長編 #3724の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
一本のピンチョをめぐる想い 「こういう国ってちょっといいわよね。どこがどういいってわけじゃないけど、なん かいいのよ。私って添乗でヨーロッパとかへは何度も行ってるでしょう? だからこう いう国に来ると、なんて言うのかなぁ..心が洗われるって言うのかな。そんな気分。な んか特別すごいってわけじゃないんだけど、そんな気分がするのよ」 結局なにが言いたいのか。杉谷にはよく分からなかった。 「でも本当になんにもないだろう?」 「それがいいんじゃない。こっちに来る前に、この国がどこにあるのか地球儀で調べ たんだけど、ホントに誰も見つけられそうもないところにあるのよね。ヒサトがこっち に来なかったら、死ぬまでこの国の名前なんて聞かなかったと思うよ。こんなちっぽけ な国で仕事してるなんて、なんか格好いいわよね」 なにが格好いいんだ。杉谷にはさっぱり分からなかった。 「もうこっちに来て何年? 随分経ったわよねぇ..」 「まだ1年半だよ」 「そう、1年以上も経ったのね..」 杉谷久人は中米のホンジュラスに、小さな建設会社から派遣されてきていた。ホンジ ュラスには中米の中でもはやくから日本の援助が入っていたため、このように多くのゼ ネコンが進出している。彼の仕事は首都の病院の建設計画に関わることで、プロジェク トチームのメンバーのひとりとして参加していた。 大橋美紀はツアーコンダクターで、欧米、オセアニア、アジアなど、日本人の好むよ うな国ならどこへでも添乗の経験がある。2年ほど杉谷と付き合っていたが、彼のホン ジュラス行きが決まると同時に別れた。そして半年後に同じ会社の同期と結婚した。杉 谷はまだ新婚の彼女が、どうしてひとりでここまでやって来たのか、さっぱり分からな かった。 「だんなとはうまくやってるのか?」 「まぁね..。でも私って月の3分の1、ひどいときは半分以上は家にいないじゃない 。彼はもう仕事やめろって言うんだけど、なかなかやめられないのよね。会社側もやめ させてくれないし、他に仕事口があるわけでもないしね」 大橋はうーんと大きく伸びをした。 「でもさ、結婚なんてはずみよねぇ..。籍入れるまではドキドキしたけど、今はなあ んだって感じ。大したことないじゃん、て..」 「そんなもんかな」 「そんなもんよ。子供ができたら今の生活も少しは変わるかもしれないけど、まだ欲 しくないしね。高齢出産だと言われても、30までは欲しくないわ。フミ子なんてさ、 もう3人目もできちゃったのよ。あんたなに考えてんのって聞いちゃったわよ。どうな ってんのかしら」 「フミ子って?」 「近所の豆腐屋の娘よ。幼なじみの。あれ、知らなかったっけ? あっそ..。そのフ ミ子って子がさぁ、しょうがないのよね。毎年のように子供産んじゃってさ。まだ結婚 して4年目よ。どうするのかしら、一体..」 杉谷はため息をひとつついた。そして外の景色を見、彼女が話すひとつひとつの単語 を上の空で聞いた。 あからさまにそう言う素振りをしても、彼女は文句ひとつ言わな い。とにかく喋ることが生き甲斐のような女なのだ。杉谷はそんな彼女のことを熟知し ていたし、また、彼女も杉谷があまり聞き上手でないことも充分に知っていた。 大橋は前日の夜、ホンジュラスの首都、テグシガルパに到着し、空港近くのホテルに 泊まった。この日は朝早くから杉谷を引っぱり出し、街の中を案内して欲しいと言った のだ。さすがにツアーコンダクターということもあって、まるで疲れを感じていないら しい。ロス・アンゼルス経由で来たのだが、総フライト時間は約14時間もあったし、 日本とホンジュラスとでは15時間の時差があった。しかし、それらのことは大橋には まるで重要なことではなかった。