AWC 長編



#5491/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:40  (191)
鼻親父と豆腐の美女(5)    時 貴斗
★内容
  夜走る

 今夜は気分が安楽な状態なので、走っている。私はいわゆるランナー
ズ・ハイになりやすい体質なので、困ってしまう。脳内麻薬が大量にあ
ふれだすのだ。こういう時には変な物を見やすいので、注意が必要だ。
 ふと、いつもは行かない細い路地に入ってみる気になった。木々で両
脇がおおわれている、さびしい道だ。走るにしたがってだんだんゆるや
かな坂になり、私は山に入ったのだと悟った。時々現れる明かりを頼り
にして進む。しばらく行くと、道が開けて、広場に出た。周りを家々が
囲んでいる。山奥の小さな集落だ。奇妙なことに、真ん中に線路があっ
て、路面電車が停まっている。どうやらここが終点のようだ。おかしい
な、と私は思う。なぜこんな山の中に?
 いけない。これはきっとランナーズ・ハイだ。注意しなければ。
 車両は一つだけで、中から明かりがもれている。二人の人物が見える
が、様子が変だ。言い争っているようだ。私は興味をひかれ、電灯に誘
われる羽虫のようにふらふらと近づいていった。
「どうするんだ。爆発するぞ」
「落ちつけ」
 聞こえた会話に驚き、思いきってドアを引き開けた。乗りこむと、二
人の男が振り返った。黙っているので、私の方から声をかけた。
「どうしましたか」
「ああ、あなた、来ちゃだめです」と、背が低い割りに顔の長い男が言
った。肌の色が妙で、だいだい色に近い。あごがしゃくれている。「早く、
遠くに逃げて下さい」
「待て、待て。二人で考えるより、この人にも加わってもらった方がい
い。三人寄ればもんじゃの知恵と言うじゃないか」頭が変にとがってい
る、体の細い男が言った。まるで鉛筆のようだ。
「あの、もんじゅ」
「さあさあ、こっちへ来て下さい」
 鉛筆男にうながされて、私は彼らのそばに行った。そして、そこにあ
る物を見て仰天した。
「これは、爆弾では?」
「そうです。爆弾です」だいだい色の男が答えた。彼の顔はまるで三日
月のようだ。
「いつ爆発するんですか」
「それは分かりません。時計がついてないんですよ。しかし、おそらく、
もうすぐです」
 精密な機械が茶色い筒を取り囲んでいる。だが、彼の言う通り時を刻
むような物は何もない。
「今我々が直面している問題は」鉛筆が言った。「青い線と赤い線のどち
らを切ればいいかということなんです」
「ああ、青い線と赤い線」
 ドラマ等で爆弾解除のシーンが出てくると、必ずといっていいほどこ
うなる。どうもしらじらしい。本物を止める時にも、二つのうちのどち
らかを切断する仕組みになっているのか? それともやはりこれは幻覚
なのだろうか。
「早く決めなければいけません。あなたはどっちだと思いますか?」
「え、そう言われても、私は爆弾のプロではありませんし」私は狼狽し
た。「ただの通りすがりのおじさんですし」
「我々も同じです。直感で決めるしかありません」だいだい色の男は目
をつり上げた。
 我々も同じ、と言ったが、そもそもこいつらは何者なのだ?
「では、せっかく三人いることですし、多数決で決めましょう。おい、
お前はどっちを切ればいいと思う?」
「ああ、俺は青かな。赤っていかにも危険そうだし」鉛筆は三角形に近
い額に冷や汗をかきながら答えた。
「俺は赤だ。赤は血を連想させる。俺は血を見るのが嫌いだ」相当あせ
っているのだろうか。だいだい色は変なことを言う。「さあ、一対一にな
りました。あなたの選択で決まります」
「えっ? そんな、私? 困ります」
 私は腕組みし、考えた。片方は周りの家をすべて吹き飛ばす。片方は
みんなを救う。そういう時人間は、どちらの色をどちらに割り当てるだ
ろうか。犯人はどうして、そんなトラップを仕掛けるのだろう。私が犯
人だったら、どっちを切っても爆発するように仕組む。
「青、いや赤、いや青、赤、青」
 答は出ない。出るはずがない。
「決めて下さい。時間がありません」だいだい色はつめよった。
「そうです。あなたが運命を握っているのです」鉛筆も語気を強めた。
「待って下さい。私は理学にも工学にも強くないが」私はつばを飲んだ。
「何らかの論理的な解決があるはずです。爆発を回避する、科学的、工
学的な方法が」
「どうしろというのです。我々にはこれの仕組みが分からないのです
よ? 知識を持ち合わせていないのですよ?」だいだい色は怒鳴るよう
に言った。なぜ脅すのか!
 こんなことが本当にあるだろうか。彼らが狐や狸ではないと、どうし
て言えるだろう。狐と狸、プラス、ランナーズ・ハイ、これは強力だ。
 青か、赤か。幻か、本当か。どっちが狐で、どっちが狸なのか! シ
ョートケーキとモンブラン、どちらを選べというのだ! 私は一体何者
なのだ! 人類はどこへ行くのだ!
 その時、私の頭の中に光に包まれた女神が現れ、微笑んだ。
「あなたはお婆さんに席をゆずったことがありましたね。あなたは池で
おぼれそうになっている蟻を助けましたね。だから、私が救ってあげま
しょう」
 そして、脳内に様々な数式が嵐のように流れた。
「おお」私は恍惚とした。
 だいだい色と鉛筆はきょとんとした。
「おおお」私は喜びに打ち震えた。そしてひらめいた。すごい。天才だ。
「方法が分かりました」
「あの、大丈夫ですか?」三日月顔が心配そうに言った。
「片方だけ切って、爆発しなければいいのでしょう?」
「ええ、ですから早く決めないと」
「まず、両方の皮をむいて、銅線を剥き出しにして下さい」
 二人はしばし呆然としていたが、私の自信に満ちた口調に動かされて、
作業を始めた。てきぱきと進み、完了した。
「では、二つの銅線をくっつけて下さい」
「こうですか?」と鉛筆が言った。
「そうです。そしてどちらでもいいから、その状態で切るのです。片方
はカットされても、もう片方を橋渡しにして電気が流れます。だから爆
発しません」
「すごい。あなたはすごい人だ」
「そんな方法があったのか。いやあ驚いた」
 彼らの賞賛に私は酔った。
「では、いきますよ」鉛筆はカッターを銅線にあてた。寄り集まった細
い線が、一本一本切れていく。
 もうすぐ完全に分断される。その瞬間、私は一目散に逃げ出した。
 後ろを振り返らず、全速力で山を駆け下りた。叫んでいたかもしれな
かった。何かが間違っているぞと、本能が教えたのだ。やっとの思いで
家に帰り着いた私は、ぶっ倒れるようにして眠りこんだ。


