長編 #3726の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
杉谷がもう一度彼女を見ると、すぐに視線をそらし、彼の後ろの方にある、なにもな いところに目を合わせた。きっと自分があの女を見ているあいだ、彼女もそちらの方を ちらりと見たに違いない、そう思った。 貧しいな.. 杉谷はなんだかそう思う。 彼女は耳を腫れぼったく赤く染めたまま、なにも言わなくなった。そしていつまでも 杉谷と目線を合わせようとしなかった。 杉谷はひとつため息をつき、気を取り直した。そして自分の仕事の話やこちらの生活 について大ざっぱに話しはじめた。ところが彼女は「へえ」とか「ふーん」とか言うだ けで、レストランの前を通り過ぎる車をぼんやりと眺めていた。 時計を見ると昼の2時を過ぎていた。陽が傾くにはまだ早かったが、少しばかり風が 出てきていた。ひょっこりと太陽が顔を出したのだろうか、通り過ぎていく車の背が弱 々しく光っていた。 そろそろここを出ようかと思った。ウエイターを呼びつけ、勘定にしてくれと言った 。ウエイターは言葉なく頷き、ぶっきらぼうにその金額を言った。杉谷は紙に書いた請 求書などが欲しかったが、もうどうでもよくなった。ある程度の紙幣を渡し、釣りは要 らないと言った。するとウエイターは笑いもせず「グラシアス」と言ってテーブルの上 を片づけていった。大橋もお金を出そうとして、バッグから財布をとりだしたが、「大 丈夫、俺がおごるから」と言ってその手を押さえた。彼女はなにも言わずにその財布を しまい、「ありがと..」と小さな声で言った。 車に乗り込み、エンジンをかけた。僅かな振動と静かなエンジン音がふたりの体を包 んだ。車内の中にはまだ新品の皮張りシ−トの臭いが充満している。リクライニングシ ートを少しばかり倒すと、杉谷は運転する気力がなくなり、ハンドルを握った左手を膝 の上に落とした。そして指でリズムをとるような格好をした。車を発進させ、一体どこ へ行こうというのか..。それが分からないのだ。 これからどこへ行こう? ホテルに戻ろうか、それともカフェテリアかどこかでお茶 でも飲もうか.. 杉谷はあれこれ考えたが、結局どうすればいいのか分からなかった。突然体裁悪そう な顔をして何も話さなくなった大橋が、なぜかひどく貧しく見えた。思い返せば、褐色 の肌をしたウエイタ−の両目が、異様に光って自分たちを見据えていたようで、彼自身 も意味のない後ろめたさを感じていた。 杉谷は考えまいと思った。考えても仕方のないことだと思えたからだ。 そして気を取り直し、「行こうか」と隣に座っている昔の恋人に声をかけて、静かに車 を走らせた。 ワックスでしっかりと磨かれたボンネットフードに反射する、白い雲の流れる様を、 ふたりはなにも言わず静かな気持ちで眺めた。 第二話 高級住宅街をとことこと歩いている自分を振り返ると、いつも妙に恥ずかしい気分を 味わってしまう。服装を振り返り、身分不相応だと思ってしまうからだ。スカートの裾 に付着した白い染みが少し目立っていた。それを手でぱんぱんと叩いて、なんとか色落 ちしないかと思ったが、どうも無駄のようだった。ここに辿り着く道のりで、シャツの 皺を手で伸ばし伸ばしやってきたが、それも意味のないことだった。逆にその分手垢が ついたようにも見えた。 もう、なんにもしない方がええな.. マイラはそんな風に思った。所詮賄い婦は賄い婦なのだから..と。 12月に入り、乾期も終わってしばらくが経っていたというのに、今日の天気はあま り良くなく、空を見上げるとまばらに浮かんだ雲が太陽を隠していた。そんな雲までも 、覆い尽くすほどの高いマンションがある。8階建てのそのビルの横に来ると、いつも 空が小さくなったような気がした。向かいのビルも同じような高さでそびえているから なのだろう。いつもそんな狭い空を見上げると、血の気がすっと抜けて頭がくらくらす る。ビルの谷間にある空は、普通の道端で見る空よりも、もっともっと高いところにあ るように思えた。 首都のテグシガルパ郊外の高台に、ちょっとした高級住宅街が点在している。マイラ はそこにあるマンションの賄い婦だった。現在は週に2軒を3回訪れている。午前中だ けの仕事なので、それほどの稼ぎがあるわけでもなかったが、毎日食べるものだけを考 えるなら、そんな僅かな手当でもほとんど困ることはなかった。服や下着などが破れて しまい、どうしても買わなければならないものだけを買った。昔から贅沢するというこ とに慣れていなかったし、お金を上手に使うことを覚えたことがなかった。 マンションの入り口は中2階のところにあり、仰々しく輝くタイル張りの階段がそこ へと続いている。マイラはその階段を上り、大きなガラス張りの扉の前に立った。する と彼女に気付いた守衛のフェルナンドが、電磁ロックを解除するボタンを押した。「ガ チャン」という大きな音がして、その扉は開かれた。 