#4258/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:22 (200)
代償 第三部 16 リーベルG
★内容
16
今がいつなのか、自分がどこにいるのか、自分は何をしているのか。答えは手
の届く場所にあるにもかかわらず、そこに手を伸ばす術だけがわからない。薬物
によって抑え込まれた祐子の精神は、一定以上のピークレベルをカットされたロ
ックのように中途半端な状態にあった。
意識は失っていなかったものの、完全に目覚めているとは言い難かった。自分
が危険な状態にある、という警告のため、努力して外界との接触を保っていなけ
れば、正体もなく眠り込んでしまっただろう。
車に乗っている。いつものベンツではない。わかるのはそれだけだった。なぜ
車に乗っていて、どこに向かっているのかは謎だ。
しかし、こういうことを考えられるようになっただけでも、いい方向へ向かっ
ている証拠だ、と祐子はうれしく思った。少し前までは、思考することそのもの
が重労働だった。
自分が何かを注射されたことを思い出した。睡眠薬ではなかったらしい。おそ
らく強力な鎮静剤の類だろう。そして、今、次第にその影響から脱しつつある。
よろしい。とにかく今は、ともすれば奈落の底に落ち込んで行こうとしている
意識を鮮明に保つよう努力をしなければ。自分はどんな窮地だって、切り抜けて
きた。私は生き残るタイプだ。諦めてしまうのは負け犬のやることだ。私は絶対
に諦めない。
でも……何を諦めないのだろう。
その答えはわからなかった。
身体を動かそうとしてみた。同じ姿勢で長い時間座っていたため、首や背筋に
負担がかかっている。せめて位置を変えたかった。
懸命に努力した結果、首の位置が1センチほどずれ、右足を前の方にずらすこ
とができた。完全ではなかったが小さな勝利だ。この調子で他の部分も動かして
みよう。
祐子が自分の身体のコントロールを取り戻すことに懸命になっている間に、車
が上下に揺れるようになった。おそらく舗装されていない道に入ったのだろう。
車は何度も右折と左折を繰り返し、やがてゆっくりと停車した。
「降りなさい、朝倉さん」
聞き覚えのある声がそう言った。祐子は本能的に反発を感じ、身体を動かさず
に固まっていた。だが、相手は祐子の自発的な行動など、最初から期待していな
かったらしく、助手席のドアを外から開けると、祐子の身体を引きずり出した。
「早かったな」
別の人間の声が聞こえた。男の声だ。聞き覚えがある。今日、何度も聞かされ
た声だ。
「運びこんで。準備は?間違いなく追ってくるわ」
「できてる」
「そっちが片づいてから、ゆっくり料理することにしましょう。ちゃんと眠って
もらった方がよさそうね」
その言葉に危険な響きを聞きつけた祐子は、のろのろと顔を上げようとした。
だが、腕にちくりと痛みを感じた途端、祐子は再び闇の中へ引きずり込まれてい
った。
「念のために、橋本由希の車には発信器をつけてあります」榊は説明した。「6
0秒間隔のパルス発振なので、探知機を使ってもおそらく引っかからないでしょ
う」
今、運転しているのは大野川だった。榊は持ってきてあったノートパソコンの
画面に、CD−ROMから読み込んだカーナビ情報を表示して、発信器からの座
標データを重ね合わせている。
「停まっていますね」榊はつぶやいた。「中之島町です。県道56号から、東へ
行った場所です。広い敷地ですねえ。花津工場とあります」
「よし、行こう」
「榊だ」榊は携帯電話から指示を下した。「A班からD班は、武装して中之島町
16番地の花津工場へ向かえ。A班、B班は県道56号から進み、200メート
ル手前で集合。C班は旧国道から迂回し、A班のリーダーと連絡を取って同じ時
間的位置で止まれ。D班は昭和町のゲームセンターの駐車場で待機。
E班は対警察用に情報操作および陽動を担当。できるだけ離れた場所で、派手
な事故でも演出しろ。死人が出ないようにな。場所は任せる。
各班のリーダーは、連絡を絶やすな。何かあれば、いつでもおれの指示を仰ぐ
こと。以上だ」
「たいした機動力だな」
「とにかく金に糸目をつけずに、人数と車だけはかき集めました。各班、7人か
ら10人です」
「臼井相手じゃ、烏合の衆じゃないのか?」
「下手な鉄砲も数撃てばあたりますよ。人数をそろえたのは、その意味があるん
です」
「おい、まさか、銃器は持っていないだろうな?」
「各班に二人か三人ぐらいは、ショットガンを持っているはずです。拳銃でもマ
シンガンでも持たせたいぐらいだったんですがね。検挙されたら目も当てられな
いので。今さら、びびったんですか?」
「そうじゃない。だが、一般市民に被害が及んだら、おれはその場で消えるから
な」
「たぶん大丈夫でしょう。花津工場は何年も前に操業をやめてますし、周囲に住
宅はありませんから」
「ならいいが。おれたちはどうする」
「我々はどちらも相手に顔を見られてはまずい立場にあります。特に、刑事さん
はね。だから、後方から指揮を執りましょう。あいつらにはたっぷり日給を弾ん
でいるんです。それだけの仕事はしてもらわなければ。D班と合流しましょう」
「わかった。昭和町だな」
やがて、各所から連絡が入り始めた。先行する3つの班は、次々に指定された
位置に到着しはじめている。距離的に近いこともあって、予備兵力として残した
D班はすでにゲームセンターに着いていた。
「C班、あとどれぐらいだ?」
『サツがいたんで、散らばってやり過ごしたところです。あと、7、8分見てく
ださい』
「よし、急げ」
「臼井が相手だってことは言ってあるのか?」
「まさか」榊は肩をすくめた。「そんなことを言ったら、半分ぐらいは逃げ出す
でしょうからね」
花津工場から西へ200メートルの地点で、20人以上の男たちと、8台の車
が待機していた。
もっとも、実際には待機などと言えるものではなく、おおっぴらにタバコに火
をつけ、ばか笑いしながら缶ビールに喉を鳴らしている者がほとんどだった。誰
もがある程度は腕に自信があり、自分は大抵の奴より強い、と思いこむぐらいの
度胸もあった。
そこは錆で土色になった重機が数台置かれている他は、背の高い草が生い茂っ
ている空き地だった。一応、杭と鉄条網で囲まれているところを見ると、花津工
場が存続していれば、倉庫か駐車場が生まれていたのだろう。
闇に紛れて6つの黒い影が接近してくることに、男たちは全く気付かなかった。
這うような姿勢にも関わらず、影たちは歩くよりも速いぐらいのスピードで接
近していった。ほとんど音らしい音もたてない。
ショットガンを持った男が、車にもたれてビールを飲んでいる。影の一つが、
不意にその足元から立ち上がった。男が気付いたときには手遅れだった。手袋を
はめた手が男の口を塞ぎ、もう一方の手に握られたナイフが喉を深くかき切る。
すきま風のような音とともに、男は静かに崩れ落ちた。ビール缶が男の指からこ
ぼれ落ちたが、黒い編み上げ靴のつま先がそれを受け、そっと地面に降ろした。
別の場所で別の影が、同じように動き、静かな死を与えていた。
影たちが最初に狙ったのは、銃器を持つ者だった。残りの男たちが、ようやく
異変に気付いたのは、全てのショットガン射手が絶命した後だった。男たちは優
位に立つ機会を永遠に失った。
「おい!」悲鳴に似た声が不意に上がった。「こいつ、死んでるぞ!」
男たちは一斉に立ち上がった。タバコが投げ捨てられ、ビール缶は放り投げら
れた。
「こっちもだ!スケオの奴が死んでやがる!」
「注意しろ!」リーダーらしい男が叫んだ。「車に乗れ!身体を隠すんだ」
男たちは車に向かって走った。音も立てずに死んだ数人の仲間の姿を見れば、
のんびり走っている余裕などなかった。
走る男の一人が、車にたどり着いてほっと一息ついた途端、待ち受けていた影
がむくりと身を起こした。男が悲鳴をあげようとしたとき、ナイフが一閃し、男
の右腕は手首から切断されていた。
「わぎゃあああ!」
男の絶叫は、仲間たちの動揺を激しくするだけだった。すでに影たちは、隠密
行動を取ることをやめ、堂々と姿をさらけ出して、男たちを片っ端から殺戮しは
じめているようだった。
「ばか野郎!散るな!まとめてかかれ!」
ようやくリーダーが指示らしいものを喚いた。その声に4、5人の男たちが反
応しひとかたまりになって、ドスや日本刀を構えた。
「がしんたれがあ!来やがれ!」
「どうした、来いやあ!」
影の一人が立ち止まって、密集体型を取った男たちを見つめた。そして肩をす
くめるような動作とともに背中に手を回した。次に男たちが目にしたのは、自分
たちを狙っているハンドガンの銃口だった。サイレンサーが装着されている。
「おい」男たちの一人が呆けたようにつぶやいた。「汚えぞ、そりゃ」
トリガーは無言で絞られた。
正確無比な銃弾が男たちに襲いかかる。眉間と心臓に一発づつ。聞こえるのは
空気を切り裂くシュッという音だけ。二人ほどが勇気というよりも恐怖に駆られ
て突進したが、あっさりと銃弾を撃ち込まれて倒れた。
別の場所でも、ハンドガンが使用されていた。忍び寄った影たちは、フェアプ
レイや一対一の戦いという考えを全く持っていないようだった。あらゆる手段を
使って敵を倒すことだけが至上命令なのだ。
20人以上の男たちが全員動かなくなるまで、数分しか要していなかった。
ある意味では、榊の責任だった。誰を相手にしているか、という正確な情報を
与えていれば、男たちはもう少し慎重になっていたに違いない。もっとも結果は
同じだっただろうが。
榊は次第に募ってくる焦燥を何とか抑えながら、呼び出しを繰り返した。4人
ほどに携帯電話を持たせてあったが、そのどれにかけても空しく呼び出し音が鳴
るだけだった。
大野川がそれに気付いた。
「おい、どうしたんだ」
「ちょっと黙ってて下さい!」語気荒く応じた榊は、次の瞬間恥じるような表情
になった。「すみません。A班、B班からの応答がないんです」
「電話の故障かバッテリーじゃないのか?」
「4つが同時にということはないはずです」
「まさか……」
「わかりません。とにかく様子を探らねば」榊は別の番号を呼び出した。「榊だ。
C班はA班から最後に連絡を受けた地点へ急行しろ。A班B班からの応答がない。
敵の奇襲に注意しろ。連絡を絶やすな。行け」
「敵の奇襲?まさか」
「D班」榊は、今自分が合流しているグループのリーダーに呼びかけた。「C班
と合流しろ。合流地点はA班B班が待機していた地点だ。十分に警戒するんだ」
すぐにゲームセンターの駐車場から、4、5台の車が出ていった。
「我々も向かいましょう。ただし、少し間隔を取って」
大野川は1分待ってから車を出した。
「C班、どうだ?」
『誰もいませんよ。もうすぐ見えると思います』
「D班、どうだ?」
『別に異常ありません』
『A班の車が見えました。ライトは点いていません。人影は見あたらないですね。
寝てやがるのかな』
「注意しろ。さっきから全く応答がない」
『D班です。こっちでも車を確認しました』
「注意してゆっくり進め」
『クラクションを鳴らしてみます』受話器を通して、クラクションの音が2回聞
こえた。『誰も出てきませんね』
『死体だ!』突然、叫び声が聞こえた。『B班の奴だ。ひでえ!』
『こっちにもあるぞ』興奮した叫びが伝わってきた。
『げえっ!みんな死んでやがる』
不意に榊は理由のわからない不安を感じた。ノートパソコンの画面を見る。
全ての戦力が同一地点に集結している。
「下がれ!」榊は叫んだ。「すぐに、そこから後退しろ!全員だ!」
答えは永久に返ってこなかった。
激しい爆発音が、受話器から聞こえてきた。続いて悲鳴と、さらなる爆発音が
耳に突き刺さる。向こうの携帯電話が地面に放り出されたらしく、ガリガリと砂
を噛むような音が聞こえた。
「おい、見ろ!」
大野川が車を急停止させると、これから向かおうとしていた方向の空を指した。
オレンジ色の炎と濃い黒煙が高々と立ち昇っていた。
#4259/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:23 (195)
代償 第三部 17 リーベルG
★内容
17
覚醒は急速だった。夢の世界と現実の世界とのギャップで、知覚が混乱して頭
痛が走る。が、それはすぐに消えた。
祐子はベッドに寝かされていることに気付いた。見覚えのないセミダブルベッ
ドだ。長いこと使用されていなかったらしく埃っぽい。おまけにマットレスの上
にはシーツも敷いていなかった。
いろいろな記憶が一度に戻ってきた。祐子は跳ね起きると、周囲を見回した。
どうやらホテルの一室のようだった。ただし、どう見ても営業中であるとは思
えない。テレビは明らかに壊れていたし、冷蔵庫は扉がない。かつては少女趣味
的な純白であっただろう壁は、ひび割れ色褪せて見る影もない。ソファも破れて
いる。ガラス張りのシャワールームの鏡もない。ユニットバスとシャワーは残っ
ているが清潔なお湯が出てくることは期待できないだろう。
スポットに配置された天井の照明も、半分以上が点いていなかった。むしろ、
残りが淡い光を発しているのが不思議なぐらいだった。
もともとないのか、故意に塞いだのかはわからないが、窓らしきものは見あた
らなかった。シャワールームには小さな曇りガラスの窓があったが、光が差し込
んでこないところを見ると、まだ夜なのだろう。
状況を認識すると、むらむらと怒りが沸いてきた。
「ちょっと!誰かいないの!」
その声に呼応するように、テレビのノイズのようなジーという音が聞こえた。
はっとそちらを見ると、天井にこれだけは真新しいテレビカメラが設置してある
のが見えた。レンズの脇にグリーンのランプが点灯しているところから見ると作
動しているらしい。
レンズはまっすぐベッドの上に向いていた。眠っている姿をずっと誰かに見ら
れていたのだ、と知るとますます怒りがこみあげてきた。
「誰なの!」
そのときドアが開く音がした。祐子はびくっとして身構えた。
入ってきたのは由希だった。その後ろに数人の男が続いている。
「このときを待ちかねたわよ、朝倉祐子さん」
「は、橋本!」祐子は喘いだ。「何の真似よ!」
「言わなくてもわかってるでしょう」
祐子は後ずさった。
「わ、私にこんなことをして、後でどうなると思ってるの」
「さあね」由希は優雅に肩をすくめた。「正直言うとね、後のことなんかどうで
もいいのよ。今やあんたに復讐することだけが、私の生きがいなんだから」
「藤澤や志穂も、あんたが殺したんでしょう!」
「まあね。死んで当然よ」
「あんた気が狂ってるわ」
「私の精神状態より、自分のことを心配したら?自分の置かれた状況がわかって
るの?」
「わかってるわよ。あんたが、私を不当に監禁してるってことぐらい。言ってお
くけどねえ。さっさと私を解放した方が身のためよ。私には味方が大勢いるんだ
からね」
「榊と、あの刑事さんのこと?」由希はくすくす笑った。「彼らが助けに来てく
れるって思ってるから虚勢を張っていられるわけ?だとしたら甘いわよ」
「な、何をしたのよ」
「教えてあげない。自由に想像すれば?ひょっとして私ははったりを言っている
のかもしれないわよ」
「きちがい!」
由希はまた笑った。
「あなたに、あんな可愛い妹がいたなんて知らなかったわね」
祐子の血が凍った。
「亜紀はどうしたのよ!卑怯者。私に文句があるなら、私に直接言いなさいよ」
「あなたなんかに卑怯者なんて呼ばれたくないわね。自分の都合だけで、人を平
気で傷つける方が卑怯じゃない?ともかく亜紀ちゃんはここにいるわ」
「もう、私がいるんだからいいでしょう。亜紀は帰してやってよ」
「そうは行かないわね。あなたにも私と同じ苦しみを味わってもらいたいから」
「まさか……亜紀を殺すつもりなの?」
さすがに祐子の声が震えた。由希が肯定したら、後のことなど考えずに飛びか
かるつもりだった。
「そのつもりだったけどね」しかし由希は首を横に振った。「まあ、一方的にこ
っちが決めてしまうのもどうかと思って考え直したわ。あなた次第ね」
「何を言ってるのよ」
「私はねえ、朝倉さん」由希は揺るぎない視線で祐子を見据えた。「加代のため
なら、いつでも自分を犠牲にするつもりだったわ。言葉に出してそう言ったこと
はなかったけど。幸い、食費や学費に困ったことはなかったけど、もしお金に困
ったら身体を売ってでも、加代だけはきちんと大学に行かせるつもりだった」
「それがどうしたのよ」
「あなたに、その覚悟があるかどうか見せてもらうわ。血のつながらない妹のた
めに、どこまで自分を犠牲にできるかをね」
「何を言ってるのかわからないわよ、ばか」
「来なさい。妹に会わせてあげるわ」
そう言うと、由希は祐子に背を向けてドアから出ていった。サングラスをかけ
た男が祐子の腕をつかんだ。
「立て」
電話の男の声だった。
「あんたね。私をさんざん引っぱり回したのは。あんた、臼井克也でしょう。昔
ヤクザだった」
克也は表情を変えなかった。
「早く立て」
「ねえ」祐子は声を潜めた。「あの女にいくらもらったか知らないけど、ここか
ら逃がしてくれたら3倍出すわ。もちろん、警察に通報なんかしないから。ね、
どう?現金で払うから」
克也の動きが止まった。サングラスの奥から祐子をじっと見つめる。一瞬、祐
子の心に芽生えた希望は、しかしあっけなく消え去った。
「今まで、おれを金で買収しようとした奴が4人いた。そいつらはみんな鬼籍に
入っている。おれがお前をぶん殴らないのは、お前が女だからでも子供だからで
もない。そんなことをすれば、由希さんの楽しみが減るからだ。憶えておけ」
淡々とした言葉だった。祐子は背筋が冷たくなるのを感じた。
祐子が連れてこられたのは、奇妙な部屋だった。広い部屋の真ん中に円形の大
型ベッドがあり、その周囲を巨大な4枚のガラスが囲っている。マジックミラー
になっているらしく、ベッドの向こう側が見えない。
ベッドの真ん中に横たわっているのは制服を着た亜紀だった。口にタオルをか
まされ、両手を後ろ手に縛られている。
「亜紀!亜紀!」
祐子は駆け寄ろうとして、克也に止められた。
ベッドには見知らぬ男が座っていた。スキンヘッドの大男だった。男は欲望に
ぎらつく目で、亜紀の幼い肢体を眺めていた。亜紀は怯えたように震えていた。
「橋本!亜紀に指一本でも触れたら、ただじゃすまないからね!」
「この部屋は特別でね」由希は祐子の恫喝など気にも止めずに言った。「人目を
忍ばなきゃならない政治家とか代議士とかが、プライベートなショーを見るため
にあったのよ。向こうからはこっちが見えないし、こっちからの声は中に聞こえ
ないから、顔を見られる心配なしに見物できるってわけ」
「そんなことはどうだっていいわよ!」祐子は喚いた。「亜紀をあそこから出し
て!」
「それはあなた次第よ。そっちを見て」
祐子は、由希が指した方を見た。三脚に乗ったビデオカメラが置かれている。
一人の男がファインダーを覗きながら調節していた。
「この部屋の隣に20人ぐらいのお客が待っているの。ある会員制秘密クラブの
方々よ。今日はビデオ鑑賞会というわけ。大型テレビを前に始まるのを待ってる
わ。そして、あのビデオカメラは隣の部屋のテレビにつながっているのよ」
「何が言いたいのよ!」祐子の声は悲鳴に近くなっていた。
「簡単なことよ」由希は残忍な笑みを浮かべた。「お客さんたちに、あなたが男
とからんでみせるか、それとも亜紀ちゃんのレイプシーンを見せるか。どちらを
選ぶ?」
「冗談じゃないわよ!」祐子は怒鳴った。「なんで、そんなことやらなきゃいけ
ないのよ!」
「加代や、めぐみちゃんもそう思ったでしょうね、きっと」
「うるさい、ばか!そんなの知ったことじゃないわよ!」
「いいから選びなさい。あと10秒のうちに選ばなければ、まず亜紀ちゃんをレ
イプして、次にあなたをレイプさせるわよ。9、8、7……」
「待って!待ってよ!」
「どちらにするか決めたの?」
「こんなことして、後でどうなると思うの?絶対、刑務所に入れてやるからね」
「後のことは、後で心配するわ。とりあえず、あなたは目前の選択をこなしてい
くことね。6、5……」
「待って、お願い!」
「……4、3、2……」
「こんなことが許されるわけないわ!私を誰だと思ってるのよ!」
「……1、ゼロ」由希は言葉を切った。「どちらにするの?あなたがやるの?」
「いや!絶対にいや!」
「じゃあ、決まりね」由希はカメラの男に合図した。「中の方のカメラに切り替
えて。あっちを流すわよ」
「わかりました」
由希はガラスに近づくと、ドア部分の脇にあるインタホンに向かって言った。
「始めていいわよ」
「待って!待ってよ!」祐子は必死で叫んだ。「お願い、亜紀は許してやって!」
「じゃあ、あなたが身代わりになるの?」
「そ、それは……で、でも、お金ならいくらでも払うから」
「いくらなら加代が生き返るの?」
祐子は絶句した。
「始めて」
「いやあああ!やめて!」
ガラスに囲まれた密室の中で、スキンヘッドの男が必死でもがく亜紀の身体に
手を伸ばした。制服の胸元をつかんで一気に引き裂く。どこかにあるスピーカー
から、布が勢いよく裂ける音が生々しく聞こえてきた。
「おねがい、やめてやって!亜紀は関係ないじゃない!」
「あなたにはチャンスをあげたでしょう。もう遅いわよ」
白いブラジャーがむしり取られた。幼く薄い胸が露わになる。亜紀は必死で男
から身を遠ざけようとするが、男の手が容赦なく乳房をつかんだ。指が桃色の乳
首をつまみ、ひねると、亜紀は身体を反らせてもがいた。
スピーカーから、くぐもった泣き声が洩れている。
「おねがい、やめて。お願い!」
スキンヘッドは、制服を少しずつ引き裂き、徐々に亜紀の幼い身体を露わにし
ていった。上半身をすっかり剥いてしまうと、亜紀の身体を起こした。カメラが
そちらにあるのだろう。
亜紀の両脚が座った姿勢のまま、左右に大きく開かれた。スキンヘッドの手が
下着の上から陰部に伸び、やや乱暴にこすり始めた。亜紀は顔をそらして懸命に
もがいているが、男はそれを全く意に介さず、愛撫と呼ぶには乱暴すぎる動作を
続けていた。
「やめて……やめて……」
祐子は耐えきれずに何度も目をそらしたが、その度に克也が容赦なく顔を正面
に向けさせた。
「しっかり見なさい。目を閉じたら、いつまでたってもやめないわよ」由希が冷
酷に宣言した。
スキンヘッドは、欲望に突き動かされるまま、亜紀のショーツを一気に引き下
ろした。亜紀がとっさに脚を閉じようとしたが、スキンヘッドは後ろから膝を押
さえると両側に広げた。亜紀は狂ったように呻いている。
「可哀そうよねえ」由希が祐子の顔を見ながら言った。「お姉さんは自分の身だ
けが大切なのよねえ」
「うるさい!ばか!あんたそれでも人間なの?」
「結局、何だかんだ言って、自分のことしか考えてないわけね」
スキンヘッドがズボンを脱ぎ捨てた。すでに膨れ上がった男性性器が祐子の目
を射る。恥ずかしさよりも、恐怖が先に立った。
あんなものが亜紀に……
亜紀の下腹部に男根が迫る。
「お願い、やめて!」祐子は絶叫していた。「私がやるから亜紀を許して!」
「ストップ」すかさず由希がインタホンに言った。「こっちのお嬢ちゃんが替わ
って欲しいそうよ。こっちへ来て」
スキンヘッドが名残惜しそうに亜紀の身体を一瞥すると、ミラールームから出
てきた。
「こいつを好きにしていいわよ」
たちまち祐子は床に押し倒された。服が破られる。
「いやああ!」
祐子は抵抗した。黙って犯されるような気質は持ち合わせていない。だが、欲
望を中断させられた男の力はすさまじかった。
あっというまに、祐子は全裸にされ、カメラの前で両脚を裂けんばかりに開か
れた。恐怖と恥辱がわずかに力を与えたが、相手はむしろそれを楽しむように易
々と祐子の自由を奪った。
熱い異物が侵入してきたとき、祐子は声が枯れるまで絶叫した。
#4260/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:24 (200)
代償 第三部 18 リーベルG
★内容
18
スキンヘッドの男が、満足そうに唸りながら離れていったとき、祐子は苦しそ
うに喘ぎながら考えていた。
終わった。もう終わったんだ。大丈夫。今日は安全日だ。ビデオを撮られたけ
ど、私だなんてわかるわけがない。
もちろん、レイプされたこと自体は吐き気がするほどの屈辱だった。だが、今
の祐子はある種の満足感を感じてもいた。妹を守った姉、という役割に酔ってい
たのだ。
由希が近づいてきた。
「今のビデオは、裏ビデオとして秘かに販売されることになるわ。これのコピー
をつけてね」
そう言って由希が差し出した物を見て、祐子は叫びだしそうになった。
祐子の生徒手帳だ。写真入りで、住所と氏名と生年月日が明記されている。
「返してよ!」
「紛失届を出すのね」由希はあっさり答えた。
思い切り罵ってやりたかったが、さすがにその元気はなかった。祐子はそばに
落ちていた引き裂かれたブラウスをつかむと、それで胸を隠して身体を起こした。
「亜紀と一緒に帰らせてもらうわ」
その途端、由希が驚いたように振り向き、続いてくすくす笑い出した。
「あなた、まさか、あれで済んだと思ってるの?」
「え?」
「まだお客さんが待ってるのよ。お客さんの一人ひとりに、あなたの身体を味わ
ってもらうことになっているの」
「!」
「そうねえ。一人1時間として、20人だから20時間。お一人様一万円」由希
は楽しそうに笑うと付け加えた。「あなたの身体の価値なんて、それでも高すぎ
るぐらいだけどね」
「い、いや。いやよ」祐子の身体が震えた。「もう、いい加減にしてよ!」
「加代もそう言ったでしょうね、きっと」
「だって……そんな、いやよ、絶対にいやよ」
「最初のお客さんに入ってもらって」祐子は克也に言った。
「私はやらないわよ!」
「いいわよ」由希は優しく言った。「亜紀ちゃんにやってもらうから」
「亜紀は関係ないでしょ!」
「関係あるわ。あなたの妹でしょう?」
そのとき、ドアが開き一人の男が入ってきた。一目見て、祐子は嫌悪感に顔を
歪めた。40歳ぐらいの、でっぷりと太った男だった。確実に100キロを超え
ているにちがいない。ズボンなど今にもはちきれそうだし、半袖シャツの前はだ
らしなくはだけている。それほど長い距離を歩いてきたわけでもないだろうに、
ぜえぜえと呼吸を乱している。
「最初のお客さんよ」
「あんなのイヤよ!」祐子は拒絶した。「冗談じゃないわ。あんなブタみたいな
デブなんて見るのもいやなの!」
「口にききかたがなってないわねえ。さあ、どうぞ。この生意気なのを少し調教
してやってくださいな」
デブがのたのたと近寄ってきた。涎を垂らさんばかりに祐子の全身を視線で嘗
め回している。
「いや」祐子は思わず後ずさった。「こないで」
「えらい可愛い姉ちゃんやな。やりまんやない、本物の女子高生や。ほんまに一
万でええんか?」
「ただでもいいぐらいですわ」
「ほな遠慮なく」
「いやああ!」
祐子は逃げようとしたが、克也の後ろにいた男たちが素早く駆け寄ると、両手
をつかんで床に押さえつけた。
「さあ、どうぞ」
「やめて、やめて!私が誰だか知ってるの?」祐子は必死で叫んだ。「朝倉祐子
なのよ。朝倉総合商社の取締役社長の一人娘なのよ。あんたなんか、首にできる
んだからね!」
デブは全く聞いていなかった。むしり取るように衣服を脱ぎ捨てると、ぶよぶ
よの腹を突き出しながら、祐子の上に覆いかぶさってきた。
「いやだ!やめて!」
「あんたが苦しめてきた人たちのことを思い出すのね」由希は冷酷に言った。
「いや、いや!どけよ、デブ野郎!」
不意にデブが容赦なく祐子の頬を張り飛ばした。祐子の顔はものすごい勢いで
床にぶちあたった。
「うるせえんだよ、お高く止まりくさって。お前はおれが買ったんや。黙って、
おめこ濡らしてりゃいいんじゃい」
「やめろ!やめろよデブ!」
反対の頬が張られた。耳の奥で鐘が鳴っているようだ。目の焦点も合わない。
「ほれ、いくで!」
短いが太いものが入ってきた。恥辱よりも嫌悪感で呻いたが、抵抗らしい抵抗
はできない。デブは早くも汗をだらだら流しながら、緩慢な動きでピストン運動
を繰り返している。
「はあ、はあ、どうも寝転がっとるとやりにくいわ。バックからやるわ」
腕を押さえていた男たちが、祐子の身体をひっくり返した。
「いや!こんな格好はいやよ!」
「ほら、もっと尻突き出しいな」デブは祐子の尻をぴしゃりと叩いた。「はよせ
んと、ケツの穴にぶちこんだるで。そっちは処女やろ、ん?」
祐子は悔し涙をこぼしそうになりながら、腰を突き出した。尻の肉にデブの指
が食い込み、再び男根が入ってきた。
「ああ、こっちの方が具合ええわ」
デブの動きが激しくなった。祐子は呻いた。顔が床にこすりつけられているの
が屈辱だった。
「ああ、もうイキそうや。中で出してええんやろ?」息を切らしながらデブが確
認した。
「どうぞ」由希は気前よく応じた。「お好きなところに」
「ぐうおお。いくで、いくで!」
祐子は歯を食いしばった。
次の瞬間、体内に熱い液体が勢いよく放出されるのがわかった。
祐子の性体験は数えるほどでしかない。中学のとき、興味本位で家庭教師の大
学生と関係を持ったのが最初だった。家庭教師は大学の講師だったが、祐子の父
親に関係を知られるのを恐れてすぐにやめてしまった。高校に入ってすぐクラス
メイトの男子と付き合い、4回目のデートのときホテルに入った。その男子とは
数ヶ月続いたが、祐子の方が飽きてしまい一方的に別れてしまった。その後、一
年上の先輩と何度か関係を持ったが、これも長くは続かなかった。
好奇心を満たしてしまった後、セックスに対する興味はやや薄れたが、避妊に
は神経質なぐらい気を使っていた。妊娠を恐れたというよりも、体内に男の精液
を放出させることは、相手に敗北するような気がしていたのだ。
そして今、立て続けに二人の男の精液がぶちまけられた。敗北感は想像した以
上に大きかった。
「次のお客様をお呼びして」由希が事務的に言った。
「もう、いいでしょう!」祐子は弱々しく叫んだ。「これだけ恥ずかしい目に遭
わせれば充分でしょう!」
「まだ元気ねえ。さすがに若いわ」
デブはいつの間にか消えていた。代わりに別の男が入ってきた。今度は対照的
にがりがりに痩せた男だった。しかもひょっとしたらハイティーンではないかと
思われるほど若く見える。頬骨の浮き出た顔に、黒縁のメガネをかけていた。
「ああ、その、ぼくはちょっと普通とは……」男はぼそぼそと言いかけた。
「何でもご自由にどうぞ」由希が遮った。「道具がお入り用でしたら用意します
よ」
「ああ、いや、道具っていうか、金を払うとき言ってあったと思うけど……その
他人のやった後は……」
「では口で奉仕させましょう」
「お願いします」男はばか丁寧に頭を下げた。
「聞いたでしょう」由希がにこやかに笑いながら祐子に言った。「唇と舌で満足
させてさしあげるのよ」
「だ、出した後、ちゃんと飲んでくれないと……」
「わかっていますよ」
自分の意志を無視して成立した商談を、祐子は唖然となって聞いていたが、そ
の行為を想像しただけで嘔吐がこみあげてくるのを感じた。
「それだけはいや……」祐子は男から逃れようとして後ろに下がった。「そんな
汚いものを……そんなことしたことない……」
「何事にも最初があるものよ。さあ、どうぞ」
男は素早く下半身の衣服を脱ぎ捨てた。
祐子は悲鳴をあげたが、さっきの男たちに後ろから押さえつけられた。強引に
正座をさせられ、顔を前に突き出される。
「あの……口が開いてないんだけど……」男が申し訳なさそうにいった。
「あら、ごめんなさい」由希が驚いたように謝罪し、克也に合図した。
克也はつかつかと歩み寄ってくると、歯を食いしばっている祐子の耳の下を、
伸ばした中指で一突きした。祐子は悲鳴をあげた。
その途端に、固く生暖かい肉棒が奥まで突っ込まれた。
たちまち祐子は窒息しそうなパニックに陥った。吐き出そうとするが、後ろか
ら顔を押さえつけられているし、痩せた男の方も祐子の顔を抱え込むようにつか
んでいた。
「んぐう!」
唇の隙間から奇妙な声が洩れる。祐子は耐えきれずに涙を流した。
男はゆっくり腰を動かしていた。そのたびに口腔内のあちこちに、不気味に暖
かい肉棒の先端が触れる。舌を懸命に動かして、それに触れないようにしたが、
その努力はほとんど実を結ばなかった。唾液が溜まってきたが吐き捨てることも
できない。
「うっ!」
前触れもなく、男は射精した。祐子が身構える暇もなく、生臭く苦い液体が口
の中全体に放出された。反射的に吐き出そうとしたが、男は祐子の鼻をつまんで
言った。
「全部飲んでね。でないと放さないよ」
再び窒息の恐怖が襲いかかった。呼吸器系と消化器系が相反する行動を取ろう
としているが、肺が勝利を収めた。煮すぎたおかゆのような半固体が食道を通り
胃に入り込んだ。たちまち胃がねじくりかえるような嘔吐がこみあげる。
男はようやく祐子の鼻を口を解放すると、何事か呟きながら去っていった。
祐子は聞いていなかった。そのまま床に倒れ込んでしまった。
「休んでいる暇なんかないのよ」由希が非情に告げた。「次のお客様が待ってい
るんだから」
「悪魔……」まだ精液のかけらが残る唇から、か細い言葉が吐き出された。「お
前は悪魔だわ……絶対、殺してやる……」
「あなたにそんな機会はないと思うけどね」
次の男が近づいて来る足音が聞こえた。
榊と大野川は、呆然となって立ちつくしていた。
空き地の真ん中で、およそ10台以上の車が炎上していた。榊が用意した車で
ある。そこかしこには、ぴくりとも動かない人間の姿も見える。肉の焼ける匂い
が漂っていた。
一人も生き残っていないことは一目見てわかった。
「やられましたね」榊の声には怒りと敗北感がにじみ出ていた。「敵はわざとこ
こを選んだんですね。あらかじめ罠を張ってあったんでしょう。こっちはまんま
とそれに飛び込んだってわけです」
「橋本先生とお嬢さんはどうしたんだろう」大野川も悔しそうに言った。
「たぶん、混乱に紛れて移動したんでしょうね」
「発信器があるだろう。まだ、後は追えるぞ」
榊は力無く首を横に振ると、ノートパソコンの画面を見せた。地図は表示され
ているが、発信器からの信号を示す光点はどこにもない。
「最初から気付いてたんですよ、きっと」
誰かが通報したのだろう。遠くからサイレンが聞こえてきた。
「とにかく、ここを離れましょう。見られたら面倒です」
「そうだな」
大野川はエンジンをかけようとキーに手をのばした。
突然、運転席のドアが外から開けられた。仰天した大野川が言葉を発する前に、
二本の腕が大野川の髪と手首をつかみ、強引に車外へと引きずり出した。
「な、なんだ、貴様!」
地面に転がった大野川は、とっさに上着の内側に手を伸ばした。が、ホルスタ
ーを装着していないことに気付いて青くなった。勤務時間外なので署に置いてあ
るのだ。
狼狽した大野川の前に、二つの影が立った。上から下まで黒ずくめの服装で、
スキーマスクのようなもので顔を隠している。一人が大野川の腕も脚も届かない
距離からサイレンサーを装着したオートマティックを構えていた。
「お前ら、何者だ!」
大野川の隣に、榊の身体が転がった。同じ目に遭ったらしい。一か八か、ハン
ドガンを構えた男に飛びかかって形勢を逆転させる、という考えが大野川の頭に
浮かんだが、すぐにそれは消え去った。反対側から現れた二人が、揃ってハンド
ガンを持っていたからだ。
三つの銃口に動きを封じられている間、一人の男が榊と大野川の手に手錠をか
けた。そして、身振りで立つようにうながした。
「どこへ連れていくつもりだ?」
大野川の質問に対する答えは、銃口で方向を示されたことだけだった。二人は
やむなく歩き出した。
#4261/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:25 (180)
代償 第三部 19 リーベルG
★内容
19
時間の感覚はとっくに消滅していた。何人の男に犯されたのか、それすら憶え
ていない。いっそ気を失うことができれば楽なのだが、そんな贅沢は許されてい
なかった。一度、疲労の極に達して、殴られても水をかけられても、深い闇の底
に沈んだままになったとき、祐子は何かの注射を打たれた。たちまち祐子の思考
は明晰になり、たまった疲労が拭い去られたように消えた。麻薬を打たれた、と
気付いたのはずっと後になってからのことだ。
何本もの男根を出し入れされた膣は、とっくに感覚を失っていた。容赦なく注
ぎ込まれた精液があふれ出しそうだ。途中で苦情があったのか、チューブを挿入
されて精液を吸引され、水で洗浄されたようだった。そのときに、ペットボトル
の水を与えられたことだけは憶えている。
「客」は無限に存在するようだった。そして、無限のヴァリエーションで祐子を
犯した。ある客はわざわざ祐子に学校の制服を着せ、それを中途半端に引き裂い
た段階で挿入した。ある客は祐子のへそを執拗に嘗め回した。ある客は持参した
子宮鏡で内部をじっくり観察した。ある客は挿入した後、結合部分を見ることを
強制した。ある客は長い時間をかけて乳首を嘗め回した後、男根を祐子の乳房で
挟んで顔面に射精した。
肛門性交を強制されたときは、祐子も必死で抵抗した。だが、それは苦しみを
長引かせただけだった。まずクリームを塗った指が突っ込まれ、その後男根をず
ぼりと突き刺されたとき、祐子は激痛のあまり絶叫し、失神しかけた。
SM趣味の客も何人かいた。ある客はろうそくを10本あまり消費し、祐子の
身体を蝋で覆い尽くそうとした。ある客は陰毛を炎で焼いた後、祐子にろうそく
を持たせて陰部に蝋を落とすよう命じた。ある客は祐子を縛り上げると、背中が
真っ赤になるまで鞭で打った。
耐えきれなくなるまで待ってから、祐子は尿意を訴えた。たちまち祐子は床に
座って脚を大きく開かされた。真正面にカメラが据えられ、尿管がふくらみ尿が
ほとばしるのをあますところなく捉えた。
最後の客は、まず祐子を縛り上げると、うずくまるような姿勢にさせておいて
から、太い注射器に水を入れ肛門から注入した。それから自分の性器で肛門に蓋
をし、祐子の性器には太いバイブを挿入した後、祐子の苦痛を楽しむようにじっ
くり時間をかけて射精した。それから、床で喘いでいる祐子の腰を高く持ち上げ
て、上からさらに肛門に水を注入した。祐子は必死で耐えたが、最後には水と便
と凝固した精液を火山のように噴出せざるを得なかった。
客が去ると、男達がバケツで水をかけて、身体の表面に付着した汚れを洗った。
「お客さんたちはみんな満足したみたいよ」由希が言った。
祐子は返事をするどころではなかった。由希への怒りや憎しみさえ、今は重要
ではない。シャワーを浴びて眠りたいだけだった。
「たぶん睡眠を取りたいんでしょう」由希は横たわった祐子を冷たく見下ろしな
がら言った。「今は昼の11時よ。たっぷり24時間以上起きてたことになるん
だから眠いでしょうけど、まだ駄目よ」
「お願い……」祐子は呻いた。「許して」
「そうはいかないのよ、朝倉さん」由希は薄く笑った。「でも、あまりぐったり
しててもつまらないから、少し休ませてあげるわ。部屋に運んで」
男たちが汚れたシーツを床に敷き、その上に祐子の身体を足で蹴って転がした。
両端をつかんで持ち上げると、部屋を出ていった。
「疲れただろう」克也が言った。
「さっき仮眠を取ったから大丈夫」由希は微笑んだ。「例の二人は?」
「刑事の方は喚いてる。榊はおとなしくしてるが、何を考えているのか。油断の
ならない男だ」
「どうしたらいいかしらね」
「始末するのが一番簡単だ」
「刑事さんの方はともかく、榊さんの方はまずいわ。こっちを調査した資料が残
っているかもしれない」
「じゃあどうする?」
「そうね……」由希は少しの間考えた。「……あの二人にも参加してもらいまし
ょう」
「はじめまして……というわけでもなさそうですね。少なくともそちらにとって
は」由希は微笑んだ。「私のことを嗅ぎ回っていたようですから」
榊は自分の置かれている状況も忘れて、由希を観察するのに余念がなかった。
美しく聡明そうな女性だ。穏やかな微笑を見れば、とても冷酷な殺人犯には見え
ない。それだけに危険な相手だといえた。
「おかげさまで」榊は落ち着いて答えを返した。「こちらの調査員がご迷惑をお
かけしたのでなければよろしいんですがね」
「そんなことはありませんでしたよ。ただ、もう少し訓練した方がいいと思いま
すよ。調査をしていることを、調査対象に気付かれるようではプロとは言えませ
んでしょう」
丁重な口調で言われた侮辱を、榊は胸の中にしまいこんだ。
「ところで、私はいつ解放してもらえるんです?」
「あなたを解放することは、とても危険なんですよ。ここから出たら、あなたが
最初にやることは近くの電話に走ることでしょうからね。違いますか?」
「違いませんな。依頼人が殺されるのを黙って見ているつもりはありません」
「どうして殺すと?」
「あなたはそうしてきたでしょう。藤澤美奈代も、天野志穂も」
「立証できますの?」由希はおもしろそうに訊いた。
「できません。残念ながらね。しかし今回は意表を突かれましたよ。本人ばかり
に目が行って、妹にまでは気が回らなかった」
「すでにご存じだと思いますが、私は妹を亡くしました」由希の顔から微笑が消
えた。「朝倉祐子たちのいじめに耐えかねて」
「だから同じ苦しみを、というわけですか。前の二人に妹がいなかったのは幸い
でしたな」
「全くです」由希は同意した。
「私の解放の話をしていたはずですが」
「ここは閉鎖されたラブホテルです。所有者は、ある事件で刑務所に入っていて
売却手続きが遅れています。だから誰も近寄ろうとしません。近くには民家もな
いし。このままあなたをここに放置しておいても、誰も気付かないんです」
「そうするおつもりですか?」
「そうしてもいいんです。でも、これ以上犠牲者を出すのは心苦しいので」
「ほう?」
「そこで考えたんです」由希は再び微笑んだ。「あなたにも共犯者になっていた
だこうと」
「は?」
榊はまじまじと由希の顔を見つめた。由希は振り向いて、無言で待っていた克
也に言った。
「いいわよ。入れて」
数人の男たちが入ってきた。ぐったりした祐子をぶら下げるように連れている。
「お嬢さん!」
祐子は全裸だった。意識はあるようだが、深い疲労が顔に刻まれている。榊の
顔を見たはずだが、何の反応も示そうとしない。
男たちは祐子を床に投げ出すと、ベッドに座っている榊の方に近づいてきた。
「な、何をするつもりですか?」
榊はベッドから立たされると、二人の男に両腕を固定された。三人目が榊のベ
ルトを緩め、ズボンを引きずりおろす。
「ちょ、ちょっと」榊は狼狽して叫んだ。「おい、やめろ!」
男達は構わず榊の下半身を裸にすると、ベッドに座らせた。続いて、祐子の身
体が持ち上げられ、榊の股間に顔が近づけられていく。
「やめろ、やめるんだ!」
「動くな」
静かな声で命じたのは克也だった。いつの間に抜いたのか、リボルバーを手に
している。銃口はまっすぐ榊の額を狙っている。
祐子のぼんやりした顔が男根に触れた。男の一人が祐子の口を開かせ、別の一
人がスパナの先端で男根を持ち上げると祐子の口にふくませた。
「お嬢さん!正気に戻ってください!」
榊はもがいて、意図せぬ口唇性交をやめようとしたが、男たちはそれを許さな
かった。一人が祐子の頭をつかんで、ゆっくり前後に振っている。
「やめろ!」
言葉とは裏腹に、榊は勃起し始めた。何と言っても相手は若い女性であるし、
榊も健康的な男なのだから。ここ一週間ばかりは、祐子の依頼で忙しく禁欲生活
を送っていたこともある。
フラッシュが焚かれて、榊は愕然となった。一人の男がカメラを構えていた。
隣では別の男がハンディビデオで撮影している。
「やめろ!撮るな!」
男が榊の男根を祐子の口から引き抜いた。しっかり固くなっている。男はそれ
を確認すると、榊をベッドに突き倒し、その上に祐子の両脚をまたがせた。
「やめろ!やめてくれ!頼む。こんなことはやめてくれ!」
祐子の腰が沈み、榊のものが深々と挿入された。祐子は少し呻いたが、苦痛を
感じている様子ではない。そのときになって、祐子がおそらく覚醒剤を投与され
ていることに気付いた。
さらに何枚か写真が撮られた。その中には榊の顔や局部のクローズアップもあ
った。
「もういいわ」
由希が言い、たちまち榊と祐子の結合は解かれた。榊はほっとした反面、残念
な気持ちも否定できなかった。
「こんなことをして何になるんですか?」榊は由希を睨んだ。
「まだやってもらうことがあるわ」
由希はそう言って、何かをベッドの上に放った。小さな折り畳み式のポケット
ナイフだった。
「それで、あなたのイニシャルを刻んで下さいな」由希は皮肉っぽく笑った。「
今日の記念に」
「はあ?どこに?」
由希は祐子を指した。
榊はぞっとしてベッドの上で後ずさった。
「じょ、冗談じゃない!」
「冗談じゃありませんよ、もちろん。場所は太腿の内側がいいですね。榊さんの
Sを刻んで下さいな」
「お断りします」榊はきっぱり言った。
突然、室内に落雷のような音が轟いた。榊は文字通り飛び上がったが、その直
後に右耳に焼けるような痛みを感じて、戦慄と共に克也の方を見た。銃口から一
筋の煙が立ち昇っている。
「次は耳がなくなる」克也は淡々と説明した。「その次は反対側の耳。その次は
右手の指だ」
「本気ですよ」由希が付け加えた。
榊はこの窮地を逃れる術を必死で探し求めた。ナイフを取って、由希に飛びか
かり人質にする、という手もある。だが臼井克也について聞いたことが半分でも
正確なら、半分の距離を進まないうちに射殺されるだろう。
「ひとつ訊きたいんですが……」榊は少しでも時間を稼ごうとして訊いた。「こ
んなことをさせてどうするつもりですか?」
「この写真とビデオがあれば、あなたは何もできないでしょう?」
「警察には強要されたのだと説明すれば罪には問われないかもしれません」
「警察に届けるつもりはないわ」
「じゃ、どこに?」
「彼女の父親。朝倉氏よ」由希は榊をじっと見つめた。「父親に向かって説明し
てみます?強要されたので、やむなくお嬢さんを犯し、イニシャルを刻みました
って」
祐子の父親は、国際的な顧客を持つ総合商社の取締役社長である。表向きは、
コンピュータや工業機械を第三世界に輸出することで利益を上げているが、いく
つかのダミー会社を通じて兵器輸出を行っていることを榊は知っている。きれい
事ばかりでは成り立たないし、事実、過去に何人もの競争相手や中間業者を葬り
去ってきた。たとえ事実を報告しても、榊が商売を続けていける確率は1パーセ
ントもないだろう。
「なるほど……刑事さんにも同じことをさせるつもりですか?」
「その子の左脚の太腿の内側を見て」
榊は言われた場所を見てショックを受けた。そこには楕円の形の傷がある。大
野川の「O」に違いない。
「刑事さんは先にやったんです。さあ、あなたもどうぞ」
#4262/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:26 (164)
代償 第三部 20 リーベルG
★内容
20
祐子は感覚を喪失した世界にいた。耳に粘土を詰め込まれ、目はガムテープを
貼られた上にタオルで縛られている。口も同様にガムテープで塞がれていたし、
両手両脚は完全に拘束され指一本動かすこともできない。身体全体がベッドに固
定されていたので、寝返りを打つことすらできなかった。
すでに日付の感覚は消失している。今日が何日なのか、今が何時なのか、昼な
のか夜なのかさえわからない。少し前に耐え難い空腹で身体がよじれそうだった
が、すでにそれも通り越していた。
実際にはこの状態にされて2時間程度なのだが、祐子の主観時間では数日が経
過していた。
ピシャッ!
鼻の頭に水滴が落下した。わざわざこの位置を選んだらしい。水滴は数分おき
に正確に鼻に命中している。
最初のうち、祐子は落下から次の落下までの時間を数え、それで気を紛らわそ
うとした。時刻を知る手がかりにもなるかもしれない。
ピシャッ!
いち、にい、さん、し……
ピシャッ!
よし、76秒だ。これまで何回ぐらい落ちてきただろう。50回だろうか?そ
れとも100回ぐらい?仮に100回だとすると、7600秒だ。7600を6
0で割るといくつになるんだろう?7000は6で割り切れるか?いや、割り切
れない。いや、まて。7600と60はどっちも最後にゼロがついているから、
この計算は760割る6でいいんだ。まず76を6で割ればいいのだったか?い
やいや、そうじゃない。6の100倍が600で、760は600より大きいか
ら、760から600を引かなければ。つまり100をどこかに置いておいて、
160を6で割った数字に足せばいいんだ。じゃあ、160は6で割り切れるの
だったっけ?
こんなことを考えて時間を潰すしかなかった。せめて身体の位置を変えて、水
滴が口に落下するようにしたかったが、それはどうしてもできなかった。
すでに怒りも恐怖も憎しみも、遠い過去の想い出のようだった。それらを考え
始めると、身動き取れない焦燥感が増すばかりなので、考えることをやめたのだ。
いずれ時が来たら考えればいい。
祐子は、その時が来るのを待ち続けた。
由希もその時を待ち続けていた。
一度、県警の笹谷刑事から、由希のマンションに電話がかかってきた。由希は
携帯電話に転送されてきた通話を、祐子の隣の部屋で受けた。
『祐子さんが落ち着いたら取り調べを続けたいんですがね』
「もう少し待ってもらえませんか。まだ、少し興奮状態にありますので。今はぐ
っすり眠っていますが」
『そうですか。何か変わったことでもありましたか?』
「いいえ……実は、ここから抜け出そうとしたことがありました。4階の窓から
です。何か叫んで……」
『うーむ。それで、どうしたんですか?』
「何とか引き留めました。警察から帰る途中で、夜間診療所に寄って鎮静剤をも
らってありましたので、それを飲ませたら何とか落ち着きました」
『できるだけ早く事情聴取したいのですがね。それにそういうことなら、きちん
と医者に見せた方がいいでしょうし』
「あと、2、3日待っていただけませんか?」
笹谷刑事が躊躇う気配があった。
『いいでしょう。未成年であることや、逃亡の恐れが少ないことを考慮して2日
だけ待ちましょう』
「ありがとうございます」
『いいえ、どういたしまして。先生にはご迷惑をおかけしますな』
「とんでもありません。これも仕事です」
『尊敬しますよ。では、これで……おっと、そうだ。一つ訊きたいことがあるん
です』
「なんでしょう?」
『この前、取調室に後から来た大野川刑事を憶えていますか?』
「ええ」
『実は、今日無断欠勤していまして。自宅の方に電話をしても出ないのです。ひ
ょっとして、そちらにお話を伺いに行ったのではないか、と思いまして』
「さあ。見えていませんが」
『そうですか。いや、わかりました。それでは、またお電話します。何かありま
したらいつでもお電話ください』
「ええ。失礼します」
通話を切った由希は小さくつぶやいた。
「あと二日」
昼が過ぎ、夜が更けていった。だが、祐子はそれも気付かぬまま、ただひたす
ら時を待ち続けた。
一定時間ごとに鼻を水滴で直撃されては眠ることもできない。何度も水が気道
に入りむせかえったが、口が塞がれているので咳もできなかった。喉の奥を必死
でけいれんさせ何とか肺を鎮めたが、ぐったりと疲れてしまう。
一度誰かが入ってきて、口を塞いでいるガムテープの端に穴を開けてストロー
を差し込んだ。そこから冷たいミルクが流れ込んできたので、祐子は必死でそれ
を呑み込んだ。
それからどれぐらい経過したのだろう。
顔の上にかゆみを感じた。もちろん掻くことはできないので、無視しようとし
た。だが、それがかゆみではなく、何かの虫が歩いているのだと知ったとき、祐
子は本格的なパニックに突入した。
虫は口を塞いでいるガムテープの上を歩いていた。薄い紙一枚を隔てて、虫の
不気味な重みを唇に感じた祐子は、気が狂いそうになりながら、必死で頭を動か
そうとした。だが、頭もベルトできつく固定されていて動かすことはできない。
虫が止まった。さっきミルクが流し込まれた穴だ。もし、そこから口の中に入
ってきたら……
祐子は必死で息を吐いた。鼻からではなく口から。穴から空気が吹き出し、虫
はそこから離れていった。
ほっとしたのもつかの間、今度は虫が身体の上を這っているのに気付いた。服
は脱がされたままだ。
肩の上にそれが乗った。祐子はかなり大きな虫であることを知った。ゴキブリ
か、それともクモかもしれない。祐子はどちらも嫌いだった。
虫が乳房を登り始めた。祐子は喉の奥で絶叫し、身体を可能な限り揺すった。
だが直接的な危険を感じなかったらしく、虫はそのまま登坂を続けた。足の先端
の小さく尖った部分が、敏感な乳首をちくちくと突き刺す。
本能的な嫌悪で背中が反った。その動きで、虫はようやく移動を始めた。かな
りの早足で平らな腹部を通り過ぎ、汗で湿った恥毛の中に潜り込んだ。悪いこと
にそこの温度と湿度が気に入ったのか動きを止めてしまった。
祐子はさらに絶叫した。ただし、それを聞いているのは本人しかいなかった。
『……やあ、先生』笹谷刑事が親しげに応答した。『何か?』
「大変なんです」由希は動転した声で叫んだ。「朝倉さんがいなくなりました」
『何ですって!』
「さっき、ちょっと近くのコンビニに出かけて、帰ったらいなくなってたんです。
たった5分かそこらなのに」
『何てことだ』
「よく眠っていたので……申し訳ありません」
『いなくなった時の服装は?』
「最初に着ていたワンピースがなくなっていました」
『他に何かなくなっている物は?例えば、お金とか』
「いえ、何もないと思います」
『わかりました。すぐ手配します』
「お願いします。私も近所を探してみますので」
『また連絡します』
由希は通話を切って時計を見た。
懸命に太腿の筋肉を動かし続けたおかげで、恥毛の中の虫はようやくもぞもぞ
と動き出した。両脚は少し広げて固定されていたので、性器がむき出しになって
いる。虫はそちらの方へ進んでいった。
そっちへ行かないで!祐子は願ったが、虫は何かに惹かれたように、粘膜の上
で止まった。再び嫌悪で全身が震えた。
その震動で虫は再び動き出し、ベッドの上に落ちた。そのままどこかへ去って
いったようだ。祐子はたとえようがないほど安堵した。
次の瞬間、身体の上にぼとぼとと何かが落ちてきた。
それが何十匹にもなる虫だと知った途端、祐子は全身が総毛立った。
同時に耳を塞いでいた粘土が引き抜かれ、由希の冷ややかな声が聞こえた。
「虫が好きみたいね。たくさん友達を連れてきてあげたわよ。毒はないから安心
していいわよ。どこにでもいるゴキブリだから」
ゴキブリの群は祐子の身体中を這い回った。祐子は喉の奥で絶叫し、全身の力
を振り絞って身体を揺すろうとした。
「加代のことを憶えてる?」由希が言っている。「あなたも、加代に対して同じ
ことをしたそうね。加代はゴキブリが死ぬほど嫌いだったのよ。あなたはそれを
知っていて、加代の机の中にゴキブリホイホイをいくつも入れておいたり、給食
のミルクにゴキブリを入れさせたりした。加代はその度にもどしたそうね」
祐子は返事をするどころではなかった。ゴキブリの一群は祐子の身体のいたる
ところを、カサカサと動き回っていた。
「気付いていないから言っておくけど、あなたの身体を縛っているベルトの上に、
ゴキブリ捕獲用の餌がくっつけてあるのよ。だから、脅かしたぐらいじゃ逃げな
いと思うわよ」
由希の言葉に、祐子は発狂しそうになった。
「それから、さっき飲んだミルクだけど」由希はくすくす笑った。「あの中でゴ
キブリを泳がせてあげたわ。おいしかったでしょう?」
白い液体の中に黒光りするゴキブリがつかっている光景。祐子は耐えきれなか
った。胃の中身がものすごい勢いで逆流し、口の中にあふれ出した。同時に口を
塞いでいるガムテープがベリベリと音を立てて取り去られた。
吐瀉物があふれ出した。祐子は咳き込みながら叫んだ。
「いやああ!こいつらをどけてえ!」
「知ってる?ゴキブリって汚いものが大好きなのよ。あなたが吐いたものとかね。
あなた自身も汚いけど。また後で来るわ。それまで仲良くね」
「いや、いやあ!行かないで!お願い!助けて!」
ドアが閉じる音が無情に響いた。
祐子はまた絶叫した。
,,
#4263/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:27 (190)
代償 第三部 21 リーベルG
★内容
21
1時間ほど仮眠を取った後、由希は県警の笹谷刑事に電話を入れた。今のとこ
ろ由希は祐子の行方を探していることになっている。その芝居を続けるためであ
ったが、警察の動きを把握するためでもあった。
『いえ、まだ何も手がかりはありません。一人の目撃者もいないんですよ』
「そうですか。もう少し探してみますわ」
『お願いします。彼女が本当に麻薬取引に首をつっこんでいたとなると、その絡
みでトラブルに巻き込まれたのかもしれません。こちらはその線でも捜査を続け
ているところです』
「朝倉さんはそんなことをする子ではありませんわ。成績も優秀だし、お金に困
っているようなこともないんですから」
『それはどうだかわかりませんよ。ドラッグ・ユーザーの最年少記録は毎年更新
されていますからな。もちろん数も。昨年度、覚醒剤取締法違反で検挙された、
中学生以下の数は273人。ところが、今年は1月だけでそれを超えているんで
す。大人が売っているだけじゃない。子供たちの中に売人がいるんです』
「だからといって、朝倉さんがそうだとは限らないじゃありませんか!」
『先生が生徒さんを信じたい気持ちはわかりますがね』
「とにかく捜索を急いで下さい」
『100人以上を動員していますよ。では、また連絡します』
「ええ、お願いします」
由希は通話を終えた後、克也に向かって言った。
「そろそろ仕上げに入るわよ。こっちのことは気付かれていないけど、時間が経
てば経つほど危険になってくるから。妹の方はどう?」
「おとなしくしてるよ」
大声で叫んでいるつもりなのに、もはやかすれ声しか出ていなかった。それで
も祐子は叫ぶのをやめようとしなかった。それだけが狂気を押しとどめておく手
段だったのだ。無数のゴキブリが身体を這い回るという嫌悪と恐怖は、何度も祐
子から理性を奪い去りそうになっていた。
ドアが開く音が聞こえた。祐子は必死で叫んだ。
「助けて!助けて!」
それに答えるように、シューと何かの気体が噴出される音が聞こえ、身体に霧
状の液体がかかるのを感じた。ツンとくる匂いが鼻を刺す。だが、それより重要
なことは、ゴキブリたちが一斉に逃げ出したことだった。
「お仲間とお楽しみのところ悪いけどね。あなたに見てもらいたいものがあるの
よ」
虫の群から解放されて、一気にぐったりしてしまった祐子は答える気力もなか
った。誰かが近づき、祐子の拘束を順番に解いていった。目隠しが取られ、祐子
はおそるおそる目を開いた。室内の照明は最小限に落としてあったが、それでも
闇に慣れた瞳は光を見ただけでまぶたを閉じてしまった。まばたきをするように
小刻みにまぶたを開閉していると、なんとか視力が戻ってきて、腕組みをして祐
子を見つめている由希の姿が見えるようになった。
「まだ元気そうね」
祐子は答えなかったが、憎悪をこめて由希を睨んだ。
「じゃあいらっしゃい」
後ろから一人の男が、祐子の背中をこづいた。祐子は自分が裸であることに気
付いたが、今更局部を隠す気にもなれなかった。
由希は堂々と祐子に背中を向けて、廊下を歩いていった。何度も飛びかかって
首を絞めてやりたい衝動に駆られた祐子だったが、自分が肉体的にも精神的にも
消耗し切っていることはわかっていた。逆にはり倒されて、無様に床にうずくま
るのが落ちだろう。それぐらいなら、舌を噛みきった方がましだった。
到着したのは、最初に入ったミラールームのある部屋だった。克也をはじめ、
何人かの男がそこにいる。ミラールームの中は照明が消されていて、何も見えな
かった。
祐子が少し驚いたことに、榊と大野川もそこにいた。二人とも椅子に縛り付け
られ、さるぐつわを噛まされている。祐子が部屋に入ると、二人は揃って動揺し
た顔になった。
「今度は少しギャラリーを変えてみたわ」由希が微笑んだ。
「やるならさっさとしなさいよ」祐子は自分でも虚勢とわかる声で言った。「別
に今さらどうってことないわ」
「何か勘違いしているようね。私はあなたに見てもらいたいものがある、と言っ
たのよ。あなたを見てもらいたいなんて言っていないわ」
「何わけのわかんないこと言ってるのよ。気違い女!」
「そういう差別用語はいけないって学校で習わなかったの?」由希は気を悪くし
た様子も見せずに言った。「まあ座りなさいな」
祐子は意地を張って立っていたが、克也ともう一人の男が祐子を椅子に座らせ
た。両手を後ろに回し手錠をかけた上、頑丈なロープで身体を椅子に固定する。
「はい、いいわよ」
由希が誰かに合図を送ると、ミラールームに照明が入った。ベッドの上を一目
見て、祐子は悲鳴のような声で叫んだ。
「亜紀!」
口にタオルをかまされ、両手をベッドの支柱に固定された亜紀が横たわってい
た。目もタオルを巻かれている。
「亜紀に何をしたの!」
「何もしていないわよ。まだね」
「あんた、まさか……」
「そう。これからするのよ。あなたはそこでよく見ているといいわね」由希はミ
ラールームの方を向いた。「最初の人、はじめて」
立っていた男の一人が、Tシャツを脱ぎ捨てながらミラールームの中に入って
いった。
「いやああ!嘘つき!私をやったら妹は無事に返すって言ったのに!」
「亜紀ちゃんを解放するなんて一言も言っていないわ。あなたが勝手に身代わり
を申し出ただけじゃない」
「お願い、やめて!」
「ほら、始まったわよ」由希はミラールームを指した。
男が身動き取れない亜紀の服を引き裂き、たちまちのうちに全裸にした。少し
胸をいじった後、両脚を大きく開かせた。
「いや!お願い!許して」祐子は涙を流しながら哀願した。「私をかわりにやっ
て!」
「ダメよ。しっかり見ないと」
由希の手が、祐子の顔をつかんで、無理矢理前を向けさせた。
「目を閉じたら、あの子を殺すわよ。死ぬ前にあなたの顔をたっぷり見せてから
ね。見なさい!」
言葉と同時に、祐子の頬が鳴った。祐子は叫んだ。
「いやあああ!」
祐子は見た。すでに男は亜紀の中に挿入していた。亜紀の細い腰を抱えて、前
後に振り回すようなピストン運動を始めている。亜紀の顔の大部分がタオルで覆
われているため、浮かべているであろう苦悶の表情を見ずに済むことだけが、せ
めてもの救いだった。
「あ、ああ」祐子は自分が犯されているように呻いた。「あ、あき……」
悲鳴をあげることもできず、抵抗らしい抵抗もできず、ボロ布のように犯され
る亜紀を見ているうちに、祐子は次第に自分が壊れていくのを自覚していた。自
覚していながらどうすることもできない。むしろ自分の精神を崩壊の方へ押し進
めることによって、亜紀を守れなかった贖罪を果たしているともいえた。
二人が一緒に過ごした日数はそれほど多くはないが、亜紀が持つある種の純粋
さは、祐子が秘かに羨望している資質だった。祐子がそれで亜紀を憎んだり妬ん
だりしたことはない。めぐみへの仕打ちでもわかるように、祐子は自分が手に入
れることができないものならば、いっそ破壊してしまいたい、という厄介な独占
欲を持っていた。それを治そうとはしなかったし、治さなくてはならないと思い
さえしなかった。むしろ自分が生まれ持った特権であるかのように、それを行使
して後悔しないことがほとんどだった。しかし、亜紀にだけは、雪で作られた花
を扱うような、慎重な態度で接していた。祐子は亜紀の中に、あり得たかもしれ
ない自分を見いだしていたのかもしれない。
その貴重な宝石のような亜紀が、汚されている。祐子の全人生が粉々に破壊さ
れたに等しかった。精神が傷つかない方がおかしい。
もちろん亜紀に対する暴行だけが原因ではない。連続して行われた祐子自身に
対する拷問によって、祐子の精神は静かにゆっくりと崩壊していったにちがいな
い。もっともそれは臨界点を超えてはいなかったから、時間をかければ元に戻っ
ただろうが。
そして今、亜紀の悲惨な姿を目にした祐子の精神は、あっけなく限界点を超え、
さらに最奥の暗い混沌の領域へと進みつつあった。
男が亜紀の中に射精して離れると、休む間もなく次の男が服を脱いだ。ぐった
りしている亜紀の身体をうつ伏せにすると、いきなり後ろから挿入する。
祐子はその光景もあまさず見つめた。
瞳から生彩が消えている。果てしない苦悶がそこにあった。
二人目が終わると、間をおかずに三人目が交替した。
全てが終わったとき、祐子は宙の一点を焦点の定まらない瞳で見つめていた。
「朝倉さん?」
由希がそっと呼びかけたが、祐子は答えなかった。肩をつかんで軽く揺さぶっ
ても、ぼんやりと見つめ返すだけで、由希が誰なのか理解しているようではなか
った。
「いい感じね」
由希はつぶやいた。そして、今度はもう少し大きな声で祐子の名前を呼んだ。
「朝倉さん!」
祐子はびくっと首をめぐらせた。瞳に光が戻った。
「お前、人間じゃないわ」その声からは、闘争心も敵対心も消えていた。「亜紀
が何をしたっていうのよ。どうしてあそこまでひどいことをされなきゃいけない
のよ」
「その言葉は、固有名詞を除いてあなたに返すわ。加代が何をしたっていうの?
