長編 #2931の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
【5】 送り迎え 私が白い杖を持って一人歩きできるようになったのは、中学3年生からである。そ れまでは、家の近所や学校の敷地内は別として、知らない所へ一人で出掛ける勇気が なかった。私は田舎育ちのひどい自動車恐怖症で、近くにエンジンの音を聞いただけ でも足が竦み、その晩決まって自動車に轢き殺されそうな夢を見た。近頃は田舎でも 自動車など珍しくないが、私の子どもの頃にはめったに見掛けなかった。 私は名古屋の市電や市バス・横断歩道や陸橋・国鉄や名鉄の階段やプラットホーム のしくみが分からず、一人で歩けなかったので、長い休みの行き帰りには、大抵父が 送り迎えしてくれた。 当時汽車は2時間に1本しか無く、乗り遅れると大変である。列車はどれも満員で 押し合いへしあいで、それでも乗れる場合はまだしもいい。列を作って何時間も並ん で、乗車券の買えない時はがっかりする。もう4、5人という時にパタリと切符が売 り止めになったりすると、父は私を連れて駅長室へ行く。 「どうしても夕方までには、こいつを盲学校へ連れて行かにゃあならんので、切符 をなんとか融通してもらえませんか?」 駅員もしかたなく乗車券を作ってくれる。 それほどの満員列車だから乗り込むのにも容易でなく、ある時は強引に窓を開けて もらって飛び込み、ある時は石炭車によじ登って、真っ黒になりながら目的の駅につ いた。デッキから振り落とされた人も居たくらいである。 盲学校が海部郡津島町(今の津島市)に疎開していた頃は、家へ帰るのにまず、学 校から名鉄の駅まで4、50分歩き、電車で名古屋駅まで45分、汽車(その当時国 鉄のSL)に乗り換えて大府駅まで約40分、ここから自転車で帰るのが普通のコー スだった。大府駅よりも次の刈谷駅で下りるほうが中手山村にはずっと近いのだが、 父は汽車賃が10円節約になると言って大府駅で下り、2倍もの距離を歩くのだった。 自転車だと20分くらいだが、子どもの足では1時間以上掛かる。 大抵父は、大府の駅前で焼酎をひっかけてから帰ることにしているので、私を荷物 台に乗せると、ほどなく自転車が真っ直ぐ漕げなくなってしまい、いつも1里余の道 をノロノロと歩かされるのである。父がフラフラよろけながら引っ張る自転車の後に つかまって歩くのはいかにももどかしい。父にしてみれば、久しぶりに息子を連れて 帰るこの一時が平和そのものであったのかも知れないが、酔っ払いに付き合わされる 私にとってはいい迷惑である。1度などはあんまりじれったいので、わざと後から自 転車を押しぎみに歩いていたら、ふいに父がおこりだし、「そんなに押してもしかた がないじゃないか。おまえ自分で自転車を引っ張ってみろ。」と言って、私にハンド ルを持たせた。視力の無い子どもの私に重たい自転車をうまく引っ張れるはずがなく、 結局おそれいって、それ以後はどんなに退屈でも、父のペースに合わせてユルリ ユ ルリ歩かねばならなかった。 村に入ると父は、これもお決まりの飲み友達の家に立ち寄って、長々と座りこみ、 今やベロンベロンに酔い潰れてしまう。あまり長いので、しびれをきらしたある日、 私は一人で先に帰ろうとした。家まで僅か3、4町(3、400メートル)の距離し かなかったが、複雑に曲がりくねった露地道だったので、とんでもない方角へ迷い込 んでしまい、やっと家に辿り付いた頃には、父のほうが先に帰っていた。さだめし叱 られるものと覚悟していたが、格別咎められることもなく、むしろそのことがあって から、父は自分が店で酒を飲む時、私にも菓子などを買ってくれるようになった。食 い物に金をかけない主義の父にしては、不思議なくらいの思いやりであった。 【6】 ユーモラス 父は学校の勉強を軽視していたが、自分流の教育法には大いに自信を持っていて、 例えば、私が国語の教科書の〈牛若丸〉の1節を朗読していると、父が「『弁慶がな あ、ぎなたを持って』。ぎなたとは何のことだ?おまえのような読み方を棒読みとい うんだ。」と言った。たまたま私の読んでいた箇所が、古来、下手な読み方の代表例 として引用される件だったので、父がそこをタイミングよくとらえて批評した訳だが、 私は朗読に自信を持っていただけに、父の酷評を苦い思いで聞いていた。 また和歌の話をしていた時に、父が次のような読み変え狂歌をおもしろおかしく説 明して聞かせた。 「喉が鳴る、はや死にかかる、鬼は待つ、粕味噌のへのにおいかな」 元の歌は「のどかなる、林にかかるお庭松、霞ぞ野辺の匂いかな」というのだそう である。 