長編 #3184の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
電話の下のカラーボックスの横に小さな段ボールを見つけ、僕はのろのろと立ち 上がった。ここ数日、慌ただしかったので、処分するのをすっかり忘れていたのだ。 封をしていない箱を開けると、花柄のエプロンやシャンプー、歯ブラシが放り込ま れていた。さとみがここに来て過ごすために置いてあったものだ。 返そうとまとめたものの、適当な箱が見当たらない。会社帰りに寄ったデパート で、さとみの好みそうな淡い色の小箱を買おうとして、我に返った。別れようとし ている女に渡すには不似合いだった。結局、近所の店で小さな段ボールを買って済 ました。 僕は箱から一つずつ取り出しては、しみじみと眺めた。どれもさとみの匂いがし みついている。小さなスプレーの瓶に彼女の好きだった香水が入っていて、蓋を開 けるとほのかな香りが鼻をかすめて散った。甘ったるさやきつさがなく、僕はこの 匂いにいつもほっとした。何という香水なのか彼女に尋ねたら、彼女は細い肩をそび やかして言った。 「ひ・み・つ」 香水の名は最後までわからなかった。 さとみのに匂いに包まれていると、彼女がまだそこにいるように思えた。まだ幸せ だったあのころの彼女がそこで微笑んでいるような、そんな悲しい錯覚を引き起こす のだ。 一週間前、やっとの思いで決心した。律子をこのままにしておけないし、もうさと みへの未練もない。 久しぶりにさとみの部屋を訪れた。電話もほとんどしていなかったから、彼女がど うしているのかもわからない。時々、忙しいのね、電話ください、と短いメッセージ が留守電に入っているだけ。寂しそうな声を聞くと可哀相だと思うが、またあんなこ とを繰り返すのはごめんだな、と電話もしないでいた。 定時で退社し、一旦家に戻り着替えてから、さとみの部屋へと向かった。外はまだ 明るい。こんなに早く帰るのは久しぶりだ。残業しているか、少しでも早いときには 律子の部屋に転がり込んでいた。 夕焼けがほんのりと赤く染めた街を、煙草を片手にゆっくりと歩く。夕暮れの街が 好きだったし、さとみに会うのがやはり嫌だったから。 まだ、帰っていないかも知れない。 彼女の部屋の近くに公園があったのを思いだし、時間潰しにそこへ行くことにした 。 誰もいなくなった公園は静かで寂しい。ブランコに腰掛け、煙草に火をつけ、立ち 上る煙をぼんやりと眺めた。 暇を持て余すと、よくさとみとここへ来た。ベンチに座って子供たちを眺めながら 、 子供の頃は良かったよなぁ、などと年寄りじみた台詞を口にしては二人で笑った。誰 もいなくなるとブランコ目掛けてダッシュした。勢いよく背を押してやると、彼女は 子供のようにはしゃいだ。 ブランコに乗ってさとみはころころとよく笑った。あの時の笑顔をずっと保ってい てほしかったなんていうのは、身勝手なことなのだろうか。子供を見る度、「早く子 供が欲しいわ」と夢見る彼女の瞳が耐えられなくて、いつしかここに来ることもなく なった。 煙草を揉み消し、公園を後にした。振り返って見た公園は、静かで寂しくて、甘く 遠い匂いがした。 重い足を引きずりながら、僕は僕自身に言い訳を始める。 そもそも傷つけないようになんていうのは、綺麗事だ。とうてい無理な話。これ以 上付き合い続ける自信がないのなら、すっぱり切ってやる方がさとみの為になるので はないか。そうだ。そうに決まっている。 決心を固めた頃、さとみの部屋に着いた。 チャイムを鳴らしたが、応答がない。出直す気にもなれず、合い鍵を取り出してド アを開けた。 懐かしい匂いがした。さとみの匂い。 玄関にはきちんと靴が揃っていて、部屋の中は明るい。 「さとみ、いるのか?」 部屋の中に足を踏み入れて、僕は唖然とした。 部屋はもの凄い様相を呈していた。 カーテンは外れかけ、椅子は倒れ、雑誌がそこいら中に散らばっている。棚やテー ブルにのせてあった物は例外なく下に落ち、原形をとどめていない物さえある。陶器 の破片や絨毯に広がるコーヒーの染み。足の踏み場もないというのは、こういうこと かもしれない。 彼女はいた。部屋の真ん中で放心したように座り込んでいる。 