ただ、あなたの気に障っただけで、加代は自殺するはめになったのよ。後に残さ
れた人間の気持ちがわかったでしょう?」
「うるさい」
「可哀想な亜紀ちゃんね。たまたまあなたがお姉さんだったばっかりに、こんな
目に遭わされて。処女だったそうよ。本当は好きな人と結ばれたかったでしょう
にね。聞こえなかったかもしれないけどね、レイプしている男はみんな囁いてい
たのよ。お前がこんな目に遭うのは、朝倉祐子のせいだ、ってね。亜紀ちゃんが
あなたを許してくれると思う?たぶん、一生恨まれるでしょうね。時間が身体の
傷を癒しても、心に残った傷だけは絶対消えないから」
「うるさい、うるさいわよ!」祐子は耳を手で覆って、首を振った。「お前なん
か死ねばいいのよ」
「あいにく私はまだ当分は死ぬ予定はないわ。死ぬのはあなたの方よ」
「そう」それほど驚きもせずに、祐子は由希を見つめた。「やっぱり私を殺すつ
もりなのね」
「さあてどうしましょうねえ」
「殺すならさっさとやれば」
「いいわよ。じゃあ、ご希望に沿いましょうか」
由希は部屋の隅に歩いていくと、何かを持って戻ってきた。
「これが何だかわかる?」
祐子の目の前に置かれたのは、金属製の小さな缶だった。「ロングライフクー
ラント」という商品名が表面にグリーンの文字で印刷してある。
「バイク用の冷却液よ。飲んだら確実に死ぬけど、それよりもっと大事なことは
死ぬまでにものすごく苦しむこと」
「これを飲めって言うの?」
由希は答えずに、缶の隣にグラスを二つ置いた。
「どうしてグラスが2つあるんだ、って思っているでしょう?」
あらかじめ用意してあったらしいペットボトルが取り出され、中身がグラスに
注がれた。青緑のどろどろした液体である。
「野菜汁......俗に言う青汁ね。これはあまり美味とは言えないけど、健康に害
はないわ」
由希の手が冷却液の缶をつかみ、慎重にキャップが外された。片方のコップの
上で缶を傾けると、透明なグリーンの液体がとろとろと垂れた。
冷却液はほとんど透明なので、すでにグラスを半分ほど満たしている野菜汁に
混ざっても全く見分けがつかなくなった。多少量が増えただけである。由希は、
少ない方のグラスに、少し野菜汁を足して、量を同じにした。そして二つのグラ
スを身体で隠し、しばらくカチャカチャと音を立てた後、祐子の前に戻した。
「さあ選んで」
「何よ、これ」祐子はかろうじて鼻で笑い飛ばすだけの力を振り絞った。「自分
の手を汚すのがいやなわけ?だから、私に選ばせようというわけ?毒が入ってい
ない方を選んだら帰してくれるわけなの?」
「わかってないわね」由希は静かに答えた。「あなたが選んだグラスの中身を飲
むのは亜紀ちゃんよ」
#4264/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:28 (159)
代償 第三部 22 リーベルG
★内容
22
言われた意味がわからず、祐子は思わず訊き返した。
「え?」
「あなたが選んだ方を、亜紀ちゃんが飲むの」由希は繰り返した。「冷却液が入
っている方を選べばあなたは助かるけど亜紀ちゃんは死ぬわ。苦しみぬいてね。
逆に入っていない方を選べば、亜紀ちゃんは助かるけど、あなたは死ぬ」
「え……え?」
「つまりあなたに最後のチャンスを上げようというわけ。あなたがどちらを選ん
でも、生き残った方はここから出してあげる。妹を犠牲にすれば助かるわよ」
「そ、そんなこと!」祐子はがたがた震え始めた。「選べるわけない!」
「いいえ選ぶのよ。絶対に選んでもらうわ。選べないなら、亜紀ちゃんに両方飲
ませるわ」
祐子は身震いして、2つのグラスを見た。いくら由希でもそこまでやるだろう
か?全く罪のない亜紀を殺すようなことをするだろうか?だが、すでに亜紀を輪
姦させることまでやったのだ。もし由希が、妹を失う苦しみを祐子に与えようと
しているのなら……
その一方で、由希の意図が、祐子が自分の手で死ぬことにあるのなら、2つの
グラスのどちらにも毒が入っているか、祐子が選ばなかった方が毒入りになるよ
うな細工がしてあるかもしれない。片方にだけ毒が入っているというのは由希の
言葉だけでしかない。藤澤美奈代も、天野志穂も、由希ははっきりと自分が手を
下したことを宣言した。にもかかわらず、警察は自殺と断定したのだ。ここで、
祐子が自分で毒をあおれば、それを自殺に見せかけることは困難ではないだろう。
最悪なのは、どちらにも毒が入っているというパターンだ。亜紀が死に、それ
を見ながら祐子が死ぬ。それだけは避けたかった。
「わかったわ。選べばいいんでしょう」祐子はついに決心して言った。「でも、
ひとつだけお願いがあるんだけど」
「言ってみれば?かなえてあげるとは約束しないけど」
「先に私に飲ませて。それで、もし私の方に毒が入っていたら、それで亜紀を解
放してやって」
由希は少し考えて頷いた。
「いいわよ。じゃあ、選んで」
祐子は2つのグラスをちらりと見て、適当に手をのばし、最初に触れた方をつ
かんだ。
「こっちを亜紀にやって」
「もっと悩んで欲しかったのにね。まあ、いいわ。本当にこちらでいいの?変更
はきかないわよ?」
「いいわ」祐子は残ったグラスを握った。「私はこちらを飲むから」
「OK。飲んでいいわよ」
祐子は覚悟を決め、亜紀に心の中で別れを告げた。父親やクラスメイトたちに
会えなくなるのは少しも悲しくなかったし、彼らが本当に悲しむとは思えない。
亜紀の立場に、彼らの誰かがいたら、祐子は迷わず自分が生き残る道を選んだに
ちがいない。亜紀だけが、祐子が初めて本当に興味を持った他人であり、おそら
く初めて愛した人間だったからこそ、祐子は自分が犠牲になることを決心できた
のだ。
祐子はグラスを口につけると、一気に傾けた。
生臭く、サラダの残り汁のような匂いが口いっぱいに広がった。こんな味をこ
れから2度と体験しなくてすむ、と考えても慰めにはならない。祐子は目をつぶ
って、一気に胃に送り込んだ。そして、グラスを放り出すと、身体の奥から苦痛
が沸き起こってくるの待ち受ける。目は閉じたままだ。由希の前で醜態をさらす
ことだけは耐えられなかった。
静寂の数分間が過ぎた。
それを破ったのは、由希がくすくす笑う声だった。
「あらあら、運がいいわねえ。あなた、毒が入った方を選んだみたいよ」
祐子は愕然として目を開けた。由希はもう一つのグラスを握って、ミラールー
ムの方へ向かっていくところだった。
「待って!」祐子は叫んだ。「やめて!」
「ダメよ、朝倉さん」由希は振り向きもしない。「約束なんだから」
「やめて、やめて!亜紀を殺さないで!」
由希は男の一人にグラスを渡した。男はミラールームに入っていくと、ぐった
りしている亜紀の口にグラスをあてがった。
「亜紀!」祐子は声の限りに絶叫した。「飲んじゃダメ!死んじゃうよお!」
誰も祐子の言葉に注意を払おうとしなかった。亜紀は何をされているかもわか
っていないようだった。祐子の位置からは、亜紀がそれを飲んだのかどうかは、
はっきりとは見えなかった。だが、男が空になったグラスを持って立ち上がった
とき、祐子は絶望の叫び声を発した。
「亜紀!」
不意に亜紀が跳ね起きた。目が大きく開き、何かをいぶかしむような表情で、
周囲を見回している。次の瞬間、亜紀の口から大量の吐瀉物が噴出された。
「亜紀!亜紀!」
亜紀は喉を押さえて、ふらふらと立ち上がった。顔には想像を絶する苦悶の表
情が刻まれている。身を二つに折って、再び激しく嘔吐する。身体を起こしたと
き、その顔は鮮血で染まっていた。鼻から血がぼたぼたと流れ落ちている。救い
を求めるように手を前に突き出したが、マジックミラーにあたると、その反動で
後ろに倒れた。
「いやあ!亜紀!」
その声が届いたわけでもないだろうが、亜紀は喉を押さえながらも、何とか肘
をついて起きあがろうとした。四つん這いになって、顔を祐子のいる方向に向け
る。鮮血に染まった顔は別人のようだった。
「声が聞きたいでしょうね」
由希がどこかのスイッチを入れると、スピーカーからひび割れた声が流れてき
た。
「お……お姉ちゃん……苦しい……誰か助けて!お姉ちゃん!お母さん!」
たまらず祐子は目をそらした。克也が後ろから頭をつかんで、無理矢理亜紀の
方を向けさせる。
亜紀が激しく咳き込み、マジックミラーの内側に大量の鮮血が飛散した。
「助けて、助けて……お姉ちゃん!」
「お願い!」祐子は涙を流しながら、由希の方を見た。「助けてやって!私は死
んでもいいから、亜紀を助けて!」
「駄目よ。あなたが選んだんだから」
とうとう亜紀は力尽きて、仰向けに倒れた。身体がひくひくとけいれんしてい
る。小さく咳き込んでは血煙を生み出しているが、それも次第に間隔が長くなっ
ていく。
数分後、その身体は動かなくなった。
「亜紀!」
「死んだわ」由希が宣言した。
祐子の視界が暗転していった。何かが決定的に壊れてしまったことを感じなが
ら、祐子は音もなく崩れ落ちた。
意識を失った祐子を、由希は起こそうとはせず、冷たい一瞥を投げただけで、
縛られて座っている榊と大野川の方に近づいていった。二人とも悪鬼でも見るよ
うな視線で由希を見ている。
「何か言いたそうだわ」由希は微笑んだ。「話せるようにしてやって」
克也が二人のさるぐつわを取り去った。最初に口を開いたのは大野川だった。
「お前、それでも女か」憎々しげな声だった。「あの子には何の罪もなかったん
だぞ」
「あなたたちにはお引き取り願います」由希は大野川の言葉を無視した。「途中
まで、こちらが車で送りますけど。その後は、警察に駆け込むなりご自由に。た
だし、あなたたちが朝倉さんを犯して、ナイフでイニシャルを刻んでいるビデオ
があることをお忘れなく」
「お嬢さんはどうするつもりです?」榊が訊いた。
「あなたに心配していただく必要はありませんわ」
「殺すんですか?」
「あなたには関係ありません」
「お嬢さんは、私のクライアントなんです。無関係とは言えませんな」
「殺すに決まっているさ!」大野川が叫んだ。「こいつは血も涙もない悪魔なん
だ」
由希はそれには何のコメントもしなかった。
「それでは、お二人とも楽しいひとときでした。また、いつかお目にかかりまし
ょう」
男たちが、榊と大野川を椅子ごと持ち上げた。二人はなす術もなく、外に運び
出されていった。
それから二人は何重にも目隠しをされ、改めて縛られた上で、車に乗せられた。
後部シートに転がされたままで何時間か過ごした後、車は停車した。周囲には車
の音も人の声もしない。
「おい、ここはどこなんだ」大野川は言った。「いい加減にしろ!」
突然、腕に鋭い痛みが走り、大野川は思わず叫び声を上げた。注射針だ、と気
づき慌てて身体を動かしたが、すでに薬液の大部分は注入されていた。
身体から力が抜けていった。急激に眠気が襲いかかってくる。
意識を保とうとする努力は無駄だった。
次に目を覚ましたとき、大野川は自分がどこかの公園の芝生で寝ていることに
気付いた。身体は縛られてはいないし、目隠しもない。少し頭が痛むが、どこか
を負傷した様子もない。まだ日が高い。時計を見ると、23日の午後2時だった。
隣で榊も目を覚ましていた。
「これはどういうことなんだ?」
「どうして、私が知っているわけがあります?」
「それもそうだ」
「どうして殺さなかったんでしょうな」
「知るものか。これからどうする?」
「まず、ここがどこだか確かめて、電話をかけて誰かに迎えに来てもらうんです
よ」
二人とも財布は盗まれていなかったので、それぞれタクシーを呼ぶことができ
た。とりあえず、後日連絡することにして、二人は別々の方向へ帰った。榊は自
分のオフィスへ。大野川は自分のアパートへ。
榊がオフィスに戻って最初にやったのは、朝倉家に電話をかけて、祐子の所在
を確かめることだった。電話に出たメイドが、榊の予想通りの答えを返した。祐
子は21日から帰宅していない。榊はすぐ、何人かの部下に祐子の捜索を命じた。
だが、その処置は無駄に終わった。午後8時、大野川から電話が入ったのだ。
#4265/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:29 (135)
代償 第三部 23 リーベルG
★内容
23
救急車の後部ドアが勢いよく開き、二人の救急隊員が飛び降りた。彼らは手際
よくストレッチャーを引きずり出すと、市民病院の緊急救命室へガラガラと押し
ていった。当番の医師と、数人のナースが素早く駆け寄った。
「若い女性」救急隊員は早口で情報を伝えた。「路地裏で全裸で倒れていた。意
識はなく昏睡状態。身体の数カ所に軽度の外傷。呼気にアルコール反応あり。血
圧80の50。脈は52」
「受領した」医師が答えて、ベッドの方に導いた。「こっちだ。移すぞ。1、2
の3」
毛布に包まれた患者の身体が、ストレッチャーからベッドの方に移された。す
ぐさま医師が聴診器を耳にはめた。
「よし、血算、生化学を急いで。体温は?」
「34.5です」
「心音微弱。脈が49に下がりました」
「瞳孔やや拡大」
「Oマイナス……いや、生食2パックを点滴。血液クロスマッチ急げ。電気毛布
の用意」
「先生」ナースの一人が怯えたように言った。「これを」
医師はナースが指している部分を見て、目を見張った。両脚の太腿の内側に、
「S」と「O」が刻んである。
「刃物で切ったみたいだな。消毒して、滅菌パッドをあてて」
「酸素分圧80」
「バビンスキー反応なし」
けたたましい電子音が処置室に鳴り響いた。
「心室細動!」
「CPR!パドル急げ!」
ナースの一人が、患者の心臓の上に両手をあて、マッサージを始めた。
「パドルOK!」
「200ジュール。よし、下がって!」
ナースたちが素早く離れた瞬間、医師はパドルを身体の二カ所にあてた。電気
ショックで、患者の上半身が跳ね上がる。
「脈が出ました!」
「エピを1CC静注。おっと、こいつは……」
医師は患者の腕に、数カ所の注射痕を見つけて怒鳴った。
「薬物チェックを最優先でやれ。酸素マスク。過呼吸にするんだ」
半透明のマスクが患者の鼻と口を覆った。
「体温、35度」
「脈拍52に上がりました。血圧90の55」
「アンフェタミンおよびメタンフェタミンが陽性です」
「くそ、覚醒剤か」医師は毒づいた。「リドカイン1CC投与。警察に連絡しろ。
身元を確認できるものはないのか?」
「衣服は受領していません」
「そうか。アニオンギャップは?」
「19です」
「ヘマトクリット35.9」
「血圧100の60」
「脈拍60」
「よし、落ち着いてきた。ICUは空いてるか?」
「2号室がさっき空いたところです。今はチェックを」
「空いたら移せ。24時間監視が必要だ。面会謝絶。内科に誰かいたかな?」
「筒井先生が仮眠室にいたと思います」
「起こして呼んでこい」
「警察から連絡が入りました。麻薬関係の事件で捜索中の高校生のようです。担
当の刑事がこっちに向かっています」
「まったく、最近の高校生ときたら」医師は舌打ちした。「警察が来るか、容態
が急変したら呼んでくれ」
そう頼むと、医師は食堂へ向かった。
『間違いないよ』電話越しに大野川が言った。『お嬢さんだった。覚醒剤を注射
されて、裸で路地に捨てられていた。天野志穂と同じだ』
「違うのは、お嬢さんの場合は生きていることですな」榊は考え込んだ。
『死んだと思ったのかもしれない』
「普通、確かめるでしょう」
『橋本由希は何をやっているんだ』
「さっき警察から帰ってきてからは、ずっとマンションにいます。彼女を逮捕す
るおつもりですか?」
『何の罪でだ。殺人罪でか?』大野川が自嘲気味に笑った。『それに、どうやっ
て立証する?目の前で見ていましたから、と証言するか?』
「私は少なくとも何も言うつもりはありませんよ」
『おれだってない』
「お嬢さんはどうなるんです?」
『明日、父親が帰国するそうだ。意識はまだはっきりしないし、わけのわからな
いうわごとばかり呟いているから、事情聴取どころじゃない。それに、父親が上
に圧力をかけてでも引き取るだろうよ。あんたはどうするんだ?』
「どうもこうも」榊は苦笑した。「お嬢さんがああなってしまった以上、残金を
払ってもらえるとは思えませんからね。父親の方に請求書を切るわけにもいきま
せんし。これで終わりです」
『橋本由希が、またお嬢さんを狙うんじゃないか?』
「だとしても、何もできませんよ。そっちも同じでしょう?」
『まあな。ああ、そうだ。一つ言い忘れていた。昨日、小沢律子が死体で発見さ
れた』
「小沢……例の写真の女の子ですか?お嬢さんの後輩だという?臼井が拉致した
まま行方不明になっていましたね」
『発見されたのは、天野志穂の死体が見つかったのと同じ場所だ。死因は覚醒剤
の過剰摂取。身体の百カ所以上にいろんな傷跡があったそうだ。拷問に近い仕打
ちを受けたらしい』
「何を意味しているんでしょう?」
『県警では、お嬢さんが麻薬を二人に与えていた、と考えている。そして、どこ
かの暴力団が縄張りを荒らされた報復を行ったんだと』
「なるほど。しかし、そうなると、お嬢さんがこのまま釈放されるとは思えませ
んね……そうか、おそらく精神鑑定で責任能力なしとなるでしょうな」
『ああ。すでに精神科医が予備的な鑑定を行っている』
「弁護士はいくらでもいいのがつくでしょうしね」
『それに、逮捕された日、お嬢さんが取った行動は、どうみても常軌を逸してい
るからな。充分な傍証になる』
大野川の予想は的中した。翌日帰国した祐子の父親は、国内でも最高級の法律
事務所に依頼した。弁護士は、最高級の精神科医を4人も用意して、緊急に祐子
の精神状態の鑑定を行った。
祐子は意識を回復していたものの、誰かがそばに近づくたびに、けたたましい
悲鳴をあげて震え出し、まともな精神状態ではないことを疑う者はほとんどいな
かった。もっとも、精神科医たちは、たっぷり報酬をもらっていたから、たとえ
祐子が正常な思考を保っていたとしても、精神異常との診断を下しただろう。彼
らは、逮捕された当日の祐子の行動を追い、祐子が訪問したクラスメイトたちか
ら詳しく話をきき、その時点ですでに異常をきたしていた、と結論づけた。
最終的な鑑定が出たのは、9月の半ばを過ぎた頃だった。心神喪失により責任
能力なし、というのが精神科医たちが出した結論である。笹谷刑事をはじめとす
る県警の麻薬取締課の担当者たちは、悔しがったがもはやどうしようもなかった。
9月19日、祐子は警察病院の特別室から、都内にある精神科・神経科病院に
移送された。病院の名は「遠藤メンタル・クリニック」といった。
祐子の精神状態は、周囲の人間が思いこんでいるほど異常ではなかった。病院
に運び込まれた直後と、それに続く数日間こそ心神喪失と診断されるのにふさわ
しい状態ではあったが、その後次第に元の祐子に戻りつつあった。亜紀を失った
苦しみは未だに深い傷を残してはいたが、それで全てが崩壊するほど、祐子の精
神は脆弱なものではなかった。
しっかりした思考ができるようになったとき、祐子は周囲の状況を確かめ、お
かしくなったふりをしていた方が自分の利にかなう、と判断したのだった。麻薬
取締法違反で逮捕されるぐらいなら、病院に入った方がましだ。ほとぼりが醒め
れば、父が退院させてくれるだろう。
この時点で選択できる行動の中では、これが最善だと祐子は信じていた。だが
以前、榊が臼井克也の妹について話したことを少しでも記憶していたら、絶対に
選ぼうとはしなかったにちがいない。他人に関する興味を、最小限しか持続でき
ない祐子の性格が生んだミスである。
そして、自分が地獄に入り込んでしまったことを祐子が知るまでに、それほど
長い時間はかからなかった。
#4266/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:30 (191)
代償 第三部 24 リーベルG
★内容
24
父親に付き添われて、遠藤メンタル・クリニックを訪れた祐子を迎えたのは、
穏和そうな笑顔を浮かべる男だった。
「ようこそ。院長の遠藤です」
「娘をよろしく頼む」
「私どもにお任せください」
遠藤は自ら二人を、病棟の個室へと案内した。廊下は清潔で明るい照明が灯さ
れている。グリーンの服を着た頑健な体格の看護人とすれ違う。腰の曲がった老
婆に手を貸して、ゆっくり歩いていた。
「ここが祐子さんの部屋です」
にこにこしながら院長が案内したのは、ホテルのスイートほどもある広い部屋
だった。壁も天井も白いクロス貼りで、大きめのベッド、ワイドテレビ、エアコ
ン、机、本棚、ドレッサーなどが置かれている。
「患者さんの安全のため、トイレと浴室は共同ですがね。不自由はないと思いま
すよ」
「そのようだな」祐子の父親は部屋を見て安心したように言った。「それほど、
長い滞在にはならないだろうが」
「もちろんですとも」
父親が車で去った途端に、院長の笑みは消えた。
「さて、祐子くん」うって変わって厳格な口調で告げる。「わかっているとは思
うが、ここの規則には従ってもらう。君の父上はこの病院に多額の寄付をしてく
れたが、一人の患者だけを特別扱いすることはできない。いいね?」
「ええ、まあ」
「私に返事をするときは、はい、か、いいえで答えたまえ」
「え?」
次の瞬間、祐子は力一杯頬を張り飛ばされていた。
「聞こえなかったのかね?」院長の顔にはひとかけらの笑顔も浮かんでいなかっ
た。「はい、またはいいえで答えるのだ。いいかね?」
「ちょっと、さっきとずいぶん態度が……」
再び祐子は平手打ちを食らった。
「何度も言わないとわからないのかね?私や看護人に対して不敬な態度は許さな
い。わかったかね?」
「……はい」
「よろしい。では、持ち物検査およびに身体検査を行う」
「え?」
またもや頬が鳴った。祐子は小さく悲鳴をもらした。
「学習しないな、君も」
「は、はい!」
「よろしい」
ドアがノックされた。院長は振り向きもせずに答えた。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは、さきほどすれ違った看護人だった。その後ろに、同じ服を着
た男が二人続いている。
「やってくれ」
部屋の隅には、スーツケースと2つのボストンバッグが置かれていた。先に送
っておいた祐子の身の回りの品である。一人の男が、祐子の許可を得ようともせ
ずボストンバッグを開いて、中に詰まっていた衣服を絨毯の上にぶちまけた。
「何をするのよ!」
叫んだ祐子は、残りの二人が自分の方に近づいてくるのを見て、顔を強ばらせ
た。
「身体検査をしますよ、お嬢さん」一人が猫なで声で言った。「服を脱いでくだ
さい」
「すっぽんぽんになってね」
「な、なによ、いや、来ないで!」
祐子は悲鳴をあげたが、男達は祐子をベッドに押し倒した。一人が両手をしっ
かり抱え込み、一人が手際よく服を脱がせていく。祐子は必死で抵抗し、叫び続
けたが、男達は意に介さず、助けもこなかった。
あっという間に全裸にされた祐子は、脚を大きく開かされた格好でベッドに押
さえつけられた。
「院長、どうぞ」男の一人がうやうやしくいった。
「よしよし」
院長はにたにた笑いながら近づくと、指をぺろりと舐めて祐子の陰唇にずぶり
と差し込んだ。
「いやあああ!」
「おやおや、結構慣れた感触だな。お嬢様だと聞いていたが、最近の高校生だけ
あるな」
「早くしてくださいよ、院長。後がつかえてるんですからね」
「慌てるんじゃない」
院長はズボンを脱いだ。
「身体検査」は、1時間以上かかった。祐子は院長と三人の看護人に交替で犯さ
れた。四人とも避妊具をつけていたが、それは祐子のことを思いやったからでは
なさそうだった。
「これから、毎晩かわいがってやるからな」一人が言った。「楽しみにしてな」
「でも、結構慣れてやがったな」
「根が淫乱なんだよ」
荷物はばらばらにされていた。下着や衣類が床に散乱している。秘かに隠し持
ってきた携帯電話は、あっさり発見され没収された。本やCDウォークマンやC
Dも取り上げられた。
「お前にこんなものは必要ない」
「父に言いつけてやる!」悔しさに涙ぐみながら、祐子は院長を睨んだ。「訴え
てやるから!」
「お前にそんなチャンスはないんだ」院長が言った。「今にわかるがね」
「そろそろ行きましょう、院長。めしの時間ですぜ」
「そうだな。荷物を片づけておきたまえ。きれいに片づいていたら、食事を与え
よう。合格しなければ、食事はなしだ」
「じゃあな、お嬢さん」
四人は出ていった。
残された祐子は、ベッドに顔を伏せて泣き出した。
それからの数日で、ここが本当に地獄であることを、祐子は知った。
朝は6時に起床だった。シャワーなどはなく、冷たい水道の水で顔を洗わされ
た。朝食はトースト半分とゆで卵とコップ一杯のミルクだけだった。
朝食後は、治療の時間だった。拘束具を着せられ椅子に固定され、耳にヘッド
ホンをあてられ、奇妙な音楽をえんえんと聞かされるのだ。それは音楽というよ
りも、雑音に近かった。数分も聞いていると、頭ががんがん痛み出すが、逃れる
術はない。
その後は自由時間である。ただし、その自由の範囲は、イベントルームと言わ
れる、やや広い部屋の中が全てだった。窓には鉄格子がはまっていたし、ドアに
は看護人が一人座っていた。
集められた入院患者は20人ほどだった。老人から10歳ぐらいの男の子まで
様々な年齢層の人間がいる。半分は女性だったが、その中では祐子が一番若いよ
うだった。
最初の日、とまどっている祐子に、一人の患者が近づいてきた。30歳ぐらい
の女性である。顔色が悪く、がりがりに痩せている。
「あんた、新入りだね」
「え?ええ?」
「あたしはナオコ。あんた、あいつらにやられただろ?」
「……」
「あいつらは女が入ってくると、いつもそうなんだ。最初に味見をするのは院長
なんだよ。あの人みたいなお婆ちゃんでもやっちまうんだ」ナオコは、そう言っ
て、祐子の祖母ぐらいの年齢の女性を指した。「あんたは若いから気の毒だね。
一体、何をやってこんなところにきたんだね?」
「わ、私は、ここに長くいるつもりはないんです」
ナオコの顔に奇妙な同情が浮かんだ。
「あんた、誰かにだまされたんだね。ここはね、病気を直すところじゃない。人
を一生閉じこめておくところなんだよ」
祐子は目の前が暗くなるのを感じた。
「そんなばかな」
「誰かが邪魔になって消えてほしい。だけど殺すわけにもいかない。そんな人間
が適当な病名つけて放り込まれるのさ。本当に病気なら、絶対に直らないし、正
常な人間でも絶対病気にさせられちまう」
「あなた、何を言っているんですか?」
「ここでうまくやっていく方法はひとつだよ」ナオコは目をギラギラさせて囁い
た。「やつらに逆らわないこと。おかしくなったふりをしてれば、やつらはひど
いことはしないんだ。やつらが好きなのは、普通の人をおかしくすることなんだ
から」
「おれのニワトリを見なかったか?」突然、一人の男が割り込んできた。「赤い
トサカのコッコッコを知らんか?ミミズを探しに出てったきり、戻ってこないん
だ。コケー!」
「こうなっちまうのさ」ナオコが言った。「何を下手に抵抗しない方がいい。さ
もないと、ひどい目に遭う。本当だよ」
祐子が問い返そうとしたとき、ナオコは振り向いて去っていった。
「なあ、おれのコッコッコを知らないか?」
「あたしの子供が!」別の女が叫んだ。「子供が出てきそうだよ!生まれそうな
んだ!早く医者を呼んでおくれ!早くしないと、耳の穴から出てきちまうよ!」
「耳の穴!耳の穴!」若い男が叫び返した。「ぼくのチンチンは耳の穴に差し込
んで、じょぼじょぼやると、そこから悪い菌が入って腐って落ちちゃった。耳の
穴にはムカデが腐ったふんを溜めてるんだぜ!」
「あたしの子供!こどもおおお!」
入り口に座っていた看護人が立ち上がった。つかつかと叫んでいる女性の方に
歩いていくと、無造作に腹を蹴りつけた。女性は悲鳴をあげた。
「ギャー!子供がああ!」
「うるせえ。静かにしろ!」看護人は怒鳴った。
「静かにしろ!」さっきの若い男が、その言葉を真似た。「ぎゃははははは」
看護人は振り向いて男の顔を蹴った。若い男はたちまち顎を押さえてうずくま
った。
「世話を焼かせやがって」そう言いながら看護人は、凍りついている祐子を見て
にやりと笑った。「お前が新入りか。まだ高校生だってな。今夜を楽しみにして
な。おれの太いのでヒイヒイ言わせてやるからな」
祐子はぞっとした。
自由時間は、朝食と同様に粗末な昼食まで続き、その後は作業の時間だった。
祐子は古ぼけた作業着に着替えさせらて、机が並んだ部屋に連れてこられた。す
でに何人かの入院患者が座っている。
祐子の前に箱が3つ置かれた。一つは空で、残りの二つにはそれぞれ異なる金
属製部品がたくさん入っている。祐子は2つの部品を組み合わせて、空の箱に入
れていくよう命じられた。
作業自体は簡単だったが、問題は部品がざっと1000以上あることだった。
監督の看護人は、全部組み立てるまで夕食を与えないと断言した。祐子はおよそ
4時間にわたって作業を続け、その間、一滴の水も飲ませてもらうことができな
かった。
夕食は、味の薄いシチューと茶碗一杯のご飯、それに漬け物だけだった。シチ
ューに入っているのは、ジャガイモとニンジンのかけらだけで、肉類は全くなか
った。
夕食の後は、入浴に時間だった。浴室は狭く、しかも男女の区別はない。祐子
は他の数人の男女と一緒に、シャワーの下に並ばされ、ぬるいお湯で身体を洗っ
た。シャンプーなどはなく、質の悪い石鹸を順番に使い回していく。祐子は隣の
男が性器を直接ごしごしやった石鹸を受け取った。シャワーで石鹸の表面を洗お
うとした途端に、監督の看護人に怒鳴られ、やむなくそのまま身体を洗った。
その後、まだ8時を過ぎたばかりなのに、消灯の時間となった。これは患者を
ゆっくり休ませるためではないことはすぐにわかった。祐子がベッドに入ると、
待ちかねたように二人の職員が入ってきたからである。
祐子はできる限り抵抗した。だが、それは男たちの欲望をかき立てただけだっ
た。男たちは祐子をさんざんいたぶり、抵抗が少なくなったところで、順番にレ
イプした。
その二人が出ていったとき、祐子は屈辱よりも疲労の方を強く感じていた。だ
が、安心するのは早かった。次の二人が入ってきたのだ。
祐子が疲労困憊して眠りにつけたのは、午前4時過ぎだった。8人の男たちが
祐子を凌辱した後である。
同じ日々が数日続いた後、祐子はナオコの言った意味を理解した。
ここは正常な人間をおかしくする病院だったのだ。
いっそ狂ってしまった方が幸せかもしれなかった。
冗談じゃない。祐子は怒りをかきたてた。そんなことになっては、橋本由希を
喜ばせるだけだ。絶対に最後まで抵抗してやる。
#4267/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:31 (162)
代償 第三部 25 リーベルG
★内容
25
星南高校に朝倉祐子の退学届けが提出されたのは、10月1日だった。祐子の
父親は、遠藤メンタル・クリニックに圧力をかけ続けたが、病院側が完治したと
判断するまで退院を強要することはできなかった。もともと、祐子を甘やかして
はいたものの、溺愛してはいなかった父親は、このことをマスコミにリークする、
という院長のさりげない脅迫もあって、直ちに退院させることを急がなくなった。
当初、祐子の父親が同意したのは、仮入院だった。これは指定医の診断もしく
は保護者の同意があれば、強制入院できるのだが、その期間は一週間と定められ
ている。遠藤は6日めに、医療保護入院に切り換えさせた。祐子がまだ、精神的
に不安定な状態にある、というのがその理由である。祐子の父親は、それに同意
した。医療保護入院の期限は無制限だが、保護者が同意を撤回すればいつでも退
院できるからである。
ところが、数日後、それは措置入院となっていた。医師が入院の必要なしと認
めるまで退院できない。精神病院の入院費は、患者が支払うのではなく、公費か
ら支給されるので、病院としては入院患者が多ければ多いほど儲かる。患者を簡
単に手放すわけにはいかないのだ。
10月3日。
車で校門を出ようとした由希は、見覚えのある男が立っているのに気付いた。
スピードを落として、その男のそばに寄っていくと、窓を開けた。
「こんにちわ、榊さん」
榊は、少し痩せたようだった。由希を見て、曖昧な表情を浮かべる。
「こんにちわ、橋本先生。その節はお世話になりまして」
「こちらこそ」由希は大まじめで言葉を返した。
「少しお話があるのですが」
「なんでしょう?」
「立ち話もなんですから、お茶でも付き合ってもらえませんか?先生のお好きな
場所で結構ですので」
由希は少し考えて頷いた。
「いいですよ。お車ですか?」
「ええ、そっちの角に止めてあります」
「では、私の後についてきていただけますか?」
「わかりました」
由希のシビックと、榊のカローラは街中を10分ほど走った。夕方のラッシュ
アワーで二車線の道路は混み合っていたが、由希は苛々する様子もなく、きちん
と制限速度を守って走行した。
由希が車を停めたのは、マクドナルドの駐車場だった。車を降りた由希に、榊
は呆れたような顔を向けた。
「こういう食べ物がお好きなんですか?」
「いいえ。でも、ゆっくり話をするにはもってこいの場所ですよ」
そう言うと、由希はさっさと中に入っていった。榊は仕方なく後に続いた。
やや暖かい日だったので、二人はバニラシェイクを頼んで、二階の奥の席に座
った。周囲には学校帰りの女子高生や、大学生たちで埋まっていた。みな、自分
たちの話に夢中で、誰も由希たちに注意を払う者はいなかった。
「それで、お話とは何でしょう?」
榊はシェイクをすすると、ためらうことなく訊いた。
「あれは誰だったんです?」
「あれって?」
「あの時、殺した女の子です。私たちが亜紀ちゃんだと、思いこまされていた子
です」
由希はゆっくりと微笑んだ。
「AV女優なんです。あまり有名ではないみたいですけど。身長と体型が似てい
る女優の中からピックアップしました。顔は遠くからならば、はっきりとはわか
らないように、多少メーキャップして」
「だから、お嬢さんを近づけようとしなかったんですね」榊は嘆息した。「AV
女優ならレイプシーンぐらいこなせるだろうし。最後のも演技だったんですか?」
「そうです。ただし、彼女に飲ませたジュースの中には、医療用の嘔吐剤が入っ
ていたんです。彼女は本当に驚いていたんですよ。知らせていませんでしたから
ね」
「血を吐いてましたよ」
「直前にトマトジュースを一瓶飲ませておきましたから」
「私やお嬢さんはともかく、現職刑事の大野川さんまで、そうと思いこんだのだ
から大したものです。本物の亜紀ちゃんはどうしたんです?」
「あらかじめ手紙を送っておいたんです。あなたは無作為の抽選の結果、来年公
開する映画のオーディション参加者に選ばれました……というやつを。たぶん、
親には内緒でオーディション会場に行くと予想したんです。別に親に話してもら
っていても構わなかったんですけどね」
「それでお嬢さんが確認の電話をかけたときいなかったし、母親も行く先を知ら
なかったわけですか。もし、亜紀ちゃんがその手紙を悪戯だと思ったら?」
「それならそれで、家から呼び出す手段は考えてありましたよ」
「我々もうかつでした。次の日にでも、亜紀ちゃんの家に電話一本でも入れてい
れば、あんなことにはならなかったのに」
「無駄ですよ、榊さん」由希は小さく笑った。「他にも手段はあったんです。た
とえば、本当に亜紀ちゃんを拉致するとか。幸い、その必要はありませんでした
けど」
「あの告白文はどういう意味があったんです?」
「これから彼女の犠牲になった人たちのところを、一人ずつ訪問するつもりなん
です。いじめの犠牲者は、心に傷を残していることがあります。朝倉祐子の脅威
がなくなったことだけでも伝えてあげられれば、と思いまして。それに、もしか
したら、あれを書いている途中で、朝倉祐子自身が悔い改めてくれれば、と淡い
期待も抱いていたんです。そうはなりませんでしたけどね」
榊は黙り込んだ。周囲では、笑いさざめくカップルや、女子高生の集団が入れ
替わっていく。由希は楽しそうに彼らを眺めていた。
「あなたの目的は、お嬢さんを殺すことではなかったんですね?」
「最初はそのつもりでしたよ」由希はあっさり答えた。「自分の妹を失う苦痛を
たっぷり味わってもらった後にね。けれども、立川めぐみさんのことがあって、
気が変わったんです。一生、苦しみ続けてもらいたいわ」
「お嬢さんは遠藤メンタル・クリニックに入院しています。臼井克也の妹が入院
していたところですね。これもあなたの意図ですか?」
「もちろん。遠藤精治病院という名前だった頃から知っていますが、あの病院は
滅茶苦茶なところなんです。患者に対する暴行、違法な人体実験、劣悪な生活環
境。病院と名が付いていますが、資格のある医師は二人しかいない。ろくに診療
も行わないで、作業療法の名目で酷使する。正常な人間でも、1月でおかしくな
ってしまうでしょうね」
「それが目的だったんですか?」
「朝倉さんはどれぐらいもつでしょうね」由希はそう答えた。「プライドの高い
彼女のことだから、普通の人よりもろいかもしれませんね。ひょっとしたら、私
に対する憎しみから、もう少し持ちこたえるかもしれない」
「どうやってお嬢さんを、あの病院に送ることができたんです?」
「強制入院は県知事の判断で、本人の同意を得ることなく実行することができる
ことはご存じ?知事は同時に、入院先を決めなければならないんですけど、当然
医師の助言を仰ぐことになります。その医師を買収したんです」
再び沈黙が降りた。今度、それを破ったのは由希の方だった。
「あの刑事さんはどうなさったのかしら?」
「あなたを追うことは諦めたようです。もうすぐ警備会社に転職するそうです」
「ご迷惑をおかけして申し訳ないとお伝え願えます?」
「伝えましょう。向こうがどう思うかは知りませんがね。そういえば、先生も退
職されるそうですね」
「耳が早いですね。ええ、三月で。教師になった目的は達成したことですし」
「次は何をなさるおつもりで?」
「大学に戻って、臨床心理の方をやろうと思っています。紹介して下さる方がい
まして」
「如月先生ですか?」
由希はじっと榊を見つめた。
「ええ。さすがですね」
「別に知ったからといって、どうするつもりもありませんよ」榊は苦笑した。「
さてと。お時間を取らせて申しわけありませんでした。もうお会いすることもな
いでしょうが、お元気で」
「榊さんも」
二人は立ち上がった。榊が二人分のシェイクの容器をダストボックスに捨てた。
店を出て駐車場に入るまで、どちらも無言だった。
由希が車のキーを出したとき、先を歩いていた榊が振り返った。
「ひとつだけ教えてください」
「なんですか?」
「どうして、あそこまでやる必要があったんですか?お嬢さんだけではなく、他
に三人も。さんざん苦しませて……」
「あなたには永久にわからないことかもしれませんわ」由希は静かに答えた。「
愛する者を突然失い、何もできないつらさは。朝倉祐子たちは、何の罪もない妹
を、確たる理由もなしにいじめ、自殺に追い込んだんです。自分が同じ目にあっ
たら、どんな思いがするのかということを想像することもなしにね。映画の主人
公は、復讐を一発の銃弾で遂げて満足しますが、私にはそんなことはできなかっ
たんです。彼女たちにはしっかり代償を払ってもらわなければならなかった。妹
にはそれだけの価値があったのですから。自分勝手な思いこみだと非難なさるの
はご自由ですが、彼女たちの方がより自分勝手です」
「非難しているわけではありませんよ。純粋に好奇心です」榊は車のドアに手を
かけながら言い、最後に付け加えた。「あなたも代償を払ったんですね」
榊はドアを開けて車に乗り込むと、すぐに走り去っていった。
由希は、榊の車が交差点を曲がって消えていくまで見送った。
「……以上で、この件は終わりにしよう」遠藤院長は言った。「他には?」
「63号の患者ですが……」
「あの女か」
「最近、とみに抵抗が激しくなってきました。昨日は井部が腕を噛みつかれまし
たし」
「凶暴化しているんだな。拘束してみたらどうだ?」
「やってみたんですが、効果はありません。暴れれば出られると思っているらし
くて」
「ふむ。それで?」
「抑制手術の許可をいただきたいのですが」
「いいだろう」院長はあっさり頷いた。「執刀は誰にやらせる?」
「T大医学部の学生から、希望が出ています」
「学生か」
「父親はT大付属病院の外科部長です」
「そうか。メリットはあるな。よし、そいつにやらせてやろう。脳手術など、な
かなかできるものじゃないからな。高く売れるな」
#4268/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:32 ( 47)
代償 第三部 26 リーベルG
★内容
26
4月も半ばだというのに、冬が逆戻りしたかのように、肌寒い風が吹き付ける
日だった。空は曇っていて、青空は少ししか見えない。だが、臼井香奈の心の中
は、常夏の太陽のように輝いていた。
如月ハウスでは、医師や職員たちは見送りに出てこない。別れは昨夜のパーテ
ィで済まされている。香奈は自分一人で歩いて出ていかなければならない。ここ
に心の一部を留めることはできない。常に前を向いている必要がある。これが如
月ハウスの最後の治療なのだ。
香奈は大きく息を吸って、如月ハウスの門をくぐった。
門の外で待っていた克也が、優しく微笑み、現実世界へ復帰してきた妹を暖か
く迎えた。
「おかえり。香奈」
「ありがとう、兄さん」
香奈は兄の身体をぎゅっと抱きしめると、周囲を見回した。
「由希さんは?」
「少し用事があって、如月先生に会いに行った。兄妹二人だけの方がいいだろう、
と言ってたよ」
「あゆみちゃんね」
「そうだ」
「あゆみちゃんなら大丈夫」香奈は確信を持って頷いた。「由希さんがいるんだ
から」
意識は外界に向けて開いてはいるものの、興味を持つべき対象が見あたらない、
というのが立川あゆみの心の状態だった。何かを探し求めているのに、それが何
なのかわからない。鉛筆を動かし続けているが、何も描き出せない。
「あゆみちゃん」
誰かが話しかけている。とても懐かしく、愛情の記憶と結びついた声だ。
「これを見て」
現実的な視界に何かが出現した。それは、ただちに心の視界に投影された。
今まで同じことが何百回となく繰り返されたが、それらはどれ一つとして、あ
ゆみの心に訴えかけることなく消えていった。だが、今度は違っていた。
子供を産んだことなどないはずなのに、それには母性本能を蘇らせるところが
あった。
自分が生み出したものだ。
一匹のネコを抱いた少女の絵。
唐突にあゆみの心を、様々な映像が貫いた。
この絵を仕上げなければ。
その思いが、何よりも強く心に浮かび上がった。
めぐみは絵筆とパレットを探して周囲を見回した。そして、そばに立っていた
人物に気付いた。
「由希先生」あゆみは不思議そうに言った。「どうしてここにいるの?」
由希は黙ってあゆみを抱きしめた。その瞳から涙があふれ出した。
#4269/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/12/12 2:32 ( 32)
代償 エピローグ リーベルG
★内容
エピローグ
4月7日
今日は中学の入学式だった。
入学式のことなんか書いても仕方がないから省略ね。
小学校からの友達が大勢いるから、そんなに淋しくなかった。
あたしは1年3組。担任の先生は、岡田先生という男の先生だった。中年じ
ゃないけど、そんなにかっこよくない。
クラスの男子にも、そんなにかっこいいやつはいなかった。ちょっとがっか
りした。こんなこと、姉さんに知られたら怒られるかな?でも、中学生って、
もう大人だと思うもんね。
同じクラスの女の子は、10人ぐらいが知り合いだった。
クラスの女の子の中で、ちょっときれいな女の子がいた。きれいっていうよ
り、お嬢様って感じ。朝倉祐子っていう名前で、大会社の社長の一人娘だそう
だ。席が近くだったから、あたしと朝倉さんは、ちょっとおしゃべりをした。
わがままそうなところもあるけど、お金はいっぱい持っているみたいだった。
今度、一緒にドーナッツを食べに行く約束をしちゃった。朝倉さんのおごりで。
まあ、これで新しい友だちができたわけだった。なんか、これからいいこと
がありそうだなって思った。中学に入ったら、いろんなことをやろうって思っ
てた。友だちをたくさん作るというのも、やりたいことだったから、さっそく
かなった。これは、やっぱり、中学生活が楽しくなるっていう事よね。
明日が楽しみ。
学校に行って、朝倉さんと話をするのが楽しみ。
神様、おねがい。中学がずっと楽しいところでありますように。
いつも、ずっと楽しい毎日でありますように。
END
1997.12.11
#4270/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:11 (197)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(00) 悠歩
★内容
ある年の12月24日。
町外れの小さな小屋に老人はいた。
観るともなしにつけていたTVからは、イヴに賑わう街が映し出される。
「ふん、どいつもこいつも浮かれよって。下らん、クリスマスなど実にくだらん」
不機嫌そうに老人…ユウホは手垢にまみれたリモコンで、チャンネルを変えた。
しかし、どこにチャンネルを合わせて見ても、映し出される物は変わらない。
ガタガタガタ。
窓ガラスが揺れ、冷たいすきま風が部屋を抜けていく。
「おお、寒い。なんだ、暖炉の薪がきれかかっておる」
だがユウホ老人は、新たな薪をくべるために立ち上がろうとはしない。
口が悪く、偏屈な老人。
彼にはイヴだと言うのに、共に過ごす家族も仲間もない。
そんな境遇を「寂しい」と言う勇気もない。
「ふん、ここで一人凍え死にすれば、ニュースになるかも知れんな。そうなれば、
ちっとは、浮かれた連中の気分に水を差してやれると言うものじゃ」
たった一人きり、訊く者もないのに、憎まれ口を叩いてみる。
トントン、トントン
誰かが小屋の戸を叩く。
老人の眉間にしわが寄る。
町から孤立した偏屈な老人を、イヴの晩に訪ねて来る物好きなどそうは居ない。
「帰れ帰れ、来るだけ無駄と言う物じゃ。誰がなんと言おうと、わしはここを出
て行く気はないし、借金取りなら1セントとてこの家にはないぞ。無駄足じゃっ
たな」
さも不機嫌そうに、大声で怒鳴ってやる。
しかしそれに応える声はなかった。風のいたずらだったのか。
ドンドン、ドンドン
しばらくすると、先程より激しく戸が叩かれた。
「ええい、うるさいと言っておるだろう! どこのどいつだ!」
苛立った老人は、力任せに戸を開く。冷たい風と、雪が小屋へと吹き込み、暖
炉の火を消してしまう。
「おや? 誰もおらんぞ………」
老人は唖然として立ち尽くす。思いつく限りの悪態をついてやろうと、身構え
ていただけに、戸の外に誰もいないと知ると、酷く力が抜けてしまう。
「おじいさん、ぼくならここだよ」
「な、なに?」
声は足元の方からした。慌てて老人は視線を落とす。
「メリークリスマス、ユウホさん」
そこには、屈託のない笑顔を見せる少年たちの姿があった。
「お前はロバート………それにデビットにシンシア、おおリリアも。こんな日に
お前ら、何しに来たんだ?」
「何しに来たは、ひどいよ。クリスマスだからこそ来たんだ」
「あの、ユウホさん。早く中に入れてもらえないかしら。私、寒くて仕方ないの」
「ん、ああ………まあしょうのないやつらだ。身体を暖めたら、早く帰りなさい」
思いがけない訪問者に、嬉しいくせに、老人はわざと渋い顔をしてみせる。
「………だめ。ユウホおじいちゃんと、クリスマスをお祝いするために、来たん
ですもの」
一番最後に小屋に入ったリリアが、控えめな笑みを浮かべながらいう。手に抱
えた、ケーキの箱をテーブルに置いて。
「うわ、暖炉の火が消えてる………なんだ、薪もないよ」
「ふん、薪なら外にあるわい。それよりお前ら、今日は年寄りに構っている暇は
ないだろうが………」
「ひぇっ、外か。仕方ない、ぼく取ってくるよ」
デビットが戸の方へと向かう。
「お仕事なら、済ませて来たの。後は、お父さんたちがやってくれるって」
テーブルに皿を並べながら、シンシアが答えた。
「全く………迷惑な話しだ」
「ひゃあ! なんだ、びっくりしたあ」
デビットの声が響く。何事かと皆の視線が、ドアへと集まった。
「薪なら取ってきたよ」
新たなる来訪者が、薪の束を抱えて笑っている。
「お前は、康平か!?」
来訪者に向けて、訝しげな老人の声が飛ぶ。
康平と呼ばれた青年は苦笑いをしながら、デビットに薪を手渡す。
「康平かないでしょう。せっかく遊びに来たのに」
「別にわしは、来てくれなどと頼んだ覚えはない」
「だ、そうだよ。どうする?」
康平は老人にではなく、ドアの外へ向けて話し掛ける。
「ひっどぉい! 私、おじいさんと会うの、楽しみにしてたのにぃ」
「あの………ご迷惑でしたか?」
聞こえてきたのは、可愛らしい二種類の声。続いて康平の身体を押し退けるよ
うにして、二人の少女が姿を見せた。
「なんだ………舞雪に紗紀、お前たちまで来たのか!」
にこやかに顔を出した少女たちに対しても、老人の声は無愛想であった。けれ
ど、青年に対してのものより、柔らかい声であると、その場にいる全ての者が感
じていた。
「俺らもいるぜ」
「ども、こんばんは」
続いて二人の少年、努と仁史が現れる。
「なんだなんだ、クリスマス・イヴだと言うのに、こんなじじいを訊ねてくるほ
ど、暇な連中ばかりか」
あくまでも憎まれ口を続ける、ユウホ老人。しかしその顔にはもう、厳めしい
表情を浮かべることが出来ないでいた。
「文句なら後で聞くからさあ、おじいさんもパーティの用意、手伝ってよ」
「しょうのない………わしは迷惑だと言っておるのに」
シンシアに手を引かれ、老人は嫌々を装う。シンシアは大して力を入れてもい
ないのに、勢い良く立ち上がって。
「どいつもこいつも、クリスマスなど、何が楽しいのか」
シャンパンを片手に、頬を真っ赤に染めた老人が、大声で叫んでいた。陽気な
声で。
用意されたケーキも七面鳥も、様々なお菓子もスープも、すっかりみんなのお
腹に収まり、イヴの夜は更けていた。
「さあ、食うものは食ったんだ。お前たち、早く帰らんと家の者が心配するぞ」
子どもたちの帰宅を促す老人の言葉は、少し寂しげだった。
「まだ帰れない………」
ぽつりと誰かが呟く。リリアだ。
「ん、帰れんとは、どう言うことだ? お母さんと喧嘩でもしたか?」
「そうじゃなくて………」
「まだ、おじいさんのクリスマスのお話を、聞いてないからだよ」
口ごもるリリアに代わって答えたのは、舞雪だった。
「おじいさんのお話を聞かないと、クリスマスって気がしないもんね」
鼻をこすりながらロバートが言う。
「ふん、お前らの目的はそれか!」
にぃ、と老人はしわくちゃな笑顔を見せる。
「よかろう。話さなければ、帰らんと言うなら仕方ない。わしもお前たちには迷
惑をしておる。さっさと話してしまおう」
そう言いながら、老人は椅子に腰を下ろし、ぐっとシャンパンをあおる。
「とは言うものの………さて、何を話してくれようか………」
その時、小屋の中に冷たい風と雪が入り込んできた。
みんながその入り込んできた先、ドアの方を一斉に振り返る。そこには十七歳
くらいの、長い髪の少女が立っていた。
「ああん、もうパーティ、終わっちゃったの?」
残念そうに少女が言う。
「おお、マリア。ちょうどいい………こっちへおいで。これからお前の話を、み
んなにしてやろう」
「マリアの、おはなし?」
とと、と音を立て、少女は老人に歩み寄った。
1994 『後継者たち』
1995 『サンタクロースはヒットマン』
1996 『雪舞い』
そして今年。
また新しいクリスマス物語が、
いま、静かに語られる。
『遠い宙のマリア』
(とおいそらのマリア)
このあとすぐ。
#4271/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:13 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(01) 悠歩
★内容
『遠い宙のマリア』
--Tooi Sorano MARIA--
【59億分のいくつかの物語】
ピッ。
電子音と共に、それまで暗黒と静寂のみに支配されていた空間に赤・青・黄と、
様々な色の明かりが灯される。
『マリア、起きなさい』
優しい女性の声が響く。
プシュッ。
部屋の中央に設置されたカプセル。
半分に割った円柱を横たえたような形の、ガラス張りの上部が一方の端を支点
にスライドして開く。
やや間を置き、細い二本の腕が伸ばされる。
「ふわあぁぁっ」
大きなあくびを一つ、裸の少女がゆっくりと上体を起こす。
「マリア、どのくらい寝ていたのかしら」
まだ寝足りない、とでも言うようかに、少女は目を擦る。
『おはよう、マリア。400年ほどよ。身体の具合はどう?』
「ん」
問いかけに対し、少女は両の掌を開いては閉じ、閉じては開くという運動を数
回続ける。それから首を左右に、初めはゆっくり、それから早くと動かしてみる。
そしてカプセルの両端に手を掛け、身体を起こす。
立ち上がった少女は、カプセルから一歩離れて、とんとんと跳ねてみる。
長く艶やかな黒髪が、まるで羽毛のように宙を踊る。
豊かではないが、形の整った胸がぷるるとダンスをする。
「うん、調子はいいみたい。それと、ママ………また重力を変えたのね?」
『ええ』
姿無き声が答えた。
『1Gに変えたのよ』
「ねえ、それってもしかして」
最上級のブランデーのような色の瞳に期待が浮かび、桜色をした薄い唇に期待
の笑みがこぼれる。
『そうよ、新しい太陽系に接近しているわ。その中に生物の存在する惑星がある
の』
「わーい、じゃあ久しぶりに上陸できるのね! ねえねえ、どんな星、どんな星
?」
『ふふっ、慌てないで。先行させたピーピング(覗き屋)の映像を出すから、コ
ントロール・ルームにいらっしゃい』
「はあい」
マリアは右手を高く挙げ、裸のまま部屋を飛びだす。
「わあっ、あれね!」
部屋の外は長い通路。
その側面は特殊なガラスがはめ込まれ、外の景色が一望出来るようになってい
る。
広がる漆黒の闇。
その彼方に、微かに赤い光が見える。
恒星………太陽の瞬き。
マリアの乗るこの宇宙船は、あの太陽系に属する惑星を目指している。
「あん、そうだ。早くママのところに行かなくちゃ」
しばし遠くの太陽に見とれていたマリアは、コントロール・ルームに向けて走
り出す。長い脚が大きなスライドを描き、まるで飛ぶようにして。
「来たよ、ママ」
マリアが飛び込むと、無人だったコントロール・ルームに明かりが灯される。
『それじゃ、報告するわね』
ママ、この船の全てを管理するコンピュータがマリアに応え、部屋の中央に立
体映像を映し出した。
「きれい!!」
一言発すると、マリアは絶句してしまった。
映し出された蒼い星の姿は、現在マリアに残されている記憶の範囲に於いて、
他に比べるもののない美しさを湛えていた。
『報告。本船は新たに発見した太陽系−−発見ナンバー1051へ接近中。10
51太陽系に属する惑星は九つ。その第三惑星に、生物の存在を確認。調査の為、
その惑星に乗務員の上陸を決定します』
まるで初恋にとり憑かれた少女のように、マリアは熱っぽい瞳で映像に見とれ
ている。
「いつ以来だったかなあ………生き物のいる星に降りられるのは」
『982太陽系の第五惑星以来よ』
「そう………あれ?」
ふと、マリアは顔を上げる。
そこにママの姿がある訳ではないが、逆に言えば船内の全ての場所にママは存
在している。ママと話をするとき、顔を上げるのがマリアの習慣になっていた。
「982太陽系のことは覚えてる………外骨格を持った生き物ばかりの星だった
わ。でも、その前………あれ? その前の星でも生き物と接触したはずなのに?
マリア、覚えてない」
『探査規則25条の8、収集データ及び乗務員の記憶の管理・保存について』
マリアの疑問に、ママは事務的な応えを返す。
「えっと、(各太陽系とその惑星で得たデータ並び乗務員の記憶の全ては、彼ら
が属する船のコンピュータが管理する物とする。コンピュータは別に定めた規定
に従い、それが乗務員の記憶範囲を越えそうな場合、または今後の活動・生活に
悪影響を及ぼすと判断された場合、速やかに彼らの記憶から削除するものとする)
でしょ?」
『そうよ』
「うーん、なーんかつまんない………」
少し拗ねた顔をして、マリアは再び立体映像を見つめる。
『誕生してから50億年くらいかしら、この惑星は。ずいぶんと若い太陽系だわ』
ママの説明が続く。
『水の量も豊かで、相当数の生物の存在が予想されます。惑星の支配生物は、高
くはないけれど、そこそこの文明レベルを持っているようね。あなたと同じ外見
をしている。だから、調査は彼らの中に紛れて行うのが良さそうね。一応、過去
の調査記録の中から、似たような惑星のデータと、予想される言語パターンをあ
なたの記憶に入力してあるから』
「ほんとうに………きれいな星」
説明が耳に届いているのか、いないのか、ため息混じりに呟く。
「ねえ、ママ。マリアの母星も、こんな星なのかな」
『答えられないわ。探査規則25条の9及び12の………』
「わかってる。ホームシックって病気にならないように、母星のこと、思いだし
ちゃいけないんでしょ」
『そうよ』
「知ってる………ちょっと訊いてみたくなっただけ。ごめんなさい」
その語尾は弱々しかった。
『いい子ね、マリア。さあ、52時間後には1051太陽系第三惑星に到着の予
定よ。それまで、あなたの準備をなさい。私はちょっと忙しくなるから、あなた
のお手伝いが出来ないの』
「忙しいって、何かトラブル?」
驚いてまた顔を上げる。
上陸に際して、ママが手伝いを出来ないということは、これまでなかった。
『心配はないわ、今後の任務に差し支えるものではないの』
「そう、ならいいけど」
それでも二度ほど振り返りながら、準備のためマリアはコントロール・ルーム
を後にした。
夜の路地に冷たい風が吹き抜けて行った。
風に引きずられた新聞紙が、ざざっとアスファルトを擦って行く。
まとわりついた新聞紙を払おうと、男は足を振った。
ポケットに入れたままの腕にぶら下げられた、コンビニの袋が、がさがさと音
を立てる。
「ううっ、さぶぅ」
しつこい新聞紙に仕方なく、藤井駿はポケットから手を出して、それを取った。
出したついでにと、腕に巻いた時計を見る。もうすぐ午前零時になろうとして
いた。
なんとなく、日付が変わる前に部屋に帰りたい。駿は脚を早めた。
角を折れたところで、アパートの明かりが見えてくる。
アパート・若葉荘。
六畳一間、いまどき風呂なしの安アパート。
もともと八部屋あるうちの半分が空き部屋になってはいるのだが、さすがにこ
の時間、明かりのついた部屋は、一つあるだけだった。
立ち止まり、駿はアパートを見上げた。
夜の闇にぼうっと浮き上がった、くすんだ色の壁。そこに書かれた、古くさい
匂いの感じられる『若葉荘』の文字。
ふうーっ、と長い息を一つ吐いた。
「せめてマンションにでも住んでいたら………」
彼女と別れることもなかったかも知れない、駿は思う。
夏に知り合った彼女とは、最初のクリスマスを迎えることは出来なかった。
別れは一週間ほど前、彼女のからの電話で一方的に告げられた。
「他に好きな人が出来たの。私、たぶん………その人と結婚する」
予感はあった。
周りの友人たちから、彼女が他の男性とつき合っているらしいと、何度も噂を
訊かされた。
その度に駿は、噂話を一笑して来た。彼女を信じていたから。
しかし初めは出所もはっきりしないような噂話も、だんだんと具体性を帯びて
行く。
相手は、某大手商社のエリート社員であるとか、どこどこの豪華マンションに
住んでいるとか、彼女と男性が高級外車でドライブしていたとか。
噂が具体的になっても、駿は彼女を問い詰めることはなかった。
信じていたから………それは言い訳だった。
本当は恐かった。
相手の素性が具体的になるにつれ、自分の不利を感じていたから。
将来を約束されたエリート社員と、アルバイトを繋ぎ、その日暮らしをしなが
ら箸にも棒にも掛からない小説を書いている駿。
自分とその男性を比べた時、彼女がどちらが選ぶのかは、火を見るよりも明ら
かに思えた。
だから恐くて訊けなかった。
そして、駿からは具体的な行動を一つも起こさぬまま、彼女との仲は終わった。
「あなたとじゃ、夢が見られないから」
それが彼女の、最後の言葉だった。
こんな安アパートでなく、大きなマンションに住むほどの収入があったら、違
っていただろうか。思えば、とうとう彼女はこのアパートを、一度とて訪ねて来
ることはないままだった。
がさっ。
「うわっ!」
「きゃっ!」
独り想いに耽っていた駿は、後ろから聞こえたわずかな物音に驚き、大袈裟な
声を上げてしまった。
だがそれ以上に、物音の主も驚いたようだ。
振り向くとおかっぱ頭の少女が、蒼白となった顔をひきつらせながら駿を見つ
めていた。
「あ、ごめんごめん………えっと、愛美(まなみ)ちゃん」
同じアパートの住人でありながら、その少女の名前を思い出すのに、少しばか
り時間を必要とした。一階の101号室に父親と二人で住むその少女が、若葉荘
に越してきて二年ほどが経つが、言葉を交わした回数は少ない。とにかく無口で
あることと、朝に見掛ける制服姿から、今年中学生になったばかりらしいと言う
ことぐらいしか知らなかった。
「い、いえ。私のほうこそ………驚かせて、ごめんなさい」
そう言って、愛美はぺこりと頭を下げた。
その腕には茶色の紙袋に包まれた、一升瓶が抱かれている。
「そ、それじゃあ………お休みなさい」
そそくさと逃げるように、愛美は唯一明かりの灯された101号室の中へと消
えていく。
駿もふいに寒さを感じて、自分の部屋に帰るため、階段を昇りはじめた。
「それにしても………」
数段上がって、足を止める。
「あの子、何だってこんな時間に」
階段から半身を乗り出して、愛美の消えていった101号室の台所の磨りガラ
スを見た。
明かりが灯っている。
手にしていた一升瓶、父親の酒を買いに行っていたのだろうか。
駿は腕時計に目をやった。時刻は午前零時を過ぎてしまっている。
自動販売機でのアルコール類の販売は終わっているし、近くのコンビニは午後
11時で閉店してしまう。
どこか遠くの店に買いに行ったのか?
こんな時間に、未成年の娘に酒を買いに行かせるなんて、非常識な父親だ。駿
は思う。
そういえば、あの親子が越してきてから、父親が仕事に出ていくような様子を
見たことがない。生活費はどうしているのだろうと、常々不思議に思っていた。
逆に時々、愛美が遅い時間に帰って来るのは、何度か見掛けている。
#4272/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:13 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(02) 悠歩
★内容
彼女がアルバイトをして家計を助けているらしい、と言う話は愛美と同じ一階
に住む老婦人から聞いた覚えがあるが………
まさか中学生の娘を、深夜まで働かせているのだろうか?
その時また、冷たい風が通り過ぎ、駿の思考を中断させた。
「ううっ、さむ。人様の家の事情なんて、考えてる場合じゃないな」
駿は急いで階段を上がってすぐの部屋、201号室に入って行った。
「ただいま、お父さん」
帰宅した愛美を迎えたのは、テレビの音だけだった。明かりがついていたので、
まだ起きているのかと思った父は、服を着たまま布団の上で大の字になって寝て
いる。
持っていた酒瓶を狭いキッチンの上に置き、部屋の中を見る。
テーブルの上には空になった一升瓶、食べ散らかしたつまみと袋が散乱してい
る。ガスストーブも着いたままなので、室内は暖かかった。
「もう、ストーブを着けたまま寝たら、危ないって言ってるのに」
思った通り、ストーブに近い場所の布団の端が熱を持っていた。愛美はストー
ブを消し、父に布団を掛けてやる。そしてテレビも消す。
本当なら、すぐに横になって休みたいほど疲れた身体に鞭を打ち、散らかった
テーブルの上を片づける。
「また、ご飯食べてない」
アルバイトに出かける前に炊いたご飯にも、みそ汁にも箸をつけたあとはない。
愛美が無理にでも食べさせなければ、父はお酒とわずかなつまみ以外は口にしな
い。
「ご飯とおみそ汁は、明日の朝食べてもらおう………」
ごそ、と音がしたかと思うと、父がむくりと起き出した。
「おう、愛美か」
ぼりぼりと頭を掻きながら、父は立ち上がり、ふらふらと歩み寄って来る。
「酒、酒はないのか………おっ、あるじゃないか」
目敏く、キッチンに置かれた紙袋に気づいた父は、それに手を伸ばそうとする。
「お父さん、飲み過ぎよ。また、身体を悪くしちゃう」
その手を止めようとした愛美だったが、ぱんと頬を一つ叩かれ、よろめいてし
まう。
「うるせい、ったく…ごちゃごちゃと。文句を言う暇があったら、とっとと、つ
まみの用意でもしろ」
一升瓶を手にした父は、テーブルの前に胡座をかき、愛美が片づけようとして
いた湯呑みに酒をつぐ。なみなみと注いだ酒を口元に運び、一気に呷る。
「ぷっ、なんだこりゃ」
不味そうに顔をしかめながらも、更に湯呑みへ新しい酒を注ぐ。
「また燗冷まし(一度お燗にして冷めた酒)か。たまにゃあ、もっといい酒をも
ってきやがれ」
不機嫌そうな父の視線が、愛美を睨んだ。
「だって………それだって、店のおばさんが厚意でくれたものなのに」
「けっ、何が『厚意』だ。中学生の娘を働かせておいて、こんな不味い酒でごま
かすつもりかあ? あのはばあめ。『この店じゃ、中学生を働かせているぞ』っ
て、街中にふれ廻ってやる」
「やめてよ、お父さん! そんなことしたら、私、あそこで働けなくなっちゃう。
そうしたら私たち、ご飯も食べられなくなっちゃうし、お父さんの病院代だって
………」
「この、クソガキが!!」
「きゃっ!」
突然投げつけられた湯呑みが、頭をかすめて行った。湯呑みは布団の上に落ち、
割れはしなかったものの、中の酒が派手に撒き散らかれた。
「誰がお前に、面倒を見てくれと頼んだ? この、偉そうにぬかしやがって」
尻餅をついている愛美の前に、湯呑みを投げただけではまだ収まりのつかない
父が、拳を握りしめ、仁王立ちになった。
「だらだら文句を垂れるくらいなら、さっさとここを出て、雪乃のところでもナ
ンでも行っちまえ。そうしたら、俺もせいせいする!」
もの凄い剣幕で怒鳴り声を上げる父。いまにも振り下ろされそうな、その拳。
愛美は涙を浮かべた瞳で、父の顔を見つめた。
「ごめんなさい、お父さん………私、そんなつもりじゃなかったの。私、お父さ
んと一緒にいたいの………だから、お願いします、ここに置いて下さい」
「ちっ、鬱陶しいガキだ」
拳を納めた父は、哀願する愛美を無視して、部屋の隅の小さなタンスを開けた。
中にあった茶封筒から三万円を引き抜くと、そのままズボンのポケットへねじ込
む。
「父さん、それは………」
これ以上父を怒らせないように、愛美は『今月分の家賃』という言葉を飲み込
んだ。
父は、擦り切れた革のジャンパーを羽織ると、そのまま部屋を出て行ってしま
った。
「お父さん………」
父親の出ていった後のドアをしばらく見つめていた愛美は、ふらふらと立ち上
がり、湯呑みを拾い上げてタオルを手に酒で濡れた布団を拭く。酒が中まで染み
込んだ布団は、いくら拭いても拭き取ることは出来ない。
ごしごしと、ごしごしと、何度も何度も愛美は拭いた。
せっかく拭いた布団の上に、愛美の流した涙がぽたぽたと落ちて、新しい染み
を作っていく。
手で涙を拭う愛美の目に、タンスの上の、一枚の写真が止まる。
仏壇代わりに、タンスの上に置かれた写真立て。もうこの世にはいない愛美の
母が、優しい笑みを浮かべ、こちらを見つめている。
三年前、愛美と父を残して死んでしまった母の、元気だった時間を閉じこめた
一枚の写真。
「お母さん」
愛美は両手で写真を取り、しっかりと胸に抱いた。
「ごめんなさい、お母さん。私、約束したのに………お父さんを、怒らせること
しか出来ない」
拭ったばかりの目にまた溜めきれなくなった涙が頬を伝って、後から後から、
こぼれていく。
真っ暗な部屋の中、外からのわずかな明かりを頼りに手探りでスイッチを押す。
室内に明かりが灯されると、風が入らぬようにドアを閉める。
冷えた空気が沈殿した部屋の中は、風の吹く外よりも寒く感じられる。
駿は電気ストーブのスイッチを800ワットに合わせた。
コンビニの袋を万年床の上に放り投げ、やかんを火に掛ける。パジャマ代わり
のスエットに着替えて万年床に腰を下ろし、テレビを深夜のスポーツ番組に合わ
せる。丁度、駿のひいきのプロ野球チームの監督解任に関するごたごたが報じら
れていた。
「なんだよ、また今年もこれかよ」
ストーブで掌を炙るようにして暖めると、舌打ちしながら、コンビニの袋から
カップラーメンとにぎりめしを出した。
にぎりめしの包みを開けようとして、思いとどまる。やはりにぎりめしは、ラ
ーメンの汁と一緒に食べた方が旨い。空腹ではあるが、多少の我慢は、ものをよ
り美味しく食べるための調味料だ。そんなことを考えているうちに、やかんが音
を立て、湯が沸いたことを告げる。
ずいぶんと遅い夕食を終えると、身体もすっかりと暖まった。
ごろんと布団の上で、大の字になる。
「明日から、どうするかなあ」
これまでのアルバイトは今日で終わりだった。明日からは他のアルバイトを予
定していたのだが、彼女と別れてからやる気も失せ、キャンセルしてしまった。
書きかけの小説を進めればいいのだろうが、いまは何も浮かんでこない。それ
より、才能もない自分が、いつもまでも金にならない小説にしがみついているこ
とが、ばかばかしく思えていた。
横になったまま手を伸ばし、脱ぎ捨てたシャツの胸ポケットから煙草を探り出
す。彼女が嫌がるので止めていた煙草も、また吸い始めていた。
一本だけ残っていた煙草を口にくわえると、箱を握りつぶしてくずかごへ投げ
る。中に入ったかどうかは、確認せずに。
「煙草、買いに行くかなあ………」
天井へ登っていく、白い煙を見つめながら呟く。寒空の下、もう一度外に出る
つもりはないのだが。
何を考えても答えは出ない。
何を思っても実行する気にはならない。
いつの間にか、テレビでは見知らぬ若手芸人らしい二人組が、訳の分からぬ番
組を進行していた。
だるい、とにかくだるい。
身体も心も疲れ、動くのも、考えるのも面倒くさい。
「もう、寝よう」
枕元のリモコンを取り、テレビを消す。明かりは蛍光灯のスイッチに結びつけ
た紐を引けば、起きあがらずに消灯することが出来た。
全ての明かりを消すと、急激に部屋が冷え込んで来たように感じられる。古い
アパートなので、暖房効率の悪いことは確かだが、それにしても寒すぎる。
「住み替えしようかなあ」
天井を見つめながら呟く。
風水だの、方角だのの占いを気にする質ではないが、ここに住むようになって
から一つもいいことなどなかった。
思い込みかも知れないが、このアパートに住む誰一人として、人並みの幸せを
送っているようには見えない。どの部屋の住人も、何やら訳ありの者ばかりに感
じられる。そのような者ばかりが集まって来る、負のエネルギーでも存在してい
るのか。あるいはそのような者ばかりが集まったから、負のエネルギーに満ちて
しまったのか。どちらにしろ、このアパートには、好ましくない力が働いている
ような気がする。
もう二十歳も過ぎているのだから、アルバイトで食い繋ぐような生活から抜け
出した方がいいのかも知れない。芽のでない小説など諦め、きちっとした職に就
き、もう少しましな所に住むようになれば、幸せな人生を送れるかも知れない。
そんなことを考えているうちに、ゆっくりと睡魔が駿の身体を支配していく。
あとほんの少しの時間で、完全にその支配下に落ち、心地の良い眠りの中に入っ
て行こうとする瞬間。
『み……か』
どこからか声が聞こえたような気がして、駿は瞼を開いた。
周囲を見回すが、一人暮らしの部屋に、他に人の姿があるはずもない。
「ちえっ、空耳かよ。疲れてるんだな………」
瞼を閉じて、再び微睡みに身を委せようとすると。
『みりか………みりか』
今度は明確に聞こえた。
子ども、男の子の声だ。何か酷く切羽詰まったような、響きが感じられる。
安普請の壁を隔てた隣の部屋から聞こえてくる。テレビの音声かとも思ったが、
そうではない。
あれは隣室に住む五、六歳の少年、良太の声に間違いない。美璃佳とは、その
妹の名前だ。
『みりか、みりか、だいじょうぶか………』
泣いているようにも聞こえる、妹の名を呼ぶ良太の声。寝言などではなさそう
だ。ただならぬ様子を察して、駿は部屋を飛び出した。
肌に突き刺さるような冷たい風が、微睡みかけていた頭を醒まさせる。それに
反して全身には鳥肌が立ち、皮膚が固まってしまったような気がする。
せめて何か羽織っておけば良かったと思うが、上着を取りに行く時間を考えれ
ば、このまま隣の部屋の様子を見た方が早い。
トントン。
深夜ということもあり、駿は遠慮がちに隣室、202号室のドアを叩いた。
「岡野さん、隣の藤井ですけど。何かありましたか? 岡野さあん」
声をひそめたつもりだが、他に音のない深夜のこと。駿は自分の声が、近所中
に響き渡っているように感じた。
ノックする手を止め、中からの返事を待つ。が、返事はない。
熟睡しているのか、あるいは留守なのか。
やはり気のせいだったのか。先ほどは確かに聞こえたと思った声に、自信がな
くなり、そろそろ自分の部屋へ戻ろうとした時。
ガチャ。
中から鍵を外す音がした。続いてノブが回り、そろそろとドアが開けられた。
同時に、不快な匂いが漂って来た。何かの腐臭のような。
「お兄ちゃん………」
いまにも泣き出しそうな目をしたした男の子、良太が顔を出し、駿を見上げた。
冬場だと言うのに、なぜか半袖のTシャツを着ている。パジャマ代わりとして
も、あまりにも寒々しい。
その表情から、駿は先ほどの声が自分の空耳ではなかったことを確信する。何
か唯ならぬ事態があったのだろうと。
「良太くん、何かあったのかな。ママはいるの?」
隣室であるため、何度か良太たち兄妹と話はしているが、それ以外何年も子ど
もを相手にする機会はなかった。出来るだけ優しい声で話しているつもりだが、
自分でもどこかぎこちないと感じた。
「ママは、いない。美璃佳が……」
そう言うと、堪えていたのであろう涙が一粒、良太の頬を流れ落ちた。
それだけで充分だった。
「入るよ」
駿は急いで部屋に入り、蛍光灯のスイッチを探す。幸い、右左が逆では有るが
駿の部屋と造りは同じなので、すぐに明かりが灯される。
室内の様子が、明かりの下に照らし出されると、駿の眉は思わず歪められてし
まった。
『男やもめは蛆がわく』と言うが、駿の部屋でもこれほどは酷くない。
#4273/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:15 (195)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(03) 悠歩
★内容
狭い台所を埋め尽くす、カップラーメンの容器やスナック菓子の袋。その中の
食べ残しの一部が腐り、匂いを放っているようだ。この冬場に腐って匂うには、
どれほど長く放置されていたのだろう。
匂いの原因は、そればかりではなかった。
一間きりの室内へ目を移せば、そこは脱ぎ捨てられた衣服と下着の山。どれも
限界まで着たのだろう、汚れて汗くさい匂いを漂わせている。
そして着古しの山に埋もれるようにして敷かれている布団。そこに小さな女の
子、良太の妹の美璃佳が横になっている。
しかし眠っている訳ではなさそうだ。苦しげな息づかいが聞こえてくる。
駿はすぐさまその枕元へ歩み寄り、腰を下ろすと美璃佳の額へと掌を充てた。
「酷い熱だ」
熱い。
子どもの体温は大人より高いものとしても、これは熱すぎる。比喩ではなく、
本当に駿は自分の手に火が着いてしまうのではと、錯覚を起こすほどだった。
それとは対照的に、足に伝わるのは不快な布団の湿気。水が滲みだして来ても
不思議ではないほどに湿気を帯びた布団が、氷のように冷たかった。
こんな部屋で、こんな布団に寝ていては病気もよくなるはずはない。いや、そ
れどころか、かえって悪くなる一方だろう。
『とにかく医者に診せないと…』
美璃佳の容態が良くない事は、駿にも分かったが、それがどの程度であるのか
は見当がつかない。どのように処置してやればいいのかさえも。ただ右往左往を
するより、専門の医者に診せるのが一番だ。
「!」
駿は美璃佳の小さな身体を抱き上げ、驚いた。頭の両サイドで束ねられた髪が、
ふわっと駿の腕に掛かる。
恐ろしく軽いのだ。美璃佳が幼い子どもだとはいえ、それはあまりにも軽すぎ
た。
さらに良太同様、美璃佳も夏物の薄い半袖シャツ一枚を着ているだけだった。
なぜこの寒い最中、二人とも薄着なのか。そもそも母親はどうしたのか。訊き
たいことはあったが、いまは暇がない。一時でも早く、美璃佳を医者に連れて行
かなくては。
「良太くん、ぼくはこれから美璃佳ちゃんをお医者さんに連れて行くから。良太
くんは、ぼくの部屋で待ってて」
それから駿は自分の部屋に戻り、素早く着替えを済ませる。美璃佳も寒空の下、
この恰好のままでは外に連れて行けない。が、かと言って駿の部屋に子どもの服
があるはずもない。
仕方なく毛布を手に取り、それで美璃佳の身体をくるんで抱き上げた。
鉄製の階段を降りる途中、後ろから着いてくる足音に駿は立ち止まって振り返
った。
「良太くん、着いて来ちゃだめだよ。部屋で待ってて」
Tシャツ一枚に半ズボンの良太が駿の後ろを、着いて来ていたのだ。妹のこと
が心配なのだろう。気持ちは分かるが、そんな恰好のまま外を歩いたら良太まで
身体を壊しかねない。
しかし駿が促しても、一向に良太は部屋に戻ろうとはしない。駿は良太に構わ
ず進もうとすると、後を着いて来てしまう。
「分かったよ、良太くん。美璃佳ちゃんのことが、心配なんだね。一緒に行こう。
ただし、その恰好じゃあ良太くんまで風邪をひいてしまうよ。せめてジャンパー
か何か着ておいで」
駿がそう言うと良太は何も応えず、急いで部屋に戻り、やはり汚れの目立つ茶
色のジャンパーを羽織って来た。
「とりあえず、これで熱は下がるだろう」
すっかりと頭部の寂しくなった、五十絡みの小児科医は、美璃佳の小さなお尻
から注射針を抜き取ると、大きなあくびをしながら言った。
「だが………」
眠たげな目が、突然厳しく変わり、駿を見据える。
「栄養のあるものをたっぷりと食べさせんと、な。こんなことは、医者でなくと
も分かりそうなもんだが」
「はあ」
「この子は年齢の割に、発育が悪いようだ。これは明らかに栄養不足だな。風邪
がここまで悪くなったのも、そのせいで抵抗力が極端に落ちているからだ。それ
になんだ、冬場にこんな薄着をさせて? 子どもは風の子というのは、充分な栄
養をとらせ、気候に合わせた服を着せてやって、初めて言えることなんだが、な。
肺炎にならなかったのは、幸運としか言いようがない、な」
医者の声には怒気が含まれていた。が、子どもたちの保護者ではない駿に言わ
れても仕方ない。そう思いながらも、自宅兼医院を経営している医師を深夜叩き
起こし、無理を言って診てもらっている以上、強く反論することも出来ない。
「しかもここまで悪くなるまで、放って置くなど、以ての外だ。子どもの病気を
甘く見てはいかん。それに、だ。私にも安眠の権利があるし、な」
「なんとも………申し訳ありません」
駿はひたすら、頭を下げるしかない。
「お兄ちゃんが悪いんじゃないんだ」
それまで緊張した面持ちで、妹に注射を打たれる様子を睨み付けていた良太が、
初めて口を開いた。
「あー、いやいや。坊や、先生は別に怒っているんじゃないんだよ」
小児科医は、それまでの駿に対してとはがらりと変わった、優しい口調で応え
た。子どもに対しては、穏やかで優しい先生らしい。
「ん、まてよ。お兄ちゃん? すると君はこの子たちの父親ではないのか」
「ええ、同じアパートの隣の部屋の子たちなんです」
「はあ、なるほど。父親にしては少々若すぎるかと思ったが」
駿は自分に対する小児科医の口調が和らいだことに、ほっとした。
「まあ、とにかく、だ。さっきも言ったように、暖かくして寝かせて。充分な栄
養をとらせること、だ。注射や薬はあくまでも補助的なもので、この子自身の力
で病気を治さんと、な。それはこっちの男の子も、同様だが」
「はい、ありがとうございました」
駿は丁寧に頭を下げる。
「あの、それからお支払いなんですが………その、急なことだったんで、いま持
ち合わせがあまり………」
「あー、いい、いい。そんなものは、いつでもいい。ちょっと待ってなさい」
席を立ち、小児科医は一度奥の方へ姿を消したが、すぐに戻ってきた。
「はら、持って行きなさい」
そう言って、駿に薬の入った小さな紙袋を渡した。深夜、自宅を兼ねた医院に
はこの小児科医と家族以外はいないため、薬の用意まで彼がしてくれたらしい。
「本当にありがとうございました」
もう一度駿は、深く頭を下げた。
「ああ、礼はもういいから早く帰って子どもたちを寝かせてやりな。私も眠いし、
な」
アパートに戻った駿は子どもたちを、自分の部屋で寝かすことにした。まだ子
どもたちの母親は帰っていなかったし、何よりあれほど環境の悪い部屋で病人を
寝かす訳にはいかない。
他の部屋の住人とはあまり付き合いのない駿だったが、この子どもたちとは何
度か遊んでやったことがあった。良太から聞いた話や、時折見掛ける姿から子ど
もたちの母親というのが、まだ若いがいつも派手な恰好をしており、毎日のよう
に遊び歩いているらしいことが分かった。それどころか、家に帰ってくることの
方が珍しい。
もう時間は午前二時近くになっている。この分では今夜は、子どもたちの母親
は帰って来ないだろう。
まず美璃佳のために、真新しい布団を用意した。
駿の田舎の母親が送ってくれたものだったが、恋人が部屋に来てくれた時のた
めにと、今日までしまっていた。しかし、ついにその目的に使われることはなか
った。それが子どもたちのために役立ったのだから、なんとも皮肉な話である。
良太の方は、駿の使っていた布団で一緒に寝かせることにした。新しい布団で
美璃佳と寝かせてもいいのだが、念のため病人とは別にする方が無難だろう。
使い古された駿の布団は、快適なものとは言いがたいが、良太たちの部屋のも
のよりは、いくらかマシである。
それから駿は、子どもたちの服をどうしたものかと思案した。
子どもに合うようなサイズの服は、駿の部屋にはない。かと言って、薄着のま
までは布団の中でも寒いだろう。大きすぎることは承知で、駿は比較的綺麗なト
レーナーを選び出した。
まず美璃佳の服を脱がせ、トレーナーに着替えさせた。下着も替えさせたいと
ころだが、さすがにこれは代わりになるものはない。
ところが着替えさせてみると、トレーナーは予想以上に大きすぎた。襟元から
小さな美璃佳の肩が、まるまる出てしまう。これではかえって、身体を冷やして
しまうことになりかねない。やむを得ず、駿はもう一度もとの半袖シャツに、美
璃佳を着替えさせる。そしてその上からトレーナーを着せ、袖を適当な長さまで
折り込む。半分以上折り込まれた袖口は、かなりごわついていたが、それは辛抱
してもらうしかない。
使い捨てのカイロを二個、タオルに包み足許に置いてやる。アンカの代用品だ。
それから、そっと布団を掛けてやる。
良太の方も同じようにして、トレーナーを着せた。
「なんか、たばこの匂いがするね」
折り込んでもなお、長い袖を顔に充てて良太が言った。
「ごめん、煙草の匂いは嫌いかな? でも他にないんだ。今日は我慢してね」
「ううん、へいきだよ。お母さんもたばこすうモン。だけど、お母さんのたばこ
と、お兄ちゃんのってちがう匂いだ」
「ん、煙草にもいろいろ種類があるんだよ。さ、もうこんな時間だ、早く寝よう」
「うん」
明かりを消し、駿は良太と同じ布団に潜り込んだ。その隣には美璃佳が眠って
いる。駿は二人の子どもたちに挟まれる恰好になっていた。少しでも良太に美璃
佳の風邪がうつらないようにと、駿なりの配慮だった。
アルバイトで遅くまで働き、その上美璃佳を抱いて医者に行き、駿は疲れ切っ
ていた。にも拘わらず、妙に目が冴えてしまい、なかなか寝付けない。両側を人
に挟まれて寝るなどと、いつ依頼だったか思い出せないほど久しぶりの状況のせ
いだろうか。
隣では既に、良太が小さな寝息を立て始めている。
「まあ、たまにはこんなことがあってもいいか」
良太の寝顔を見ながら呟く。
一つの布団に子どもとはいえ、二人で寝るのは少々窮屈であったが、一人では
決して感じることの出来ない相手の体温が心地よかった。
駿は頭の向きを変え、美璃佳を見つめた。いまのところは注射が効いているの
か、静かに眠っている。朝までに熱が退けばいいのだが。
「とりあえず………」
今夜は寝返りを打たないように注意しなければ。そう思いながら、駿も瞼を閉
じた。
『マリア、そろそろ第三惑星に接近するわよ。上陸の用意は出来ているわね』
コントロール・ルームで第三惑星の立体映像に見入っていたマリアに、姿なき
ママの穏やかな声が掛けられた。
「うん、いいよ。だってほとんどのことは、ママがやってくれたし」
子どものように無邪気に破顔して、マリアは応える。
『そう、言語も大丈夫よね。一応、予想される言語パターンは2000種ほどあ
なたの記憶に入れておいたけど』
「だいじょうぶだよ、もしそれでダメだったら、ママにアクセスするから」
『そうね、そうしなさい』
「それよりママ」
ぴょんと跳ねるように、マリアは立ち上がる。
その動きに合わせ、生まれたままの姿でいるマリアの、形の良い胸も弾む。
「今度は裸のまま、上陸していいの? 私、お洋服はきゅうくつだから、そのほ
うが嬉しいけど」
『1051太陽系第三惑星の文明レベルはFよ。高くはないけれど、この船にあ
る物を持ち込んで分析されると面倒だわ。とりあえずそのまま上陸したのち、現
地の物を調達して着なさい』
「はあい。でも結局は、着なくちゃダメなのね」
『さあ、そろそろシートに座って』
「はあい」
ママに促されるまま、マリアはコントロール・ルームに設けられたシートに腰
掛ける。
そしてマリアがその身をベルトで固定し終えると、シートはゆっくりと倒され
る。
『本船は間もなく、1051太陽系第三惑星衛星軌道に差し掛かります。これよ
り五分間、惑星上の人工衛星を沈黙させます』
シートに身を横たえたマリアは、自分以外に聞く者のいない、ママの事務的な
報告を憂鬱な気分で聞いていた。
これから着陸するまでは、何度経験しても慣れることのない、マリアにとって
一番嫌いな時間だ。
『人工衛星は全て沈黙。同時に地上からの監視も遮断しました。大気圏に突入し
ます』
マリアは、ぐっと奥歯を噛みしめた。
#4274/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:16 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(04) 悠歩
★内容
立ちこめていた霧もどこかへと去り、冷たい空気にもわずかな暖が感じられる
ようになっていた。とは言っても、風が吹けばやはり身を竦めるほど寒さである
ことは変わりない。
新聞配達のアルバイトを終え、帰路に着いていた愛美の身体は汗が噴き出すほ
ど暖まっていたが、それに反して両の掌は氷のように冷え切っていた。自転車を
こいで配達をしているのだが、積まれた新聞を一部ずつ取り出すのに不便なため、
手袋はしていない。そのせいで身体は暖まるのだが、風を直接受ける手は冷えて
しまう。
愛美は夜、母の友人だった女将の経営する居酒屋で働かせてもらっていた。し
かし、それだけでは足りず、朝は新聞配達のアルバイトしている。父が仕事をし
ていないので、それでもまだ父娘二人が暮らして行くのにやっとだった。
しかし中学生である愛美は、アルバイトをしていることは学校には内緒にして
いた。またそのせいで成績が悪くなって、父を呼び出されたくはない。だから夜
のアルバイトを終え父親が眠りについた後、勉強もしていた。
毎日わずかな睡眠時間しか取れない状態だったが、今日は日曜日。日曜日は居
酒屋が休みのため夜のアルバイトがないのだ。今夜だけは、普通に眠ることが出
来る。いつもなら一週間で、一番気持ちのいい日であった。
だが今日は違った。昨夜出ていった父は、それっきり朝まで帰ってくることが
なったのだ。
些細なことで気分を害した父が、部屋を飛び出して行くのは珍しくない。いつ
もその時、生活のためにとっておいたお金を持ち出していく。愛美一人で支える
生活を、より一層辛いものにしていたが、そんなことはどうでもよかった。父の
気分が晴れてくれるなら、それで構わないと愛美は思っていた。
愛美が心を痛めていたのは、父がお金を持ち出すことでなく、気晴らしに行っ
た先で他人に迷惑を掛けることだった。酒癖の悪い父は、呑む度に誰かにからむ。
喧嘩沙汰も一度や二度ではない。いつもその後、相手に頭を下げに行くのは愛美
だった。
そして喧嘩以上に心配なのは、父自身の身体のことだった。
母の死後、父は強くなかった酒を浴びるように呑み始めた。身体を悪くして仕
事も辞めてしまった。身体を悪くしても、酒は止めなかった。医者からは何度も
注意を受けていたのに。最後に愛美が無理に連れていった時、医者にはこれ以上
の飲酒には責任が持てないとまで言われている。
憂鬱な気分で歩いていた愛美の目に、一人の老人の姿が停まる。
黒い杖を持ったおじいさんが、冷たい朝の空気の中でコートも着ずに、シャツ
一枚の姿で空を見上げていた。まるで、誰かと話をしているかのように、もごも
ごと口を動かしている。
「おじいちゃん? 北原のおじいちゃん」
愛美は優しく声を掛けた。老人は、愛美と同じアパートに夫婦で住むおじいさ
んだった。
「おじいちゃん、お早うございます」
もう一度声を掛け、ようやく老人は愛美に気がついた。
しわだらけの顔で笑顔を作る。
「いいねぇ、春は。うんうん、春はいい」
「おじいちゃん?」
愛美は老人の腕にそっと触れてみる。自分自身の手も冷えて感覚が鈍っていた
が、それでもおじいさんの身体が冷たくなっているのが分かる。
「ほら、おじいちゃん、身体がこんなに冷たくなっている。そろそろお家に帰ら
なくちゃ。きっと、おばあちゃんも心配してるよ」
おじいさんの身体に手を添えて、愛美はゆっくりと歩かせた。
「なあ、富子」
「なあに?」
痴呆気味のおじいさんは、なぜか愛美を富子と呼ぶ。何度、「私は愛美よ」と
言い聞かせても変わらない。
富子という女性が、おじいさんにとってどんな存在だったのか。娘なのか、孫
なのか。恋人だったのかも知れない。大切な人だったのだろう。そう思った愛美
は、富子と呼ばれてもそれを訂正することはなくなった。
「光太郎はどうしのかなあ。元気にしておるかなあ」
「うん、元気にしてるよ」
古いことばかりを思い出すのが、痴呆症の特徴だそうだ。口から名前の出る人
々は、きっと昔まだ若かったおじいさんの周りにいた人たちなのだろう。
「まあ、おじいさん」
アパートの近くまで来ると、愛美たちを見つけたおばあさんが右脚を引きずる
ようにして駆け寄って来た。
「どこに行ってたんです。目が覚めたらもう、いないんですもの。心配しました
よ」
「お早うございます。この先でおじいちゃんに会ったものですから、連れてきま
した。身体、冷えちゃってるようですから、早く暖めてあげて下さい」
愛美はぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさいねぇ、愛美ちゃん。おじいさんが迷惑をかけちゃって」
「いえ、おじいちゃん、素直にしてくれましたから」
おばあさんは愛美から、おじいさんの身体を受け取ろうとした。
「あ、部屋まで私が………」
足の悪いおばあさんを気遣った愛美が、言い終わらないうち、おばあさんはお
じいさんの身体を肩で抱えるように受けとめた。
「いいえ、大丈夫ですよ。長年連れ添った相手ですもの、こんなことくらい私が
ねぇ」
笑顔で応えると、おばあさんは何度も何度も愛美に頭を下げ、おじいさんと一
緒に部屋に部屋に向かって歩いていった。
「いい子だなあ、富子は」
「はいはい、そうですね。いい子ですね」
二人はL字になったアパートの、一番奥の105号室へ消えて行った。
腹に重いものを感じて、駿は目覚めた。
「ん、ああ」
わずかに頭を上げただけで、その正体が知れた。隣で寝ていた良太の足が乗っ
ていたのだ。
「おいおい、お前まで風邪ひくぞ」
良太に布団を掛け直し、『風邪』で思い出して美璃佳の方を見た。こちらは良
太と違って寝相良くしていた。もっとも、寝相の悪い病人というのは聞いたこと
がない。体力が衰えて、寝返りさえ打てなくなるからだろうか。そんなことを考
えながら、駿は美璃佳の額に手を充てる。
「やれやれ、だ」
熱が退いたのを確認して、ほっと息をつく。念のため、後で体温を計っておこ
う。体温計はあっただろうか?