どんな国に行っても夜9時に寝ることができたし、朝 は6時に起きることができた。学生時代から海外旅行が好きだった彼女は、いつしか体 の中に宿る時間の感覚を、精神力でコントロールできるようになっていたのだ。 この日はそれほど天気のいい日ではなかった。空を覆っている薄っぺらな雲の暗さが 、街の全体まで染み込んでいるような日だった。 テグシガルパは一国の首都という割には華やかさのない街である。ふたりは車で市内 をぐるりとまわったが、とにかくまるで観光するところがない。ショッピングするよう なちょっとしたデパートもなかったし、昔からの伝統工芸を売る店があるわけでもなか った。 テグシガルパの中心部を杉谷の高級車で通り過ぎるとき、どの国にも存在する喧噪が 彼の神経を苛立たせた。狭い路地にびっしりと張り付いたような露店や、バスに乗る人 たちを急かす男たちの声が、彼は嫌いだった。 バスと車と人の往来に巻き込まれ、一 度、車が立ち往生したときがあった。どんなにクラクションを鳴らしても、車の前後を 行き来する人たちは、ぴかぴか光る高級車とその運転手をしらけた目で通り過ぎていっ た。そんな瞬間はいつも、この国自体に身分不相応な自分を、妙に後ろめたい目で振り 返るのだった。 隣に座った大橋が、街の様をどのように見ているか随分と気になった。しかし彼女は 窓の外をぼんやりと眺めているだけで、それに対して興味があるともないとも言わなか った。その往来を通り過ぎる長い間、小銭を少しくれと車に寄ってくる子供たちを無視 しながら、杉谷はなにも話さず、彼女に対してなにか恥ずかしいものを見せているよう な、そんな錯覚を味わった。 杉谷は困っていた。とにかく彼女がなんのためにこの国に来たのか、分からなかった からだ。 昼過ぎになり、ふたりは国道沿いの小さなレストランに来た。そこで昼食をとろうと 思ったのだ。南国を思わせるような大きな藁葺きの屋根が印象的で、一目見てここに決 めたのだった。テグシガルパは標高800メートルのところに位置するので、ホンジュ ラスが亜熱帯の国に区分されていても、年中通して比較的涼しかった。壁で四方を囲ま れていないこのレストランには、心地よい風が通りすぎている。 ここに来るときも、大橋はなにが食べたいとも言わなかった。 杉谷は大橋の方を見た。まだ彼女は他愛もない話をエンドレスに続けている。彼はた まりかねて、 「どこか行ってみたいところがあるのか?」 と聞いた。聞きたくなかったが、そう聞くしかなかった。 「そうねぇ。田舎とかに行ってみたいな。別に病気になるわけでもないでしょ。あ、 そういえば去年の手紙にはアメーバとかにかかって苦しんだって書いてあったわよね。 やっぱり危ないからそういうところはよそうかな。こういう国の田舎って衛生的によく なさそうだもんね。でもやっぱりあれかな..。ヒサトみたいに1年以上も住んでれば免 疫みたいなものができるのかしら。でもそうだとしたら不思議よね。私もさ、常々考え ていたんだけど..」 「あのさ、ロアタンに行ってみないか? スキューバダイビングやるんならいいぞ。 設備も揃ってるし」 「ロアタン島ってカリブ海の小さな島でしょ。私もそれくらいは知ってるわ。物価が 結構安いから、ダイビングのライセンスを取るのに人気があるんですってね。でもホン ジュラスを出たら、メキシコのカンクーンに行くことになってるの。だからいいわ。遠 慮しとく。あっちでどーんとお金を使うつもりだし。ここまで来てカリブ海に行かなく ったっていいわよ。それにマヤのコパン遺跡も興味ないな。そういう遺跡を見るならグ アテマラのティカルかメキシコのパレンケとかに行った方がいいもんね。これでもさ、 ここに来る前にガイドブックとかでいろいろ調べたのよ。それにしても、ホンジュラス の観光データが載っている本なんて、ほとんどないのよね。