 翌朝、私は昨日のことがとても気になってきた。結局爆発は起こらな
かったのだろうか。大丈夫だろうか。
 今度はゆっくり歩いて、山の中に行った。狐や狸にばかされたわけで
はなかったらしく、路面電車はそこにあった。どこにも異常はないよう
だ。
 用心して私は乗りこんだ。誰もいない。もう何十年もそこに放置され
ているような雰囲気だが、散らかっているゴミは真新しい。ガムのかす
や、ジュースの缶といったものがある。
 確かに電車はあったが、どうもあの男達は幻のような気がしてならな
い。爆弾も見当たらないし、あれはいったい何だったのだ?
 私は、昨夜男達が立っていた場所に行き、床を見て、はっとした。そ
こには柿の種とつまようじが落ちていた。
「つまようじだったのか」と、私はつぶやいた。


  おふくろの味

 なにしろ私は単身赴任なので、飯は自分でなんとかしなくてはならな
い。というわけで、今日もスーパーでお買い物だ。
「アーラ、ペンサーン」
 アウチ。豆腐の美女だ。
「オヒサシ、ブ!」彼女は日本女性のように微笑んで口に手をあてた。
「リデース」
「あの、私はペンという名では」
「オトコガヒトリサビシク、オカイモノデースカ」彼女は長い髪をかき
あげた。「ニョウボウ、ニゲマーシタカ」
「いえ、いえ。私は単身赴任でして」
「ナンダトオ!」目付きが鋭くなった。「ニンシンシマシタカ? タイヘ
ンデスネー」
「違いますよ」
「オーウ、ゴメンクダサイ、ワタシ、ニホンゴ、リカイシヨウトシマー
ス」彼女は眉を寄せた。「ソウゾウニンシン、デスカ?」
「一文字も合ってないですよ。いや、漢字で」
「あなたが好きなのはお母さんなのよ奥さんじゃないのよそんな事だか
らスーパーで晩御飯を買うはめになるの」
 え? 私は自分の耳を疑った。
「あ、あの、流暢な日本語ですね」
「ナンノコトハナーイ。ドラマノセリフ、オボエタデース」
「ああ、なんだ。びっくりしました」
「ナニヲカイマスカ。レバニライタメデスカ。オミオツケデスカ。アル
イハ、レバニライタメツケデスカ」
 私はレバーとにらを鬼のような形相でまな板に叩きつけている料理人
を想像し、嫌な気分になった。
「まあ、焼き魚と、ご飯と、ひじきくらいですかね。あなたは何を?」
「ワタシ、オフクロノアジ、カイニキマーシタ」
「肉じゃがとか、味噌汁とか、そういうのですか」
「ワタシ、オフクロノアジ、ミタコトナーイデス。ナンデモ、アタタカ
イモノノヨウデス」
「ええ、ですから、肉じゃが」
「スーパーノウリモノ、ミンナヒエテマース。デモ、キャサリン、スー
パーデカエル、イイマース」
 キャサリンとはいったい誰なのか。
「おふくろの味という食べ物があるわけじゃないんですよ。子供の時に
お母さんが作ってくれた」
「サノバー、ビチ!」
 何なのだこの人は。
「ソレハサテオキ、オフクロノアジトイウノハ、ナンデスカ。フルーツ
デスカ。オカシデスカ」
「いや、そういうのじゃなくて。いや、場合によってはそういうのです
が」
「アア、イジラシイ!」
「あー、落ちついてくーださい。ユー、チャイルドの頃、イートしたも
の、ママンが作ってくれて、おいしい、おいしい、ユーのメモリーに、
残っているもの」
「あなた私のことバカにしてるの? これでももう日本に来て五年にな
るのよ」
 じゃあもっと、ちゃんとしゃべれよ。
「アー、デモ、アナタノチセツナセツメイノオカゲデ、ダイタイワカリ
マシタ」
「ああ、そうですか。まあ、分かったのなら良かった」
「ワタシ、トウフヲカウデース」
 えっ? 嫌な予感がする。
「アツカンニ、ソイツヲウカベ、キュットヤルデース。キュキュット。
オフクロノアジ、ソウイウコトニシテオクデース」
「いや、それはたぶん、おふくろの味ではないと思うんですけど」
「トウフ、ドコニアリマスカ? アア、アソコニアリマース」
「あの、異次元の味が、あの、やめておいた方が」
 彼女は私に向かって微笑んだ。
「モシモウマカッタラ、アナタニモ、テホドキシテヤッテモイイデース。
ソノトキワタシハ、アナタノイエ、カナラズミツケダシテヤル!」
 どうか来ませんように! 私は必死に祈った。



#5492/5495 長編
★タイトル (VBN     )  01/10/24  00:43  (195)
鼻親父と豆腐の美女(6)    時 貴斗
★内容
  おやじギャグ襲来