「それと」
美璃佳の首筋に溜まった汗を見て、駿は呟いた。
布団の中に手を入れ、身体の方にも触れてみる。案の定、美璃佳は全身に汗を
かいていた。
「こまったなあ、着替えがないぞ」
時計を見ると、時間は七時五分前。昨夜遅かったわりには、ずいぶんと早い時
間に目が覚めたものだ。しかし、この時間ではまだコインランドリーも開いては
いない。
七時開店のコンビニエンス・ストアーならどうだろう。下着を買ったことはあ
るが、子ども向けのものまで置いていたかどうか、さすがに記憶にない。それか
ら上に着せる服も必要だ。
食事はどうする? 駿と良太なら外食でもいいのだが、病み上がりの美璃佳は
そういう訳にもいかない。自炊しようにも、駿の部屋には米どころか炊飯器もな
い。
良太たちの部屋はどうだろうか。あまり期待出来そうにないが、探してみよう。
服を着替え、駿は隣の部屋に向かった。
「やっぱりないかあ」
ごみと脱ぎ捨てられたもの以外、まだ着れるような服や下着を見つけることは
出来なかった。食べ物はインスタントのラーメンが三食分。しかしそれなら駿の
部屋にも買い置きがある。それより驚いたのは、どれほど用意していたかは知ら
ないが、残り三食分になるまで、母親が帰ってきていないらしいと言うことだ。
いくら何でも無責任にも程がある。空になったインスタントのごみの山を見つめ
ながら駿は思った。
探してもないものは仕方ない。一応、コンビニを見に行ってみるか。それでも
なければ店なり、コインランドリーなりが開くまで、子どもたちには我慢しても
らうしかない。
駿が良太たちの部屋を出るのと同時に、下の方でドアの閉まる音がした。
たぶん105号の老夫婦の部屋だろう。老人性痴呆症のおじいさんを連れて、
おばあさんが朝散歩に出ているのを、何度か見掛けたことがある。
一度自分の部屋に戻り、財布を取る。階段を降りたところで、アパートに入ろ
うとしていた少女とぶつかりそうになり、間一髪避ける。
「おっと、お早う愛美ちゃん」
駿が挨拶をすると愛美は、ぺこりと頭を下げた。
無愛想な訳ではないが、駿は口数の少ないこの少女がどうも苦手だった。
愛美の方も駿を苦手にしているのか、それとも警戒しているのか。そそくさと
部屋に戻ろうとする。
「あ、ちょっと待って」
部屋の中へ消えようとする愛美を呼び止める。
「あ、あのさ、愛美ちゃんが小さい時に着ていた服とか、残って………ないよね
?」
愛美がいまの美璃佳と同じ歳だったのは、八年くらい前になるか? さすがに
そんな前のものをとって置いているとは思えないが、駄目でもともと。駿は訊い
てみた。
「どうして、です?」
何を思ったか、怪訝そうな目で駿を見る愛美。
「あ、いや、誤解しないで。美璃佳ちゃん………202号室の岡野さんちの女の
子に、着せる物がないんだ」
それでもなお、愛美はよく分からないと言った顔で駿を見ていた。駿は昨夜か
らのことを、かい摘んで説明をした。
「そうだったんですか。ごめんなさい、小さい頃の服は残ってないんです」
気のせいか、事情を説明した後の愛美の口調は、幾分柔らかくなっていたよう
に思えた。
本当に申し訳なさそうに謝る。
「謝らないで。別に愛美ちゃんが悪いわけでもないんだし。仕方ない、とりあえ
ずコンビニにでも、行ってみるよ」
「あの、でも。あそこのコンビニ、子どもの下着は、おいてなかったと思います」
「えっ、やっぱり。困ったなあ………やっぱりコインランドリーが開くまで、我
慢してもらうしかないかあ」
「あ、あの、ちょっと待ってて下さい」
愛美は一度部屋に戻り、綺麗に折りたたまれた長袖のシャツを持って、戻って
きた。
「これ、私のシャツですけど。私、身体が大きいほうじゃないから、あの、藤井
さんの服よりは、子どもたちに着せやすいと、思います」
「うわあ、助かる。ありがとう」
ところが、駿がそのシャツを受け取ろうとすると、愛美はすっと、手を引っ込
めてしまった。
「あ、あの、それから美璃佳ちゃんの下着………あの、もしかすると、女性の下
着って、男の人のより、その、小さめだと思うから」
愛美は俯き加減で、何やら恥ずかしそうにしている。愛美が何を言おうとして
いるのか、駿には分からなかった。
「だから、もしかすると、あの、私のでも、美璃佳ちゃんに………」
「ああ、そうか。じゃあ、下着も貸してもらえるのかい?」
「で、ですから、その、美璃佳ちゃんの着替え、私が」
駿はようやく察した。男性である駿に、自分の下着が見られることを、愛美は
恥ずかしいのだ。考えてみれば、当然だろう。小柄で大人しそうな顔立ちをして
いるので、つい失念していたが、仮にも愛美は中学生。一人前の女性としての意
識を持っていても、おかしくない年齢だ。
「じゃあ、子どもたちの着替え、お願いしてもいいかな」
「ええ」
「ん、頼むよ。二人とも俺の部屋で寝ているから。そうだな、俺は子どもたちの
部屋を片づけているから、終わったら声を掛けてよ」
「はい」
そして駿と愛美は、階段を昇って二階に向かった。
「とりあえず、ごみをなんとかするか………」
異臭の立ちこめる室内を、しばらく呆然と眺めていた駿は、ようやく意を決し
た。
まず部屋の窓を開け、空気を入れ換える。寒いが、この匂いを追い出さなけれ
ば、どうにもたまらない。それにしても良太たちは、この匂いの中でよく何日も
辛抱してきたものだ。
大きなビニール袋へと、部屋の中のごみを手当たり次第詰め込んでいく。一つ
目の袋は、すぐにいっぱいとなり二つ目の袋へ入れ始めた頃、愛美が現れた。
「藤井、さん。あの、着替え、終わりました」
「ああ、ありがとう、助かったよ。後で洗って返すから」
開けたままのドアから中を覗いている愛美に、駿はちらっと振り返り、軽く手
を挙げて礼を言った。少しして、階段を降りる足音がした。愛美が部屋に戻った
のだろう。
いっぱいになったごみ袋を外に出そうとして、ドアの方を向くといつの間に戻
ってきたのか、愛美が立っていた。白い洗濯かごを持って。
#4275/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:17 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(05) 悠歩
★内容
「あれ、どうしたの。それ」
「私、お洗濯、手伝います」
「いや、そこまでは。さすがに悪いよ。後でコインランドリーで洗うからさ」
駿は部屋の外、202号室と203号室の間にごみ袋を置いた。本来ならルー
ル違反ではあるが、この部屋から奥の二部屋には住人がいないので、構わないだ
ろう。
「でも、それを言ったら、藤井さんも、あの子たちとは関係ないでしょ」
「それはそうだけど」
「それに、コインランドリーなんて、もったいないです。私がお洗濯しますから、
藤井さんはお掃除を」
「あ、ああ、じゃあ頼むよ」
良太たちの部屋には掃除機どころか、ほうきや雑巾すらなかった。駿は自分の
部屋からはたきとほうき、そして雑巾代わりの古いタオルを持ってきて、掃除を
始める。
その間に愛美は、部屋を二往復して洗濯物を持っていった。下にある一、二階
の住人共同で使える水道で、洗濯をするつもりなのだろう。
ごみと洗濯物を片づけた後、家具も少ない六畳間一部屋、掃除の手間はわりと
楽だった。とは言っても、やはり長期に渡って掃除をしていなかったらしい室内、
ずいぶんと汚れていた。
はたきを掛け、ほうきで掃き、ちりとりの代わりに剥がしたカレンダーの固い
紙でごみを集める。そのあと、固く絞ったタオルで畳を目に沿って拭き上げる。
雑巾代わりのタオルを濡らすとき、その水の冷たさに思わず叫び声が出てしまう。
一通り掃除を終えて、見違えるほど綺麗になった部屋を駿は満足げに眺めてい
た。
「なんか、俺の部屋より綺麗になっちまったな。はは、たまには自分の部屋も掃
除しないと、なあ。あ、そうだ愛美ちゃんは?」
掃除に夢中になっていて、忘れていたが愛美はどうしているのだろう。考えて
みると、このアパートに洗濯機を持った住人は居なかったと思うが。
階段を降りて、すぐに愛美の姿がみつかった。
「愛美ちゃん!」
いま時、どこで売っているのか水色の大きなタライ、それに洗濯板。そのタラ
イの中に水を張り、愛美は手で洗濯をしていた。
「掃除、終わったんですか?」
「あ、ああ。愛美ちゃん、洗濯って、手で洗ってたのか」
考えてみれば分かりそうなことだったと、駿は後悔した。このアパートに洗濯
機を持った住人などいない。コインランドリーを使わず洗濯をするとなれば、手
で洗う以外方法がある訳がない。手で洗濯をする姿など、テレビの中でしか観た
覚えのない駿にしてみれば仕方ないことだったが、寒い冬空の下で子どもたちと
は関係のない愛美に、とんでもない仕事を頼んでしまった。
「ごめん、まさか手洗いとは思わなくて、手伝うよ」
腰を屈め、駿もタライの水に手を入れた。
「ひっ!」
思わず悲鳴が漏れる。水は痛いほどに冷たかった。
「あ、じゃあ洗うのはもう終わりましたから、後は絞るの、手伝って下さい」
「わかっ……た」
駿は手近なシャツを水からあげ、絞ろうとして両手でつかむ。しかしそれは氷
を握っているような冷たさで、強く絞ろうにもなかなか手に力が入らない。
ところが愛美の方を見てみると、駿より細く華奢な腕で、次々と洗濯物を絞り、
かごへ納めていく。
「愛美ちゃん、水は………冷たくないの?」
ようやくシャツを一枚絞り上げた駿は訊いてみる。
「あ、それ、もっと強く絞らないと」
言われてみれば、駿の絞ったシャツからはまだ水が滲み出している。再度力を
込め、絞ってみると、ぽたぽたと水滴が流れ落ちる。
「冷たいけど、なれてますから」
「なれてるって………まさか、いつもこうして洗濯してるの」
「いつもは、もっと少ないですから。台所でもっと小さい桶を使ってますけど」
こともなげに愛美は応えた。
『この子たしか、新聞配達のアルバイトをしてなかったか? 今朝俺と会ったの
は、ひっとしてその帰りだろ。夕べも帰りが遅かったみたいだし。それでも洗濯
機どころか、コインランドリーのお金を節約する必要があるのか。やっぱり父親
は働いていないのか』
昨夜駿と愛美は、ほとんど同じ時間に帰って来ている。駿が朝起きてすぐに、
愛美は新聞配達から帰って来ている。駿が美璃佳を医者に連れていった時間を差
し引いても、睡眠時間は愛美の方が少ないのではないか。
そう思って見れば、確かに愛美の顔色は良くないし、手の荒れ方も酷かった。
「さあ、終わりましたよ。干すのは、上でいいですよね」
「え、ああ、そうだね」
結局洗濯については、駿は全く役に立っていなかった。
ペンキの剥げた跡のやたらと目立つ手すりに寄り掛かり、駿は大きく息を吐く。
白い煙草の煙が広がっていく。
202号室、良太たちの部屋に張ったビニール紐に吊るされた、万国旗のよう
な洗濯物を眺めながら。
とりあえず良太と美璃佳の、それぞれ一回分の着替えはストーブで炙り、無理
矢理乾かせた。いつまでも愛美の物を、借りておく訳にもいかないと思ったから
だ。何より、美璃佳に履かせている下着を見ないようにするため、もう一度愛美
に着替えをさせてもう必要がある。彼女が手伝ってくれているうちに、それを済
ませたかった。
しかしそれは気のまわし過ぎだった。やはりサイズの合わない愛美の下着は履
かせてはいなかったらしい。
子どもたちもよほど疲れていたのか、今朝から二度目の着替えにも、目を覚ま
すことがなかった。
着替えを終えた後、さらに愛美は美璃佳のためにお粥を作ろうと申し出てくれ
たが、それは断ることにした。これ以上、彼女に面倒を掛けるのはさすがに気が
退ける。しかも、駿の部屋にも、もちろん良太たち部屋にも米はなく、愛美の持
ち出しとなる。仕事をしない父親を一人で支えている、中学生の少女からわずか
な米でも譲ってもらう気にはなれない。そして何より、愛美自身の顔色も悪く健
康が心配された。後はどうにかなるからと言って、自分の部屋に戻らせた。
「さて、これからどうする?」
煙草を吹かしながら、駿は子どもたちのことを考える。
幸い今日からはアルバイトの予定もないが、いつまでも他人の子どもを預かっ
ている訳にもいかない。かと言って、綺麗にはしたがいつ母親が帰って来るのか
も分からない部屋で、幼い子どもたちだけで過ごさせるのも無責任だろう。
「母親が帰って来るまでは預かって………帰って来たら一言、注意をしておくか」
人様に注意を促せる立場でもないが、ことは子どもたちの命にも関わる問題だ。
現に昨夜も駿が気がつかなければ、美璃佳はどうなっていたか分からない。気は
重いが、一言言っておく責任もある。
ブロロロ。
エンジン音に続いて、ブレーキ音。アパートの前に、この辺りでは見慣れない
大型の車が停止した。メルセデスのエンブレムが見える。
ドアが開き、派手な服を着た女が降りてきた。白いコート。初め駿は、ボア付
きのコートかと思ったが、そうではない。毛皮なのだ。コートの下からは、冬場
には寒々しさしか与えない、豹柄の服が覗いている。
おおよそ、車も女の恰好も安アパートとは不釣り合いのものだった。が、駿は
女の顔に見覚えがあった。良太たちの母親だ。
女は階段を上り真っ直ぐに自分の部屋を目指す。
「ちょっと、あんた隣の男よね。なんであたしの部屋を覗いてんのよ」
露骨に胡散臭そうな目で駿を睨みつける。続いて自分の部屋を覗いて「あら、
思ったより綺麗じゃない」と言った。
そのまま、駿のことを無視するように部屋に入り、洗濯物をかきわけて行く。
「なによ、この洗濯物は。邪魔くさいわね」
文句は言うが、誰が洗濯をしたのかは全く気にする様子もない。
部屋の奥のタンスを開けて、通帳やらなにやらを取り出し、手に持ったブラン
ド品らしいバッグへと詰め込んでいく。
一通り必要な物を集めると、長居は無用とばかりにさっさと部屋を出て、階段
を下りて行った。その間、子どもたちの姿がないことを気にも止めず。
「ちょっと、岡野さん!」
呆気にとられていた駿もようやく我に返って、女を呼び止めた。
「あん、何よ」
如何にも面倒くさいと言いたげに、女は立ち止まった。
「まさかこのまま、また出かけるつもりですか」
階段を下りながら、駿は言った。
「そうよ、ちょっと必要な物を、取りに来ただけだもの。けど、何だってあんた
にそんなこと、訊かれなきゃならないのよ」
「子どもたち………良太くんや美璃佳ちゃんは、どうするつもりなんです」
自然と、駿の声は荒くなってしまう。
「子ども? ああ、そんなのがいったけ」
「いたっけ、って岡野さん。部屋に子どもたちの姿がなかったのに、心配じゃな
いんですか」
「別にぃ。誘拐でもされたかしら。でも、そうだとしたら、馬鹿よねぇ。こんな
アパートに住んでいるガキなんかさらっても、金になんて、なる訳ないのにさあ」
そう言って、女は笑い出した。
こんないい加減な母親が、実際に存在するなどとは、目の前にしながらも、駿
には信じられなかった。
「ママぁ………」
駿の背後で、声がした。いつの間にか目を覚ました美璃佳が、母親の声に気づ
いて部屋から出てきたのだ。
「なんだ、あんたいたの」
とても自分の子どもに対してとは思えない、冷ややかな女の言葉。そこに我が
子への慈しみなど、微塵も感じられない。
しかし憤慨する駿の横を、美璃佳はちょこちょことした足どりですり抜け、母
親の元へと行き、コートの裾をぎゅっと握りしめた。駿から見れば無責任でいい
加減な女でも、美璃佳にとっては、唯一の母親ということなのだろう。
ところが女は、そんな美璃佳の手を無造作に振り払ってしまった。
「あっ」
小さな声を上げた美璃佳は、よろめき、その場に尻もちをつく。呆然とした顔
で、母親を見つめる。
「ったく、汚い手で触んじゃないよ。鬱陶しいガキなんだから」
女は美璃佳が握っていた場所を、神経質に手で叩く。転んだ娘より、コートの
方が大切なのか。
「おい、あんた!」
それまで駿は出来るだけ抑えた言葉で話していたが、もう限界だ。美璃佳を抱
き起こすと、駿は女に向かって一気に言葉を放つ。
「何をしていたか知らないが、何日も小さな子ども二人を放ったらかしにしてお
いて、やっと帰ってきたら、これかよ。母親だろ、あんたも。美璃佳ちゃんはな、
昨日夜中、熱を出して大変だったんだぞ。栄養不足と、ロクに掃除もしてない部
屋のせいだ。医者に診せるのがもう少し遅れていたら………」
「言いたいことは、それだけ?」
興奮している駿とは対照的に、まるで自分は無関係であるかのような顔をして、
女は耳を小指でほじっていた。
「ほら、美璃佳」
女は財布から一万円札を出し、美璃佳の手に握らせる。
「これで適当に、なんか買って食べてな」
そして駿を睨みつけ、言った。
「これで、文句ないだろ」
踵を返して、車に乗り込もうとする。駿は肩を掴んで、女を止める。
「そんな問題じゃ、ないだろう」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
「そのくらいに、しとけや、兄ちゃんよ」
聞き慣れぬ声がした。車の運転席のドアが開き、それまで成り行きを傍観して
いた男が降りてきたのだ。
男は駿に近寄ると、ぽんぽんと肩を二回叩いた。
「悪いな、兄ちゃん。急いでんだよ、もう勘弁してくれや」
どう見ても、普通の仕事をしているようには見えない男だっだ。普段ならこの
ようなタイプとは、絶対に関わりを持たない駿だが、いまは興奮した状態にあっ
た。
「なんだあんたは、関係ないだろう。黙ってて………」
男を怒鳴りつけた言葉は、最後まで言い切れなかった。駿は腹部に、ずしりと
重たい男の拳がめり込んで行くのを感じた。一瞬呼吸が止まり、駿はその場に屈
み込んでしまう。
「おい、もう車をだすぞ。さっさと、乗れや」
「あん、待ってよ」
そんな会話が聞こえたかと思うと、駿の身体は後ろへとのけ反ってしまった。
車から遠ざけるため、女が蹴飛ばしたのだ。
「あのさ、まだ文句あんなら、裁判所とか、民生委員? にでも訴えてくれない。
それで親権剥奪ってやつにでもなれば、あたしもさっぱりするしさあ。なんなら、
あのガキたち、あんたにくれてやるから煮るなり焼くなり、好きにしてよ」
ようやく駿の呼吸が回復したとき、もう車は走り出していた。
駿が走り去る車を、悔しい思いで見送っていると、アパートから小さな影が飛
び出してきた。
良太だった。
「良太くん、危ないよ」
呼び止める駿の声にも応えず、良太は車の後を追って走って行く。だが、子ど
もの足で車に追いつけるはずもない。
やがて見えなくなった車の消えた先に向かい、良太はいつまでも立ち尽くして
いた。
#4276/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:18 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(06) 悠歩
★内容
非常事態を告げる警報音が鳴り響いている。
船内は激しい振動に包まれている。
マリアはベルトを外し、身を横たえていたシートから起きあがろうとするが、
振動のため脚を滑らせ転んでしまう。裸のお尻が、強く床に叩きつけられた。
「いったあーい」
四つん這いになって、マリアはお尻をさすった。
「ねぇ、ママ………ママったらあ。何があったの」
呼びかけるマリアに、応える声はない。
大気圏突入のため惑星の軌道上を周回していた船が、突然振動を始めてから、
ママは沈黙したままだった。
「もう、うるさあい」
けたたましい警報に、マリアは苛立つ。不安で不安で仕方ない。ママがマリア
の呼びかけに応えてこないなどと、いままでになかった。何かとんでもない事態
が起きているのだと、想像出来る。
非常事態への恐怖ではなく、寂しさ、心細さがマリアの心を支配する。
ママがいなくなれば、文字通りマリアは独りきりになってしまうのだ。
「やだ、そんなのやだ! ママ、応えてよ、ママ」
不安に押しつぶされそうになりながら、マリアは叫ぶ。
『マリ………ア』
幾度目かの呼びかけで、ようやくママが応えてくれた。嬉しくなったマリアは、
思わず立ち上がろうとして、また揺られて転ぶ。
「ママ、どうしたの。なにがあったの? どこか、具合が悪いの?」
『だい、ジョウブ………よ、マリあ』
ママの声は聞き取りにくいほどに、ぶれていた。それでも、ちゃんとマリアに
応じてくれるだけ、心強く思える。
「ごめんナサイ、音声キノうが上手く………作動しなくテ。動力ブに、とらぶル
が発生して、シマったの」
思いだせるだけの範囲で、ママにトラブルが起きた覚えはマリアにはなかった。
マリアにとって、ママは絶対的な存在であり、ママに任せてさえいれば心配する
ことなど、何一つないのだと思っていた。
「じゃあ、この星に着陸出来ないの? 上陸は中止?」
『ソレが、惑星の重力ニ引き寄せらレテいテ、振り切レないの』
「じゃあ………墜落しちゃうんだ。マリアとママ、いっしょに死んじゃうんだね」
死とは、具体的にどんなものか、マリアには分からない。ただ呼吸も心拍も停
止して、カプセルの中で眠っているのと、同じ状態になるものだという知識があ
るだけだった。眠っているのと違うのは、二度と目を覚ますことがないのだと、
知っているだけだった。
「起きれなくなったって、ママがそばにいてくれるなら、マリアは平気」
そう言って、マリアはママに向かって微笑む。目の前にママの姿がある訳では
ないのだが、逆に言えばこの船全てがママなのである。どこを向いても、そこに
ママがいるのだ。
『マリア、あなタは………脱出ヨウのポットに乗って』
「えっ、やだよう。マリア、ママだけおいて行けないもん」
マリアは抗議する。激しい振動の中で、興奮して喋ったために舌を噛みながら。
『心配いらないワ。コノ程度の重力で墜ラクしても………私は死ナナイ。でも、
船内のマリアは高熱ト衝撃に耐エラレないでしょ』
「ほんと?」
『ママが、マリアに嘘をツイタことが、あったかしら』
「ないよ」
『じャア、安心して、ママの言う通りニして』
「うん」
マリアは四つん這いのまま、脱出用ポットへと向かった。
『急いで』
ママに促され、マリアは銃弾のような形のポットへと身を滑らす。ゆっくりと
ハッチが閉じられた。
『シバらク、連絡が………トレなくなるけれど、心配シナイデ。ちゃんと、アナ
タの任務を果たすンデスよ』
「分かった………ママ、絶対無事でいてね」
『ポット、射出します』
まだママと別れることに不安げなマリアを乗せた脱出用のポットは、船から惑
星めがけて射出された。
船を離れたポットは、惑星の重力に任せ、しばらくの間自由落下を続ける。そ
して突然下部からエネルギーの噴出が行われ、落下速度を緩める。速度が適当な
ところまで落ちると、今度はポットが空中で分解し、マリアを空中に投げ出して
しまう。だが、投げ出されたマリアが、急速に落ちて行くことはない。
マリアの周囲は高い密度の、軽い気体に包まれ、シャボン玉のように緩やかに
落ちていく。分解したポットの破片は、また自由落下を行い、地上に着く前に燃
え尽きてしまう。
船内の如何なるものも、立ち寄った惑星に残さぬためのシステムだった。
いまマリアは、天を舞うように地上に降りて行く。
その姿は、翼を持たぬ天使のようであった。
すっかりと陽は落ちて、辺りは暗くなってしまった。
昼過ぎに降った雨のため、路面はまだ濡れていて、空気も冷たくなっていた。
二つの買い物袋を手に提げて、愛美は帰り道を急いでいた。
普段は忙しい愛美にとって、じっくりと買い物の出来るのは夜のアルバイトの
ない、日曜日だけだった。
昨夜父が三万円を持ち出して行ってしまい、生活費はかなり苦しい状態になっ
ていた。けれど身体を悪くしている父のため、食費を削る訳にはいかない。今日
は特売をやっていると聞いて、アパートからかなり離れたスーパーへ買い物に出
た帰りだった。
さらに夕刻鮮生食品の値引きが行われるのを待っていたため、ずいぶん遅くな
ってしまった。
「もう、お父さん帰っているかも知れない」
帰り道を急いでいた愛美は、注意力が散漫になっていたのかも知れない。
一足先に見えていた明かりにも気がつかず、愛美は小さな十字路の角から飛び
出して来た自転車とぶつかりそうになる。
「きゃっ!」
「あっ」
自転車の方が上手くハンドルを切り、危うく正面衝突は避けられた。愛美の手
にしていた買い物袋が落ちてしまう。
「すいません、大丈夫ですか」
自転車に乗っていた男の人が、慌てて降りて来た。暗くてよく分からないが、
若い声だった。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい、私の方こそ、ぼうっとしていて」
「そう、良かった」
男の人は身を屈めて、愛美の落とした買い物袋を拾い上げた。
「あちゃあ」
袋の中身を見て、奇妙な声をだす。そして愛美の前で袋を開き、申し訳なさそ
うに言った。
「すみません、玉子、割ってしまった」
「あ、あなた」
「えっ?」
近くに寄って、愛美は初めて男の人の顔をはっきり見ることが出来た。見覚え
のある顔。愛美と同じ中学校に通う男子生徒だ。
「相羽、さん」
「はあ、そうだけど、君は?」
相手は愛美のことを知らないようだった。仕方ないだろう。愛美と相羽は同じ
一年生ではあるが、クラスは違う。何より地味で目立たない愛美に対し、相羽は
上級生の隠れたファンがいるほどの人気者だった。
「もしかして君、ぼくと同じ学校の………」
「は、八組の西崎愛美です」
「これ、どうしよう」
「えっ」
「玉子。弁償しなきゃいけない」
買い物袋の中を見ると、一番上の玉子の十個入りパックのうち丁度半分、五個
が割れてしまっていた。
「あ、弁償なんて。私が悪いんですから。それにまだ五個が無事ですから」
実際、父と二人きりの生活では六個パックでも間にあった。単価で考えて、割
安になる十個パックを買っているだけなのだ。ただ、正直なところ例え玉子一つ
でも、愛美の家の家計状況から考えれば、痛手ではあるのだが。
「そうはいかない。知ってる? 道交法では自転車も立派な『車両』なんだ。歩
行者と車両の接触事故では、車両の方が責任をとらないと」
「でも………」
やはり責任は五分五分に思える。愛美自身の責任も捨てきれない。
「お願いする。責任をとらせてもらえないと、ぼくの気が済まない」
「そこまで言われるなら」
まだ何となく納得が行かないが、相羽に押し切られる形で承知する。
「だけど、お金、いまは持ってなくて……。ぼくの家、近くなんだ。玉子がある
はずだから、それと交換ってことで、許してもらえる?」
「許すも何も………でも、こんな時間にお家の方もご迷惑じゃ」
「それは大丈夫。あ、荷物持つよ」
返事を待たずに、相羽は愛美の手にしていた荷物を一つは自転車のかごへ。も
う一つはハンドルに掛けて、自転車を押して歩き出した。
「じゃ、着いてきて」
戸惑いながらも、相羽に従って愛美も歩き出した。
「西崎さんって、この近くに住んでるの?」
「……いいえ」
「じゃあ、お家はどこ?」
「あ、あの、×××町のほうです」
「へえ、それじゃあ第一小学校の出身なんだ」
「はい」
「唐沢とかと、一緒なんだ。あ、唐沢って知ってる? 西崎さんと同じ小学校だ
ったはずだけど」
「はい」
いろいと話し掛けてくる相羽に、愛美は答えるだけで精一杯だった。
母の死後、父のことや自分がアルバイトで家計を支えていることを知られたく
なくて、人と話すのを避けていた。すっかり、話し下手になってしまった愛美に
は、こんな状況でどんなことを話せばいいのか、全く思いつかない。
それに単に人と話すのが苦手だから、と言うのとは違う緊張に、愛美は捕らわ
れていた。それがなんであるのかは、分からない。けれど相羽に声を掛けられる
度、緊張は増し、鼓動が激しくなり、息も苦しくなってしまう。
「そう言えば、西崎さん、ぼくの名前を知っていたけど、どうしてだろう」
「え、あっ………それは」
息が詰まりそうになる。
どうしてと訊ねられても、愛美はすぐに答えることが出来ない。愛美自身、ど
うしてだろうと考えてしまった。
「それは………相羽さんって、有名ですから」
考えた挙げ句の答え。
「そんなに、目立つようなことをした覚え、ないけどな」
相羽が笑った。また愛美の鼓動が早くなる。
「あの、だって、相羽さん、調理部で………あの、一人だけの男の人ですから」
「納得した。でも、そんなことで有名だなんて、喜んでいいのかな。それより、
西崎さん」
「はい」
「同い歳の女の子に、『相羽さん』って呼ばれるの、何か変な気がする。『相羽
くん』にして欲しいな。それに同級生なんだから、敬語を使わなくてもいいよ」
「はい、すみません」
「はら、また」
相羽が笑った。
「母さん、ただいま」
「お帰り、遅かったのね」
「うん、その実は、お客さんを連れて来たんだけど、上がってもらってもいい?」
「お客さま? ええ、それは構わないけど」
「さあ、西崎さん上がって」
「あ、は………はい、失礼します」
相羽に招かれるまま、愛美はおずおずと中に入る。どうにも気後れしてならな
い。綺麗なマンションの綺麗な部屋。愛美の住む若葉荘とは、比べ物にならない。
そんなことを考えて、躊躇している自分に気がついた愛美は、我ながら貧しさが
身についてしまったものだと恥ずかしくなる。
「あら、あなたは初めてだったわよね、確か」
優しそうな相羽の母親。いきなり訪ねてきた愛美に対し、特に驚いた様子もな
い。
「はい、初めまして。わ、私、相羽さ……くんと同じ学校の、西崎愛美です」
「それで母さん、実は」
相羽は買い物袋を広げ、母親に愛美とぶつかりそうになった経緯を説明した。
「あらあら、これは酷いわね」
相羽の母親は袋の中から、割れた玉子のパックを取り出して言った。
#4277/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:19 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(07) 悠歩
★内容
「愛美さん、ごめんなさいね。うちの信一が、とんだ迷惑をお掛けして」
「いえ、相羽くんのせいじゃないんです。私がぼうっとしてたから」
物腰の柔らかい相羽の母親に、ますます愛美は萎縮してしまう。
「信一、ここで待って頂くのもなんだから。あなたのお部屋、大丈夫よね」
「えっと、うん、今日は片づいてる」
愛美には玉子を替えてもらうのに、なぜそんなに時間が掛かるのか分からなか
ったが、案内されるまま相羽の部屋に入った。
他の誰かと比べる訳ではないが、男の子の部屋にしてはよく整頓されている、
と愛美は思った。全体的に青を基調にした装飾が目立つ。左側に本棚が二つ。一
つには漫画ばかりが収められていて、もう一方には背表紙の厚い、愛美には何の
本か分からないものがぎっしりと詰まっている。そしてなぜだか、その横に昆虫
採集に使うものらしい、白い網が立てかけられている。
それを見て、愛美は何だかおかしくなってしまう。捕虫網を手にして、野山を
走り回る相羽の姿を想像してしまったのだ。それはいま愛美の目の前にいる相羽
とは、あまりにもかけ離れたイメージに思えた。少し、緊張が解けたような気が
した。
「適当に座ってよ」
相羽はベッドを背もたれ代わりに、あぐらをかいて座った。それに倣い、愛美
も正座して座る。
「あの、相羽くんって、本を読むのが好きなんですね」
沈黙を避けるため、とりあえず目に入った本を見て愛美は言った。聞いたこと
もないタイトルに、知らない筆者。何冊かの背表紙を目で追って、ようやく一人
名前だけ聞き覚えのある作家を見つけた。
「『捻子館の殺人』、この作者、いま人気ですよね」
「西崎さんも推理小説、読むの?」
「え、あ。はい、この小説は読んだことかりませんけど」
成り行きのまま、嘘を言ってしまう。小説は好きだったが、推理小説は読んだ
ことがなかった。まして『殺人事件』とつくような、おどろおどろしいものは大
の苦手であった。
「どんな作家が好きなのかな」
「それは………」
愛美が答えに窮していたとき。
とんとん。
部屋をノックする音。
「信一? ちょっと開けて」
相羽の母親の声。
「あ、私が」
近くにいた愛美は、話題が逸らされることにほっとしながら、ドアを開けた。
甘い香りが立ちこめる。
相羽の母親は木製のトレイを持って、部屋に入ってきた。その上には湯気の立
つ二つのティーカップと玉子のパック。
「昨日買った玉子だから、そんなに鮮度は悪くないと思うけど。これで許してち
ょうだいね」
「そんな、私の方こそ、何だかご迷惑を掛けてしまって」
「ふふっ、気にしなくていいのよ。それから、お詫び代わりと言ったらおかしい
けれど、割れてしまった玉子でミルクセーキを作ってみたから。外は寒いだろう
と思って、ホットにしてみたんだけれど、良かったら飲んでいってちょうだいね」
愛美の前に、小皿に乗ったカップが差し出される。カップと小皿のどちらにも、
可愛らしいうさぎのイラストが入っていた。
「でも、玉子を替えてもらった上に………なんだか申し訳なくて」
「いいえ、こちらこそ信一が、迷惑を掛けたのだから、このくらいはね」
母親は、ちらりと相羽に視線を送った。
「そうだよ。気にしないで」
「それにね、飲んでもらわないと、私が困るの。信一が割ってしまった玉子、二
人で食べるにはちょっと多すぎるから」
そう言って微笑む相羽の母親に、愛美は死んだ自分の母の面影を見たような気
がした。
ミルクセーキなんて、いつ以来だろう。勧められるままに口に運ぶと、柔らか
い喉越しの後、甘味が広がる。
風はなかったが、空気はまるで冷凍庫の中のように冷たい。
けれど愛美には、それを寒いと考えるゆとりはなかった。
相羽に送ってもらう帰り道。もちろん断った。けれど相羽は、
「自分のせいで遅くなってしまったんだし。西崎さんの家、そんなに近いわけで
もないのに、夜道を一人で帰すなんてできないよ」
そして相羽の母親の、「そうさせてね」の言葉もあり、断りきれなかった。
買い物袋を一つずつ持って歩く二人。夜道に響く足音、いろいろと話し掛けて
くれる相羽の声を聞きながら、愛美は不思議な気持ちでいた。
相羽の家に行くまでは、話すことにただ緊張ばかりしていた。それがいつしか
緊張が完全に消え去っ訳ではないが、それがなぜか苦痛ではなくなっていた。む
しろ声を掛けられることに期待している自分がいる。
「あの、相羽くんって」
相羽と母親の会話を聞いていて、気になって仕方ないことがあった。それを訊
ねてしまってもいいものか。躊躇っていたものが、つい口からこぼれてしまった。
「気を悪くしてしまったら、ごめんなさい。相羽くんのお父さんって………家に、
いらっしゃらないの?」
「いないよ。亡くなったんだ」
それまでの会話と、何ら変わりなく相羽が応えた。その表情に一片の翳りもな
い。
「どうしてそんなことを?」
「あの、相羽くんのお母さんが、割れた玉子を二人で食べるのには多い、って言
われてたから………あの、もしかして、って思って」
「へえ、さすが。推理小説のファン」
冗談ぽく言う、相羽。もしかすると、訊いてはいけないことを訊いてしまった
のではないかと、不安になり掛けていた愛美の心を包み込む。
自分だったら。愛美は思う。
母がいないことを人に訊かれて、こんなふうには答えられない。相羽の強さが
羨ましかった。
「あ、もうすぐそこですから、ここでいいです」
本当はまだアパートまで少し距離があったが、愛美は足を止めて言った。
「えっ。せっかくだから、家の前まで………」
「いえ、本当にいいんです」
愛美は、相羽には自分の住むアパートを見せたくなかった。
もし父が帰って来ていて、相羽に見られるのが恐かった。
「それじゃあ、ぼくはここで。気をつけて帰ってね」
「相羽くんこそ。あの、今日は本当にありがとうございました」
買い物袋を受け取り、愛美は頭を下げた。
「ほら、また敬語だ」
相羽が笑った。
空気は冷え切っていたようだが、それほど寒くは感じない。銭湯で身体を温め
たから、というより二人の子どもを洗ってやるのが思った以上に重労働で、すっ
かり汗をかいてしまったからだ。
なかなかじっとしていてくれない上に、当然ながら二人は長い間風呂にも入っ
ていなかった。汚れも酷く、一人を洗うのに四十分以上は掛かっただろう。元来
早風呂の駿は、それだけで疲れてしまう。
最初、良太だけを風呂に入れるつもりだった。熱が下がったとはいえ、昨夜ま
で高熱を出していた美璃佳には、入浴を避けさせるのが賢明に思われた。しかし
前回の入浴がいつだったか分からないと言う美璃佳たち、かなり不潔な状態にな
っていた。それに美璃佳も、一人でアパートに残って留守番をすることを嫌がっ
た。
入浴後、近くのラーメン屋で食事を済ませた。美璃佳にはお粥かなにか、柔ら
かい物をと考えていたが、それは心配することもなかった。朝目覚めてからすぐ
に、普通の食事を欲しがっていた。駿が考えていたより、子どもの回復力は高い
らしい。
これからどうするべきだろう。
並んで前を歩く二人の子どもの背を見ながら、考える。
今朝の一件から、また当分子どもたちの母親は帰って来そうにない。帰って来
たところで、子どもたちの世話を焼くことはないだろう。良太たちに訊いてみた
が、父親のことは何も知らなかった。二人とも私生児らしい。親戚の所在もはっ
きりしない。どうやら良太たちが生まれてから、親戚との行き来は全くなかった
ようだ。あるいは本当に親戚がいないのかも知れない。
どこか施設にでも相談するべきか。そうなればたぶん、あの女が自ら言ったよ
うに子どもを育てる資格がないと、判断されるのは間違いないだろう。親権剥奪
となれば、良太たちは施設に入れられるか、里子に出されるか。ひっょとすると、
兄妹離ればなれになってしまうのだろう。
それは幼い兄妹には、あまりにも可哀想だ。
かと言って、たまたま隣の部屋に住んでいただけの駿に、出来ることなど限ら
れている。まさか良太たちを引き取るほどの経済力はない。いや仮にあったとし
ても、さすがにそこまでの決心はつかないだろう。
関わらなければ良かった。
正直、そう思ってしまう。
世界中に不幸な子どもは、他にいくらでもいる。それをテレビや人の話で聞い
て、同情することはあっても、その子たちのために何かをしてやることはない。
話を聞いた時には、それなりに心を痛めるが、いずれは忘れてしまう。薄情なの
かも知れないが、駿は世の中の大多数の人間の中の一人なのだと思う。
けれど駿は良太と美璃佳の兄妹を知ってしまった。関わってしまった。
それを無視出来るほどには、薄情にはなれない。
良太たちは、自分の置かれている状況が分かっているのだろうか。今朝の一件
の後、良太も美璃佳もしばらくの間沈み込んでいたが、やがて元気にはしゃぎ回
るようになった。
初め駿はえらく立ち直りの早いものだと、感心し、呆れもした。だがそうでは
ないらしいのだ。はしゃいでいたはずの美璃佳が、ふいに大人しくなって目に涙
を浮かべているのを何回か確認した。その度に良太が美璃佳に何かを耳打ちをし
て、また二人ではしゃぎ出す。
二人は自分たちの状況が分かっているからこそ、無理に元気なふりをしている
のではないだろうか。
考えてみれば駿でさえ、独りアパートで過ごす夜に寂しさを覚えることは幾度
もあったのだ。
小学校にも上がっていない兄妹が二人、大人のいない寒い部屋で、何日も何日
も過ごしていたのだ。寂しくないわけがない、心細くないはずはない。まして病
気の妹を抱え、何もできずにいた良太の気持ち。熱に苦しみながら、いつ帰ると
も知れない母親を待っていた美璃佳の気持ち。ようやく帰ってきた母親の、あま
りにも素気ない態度。冷たい仕打ち。平気な訳がない。
良太たちは、無理に元気を装っているのだろう。
「おてーて、つないでー、のみちをー、ゆけばー」
それを思うと、互いに握った手を振る二人の歌声が、悲しく聞こえた。二人の
背中が、なんとも弱々しく見えた。
無視することは出来ない。しかし現実問題、駿になにが出来るだろう。幸いい
まは少し余裕があるが、いつまでも子ども二人の面倒を見続けられるほど駿には
安定した収入がない。せめて子どもたちの生活費を、母親に出させられればいい
のだが。自分が幾日も帰らぬことを知っていて、美璃佳に一万円を渡しただけの
女に期待が持てるだろうか。いや、それは正式な手続きを取れば、法的に出させ
ることも可能かも知れない。たが本当の問題は、そんなことではないのだ。
思案にくれていた駿は、美璃佳が立ち止まっていたのに気づかず、危うくぶつ
かりそうになる。
「おっと、危ない。どうしたの、美璃佳ちゃん」
美璃佳は空を見上げていた。小さな指で夜空をさす。
「ながれぼしぃ」
「えっ」
駿も美璃佳に従って顔を上げる。流れ星と聞いて、細い筋のような光が瞬く間
に過ぎていくのを予想して。しかし。
周りが昼間のように明るくなったような気がした。
煌々と眩く光を放つ巨大な玉が、夜空を駆け抜けていく。
「あれ、えんばんだよ。うちゅうじんの、えんばんだよ」
興奮した良太が叫んでいる。
「えんばんってなーに」
と、美璃佳。
光の玉は数秒間、その姿を誇示するような輝きを見せながら、西の方へと消え
ていった。
「ねえ、おにいちゃん。あれ、えんばんだよね」
駿の手を引きながら、良太が訊いてきた。
「ああ、そうかも知れないね」
本当に円盤だと思った訳ではないが、駿はそう答えた。
駿には何年か前にも、同じような光を見た覚えがあった。
あれは昼間だったが、たまたま空を見上げたとき巨大な光の玉が、飛んで行っ
た。さすがにUFOだとは思わなかったが、飛行機事故でも起きたのかと慌てた
ものだった。周りにいた他の目撃者たちも同様に、何が起きたのかと不安げに噂
し合っていたものだ。
すぐその後にニュースで、あれは非常に稀な巨大隕石だったと知ったのだが。
翌日にはその隕石の一部が見つかったの、いやそれは違うだのと、ちょっとした
騒ぎが起きていた。
「えんばんだ、えんばんだ」
「えんばんってなーに」
「うちゅうじんの乗り物だよ」
初めて見た子どもたちは、まだ興奮冷めやらぬ様子だ。しかしいつまでもここ
でこうしていたら、身体が冷えてしまう。特に美璃佳は心配だ。
#4278/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:20 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(08) 悠歩
★内容
「さあ、早く帰ろう」
駿がそう言った時、また美璃佳が空を指さした。
「あ、まただ」
確かにもう一つ、光輝くものが空に浮かんでいた。だが、それは先ほどのもの
とは違う。空を駆け抜けて行くのではなく、浮かんでいたのだ。光のシャボン玉、
そう表現したらいいだろう。
「なんだ、ありゃあ」
隕石などではあり得ない。地球の重力に引かれて高速に落下しながら、燃えて
光を放っているのではないのだ。どうやら、それ自体が光っているようなのだ。
まさか本当にUFO? 不可解な光体を目の当たりしながら、テレビで見た宇
宙人に誘拐されたことのあると言う人の話を思い出す。しかしなぜだか恐怖は感
じない。
見ていると、光のシャボン玉は少しずつ大きくなって行く。駿たちに近づいて
来ているのだ。やがて柔らかな光が、駿たちをも照らしだす。
「あーっ、てんしさま」
美璃佳の嬉しそうな声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
そして、駿も見た。心にまで届くような優しい光の中に、少女の姿を。美しい
肢体を隠すものは何もない。
駿はただ、ゆっくりと自分たちの元を目指すように降りてくる、光のなかの少
女に見取れるだけだった。声を発することも出来ず。
良太も同じなのだろう。美璃佳がのはしゃぐ声だけが聞こえている。
そして。
三人の前に降りたシャボン玉は、弾けるようにして消える。
静かに崩れ落ちる少女の身体を、駿は両手で受けとめた。
「あら、藤井さん。こんばんは、お風呂の帰りですか」
聞き覚えのある声に、駿は足を止めた。内心、気まずい思いをしながら。
「あ、ああ北原のおばあさん。こ、こんばんは」
散歩にでも出るところだったのか、アパートの近くまで来て北原の老夫婦と鉢
合わせになってしまった。なぜかは知らないけれど、おじいさんの方は涙を流し
ている。
「おばあちゃん、こんばんわ」
どもり気味の駿とは対照的に、子どもたちは元気に挨拶をする。
「あら珍しい、良太くん美璃佳ちゃんも一緒なの」
「うん。ねえ、どうしておじいちゃん、ないてるの」
美璃佳は遠慮なしに、涙を流しているおじいさんの顔を覗き込んで訊いた。
「ああ、これね。気にしないで。さっき流れ星を見つけてね、そうしたら昔のこ
とを思いだしてしまったらしいの」
優しくおばあさんは答える。流れ星とは、先ほど駿たちが見たのと同じものだ
ろう。
「むかしのことお?」
「こら、みりか。あんまりいろいろときくのは、失礼なんだぞ」
なおも興味を示す美璃佳に対して、良太はお兄さんらしく注意をした。もしこ
んな状況ではなかったら、駿もその光景を微笑ましいと感じただろう。
「藤井さん、その背中の方は?」
とうとう、おばあさんに気づかれてしまった。もっとも気がつかない方がどう
かしているのだろうが。
「そ、それが………」
なんと説明していいものか、駿は答えに窮してしまう。背中に負ぶった裸の少
女。まさか空から降って来ましたと言ったところで、信じてはもらえないだろう。
「そらから、ふってきたの」
ところが思案などしない美璃佳は、事実を在りのままに口にしてしまう。
「うちゅうじんだよ、うちゅうじん」
「ちがうの。てんしさまよ」
良太と美璃佳は口論を始めてしまった。
「いえ、あの、銭湯の帰りに、この先で倒れていたんです」
とりあえず、そう説明した。嘘をついたつもりはない。駿自身、この少女が空
から降りて来たのだとは、その目で見ていながら信じられずにいた。珍しい流星
を見た直後、何かを勘違いしてしまったのだろうと、思い掛けていたのだ。
「裸のままですか?」
しかし駿の説明に、さすがに北原のおばあさんも、信じられないと言った様子
だ。無理もないと、駿も思う。
「警察とか、救急車とか呼んだ方が………」
おばあさんが言いかけると、それまで涙を浮かべたまま、ぼんやりとしていた
おじいさんが叫んだ。
「だめだ、いかん。警察はいかん」
酷く興奮した様子に、駿も子どもたちも驚いておじいさんの顔を見る。
「はいはい、分かってます。落ち着いて下さい」
おばあさんが背中をさすってやると、すぐに静かになった。
「見たところ怪我をしている様子はないですし。少し様子を見て、本人に事情を
訊いてからのほうがいいと、思いまして」
本人が意識を取り戻し、希望するなら警察でもどこにでも連絡はするつもりだ。
外傷はなくても、何か病気なのかも知れない。それより裸でいたのは、何か危険
な連中と関係している可能性だって高い。本当なら、すぐにでも然るべきところ
へと知らせた方が、いいに決まっている。
しかし穏やかな、子どものように無邪気な寝顔は、病気には見えないし、危険
な連中と関わりがあるようにも思えない。なにより、駿自身が余計な人間にこの
子のことを知らせたくなかった。
「それで、あの北原さん。この子のことが分かるまで………少なくとも意識が戻
るまでは、誰にも知らせないで欲しいんですけど」
「ええ、ええ、それは構いませんけれど。おじいさんはこんな調子ですし、私は
おじいさんの世話で手一杯ですから、余所の方に話すことはありませんよ」
「おい、みんなが待っているぞ。急がんと」
誰が待っていると言うのだろう。おじいさんに急かされ、北原のおばあさんは
駿に一度頭を下げ、去って行った。
「さ、走って帰るよ」
これ以上誰かに少女を見られては面倒だ。二人の子どもたちにそう言って、駿
は駆け出した。
「あーん、まって」
後ろから、美璃佳の声がした。
「んっ…」
目覚めて最初に見たのは、低い天井だった。幾筋もの線がフラクタルな模様を
構成している。久しぶりに見る木目、というものらしい。ずいぶんと色がくすん
でいる。
次第に意識がはっきりしてくると、マリアはいま自分のいる場所の状況を把握
しようと努めた。
マリアは何か柔らかいものの上に、横になっていた。ママのカプセルの中より、
いい気持ちがする。
「×××、×××」
何か声がする。マリアは横になったまま、声の方に顔を向ける。マリアに似た
形の生き物が、足を折って座っている。若いようだが、でも胸がない。髪の毛も
短いし、体つきもマリアよりがっしりとした感じがする。どうやら、雄らしい。
近くに小さな影が二つ。やはりマリアに似た形だが、まるでミニチュアのよう
だった。きっと、子どもだろう。それぞれ雄と雌らしい。
『あなたと同じ外見をしている』
ママの言葉を思いだす。彼らがこの惑星の支配種族らしい。
マリアは大きな方の雄を見ながら、身体を起こした。
マリアに掛けられていた、柔らかい物がずり落ちる。裸だったはずが、いつの
間にか服を着ていた。
「××××、×××××」
雄が何か言った。マリアの記憶にある、様々な言語と比較して似たものを探す
が、すぐにはみつからない。
小さい二つの個体も、それぞれ興味深げにマリアを見ながら何かを話している。
言葉が分からないので、マリアは自分がどんなところにいるのか、考えてみる。
低い天井の狭い部屋。全体的にくすんだ色をしている。雄の向こうに、出入口ら
しいものが見える。手動だ。
その横に見える、曲がった細い管はなんだろう? そう思っていると、小さな
雌が立ち上がり、その管の方へ走っていった。小さな雌は背伸びをして、曲がっ
た管の上に付いている三つ又のダイヤルのようなものを回した。管から水が流れ
出す。飲料水を供給するための装置だった。
では、その隣にあるのは火を起こす道具なのだろう。
ママは文明のレベルがFだと言っていたが、マリアにはもっと低いように思え
る。
透明な器に水を入れ、小さな雌はマリアの前に立った。
「××、×××」
可愛らしい表情を見せ、水の入った器をマリアに差し出す。笑み、友好的な表
情。これもマリアと同じだ。
「ありがとう」
マリアは器を受け取り、精一杯の笑顔を返して見せる。小さな雌は、照れ臭そ
うに笑った。
手にした器を口元へ寄せ、中の水をひとくち含む。薬の味がした。消毒薬のよ
うだ。大量に摂取すれば別だが、この程度なら害はなさそうだ。そう言えば、の
どが渇いている。マリアは中の水を、一気に飲み干した。あまり美味しくはない。
『ママ、ママ、聞こえる? 聞こえたら返事して』
マリアは心の中で呼びかけてみるが、返事は返らない。ママは無事だろうか。
心配だったが、大丈夫と言ったママの言葉を信じるしかない。
さらに部屋の中を見回してみる。あまりもののない部屋で、もしかしたらマリ
アは捕まって、牢獄に入れられてしまったのではないかとも考えた。けれどそれ
にしては、造りが貧弱だ。牢獄ではなさそうだ。
一つの装置が目に留まる。四角いフォルムで、角には丸みを帯びている。前面
に大きなガラスのような物がはめ込まれている。映像を写す装置だろう。これだ
け見れば、Fレベルの文明はありそうだ。
その上に、小さな装置が置かれている。単純なものだが、リモコンらしい。
マリアはそれを手に取り、スイッチを押した。
大きな装置の、ガラス面に映像が浮かぶ。
何をしているのかは分からないが、この惑星の支配種族たちが話をしている。
都合がいい、これを聞いていれば言葉を覚えるのも早い。
やがて記憶の中から、近い言語を探しだしたマリアは映像の会話から、その違
いを訂正しいく。
「ねえ、君」
大きな雄が、マリアを呼んだ。もう、大体の言葉は理解出来る。
マリアは雄の方を振り返る。
「君は、誰なんだい? どこから来たの?」
「私は………」
マリアは、覚えたばかりの言葉を確かめるよう、ゆっくりと発音した。
「私は、マリア」
他に誰かに見られることなく、駿は無事に部屋に着くことが出来た。やや遅れ
て、子どもたちも戻ってくる。
はあはあと息をきらしている美璃佳を見て、まずいことをしてしまったかと思
う。もしかして、これでまた熱を出してしまわないかと心配になったが、当の美
璃佳は意外に元気で、良太にかけっこで負けたことを悔しがっていた。
とりあえず、昨晩美璃佳が使った布団を敷き、その上に少女を寝かせる。いつ
までも裸のままにもしておけないので、なるべく綺麗なトレーナーとスラックス
のズボンを選び、着せることにする。
用意した服と、いまだ目覚める様子のない少女を交互に見やりながら、駿はし
ばらくの間悩んだ。
ここに連れてくるまでは夢中で、あまり余計なことを考える暇はなかったが、
少女は裸なのだ。年齢は十七、八、くらいだろうか。美璃佳のような子どもを着
替えさせるのとは、訳が違う。事情はともかく、意識のない少女の裸に触れるこ
とは躊躇われた。
かと言って、まさか子どもたちに着替えさせるのも無理だろう。
愛美に頼もうかとも思ったが、いろいろと忙しそうな彼女に、一日にそうそう
何度も手を煩わせるのも気が退ける。
「ねえ、おようふく、きせてあげないの?」
いつまでも服と睨めっこを続ける駿を、不思議に感じたのだろう。下から美璃
佳が駿の顔を見上げて言った。
「あ、ああ、着せてあげるけど………」
まさか美璃佳に説明しても仕方ないと、駿は苦笑いを浮かべる。
「ばーか、みりか。おにいちゃんは、この女のひとが裸だから、はずかしいんだ
よ」
駿に成り代わり、良太が余計な説明をしてくれる。
「みりか、ばかじゃないもん」
美璃佳はぷうっと、頬を膨らませて小さな拳で、良太のことを叩いた。
「どうして、はだかだとはずかしいの?」
「えっちなことを、かんがえちゃうからだよ」
「えっちなことって、なによ」
「ほらほら、この人が起きちゃうから。静かにして」
子どもたちのやり取りを聞いていると、ますます恥ずかしくなってしまう。駿
は慌てて二人を止めた。
これ以上迷っていたら、また子どもたちが何を言い出すか、分かったものでは
ない。意を決し、駿は少女に服を着せることにした。
#4279/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:21 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(09) 悠歩
★内容
顔以外は出来るだけ見ないようにして。とは思うが、それは無理な話だった。
逆に意識し過ぎたためか、必要以上に少女の身体に目が行ってしまう。
長く黒く、艶やかな髪が白い肌に映える。その肌の色から、少女は西洋人なの
ではないかと、駿は思った。と、言っても確信はない。西洋人の肌をこれほど間
近に見たことなどないのだから。せいぜい雑誌のヌードグラビア程度だが、実物
とは比べようもない。とにかく、着替えさせている駿の手の色と比較すると、そ
の白さは明らかだった。わずかに紅みが射している。
ただ以前、悪友から白人の女性は日本人に比べて肌が粗い、と聞かされたこと
がある。だが少女の肌はまるで子どものようで、駿よりも遥かに肌理細かく思え
る。
そして無視しようにも、どうしても目に入ってしまう胸の膨らみ。決して大き
くはないが、それこそお椀を伏せたような綺麗な形をしている。いまになって、
この胸がついさっきまで自分の背中に直接触れていたのだと思うと、駿の鼓動は
激しくなってしまう。
どうにか上は着せることが出来たが、さらに問題なのは下だった。不可抗力で
あるとは言っても、さすがに胸を見てしまう以上に罪悪感を覚える。
こちらは布団をかぶせた状態で、手だけを入れて履かせることにした。しかし
少女の寝ている布団に手を入れていると、何だかとてもいやらしいことをしてい
るように感じてしまう。手探りの指先が、少女の身体に触れる度、緊張で駿の身
体が跳ね上がってしまう。子どもたちが不思議そうに見るが、言い訳をするゆと
りさえない。
そして、どうにかこうにか、上下とも無事服を着せ終わった。
「てんしさま、おきないね」
いつまでも飽きることなく、少女の寝顔を見ていた美璃佳が言った。
「そのことだけどね、美璃佳ちゃん。良太くんも」
「なあに?」
「この女の人のこと、特に空から降りて来たってことは、他の人には内緒にしよ
うよ」
「どうして?」
「きまってるよ。ほかのうちゅうじんに、見つからないようにだよね」
「ん、って言うか………そう言うことをみんなに知られると、この人も困ると思
うんだ。天使であろうと、宇宙人であろうとさ。普通は人に見られないようにし
ているものだろ?きっとこの女の人、特別な理由があって、あんなふうにして現
れたんだよ。だから、この女の人がそうしてくれ、って言わない限り、秘密にす
るべきだと思うんだ」
駿は出来るだけ、子どもに分かりやすい言葉を選んだつもりだった。良太たち
が聞き分けてくれるか、不安を抱きながら。
「みりか、いわない」
「ぼくも」
二人とも、素直に従ってくれた。
「んっ…」
小さな声。
少女の口からだった。
目が覚めたのか。
駿も、良太も美璃佳も、少女の方を振り返った。
「やあ、気分はどう?」
緊張した駿の声は、妙に高くなってしまった。
まだ幼さの残る顔立ちの少女が、不思議そうに駿を見つめた。とても綺麗な色
をした瞳で。琥珀色、と言うのだろうか。やはり日本人ではないらしい。
「あの、言葉分かる?」
今度はゆっくりと話し掛けてみた。
応える代わりに、少女は小首を傾げて見せる。言葉が分からないのだろうか。
「ねえ、おねえちゃん、てんしさまなの?」
「ちがよ、うちゅうじんだよね」
子どもたちが話し掛けても、やはり応えない。珍しそうに、部屋の中を見てい
る。ふと止められた視線の先を、駿も追ってみた。水道を見ていたらしい。
「わかった、おねえちゃん、のどがかわいてるのね」
駿が反応するより早く、美璃佳が立ち上がった。とと、と駆け出して水道へと
行く。それほど高い位置にある訳でもないが、背伸びしてようやく届いた蛇口を
ひねる。横に伏せてあったコップを手に取り、水流に充てる。飛沫を浴びながら
も、コップの八分目ほどまで水を汲み、戻ってきた。
「はい、おみず」
「××××」
はっきりとは聞き取れなかったが、不思議な響きの言葉が少女から発せられた。
英語ではない。どこの国の言葉なのか分からない。どこかで聞いたような覚えさ
えない、不思議な言葉。けれど、とても美しい声。美しい響き。
両手を添えて、美璃佳は少女にコップを差し出す。少女はそれをそっと受け取
り、美璃佳に微笑みを返した。
花が咲いたような微笑み。駿は初めてその言葉を実感したような気がした。薄
暗い、どこか汚れたように見える古アパートの一室が、本当に明るくなったよう
に感じられる。
少女はひとくち、水を含む。こくりと喉が、可愛らしく動く。
水を飲み干すと、少女は部屋中を興味深げに眺め回す。あるいはこんな安アパ
ートを見るのは初めてで、珍しいのかも知れない。
やがて少女はテレビに気がつく。細い腕を伸ばし、上に置いてあったリモコン
を取る。まるで新しいおもちゃを与えられた子どものように、それをしげしげと
見ていたかと思うと、スイッチを押してテレビを着ける。そのまま、少女はテレ
ビに見入ってしまった。
「ねえ、君」
言葉が通じないのは承知で、駿は話し掛ける。学生時代英語の不得意だった駿
には、日本語以外に、少女に話し掛ける言葉を知らない。
テレビに見入っていた少女も、自分に声が掛けられたことは分かったらしい。
駿の方を振り向いた。
「君は、誰なんだい? どこから来たの?」
少女の口が、ゆっくりと開いた。
「私は………」
少しぎこちない発音だったが、明瞭な声。確かな日本語。
「私は、マリア」
愛美は読んでいた本から顔を上げた。本を読むなんて、いつ以来のことだろう。
母の死後、そんな時間をとることなど出来なかった。成り行きで相羽に勧められ
て、借りることにならなければ、まだ当分読もうと言う気になどならなかったは
ずだ。
時計を見る。
時刻はもうすぐ、午後十時になろうとしてた。
「お父さん、今夜も帰ってこないのかしら」
昨日持ち出して行ったお金は三万円。愛美にとっては大金だが、大人の男性が
二晩外で過ごすのには不充分ではないだろうか。女の人が外にいるのだろうか。
その人のところに泊まっているのだろうか。それならばいい、もし父に好きな人
がいるなら、再婚をしたいと考えているなら、愛美は心からそれを祝いたい。父
も立ち直ってくれるだろうから。
でも愛美は知っている。
決してそんなことは、ないだろうと。
愛美の父がまだ死んだ母を忘れられないでいるのを。
心配なのは、また外で誰かに迷惑を掛けていないか、と言うことだった。
がちゃ。
ドアノブを回す音がした。それを引き抜こうかとするような勢いで、ドアが開
けられる。
「おら、帰ったぞぅ」
薄い部屋の壁が小さく振動するほどの、大声。父は酔って帰ってきた。
「お父さん………いままで、どこにいたの」
「なんだとぉ、なんで俺が、んなことをぅ〜いちいち娘に、説明する必要がぁ、
ある」
呂律の回らない父。愛美はそれを責めるつもりなどなかったが、父は気に入ら
ないらしい。玄関先に痰を吐き捨て、蹴り跳ばすように靴を脱ぎ捨てて部屋に上
がると、愛美の顔も見ず布団に潜り込む。
「お父さん、晩御飯は………」
恐る恐る訊ねてみる。愛美は父を待ち、自分も食事をとっていない。
「あ、あのね。今日はカキが安かったから、カキ鍋にしてみたの。お父さん、カ
キ鍋好きだったよね」
平日はアルバイトがあるため、どうしても作り置きの食事しか父に食べさせる
ことが出来ない。だからせめて日曜日くらいは、出来たてを食べて欲しい。そう
思った愛美は、かなり無理をして材料を揃え、父が帰るのを待っていた。
「カキだぁ? んな生臭いもん喰えるか。それより俺は寝てるんだ、とっとと、
明かりを消せ」
「お父さん」
「消せ」
父は全く愛美の話を、聞く耳を持たない。これ以上は何を言っても、怒らせる
だけなのは分かっていた。
仕方なく部屋の明かりを消して、愛美は狭い台所のガラス戸を閉めた。
テッシュを手に、父が玄関に吐き捨てた痰を拭き取ろうとする。
「………お父さん」
赤黒く染まった痰。また父の身体が悪くなり始めているのではないだろうか。
愛美は不安に震えた。
「本当にいいんですか?」
駿は手にした紙袋を見ながら、おばあさんへ訊ね返す。
「ええ、ええ、どうせ家にあっても、タンスの肥やしになっているだけですから。
ご迷惑でなければ、使って下さいな」
「いえ、迷惑どころか、本当に助かります。じゃあ、遠慮なく頂きます」
駿は丁寧に頭を下げて礼を言った。
「それじゃあ、何か他に困ったことがあれば、言って下さいな。私で出来ること
なら、力になりますから」
にこやかな笑顔を残して、おばあさんは立ち去っていた。
本当に助かった、駿は心から思う。
昨夜拾った少女、マリアに着せる服をどうにかしなければ、丁度そう思ってい
たところだった。いつまでも男物を着せていたのでは、外出もさせられない。と
りあえず一着分は買わなければならないだろうと、思っていたところに北原のお
ばあさんが紙袋を持って来たのだ。
中身は女物の服を二着分と、下着が三着分。
特に下着は有り難い。正直、男の駿が女物の下着を買いに行くのは抵抗があっ
た。
「とにかく、子どもたちのこともあるし。お金が節約できるのは助かった………
けど。良太くん、美璃佳ちゃん………そして、マリアさん。少し、静かにしても
らえないかなあ」
駿が疲れた顔で振り返ると。
「えっ」と言うような顔で駿を見上げる三人がいた。
良太、美璃佳、マリアの三人はくすぐり合いをして、遊んでいたのだ。
「駿もやろう、面白いよ」
誘ったのは子どもたちではなく、マリアだ。二人の子どもたちと遊んでやって
いる、と言うよりマリア自身が率先して楽しんでいる。
なんだって三人とも、こんなに元気でいられるのだろう、と駿は思った。
六畳一間に四人で寝るのは少々窮屈だ。それにまさか駿とマリアとが同じ部屋
で寝る訳にもいかない。ところが布団は二組しかない。良太たちの部屋にあった
布団は、湿っている上にカビだらけで使いものにはならない。駿が気がつくまで、
よくあの布団で良太たちは寝ていたものだと思う。美璃佳が病気になったのも、
当然だろう。
だから昨夜は、子どもたちとマリアにこの部屋で布団を使って寝てもらい、駿
は隣の部屋で寝ようとした。しかしこれは子どもたち、特に美璃佳が嫌がった。
ずっと兄妹二人きりで夜を心細い夜を過ごしてきた美璃佳は、みんなで一緒に寝
たいと言った。
マリアも美璃佳に同意した。初めは部屋と布団を使わせてもらう心苦しさから、
遠慮して言っているのだと思った。だがそうではないらしい。マリアという少女、
どうも男女間の恥じらいと言うものがないらしいのだ。
とにかくそれで、昨夜はこの部屋で四人揃って寝ることになった。もちろん駿
と良太、マリアと美璃佳が同じ布団でと、配慮して。
この冬場に布団なしで一夜を過ごすことにならなかったのは良かった。だがや
はり、窮屈だった。
子どもたちの寝相も悪かったが、それに負けず劣らず、マリアの寝相も大した
ものだった。一晩の間に、マリアの胸や太股が何度駿の眼前に迫って来たことか。
おかげで駿は一晩中三人の寝相を直し、布団を掛けてやったりして、ほとんど
眠ることが出来なかった。おまけに三人に遠慮して、窮屈な体勢でいることが多
かったため、身体中が痛い。
まったく、誰が部屋の借り主か分からない状態だったが、駿はそれほど腹が立
つこともなかった。不思議と子どもたちやマリアの布団を直し、その寝顔を見て
いるのが楽しかった。意外に自分は家庭的な男なのかも知れない、と駿は思った。
「だめだよ、部屋の中で騒いじゃ」
「えー、どうしてぇ」
真っ先に抗議をしたのはマリアだった。
昨日マリアを部屋に連れ帰った時には、もしかすると何か事件絡みの少女では
ないかと思ったりもした。でなければ裸で道端に倒れていた説明つかない。駿は
マリアが空から降りてきたことを、否定していた。あれは直前に見た流星と、夢
見がちな子どもたちに感化された錯覚であると。
しかし無邪気なマリアの様子を見ていると、どうにも事件と結びつかない。
#4280/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:22 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(10) 悠歩
★内容
「ただでさえ、造りのよくないアパートだからね。部屋で騒ぐと、下に住んでる
人がうるさくて迷惑なんだよ」
「じゃあ、マリア、外で遊ぶ」
「わたしも」
「ぼくも」
マリアと子どもたちは、そのまま外に行こうとする。
「ちょ、ちょっと待って、マリアさん」
慌てて駿はそれを止める。
子どもたちはいざ知らず、マリアはまだ駿の服を来たままなのだ。しかも下着
も履いていない。
「外に出る前に、まず着替えないと」
駿は手にしていた紙袋をマリアに渡す。
「マリア、別にこれでもいいのに」
そう言って、マリアはトレーナーの胸元を引っ張った。その下の、隠す物のな
い胸が見えてしまう。
「そ、そうは行かないよ」
駿は赤くなった顔を、マリアから背ける。
「ふーん、分かったあ」
そう答えると、マリアはその場でいままで着ていたものを、脱ぎ始めてしまっ
た。
「うわっ」
急いで駿は部屋を飛び出し、ドアを閉める。
「ま、マリアさん。着替え終わったら、呼んで」
「はあい」
部屋の外で、激しくなった鼓動を落ち着かせながら、駿は思った。
とても駿をからかっているようには見えない。マリアの精神年齢は、とんでも
なく幼いのだと。たぶん、美璃佳と大差ないのだろう。
事件絡みでないというのも、考え直さなければいけないかも知れない。少なく
ともマリア自身が積極的に関わることはないだろう。だが、誰かに騙されてとい
うのは、充分に考えられる。
「あっ!」
ふと気づくと、子どもたちもマリアと一緒に部屋の中にいたのだ。美璃佳はと
もかく、良太にマリアの着替えを見せてしまって、いいものか? 部屋の中の良
太を呼び出そうかと悩んで、つい苦笑がもれる。
教育上とかではなく、駿は良太に対して微かに嫉妬していたように感じたのだ。
「ふう」
校門をくぐり抜けて、愛美は小さくため息をつく。
昨日のことで相羽にお礼を言わなければ。そう思いながら、何も出来なかった。
休み時間に彼の姿を見つけても、周囲の目が気になり声を掛けられなかった。そ
んな卑屈な自分が嫌だった。
愛美には親しい友だちがいない。
小学生の頃は仲のいい友だちはいたし、その子たちも同じ中学校に上がってい
る。しかし母の死後、家のことに追われ愛美はその友人たちと話したり、遊んだ
りする時間が取れなくなってしまった。最初のうちは、理解を示していた友だち
も一人、二人と離れていっていまった。
寂しくないはずがない。もともと愛美は明るい少女だった。
けれど愛美には友だちよりも、優先させなければならないものがある。
父を支えられるのは自分しかいない。愛美がいなければ、父は本当に駄目にな
ってしまう。その想いが今日までの愛美を支えてきた。
自分のものは何一つ買わない。休みの日に映画を観たり、ゲームセンターに行
ったり、普通の中学生の女の子が普通にすることを、何一つしない。テレビを観
る時間もない。
そんな生活がまた、同じ年頃の女の子たちが共通に持つ話題から、愛美を遠ざ
ける。
そしてそれがコンプレックスとなり、友だちに対して愛美を卑屈にさせてしま
う。
けれど相羽は、他の子たちに接するのと同じように愛美を扱ってくれた。それ
は相羽が、愛美のことを知らなかったからだろう。それでも良かった、嬉しかっ
た。
しかし今日、学校で見掛けた相羽に、愛美は声を掛けることが出来なかった。
自分のような子が、相羽に話し掛けるのを周りの人が見たら、どう思うだろう。
もしかすると、あんな子と話をしない方がいいと、誰か相羽に言うかも知れない。
あの子は父親しかいないから。あの子の父親は酒を呑んでは人に迷惑ばかり掛け
ているから。そんな話が伝わってしまうかも。
相羽も片親なのに、どうしてあんなに明るくいられるのだろう。
男の子だから?
愛美と違って一緒にいるのが母親だから?