次に述べるおとし話も、父が上機嫌のおり、よく聞かされたものだ。 「てんきゅうという名の男が、マージャンで大儲けして夜道を帰って来ると、蛙が 盛んに鳴いている。『アナタガタガタ、オレキレキレキ。アナタガタガタ、オレキレ キレキ。』てんきゅうは大いに感心して、『ウン、そうか。蛙のやつ、俺がマージャ ンに勝ったので褒めているんだな!』と満足して帰った。翌日、今度はマージャンに 負けてスッテンテンで帰って来ると、また蛙が鳴いた。『ハダカダ。ハダカダ。ハダ カダ。』てんきゅうは怒って、『こん畜生。俺がマージャンに負けたのを笑いおった な!』と言い、蛙を捕まえて、地面にたたきつけた。蛙は『キュウッ』と言ってのび てしまったが、『蛙のくせに俺の名前まで知ってやがった。』と、てんきゅうはあき れたという話だ。」 今日ほどテレビやラジオによる落語が普及していない頃のことで、おそらく種本が あったと思われるが、普段しかつめらしい父にしては、愉快な話である。 大好きな講談本を、布団に潜って兄に小声で読んでもらっていると、父は決まって 「早く寝ろ。」と叱った。そのくせ、夜中に目をさましてみると、その講談本を父が 一心に読んでいたりしたものだ。 ある晩、上の兄がイソップ童話集を読んでくれていたが途中で嫌になり、読むのを やめてさっさと離れへ引き揚げて行ってしまった。私はその続きが読んで欲しさに、 いつまでも泣きべそをかいていた。すると父がなんと思ったか、やおらそのイソップ 童話を取り上げて大声で読み始め、読んだの読まないの…!とにかく200ページも ある本のあらかたを読みつくし、「では最後にこいつを読んでやるから、そうしたら もう寝るのだぞ。」と言って、長い長い竹取り物語と、さらに三保の松原は羽衣の話 まで朗読してくれて、読み終った時には、既に夜の12時を過ぎていた。なにしろ日 頃は7時に寝ないと機嫌が悪く、酒に酔っ払った時など、夏でも5時前に戸締まりを して寝てしまう父のことだから、私のほうが呆気にとられていた。すっかり満足し、 にこにこしている私を見て、父は言った。 「おまえの顔は、さっきまで大雨が降っていたのに、今じゃあ銀の星がキラキラ輝 いておるぞよ。」 私はなんと言って冷やかされようが、嬉しくてたまらなかった。点字の本が1冊も 無く、教科書すらも手に入らない時代のことである。 その翌日もまた、残りの童話をいくつか読んで聞かせてくれたから、父もよほど気 分が良かったのだろう。 【7】 すいかとタバコ 食生活に関する父の見解は、味や風味よりも値段と栄養だった。飯炊きは父がして いたから、昭和20年代の我が家の食事はあわれなもので、麦飯に大根切り干しやか ぼちゃの葉や胡瓜の葉など、およそ食べられそうな物は手当たり次第に刻みこみ、メ リケン粉をたっぷり加えて、トロントロンの、雑炊ともすいとんとも見分けのつかな い物を拵えた。これが3度3度の主食で、とてもおひつに移すことはできないから、 真っ黒にすすけた大釜のまま飯台の真ん中に置いて、銘銘が茶碗に盛って食べる。量 こそ充分にあったが、質においては寄宿舎の御飯よりもよほど粗末であった。この状 態が、跡取りの兄に嫁をもらうまで10年余りも続いたのだからあきれる。それを思 えば、当世の食事の豪華なこと、もったいない限りである。 おやつには生のさつま芋や大根や人参をまるごとかじったし、渋柿の皮を薬研で粉 に挽いた物は甘くて香ばしかった。なすびのへたを縦に二つに切って中の硬い芯を取 除き、糸で数珠つなぎにして、軒下にぶらさげ乾燥させると、冬のおいしい御馳走に なった。米糠で作った塩まんじゅうは父の自慢のお茶菓子だったが、ザラザラと喉に ひっかかって、三つとは食べられなかった。 うちの畑でもトマトやスイカは良くとれたが、なにしろ父がせっかちに青いうちか らもいでしまうので、ついぞ真っ赤に熟したおいしいのを食べたことがなかった。そ の点よそからもらった果物のおいしいことといったら無い。今だに忘れられないのは、 近所のおばさんから見事なスイカをもらった時のことである。あまりおいしそうだっ たので、もったいないと言って、仏壇に供えたまま何日も食べさせてもらえなかった。 その間、家でとれた不味いスイカを先に食べなければならないのである。お盆が過ぎ てやっと許可がおり、さあ、取っておきのスイカを囲んで兄が庖丁を入れたが、途端 にがっかりした。もうだいぶ腐りかけていて、食べるとすっぱいこと一通りでない。 けれども折角楽しみにしていたスイカだから捨てるのが惜しく、口を歪め息をスウス ウ言わせながら、無理矢理食べたものである。この時ほど父を恨めしく思ったことも そうは無い。 