「さとみ、何だよこれ。どうしたんだよ」 揺さぶっても反応がない。真っ白な顔。遠くを見る瞳。ぴくりとも動かない手足。 まるで人形だ。 それよりも‥‥。掴んだ肩のあまりの頼りなさに僕は驚いた。 「さとみ、おまえ、ちゃんと食ってるのか? ……おい、さとみ?」 肩の辺りで切り揃えてある綺麗な髪はぐしゃぐしゃに乱れ、ジャンパースカートの 肩紐が片方ずり落ちている。 「どうしたんだよ。さとみ、何とか言えよ。何があった? え?」 微かにさとみの肩が揺れ、表情を無くした顔が僕の方を向いた。 「あ……。哲也?」 まだぼんやりとしたまま、彼女は言った。瞳は僕を映していない。 「忙しかったの? ……電話しても、いなかった。さみしかった……」 「さ、とみ……?」 声が掠れる。これは……、正気なのか。彼女の大きく開かれた瞳と、色をなくした 唇が僕を不安にさせる。髪をかきむしりながら、手当たり次第物を投げつけて、部屋 を徘徊する彼女の姿を想像して、僕はぞっとした。彼女の肩を掴む手が震えた。抱き しめてやることもできない。ただ、早くここから立ち去りたい。 やがてさとみは大きく体を震わせて、はっとしたように辺りを見回した。そして、 僕を見るなり、しがみついてきて声を上げて泣き出した。 「哲也……わたしっ、怖いの。怖いのよっ!」 充血した目から大粒の涙が溢れ出す。目の下のくまが異様なくらいに目立っていた 。 僕は何も言えず、恐る恐る彼女の肩に手を回した。彼女はひたすら泣き続け、部屋 の惨状について問い詰めても、ただ首を振るだけだった。 何が怖いのかも聞けず、別れを切り出すこともできず、彼女が泣き疲れて眠るまで 側にいてやった。 睫毛を濡らし、死んだように眠っている彼女が、僕の見た最後の姿だった。 また、電話が鳴った。僕は電話線を引き抜いた。しんとした部屋に、線香の匂いと 香水の香りだけがゆらりと漂っている。窓を全開にして、僕は深呼吸した。 段ボールを押入の奥にしまい込み、取りあえず風呂へと急いだ。蛇口をひねると熱 い湯が噴き出し、白い湯気が僕を包んだ。ごしごしと音がするくらい念入りに体を洗 う。染みついたさとみの匂いを、さとみに関する全てのことを、抹消してしまいたか っ た。 いなくなってほしいと思ったのは事実だ。さとみが怖かった。彼女の狂気が自分へ 向けられるのではないかと不安だった。この一週間、さとみからの連絡を避けるため 、 ずっと律子の部屋にいた。さとみが死んだと知った時、驚いたがほっとしたのを覚え ている。 だが、死んでほしいと思っていたわけではない。 風呂から出るとすぐにチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 バスタオルで頭を拭きながら、僕は玄関に向かって大声で言った。ドアが開き、律 子がするりと入ってきた。物珍しげに、しげしげと部屋中を眺める。 「ふうん。きれいにしているのね。それにしても……」 律子は唇の端を持ち上げるようにして笑みを作った。 「どういう風の吹き回しかしら。今まで呼んでくれなかったのに」 口元に笑みを浮かべたまま、でも鋭い目で律子は聞いた。 「女の整理がついたから、かしら?」 僕は笑ってやり過ごした。 さとみが合い鍵を持っていたから、どんなに律子にせがまれても家では会わないよ うにしていた。鉢合わせでもされたら、とんでもないことになる。 でも、さとみはもういない。彼女の狂気から解放されたのだ。 「あら」 律子は投げ出してある喪服に目を止めた。 「ああ、クリーニングに出さなくちゃ」 「ご不幸?」 僕は律子の顔を見ずに答えた。 「……大学時代のクラスメイト」 そうなの、と言ったきり、律子はそれ以上詮索しなかった。 これでよかったんだ。昔の僕ならば、さとみを思って泣き暮らしたに違いない。だ が、心が離れていたから僕は彼女の死にそれほどショックを受けずに済んだ。さとみ も別れの修羅場を見なくて済んだのだから。 不幸中の幸いか。複雑な気分ではあるけれど。 さとみが死んで3ヶ月ほど経った頃、浩から電話がきた。大学時代のクラスメイト で、学生時代はよく遊んでいたが、卒業してからはほとんど会うこともなかった。 「浩か。久しぶりだな。