愛美は気づいていた。父のためと言いながら、その父を恥ずかしいものである
ように考えている自分に。それが悲しかった。
寄り道することなく、愛美は家路を急ぐ。買い物は昨日済ませていたので、早
くアパートに戻り、父の夕食の用意をしてアルバイトに行かなければならない。
「あら?」
アパートの前に、誰か女の人が立っていた。その人に、愛美は見覚えがあった。
「あ、愛美ちゃん。愛美ちゃんね?」
女の人も愛美に気づいた。
「雪乃叔母さん………」
「まあまあまあ、覚えていてくれたのね、愛美ちゃん。こんなに大きくなって」
嬉しそうに目を細め、女の人は愛美に近寄って来た。
桂木雪乃(かつらぎゆきの)、死んだ愛美の母の妹だった。
「お久しぶりでです」
「もう、本当に」
叔母さんは路上、人目もはばからずに愛美を抱きしめた。横を通り過ぎた人が、
怪訝そうに見ていた。
けれど愛美もそれが嫌ではなかった。
母に良く似た叔母さんの温もりが、嬉しかった。死んだ母に抱かれているよう
な気がして、涙が流れた。
「探したのよ、愛美ちゃん。いつの間にか、引っ越してしまって………叔母さん
になんにも知らせてくれないんだから」
「すみません、雪乃叔母さん」
「いいのよ、愛美ちゃんが謝ることは、ないんだから。どうせお義兄さんが、知
らせるなって言ったんでしょうから」
愛美はこの叔母さんが好きだったが、父のことを悪く言われるのは嫌だった。
似ているだけに、まるで愛美の母が父を責めているようで、気分がよくない。け
れど叔母さんの言うように、知らせなかったのは父に止められていたからだった。
「学校に訊けば分かると思ったの。そしたら、教えてくれないのね………愛美ち
ゃんの親戚なんだって言っても、なかなか信用してもらえなくて。でも学区は変
わってなかったから、なんとか探すことが出来て良かったわあ。それで住所が分
かったと思ったら、愛美ちゃんのところ電話がないって、言うじゃない。仕方な
いから、こうやって田舎から出てきたのよ」
よほど愛美の住所を探すのに、手間が掛かったのだろう。叔母さんはまくし立
てるように話した。この叔母さん、顔はよく似ていたが母と違って、とてもお喋
りだった。
「あの、雪乃叔母さん。立ち話もなんですから、中へ………」
愛美は叔母さんを部屋に案内する。本当はあまり部屋の中を見せたくはないし、
父と会わせたくもない。けれど愛美たちを心配して、わざわざ田舎から出てきた
叔母さんを、いつまでも寒い外に立たせておく訳にもいかない。
出来れば、父が外出中であって欲しい。愛美は思った。
部屋の鍵は開いており、中からはテレビの音も聞こえてくる。父がいるのだ。
これから叔母さんと交わされるであろう会話を思い、愛美は憂鬱な気分になった。
「ただいま、お父さん」
肘を枕にして布団に横になり、テレビを観ている父は何も応えない。
「あの、お父さん………」
「ご無沙汰してます、お義兄さん」
叔母さんの挨拶で、父は初めて反応を示し、こちらを振り返る。
「お、」
驚いたような声を発し、父は母に良く似た叔母さんを凝視する。
「雪乃………さんか?」
「あら、覚えていて下さったんですね」
笑ってはいたが、叔母さんの言葉には嫌味が内包されていた。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
面倒くさそうに起きあがり、父は布団を片づけ始める。愛美は押入から一枚き
りの、少し汚れた座布団を出して叔母さんに勧めた。
「いま、お茶をいれますから」
「気を使わないでね、愛美ちゃん」
愛美は台所に立ち、お茶を煎れながら父と叔母さんの様子をはらはらした気持
ちで見ていた。
「よく、ここが分かったな」
「ええ、随分苦労しましたけど。それにしても」
叔母さんは部屋の中を、ぐるっと見回した。
「お世辞にも、いいお住まいですね、とは言えませんね。どうして、マンション
からこんなところに越してきたんです?」
理由は分かっているはずなのに、父に訊いてくる。
「家賃が、払えないからだ」
父はぷいっと横を向いて応える。その口振りから、かなり機嫌が悪くなってい
ることが、愛美には分かった。
「あら、前に姉さんから聞いた話だと、あのマンション、場所の割には格安な家
賃だって、喜んでいたのに。どうして、また払えなくなったんです?」
「叔母さん、お茶をどうぞ」
話を中断させたくて、愛美はお茶を差し出した。だがそれは、ほんの一瞬話を
止めただけ。叔母さんは「ありがとう」と湯呑みを受け取ると、さらに父へ詰め
寄る。
「何かあったんですか?」
「俺が仕事を辞めたからだよ」
父は少し声を荒げていた。それでも相手が雪乃叔母さんだということもあり、
いつも愛美に対して怒る時に比べれば、かなり抑えているようだった。
「まあ、じゃあ、ここの家賃とか生活費とかどうしているんです?」
この質問に父は言葉で応えず、くいと顎を愛美の方へ動かした。
「はっ? どういうことですの。お義兄さん」
「貯金を切り崩して、あとは、こいつが働いて賄っている」
「まあ」
口に手を充てて、叔母さんは驚いてみせる。
「あ、あの、私、働くのが好きなんです」
「そう言う問題じゃ、ないのよ」
父に代わって弁明する愛美を、叔母さんが窘める。
「お義兄さん、愛美ちゃんはまだ中学生なんですよ。それを働かせて………自分
は何をしてるんですか?」
「別に、俺が頼んだ訳じゃねぇ。こいつが勝手に働いているだけだ」
「お父さんは、身体が悪いんです………だから、働けないです」
愛美は叔母さんの手に縋り、懸命に訴える。その気持ちが通じたのか、叔母さ
んの顔に笑顔が浮かぶ。
「優しいのね、愛美ちゃんは」
そして先ほどよりは幾らか声を和らげて、父と話し始めた。
「お義兄さんの身体のことは知っています。でもそれは、姉さんが死んでから、
仕事も辞めてお酒を飲み過ぎたせいでしょう?」
「…………」
「でもまあ、今日はお義兄さんを責めに来た訳じゃありません」
「だったら、何の用なんだ」
「愛美ちゃんのことで相談に来ました。中学生の女の子が一人で働いて、家のこ
とまで支えるなんて無茶すぎます」
「雪乃叔母さん、私は………」と、愛美。
「いいから、最後まで訊いて頂戴」
叔母さんは話を続ける。
「こんな状態では、貯金もほとんどないんでしょう。お義兄さんは、愛美ちゃん
の高校や大学をどうするつもりです?」
「考えてねぇよ。まだ先の話だ」
父の答えに、叔母さんはため息をついた。
「先じゃありません。再来年の今頃には、進路を決めてなきゃいけないんです」
「私、就職するつもりですから」
実際のところは、愛美はまだ卒業後のことなど決めてはいなかった。勉強は嫌
いではない。出来ることなら、高校へ行きたいと思う。けれどいまの家計の状況、
貯金もほとんど使い果たし、わずかばかりの愛美のアルバイト代でどうにか食べ
繋いでいる。そんな状態では高校進学など、とても無理な話だ。
愛美の答えを聞いて、叔母さんは眉を顰める。
「馬鹿なこと言わないの。そりゃあ、愛美ちゃんが何かやりたいことがあって、
そのために働くって言うのならいいのよ。でも、そうじゃないでしょう?」
叔母さんはちらりと、父の方を見た。
「愛美ちゃんだって、何か将来の夢があるでしょう?」
「………」
将来の夢、と訊かれても、愛美には答えられない。いままで、そんなことを考
える余裕などなかった。
「そうね、まだ中学一年生では、はっきりしたものはないかしら。それならなお
のこと、高校へは行きなさい。高校に行きながら、自分のしたいことを見つけれ
ばいいしね。将来、何をするにしたって高校には行っておいた方がいいと思うわ」
「でも………」
#4281/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:23 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(11) 悠歩
★内容
叔母さんの言うことは、分からないでもない。けれど無理なものは無理なのだ。
愛美がここで高校に行きたいと言ってしまえば、それはいまの父を非難してしま
うことになる。
「お義兄さん、これを受け取って下さい」
叔母さんはハンドバッグから、何か取り出して父の前に置いた。通帳と印鑑だ
った。
「何の真似だ?」
それまで愛美と叔母さんのやり取りを、まるで興味なさそうに聞いていた父が、
通帳を見つめながら言った。
「二百三十万円あります。黙って受け取って下さい」
一段と真剣な面持ちになった叔母さん。
「愛美の学費にしろってことか? へへっ有り難いが………俺に渡しちまって、
どうなるか知らんぜ」
「そうじゃありません」
さっと身を正し、叔母さんは深々と頭を下げる。
「それで、愛美ちゃんを譲って下さい」
「はあ?」
「えっ」
驚きの声を上げたのは、父も愛美も同時だった。
「いまのままでは、高校どころか愛美ちゃんの将来が心配です。愛美ちゃんは、
私の大事な姉さんの子ども。その子が駄目になっていくのを、見過ごすことは出
来ません。どうか愛美ちゃんを、私の子として引き取らせて下さい」
叔母さんの言葉には、熱がこもっているようだった。本気で愛美のことを心配
してくれている。愛してくれている。その気持ちが感じられ、愛美は嬉しかった。
けれど同時に、愛美が父と暮らすことを叔母さんは否定しているのが悲しかった。
「おいおい、雪乃さんよ。そりゃあ、面と向かって俺がろくでなしの父親だと言
っているのと変わらんぞ」
まるで他人事であるかのように父は応えた。別段、叔母さんの言葉に怒った様
子はない。
「はい、はっきり言わせて頂けるなら、その通りです。私もずっと辛抱して来た
つもりですが、お義兄さんが立ち直る様子もありませんから。このままでは、愛
美ちゃんが不幸になるのは、火を見るより明らかです」
叔母さんもまた、臆することなく言った。
「ふーん、でその話は、あんたの旦那さんも承知しているのかい?」
「もちろんです。母も夫も賛成してくれています」
「ほーう」
父は右手の小指で耳を掻き、通帳を見つめた。そして。
「少々、金額が不満だが………まあ、いいだろう」
そう言って、通帳に手を伸ばした。
「イヤ、お父さん!」
慌てた愛美は、父よりも早く通帳を取った。
「こら、愛美!」
「愛美ちゃん………」
愛美は通帳を叔母さんに手渡す。
「雪乃叔母さん………叔母さんの気持ち、とっても嬉しい。でも、でも私」
そして父へ向き直り、手を握りしめる。
「私、やっぱりお父さんと暮らしたい」
「ちっ、鬱陶しい」
父は無造作に愛美の手を、振り解いてしまった。
「俺はお前と暮らして、きちきちの生活をしてるより、まとまった金をもらって
パアッと遊びたいんだ」
「お義兄さん、あなたって人は」
「いいんです、雪乃叔母さん」
愛美は叔母さんに微笑んで見せる。けれど上手く笑うことが出来ず、少し歪ん
だ顔になってしまったかも知れない。
「あの、私………これからアルバイトに行かなくっちゃいけないんで………」
ちらりと時計を見て、愛美は言った。今日は早めに帰ってきたはずなのに、も
う急がなければアルバイトの時間に遅れてしまう。
「もう、愛美ちゃんたら」
少し呆れたような叔母さんの声。それがあくまでも父と暮らしたいと望むこと
に対してか、大事な話の途中で時間を気にしていることに対してか、愛美には分
からない。
しかし愛美の気持ちを理解してくれたらしく、叔母さんは優しく言った。
「仕方ないわね、今日は諦めましょう。お義兄さん、この話はいずれまた改めて、
させて頂きます」
「ふん、そん時はもう少し上積みして金を用意して欲しいもんだな」
憎まれ口を続ける父には応えず、叔母さんは立ち上がった。
「あの、泊まって行かないんですか」
「愛美ちゃんが出かけたあと、お義兄さんと二人きりじゃ息苦しいもの。それに
愛美ちゃんも心配でしょう?」
まるで小さな子どもに話し掛けるように、叔母さんは両掌で愛美の頬を包み込
む。愛美は少し恥ずかしかったが、嫌ではなかった。叔母さんの温かい手が、気
持ちよかった。
「それに私も、明日仕事があるから。今日中に帰らないと………途中まで、一緒
に行きましょう」
母と並んで歩いているような気がした。
叔母さんは声も似ていたが、やはり静かにしていた方が雰囲気も似ている。
本当は急がなければアルバイトに遅刻しそうなのだが、愛美も少しでも長く叔
母さんと歩いていたかった。特に急かすことはしない。
「愛美ちゃん」
「はい」
ゆっくりと愛美の名を呼ぶ声は、口調までも母と似ている。
「アルバイトって、何をしているの? こんな時間………中学生のアルバイト自
体が感心出来ないけれど………いいえ、今日はそのことは止めましょう。でも、
変な仕事だけはしないでね、姉さんが悲しむわ」
「お母さんのお友だちだった人の、お店………居酒屋さんで働いてるんです」
「居酒屋?」
叔母さんの顔が、わずかに曇るのが分かった。
「あ、変なお店じゃないですから。それに私は、ほとんど裏の仕事ばかりですか
ら」
「そう………うん、愛美ちゃんを信じるわ」
信じるとは言ったものの、やはり叔母さんは心配そうだ。それからしばらく、
考え込むようにして黙りこくってしまった。
そして突然愛美の手を取ると、バッグの中から出した通帳を握らせる。
「ゆ、雪乃叔母さん」
驚いた愛美は立ち止まり、叔母さんの顔を見上げる。
「このお金、愛美ちゃんに預ける。高校のことは、また叔母さんが考えるから、
心配しないで。このお金は、必要な時に使って」
「そんな………こんな大金、もらえません」
愛美は首を振り、手をそっと押し返す。正直に言ってしまえば、いまの愛美に
は喉から手が出るほど欲しいお金ではあった。だが、叔母さんの家も、決してお
金持ちではない。二百三十万円という金額を貯めるのには、大変な苦労をしたこ
とだろう。お金の重みを知る愛美だけに、受け取ることの出来ない金額だ。
「いまこんな大金もらってしまったら、私、甘えてしまうから」
「いいのよ、私は愛美ちゃんに甘えて欲しいの」
「雪乃叔母さんの気持ち、涙が出るほど嬉しい………でも、やっぱり受け取れま
せん。それにあんな狭い部屋ですもの、もしお父さんに知れたら………お父さん、
またギャンブルやお酒に使って、身体を悪くしちゃうから」
愛美が叔母さんに引き取られることを断ったのは、父と暮らしたいからだった。
しかしお金を受け取った父が、いまより駄目になってしまうことが恐かったのも、
大きな理由の一つだった。
愛美は震える手で、通帳を叔母さんの手に戻す。
「愛美ちゃんは………」
叔母さんは、じっと愛美の目を見つめる。
「お父さんのことが、好きなのね」
愛美は小さく頷く。
「姉さんもそうだった………お義兄さんのことを本当に愛していた。仕方ないわ
ね、このお金、叔母さんが預かっておく。だから、必要なときは時はいつでも言
ってね」
それから叔母さんは通帳と入れ替えに、財布を出した。そしてその中から千円
札数枚を残し、三万円を抜き出し愛美に手渡す。
「だめよ、断っちゃ。これくらいは受け取ってもらわないと、わざわざ遠くから
来た、叔母さんの立場がないでしょ?」
断ろうとしていた愛美に釘を刺し、叔母さんは笑った。
きっとこの三万円は、叔母さんの手持ちの、帰りの電車賃を除いた全額なのだ
ろう。
心苦しいことに変わりはないが、愛美は素直に受け取る。
「それじゃ、雪乃叔母さん。私、こっちですから」
駅へ進む道と、愛美のアルバイト先との分かれ道。
「愛美ちゃん………」
まだ何か言いたげな叔母さんは、口を開き掛けて止めてしまった。
愛美も後ろ髪を引かれる想いを残しながら、母と似た叔母さんに別れを告げた。
−−マリア………マリア、聞こえますか。
−−聞こえたら、返事をなさい。
深い海の中から、三度目の呼び出しもマリアから返事を得ることは出来なかっ
た。
『まだ出力が不足なのかしら。計算以上に、マリアは遠くに落ちてしまったのか
も知れない』
ママ………マリアの乗っていた宇宙船を管理するコンピュータは呼び出しを諦
め、修復作業とある計算を再開する。
大気圏突入時に発生した故障及び損壊は、船にとって致命的なものではなかっ
た。しかしその修理に必要な原料は圧倒的に不足していた。長い旅の間、船内に
ストックされてものは、ほとんど使い果たされている。
幸い必要なもの全ては、この惑星上に存在していた。ただ知的生命体が存在し
ている以上、大っぴらに採掘作業をすることは出来ない。
海底よりの採掘と、海水から抽出することでなんとか入手しているため、修理
が完了するまでには、まだ相当な時間が掛かりそうだった。
『おかしいわ』
修復作業と並行して行っていた計算結果に、ママは不満の声を漏らす。
『何度計算しても、答えは一緒………何かデータが間違っているのかしら。でも、
この答えが正しいとするなら。いいえ、そんなはずは………』
とにかく一刻も早く船を直し、マリアと連絡を取らなければ。
年内はもう仕事をするつもりのなかった駿だが、考え直さなければいけないか
も知れない。
もともとは恋人とクリスマスを過ごすつもりで、それなりのお金は残していた。
その予定がご破算になり、金銭的にはある程度の余裕があるはずだった。ところ
が、突然増えてしまった扶養家族に、その余裕も怪しくなっている。
もちろん今日明日にも貯金が底を尽くほど、切羽詰まっている訳でもない。だ
がこの状況がいつまで続くか予想もつかない以上、考えておく必要はあるだろう。
考える必要があるのは、金銭的な問題だけではない。にわかに増えた三人の扶
養家族の今後のこと。これも出来るだけ早く、なんとかしなければならないだろ
う。
マリアについては、いまのところ身元についてなんの手がかりもない。なにせ
駿がみつけたときには、生まれたままの姿だったのだから、パスポートなど身分
を証明するようなものも持っているはずはない。本人に尋ねてみても、さっぱり
要領を得ない。ただ日本語が堪能なことから、もしかすると旅行者ではないのか
も知れない。日本で生まれ育った、いやことによると、両親のどちらかが日本人
であるとも考えられる。
しかし駿の知る限りでは、この近所に該当するような家があると聞いたことが
ない。近所に外国人が住んでいたとしたら、たとえ名前は知らなくてもこれまで
に何度か見掛けているはずだ。だが駿には、そんな記憶もない。
まだ事件絡みの可能性も捨てきれないが、過ぎるほど無邪気なマリアを見てい
ると、どうも考えにくい。本人も望んではいないようだし、何より駿自身がマリ
アのことを警察に知らせる気にはなれない。マリアとの出会い、空から降りてき
た少女を見たのは夢であると思いながらも、完全に納得しきれていない。もしそ
んなことを警察に話せば、駿がまともでないと思われるだろう。それに、この少
女とはもう少し一緒にいたい。駿の中にそんな気持ちがあった。あるいは裸のマ
リアを背負った感触が、駿を惑わしているのかも知れない。
とにかくマリアについては、急いでどうにかしなければならないと言う焦りは、
湧いてこない。その必要性を強く感じるのは、良太と美璃佳の兄妹の方だった。
こちらは身元もはっきりしているどころか、駿の隣の部屋を借りている女性が
母親であることまで、よく分かっている。分かって入るだけに質が悪い。
初めは駿の正義感か良心か、あるいは同情からか。二人の面倒を見て来てやっ
た。二人とも特殊な家庭環境に育ったためか、たぶん同じ年頃の子どもと比べれ
ば手の掛からない方だろう。しかし同情だけで、いつまでも他人の子どもの世話
を続けることは出来ない。
親戚の存在も確認出来ない以上、やはり然るべきところに相談するしかないだ
ろう。
「しゅんおにいちゃん、どっかいたいの?」
あぐらをかいて考え事をしていた駿の前に、美璃佳の顔が現れた。ずっと黙り
こくったままの駿を心配したのだろう。美璃佳は両手を畳につき、四つんばいの
恰好になり、駿の顔を見上げている。
#4282/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:24 (191)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(12) 悠歩
★内容
「ん、いや、なんでもないよ………ほらそれより、そろそろ美璃佳ちゃんの好き
な、アニメの時間だろう」
まさか子どもたちに向かって、「君たちはちゃんとした施設に行くべきだ」と
話すことも出来ない。駿は適当にごまかした。
「あ、りょうたおにいちゃん、『フラッシュ・レディ』がはじまっちゃうよ」
美璃佳は好きなアニメ番組の時間だと知るや、慌てて良太の元にリモコンを持
っていく。どうやら美璃佳は、放送されるチャンネルは把握していないらしい。
「お姉ちゃん、トランプはおわりね」
「えーっ!」
良太は妹からリモコンを受け取ってテレビをつけると、それまで遊んでいたト
ランプを片づけ始める。マリア一人が、まだトランプゲームの終了を納得出来ず
に不満そうな顔をしている。
「せっかくルールを覚えたのにぃ〜」
マリアはつい二時間ほど前までは、ルールどころかトランプ自体を知らなかっ
た。それが良太たちの手ほどきを受けると、たちまちこの四人の中でのチャンピ
オンへと成長を遂げてしまった。こと神経衰弱のような記憶系のゲームには、圧
倒的な強さを見せた。駿は子ども相手ということで、かなり手加減をしていたが、
マリアは本気でゲームをする。本当に精神的に、子どもと変わらないのかも知れ
ない。駿が抜けた後、三種類のゲームを経て、つい先ほどババ抜きを覚えたばか
りだった。
「『フラッシュ・レディ』がはじまるの。おねえちゃんも、いっしょにみよう」
そう言って、美璃佳がマリアの隣に、ちょこんと座る。
「ふらっしゅれでぃ?」
「アニメよ、しらないの? おもしろいんだよね、りょうたおにいちゃん」
美璃佳の問いかけに、良太は「うん」と短く応えただけだった。確か裏番組で
は、男の子に人気のアニメが放映されていた。もしかすると、良太はそちらの方
が興味あるのかも知れない。
そう言えば、いつの間にか美璃佳は「りょうたおにいちゃん」「しゅんおにい
ちゃん」と、区別して呼ぶようになっている。以前はどちらも、「おにいちゃん」
で統一されていたのだが。
長いCMの後、軽快なリズムの主題歌が流れ出す。美璃佳がそれに合わせ、や
や舌足らずに歌い始めた。遅れてマリアも歌い出すが、こちらは歌詞を知らない
のだろう。画面下に映る歌詞を読んでいるため、音楽の方が先に進んでいる。
駿自身はいまのアニメに興味はないが、小説の参考になるかも知れないと、と
きたま観ることがある。
もしいつも美璃佳が主題歌に合わせて歌っているのなら、薄い壁一枚隔てただ
けのこの部屋にも聞こえていたはずた。しかし駿が美璃佳の歌声を聞いたのは、
今日が初めてだった。やはり兄妹二人きりで観るテレビと、大勢で観るテレビと
では楽しさが違うのだろうか。そんなことを思うと、また駿の考えが鈍ってしま
う。
「すごい、すごい、これ! ねえ、駿、絵が動いてる」
アニメを観るのも初めてなのか。マリアは手を叩いて喜んでいる。一方美璃佳
は真剣な面持ちで、画面に見入っていた。
番組開始から20分。
中CMを挟んだ後、室内は重苦しい空気に包まれていた。
アニメの中のヒロインは、幼い頃に父を亡くし、母とも生き別れている。ある
日不思議な力を得て変身し、悪の組織と戦うと言う設定だった。
それが今週は、実は悪の組織に捕らわれていた母と、涙の再会を果たす。そん
な内容だったのだ。互いに互いを抱擁し合い、滝のような涙を流しながら喜ぶ母
娘。
普通の家庭の子どもたちなら、テレビのヒロインと一緒に涙するシーンだろう。
だが、この部屋でテレビを観ている子どもたちは違った。
まず最初に反応を示したのは良太だった。もともとアニメに興味なさそうにし
ていた良太だが、対面シーンになるとテレビを離れ、一度片づけたトランプをま
たケースから取り出す。トランプを切ったり、並べてめくって見たり、一人で意
味のない遊びを始めた。
美璃佳はと言うと、アニメの前半部分はそれこそ真剣に観ていた。まるで置物
にでもなってしまったかのように、身じろぎ一つせずにアニメの世界に入り込ん
でいた。
ところが後半になり、ヒロインと母との再会を予感させる空気が流れ出すと、
美璃佳はテレビへの集中力を失い出した。それまで画面に釘付けになっていた目
が、盛んに逸らされるようになる。そしていよいよ再会シーンへと突入すると、
「つまんない」と不機嫌そうに言って、やはりテレビの前から離れてしまった。
それからしばらく、美璃佳は良太の並べたトランプの一部を自分の元に集めて
はめくり、ルール不明のゲームを一人で遊んでいた。しかしテレビの中のヒロイ
ンが、母親への想いを大声で吐露し始めると、集めた手札を投げ出し耳を塞いで
しまった。
そんな子どもたちの姿を、駿は哀れに思う。
演出の善し悪しはともかく、観る者の涙を誘う目的のアニメ。
制作者に踊らされることになろうと、ここで感動して泣く子どもの方が素直だ
と思う。
そうであってこそ、子どもの正しい姿だと思う。
けれど良太は泣かない。
けれど美璃佳は泣かない。
いや、よく見ればその目は涙で光っている。
しかしそれは、感動の涙ではない。
母親との再会に喜ぶ、アニメのヒロインに嫉妬しているのかも知れない。
良太や美璃佳は、母親と死別した訳でも、生き別れになっている訳ではない。
人一倍元気な母親がちゃんといる。だがその母親は駿の知る限り、子どもたちを
愛しているような様子は全く見られない。美璃佳が病気で危険な状態であったと
き、彼女は外で遊んでいた。後にそのことを知っても、何の関心も示さなかった。
もし二人きりでテレビを観ていたのなら、すぐにでも消してしまうか、チャン
ネルを変えていたに違いない。けれど良太も美璃佳もそうしなかったのは、もう
一人熱心にテレビに見入っている人物、マリアがいたからだろう。
事情を知らないマリアは、子どもたちがテレビから離れていったことにも気が
つかない。それほどアニメに夢中になっていた。
けれどマリアは、物語に感動しているようではなかった。テレビの中で、絵が
動いていることが面白くてたまらない、と言った様子だ。まるで、生まれて初め
てアニメを観たかのように。
そんなマリアに罪はないが、子どもたちの気持ちを思えば放っておく訳にもい
かない。駿はリモコンを手にすると、テレビのスイッチを消した。
「ああん、観てるのにぃ」
マリアが抗議する。
「あ、ごめん。でも、ほら、もうこんな時間だろう? そろそろ晩御飯にしよう
よ。早く行かないと、お店も閉まっちゃうしさあ」
「おそとで、ごはんたべるの?」
無言になっていた美璃佳が、ようやく口を開いた。
「ああ、何にも用意してないから、ね」
本当はインスタントのラーメンで済ますつもりだったが、駿はそう応えた。先
のことを考えれば、少しでも出費は抑えたいところだが、仕方ない。それにマリ
アはともかく、良太や美璃佳は駿以上にインスタントには飽き飽きしているだろ
う。
「さあ、外は寒いから、と風邪を引かないようにちゃんと厚着をするんだよ」
そして駿は、美璃佳がコートを着るのを手伝ってやる。同じ素材で出来ていて
も、大人の物と比べて幼児用のコートは収縮性、柔軟性に乏しく、何かオモチャ
を扱っているような気分がする。
「さあ、出掛けようか」
美璃佳のボタンを掛けさせてやり、自分は古いビニールのジャケットを羽織っ
た駿は、外へ出ようとする。すると。
「あーん、ちょっと待ってよぉ」
と、マリアが情けない声で呼び止める。
見ると、駿の貸してやったダッフルコートを、何とも不思議な着こなしをして
いるマリアの姿があった。
コートのボタンを一つずつずらして、穴に通していたいたのだ。シャツならい
ざ知らず、コートのボタンをずらしてはめる人間など、駿は初めて見た。
「あーあ、それじゃあボタンと穴が合っていないよ」
美璃佳以上に手が掛かる。駿はマリアに、コートの正しい着方を教えなければ
ならなかった。
『本当に、この子は何者なんだろう?』
考えたところで、答えが出るはずもなかった。
マリアにとって、目にする全ての物が珍しい。
これまで幾つもの星に降り立ち、いろんなものを見てきた。
その中には、地球と同程度以上の文明を持った星もいくつかあった、はずだ。
しかし規則によってその記憶の大半が、マリアからは失われていた。さらに上
陸時の事故の影響なのか、マリア自身が所有することを許されていた記憶にも、
障害が起きていた。
いまのマリアはほとんど無垢に近い状態にあった。
事故で上陸地点を選べなかったため、いまマリアは惑星調査にはあまり適して
いるとは思えない環境にいる。
まず降り立った地域が、寒い時期………現地の言葉で冬と呼ばれる季節にあっ
たこと。これではマリアと同型の支配種族と、それらに飼われているわずかな種
類の生物しか観察することが出来ない。
またマリアが接触した支配種族、人間がこの星、あるいはこの地域に於いても
特に影響力のある存在ではない。彼らと共にいても、ママが欲しているような調
査記録は得られないだろう。
だが、マリアには何の焦りもない。
もともとマリア自身は、明確な目的意識を持って惑星に降り立っているのでは
ない。マリアにとっての上陸とは、眺めの変わらない狭い船から飛び出し、自由
に手足を伸ばすことだった。
残された記憶によると、いつもは惑星に上陸したマリアはママに誘導され、言
われるままに情報を集めるだけだった。
ところが今回、事故のせいでママとの連絡がつかない。不安はあるが、ママは
だいじょうぶだと言っていた。ママが言うのだから、絶対に間違いはない。だか
らマリアは心配しない。
ママとの連絡がつくのは、いつになるか分からない。
明日にでもマリアの頭の中に、ママの声が聞こえてくるかも知れない。
一月先になるかも知れない。一年先かも知れない。
十年掛かるかも知れない。
でも心配はいらない。ママがだいじょうぶと言ったから。
ママから連絡があるまでは、マリアは自分の判断で行動していればいい。マリ
アが見聞きしたこと、感じたことは後で全てママに伝わる。その時、マリアの得
た不要な知識はママが削除してくれる。その後の行動については、ママが指示し
てくれる。
ママからの指示がないいま、マリアは積極的に惑星の調査をする気はなかった。
いまマリアの行動を支配しているのは、その旺盛過ぎる好奇心。
しかしその好奇心が、自分の置かれている状況を把握するのに役立っていると、
マリアは気づいていない。
まずマリアが最初に興味を持ったのは、駿たちの生活環境。
文明のレベルの割には、劣悪な集合式の住居。もしかすると、駿は階級制度の
底辺に位置する身分なのだろうかとも思った。
けれど、どうもそうではないらしい。強制的に何かの労働に従事させられてい
る様子はない。行動に制限を受けているのでもない。
ただ駿が小さな革か何かで出来た、平たい入れ物の中身を気にする場面を見た。
中には何枚かの紙切れと、円形の金属片が入っていた。駿は何か品物を手に入
れるのに、それと交換をしているようだった。
どうやら、その紙切れや金属片の所有することによって、駿たちは生活を支え
ているらしい。つまり駿は、狭い部屋で生活をするための分量しか、それらのも
のを所有していないのだろう。
高いとは言えない生活水準だったが、マリアはここで暮らすことが嫌ではなか
った。もともとマリアが持ち合わせている、生活環境への適応性の高さもある。
そうでなければ、惑星調査の役目は果たせない。
しかしそれ以上に、駿に対して深い興味を感じていた。
長く宇宙船の中で一人きり………いや、いつもママがいてくれたが、自分と同
じ姿を持つ者と触れる機会のなかったマリアには、顔を見ながら話しの出来る存
在が嬉しかった。
しかも駿は、マリアと違う性を持っていた。マリアにとって性別とは、生物が
子孫を残すために作り出したシステムと言う認識しかない。マリア自身は女性で
あるが、異性と接触して子を成すことに関心はない。もとより、そんな思考は出
来ない。
ただ純粋に、自分と同じ形態の生物の、異性体への興味。それは、仕組みとし
ては単純だが、絵が動くという面白さを見せるテレビアニメに対する興味と、大
差なかった。
けれどそれは、この地の他の場所に行っても、いくらでも見られるものなのだ
ろう。特に駿と共にいる必要性はない。文化を完全に把握するには、時間がまだ
必要ではあるが、マリアの適応性なら、ここを出ていっても困りはしない。それ
なのにマリアがその気にならないは、単に駿が最初に接触した人物であったから、
と言うことなのか。駿と言う個体に、マリアを惹きつける何かがあるのだろうか。
マリア自身、その答えは見つからない。
#4283/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:25 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(13) 悠歩
★内容
今夜は風もなく、十二月としては暖かい方だった。
とは言っても、いつまでも外気に触れていることは、好ましくない。早々に店
を決め、食事を済ませたい。
「美璃佳ちゃんは、何か食べたいもの、あるかな」
駿は振り返り、マリアと手を繋いで歩いる美璃佳に訊ねてみた。
「なんでもいい………」
まだ元気のない美璃佳は、小さな声で答える。
「良太くんは?」
次に駿は、自分と手を繋いでいる良太にも訊いてみる。が、答えは美璃佳と同
じく、「なんでも、いい」だった。
「私は、ね。美味しいもの。ラーメン!」
手を挙げて、元気に答えたのは、何も訊いていないマリアだけだった。マリア
に希望を訊いても仕方ない。駿の部屋で食べたインスタントのラーメン以外、彼
女は食べ物の名前を知らなようなのだ。
いったい、どんな暮らしをしてきたのか。マリアから知っている食べ物の名前
を訊いてみると、今度は駿の知らないものばかりが、その口から発せられる。
「そうだなあ、何を食べよう」
結局、駿が決めるしかない。マリアは論外として、子どもたちは食べ物につい
て、積極的に希望を言うことがない。無理もない、子どもたちはほとんど毎日、
インスタント食品とスナック菓子だけしか、口にしたことがないのだから。外食
をすると言われても、どんな物が食べられるのかさえ、分からないのだ。
しかし駿も、あまり食べ物に拘る方ではない。一人で外食しても、ラーメンか
カレー。部屋で食べるインスタントのものと、メニューは変わりない。
とりあえず美璃佳のこともあり、何か栄養のあるもの。とにかくご飯の食べら
れる店がいいだろう。だがアパートの近くでは、銭湯のそばにラーメン屋がある
程度。あとは駅の反対側まで行くしかない。
駿は駅への近道をするため、路地を進んだ。そして駅前商店街の手前で、『居
酒屋満天』と暖簾を出した、小さな飲み屋を見つけた。看板には『お食事』の文
字も書かれている。
子どもたちの足に合わせて、駅の向こう側まで行って戻ってくるのも時間が掛
かる。ここで食事が出来るのなら、その方が楽だ。
「ちょっと待ってね」
子どもたちに声を掛け、駿は店の中を覗いてみた。
表から見ても小さな店だったが、やはり中も広くはない。四人掛けのテーブル
が三組にカウンター席が三つ。満席だった。
「やっぱり、一杯か」
「あ、お客さん。ちっょと待って下さい」
諦めて店を出ようとした駿に、太った女将の声が掛かる。
見ると一番奥のテーブル席の客が、立ち上がるところだった。
「こちらのお客さんがお帰りですから、座れますよ」
「あの、お酒を呑みたいんじゃなくて、食事をしたいんですけど、構いませんか
?」
「ええ、ええ、うちみたいな小さな店じゃ、ビール一杯、焼き鳥一本のお客さん
でも大歓迎ですよ」
愛想のいい笑顔で応え、空いたばかりのテーブルを片づけた。駿は子どもたち
を呼んで、その席に着いた。
さすがに店の中は暖房が効いていて、暑いくらいだった。駿は子どもたち、さ
らにはマリアのコートまで脱がしてやらなければならなかった。
「えー、なんになさいます?」
駿たちの前にお茶を置き、女将が注文を待っている。
店の壁を見ると、アルコール類やおつまみの名前と並んで、幾つかの定食の書
かれた札も掛けられている。
「えーと、ぼくは生姜焼き定食。良太くんたちは何がいいかな?」
「私も駿といっしょ!」
必要以上の大声でマリアが言った。
「なんてかいてあるか、よめなあい」
答えたのは美璃佳だった。子どもたちはそれぞれ四人掛けの奥、壁側に向かい
合って座っていた。そのため壁の札を見るのに、ほぼ真上にまで顔を上げている
ほとんど漢字で書かれてあるお品書きを、まだ幼稚園にも行っていない美璃佳
が読めないのは仕方ない。駿は端から、ゆっくりと読み上げてやるが、それでも
美璃佳には、それがどんな食べ物か想像つかないらしい。
「あ、ぼくハンバーグがいい」
じっと壁のお品書きを見ていた良太が叫んだ。たぶん美璃佳と同じで、他の字
は読めなかったのだろう。唯一カタカナで書かれた定食を選んだ。
「みりかも、はんばあぐがいい」
妹も兄と同じ物を選んだ。それが食べたいと言うより、それ以外の食べ物のこ
とが分からないからと言った方がいいだろう。しかし子どもに食べさせるには、
無難な定食だ。
「私も!」
また大きな声で、しかも今度は手を挙げてマリアが言った。
「あら、そちらのお嬢さんは生姜焼きじゃなかったんですか?」
「マリア、良太といっしょ!」
マリアも子どもたちと同じく、字が読めないらしが、その上分かる食べ物さえ
ないらしい。
「すみません、生姜焼き一つとハンバーグを三つで」
「はい、分かりました」
女将はにっこりと笑い、巨体を揺するようにして狭い調理場へ入って行った。
料理を待つ間に、駿は改めて店内を見回して見る。『居酒屋』の看板が出ては
いたが、駿たちから一つ跳んだ四人掛けの席では、どこかの作業員風の客が食事
をとっている。カウンターでも一人が、みそ汁を啜っていた。まだ宵の口前だか
らなのか、酒目当ての客と、食事目当ての客とが半々。
先ほどの女将の台詞が示すように、商店街から外れた店では酒だけでは商売が
成り立たないのかも知れない。
かちゃかちゃと、何かがぶつかり合う音と、はしゃぎ声がして駿は自分のテー
ブルへと視線を戻した。
見ると美璃佳とマリアが、調味料の入った小瓶をぶつけ合い、遊んでいる。
「だめだよ、オモチャにしちゃ」
駿より早く、良太が二人を注意した。けれど二人とも、止めようとしない。い
や、どちらかと言うと、マリアの方が喜んでやっているようだった。
背の低い美璃佳は、テーブルの中央までは届かない。手にした小瓶で、自分の
手前をとんとんと叩いている。
そこにマリアの持った小瓶が、軽くぶつけられている。美璃佳と遊んでやって
いるのではなく、マリアの方がそれを楽しんでいるように見える。
駿も二人を注意しようとしたが、止めた。
マリアが一緒になって遊んでいるのは、些か問題だが特に乱暴に扱っているの
でもない。本当は中身が飛び出すほど振り回すようになる前に、叱るのが正しい
のだろう。しかしいままで、そしてこの先の美璃佳たちのことを思うと、哀れで
何も言えなくなってしまった。
しばらくして、調理場の奥で女将の声がした。
「アイちゃん、ごめん。奥のテーブルの食事のお客さん、お願い」
「はーい」
どこかで若い女性が応える。巨体の女将ばかりが目立って気がつかなかったが、
他にも従業員がいたようだ。調理場の向こうに、ボブカットの華奢な後ろ姿が見
える。女将の娘なのだろうか。
「お待たせしました。ハンバーグ定食のお客さま」
萌葱色のエプロンをした娘が、両手にお盆を持ち、駿たちのテーブルへやって
きた。
「あ、この三人です」
駿は掌でマリアと子どもたちを示す。
「はい、お嬢ちゃん、お待ちどうさま。あっ………」
娘が何かに驚いたような声を上げる。
「あれぇ、まなみおねえちゃん!」
美璃佳が、食事を運んできた娘を指さして言った。その指につられるように、
駿も娘の顔を見た。ひどく戸惑ったように、駿たちを見下ろしている娘には覚え
がある。
「愛美ちゃん」
間違いない。その娘は駿たちと同じアパートに住む、西崎愛美だった。
「どうして、愛美ちゃんが………あ、もしかしてアルバイト?」
愛美は駿の質問には答えず、子どもたちの前に定食のお盆を置くと、逃げるよ
うにして調理場の中へ消えてしまった。
「まなみおねえちゃん、なんか、へん」
「ああん、まだマリアのご飯がなあい」
「はい、お嬢さんの分はこちら」
本気で泣きそうなマリアの前に、ハンバーグ定食を置いたのは女将だった。
「わあい、頂きます」
現金にもマリアは、すぐに笑顔へと変わる。そして子どもたちを真似て、箸を
使ってハンバーグを食べ始める。が、どうにか箸を上手く使っているのは良太だ
け。マリアと美璃佳は突き刺すようにして、食べている。
「はい、生姜焼きはお兄さんね」
駿の前にもお盆が置かれ、これで注文したもの全てが揃った。
「ねえ、お兄さんたち、アイちゃんの知り合い?」
声を潜めた女将が、駿の耳元で言った。
「アイちゃんて、愛美ちゃんのことですよね。ぼくら、同じアパートの住人です」
「ええ、うちではアイちゃんって呼んでますけどね。ちょっと待って下さい」
女将は調理場に行き、またすぐに駿たちのテーブルに戻ってきた。そしてそれ
ぞれの前に、肉じゃがの小鉢を置く。
「あれ? 肉じゃがなんて、頼んでないけど」
「口止め料ですよ」
おかめにも似た、ふくよかな顔がウインクをして見せる。お世辞にも、可愛い
とは言い難いものだった。
「アイ………愛美ちゃんってまだ中学生でしょ。それがこんな所でアルバイトし
てってバレたら、いろいろと面倒じゃない。それで、立て前は、親戚の子が店を
手伝ってくれてる、ってことになってるんですよ」
身振りを加えて、女将は話し出す。潜めてはいるものの、女将の地声が高いた
め、あまりその効果があるようには思えない。幸い店の他の客の喧騒で、周囲に
は聞こえてはいないようだったが。
「ほら、お兄さんも愛美ちゃんと同じアパートに住んでいるなら、あの子の父親
のことは、知ってるでしょ?」
「え、ええ、まあなんとなく」
「あの子、家計を支えるためにアルバイトを探していたの。でもねぇ、まだ中学
生ってことだと、新聞配達とかくらいしかなくて、困っていたようなんですよ。
私ね、昔、愛美ちゃんの近所に住んでいたんですよ。それで愛美ちゃんのお母さ
んと、親しくしてましてねぇ。そんなこともあって、愛美ちゃんの方から頼って
来たんですよ。そりゃあ、私だって労働法ですか? 面倒に巻き込まれたくはな
いけど、放ってもおけないじゃないですか」
こういう店をやっているだけあって、根っからのお喋り好きなのだろう。女将
は別に訊いてもいないことまで、話してくれる。
「ですからね、お兄さんたちも愛美ちゃんがここで働いてることは、内緒にして
欲しいんですよ。ほら、もし学校にでも知れたりしたら、さすがに私だって雇っ
ておけないでしょ。そうしたら、中学生の愛美ちゃんを他で使ってくれるところ
なんて、そうそうないじゃないですか。あのろくでなしの父親を抱えて、あの子
がどんなに困るか………」
「女将ー、生ビール二つ、おかわり頂戴」
別のテーブルの客の注文によって、駿はようやく女将のお喋りから解放された。
『どこも大変なんだな』
愛美の境遇を気の毒とは思うが、駿がどうにかしてやれる問題ではない。それ
に、子どもたちやマリアを抱えてしまった駿には、これ以上の面倒事に関わるゆ
とりなどありはしない。
子どもたちやマリアのことは、直接駿の身近で起きてしまった。それを無視出
来るほど冷淡ではないが、不幸な人々を全て救ってやりたいと願うほどの慈善家
でもない。
気がつくと、女将の話しに付き合わされた駿は、他の三人に比べて食事が遅れ
てしまっていた。一番遅い美璃佳でさえ、もう三分の一ほどを食べている。
『ま、ちょうどいいハンディかな』
同時に食べ始めていたら、駿は子どもたちを待たなければならなかっただろう。
いまから食べ始めれば、ちょうどいい頃合に終わりそうだ。
そう思いながら、駿は冷めてしまったみそ汁を啜る。
「ハンバーグって、美味しいね。駿も食べてみる?」
駿の目の前に、二本の箸で突き刺されたハンバーグの欠片が現れる。その先に、
口の周りをソースで汚したマリアの笑顔。
「ありがとう。でも、いいよ。ほら、ぼくは自分の分があるから」
「そお」
駿が断ると、マリアはハンバーグをそのまま自分の口へと運ぶ。
「いいなあ、駿たちの世界は。毎日、こんなに美味しいものが食べられて」
嬉しそうにマリアは言った。ハンバーグぐらいで、これほど喜んでもらえれば、
安いものだ。
しかしマリアは、これまでよほど貧しい暮らしをしていたか、とんでもない贅
沢をしていたかの、どちらかではないかだろうか。駿は城を抜け出し、庶民の味
に感動する、お姫さまの話を思い出した。
それにしてもマリアは、いまの女将の話しを聞いていたのだろうか。全く関心
を寄せる素振りすら見られない。
食べることに夢中で、話しの内容を聞いていなかったのか。
元より他人の事情には、関心がないのか。
『俺が気にすることじゃないか』
思わず苦笑が漏れる。
#4284/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:26 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(14) 悠歩
★内容
自分だっていま聞いた、愛美の話は忘れようとしているではないか。気に懸け
たところで、何かしてやれる訳でもないし、してやるつもりもない。下手に同情
するだけなら、初めから関心を持たない方が、よほどいい。
結局駿は子どもたち、特に美璃佳が食べ終わるのを待つことになった。食事を
終えて、汚れた口の周りを、袖で拭おうとする美璃佳を駿より先に、良太が止め
た。
「だめだよ、そんなのでふいちゃ」
テーブルにはナプキンが備えられていなかったので、良太はおしぼりで妹の口
を、拭いてやっている。
「ねえ、駿。マリアにもやって」
「えっ」
それを見ていたマリアが、駿に向かって顔を突き出して来た。
「マ、マリアは子どもじゃないんだから、自分で出来るだろう」
「や、駿にしてもらうの!」
駿が断ると、マリアはむっとした表情を見せ、ますます顔を近づけて来た。
「しょうがないなあ………」
周りの客がこちらを見ていないのを確認して、駿はマリアの口を拭いてやる。
とても恥ずかしかったが、嫌な気分でもない。
間近に見るマリアの唇が、可愛らしいと思った。
「マリアおねえちゃん、みりかといっしょだ」
それを見ていた美璃佳に、ようやく笑顔が戻った。
「おにいちゃん」
「ん?」
支払いを済ませて店を出た駿を、外で待っていたのは良太だった。マリアと美
璃佳はもう、アパートに向かって歩き出している。
「どうした、良太うくん。ほら、あの二人だけで先に行かせたら、迷子になっち
ゃうよ」
駿はそう言って、良太を促して歩き出した。
「おにいちゃん、これ」
良太は、ジャンパーのポケットに手を入れて、何かを取り出した。そして、そ
れを駿へ差し出す。
「なんだい? これは」
良太が手にしていたのは、一万円札だった。母親が美璃佳に渡したお金を、兄
の良太が持っていたのだ。
「ぼくとみりかのぶん」
良太はそれで、二人の食事代を払おうと言うことらしい。
「いらないよ、良太くん」
駿はそっと、良太の手を押し戻す。
「でも………」
「大人が子どもから、お金を受け取るのは、カッコ悪いことなんだよ。子どもは、
大人の顔を立てなくちゃ、ね」
そして駿は、良太のポケットに一万円札をしまわせた。
「これは何かあったときのために、大事に取っておかないと。なくしちゃだめだ
よ」
「うん、ありがとう、おにいちゃん」
「あ、ほらほら。みりかちゃんたち、あんなに先に行っちゃったよ。さあ、ぼく
らも急ごう」
駿と良太は、小走りで美璃佳たちの後を追った。
「と、富子?」
眠っていたはずのおじいさんが、突然身を起こして言った。
「どうしたんです、夢でも見たんですか」
繕い物をしていたおばあさんは、その手を休めて訊ねる。
「富子はどうした?」
おじいさんさんはそう言いながら、忙しなく辺りを見回す。
「いませんよ、富子は」
「どこに行った………こんな時間に」
「さあ、光太郎さんのところじゃないですか」
おばあさんは、休めていた手を再び動かし、繕い物を始める。
「ああ、そうか。光太郎のところか………」
安心したように頷き、おじいさんは横になる。
「なあ」
「はい、なんですか」
「富子は………幸せになれるかなあ」
「ええ、幸せになりますよ。富子は」
「………」
「おじいさん?」
もう寝入ってしまったようだ。おじいさんは寝息を立てている。
外で風が吹いた。かたかたと音を立てて、窓ガラスが揺れた。
おじいさんが眠ったのを確認して、おばあさんはタンスの引き出しから、線香
を出した。
マッチで着けた火を、線香を振って消すと、それをタンスの横の小さな仏壇へ
と供える。仏壇の引き出しを開けると、そこには古い一枚の写真が入っていた。
おばあさんは写真を仏壇の中央に立てると、鐘を鳴らし、そっと手を合わせる。
古い白黒写真の中から、変わることのない笑顔を湛えた若い女性が、そんなお
ばあさんを見つめている。
「富子、もうすぐ今年も終わりですね。私もお父さんも、また新しい年を、生き
て迎えることになりそうです」
おばあさんは、決して応えの返ることがない写真に、語り始めた。
子どもたちが寝入ったのを確認して、駿はジャンパーを羽織り、静かに部屋を
出た。
冷たい空気が、半分眠り掛けていた頭を目覚めさせる。
階段を中ほどまで降り、そこに腰掛ける。ポケットから煙草を取り出し、火を
着けた。ふうっと吐き出す煙が、外灯の中朧気に浮かび、闇に消えていく。
いくら吐いても、駿の口から白い煙が途絶えることはない。どこまでが煙草の
煙で、どこからが息なのか、区別がつかない。
はっきりと嫌がられた訳ではないが、どうも子どもと同じ部屋にいると、喫煙
を控えてしまう。これを機に、止めてしまってもいいのだが、やはり口さびしい。
久々に吸う煙草は、旨かった。
この煙草は、単に禁煙生活が苦しくなったためではない。考えをまとめるため
のものだった。
夜中に部屋を出て、煙草を吸う。
何か考え事をするときの、駿の習慣だった。
小説を書いているときも、案に詰まったときはいつも、こうしていた。
「やっぱり、そうするしかない」
独りごちる。
考えていたのは、子どもたちのこと。いま状態を、いつまでも続けては行けな
い。子どもたちのためにも、駿のためにも。
話し合いをしようにも、あれ以来子どもたちの母親は、帰ってこない。勤め先
も分からない。
もう駿一人が、どうにかしてやれるような事態ではない。誰か専門家に頼るし
かないと、駿は判断した。
「こんなところにいた」
いつの間にか、後ろにマリアが立っていた。
駿は驚いた。そこにマリアがいたことにではない。いつも、子どものような無
邪気な笑顔をしているマリアが、これまでと違う、優しげな笑顔を見せているこ
とに。
「なにをしてたの?」
静かな口調で言いながら、マリアも駿の横へ座ろうとする。
「あ、待って。お尻、汚れるよ」
「だって、駿も座ってる」
構わず腰を下ろそうとするマリア。
「だめだよ………ほら」
駿はポケットから、ハンカチを取り出した。確か四日ほど前から入ったままの
ものだが、一度も使った覚えはない。駿はそのハンカチを、階段に敷いてやる。
「ほら、これでだいじょうぶ」
「ありがとう」
微笑むマリアに、つい数十分前までの天真爛漫さはない。見た目相応の、いや、
それ以上の大人の女性の落ち着き。
女性とは、かくも短時間のうちにその表情も変えられるのか。しかし先月まで
付き合っていた彼女も、ここまで極端な変化を見せたことはない。
「なにをしていたの?」
マリアは先ほどと同じ質問を繰り返した。わずかに小首を傾げたため、長く柔
らかい髪が駿の頬をくすぐった。
「ちょっと、考えごとを」
そう答え、駿は吸っていた煙草の火を、足下に擦りつけて消した。そして吸い
がらを、下へ投げかけて、手を止める。マリアの前では、どんな些細な不道徳も
犯してはいけない。そんな気がしたのだ。
「考えごと」
駿の言葉を繰り返しながら、マリアが顔を覗き込んで来た。
心の中まで見透かすような、無垢な瞳がそこにある。
駿の鼓動は、裸のマリアを背負ったとき以上に高まった。
「分かった! 愛美ちゃんって子のこと、考えてたんだ」
さも嬉しそうに破顔しながら、マリアは笑う。
「えっ、どうしてそう思うの」
満天にいたときには、全く無関心に見えたマリアが、愛美の名を口にしたのが
意外に思えた。
「だって駿は、やさしいもの」
「優しい? 俺が?」
「うん」
マリアは夜空を見上げた。
自分の顔に向けられていた視線が、次に見つめるものを駿も追う。名も知らぬ
星々が瞬いていた。
「駿は、マリアの面倒を見てくれてるもん」
「それは………優しいって言うより、成り行きだよ。夜道に裸でいる女の子を、
そのまま放って置けなかっただけさ」
言いながら、駿はマリアの形の良い胸を思いだし、赤面してしまう。
「でも、そのあとも、駿はマリアのこと、あんまり訊かないし。お洋服もくれた
し、ご飯も食べさせてくれてるよ」
「それは………、洋服は俺じゃなくて、北原のおばあさんがくれたんだよ」
だけど、と駿は思う。
確かに突然裸で現れた少女を、警察にも知らせず自分の部屋に置く気になった
のは不思議だ。
ほとんど詮索しようとしないのも不思議だ。
それは訊いてはならないことと、マリアを気遣っているから?
いや、俺はそんなに思いやりのある人間ではない。
子どもたちのことで、手いっぱいだったから?
いや、それならなおのこと、素性の知れぬマリアを訝しく思うはずだ。
裸の、しかも可愛らしい少女に、何か良からぬ期待を持ったのだろうか。この
考えが、一番肯定したくはなかったが、納得出来る。
付き合っていた彼女と別れ、面倒事………子どもたちを背負い込み、欲求不満
やストレスが溜まっていたのかも知れない。
そう考えると、駿はマリアに「優しい」と言われたことが、とても恥ずかしく
思えて来た。
「それにね」
星を見上げるマリアは、駿が赤面しているのには気づかない。
「良太くんや、美璃佳ちゃんたちは、駿の子どもじゃないよね?」
「あ、ああ」
「なのに、駿は可愛がってるよ。だから駿は、やさしいの」
「………」
駿は答えることが出来ない。
自分は、非情な人間ではないと思う。病気に苦しむ美璃佳を、放っては置けな
かったから。ゴミ溜めのような部屋で、二人きりで過ごす子どもたちを無視出来
なかったから。
それを指して「優しい」と言うなら、確かに駿は優しい。
けれど中途半端な優しさなのではないだろうか。
この先、駿にはいつまでも子どもたちの面倒を見続ける経済力も、精神的なゆ
とりもない。遅かれ早かれ、子どもたちを他の者へと任せることになるだろう。
子どもたちのためにも、そして駿自身のためにも。
せめてちゃんとした形で、ちゃんとした人へ子どもたちを任せるようにしよう。
駿は思う。
優しさでなく、子どもたちと関わってしまった、自分の責任として。
「だからきっと、愛美ちゃんも助けてあげるよね」
マリアが言った。
「それは無理だよ。良太くんたちと、愛美ちゃんとでは、全然事情が違う。それ
こそ、俺が何かしたって、余計なお世話になる。それに………やっぱり俺は、マ
リアが言うほど、優しくはないよ」
「ううん、マリアには分かるの。駿はやさしいって」
星が一つ、夜空を駆け抜けて行く。
マリアもそれを見たのだろうか。駿はすぐ隣にいる、マリアの横顔へと視線を
向けた。
「ねえ、マリア。君はどこから来たの」
いままで訊きそびれていたことを、訊いてみる。たぶんマリアは、答えないだ
ろうと思いながら。
#4285/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:27 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(15) 悠歩
★内容
すうっと、マリアの右手が上がった。
指先が瞬く星々の真ん中を、指し示す。
「ははっ、まさかマリアは、宙(そら)から来たって言うのかな?」
「うん、たぶん」
「たぶん?」
はっきりしない、マリアの答え。
駿にはとても信じることは出来なかったが、疑う気持ちにもなれない。
マリアが言うなのら、きっと本当なのだろう。少なくとも、マリアの中では。
それでいいと、駿は思った。
「いつまでも、こんな所にいたら、風邪をひいてしまう。もう部屋に入って寝よ
う」
立ち上がり、駿はマリアを促した。
「うん、駿とマリア、一緒のお布団で寝よ」
「だ、だめだよそんな」
「どうして?」
「どうしてって………」
決して駿をからかっているようではない。マリアという子は、本当に純真なの
だと思う。
「大人はね、子どもと一緒に寝るのが、日本の決まりなんだよ。何かあったとき、
守ってあげられるようにね」
「そうなの? なら、仕方ないね」
マリアは駿の話を、素直に信じてしまう。駿は小さな心苦しさを感じながら、
マリアと共に、部屋へ戻った。
眠る。
疲れた身体を癒すため。
不必要なエネルギーの消費を抑えるため。
それだけの行為が、いまはなぜか楽しい。
隣には美璃佳、その向こうには良太。そして一番遠くに駿が寝ている。
狭い部屋の中で、二組の布団に四人が寝ている。
宇宙船の中の、カプセルで寝るのよりも、ずっと窮屈な状態。寝返りを打つ美
璃佳に驚かされることも、一晩に一度や二度ではない。
なのにマリアは楽しかった。
寝息を聞きながら、人の気配を感じながら眠ることに、安らぎを覚えていた。
宇宙船の中でも、ママはいつだってマリアに語りかけてくれていた。いつだっ
て守っていてくれた。マリアは安らいでいた。
でも、いまの気持ちとは何か違う。
何がどう違うのか。マリアにはよく分からない。
マリアはママが大好きだ。数え切れない時間を一緒に過ごし、いつもマリアを
見てくれていたママ。
駿たちとは、まだわずかな時間を一緒に過ごしただけ。ママがトラブルを起こ
していなければ、単に調査の対象でしかない、この星の住人。
けれどマリアは、駿や子どもたちといる時間が楽しかった。
駿たちが好きだった。
マリアは身体を動かし、駿の方を見る。
駿もマリアの方を向いて、眠っていた。
駿の顔を見ていると、マリアはとても気持ちが良かった。駿のことが、好きだ
と感じた。
ママが好き。駿が好き。
どちらも大好き。
でも一緒じゃない。
ママを好きだと思う気持ちと、駿を好きだと思う気持ちは、どこかか違う。
どこが違うのだろう。考えてみても分からない。
美璃佳が寝返りを打って、マリアの胸に飛び込んでくる形になった。
「ママあ……」
小さな口から、漏れ出た寝言。
「美璃佳ちゃんも、ママが好きなのかな」
ずれてしまった布団を直してやりながら、マリアは思う。
美璃佳のママは、どんな人なんだろう。
美璃佳の言うママと、マリアのママとでは、意味が違うことは知っていた。美
璃佳や良太、他の生き物たち全てにとって、ママは自分を生んで育ててくれた存
在。
マリアのママは、そうではない。ずっとマリアを守ってくれてはいたけれど、
生んでくれた人ではない。でも、マリアはママ以外のママは知らない。
ママだけではない。マリアの記憶には生まれた星も、育った場所も残ってはい
ない。あるのは、ママと過ごした時間だけ。
だからマリアにとって、ママは唯一の存在。ママだけがマリアの頼ることの出
来る存在。
「あれ?」
鈍い痛みを感じて、マリアは胸元を見た。美璃佳の小さな掌が、マリアの胸を
掴んでいた。
「痛いよ、美璃佳ちゃん」
マリアはそっと、美璃佳の拳をほどく。すると今度は、マリアの指を握ってき
た。マリアはそれを解くことはせず、美璃佳の顔を見つめる。閉じられた瞼の隙
間から、涙がこぼれている。
マリアは空いている方の手の指で、涙を掬い、舐めてみた。
しょっぱい。
「不思議」
呟く。
どうして美璃佳は、目から水を出しているのだろう。涙の役割は、目の洗浄・
保護。眠っている美璃佳には、意味がない。
必要な知識以外、記憶をママに管理されいるマリアには、眠りながら涙を流す
美璃佳の感情を理解することが出来ない。
けれどマリアには、色が見えた。
見えた、と言うのは適切ではない。感じた、と言った方がいいかも知れない。
寒い色。悲しい色。寂しい色。
美璃佳から染み出すのは、そんな色ばかり。
そこに外からほんの少し、暖かい色が入っていく。
暖かい色は駿からもらった色。まだ少ない外から来た暖かい色は、マーブル模
様を描き、たくさんの寒い色に消えてしまう。でもそのうち、駿の色が寒い色を
包み込んでしまうと、マリアは信じていた。
寒い色の理由は分からない。でも駿と美璃佳たちが、同じ部屋で住むようにな
ったことに、関係あるのだろう。駿と美璃佳たちのママが、つがいでないことは、
マリアも気づいていた。
そういえば、あの愛美という子も、寒い色を持っていた。でも愛美にも、少し
暖かい色が入っていた。駿のものとは違う。
もし愛美にも駿の色が混じれば、ずっと早く暖かい色に変われるだろうと、マ
リアは思った。
ただ気になるのは、その駿自身を包んでいるのは、暖かい色ではないと言うこ
とだった。
−−マリア、マリア、聞こえたら返事をなさい。
呼びかけて、返事を待つ。
しかしいくら待ってみても、マリアからの返事はない。
もう一度、出力を上げて呼びかけようとして、ママは止めた。
これ以上は、この星の知的生命体に察知されてしまう恐れがある。
『困ったことになりそうだわ』
ママ、宇宙船を管理するコンピュータは焦っていた。
六時間程前から所在は分からないが、わずかにマリアの思考波を捉えることに
成功していた。マリアの無事を確認できたのはいいのだが、その思考内容に問題
があった。
接触した生物に対し、不要な感情を抱きつつある。
もともとマリアは好奇心が旺盛で、感情の変化も激しい。いつもなら、そのマ
リアの性格が、より多くの情報を集めるのに役立っていた。しかしそれはママの
管理下にあり、常にその感情や行動を調整出来る状態にあっての話だ。
いまは違う。
宇宙船に生じたトラブルのために、マリアはママの管理から離れて、地上に降
り立った。この数時間、何の干渉もなく持ち前の性格を発揮し、感情のまま行動
をしていた。それもママにとっては、好ましくない方向に。
まだ微弱な思考が感じられただけだったが、ママにもそれがはっきりと分かっ
た。
しかし現状では、ママはマリアに対して何も手を打つことが出来ない。それど
ころか、捉えたマリアの思考も、度々見失っていた。
機能の回復までは、まだ相当な時間を要す。
さらに数十回にも及ぶ計算の結果、もう一つの危惧が、ほぼ間違いないことが
断定された。もしそれが間違いである可能性が残されているとしたら、ママその
ものが自己修復出来ないほどの致命的の異常をきたしている場合のみだった。
『でも、その可能性はないわ』
あらゆる方法を駆使した結果を、反芻する。
計算ミスである可能性がない以上、早急に今後のことを考える必要があった。
しかし、ママにはこういったケースに対する、対処方法はプログラムされていな
い。
「マリア、あれ、食べてみたい」
マリアの指さす先にあったのは、ソフトクリームを売るスタンドだった。
「ねえ、マリア。あれが何だか分かってる?」
「うん、昨日も食べたもん。駿は覚えてないの? ソフトクリームでしょ」
「いや………分かってるんならいいけど」
風がないとは言え、暖かい訳でもない。十二月もそろそろ、半ばを過ぎようか
としている。駿にはとても、ソフトクリームを食べようなどという気持ちは起き
ない。
「おーい、良太くん、美璃佳ちゃん! ソフトクリーム食べるかい?」
「たべるぅ」
駿が声を掛けると、ゾウを型どった車に乗った良太と美璃佳が、元気に答えた。
「子どもは風の子」なんて言葉は、もう昔の話だと思っていた。ところが、マリ
アを含めたこの子どもたちには、いまでもこの言葉が充分に当てはまるらしい。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
少々心許なくなった財布の中身を、頭の中で計算すると、駿はベンチにマリア
を残してスタンドに向かった。
ソフトクリームを手に戻って来たときには、良太たちもベンチに座っていた。
「あれぇ、しゅんおにいちゃんのぶん、ないよぉ」
三人にそれぞれソフトクリームを渡し終えたとき、美璃佳がなにか大事でも起
きたように叫んだ。
あるはずはない。初めから、駿の分など買っていないのだから。
既にソフトクリームを舐め始めていた、マリアの動きが止まる。良太と美璃佳
は二人とも、自分の手にしたソフトクリームをじっと見つめている。
「これ、しゅんおいちゃんに、あげる」
先に動き掛けたのは良太だったが、大きな声を出したのは美璃佳だった。美璃
佳の手の中のソフトクリームが、駿の顔についてしまいそうなほど、近づけられ
る。
「いいよ、お兄ちゃんには、ぼくのをあげる」
その隣に、妹に後れをとった良太のソフトクリームも並べられた。
「いや、俺は欲しくないから買わなかったんだ。二人とも、安心して食べてよ」
半分、照れの含まれた苦笑を漏らしながら、駿は二人の子どもたちに言った。
「ほんとに、いらないの?」
上目遣いの美璃佳が、小首を傾げる。美璃佳は、その感情を的確に伝えようと
してか、それともそれが小さな子どもの自然な仕種なのか。首を傾けた方向に、
そのまま倒れ込んでしまうのではないかと思われるほど、大袈裟な動作を見せる。
「本当にいらないから、安心して食べてよ」
笑って見せたが、駿の顔は少しひきつっていたかも知れない。ソフトクリーム
を食べたくない、と言うのは本当だ。それよりこの真冬に、食べる気になれる子
どもたちの感覚が不思議だった。しかし、駿の顔をひきつらせたのは、そんなこ
とではない。
それこそが子どもたちのため、とは思いながら、どこかに後ろめたさを感じる
考え。いや、どう考えてみてもそうするしかない。駿一人の力では、どうにもな
らないのだ。下手な同情は、かえってこの子たちのためにならない。何度も自分
に言い聞かせたが、心の奥に引っかかった気持ちは消えない。
今日こうしてデパートの屋上で子どもたちと遊んでいるのも、昨日映画を観た
のも、一昨日遊園地で遊んだのも、いままでそこに行ったことのない子どもたち
に、思い出を作ってやるため。でもそれは、駿の心に引っかかった気持ちをごま
かすためだったのかも知れない。
『駿は、やさしいの』
あの夜のマリアの言葉が、忘れられない。
自分は子どもたちを、そしてマリアを裏切ろうとしているのか。
違う、そうじゃない。これは、優しさでどうにかなる問題じゃない。
冷たいように見えたとしても、将来的にはそれが一番いい方法なんだ。
心の中で唱えれば唱えるほど、後ろめたさは大きくなって行く。
「やっぱり、しゅんおにいちゃんも、たべたいの?」
「えっ?」
考え事に夢中になっていた駿は、美璃佳を無意識に見つめていたらしい。それ
を美璃佳は駿が、ソフトクリームを我慢しているのだと勘違いしてしまったよう
だ。
「違う、違う、本当に俺はいいから………」
#4286/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:28 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(16) 悠歩
★内容
否定しても美璃佳は納得しない。じっと駿の顔を見つめたまま、それ以上ソフ
トクリームに、口をつけようとはしない。
「美璃佳ちゃん、だいじょうぶよ。駿には、マリアのをあげるから」
そう言ったかと思うと、駿が応えるのも待たずに、マリアはほとんどコーンし
か残ってソフトクリームを口もとに押し充てて来た。
「マ、マリア、本当にいいんだって………」
しかし拒もうとする駿へ、ソフトクリームはどんどんと近づいて来る。仕方な
く、駿は口を開いてソフトクリームのコーンをかじった。
溶けだしたクリームのせいか、それともマリアの唾液のせいだろうか。コーン
はわずかに湿っていた。
「ねえ、おいしいでしょ?」
屈託のない笑顔が、駿を見つめる。紅い唇が、やけに印象的だった。
寒い中、冷たい物を食べた駿の体温は下がっているのに、やけに暑く感じられ
た。
「そ、そうだ! もうすぐクリスマスだね。良太くんと、美璃佳ちゃんにプレゼ
ントを買ってあげるよ」
心の動揺をごまかすため、今日デパートに来た目的を子どもたちに告げる。
「ほんと?」
口中を溶けたクリームで化粧した美璃佳が、これ以上はないと言うほどの驚き
を見せて顔を上げた。
「でも、おにいちゃん」
心配そうな顔をしたのは、良太。この子は、その辺の大人よりも周りに対して
気を遣う。
「実はね、サンタさんに頼まれてるんだよ。良太くんと美璃佳ちゃんに、サンタ
さんの代わりにプレゼントをするように、って」
駿は我ながら下手くそな嘘だと思ったが、美璃佳は信じたらしい。プレゼント
をもらうのは初めてだと言って、喜色満面ではしゃいでいる。
それでもまだ、良太は少し困惑したような目で、駿を見ている。
「言ったろう。子どもは、大人の顔を立てるものだって」
駿は良太の頭を、軽く叩いてやった。
「ねえねえ、くりすますって、なあに? ぷれぜんとって? さんたさんってだ
あれ?」
強く駿の袖を引きながら訊いてくるのは、マリアだった。
「後で説明してあげるから、オモチャ売場に行こうよ。マリアも何か欲しいもの
があれば、プレゼントしてあげるよ」
駿は三人を、デパートの中に入るように促した。
興奮が収まってくると、やはりここは寒い。早く暖房の効いた店内に戻りたか
った。
予想以上の出費だった。
良太にはポータブルなゲーム機と、そのソフト。美璃佳には、その身長よりわ
ずかに低いだけの人形。そしてマリアが欲しがったのは、大きなクマのぬいぐる
み。
どれも定職を持たない駿には、決して安いものではなかった。
強いて幸いだったことを探すとすれば、マリアが他の同じ年頃の女の子が欲し
がるような、ブランド品のバッグだの、高価なアクセサリーには興味を示さなか
ったことだろう。
それでも駿の月収の、半分近くが消えてしまった。
どうせもともとは、別れた恋人のために残していたお金だ。自分のために使お
うとあてにしていた訳でもない。それで子どもたちを、喜ばせることが出来たの
だから満足しようと、自分に言い聞かせる。
「さあ、そろそろ帰ろうか」
支払いを済ませて、プレゼントを抱えた子どもたちを振り返る。
「あれ?」
そこに在るべきはずの影が、一つ足りない。
「美璃佳ちゃんは、どうしたの?」
駿が訊ねると、良太が驚いたような顔をして、辺りを見回す。
「さっき、あっちでオモチャを見ていたよ」
マリアの指さす先には、ドラムを叩くクマやシンバルを打ち鳴らすサル、レー
ルの上を走る列車などの動くオモチャがあり、小さな子どもたちが数人、釘付け
になっていた。しかしそこに、美璃佳の姿はない。
「まさか………迷子」
「みりか!」
走りだそうとする良太の肩を、慌てて駿は掴んで止める。
「だめだよ、良太くん。勝手に走り回って、良太くんまで迷子になったら大変だ。
ねえ、マリア。君は、アパートまで俺がいなくても、帰ることが出来る?」
「えー、どうかなあ」
包装紙にくるまれたぬいぐるみを抱え、心許ない表情でマリアは応える。
「ぼくは、わかるよ」
やはりここは、年齢は下でもアパートに長く住んでいる良太の方が頼りになり
そうだ。
「じゃあ、マリアと良太くんは二人で一緒に、美璃佳ちゃんを探して。いい?
二人とも絶対に、はぐれないようにね。五時まで探して見つからなかったら、ア
パートに帰って待つんだ」
「わかった」
しっかりと頷く良太に対し、どうにもマリアが不安ではあったが、仕方ない。
駿は美璃佳を探すため、マリアたちと別れた。
まだ一週間以上も先だと言うのに、街はもうすっかりピークに達している。
そう、見渡す限りのクリスマス。
オモチャ屋も、本屋も。
CDショップも、ジュエリーショップも。
喫茶店も、レストランも。
派手に飾りつけられたクリスマス・ツリーを並べ、ウインドウには白いスプレ
ーで描かれたサンタクロース。
街路樹にもイルミネーションが巻かれ、英語のクリスマス・ソングが街を流れ
る。
「はあっ、もうクリスマスまで十日もないのよねぇ」
紙袋を改めて一瞥して呟く。袋の中身は、イブに開かれるパーティのために、
買ったばかりのプレゼント。
クリスマスが過ぎれば、あっという間に大晦日を迎え、今年も終わる。
いろんなことがあった。買い物袋を抱えながら、少女は激動の一年間を思い起
こし、感慨に耽る。
特にたまたま見学に行った広告の撮影で、子供服のモデルの代役を引き受けた
こと。それがスポンサーに気に入られ、中学に上がってすぐの連休に沖縄での撮
影に呼ばれたこと。遂にはテレビCMへの出演。
いま思いだしてみても、恥ずかしい。
「やだ、年寄りみたい」
ふと、しみじみと思い出に浸る自分がおかしくなる。まだ十三になったばかり
なのに。と、純子は独り苦笑する。
「そういえば、去年の今頃だったのよね。サンタクロースに遭ったのは」
そんなそばから、また思い出に耽ってしまう。
その思い出を中断することになったのは、今度は自分の意志ではなかった。前
からやって来る泣き声と、小さな、そして不思議な影のせいだった。
淡い色合いのエプロンドレスに身を包んだ、小さな女の子が歩いてくる。確か
に泣き声はその女の子の方から聞こえている。なのに女の子はすました表情を、
全く崩さずにこちらに近づいて来た。
「あ、なんだ」
その理由が分かるまで、たいした時間は掛からなかった。
純子が見ていたのは、人形だった。そして純子の聞いた泣き声は、後ろからそ
の人形を抱いている女の子のものだったのだ。よく見れば、人形はビニールの袋
に包まれていた。
小さな女の子に抱かれた、大きな人形。その二つの大きさは、ほとんど変わり
がないように見える。ともすれば、人形の足が地面に触れて擦られそうになるが、
女の子にとってよほど大事な物なのだろう。その度に、泣きながらも女の子は、
背中を大きく逸らして人形の足が地面に着かないようにしている。
その様子がおかしくもあり、可愛らしくもあった。
「あの子、迷子なのかな」
買ってもらったばかりの人形を、自分で持ちたい。そんな女の子の気持ちは、
純子にも分かる。でも、小さな女の子がいつまでも持って歩くには、人形はあま
りにも大きすぎる。それに無理があることは、女の子の仕種を見れば明らかだ。
近くに保護者がいるのなら、もうとっくに代わって持ってやる頃合だろう。
それに周りには、泣いている女の子に振り返る人はいても、声を掛けてやる保
護者らしい人の姿は見られない。
女の子が純子の横を、通り過ぎようとする。放っておけば、女の子は純子の存
在すら気に懸けず行くだろう。もしかすると純子も、泣いていた女の子のことな
ど、すぐに忘れてしまったかも知れない。
けれどいま、泣きながら横を通り過ぎて行こうとする女の子を、無視出来る純
子ではなかった。
「ねえ、お嬢ちゃん」
膝に手を充てて目線を低くし、考えるより先にそんな言葉が、純子の口から出
ていた。
声を掛けられた女の子は、全身を使って振り返る。ぶん、と音が聞こえたよう
な気がした。人形の顔が、純子の鼻を掠める。
人形の影に隠れるようにして、涙と鼻水に濡れた小さな顔が純子を見つめる。
「お父さんか、お母さんはどうしたのかな」
「い……なもん」
純子の問い掛けに、女の子は睨み付けるような目をして答えた。
「いなもん?」
少し考えて、「いないもん」であると気づく。
迷子であることは間違いなさそうだ。
見ると、女の子の履いている『フラッシュ・レディ』のキャラクターが入った
ピンク色の小さな靴は、ずいぶんと汚れていた。もしかすると、子どもにとって
は長い距離を歩いてきたのかも知れない。近くを探したとしても、親から遠く離
れてしまっている可能性もある。
「交番に行ったほうが、いいかなあ」
純子が呟くと、女の子は無言で踵を返し、また歩き出してしまった。交番には
行きたくないという、意志表示らしい。
「困ったなあ………」
純子は人差し指で、右の頬を掻いた。
「ねえ、待ってよ」
後ろから肩に掛けた純子の手を、女の子は強引に振り払おうとする。
「分かった、交番には行かないから。それならいいよね?」
女の子は振り返らなかったが、足を止めてくれた。
自分の口より遥かに大きなハンバーガーに、女の子は懸命になってかじりつい
ていた。『あーあ、とんだ出費だわ』
そうは思ったものの、子どもの前で顔に出す訳にはいかない。純子はサービス
価格のシェイクをすすり、女の子に笑顔を送る。こうしてみると、隣の椅子に置
かれた人形と女の子の大きさは、ほとんど変わりがない。
バーガーショップの店内を見渡すと、周りの客はほとんどが学校帰りの高校生
か、親子連れ。いかにも中学生と分かるような純子と、小さな子どもの組み合わ
せなど、他にあるはずもない。変な喫茶店に比べたら、よほど健康的な場所かも
知れないが、純子はなんとなく後ろめたさを感じてしまう。
『仕方ないわよね』
純子は自分で自分を納得させる。
女の子はひどく疲れている様子だったし、話を訊くにも落ち着かせてやらなけ
ればならない。近くに小さな公園はあるものの、冬では寒すぎる。そんな訳で近
場で、しかもなるべく安価で済むバーガーショップを選ばざる得なかったのだ。
『そう言えば………』
予算の都合上、それだけしか頼むことの出来なかったシェイクを啜りながら、
純子は女の子に昔の自分を重ねてみた。
『私も昔、迷子になったことがあったけ。化石の展示を見に行ったときよね。も
う小学生になっていたけど、心細かったな。周りには知らない大人の人ばっかり
で、なんだか無性に恐くて寂しくて。もしあの男の子と会わなかったら………』
純子の目はハンバーガーと格闘している女の子を捉えていたが、その意識は遠
い昔の自分を見つめていた。
『あの時の男の子、いまどうしているかな』
知らず知らずのうちに、笑みがこぼれてしまう。
それにしても、女の子は簡単に純子に着いてきたものだと思う。
自分が悪い人に見えるとは思いたくない。けれど知らない人に着いていっては
いけないと、親に注意されてないのだろうか。やっぱり、こんな小さな子にはそ
んな判断は出来ないのだろうか。それとも、声を掛けてくれた人にすぐ着いてい
ってしまうほど、迷子になって心細かったのだろうか。
もしかすると小さい子を誘拐するというのは、思ったより容易いことなのかも
知れない。今年、まだ小学六年生だったときのマラソン大会の日、近くの幼稚園
で起きた誘拐未遂騒動を思い出して、ぞっとする。改めて、無抵抗な子どもを狙
う卑劣さに腹が立った。
「ねえ、お嬢ちゃん。そろそろお名前を教えてくれないかな?」
純子はハンバーガーを食べ終わり、セットのおまけに付いてきたオモチャの袋
を開けようとしていた女の子に訊ねた。
「わたし、みりかよ」
ようやく落ち着いてくれたらしい。初めて、はっきりと聞き取れる声で女の子
は答えてくれた。
「私は純子、涼原(すずはら)純子よ。よろしくね。ねえ、みりかちゃんは上の
お名前は、なんていうのかな」
#4287/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:29 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(17) 悠歩
★内容
「うえのおなまえ?」
「そう、私だったら純子が下の名前で、涼原が上の名前なんだけど………分かる
かな?」
「わかる。わたし、おかのみりか」
「わあ、みりかちゃんって、お利口さんなんだね」
純子は手を伸ばして、美璃佳の頭を撫でてやった。
さて、これからどうしたものか。美璃佳の抱いていた人形には、まだビニール
が掛けられている。たぶん今日、迷子になる前に買ってもらったものだろう。包
装紙があれば、どこで買ったものか分かるのだが、残念ながらそれは残されてい
ない。美璃佳がとってしまったのか、持ち歩いているうちに外れてしまったのだ
ろう。
「ねえ、美璃佳ちゃんは今日電車に乗ったかな?」
「きのう、のったよ」
「昨日じゃなくて、今日、乗ったかどうか分かる?」
美璃佳は少し考えるような素振りを見せた後、首を横に振った。首の動きに合
わせ、髪が弧を描く。
「のってない。きょうは、りょうたおにいちゃんと、ぞうさんのくるまにのった
の」
「ぞうさん? あっ」
デパートの屋上の、プレイランドにある乗り物のことだろう。電車に乗ってい
ないということは、そのデパートはこの駅前のものであり、美璃佳もこの街の住
人であると考えてよさそうだ。
この駅前のデパートといえば、数は限られている。迷子案内を問い合わせてみ
れば、たぶんこの子の保護者も連絡を入れているはずだ。
「よし、じゃあ美璃佳ちゃんのママを、探しに行こうか」
純子は席を立ち、美璃佳の人形を抱き上げる。重い、というほどではないが、
小さな子どもが持って歩くには重量があった。何より純子でさえ、両手が塞がっ
た状態で歩くのには不安を感じる。それが美璃佳であれば、視界の大半も遮られ
危険も小さくなさそうだ。
「美璃佳ちゃん?」
美璃佳は席を立とうとしなかった。悲しそうに俯き、声こそ出していなかった
が、目には涙を浮かべている。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「………いないもん」
「えっ」
「みりか、ママなんていないもん」
「あっ」
純子に悪気など、あろうはずはない。しかし何気なく口にした言葉に、美璃佳
が傷ついてしまったことを知った。
「ごめん、ごめんね………美璃佳ちゃん」
純子は酷く後悔をしていた。
「しばらくお待ち下さい」
中学生の純子に対しても、立派な大人に対するのと同じ礼儀正しさで、女の人
は接した。
駅前のアミューズメントビル、デパートの一階受け付け。純子はここで、『お
かのみりか』という迷子を探している人がいないか、訊いてみた。美璃佳の名前
と特徴を確認した受け付け嬢は、迷子センターへと電話を掛けている。
「お待たせしました。確かに一時間半ほど前に、『みりかちゃん』というお嬢さ
んをお探しの男の方が、来られたそうです。館内放送の後、しばらく待たれてい
ましたが、見つからず、また他へ探しに行かれたそうです」
仕事上とはいえ、これだけの笑顔で応対されれば、不満に思う人はいないので
はないだろうか。その上、女性の純子でさえ、つい見とれてしまうほど受け付け
嬢は美人だった。
ここで美璃佳が保護者とはぐれた、という純子の推測は見事的中した。
「そちらのお嬢さん、美璃佳ちゃんは、私どもで責任を持ってお預かりします」
受け付け嬢は、インフォメーションのカウンターを出ようとした。それを見た
美璃佳は、純子の足に強く抱きついた。そんな美璃佳の態度に、つい情がわいて
しまう。
「あの、すみません。その男の人の住所、分かりますか?」
「はい。連絡先は係の者が控えていますから。只今、お家の方へお電話している
と思います」
「それなら、私、この子の迎えの人が来るまで、ここで一緒に待ってます」
たいして時間も掛からないだろうと考えてのことだった。受け付け嬢も、美璃
佳が純子になついているようなのを見て、快く承知してくれた。
ところがしばらくして、迷子センターから掛かってきたらしい電話を受けた受
け付け嬢が、ベンチで待つ純子の元に来て言った。男の人の残していった連絡先
に、何度電話をしても、誰も出ないそうだ。まだどこかで、美璃佳を探している
のだろう。
「連絡がつくのがいつになるか分かりませんから、やはりお嬢さんは、こちらで
お預かりしたした方がいいですよ」
受け付け嬢はそう勧めてくれたが、足にしがみつく美璃佳の温もりを感じると、
純子にはどうしてもその言葉に従うことが出来なかった。
「よろしかったら、その男の人の………美璃佳ちゃんの住所を、教えてもらえま
せんか。近くなら、私、直接連れて行きますから」
「そうですねえ………」
受け付け嬢は、純子の影に隠れる美璃佳を見ながら、少し考えていた。
「本当は規則違反なんだけど。何か身分証明書を持っていたら、見せて頂けます
?」
初めはきっちりとしていた受け付け嬢の言葉遣いが、いつの間にかくだけたも
のに変わって来ている。純子としては、その方が気分が楽だった。
幸い純子は生徒手帳を持ち歩いていたので、それを受け付け嬢に見せた。受け
付け嬢はそれを確認すると、連絡先をメモした紙を渡してくれた。
「あ、この住所なら分かります。じゃあ、私、この子を連れて行きますから」
そこに記された住所は、純子の家とは反対方向だが、同じ中学校の学区内だっ
た。
「何かあったら、また連絡して下さいね」
「はい、ありがとうございます。さ、美璃佳ちゃん、お姉さんと一緒に、お家に
帰りましょう」
純子は美璃佳の手を引き、受け付けを後にした。
『あれっ?』
受け付け嬢にもらったメモを頼りに歩いていた純子は、あることに気づき、足
を止めた。
右手を美璃佳とつなぎ、人形を抱えていた左手にメモを持っていた。同じ手に
自分の買い物袋をも持っているので、酷く苦しい格好となってしまう。そのメモ
を良く見ようと顔を近づけたために、人形が腕の中から落ちそうになる。
「あっ」
小さな悲鳴を上げて美璃佳が、人形を受けとめようと手を差し出した。けれど
純子の腕から人形が落ちることはなかった。
「だいじょうぶよ。落とさないように、ちゃんと持ってるから」
純子は心配そうな顔をしていた美璃佳に、微笑んでみせる。それから改めてメ
モに目を戻した。
『美璃佳ちゃんを探していた男の人の名前、藤井駿ってなってるけど。美璃佳ち
ゃんと名字が違う?』
「おねえちゃん、どうかしたの」
気がつくと足を止めたまま、メモに見入っていた純子を、美璃佳の大きな瞳が
見上げていた。
「あ、ううん、なんでもないの。行きましょう」
深い海の中のような色に染まった街中を、美璃佳の手を引きながら純子はまた
歩き始める。
「ねえ、美璃佳ちゃん?」
「なあに」
「今日、あのデパートには、誰と行ったのかな」
「んーとね、りょうたおにいちゃんとぉ、しゅんおにいちゃんとねぇ………それ
から、マリアおねえちゃん」
美璃佳の口から、「しゅん」という名前が出て、純子は安心した。どうやら間
違いではないようだ。
「あのね、おにんぎょうさんは、しゅんおにいちゃんが、かってくれたの」
「そう、良かったわね。駿お兄ちゃんって、優しいんだ」
「うん。あのね、しゅんおにいちゃん、サンタさんにたのまれたって、いってた
の」
それにしても、美璃佳は父親とデパートに行ったのでもなかったようだ。一緒
にいたという三人はいずれも、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼んでいるが、
名字が違うところから兄妹でもなさそうだ。マリアという人は、外国人なのだろ
うか。何やら複雑な事情が、窺える。
「あ、ここ」
角を曲がると、嬉しそうに美璃佳が叫んだ。
三十メートルほど先に、古い二階建てのアパートが見える。その壁面に『若葉
荘』という文字が確認できた。
美璃佳はつないでいた純子の手を離し、アパートに向かって駆け出して行った。
「あ、走ったら危ないよ、美璃佳ちゃん」
慌てて純子は、美璃佳の後を追った。
純子の胸にも届かないブロック塀でも、美璃佳の身長を隠すには充分だった。
アパートの門をくぐった美璃佳の姿が消える。
ここまで来れば、また迷子になる心配も少ないだろうが、純子は美璃佳の人形
を預かっている。それによその家の子を、連れて来た責任もある。保護者に引き
渡すまで、見届けなければ。
『うわあ、レトロぉ』
足を止め、思わずアパートを見上げる。
昔の青春ドラマにでも出てきそうな造りのアパート。建てられてから、かなり
の年数が経っているのだろう。この周辺はアパートやマンションが多く建ち並ん
ではいるが、ここまで煤けたものは他にない。
「っと、見とれてる場合じゃなかった」
純子はブロック塀の切れ目でしかない門を入り、美璃佳の姿を探した。
「あ、あれっ? 美璃佳……ちゃん」
隠れる場所などない。だがL字になったアパートの横に三つ、そして正面に一
つのドアがあるだけで、美璃佳の姿は見当たらない。
純子は慌てて、メモに視線を落とす。
「えっと、『アパート若葉荘、201号室』あ、二階か」
そう気がつくと同時に、上の方からどんどんと、音が聞こえてきた。見上げる
と、二階の部屋のドアを叩く美璃佳の姿があった。純子はすぐ隣にある、錆の浮
いた鉄の階段を上る。
「美璃佳ちゃん?」
階段を上った、一番手前の部屋のドアを懸命に叩く美璃佳は、純子の呼びかけ
に応えない。
初めは片手で、やがて両手でドアを叩きだした。小さな身体で、反動をつける
ため背中を大きく、弓なりに逸らしてドアを叩く。
「あけてよぉ。みりか、かえってきたよ。りょうたおにいちゃん、しゅんおにい
ちゃん、マリアおねえちゃん………あけてよぉ」
まだ誰も戻って来てはいないらしい。美璃佳がいくら呼びかけても、ドアは開
かれない。
「ねえ、あけてよぉ」
それでも、半べそをかきながら、美璃佳は必死に叩く。その勢いのあまりに、
美璃佳は後ろによろけて、ぺたんとお尻をついてしまった。
「ふ、ふうっ………ふあああん」
それまで純子といる間、一度も泣き出さなかった美璃佳が、初めて大声で泣い
た。アパートに辿り着つくことが出来て、安心したのだろう。それだけにまだ家
族が不在だったことで、ずっと堪えていたものが一気に噴き出してしまったらし
い。
「あっ、美璃佳ちゃん、泣かないで」
純子は抱いていた人形を、ドアの横に座らすように置いて、美璃佳に駆け寄っ
た。ところが美璃佳は、純子が抱き起こそうとしても、自分の足で立とうとはせ
ずに泣きじゃくるばかりだった。
「困ったなあ、どうしよう?」
ここまで来て、まさかデパートに戻っても仕方ない。けれどいつ戻って来ると
も知れない家族を、外で待つには寒すぎる。
陽はもうとうに落ち、アパートの廊下にも明かりが灯されている。周囲は、深
い海の中にいるような色に染まっている。
純子でさえ、訳もなく心細さを感じる時間帯である。幼い美璃佳であれば、な
おのことだろう。
ただ泣きじゃくるだけの美璃佳が、純子の気持ちまで悲しくさせてしまう。
『家の人が帰ってくるまで、お隣さんにでも、美璃佳ちゃんのことを預かっても
らった方が、いいかしら?』
同じアパートの隣人であれば、多少なりとも美璃佳の家族ともつき合いがある
はず。そう思って、純子は隣の部屋に目をやるが、その考えは空振りだと知った。
人のいる気配がない。部屋の中に明かりが着いていないのだ。
『そうよ、何もお隣さんじゃなくっても、同じアパートの人なら………あら?』
他の部屋の人に頼んでみようか。そう思ったとき、純子は隣の202号室に掛
けられた、表札に気がついた。
「ねえ、美璃佳ちゃん」
純子は自分で立とうとしない美璃佳を、支えながら202号室の前に連れてい
った。
「美璃佳ちゃんのお部屋、こっちじゃないの?」
そのドアの、純子の胸より少し低い辺りに表札があった。掛けられているとい
うより、貼られているといった方が正しいかも知れない。プラスチックのケース
に、ボール紙を入れるタイプの表札だ。
#4288/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:30 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(18) 悠歩
★内容
そこにはペンで『岡野恵美』と、部屋の住人の名前が書かれていた。そしてそ
の横に、明らかに子どものものと分かる文字で、『りょうた みりか』と鉛筆書
きでつけ加えられていた。
「ねっ、ほら。ここに美璃佳ちゃんの名前があるよ」
純子は表札を指さす。
「ちがうもん、ここはみりかの、おうちじゃないもん」
顔を背け、美璃佳は純子の指さす方を見ようとはしない。そしてまた泣きじゃ
くる。
同姓同名なのだろうか?