徒歩でこのマンションに入るためには、その入り口しかない。基本的に住居者は車を 持っていて、地下駐車場からの出入りしかしないことになっている。だからほとんどの 場合、この入り口から出入りする者は、彼女のような訪問者だけに限られていると言っ てもいい。 「オラ(やぁ)、セニョーラ・マイラ。おはよう!」フェルナンドは椅子から腰を上 げ、身を乗り出して握手を求めてきた。それに彼女は同じように答えた。 「オラ、フェルナンド。調子はどう?」 「まぁいつもの通り、ここで働いてるよ。セニョーラは? そういえば今日娘さんは どうしたい?」 「ああ、フリアのことか。なんだか調子が悪いだのなんだのと言ってたよ。それでも もう少ししたら来ると思うけどね」 「気をつけた方がええよ。あの405号室の奥さんときたら、厳しいからね。フリア ちゃんの前まで来てた女の子もええ子だったけど、あんまりきつく言われるんで、よう 泣いて愚痴を言ってた。俺がよう慰めてやってたけど、ついに耐えきれんかったのか、 やめてしまったよなぁ。ホント、ええ子だったのに..」 そしてフェルナンドは突然声をひそめた。「あんたもそうだと思うけどね。俺もああ いう人は好かねぇな」 「そうだねぇ」マイラも同じように声をひそめて言った。そしてふたりで目を細め、 小さく笑った。 フェルナンドはこのマンションの守衛のひとりだった。交代制だったが、マイラがマ ンションに来るときは、いつも彼がその受け付けにいた。フェルナンドは40代前後の 色黒の男で、父親がコロンビア人だと言った。いつも彼はマイラに気を遣って話しかけ たので、彼女は毎日彼と会うのを楽しみにしていた。ヒヒヒ..という彼の卑屈な笑い方 も、妙に親しみがあって気に入っていた。 「もう私も歳だから、この頃寒くなってきたせいもあるけど、朝起きるのが辛いね。 あんたなんて、まだまだそんなことないだろ?」マイラが言った。 「いやぁ、なに言ってんだい。確か俺より若かっただろう?」 「そんなことはないよ、私なんてもう36なんだから..」 「ほらみろ、そうじゃないか。まだまだ若い、まだまだ若いよ」そう言いながら、フ ェルナンドはヒヒヒ..と笑った。 「そんであんたはいくつなんだい?」 「それは内緒だよ。ま、あんたよりは年上だってことさ、セニョーラ」 「いやだねぇ。普通は女性の歳を聞いておいて、自分は言わないなんてことはないん だよ。ひどいじゃないかい」 「ヒヒ..今度教えてやるよ。それよりも、もう8時だよ。早く行った方がいいんじゃ ないか?」 マイラは彼が指す、壁に掛かった光沢のどぎつい時計を見た。 「ああ、そうだね。もう5分前だよ。じゃあ行くけど、フリアが来たらすぐに走って 行くように言っておくれ。申し訳ないけどね」 「分かってるって、セニョーラ。またあとでな..」 6階までの、コンクリートの匂いがする薄暗い階段を昇った。マイラは3階からは息 が切れ、膝に手をあてがって一段一段ふうふう言いながら足を上げた。以前はエレベー ターを使っていたが、住居者以外は利用するなと、このビルのオーナーに言われたこと がある。しかし他の賄い婦や清掃員などは聞いたことがないと言って、今でも普通に利 用している。マイラは自分だけが蔑視されているようで、いい気分ではなかったが、こ れもひとつの健康のためだと思い、諦めていた。 601号室に着いて呼び鈴を鳴らした。中から「マイラかい?」と言う声がして、扉 が開かれた。 「おはようございます、ご主人様」マイラは笑って丁寧に言った。 「おはよう。いつも時間通りだね」そう言ってこの部屋の女主人も笑い、彼女を部屋 の中へ通した。 この部屋の女主人はまだ20代だったが、躾がきちんとされていたのか非常にしっか りとしていて、そして優しかった。賄い婦だからといって、マイラを差別したような目 つきで見ることなく、普通の友達のように接していた。その点マイラは幸運だったのか もしれない。それに彼女は父親が経営する輸入業者の秘書をしていて付き合いも頻繁に あったためか、ほとんど家を留守にしている。そのためにマイラと顔を合わすのは、朝 の挨拶どきの一瞬しかない。そのときの彼女は、マイラにどこをどう掃除すればいいか 簡単に説明するだけだった。マイラは自分の仕事について、ほとんど不平を言われたこ とがない。それはマイラ自身が自分の経験から、仕事を完璧にやり遂げようとする姿勢 があるからでもあるだろう。 「そろそろ出かけなくちゃならないから簡単に言うけど、キッチンにある洗い物、洗 濯、そしてトイレの掃除をしたら、あとは適当にやってちょうだい。私の部屋はいつも の通りにしておいて。他の部屋は使っていないから掃除なんてしなくても大丈夫よ。ゴ ミはいつものところに出しておいて」 女主人は歯を磨きながら、聞き取りにくい声で言った。 「はい、セニョリータ。かしこまりました」 彼女は腕時計を見、慌てて洗面所で口を濯いだ。