。君は夢が実現した世界の中にいるのじゃ。それだけ で十分ではないか。そうは思わないかい」 「君は偶発的な事故で死ぬじゃろう。しかし、君は事前にそれを知ってしまった。 それでも行くというのかね..。君を待っている、家族や多くの仲間がいるのじゃ よ。君を愛する人たちが君の帰りを待っているんじゃ」 岡田は反論した。 「僕の夢はここに来ることではありません。ここで自分の可能性を試したかっ たのです。ラビナルの人たちや、近郊の農村の人たちと..。だから、まだゴール には届いていないのです。おじいさんにも分かるでしょう。ずっとずっと何年も 前から思い描いていた夢が、やっと実現しそうなんです。これから僕の夢が始ま ろうとしているのです。まだまだ終わったわけではないのです。これから始まる のです」 「帰りなさい。ラビナルには大切な人が大勢いるじゃろう。君はその人たちの 生き方を見届けたいと思うじゃろう。その気持ちは分かる。しかし、もっともっ とたくさんの、生涯を共にする人たちが君の帰りを待っているんじゃ」 「まだ起こりもしない可能性に恐れ、目の前の夢を捨てることなど、どうして できるでしょう」岡田は大きな声で言った。 老人は目を閉じた。そして極限まで自分を制し、静かな声で言った。 「青年よ、本心を語れよ。それは君の本当の心ではない。わしは知っている。 君は正論を言っているに過ぎないのじゃ。君が日本へ帰ってからの将来は約束さ れている。素晴らしい人生が待っている。もちろん可能性の話じゃがな」 「しかしわしは約束できる。君がこのままラビナルへ行けば、死ぬじゃろう。も しも日本へ帰れば、君の人生の可能性は大きく開花するじゃろう。君はどちらを 選ぶのじゃ。本心で答えるのじゃ。もう正論など聞きたくない」 岡田は打ちひしがれたような顔をしてうなだれた。少しのあいだ彼は考え込ん だ。 「僕は..帰ります..。日本へ。そして自分が目指してきた夢をなるべく想い出 さないように生きていきます。でもおじいさん、僕の友人は、仲間達はなんと言 うでしょうか。死を恐れた僕を、皆は許してくれるのでしょうか」 老人の微笑が消えた。そして老人はなにも答えなかった。 「僕は腰抜けと思われるのではないでしょうか。分かりもしない可能性に惑わ された、恐がりだと..」 岡田は老人に何度も同じ質問を浴びせた。しかし彼は答えず、岡田の瞳から顔 をそらせるだけだった。 そしていつの間にか、岡田はバスの席へと戻っていた。 老人の姿はもうなかった。 岡田はぼんやりとバスの中で座っていた。老人と交わした会話を忘れることが できずにいた。しかし、バスはぐらぐら揺れながらラビナルに向かって進んでい く。 死ぬのだろうか..。 そんなことを考えながら、ぼんやりと外の景色を見た。そして気付いた。ラビ ナル峠に差し掛かっていたことを。 ふと周りを見回すと、なぜか周りに座っている乗客が、赤井、菅谷、倉山の3 人になっている。他の乗客は消えていた。皆任国は違ったが、訓練所で知り合っ た特に仲のいい同期隊員だった。3人とも異様なほど顔が蒼い。この世で生きて いる者の顔ではなかった。岡田はこれから起きる出来事を咄嗟に判断した。 落ちるのか..。 そう、落ちたのだ。ラビナル峠へ。 岡田は「死にたくない!」と叫んだ。必死に何度も叫んだ。恥ずかしいなどと は思わなかった。一緒にいた仲間たちは覚悟をしていたのか、もうすでに死んで いたのか、命乞いをしなかった。 視界がグルグルまわって、張り裂けるような爆音が深い渓谷の中に轟いた。 あっけなかった。 そして奈落の底へ落ちる直前で目が覚めた。 あまりにも異様なこの夢は、岡田の心に傷痕として残っていた。実際に現実的 にも起こり得そうなことだったからだ。 トイレに行って、何度も吐こうと努力したが無理だった。頭痛がひどくてめま いがする。トイレの壁がグルグルと回っているような感覚を味わい、その場へ尻 餅をついた。岡田は天井を見上げ、大きく口を開いて息をした。 ちょっと落ち着いてからキッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを出 して飲んだ。寝室に引き返し横になっていると、少しずつおさまってきた。 そして何だか涙が出てきた。 自分の最も大切なものを失ってしまうような、そんな夢を見せられたことが腹 立たしかったし、切なくもあった。 皆に会いたい..。正直な気持ちでそう思った。 赤井清次、菅谷孝子、倉山まり子..あのメンバーに。