 今日は嫌な一日だった。バイオリズムが低調だったのか、幸運の女神
がそっぽを向いたのか。ささいな偶然が積み重なり、いっきに破裂した
のか。確率のいたずらか。とにかく、延々とおやじギャグにせめられる
という、大脳新皮質がすっかり疲弊して真っ白になる日だった。
 公園のトイレで手を洗っていると、紺の背広を着た、腹が出ていて頭
髪の薄い男が、私の横に立ち、水道の栓をひねった。
「はあー、やれやれ」
 お疲れのご様子だ。彼は突然ポケットからくしを取り出すと、残り少
ない毛を手入れし始めた。
 気にせず去ろうとする私の背後で、男はいきなり言った。
「おお、髪をとこう」
 他には誰もいない。私に言っているのか? 少し驚いて振り返る。彼
は相変わらず髪を整えている。
 彼の手の動きが止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「うわあっ」
 思わず叫んでしまった。彼の顔には獣の剛毛が隙間なくはえていた。
「あなた、どうしたんですか、その顔」
「それはお前を、食べるためだよ!」
 私は自分でもわけの分からないことを何やらわめきちらしながら、一
目散に駆け出した。
 随分と走って、やっと止まる頃には、額に汗が流れていた。横にお爺
さんとお婆さんがいて、のどかに立ち話をしている。
「隣りの家に囲いができたってねえ」と、少しの期待をこめた表情で、
じいさんは言った。
「ええ、ええ。何でも泥棒に入られたそうでねえ。かわいそうにねえ。
山田さんも気をつけた方がいいですよ」
 山田と呼ばれた老人が、意気消沈していくのが、私の心に伝わってき
た。
「囲いだけでは心配なので、犬を飼ったんですけど、その犬がまあほえ
ること、ほえること。迷惑なんですけど、そうも言えなくてねえ。それ
でも足りなくて、防犯システムとかいうのもつけたんですって。高かっ
たらしいですよ。ほんと、物騒な世の中になりましたねえ」
「へえ」
 ああ、なんと言うことだ。お爺さんの寂しい気持ちを私は感じ取る。
いたたまれなくなって、その場を離れる。
 これはひょっとして、おやじギャグなのか? そんな疑いを抱いた私
に向かって、執念に燃えているような表情の大男が走ってきた。彼はい
きなり私の胸ぐらをつかんだ。
「ダジャレを言ってるのは、誰じゃ!」
 足が宙に浮いたまま、私は彼を凝視することしかできなかった。
「俺だよ!」
 男は駆け去ってしまった。これはもう間違いない。おやじギャグだ。
風水か、仏滅とかそういうのか分からないが、今日は私にとってそんな
日なのだ。おお、おお、なんと恐ろしい!
 逃げなければならない。なんとかして、この呪縛からのがれるのだ。
 だが、少し進むと、向こうから中年男が歩いてきた。何かやるぞ。私
は身構えた。突然左右からころがってきた二つの巨大な歯車が彼をはさ
んだ。
「ぎやっ!」男は叫んだ。
 あうう。なんてつまらないんだろう。このままでは脳が疲弊してしま
うぞ。
 八百屋の前を通り過ぎようとした時、店のおいちゃんと主婦の会話が
耳に入ってきた。
「この長ねぎ、もっと安くならない?」
「ちぇっ。奥さんにはかなわねえなあ」
 鋭敏になってきた私には分かった。ねぎを値切っているのだ。しかし、
気づかない方が幸せなのだ。
 まるで、霧の濃い森をさまよっているかのようだった。いつの間にか、
私は公園に来ていた。そこには親子がいた。だが、私は完全に緊張の糸
が切れていた。
「パパ、漏れちゃうよ」
「よしよし、トイレに行っといれ」
 子供は分からなかったらしく、駆け去ってしまった。だが、私は全身
の血が凍っていた。おやじギャグには、体の、そして心のぬくもりを完
全にうばってしまう効果があるのだ。これは恐怖だ。
 そんな目に何度もあっているうちに、すっかり日が暮れてしまった。
私はおでんの屋台を見つけた。腹を満たすことにし、椅子にすわった。
「親父。はんぺんと、こんにゃくと、卵と、あと熱燗」
 ほどなくして、うまそうなそれらが目の前に置かれた。だが、すぐに
私の体は緊張に支配された。そうだ、油断してはならない。
 親父を、ちら、ちら、と見る。何かするぞ。どんな手だ。どんな手で
仕掛けてくるんだ。私は、どうすればいいのだ。
 先制攻撃だ。それしかない。
 私は湯気をたてているこんにゃくに、指を押し当てた。熱い! しか
し、我慢するのだ。ねじるようにして、なんとか突き通した。
 そのまま持ち上げ、さらに第二関節まで進めた。それを親父に向けた。
「こんにゃく指輪!」私は叫んだ。
 彼の蔑むような視線が、私を射抜いた。
「寒ぶっ」親父は自らの体を、両腕で包み込んだ。


  チョー・コギャル

 私は職場から家へ向かう電車の中にいた。途中の駅で乗ってきた女子
高生と思しき二人組みが正面の席にすわった。片方は、ブームが去りか
けている山姥メークの子だ。驚いたのはもう一人の娘だ。髪は真っ白、
目の下は黒く、ほほにあざがある。良く見ると、それが全部化粧なのだ。
山姥メークならぬ、白髪鬼メークだ。最近はこんなのがはやっているの
か。
 山姥娘がひざの上に広げた雑誌を異形の子に見せている。
「このカマドって、ちょーやばくない?」
 カマド? ああ、人気バンドのボーカルか。
「あああ、ちょう、あざとい。ちょあざ」
 大丈夫なのか?
「えー? そんな脂ぎってるー?」
 何を言っている、山姥。待てよ? 「あざとい」ってどういう意味だ
っけ。
「おおお、おお、ちょお、こざかしい。カマドはちょこざ」
 こざかしい、か。ホラーな雰囲気なのに、面白い事を言う、彼の態度
を言っているのだろうか。
「知ってるー? カマドの彼女、他の男とくっついたんだって。浮気さ
れてんの。ちょー笑える」
「おーのーれー、姦夫姦婦によって、おとしいれられたのか。ちょう、
呪わしいー」
 震えている。恐ろしい目つきだ。
「でさー、カマドったらあー、その女から慰謝料が欲しいとか言ってん
の。ちょーあぶねー」
「ちょう、嫌気」
「そーうよー、嫌気さすって、感じよねー」
「カマドは……うっ」
 白髪娘は突然自分のみぞおちをおさえた。
「ちょ、ちょっと優子、大丈夫?」
「カマドは……って言うかカマドよ……復讐するのだ。姦婦に、ああ生
まれてこなければ良かったと後悔させるような、地獄の復讐をするのだ
……って言うか、ちょう復讐」
「追っかけの子がいてさー、しつこくカマドにくっついてまわるんだっ
て。朝起きて、ドア開けたらそこに立ってるんだって。それって怖くな
ーい?」
「護符を貼るのだ。あらゆる入り口に護符を貼るのだ。そして、どんな
ことがあっても絶対に出てはだめだ。朝が来たと思っても、決して戸を
開けてはいけない。ちょーやばいぞ」
 誰なんだ、お前は。
「でさー、持ってきた手料理渡そうとするんだって。それが、これくら
いの弁当箱なんだって」
「小さいつづらを選ぶのだ。大きいつづらを選んではならない。チョベ
リブブって感じ」
 ブブ?
「カマドったら、その追っかけのこと、豚とか言ってんの。ひどくなー
い?」
「藁の家に住んではいけない。丸太小屋もだめだ。レンガ造りの家なら、
狼に襲われはしない」
 電車は駅に着き、停まった。二人は相変わらずしゃべっている。白髪
娘は枯れ木に花を咲かせろとか、血を吸えとか、変な事ばかり言ってい
る。これが、コギャルの次に来るブームなのだろうか。
 山姥は窓の外を見た。
「ねえ、ちょっと。優子が降りる駅じゃなーい?」
「なにおうっ!」
 慌てて立ち上がり、よろよろと歩いていった白髪の目の前で、無情に
もドアが閉まった。
「あーけーろー。ここから、出してくれー」
 電車は走り出した。


