長編 #2929の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
彼の肺から吐かれる空気が、いつもよりも熱をおびているのは、何も過度の運動のた めばかりではない。 水はまだ、氷のようにまで冷たくはなかったが、火を使って行う全てを禁じられた神 山では、ささやかな風が兄熊を骨の髄まで冷やしてくれた。節々がきしみ、悲鳴を上げ る。 動いていなければ、それこそ凍えて死んでしまうかもしれない。鈍った頭で兄熊は考 えた。それでもなお。 歯の根はいまだに合わなかったが、足どりは確かで、目も星明かりをしっかりと捕ら え、木々の間に見えかくれする石を、かけらも見逃さなかった。 これはと思う石に触れ、掘り起こす。 大地からむき出した骨に似て白い石もあれば、闇の結晶した黒い石もある。 一抱えもあって、とても持ち出せない石。子どもの頭ほどもない、小さな石。 手あたりしだいに掘り起こしていては、とうてい夜明けまでに帰れない。 直感があるはずだった。その石ならば。 石が、彼に語りかけてくるはずだった。 祭りの夜、選ばれた男が、どんなふうに石に呼ばれるのか。 過去に存在した、七人の先達のものがたりを、子供だった兄熊は何度となく聞かされ ていた。 石の呼びかけに導かれ、祭りの前日に山を降りてきたのは異鳥の男。 太陽が昇りきるほんの数瞬前に帰り着き、誰よりも大きな石を持ち帰った青菜。 山にある、あらゆる石に手を触れたと伝えられる黒蛇。 今は、元の名前も失い、巫として、その女の名前でだけ記憶される男たち。 誰もが勇気のある、屈強の男たちだった。 兄熊のような、なりたての大人ではなく、みな選ばれるべくして選ばれた男だったの だ。 赤牛の死は、早すぎた。 男を失った彼女は急速に老い、その生命はもう、うっすらとしたかげろうめいた、死 に近いものでしかなかった。 巫の素質を持った、ただ一人の子供、真魚は早産の赤ん坊だ。母の死で、むりやり取 り上げられた。 その相手に選ばれた兄熊も同じ。 本当なら、時間をかけて二人は巫の力を高めるはずだった。 何の修練もせず、未熟なまま放り出されてしまった。 その気持ちが、兄熊をよけいに駆り立てる。 もしや、見逃してしまったのだろうか。石がささやくかすかな合図を、自分の愚かな 耳が、聞き逃してしまったのではないか。 後悔と不安で、彼の舌は白く乾き、犬のように荒い息を吐いている。 石だ。石を見つけなければ。 いや、それよりもそろそろ、山を降りる算段をしなくては。 帰り道のどこかで、石は待っているかもしれない。 小石を追いかけ、川を渡ってからもう随分来てしまった。 神山は、遠い西の山脈に比べれば小さな丘のようなものだったが、それでも夜明けま でに去るには充分に深い。 もしも、石がもっと遠くで呼んでいたら。 その考えが頭から離れない。 あと一歩、あと一歩進めば見つかるかもしれない。 そう思い、進んだ。 しかし限界はある。夜明けは一歩一歩確実にやってくる。 選ばれた者の足で、たどりつけない場所に石はないと教わってきた。 しかし、兄熊は若く自分の限界を知らない。 どこに、自分の限界点を見いだせばいいのか、わからない。 がむしゃらに進み、手や足はしびれて、いつか痛みを感じなくなった。 それでも不思議と、不正だけは考えつかなかった。適当な石を持ち帰り、神聖な祭壇 に祭るなどとは。 何百個目かの石を掘り返しながら、とうとう兄熊は自らの限界を知った。 石を抱いて、掘り起こそうとし、手も足も、とっくに力を失っているのを。 自分の、このささやかな若い身体を支える力も、声を上げてあきらめを呪い叫ぶ力も 、残っていなかった。 真魚は死ぬ。真魚になるはずの兄熊もまた、ここで朽ち果てるのだ。誰にも知られず 、正式な葬りも受けられず。 彼の後任者が彼を見つけるだろうか。 それとも、野の獣が彼の屍肉を食らうだろうか。 