どうしたんだ?」 さとみの通夜以来だな。そんな言葉を呑み込む。 「アルバム見てたんだよ。学生時代のやつ。そしたら、何だか懐かしくなってさ。元 気だったか?」 嘘だと直感した。浩はアルバムなど開いて思い出に浸るタイプではない。ぎこちな い口調。何かを隠す時、浩はいつもの流暢な口調が一転して、しどろもどろになる。 しばらく世間話をした後、浩が切り出した。 「実はさ。この前、街でおまえを見かけたんだ」 「なんだ。声かけてくれればよかったのに」 「女連れてたからさ。邪魔かなと思って。彼女か?」 浩の言いたかったことはこのことか。さとみが死んでまだ日が浅いのに、もう女を つくったのかと非難めいた口調からそう察しがついた。 「まあな」 一呼吸おいて、浩の低い声が言った。 「まさか、さとみが死ぬ前からじゃないだろうな」 浩は遊び人と言われていたが、実はさとみに本気で惚れていたらしい。僕と彼女が 付き合い始めた当初、ぎこちない空気が僕と浩の間に流れていたことを思い出した。 浩がまだ彼女にこだわっていたとは、正直思いもしなかった。 「……違うよ」 僕は平然と言ったさとみが死んでから、僕には罪悪感というものが欠けてしまった らしい。そうでもしなければ、僕は今日まで平然と過ごしてこれなかったのだから。 「おまえ、趣味変わったんじゃない? 派手そうな女だったよな。さとみとは正反対 っ て感じがしたよ。あーゆーのが好みだったわけ?」 まくし立てるような浩の物言いに腹を立てる気にもなれず、僕は静かに言った。 「あんまり人の女のこと、とやかく言うもんじゃないよ」 浩は黙り込んでしまい、やがて、聞き取るのがやっとの声で言った。 「なあ、哲也。気を悪くしないでくれよ。さとみは幸せだったんだよな。あんなこと になってしまったけれど、最期まであいつは幸せだったんだよな。そうじゃないとや りきれないよ。可哀相すぎる」 僕は一つため息をつき、優しく言った。 「僕はさとみのためにできるだけのことをした。あいつがどう感じていたかは、わか らないけれど。僕に言えるのはこれだけだ」 浩は何度もごめんな、と受話器の向こうで繰り返し、本当にさとみが好きだったん だと呟くように言った。 僕も彼女を愛していた。ただ、彼女の狂気までは愛することができなかっただけだ 。 あの笑顔が好きだった。 電話を切って、、どのくらいの時間がたったのだろう。がちゃがちゃという鍵の音 で、僕は我に返った。律子が立っていた。きっちりと束ねた髪とスーツ姿。会社から まっすぐここに来たのだろう。彼女はショルダーバッグを降ろし、小さくため息をつ いて、疲れた顔で笑った。 「ごめんね。遅いかなと思ったんだけど、来ちゃったわ」 時計は十一時を少し回っていた。この時期にしては早い方だろう。 「いいよ。まだ起きていたから。何か飲む?」 律子は首を横に振った。僕は自分のコーヒーを入れるため、立ち上がった。 決算期には、律子のいる経理課は忙しくなる。連日残業続きで、休日すらない時が ある。先週もその前も、彼女は休日出勤で、たまに会社からかけてくる電話ぐらいで しか話していなかった。会社での彼女は疲れてはいるけれど、充実しているように見 えた。僕は仕事をしている時の凛とした律子の顔が好きだった。 だが、今日の律子はどことなくおかしい。 「ねえ、これ、もらっていいかしら」 律子はウイスキーのボトルを持ち出してきて、グラスに注いだ。僕がコーヒーを手 に戻ってきても、彼女は黙ったまましばらくグラスを見つめていた。そして、あおる ようにそれを飲み干した。 律子は目に涙を溜めて僕を見た。ほつれた幾筋かの髪が、頬にはりついていた。 「どうしたんだよ? 会社で何かあったのか?」 律子は無理矢理笑顔を作った。 「いやね。どうかしているわ。ただ、忙しくて少し疲れているみたい」 僕は彼女の髪を優しく撫でた。僕と同じシャンプーの香り。 「不安なの……」 ぽつりと彼女が言った。 「よく眠れないの。ううん、眠ってはいるんだけど、夢を見てしまって。ぐっすり眠 っ た気がしないの。起きる度に疲れていくみたい」
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