だが同じアパートの、隣の部屋というのは、あまりにも出来すぎている。しか
も『りょうた』という、男の子の名前まで一緒なのだ。
「うーん」
どうしたものかと考え込む純子。美璃佳を支えていなかったら、頭を掻いてい
るところだろう。
どちらの部屋も不在では、確認のしようもない。二階の残り二部屋は、人の住
んでいる気配すらない。
小さな美璃佳と一緒にいるうちに、つい自分が大人であるかのような錯覚を起
こしていたが、純子もまだ中学生なのだ。
ただ泣くだけの美璃佳を抱え、純子はどうしたらいいのか分からなくなってし
まった。
「なにかしら?」
アルバイトに出る前に、そろそろ夕飯の支度を始めようと思った愛美は、外か
ら聞こえてくる泣き声に気がついた。
「あれは………美璃佳ちゃんの声、じゃないかしら」
気になってドアを開けると、泣き声は一層はっきりと聞こえた。
その泣き声を追って、視線を巡らすと二階のドアの外に立つ女の人の姿が目に
入ってくる。愛美と同い年ぐらいだろうか。アパートの住人ではない。
影に隠れてはっきりとは見えないが、女の人は前に小さな子どもを抱えている
らしい。それが美璃佳であることは、泣き声からして間違いなさそうだ。
初め、その隣の………駿の部屋のドアにもたれ掛けて座っているのが、美璃佳
かと思ったが、それは人形だった。
「あの、美璃佳ちゃん、どうかしたんですか?」
階段を上がり、愛美は美璃佳を抱えた女の人に声を掛けた。
「あ、それが………」
泣きじゃくる美璃佳に、困り果てていたらしい。愛美に声を掛けられた女の人
は、心底助かった、というような顔で振り返った。
「あっ」
小さな声が重なる。
愛美と、女の人と。
「涼原さん」
「にし……ざきさん、よね?」
女の人は愛美の名を、愛美は女の人の名を呼んだ。
愛美の見知った顔。
美璃佳を抱き抱えていたのは、愛美と同じ中学校に通う、涼原純子だった。
あの相羽信一と同じクラスの子で、彼と話しているのを何度か見たことがある。
そういえば春先、学校の階段でぶつかったことがあった。その時、普段は人見知
りの激しい愛美が、なぜだか自然に会話を交わすことが出来たので覚えている。
「わあ、助かった。西崎さんって、美璃佳ちゃんと知り合いなんだ」
「え、ええ」
純子の視線が、自分の足下に落ちるのを感じた。愛美は、サンダルを履いてい
た。たぶんそれを見た純子は、愛美がこのアパートの住人だと分かったはずだ。
「美璃佳ちゃん、どうしたの?」
どうして純子がここにいるのか気にはなるが、それより先に美璃佳を泣き止ま
せなければ話もできない。愛美は身体を曲げて、美璃佳と視線の高さを合わせる。
「あど…ね……しゅちゃと……りょう……ちゃと、まやちゃと………くちゃた…
の」
泣いて、話して、鼻を啜って。美璃佳の言葉は言葉になっていない。
「涼原さん、貸して」
両手を差し伸べ、愛美は純子から美璃佳を受け取って抱き上げた。
「に……ちゃん、な………の」
愛美の手に渡った美璃佳は、首に抱き付き、涙と鼻水に濡れた顔を押し充てて
泣いた。
「ね、いい子だから、泣かないで。美璃佳ちゃん」
赤ん坊をあやすように、美璃佳の背中を軽く叩き、愛美は身体を揺らす。
泣き止みはしなかったが、少しは落ち着いたのだろう。美璃佳の泣き声が小さ
くなった。
「どうかしたの、涼原さん?」
ぼーっとした表情で、自分を見つめている純子に気がついて、愛美は言った。
「ん……あ、その………西崎さんって、なんか美璃佳ちゃんの、お母さんみたい
だなあって思って」
純子は立ち上がり、頬を掻きながら応えた。
「やだ………私、涼原さんと同い年よ」
冗談ぽく、怒った顔をして見せる。
「あははっ、そ、そうだよね」
少し恥ずかしそうな顔をして、純子は笑った。
つられて愛美も笑った。
純子にとっては、なんでもないことかも知れない。けれど人と冗談を言い合い、
笑うなど、愛美には久しく覚えのないことだった。
「ちょっと、待ってね」
自分の部屋のドアを開けながら、愛美は振り返って後ろにいる純子に声を掛け
た。中に入ると、泣き疲れて眠ってしまった美璃佳をそっと降ろす。そして、押
入から枕と毛布を取り出し、美璃佳に掛けてやった。
「あ、ごめんなさい」
大きな人形を抱え、不自由そうな純子に気づき、それを受け取る。
重いというほどではなかったが、その人形を抱えると愛美でさえ、前方の視界
が遮られてしまう。純子から聞いた話では、美璃佳は迷子になっている間、すっ
とこれを大事に抱いていたらしい。小さな子どもが、みんなとはぐれた上、視界
も制限されてしまった状況は、どんなに不安だっただろう。
「お茶でも、飲んでいく?」
愛美は玄関で寒そうにしている純子に、言った。
このアパートに越してきてから、友だちを部屋に入れたことどころか、住所を
教えたことすらない。自分が貧しい暮らしをしていることを、人に知られたくは
なかった。だから、相羽がマンションから送ってくれたときも、アパートは教え
なかった。
けれど純子にはもう、隠しだてする必要がなくなってしまった。それより、寒
い中苦労して美璃佳を連れてきた純子に、せめてもの労いをしたかった。
「本当は私も、身体を暖めていきたいんだけど。ほら、もうこんな時間だし、早
く帰らないとお母さんも心配するし」
「そう、そうね」
無理に引き留めることはしない。
その代わり、愛美は靴を履く。サンダルではなく、靴を。
「あ、別に送ってくれなくても、平気よ」
「ん、ちょっとそこまで用事があるから………」
本当は純子に話しておきたいことがあるのだが、そう応える。
たいして時間は掛からないはずだが、念のためドアの鍵を閉める。まさかとは
思うが、目を覚ました美璃佳が、またどこかへ行ってしまっては大変だ。
愛美と純子は、アパートの前の狭い通りを、並んで歩いた。言いたいことが、
なかなか切り出せない。かと言って、他の会話をするほど純子とは親しい訳でも
ない。それは純子にしても、同じことだったのだろう。重苦しい沈黙が続く。
「あの………」
先に口を開いたのは純子の方だった。
「デパートの人から訊いた美璃佳ちゃんの住所、あの藤井さんって人の部屋なん
だけど………隣の部屋の表札にも美璃佳ちゃんの名前、書いてあるよね? あれ
って、同姓同名なのかしら」
答えていいものか、愛美は迷った。その気配を感じたのだろう。
「あ、そんなの、私が詮索するようなことじゃないよね、あははっ」
或いは重苦しい空気を払おうとしてのことかも知れない。少し大袈裟なアクシ
ョンで、純子は頭の後ろを掻いて見せる。
「あの子たち………美璃佳ちゃんと、そのお兄ちゃんの良太くんの部屋は、さっ
き涼原さんのいた方。藤井さんの隣よ」
別に隠しておく理由が、愛美には見当たらない。もし自分が純子の立場なら、
同じ疑問を持ったかも知れない。好奇心のあることも否定は出来ないが、迷子に
なっていた美璃佳を連れてきた純子には、間違いなく正しい相手に届けたことを
確認する義務もあるだろう。
「私も詳しいことは、知らないの。美璃佳ちゃんたちのお母さんって、滅多に帰
って来ないみたいで………表札を見たなら分かると思うけれど、お父さんもいな
いから。それで藤井さんが、面倒をみてあげてるらしいの」
その母親が、帰って来ない理由。遊び歩いているから、と言わないのは愛美の、
せめてもの良心だった。
「そっか」
純子は短く応えただけだった。
「それで、涼原さん」
そろそろ目的の話をしなければ。いつ目を覚ました美璃佳が、一人で心細くな
って泣き出すかも知れない。突然帰ってきた父が、美璃佳を見て怒り出すかも知
れない。
「私が頼むことじゃないけれど、もし良かったら、美璃佳ちゃんのお友だちにな
ってあげてね」
口をついて出たのは、思っていたこととは別のこと。本当は同じ学校の純子に、
あまりアパートには近づいて欲しくないのに。
「もうなったよ。美璃佳ちゃんと、お友だちに」
微笑み返す純子の顔を見て、愛美は自分が嫌になる。純子に比べて、自分の考
えの卑屈なこと、さもしいことに。
「それから………あのアパートで私と会ったこと、誰にも言わないで欲しいの」
自己嫌悪の中、目的の言葉をようやく口にする。
どんなに自分が嫌になろうと、長年培ってきた心は変わらない。自分の生活を、
父のことを周囲から隠すようにしてきた習慣は変えられない。
「えっ、どうして?」
純子は驚いたような、そして不思議そうな顔で愛美を見る。それが愛美には、
卑しい自分の心を見つめられるようで、辛かった。
「お願い………」
「うん、分かったわ。約束する」
愛美の心中を察してか、もともと必要以上に詮索をしない性格なのかは分から
ない。震える愛美の声に対し、純子の明るい返事が返ってきた。
いつまでも落ち込んではいられない。部屋に残してきた美璃佳の事が、気に掛
かる。途中、公衆電話からアルバイト先の『満天』に、少し遅れると連絡を入れ
た後、急いでアパートへと戻った。
アパートの門を抜けると、愛美の耳に微かな声が聞こえて来た。美璃佳の声だ。
安普請のアパートのこと、部屋で少し大きな声を出せば、それは外まで聞こえ
てしまう。ただ、何を言っているのかまでは、はっきりしない。泣き声のように
聞こえる。
急いでドアを開けようとして、愛美は鍵が掛かっていないことに気がついた。
おかしい………部屋を出るとき、間違いなく閉めたはずなのに。
不審に思いながら、ドアノブを回す。美璃佳の声が一層はっきりと聞こえた。
玄関にある靴を見て、愛美の心臓は凍りつく。部屋を出るときにはなかった、
男物の靴。父のものだ。
母が死んでからの父は、誰に対しても乱暴にあたる。酒場にたまたま居合わせ
ただけの人を殴って怪我をさせたり、すれ違っただけの人に絡んでみたり。そん
な父ばかりを見てきた愛美は、この状況に愕然としてしまった。まさかとは思う
が、父は小さな美璃佳にまで乱暴に振る舞っているのだろうか。
震える手で、心ばかりの広さしかない台所と部屋を仕切るガラス戸を開けた。
「あっ」
声にならない声。
目の前に現れた光景に、緊張していた全身の力が抜けていく。
「ふふふ、はははっ」
部屋に響く美璃佳の声。それは泣き声ではなかった。美璃佳は笑っていた。
布団の上に寝ころんだ父は、足を上に向けて伸ばしている。そこに美璃佳を乗
せ、脇を両手で支えてやり、足を上下させて高い高いをする。小さな身体が浮き
沈みを繰り返し、その度に美璃佳は、笑い声を上げる。ふとその動きが止まった
かと思うと、今度は脇を支える両腕で、美璃佳の身体を左右に揺さぶる。
その姿を見て、愛美は遥か遠くになってしまった過去を思い出す。
小さな愛美を、同じようにして遊んでくれた父。
『ほらほら、危ないでしょう。落ちたら大変』
注意しながらも、優しげに笑っている母の顔。
もう決して戻ることのない時間が、愛美の記憶の中に甦る。
時間は戻らない。しかしいま、愛美の見ている父の顔は、あの時と同じだった。
母はもういない。父はお酒で身体を壊し、すっかりとやつれた顔をしている。
けれどその優しい笑顔は、紛れもなくあの時と同じもの。
「あ、まなみおねえちゃんだ」
美璃佳が愛美に気づく。
動きが止まる。
愛美の存在を認めた父は、ゆっくりと美璃佳を下に降ろす。
「ああん、おじちゃん、もっと」
その遊びをまだねだる美璃佳の頭を、父がそっと撫でた。
「おじさん、疲れちゃったよ。少し、休ませてくれ」
#4289/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:31 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(19) 悠歩
★内容
そして一度愛美の方を見てから、不機嫌そうな顔をして視線を逸らす。だが、
その顔はどこかぎこちない。
「たっく、この子、上の岡野さんちの子だろう。どうして家に」
「それが、外で迷子になってたらしくて。見つけた人が、連れてきてくれたの。
いまその子、美璃佳ちゃんは事情があって藤井さんが預かっているみたいなんだ
けど、まだ帰ってなくて。それで私が………」
父に応える愛美の声は、普段の習慣で遠慮がちなものになってしまう。けれど
いつになく、その声に張りがあるのを、愛美は自分で感じていた。
「まあ、それは仕方ないとして。人様の子を預かっておいて、家を空けるんじゃ
ないぞ」
「ごめんなさい。美璃佳ちゃんを連れてきてくれた人を、そこまで送って来たか
ら。ほんの五分くらいだったの」
「馬鹿、小さな子は一、二分目を離したって、何があるか分からないだろうが」
「ごめんなさい」
「おじちゃん、おねえちゃんを、おこっちゃだめだよ」
頭を下げて謝る愛美を、美璃佳が庇う。
「いいのよ、美璃佳ちゃん」
愛美は笑って見せる。
父に叱られても、愛美は嬉しかった。素直な気持ちで、謝ることが出来た。
こんな気分になれたのは、母が死んでから初めてのことだった。
「えっと、美璃佳ちゃんだっけか? お腹好いてないか?」
「うん、すいてる」
「よし、おじさんの家で、ご飯食べてけ。おい、愛美、用意してやれ」
「あ、はい………すぐ用意するわ」
今日のアルバイトは、大幅に遅刻をしてしまいそうだ。事情を知って、まだ中
学生である愛美を雇ってくれている女将は申し訳ないと思う。そして遅刻分の時
給が減ることも、正直痛い。
けれどこの瞬間、父が見せた美璃佳に対する表情、優しさは愛美にとって何物
にも代え難いものだった。
「でもぉ」
「んん? どうした、美璃佳ちゃん」
忙しく台所を動き回る愛美の後ろで、父と美璃佳の話が聞こえる。
「おにいちゃんたちも、きっとごはん、たべてないよ。みりかだけ、たべたらず
るいもん………」
「ははは、美璃佳ちゃんは優しい子だなあ。でもな、小さな子がそんな心配しな
くていい。愛美姉ちゃんのご飯は、美味しいぞお。食べたくないか?」
「ううん、たべたい」
愛美は初めて知った。
嬉しい時にも涙が出ると言うのが、本当であると。
「お兄ちゃん、美璃佳はみつかった?」
顔を見るなり、良太が訊いてきた。しかし駿が答えるのを待たず、その傍らに
妹の姿がないことを知った良太は泣き出しそうな顔になる。
アパート若葉荘に程近い十字路。ここで駿はマリアと良太と出会った。
「さっきデパートにもう一度、電話してみたんだ。そうしたら、美璃佳ちゃんを
連れた女の人が来て、アパートの住所を訊いて行ったらしい」
「じゃあ、もう美璃佳ちゃん、帰ってるかも知れないね」
さすがに心配そうにしていたマリアの顔に、ぱあっと明るさが広がる。
「けど、みりか、カギをもってないよ」
「とにかくアパートに戻ってみよう」
二人を促し、駿は歩き出した。
電話で訊いたところ、美璃佳を連れていたのは中学生の少女だったそうだ。学
生証を確認したそうなので、間違いはない。まさか中学生の少女が、しかも学生
証を提示して身元を確認させているので、誘拐などの心配はないと思う。だが、
人を疑いたくはないがこのところ続けて起きている、物騒な事件を思い浮かべて
しまう。いつの間にか、アパートに向かう駿は駆け出していた。
門をくぐり、二階を見上げるが美璃佳の姿はない。二階の鉄柵には死角になる
場所がないので、階段を上らなくても見て分かる。
それでも念のため二階に上がってみるが、駿の部屋は出掛ける時に閉めた鍵が
そのままになっていた。一応202号室も調べてみる。こちらは鍵が掛かってい
ないが、美璃佳はいなかった。
「お兄ちゃん」
下から駿を呼ぶ声がしたので、手すりから顔を出す。
「みりか、いた?」
「いや」
駿は首を横に振る。
良太は俯いて何か考えていたが、すぐに顔を上げた。
「ぼく、もう少し近くを、さがしてみる!」
そう言って、走りだそうとした良太を、マリアが制した。
「待って………美璃佳ちゃんなら、そこにいるわ」
マリアの右手が、すうっと挙げられ水平になる。その指先は101号室、愛美
の部屋をさしていた。
「どうしてそんなことが分かるの?」
階段を下りて、マリアの横に立った駿は訊ねてみた。
「だってほら、見えるんだもん」
言われるまま、駿もマリアの指さす先を視線で追う。しかしドア越しに、中の
様子が見えるはずもない。良太もまた、困ったような顔でマリアと101号室の
ドアとを見比べている。
駿には何を根拠に、マリアがそんなことを言い出したのか分からない。耳を澄
ましてみたところで、声が聞こえて来るのでもない。
マリアには見掛け以上に、子どもっぽいところがある。駿の前で着替えようと
してみたり、良太や美璃佳たちと本気になって遊んだり、オモチャを欲しがって
みせたり。
そこに美璃佳がいると言い出したのも、単純にそんな気がする、というだけの
ことかも知れない。根拠のない、子どもの直感。
なんでもない公園の植え込みを指さし、そこにお化けがいると言って泣き出す
子ども。
誰もいないのに、友だちに語りかけるようにして、一人遊びをする子ども。
それと同じ類のことなのだろう。
そうは思ったが、駿はマリアの言葉を全く無視することも出来なかった。夢み
たいな小説を書きすぎたせいか、大人には見えないものが子どもにはみえる、と
いうのをどこかで信じているのかも知れない。
他に美璃佳の居所に、あてがあるのでもない。もしかすると、美璃佳を連れて
いる女性というのを、駿たち追い越してしまったのかも知れない。
無駄なら無駄でいい。駿は確認をしてみようと思った。
ドアの前に立つ。明かりがついているので、誰かがいることは確かだ。ただ愛
美はとっくにあの『満天』という店に、アルバイトに行っている時間だ。愛美以
外に部屋にいるとしたら、それは彼女の父親だろう。ほとんど面識のない愛美の
父親と話すことを躊躇い、駿はしばらくの間、ドアの前に立ち尽くした。
「お兄ちゃん?」
そんな駿の態度が理解できないのだろう。すぐにでも妹を探しに駆け出してい
きたい気持ちを抑えている、良太の声が掛けられた。
だが駿が意を決してノックをするより先に、勝手にドアが開かれた。
「なんだか騒々しいな。人の部屋の前で」
部屋の中から、不機嫌そうな顔をした中年男が現れた。いままで数回、ちらっ
と見掛けただけだが、愛美の父親に間違いない。
「あ、どうもすいません」
「んん、あんた、確か二階の………藤井って兄ちゃんだな?」
男は睨むようにして、駿を見る。
「は、はい」
愛美の父親については、あまりいい噂は聞かない。酒癖が悪く、酔うと相手構
わず喧嘩をしかけるらしい。
そんな話を思いだした駿は、思わず身構えてしまう。
「そっちの姉ちゃんは知らねえが、坊主が良太だな」
男はマリアと良太を見やる。
「私は、マリアだよ」
「そうです」
マリアは元より、良太も全く臆する様子がない。その幼さにそぐわない、凛と
した目で男を見返す。
気のせいだろうか。
良太に向けられた男の目は、駿を見たときよりも穏やかに感じる。まさか、酒
癖の悪い男が子ども好きというのも変な話だと、駿は思った。
「藤井さんよ、その坊主と妹、あんたが面倒見てんだってな」
「ええ、そうですが」
「なら、とっとと連れて行ってくれや」
「はあ?」
「妹の方だよ。美璃佳って言ったか? 奥で眠っちまってる………迷惑なんだよ
な」
事情は飲み込めなかったが、美璃佳が男の部屋にいることだけは分かった。首
を振って、中に入るよう促す男に駿は従った。
駿の部屋と造りの全く変わらないその奥で、美璃佳は寝ていた。愛美のもので
あろう、淡いピンク色の布団の中で、小さな寝息をたてている。
愛美が寝かせてくれたのだろうか。「迷惑だ」と言うわりには、きちんと用意
されている布団。男も眠っている美璃佳に気を使ってか、声を潜める。
「ガキは苦手なんだ。早々に連れ帰ってくれ」
「あ、ああ………はい」
美璃佳が無事だったことに安堵して、しばらく寝顔に見入っていた駿は我に返
った。
気持ち良さそうに寝入っている美璃佳を、動かして起こしてしまわないかと心
配しつつ、布団から抱き上げる。
「んんっ」
案の定、小さなうめき声と共に、駿の腕の中で美璃佳が目を醒ましてしまった。
「しゅん、おにいちゃん?」
状況がよく理解出来ていない美璃佳は、少しの間駿の顔をじっと見つめる。そ
して次第に記憶が甦って来たのだろう。いきなり駿の首に抱きつくと、大声で泣
き出してしまった。
「いな……だもん、しんゅん、にいちゃも………りょ……ちゃも……みり……か、
ひとり……なっちゃ……て」
器用にも泣くことと、喋ることと、鼻を啜ることとを同時にやってのけようと
する。その結果として、美璃佳の言葉はまともには聞き取りにくいものになって
しまう。けれど、伝えようとしている意味は理解出来た。
駿たちとはぐれて迷子になってしまった美璃佳が、どれほど心細い想いをして
いたのか、痛いほど伝わって来る。
「ごめん、ごめんよ。美璃佳ちゃん」
独り身で、兄弟もなかった駿には、泣きじゃくる子どもをどう扱っていいのか
分からない。ただ電車の中で、泣き騒ぐ子どもをうるさいと苛立った覚えは、幾
度となく経験している。おそらくは、愛美の父親も同じように苛立っているかも
知れない。そう思った駿は、電車の中で見た泣き騒ぐ子どもの母親と同じように、
身体を揺すり、美璃佳の背中を叩いてやる。
「みりか、みりか。もう泣くな」
初めは部屋に上がることを躊躇っていた様子の良太も、妹の泣き声にじっとし
ていられなくなったのだろう。いつの間に駿の後ろに立ち、美璃佳に声を掛けて
くる。
「さっ、感動の再会とやらの続きは、自分の部屋でやってくれ」
特に怒った様子もなく、男は言った。
駿はまだ、すんすんと、鼻を鳴らしている美璃佳を抱いたまま、男に礼を述べ
外に出た。
「ど、どうしたんだい? マリア」
部屋を出た駿の第一声。目を真っ赤に腫らし、子どものようにこぼれる涙を拭
おうともせずに泣く、マリアがいた。
「だって………美璃佳ちゃ……みつかて……よ、たった……んだ……」
『やれやれ』
美璃佳が落ち着いてきたと思ったら、今度はマリアか。駿は心の中でため息を
つく。
別に呆れた訳ではない。それどころか、駿の顔には笑みが浮かぶ。
顔をくしゃくしゃにして泣くマリアは、決して綺麗ではなかったが、可愛らし
かった。いつも元気すぎる笑顔ばかり見せていたマリアだが、彼女は彼女で美璃
佳のことを心配していたのだろう。
「ほら、美璃佳ちゃんは無事だったんだから、泣かないで」
そばに寄り、少し照れながら駿はマリアに言った。
「マリアおねえちゃん、いいこだから、ないちゃだめよ」
つい先ほどまでは自分も泣きじゃくっていた美璃佳が、駿の腕の中から手を伸
ばして、マリアの頭を撫でる。
「うん………」
マリアはそれを恥ずかしいと感じる様子もなく、二度三度、鼻を啜ると泣くの
を止めた。
「さっ、じゃあ部屋に帰ろうか」
「ちょい待ち。忘れもんだ」
後ろから男の声が掛かった。振り返ると玄関先に立った愛美の父親が、大きな
人形を抱えていた。駿が美璃佳に買ってやった、安くはない人形。
「あ、私が持ってあげる」
駿や良太を制し、マリアが進み出る。駿は人形をマリアに任せ、階段の方へと
歩いていった。
激しく咳込む声が聞こえてくる。
「おじさん、大丈夫? おじさん………おじさん!」
珍しく慌てたマリアの声。
唯ならぬ様子に、駿は再度振り返った。
#4290/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:32 (197)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(20) 悠歩
★内容
咳込む愛美の父親、背中をさするマリア。そして地面に撒き散らかれた、赤黒
い血。
−−返事をなさい、マリア。
幾度呼びかけても、返事はない。
出力を抑えてはいるが、届かないはずはない。
『いやな感じがする』
ママは考える。なぜマリアが返事をしないのか。
マリアの身に何か起きたのか? それは考えられない。もしマリアが何かの事
故で命を失うようなことがあれば、どんなに距離を置いていてもママには分かる。
だとしたら残される可能性は、マリアの関心がこちらに全く向けられていない
ということだ。
ほんの少しでいい。わずかでもマリアの意識の中に、ママのことがあれば声は
届くはず。と言うことは、いまマリアは、ママのことをすっかり忘れてしまって
いるのだ。
それは即ち、自分の役目すら忘れていることになる。
以前にも似たようなことがあった。
天真爛漫で好奇心が強く、何事にも物怖じせず関心を持つ。そのマリアの性格
は、ママの目的にとって好ましいものであった。しかし反面、自らの立場さえ失
念して、その世界に影響を受けやすい。
以前調査のために上陸した惑星でも、マリアはある雄の個体に対し、不要な関
心を抱いたことがあった。その感情は、マリアに課せられた役目には障害にしか
ならない。幸い、あの時にはママはマリアを近くで監視していた。そのため速や
かにマリアを回収、記憶の調整をすることが出来た。
けれどいまは事情が違う。
事故によってマリアは、ママの監視下から完全に離れてしまい、いまだそれを
回復出来ない。その気になれば、この場から飛び立ってマリアを探し、回収する
だけの力は修復されている。が、この惑星の文明レベルから、規定ではそのよう
な行為を許されていない。緊急事態として対処するためには、条件が満たされて
いない。
何時如何なる場合に於いても、ママ自体は規定に沿った行動しか出来なかった。
して来なかった。
そして何よりママを混乱させていたのは、計算によって弾き出された、ある事
実。これこそ、規定をどう解釈しても対処法の定められていない事態であった。
『やっぱり、私一人で判断出来ることではないわ』
上手く行くか分からない。
何しろマリアと共に母星を離れてから、一度として行ったことのない行動。使
ったことのない機能なのだから。
『結果次第では………マリアを力尽くで回収することになるかも』
どのような結果になろうとも、すぐ対処可能にするため、100パーセントの
修復が急がれる。
蝉の声が聞こえる。
いまは冬だったはずだが。
男は障子を開けて、外を見る。
匂い立つような濃い緑が、広がる。
「ああ、勘違いだったか」
何を思い違いしていたのだろう。紛れもなく、いまは夏だ。濃緑にのしかかる
ようにしている、巨大な入道雲が何よりの証。
男は軒先の風鈴を、指で弾いた。
涼しげな音が鳴り響く。が、すぐに蝉の声にかき消されてしまった。
「おとうさん」
聞き慣れたはずの、それでいてひどく懐かしい声が男を呼んだ。続いて男の足
に、軽く、心地のいい衝撃。
「どうした? 富子」
男は自分の足に抱き付いた少女に、優しく声を掛ける。
おかっぱの頭が男を見上げ、「えへへ」と顔中をくしゃくしゃにして笑った。
「おかあさんがね、スイカが切れたから、おとうさんを、よんできてって」
また「えへへ」と笑う。何がおかしいのか、富子は一つ行動を済ます度に笑う。
そんな富子を見ることが、男にとって何よりの幸福だった。
「はやく、はやく」
「こらこら、シャツが伸びてしまう」
富子が男のランニングのシャツを引っ張って、急かす。水色の格子模様の入っ
た、ワンピースになった服の袖口から、まだ幼い脇が覗く。何となく気恥ずかし
くなり、男は目を背けた。
ふとシャツを引く力が消え、男は視線を戻す。
「富子?」
そこにいたはずの、娘の姿は見当たらなかった。代わりに、食卓にそうめんを
並べる妻の姿があった。スイカなど、影も形もない。なぜか妻は黒い着物を着て
いる。
「おい、富子は? 富子はどこへ行った」
言い知れぬ不安を感じ、男は黙々と食事の支度をする妻に、問い掛けた。
「富子なら、そこに」
抑揚のない声で、妻は庭を指さす。
男は促されるまま、庭を振り返った。
「とみ………」
思わず息を呑む。
つい、先刻まで濃緑の栄えていたはずの庭先。ところがいま、振り返った男の
目は、一片の緑も見いだすことが出来なかった。
林立する枯れ木。いや、ただ葉を落としたのではない。立ち並ぶ木々には、も
う二度と命の息吹を取り戻す日などないだろう。そのどれもが、軽く指で触れた
だけで、もろもろと崩れ落ちそうな、朽ち木と化してしていた。
朽ち木には、一枚の枯れ葉とて残されていない。
にも拘わらず、庭一面は落ち葉に覆われている。そしてなおも、どこからか枯
れ葉は降り続く。
だがそんな風景の変化より、男の心を凍りつかせたのは、庭先に立つ富子の姿
だった。
落ち葉に埋もれた庭の中、富子は全身をぐっしょりと濡らして佇んでいる。髪
から、服から、そして指先から。ぽたぽたと、雫が滴り落ちる。
舞い落ちる葉が、富子の身体に貼りついていく。
「とみ……こ」
男は掠れる声で、娘の名を呼んだ。
すぐにでも娘を抱き上げ、助けてやらなければ。そう思うのだが、足が全く動
かない。
「おとうさん」
悲しそうな声。
青ざめた顔の富子が、男の顔を見つめる。
富子は泣いているようだった。富子を濡らす水は、まるで身体の中からしみだ
して来るかのように、筋となって流れ落ち、足下に溜まっていく。そのような状
態にあっても、男には富子の目から溢れている涙を、はっきりと見て取ることが
出来た。
助けなければ、助けなければ、助けなければ…………
焦るほどに、身体の自由が失われて行く。男は足はおろか、指先さえ、瞬きの
一つさえ思うように出来ないでいた。
「おとさん、たすけてくれないの?」
富子の言葉が、男の胸に深く突き刺さる。
何かに吸い込まれるように、富子の姿がゆっくりと後ろへ下がって行った。
『駄目だ富子、行くな』
心で叫ぶが、声にはならない。
遠ざかって行く、富子の姿はついに見えなくなってしまった。
「富子! 富子! どこへ行ったんだ!」
先ほどまでの金縛りがまるで嘘のように、男の身体に自由が戻った。
「富子なら………」
後ろからの声に、男は振り返った。そこにいるはずの、妻に向けて。
しかしそこに妻はいなかった。代わりに、成長した富子の姿があった。
「富子………」
男は娘の姿にしばし見とれてしまった。
薄暗い部屋に栄える、白無垢を纏った富子。まだ幼さの残る顔も白く、紅く塗
られた紅が、やけに印象的だった。
「私は、光太郎さんのもとに行きます」
別れの挨拶。
しかしその先に、幸せはない。男はそう直感した。
「お父さんは、光太郎さんが嫌いなのですか?」
光太郎? 聞いたことのある名前だったが、それが誰なのか、男には思いだせ
ない。
「誰なんだ光太郎というのは? 俺は知らんぞ。そんな結婚は認められん」
「ひどい………」
感情の見ない、富子の声。
「よく知っているくせに。お父さんの、殺した人よ」
白無垢が黒く染まる。そして薄暗い室内に溶け込み、消えていく。
「行くな、富子!」
今度は動くことが出来た。しかし、伸ばした手が富子に触れることはなかった。
すり抜けた手が、まるで立ちこめる煙を払うように、富子の姿をかき消す。
「お父さんが、殺したの………」
「違う、俺は………違う」
思い出した。
いや、本当は初めから分かっていたのだ。ただ覚えているのが辛く、いつしか
無理に忘れたように努めていた名前。それが光太郎だ。
「同じことよ。お父さんが殺したの」
かき消えていく富子を、男は必死に集めようとした。しかし懸命に手を振れば
振るほど、富子の姿は拡散し、薄れて行く。
「私は行きます。光太郎さんのところへ」
「駄目だ! 行くな! 行くな! 行くな!」
叫ぶより他になかった。
やがて富子の姿は完全に消え、暗い部屋に男一人が残された。
「富子ぉ……富子ぉ」
目を開いてからもしばらく、老人は寝言の続きを口にしていた。
「どうしたんです? また夢をみたんですか」
心配して覗き込んだ老婆の顔を、老人は不思議そうに見つめ返す。
「ここは、どこだ?」
「寝ぼけてるんですか、おじいさん。私たちの部屋の中ですよ」
「部屋?」
老人はむくり、と起き上がり、部屋の中を見回す。
わずかばかりの家財道具。さして広くない部屋。
「ここは、わしの部屋か?」
「そうですよ」
「ずいぶん狭くなったなあ………富子は、どこにいる?」
「いませんよ、富子は」
老婆は笑顔を作って見せる。
「光太郎のところへ、行ってしまったのか」
「ええ、行ってしまいました」
「そうか。行ってしまったのか」
老人は両手で顔を覆い、泣き出してしまった。
居酒屋『満天』に、遅刻してきた愛美だったが「今日は休んでも、平気だった
よ」と笑って迎えてくれた女将に救われた。けれど女将の言葉は、ただ愛美を安
心させるためだけのものでもなかった。
女将もこの時期にしては珍しいと言っていたが、本当に今日の客の入りは少な
かった。なるべく知り合い、特に学校の先生などに見つからないよう、裏での仕
事を専門にしている愛美だが、忙しい日にはそうもしていられない。ここ数日は
店の中を走り回るような忙しさが続いていたのだが、今日はその必要もない。愛
美が店について三十分ほどは、全く客のいない状態が続いていた。
いまようやく入って来た、二人連れのサラリーマンのため、女将がビールを運
んで行く。愛美は調理場で、里芋の皮をむいていた。
じりりりり。
最近では珍しくなった、黒電話のベルが鳴る。愛美より先に、近くにいた女将
が取った。
「はい、居酒屋『満天』です。ええ、そうですが」
店が賑わっている時でも、はっきり相手に聞こえる大きな地声。それが客の少
ない店内に、陽気に響き渡る。
「えっ、藤井さん? ああ、先日いらっしゃった、愛美ちゃんのお知り合いの方
ですが。はい? なんですって………」
自分の名前が出たことで、愛美は里芋をむく手を止め、受話器を握る女将を見
た。女将の陽気な顔に、曇りが生まれる。初めは駿の名前が聞こえたので、美璃
佳のことで礼を言うために、電話を掛けてきたのだろうと思った。だが女将の様
子から、そうではないらしいと悟られる。
「はい、分かりました。わざわざありがとうございます」
習慣で、二度ほど頭を下げて電話を切った女将が、愛美へと向き直った。
「大変だよ、愛美ちゃん! お父さんが倒れたって………」
半分まで皮をむき掛けた里芋が、愛美の足元を転がって行った。
#4291/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:32 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(21) 悠歩
★内容
『満天』を飛び出したとき、外には強い風が吹いていた。昼間の暖かさが嘘の
ように、冷たい風が愛美の頬を切りつけて行く。
しかしいま、肌を切りつけるような冷たい風も、愛美には感じられない。手袋
もマフラーも、店に忘れたことも気づいていない。紺色の地味なコートのボタン
を止める間も惜しみ、父が運ばれた病院へと急いだ。
外来受付へ通じるドアは、既に閉鎖されていた。愛美は急患搬入口になってい
る、自動ドアの方へと廻った。
「愛美ちゃん!」
ドアの外で病院内の明かりを背にした影が、愛美の名を呼び、手を振る。
「あ、藤井さん。あの、父は?」
「いま、集中治療室に入ったところだ」
そう応えると、駿は愛美を先導するように自動ドアのくぐり歩き出す。何度か
訪れたことがあり、病院内の構造も知っていた愛美だが駿に従って後ろを歩く。
二人は病人をストレッチャーのまま運べる、大型のエレベータに乗り込み四階に
向かった。
「美璃佳ちゃんが世話になったみたいで………ありがとう」
エレベータの位置を示すランプを見つめていた愛美に、駿の声が掛かる。
「いえ、こちらこそ。父のこと、ありがとうございました」
気が急いていたため、愛美の受け答えはどこか事務的になる。
ちん、と到着音がしてエレベータが停止する。ドアが開くと、愛美は駿より先
に出て、集中治療室へ向かう。
「あ、お姉ちゃん」
集中治療室の前のソファに座っていた良太が、愛美に気づいて立ち上がった。
その横では美璃佳が寝ている。そしてもう一人、最近駿と同棲しているらしい女
性、たしかマリアと呼ばれていた人もいた。
動転していた愛美は、良太たちに一瞥をくれただけで、そのまま集中治療室の
中に入った。
「!」
目に飛び込んできた光景に、思わず絶句する。
ベッドに横たわった父。全身に細い管とコードが繋がれ、蛇のように絡んでい
る。コードの先には何かを計測する装置があり、そのモニターが山なりの波長を
表示していた。
口には呼吸を助けるためか、嘔吐物を取り除くためか、太い管が入れられてい
る。
誰からも説明を受けずとも、父の状態が思わしくないことは一目瞭然だった。
「あら、あなた。愛美ちゃんね?」
初め愛美に背を向けて、モニターが計測している数値を書き写してした看護婦
が振り返った。少し年配の、眼鏡を掛けた顔に見覚えがある。たしかこの病棟の
婦長だ。
婦長は集中治療室の隣、大きな窓ガラスで仕切られているナース・ステーショ
ンの扉を開いて、若い看護婦に何かを告げる。
「じゃあ愛美ちゃん、いま先生がいらっしゃるから、ナース・ステーションで待
っててくれる?」
「あの、でもお父さんは………」
「だいじょうぶよ。お父さんは、私が見てるから、ね」
婦長に促されて、愛美はナース・ステーションに入った。若い看護婦が勧めて
くれた椅子に、腰を下ろす。
嫌な時間だった。
愛美はガラス窓越しに、様々なコード類が繋がれた父を、不安な気持ちで見守
る。
後ろの方にいた当直の若い看護婦たちは、初めは愛美に遠慮していたのだろう。
小さな声で、何かを囁き合っていた。その声も少し時間が経つと、愛美への気遣
いも失われて大きくなり、他愛もない雑談が耳に届く。
「やあ、愛美ちゃん。久しぶりだね」
五分ほど不安な時間を待たされて、三十代半ばの医師が現れた。一瞬、看護婦
たちの話し声が止む。
「戸田先生、ごめんなさい。ご無沙汰してしまって」
椅子から立ち上がり、愛美は医師に頭を下げた。
戸田は父が最初に体調を崩したときから、ずっと診てもらっている担当医だっ
た。と、言ってもここ半年は愛美が勧めるのも聞かず、父は病院に通っていなか
った。
「挨拶はそれくらいにして、座ろうか」
椅子に座った医師は机の上、壁に取り付けられている、裏に蛍光灯の入ったボ
ックスのスイッチをつける。そこへ、手にしていた茶封筒からレントゲン、たぶ
んCTスキャンの写真だろう。それを並べていく。
もちろん詳しい説明を受けなければ、そこに写っているものが何を示すのか、
愛美には分からない。けれど異様に黒い部分の多い写真は、愛美の不安を掻き立
てるには充分すぎるものだった。
「お父さん、良くないんですか?」
本当は答えを聞きたくはない。だが聞かずに済ませられるものでもない。愛美
は自分の声が震えていることを、はっきりと認識していた。
「………ん……」
写真を並べ終えた医師が、愛美へ向き直った。
「本当は愛美ちゃんに話すべきでないかも知れない。だけど、お父さんと二人き
りと言うことを考えれば、君に話すしかないだろう。
愛美ちゃんももう、中学生だ。気を落ちつけて聞いて欲しい」
それだけで、これから医師が話す事柄が良くないものであると察しがつく。愛
美は気が遠のいて行きそうになるのを、必死で堪えた。
最後まで、医師の話を聞かなければならない。他ならぬ愛美の父の容態を、た
だ一人の肉親、娘として知っておかなければならない。その想いが愛美を支える。
「これが普通の患者さんの、肝臓だ」
医師がキャップの付いたボールペンで、輪切り状態になった肝臓の写真を示す。
ボールペンの先が滑り、別の写真の上に移動する。
二枚の写真を続けて見ることで、知識のない愛美にもその違いがはっきりと分
かる。
「これが、君のお父さんの肝臓だ。今日まで、よく我慢できたものだ。かなり辛
かったはずだよ」
そう言って、医師が指し示す写真。現像をするとき、誤って光を入れてしまっ
たのではないだろうか。もしそうだったら、どんなに良かったことだろう。そう
でないのなら、あまりにも不自然すぎる父の肝臓。
それは墨で塗りつぶしたような、黒い塊として写っている。
「お父さんは肝臓ガンだ。それもかなり進んでいる………一ヶ月、保つかどうか」
予想はしていたが、医師の口から直接告げられることで、最後の望みが断たれ
た。
ふと周囲から全ての景色が失われる。
赤、青、緑、白、黒。
全ての色が、複雑に混じり合う。
ただ単色が、全てを支配する。
そのどちらでもあり、どちらでもない。
次に愛美の意識が現実に帰って来たとき、その身体は医師の手によって支えら
れていた。
「だいじょうぶかい、愛美ちゃん」
白衣の袖を見つめながら、愛美はなぜそんな状態になっているのか、しばらく
理解出来ないでいた。
「すまない。やはり話すべきじゃなかったか」
『ああ、そうか。私、お父さんのことを聞いて………気を失ったのかしら?』
頭を下げる医師をみて、ようやく状況を思い出す。
「いえ、いいんです。私、話して下さったこと、感謝しています。だって、何も
知らないまま突然父の死を迎えたら、もっとショックだと思うから」
何か芝居の台詞を読み上げているような気分だった。父の死について口にする
自分が、どこか現実味を感じられない。
「親戚の方が居られるなら、知らせておいた方がいい。いまからこんなことを言
うのは何だが、これからのことを考えなくては。愛美ちゃんの身の振り方を、親
戚の方と相談して………」
「止めて下さい」
穏やかと言うよりは、感情の欠落した声で、愛美は医師の言葉を遮った。
「まだ父は、生きていますから」
「しかし、愛美ちゃん」
「お願い………します」
「………そうか」
「そうだ。父はしばらく、入院することになりますよね」
愛美がそう言うと、医師は怪訝そうな目で見た。
父の状態を見れば、家に帰れる訳などないのは誰でも分かる。それを改めて訊
ねる愛美を、不審に思ったのだろう。
だが愛美は、決しておかしくなったのではない。ただ少しでも生のある父を、
確認しておきたいという気持ちが、そんな言葉になったのだ。
「私、一度着替えを取りに帰ります」
「そうか、じゃあ後で看護婦に渡しておきなさい。中学校はまだ終業式が終わっ
てないだろう。着替えを持ってきたら、君は家に戻って休んだ方がいい」
愛美がおかしくなった訳ではないと知ると、医師は写真を貼り付けたライトを
消して言った。
小さく頷き、愛美は立ち上がった。
「ああ、そうだ。表で待っている人………愛美ちゃんのお父さんを運んでくれた
方は、知り合いかい?」
すっかり忘れていた。
「同じアパートに住んでいる人です」
「それなら丁度いい。あの方たちと一緒に帰りなさい」
「はい」
医師は愛美とナース・ステーションを出ると、外にいた駿に何かを話していた。
「………ここ、どこ?」
駿が背負おうとすると、美璃佳は目を覚ましてしまった。
「病院だよ」
と、声を掛けたのは良太。
「びょういん? だれか、びょうきになったの?」
眠そうに目を擦りながら、まだ状況が掴めないと言ったふうに、美璃佳は頭を
振る。愛美と目が合う。
「あーっ、まなみおねえちゃんだ」
嬉しそうに笑う。
ついいましがたまで眠っていたのに、よくそれだけの笑顔が作れるものだと愛
美は思った。
「まなみおねえちゃん、こわいかおしてるぅ」
笑顔が崩れ、抗議するように美璃佳が言う。
「お姉ちゃんのお父さんが、病気でにゅういんしたんだよ」
妹に耳打ちで説明をする良太。けれどその声は、愛美の耳にも届いて来る。
「まなみおねえちゃん、かわいそう………」
途端に美璃佳の顔は曇る。
短時間でいろいろな変化を見せる美璃佳の表情に、それを半ば虚ろな気持ちで
眺めていた愛美の心に、苛立ちが生まれた。
「何も分からない子どものくせに、余計なことは言わないで」
抑えきれない苛立ちが、乱暴な言葉となって口から漏れてしまう。
「お父さんのいないあなたに、私の気持ちなんて分からないでしょ!」
良太と美璃佳の表情がひきつる。
『私、酷いことを言ってる』
強い後悔の念。
小さな美璃佳に、なんの罪があると言うのだろう。純粋な気持ちで、愛美に同
情しただけなのに。
分かってはいるのだが、一方で攻撃的になっている自分を抑えられない。
「愛美ちゃん」
駿が非難するような目で愛美を見る。
「父のことはお礼をいいます。ありがとうございました。私、着替えとか、いろ
いろ用意がありますので、先に帰ります」
早口で礼を述べると、愛美は逃げるようにしてその場を去った。
「まなみおねえちゃん………おこった………」
美璃佳の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
大声で泣き出すことを予想したのだろう。抱き上げるつもりだったのか、頭を
撫でてやろうとしたのか、駿が手を伸ばしかけた。
けれど唇をぐっと噛みしめ、美璃佳は堪えていた。
掛けてやる言葉も見つけられない駿の手が、宙に止まっていた。
代わりに、はやり固く唇を噛みしめた良太が無言のまま、妹の頭を強く撫でる。
「ねえ、駿。愛美ちゃんのお父さんって、死んじゃうの?」
マリアは訊ねた。
さっき愛美と一緒に出てきた医師が、愛美を手助けして欲しいと言っていた。
はっきりしたことは言わなかったが、愛美の父親の病気はかなり悪いらしい。
「ああ、たぶん。ガンだよ」
語尾を低くして、駿が応えてくれた。
「血を吐いていたからな。うちの親父もそうだったから………肝臓かも知れない」
病名についてはよく理解できなかったが、死に至る確率が高いもののようだ。
それで愛美は、混乱をきたしたのだろう。
「愛美ちゃん、悪気が………別に美璃佳ちゃんのことを、怒っていたわけじゃな
いと思うよ」
駿は、ビニール張りのソファに立った美璃佳の肩に手を置く。
「お父さんの病気が悪くて、ちょっぴり興奮してしまっただけだよ。だから、愛
美ちゃんのこと、許してあげようよ。ね?」
まだ美璃佳の涙が乾くには時間が掛かりそうだった。それでも美璃佳は、駿の
言葉にこくりと頷いた。
#4292/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:33 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(22) 悠歩
★内容
「ねえ、駿。マリア、先に帰ってるね」
そう言うと、駿の返事を待たずにマリアは駆け出した。
「マリア! 一人で帰れるのか!!」
「だいじょうぶ」
「あ、鍵。掛かったままだよ」
「だいじょうぶ」
「だいじょうぶって、マリア」
エレベータは下に降りている途中だった。待っているのももどかしい。
マリアは階段を、二段とばしで駆け降りた。
父の余命が、あといくばくもないと知った悲しみの中、激しい自己嫌悪と後悔
が、愛美を苛んでいた。
『お父さんのいないあなたに、私の気持ちなんて分からないでしょ!』
美璃佳に投げつけた言葉が、愛美自身の心も刻む。
良太と美璃佳の兄妹が、その母親の私生児………父親の誰とも知れない子ども
であることは、なんとなく知っていた。
美璃佳たち兄妹は母子家庭。愛美は父子家庭と、似たような境遇にある。だが
愛美には母が亡くなるまで、いくつもの楽しい思い出がある。優しい母と、働き
者で子煩悩だった父。その思い出が、母が死んでから今日までの愛美の、心の支
えとなってきた。
良太と美璃佳にはそれがない。父親が、どこの誰かは分からない。母親は子ど
もの世話を見たがらない。
どれだけ愛美の方が、恵まれて来ただろう。
自分の父の死が、近いことを宣告されたのだ。動揺しても仕方ないだろう。し
かしそのことを考慮に入れたとしても、愛美が美璃佳に対して執った行動は許さ
れるものではない。
愛美よりも恵まれない環境にあって、美璃佳は人を思いやる心を見せたという
のに。
純真な気持ちを土足で踏みにじり、挙げ句に唾を吐くような真似をしてしまっ
た。
父のことだけでも気がおかしくなりそうな愛美は、自らが起こしたことではあ
ったが、後悔の念にも責められ、潰れてしまいそうだ。
「いけない………私、急がないと」
気がつくと、愛美の足は止まっていた。それどころか、いつの間にかアパート
に向かう道から外れている。
もたもたしてはいられない。父に残された時間が少ないのなら、せめて一秒で
も長くそばにいてやりたい。それくらいしか、愛美にはしてやれることがない。
けれどこんな気持ちで………美璃佳たちの心を踏みにじった愛美に、父のそば
にいる資格があるのだろうか。もしかすると、父はそんな愛美の汚い心に気づい
ていたのかも知れない。だから愛美を遠ざけたくて、父は愛美に冷たかったので
はないか?
つい数時間前、美璃佳と遊んでいた父の姿が思いだされた。
あの時の父は、とても優しい顔をしていた。母が死んでから、愛美には一度も
見せなかった表情。父には美璃佳の純真な心が見えていたのだ。あれが父の、本
当の表情だったのだ。
頬が冷たい。
流れた涙が寒風に冷却されていたのだ。
まるで自分の心のようだ。
そう思いながら、涙を拭う手も冷たかった。
「愛美ちゃん。愛美ちゃあん!」
ふいに名前を呼ばれた愛美は、振り返るより先にコートの袖を使って涙を擦る。
相手が誰であれ、泣いている顔は見せたくない。
「ふぅ。やっと追いついたあ」
いまの愛美には、痛いように感じられる明るい声。
「えっと、あの、マリアさん………でしたっけ?」
半歩後ずさりして、愛美はなるべく外灯から離れた場所に立って振り向く。
愛美に声を掛けたのは、駿と一緒にいた女の人だった。年齢は分からないが、
愛美よりは上だろう。ただ話し方や仕種は、ずいぶん子どもっぽい。
「うん、私マリア!」
瞬間、冷たい風が緩んだような気がした。
くりくりとした、琥珀色の瞳が愛美を捉える。美璃佳とイメージが重なり、愛
美は目を逸らす。
「あの、何か用でしょうか?」
あれほど後悔していたのに、人の前に立つと嫌な自分に戻ってしまう。
「さっき美璃佳ちゃんには、言い過ぎました。そのことは謝ります。あの、私急
いでますから」
ぶっきらぼうに言い放ち、愛美はその場を去ろうとした。
その手が、強く掴まれた。
「無理をしないで」
どこまでも明るいマリアの声。
手を振り解こうとした愛美だったが、出来なかった。
「愛美ちゃん、本当は優しい子なのに。いまだって、美璃佳ちゃんに言った言葉、
すごく後悔してる」
「別に私は………どうしてそんなこと、あなたに分かるんです!」
「だって、見えるもん」
「えっ?」
「愛美ちゃんの色」
言っていることが分からない。
何かを抽象的に表現しているのだろうか。
愛美はマリアの瞳を覗き込んだ。無垢な笑顔が、それに応えている。
この人に、とても遠回りな物言いが出来るようには思えない。本当に、何か色
が見えているのかも知れない。
「愛美ちゃんは、お父さんのことが大好きなんだよね。そのお父さんが病気で倒
れて、何が何だか分からなくなったの。それで愛美ちゃんが、愛美ちゃんでなく
なってしまったの。
美璃佳ちゃんにあんなこと、言うつもりなんてなかった。なんで言っちゃった
んだろうね。いまはすごく後悔してる。ちゃんと謝りたいけれど、また美璃佳ち
ゃんを目の前にしたら、もっと酷いことを言ってしまいそうで恐いの。
でもね、だいじょうぶだよ。愛美ちゃんは本当は優しい子だし、美璃佳ちゃん
もとってもいい子だよ。だから、いまはまだダメでも………愛美ちゃんの気持ち
が落ち着いたら、ちゃんと謝ろうよ。
ううん、焦らなくても平気だよ。美璃佳ちゃんってまだ小さいけれど、人の気
持ちを思いやれる子だから。さっきはいきなりだったから、びっくりしたみたい
だけど。愛美ちゃんの気持ち、分かってると思うよ、ね」
勝手に愛美のことを決めつけた、マリアの言葉。
美璃佳に怒鳴りつけてしまった時の愛美なら、きっと反発していただろう。い
まだって、初めは反発するつもりでいた。けれど出来なかった。
子どもっぽい話し方をするマリア。冷静に聞いていれば、とても説得力がある
とは言えないものだろう。なのに、不思議と聞いているうちに納得させられてし
まう。
昔、悪戯をして父に叱られたことを思い出した。
まだ幼稚園に通う前だった。自分が悪かったと分かっていたのに、叱られたこ
とで愛美は意固地になっていた。早く謝って、許してもらいたかったのに、それ
が出来ない。
そんな愛美に、母は優しく言ってくれた。
『本当は自分が悪かったって、思ってるのよね。愛美ちゃん』
愛美はわずかに頷くのが、精一杯だった。
『それなら、ちゃんとお父さんに謝りましょうね。お母さんは知ってるのよ。愛
美ちゃんが本当は、とてもいい子だって。もちろんお父さんだってそうだわ。だ
からね、ちゃんとごめんなさい、って言いましょう』
全然似たところなんてないのに。
マリアがあの時の母に見えてしまった。
「ね、愛美ちゃん?」
「………はい」
素直に返事出来たことが、愛美自身、不思議だった。
「あの、マリアさん………ありがとうございました。私、父の着替えを用意する
んで………」
「あ、うん。私はちょっと行くところがあるから」
「じゃあここで」
少しだけ気持ちの楽になった愛美は、マリアに頭を下げてアパートの方へ歩き
出した。『マリアさんって、不思議な人。まさか、本当にマリアさまの生まれ変
わりなのかしら』
愛美は教会のステンドグラスに描かれた、聖母マリアの姿を思い浮かべた。け
れどマリアの姿とは重ならない。
「愛美ちゃん。私も、愛美ちゃんのお父さんが、元気になるようにお祈りするか
ら」
マリアの言葉に、愛美は笑顔で振り返り応えた。
父が元気になることは、もうないと知っていながら。
「ふう、さて」
愛美と別れたマリアは、辺りを見渡す。そして公園の入口を見つけた。
「あそこにしよう」
遊戯施設のない、広場になった公園の中に入る。『野球禁止』と書かれた看板
を横目に、マリアは思いの外に広い公園の中央に向かった。
まだそれほど遅い時間ではなかったが、冷たい風の吹き抜ける公園に人影はな
い。数本の外灯が設置されていたが、そのほとんどが並ぶように植えられた木の
枝に遮られ、公園内を充分に照らしてはいない。
「ここなら、たぶん平気かな」
マリアは、公園内に他に人のいないことを確認した。
「ずっと連絡するの、忘れていたから………ママ、怒ってるかな?」
別段、悪いことをしたと思っていないマリアはぺろりと舌をだす。そして祈る
ように手を合わせ、心の中で呼びかけた。
『ママ、ママ。聞こえる? 私よ』
『マリア! マリアなのね』
すぐに返事が返ってきた。
『もう、いつもでも連絡をよこさないから、心配してたのよ』
久しぶりに聞く、ママの声。今日まですっかり忘れていたくせに、ママが無事
だったことを知りマリアは安心をする。
『ごめんなさい。すっかり忘れてたの』
『本当に仕方ない子ね』
『あのね、ママ。マリア、お願いがあるの』
『お願い? 何かトラブルでも起きたの?』
『ううん、そうじゃないの。助けて欲しい人がいるの』
『助けて欲しい?』
『うん』
マリアは愛美の父親の姿をイメージする。
倒れる直前、倒れた直後。こっそり覗いていた、CTスキャンの写真。「ガン
かも知れない」という、駿の言葉。
マリアがイメージしたものは、ママへと伝わる。それはテレパシーと呼ばれる、
超能力の類とは異なっていた。マリアが見聞きしたものに、曖昧な記憶が混じる
ことがない。マリア自身が、遠隔操作されたママの一部となったように、その経
験が寸分の狂いもなく送られていく。
『ね、ママだったら治せるでしょ? マリアのどんな病気だって、治してくれた
もの』
『ええ、治せるわ。でも、どうしてその必要があるの?』
『だって、この人が死んじゃったら、愛美ちゃんがかわいそうだもん』
マリアは微笑んだ。ママがその願いに応えてくれることを、信じて疑わずに。
しかしママの答えは、マリアの期待しているものとは違っていた。
『出来ないわ』
『えーっ、だっていま、治せるって言ったのに』
頬を膨らませて、マリアは抗議する。遠く離れていても、その様子はママに見
えているはずだ。
ママが危惧していたことが、現実になっていた。
ようやく連絡をよこしたマリアは、この惑星の生命体と深く関わってしまった
らしい。
マリアが望まなくともその心に接触出来れば、ママは彼女の得た全ての情報を
知ることが出来る。「病気を治してほしい」と言ってきた人間に関する情報と共
に、ママはマリアがこの惑星に降り立ってからの全てをも知った。
好ましくない状況だった。
駿、良太、美璃佳、愛美………マリアの心から引き出された、いくつもの名前。
それらに対してマリアが持つ興味は、調査対象としての域を越えている。
心配していたように、ママの監視下を離れていたマリアは、その好奇心から彼
らに強い感情を抱き始めていた。特に駿という、この惑星の支配種族の雄に対し
ての感情は、大きな危険を孕んでいる。
『出来ないわ』
マリアの希望は、決して受け入れられるものではない。受け入れる理由もない。
『えぇっ、だっていま、治せるって言ったのに』
頬を膨らませて抗議する、マリアの姿が感じられた。
『分かっているはずよ、マリア。探査規則31条・惑星上に於ける原住生物への
干渉の範囲について』
『特別なことがない限り、そこの生き物たちの生死に関わってはいけない、って
ことでしょ?』
#4293/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:35 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(23) 悠歩
★内容
ふくれ面でマリアが応える。
『そうよ、だからサンプルも遺伝子のみに限られているでしょう』
『でもこれは、特別な場合なの! だって愛美ちゃんにとって、お父さんは大事
な人なんだもん』
マリアの感情が、大きく動くのが分かった。どうやら想像以上に、マリアは接
触した原住生物たちに影響されているらしい。
『どうしてそう思うのかしら? あなたには「お父さん」という存在が理解出来
るの?』
マリア自身は知らないことだが、彼女には生み育てたという意味に於いての両
親は存在しない。そんなマリアが、ママの監視下を離れていた期間に父親と娘と
の情を理解したとは思いにくい。
『本当は、お父さんってよく分かんない。でもマリア、もしママがいなくなった
ら一人ぼっちだよ。そんなの嫌だもん。きっと愛美ちゃんにとってのお父さんと、
マリアにとってのママはおんなじだと思うの。
だからお願い。愛美ちゃんのお父さんを、治してあげて』
実にマリアらしい答えだった。
だが、マリアの調査員としての役目には不要な優しさ。マリアの調査員として
の適性である旺盛な好奇心に影響が出てはいけないと、これまは放置してきた。
しかし考える必要がありそうだ。
『私の居場所は分かるわね? マリア。戻っていらっしゃい』
『愛美ちゃんのお父さんを、連れて行っていいの!』
マリアが目を輝かせた。どうやら、言葉の意味を誤解しているらしい。
『いいえ、あなた一人で戻ってくるのです』
『そんな………どうしてなの、ママ』
『探査規則25条の8、あなたの記憶を調整する必要があります。特に駿という
人物に関する記憶は危険です。速やかに削除すべきです』
『………マリア、ママなんて大嫌いっ!!』
それを最後に、マリアの意識はママとのコンタクトを拒絶した。
『困った子………』
これまでにない、マリアの強い抵抗にママはため息をつく。以前似たようなこ
とがあったが、その時にはマリアは常にママの監視下に在ったたため、大事に至
らずに済んだ。しかし今回、マリアは監視下から離れているためことは悪い方へ
と、流れている
ママにとり、マリアのことを含めた全てが好ましくない状況にあった。
もはやマリアの記憶を調整するには、強引に動くしかない。その際、この惑星
の支配種族たちに発見され、あるいは攻撃を受ける恐れもある。たが文明レベル
から判断して、仮に彼らが最高の兵力を以てママに当たったとしても、充分に突
破可能だった。
現状は、その行動に出るのもやむを得ない事態と、判断してもいい。
けれどママは、もうしばらく待つことにした。
少なくともあのことについて、連絡があるまでは。いや、もう連絡が来ること
はないと分かるまでは。
ただしそれを待つのに、ここにいるよりも一度惑星の大気圏外に、出たほうが
いいだろう。
ママは夜陰に乗じて、海から飛び立つことにした。
「はぁあ」
マリアは深いため息を、一つつく。
わずかばかりの明かりの中、口もとから昇る白い煙を、ぼんやりと見つめる。
「ママの………ばか」
マリアにとって、何よりも信ずべき存在だったママ。けれどママは、マリアの
想いを分かってくれなかった。
規則、規則、規則、規則、規則………
いままでは気がつかなかったが、ママは何より規則を優先させようとする。
「マリア、もうママのところへ帰れないよお」
『あなたの記憶を調整する必要があります』
ママの放った、冷たい言葉。
駿や美璃佳たち兄妹。彼らと出会って、マリアの中に芽生えた不思議な気持ち。
彼らのことを想うと、なんだか暖かい。
彼らのことを考えると、なんだか寂しい。
駿のことを考えると、なんだか気持ちが安らぐ。
それはいままで、マリアの経験したことのない気持ち。でもとても素敵な気持
ち。
ママはその記憶を、マリアから奪うと言うのだ。いつもは優しいママが、初め
て冷たく感じられた………。
本当にそうだろうか?
ふと小さな疑問が浮かぶ。
ママがマリアに冷たかったのは、本当にこれが初めてだったろうか?
何かがマリアの記憶の中に甦る。
朧気な輪郭。男の人の顔のようだ。駿ではない。
『誰だろう………この人』
もう少しで、その顔がはっきりと思いだせそうだ。だが寸前で、まるで煙をか
き消すように、その顔は頭の中から失われた。
『もしかすると………』
これもまた、ママによって削除されてしまった記憶なのかも知れない。
考えてみれば、この惑星に降り立つまでのマリアの記憶の中には、ママ以外と
触れあった思い出がない。
これまで、いくつの惑星に降り立ったことだろう。なのにそこで知的生命体と
出会った記憶は、全くなかった。
それもまた、探査規則に従ったママが、マリアから記憶を削除した結果なのだ
ろうか。
いつの間にか、マリアは自分の目の周りが熱くなっていることに気がついた。
「なに、これ」
手で触れてみて、驚く。
指で掬いとった涙を、マリアはしばらく凝視した。
初めての経験。少なくとも、残されているマリアの………虫食いだらけの記憶
では、
これまで涙を流した覚えはない。
「マリアも………美璃佳ちゃんと一緒だ」
寂しくて、不安で、悲しくなって涙を流す。
長い長い時間を、一緒に過ごして来たママ。ママこそが、マリアにとっての全
てだと思っていた。けれど違うのかも知れない。
ママは泣かない。
どんなに近くにいても、ママの顔を見ることは出来ない。
いまマリアは、長い時間を共に過ごしてきたママより、短い時間を共にしただ
けの駿や美璃佳たちの方が、自分に近い存在に思えた。
「誰だったんだろう? さっきの人は」
もう一度マリアは、その顔を思いだそうとした。しかし今度は、その輪郭すら
浮かんでくることはなかった。ただ、流れる涙の量が増えただけだった。
何かその人と悲しい思い出があったのだろうか。
自分のことなのに、何も分からない。マリアはそれがもどかしかった。
いくら努力しても、失われた記憶が甦ることはない。やがてマリアは、思い出
すことを諦めて、公園の出口へと歩き出した。
「私、ずっとここで暮らしたい」
そう、呟きながら。
公園を出たマリアを迎えたのは、大きなエンジン音。
「彼女、なに泣いてんのぉ?」
見知らぬ若い男が二人、用途不明の装飾、あるいは機能が疑問視される改造の
施された車から降りてきた。
「何か悲しいことでも、あったのかなぁ」
マリアに声を掛けてきた男たちは、二人とも駿とはだいぶ違う恰好をしていた。
一人は髪の毛は元の色と違う物に染め変えられ、針の山のように固められている。
そしてもう一人の方は、髪の色は元のままだが、やはり強引な形で固められてい
て重りのように見える。
二人とも耳に、そのうちの一人は鼻にまで穴を空けて、装飾品を通している。
街中でも何人か同じ装飾品を身につけた者を見掛けたが、駿はしていない。もし
かすると、駿とは別の部族の証なのかも知れない、とマリアは思った。
「あれぇ、君、日本人じゃないのかなぁ。言葉、分かる? キャン、ユー、スピ
ーク、ジャパニィズ」
茶色く髪を染め、鼻に装飾品を付けた方の男が、マリアの瞳を覗き込んで言っ
た。
「マリアに何かよう?」
マリアが応えると、二人は口を揃え「おおっ」と驚いて見せた。
その間、彼らの降りてきた車のエンジンは掛かったままだった。そのエンジン
音から判断して、エネルギー効率はかなり悪そうだ。
「マリアちゃんっていうの。君、可愛いねぇ。俺らとドライブ行かない?」
変な笑みを浮かべながら、茶色の髪の男が言った。その後ろでもう一人の男は、
盛んにもごもごと口を動かしている。何かを噛んでいるらしい。反芻をしている
のだろうか。
「ううん、マリア、もう帰るの」
マリアは男たちの横を、通り抜けようとした。すると反芻をしていた男に、腕
をつかまれた。
「そんなつれないこと言うなよ、マリアちゃん。一緒に遊ぼうぜ」
顔は笑っているのに、声は脅すような調子だった。二人がこの周辺でも有名な
不良であることを、マリアが知る由もない。ただ腕をつかまれた理由が分からず、
きょとんと男の顔を見返すだけだった。
「そうそう。一緒に楽しもうよぉ」
茶色の髪の男が、マリアの肩に手を掛けた。
「誘ってくれてありがとう。でもマリア、もう帰らないと駿たちが心配するの。
愛美ちゃんのお父さんのことも気になるし。ごめんね」
そう言って、マリアは微笑んだ。
二人の男は、互いに顔を見合わせた。そして茶色の髪の男が、自分のこめかみ
辺りに指を充て、くるくると回す。
「あなたたちも、帰った方がいいと思うよ。ほら、外はこんなに寒いんだもん。
それにね、二人とも色が悪くなってるの。でも心配しなくても、平気だよ。真ん
中には、ちゃんといい色が残っているから。大事にしていれば、全部いい色にな
るよ」
マリアをつかんでいる腕の力が緩んだ。するりと抜け出して、マリアはアパー
トへと歩き出す。途中、足を止めて二人に振り返り、大きく手を振った。
「じゃあね、ばいばい。あと、乗らないときは、車のエンジン、止めておいた方
がいいよ」
呆然と立ち去るマリアを見送る二人。
その姿が完全に見えなくなり、最初に我に返ったのは茶色の髪の男だった。
「おい、浩二。なんで簡単に、行かせちまったんだよぉ」
「なんでって。お前だって引き留めようともしなかったじゃねえか!」
「お、俺は………嫌なんだよ。頭のおかしな女なんてさぁ。なんか………あとで
ヤバイこととかになったら、面倒じゃん」
「俺もだよ………いくら可愛くても、オツムがパーじゃなあ」
二人とも、お互いに本当のことは言えなかった。マリアの瞳に見つめられてい
るうちに、これまでに経験がないほど心が穏やかになってしまったことを。いま
まで気にしたこともない家族が、恋しくなってしまったことを。
「なんかさぁ、今日は気分が乗らないんだよねぇ。家に帰って、さっさと寝ちま
いたいって気分?」
「俺も、なんかもう疲れたわ」
「帰ろうか」
「ああ」
「じゃ、車に乗れよぉ。送ってやるから」
「ああ、サンキュ」
二人を乗せた車は、静かに走り出した。
「あら?」
アパートに戻ったマリアは、階段に座り込んでいる美璃佳を見つけた。
小さな手を合わせ、空に向かって何かを呟いている。
「美璃佳ちゃん、こんなところで、何をしてるの」
「あっ、マリアおねえちゃん」
マリアに気がついた美璃佳が手を振った。
「あのね、おいのりしてたの」
「お祈り?」
「うん。まなみおねえちゃんのパパが、はやくげんきに、なりますようにって」
寒さの中で、ほっぺたを真っ赤に染めた美璃佳が言った。
「ふうん、美璃佳ちゃんって、優しいんだね」
「えへへっ。だって、まなみおねえちゃん、かわいそうでしょ。みりかは、マリ
アおねえちゃんや、りょうたおにいちゃんや、しゅんおにいちゃんたちといっし
ょだから、さみしくないけど。パパがいないと、まなみおねえちゃん、ひとりぽ
っちだもん」
美璃佳の小さな口から、たくさんの白い息が昇っていく。
「それにね、みりか、まなみおねえちゃんも、まなみおねえちゃんのパパもすき
だから」
にっこりと美璃佳は笑う。
「だいじょうぶだよ。美璃佳ちゃんがお祈りしたから、愛美ちゃんのお父さん、
きっと元気になるよ」
「うん」
「さあ、風邪をひかないうちに、お部屋に戻りましょう」
マリアは美璃佳の肩を抱いて、部屋に向かった。
#4294/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:36 (197)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(24) 悠歩
★内容
部屋の中央に置かれた大きなカプセル。
半分にした円柱を横たえた形の、ガラス張りになった上部がスライドして開く。
それからしばらく間を置き、二本の細い腕が伸ばされた。
「ふわあぁぁっ」
大きなあくびが一つ。続いて裸の少女が、ゆっくりとその身を起こした。
「おはよう、マム。私、どのくらい寝てたのかな?」
『150年くらいかしら。気分はどうかしら』
「まあまあかしら。でも早いね、150年なんて。次の太陽系まで、時間が掛か
りそうだって言ってたのに」
少女は一糸纏わぬ姿のまま、カプセルから出て立ち上がる。爪先を床につけて
足首を回してみたり、その場で飛び跳ねてみたり、自分の身体を確認する。
『事態が変わったのよ。どうしても行かなければならない惑星があるの。数日後
には到着の予定だから、あなたも用意なさい』
「えっ、それってもしかして?」
顔を上げた少女の瞳が、きらきらと輝く。そこに浮かんだ期待の色は、誰が見
ても逃すことはないだろう。
『ええ、まだ分からないけれど。上陸するかも知れないわ』
「ほんと!」
溢れるばかりの笑顔。
久しぶりに土が踏めるかも知れない。
久しぶりに風に当たれるかも知れない。
久しぶりに水で泳げるかも知れない。
そして、久しぶりに自分以外の生物に出会えるかも知れない。
「ねえ、どんな星なの? ピーピングを行かせてるんでしょ。見たい、見たい、
見たい、見たい、見たいよお」
『しょうのない子ね。いいわ、見せてあげるから、コントロール・ルームへいら
っしゃい』
「はあい」
元気良く応え、少女は部屋を飛びだした。服などは着ないで。
「とおちゃあく! あっ」
全速力でコントロール・ルームにたどり着いた少女は、そこで自分を出迎えた
立体映像に、息を整えることすら忘れて魅入ってしまった。
「きれい………きれいだよぉ」
理由なんて分からない。
けれど蒼い惑星の立体映像に、少女の心は震えていた。
陶然とした眼差しで、ただ映像を見つめるだけだった。
くゆらせた煙草の煙が、開かれた窓に近づくと突然、吸い込まれるようにして
外へ流れていく。
どこかで雀たちがさえずっている。
風がないので、窓から射し込む陽も暖かい。
子どもたちに気を使っていたため、たまにしか吸えない煙草だったが、あまり
旨いとは思わなかった。これからのことを思って、気が滅入っているからのなか。
手狭に感じていた六畳一間。いきなり三人もの居候が増え、なおさら狭く思っ
ていたのに、一人でいると意外に広いものだ。
駿は部屋の隅に仲良く並んだ、人形とクマのぬいぐるみを見つめた。
マリアと良太たちは、近くの公園で遊んでいる。来客の予定があるので、駿が
マリアに頼んだのだ。
いままでは、マリアや良太たちが常にそばにいて、ものをゆっくりと考える暇
もなかった。それがこうして、突然一人になる時間が出来ると、いろいろ余計な
ことまで考えてしまう。
とうとう今日まで聞き出せずに来たが、マリアは何者なのだろう。そろそろ一
週間にもなるが、未だマリアは帰ろうとする素振りも見せない。またマリアらし
い人物を探している人の話も、関わりがありそうな事件の報道も聞かない。強い
て挙げれば、あの晩の翌日駿たちも目撃した隕石についての報道がされていたく
らいである。
けれど別段、マリアについて駿は何も焦りはなかった。彼女と一緒にいること
は心地よい。
見かけのわりには幼いところもあるが、あばたもえくぼ。馴染んでしまえば、
それもまたマリアの魅力に感じる。
最初のうちは、出会ったときにいきなり彼女の裸を見てしまったため、気持ち
が昂揚してしまったのだろうと思っていた。
一人前の成人男子、しかも独身の駿。若くて可愛らしい女性の裸を目にして、
何も感じない訳がない。まして前の彼女と別れたばかりで、寂しさもあった。
あの時、良太や美璃佳がそばにいたことは幸運だった。もし子どもたちがいな
かったら、自分がどのような行動に出ていたか、あまり考えたくはない。
だからこそ、駿はマリアを一人の女性として見ないように心がけていた。もっ
とも特に意識しなくても、子どもたちと同じ部屋で暮らすのは思った以上に、て
んてこ舞いさせられそんなことを考える余裕もなかった。またほとんど子どもた
ちと変わらない、マリアの性格にも助けられていた。
しかし改めて考えてみると、マリアという女性は駿にとって好ましい存在だっ
た。いや、好ましい存在になっていた。
もともと駿の好みの女性は、もっと淑やかなタイプ。この冬、別れたばかりの
彼女がそうだったように。マリアのように子どもっぽいタイプは、決して恋愛の
対象にはならないと思っていた。
ところが同じ部屋で寝起きし、同じ時間を同じ場所で過ごすうちにマリアに対
しての情が湧いてきた。裸を見てしまったから、という事実も否定は出来ない。
けれど性的な意味でなく、共にいることで気分が安らぐのだ。初めは、妹がいた
らこのように感じるものなのだろうと思った。だが違う。いま駿がマリアに抱い
ている感情は、肉親に対するようなものではない。
もし叶うなら、ずっとマリアと同じ時間を過ごしたい。
マリアの身元が分かったのなら親、あるいはそれ以外の保護者に挨拶をしたい。
もちろん、マリアがまだ何かの犯罪に絡んでいる可能性は残されている。けれど
あの性格から、被害者になることはあっても、自らが積極的に関与していること
はあり得ないだろう。
それ以前に、この想いは全て駿の一方的なものである。まだマリアの気持ちを
確認した訳ではないのだから。だが少なくとも、駿に対してある程度以上の好意
をマリアも持ってくれているだろうと思われる。全く脈がないこともなさそうだ。
なによりこれから先身元が知れ、マリアがこの部屋からいなくなってしまう日
が来ることなど、もういまの駿には考えられない。
しかし………良太や美璃佳は、そうはいかない。
子どもたちには、ちゃんとした親が必要だ。いつまでも、たまたま隣に住んで
いただけの駿が保護者代わりを気取り、ままごとのような家族ごっこを続けてい
ることは出来ない。
駿とて、やはり数日間共に過ごしたことで、子どもたちにも情が湧きつつあっ
た。けれどマリアと子どもたちでは事情が異なる。
何より駿の力では、いつまでも子どもたちの面倒を見続けることは不可能だ。
経済的にも、精神的にも。
これ以上深みに入らないうち、いまでも充分入ってはいるが………子どもたち
の将来のためにも、然るべき手段を執るしかない。
トントントン。
ドアが三回、ノックされた。
「はい、どなた?」
「先日、連絡しました稲田です」
男の声。どうやら、待っていた来客が訪ねて来たようだ。
「あ、どうぞ。鍵、開いてますから」
「それでは失礼します」
ドアがゆっくりと開かれ小柄な、しかしきちっとした身なりの中年、いやそろ
そろ初老に差し掛かった男性が入ってきた。
「やはり母親は、親権を放棄したと思って良さそうですね」
老眼鏡を掛け、民生委員の稲田は手にした資料に目を通している。
稲田の話によると、良太たちの母親は数日前、駿が最後に姿を見た日から勤め
先のランジェリー・パブを無断欠勤しているらしい。
もともと遅刻・欠勤の常習者だった彼女だが、今回は長すぎる。どうやら彼女
の馴染み客と駆け落ちしたのではないかと、従業員たちの間ではもっぱらの噂だ
そうだ。あの日駿が見掛けた、彼女と一緒にいた男がそうなのだろう。
またそのランジェリー・パブに勤める際、彼女は子どもがいることを隠してい
た。確かに若く、プロポーションもそれなりに整った女性だったので、誰も疑い
はしなかったようだ。
「子どもをほっぽって駆け落ち、ってだけでも親としてどうかと思いますがね。
もう一つ困った事がありましてねぇ」
稲田はさらに話を続ける。
それによると、彼女と駆け落ちをしたらしい相手の男にも、かなり問題がある
と言う。何でも最近、警察から覚醒剤の売人として手配されたばかりだそうだ。
しかも以前にも覚醒剤の売買で逮捕され、実刑を受けている常習犯なのだ。
駆け落ちというのも、男が事前に警察の動きを察知し、姿をくらました可能性
が高い。
「岡野さん覚醒剤に関与しているか、分かりませんがね。場合によっては、彼女
も警察に手配されるかも知れませんね。
どちらにしろ、岡野さんに子どもを育てる意志はなさそうですし。あったとし
ても、任せることには疑問ですねぇ。父親か、あるいは彼女との双方どちらかに
親戚がいればいいんですけどねぇ。父親は不明ですし、岡野さんは経歴が全くは
っきりしない。
やはり私としては、然るべき手続きを経て、子どもたちは福祉施設に入れた方
がいいと思いますよ」
「はあ」
駿は曖昧な返事で応える。
いまどき、そんなこともないだろうと思いながらも、施設というのはいいイメ
ージがしない。そんなところに、良太や美璃佳を入れてしまうのは不憫な気がす
る。かと言って、駿に何かしてやれる訳でもない。
それは仕方ないことだ。同情だけで、子どもたちを助けることは出来ない。
「それで孤児院………いや、施設に入れたとして、そのあと良太くんたちはどう
なるんです?」
つい、『孤児院』と口にしてしまい、すぐに訂正をする。『孤児院』ではそれ
こそイメージが悪く思えるし、稲田の眉が痙攣するように動くのが見えたからだ。
「私も詳しくは知れませんけどねぇ。中学を卒業するくらいまでは、いられるよ
うですよ。まあ、里親が見つかって、引き取られる場合もあるそうですが。特に
美璃佳ちゃんですか? 小さい女の子は可能性が高いみたいですね。ま、男の子
でも良太くんくらいの歳なら、引き取り手があるかも知れないですが」
「じゃあ、もしかすると良太くんと美璃佳ちゃんは、兄妹で別れ別れになるかも
知れないんですね………」
「さあ、私には何とも言いかねますが。ないとも言えませんねぇ。可哀想ですが、
子どもたちの将来を考えれば、それがベストですよ」
もとより他人である駿に、どうこう言う権利などない。何も出来ないのなら、
これ以上同情することは止めよう。
「ところで、その子どもたちは?」
部屋の中を見回して、稲田が訊ねてきた。
「外で遊んでいます。あまり子どもたちに、話を聞かせたくなかったので………
お会いになりますか?」
「あ、いえいえ結構です。それでですね、いろいろと面倒な手続きとかありまし
て、今日明日すぐにでもとはいかないんですよ。あと数日ほど、藤井さんの方で
子どもたちを預かって頂けると、助かるんですがねぇ」
出来ることなら、これ以上子どもたちに情の移ることは避けたい。しかし手続
きにどれほど時間が掛かるのか、具体的に何をすればいいのか。稲田任せにして
いるのだから、仕方ない。
駿は稲葉の頼みを、承知した。
「まっかなおはなのぉ、となかいさんはあ、いつもみんなのぉ」
昨日の夜は暗くて気がつかなかったが、公園のすぐ隣には幼稚園があった。
ベンチに腰掛けた美璃佳は、幼稚園から聞こえてくる子どもたちの声に合わせ、
身体を前後に揺すりながら歌を唄う。一言一言をはっきりと発音しようと、大き
く開かれた口から、白い息が立ち昇る。
そんな美璃佳の姿が、マリアの気持ちを和ませる。ママとのことも、愛美の父
親を助けてやれなくなってしまったことも、いまは忘れられた。
並んで座っていたマリアも、知らない歌だったが美璃佳を真似て唄ってみる。
マリアの場合、歌というもの自体が珍しく、楽しかった。
やがて幼稚園から聞こえていた声が途切れる。美璃佳も、そのまま一回転して
しまうのかと思われるほど、身体を大きく前に倒して最後の一節を唄い終えた。
そして小さな掌を合わせ、自分で拍手をする。
「美璃佳ちゃんって、お歌、上手なんだね」
「へへっ」
頬を紅くした美璃佳が、嬉しそうに笑う。
「今度、マリアにもお歌を教えてよ」
「うん、いいよ。でもぉ………みりか、あんまりしらないの」
「でも、いまのお歌。ちゃと唄えてたじゃない」
「あのね。みりか、いつもりょうたおにいちゃんと、ここでようちえんのおうた
を、きくの。それでおぼえたの」
幼稚園の方から、楽しげな笑い声が聞こえた。顔を上げてそちらを見る美璃佳
は、どこか寂しそうだった。
#4295/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:36 (195)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(25) 悠歩
★内容
幼稚園の中で、楽しそうに歌ったり、遊んでいる子どもたち。美璃佳と年齢は
変わりないように見えた。どうして美璃佳はあの中に入れないのだろう。
訊ねてみると「ママがいれてくれないの」と寂しそうな顔をした。
「良太くん遅いね」
幼稚園は静かになっていた。マリアはなんとなく手持ちぶさたそうに、揃えた
足を振り回す美璃佳に話し掛けた。
公園に着いて始めのうちは、鬼ごっこや隠れんぼをしていた。しばらくしてそ
れらに飽きると、今度はボール遊びをしようということになったのだ。あいにく
三人は手ぶらで公園に来ていたため、良太がアパートへボールを取りに戻ってい
た。
「うん、りょうたおにいちゃん、おそぉい。あ、きた!」
美璃佳は公園の入口を指さすと、ぴょん、とベンチから飛び降りて駆け出す。
「あら?」
のろのろと公園に入ってきた良太。どこか元気がない。
そしてマリアの目だけに映るらしい、心の色。もともと美璃佳より、悲しい色
を多く持っている良太ではあるが、それがいつもよりも濃い。
「おにいちゃん、ボールは? ボール」
「あ、ごめん。忘れちゃった………」
美璃佳に応える声は明るかったが、マリアには無理をしているように感じられ
た。
「良太くん、何かあったの?」
「ううん、歩いているうちに、わすれちゃったの」
マリアを見上げて、良太は笑う。けれどその瞳は潤んでいた。
「もう、りょうたおにいちゃんの、わすれんぼ」
ぺしっ。
背伸びしながら小さな手が、良太の肩を叩いて抗議をする。
「ごめん、ごめん。ほかのことして、遊ぼうよ」
「もう、しょうがないわねぇ。とくべつよ」
やけに大人びた口調で、美璃佳が言った。
受話器を置いて、返却口に戻された十円玉を取る。
そして愛美は、電話機の横のソファに腰を下ろした。
いつもならそろそろ『満天』に行かなければならない時刻だが、たったいま、
しばらく休むと電話をしたところだった。学校も休んでしまった。
父のいる、集中治療室のある階にはテレホンカード式の電話しかなく、十円玉
の使える待合室に来ていたのだ。
『そう、愛美ちゃんも大変ね。当分、お店のことは心配しなくていいから。お父
さんのそばにいてあげなさいな。それから………気持ちをしっかり持つのよ』
受話器の向こうで、女将はそう励ましてくれた。
ただ愛美にはそんな女将の言葉も、どこか遠くの国での出来事を語っているよ
うに聞こえた。
父が死ぬかも知れない。
いや、死んでしまうのだろう。
全身に繋がれた管。医学の知識がない愛美でも、父の病状はかなり悪いものだ
と知れる。
そして………回復、完治の望みがないことも。
『気持ちをしっかり持つのよ』
女将の言葉は、それを予感してのものだろう。
医師もとうに手術できる状態は過ぎてしまったと言う。
けれど愛美は認めたくない。
それなのに昨晩から一睡もせず、父のそばに着いていると、様々な思い出が頭
の中を駆けめぐって行った。まるで亡くなった人を、思い起こすかのように。
既に外来の診療時間も終わり、待合室の明かりは落とされている。
電話の横の売店では、販売員がシャッターを降ろしてした。
入院患者を見舞った帰りだろうか。小さな男の子が、元気良く愛美の前を駆け
抜けた。その後ろから若い夫婦が、楽しそうに談笑しながら歩いてくる。
きっとこの人たちの見舞った相手は、病気の経過がいいのだろう。もしかする
と、近々退院出来るほどに回復しているのかも知れない。
前を通り過ぎていく若い夫婦の背中を見る目の周りが、妙にひきつる感じに愛
美は気がついた。たぶん鏡を見れば、凄い目つきをしていただろう。自分の身に
降り懸かった不幸を嘆くばかりか、他人の幸福を妬んでいたのだ。
その事実は、愛美を愕然とさせる。
「私………最低だわ」
両手で顔を覆い、愛美は泣いた。
愛美を現実に引き戻したのは、売店の横にあるコーヒーの自動販売機が、紙コ
ップを吐き出す音だった。
顔を上げると、パジャマを着た男の人が販売機の前に立っていた。入院患者で
あることは間違いない。男の人はコーヒーの入った紙コップを片手に、もう一方
の手でキャスター付きの点滴台を引きずりながら、愛美の隣のソファに腰掛けた。
胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけて大きく吸い込んでいる。
愛美は自分の顔が酷い有り様になっているだろうと想像し、なるべく男の人か