  さよなら、鼻親父

「口の中に、虫歯がいるよ」
 鼻親父が歌っている。
「羽根は四枚、脚は六本」
 相変わらず嫌な歌だ。
「ほうらほら、飛び立とうとしているよ。神経をちょん切って、歯茎か
らぼこっと抜けて、大空に羽ばたいていくよ」
「いい加減に……」
 やかんのふたを開けた途端、あやうく腰を抜かしそうになった。彼は
口親父になっていた。とても、嫌だった。
「おや? 顔が青いよ」
「お前こそどうしたんだ、その顔」
 唇と歯があるが、奥は真っ暗闇で、どうなっているのか分からない。
「鼻でいるのが一番居心地がいいんだが、ほら、飽きるだろ」端がつり
上がった。笑っているらしい。「しかし、太ももやあごになっても、なん
だか分からないし。目、鼻、口、耳、あとは指くらいか」
「普通に、顔をのせればいいんじゃないか?」
「悪趣味だなあ」
 どっちがだ。
「今日は一つ、言いたいことがあるんだよ」
「なんだ」
「もうそろそろ、ここを出て行こうと思う」
 え? あまりにも突然の言葉に、私は動揺した。
「へえ、そりゃまた急に。でも……」
 でも、出ていってくれるなら、それにこした事はない。
「でも、どうしてかって? わしも長い間、この家に幸運をもたらして
来たが、もう十分だろうと思ってな。他の不幸せな人を救ってやらんと
な」
 そういう奴だったのか? 違うような気がするが。
「ああ、そうかあ。それは残念だなあ」私は悲しく見えるように、眉を
下げた。「でも、まあ、仕方ないか」
「分かる、分かるよ。なごり惜しいだろう。悲しいだろう。こらえてく
れ」
「ああ、本当に。何か、できることはないか?」
「いや、いいんだよ。あんたの涙を見ないうちに、わしは行くよ」
 親父はやかんから出ると、床に水を滴らせながら、空中を漂っていっ
た。後頭部は赤いUFOのようだった。そして彼は、寂しそうに振り向
いた。
「それじゃあ、元気でな」親父の前歯が、泣いているように見えた。
 突然、ドアが開いた。
「ハーイ、ペンサーン」
 なぜ豆腐の美女が! 
 私は何か言おうとした。だが、遅かった。彼がむこうを向いた途端、
二人は熱いキスをした。
「ブーリー、シット!」
 彼女の猛烈な発音が、親父を吹き飛ばした。