うちの会社じゃ、全然資料 がないんだもん。まぁ想像していた通りだったけど」 杉谷は肩をすくめた。大橋はこのホンジュラスに6日間滞在することになっている。 しかし残念ながら、彼女が興味を持ちそうな観光地がこの国にはない。 自分に会いに来たのだろうか.. 杉谷はふとそう思った。しかしその可能性はないだろうと思えた。 大橋とは喧嘩別れと言うわけではなかった。彼女は日頃から世界中を飛び回っていた が、外国で生活するのを嫌がったのだ。それは欧米といった先進国ならいいというわけ でもなかった。決して易しい仕事ではなかったが、日本に住みながら、世界中を駆けめ ぐるような、めまぐるしい生活が彼女には合っていたのだ。 「それじゃ、どこに行きたいというわけでもないのか」 「そうね。ここにいるあいだ、ぼーっとしているのもいいわ..」 稀に大橋は遠くを見る目で、息を吐きながら短い言葉を発することがある。そんな素 振りを数年振りに目の当たりにして、ああ懐かしいなと思う杉谷だった。 席に座ってから約30分が過ぎ、やっとウエイターがテーブルにやってきた。店が混 んでいるわけでもない。ただ彼らの仕事に対する常識があるかないかの問題だった。 この国の人種は主に、スペイン人と先住民族(インディヘナ)との混血だったが、こ のウエイターは、カリブ海沿岸に住む黒人とスペイン人との混血の血も混ざっているよ うな顔立ちをしていた。少しややこしいが、珍しくもない。髪は黒く、巻き毛で、襟足 だけを少し伸ばしていた。 杉谷は適当に腹のふくれそうなものを頼んだ。なるべく彼女がこちらの料理を味わえ るように考えたつもりだった。 「なにを頼んだの?」 「説明しづらいな。まぁそんなに珍しいもんじゃないよ。来れば分かるさ」 「それにしてもヒサトって相変わらずのんびりしてるわよね。 これだけ待たされて も、不平のひとつも言わなかったじゃない。日本だったら誰もお客なんて来ないわよ、 これじゃ」 杉谷は首を傾げ、苦笑した。 「他のレストランだって同じだよ。すべてそうだとは言わないけれど、だからってお 客が来なくなるってことはない。そういうもんなんだ」 大橋は声を立てて笑った。 「そういうもんなんだ..ってな言葉を言われちゃ、しょうがないわね。 でも、いい な。なんかこっちの習慣はもう分かり切ってるんだっていう態度よね。なんだかそうい うのっていいわぁ」 なにがいいんだ、まったく.. 「日本にいたときよりも、なんかサマになってるよ。 ほんと、格好よくなっちゃっ て..。私が引率するツアー客なんて、もうどうしようもない人ばっかり。でも海外旅行 がはじめてで、有名な教会や遺跡を見てはきゃぁきゃぁ言ってるミーハーな人たちはい いの。それが自然だと思うし、ガイドブックの棒読みだろうがちゃんとこっちの話に耳 を傾けてくれるからね。でもちょっと海外旅行に慣れてる人って、もういや..。いい加 減にしてって感じよ。そこら中の国に行ってるから、さも分かった振りをしたがるのよ ね。どこそこのホテルのサービスはどうだった、あそこの海はこんなに美しかったって 自慢したがるのよ。冗談じゃないわよ。どんなに通だからって、私よりいろんなところ に行ってる人なんていないんだから。そんなんで大きな顔をされると腹が立つのよ。ホ ント、いい加減にして欲しいわ」 杉谷は外の景色を見ながら、微笑んだ。昔付き合っていた頃から、言っていることが 何ひとつ変わっていない。こういうお喋りな人間は、同じことを誰にでも満遍なく話す 。だから今まで、誰になにを言ったかなんて、覚えていないのだ。 いい加減にして欲しいって、こっちが言いたいよ。 「でもさ、どんなにたくさんの国に行ったって、私が海外で生活したのって、ワーキ ングホリデーでカナダにいた一年だけでしょう? 確かに語学は上達したわ。