ある朝のこと、私の汁かけ飯が嫌に煙草くさい。どうやらそれは、一番上の兄が七 厘のそばで刻み煙草を吸っていて、うっかりその灰をみそ汁の鍋の中に落としたもの らしく、他の家族の者もいくぶん煙草の匂いがするとは言ったが、私のほどひどくは ないらしかった。どうしても食べられずにいると、父が怒って「そんな贅沢を言うや つに飯は食べさせぬ。」と叱った。 昼になっても、私の茶碗の中には朝の煙草飯が残っていて、みそ汁の菜っぱと煙草 の匂いが冷え固まって、一層ムカムカする味になっていた。一口・二口と食べあぐね ていると、またも父が怒鳴ったので、私は泣きじゃくりつつ家の外へ飛び出し、心の 中で父を恨んだ。 「一生涯御飯なんか食べてやるものか!」 夕食が近付いた時、下の兄が見かねて、こっそり煙草飯をどこかへ捨てて来てくれ たので、やっと治まりはついたが、このことばかりは、父もちょっと無神経過ぎたよ うに思う。 【8】 蛇とカタツムリ 食用蛙やイナゴは私の大好物だったが、父は他にも、名の知れぬ鳥の卵や虫や蛙を 取って来ては、「これが△△の薬だ。」とか「このはらわたの中に栄養があるぞ。」 などと言って、私に食べさせた。川魚にはことかかなかったが、魚の骨まで奇麗にし ゃぶって食べ、とりわけ頭の部分には栄養があるというので、よくよく噛んで、最後 に残った大きな骨だけ吐き出すように躾られた。兎の肉・山羊の肉・カワニナやメダ カのみそ汁も食べた。 蛇を見つけると父は、それがマムシだろうと青大将だろうと、すぐさま棒で打ち殺 して食べてしまう。兄に命じて料理させ、皮を剥いでから、肉を竹串にクルクルと巻 き取って、醤油で焼いて食べると実においしい。蛇の骨も網で焼くと、ちょうど蚊取 線香そっくりの形に渦巻状に焼き上がり、ポキポキ折って食べると香ばしい。生きた マムシの目の玉は大層体にいいと言うので、丸飲みさせられたものだ。戦時中のジャ ングル生活をした訳でもないのに、私がこういうげて物を食べさせられたのは、ひと えに父の愛情からであって、私の視力障害の原因が母乳や栄養の不足だったことを深 く反省したものであろう。蛇だったら今でも食べられそうな気がするから、幼い頃の 習慣は恐ろしい。 雨上がりのある日、下の兄が窓越しに言った。 「ワアーッ!桜の木にでんでん虫がいっぱい居るぞ。」 私は早速捕って来てもらって、窓の敷居の上に並べて遊んだが、たしか18匹いた と記憶している。そこへ父がやって来て言った。 「オオ!いいものがあるなあ。よしよし。明日の朝そいつを焼いて食べさせてやろ う。ねしょんべんの薬になるぞよ。」 そう聞いて私はびっくりした。いかに父でもカタツムリまで食べようとは思いもし なかったからである。元来私は虫類があまり好きでない。てんとう虫やこがね虫のよ うな甲羅の硬いのや、芋虫や青虫のような体の軟らかいのの、どちらも苦手である。 中でもカタツムリは、ネバネバしていて嫌な匂いがするので、特に嫌いというより気 持ちが悪い。それを事もあろうに食べなければならないとは、考えただけでもぞっと する。かといって、父から予告されている以上、どこかへ捨ててしまう訳にもいかず、 ほとほと弱った。 いよいよ翌朝、約束は実行にうつされた。炭火のカッカッと燃え盛る七厘に金網が のせられ、兄に言い付けてカタツムリを焼き始めた。「チュウーッ!チュウーッ!」 と甲高い音をたてて虫が焼けていくその光景、無残できみの悪いその音と匂いは、今 思い出しても胸が悪くなる。 「チュウーッ」と言う音から次第に「ジュクジュクジュクッ」と言う音に変わり、 やがて黒く焼き上がったカタツムリがテーブルの上に置かれた。父はそれを私に食べ ろと言う。いかに父の命令とはいえ、さすがにこればかりはどうしても口に入れるこ とができず、泣き出しそうにしていると、父は言った。 「こんなおいしい物がなぜ食べられぬ。おまえたちは普段シジミやツボ(タニシ) なんぞを喜んで喰っているが、あれこそ川の泥水やたんぼの糞尿に浸っているから、 じつに汚らしい。それに引換えカタツムリは、樹木の上に住んでいるからよほど奇麗 なはずだ。さあ、さっさと食べろ、食べろ。」 そう言いつつ父は率先して、カタツムリの身を殻から抜きだし、モリモリ モリモ リ食べて見せるのである。私は仕方なしに、それこそ死ぬ思いで、三つ四つのカタツ ムリを口の中にほうりこんだが、ヌルヌルして気持ちが悪く、到底喉を通らない。そ のまま逃げるように便所へ行って、みんな吐き出してしまった。
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