ソファにあったアタッシュケースを 持ち上げると、「もう最近天気がよくなくって、いやんなっちゃうわよね」と早口でひ とりごとを言った。そして自分の黒い革靴に布をあてて、光沢がちらりと見えるくらい に、簡単に磨いた。 「そうですわね、でも今日は雨が降らないと思いますが」 「そうよね、傘は持っていかないことにするわ」彼女は小走りに居間を通り抜け、ド アを開けながら、「それじゃあマイラ、あとはよろしくね。帰るときに鍵だけちゃんと してちょうだいね!」と叫んで出ていった。そしてドアが「バタン」と締まる音が聞こ えた。 「かしこまりました、セニョリータ!」ドアの方向を覗き込む格好でそう言うと、廊 下に響く彼女のヒ−ルの音が、ドアの向こうで遠ざかるのを聞いた。 彼女のマンションには、高級絨毯が敷き詰められている広い居間と、 彼女専用の部 屋、客室、そしてそれぞれの専用のトイレとバスがあった。キッチンはカウンター形式 になっていて、上の淡い光沢のある木製の棚には、いろんな国のお酒が並べられてあっ た。マイラが読める言葉で書かれているラベルは、ほとんど見つけることができない。 冷蔵庫は、女主人が一人暮らしだというのに、観音開きの大きなものだった。 流し場の横を通り抜けたところに洗濯機と乾燥機があり、その裏に賄い婦用の個室が ある。それは華やかな女主人のマンションの中に存在する、唯一まったく異質な空間だ った。狭苦しいシャワールームを改造したような畳一畳くらいのスペースと、隣接した むき出しのトイレがマイラに与えられたすべてだった。それはまるで仮借ない現実だっ た。この仕事をはじめてから、この空間に入って賄い婦専用のエプロンを着けるひとと きが、最も惨めな時間と言ってよかった。確かにそんな小さな自尊心にこだわって生き てきたわけでもないが、それはどんなに慣れようとも自分の中から取り払うことができ ないものだった。すぐにエプロンを着け、はやくこのマンションが放つ贅沢な空気の中 で仕事をしたい、そう思った。 キッチンへ行って洗い物をした。女性ひとりで住んでいるせいか、洗い物はいつもほ とんどない。マイラの娘が雇われている家族は大家族であったし、小さい子供が3人も いたので仕事は山ほどあった。それに一日中奥さんがフリアを見張り、ひとつひとつの 仕事に口を出したので、非常にやりにくいと娘はいつもぼやいていた。 そういう点で は、マイラは本当に恵まれていた。この日も皿を2枚、ワイングラスをひとつ洗い、水 を拭き取って食器棚に戻すと、それでひとつの仕事が終わってしまった。 女主人の部屋は素晴らしく整っていて、自分が手をつけてしまうと逆に汚れてしまう のではと思えた。それでもバスル−ムを掃除してベッドメイキングをしたあと、高級そ うな木製の机や椅子、本棚を雑巾で拭いた。 そしてふかふかの絨毯に掃除機をかける と、部屋の掃除も終わってしまった。 お客さん用の部屋とトイレはまるで使っていなかった。 居間の掃除も非常に簡単なものだった。 本棚には百科事典のようなものや、分厚い本が並べられていたが、まったく読まれて いないような気がした。ただの装飾物に過ぎないんだと、ひがみっぽく思った。背表紙 にはアルファベットで文字が書かれていたが、スペイン語はでないためにマイラには意 味が分からなかった。きっと英語で書かれているのだろうと、勝手に思っていた。 マイラがいつも気になっていたのは、品のある赤茶色の背表紙の、10巻お揃いの本 の前に置かれていた写真だった。微妙な光沢が優しく放っている、木製の写真たてにそ れは入っていた。マイラはその写真たてを手にとって、女主人と一緒に写っている若い 男を見た。白人系のその若い男は、女主人の肩を抱き寄せている。女主人も頭を彼の顎 の下にあずけて寄り添っていた。はじめは彼女の恋人だろうと思ったが、どんな週末に ここへ訪れても彼の姿はなかった。女主人はいつも忙しそうに仕事ばかりしていて、ま るで恋人と甘いひとときを過ごしているような、そんな雰囲気がない。 マイラは仕事をしながらあれこれと想像してみたが、答えを見つけるような手がかり は他になかった。だからといって、マイラは女主人にそのことについて尋ねたことはな かい。 自分のような立場の人間が、プライベートのことまでいろいろと詮索すること は、彼女のような賄い婦のあいだではタブーだからである。 マイラはこの若い男が気になって仕方がなかった。ただの好奇心によるものでもあっ たが、昔ショッピングセンターのショーウィンドウ越しにテレビで見た、アメリカ映画 の俳優に似ているからでもあった。その男は表情を変えずにタクシーばかりを運転して いた。まるでおもしろおかしそうな映画ではなかったが、頬にほくろのあるその俳優を なぜか好きになった。それ以来一度も見たことがなかったが、この写真を見たとき、そ の俳優を思い出したのだった。
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