でもそれ でカナダのなにを理解したかなんて恥ずかしくて言えない。金持ちの家でホームステイ してたし、付き合う連中は皆裕福なボンボンだったし、仕事だってすごく楽だったんだ もん..。今考えてみるとさ、なんか違うなぁって思うのよ」 なんかいいとか、なんか違うとか、まるではっきりしない。杉谷はいい加減うんざり していた。 「こぎれいな服着てツアーに参加して、誰もが知ってるような観光地の建物見て料理 食べて..なんかそんなものに満足している人たちがあほらしく見えるのよね」 すでに杉谷はまた外の景色を眺めはじめていた。国道をたまに数台の車やトレーラー が通り過ぎて行く。他に見るものなどなにもなかった。彼はもっとバスやトレーラーが 通り過ぎていかないかと、心の中で願っていた。そのたびに彼女のお喋りがかき消され たからだ。 「それに比べてさ、こういうなんにもないような国でも生活している人がいるってこ とに、なんだか心を打たれちゃうときがあるんだよね」 バスが通り過ぎたあと、そんな言葉が聞こえてきた。杉谷はふと眉毛をあげ、通りに 顔を向けたまま彼女の表情を盗み見た。薄暗い陽の光が彼女の表情に灰色の影を作り、 幾分貧相なものにしていた。 「こんな小さな国の人たちだって、ひとりひとりの人生に、私たちやヨーロッパ人の ような文明人と、同じ様なドラマを持ってるんだなって思うの。それがなんか不思議な のよ」 露骨な差別表現をする女だと、杉谷は心の中でぶつぶつ呟いた。 しかし杉谷もこの国に来て1ヶ月くらいしてから、そんななんでもないことに深く感 動したことがある。 中米はただでさえ世界から見捨てられたような地域だ。ロシアに対する東欧諸国と同 じように、中米カリブ海諸国はアメリカ合衆国の衛星国と断言できる。どんなに政治的 問題を抱えていても、事実上、合衆国以外の国の関与がされることはまずない。知名度 からしても、南米とまとめられてしまうことが多々ある。そういう意味からすれば、ま るで世界の世論からは見放されたようなところだ。 ホンジュラスという国は、そんな中米の中でもさらに特徴のない国だと言えよう。グ アテマラやコスタリカのように、特別な観光資源があるわけでもない。ニカラグアやエ ルサルバドルのように、内戦のイメージがあるわけでもない。また運河がもたらす利益 で、国が潤っているパナマのような国でもなかった。大橋が言うように、地球儀で見た ら豆粒のような小さな国。誰も関心を示さないような国なのだ。 ただ、そんな国でも数百万人の人たちが生活をしている。スイスなどと変わらぬ人口 を抱えているのだ。当たり前のことだが、それがなぜか不思議に思う。まるで聞いたこ ともなかった国。そんな国で仕事をし、生活している自分。不思議でたまらないのだ。 そしてそんな不思議さが、ふと言い得ない感動に変わったりする。しかしそれはここに 来て住んでみて、はじめて感じたことだ。 それを大橋はここに来る前から感じていたと言う。 複雑な気分だった。 しかし、だからといって彼女が自分と同じ気分を味わっているとは思えなかった。昨 夜着いたばかりの彼女に、なにが分かるというのか。少しでも彼女の言葉に動揺した自 分を振り返り、滑稽に思った。 ひとつため息をつき、また車やバスが通り過ぎるのを待った。 それから大橋は話題を変え、自分の夫のこと、実家との小さなもめ事、芸能界のうわ さ話、そして共通する友人の近況などを早口で話した。あと5日も残っているのだ。少 しずつ小刻みに話して欲しいと思ったが、彼女に限って話すネタがなくなることはまず あり得ない。付き合っていた頃、毎日会っていたってそうだったのだ。それが1年半も 会っていなかったとなれば..。
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