それぞれタイ、モロッコ、 ジョルダンと離ればなれになってしまったが、あの訓練所で、一緒に泣いて、怒 って、笑った連中だった。いままでこれほど強く皆を恋しがったことはない。ち ょっと疲れているから気弱になってしまったのだろうか。 岡田は涙を拭いた。そしてある懐かしい言葉を思い起こした。その言葉は、派 遣前訓練中のガイダンスに、国際協力事業団のある偉い人が言った言葉だ。 彼は途上国への真の援助について問うていた。途上国が先進国のように、商工 業が栄え、外貨が稼げるようにするのが真の援助ではない。貧しくとも、本当の 幸せをその国の人達に味あわせてあげるのが、真の協力なのだ、と。 それでは『幸せ』とは何か。人が『幸せ』を感じるときはどんなときなのか。 彼は言った。 「幸せとは、会いたいときに会いたい人に会えること」だと。 岡田にとってその言葉は非常に懐かしい響きを持っている。その言葉を想い出 すたびに、彼の心に豊かな感情を抱くことができた。 岡田はもう一度涙を拭いた。そして呟いた。 「俺は不幸せなのだろうか..」と..。 † 翌朝、意外にもそれほど体調を崩していなかった。ただ、ベッドから体を起こ したときに軽いめまいを感じただけだった。 この日はパティシュランに行って鶏にワクチンを打ちに行く予定日だ。簡単に パンとコーラで朝食を済ませて着替える。窓の外を見ると、今日も快晴のようだ。 寝不足の瞳に、これだけの太陽光線は刺激が強すぎる。目の周りが光の眩しさで ジリジリ熱くなり、チカチカ痛くなった。よくもまぁ毎日毎日こんないい天気が 続くものだと岡田は感心した。 それにしても、岡田は高柳の『緊急な用事』というのにひっかかった。 ふと早朝の夢が思い出され、そして密かに『重大な事件』が起こったことを期 待していることに気付き、自分を恥じた。そしてどうしようもない自己嫌悪に陥 るのだった。 バイクに荷物を乗せると、睡眠不足による気怠い感じが襲ってくる。もう少し 天気が悪い方がいいなぁと思った。 バイクに乗るのだから気をつけなくては、と自己暗示を試みたが、無駄な努力 だ。腹の芯のほうがずっしり重い感じがする。両腕も妙にだるく重い。 くそぉ、高柳め..。 岡田は彼女に対して、たとえようもない嫌悪感を膨らませた。 前夜の不吉な夢のこともあり、バイクを一通り点検してみた。先週の巡回指導 のときにパンクをしたので、ちょっと神経質にタイヤを見てみる。チェーンの周 りを見て、オイルの具合と音のチェックをした。 まぁ大丈夫だろう。それよりも自分の体調だ..。と自分に言い聞かせた。 クーラーボックスに保冷剤と一緒にワクチンを入れ、リュックにぶち込んで、 それを背負った。いつもの道にいつものバイク。体調以外はすべてOKだ。 岡田は4つの村を巡回指導しているが、彼にとって最も好きなのは、パティシ ュランまでの道中だった。ラビナルから約10キロ、バイクで20分の道のりで、 何もないお椀を逆さにしたような地形が重なり合う、変化に富んだ老年期の地形 が常に岡田の視覚を刺激した。小高い丘陵からの一望は、彼の神経を安らかにさ せ、日常の時計をゼロに戻す一瞬だった。 しかし、雨期のときはそのお椀とお椀とが重なり合った溝に、雨が川となって 流れた。そしてバイクの半分くらいが水に浸かり、いくつもの一過性の川を越え なければならなかった。最初のうちは、すべてのことが新鮮で楽しかった。しか し、その気持ちは最初の2ヶ月だけで終わった。肉体的にも、精神的にも、強靭 なものが必要だったからだ。 岡田は、俺って凡人だなぁ..と何度思ったか分からなかった。 乾期に入り、少しこの地帯も様変わりした。一面禿げ山のように、不毛の土地 のように、殺風景な情景が続いていく。岡田は乾期に入ってこの道を通るのは2 度目だったので、まだ新鮮な気持ちを持てた。天気がよく、無数に続きそうな小 高いお椀型の丘陵をいくつもいくつも越えていった。丘を昇っていくときは丘の 頂上が地平線へと姿を変えた。目の前を、真っ青な空がどこまでもどこまでもひ らけていた。 民家もほとんどないこんな土地に、深夜バイクを走らせたらどんな気持ちだろ う、と思いを巡らせてみた。きっと満天の星空が、目の前に迫ったり、後方の背 中にまわったりして、不思議な気分になるのだろうなぁと想像した。人工の灯が ない土地に、果てしなく続いている夜ってどんな感じなんだろう..と。
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