<了>



#5493/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:37  (180)
お題>涙(上)       青木無常
★内容
 腐臭の底に気配を感じて、アリユスは顔をあげた。
 窓外には、眼前の惨劇に似合わぬ午後の陽光。人影ひとつ見あたらない。感じた
違和感の正体はつかめぬまま、あらためて室内の惨状に向き直る。
 かたわらで、口と鼻をおおったシェラが耐えかねた風情で上体を折った。
「だいじょうぶ?」
 同じく膝をついて少女の背中に手をかける。ごめんなさい、といいかけてシェラ
は激しくせきこんだ。
「外に出ていたほうがよくない?」
 背をさすりながらいう。少女は弱々しく首を左右にふったが、言葉は出ない。口
をひらけば充満した腐臭がなだれこむからだろう。
「待ってて」
 いいおいて立ちあがり、麗しき幻術使は結印した。口中で呪文をつぶやく。
 開け放たれた背後の扉から、びょおと風が鳴いた。吹きこんだ流れはすさまじい
勢いで縦横に逆まき、雑然とちらかされた家具類にさらなる無秩序をほどこしたあ
げく、腐臭とともに窓から外へと過ぎ抜ける。意志を持つ小さな台風のようだった。
 軽減した悪臭とひきかえに、民家の内部は文字通り足の踏み場もなくなったが、
苦情を申し立てる住人もおそらくいまい。なぜなら、かれらは臭気の源と化してい
たのだから。
「なにがあったのかしら」
 えずきのあいまにシェラがつぶやく。無論、アリユスにも答えなどない。
 室中の家具をなぎ倒しながらもがき苦しんだとおぼしき五つの屍は、どれもすさ
まじく腐敗していた。腐肉喰いの虫がむきだしになった臓器に小山とたかり、ぞわ
ぞわとうごめく。アリユスの風によって払われたはずの刺激臭がはやくも、濃密に
立ちのぼり始める。
 そして、床一面をおおった腐汁らしきもの。壁や卓上などにもかなり目につく。
汚液をしたたらせた巨大な蛞蝓のたぐいが、ところ狭しと這いまわりでもしたかの
ようだ。
 吐き気をこらえながら、異変の原因をさぐろうと懸命にあちこち視線をとばすシ
ェラに、アリユスはいった。
「出ましょう。ここにいても気持ち悪くなるだけ。何もわからないと思う」
 少女は素直にうなずく。
 開け放した扉をくぐり屋外の空気を吸いこんで、二人は同時に深い安堵の息をつ
いた。臭気は外にも立ちこめていたが、気になるほどではない。
 汚汁は小川わきの砂利道を、ずっと先へとのびている。
「里が……」
「あるでしょうね」
 眉根をよせるシェラのつぶやきを、アリユスがひきとった。
 道にできた吹き出もののごとき腐汁を追って、最初にたどりついた民家がこのあ
りさまだ。先にあるだろう人里の状況を想像すると言葉すら出ない。
 屋内の屍の腐り具合からすれば、かれらの悲劇的な死から数日は経過していると
思えたが――奇妙なのは家わきにしつらえられた竈に火が入っていることだ。かけ
られた鉄釜には野菜と香辛料を煮こんだ汁が、沸騰しながらもまだ底に残っている。
くべられた薪も余力は充分。
 太陽は中天を巡ってまもない。昼食のしたくがはやめに行われたのだとしても、
数刻と経ってはいない計算になる。
 そのあいだに、何が起こったのか。そしてたったそれだけのあいだに、平凡な田
舎家の家族とおぼしき五つの屍を腐敗させたのはいったい何なのか。
 答えは、つきまとう気配にあるとアリユスは考えた。屋内にいたときにかすかに
感じた、あの気配だ。
 幻術使は四囲をながめわたした。定かなものは何もない。
「何かさがしているの?」
 眉根をよせて少女がきいた。上の空で、ええ、とだけ答えつつ女幻術使はなおも
つかみきれぬ気配を追う。
 ぎくりとした。
 二人とも。
 シェラが幻術の弟子として、アリユスとともに旅するようになって一年ほど。多
少の術は会得したものの、まだまだ素人の域を脱していない。
 そのシェラにすら、はっきりと感じられるほどの異様な気配が、濃密に渦をまき
はじめたのである。
 そして不意に――
 二人は息をのんだ。
 眼前の路上に、もやが立ちのぼる。
 かげろうともとれるほどかすかなゆらめきが、見るまに渦をまきながら収斂し、
やがてゆっくりとひとつの形をとりはじめた。
 人の姿と思えた。
 戯画のごとき人の姿だ。
 ゆらゆらとゆらめきながら、顔かたちらしきものがひらめいては消える。定まら
ぬままにそれは音もなくたたずみ、ただ濃密な気配だけが戦慄と化して二人に吹き
つけてくるのだった。
「何か用かしら」
 アリユスが優雅な口調で問いかける。もちろん視線に油断は微塵もない。
 かげろうのようなものは――応えるがごとく、不安定なその像を前後にゆすった。
 と不意に、収斂と拡散をくりかえしていたその姿が凝結した。
 もやとも薄布ともとれる白い像であることに変わりはないが、明確に目鼻立ちを
備え、衣服まで着こんでいる。いや、衣服を模しているというべきか。
「あら」
「まあ」
 二人は同時に口にした。アリユスは感嘆、シェラのはとまどいが濃厚だ。
 さもあろう、もやのとった形は、どことなくシェラに似ていた。少女を男の子に
変えれば、こんな姿になるかもしれない。
「この波長はなじみやすい」
 白い少年は淡々とした口調でいった。シェラはますます困惑を深める。
 くすりと笑いをもらし――アリユスは真顔で少年に向き直った
「で、どういったご用向き?」
「おまえたちは何者か」
 即座に返った応答は、アリユスにも困惑を伝播した。
 頓着するふうもなく、白い少年はつづける。
「奇妙な気を放っている。人間ではないのか」
「あら失礼だこと。わたしたちのどこが人間に見えない?」
 アリユスは大げさに憤慨してみせた。
「人間にしては奇妙に気配が強い。おれは今日まで、おまえたちのような者に遭っ
たことがない」
「わたしは幻術使よ。この世界と――そう、あなたのいるそちらの世界との境目に
立って、こちらの理法を超えた力を借用するたぐいの人間、といえば理解してもら
える?」
「それは巫師のようなものか」
「ん、まあ近いわね」
 少年は――あるいは、少年の姿をかたどったものは、無表情にアリユスとシェラ
を見つめた。あげく、
「理解しがたい」ときた。「おれの知る巫の者は、何ら人間と変わるところなどな
かった。おまえたちは明らかに異質だ」
「喜んでいいのかしらね、このセリフ」苦笑しつつシェラの耳もとにささやき、あ
らためて異怪に視線を向ける。「ところで、そんなわたしたちにも教えていただけ
るかしら。あなたこそ何者?」
 淡々と少年は答えた。
「おれは神だ」
 アリユスは寸時、疑わしげに眉をひそめた。が、かたわらのシェラが心底から驚
いた顔をしているのに気づき、思わず苦笑する。
「で」やや緊張を解きつつ、あらためて問いかける。「この状況を招来したのは、
もしかして神であるところのあなた?」
「否であり、応でもある」
「あら哲学的。さすが神さまだわ」皮肉じみたセリフにも、眼前の“神”は顔色ひ
とつ変えなかった。「でもわたしたち、神さまの理解力にはとうてい及ばないの。
申し訳ないんだけど、そんなわたしたちにもわかるように説明していただけないか
しら?」
「よかろう」“神”は真顔でいった。「この所業は、わが肉体が行ったものだ」
「まあそうなの。では、あなたは何? 魂?」
「人間の言葉にあてはめれば、それがもっとも適切だ」
「じゃ、もうひとつ。あなたがその“肉体”とやらにこれをやらせているの?」
「ちがう」あいかわらず淡々と“神”はいった。だがその一瞬だけ――アリユスに
は、少年の姿をしたその者の顔貌に苦渋の色が浮かんだように思えた。「あれはお
れの制御を受けつけぬ」
「ふうん」つぶやき、アリユスはつぎの言葉を待ったが、少年の姿をしたものは真
顔で見つめ返してくるばかりなので、しかたなくきいた。「で?」
「おまえたちには、力がある。その力で、おれをおれの肉体に還すことはできるか?」
 眉間の皺をますます深めながら、アリユスは横目でシェラに視線を向けた。
 きょとんとしながらも、シェラは応諾の意志を視線にこめて見返した。ひとの頼
みを断れない娘なのだ。
 苦笑をもらしつつ、アリユスはいう。
「それは依頼?」
「依頼とは?」
「ひとにものを頼むときは、報酬を呈示するものよ。わたしたちがあなたに肉体を
とり戻させたときには、かわりにあなたは何をしてくれるの?」
「なるほど、そういうことか」口調に得心がこもった。「できることはいくつかあ
る。病を遠ざけるか? 家の不幸をとり除くか? 田畑に実りをもたらすか? 不
死や寿命の延長は、おれにはできない。子孫の繁栄も尺がながすぎるからだめだ」
「なんだかお参りの文句みたいですね」
 シェラが不思議そうに“神”に向かっていった。
 その言葉に、アリユスはハッとした。まさしくそのとおりなのかもしれない。
「あなたはこの近くに、神として祀られているのね?」
「そのとおりだ」
“神”は答えた。
 なるほど、とアリユスはつぶやく。
 土地に根づく精霊が、人間の築いた堂や社などに宿る例は少なくない。充分な力
を持ち、人間の言葉や意志などを理解できるものは、可能な範囲でその願いに応え
る場合もある。願いがかなうという評判が立てば、人々はいよいよその存在を神と
崇めたてまつる。そういった人間の意志や気を受けて、最初は小さな存在であった
としてもやがて“神”の名にふさわしいだけの風格と、場合によっては力を増幅さ
せていくこともないわけではない。
 通常、それらの存在は幻術使や賢者たちのあいだでは“地神”と呼ばれる。
 この“神”も、その地神のたぐいであろう。
「わかったわ」アリユスはうなずいた。「じゃあ、わたしたちに憑いている病のひ
とつも取り除いてもらえるかしら」
「よかろう」いって神は、つい、と手をひとふりした。「終了した。おまえには、
胃の腑によくないものがとり憑いていたのでそれをひねりつぶした。しばらくはだ
いじょうぶだろう。おまえは目に立つ病の源を持っていない。ほかの願いはあるか?」
 問いかけは、シェラに対してのものだ。
 少女はびっくりしたように目をむき、考えこんだ。あげく、
「わたしには何もありません」
「それは困る」地神は淡々と口にした。「何かないか」
 シェラは困惑しつつ、再び考えこんだ。自分の願いをかなえてもらおう、という
よりは、相手の要請に応える手段はないのかと懸命になっているのだと、アリユス
にはわかった。
 やがて、少女がおずおずと口をひらく。
「わたしの家族が、みんなで仲良く暮らせるようにしてもらえますか?」
「よかろう」地神は答え、瞑目した。が、しばらくもしないうちに再び目をひらき、
「だめだ。距離が遠い上に、おまえの家族に憑いているものはどれもひどく力が強
いか、あるいは魂に刻印された妄執が根づきすぎている。それに――おまえ自身に
も、おれには想像すらつかぬほどの存在が憑いているな」
 ハッとしてシェラは、アリユスと目を見交わした。
 ほかに願いはないか、と神は重ねる。
 少女は哀しげに首を左右にふった。
「それでは、おまえはおれの要請を受け入れることができぬ」
「だいじょうぶです」とシェラは、努めて明るくうなずいてみせた。「わたしはア
リユスの弟子だから、アリユスが報酬をもらったなら、わたしもわたしにできるこ
とは何でもします。いきましょう」
 有無をもいわさぬように、率先して歩きはじめた。
 アリユスは“神”の顔を見た。“神”は見返すことなく、すたすたと先をいく少
女の背中を追いはじめる。あわてて後に従いながら、瞬時見た横顔に困惑を見出し
たのは気のせいなのだろうか、と疑問を浮かべた。