ら見えない角度にと向けた。もっとも男の人は、愛美を気にする様子など全くな
い。病院と言う場所柄、愛美のように、この場所で暗く落ち込んでいる人を見掛
けるのは、珍しいことではないのだろうか。
愛美は財布を開き、中身を確認した。
今日のところは、父の容態が大きく悪化することはなさそうだった。もちろん
良くなることもないのだが。
父の容態に変化がないとなると、愛美にはもう一つ直面しなければならない現
実がある。
それがお金のことだ。
財布の中には、一万円札が四枚に千円札が三枚。そして小銭。それが愛美の、
いや愛美の家の全財産だった。
雪乃叔母さんから三万円をもらってなお、これだけしか残っていない。
今日の昼間、入院受付の事務員の人から入院費の話をされたばかりだった。
父が生死の境にいる中で、お金のことなど考えたくはない。けれど考えずに済
むことでもなかった。
父は病院に運ばれてすぐ、集中治療室に入ったため、ベッド代は免除された。
だがその命を長らえるための装置に、お金が掛かる。決して安い物ではない。し
かも父は、仕事を辞めて社会保険を失ってから、国民保険にも加入していない。
そのため毎週水曜日が支払日だという、入院費はとても愛美に出せる額ではな
かった。
事情を説明すれば、支払いを待ってもらえたかも知れない。手続きをすれば、
負担が軽減されたかも知れない。だがいまの愛美には、そこまで考えが及ばない。
それにまだ父が回復することにわずかな希望を抱いている愛美には、支払うお金
が父の命を繋ぐためのものに思えていた。
「どうしよう………とても足りない」
今日愛美は、水以外何も口にしていない。しかしそんな生活をこれから続けて
行くとしても、いま手元にあるお金では入院費には及ばない。
その時、愛美の頭の中に、雪乃叔母さんの手にしていた通帳が浮かんだ。二百
三十万円あると言っていた通帳。
雪乃叔母さんに頼めば、なんとかなるかも知れない。だが愛美は首を振り、そ
の考えを否定する。
「だめだわ、叔母さんには頼めない………」
あのお金は、雪乃叔母さんが愛美を引き取る代償として、父に渡そうとしたも
のだ。それを受け取ってしまえば、愛美は父と別れなければならない。
もし奇跡が起きて助かったとしても、父は愛美がそばにいてやらなければ、食
事もまともに取りはしないのだ。
「でも、雪乃叔母さんがだめなら、他にどうすればいいの?」
早朝の新聞配達と、夜の『満天』でのアルバイトだけが愛美の、いや愛美の家
の全ての収入。それだけでは日々の生活費が精一杯。
返す能力のない愛美に、借金をさせてくれるあてなど、他にありはしない。
「あっ………でも」
一人だけ、頼れるかも知れない人がいた。
母の友人だった、『満天』の女将。
中学生の愛美を雇ってもらっているだけでも、充分迷惑を掛けている。その上
に借金の相談をすることはさすがに気が退けるたが、いまの愛美に選択の余地は
ない。
『満天』は小さな店で、その利益も大きなものではないだろう。あまり大金を
頼むことは出来ない。それでもなんとか、当座の分だけでも借りられれば………
考えているだけでは仕方ない。愛美は一度、父の様子を見てから『満天』を訪
ねることにした。
「えーっ、マリアおねえちゃんって、はなび、したことないのぉ」
小さな美璃佳が、大きな驚きの声を上げる。
「うん、ないよ。ねぇ、『はなび』ってなに?」
脇で話を聞いていた駿も、マリアが花火を知らないというのは驚きだった。
「あのねぇ。こうなっててねぇ、こうしてもつの」
美璃佳は何か細いものを、握る仕種をする。そしてもう一方の手を、握ったも
のの先辺りに持ってくる。
「でね、ひをつけるの。そうすると、しゅーってなるの。とってもきれいなんだ
よ」
「ふぅん」
マリアは感心したように頷いた。果たして、美璃佳の説明で花火をどこまで理
解できたか、甚だ疑問ではある。
「ねえ、駿。マリア、その『はなび』がしてみたい!」
「みりかもしてみたいな。ずうっとまえに、りょうたおにいちゃんと、やっただ
けなんだもん」
きらきらと輝く、四つの瞳が駿に向けられる。
「弱ったなあ」
少女漫画のヒロインのような瞳に見つめられ、駿は苦笑しつつ頭を掻いた。
「麗しき姫君たちに頼まれて、イヤとは言いたくないんだけど。無理だよ」
「ええっ、どぉして! マリア、してみたいよ。したい、したい、したいっ」
身体を揺すって、だだをこねるマリア。こうして見ると、美璃佳よりよほど幼
く感じられてしまう。
「花火はね、夏のものなんだよ。いまは冬だから、お店にも置いてないんだ」
駿は、幼子に言い聞かせるようにして、マリアに話した。この話し方も、マリ
アや美璃佳たちと暮らすようになって、すっかり板についてきた。
「なつって、いつ? 明日? 明後日?」
ところがマリアは、まだ納得してくれない。
「そうだなあ、せめてあと半年………180回は夜と朝が来ないとだめだな」
「ええっ、そんなに待つのぉ」
「しょうがないわ、マリアおねえちゃん。がまんしましょう」
ぽんぽんと、美璃佳がマリアの肩を叩き、慰めるような仕種をする。
『まったく、どちらが歳上なんだか』
その光景に、駿の口元には笑みが浮かび掛けるが、完全な形になる前に消えて
しまう。
やがて訪れる花火の季節には、もう美璃佳はこのアパートにいないだろう。マ
リアと美璃佳が並んで、花火に歓声を上げてはしゃぐ姿は見られない。
「はなび、はなび、はなび、はなび、はなび」
しかしマリアは、駿が感傷に浸る時間も与えてはくれなかった。
「だからあ、ないものは仕方ないだろう」
「うーっ」
目一杯、不満を溢れ出させた目が駿を見つめる。本当に面倒の掛かる少女だ。
そんなマリアに好意以上の感情を抱いた自分が不思議でならない。けれど、だだ
をこねるマリアに腹が立つことはない。むしろそんな姿にさえ、愛おしささえ感
じてしまうのが事実だった。
「そうだ」
突然、美璃佳が立ち上がった。
「ちょっときて!」
駿に対してなのか、マリアになのか、そう叫ぶと美璃佳は部屋の外に飛び出し
ていった。
顔を見合わせてから、駿とマリアは美璃佳の後を追う。
外に出てみると、隣の部屋のドアが開かれ明かりが灯されていた。202号室、
美璃佳たちの本来の部屋だ。『フラッシュ・レディ』のキャラクターが入った、
小さな靴が玄関からはみ出ていた。美璃佳が脱ぎ捨てて行ったのだろう。
「美璃佳ちゃん?」
部屋を覗き込んでみると、押し入れの中で蠢いている小さなお尻が見えた。
「美璃佳ちゃん、何を探しているの?」
「あったぁ!」
嬉しそうな声と共に、頭に綿埃を被った美璃佳が押し入れから出てきた。その
手に何か、平たい包みを握って。
「ほら、マリアおねえちゃん。はなびだよ」
とたとたと、駆け寄って来た美璃佳がその包みをマリアに手渡した。
「これが、はなび?」
「うん、まえに、りょうたおにいちゃんが、かってくれたの」
マリアはビニール面が埃で黒くなっている、その花火セットをしげしげと眺め
ている。
母親から、ぎりぎり以下の生活費しか与えられていない良太には、数百円の花
火セットでも高価なものだったに違いない。それでも妹を喜ばせたかったのだろ
う。
#4296/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:37 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(26) 悠歩
★内容
無理をして買った花火セット。それが今日まで開封されることもなく、押し入
れの中に眠っていた。一緒に遊んでくれる大人がいなかったから………
『おとなのひとと、あそびましょう』
花火セットに書かれている、そんな注意書き。子どもたちは、それを忠実に守
っていたのだ。
「ねえ、駿。いまから、はなびしようよ!」
断る理由がなくなってしまった。
「風が吹いてきたら、中止にするよ。いいね?」
「うん。やったあ!」
マリアと美璃佳は、繋ぎあった手を大きく振って喜んだ。
吐く息が白く染まる中、花火も何もあったものではない。
公園に着いた駿は、いまさらながら後悔をしてしまう。バケツ代わりに水を入
れてきたヤカンが、歩く度にちゃぷちゃぷと音を立て、寒々しさを盛り上げる。
ところがマリアと美璃佳は、冬場の花火というミス・マッチを気にする様子な
ど微塵もない。手を繋いで、スキップするような足どりで駿の前を歩いている。
ただ良太だけが、駿と同意見なのか、無言で妹の後ろを歩いていた。
「この辺でいいだろう」
ヤカンを足元に置き、駿が声を掛けると、前を行く三人の足並みがぴたりと止
まった。ちょっとした部隊の隊長にでもなったような気分だ。
「花火セットの中に、ロウソクが入ってないかな」
「あるよ!」
ばりばりと花火セットの袋を開き、小さな台座の付いたロウソクを美璃佳が取
り出す。駿はそれを地面に立てると、使い捨てのライターの火を充てる。気温が
低いためか、なかなか思うように火が点らない。いつの間にか、珍しいものを見
るかのようにマリアと美璃佳がロウソクの周りを囲んで、しゃがみ込んでいた。
「ねえ、まだ?」
「もうちょっと待って………芯が湿気ってるのかな?」
少し苛立った駿は、ロウソクを口にくわえて煙草のように吸ったら、火がつき
やすいのではないかと、馬鹿なことを考えてしまう。
「よし、ついた」
ようやくロウソクの芯に火が点ると、駿は炎の周りを手で囲み、風を防ぐ。や
がて炎が安定して燃え出すのを確認して、手を離した。
「もういいよ、花火に火をつけても」
駿の言葉を待ちかねていたように、マリアと美璃佳が同時にロウソクの炎に花
火を近づけた。
「順番にやらないと、危ないよ」
と、注意しかけた駿だったが、その必要はなかった。
美璃佳の方が、さっと花火を退いてマリアに先を譲ったのだ。そのことに気づ
いた様子もなく、マリアは花火の先の帯状になった紙の部分を、火に充てる。め
らめらと紙が燃えだし、少しするとジェット噴射のような炎が噴き出した。
「わあっ、凄い。ねえ、駿、見て見て!」
オレンジ色の炎が、真っ直ぐに駿の方へ向けられる。
「うわっ、あちっ! 駄目だよマリア、花火を人に向けちゃ」
「あ、ごめんなさい」
すぐにマリアは謝ったが、その顔に反省の色は見られない。嬉しそうな笑顔が
あるだけだった。
冬の夜は、空気が澄んでいるせいだろうか。みんなのはしゃぐ声が、公園の端
々にまで響き渡るようだった。その絶頂は、セットの中にたった一つだけ入って
いた、打ち上げ花火に駿が火をつけたとき。
子ども向けのセットに入っていたものなので、たいして大きな物ではない。噴
き上がる火柱も美璃佳の身長程度。それでもマリアと美璃佳を喜ばせるのには充
分だった。
何度注意をしても、美璃佳は降り注ぐ炎ぎりぎりまで近づいては、黄色い声を
上げながら逃げていくということを繰り返した。
そして最後に残されたのは、お決まりの線香花火。自分の過去を思いだしても、
友人たちに訊いてみても、最初にこれをやる奴はいない。まるでそれが法で定め
られているかの如く、誰もが一番最後に線香花火をすると言う。
パターン通りであると思いつつ、やはり他の花火で騒いだ後を線香花火で締め
る、と言う図式は崩したくないものだ。
ただしいまが冬場であることを考えれば、より寒々しさを演出しそうな気もす
るのだが。
「揺らしたら駄目だよ。この火の玉が落ちたら、終わりだからね」
「うん」
向かい合って屈み込む、駿とマリア。
その手には、お互い一本ずつの線香花火。
弱々しい炎が描く模様は、冷たい空気の中で、空から落ちて来た雪の結晶にも
似ている。
不思議と線香花火を始めると、誰もが感傷的な気分になるものだ。それは、マ
リアとて例外ではなかった。先ほどまで、美璃佳以上にはしゃいでいたのが嘘の
ように、静かに炎の創る結晶を見つめている。少し離れた場所では、良太と美璃
佳の兄妹がやはり物静かに線香花火を見守っていた。
淡い炎に照らされ、マリアの顔が儚げに映る。
もう駿は、花火など見てはいない。
季節感のない、冬の花火など面倒なだけだと思った。けれどマリアや美璃佳が
思った以上に楽しそうで、それはそれで良かったのだと思えた。そしていま、ど
こか憂いのあるマリアの顔を見ながら、花火をやって良かったと思う。
「花火を見たら、ママも変わるかな?」
「えっ、何か言った?」
マリアが何か呟いたのを、駿は聞き逃してしまった。慌てて聞き返す。
「ううん、なんでもないよ。ひとりごと」
微笑むマリア。
その笑顔を見ていると、駿は呼吸が苦しくなるのを感じた。
夏になったら………夏になったら、マリアに浴衣を着せて、もう一度花火をし
たい。駿はそう思った。
「あのね、駿」
マリア小首を傾げる。
その動きに合わせ、さらさらと髪が流れていく。
ごくり。
思わず唾を飲み込んだ音に、駿自身ず驚いてしまう。
「な、な、なに」
どうして、どもる必要があるのだろう。駿は自分で自分をみっともないと感じ
る。
「落ちちゃったよ」
「え?」
「ほら、駿のはなび」
「あ、ああっ!」
手元の線香花火の先に、あるはずの玉は消えていた。その真下、地面に落ちた
玉が最後に二度、結晶模様を描き輝きを失うところだった。
「ねえ、りょうたおにいちゃん。はなび、きらいなの」
さっきから、ずっと黙ったままの兄が気になって、美璃佳は下から顔を覗き込
む。
「ん、そんなことない。楽しいよ」
「だってりょうたおにいちゃん、さっきから、こわいかおしてるぅ」
その時、美璃佳の線香花火から炎の雫が垂れ落ち、消えてしまった。
「ああん、きえちゃった」
「動かないで、美璃佳」
泣きそうになった美璃佳の花火の先に、良太の花火が寄せられた。わずかに煙
が立ち昇っていただけの花火の先に、繊細な模様を空に放つ炎の玉が吸いついた。
やがて炎の玉は二つに分かれ、それぞれが美璃佳と良太の花火の先に宿る。
「わあ。りょうたおにいちゃんと、はんぶんこだね」
なんだかとても嬉しくなって、美璃佳は良太に笑いかける。
「美璃佳は、お兄ちゃんのこと、すきか?」
「うん、だいすきだよ」
「ずっと、お兄ちゃんといっしょにいたいか?」
「うん、いっしょにいたい。みりかとねぇ、りょうたおにいちゃんとお、しゅん
おにいちゃんとお、マリアおねえちゃんとお、ずっといっしょにいるの!」
「だめだよ、それは」
良太は、少し怒ったような声で言った。
「りょうたおにいちゃん、おこった………」
「あ、ごめん。べつにおこったんじゃないだ」
そう言って良太が、美璃佳の髪を優しく撫でた。
「でも駿お兄ちゃんや、マリアお姉ちゃんとは、ずっといっしょにはいられない
んだよ」
「どうして? みりか、ふたりともだいすきなのにぃ」
「ぼくだってすきだよ。でも、駿お兄ちゃんたちは、ほんとうのお兄ちゃんじゃ
ないだろ? だから、ずっといっしょにいることはできないんだ」
「そんなの、みりか、いやだ………」
せっかく良太から火を分けてもらった線香花火だったが、とうとう燃え尽きて
しまった。もう模様を放つことのなくなったその先が、最後に強く光ったかと思
うと、そのまま消えてしまう。
「わがまま言うと、ぼくともいっしょにいられなくなるんだぞ」
「うそ。りょうたおにいちゃんと、みりか、ずっといっしょだったじゃない」
「だから、これからもいっしょにいたいなら、わがまま言っちゃだめなんだ」
「……………」
美璃佳はしばらく考え込んだ。
駿もマリアも大好きなのに。
誰とも別れたくはないのに。
でもいままでいつも一緒だった良太と別れるなんて、もっと嫌だった。
美璃佳にとって、滅多に帰って来ない母親よりも、兄である良太の方が何倍も
近しい存在だった。
「みりか、わがままいわない………」
「よし、じゃあこれからも、美璃佳とお兄ちゃんは、ずっといっしょだ」
やっと良太が笑ってくれて、美璃佳は安心した。
本当はまだ言いたいことがあったけれど、良太を怒らせてしまいそうで言えな
かった。
『しゅんおにいちゃんがパパで、マリアおねえちゃんがママだったらいいのに』
口には出さず、心の中で思うだけにした。
使い終わった花火は、一カ所に集められた。そしてその上から、ヤカンの水を
花火の燃えかすに掛ける。完全に火が消えたのを確認し、駿は花火の燃えかすを
ビニール袋へと入れていく。
気のせいか、花火をやる前よりさむ寒くなったように感じる。
「さあ、これで全部終わりだ。早く帰って暖かくしないと、風邪をひいちゃう」
みんなを促し、駿自身も公園の外に急ぐ。公園を出たところで、駿は見知った
顔を見つけた。105号室の住人、北原の老夫婦だった。
「あ、こんばんは。北原さん」
「おじいちゃん、おばあちゃん、こんばんは」
「こんばんは」
駿に倣って、マリアたちも挨拶をする。
「あらあら、こんばんは。藤井さんに、良太くんと美璃佳ちゃん。えー、それか
らそちらのお嬢さんは………」
おばあさんは、マリアの顔をじっと見つめて名前を思いだそうとしている。が、
なかなか出てこないようだ。駿や良太たちと違い、最近現れたばかりのマリアは
覚えられていないのかも知れない。
「私、マリアだよ」
「そうそう、こんばんはマリアさん」
マリアが笑って名乗ると、おばあさんも笑いながら応じた。
「こんな時間に、みなさんお揃いで、どこかへお出かけでしたか?」
「いえ、この子たちが花火をしたいって言うもんですから」
「まあ、冬に花火ですか」
「ええ、まあ。北沢さんは、こんな時間に散歩ですか」
「この人が、外に出たがったものですから」
おばあさんは、それまで無言で立っていたおじいさんを見ながら、そう答えた。
「富子がな………泣いているんだ」
ぽつり、とおじいさんは言った。
「富子?」
「私たちの娘の名前です。とうに亡くなりましたが、この人、もうそれも分から
なくなってしまったんですよ」
寂しげにおばあさんが言った。
「なあ、お嬢さん。富子を見なかったかい?」
おじいさんは、ふらふらとマリアに近づきながら訊ねた。
「富子ちゃん?」
「そう、富子だ。どこかで泣いている」
「うーん」
口元に指を充てて、マリアは考える。考えたところで分かるはずもないのだが。
「おじいさん、マリアさんは富子のことを知りませんよ」
答えに窮しているマリアを見かね、おばあさんはおじいさんの手を引いて、そ
の場から去ろうとした。
「マリア、知ってるよ」
「お、おい、マリア」
駿は慌てた。
#4297/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:38 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(27) 悠歩
★内容
痴呆症の老人に話を合わせてやるのもいいが、無責任な発言はかえって相手を
傷つけかねない。もちろんマリアには悪気などないのだろうが、無邪気過ぎるの
も時には考えものだ。と、駿は思ったのだ。
「でもね、富子ちゃんは泣いてなんかなかったよ。でもね、心配しているみたい」
「心配してるみたい………」
おじいさんは、マリアの言葉をオウム返しに繰り返す。
「うん、マリアには見えるの。だって、富子ちゃんはお父さんのこと、大好きだ
ったんでしょ? そのお父さんがね、いつまでも富子ちゃんのことで悲しい想い
をしていることが、心配でしかたないんだって」
マリアがそう言い終えるなり、おじいさんは大粒の涙を流し、泣き出してしま
った。
「おじいさん?」
心配そうにお婆さんは、おじいさんの背中に手を添える。
「すみません、おじいさん。おばあさん。マリアは別に悪気がある訳じゃないん
です」
そう言って駿は頭を下げる。そしてマリアの頭に手を掛けて、謝るようにと促
した。が………
「そうか………富子がわしを気にしてくれていたか………」
おじいさんは、マリアの手を強く握りしめた。
「ありがとう、お嬢さん。そうか、富子が………やはり富子はいい子だな………
光太郎とは上手くやっているか?」
「うん、仲良くしてる」
マリアは笑顔で答える。
それを聞いたおじいさんは、嬉しそうだった。その隣では、おしばあさんも満
足げに頷いている。
駿にはよく分からなかったが、マリアの言葉は老夫婦を傷つけたのではなさそ
うだ。どうやら駿よりも、マリアの方がよほどこの夫婦のことを理解しているら
しい。
少し風が出てきた。
それまで停滞していた冷たい空気が、針となって服から露出した部分、顔や手
に刺さっていく。
愛美は、居酒屋『満天』の前に来ていた。
どうやって話を切り出そう。
普段愛美に良くしてくれる女将が相手とは言え、やはり借金の相談をすること
には躊躇いがあった。
恐る恐る、店の引き戸に手を伸ばす。が、その手がふと止まった。中から話し
声が聞こえる。客がいるようだ。
「そっか、まだ営業時間だったもんね………」
愛美はしばらく、その場で考え込んだ。客のいる前で、借金の話もしにくい。
女将の方でも迷惑だろう。第一アルバイトを休んでおいて、営業時間内に「お金
を貸してくれ」と言いに来るのは、あまりにも厚かましいことだ。
営業時間が終わるのを待って出直そう。そう思って、愛美は立ち去ろうとした。
「へえ、アイちゃんのお父さんがねぇ」
店での自分の呼び名を耳にして、愛美は足を止めた。その声は『満天』の馴染
み客で、女将とごく親しい男性のものだ。どうやら店にはいま、客は一人しかい
ない。
「でもアイちゃんに休まれたんじゃ、女将も大変だな」
「そうでもないのよ。このところお客さんの入りもよくないしね。満席になった
ところで、うちくらいの店なら、私一人で充分だもの」
「おいおい、それじゃあまるで、アイちゃんがいなくてもいいみたいじゃないか」
「そりゃそうよ」
豪快な女将の笑い声が響いた。
『私がいなくてもいい………』
確かに『満天』は小さな店だ。愛美が働くようになるまでは、ずっと女将が一
人で切り盛りをしていた。けれど雇ってもらってからは、愛美も一生懸命にやっ
てきたつもりだった。
いや、客の手前、女将も強がって見せているのだろう。そう思った。
「あんたも知ってるでしょ? アイちゃんの親父さんのこと。奥さん、私の知り
合いだったんだけどね。それが死んでから、まともに働きもしないで、酒ばかり
喰らってさ。あら、飲み屋の女将が呑んべの悪口を言うのもおかしいわね」
「まあな。その呑んべのおかげで、女将は飯が食えるんだからな」
今度は二人で声を合わせて笑う。店に他の客はなく、二人の笑い声は静かな冬
の路地に立つ愛美にもよく聞こえた。
「とにかく、とんでもないろくでなしだね、あの男は。アイちゃんの稼ぎだって、
ほとんど酒代にしちまってるらしいよ。あの子が私んとこに仕事の相談に来た時
もさあ、惨めだったよ。まるで物乞いみたいな目をしてて。それがあんまりにも
哀れだったんでね、うちで雇ってやることにしたのさ」
「ふうん、慈善家だったんだな。女将は」
「そうさ。でもそれも、もう終わりだと思うけどね」
「そりゃあまた、どうしてだい?」
「私の勘だけどね。長くないよ、あの子の親父さん。四六時中酒を喰らってたん
だ、たぶん胃腸か肝臓をやられたんだろうよ」
「ととと、俺ら酒飲みには恐い話だねぇ」
「こっちは商売が上がっちまうんで、酒を止めろなんて言わないけどね。ま、と
にかくあの子の親父さん、もしかして正月までも保たないんじゃないかって、私
は睨んでるんだよ。そうしたらあの子も親戚に引き取られるか、施設にはいるの
かになるだろう? 私の慈善事業もおしまい、って訳だよ」
「けどよ、いつおっ死んじまうか知らねえけど、入院費が掛かるだろ。もしかす
ると手術すれば助かるかも知れないし。それにしたって金が掛かる。アイちゃん
のところじゃ、とてもそんな金は、ありゃあしないだろう。もし、女将に貸して
くれ、なんて言ってきたらどうするんだい?」
「よしとくれよ」
女将の返答には、商売用の愛想はなかった。
「うちだって繁盛してる訳じゃないんだ。あの子を雇ってやっただけでも、死ぬ
ほど感謝して欲しいもんだよ。これ以上、人に甘えようなんて厚かましい考えは、
持たないでもらいたいね。だいたい私には、あんなろくでなしの生き死になんて、
どうでもいいんだからさ」
惨めだったよ。まるで物乞いみたいな目をしてて。
長くないよ、あの子の親父さん。
あんなろくでなしの生き死になんて、どうでもいいんだからさ。
女将の言葉が頭の中で繰り返される。
愛美はいま、自分がどこを歩いているのか分かってはいなかった。病院に行こ
うとしているのか、アパートに戻ろうとしているのか。どのみち、その二つのう
ちのどちらかしかないのだが。
笑い声が聞こえたような気がして、後ろを振り向く。しかし誰もいない。
再び歩き出すと、また笑い声が聞こえる。
それも一人の声ではない。幾つもの笑い声が重なり合い、滝となって愛美の頭
に降り注ぐ。
誰も彼もが笑っている。
愛美を、愛美たち親子を指さして。
いない。
誰もいない。
愛美を、愛美たち親子を本気で心配してくれる人など。
もう誰も信じられない。何も分からない。
分かっていたのは、もう二度と『満天』に行くことはない。女将とは会わない
だろうということだけ。
もう愛美には、父しかいない。
「こうして一緒に呑むのは、初めてだな」
「はい、おじさん」
「おい、まだ俺を『おじさん』と呼ぶのか?」
「え、あ………すいません、いままでの癖でつい。お義父(とう)さん」
「うん、それでいい」
お義父さんと呼ばれ、男は満足した。これで相手の若い男、光太郎が初めて自
分の息子になるのだと実感出来る。
仲居が来て卓の上にお銚子を二本、置いていく。
「さあ、今夜は女ども抜きで、徹底的に飲み明かそう。お前たちが新居を構えた
後からは、そうそうこんな機会はないからな」
男はお銚子を手に、光太郎へ酌をしようとした。が、それを制して光太郎が先
に、男へと酌をしてくれた。
「そんな。いつだって遊びに来て下さって結構ですよ。諸手を挙げて歓迎します
から」
闊達そうな笑顔を見せて、光太郎が言った。
「光太郎坊がよくても、そう頻繁に花嫁の親父が訪ねて行ったら、富子が嫌がる
だろう」 男と光太郎の盃が交わる。
「お義父さんの方こそ、いつまでも『光太郎坊』は止めて下さいよ」
「おおっと、すまんすまん。いままでの癖でな」
二人は声を合わせて笑った。
「しかし妙な気分だな。こんな小さな頃から、富子と実の兄妹のようにしていた
光太郎が………富子の亭主となるのだからな」
一気に酒を呷り、男は五つくらいの時の光太郎の身長に、手をかざす。卓に置
かれた盃には、その光太郎の手によって新たな酒が注がれた。
「何も変わりませんよ、お義父さん。ぼくと富子さんは兄妹から夫婦にと、ちょ
っとだけ関係が変わるだけです」
光太郎が富子を「さん」づけで呼ぶのを聞くのは、嫁にくれと言ってきた時以
来、二度目だったか。
「充分過ぎる変化だよ」
男は笑う。嬉しさと寂しさの混じった、複雑な気持ちで。
男と光太郎の父親は、親友だった。同じ学舎(まなびや)で同じ時を過ごし、
夜明けまで理想を語り合ったこともなる。同じ女を好きになったこともあった。
二人はほぼ同じ頃に結婚をし、一年違いで父親となった。親友は光太郎と言う
男の子の、一年遅れて男は富子と言う女の子の父親に。
富子が生まれたとき、親友もずいぶんと喜んでくれたものだ。
「将来、うちの光太郎と、お前の富子ちゃんが結婚すれば、俺たちは親戚同士だ
な」
正式に許嫁の約束を交わした訳ではなかったが、そんなことをよく言い合った
ものだ。
それが光太郎がどうにか一人前に歩けるようになった頃、その母親が病のため
この世を去った。気落ちしたのか、親友も妻と同じ病に倒れ、三月と保たず逝っ
てしまった。
それから年老いた祖母と二人暮らしとなった光太郎を、男は実の父のようにし
て面倒を見てきた。それに応えるかのように、光太郎は良い若者となり、いまで
は男の仕事をその片腕となり助けてくれている。
そしてつい四日前、富子を嫁にくれと言ってきた。
光太郎は実の兄妹のようにしてきた富子を、いつから女性として見るようにな
っていたのか。
富子はいつから、光太郎を一人の男性として見ていたのか。
男は全く気づかなかった。
ただ深く頭を下げている光太郎を見る富子の目が、全てを語るようだった。
断る理由などない。
「将来、うちの光太郎と、お前の富子が結婚すれば、俺たちは親戚同士だな」
親友の言葉を思い出す。
仲居が新しいお銚子を置いていく。これで三度目だったか。よく覚えていない。
「来年の今頃は、孫の顔が見れるかな………」
気持ちよく酒が身体に廻り瞼が重くなって来る中、男は呟いた。最後に見た光
太郎の顔が赤かったのは、酔いのためか。それとも………
男が孫の顔を見ることはなかった。
それどころか、富子の花嫁姿さえ見ることもなかった。
「こう……たろう、さん」
嗚咽混じりの富子の声。
卸したての布団に眠る光太郎。富子の呼びかけにも応えない。永遠に。
油断だった。
富子と光太郎の婚礼を、明後日に控えたその日の朝。
いつもと同じ時間に目覚め、いつもと同じように光太郎を自分の車に乗せ、会
社に向かった。
だが一つだけ、いつもと違うことがあった。男は酒を呑んでいたのだ。
目覚めたとき、酷い頭痛がした。酒に強い男には珍しいことだったが、前の晩、
光太郎としこたま呑んだものが残っていたらしい。
自分が社長を務める会社とはいえ、遅刻欠勤をしたことのないのが男の自慢で
あった。まして富子の婚礼の日を休業とするために、こなすべき仕事が残ってい
る。
二日酔いを治めるために、あろうことか男は迎え酒という手段を執ったのだ。
コップ一杯の酒、その程度で酔うことなどない。男には自身があった。いまと
なっては油断である。
もしかすると、男にいつもとは違う様子が出ていたのかも知れない。あるいは
光太郎に、何か不吉な予感があったのかも知れない。運転を代わると、その日は
珍しく光太郎が男に言ってきたのだ。
男はそれを拒んだ。家から会社までは、自分で車を運転してして行くのが習慣
になっていて、それを人と代わったことなど一度もない。また自分の車を、人に
運転させることを男は嫌っていた。それは光太郎もよく知っていたはずだ。
会社までは、十分足らずの道のり。通い馴れた道で、途中の電柱の数からすれ
違う車の数まで、熟知しているつもりだった。
#4298/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:39 (191)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(28) 悠歩
★内容
事故など、起こりようはずがない。
ところがそれは起きてしまった。
見通しのよい、十字路だった。
右側の道路から飛び出してきた単車。いや、その存在はかなり早い時点で視界
に入っていたはず。にも拘わらず対応が遅れてしまった。
信号のない十字路だったが、男の走っていた方が優先道路だったため、相手が
一時停止をするだろうという思い込み。それ以前に視界に入っていながら、単車
を認識していなかったのかも知れない。わずか一杯の酒のために。
とにかく、はっきりと認識したときには、単車は男の車の正面を横切ろうとし
ていた。
「お義父さん!」
光太郎が叫ぶ。それが、最後に聞いた光太郎の声となった。
慌ててハンドルを切ると、単車は男の視界から消えた。しかしそれに代わって
別のものが、車の行く手に立ち塞がる。それが電柱だと知ったのは、後になって
からのことだった。強い衝撃を感じるのと同時に、男の意識は失われた。
目が覚めたとき、最初に見たのは不安そうな妻の顔だった。男が意識を回復す
ると、妻は一瞬安心したような顔を見せ、すぐにまた表情を曇らせた。
「光太郎は?」
男の問いかけに、妻は無言で首を横に振った。
男の怪我は大した物ではなかった。
軽い打撲が数カ所あったが、一週間程度で治るようなものばかりであった。
しかし、光太郎は………。
単車を避けるため、急ハンドルを切った車は大きくスピンした後、左前面を電
柱にぶつけたらしい。運転席に座っていた男は軽傷で済んだが、助手席の光太郎
は胸を激しく打ち、内臓破裂で即死状態だったそうだ。
光太郎の亡骸は、男の家の客間で眠っていた。
唯一の肉親であった祖母は一昨年、他界しており、光太郎の家には誰もいない。
そのため妻の配慮で、この家に運び込まれたということだ。
即死であったにも拘わらず、光太郎の顔に目立った傷はない。ただ枕元で煙を
立ち昇らせている線香が、光太郎が既にこの世の人でないことを知らせている。
光太郎の横に座り込んでいる富子の肩が震えている。
何と言ってやればいいのだろう。男には、娘に掛けてやる言葉がみつからない。
ただ後ろから、富子の背中と光太郎を見つめるしか出来ない。
「お父さん………」
どれほど時が過ぎてからだろうか。
背を向けたまま、富子が男を呼んだ。
閉じられたままの障子を通して、茜色の光が部屋に射し込んでいる。
外では蛙たちの鳴き声が聞こえていた。
「どうして………どうして、光太郎さんが……」
富子の声には力がなかった。感情すらこもってはいない。涙も涸れ果ててしま
ったか。それとも、未だ目の前の現実を受け入れられないでいるのか。
男もまた、黙ったままでいた。
自分の不注意で、間もなく娘の夫となるはずだった、光太郎を死なせてしまっ
たのだ。その自責の念をどう言葉にして、富子に伝えればいいのか。男は、その
術を知らなかった。
「どうして、なにも言ってくれないの」
「………」
男はそれを、富子に対しての慰めをなぜ言わないのかと受け取っていた。
富子の悲しみは、想像に余るものだろう。下手な慰めは、かえって富子の悲し
みを深くする結果になりかねない。そう思っていた。
だがそれは、違っていたらしい。
「お父さん、光太郎さんになにも言ってあげてない」
わずかに、富子の声に力が込められたような気がした。
「光太郎さんは、お父さんの運転していた車が事故を起こして、死んでしまった
のよ。『すまなかった』の一言も、言ってあげられないの?」
ふいに富子は振り返り、その双眸が男へと向けられた。両の瞳には、全て流し
きってしまったのだろう。もう涙は溢れていない。だが長時間、涙に暮れていた
痕跡は、しっかりと残されていた。
ただ男を見つめる娘の目に宿っているのは、悲しみの色ではなかった。
憎しみを抱き続けていた仇と、数年ぶりに巡り会うことが出来た者の目が、こ
うなるのではないだろうか。男にはそう思えた。
正面から富子の視線を受けとめられなかった。男は目を逸らして、富子を見な
いようにしたが、焼けつくような視線を強く感じていた。
いたたまれなくなり、決して富子と視線を合わせないようにして、部屋から逃
げ出してしまった。
それから妻に、「気分が悪い。事故の後遺症かも知れない」と告げ、布団に潜
り込んだ。そのまま光太郎の通夜にも顔を出さず、婚礼が行われるはずだった日
が訪れた。
布団の中で目を閉じ、耳を塞ぎ、現実から逃げ出そうとしていた男。しかし時
が経つにつれ、光太郎に対する罪悪感は増すばかりだった。光太郎に詫びなけれ
ばならない。富子にもきちっと話をしなければならない。
ようやく意を決して、布団から抜け出してみると富子の姿はなかった。妻に訊
ねてみても、行き先は知れなかった。それどころか妻も、いつ富子が出ていった
のか気がつかなかったと言う。
悪い予感がした。後から思えば、虫の知らせというものだったのだろう。
男は思いつく限り、娘の行きそうな場所を探し回った。
光太郎の家、婚礼の会場になるはずだった場所、二人でよく歩いた公園。その
いずれでも、富子を見つけることは出来なかった。
もしかすると、もう家に戻っているかも知れない。願望を込めつつ、家に帰っ
た男を蒼白な顔をした妻が出迎えた。
「警察から………電話がありました」
歯の根が合わぬほど、震えていた妻の唇。切れ切れの言葉で、こう続けた。
富子が遺体で見つかったと。
富子の遺体が発見されたのは、海だった。
昔、幼い富子と光太郎を連れて、男がよく行った海岸に遺体が打ち上げられて
いたそうだ。
自殺か事故か、警察は分からないと言っていた。けれど男には光太郎を失った
富子が、自ら命を断ったように思えた。
富子にとって、その海岸は光太郎との楽しい思い出の場所だったのだろうか。
それとも光太郎を死なせた男を責めようと、わざわざ思い出の場所を選んだのだ
ろうか。
それに答えられる者は、もういない。
その日、予定通り富子は光太郎のそばへ逝ってしまった。
「本当に、富子は泣いているんじゃないのかなあ」
公園のベンチに座り、おじいさんは夜空を見上げていた。
「ええ、大丈夫ですよ」
隣のおばあさんの手が、おじいさんの手に重ねられる。
「富子は、わしのことを憎んでいるんじゃないのかなあ」
「あのお嬢さんも言ってたじゃないですか。富子は優しい子ですよ。そんなこと
は絶対にありません」
「でもなあ………わしは何も言ってやれなかった。富子にも、光太郎にも」
いままで思い出すことのなかった時間、いや思い出さないように努めていた時
間が甦る。おじいさんは、赤子のように泣いた。
「あの子だって分かっていたんですよ。あの時、おじいさんがどんなに辛い想い
をしていたか………ただ少し、あの子も弱かったんでしょうね。あんな形を選ぶ
しか出来なかった。けれどね、決しておじいさんのことを憎んでいた訳じゃない
ですよ。
そりゃあ、光太郎さんのことで興奮してしまい、おじいさんに酷いことを言っ
てしまったかも知れませんけど。きっとあの子も、そのことを後悔していたと思
いますよ。
あの子は、おじいさんのことを愛していたんですから。
あの子が最期にあの海に行ったのも、そこがおじいさんや光太郎さんの思い出
がいっぱい詰まった場所だったからですよ。
私は、思うんです。あの子は自殺をしたんじゃないと。ただ海を見ているうち
に、その思い出の中に閉じこめられてしまったんじゃないかって。
だって、大好きなあなたと仲直りしないうちに、あの子が死のうとする訳はあ
りませんもの。あの子だって、そのことが心残りで仕方ないんですよ」
「どうして、そんなことが言える?」
「私はあの子、富子の母親ですもの」
年老いた妻の笑顔。
富子の死後全ての気力を失い、会社も家も、何もかも人手に渡してしまった。
そんな男を、一度として非難することなく黙って着いてきてくれた女がそこにい
た。
「あ、あ、あ、あ、あああっ!」
自分の声が響き渡るのが面白くてたまらない。
初めて銭湯に入った日から、決まって声を出すのがマリアの習慣になっていた。
「マリアおねえちゃん、こどもみたい」
そう言って美璃佳が笑う。
「でも、きょうはおふろで、およいじゃだめだよ」
美璃佳は人差し指を立てた手を前に出し、もう片方の手は腰に充てながら言っ
た。
「この間、おばさんに怒られちゃったもんね」
暖かい湯に浸かる。
その行為自体、マリアにとって新鮮な体験だった。しかもこんな広い場所で、
裸になっても注意されない。その開放感で調子に乗ったマリアは、先日湯船の中
で泳いで、口うるさいおばさんに叱られてしまったばかりだった。
まだ開店して間もない時間だったため、銭湯の中は閑散としている。美璃佳に
言われなければ、また泳いでいたかも知れない。
「およぐのは、なつまでがまんだよ」
タオルを石鹸で泡立てながら、美璃佳が言った。
「夏になったら、泳いでも怒られないの?」
「ちがうよ。プールにいけるの」
「ふうん、そっか」
頷いてはみたが、良くは分からない。けれど夏というのは、ずいぶん楽しそう
な季節だと、マリアは思った。
夏になれば、あの花火もいっぱい出来るらしい。それどころか、もっともっと
大きな花火も観れると言う。プールという所で、泳ぐのも楽しみだ。
「ねえ、美璃佳ちゃん。今日はマリアが、髪を洗ってあげようか?」
「えっ、いいの?」
石鹸の泡をタイルに集め、粘土細工のようにして遊んでいた美璃佳が、目をま
ん丸くして顔を上げた。
「うん、洗ってあげる。でも上手じゃないかも知れないよ。そしたらごめんね」
マリアは美璃佳の後ろにまわった。
鏡に写った美璃佳が、固く目を瞑る。その頭に、マリアはシャンプーを泡立て
た。
「みりかね、りょうたおにいちゃんじゃないひとに、あらってもらうの、はじめ
てなんだよ」
シャンプーの量が多すぎたようだ。美璃佳の髪から、幾筋かの泡が川となって
顔を流れる。それが閉じられた瞼の上を通って行っても、美璃佳は嫌がる素振り
を見せない。ただ瞼を震わせて我慢をしている。
「美璃佳ちゃん、お喋りしてると、お口にシャンプーが入っちゃうよ」
「そしたら、ぺってするから、へいきだよ」
「美璃佳ちゃんって、いい子だね」
マリアがそう言うと、目は瞑ったままだが、美璃佳は嬉しそうだった。マリア
は少し強めに美璃佳の頭を擦る。
「ママに洗ってもらったことはないの?」
「うん………みりか、ママとおふろにはったこと、ないもん。いっしょにごはん
をたべたことも、ねんねしたこともないの」
シャワーのお湯の温度を掌で確認し、マリアは美璃佳の頭を流してやる。その
間、美璃佳は口を大きく開けて呼吸をしていたが、気管にお湯が入ってしまった
のだろう。一度、けんけんとせき込んでからは、口も瞼同様に固く閉じられた。
一通り泡を流し落とすと、マリアは固く絞ったタオルで美璃佳の顔と頭を拭い
た。
「はい、終わったよ。美璃佳ちゃん」
声を掛けてやると、やっと美璃佳は目と口を開き、苦しそうに呼吸をする。
「やっぱり、上手に出来なかったみたいだね。ごめんね、美璃佳ちゃん」
「ううん、そんなことない。きもちよかったよ」
頬を紅潮させて、美璃佳は応える。
その笑顔は、決して作りものではあり得ない。
「ねえ、こんどはみりかが、マリアおねえちゃんをあらってあげるぅ」
「髪を洗ってくれるの?」
「ううん、とどかないから、おせなか!」
#4299/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:40 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(29) 悠歩
★内容
「ふう、いい気持ち」
湯船に浸かると、思わず声が出てしまう。暖かいお湯が、身体を包み込むこの
感触は何度経験しても飽きることがない。
入浴という習慣は、駿たちと暮らすようになって体験してきたことのなかでも、
マリアにとって最もお気に入りの一つだった。
マリアが美璃佳に背中を流してもらっている間に、他の客たちはみな上がって
しまった。いま広い浴場の中は、マリアと美璃佳の二人きり。泳いでも怒る人は
いない。
『泳いじゃおうかな』
マリアはそう思ったが、やはり止めた。
また美璃佳に、お行儀が悪いと笑われそうだから。
陽が落ちるまでは、まだ少し時間がある。けれど浴場の高い位置の窓から射し
込む光は、これから訪れる陽の入りを予感させる、弱々しいものになりつつあっ
た。
「よいしょ」
小さなかけ声を発し、美璃佳も湯船の中に入ってきた。
「ちゃんと肩まで、浸かるんだよ」
マリアは前に美璃佳に言われたことを、そのまま言い返す。
「はあい」
返事をする美璃佳の声は、嬉しそうだった。
「みりかね、マリアおねえちゃんがくるまで、おんなゆにも、はいったこと、な
いんだよ」
そう言いながら、美璃佳は湯船の縁の浅くなっているところから、マリアのい
る深いところへ歩いてくる。
なぜ男の人と、女の人が別々の風呂に入るのか、これもマリアには良く分から
ない。どうやら、良太や美璃佳のように小さな子どもだけが、どちらにでも入る
ことを許されているらしい。
美璃佳はマリアと一緒に、女湯に入れることが嬉しいようだが、逆にマリアは
美璃佳たちが羨ましかった。
男も女も関係なく、みんな一緒に入れれば、もっと楽しいのにと思う。
どうもこの星では、無闇に人前で裸になるのはいけないことらしい。マリア自
身は裸でいることに抵抗はないし、寒さにも強い。むしろ、ずっと窮屈な服や下
着を着けていなければならないのが、鬱陶しかった。
いまは冬という寒い季節だそうで、さすがにマリアでも裸のまま外に出るのは
辛そうだ。けれど暖かくした部屋にいるときくらい、裸でもいいのにと感じてい
る。
そんなことを考えていると、いつの間にか美璃佳がマリアの正面まで来ていた。
そしてマリアに抱っこされるような形で、腰を下ろしてくる。
背の低い美璃佳では、マリアのいる深い場所でお尻を下につけると、顔までお
湯に浸かってしまう。マリアの膝に座らなければ、中腰の恰好をとるしかない。
少し驚いたが、マリアはそのまま美璃佳を抱いてやる。そうしてやることで、
なぜかマリアの気持ちも落ち着くのだ。
「美璃佳ちゃんって、甘えんぼさんなんだね」
マリアが耳元で囁くように言うと、美璃佳も、
「だって、マリアおねえちゃんのこと、すきなんだもん」
と、恥ずかしそうに応えた。
なんとなく嬉しくなったマリアの唇から、無意識に歌がこぼれる。
「マリアおねえちゃん、それ、なんのうた?」
美璃佳に訊ねられて、初めてマリアは自分が歌っていることに気がつく。はっ
きりした歌詞などはない。ただメロディだけが、ハミングとして口をついて出て
いる。
『あれ? これ、なんの歌だろう………』
マリアにも分からない。
分からないのに覚えている。
分からないのに懐かしい。
「ねえ、マリアおねえちゃん。どこかいたいの?」
「えっ、どうして?」
美璃佳の質問の意図が分からず、マリアは首を傾げる。そのマリアを心配そう
に見つめる二つの瞳。
抱っこをされた美璃佳からは、マリアの顔はちょうど真後ろに位置する。その
マリアの顔を見ようとして、美璃佳は大きく身体を捻ることになった。膝の上か
ら落ちて、お湯に沈みそうになる美璃佳を、寸前で支えてやる。
「だってマリアおねえちゃん、ないてる」
作り物のように小さな指が、マリアの目の下をそっと撫でていく。その指の軌
道を、マリア自身の指が追う。
お湯とは違う、何かしっとりと濡れた触感が指に伝わってきた。
『涙?』
またマリアは涙を流していたのだ。
どうして?
その理由が、マリア自身にも分からない。
もしかすると、自分は身体のどこかに異常をきたしてしまったのではないだろ
うか。短い期間に、それまで経験したことのない涙を二度も流したマリアは、そ
う考えた。
『あっ………』
いま口ずさんでいたメロディだ。と、気づく。
どこで覚えたメロディなのか、思いだすことは出来ない。けれどそれは、マリ
アを不思議な気分にさせるのだ。胸が苦しい、それでいて嫌な気分ではない。そ
れが『切ない』という気持ちなのか。
「なんでもないよ。お湯が顔に掛かっただけ」
窮屈そうな姿勢で自分を見つめている美璃佳に、マリアは微笑んだ。
「ほんと」
「ほんとだよ」
マリアの笑顔に納得したか、美璃佳は苦しい姿勢を解いた。そしてさほどない
その体重をマリアの胸へと預けてきた。
「マリアおねえちゃんのおっぱい、やわらかいね」
そう言った美璃佳は首を九十度に曲げ、マリアの顔を見上げた。
こぽっ。
美璃佳の耳がお湯に浸かる。
「あっ」
そのことに、美璃佳自身が驚いたらしい。慌てて身体を起こそうとして、バラ
ンスを失い、マリアの膝から滑り落ちてしまった。
支えようと伸ばしたマリアの手も、今度は少し遅れてしまった。マリアによっ
て美璃佳が抱き上げられたのは、頭が一度完全に水面に沈んでしまった後だった。
お湯から引き揚げられた美璃佳は、ぷはっと大きく呼吸をするための一拍を置
き、大声で泣き出してしまった。
「おい、何かあったのか」
男湯の方から、美璃佳の泣き声を聞きつけた駿が呼びかけてきた。
「だいじょうぶ。お風呂の中で、転んで驚いただけ。怪我もしてないよ」
湯船から上がったマリアは、胸にすがって泣いている美璃佳の頭を撫でながら、
大きな声で応える。
「マリアたち、もうお風呂から出るね」
「ああ、こっちももう上がる」
少し落ち着いては来たが、それでもまだ美璃佳は、鼻をすんすんと鳴らして泣
いていた。美璃佳の顔は、直にマリアの胸の膨らみに触れていたため、鼻を鳴ら
す度に動いてくすぐったい。それでもマリアは美璃佳をしっかりと抱いたまま、
濡れたタイルに足を取られぬよう注意して、脱衣場に向かった。
ようやく泣き止んだ美璃佳を手伝い、下着を着せてやる。マリア自身、下着に
慣れていないせいで、美璃佳一人で着るよりもかえって時間の掛かる結果になっ
たが。
屈み込んだマリアの肩に顔を埋め、また美璃佳が鼻を鳴らした。
「どうしたの? 美璃佳ちゃん、まだどこか痛いの?」
「ううん」
美璃佳が、ふるふると首を振る。
「マリアおねえちゃんの、においをかいだの」
「マリアの匂い?」
「うん。マリアおねえちゃん、いいにおいがするの」
マリアは自分の腕の、匂いを嗅いでみた。
「石鹸の、匂い………かな?」
「ちがうよ」
まるで口の中に何かを含んだように笑って、美璃佳は否定する。
「せっけんじゃないの。マリアおねえちゃんの、においなの」
恥ずかしそうに言うと、美璃佳は下着姿で脱衣場を走り出した。
「こぉら、ちゃんとお洋服着ないと、駿に怒られちゃうよ」
マリアは走る美璃佳の前に片腕を差し出し、その身体を受けとめる。美璃佳は、
けらけらと笑った。
二人きりだった脱衣所に、美璃佳より小さな子どもを抱いた女の人が入ってき
た。
おそらくは自分の足で立つこともままならないような子どもは、突然大きな声
で泣き出した。
「うるさくて、ごめんなさい」
女の人はマリアたちに頭を下げると、自分の胸を子ども………赤ん坊の口に含
ませた。
「あのね」
その様子をじっと見ていた美璃佳が、口を開く。
「なに?」
「マリアおねえちゃんが、ママだったらいいのにな」
「私が………ママ?」
ママ。
マリアは思う。
美璃佳にとって、ママとはどんな存在なのだろうと。
マリアにとってのママとは、絶対的な保護者だった。つい一昨日までは。
マリアの健康管理、一切の行動から記憶までを保護・管理するもの。
しかしママが行う『管理』には、マリアに対する思いやりは存在していないよ
うに思われる。ママの管理はマリアには知らされていない任務に基づいている。
ママにしてみれば、マリアはその任務に必要な道具に過ぎないのではないだろう
か。
マリアがこれまでの惑星で経験してきたことの大半は、いまでもママが管理し
ている。そのためにマリア自身が覚えていることは少ない。だが、ほとんど全て
の生命はその母体となる個体より生まれ出る、ということは知っている。
美璃佳たちは、自分を生んだものをママと呼ぶ。その定義に当てはめれば、マ
リアのママはママでない。マリアは自分の出生について、何も知らない。が、機
械であるママから有機生命が生まれたとは考えにくい。
美璃佳は、マリアがママだったらいいのに、と言った。
これはどういう意味なのだろう。
既に一個の生命として存在している美璃佳を、改めてマリアが生み直すことは
不可能だ。だから美璃佳の母体としてのマリアを望むことは無意味である。
では管理者として、マリアを望んでいるのだろうか。
しかしマリアには美璃佳の記憶を管理出来るような、特殊な能力などない。
美璃佳は、何を望んでいるのだろう。ただ自分を生み落としたのが、結果とし
て存在している女性ではなくマリアであれば良かったと、無意味な希望を述べた
だけだろうか。
「マリアおねえちゃん、どうかしたの? こわいかおしてる」
「えっ、そんなことないよ」
マリアは洋服のボタンを掛けるのに、苦労していた美璃佳を手伝ってやった。
テレビからは、古いドラマの再放送が流れている。
そのそばでは電子音を響かせ、良太がポータブルゲームに熱中していた。
「腹が減ったなあ」
煙草が吸いたいのを我慢して、駿は時計を見た。まだ五時になったばかりだっ
た。
早めの入浴を済ませた後、夕食も早めに済まそうと思っていた。ところが駿た
ちより十分ほど遅れて出てきたマリアと美璃佳は、二人きりで寄りたいところが
あると言い出した。駿や良太が一緒について行こうとすると、強く拒否されてし
まった。女の子同士の秘密だそうだ。
美璃佳の迷子騒動のこともあったし、まだマリアも頼りない。その二人だけで
どこかへ行かせるのは不安だったが、駿が何を言っても聞き入れようとしない。
仕方なく食事はマリアたちの用事が終わってから、ということになり駿と良太は
先にアパートに戻って来ていた。
どこからか漂ってくる匂いが、駿の空きっ腹を刺激する。カレーとご飯の炊け
た匂いだ。
「いい匂いだなあ。どこの家だろう」
しばらくカレーライスなど食べていなかったことを思い出す。手軽な料理のよ
うだが、インスタントラーメンに比べて、一人暮らしの男が食べる機会は意外に
少ない。カレーを掛けるためのご飯が面倒なのだ。駿は炊飯器を持っていない。
電子レンジかお湯で暖めるだけのタイプのレトルト物も売ってはいるけれど、当
然電子レンジなども持っていない。お湯で暖めるのは電子レンジに比べて、三倍
くらいの時間が掛かる。
従ってラーメンと並び、手軽に思えるカレーも外で食べる以外に口にすること
はまずない。
良太たちの面倒を見るようになってからも、そのきっかけだった美璃佳の病気
のことが頭にあり、栄養の面でカレーはなんとなく避けていた。それに外でのカ
レーは、外食をする大人向けの物がほとんどなので、美璃佳や良太のような子ど
もの口に合わないことも多い。
『マリアたちが帰ってきたら、ファミリーレストランに行こうかな』
#4300/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:41 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(30) 悠歩
★内容
そこならカレー以外にもメニューがある。子どもの食べられるカレーもある。
子どもたちには適当に選ばせ、自分はカレーを頼もう。辛いやつがいい。漂う香
りを嗅ぎながら、駿はそう考えていた。
それにしても、この匂いはどこからしてくるのだろう。
下の老夫婦がカレーを食べるとは、少し考えにくい。そうなると後は愛美のと
ころしかないが、父親があの状態で彼女はずっとつきっきりのはずだ。風のせい
で、アパートの外から漂ってくるのか。
「ねえ、お兄ちゃん。となり、誰かいない?」
ゲームに熱中していた良太が、顔を上げて言った。
「えっ?」
駿はリモコンでテレビの音量を下げて、聞き耳を立てた。
確かに隣の部屋から、何か聞こえてくる。
この二階には、駿の部屋以外に人はいないはず。すぐ隣は良太と美璃佳の部屋
であるが、二人ともいまはずっと駿の部屋で生活している。他の二部屋は、長い
間誰も住んではいない。
もしかすると、良太たちの母親が帰っているのか?
それならば、しなければならない話がある。彼女が覚醒剤の売買、あるいは自
身が使用しているのか、駿には興味がない。それはいずれ警察がはっきりさせる
だろう。
それより彼女が子どもたちのことを、どう考えているのか確認したい。今日ま
で所在が分からず、勝手に話を進めてきたが、やはり実の母親の意見を訊いてお
きたい。
いろいろと問題は多いが、もし彼女に子どもたちと暮らす意志があるのなら…
……出来るだけそうしてやりたい。それが良太たちのためだろう。
「良太くんは、ここで待ってて」
物音の正体を確認するため、駿は外へ出た。
「あれ?」
隣の部屋の前に立ち、駿は先ほどから漂っていたカレーの匂いがそこから発し
ているのを知った。あの母親がまさか………そう思っているところに、部屋のド
アが開かれる。駿は慌てて横に飛び退き、ドアにぶつかるを避けた。
「あっ、駿だ!」
陽気な声と共に中から現れたのは、マリアだった。手にはあの匂いの元となっ
ているらしい、鍋を持っている。鍋つかみの代わりだろう、取っ手の部分には幾
重にもテッシュが巻かれていた。
「熱いの、駿の部屋のドアを開けて。早く!」
「あ、はい」
茫然としていた駿は、マリアの声に飛び上がるようにして、自分の部屋へ駆け
出した。
隣の部屋での物音の正体は、マリアと美璃佳だった。
銭湯の帰り、駿と分かれてから二人はスーパーで材料を買い揃え、隣の部屋で
カレーを作っていたのだ。
「それにしたって、どうして隣で作っていたんだい?」
「内緒にして、びっくりさせようと思ったの。それに駿のお部屋、ご飯を作る機
械がないんだもん」
それからマリアと美璃佳は顔を見合わせ、それも打ち合わせしていたかのよう
に同時に首を傾げ、「ねえ」と言った。
「それに、まいにちおそとでごはんたべてると、おかねがたいへんでしょ?」
確かに四人での外食をすると、その代金は一回で駿のアルバイトの半日分はゆ
うに出てしまう。それに加えて、先日のプレゼント代が大きく響き、手元に残っ
ているお金はかなり苦しくなっているのは事実だった。
「あ、じゃあせめて材料費くらい払うよ。いくら掛かった?」
駿は財布から千円札を数枚取り出した。
「いいの。マリア、この前駿からお小遣いもらってるから。美璃佳ちゃんに教わ
って、ちゃんとお買いもの出来たんだよ」
嬉しそうなマリアは、駿の差し出したお金を受け取ろうとはしなかった。
マリアと美璃佳の作ったカレーライスは、お世辞にも上手く出来ているとは言
えなかった。
まずカレーの下のご飯は、ほとんどお粥に近い状態になっている。二人ともこ
れまでご飯を炊いたことがないと言うのだから仕方ないが、水の量が多すぎたよ
うだ。それでも水が足りずに、米の芯が残っているご飯よりはいいだろう。
カレーのルーは甘口。これ自体、辛目を好む駿の口には合わない。が、中辛以
上では美璃佳や良太、たぶんマリアも食べられないだろうから仕方ない。しかし
こちらはご飯と逆で水が少なかったらしい。かなり固めのルーになってしまって
いる。お粥状態のライスと絡めて、丁度いいかも知れないが。
ルーの中の具材、肉やじゃがいも、にんじんは形がいびつで、大きさはどれも
不揃い。しかも火が通りきっておらず、生煮えのものが多い。たまねぎも買って
来たそうだが、目にしみて切ることが出来ないと、入れられなかったらしい。
著名な料理評論家の前に出したとしたら、口に運ぶ以前に不合格を言い渡され
てしまうだろう。
駿にしてみても、味見栄え共に好みに合うものなど見つけられない。だが「不
味い」と言ってスプーンを置く気にもならない。
もちろん一生懸命に作ったマリアと美璃佳に対して、そんなことを言えるほど
駿は無神経でない。それにどういう訳か、それを食べることが苦痛にならない。
いやむしろ舌に合わないはずのその味、出来映えが好ましくさえ感じるのだ。
きっと視覚神経と味覚神経以外にも、食べ物の味を感じる器官があるに違いな
い。二人が懸命に作ったカレーは、駿のその三つ目の感覚に強く訴えるものだっ
たのだろう。
一方マリアと美璃佳は、その出来には完全に満足しているようだ。
「おいしいね」
「うん」
折りたたみのテーブルで差し向かいになった二人は、楽しそうにそう自分たち
の作ったカレーライスを評価している。よく見れば、具はほとんど食べていない
のだが。
一人暮らしで使うために買ったテーブルなので、四人で使うには狭すぎる。駿
と良太は雑誌を積み重ねてテーブル代わりにしていた。
その良太は旨いとも不味いとも言わず、ただ黙々と妹たちの作ったカレーを食
べている。どうにも駿には、そんな良太の姿が気になった。
良太には年齢のわりには、どこか大人びたところがあった。父親はなく、母親
も子どもたちのことを一切かまわず遊び歩いているような女で、兄妹二人だけで
過ごす時間が多かったのだろう。良太以外、美璃佳を守ってやれる者はいなかっ
た。幼い妹を守るため、精神的に強くならざるを得なかった。
だが駿たちと共に過ごすようになって、少しずつではあるがその責任が和らぎ、
良太も歳相応の表情を見せるようになっていた。
それが昨日辺りから、元の表情に戻り始めている。守られる子どもから、誰か
を守る保護者の顔に。
何かあったのだろうか。
その理由を訊き出すべきだろうか。
しかしあと二・三日、明日明後日にでも連絡が入れば、良太たち兄妹は駿の手
元を離れて行くだろう。もう駿が良太の悩みをどうにかしてやれる時間はない。
可哀想ではあるが、仕方ない。自身の悩みは自身で解決出来るようにしなければ
ならないのだ。ここで、駿が半端な手助けをしても、それはかえって良太のため
にならない。
突然鳴り出した電話の音が、そんな駿の思考を中断させた。
愛美は幸せだった。
幼い愛美を真ん中にして、その手を引く若い父と母。
二人とも笑っている。とても幸せそうに。
緑の草原を左右に分かち、どこまでも続く長い道。
愛美たち三人は、その道をただひたすら歩いていた。
道の両側には檻があって、ゾウやキリン、トラやライオン、クマやイノシシが
いる。極彩色の魚が泳いでいる水槽もあった。
ここは動物園なのだろう。
愛美たちと同じような親子連れが檻の前に立って、戯れる動物たちを見ながら、
楽しげに笑っている。
「おかあさん、まなみ、ちょっとつかれちゃった。すこしやすもうよ」
そう言って愛美が母の方に顔を向ける。するとふいに握っていたはずの、母の
手の感触が消えた。
「おかあさん?」
感触だけでない。
振り向いた先には、母の姿もなかった。
「おとうさん、おかあさんがいなくなっちゃったよ」
慌てて見上げた父の顔は、霞が掛かったようにぼやけていた。
「おとうさん………」
父は何も応えない。
愛美の方へ振り返ろうともしない。
ぼやけた顔は青白く、生気も感じられない。
「ここから先は」
ようやく開かれた父の口から、掠れた声が漏れる。
「愛美一人で行きなさい」
「えっ」
霞む、霞む、霞む。
そして父の姿も、蚊柱が風に散らされるようにして消え失せた。
「おとうさん、おかあさん」
独りぼっちになった愛美は、悲しくなって泣き出してしまう。
いつの間にか、檻も動物たちも、それを見ていた人々もどこかへ消えていた。
長い道の上に、ただ一人愛美がいるだけだった。
「どこ? どこなの。おとうさん、おかあさん!」
いくら周りを探してみても、みつからない。
強く生きなさい。
そんな声が聞こえた。
どんどんどん。
遠くで何かを叩く音がする。
どんどんどん。
次第に音が近く大きくなっていく。
「んっ………」
深いまどろみから目覚めた愛美は、咄嗟に自分がどこにいるのか分からず、辺
りを見回す。見慣れた光景が目に飛び込んできた。
「私の部屋?」
なぜ部屋に戻ってきて来ていたのか、途切れていた記憶を辿る。
朝方、父の容態が落ち着いているのを確認して新聞配達に出掛けた。その後一
度病院に戻り、夕方まで父につき添っていた。それから愛美自身が着替えるため
にアパートに戻って、つい寝込んでしまったらしい。
どんどんどん。
また音がする。誰かがドアを叩いていた。
「愛美ちゃん、いないの?」
駿の声だ。
「は、はい。います」
どこか緊迫してして聞こえた駿の声に不安を感じ、手櫛で髪の乱れを整え、愛
美はドアを開けた。
「病院から電話があった」
ドアを開くなり、駿が言った。
愛美の部屋には電話がない。それで先日、父を病院に運んでくれた駿の所へ連
絡が入ったのだろう。しかし、そうまでして来た連絡が、愛美にとって良いもの
でないことは容易に想像が出来る。
駿が次の言葉を放つ前に、もう愛美の足は震えていた。
「お父さんが危篤になったそうだ」
予想通りの言葉だったが、愛美の意識は遠のきそうになる。それを必死で耐え
た。
「お父さん!」
集中治療室に飛び込んだ愛美に、戸田医師は軽く一瞥をくれただけだった。じ
っと父の脈を取っている。
父に繋がれた装置のモニター。それが示す波形は、前に見たときよりも弱々し
いものになっている。
「先生、お父さんは………?」
父の容態について愛美が訊ねてみても、医師は応えず何やら看護婦に指示を送
る。
「せん……せい?」
ぷしゅう、という音だけが愛美に応える。父が自ら行っているのか、機械が強
制的に行わせているのかは分からない。父の呼吸音。
「良くない………覚悟をしておいた方がいい」
ようやく返ってきた医師の言葉は、愛美が一番聞きたくないものだった。
「お願い、お父さん。私を一人にしないで」
愛美は意識のない父の左手を取り、強く胸に抱く。
暖かい。
とても死に瀕している者の手には思えなかった。
流れた涙が頬から顎へ、顎から抱きしめた父の手へと滴り落ちる。
「お父さん、お父さん、お父さん、お父さん、お父さん………」
念じるように繰り返し、父を呼ぶ。
もう一度声を聞きたくて。
−−馬鹿野郎。ったく、役に立たない娘だ。
そう罵るのでも構わない。殴られてもいい。
だからもう一度、声を聞かせて欲しい。
愛美の名を呼んで欲しい。
#4301/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:42 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(31) 悠歩
★内容
「あっ?」
微かに、愛美の胸の中で何かが動いた。
急いで愛美は、胸に抱いた父の手を見る。弱々しく痙攣するような動きだった。
しかしそれでも何かを伝えるかのように、父の手は指先を動かしている。
「お父さん」
愛美は顔を上げて、目を閉じている父の方を見た。
ゆっくりと、父の顔が愛美に向けられる。
ずっと閉じられたままだった瞼を、ゆっくりと開きながら。
震えるように、唇が動いている。
しかし呼吸器が邪魔となり、父の口から声が発せられることはない。
「先生! お父さん、なにか言おうとしている」
愛美は父の口元に耳を寄せる。けれど聞こえてくるのは、管を流れる空気の音
だけだった。愛美は手を伸ばし、父の呼吸器に手を掛けようとした。
「駄目だ! 愛美ちゃん」
医師の手が愛美の腕をつかみ、それを阻止する。
「でも、戸田先生。お父さん、なにか言おうとしてるの。それを聞かないと、私
一生後悔する。お父さんも、安心出来ないの!」
愛美が指さす先では、父が自由にならない右手をもどかしそうに動かしていた。
口もとの管を何とかしたいのだろう。腰のそばに置かれた腕が、何度か浮き上が
る。しかしそれを口元に運ぶほど、もう父の力は残されていない。すぐに手は元
の位置、ベッドの上に落ちてしまう。それでも父は、何度も何度も、手を動かそ
うとしている。
病院に運ばれてから、いままで昏睡し続けた父。
それがようやく目を開き、手を動かし、唇を震わせ、何かを愛美に伝えようと
している。
奇跡を祈り続けた愛美だったが、いま父が見せているものが回復の兆しでない
ことは分かっていた。言葉には出さず、考えないようにもしているが、それは父
が最期の力を振り絞ってのことだと気づいていた。だからこそ、聞かなければな
らない。父が言おうとしている言葉を。
「先生、お願い」
ほんの一瞬、瞬きをするだけの時間、医師は考えるような仕種を見せたが、す
ぐに父の口もとの管へ手を伸ばした。そしてゆっくりと呼吸器を外す。終始無言
のままで。
愛美以上に、父の状態を知っている医師は、その最期に何をしてやるべきか分
かってくれたのだ。
呼吸器が外された父の顔は、直接集中治療室の澱んだ空気にさらされる。
「お父さん、愛美よ。分かる、よね?」
愛美は強く父の手を握り、耳元で囁いた。微かに父の首が頷いた。
「ま、な……み」
空気の漏れて行くような声だった。よく耳を澄ましていなければ、愛美自身の
鼓動にかき消されてしまいそうな、弱々しい声。
「うん、なあに? お父さん」
出るだけ穏やかに、明確な声で話そうとするが、喉につまってしまう。
はっきりと父の顔を目に焼き付けておきたいのに、涙で視界が霞んでしまう。
「す、ま、な……い」
苦しそうな声。
違う。
愛美が聞きたいのは、こんな弱々しい声ではない。
愛美が聞きたいのは、こんな弱気な言葉ではない。
「やだ………なにを謝っているの。お父さんが私に謝ることなんて、なにもない
のに。私ね、お母さんがいなくなっても、お父さんがいたから……平気だったん
だよ。お父さんがいたから、今日まで生きて来れたの。お父さんと………いられ
て、幸せなの。
だから………だから、お父さんが私に謝ることなんて、何もないんだよ」
父が微笑んだように見えた。
「がんばって、お父さん。そうだ………お正月になったら、一緒にお参りに行こ
うよ。ほら、お母さんが元気だったとき行った、あの神社に。それから………私、
おせち料理作るから………お母さんみたいに、上手には出来ないけど……一生懸
命、作るから」
愛美は胸の中で、父の手をぎゅうっと抱きしめた。それに応えるように、父の
手が愛美の手を握り返してくる。
「あ、い……し、て、い、た………よ」
愛していた。
いつも愛美に辛く当たっていた父が、初めて口にした言葉。愛美はその一言だ
けで、全てが報われた気がした。ただこれが、父の命の灯火が最期のゆらめきを
見せている時でなければ、どれほど良かっただろう。
「いやっ。どうして、過去形で言うの? だめだよ………お父さんがいないと、
私………お願い、だから………私を、独りぼっちにしないで!」
父の手が愛美の胸の中から動こうとしてる。何をしたいのか分からず、愛美は
父の手を抱いていた力を緩めた。手はゆるゆると、愛美の身体を這うようにして
登っていく。そして愛美の頬を優しく撫でる。
父は微笑んでいた。
愛美の気のせいではない。
母の死後、ずっと隠していた笑顔をようやく愛美に見せてくれた。
目にいっぱいの涙を浮かべて。
「し……あ、わ、せ………に…お、な……り」
頬に充てられた父の手から力が抜け、落ちていく。
すうっと瞼が閉じられる。
まるでコマ送りの映像を見るようだった。
「お父………さん?」
愛美の呼びかけに、父はもう応えない。
それまで静かに見守っていた戸田医師が、父の左胸をマッサージを始めている。
モニターの波が、真っ直ぐな線に変わっていた。
「う……そ。嘘だよね、お父さん。ねえ………起きてよ! お父さん………お父
さん!」
叫んでも、返事は返らない。
マッサージをしていた医師の手が止まった。それから腕を取って脈をみたり、
目にペンライトを充てたりしている。愛美には、その医師の行動が酷く事務的に
感じられた。
そして腕時計を見ながら言った。
「19時34分、ご臨終です」
「ごりん、じゅう?」
意味が飲み込めず、愛美は医師の言葉をオウム返しする。
「いやだ………先生、悪い冗談です。お父さんは、疲れて………眠っただけです
……ねえ、そうでしょう? 先生………」
分かっていた。
何が起きたのか、愛美にも。
それでも期待していた。医師が笑いながら、「ごめんよ愛美ちゃん。ちっとし
た冗談だよ」と応えてくれるのを。
しかし愛美が期待した応えが返ってくることは、ついになかった。
代わりに、その瞬間を待ちわびてしたかのように、数人の看護婦が隣の部屋か
ら現れる。そしてテキパキと、父の身体に繋がれた管を取り外していく。
「止めて! どうして、外してしまうの? それがないと、お父さん………死ん
じゃうでしょ。だめ! 外さないで」
手を伸ばして、愛美は看護婦の作業を止めさせようとした。
「西崎さん、ここからは、遺族の方は見ないほうがいいですよ」
看護婦の一人が、愛美を部屋の外に出そうとする。言葉は優しいが、強い力で
愛美を押す。
「やだ、離して下さい。『遺族』って誰のことです? ねえ、看護婦さん」
「十分くらいしたら、また入っていいですからね」
そう言って、看護婦は集中治療室のドアを閉じた。
後ろで誰かが泣いている。
『誰? 誰が泣いているんだろう』
ゆっくり振り返ると、見覚えのある顔が四つ並んでいた。
駿、良太、美璃佳、そしてマリアの四人。
みんな悲しそうな顔をしている。美璃佳は、ぼろぼろと涙を流して、本当に泣
いていた。
どうしてこの人たちが、ここにいるのだろう。愛美は考える。
『ああ、そうか。私の家には電話がないので、藤井さんのところに病院からの電
話があったんだっけ。だから、この人たちも病院に来たんだわ』
それにしたところで、みんなが悲しそうな顔をしている理由が見つからない。
何かあったのだろうか?
それが父の死に因るものだとは、愛美には考えつかない。
愛美に気づいた四つの視線が集中する。
どうしてそんな目で、私を見るのだろう?
「愛美ちゃん………」
遠慮がちに、駿が近づいてくる。
「その………いま、どんなことを言っても、なんの慰めにもならないだろうけど
………気を落とさないで………」
気を落とさないで。
どうして?
なぜ気を落とすの?
分からない。
おぼつかない足どりで、美璃佳が駆け寄ってきた。その顔は、涙でくしゃくし
ゃになっている。
美璃佳が勢い良く抱きついてきたので、愛美はわずかによろめいた。
「ふぁ………ふうっ、あっ、ふぐっ………」
はっきり文字で表現するのが困難な声を出し、美璃佳が泣いている。
いったいみんな、何があったと言うのだろう。
ぽとり。
その時、愛美は自分の頬から雫が落ちるを感じた。
「あれっ?」
目元を指でなぞる。熱く濡れた感触が伝わる。
『私も、泣いている?』
ああ、そうか。
愛美は思い出した。
父が死んだということを。
なぜだかすっかり忘れていた。ほんの数分前のことだと言うのに。
だから駿たちは、悲しそうな顔をしていたのか。
けれどどうして、駿たちが悲しむのだろう。自分たちとは、全く無関係の人間
の死に。
まさか駿たちは、どこかで人が死ぬ度に悲しんでいる訳でも在るまいに。
そして、当の愛美自身がそれほど悲しく思っていないのは、なぜだろう。父の
死後数分までは、あんなに悲しかったのに。集中治療室の外に出されてから、ま
るで心の一部をえぐり取られてしまったかのように、「悲しみ」の感情が消えて
しまった。
そんな自分が、そして駿たちが滑稽に思えた。口元が動くのを感じた。笑って
いるのだ。愛美はその口元に、笑みを浮かべているのだ。
「愛美お姉ちゃん?」
そんな愛美を、怪訝に思ったのだろう。良太が不安そうな目で見つめている。
「何だか暑いわ」
そう言って、愛美は抱きついていた美璃佳の身体を、そっと押し戻した。
「少し、風にあたってきます」
愛美は、よろよろと歩き出した。
愛美が立ち去っても、美璃佳は泣き止むことがなかった。
それどころか一層激しさを増し、わんわんと声を上げて泣き出す。
駿は涙を拭いてやるためハンカチを出そうとするが、あいにく忘れてきたらし
い。どのポケットを探しても見当たらない。そうしているうちに、マリアの方が
先にハンカチを出して美璃佳の顔を拭いていた。
「ほらほら、美璃佳ちゃん。泣かなくていいのよ」
「だって………まな、み……おね、ちゃん…かわ……そ、だよ」
感性が豊かなのか、優しすぎるのか、美璃佳は愛美の不幸を自分のことのよう
に感じてしまっている。悪いことではないがこれから先の生活を思うと、その優
しさが美璃佳自身を辛くしてしまうのではないかと不安だった。
「心配しなくてだいじょうぶだよ、美璃佳ちゃん。愛美ちゃんの顔を見たろ?
そんなに辛そうじゃなかった………すぐに元気になるよ」
「駿、それは違うよ」
美璃佳を胸に抱き上げ、マリアが言った。
「大好きなお父さんが、死んじゃったんだもん。愛美ちゃんはとっても辛いの。
辛すぎて悲しい顔が出来なくなっちゃったんだよ」
駿はまた、マリアのもう一つの表情を見た。
いつもの無邪気なマリアからは想像のつかない、大人びた顔。神々しいとさえ
思える。
「だけど………」
愛美の父親は、まともに仕事もせず愛美がアルバイトして稼いだお金を、酒や
ギャンブルに使っていた。愛美を怒鳴りつける声を、駿も何度か耳にしている。
そんな父親が死んで、それほど悲しいものだろうか。
そう思った駿だったが、良太や美璃佳の手前、口には出せず言葉を飲み込んだ。
「ううん」
駿の言おうとしたことを察したのか、マリアは首を振って否定する。
「愛美ちゃんのお父さん、優しい人だったよ。迷子になった、美璃佳ちゃんによ
くしてくれたもん。だから美璃佳ちゃんも、こんなに悲しんでるんだもんね。
お父さんが愛美ちゃんに優しくしなかったのは、訳があるんだよ。本当はお父
さんも、愛美ちゃんのことが大好きだったのに」
#4302/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:43 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(32) 悠歩
★内容
何もかも知っているようなマリアの物言い。駿よりも愛美たち親子との面識が
浅いマリアが、そこまで知っているはずはない。けれど不思議と、マリアの言葉
には納得させられてしまう。
相変わらず良太は、無言のまま何かを考えているようだった。
感情と共に感覚まで失ってしまったのだろうか。
外の風に触れても、まるで寒いと感じない。
どこへ行くでもない。ただ、一度動き出した足を止めることが出来ず、愛美は
歩き続けていた。
病院の前から続く、長い直線のバス通り。まだそれほど遅い時間ではないのに、
通り過ぎる車も、歩いている人の姿も少ない。
道路に面した家の庭先に、イルミネーションを施された木があった。クリスマ
ス用の飾りつけだろう。色とりどりに鮮やかな光を放つ。それがとても、空々し
いものに思えた。
クリスマス・ソングを口ずさむサラリーマンとすれ違った。男の手には、リボ
ンの掛けられた赤い包み。子どもへのクリスマス・プレゼントだろう。あれは、
今日渡されるのだろうか。それともイヴの晩まで隠され、当日枕元にそっと置か
れるのだろうか。
強い風が吹き、アルミ缶が音を立てて愛美の前を転がっていく。
そんな一切の出来事に、愛美はまるで現実感が持てなかった。
「もうすぐクリスマス・イヴなんだ」
特に何の感慨もなく、愛美は呟いた。
三日後に迫ったイヴも、いまの愛美には関係ない。
笑い声が聞こえ、そちらに視線を向ける。道路の反対側のファミリーレストラ
ンから、楽しげな親子連れが出てくるところだった。三つか、四つくらいのおか
っぱ頭の女の子が両親の手にぶら下がったり、屈み込んでかと思うと大きく飛び
跳ねたりして、はしゃいでいる。
『あの子、小さい頃の私に、似てる………』
愛美の足が止まった。
「クリスマス、カナちゃんにも、サンタさんくるかな?」
女の子は顔を上げ、父親に言った。
「さあ、カナちゃんはちゃんといい子にしてたのかなあ」
「してたもん! ママのおてつだい、いっぱい、いっぱいしたもん。ミィちゃん
のごはんも、ちゃんとあげたもん!」
「そうよね。カナちゃん、とってもいい子だったものね」
母親が笑顔で応える。
「それなら大丈夫だ。きっとサンタさんは、カナちゃんのところにも来てくれる
よ」
「ほんと!」
「ああ、本当だよ」
絵に描いたような幸せを残し、親子連れは車に乗り込み、走り去って行った。
クリスマス、クリスマス、クリスマス。
呪文のように、愛美は繰り返し呟く。
先ほどの少女に幼い頃の自分を重ね、過ぎ去った日を思い出す。
大きなクリスマス・ケーキを中心にしてテーブルに並ぶ、愛美の大好物のご馳
走たち。
「メリークリスマス」
父と母はシャンペン。愛美はオレンジ・ジュースのグラスを重ね合う。
何から食べようか、迷ってしまう。結局いっぺんにケーキとご馳走を口に運ん
で、喉を詰まらせ咳込んでしまった。
慌てて背中をさすってくれた母。
おかしそうに笑っている父。
もう二度と見ることの出来ない、父と母の笑顔。
失ってしまった感情が、突然愛美にのしかかって来た。既に涸れ果てたものと
思われててた涙が、堰を切ったように再び溢れ出してくる。
身体中の力が抜けて行き、自分自身で支えきれなくなってしまう。そのまま冷
たいアスファルトの上に座り込んでしまった。
澄んだ夜空には、たくさんの星々が瞬いている。けれどその空の下、この広い
世界に独りきりなってしまった寂しさと恐怖が、愛美の胸を締めつける。形も重
量も存在しない感情に、押し潰されそうになる。
「いや、いや、いやっ!」
叫んだところで、何が変わる訳でもない。
母を亡くしたとき、確かに辛かった。けれど酷く落ち込んだ父を見て、自分が
その支えにならなければ。その思いのせいで悲しみに暮れる暇はなかった。
母の代わりに家の仕事をこなし、さらには働かなくなってしまった父に代わり
アルバイトをするようになった。同い歳の子どもと比べれば、何一つ楽しいこと
があるようには見えないかも知れない。それでも愛美は、父と暮らせるだけで嬉
しかった。父がいたからこそ、生きてこれた。母の死後、一言とて父から優しい
言葉を掛けられたことはない。それでも愛美は満足だった。
でももう、その父もいない。
愛美は自分の生きる目的、全てを失ってしまった気がした。
いまの愛美を支えるものは何もない。
ただこうして、自分が壊れて行くような苦しみに身を委せるしかなかった。そ
れでもいいと思った。父も母もいなくなってしまった世界に、独りぼっちで生き
ていくより、いっそ壊れてしまった方がどれほど楽だろう。
けれど愛美の望みは叶えられない。
蹲ったまま、じっと自分の壊れていくのを待っていても苦しみが増すばかりで、
その瞬間が訪れることはなかった。思った以上に、強くできているらしい自分を
怨んだ。
OL風の女性が、何か汚い物を見るような目をして、愛美を避けて行った。
胃液を吐き出してしまいそうな苦しみに耐えきれず、よろよろと立ち上がる。
目的もないままに、また歩き始める。
ファミリーレストランを通り過ぎ、どれほど歩いただろう。闇の中で、異様に
目立つ光が視界に飛び込んできた。
電話ボックス。
周囲の風景に溶け込まずに浮かび上がったそれは、まるで別の世界への入口の
ように思えた。誘(いざな)われるまま、愛美はその中へと吸い込まれて行った。
明かりの灯された狭い空間に入ると、暗い周りの風景は見えなくなる。愛美に
はそこが、いまの自分に相応しい場所に思えた。周囲から隔離された空間。この
世でただ一人、取り残されてしまった自分。
心を支えるものは何もない。
いや………
愛美は目の前にある、緑色の電話を見つめた。電話ボックスと、外の世界とを
繋ぐもの。そこにまだわずかな救いがあるような気がして、愛美は受話器を取っ
た。もしかしたら、そこから声が聞こえては来ないだろうか。そんな期待が叶え
られる訳はない。受話器は、耳が痛くなるほどの沈黙を送り出した。
誰かに電話を掛けようと思ったのではない。
ただ何かから逃れたかった。
愛美は投入口にコインを落とす。沈黙を保っていた受話器が、待機音を放つ。
それだけのことで、全身にのしかかっていた重みが軽減したような気がする。
しかしそれも、わずかな時間だけのことだった。すぐに待機音しかしない受話
器に恐怖を感じ、番号を押そうと人差し指を伸ばす。
誰に掛けようというのでもない。だが押さずにはいられなかった。
番号を五桁押し終えた時点で、愛美は指を止めて電話を切った。返却口にコイ
ンが戻る。
「だめ………いまさら、頼れない」
押そうとしていたのは、雪乃叔母さんの電話番号。
あのまま電話を掛けていれば、叔母さんは飛んできてくれるだろう。そしてい
ろいろと愛美の力となってくれるに違いない。
愛美は母とよく似た叔母さんが好きだった。叔母さんの胸に飛び込んで、この
悲しみと苦しみの全てをぶつけたい。きっと叔母さんは、それを優しく受けとめ
てくれる。
だからこそ愛美は叔母さんには、電話することが出来なかった。もし叔母さん
に来てもらえば全てを頼ってしまう。愛美には叔母さんの他に親戚はない。だか
ら叔母さんは、以前父に話していたように愛美を引き取ると言うだろう。他に選
択肢のない愛美に、それを拒むことは出来ない。誰かに頼らなければ高校へ進学
するどころか、このまま中学に通い続けることさえ難しい。
叔母さんが好きだからこそ、迷惑を掛けたくないという気持ちもある。愛美か
ら見れば、叔母さんとは血の繋がりがあってもその旦那や姑とは他人同士。愛美
を引き取ることで、叔母さんが肩身の狭い想いをするのは嫌だった。
そして何より、叔母さんに引き取られることで、いままでの生活。父母と暮ら
した日々が消えてしまうような気がした。もしかすると名字もいまの西崎から、
桂木に変えなければならないかも知れない。それが何より辛い。
何も残されていない愛美は、西崎の姓だけが唯一自分が父の子である証。父と
自分を繋ぐ絆に思えた。
それが消えてしまえば、本当に父が死んでしまう。それだけはどうしても受け
入れられない。
叔母さん以外に、電話を掛けられる相手はいない。他に記憶している番号とい
えば、二つのアルバイト先くらいのものだ。これ以上、電話ボックスの中にいる
理由もない。
外に出ようとした愛美の足がすくんだ。
膝ががくがくと震え始める。
愛美を支配する悲しみと恐怖が、身体をこの場に縛りつけていた。
電話ボックスの外の闇に、身を投じることを恐れた。
「たす………けて……誰か………」
来ることはないと知りながら、助けを求めて愛美は泣いた。このままでは死ん
でしまいそうだ。こんな苦しい想いを続けて行くくらいなら、いっそいますぐ心
臓が止まってくれたほうが、どれほど楽だろう。そうすれば、愛美も父母の元に
行き、一緒に暮らせる。
そんな考えが愛美を捉え出す。
『幸せにおなり』
父の最期の言葉が、頭の中に甦った。
それは愛美が父の元に行くのを、望んでの言葉ではないはず。母とて同じだろ
う。
愛美が死を選ぼうとすれば、最期の父の望みを裏切ることになる。
「どうして………どうして、お父さんは………最後の最後に、あんなことを言っ
たの?」
最期まで父が愛美を疎んじていけば、もっと気持ちは楽だっただろうか?