目を閉じ、涙の熱さと死して後の孤独を感じながら兄熊は微笑む。 土に半分も埋まり、石の一つを抱いておそらく人生最後になるはずの祈りを捧げた。 石よ、この祈りが聞こえるか。 聴こえたなら、答えてくれ。 俺は、どうすればいい。 俺では、おまえを見つけられないのか。 それでは真魚はどうなるのだ。 なぜ、俺しか相手のいない真魚を、 石よ、おまえは選んだのだ。 ふさわしい相手を持つ女を、もっと年上の女を選べばよかったのだ。 声を出す気力も体力もない。 頭の中で、何度も祈りを繰り返す。 力はどこにもなかったが、ただ涙だけは、いくらでもあふれて黒い土に吸われた。 疲労と、情けなさと、孤独と、哀れな真魚の運命を思って、兄熊の涙は後から後から 流れては、消えた。 真魚は、耳では聞かなかった。目で見たのでもなかった。 ただ、大地の吸った熱い涙と流した者の強い思いを、祈りの中で確かに受けた。 「兄熊」 彼女のつぶやきは炎の渦に巻かれて、誰の耳にも届かない。 けれど、ただ一人、その名を持ち、彼女のために苦行を続けた男の祈りの中に、確か に響いた。 私の声が、届いているか。 私の歌を、おまえは聴くか。 私が何者なのか、その真実を知るか。 私は昔契約した。この力を与えると。 私が誓った女はもういないが、新しい誓いを求める女がいる。 おまえは、その女に力を与えるか。 おまえは女に救いを与えるか。 おまえの祈りは私に届かないが、 おまえが女と祈るなら、 おまえの祈りは私のものだ。今、こうしているように。 祈りの中で、確かに真魚は兄熊を視た。 兄熊は石で、石は兄熊の姿をして、口を使わずに祈りを伝えた。 石の祈りが、二人の祈りと重なっている。 祈りの中で、確かに兄熊は真魚を視た。 背後に燃える、祭りの炎が、真魚を黒く縁取る。 幼いいとこは美しい女で、あらわにされた額には赤い模様を冠のように描き、威厳と 優しさと信頼を持って、彼の祈りと言葉を待っていた。 気を失ったのは、一瞬のことか。 天を仰げば、星々はその座を夜明け近くに移している。 石を枕に、短い夢を見たのかと疑った。 祈りの中で、確かに兄熊は真魚を視た。 それ以外に、どんな徴が必要だろうか。 夢と祈りと、どちらであろうとも。 彼はふいと立ち上がり、自分がひととき枕にしていた石を眺めた。 大きくはない。さりとて小さくもなく。 石は、持ち上げれば信じられないくらい、軽かった。 そういえば、赤牛の石に似ている。なぜ、この石に気付かなかったのか。 いや。 神山の中にある石なら、どの石でもよかったのだ。 黒い土を払い、湿った、堅い石を胸に抱く。 抱いた肌はこころなしか、あたたかい。 石が、すべての力を使い果たした自分に、新たな力を注いでくれている。兄熊は知っ ていた。 それでなければ、とうてい立ち上がれない。 歩くことも、帰り道を知ることも、とてもできはしない。 夜明け前に、帰り着くことも。 ぼろくずのように身も心も疲れ果て、奇跡でも起きない限り、石を抱いたまま、永遠 の眠りについた。そう、奇跡だ。 祈りの中に見いだした、あの美しい女が真魚だと、兄熊は疑わなかった。 胸に抱いた石が、自分でありまた同時にこの、神山そのものであることも。 確かに、自分は夜明け前に帰る。奇跡のように。 足は軽く、兄熊の目に、星明りは満月の明りよりもたよりになった。 今では、誓いそのものになった神の石を抱いて、兄熊は確実に、つゆほどの迷いもな く進む。 もう、兄熊ではない。八人目の真魚だ。 もう一人、小さな少女の真魚は、初めての意識の交感におそれと戸惑いを覚えながら 、まだ祈っていた。 夜明けには、八人目の真魚が誕生する。 彼と、彼女と、一つの石と。 彼の抱えた石のぬくみを、小さな胸に抱きながら、彼女は夜明け前の最後の祈りのた め、新たな枝を炎に投げ込んだ。
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