#5494/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:41  (162)
お題>涙(中)       青木無常
★内容
“肉体”のあとを追うのは簡単だった。腐臭を放つ汚汁を追えばいい。が、進むに
従ってアリユスは、惨状の範囲が拡大していくことに気づいた。
 最初に遭遇したときは、人ひとりが歩いた程度の幅にしか残っていない腐汁が、
徐々に広がりはじめたのだ。
 それはやがて道の周囲に生えた雑草のたぐいにも影響を及ぼしはじめた。しおた
れたものが増えていき、やがて明らかに溶解した残骸がそれに混じりはじめた。数
軒の民家にいきあたり、最初のそれに劣らぬ惨状を見出したがそのころにはあたり
一面、腐敗する生の残骸と化してもいた。
 道も四囲も汚汁にどっぷりと浸かっている、というわけではないのでどうにか跡
をたどることはできたが、アリユスが指先で少し触れただけで痺れるような痛みと
ともに猛烈な悪寒を惹起した。汚物に足を踏み入れでもしたら、靴をだめにするく
らいではすみそうにない。
 おそらく、転がる屍も一瞬にして腐敗してしまったのだろう。
「ねえ」アリユスは“神”に問いかけた。「あなたの“肉体”が制御できなくなっ
たのはなぜなの?」
 シェラについて先をいく“神”は、しばらくは無言のままだった。
 が、やがてふりかえりもせずひとりごとのように語りはじめた。
「最後の贄を喰ろうたときから、ああなった」
 いつからかは定かでない。気がついたとき彼は、村人から崇められる存在として
山中の堂に巣くっていたのだという。
 供物はさまざまだった。果実、野菜、時には家畜とおぼしき肉。彼の味覚をもっ
とも満足させるのは肉だった。ほかのものは手をつけないか、多くを残したが肉だ
けは最後の一片までしゃぶりつくした。やがて供物はもっぱら動物の肉が納められ
るようになった。“神”はすべて喰らいつくした。
 願いごとは、かなえることもあればかなえないこともあった。気まぐれからそう
することもあり、彼の手には余る願いの場合もあった。それでも奉納が絶えること
はなかった。
 ある日、死者をよみがえらせてほしいという願いが届けられた。死神から死者を
奪う所業は手に余ったので放っておいた。よくあることだった。だが誓願者は毎日
のように供物を捧げ、同じ願いをおいていった。
 かまわず供物だけを貪っていると、ある時――人間が供物として捧げられた。若
い少女だった。
“神”はそれを喰らう。美味だった。骨までしゃぶりつくした。生きたまま喰らう
のも、それまでは知らなかった快感を“神”にもたらした。
 彼はあくる日も、妙なる供物を待ちうけた。だがそれが届けられることはなかっ
た。あくる日も。あくる日も。それからは、ときおり死んだ動物の肉が奉納される
ことはあっても生きた人間の贄が捧げられることはなくなった。死んだ動物の肉は、
以前ほどの魅力を喪失した。どうあっても人間を喰らいたい、と彼は渇望するよう
になった。
 だから、それを捧げた人間の魂をのぞき、そこに刻印された容貌を見た。そして
その形どおりに泥水をこねて肉体をつくりあげ、それをあやつって請願者のもとへ
届けた。
 その日のうちに、山ほどの供物が捧げられたが、“神”の所望する人間の肉では
なかった。“神”は失望し、泥のかたまりをあやつるのをやめた。
 すると、泣き叫びながら請願者がやってきた。帰ってきたはずの息子が動かなく
なったと嘆きかなしみ、人間を贄にしつづけることは長である自分にも不可能だと
訴え、死んだ動物の肉でそれに変えることはできぬのかと問いかけた。
 彼は人間の姿を模してそのものの前に現れ、それはできぬとこたえた。請願者は
退散した。
「そのとき、その願いごとをしたひと自身を食べなかったのはなぜですか?」
 おぞましげに話をきいていたシェラがふりかえってきいた。
“神”はしばし無言だったが、やがて「それはできない」とだけ答えた。
 口調に畏怖がこもっているように、アリユスには思えた。
 話から類推するに、彼はもともと何らかの肉食獣に宿った精霊であると考えられ
た。獣であれば、人間への恐れをその魂に刻みこまれたものは多い。その名残が彼
のなかに残っていて、捧げられたものしか受け入れることができないのではないか。
 が、あえてそれを質そうとはせず、さらに神が語る言葉に耳を傾けた。
 またしばらくのあいだ、供物の捧げられぬ日々がつづいた。飢えに苛まれながら
神は堂にいた。するとまたある日、動かぬ息子を得た請願者が再来した。
 贄はどうした、と問うと、村に祟りを下してくれ、という答えが返った。
 先に捧げた娘は、人目を盗んでさらった村の幼童であった。そういうことを幾度
もくりかえしてはそのうちに誰かに見つかるし、第一人間をくりかえし贄にさしだ
していればそのうちに村人は絶えてしまう。それよりは例えば十年に一度と期限を
定めて定期的に贄をさしだすよう定めてしまえば、ならいごととして絶えることも
なく長い年月つづけることができるだろう。だがいくら村の長である自分でも、今
まで捧げなかった贄をいきなりさしだせと村人にいってもだれも肯んずることはあ
るまい。だから祟りを下せ。
 そういったようなことを、請願者はどもりながら語ったのだという。
 十年に一度というのは気が遠くなりそうなほどながいスパンだったが、まるで手
に入らぬよりはましだと彼は考えた。
 だから腹黒い長の言葉に従って、村の田畑を無差別に根こそぎすくいとり、贄を
さしだせ、さしださねば片端から喰らいつくそうぞ、とひとびとの魂に語りかけた。
 しばらくして、ふたりめの贄が堂に届けられた。満月の夜だった。彼は陶然とし
ながら生きた娘の肉を喰らいつくした。
 それから泥のかたまりをあやつった。ものを食うふりをし、かたことで語らせ、
ときおりそこらを歩かせる、といった程度だがそれでも父親である村長は嬉々とし
て泥塊に語りかけ、母親はなにくれとなく世話を焼いた。ひとの肉は無理でも、堂
には定期的に肉を届けるようにもなった。彼は泥をあやつることをつづけた。