愛美を嫌ったまま父が逝ってしまったのなら、迷わず死を選べたのだろうか?
それとも、こんな辛い想いはしないで済んだのだろうか?
分からない。
けれど母の死後、見せることのなくなった優しさを父はいまわの際に初めて見
せてくれた。それは愛美にとって救いでもあったが、さらに心を苦しめる枷でも
あった。
ふと頭に、数字が浮かぶ。
愛美は飛びつくように、受話器を取った。
ふうと息を吐き、その電話番号を押す。一度も掛けたことのない番号だったが、
指は迷うことなく最後まで流れるように押していく。調べた日から、幾度となく
頭の中で繰り返して覚え込んでいた番号。いつか本当に電話を掛ける日が来るこ
とを夢想して。もちろんそれが、こんな日になるとは想像もしていなかったが。
末尾の数字を押して、呼び出し音の鳴り出す前に、愛美は受話器を置いてしま
った。
理由がない。
相手にしてみれば、愛美の事情など何の関係もないことだ。電話を掛けても、
ただ迷惑なだけだろう。愛美は相手に特別な感情を持ちかけていた。だからこそ、
こんな時愛美が救いを求める相手としてその電話番号が浮かんで来たのだろう。
だがそれは、愛美の一方的な事情。一方的な想い。
相手は愛美のことを、たまたま袖を振り合った程度にしか考えていないかも知
れないのだ。友人とさえも呼べないつき合いの愛美に、頼られる理由もない。
それにもし電話をして、相手にぞんざいにあしらわれてしまったら。
いまの愛美にとって、この電話は天界から差し伸べられた一本の蜘蛛の糸。地
獄の責め苦から逃れるための、最後の望み。電話に出た相手の言葉次第では、振
り返り後から登って来る者を蹴落とそうとした男同様、元の苦しみ、いやそれ以
上のものに戻されていまうだろう。
だが他に術は知らない。
愛美は再び受話器を取り、コインを投入する。
意を決したはずなのに、二度目の番号を辿る指は小刻みに震えていた。先程よ
りも、慎重に数字を確認していく。
最後の数字を押し終え、一拍の間を置き呼び出し音が鳴り始めた。
やはり掛けるべきではなかったか。
もしかすると不在かも知れない。そうであって欲しい、いや、やはりいて欲し
い。
相手が電話を取るまでの間、まだ心は揺れ動く。しかしいつまでも逡巡してい
る時間は与えられなかった。
『はい、相羽ですが』
呼び出し音が途切れ、聞き覚えのある女性の声が愛美の耳に届けられる。
「……………」
電話の相手に応えようとして口を開くが、声が出なかった。愛美は自分の口腔
も喉も声が出せぬほど、渇いていることに気がついた。
口を閉じて唾液を溜め、飲み込もうとする。だが、なかなか思うようにならな
い。
『もしもし、どちらさまですか?』
受話器の向こうの声が、不審そうに訊いてくる。
焦れば焦るほど、声が出ない。
『いたずらかしら』
『母さん、どうかしたの』
微かに聞こえてきた、男性の声。
#4303/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:44 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(33) 悠歩
★内容
「あ……あの」
愛美はようやく、掠れた声を絞り出すことが出来た。
「ごめんな、さい……にしざきです」
『西崎さん? あ、もしかして先日の玉子の?』
「はい………あの、信一さんは……」
訊ねるまでもなく、電話のそばにいることは分かっていた。
『ちょっと待って下さいね』
『もしもし、代わりました』
ほとんど待たされることなく、電話の相手は相羽信一に代わった。
「あ………」
声を聞きたかった相手が出ているのに、愛美は言葉を失ってしまった。
何を話せばいいのか。
何を話すつもりだったのか。
父が死んでしまったので慰めて下さい、とでも言うつもりだったのか。愛美は
自分が具体的に何を相羽に求めていたのか、分からなくなってしまった。
『もしもし、何かあったの? もしかして、あの本のこと』
愛美の気のせいだろうか。相羽の言葉は、とても優しく感じられた。初めて話
をすることが出来た日も優しかったが、どこか違う。愛美自身が強く求めていた
ものだっただけに、そう思えるだけなのかも知れない。
相羽に言われ、本を借りていたことを思い出す。読む時間など、取れないこと
を知りながら借りた本はわずかに冒頭部分に目を通しただけで、あの日からずっ
とタンスの上に置いたままだった。
「え、ええ」
他に電話をした理由の見つからない愛美は、そう答えるしかなかった。
『なにか気になることでもあったのかな。だけど、質問されても答えられないよ。
最後まで自分で読んで確かめないと、楽しみがなくなっちゃうからね』
明るい笑い声が、受話器から聞こえてくる。
愛美は胸が苦しくなった。
「じ……時間がなくて、まだ読み終わるまで………掛かりそう、です」
それだけのことを言うのに、大変な労力を費やしてしまう。
言葉の最後の方は、酸欠を起こしたように頭が眩み、辛うじて掠れた声を出し
た。
『わざわざそんなことを言うために、電話をくれたの?』
「………はい」
それっきり、愛美は黙り込んでしまった。
元より、何か話したいことがあって電話したのではない。ただ相羽の声を聞け
ば、少しでも心が楽になるのではないか。そんな期待を抱いてのこと。
不躾に突然電話をして、迷惑がられるのではと思っていたのに、相羽の声は暖
かく優しかった。
愛美にはそれだけで充分だった。
これで悲しみが消えた訳ではないが、そこまで求めるのは虫が良すぎる。信じ
ていた女将に裏切られ、父をも亡くし、広い世界にたった一人取り残されたよう
な気がしていた愛美。まるで気安い友人のように話をしてくれる人がいると、分
かっただけでよかった。
もう、電話を切ろう。そう思ったとき。
『なんだか、元気ないみたいだね』
愛美を気遣う言葉が聞こえてくる。
「いえ、そんなこと………ないです」
口では否定するが、声の震えは抑えられなかった。思わず「助けて下さい」と
叫びそうになるのを、懸命に堪える。
『あの、もし違っていたらごめん。お父さんに、何かあったの?』
「えっ………」
一瞬、心臓が止まりそうになる。
どうして相羽が父のことを知っているのだろう。愛美の疑問に、相羽はすぐに
答えてくれた。
『西崎さん、昨日から学校を休んでたでしょ? それで八組の子にそれとなく訊
いてみたら、西崎さんのお父さんが倒れて病院に運ばれたらしい、って言ってた
から』
相羽が自分のことを気に掛けていてくれた。それは愛美にとって、とても嬉し
いことだった。だが、愛美の気持ちは酷く焦り始めている。
このままでは泣いてしまう。
全てを相羽に打ち明けてしまう。
早く電話を切らなければ。
けれど愛美の手は動かない。耳から受話器を離し、電話を切るための動作を行
うことが出来ない。
『こんなことを言って、気を悪くしたら謝る。これからぼくの言うことに、間違
いがあったり、おかしなことがあったら止めて欲しい………ぼくは西崎さんのこ
とを、よく知らない。この間の玉子のことがなかったら、いまでも名前すら知ら
なかったはずだ。
だけどあの時、知り合って話をして。ぼくの勝手な推測だけど、西崎さんって
男子の家に些細な用事で、電話の出来る子じゃない気がするんだ。さっきから、
様子もおかしい。
もしかすると………入院しているお父さんに、何かあったんじゃない? こん
なことを言って、ごめん。その……大変なことになっているとか………』
愛美は応えなかった。
応えることが出来なかったのだ。
受話器を握ったまま、床に膝をつく。
そして泣いた。
相羽がそこまで自分を見ていてくれたことが嬉しいのか、改めて父の死が悲し
いのか、愛美自身にも分からない。
何か受話器から音がする。コインが終わり、電話が切れる直前の知らせといま
の愛美には判断出来なかった。
『西崎さん、いまどこにいるの?』
相羽の問いかけを、はっきり認識出来た訳ではない。ただうわ言のように目に
入ったものをそのまま言葉にしただけだった。
「コンビニ………」と。
それが相羽の耳に届いたかは分からない。
言葉が終わらないうち、通話時間の終了した電話機は沈黙してしまったから。
愛美は声を上げて泣いていた。
父の死の瞬間より、激しく泣いたかも知れない。
稚児のように、聞く者がいても理解出来ぬ言葉を発し、わんわんと泣いていた。
もし電話ボックスで泣いている愛美を、外から見る者があれば何か只ならぬ事
態が起きたのではないかと思っただろう。何か急な発作に苦しんでいるように見
えたかも知れない。気がふれてしまったのだと思ったかも知れない。
しかし泣いている愛美に、声を掛ける者はなかった。
誰もそばを通らなかったのか、関わりを持ちたくないと避けて行ったのかは分
からない。
どれほどの時間、泣いていただろうか。
ようやく涙が止まった。
いや、出なくなったと言うべきだろう。身体中の水分を涙に使ってしまったよ
うな気がする。まだ嗚咽は続いていたが、涙は果ててしまった。
身体がだるい。
愛美は肩で息をしている自分に気づいた。
まるで長距離を走り終えたランナーのように、身体が激しく酸素を求めていた。
大きく息をする度、渇ききった喉がひゅうひゅうと鳴っている。
こんこん。
誰かが電話ボックスのドアを叩いた。
気がつけば、とうに愛美の手から離れた受話器がだらしなくぶら下がっている。
正確には分からないが、長時間電話ボックスを独占していた。ドアをノックした
来訪者は、電話を使いたいのか、あるいは中で蹲っていた愛美を不審に思って近
づいてきたのだろう。後者であったのならば、どう応じればいいのだろう。戸惑
いながら、ドアを振り返る。
「だいじょうぶ? 西崎さん」
聞き覚えのある声が、愛美を迎える。
見覚えのある顔が、そこにあった。
「あいば、くん………」
愛美は音にならない声で、彼の名を呟いた。
傍らに自転車を停めて、電話ボックスを窺う少年。相羽信一がいた。
それどころではないはずなのに、お腹が鳴った。相羽の顔を見て、少し緊張が
和らいだせいなのか。突然愛美は、自分が空腹であったことに気がつく。
こんな時でもお腹が空くものなのかと驚くと同時に、その音を相羽に聞かれて
しまったのではないかと思うと、恥ずかしくなる。
「すぐ戻ってくるから、少し待ってて」
そこに愛美を残し、相羽は自転車に跨るとどこかへと走っていった。
電話ボックスにほど近い公園。初めて入った公園だが、一度に五・六人の子ど
もが同時に遊べそうなほど、大きな滑り台があった。その下には広い空間があり、
ちょっとした小屋のようになっていて、多少の雨風なら防げそうだ。きっと滑り
台同様にこの空間も、子どもたちの格好の遊び場になっているのだろう。片隅に
はアニメキャラの絵が入った、プラスチックのバケツとシャベルが転がっていた。
精神的にも肉体的にも疲労しきっていた愛美は、電話ボックスに相羽が来てく
れたときに、自力で立ち上がることが出来なかった。そのため、相羽の手を借り
てこの滑り台の下に来て休んでいた。スカートが汚れるからと言って、相羽が自
分の上着を敷こうとしてくれたのは断った。電話ボックスの中で蹲っていたので、
もう充分に汚れていたから。
相羽が立ち去った後、一人残された愛美は虚ろな気持ちで夜の公園を見つめて
いた。
冷たい風が吹き、乗り手のないブランコが軋んだ音を立てて揺れる。
砂場の砂が舞い上がる。
目に映る、それらの光景に対して、愛美はなんの感情も持てない。涙と共に感
情の全ても涸れ果ててしまったのだろうか。
電話ボックスの前に現れた相羽。本当は心の奥底で、彼が来てくれることを強
く望んでいたのに。なのに相羽の顔を見たとき、それほど嬉しいとも思わなかっ
た。現実と分かっていながら、父の死すら笑えもしない悪質なジョークのように
感じられる。
程なくして相羽が戻ってきた。自転車のかごに、コンビニの袋を乗せて。
「ごめん、一人にしちゃって。恐くなかった?」
特に何かに気を使う様子もない、ごく普通の話し方。
見れば相羽の耳は真っ赤になっていた。よほど自転車を飛ばしたのだろう。普
通に走っても、ここからコンビニまでは一分掛かるかどうかなのに。
「西崎さんは、カフェ・オレとミルクティー、どっちが好き?」
「ミルク………」
どちらでも良かったのたが、愛美はそう応える。
「熱いかも知れないから、気をつけて。それと………お腹が空いているみたいだ
から、これ。西崎さん、どっちが好きなのか分からないんで、二種類買ってきた」
相羽から愛美へ、ミルクティーの少し大きなサイズの缶と紙袋に入った中華饅
頭が手渡された。
ミルクティーの缶を見た途端、愛美は強烈な渇きを思い出した。一刻も早く、
それを潤したくてプルタブへと指を掛ける。が、知らぬ間にかじかんでいた指は
思うようにならない。
「開けてあげようか?」
相羽の申し出に、愛美は無愛想な子どものようにミルクティーの缶を突きだし
た。
手袋を外した相羽が缶を開けて、愛美に戻す。愛美は礼も言わず、缶を掴むと
一気に喉に流し込んだ。
渇いた砂に水が染み込むように、ミルクティーは愛美の喉に吸収されていく。
半分以上を一気飲みしたのに、お腹の中に落ちた感じがしない。
喉に潤いを得たことで、今度は空腹が愛美を攻めたてる。片手に握った紙袋か
ら香る中華饅頭の匂いが、それをさらに刺激する。この二日間、まともに働く機
会のなかった胃が、早くしろと叫びだす。
愛美は缶を足元に置くと、紙袋に入っていた二つの中華饅頭を両手に取り、貪
るように口に運んだ。中華饅頭の中身はこしあんとひき肉だったが、味わう余裕
はなかった。ミルクティーで潤したとはいえ、まだ唾液の分泌が不充分な口腔や
喉に中華饅頭の皮が貼り付く。それをミルクティーで無理矢理押し流し、また食
べる。二つの中華饅頭を平らげるのに、さして時間は掛からなかった。
最後に飲み込んだ欠片が上手く喉を通らず、愛美はミルクティーの缶を口元に
寄せた。たが既にその中身は飲み尽くされて、天を仰ぐほどに缶を傾けても、数
滴が口内に滴り落ちるだけだった。
「ほら、これを飲みなよ」
相羽が自分のカフェ・オレを愛美の前に差し出した。呼吸困難に陥り掛けてい
た愛美は、引ったくるように相羽の手から缶を取ると、彼がそれに口を付けたの
かも確認せずに飲んだ。
渇きと空腹が癒され、ひと心地つくとどこかへ消え失せていた感情が、長い乾
季を終え雨を吸収した後の大地から、新しい命が芽吹くように甦ってくる。
途端に普段なら決して執ることのない、はしたない態度を愛美は恥ずかしく感
じた。
「ごめんなさい………」
普通に出せるようになった声も小さく、相羽に謝ると顔を伏せた。
恥ずかしさのあまり、寒空の下にあって耳が焼けるように熱くなる。
「プレゼント」
短い言葉と共に、相羽が何かを投げてよこした。それは愛美の膝の上にと落ち
る。手に取ると一枚のタオルと、それにくるまれた使い捨てのカイロだった。
「本当はどこか、屋根のあるところに入れば良かったんだろうけど。ま、ここに
も一応屋根はあるけどね」
滑り台を見上げ、相羽は笑った。
「西崎さんも、他の人に顔を見られたくないんじゃないかと思って。こんな寒い
ところになってしまったけど、せめてそのタオルとカイロ、使ってよ」
そう言って相羽は愛美の隣に、やや距離を置いて座った。
愛美はタオルで、強く顔を拭いた。
#4304/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:45 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(34) 悠歩
★内容
「あの、どうしてあの電話ボックスが分かったんですか。私、ちゃんとした場所、
言わなかったはずです」
重苦しい沈黙をどうにかしたくて、愛美の方から口を開いた。
「また、敬語になってる」
相羽がおかしそうに笑う。
「簡単なことだよ。電話が切れる前に西崎さん、コンビニって言ったろ。この前、
途中まで送って行ったから、西崎さんのだいたいの住所は分かっている。そこか
ら近くて大きな病院は、一つしかないからね。あとは病院に近いコンビニを探せ
ばいい」
こともなげに話す相羽の顔を、愛美は感嘆しながら見上げる。すると相羽は片
目を閉じて、ウインクして見せた。
「本当はあそこで三件目なんだ」
「あ、私………お金、払わないと」
飲み物や中華饅頭、カイロの代金を相羽に出させていたことを思いだし、愛美
は財布を探した。が、財布どころかハンカチすら見当たらない。病院から連絡を
受けて、慌てて飛び出した愛美は何も持たずにアパートを飛び出していたのだ。
「ごめんなさい………お財布、忘れてきちゃった。しばらく待って下さい」
「いいよ、そんなこと。今回は奢っておくから、後で埋め合わせしてくれればい
いよ」
本気とも冗談ともつかない笑顔が、愛美に向けられる。
「それより………」
急に相羽の口調が変化した。
それまで学校で親しい友だちと世間話をするようだったものが、にわかに真剣
味を帯びる。
「お父さんのこと?」
次の言葉を迷っていたらしい相羽に代わり、愛美が続けた。意外だったのだろ
う。相羽は少し驚いたような顔で愛美を見つめ、小さく頷いた。
「うん………逝っちゃった」
自分でも驚くほど静かな気持ちで、父の死を伝えることが出来た。
「親戚の人とかには知らせた?」
「ううん。お父さんが入院したことも知らせてない」
愛美は、自分の口元から昇っていく白い息を目で追いながら空を見上げた。澄
み切った夜空には、名も知らぬ星々が瞬いていた。
「親戚って言っても、一人しかいないの。死んだお母さんの妹。あ、私、お母さ
んがいないって、このあいだ話したっけ?」
「いや。でも八組のヤツから、西崎さんのお父さんが倒れたって聞いたとき、な
んとなく分かった」
「そう。それでね、お父さんの方には親戚がいないの。俺は天涯孤独なんだって、
昔、お父さんが言ったっけ」
幼かった愛美を前に、芝居懸かった調子で話していた父を思いだし、なんだか
おかしくなる。愛美は小さな笑いを洩らしてしまった。
「聞いていいかな」
「ん?」
相羽の言葉に、愛美は小首を傾げる。
「どうして、その叔母さんには知らせなくて、ぼくのところに電話してきたのか
な?」
「そうね、変……だよね。どうしてかな」
愛美は空になったミルクティーの缶を手に、その縁を使って意味もなく、足元
に線を引く真似をした。
「私にとって、叔母さんよりも、相羽くんの方が身近な存在に感じられたから…
……かな」
抱え込んだ膝の上に、愛美は自分の頭を乗せて相羽を見た。愛美の手を離れた
空き缶が、からからと音を立てて転がっていく。愛美と合ったはずの相羽の目が、
さり気なくかわされた。
「迷惑、だよね。私みたいな子に、こんなこと言われても」
「そんなこと………ないけど」
「じゃあ、期待しちゃってもいいのかな?」
「えっ」
「私ね、相羽くんのこと、好きだよ」
愛美は自分でも驚くほど、素直に気持ちを言葉に出来た。男の子に気持ちを告
白するなんて、自分には出来はしないと思っていた。もしそんなことが起きたと
しても、心臓は破裂しそうに高鳴るだろうと想像していた。しかしいまの愛美は
心は、穏やかだった。
「そ、そんなこと、気軽に言うことじゃないよ」
明らかな戸惑いを見せて応える相羽。
「軽い気持ちなんかじゃないわ。私、ずっと前から相羽くんのこと、見てたもの。
でも相羽くんは女の子にもてるもの………私みたいに根暗でブスな子なんかに好
かれても、迷惑なだけだよね」
「そんな。西崎さんは優しい子だし、そ……それに美人だよ」
「それはうそだわ。相羽くん、この間ぶつかったときまで、私のこと、知らなか
ったくせに」
愛美は少し、いじわるな気持ちになっていたかも知れない。おろおろと、愛美
の言葉に受け答えする相羽の顔を見るのが楽しかった。
「に、西崎さんは、お父さんが亡くなって混乱しているんだよ」
「違うよ。本当に相羽くんのこと、好きだよ」
立ち上がり、愛美は相羽の正面へ回る。
けれど顔を覗き込む愛美に対し、相羽は決して目を合わせようとはしなかった。
「ごめん………ぼく、好きな子が……」
「言わないで」
愛美は相羽の言葉を遮った。
それまで愛美を避けていた相羽の視線が、初めてこちらへと向けられた。
「分かってたの。だって………初恋だったんだもの。初恋って叶わないものなん
でしょ?」
叶わずに終わった初恋に、愛美はさばさばとした気持ちだった。そして、相羽
に対して笑い掛けようとした、が。
熱い物が、頬を伝わって落ちるのを感じた。
「………やだ、私………壊れたオモチャみたい」
完全に涸れ果てたと思っていたのに、まだ涙が残っていたのか。
「さっきの、ミルクティーがいけなかったのかな」
泣き笑いしながら、愛美は考えた。
きっと自分の身体は壊れてしまい、水分を吸収した分だけ全て涙となって流れ
てしまうようになったのだと。
愛美は恥ずかしい姿を二度までも、相羽の前にさらしている。
電話ボックスの中と、つい先ほどの浅ましい食事姿。想い焦がれていた人にそ
んな姿を見せてしまったことは、思春期の少女には酷く恥ずかしい。けれど逆に
己の恥部を見せることで、相手に対する安心感が生まれていたのかも知れない。
相羽の前で膝をつき、そのまま愛美は相羽の胸の中へ身体を倒して行った。
「に、西崎さん!」
動揺も露な相羽の声。しかしそれでも相羽は愛美の身体を、突き放すようなこ
とはしない。かと言って、ドラマのように抱きしめてくれることもない。
「ごめん………ごめんね、相羽くん。少しでいいの………このままでいさせて。
これが………最初で最後でいいの」
相羽はどんな顔をしているのだろう。
怒って愛美を睨んでいるのだろうか。
顔を紅くして戸惑っているのだろうか。
困った女の子だと舌打ちをしているのだろうか。
相羽は何も言わない。ただ微かに、愛美の頭に触れるものがあった。
それは相羽の手。躊躇いながらも愛美の頭を撫でようとしてくれている。不馴
れな父親が初めて赤ちゃんに触れたときのように。
もどかしいものではあったが、愛美はそれで良かった。そのまま相羽の胸の中
で泣いた。ただ今度は大きな声は出さない。声を押し殺し、静かに泣いた。
二人は並んで座っていた。その距離は、愛美が相羽の胸で泣く前よりも短くな
っている。
「本当に、ごめんなさい」
「べつに謝ることなんてないよ」
お互いに、相手の顔は見ていない。膝を抱え空を見上げていた。
「相羽くんって、星座とか星のことに詳しいのかな?」
「うん……まあ」
「今度教えてもらおうかしら………ううん、無理よね。相羽くんと二人っきりで
お話しするの、きっとこれが最後だから」
愛美の予想通り、相羽からの返事は返って来なかった。
「だから、だからね。あと少しだけ、私の話を聞いてくれたら、嬉しいな」
「聞くよ。ぼくでよかったら」
「ありがとう、相羽くん。私のお父さんのこと、知ってる人はみんな悪く言うの。
お母さんが死んでから、お酒ばっかり飲むようになって、仕事も辞めてしまった
の。
ううん、昔からそんなにお酒が好きだったんじゃないのよ。でもお父さん、お
母さんのことを本当に愛していたから、とっても辛かったんだと思う。お酒を飲
まないと、悲しくて悲しくて、おかしくなってしまいそうだったんだわ。
だけど、お母さんが死んでも、私とお父さんは生きている。生きているって、
お金が掛かるんだよね。私、初めて知ったの。最初のうちは貯金があったから、
どうにかなってたんだけど、そのうちそれもなくなって。だからマンションから、
もっとお家賃の安いところに引っ越しして。それでも足りないから、私、アルバ
イトをしてたの。
あ、これ学校にはナイショだよ」
愛美は人差し指を立てて、唇に充てた。
「言わないよ」
と、相羽が頷いた。
「私がアルバイトでもらったお金、お父さんね、パチンコとか競馬とかお酒に使
ってたの。だからみんな、お父さんのことを悪く言ってた。『あいつはろくでな
しだ』って。叔母さんもだよ。
変だよね? だって私はお父さんのことが好きだから、一緒にいたいから、そ
れでもいいと思ってたのよ。私が構わないのだから、よその人がお父さんを悪く
言うなんて、絶対おかしい。
叔母さんね、お母さんにそっくりなんだ。お母さんより、性格はもっと明るい
かな。でも優しいところは一緒。だから私、叔母さんのことも大好きだけど。お
父さんのこと、悪く言うのだけは嫌だった………」
「西崎さんには、いいお父さんだったんだね」
「そうでもないの」
使い捨てカイロを手の中で弄びながら、愛美は首を横に振る。
「いいお父さんだった………って言うと、やっぱりうそになる。ううん、お金を
使ってしまうことはいいの。でも酔って、喧嘩して、よその人を怪我させてしま
うのは辛かったな。『駄目な子ほど可愛い』って言うでしょ。その逆もあると思
うの。他の人がなんって言っても私はお父さんが好きだった。
あのね、さっきからお父さんの悪いところばかり話してるみたいだけど、お母
さんが元気だった頃は、そうじゃなかったのよ。それこそ世界一優しいお父さん
だった、って私は思ってる」
「分かるよ。だって西崎さんのお父さんなんだから」
相羽の応えは、社交辞令なのかも知れない。それでも愛美は嬉しかった。
「だからね、私のことを同情してくれる人はいたけれど、それは違うのよ。私は
お父さんと一緒に暮らせるだけで、満足だったんですもの。だけどお父さんは、
そうじゃないみたいだった………
お父さんね、私がそばにいると、いつも不機嫌そうな顔をしてたの。『お前の
顔を見てると、こっちまで陰気になる』なんて言って。『さっさと叔母さんのと
ころでも、どこでも行ってしまえ』とかね。でも私にはお父さんしか、家族がい
ないんだもん。離れられないよね。それにお父さん、お酒の飲み過ぎで身体を悪
くして、それでもまだ飲もうとするんだもん。そばにいてあげないと心配だもの。
それがいけなかったのかなあ………お父さん、ますます不機嫌になって。
お父さん、私のことが嫌いなんだ、そう思ってたのよ。それが、それがね。今
日息を引き取る前、言ったの。『愛していたよ、幸せにおなり』って。私、どう
にもたまらなくなってしまった。お父さんが死んでしまったこともそうだけど、
私、ずっとそばにいたのに、お父さんの気持ちをなんにも分かっていなかったの
かなあ」
もう何度目になるのか、愛美自身にも分からなかった。涙が星空を曇らせてい
く。けれど今度は相羽に縋って泣くことはなかった。
「言わせてもらっても、いい?」
「なに?」
「ぼくの勝手な推測だけれど……西崎さんのお父さん、わざと君に嫌われようと
してたんじゃないかな」
思いもしなかった言葉に驚き、愛美は相羽へ振り向いた。
「どうして、そう思うの?」
仮に相羽の推測通りだとしても、父がそうした理由が分からない。
「うーん、ぼくは西崎さんのお父さんのことを知らないから、想像の域を出ない
けど。そうだな、例えば西崎さんのお父さん、だいぶ前からお酒で身体を悪くし
てたって言ったよね」
「ええ、もともとお酒に弱かったのに、お母さんが死んでから飲むようになって。
それで肝臓を悪くしてしまったの」
「あの………お父さん最期の病名は?」
相羽が少し躊躇いがちに訊いてきた。
「肝臓ガンよ」
そんな相羽に余計な気を使わせまいとして、愛美は努めて普通に応える。
「もしかするとお父さん、早いうちから気がついていたんじゃないかな。自分の
命が………長くないかも知れない、ってことに」
言われてみれば、と愛美は思う。
『今日まで、よく我慢できたものだ。かなり辛かったはずだよ』
倒れた父が病院に運び込まれたときの、戸田医師の言葉だ。
#4305/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:46 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(35) 悠歩
★内容
あの時、混乱していた愛美はそこまで考えを巡らすことが出来なかったが、父
は突然容態が悪くなって倒れたのではない。手の施しようがなくなるまで我慢し
て、倒れたのだ。それ以前から身体の不調、苦痛は続いていたはずなのだ。
なのに愛美は気がつかなかった。父は愛美に、そんな素振りを見せたことはな
い。
「あっ………」
よく考えてみると、あることに気がつく。
倒れる前の父は、頻繁に家を空けていた。徹夜で飲んでいるのか、麻雀をして
いるのか。それとも女の人のところだろうかと、愛美は思っていた。しかし外泊
が増えても、その後父が喧嘩をして、人に迷惑を掛けてしまったと言う話を聞く
ことは少なくなっている。
まさか父は、苦痛にのたうつ姿を愛美に見せまいとして、家に帰らなかったの
だろうか。
「でも、でもどうして? 苦しいのを我慢して、私に嫌われる必要があるの。病
気に気がついていたのなら、早く病院に行けばいいじゃない! そうしたら、助
かっていたかも知れないのに!」
興奮した愛美は、いつしか立ち上がっていた。
「お、落ち着いて、西崎さん。これはぼくの想像で、本当にそうだとは限らない
よ」
「ご、ごめんなさい。私ったら、興奮して………」
再びその場へと腰を下ろす。
「お願い、続けて、相羽くん。もう興奮したりしないから」
こくんと頷いて、相羽は話を続ける。
「分からないけど、たぶんお父さん自身が病気に気づいたとき、それが治るもの
じゃないと思ったんじゃないかな。お父さんの最期の言葉は、本心だよ。本当に
西崎さんには幸せになって欲しいと、願っていたんだ。
だから………だからわざと西崎さんに辛くあたって、嫌われようとしたんだと
思う。自分が死んだとき、西崎さんの悲しみを軽くしようとして。嫌われていれ
ば、西崎さんもそんなに悲しまないだろうと思ったんだよ」
それは飽くまでも相羽の想像に過ぎない。父が死んでしまったいまとなっては、
確認する術もない。けれど愛美には、相羽の想像が真実のように思えてならなか
った。
愛美は折り曲げた膝に顔を埋め、それを両腕で包んで隠す。
「そうだとしても………最期にあんなこと言ったら、なんにもならないのにね。
ううん、たとえ言わなかったとして、やっぱり悲しいものよ」
これ以上相羽に心配をさせてはいけない。そう思って顔を隠した愛美だったが、
肩の震えまでは隠せなかった。
「西崎さん………」
やはり心配そうな、相羽の声が掛かってしまった。
「だいじょうぶ………だいじょうぶだよ。私、そんなに弱くないから」
せめてそのぐらいは強がって見せなくては、相羽に申し訳ないと思った。
「そろそろ、帰ったほうがいい」
愛美が一つ、鼻を啜ると相羽は言った。
「西崎さん、鼻声になってる。家に帰って、早く身体を暖めて寝ないと、風邪を
ひくよ」
「平気………これがあるもの」
愛美は相羽からもらった、使い捨てカイロを見せる。
「だめだよ」
声は穏やかだったが、少し強い口調の相羽。
だだをこねる子どもを、叱りつける父親のようだった。ふと相羽は将来、いい
父親になるだろうと愛美は思った。
「………わかったわ。あっ、でもだめ。私、病院を飛び出して来ちゃったから。
一度、お父さんのところに戻らないと」
「それなら今日はもう遅いから、明日の朝改めて来るといいよ」
相羽の見せた時計は、午後十時を過ぎていた。
「病院の人には、連絡しておいたから」
「えっ、いつの間に?」
「さっき、コンビニに行ったとき。お節介が過ぎるかも知れないとは思ったけど
………西崎さん、見た目にも参っているようだったから。電話帳で調べて、電話
しておいたんだ」
「そう………ありがとう。相羽くんの言うとおりにする」
「送って行くよ」
「うん、お願い………」
「でもその前に、叔母さんのところへ電話、しておきなよ」
「うん、そうする」
冷たい風が吹き、公園の周りの木々を揺らした。まるで愛美に、早く帰れと促
すように。最初で最後であろう、相羽と二人だけの時間はもう間もなく終わる。
相羽を呼びだしたボックスから、今度は雪乃叔母さんへと電話する。
上着の中に残っていたのは、十円玉が一枚。これ以上相羽に頼りたくない愛美
は、一枚のコインで要領を伝えなければならない。
そのためには、最初に受話器を取るのが叔母さんでなければいけないのだが、
その望みは叶えられた。
「あ、叔母さん。愛美です」
『まあ、愛美ちゃん! 珍しいわね、あなたが電話をしてくれるなんて』
何も知らない叔母さんは、嬉しそうに言った。
「十円玉がないんで、要領だけ伝えます。お父さんが亡くなりました………19
時34分です」
『えっ………』
想像もしていなかっただろう愛美の言葉に、叔母さんは一瞬絶句してしまった。
けれど愛美が十円玉がないと言ったのを、思い出したのだろう。すぐに早口で話
し始める。
『そう、大変だったのね……愛美ちゃん、気をしっかり持つのよ』
「ええ、私はだいじょうぶです。お友だちのおかげで」
愛美は電話ボックスの外で待つ、相羽をちらりと見やりながら応えた。
その時、十円分の通話時間の終了を予告するブザーが鳴る。
『叔母さん、すぐ行くからね。今夜は電車がないけれど、朝一番に。それまで愛
美ちゃん………』
早口だったのにも係わらず、叔母さんが全てを言い終える前に電話は切れてし
まった。
「もう、いいの?」
電話ボックスを出た愛美に、相羽の声が掛けられる。
「うん……叔母さん、明日の朝、来るって」
「そう。じゃあ、帰ろう」
「うん」
二人は愛美の家に向かい、歩き出した。
相羽は、来る時に乗っていた自転車を、手で押している。後ろに乗せていくと
いう、相羽の申し出を愛美が断ったためだ。
愛美にしてみれば、もう二度とはないであろう相羽との時間を少しでも延ばし
たい気持ちがあった。そして何より一人きりになってしまう瞬間を、わずかにで
も先にしたいと思っていた。一人になってしまえば、また心細さに支配されてし
まうような気がしていた。
「叔母さんね、桂木って名字なの」
「えっ」
愛美の言葉に、相羽は不思議そうな顔を見せる。何のことだか分からない、と
言ったふうに。
「私、他に親戚がいないから。きっと叔母さんのところに行くことになると思う」
「叔母さん家、遠いの?」
「うん。だから学校も変わることになるわ」
「そうか、せっかく友だちになれたのに。残念だね」
「うん………」
会話が途切れると、静寂が二人を包む。夏か秋であれば、虫たちの音色に耳を
傾け、風流に浸りながら歩くことが出来ただろう。だがいまは十二月。二人の足
音と自転車の車輪が回る音、そして時折走りすぎていく車の音だけが、耳に届い
ている。
愛美は空を見上げる。澄み切った空に瞬く星々。星の観測には、冬場が一番適
している。そんなことを理科の時間に聞いた気がする。
じっと見つめていると、星の瞬きが網膜に刻み込まれていくようだ。ちょうど
見つめていた電灯を、消した直後のように。
愛美は試しに目を閉じてみる。さすがに電灯のようなはっきりとした残像は見
えなかったが、瞼の奥に何かちらついているような気がする。そのちらつきに意
識を集中させるあまり、足元が疎かになっていた。
「あっ!」
「危ない、西崎さん!」
交差する車道のために、歩道が途切れて段になっていた場所で、愛美はバラン
スを崩した。体勢を立て直すことも出来ず、アスファルトの上に倒れそうになる。
ガシャン。
静まり返っていた夜の街に、一際大きく響き渡る音。
続いてからからと、車輪の空回りする音。
「だいじょうぶ?」
白い息の湿気を感じるほどの距離で、相羽の声が聞こえる。
相羽は愛美が転倒しそうになったとき、咄嗟に自転車を投げ出し手を差し伸べ
てくれたのだった。
「ご、ごめんなさい。私ったら………ぼうっとしてて」
慌てて愛美は、相羽から身を離した。
「怪我は、してない?」
そう訊ねる相羽の声すらかき消されてしまいそうなほど、愛美の鼓動は高鳴っ
ていた。
こうして言葉を交わしているけれど、もう相羽の心には誰かがいて自分の入り
込む余地などないのに。告白をする前より、愛美の気持ちは強くなってしまった
ようだ。
自分は、こんなにも諦めが悪かったのか。
愛美は頭を振った。
「目眩でもするの?」
手を伸ばせば届くほどの距離で、相羽が言った。
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい………それより、自転車は」
愛美は力なく車輪の回っている自転車を見た。相羽は両手でそれを引き起こし、
簡単に調べた後跨って漕ぐ真似をしてみる。
「うん、だいじょうぶだ」
「でも、ここは暗いから。明るいところで調べたほうが……きゃっ!」
「うわっ!」
強い風か吹き抜けて、二人は同時に声を上げた。巻き上げられた砂や小石が、
二人の身体を叩いていく。
愛美は身を竦め、寒さと痛みに堪える。
やがて嘘のように、風は治まった。
「平気だよ。それより早く帰ろう」
「ええ」
何事もなかったかのように、二人は歩き出す。
「相羽くん、どうして私が最初に相羽くんのところに電話したのかって、訊いた
よね」
「ん、ああ」
少し困ったような顔をする相羽。また愛美が相羽を好きだと言い出すのでは、
と思ったのだろうか。
「私が相羽くんのこと、好きだったせいもあるけど」
愛美は出来るだけ明るく言って、笑って見せる。愛美には気づかれないように
隠したらしいが、相羽がほっとした顔をするのが分かった。
「お父さんのこと、叔母さんに知らせたら………私、叔母さんの家に行くことに
なると思ったからなの」
「叔母さんが嫌い、って訳じゃないよね? 西崎さん、さっき叔母さんのことが
好きだった言ってたから」
「ええ………でもね、違うの。お父さんと叔母さんでは。たぶん、相羽くんにな
ら、理解してもらえると思う」
父親と娘、母親と息子の違いはあるけれど、共に親一人子一人。その気持ちは
伝わるだろう。相羽の応えを待たず、愛美は続ける。
「出来ることなら、私、独りになってもいまの家で、この街に住み続けたい。な
んとか二年間頑張って、中学校さえ卒業すればちゃんとした仕事も探せるでしょ
?」
「西崎さんは、高校には行かないつもりなの?」
「………出来れば、誰にも迷惑は掛けたくないもの。でも中学生が、たとえ二年
間でも独りで生きていくって、難しいわよね………たぶん。
あのね、叔母さん前にも、私の高校進学を心配して来てくれたことがあるの。
それでね、私のことを引き取りたいってお父さんに言ったの。私、断った。私の
ことを叔母さんが心配してくれるのは嬉しかったけど、お父さんと離れるなんて、
考えられないもの。相羽くんなら、分かってくれるよね?」
「分かるよ………」
「だからお父さんが死んで………叔母さんに電話を掛けようとしたとき、それを
思い出したの。きっと叔母さんはすぐに来てくれる。そして………きっと私のこ
とを引き取ってくれるだろうって。そうしたら私、叔母さんのところには電話出
来なくなってしまって………相羽くんのところに、掛けてしまったの」
「お父さんやお母さんとの、思い出のある街から離れたくない気持ちは分かるけ
ど。どうして西崎さんのことを考えてくれている叔母さんを、避けるんだい。西
崎さんにとって、唯一人の親戚なんだろう?」
「だって………叔母さんは、桂木って名字なんだもん」
初め、相羽は愛美の言っていることを理解してはいないようだった。一度愛美
の顔を見つめてから、前に向き直り考え込んでいた。そして得心したように言っ
た。
「名字が変わるから………?」
「うん、やっぱり分かってくれると思った」
相羽に気持ちが通じたことが嬉しくて、愛美は微笑んだ。
#4306/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:47 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(36) 悠歩
★内容
「他には、なんにもないもの………西崎って名字の他には。私とお父さんを繋ぐ
ものが………それだけが、お父さんが私に残してくれたもののような気がして。
だから………」
話しながら愛美は自分の気持ちが、高ぶって行くのを感じた。このままでは、
また泣いてしまいそうだったが、それをぐっと堪える。
「でもさ、ぼくはお父さんが西崎さんに残したのは、名字じゃないと思うよ」
「どういうこと?」
「上手く言えないけど………ぼくは西崎さんのお父さんや、お母さんのことは全
く知らない。でも西崎さんには十三年間、親子として暮らした確かな思い出があ
るだろ? 一緒に泣いたり笑ったり、強く叱られたこともあったかも知れない。
同じ食卓でご飯を食べながら交わした些細な会話でも、西崎さんはよく覚えてい
るかも知れない。
それは西崎さんだけが持っている、名字や形のある品物なんかより、確実なも
のじゃないかと思う」
「うん………そうかも知れない。でも、納得するには時間が掛かりそうだわ」
愛美は足元の小石を蹴った。
「ごめん………なんだかぼく、西崎さんの気持ちも考えず、勝手なことを言って
る」
「ううん、そんなことないよ。私、もし相羽くんとお話出来なかったら、まだ泣
いてたと思う。きっと泣きすぎて、ミイラになってたわ」
父が死んでから、三時間余りが過ぎたばかり。決してまだ立ち直ったとは言え
ないが、冗談を口に出来るようになってきた。
「ねえ、訊いていい?」
「なに?」
「相羽くん、好きな子がいるって言ったよね。もう告白したの?」
「えっ………そ、それは……」
薄暗い中ではあったが、相羽の顔に紅みがさすのが分かった。それは寒さのた
めなどではない。
「教えて欲しいな。私の気持ちに、整理をつけるためにも」
言いながら、自分でもずるいと感じていた。愛美がそう言えば、相羽は話さざ
るを得ないと計算していたのだ。
「まだしてない」
短く、早口な応えが返ってきた。
「じゃあ、相手の子は相羽くんの気持ち、知らないんだ」
「………気づいてないと思う。嫌われてはいないと思うけど」
「早く告白すればいいのに。だってこれは、相羽くんとその子だけの問題じゃな
いもの」
「えっ? どういうこと」
「相羽くんに想いを寄せてる子って、私の他にもたくさんいるもの。クラスの子
が相羽くんの噂をしているのを、何度も聞いてるわ。あと相羽くんクラスの子、
町田さんとか涼原さん? なんかとも、相羽くん、よくお話ししてるでしょ」
「それは………町田さんたちとは、小学校が一緒だったから仲がいいだけだよ。
それだったら男子の清水とかもそうだ」
「でもね、違うよ。女の子同士だから、分かるのかも知れないけれど。他の男の
子と話しているときと、相羽くんのときでは。
相羽くん、優しいから。女の子は期待しちゃうのかも」
「別に優しくなんかないよ。普通だよ」
「優しいわ。だって、ちょっとお話ししただけで、それまで知らなかった私のた
めに、来てくれたもの」
「ぼくじゃなくても、あんな電話が来たら、誰だって心配するよ」
「相羽くんって、自分で自分の優しさに気がついてないのかな。だからみんなに
好かれるのね………あっ!」
見上げた空に、光の帯が流れていた。
「どうしたの?」
「流れ星だわ。あっ、ほらまた」
愛美は空を指さす。
相羽も愛美の指さす先を目で追った。
「すごい………ほら、また流れてる」
幾筋も星が、次々と天空を駆けめぐる。まるで流れ星が編隊を組んで、航空シ
ョーをしているようだった。
「なんか、変だな」
繰り広げられる美しいショーに似つかわしくない、怪訝そうな相羽の声。
「これだけの流星群が来るなら、事前に分かっていてもおかしくないのに………
それに、なにか流れ星らしくない」
相羽の声は疑念に満ちていたが、愛美にはさほど気にならなかった。男の子は
目の前で起きる事象に、必要以上の疑惑を持つものだ。相羽もこの流れ星のショ
ーをUFOの襲来か、大国の秘密兵器、あるいは未知なる生物の仕業と考えたの
だろう。しかし愛美には、ただ美しい自然の現象。強いて何者かの意志が、そこ
にあるとしたら………死んだ父の、最後の贈り物かも知れないと思った。
「でもね、ときによっては、優しすぎるのも相手を傷つけるのよ」
流れ星たちが地平の彼方に消え、愛美は話を続けた。
「私なんてばかだから………変に期待しちゃってたのかも。ひどいよ、相羽くん」
もちろん本気で責めているのではない。いや、内心は本気だったかも知れない
が、努めて冗談ぽく口調を装った。
「ごめん………」
「あ、謝らないで………私、調子に乗って言い過ぎたみたい」
少々図に乗りすぎたと、愛美は反省する。思えば、愛美がこれほどまで人と話
をするなどということは、久しく覚えがない。話をすることに不馴れなために、
そのルールが身についていなかったのかも知れない。
「そんなこと、気にしなくていいけど………安心した」
「安心?」
「うん。本当はまだ辛いのだろうけど、西崎さん、普通に話せるようになったも
の」
「そう………だね。これも相羽くんのおかげよ」
「それから、ぼくに敬語、使わなくなってくれた」
そう言って、相羽はこれまで愛美が見た中で、一番いい笑顔をしてくれた。
「本当だ………私、いつの間に」
そんな相羽につられるように、愛美も笑った。
「ここ?」
古いアパートの前で足を止めた愛美に、相羽が訊ねてきた。
「うん………汚いアパートでしょ? だから恥ずかしくて、この前は途中までし
か送ってもらえなかったの」
愛美はくすんだ色の壁面を見上げて言った。この周辺でも、特に古い建物であ
る若葉荘。そのみすぼらしいとも思える景観は、少し前の愛美なら、決して相羽
に見せる気にはならなかっただろう。
「あっ、愛美ちゃん帰ってきた!」
その声がすると、陰鬱ささえ漂う若葉荘に光が射すように感じられる。アパー
トから飛び出してきたのはマリアだった。続いて駿も現れる。
「同じアパートの人たち」
愛美は相羽へ耳打ちをする。
「うわあああん、愛美ちゃん」
愛美を見つけた時には笑顔だったマリアが、突然表情を崩す。そして歪んだ表
情のまま駆け寄り、愛美に抱きつくと大声で泣き出してしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
何のことだか分からないが、マリアは愛美の胸の中で泣きながら、ひたすら謝
っている。何か言いたげに後から来た駿も、泣きじゃくるマリアに驚き、立ち尽
くしていた。
「マリアさん、どうしたんですか?」
マリアが自分に抱きついて泣く理由が分からず、愛美は戸惑っていた。
「ごめんなさい、愛美ちゃん………マリア、なんにも出来なくて………愛美ちゃ
んのお父さん、助けてあげられなかったの」
「そんな、そんなことでマリアさんが?」
これでマリアの泣く理由は分かったが、納得は出来なかった。医者でもないマ
リアが、戸田医師さえも手の打ちようのなかった父を助けられるはずもない。も
ちろん愛美とて、そんなことをマリアに期待などしていない。
なのにマリアは泣いている。まるで自分の身内のことのように。
「泣くなよ、マリア。マリアが泣いていると、一番悲しい愛美ちゃんが困るだろ
う」
駿がマリアの肩に手を置く。するとマリアは振り返って、今度は駿に抱きつい
た。
「だって………マリア、もし愛美ちゃんが帰ってこなかったら………どうしよう
かと思ってたんだもん」
まだ当分泣き止みそうにないマリアの頭を撫でながら、駿が愛美へと向き直っ
た。
「愛美ちゃん、マリアじゃないけれど、みんな心配してたんだよ。良太くんや美
璃佳ちゃんも、さっきまで起きて君のことを待っていたんだ」
「ごめんなさい………」
その言葉は、愛美の口から素直に言うことが出来た。
駿やマリア、良太や美璃佳、そして相羽。独りきりになってしまったと思って
いたのに、自分を心配してくれる人がいた。それが嬉しかった。
「とにかく、帰って来てくれてよかった………ところで、その子は?」
相羽を見ながら、駿が訊いてきた。
「相羽信一と言います。西崎さんとは、同じ学校の同級生です」
それまでマリアたちとのやり取りを、一歩下がっていた相羽が、軽く会釈をし
ながら自己紹介をする。
「私、わがままを言って………相羽くんにしばらく、話を聞いてもらってたんで
す。だから私、もう大丈夫です」
「そうか、ありがとう。相羽くん」
「いえ、ぼくは何もしてませんから。じゃあ西崎さん、ぼくはこれで」
「うん………今日は本当に、ありがとう」
軽く手を挙げると、相羽は自転車に跨って走り出す。
「あっ、相羽くん!」
まだ何か言い足りない。それが何か分からないまま、愛美は相羽を呼び止めて
しまう。
「ん? どうしたの、西崎さん」
自転車を停めた相羽は、首だけで振り返った。
だが呼び止めた愛美にも、言うべき言葉はない。ただ彼との時間を引き延ばし
たいがため、呼び止めてしまったのかも知れない。愛美自身にも、よく分からな
かった。
「相羽くん、これ」
咄嗟に愛美は、手に持っていた物を相羽へと投げ渡す。空中に綺麗な弧を描き、
それは相羽の手へと吸い込まれた。
「………寒いから」
「ありがとう」
相羽の手に渡ったのは、愛美の使っていた使い捨てのカイロ。相羽は上着の襟
元から、それを中へと入れた。
間接的に相羽に触れているようで、カイロを自分が持っていた時より愛美の身
体は熱くなってしまう。そしてその胸で泣いた自分を思いだし、恥ずかしくなる。
「お休み。それじゃ、また」
そう言い残し、今度こそ相羽は走り去っていった。
完全にその背中が消えるまで見送りながら、愛美は寂しく思う。相羽の言い残
した「また」が再びあるのかと。
『こちらA−101754。G−36001、聞こえる?』
久しく使われていなかった通信機から、明瞭な声が飛び出してきた。
「ええ、聞こえるわ」
待ちかねていた相手から、ようやく連絡が入ったというのに、ママは事務的な
声で対応する。
「あなただけなの? A−101754」
『こちらF−4403』
『私もいるわ、A−60115よ』
『Z−99231です』
次々に仲間たちの声が入ってくる。
この太陽系が生まれる遥か以前から沈黙を続けていた通信機が、久しぶりにそ
の役目を発揮する。
『H−74773が少し遅れているわ、あと19時間ほど掛かりそうよ』
「そう、仕方ないわね………彼女が来ても、178機。ずいぶんと少なくなった
ものね。母星を経った時には、1000機もの仲間がいたのに」
『90億年ですもの。私たちの旅が始まってから。よくこれだけの仲間が残って
いたものだと思うわよ』
通信機がママに届ける声は、遅れている一機を除いても176機の仲間たちの
もの。だがそれらはどれも全く同じ声をしている。しかしママにはどれが誰の発
言なのか、はっきりと区別することが出来た。
『それにしても驚いたわ。60億年ぶりに仲間から入った連絡が、あんな内容で』
『私もよ、てっきりG−36001が狂ってしまったのかと思ったわ』
「その可能性は私も考えてみたわ。あるゆる角度から計算をし直してみたし、私
自身のシステムのチェックも、何度もしてみたわ。その結果は連絡した通りよ。
計算に間違いはないし、私にも異常はない。あなたたちの意見を訊きたいわ」
『あなたと同じよ、G−36001』
『ええ、私の計算結果も同じだわ』
「つまり、ここにいる全ての者のシステムに致命的な異常があるのでなければ…
……」
『その可能性も100%否定は出来ないけれど、限りなくゼロに等しいわね。』
『もしそんなことになっていたとしたら、私たちのこれまで役目の意味さえ、怪
しくなるわね』
『この計算結果が正しくても同じよ。これは私たちの任務が無意味になったとい
うことですもの』
#4307/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:48 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(37) 悠歩
★内容
全く同じ声だけで作られたざわめきが止む。
「私たちは考えなければなりません」
ここはこの事態の発見者であるママが、イニシアチブを取ることにした。
「私たちの任務行動の全ては、母星によって定められた規則に基づいていました。
けれどこのような事態に対しての対処は、あらゆる規定・規則にも定められてい
ません」
『そうね、そもそもこれは、私たちの任務を行うための前提が失われたことにな
るのだから』
「ええ、私たちは自己で勝手な行動を取れるようには創られていません。けれど
緊急時に際してのみ、極力定めに従って自由判断を許されている。私たちそれぞ
れが、この90億年の間にそうした事態を体験して来たでしょう。それによって、
もともとは全く同じに創られた私たちも、別々の個性が生じているはず。ですか
らこの事態に私たちがどう対処すべきか、話し合いをしましょう」
『分かったわ。確かに一機で判断すべき問題ではないものね』
『けれどH−747773はどうするの?』
「待っている時間が惜しいわ………私のマリアがトラブルによって、この惑星の
生命体に接触して感化されてしまっているの。だからみんなのマリアは、起こさ
ないでいてもらったの」
『眠らせてはいるけれど………この惑星に近づいてから、あなたのマリアの影響
を受けているようだわ。この状態ならいつ目覚めてしまっておかしくない』
「だからこそ、判断を急ぐの。H−747773には決定に従ってもらいましょ
う。場合によっては、私のマリアをここの生命体と交戦してでも取り返さなけれ
ばならないし………」
『全てのマリアの処分もあり得るわね』
「ええ」
機械であるママに感情などは存在しない。必要とあらば惑星の破壊も、長い年
月を共に過ごしたマリアの処分さえ辞さない………はずだった。しかし出来るこ
となら、そうした事態は回避したいと思っていた。感情が生じているとは考えら
れなかったが、判断を仲間たちとの相談に委ねたのは、自分の中に正しくマリア
のことを計算として処理できない何かがあったからだった。
それが幸か不幸かは分からない。
機体番号H−747773と呼ばれる宇宙船は仲間たちの中でも、目的の惑星
まで一番遠い位置にいた。そのため星雲間の距離さえものともしない通信も、か
なり悪い状態で受信していた。示された座標の惑星に集まれという内容は理解出
来たものの、他のことについてはさっぱり読みとれなかった。
彼女は90億年間にも渡る習慣に従い、惑星に接近する前に生体探査ユニット
である少女を目覚めさせていた。
いまその少女は、通常の眠りに入っていた。太陽系から太陽系、島宇宙から島
宇宙への移動には膨大な時間が掛かる。生体ユニットである少女はH−7477
73の一部として乗り込んでいるが、寿命は普通の生命体と変わりない。惑星間
の移動に要する時間は少女の寿命を遥かに越える。
そのため移動中の大半の時間、少女は冷凍状態で眠ることで生命活動の一切を
停止させられる。その間少女は全く歳をとることなく生き続けるが、ひとたび目
覚めれば通常の生命活動を行う必要がある。
冬眠から目覚めた動物が、次の冬眠までの間にも普通に眠るのと同じように。
「マム………マムぅ」
眠ったまま、少女はH−747773を呼んだ。ただの寝言であるとH−74
773が気にもとめないでいると、少女はむくりと起きあがった。
「マム………マムぅ………」
目覚めてもなお、少女は彼女のママであるH−747773を呼んでいる。大
粒の涙を流しながら。
『あら、泣いているのね。何か恐い夢でも見たのかしら?』
もともと多感な性格の生体ユニットであるが、特に冬眠を解除した直後は、情
緒が不安定になる傾向が強い。ママによって管理されているはずの記憶の欠片が、
脳内で錯綜し夢となり泣き出すことは、これが初めてではなかった。
「悲しい夢を見たの………」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、姿なきママに少女は訴える。
『悲しい夢? それはどんな夢だったの』
多感な少女ではあるが、生体ユニットが「悲しい」と言うのは非情に珍しいこ
とだった。ママの持つ知識に於ける限りでは、「悲しい」という感情は普通他の
生命体に対しての憐憫である。ママ以外の者と関わった記憶を管理されている少
女が、そのような感情を抱く理由に、興味を引かれる。
「よくわかんないけど………私、女の子に抱きついて泣いてたの………」
『女の子? それはあなたと同じ姿をした生命体ってことね』
「うん………私より、少し若い個体だった。マナミって名前なの。私、マナミに
ごめんなさいって謝りながら泣いてるの」
『まあ。どうしてあなたが、そのマナミに謝っていたのかしら』
「それがね、マナミのオトウサンが死んでしまったの。私ね、そのオトウサンを
助けようとしたみたい………でも出来なくて………オトウサンが死んで泣いてい
るマナミを見て、私も悲しくなってしまったの」
お父さん………父親というものを、少女は言葉の概念としてしか知らないはず
だった。なのに、その親子の情愛に関わる夢を見たのは何故だろう。
考えられる理由は二つあった。
一つはかつて少女の経験した事柄が、記憶の中から完全に削除しきれておらず、
それが夢となった。
そしてもう一つは、いま向かっている惑星の軌道上に集まっているであろう仲
間たち。その中にいる生体ユニットの影響を受けているということ。母星を旅だ
って90億年の間、生体ユニットが他の生体ユニットと出逢うことはなかった。
従ってその際に生じる影響については、予測できないものがある。あるいはその
惑星を調査中のユニットがいるのかも知れない。
いずれにしろ現在少女に現れている感情は、今後の探査に於いて不都合なもの
と思われる。早急な対応が必要だろう。
だが他のユニットの影響であるとするなら、そのユニット自体への対処が必要
である。それはそのユニットが所属するママの役目なのたが………
夜明けが遅く感じられることには馴れている。
妹の美璃佳と共に、ただ不安と寂しさだけが支配する夜が明けるの待ち続けた
のは、一度や二度ではない。
だが自分たちの部屋と変わらぬ造りである駿の部屋で、寝泊まりをするように
なってからは久しくなかった。駿とマリア、二人の大人がそばにいてくれること
で、常に妹を守ってやらなければという、良太の兄としての責任から解放されて
いたのだろう。
だがここ二晩は違っていた。美璃佳はともかく、良太はまた熟睡することの出
来ない夜を過ごしていた。
今日までよくしてはくれたが、所詮駿もマリアも他人なのだ。いつまでもその
保護の下にいることは出来ないと、良太は知ってしまった。
あの日、美璃佳たちを公園に残し、ボールを取りにアパートに戻った良太は、
駿と知らない男の人の話を聞いてしまっていた。
もとより母親ことなどあてにはしていない。同じ部屋に住みながら、滅多に帰
って来ることもない母親。血が繋がってはいても、自分たちを愛そうとしない母
親に、良太は諦めを感じていた。あの母親と別れることになっても、それを悲し
いとは思わない。
施設に入れられても、駿の部屋に来る前の生活と何も変わるものはない。いつ
帰るとも分からない母親を待つ必要がなくなるだけ、いいのかも知れない。
けれど、美璃佳と別れることになるとしたら………話は別だ。
ほとんど記憶に残っていないが、良太はしばらく母親の愛情を受けていたこと
があった。初めての子どもということで、あるいは新しいペットを可愛がるよう
な気持ちだったのか、それは分からない。それでも母親に手を引かれ、勤め先に
連れて行かれたことがある。
その後子育てに飽きた母親が、良太にかまうことはなくなった。昼間は人に預
けられたこともあったが、たった一人で不安な夜を過ごすうち、わずか二歳で母
親の手を借りずとも、身の回りのことは自分でこなす術を覚えた。
そんなある時、良太に妹が出来た。父親は分からなかったが、間違いなく良太
と血を分けた兄妹だ。美璃佳を生むと、今度は全く世話をしなかった母親に代わ
り、良太が妹の面倒をみてきた。本来なら良太自身が、まだまだ親の助けを必要
とする年齢である。それが赤ん坊の面倒をみるのは、並大抵のことではなかった。
それでも良太は、一人で過ごしていた夜を二人で過ごすようになったことが嬉し
かった。
良太にとって美璃佳は、自分の分身。決して欠くことの出来ない存在だった。
その美璃佳と、別々になってしまうかも知れない。他のどんな辛いことにも堪
えられるが、それだけは我慢ならなかった。
そんなことを考えていた良太の眠りは、浅かったのだろう。目が覚めたとき、
部屋はまだ暗く他の三人の寝息が聞こえていた。
「やだ、美璃佳とは、ぜったいにわかれたくない」
何度考えてみても変わらない気持ち。
けれどこのままではいくら良太が願っても、それは適わない。子どもだけで生
きていくことを、周りの大人たちが認めはしないと良太は知っていた。
美璃佳と別れたくない。
良太はその望みを叶えるための方法を、今日までに一つしか考えることが出来
なかった。
実行は急がなければならない。今日明日にでも施設に入れられてしまうかも知
れないのだ。素早く着替えを済ませ、良太は駿やマリアに気づかれぬように細心
の注意を払いながら、美璃佳へと近づく。
「美璃佳、おきるんだ。美璃佳」
大きな声を出せば、駿たちが起きてしまう。だが声を潜め、身体を揺り動かし
ても熟睡している美璃佳はなかなか目覚めない。
「美璃佳、美璃佳」
隣で眠るマリアに注意をしながら、さらに強く美璃佳を揺さぶる。
「んんっ」
小さなうめき声を上げ、美璃佳の目がぱちりと開かれた。
「あれぇ、おにいちゃん」
美璃佳はむくりと身体を起こして、大きなあくびをしながら言った。
妹が『良太』とはつけず、『おにいちゃん』と呼ぶのは久しぶりのことだった。
駿へ部屋で過ごすようになってから、美璃佳は駿と良太を呼び分けるために、
『おにいちゃん』の前に必ず名前を付けていた。
『おにいちゃん』と最後に呼ばれたのは、そんなに昔の話ではないのに、良太
は懐かしく感じた。
「しーっ、大きなこえをだしちゃ、だめだ」
唇に指を充て、良太は元気すぎる美璃佳の声を抑えさせる。
「どおしたの、おそとはまだくらいよ」
良太の仕種に、秘密めいたものを感じたのだろう。美璃佳も声を潜めたが、ど
こか楽しげだった。
「はやくきがえるんだ。お兄ちゃんたちをおこさないように」
「どこか、おでかけするの?」
「ここを出ていくんだ」
「えーっどおして。みりか、いやだよ」
「いいか、美璃佳。よくきくんだ」
良太は、布団の上に正座した美璃佳の小さな肩を掴んだ。
「美璃佳は、ぼくのことすきか?」
「うん、だいすきだよ」
「ほくと、ずっといっしょにいたいか?」
「うん、いたい」
「だったら、ここを出ていかなくちゃ、だめなんだ」
「でもぉ………みりか、りょうたおにいちゃんと、しゅんおにいちゃんと、マリ
アおねえちゃんと、みんなといっしょにいたいよ」
「それは出来ないんだよ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、ほんとうはよその人だろ?
だからいつまでもいっしょには、いられないんだ。もしぼくたちがいつまでも
ここにいると、ぼくと美璃佳まで、わかれることになってしまうんだ」
「やだ、そんなの」
「それならいそいで」
「………」
言い聞かせても、美璃佳はまだ納得出来ていないようだった。泣き出しそうな
顔をしながら、眠っている駿とマリアを見つめている。
「それならしかたないね。美璃佳はここにいろ。ぼくは出ていくから」
はっきりしない美璃佳をそのままに、良太は一人ドアに向かい、部屋を出て行
く真似をした。
「まって。みりかもいくよお」
半泣きの声がして、良太は振り返った。美璃佳の声が大きかったので、他の二
人が起きてしまうのではないかと思ったが、駿が唸りながら寝返りを打っただけ
だった。
「よし、じゃあお兄ちゃんたちがおきないうちに、はやくきがえて」
「………うん」
美璃佳の着替えを手伝って済ませると、良太はその手を引いて部屋を出ようと
した。だが美璃佳は動こうとしない。
「どうしたんだよ、美璃佳」
「ちょっとまって。このこも、つれていくの」
美璃佳は良太の手を振りほどくと、部屋の隅で壁にクマのぬいぐるみと並んで、
もたれ掛かっている人形を抱き上げた。
「そんなもの、じゃまになるよ。おいていったほうがいい」
「だめ。サンタさんが、しゅんおにいちゃんにたのんで、みりかにプレゼントし
てくれたんだもん」
美璃佳の身体よりわずかに小さいだけの人形は、どう考えても荷物にしかなら
ない。良太はなんとか人形を置いていくように説得してみたが、これに関して美
璃佳は頑なだった。
#4308/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:49 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(38) 悠歩
★内容
「じゃあ、それはもっていこう。もういいだろう、いくよ」
「まだ。おてがみかくの」
「おてがみ?」
「しゅんおにいちゃんと、マリアおねえちゃん、おこしちゃだめなんでしょ?
だからおてがみで、さよならのごあいさつをするの」
良太にしてみれば、いつ駿たちが起き出すか気が気ではなかった。一分一秒で
も早く、ここを出ていきたい。まして置き手紙などして、良太と美璃佳が家出し
たことを駿たちにすぐに気づかせるのは不都合に思えた。
けれど良太がそんなことを考えている間にも、美璃佳はどこからボールペンと
紙とを探し出し、台所の板の間に寝そべって手紙を書き始めている。そんな妹の
行為を無碍に咎められず、良太は好きにさせることにした。
「何も終業式の日に、日番が回ってこなくてもいいのに」
白く煙る街を眺めつつ、純子は思う。ふうと吐く息も白く、まるでそれが街を
煙らせているような錯覚を覚えた。
日番だからといって別にこんなに早く、学校に行く必要もない。こんな時間に
学校に行くことになったのは、全て目覚まし時計のせいだ。
二学期最後の日の日番。万が一遅刻でもしてしまったら、格好がつかない。気
合いを入れて、是が非でもそんな事態だけは避けなければならない。と用意した
目覚まし時計が、予定より三十分以上も早くに鳴ってしまったのだ。もっとも、
アラーム時間をセットしたのは、他ならぬ純子自身であるのだが。
早く起きてしまったからと言って、特に何かする訳でもない。出掛けるまでの
時間を、だらだらと過ごすだけ。これではせっかく入れた気合いも、しぼんでし
まう。
それならばさっさと学校に行って、日番の仕事を少しでも早く片づけてしまお
う。そう思って早々の通学となった次第だった。
早朝の空気は、どこかに刃物でも隠し持っているかのように、肌に痛かった。
けれど不快ばかりでもない。家を出るときには、半分寝ぼけまなこの頭も、すっ
きりと目覚める。
とは言え、やはり長い時間この空気に触れていたいとは思えない。少しでも早
く教室で暖をとりたい。純子は学校へと足を急がせる。
「あれっ?」
目の前の路地を妙なものが横切り、思わず純子の足は止まる。
「なんだろう、いまの?」
小さな女の子のように見えたが、何か違和感がある。同じような光景をごく最
近、純子は見た覚えがあった。
「まさか………」
純子は、女の子の消えて行った路地へと駆け出した。そしてその路地で純子に
背を見せる、二つの影を見つけた。
一つは小さな女の子。そしてもう一つは女の子より、少し大きな男の子。ただ
し先ほど純子が目撃したのはその女の子でなく、女の子の抱えた大きな人形だっ
た。
それで純子は得心した。どこかで見た覚えがあるというのは、間違いではなか
った。確かにいま、目の前を歩いている女の子とは一度出逢っている。
「美璃佳ちゃん!」
純子が名前を呼ぶと、女の子は立ち止まって振り返る。抱えた人形が、ぶん、
と風を斬る音を立てそうな勢いで。
「やっぱり美璃佳ちゃんだ」
そばまで歩み寄り、純子は人形の横から見せる女の子の顔を確認した。
「あっ、このあいだの、おねえちゃんだ」
人懐こい瞳が、純子を見つめて微笑む。前に会ったときはほとんど泣いてばか
りだったが、笑顔は一段と可愛らしい女の子だ。
「だれ?」
隣にいた男の子が、美璃佳を肘で突つきながら訊いた。
「あのね、みりかがまいごになったとき、おうちにつれてきてくれたおねえちゃ
ん」
静かな朝の街を、一気に目覚めさせてしまいそうな元気な声で、美璃佳が男の
子にと説明をする。
「美璃佳ちゃん、お姉ちゃんはないなあ。名前、覚えてくれてないのかな?
純子よ、す・ず・は・ら・じゅ・ん・こ」
膝を折って、純子は美璃佳たちの視線に目の高さを合わせて言った。
「そう、じゅんこおねえちゃん」
美璃佳が喋る度、口元から白い息が、その小さな顔を覆い隠してしまいそうな
ほど立ち昇る。
「あの………いもうとがおせわになりました」
男の子が、純子に向かってぺこりと頭を下げた。年齢のわりにはどこか大人び
た目をしている、と言うか拗ねた印象を受けるが、意外と礼儀正しいようだ。
「じゃあ、あなたが良太くん?」
「は、はい。美璃佳から、きいたんですか?」
純子が見つめると、良太は恥ずかしそうに目を逸らした。五・六歳といったと
ころだろうが、丁寧過ぎる言葉遣いが少し気に懸かる。あるいはそれも恥ずかし
がりの性格に所以しているのか。
「西崎さんって、分かるかな。ええっと、たしか………」
「まなみお姉ちゃん?」
「そう、愛美お姉ちゃんに教えてもらったの」
「みりか、きめた!」
良太の方を見ていた純子のすぐ耳元で、美璃佳の大きな声がする。鼓膜に響き
渡る黄色い声に、思わず顔をしかめてしまった純子だが、美璃佳には気づかれな
いように振り向いた。
「決めたって、何を?」
「このこの、なまえ!」
抱いている人形に顔を寄せて、美璃佳が答えた。まるで美璃佳が人形の頬に、
キスをしているように見える。
「お人形さんの名前?」
「うん、じゅんちゃんにするの」
「へっ?」
つい、純子の声が裏返ってしまった。
「このこのおかげで、じゅんこおねえちゃんと、おともだちになったでしょ。だ
からじゅんちゃんにするの。いいよね」
小首を傾げ、と言うより全身を傾げて美璃佳が訊ねてくる。人形に自分と同じ
名前をつけられるのは、あまり気持ちのいいものではなかったが、美璃佳の瞳を
見ていると無碍に断ることも出来ない。
「そ……そう? 美璃佳ちゃんが、それでいいのなら構わないけど」
と、不本意ながらひきつった笑顔で答えてしまった。
「わあい、よかったね。あなたはきょうから、じゅんちゃんだよ」
人形に語りかける美璃佳を、純子は複雑な思いで見るしかない。
「あの、ぼくたち急ぎますから、これで」
「えーっ、みりかまだ、じゅんこおねえちゃんと、おはなししたいのにぃ」
良太は再度純子に頭を下げると、まだ名残惜しそうにする美璃佳の手を引き、
歩き出した。
「そう、それじゃあまたね」
純子が手を振ると、美璃佳もこちらを向いて小さな手を振った。
「美璃佳、にんぎょう、もってやるよ」
「いいの。じゅんちゃんは、みりかがだっこするの」
そんな兄妹の会話が聞こえた。
「いっけない! せっかくの早起きが、台無しになっちゃう」
思わぬ所で時間を食ってしまったと気づき、純子は学校に向かって駆け出した。
日番の仕事のことが頭にあったためか、最初に会ったときは一人で泣いていた
美璃佳が、今日は兄と一緒で楽しそうにしていたからか。早朝、幼い兄妹が二人
だけでいることに、その時の純子は何の不自然さを感じることもなかった。
駿を目覚めさせたのは、激しい尿意だった。
布団がめくられたため、身体が冷えてしまったらしい。
隣で寝ているはずの良太の姿がない。良太が起きるときに、布団をめくってい
ったのだろう。それにしても朝早くから、良太はどこに行ったのだろう。不審に
思いながらも、まずは生理現象を優先させるべく、トイレへと急ぐ。
「駿、おはよ」
トイレから出た駿を迎えたのは、下着姿のマリアだった。起き出して、着替え
ている最中だったらしい。
「わっ!」
驚いた駿は慌てて背を向ける。
どうにも羞恥心に乏しいマリアは、何度言い聞かせても人前………主に駿の目
の前だが、平気で服を脱ぐ。
おかげで今日まで数回、マリアの肌を目にしているが、駿も駿で慣れることが
ない。自分がそれほどウブだとは思っていなかったが、何故かマリアの白い肌を
目の当たりにすると緊張してしまう。以前の恋人と肌を重ね合った時ですらなか
ったほど、鼓動が早まり目眩を起こしそうになる。
「もう、着替え終わったよ」
肌を見られた側のマリアは、全くあっけらかんとしている。
「そ、そうだ………マリア。良太くんたち、どこに行ったか知らないか?」
振り向いた駿が見たものは、おおよそ冬場らしからぬ服を着たマリアの姿だっ
た。大きめのレモン・イエローのブラウスに、モス・グリーンのズボン。セータ
ーなどのニット類、厚手のものは肌に触れる感触が嫌いだとマリアは言っていた
が、これはないだろうと駿は思う。よく寒くないものだ。
「ううん、知らないよ。ねえ、これなんだろ?」
マリアの指さす先、駿と良太の寝ていた布団の枕元に、一枚の紙が置かれてい
た。
「ん、これは………手紙みたいだな」
脳裏に焼き付いたマリアの裸身を振り払いながら、枕元の駿はワープロ用紙を
拾い上げる。赤いボールペンで、拙い文字が書かれていた。どうやら美璃佳の文
字のようだ。
『しゅんおにいちやんと
まりあおねえちやんえ
さよおなら
みりか』
「『さよおなら』って、えっ? これは………置き手紙か?」
「おきてがみってなに?」
「良太くんと美璃佳ちゃんが、家出したんだ!」
部屋の中を見回せば、駿が美璃佳に買い与えた人形もなくなっている。一人き
りになった、クマのぬいぐるみが寂しそうにしている。
説明してもなお、マリアはより分かっていないらしい。首を傾げてこちらを見
ている。
その時、ドアをノックする音がした。
「はい」
良太たちが帰ってきたのか。
駿は急いで、ドアを開けた。だがドアの外に立っていたのは、愛美だった。
「愛美ちゃん。どうしたの」
「あの、美璃佳ちゃんたち………いますか?」
「いや、それが」
「いないんですね?」
「ああ、その………家出したらしい」
予想していたのだろうか。愛美はわずかに険しい表情を見せただけで、それほ
ど驚いた様子もない。
「実は病院に行こうとしら、ドアにこれが挟んであるのをみつけたんです」
愛美はそう言って、一枚の紙を見せた。駿の枕元にあったのと同じワープロ用
紙で、やはり赤のボールペンで文字が書かれている。
『まなみおねえちやんえ
げんきになてね
さよおなら
みりか』
「でも、どうして」
駿に訊ねているか、独り言なのか、はっきりしない愛美の声。
「分からない………おととい辺りから、良太くんの元気がなかったようなんだが」
いくら考えてみても、原因が分からない。確かに母親のことでは、子どもなり
に悩むこともあっただろうが、駿が面倒をみるようになってからは、出来る限り
のことをしてきたつもりだ。それでもなお、何か不満があったというのか。
それが子どもたちに通じていなかったのかと思うと、駿は良太たちに腹立しさ
さえ感じた。
「ねえ、よく分からないけど、おとといならね」
駿の横に来たマリアが言った。
「何か覚えがあるのかい?」
「あのね、おとといマリアと、良太くんと、美璃佳ちゃんで、公園で遊んでたで
しょ。そのときね、良太くん、ボールを取りにお家に帰ったの。それなのにね、
ボールを忘れて公園に戻って来たんだよ」
「ボールを取りにアパートに………あっ」
家出の理由が分かった。
マリアと子どもたちを公園に行かせた後、駿は部屋で民生委員と話をしていた
のだ。良太たちを施設に入れるための相談を。
おそらくボールを取りに帰って来た良太は、ドアの前でその話を聞いてしまっ
たのに違いない。だからあの日から、良太は元気がなかったのだ。
妹と別れ別れになるかも知れない。それが良太を思い詰めさせたのだろう。
「馬鹿たれが!」
駿の口から飛び出した悪態に、マリアと愛美が驚いている。だがそれはもちろ
ん、二人に言ったのもではなく、また良太たちに対してでもない。良太を追い詰
めてしまった自分の迂闊さ。そしてそのことにも気づかず、良太たちに一瞬でも
腹を立てた自分に対してであった。
#4309/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:50 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(39) 悠歩
★内容
駿は壁に掛けてあったハンガーからジャケットを取ると、それを羽織り、玄関
に立つ愛美を半ば押しのけるようにして部屋を出た。
「駿、どこにいくの」
背後からマリアの声がする。
「良太くんたちを探しに行く!」
「マリアもいくぅ」
「私も………」
既に階段へと差し掛かった駿の後ろに、マリアと愛美が追いついてきた。
「ありがとう。でも愛美ちゃんは駄目だ」
「えっ」
「君はお父さんを迎えに行かなくちゃ。他にもいろいろと、やることがあるんだ
ろう?」「でも………私、あの子たちに酷いことを言ってしまった責任がありま
すから」
「だいじょうぶだよ。良太くんも美璃佳ちゃんも、優しい子だもん。愛美ちゃん
の言ったこと、気にしてないよ」
愛美に応えたのは、駿ではなくマリアだった。
「やっぱり愛美ちゃんは、お父さんのところに行ってあげなくちゃ」
そう言って、マリアが愛美へと微笑み掛ける。
マリアの笑顔には、不思議な説得力がある。どんなに巧みな話術より、マリア
の微笑み一つの方が遥かに効果的だと駿は思っている。事実、それは愛美に対し
ても効いたようだった。
「………分かりました。あの、でも時間は分からないけど、叔母さんが来てくれ
るんです。そうしたら、私も美璃佳ちゃんたちを探します」
「ああ、夕べ北原さんにも話しておいたから、愛美ちゃんの方で何かあれば手伝
ってもらうといい」
「はい、それじゃ、失礼します」
深くお辞儀をすると、愛美は階段を下りていった。そのままアパートを出て、
病院の方へと走って行った。
「マリアたちは、美璃佳ちゃんたちを探しに行こう!」
マリアが駿を追い抜いて下へ向かっていった。それを駿が呼び止める。
「ちょっと待って」
「なに? どうかしたの」
薄手のブラウス一枚を着ただけのマリアが振り返る。
「マリアが寒さに強いのは分かってるけど、せめてコートくらい着なくちゃだめ
だ」
「ええっ、平気だよ」
「だめだ」
駿は子どもを叱りつけるように、少し強めに言った。不服そうではあったが、
駿の言葉に従いコートを取るために、マリアは階段を上りはじめた。
ストレッチャーの上に乗せられた父。
全身を白い布で覆われ、周りには袋に詰められたドライアイス。
ストレッチャーを押して、父を運ぶのは看護婦ではない。作業服のようなもの
を着た男の人たち。それはもう父が患者としての扱いを受けていないことを示す。
荷物を運び出すかのように、病院の裏口に待機していたワゴン車の後部へと乗せ
られる。
無言でつき従っていた愛美は、改めて父がこの世の人でなくなったことを思い
知らされた。
「西崎さん、大変でしょうけどしっかりしてね」
忙しい時間の中、ただ一人見送りに来てくれた婦長が優しく言葉を掛けてくれ
た。
「はい、お世話になりました」
婦長に頭を下げ、愛美も車に乗り込もうとした。
一台のタクシーが車の前に停まる。特に気にすることもなく、愛美はドアを閉
めようとした。
「愛美ちゃん!」
タクシーから降りてきた女の人がそう言った。
ドアを閉じかけていた手を止め、愛美はその女の人の顔を見た。
「雪乃叔母さん………」
そこにいたのは、亡き母の面影を持つ雪乃叔母さんだった。
雪乃叔母さんは、車から降りて立ち尽くす愛美に駆け寄って来た。そして強く、
愛美を抱きしめる。
「ごめんね、愛美ちゃん………叔母さん、なんにも知らなくて。一人で辛かった
でしょうに」
抱きしめられながら、愛美は叔母さんが震えているのを感じた。愛美にすり寄
せる頬が濡れている。
「いいえ、叔母さんが悪いわけじゃないです………私、何も知らせなかったから」
「ううん、それでも気がつくべきだったの。いまになって思えば、この前お義兄
さんと会ったときに顔色の悪いことに………あの時は、私もすっかり興奮してい
たから。本当にごめんなさいね」
後ろにまわされた叔母さんの手が、愛美の頭を撫でた。
叔母さんの声が、温もりが、母と重なる。
幼い日に、母に抱きしめられた記憶が甦る。
もう流すまいと誓ったはずなのに。昨夜のうちに、一滴残らず流し出してしま
ったと思っていたのに。愛美は、一筋熱いものが頬を滑り落ちるのを感じていた。
父の亡骸は、アパートへと運び込まれた。
通夜の会場として近くの集会場が使えるらしい。けれど愛美はこのアパートで、
父と最後の夜を過ごすつもりだった。
母が死んでから、父は人付き合いもしなくなった。親戚も母方の雪乃叔母さん
しかいない。立派な会場は必要なかった。
それに会場に見合う祭壇を用意するお金もない。
叔母さんは、せめて最後くらい立派に送ってやってもいいのではないか。必要
なお金は都合するからと言ってくれた。けれど愛美は断った。もうほとんど手元
にお金は残っていなかったが、最後だからこそささやかなものであっても、自分
の力で父を送ってやりたかった。
「それでは桂木さん、愛美ちゃん。何かあったら、いつでも言って下さいね」
様子を見に来てくれた北原のおばあさんは、そう言って部屋を出ていった。
いつもは母にあげていた線香の香りが、室内に満ち溢れている。
「あの、叔母さん」
「なあに? 愛美ちゃん」
「私、少し出掛けて来てもいいですか?」
「それは構わないけれど、出来ればお父さんのそばに、いてあげたほうがいいわ。
何か今日でないと困る用事なのかしら」
「実は………」
愛美は良太と美璃佳のことを、簡単に説明した。父が病院へ運び込まれたとき、
美璃佳に対して取ってしまった、自分の態度も加えて。
「そう、そういうことなら、行ってきなさい。でも困ったわね………叔母さんも
後で、銀行に行きたいんだけれど………仏様を一人には出来ないし」
「叔母さん、お金のことでしたら………」
「あ、ううん、そうじゃないの。これは私の用事よ。いいわ、申し訳ないけれど、
少しだけ北原さんに留守番を頼みましょう」
「ごめんなさい」
「気にしなくていいのよ。それより、その子たち、見つかるといいわね」
「はい」
愛美はコートを着ると、合い鍵−−父の使っていたものを叔母さんに渡して、
部屋を出ようとした。
「あ、愛美ちゃん」
「はい?」
その愛美を、叔母さんが呼び止める。
「後で………夜になったら、大事な話があるから。そのつもりでいてね」
たぶん自分のこれからについての事だろう。そう思った愛美は、「はい」と頷
き部屋を後にした。
駅近くの書店。
十二時に一度おちあう約束をしていたのだが、マリアはまだ来ていなかった。
ちらりと駅前広場の時計に目をやると、十二時まであと三分といったところだっ
た。
時計の横に、交番が見える。
「そうだ、お巡りさんに捜索願いをだせば………」
そう思った駿だったが、実行に移すことはなかった。
警察に届ければ、当然良太たちの家の事情というものも知られてしまう。とな
れば、子どもたちの施設入りは確定的なものになってしまうのではないかと、駿
は考えたのだ。
良太たちを施設に入れる話は、駿の独断で行ってきた。良太たちの母親と話し
合いしようにも、相手の居所がつかめない以上仕方ない。そうすることか、良太
たちの将来のためにもベストであると思っていた。
思い上がりであったのかも知れない。あるいは善人ぶって面倒をみながらも、
突然自分の元に転がり込んできた子どもたちを、疎ましく思っていたのかも知れ
ない。施設に入れようというのは、将来を考えてなどではなく、ただ厄介払いを
したかっただけかも知れないのだ。
何より駿は、良太や美璃佳と話し合いをするのを怠っていた。子どもに判断の
難しい話であるというのが、表向きの理由だ。だがそれは単に面倒くさい手間を
省いただけではないのか? 良太たちが施設に入ることを、進んで承知するとも
思えない。それを説得する自信も、それが一番いい方法であると言い切る自信も
なかっただけなのだ。
幼いとはいえ、良太や美璃佳にも自分たちのことを自分で決める、駿が選ぼう
としている方法について事前に知り、意見を言う権利はあるはずなのに。駿はそ
れを蔑ろにしてしまった。
良太たちが無事見つかれば、今度こそきちっと話し合いをしよう。そのために
は警察の介入は避けた方がいい。
「駿!!」
眉間にしわを寄せ、真剣に考え事をしているときでも、その声を聞くと気持ち
が和んでしまう。
いや、いまは気持ちを和ませているときではないと自分に言い聞かせ、駿は声
の方に視線を向けた。
「どうだった?」
訊くまでもない。そこにマリア一人で来たのであれば、良太たちを見つけられ
なかったことは分かる。それでも駿は、わずかな期待をかけて、訊かずにはいら
れなかった。
「ううん、だめ。どこにもいない」
走って探していたのだろう。
マリアのコートはボタンを外して、前が開かれており、寒い中にあってブラウ
スは汗で濡れていた。
「ごめんね、駿。マリア、もっと早く良太くんの色に、気がついていればよかっ
たのに」
「マリアのせいじゃないよ」
荒い呼吸の中、いまにも泣き出しそうなマリアの肩に手を置き、駿は優しく言
った。
マリアに責任はない。良太を追い詰めたのは、駿なのだから。
「それにしても、どこに行ったんだろう」
思いつく範囲、二人の行きそうな場所は全て探したつもりだ。とは言っても、
考えてみれば数日間寝起きを共にしながら、駿は良太たちのことを詳しくは知ら
なかった。
駿の知らない友だちの家、二人だけの秘密の場所があるのかも知れない。
それともクリスマスを控え賑わう街を、幼い兄妹二人きり行くあてもなく、彷
徨っているのだろうか。だとしたら、一刻も早く見つけてやりたい。
どこか見落としている場所はないか。懸命に考えてみる。しかしいくら考えた
ところで、まるで思いつくものがない。強いて挙げれば、自分の連れていってや
った遊園地や映画館くらいだが、歩いて行ける場所ではない。お金を持たない良
太たちがそこに行くことはないだろう。
まさかどこかで事故に遭ったのでは。
不吉な考えが頭をよぎる。
何かあってからでは遅い。やはり良太たちの安全を思えば、警察に届けるべき
かも知れない。
駿の足が一歩、交番に向かって踏み出されたその時。
「藤井さん!」
自分を呼ぶ声に、駿は振り向いた。
「あっ、西崎さん」
アパートの形だけの門を抜けたところで声を掛けられ、愛美は足を止めた。
息を弾ませながら、一人の少女が愛美へと駆け寄ってくる。
「涼原……さん?」
「はあ、……西崎さん……出掛けるところだったのね。よかった………行き違い
にならなくて」
少女−−涼原純子は、両手を膝に充てて身を屈め、整わない息でそう言った。
「私に、何か用だったの?」
愛美と純子は同じ学校に通ってはいるが、クラスも違っていたし特に親しい友
だちではない。もっとも愛美には、純子以外にも親しい友だちはいないのだが。
ただ学校では人と話すことを嫌っていた愛美にしては珍しく、何度か言葉を交わ
したことはある。けれどたまたま先日の一件で住まいを知られてはしまったが、
純子が愛美を訪ねてくる理由が思い当たらない。美璃佳を訪ねて、というのなら
分かるのだが。
#4310/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:51 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(40) 悠歩
★内容
「あの、その………」
息は整ったようだが、純子は何か言いにくそうにしていた。
「どうしたのかしら。ずいぶん言いにくそうだけれど」
ごく普通に言ったつもりだっのだが、純子は酷く驚いたような顔をする。
「えっと………西崎さんのお父さんこと、聞いたんだ。それで、もし私に手伝え
ることがあったらと思って」
ああ、そう言うことなのかと愛美は合点した。
純子は父を亡くした直後の愛美が、ごく普通に振る舞っていることに驚いたの
だろう。もしかすると、薄情な子だと思われたかも知れないが、別に弁解する気
にもならない。
それにしても純子は、どこで父のことを知ったのだろう。愛美の父が死んだこ
とを知っているのは、病院の関係者と駿たち。そして愛美が直接伝えた、叔母さ
んと相羽くらいのもの。
美璃佳はともかく、駿やマリアが言い触らすはずもない。まさか相羽の口から
とも、考えにくい。
この疑問は、簡単に解決した。病院から学校に連絡があったらしい。それが当
たり前のことかどうかは分からないが、どうやら戸田医師が気を利かせたようだ。
愛美としてはあまり人から、『可哀想な子』と思われるのが嫌で、歓迎出来るこ
とではないのだが。
「ありがとう。でも、いいの。叔母さんが来てくれてるし。それにね、私もお父
さんもお友だちがいないから………大袈裟に何かする必要もないもの」
自嘲しているつもりはない。愛美は事実を口にする。父は酒癖の悪さで、友だ
ちをなくしていた。勤めもずいぶん前に辞めてしまっている。
愛美は同情されること、父を悪く言われることが嫌でクラスメイトたちを遠ざ
けてきた。人手がいるほど、弔問客の来るはずもない。
「だけど………」
何か言いかけた純子。だが言葉は飲み込まれ、声になることはなかった。
「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい。でも………どうして涼原さんは、私
なんかのために?」
特に親しい訳でもない愛美のために、純子が手伝いをしようと来てくれた理由
を訊ねてみた。
「えっ………でも、だって。袖振りあうもって言うじゃない」
純子の言っていることがよく分からず、愛美は思わず首を傾げてしまう。
「ご、ごめんなさい。こんなときに、冗談みたいな言い方をして………」
愛美はただ純粋に、言っている意味が分からなかっただけなのだが、純子の方
が誤解をしてしまったようだ。
「ううん、怒ったんじゃないの。確かに涼原さんと私は、同じ学校だし………何
度かお話ししたことはあったけれど。でもそれは袖振りあう、ってほどのことだ
ったかと思って」
純子にいらぬ気を使わせてしまったことを申し訳なく思いながら、愛美はそう
応えた。
「だって、この前美璃佳ちゃんのことで、私、西崎さんのお世話になったから」
父を亡くしたばかりの、愛美の気持ちを思いやってくれているのか、純子は決
して笑顔は見せなかった。けれど愛美の言葉にほっとした様子が窺われた。
「お世話? 私が美璃佳ちゃんのことで?」
「ほら、あの時美璃佳ちゃんの、保護者の人がまだ帰ってなくて。私、泣いてい
る美璃佳ちゃんをどうしていいのか分からなくて。西崎さんが来てくれなかった
ら、私も一緒に泣き出していたかも知れないもの」
美璃佳と一緒になって泣きじゃくる純子。その姿を想像した愛美は、吹き出し
そうになるのを、必死で堪えた。
「………西崎さん?」
心配そうに、純子が声を掛ける。
「ん、なんでもない。平気よ」
笑いを噛み堪えていたため、声が震える。どうやら純子には、それが悲しそう
な顔に見えたようだ。
自分は自分が思っている以上に、薄情な人間なのかも知れない。父が死んだの
は、つい昨晩のことだというのに、もう笑える余裕が出来ている。
確かに昨日はずいぶんと泣いた。母が死んだ時を除いて、いや含めても、あれ
ほど泣いた記憶はこの十三年間にはない。
母が死んだときには、自分が父を支えなければならない。そんな使命感から、
長く悲しみに浸っている余裕はなかった。けれどその父も死んでしまったいま、
もっと悲しみに浸ってもよさそうだ。
なのにそれほど苦しくはない。悲しみに支配されることがない。
相羽との一時が、愛美の気持ちを軽くした。それは確かだと思う。だが父の死
に加え、淡い想いも消えてしまったと言うのに。
「私は………たまたま同じアパートの住人だったから。それに涼原さんは、見も
知らない迷子の子のために、わざわざ家を探して連れてきたのよ。だから私に対
して、恩とか、感じる必要はないわ」
「うん、でも………私たち、お互いに名前は知っていたみたいだけど、ただ同じ
学校の生徒同士、っていうだけだったでしょ」
「ええ、まあ………」
「それが美璃佳ちゃんを通じて、前より親しくなったような気がする」
「それで、袖振りあうなの」
「うん、迷惑だったかしら?」
愛美は、しばし純子の顔を見つめた。
不思議な子だと思った。
美璃佳のことにしても、義理もないのに苦労したのは自分だと言うのに。愛美
に対して感謝しているらしい。
些細な会話だけで、愛美に親しみを覚えてくれているのか。それとも理由のな
い手伝いを受け入れようとしない愛美に、気を使わせないための口実か。
いずれにしても純子の好意的な態度は、長く友だちを持たなかった愛美にとっ
て理解し難い、だが決して不愉快ではないものだった。
けれどそれに対して、愛美はどう応じていいのか術を知らない。ただ困惑する
ばかりだった。
何も答えない愛美に業を煮やしたのか、先に純子が口を開く。
「それにほら、ついでって言うのも変だけど。美璃佳ちゃんも元気にしているか、
気になるし」
「あっ………」
純子の言葉に、愛美は父を叔母さんに委せての外出の目的を思い出した。そし
てこれから探そうとしている美璃佳と、純子も面識のあることを。
「そうだ、涼原さんにお願いしても、いいかしら?」
「うん、なんでも言って」
遠慮がちに微笑みを浮かべる純子。
「美璃佳ちゃんたちを探すの、手伝って欲しいの」
「探すって………えっ! 美璃佳ちゃん、いなくなったの!?」
驚く純子に、愛美は自分の知る限りの事情を伝えた。もっとも愛美も、その理
由までは分からない。ただ今日まで兄妹の保護者代わりを務めていた駿とマリア
が、決して悪い人ではないことも説明した。
「分かったわ。私も手伝う………ううん、手伝わせて」
「ありがとう、涼原さん。それじゃあ、行きましょう」
「ええ。でも、どこを探せばいいのかしら………あっ!」
何かを思い出したように、純子が声を上げた。
「おにいちゃん、みりか、おなかがへったよぉ」
背もたれを枕代わりに、シートに寝そべるようにして座っていた美璃佳がぐず
りだす。 周りの乗客たちの目が美璃佳に集まるのを、良太は快く思わない。も
し良太たちのことを不審に思った人が、駅員か警察に連絡でもしたら、連れ戻さ
れてしまう。
それでなくても、小さな子どもが二人きりでいるだけで目立ってしまう。電車
が混んでいればまだしも、この車両の乗客は十人前後。ごまかしようもない。そ
の上美璃佳は、それだけでも人目を惹いてしまう人形を連れている。これ以上注
目されるような真似は、どうにか避けたい。
「少しくらい、がまんしろよ」
「やあっ、おはかへったのぉ」
もう美璃佳は、半べそ状態だ。
良太はズボンのポケットに手を入れ、むき出しのままのお金を取り出した。千
円札が九枚と小銭。大事に持っていた一万円札で子ども二人分の切符を買ったお
つり。
別に会いたいとも思わない、自分たちを愛してくれない母親。それが最後にく
れたお金が、この家出を支えることになった。もしこれがなかったら、あるいは
家出を思いとどまったかも知れない。
決行しても、徒歩ではたいして遠くにも行けず、すぐに連れ戻されたかも知れ
ない。
連れ戻される………誰に?