 同時に、ひとの世の営みをつぶさに観察することになった。ひとには男と女とが
いて、むつみあい子を設けることを知った。そして十年めに、つぎの贄がさしださ
れた。
 彼はひとのまねをしてその娘とむつみあってみた。だがさほどの興は覚えなかっ
た。営みをやめて彼は娘を喰らい、泥塊をあやつりながらつぎの十年を待ちつづけ
た。
 やがて村長は死に、その妻も死に、何人かいたうちの息子たちのひとりが長の地
位を継いだ。“神”はあいかわらず泥人形をあやつりつづけたが、以前のごとく熱
心に泥塊の世話を焼くものはいなくなった。試しにあやつるのをやめると、死んだ
ものとして埋葬された。
 その後も供物を持って願いを捧にくるものは減らなかったし、十年めには新たな
贄がさしだされた。面倒になったので、ひとの願いをかなえることはいつのまにか
やめていたにも関わらず。見返りを求められることもなく、彼は存分に贄を喰らい
楽しんだ。つぎの十年も。そしてそのつぎの十年も。
 必要はなくなったが、人間のようすを観察するのはやめなかった。人間たちの日
々の営みは、奇妙に彼の興味をひいたらしい。
 彼は喰らい、観察した。
 ある年、ひとつの魂が産声をあげるのを彼は感得した。その魂の輝きは、奇妙に
彼を惹きつけた。
 生まれた幼子は娘だった。何が特別だったのかはわからない。ほかの人間とは、
魂のありようがまるで違うように彼には思えたが、どこがどう、とは自分にも定か
ではなかった。わけもわからぬまま彼は娘の成長を見守り、ものごころつくように
なってからはひとの姿を真似てその眼前に現れては語りあい、しばしばともに時を
過ごすようになった。
 娘は神と交信できるものとして、巫女と崇められた。それほどの器量よしという
わけではなかったらしいが、彼にはそんなことはどうでもいいように思えた。ただ
娘とともに過ごす時間がひどく大切であるように思えた。
 やがて娘は年頃に育ち、生まれた時とはまた違う輝きを発するようになった。そ
の輝きに彼は抑えようもなく魅かれるようになった。試しに、一度きり試みただけ
の、男女の交わりをしてみた。ひとの発するようなあえぎや歓喜が彼に訪れること
はなく、行為そのものには感興を覚えなかったが、しばらくして娘のほうから交わ
りを求めてきたので、定期的にそれをするようになった。
 そうして、新たな十年めが訪れた。巫女の娘は十六になっていた。当然のごとく、
贄に選ばれた。神に気に入られたものならば、贄にはふさわしかろうと。
 期待もこめられていたかもしれない。少女を贄として出せば、以降はあたら若い
命を無意味に出さずともよくなるかもしれぬ、と。
 彼自身にもわからなかった。
 巫女は村内に建てられた神の宮から、山中の堂へと贄として移され、そして夜が
きた。少女はおそれてはいなかった。微笑みながら神の入来を待ち――そして彼は
少女を貪り喰った。何も考えてはいなかった。ただ十年分の渇望が、ためらいもな
く少女の喉笛に焦点を結んでいただけだった。
 それから一両日を彼は、堂でひとりきりで過ごした。語りあう者のない時間は、
ここ数年では初めてのことであった。
 そして気づいたとき、彼の魂は肉体から分離していた。
 肉体は勝手に堂を出て歩き始めた。ひとの姿すら留めてはいなかった。獣じみた
姿はとろとろと腐りはじめ、あとに汚汁を残していった。あやつられるように村を
目ざし、行き当たった民家になだれこんで驚き逃げまどう家族をつぎつぎに貪り喰
った。貪り喰う端から、人間たちは彼と同じように腐れて落ちた。腐れ死んだ屍に
は興味を失い喰らうのをやめてそこらに投げ捨て、肉体はほかの獲物を追いまわし
た。
“魂”は、暴虐きわまるその所業を見守ることしかできなかった。肉体に戻ろうと
試みても、まるでうまくいかなかった。
「肉体が行っているのは、おれがひとの肉の味を覚えて以来、やりたくてたまらぬ
行為だった。思うさま人間を貪り喰らう。おれはいつも飢えていた。喰らいたくて
たまらなかった。だが何かがおれのその飢えを抑えていた。いまおれの肉体は抑制
をものともせずに、望んでいた行為を行っている。だがおれには何の感興もない」
「でしょうね」ため息とともに、アリユスはいった。「で、その肉体を捨てること
はできないの? つまり、もうひとつ別の肉体を用意することは?」
「やってみたが、できなかった。あれ以外に、おれの肉体はないらしい」
 そう、とアリユスは重ねて嘆息する。
 肉体から分離した魂を呼び戻す呪文なら知っている。肉体が生きてさえいれば呼
び戻すことはできるが、この場合にもその呪文が有効なのかはわからない。
 だが問題はそれよりも、この存在が人を喰らうことを覚えた魔怪にほかならない、
という点にある。
“肉体”と遭遇すればそれから身を守らねばならないのはまちがいないし、それを
どうにかできたとしても、魂と肉体とが一体化したときの“神”がどういった反応
を示すかもまるで未知数だった。へたをすれば、自動人形化しただけの今の状態よ
り、始末に負えない存在になることもあり得ないことではない。
 厄介な事態になってしまったが、報酬を受けた以上、逃げるわけにもいかない。
例え逃げたところで只ですむとも限らない。
 しばし無言のまま進む。腐汁の範囲の拡大は、しばらく前からおさまっていた。
ひと三人がつらなって横たわる程度の大きさだ。ある予感がアリユスにはあった。
 やがて陽が暮れはじめたころ、里が見えた。盆地の底に、民家が軒をつらねてい
る。その真ん中に、うごめく影があった。
 一行は足をはやめる。
 汚汁は縦横無尽にちらばっていた。山道を下っているときはわきにそれることも
なかったのでその大きさも伺い知ることができたが、もはや範囲も何も判然としな
い。半壊した家屋。溶け崩れた屍。なかには犬らしきそれも見受けられた。生きた
存在はどこにも見あたらない。むごたらしい物色の残滓が、腐臭を立ちのぼらせて
横たわるだけ。
 だがアリユスにもシェラにも――そしておそらくは“神”自身にも――気配だけ
は感じられた。
“肉体”の発する、異様な気配。
 腐臭そのもののように、吹きつけてくる。



#5495/5495 長編
★タイトル (EJM     )  01/10/31  20:42  ( 88)
お題>涙(下)       青木無常
★内容
「近づいてこない?」
 不安げにシェラがつぶやいた。
 アリユスはうなずく。
「わたしたちの臭いでも、かぎつけたかしらね」
 いいながら懐から色砂をとりだし、地面に模様を描きはじめる。あわててシェラ
も習った。
 魔法陣。単純に要約するなら、この世界と異世とのあいだに穴を穿つ作業だ。特
定の図像にアリユスのような訓練された幻術使の意志を付与して、物理的な手段で
は対応できない種類の脅威に対して効果のある力を抽出する。図像自体には意味が
あるともないともいわれる。どうあれ、鍵はひとの意志にある。
 陣をしくあいだ、かげろうのごとき少年の姿をした“神”は無言で見守っていた。
 作業を終え切らぬうちにどっぷりと陽が暮れて――“肉体”が出現した。
 物音ひとつ立てなかった。ただとてつもなくおぞましい“気”がどんどん近づい
てきて、崩れかけた家屋の陰から不意に姿を現したのだ。
 もとは動物だったのであろう、と推測していたが、もはやどのような獣であった
のかは判然としなかった。ただ溶け崩れた肉の塊、それ以外のなにものでもない。
 その腐肉塊が、蛞蝓のごとくもろもろと蠢きながら近づいてくる。
「シェラ、中に入って」
 自ら魔法陣の中心に立って印を結びつつ、アリユスが叫ぶ。
「もう少し」
 少女はいって、化物を背にしながら夢中になって砂袋をふりつづけた。
 アリユスもそれ以上はいいつのらず、陣の中心に膝をついて呪文をとなえはじめ
る。
 耐えがたい腐臭を放ちながら、妖物はぞわぞわと近づいてきた。触手か何かのよ
うに、幾本もの突起がにゅるりと生え出てシェラの背を求める。立ちこめる臭気は
形を備えそうなほどに濃密だ。
 腐汁をたらす突起の先端が触れる寸前まで、シェラは作業をつづけた。ぎりぎり
で陣内に踏みこみ、アリユスの隣に片膝をつく。呪文に唱和した。
 見えぬ壁に阻まれて腐肉塊は、陣の周囲をねろねろと巡った。ゆっくりとだが、
色砂の境界を浸食しながら。
 未完成な陣には、力がたりないのだろう。
 かたわらに佇む、おぼろな少年の姿にはまるで注意を払わない。
“神”の魂は無表情になりゆきを見守る。
 その“魂”に向けて、アリユスは語りかけた。
「始めるわ。でもいいの? この“肉体”は、縮み始めている」
「かまわない」
 淡々とした口調で“神”はいった。
 わかった、と答え、アリユスは印を組みかえた。
 二人が唱和する呪文の音調が変わる。
 同時に、化物の動きが活性化した。腐肉の塊に過ぎないが、それでも苦悶してい
るように見える。
 しばらくはそのまま何の変化もなかった。ただふるえながら肉の塊が徐々に、徐
々に、魔法陣を崩して前進するだけだった。
 が不意に――少年の姿をした“魂”が口をひらいた。
「ああ……」
 と、それはいった。
 恍惚の吐息とも、苦悶のうめき声ともとれた。
 表情に変化はない。
 それでも、二人の呪文がつづくにつれ、その姿がゆっくりと、だがはっきりと薄
らぎはじめた。
「ああ」
 再び“神”が声音をもらす。
 音もなく、宙を滑るようにして肉塊に近づいた。
 ゆっくりと。
「これはなんだ」と“神”はいった。「感情か? 人の肉を貪り喰らうときの歓喜
に似て、めまいがするほどに激しい感覚だ。しかしそれとはちがう。初めて体験す
る感覚だ。これはなんだ」
「嘆きかな」アリユスが答えた。「哀しみ。あるいは怒り。わたしにはわからない
けれど、そんな気がする」
「なるほど……これが嘆き悲しむ、ということなのか。おれは嘆き悲しんでいたの
か」
“神”はつぶやく。あいかわらず淡々とした口調。
「だとすれば“魂”はおれではなく、こちらに宿っていたことになる」
「ひとつになりなさい」
 ささやくように口にして、アリユスは呪文に戻った。
 苦悶する“肉体”は前進をつづけた。
 が、やがてその速度が鈍り始め――ついにはただ全身を小刻みにふるわせるだけ
でその場から動かなくなった。
 少年の姿をとった“魂”は、醜悪きわまる“肉体”のなかにゆっくりと溶けこん
でいく。
 溶けこむにつれてその姿も薄れていき――呼応するごとく、腐肉塊も縮小しはじ
めた。
 じわじわと腐汁が流れて色砂の陣を押し流していった。それでも肉塊は前進を再
開することはなかった。
 アリユスが印を解いて立ちあがり、シェラの肩に手をかける。
「もういいわ」
 一心に呪文を唱えていた少女は、夢から醒めたような顔つきでアリユスをながめ
あげた。
「もういいわ」幻術使はくりかえした。「腐汁が流れてくる。さがりましょう」
 見ると破れた陣のあいだからアリユスの言葉通り、汚汁が流れこんできていた。
 シェラはあわててあとずさる。
 汚汁の筋をあちこちに広げながら、腐肉の塊はみるみるうちに縮んでいった。
 やがて、ほかの腐汁だまりと区別がつかなくなった。
「死んだのかしら」
 ぽつりとシェラがつぶやいた。
 かもね、とアリユスはいった。
「そう彼自身が、願ったのかもね」
                                涙――了



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