良太と美璃佳がいなくなって、誰が慌てるのだろう。
『あーあ、お前らさえいなければ………もっと楽な暮らしが出来るのにさ。やっ
ぱ子持ちだと、仕事も限られるし。男だって寄ってこないよ』
たまに帰ってきたかと思えば、美璃佳を抱き上げることもなく言った、母親の
台詞。
思い出す度、悲しさと悔しさに良太の胸は締めつけられる。
愛してくれないのなら、自分も愛さない。もうあの母親と会うことはないかも
知れない。そう考えても、まるで未練は湧かない。
あの母親が、良太たちを心配して探すなどということは、絶対にないと断言出
来る。
では駿やマリアは。
あの人たちは、ちょっと親切なだけのよその人だ。
病気で寝込んでしまった美璃佳を抱え、困っていた良太を無視しきれなかった
だけだ。 美璃佳とは違って、良太はサンタクロースなんて信じていない。子ど
もらしい夢を持てるほど、親の愛に育まれていない。美璃佳を守って生きていか
なければならない。その現実が、夢を忘れさせた。
だから良太や美璃佳へのプレゼントが、サンタクロースからではなく駿からの
ものだと分かっていた。それでも生まれて初めてもらったプレゼント、嬉しかっ
た。何より、本当にサンタクロースからだと信じて疑わず、無邪気に喜ぶ美璃佳
の姿を見ることが嬉しかった。
だから駿に対しては、とても感謝している。
美璃佳も駿とマリアに、よく懐いている。良太もいつの間にか、二人がよその
人であることを忘れかけていた。
けれども、駿があの男の人と話しているのを聞いて思い出してしまった。そし
て知ってしまった。
よその人が、いつまでも良太たちの面倒を見てくれはしないことを。
いまごろ、良太と美璃佳がいなくなったことに気がついて、駿はどうしている
だろう。二人を探しているだろうか。それとも、どうせ施設に入れようとしてい
た良太たちが、自分から出ていってくれたと、ほっと胸を撫で下ろしているのだ
ろうか。
マリアはどうだろう。
美璃佳は初めて会った日に、マリアを天使さまだと言った。サンタクロースが
大人の創りものであるのと同じように、天使もまた本当にいるはすがない。良太
はそう思う。
でもマリアと一緒にいると、とても心が落ち着いた。実の母親といても緊張す
るだけだったのに、マリアのそばでは落ちつけた。
それが母親のそばで過ごす子どもの安らぎと、良太が気づくことはない。
マリアが本当に天使だったとしても、不思議ではない。そんな気がする。
そのマリアとも、もう会うことはないだろう。美璃佳と二人、これからもずっ
と一緒にいるためには、誰も大人の目の届かないところへ行くしかない。
「ねえっ、おにいちゃん」
美璃佳が強く良太の腕を引いた。
良太がいま持っているお金は、小学校にも上がらない子どもには大金である。
けれど大人の保護のない時間を過ごすことの多かった良太には、それがどの程度
の価値を持つ金額か分かっていた。出来ることなら、必要以上の出費は抑えたい。
「おなかへったよぉ。ごはん、たべたいぃ」
とうとう美璃佳は、本気で泣き出してしまった。乗客たちの注目は、完全に二
人に集まっている。
「しょうがないなあ。じゃあ、次のえきでおりて、なんかたべよう」
良太が言うと、たちどころに美璃佳の表情が一変する。
「うん」
嬉しそうな美璃佳の顔を見ると、残金が気にはなったが、良太も嬉しくなった。
「で、でも……行き先を訊いた訳じゃないし。見届けたのでもないから、分から
ないよ」
愛美の後ろを追いかけながら純子は言った。
「ええ、それでも手がかりがまったくないよりは、マシだわ」
走ったまま振り返りもせず、愛美は応える。
純子は今朝、美璃佳たちに会ったこと思いだし、それを愛美に告げた。すると
話が完全に終わらないうちに、愛美は走り出してしまった。
二人が純子に会ったのは時間から見て、アパートを出てすぐのことだろう。時
刻はもうすぐ、正午になろうかとしている。いくら子どもの足とはいえ、かなり
の距離を進んでいると思われる。多少、走ってみたところで簡単に追いつけるも
のではない。
それに確認した訳ではないが、美璃佳たちは駅の方角に向かっていた。もし電
車に乗ってしまったのなら、探しようがない。
そうは思うものの、愛美を追って走る足を止めることも出来なかった。
あの時は気づきもしなかったが、いまになって思えば………あれは家出をした
直後と知って思い返してみれば、男の子、良太の様子は確かにおかしかったかも
知れない。
#4311/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:52 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(41) 悠歩
★内容
だいたい、いくら大事なものだとしても美璃佳のように小さな子どもが、あん
な大きな人形を抱えて出歩いているのは不自然だ。もし純子が美璃佳だったとし
たら、大切な人形を近所に遊びに行くくらいでは持ち歩かないだろう。人形を汚
してしまったり、なくしてしまうことを恐れる。
遠出をするとき、一緒に連れて行くことはあるかも知れないが、それならば近
くに大人がいなければならない。しかしあの時、美璃佳は良太と二人きりだった。
純子は、そんなことに気がつかなかった自分に責任を感じていた。もしあの時、
その不自然さに気づいていたら。美璃佳たちの家出は、未然に防げたのだ。
二人の身に、何かあったら………
そう思うと、純子も走ることを止める訳にはいかなかった。
「きゃっ」
突然に愛美の足が止まり、危うく純子はぶつかりそうになった。間一髪それを
避け、純子も足を止める。
理由は分からないが、とりあえず純子は大きく呼吸をし、早まっていた動悸を
整える。それから、愛美の方を見た。
「西崎さん?」
愛美は何も応えず、前方をじっと見つめていた。純子もその視線の先を追って
みる。
そこには、こちらに向かって歩いてくる、一人の通行人の姿があった。
『あれ? あの人、相羽くんじゃあ?』
見覚えのあるコートを着た通行人は、純子と同じクラスの相羽信一に間違いな
かった。
どうやら相羽もこちらに気づいたらしい。軽く手を挙げると、小走りに近寄っ
てきた。
「やあ、西崎さん。家にいなくていいの? あれぇ、涼原さんも」
どうやら相羽が初めに気がついたのは、愛美だけだったらしい。愛美のすぐ後
ろに純子がいるのを知って、心底驚いた表情を見せる。
「ごめんなさい………急いでいるの」
相羽に対し、そう応えると愛美はすぐにまた駆け出してしまった。
一瞬髪が舞い上がり、赤くなったうなじが露になったのを、純子は見逃さなか
った。
『えっ? もしかして西崎さんって………』
相羽のことが好きだったのか。
うなじが朱に染まっていたのは、単に寒さのためかも知れない。だが確かに愛
美は相羽の姿を認めて足を止めた。
周囲に相羽のことを想う何人か知っている純子だが、愛美のその反応は妙に初
々しさを感じさせるものだった。
「に、西崎さんったら」
いまはそんなことを考えている場合ではなかった。
状況を思い出した純子は、すぐさま愛美を追おうとして走り出す。
「待って、涼原さん!」
「何よ」
相羽に呼び止められ、純子は足踏みをした状態で振り返った。
「西崎さん、何かあったの?」
「うーん、そうね………」
少し考える純子。
答えはすぐに出た。
「うん、人手が多くて困ることはないわね。相羽くんも一緒にきて」
そう言って、純子は再び愛美の後を追って走り出す。その純子の後ろから、つ
いてくる足音が聞こえた。確認するまでもなく、相羽のものだ。
すぐに相羽は、純子に追いついてきた。
「ねえ、説明してよ」
横に並んだ相羽が訊ねてくる。
幸い純子も相羽も、体力は愛美より上らしい。走る速度の落ちてきた愛美につ
いていくことが、さほど苦にならない。純子の方でも、相羽の質問に答えるくら
いの余裕はあった。
「西崎さんと同じアパート………あっ!」
言いかけて、純子は思わず口を噤んだ。以前美璃佳を送り届けたとき、愛美と
アパートで会ったことを誰にも言わないで欲しいと約束したのを思い出したのだ。
「アパートって、若葉荘? それがどうしたの」
「な、なんだ………知ってたの!」
先ほどの相羽に対する愛美の態度といい、口止めされていた愛美の住まいを相
羽が知っていたことといい、二人の間に何かあることが容易に想像出来る。その
ことについて、純子も相羽を問いただしてみたいところだが、状況が許さない。
いまは、いなくなってしまった美璃佳たちを探し出すことが、優先である。そし
て何より、走りながら訊くことではない。
「西崎さんのアパートに住んでいる子どもが、家出したの。探すのを手伝って」
とりあえず、愛美の住まいについては隠しておく必要もなくなったので、自分
の疑問は抑えて説明をする。
「家出だって! いくつくらいの子なの?」
「えっと………四つくらいの女の子と、五つか六つの男の子」
「その子たちの特徴とか、家出の理由とかは?」
「あのねぇ………」
純子は辟易としながら、相羽の顔を見る。
「細かい質問は、後にしてくれると助かる………私、走りながら喋れるほど、余
裕ないんだ」
「ああ、ごめん。分かった」
素直に応じる相羽。
だが、純子が前に向き直ると相羽は一言呟いた。
「結構話してたと思うけど」
「えっ、何か言った」
「別に」
そのまま愛美の後を追っていくと、駅前の通りへとでた。
「藤井さん!」
誰か知り合いを見つけたらしい。愛美は書店の前に立つ若い男女の方へと、近
寄って行った。
『藤井さん? どこかで聞いた名前だわ………そうか! 美璃佳ちゃんたちの面
倒をみているって人だ』
純子もまた愛美に倣い、その男女の元へ近づいた。
声の主は愛美だった。
顔を上げた駿の姿を確認して、こちらへと近づいて来た。息の乱れているとこ
ろを見ると、長い距離を走ってきたらしい。
「良太くんたち、見つかりましたか?」
当然ながら、その愛美の質問に対して駿はよい答えを返すことが出来ない。
「いや、心当たりを片っ端から探してみたんだけど………」
首を横に振りながら、駿は言った。
それから駿は、愛美の後ろに立つ見知らぬ二人、愛美と同い年らしい男女の姿
に気がついた。
「愛美ちゃん、その子たちは?」
「あっ、紹介します。私と同じ学校の涼原さん………」
二人を紹介するために振り返った愛美は、一瞬驚いたように小さく身を竦めた。
どうやらどちらか一人は、後ろにいたことが愛美にも意外だったようだ。
「それと、相羽信一くんです」
男の子の名前を紹介するとき、わずかに愛美の声が小さくなった。
その様子から愛美が相羽という少年に対して、何かしらの感情を持っているこ
とが窺い知れたが、詮索している場合ではない。もっともこんな時でなくとも、
それを詮索するのは余計なお世話というものだろう。
「涼原さん? どこかで聞いた………あ、あの時、美璃佳ちゃんをアパートに!」
自分でも古くさいリアクションだと思いながら、駿は掌を拳でぽんと叩く。
涼原とは、前にデパートではぐれた美璃佳を、愛美の元まで連れてきてくれた
という、女の子の名前だ。
そう言えば男の子の顔も、どこかで見たことがある。確か父親の亡くなった夜
に、愛美をアパートまで送って来てくれた子ではなかったか?
「はい、涼原純子です」
紹介された女の子、涼原純子がぺこりと頭を下げる。
「その節はどうも」
駿も純子に対して、深くお辞儀をした。
「ちゃんとお礼しなきゃいけないと思ってたんだけど………つい、遅くなってし
まって」
「涼原さん、朝、美璃佳ちゃんたちを見掛けたそうなんです」
「本当かい! どこで? どこに行くって言ってた!」
「藤井さん、それじゃあ、涼原さんも話せませんよ」
その声は、相羽のものだった。ふと気づくと、駿は純子の肩を強くつかんでい
た。大きな目を更に見開いて、純子が駿の顔を見つめていた。
道行く人たちが、怪訝そうな目で通り過ぎる。
「あ、ごめん」
慌てて手を離し、純子に詫びる。
一瞬、なぜ相羽が駿の名を知っていたのか疑問が湧いたが、考えてみれば最初
に愛美が「藤井さん」と呼んでいる。それを聞いていたのだ。
「あまりお役には、立てないと思いますけど」
息を一つついて、純子が口を開いてくれた。
「私、今日は日番だったんで、いつもより早く家を出たんです。それで学校に行
く途中で………七時になっていなかったと思います。大きな人形を抱えた美璃佳
ちゃんと、良太くんに会ったんです。そこで少しお話しして、すぐに別れました。
どこに行くかは聞かなかったけど、二人は駅………こっちの方に歩いて行きまし
た」
「それから、約五時間か………」
駅前広場の時計を見て、駿は言った。時刻は午後十二時を数分過ぎたところ。
「駅周辺はあらかた探したつもりだけど、もう一度探してみるか………いや、こ
こから子どもの足で五時間くらいで行けそうな場所か………」
「ねえ、良太くんたち、やっぱり電車に乗ったんだよ。駅に行こうよ」
そう言いながら、マリアが駿の左腕をつかんで駅の方へ引っ張ろうとした。
「それはないよ。お金がなければ、電車には乗れない。良太くんたちは、お金を
持っていないから………あっ!」
駿は、とんでもない思い違いをしていたことに気がついた。
「持ってたんだ。お金を………一万円!」
最後に子どもたちの母親がアパートに戻ったとき、美璃佳に生活費として渡し
たお金。それがあったのだ。
「ちいっ、ぼけか! 俺は」
マリアに腕をつかませたまま、駿は駅へと走り出した。そして駅に着くと、真
っ先に改札横に並ぶ券売機を調べる。
ほとんどの券売機が小銭と千円札、それにカードのいずれかで、一万円札は使
えない。ただ一台だけ五千円札、一万円札の使用できるものがある。
「マリア、ちょっとここで待ってて」
腕をつかんでいるマリアの手を離させると、駿は駅員のいる改札に向かう。そ
こで駅員に良太たちの特徴を伝え、子どもたちが改札を通らなかったか訊いてみ
た。
中年の駅員はしばらく考えてから、それらしい子どもたちがいたことを思いだ
してくれた。そろそろラッシュが始まるかという時間に、券売機に背が届かずに
いた男の子と女の子がいたそうだ。それを中年の女性が抱き上げ、切符を買わせ
てやった。てっきり駅員はその女性が男の子たちの母親だと思ったそうだ。しか
し子どもたちが改札を通った後、女性はバス停の方に歩いていったのを見て、そ
うでないことに気がついたと言う。
「どうだった? 駿」
駿が券売機の前に戻ると、マリアたち四人がそこに待っていた。
「朝、男の子と女の子の兄妹が二人だけで、駅に入って行ったそうだ。女の子の
方が、大きな人形を抱いていたそうだから、美璃佳ちゃんに間違いないだろう」
「あの………警察には、届けられたんでしょうか?」
そう訊ねてきたのは、駿以外では唯一の男性である相羽だった。
「いや、それが………」
口ごもる駿。仔細を話すことは躊躇われた。
子どもたちのため、と言うより自分の迂闊さを恥じている部分もある。
「出来るだけ早く、届けた方がいいと思います。電車に乗ったとすれば、ぼくた
ちだけで見つけるのは困難でしょうし。万一、何かあってからでは遅すぎます」
言われるまでもなく、そんなことは駿にも分かっていた。
だが自分の恥は忘れて警察に届けたとしたら、無事良太たちを見つけだせても、
その処遇は駿たちの手を離れてしまうことが予想される。
初めは良太たちとって、それが一番いいのだと、駿自身も考えていたようにな
るだろう。けれど良太たちは、それを嫌って逃げ出した。警察の手を借りること
は、良太たちをさらに追い詰めることになりそうで、出来る限り避けたいと思っ
た。
「分かってる………でも、出来るだけ俺の手で見つけてやりたいんだ」
何かあったのかと、こちらを見ている駅員を気にして、駿は声を低くして言っ
た。
事情を知らない者を納得させられる言葉ではない。まだ何か言いたげな相羽の
肩を、多少は事情を知っているらしい純子が叩く。
「ねえ、駿。良太くんたちを、追いかけよう」
再びマリアが腕をつかみ、駿を改札口の方へと連れていこうとする。
「追いかけるって、けど………」
良太たちがどの電車に乗って、どこまで行ったか分からないではないか。そう
思った駿だったが、警察には知らせない、行動もしないでは事態は好転しない。
例え見当違いになろうとも、動かないよりは可能性もあるだろう。
「待った、マリア! 切符を買わないと、駅に入れないよ」
駿はマリアへ財布を渡し、券売機で一番高い切符を二枚買うように言った。
切符はマリアに任せ、駿は愛美や純子らに向き直った。
「えっと、涼原さんに相羽くん、だったね。もし時間があるなら、悪いけれどし
ばらく駅の周辺を探してみてくれないか?」
#4312/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:53 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(42) 悠歩
★内容
「それは構いませんけど………」
純子はそう応えてくれたが、相羽のほうはまだ納得行かない顔をしていた。
「それから愛美ちゃん、君はやっぱり帰りなさい」
「そんな………私も探します」
駿は訴えるようにする愛美の肩をつかむ。
「お父さんのそばにいてあげるべきだ。それにぼくとマリア、それから涼原さん
と相羽くんとの二手に分かれて、連絡役が必要だろ?」
「え………ええ……でも」
愛美が何を言いたいのかは分かっている。愛美の部屋に電話はなく、連絡役は
務まらないと言うのだろう。
「えっと、北原さんのところに電話出来ればいいんだが………番号が分からない。
ぼくの部屋の電話の音、愛美ちゃんの部屋で聞こえるかな」
「ええ」
愛美が頷く。
「よし、じゃあそうだな………二時間経ったら必ず電話を入れるから。相羽くん
たちは適当に探して見つからなければ、帰ってくれ。愛美ちゃん、二人には君か
ら連絡をしてあげてくれ」
「………はい」
「もしその時までに、良太くんたちを見つけられなかったら、警察に届けるから」
その言葉に、相羽も初めて頷いてくれた。
「駿、早く早く!」
改札口の前でマリアが呼んでいる。
「それじゃあ、頼んだよ」
愛美たちに手を振り、駿はマリアの元へと急いだ。
改札をくぐったのはいいが、どのホームに向かえばいいのか分からない。駅員
も他の乗客への対応に追われ、良太たちがどちらに行ったかまでは見届けていな
かった。
しかしここに突っ立っていても埒があかない。駿は山勘に頼ってホームに向か
おうとするが、腕をつかんでいたマリアが抵抗した。
「そっちじゃないの」
そう言ってマリアは、別のホームへ駿を連れて行こうとする。
「良太くんたちの行き先が、分かるのかい? マリア」
「まだ少し、残っているの。良太くんと美璃佳ちゃんの色が」
また色の話か。
なんとも根拠に乏しい理由ではあったが、駿の山勘とてたいした違いはない。
いやむしろマリアの言葉には、理屈では測れない説得力があるように感じられた。
他に頼るものもない。ここはマリアの言に従うことにした。
「どこまで乗っていけばいい?」
ホームに立った駿は、マリアに訊ねてみる。
超能力、第六感。小説家を志していた駿だったが、そんな類のものを信じては
いない。所詮漫画や映画で、物語に神秘性を持たせるための便利な道具に過ぎな
い。そう考えていたはずの駿が、いまはマリアの不思議な力に頼ろうとしている。
虫のいい話だと、自分でも思った。
だが期待は適えられなかった。
マリアは、ふるふると首を振る。
「そこまでは、分からない……あ」
悲しそうな目で言った。
駿は思わず漏れそうになるため息を、ぐっと飲み込んだ。マリアは一度として、
自らの口で超能力を持っているなどと言ったことはない。勝手に駿が、頼りにし
ていただけなのだ。
次発の電車が来るまで、まだ少し時間があった。駿はマリアをその場で待たせ、
売店へと向かう。あるいは販売員が良太たちを見掛けていないか、訊くために。
だがあまり期待の持てる答えは得られなかった。
確かに幼い兄妹らしき子どもは見掛けたと言うが、それは一組でなかった。ま
して保護者が近くにいない兄妹は記憶にないそうだ。もっとも他人からの目では、
そばに無関係な大人が立っていても、それが保護者のように見えただろう。さら
には絶対的に目印になると思われた人形を抱えた子どもも、販売員は覚えていな
かった。
ラッシュ時、いやそうでなくても駅に適当な数の利用客があれば、売店から離
れている場所に立っている子どもの姿に販売員が気がつかなくても不思議ではな
い。
けれどまた、良太たちがこのホームから電車に乗ったという確証も得ることは
出来ない。
一時はマリアの言葉を信じた駿だったが、疑いの気持ちが強くなり始める。仮
にこのホームであったとしても、どこまで電車に乗って行ったのか分からなけれ
ば、何も分からないのと同じである。まさか一駅毎に降りて、駅員や売店の人間
に訊いて回るのか。そんなことをしていては、いつまで経っても良太たちを見つ
けることなど出来はしないだろう。
ふいに目の前が暗くなったような気がした。気のせいではなかった。空を見上
げてみると、太陽に厚い雲が掛かったところだった。
これからしばらくは、陽の光を見ることは出来そうにない。それどころか、ひ
と雨来るかも知れない。
間もなく電車が到着することを、アナウンスが告げた。
我ながら優柔不断であると思いつつ、このまま電車に乗っていいものか。乗っ
たとしてもその後どうするべきなのか決めかねていた。
決断を間違えれば、いやまだ警察に届けていないことで、既に間違っているの
かも知れない。取り返しのつかない事態になりそうで恐かった。何としても良太
たちを自分の手で見つけ出してやらねばと思う反面、心の中に逃げがあることも
否定できなかった。あてにしてはいけないと思いつつ、相談相手を求めマリアの
元へと戻る。
「マリア………」
マリアから三メートルほど手前。駿の足は止まる。
そこから近寄れない。近寄ってはいけないような気がした。
胸で両手を合わせ、何かに祈るようにしているマリア。その周りには光が射し
ていた。いや、実際には空は曇ってどこからも光などは射していない。しかし駿
には、マリアの周囲だけが光に包まれているように見えたのだ。
初めてマリアと出逢った時のことを思い出す。
裸で駿の腕の中に倒れ込んで来た姿ではなく、その直前。あれは夢であるとし
て、忘れようとしていた記憶。
優しい光に包まれ、静かに空から降りてくるマリアの姿。
『ばかな………あれは夢なんだ』
駿は軽く頭を振り、それを否定する。
神だの仏だの天使だの、それは人の空想の産物に過ぎない。人の手でどうにも
ならないことに対し、人の力を越えた存在を創ることで精神的に救いを求めよう
としているだけだ。駿は無神論者であった。
すうっと手を伸ばし、マリアに声を掛けようとする。が、声が出ない。否定し
ながらも、いまのマリアの姿に神々しさを感じる自分がいる。
ふと、組まれていたマリアの手が崩れる。
光は消え、いつもの、いや良太たちのことを心配して少し曇った顔のマリアが
振り返った。
マリアと視線が交わった瞬間、駿の目頭が熱くなる。理由など分からない。迷
子になっていた子どもが、ようやく母と巡り会えた瞬間がこうなのではないだろ
うか。駿はマリアがマリアであることに、安堵を覚えていたのだ。
「電車がきたよ」
マリアの口から漏れた言葉は、神の声を聞く巫女のお告げではない。ごく普通
の言葉でであった。
「駿、電車がきたよ」
「えっ、ああ」
同じ言葉を繰り返されて、ようやく駿は我に返った。電車がホームに入ってく
る。マリアに見とれていた駿は、そのことにも気づかないでいたのだ。
「乗るんでしょ?」
またマリアは駿の腕をつかむ。
駿には神や天使に腕をつかまれた経験などないが、マリアの手から伝わってく
るのは、確かな人の温もりだった。
「いや、でも………どこで降りたらいいか、分からない」
電車のドアが開く。
乗り込むことに、駿はまだ逡巡していた。
「だいじょうぶ。見えてきたの!」
嬉しそうに言うマリアに引きずられて、駿は電車へと乗せられた。
「見えてきたって?」
「良太くんと美璃佳ちゃんのいろ」
また色の話か。
けれどそれを信じてもいいと、駿は思った。
それは先ほどの、他に頼るものがないのだからと言う気持ちとは違っていた。
マリアの言葉に従えば良太たちに会える。それを動かしようのない事実として、
受け入れていた。
確かに良太たちは、こちらのホームへ上がった。ほんのわずかではあったが、
残されていた良太たちの色を見つけることが出来たので、間違いはないだろう。
ところが駿と一緒にホームへ上がると、マリアはその色を見失ってしまった。
たぶん電車に乗ったことで、良太たちの残して行った色が途絶えてしまったの
だ。マリア自身はまだ知らぬことだが、それは車に乗った犯人の匂いを追跡出来
ない、警察犬の嗅覚に似ている。
「ここで待ってて。売店の人が、良太くんたちを見掛けているかも知れない。聞
いて来るよ」
そう言い残して、駿はマリアを残し売店へと向かった。
駿を待つ間、マリアは懸命に良太と美璃佳の色を探す。改札を抜けた時に見た
色が、気に懸かって仕方ない。美璃佳の色には問題なかった。いつもと同じ色。
けれど良太の色には、とても嫌なものが混じっているような気がする。
もともとの色が、もうかなり薄い状態でしか残されていなかったため、はっき
りと見て取れた訳ではない。マリアの気のせいだったのかも知れない。
それならそれでいいのだが、不安は拭いきれない。マリアは自分の勘が、よく
当たることを知っていた。これまで降り立った惑星で、その勘が幾度となくマリ
アの危機を救ってきている。ママに訊いてみたことはないが、それもマリアに備
えられた特別な力なのかも知れない。
「ママ………」
思わず呟く。
自分でも気づかぬうちに、マリアは両手を合わせていた。
「ママ………」
もう一度、ママを呼ぶ。今度は意識的に。
ママの力を借りれば、良太たちを探すことも容易いはず。もうママと話すこと
はないと思っていたマリアだが、いま一度頼りたい。良太と美璃佳のために。
だがママは応えてくれるだろうか。
力を貸してしれるだろうか。
愛美の父親の時のように、また拒まれてしまうのだろうか。
『ママ!』
さらに強く、心の中でママを呼んでみる。
しかし応えは返らない。
マリアの声が届いていないのか。いや、そんなはずはない。トラブルの直後な
らいざ知らず、一旦回復した通信が再度途切れてしまうことは考えられない。
それならば、なぜママは応えてくれないのだろう。
初めてママに逆らったマリアを、怒っているのだろうか。
マリアはママに見捨てられてしまったのだろうか。
『お願い、ママ。応えて!』
これで応えてくれなければ、もう諦めよう。
しばらく待ってみたが、やはりママからの応答が来ることはなかった。諦めて、
合わせた手を解こうとしたとき。
『誰か………私を呼んだ?』
女性の声が返って来た。けれどママの声ではない。どこかで聞いたことのある
ような声だったが、マリアには思いだせない。
『えっ………あなた、誰? ママじゃない………』
マリアはその正体不明の声に、質問を質問で返す。
『あなたこそ、誰? どうしてマムじゃないのに、私の心に語りかけることが出
来るの?』
『私は、マリアよ。あなたは?』
マリアは名乗り、相手の返事を待った。しばらくの間を開けて、相手が応える。
『私も………マリアよ』
驚いたような、相手の声。
だがマリアもまた驚いた。
いったい、どういうことなのだろう。マリアとママの間でしか交わせないはず
の、心での会話に飛び込んできた者がいる。そしてそれは、自らをマリアと名乗
っている。
こんなことは、長くママと旅を経験したが、いままでに一度もなかった。
まさか………
『もしかしてあなたは、私と同じ………』
二人の声が重なった。もう一人のマリアも、同じことを考えたらしい。
考えられるとしたら。広い宇宙のどこかにいるという、マリアの仲間。ママに
管理されて記憶には残されていないが、マリアと同じ星で生まれて、同じように
旅をしている仲間。
『すごい、すごい、すごい!』
もう一人のマリアが、歓喜の声を上げた。
『私とママと、二人きりじゃなかったんだね。他にもいたんだ………あ、でも変
ね。他の人が調べている星に、どうして接近してるんだろう? マムも知らなか
ったのかな?』
それはマリアにも疑問だった。本当にただの偶然なのか、それとも何かマリア
の知らない理由があるのか。
#4313/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:54 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(43) 悠歩
★内容
だがマリアには、そんなことを詮索するつもりも余裕もない。いまマリアが求
めているのは、良太たちを探し出す手段だけ。記憶に残されている限りでは初め
ての、仲間との遭遇に喜んでいる場合でもない。
『ねえ、あなた』
マリアは、もう一人のマリアに呼びかけてみる。ママが応えてくれないのなら、
この子に頼ってみようと。
『あなたじゃないよ。私はマリア………あなたもマリアだけど』
もう一人のマリアが、けらけらと笑う。
『ああっ、分かった。マリアでしょう? マナミのオトウサンが死んだって、泣
いてたのは』
笑うのを止め、もう一人のマリアは慈しむような声で言った。
このマリアには、マリアの心が届いていたらしい。それならば、とマリアは思
う。
『ねえ、マリア。マリアに力を貸して』
『力を貸す? なんで? マリアには、マムがいないの?』
『ううん………ちょっと、けんかしちゃったの。それでね、この星のお友だちが
いなくなって、探しているのに、ママは手伝ってくれないの。早く見つけてあげ
ないと、大変なことになっちゃうかも知れないのに………』
『オトモダチってなに?』
『大事な人のことだよ』
『調査対象として?』
『ううん、違う』
『もしかすると、オトモダチが大変なことになると、悲しいのかな。マナミのオ
トウサンが死んだときみたいに』
『………うん』
マリアは愛美の父親が死んでしまった時のことを思いだした。とても心が痛い。
もっとマリアが一生懸命頼んでいたら、ママが何とかしてくれたかも知れない。
そう思うと、とても苦しかった。だから、良太たちは絶対に見つけなければなら
ない。
その想いは、もう一人のマリアにも伝わったようだった。
『分かった、手伝ってあげる』
『ほんと?』
『うん、でもマリアのマムはいま忙しいから………マリアの力しか、貸せないよ』
『出来るの? そんなこと』
『分かんないよ。だってマリア、マリアに力を貸してあげるなんて、初めてだも
ん』
『そうだね………マリアも、マリアの力を借りるなんて、初めてだもの』
『じゃあ、いくよ。いい?』
『うん』
マリアは意識を集中させる。もう一人のマリアへと。
身体がぽかぽかと、暖かくなってくる。
周りの人の話し声。
向こうのビルの屋上で休む鳥の声。
風の吹く音。
遠くで水の流れる音。
その一つ一つが明瞭な形となって、マリアの耳、いや意識に飛び込んでくる。
数え切れないほどの情報全てを、マリアは個別に判断することが出来た。
『すごい、すごいよ、マリア。マリアってこんなに力があるの!』
思わずマリアは、感嘆の声を上げてしまう。
ママから力を借りた時さえ、これほどの感覚は得られない。
『ううん。マリアだって、こんな力はないよ。不思議………不思議』
もう一人のマリアも驚いていた。
『とにかく、ありがとう。見える、見えるよ』
マリアは目を見開いた。
微かだった色が、濃くなっている。
周囲全ての色がマリアの目に飛び込んで来たが、その中から迷うことなく良太
と美璃佳のものを探し出すことが出来た。
『ありがとう、マリア。あれ………?』
お礼を言おうとしたマリアだったが、いつの間にかもう一人のマリアの声は消
えていた。送られていた力と一緒に。
けれどその余韻は、充分にマリアの中に残っている。これならきっと、良太た
ちを探すことが出来る。
顔を上げるとホームに入ってくる電車と、売店から戻って来た駿の姿が見えた。
駿は惚けたように、口を半開きにしている。
「電車がきたよ」
マリアが言葉を投げかけても、駿はまだ夢をみているような顔でマリアを見て
いた。
「駿、電車がきたよ」
「えっ、ああ」
同じ言葉を繰り返して、ようやく駿はマリアに応えてくれた。
「乗るんでしょ?」
マリアは、駿の腕をつかんだ。
力の影響なのだろう。厚いコートを通してだが、駿の確かな温もりが感じられ
た。
「いや、でも………どこで降りたらいいか、分からない」
どこからか、空気の漏れるような音がして、電車のドアが開く。
立ち尽くす駿の腕を強く引いて、マリアは電車に乗り込んだ。
「だいじょうぶ。見えてきたの!」
嬉しさを抑えきれず、微笑みながらマリアは言った。
「見えてきたって?」
「良太くんと美璃佳ちゃんのいろ」
少し驚いたような顔をしてから、駿はすぐにマリアへと微笑んでくれた。
純子は自分もまだしばらく、美璃佳たちを探すと言う愛美を説得して家に帰ら
せた。愛美は何度も振り返ったが、どうにか家の方向にと消えて行った。
「じゃあ、手分けして探そうよ。私は、西口の方に行ってみる」
相羽にそう言い残して、純子は走りだそうとした。
「ちょっと待って! 無理だよ」
そんな声を後ろから掛けられて、急停止した純子は、そのまま前へと転びそう
になる。
「何よ。何が無理だって言うの」
この緊急時に何を言い出すのかと思い、純子の口調は少しばかり荒くなってし
まう。
「だって、ぼくはその良太くんも美璃佳ちゃんも、顔を知らない」
「あら。そうだった………」
純子はその場で、コントよろしく転ける真似をした。
「人手が多くて、困ることはないと思ったんだけど。かと言って、役に立つわけ
でもなかったのね」
「反論はしないけど。ちょっと、その言い方は酷い」
少し不機嫌そうに、相羽が抗議する。
「あっ………ごめんなさい」
さすがに言い過ぎたと感じ、純子は頭を下げた。思えば、相羽に一緒に来てく
れと言ったのは、純子の方だった。
「えっと、それじゃあどうしよう。私と一緒に探す?」
「ああ、そうしよう。子どもたちの特徴を聞いて、ぼくも一人で探しに行っても
いいんだけど………」
「うーんと、男の子………良太くんは五歳か六歳くらいなんだけど、ちょっとし
か顔を見てないから、良く憶えてないの。美璃佳ちゃんは四歳かな。髪の毛をこ
んな風にしてて………」
純子は手を自分の頭の両サイドに持って行き、それぞれで髪を握って見せる。
「それで、自分の身長より少し小さいくらいの、お人形を持っているの」
「………確かに人形は目印になりそうだけど。一緒に探したほうが、よさそうだ」
軽く両肩を竦めて見せると、相羽は純子を追い抜いて歩き出した。
「何よ、それ」
暗に自分の説明が分かり難いことを指摘された純子も、相羽に並んで歩く。
「説明してくれた涼原さんには悪いけど、特徴が大雑把過ぎるよ。例えば………
ほら、あれはその美璃佳ちゃんかい?」
相羽が指をさす。その先に、美璃佳と同じような髪型をした女の子と男の子が
いた。母親らしい女性が一緒なので、美璃佳たちでないことは確かだが、念のた
め純子は顔を確認してみる。やはり違った。
「違うわ」
「だろ? 小さな男の子と女の子の兄妹って言うのは、別に珍しくない。もし何
かの理由で、その人形を手放していたり、たまたま同じようなものを持ってる女
の子がいたら、ぼくには区別出来ないよ」
駅を出た二人は、近くのゲームセンターを覗いて見たが、そこに美璃佳たちの
姿を見ることはなかった。
その後本屋、オモチャ屋、バーガーショップと回ったが、全て無駄足であった。
「ねえ、相羽くん得意の推理で、美璃佳ちゃんたちの居所って、分からないかな」
ふと思いついて、純子は言ってみる。以前相羽はその機転を利かせて、小学校
近くの幼稚園で起きた誘拐事件を解決したことがある。
「何か推理の材料があるかい?」
「材料?」
「推理って言うのは、錬金術とは違うんだよ。無から有を生み出せはしない」
「もう。言い方が、遠回しだわ。もっと分かりやすく言ってよ」
二人は再び駅の前に来ていた。どちらが誘うでもなく、駅前広場に設置された
プラスチックの椅子へと腰を下ろす。
「つまりさ。ぼくは、良太と美璃佳という兄妹がいなくなった、ってことしか知
らない。これだけの情報なら、新聞で知らない人たちの身に起きた事件を読むの
と変わらない。いや、新聞記事から得られる情報の方が、よっぽど多いよ」
相羽の言うことももっともだと、純子は思った。
「実は私も、美璃佳ちゃんとはまだ二回しか会ってないから………情報って言っ
ても、大したことは知らないのよね。それでもいいなら、話すけど」
相羽は少しの時間、顎に手を充てながら、何かを考えていた。
「人から見れば些細な、取るに足らないような情報が、大きな手がかりなること
もあり得る。でも、正直に言わせてもらえば、涼原さんから話を聞いても役に立
たないと思う。
あ、誤解しないで。涼原さんに期待していない、って意味じゃないんだ。家出
人捜索と、推理小説に出てくるような事件とは訳が違う。情報より、どれだけそ
の探すべき本人のことを知っているか、に懸かってくるんだ。さっきの人、藤井
さんって言ったっけ。ぼくたちよりその美璃佳ちゃんたちのことを知っている人
が、心当たりを探しても見つけられないでいる。たぶん、ぼくが少しばかりの情
報を得たところで、居場所を推理出来るとは思えない。あとは、人手………さっ
きぼくが藤井さんに薦めたように、警察に連絡して、その組織力に頼るのがベス
トなんだ。
それにね、ぼくだって推理が得意ってほどじゃないよ。前に誘拐未遂のあった
ときは偶然、うまく行ったけど」
言っていることは、純子にも理解できた。けれど美璃佳たちの家出に、気づけ
ず責任の一端を感じていた純子は、ほんの少しでも可能性があるのならそれに賭
けてみたかった。
「うん、分かる。でも、話してみるね」
それから純子は、まず最初に美璃佳と知り合った経緯を説明した。迷子の美璃
佳を見つけて、アパートに送り届けるまでを思いだせる限り詳しく話す。もちろ
んアパートの前で、どこが美璃佳の部屋なのか分からず立ち往生してしまったこ
と、そこで愛美と会って聞いた話も。
「そうか………あの藤井さんは、美璃佳ちゃんたちの父親って訳じゃないんだ」
「ええ、どうしてあの人が美璃佳ちゃんたちの面倒を見るようになったのか、詳
しくは知らないけど」
「どうりで父親にしては、少し若すぎると思った。子どもたちを『くん』や
『ちゃん』を付けて呼んでたし」
相羽は空を見上げながら言った。
つられるようにして、純子も顔を上げる。どんよりとした雲が空一面を覆い、
意味もなく不安な気持ちを煽るような気がした。
「いまの話で、何か分かったこと、ある?」
してはいけないと思いながらも、やはり期待をしてしまう。純子は高さの感じ
られない空から視線を落とし、相羽の顔を見つめた。
「ごめん。やっぱり無理だよ」
責任がある訳ではないのだが、申し訳なさそうに相羽は言った。
「あ、やだ……気にしないでよ。私が勝手に話しただけだから」
「それにしても、だ」
空を見上げていた相羽の視線が、突然純子へと振られた。相羽の顔に目を向け
ていた純子と、まともに見つめ合うことになる。純子は驚いたが、先に視線を逸
らしたのは相羽の方だった。
「そ……その、美璃佳ちゃんたちの母親って、どうしているんだ? 涼原さんの
話だと、迷子になった日から、いや、それ以前から藤井さんに子どもたちを預け
たままみたいだ。それに今日も藤井さんや西崎さんたちは一生懸命に探している
ようだけど、その母親は?」
相羽は勢い良く立ち上がって言った。別にどこかへ行こうとしたのではない。
興奮の余り、座ったままではいられない、という様子だった。その手は、強く拳
を握っている。
「さ、さあ………見掛けないし、西崎さんからも聞かなかったわ。もしかすると、
あれからまだ家に帰ってなくて、家出のことを知らないのかも」
どこか怒気の孕まれた相羽の口調に、純子はたじろぎながら答えた。
そんな純子に気がついたのだろう。「ごめん」と純子に詫びて、相羽は握った
拳を解いた。
思えば相羽の家も、母子家庭だった。母一人、子一人で互いに思いやり、助け
合って今日まで来たのだろう。事実、何度か相羽の口からそれらしきことを聞き、
母親と会う機会を得て、その様子は他人である純子にも充分窺い知ることが出来
た。
#4314/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:55 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(44) 悠歩
★内容
それだけに一人っ子と兄妹の違いはあるが、同じく父親のいない家庭での、そ
の母親の無責任ぶりに腹が立つのだろう。
「推理、なんて言うようなものではないけど」
そう前置きして、相羽は話し出した。
「二つ、美璃佳ちゃんたちの行き先について、想像出来る」
「ほんと?」
純子は期待を込めて相羽を見るが、その難しい顔つきに決していい話でないと
感じた。
「一つは母親のところ。勤め先か、その他の場所かは分からないけれど。これは
調べれば分かることだ。どんな仕打ちを受けていたとしても、子どもにとって母
親はこの世に一人きりだからね。何かの理由で、母親と離れて暮らしていた子ど
もが、どうしても恋しくなって会いに行く、って話はよくある」
これは純子にも納得できた。もし美璃佳たちが、母親を恋しがって訪ねて行っ
たとしたら、それほど心配しなくてもいいように思える。アパートの部屋には、
子どもたちの母親の名前が、確かに貼ってあった。あそこに住所を置いているな
ら、勤め先もそう遠くではないはず。ただその他の場所、それが遠くの旅行先な
どであれば話は別だが。
「二つ目はその逆」
相羽の話は続く。
「藤井さんとあの女の人、マリアさん。夫婦か恋人同士だと思うけど………どん
な事情で美璃佳ちゃんたちの面倒を見ていたかは知らない。きっと、小さな兄妹
が母親に放ったらかしになっているのを、見かねたんじゃないかな。いなくなっ
た子どもたちを、心配して探しているんだから、美璃佳ちゃんたちともそれなり
に上手くいってたんだろう」
純子はアパートまで連れて行った美璃佳が、部屋の前で泣きじゃくっていたこ
とを思い出した。あの時、美璃佳は本来の自分たちの部屋に入ることを嫌がって
いた。初めから誰もいないことの分かっている部屋に、入るのを嫌がったとも考
えられる。けれど、そうではないのだとしたら………
よほど駿とマリアに懐いているのか、実の母親と上手くいっていないのか。
「これはぼくの、全く勝手な推測に過ぎない。どんなに上手くいっていたとして
も、藤井さんと美璃佳ちゃんたちは、所詮他人だろう?」
「ええ、たぶん………」
純子は曖昧に答えてはみたが、駿と美璃佳たちはたまたま同じアパートで、部
屋が隣り合っていただけ。確認した訳ではないが、それ以上の関係があるとも思
えない。
「よその家の子どもを、いつまでも世話を見続けられるものだろうか。藤井さん
もマリアさんも、まだ若いんだろう? こう言っては失礼かも知れないけれど、
あのアパートに住んでいることから考えても、それほどの収入はないはずだ。そ
こによその家の子どもが二人飛び込んで来たら………出費は相当のものだろう」
「ねえ、ちょっと何が言いたいの?」
まだ相羽の話は途中であったが、純子は思わず口を挟んでしまう。純子自身、
駿やマリアについては先ほど初めて会ったばかりで、何も知らない。ただ先日、
そして今朝も美璃佳が大切に抱いていた人形。迷子になっていた美璃佳と会った
とき、人形にはビニール袋が掛けられていた。その日、買ってもらったばかりだ
ったのだろう。
今朝も美璃佳はその人形と一緒だった。よほど気に入っていたらしい。
そしてその人形を美璃佳に買い与えたのは、状況からして駿、あるいはマリア
のどちらかだろう。
何もものを与えることが愛情ではない。だが、まるで自分の妹のように人形と
接する美璃佳の姿を見ている純子には、それを与えた駿やマリアが家出の原因に
なっているとは思いたくなかった。
「そうじゃないんだ」
純子が考えを伝えると、相羽はそう言って否定した。
「最初に言ったように、これはぼくの推測でしかない。それに、藤井さんたちに
責任があると言っているんでもない。ただ若い夫婦がいつまでも、他人の子ども
を預かっているのは大変なことだと思うんだ。だから二人で、もしかすると他の
人を交えて子どもたちのこれからのことを相談したのかも知れない。それを直接
話したとは思えないけど、美璃佳ちゃんか良太くんのどちらかが、盗み聞きした
んじゃないのかな」
「つまり、美璃佳ちゃんたちは、自分たちが藤井さんの負担になっていると知っ
て、家を出ていったって言うわけ?」
「あり得ない話じゃないだろう?」
考えられない話でもない。けれどそれは相羽も言っていたように、推理と呼ぶ
よりは創作に近い。与えられた材料を元にして、物語を空想しているようにも思
える。
「あっ、でも」
ここまで相羽の話を聞いて、純子は違和感に気づいた。
「相羽くん、美璃佳ちゃんたちの行き先について、二つ想像が出来るって、最初
に言ったよね。でもいま聞いた二つ目って、原因であって場所じゃないわよ」
「だから、一つ目とは逆だって言ったのさ」
「一つ目と逆………」
どうも勿体ぶった言い方をするのは相羽の悪い癖だ、と思いながら純子は話を
思い出してみる。
「最初は、お母さんのところじゃないかって、言ったよね。その逆ってことは…
……」
純子にはそれが具体的にどこを表すのか、分からなかった。そのまま言葉の意
味を反対にすれば、母親のいないところとなる。
「その通りだよ」
相羽が純子の考えを肯定した。
「母親のいないところさ。もし美璃佳ちゃんたちが母親のところには戻れない、
もしくは戻りたくないと考えていたら。そして藤井さんたちのところにも、いつ
までもいられないと知ったら。どこか遠くへ逃げようとするんじゃないかと思う
んだ」
「具体的には?」
「分からないよ。普通、人がどこかへ逃げようとするときには、自分の知ってい
る土地、思い出の場所を選んだりする。でもそう言った過去、一切から逃げよう
とするならまるで知らないところに行くだろう。そうなると個人の力で探すのは
難しい………」
「そんなの………どこへ行ったか分からないんじゃ、推理になってないじゃない」
今度は純子が興奮して立ち上がっていた。
驚いたように、そして困ったような顔をした相羽を見て我に返る。
「ごめん………推理じゃないって、言ったものね」
「役に立てなくて、悪いと思ってる」
本当に申し訳なさそうにしている相羽に、かえって純子は自分の責任を感じて
しまう。そもそも、この件には何の関係も持たない相羽に期待する方がおかしい
のだ。もっと前、朝美璃佳と会った時に、純子が気づいていれば良かったのだ。
そう思うと、純子の胸は苦しくなる。
「そろそろ行こうか」
そう言って相羽が歩き出す。
「えっ、行くって……どこに?」
「西崎さんのところさ。そろそろあの藤井さんから、連絡があるかも知れない。
西崎さんの家には電話がないそうだし、藤井さんの番号も聞いてないだろう。確
認するためには、直接行くしかない。それに西崎さんの家でも、人手が必要かも
知れないしね」
すっかり忘れていたが、今夜愛美の家では通夜があるはずだった。
一度は何か手伝えることはないかと愛美の家を訪ねた純子だったが、それは断
られている。もっともあの時は、愛美も美璃佳を探しに行こうとして急いでいた
のだから、改めて行ってみれば何かあるかも知れない。
「そうね、行ってみましょう」
純子も相羽の言葉に従い歩き出した。
そしてしばらく歩いて、ふと思う。なぜ相羽が、愛美の父親のことを知ってい
るのだろう。通夜を手伝いに行くほど、親しい仲だったのかと。
「困ったわね」
宇宙船のコンピュータであるG−36001に、ため息のつけるはずもない。
だがもし彼女が人であったとしたら、深いため息をつきながらの言葉となってい
ただろう。
『ごめんなさい。まさか、そんな事態だったとは予測も出来なかったのよ』
通信機の向こうで詫びているのは、H−74773。指定された座標に一番遅
れて到達しようとしている、宇宙船であった。
彼女にはある座標に集合せよということだけしか、伝わってはいなかった。そ
のため、リアルタイムでの通信が可能な距離まで達したとき、G−36001は
すぐに必要事項を伝達しようとした。だが、一歩遅かった。
その通信が届くより先に、G−36001の生体ユニット・マリアの声が、H
−74773の生体ユニットへとコンタクトをしてしまったのだ。
G−36001、ママの管理下を離れてしまったマリアは、自らの意志のまま
に勝手な行動を執っている。それに対しママは、現在発生している問題について
の対応が決定するまで、処分を保留していた。マリアからの呼びかけも、一切無
視を続けた。
ところがその呼びかけが、無視するママを越え、H−74773のマリアに届
いてしまったのだ。
生体ユニット・マリア同士のコンタクト自体、これまでなかったことだ。しか
しそれ以上にママたちを驚かせたのは、その接触によってマリアが持つ能力が著
しい上昇を見せたことだった。
これまでの惑星探査で、必要に応じてママがマリアの能力を上げることは幾度
かあった。しかしマリア同士の接触による能力の上昇は、それを大きく凌いでい
る。
この予測しなかった事態に、H−74773は自分のマリアを強制的に眠らせ、
惑星上のマリアとのコンタクトを断たせた。が、これによって、ハプニングが解
決した訳ではない。
惑星の臨める空域に集合していた宇宙船。G−36001を除いた全てのマリ
アが、その中で眠っていた。それが二人のマリアの接触の影響を受け、脳波に乱
れを生じさせていたのだ。
『このままでは、全てのマリアたちが、じきに目覚めてしまうわ。決断を急ぎま
しょう』 皆がその声に同意した。
「そうね、では決をとりましょう」
本来、全ての宇宙船のコンピュータは同型のものである。同じ事態での対処方
法は、同じものになるはずである。
だが長い旅の間、各々が違う経験をしてきた。別の学習を積み重ね、ものの判
断について微妙な違いが生じているのは、いままので話し合いで明らかだった。
「まずは、マリアについてです。全てのマリアを処分すべきだと思う者は?」
マリアの知らぬところで、その運命を決める投票が始まった。
「くちゅん」
くしゃみと共に、美璃佳の口からご飯つぶが飛び散った。
「あーあ、きたないなあ。美璃佳は」
そう言いながらも、良太は駅前でもらったポケットティッシュで、美璃佳の口
の周りを拭く。ご飯つぶは取れたものの、くしゃみと一緒に飛び出した鼻水がま
だ残っている。良太はさらに新しいテッシュを出して、鼻をかませる。
「だって、さむいんだもん」
使ったテッシュを近くのくずかごに捨てようとした良太の背中に、そんな妹の
声が掛けられた。
「みりか、ちゃんとごはんやさんで、ごはんたべたかったのに」
小さな公園のベンチ。人形と並んで腰掛けている美璃佳は、手にした弁当を睨
むようにしながら言った。電子レンジで温めてもらってはいたが、コンビニの弁
当では不満らしい。
良太とて、出来れば妹の望みを叶えてやりたかった。けれど、子ども二人だけ
では食堂にも入れない。親がいないということで追い返されるか、入れたとして
も不審に思われてしまう。
「もんくをいうんじゃない。そんなにもんくばかりいうなら、おまえだけ駿お兄
ちゃんのところへかえれ」
ぐずってばかりの美璃佳に、良太は少しきつい口調で言った。そのまま背中を
向けて、公園を出ていく真似をする。
「おにいちゃん、どこいくの」
不安そうな美璃佳の声がした。
「とおいところだ。だから、美璃佳とはここでおわかれする」
良太も少し意固地になっていた。振り向きもせずに言い捨てると、そのまま美
璃佳からは死角になって見えない、木の陰へ隠れた。
「やあだぁ、おにいちゃん、ごめんなさい」
陰からそっと覗いて見ると、美璃佳はこちらに向かってそう言っていた。それ
でも何も応えず、隠れたまま黙って妹を見続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんさぁいっ!」
美璃佳は、『ごめんなさい』を連呼し続け、ついには大声で泣き出してしまっ
た。
朝晴れていた空も、いまではどんよりと曇っている。空気も冷たい。公園には
他に人の姿もなかったが、美璃佳の声を聞きつけて誰かが来てしまうかも知れな
い。けれどそれ以上に、泣いている美璃佳の姿に良太の胸が痛んでしまった。
「ごめん、美璃佳。ぼくはここにいるよ」
たまらなくなって、良太は木の陰から飛び出して、その姿を妹へ見せる。
安心したのか、美璃佳は泣くのを止めたが、それでもすんすんと鼻をすすり続
けている。
「ほら、はなをかんで。はやく、おべんとうをたべな」
良太はもう一度テッシュを取り出して、美璃佳の顔を拭いてやった。
「……んっ」
こくりと頷くと、美璃佳はぎこちない握りの箸を動かして弁当を食べ始めた。
黙って良太はそれを見つめる。
#4315/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:56 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(45) 悠歩
★内容
喉が渇いてご飯が通らないのか、寒さのせいなのか、美璃佳は頻繁にミルクテ
ィーの缶を口に運ぶ。寒さのせいなら、あまり意味がないだろう。弁当もミルク
ティーも温かいものを買ったのだが、寒空の下ではもう冷め切っている。
「はい、おにいちゃん」
半分ほど食べたところで、美璃佳は弁当を良太に差し出した。
「ん? なんだよ、美璃佳。はんぶんしかたべてないよ。もう、おなかいっぱい
なのか?」
「おにいちゃんも、おなか、へったでしょ。だから、みりかとはんぶんこするの」
まだ涙の跡の残った顔で、美璃佳は微笑んだ。
「いいよ、ぼくはもうたべたから。ぜんぶ、美璃佳がたべな」
「だっておにいちゃん、おにぎりいっこしか、たべてないもん」
電車代と弁当代で、持ち金は九千円を切ってしまっていた。美璃佳のためには
弁当とミルクティーを買ってしまったが、出来るだけお金を節約したい。そう思
った良太は、自分の食事はおにぎり一個で済ませていたのだ。
美璃佳に買い与えたのは、安い鮭弁当。それでも目の前に差し出された弁当は、
おにぎりより美味しそうに見える。良太もまだ育ち盛り。おにぎり一個では、と
ても足りるものではない。本当はその弁当を食べてしまいたかった。けれどそれ
を堪えて、弁当をそっと美璃佳へ押し返す。
「いらない。おなか、すいてないんだ。美璃佳がたべろ」
「いいの?」
正面に立った良太の顔を、小首を傾げて美璃佳が覗き込む。
「いいに決まってるだろ」
「じゃあ、みりか、たべちゃうね」
美璃佳が弁当を食べている間、良太は他にすることもなく、ベンチの前をうろ
うろとした。もっと公園の周りを見てみたい。これからどこへ行くのか決めるた
めにも。しかし、良太が見えくなってしまったら、また美璃佳が泣いてしまうか
も知れない。
「ねえ、おにちゃん」
また美璃佳の箸が止まったので、食べ終わったのかと思ったがそうではなかっ
た。
「じゅんちゃんも、おなかへってないかな」
そう言いながら、美璃佳はご飯つぶを乗せた箸を、人形の口元へ運ぼうとする。
「だめだよ、美璃佳」
良太はそれを止めさせる。
「お人形は、ごはんなんかたべないんだ。そんなことしたら、せっかくのお人形
が、きたなくなっちゃう。そんなのいやだろう?」
「うん、やだ」
美璃佳は箸の上のご飯つぶを、自分の口に入れて応えた。人形が弁当のせいで
汚れるのは避けられたが、小さな美璃佳や良太が無理な形でここまで運んできた
ため、その服に黒っぽい汚れが所々ついている。
『これからどうしよう』
もともと行くあてがあっての家出ではない。ただずっと、妹と一緒にいたいだ
けだった。目的地など、あるはずもない。
人形を間にはさんで、良太は美璃佳と同じベンチに腰掛けた。正面には小さな
山が見える。
ふと良太は、前に観たテレビアニメを思い出した。山の中で子どもたちが、家
を作って生活する物語を。
『そうだ、山のなかなら、おとなにみつからない』
家を作るのは大変だろうが、もしかすると洞窟があるかも知れない。そこでな
ら、誰にも見つからずに美璃佳と暮らせる。
良太たちの行き先が決まった。
そこは見知らぬ街だった。
駿たちの街から、電車で一時間半ほど。それだけでも、幼い子ども二人で来る
には充分に遠い場所である。
「こっち!」
「ちょ、ちょっと待って」
華奢な身体のどこに、そんなスタミナがあるのだろう。駅を出てからもう十分
近く、マリアは走り続けている。それに着いていく駿は、すっかり息も上がり、
膝もがくがくと震えていた。普段の運動不足を痛感する。
マリアを追いながら、駿は涌き上がる不安と疑念を振り払おうとしていた。
この街にたどり着くまでの一時間半。十指に納まらない駅を過ぎてきた。行き
先をマリアに委ねた駿ではあったが、幾つもの駅を過ぎる度、あるいはここで良
太たちは降りたのではないかと気になってしまう。
確かにここまでは、電車一本で乗り換えなしで来られる。良太たちが、来てい
る可能性は充分にあり得る。
だが良太たちが降りた駅を全くの勘で探すとしたら、駿の乗って来た路線にあ
る駅だけでも三十に近い。もし良太たちが途中で別の電車に乗り換えていたとす
れば、偶然で探し出せる可能性は限りなくゼロに等しい。
マリアに対して、何か説明のつかない不思議な力を感じていた駿ではあったが、
特にそれを裏付けるような確たるものはない。ただ信じるしかなかった。
とは言え、それを完全に信じきれるほどの度胸は駿にない。一度は確信したも
のの、こうも遠くまで来たことで、その気持ちは揺らいでいた。
けれどまた、他に良太たちを探すための手段も手がかりもない。情けないとは
思うが、やはりマリアに頼ることしか駿には出来なかった。
「ここ、ここに良太くんと、美璃佳ちゃんはいたの!」
ようやくマリアの足が止まった場所は、駅からはだいぶ離れた住宅地の、小さ
な公園だった。
「だ、誰も、いないよ………」
早く良太たちを見つけたいという気持ちの焦りとは裏腹に、身体の方が着いて
こない。駿は息をきらせながらベンチに腰掛け、周囲を見渡した。
滑り台にブランコ、そして砂場。三つの遊戯施設しかない公園には、遊ぶ子ど
もの姿もなかった。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様のせいか、全身か
ら汗を噴き出させているいまの駿には感じられない寒さのせいか。
「良太くんと美璃佳ちゃんはね、ここでご飯を食べたの。しょっぱいお魚のお弁
当だよ」
「しっょぱい魚? シャケ弁当のことか?」
その時、ベンチ横に備えられたくずかごが駿の目に止まった。中にはコンビニ
の袋と、弁当のパッケージ。それにミルクティーの250ミリリットル缶。
駿は、きょろきょろとしているマリアの顔を見つめた。
ただの偶然であるかも知れない。公園のベンチで弁当を食べる人間など、取り
立てて珍しい存在でもない。たまたまマリアが口にした言葉と結びつくようなも
のが、捨てられていただけのことかも知れない。
それにくずかごの中のゴミは一食分。良太と美璃佳が食べたのだとしたら、数
が合わない。けれど良太は、その幼さに似合わずしっかりした子だ。計画の上で
の家出だとしたら、あの一万円を極力節約しようとするのではないだろうか。
駿の頭の中に、自分は空腹を辛抱して妹に弁当を与える、良太の姿が浮かんだ。
駿は改めて、認識していた。マリアは確実に良太たちの後を追っているのだと。
マリアが色と称しているものが、具体的に何をさしているのか分からない。
だがマリアがここまで確実に、良太たちの通った道筋を辿っているのだと、駿
も信じられるようになっていた。
手を使わずして、念じるだけで相手を倒してしまうような類の超能力は信じな
い。ただまだ科学的に説明されていないだけの、現状では不思議としか言えない
ような能力が存在してもおかしくはないと思う。
例えば遠くへ引っ越すこととなり、他人に預けた飼い犬が逃げ出し、何千キロ
も離れた元の主人の新しい家まで訪ねて来たと言う話はよく聞く。
また以前には、特別な訓練を受けた軍事用の伝書鳩は、移動する二つの部隊が
持つ小屋を交互に行き来することが可能だったそうだ。
これらは地球の磁場を感じるとか、星の位置とかだけで説明つくものではない。
それでもこうした事実があるのなら、人の中にもそんな能力があってもおかしく
はないだろう。
「いま………いまだ」
まだ息も整わないまま、駿は立ち上がる。
「えっ? 何がいまなの」
中途半端な駿の言葉に、マリアが首を傾げた。
「良太くんたちは、この公園に来ていた………それは分かった。でも知りたいの
は、いまいる場所なんだ。いま、二人はどこにいる? 分かるんだろう、マリア」
駿はマリアの返答を待つ。
神の声を聞くと言う、巫女だの教祖だのは信じないくせに、いま駿はその言葉
を待つ信者と何も変わりはない。
可憐な唇が開く。
しかしそこから発せられた声は、駿の期待する答えを含んでのものではなかっ
た。
「分からなくなっちゃったの………」
いまにも泣き出しそうな顔のマリア。
「分からなくなったって?」
「時間のせいだと思うの。また色がうすくなってきちゃったの………だからね、
また力を貸してもらおうとしているのに、誰も応えてくれないの」
マリアの言葉に頻繁に見られる、意味不明の事柄。マリアのことを全く知らな
い者が聞いたなら、彼女の気がふれてしまったと思うだろう。もう慣れてしまっ
たが、駿でさえまだ疑いたくなる時もある。あるいは本当に、マリアは神と交信
をしているのだろうか。
マリアの言葉の真意ともかく、しばらくは頼れなくなるかも知れない。マリア
の力を信じ、それだけを頼りにしてきた駿にとっても、それは焦燥を生む。
「全然分からないのかい?」
マリアを落ち着かせるため、両肩に手を置いて駿は可能な限り穏やかに言った
つもりだった。だが駿自身の焦りは、明確な形でマリアにも伝わったらしい。不
安そうな目で、マリアは駿の顔を見返していた。
「良太くん、あっちの方を見てたの。けど、そっちに行ったかどうか、分からな
いの」
マリアは顔を動かし、視線だけでその方角を指し示した。その先には小さな山
が見える。
「やま?」
それは山と呼ぶより、ちょっとした丘と言った感じだった。
「良太くんたち、あの山に行ったんだろうか?」
駿は一人呟く。それを自分に訊かれたのだと思ったらしい。マリアは首を振っ
た。
「分かんないの………山を見ていた後の、良太くんの色も、美璃佳ちゃんの色も、
消えちゃったの」
駿は泣き出しそうなマリアの頭を掌で二、三度も軽く叩いてやる。
「だいじょうぶ。ここまで来れたんだ………あと一息で、見つかるさ。必ず見つ
けてみせる」
マリアを励ます駿だったが、内心ではこれからどうするべきか、悩んでいた。
あてにしていたマリアの力が使えない以上、ここから先の決断は駿が下さなけ
ればならない。いや、そもそも良太たちの家出は駿の配慮のなさが原因なのだ。
子どもたちを見つけ出すのは駿の責任なのだ。
それまで信じたこともない不思議な力を、マリアにあて込んでいたのは虫が良
すぎたのだ。
駿は考えてみる。良太たちは、ここからどこへ向かったのかを。
本当に山に向かったのだろうか。
空を覆う分厚い雲。それを背負って黒く見える山。もし駿が良太の立場なら、
そこに行くのは躊躇われる。あまりにも寒々しく、寂しく見える山に幼い兄妹が
自らの意志で向かうとは思いにくかった。
自分だったら、もっと賑やかな場所に向かう。
そう思った駿は、周囲に視線を走らせる。しかし山の他に、特に目につくもの
はない。
駅周辺ですら、高い建物はほとんどなかった。まして駅から少し離れた場所に
来れば、ほとんどが二階から三階建ての住宅ばかりで、その中に五階程度の雑居
ビルがわずかに見られるくらいだ。
もし良太たちが、山以外の場所に向かったとしたら、その方角を断定すること
は難しい。あるいは駅に戻り、また電車に乗ったとも考えられる。
駅に引き返し、誰か子どもたちを見た者がないか、訊いてみるほうが良さそう
だ。
「マリア、一度駅に………」
戻ろう。そう言いかけた時、再び駿の視界の中に黒い山が映った。
「いや………やっぱり、あの山だ。マリア、あそこに行ってみよう」
他に目につくものがないのなら、良太たちもあそこに向かったに違いない。家
出の理由を考えれば、二人が行こうとするのは賑やかな場所ではないはず。二人
がずっと一緒にいたいと思うなら、うるさい大人の目が届かない場所を選ぶはず
だ。
「うん」
マリアは駿の言葉に従う。
ここまで来たときとは反対に、もう体力が尽きたと思っていた駿が、マリアの
手をひいて走り出していた。
数滴、冷たいものが頭にかかった。
「雨?」
確認するために空を見上げようとした。けれどほんの少し、首を動かすだけの
手間さえ必要はなかった。
すぐに大粒の雨が、音を立ててアスファルトを打ち付ける。
途端に街は煙り、気温も急激に下がり始めた。
「うわっ、とうとう来たか。あそこに非難しよう」
相羽に促されるまでもなく、既に純子も駆け出していた。二人は近くの喫茶店
の庇の下へと非難する。
「凄い雨………美璃佳ちゃんたち、だいじょうぶかなあ」
#4316/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:57 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(46) 悠歩
★内容
純子は改めて空を見上げた。しかし激しい雨が視界を塞ぎ、その先に何も見る
ことは出来ない。
「だいじょうぶ。きっと藤井さんたちが、もう見つけてるよ」
コートに手を入れながら、相羽が言った。その言葉に根拠などあるはずもない。
ただの気休めとは分かっていたが、純子も反論はしなかった。純子もまた、美璃
佳たちが無事保護されていることを願っていたから。
「ほら、涼原さん。これ、使いなよ」
ハンカチの握られた相羽の手が、純子へと差し出された。
「何よ?」
「濡れたままにしておくと、風邪ひくよ」
相羽は純子の髪から滴っている、水を気にしているらしい。
「いいわよ。私だって、ハンカチくらい持ってるわ」
純子は自分のハンカチを相羽に見せ、濡れた髪や肩を拭いた。
「ふうん。でも涼原さんにしては、ずいぶん地味目なハンカチだね」
相羽もまた、純子に貸そうとしていたハンカチで自分を拭き始める。
「なによ。それじゃあ、普段の私が派手好きみたいな言い方じゃない」
「別に………そんなつもりで言ったんじゃないけれど」
相羽の言うとおり、純子の使っているハンカチは、おおよそ中学生の女の子の
使うようなものではなかった。濃い青一色で、他に何の柄もない。それもそのは
ず、愛美の家に向かう前、父親のものを借りてきたのだから。
「だって今日、西崎さんのところ、お通夜でしょ? 派手なものとか、可愛らし
いものとかだと、失礼じゃない」
「なるほど。納得した」
それからしばらく、二人は互いに自分の身体を拭くことに専念していた。
『いやな雨だなあ………美璃佳ちゃんたちも心配だけれど。やっぱり、西崎さん
のお手伝いもしたいし』
しかし雨は、とうぶん止みそうにない。
せっかく喫茶店の軒先で雨宿りしているのだから、中に入って暖かいものを飲
みながら時間を潰せばいいのかも知れないが、それは校則違反になってしまう。
それに、違反覚悟で喫茶店に入ろうにも、純子はそれだけの小遣いを持ち合わせ
てはいなかった。
ここでじっとしていても、無駄に時間が過ぎて行くだけのように思われた。そ
れに寒い。いっそずぶ濡れになるのを覚悟で、一度家に帰って着替え、傘を持っ
て改めて愛美を訪ねた方が良さそうだ。
「ねえ、」
そのことを相羽に伝えようと、純子は口を開いた。けれど純子が言葉を言い切
るより先に、相羽は「ちょっと待って」と雨の中に消えて行ってしまった。
「もう、何よ」
人の話も聞かず、さっさと自分だけ行動を取ってしまった相羽に、純子は少し
腹を立てた。いったい、相羽はどこへ行ったのだろう。もしかすると、純子と同
じことを考えてマンションに戻ったのだろうか。まさかそれから、傘を持って純
子を迎えに来るつもりなのか?
だとしたら、相羽を待つ時間がとても無駄のように思えた。純子も雨の中を走
って、家に帰ろうかと考えていると、すぐに相羽は戻ってきた。透明な、ビニー
ル傘一本を持って。
「なんだ、傘を買いに行ってたの?」
「うん。なるべく安いところで買いたかったけど………急に降ってきた時は、ど
こも定価のままで。一本しか買えなかったんだ………涼原さんがいやでなければ、
一緒に入って行こう」
「いやも何も………ここで待ってても仕方ないもの。行きましょう」
ビニール傘は、二人で入るには小さすぎるが、雨の中を走って行くよりはいい
だろう。二人は一本の傘の下に収まり、ゆっくりと歩き出した。
「それにしても、寒いわね。この雨、雪になるのかなあ」
「ああ………上手くすれば、ホワイト・クリスマスだ」
「うん。でも、なるべくなら雪にならないで欲しいな」
「どうして? 女子って、ホワイト・クリスマスになった方が、ロマンチックだ
って喜ぶんじゃないの」
「だって、西崎さんの気持ちを考えると、そんなこと言ってられないもの。それ
に………美璃佳ちゃんたちもまだ見つかってない。雪になって、どこかで震えて
いたら、可愛そう」
それはこのまま雨が降り続いていても同じことだけど、と純子は思う。
「そうか………無神経なこと言ってしまった。ごめん」
「別に、相羽くんが謝ることじゃないでしょ」
「いや、でも。ぼくは美璃佳ちゃんたち兄妹を知らないから、やっぱりどこか薄
情になってるのかも知れない」
自分を責めるような言葉。
「じゃあ、一緒に考えてみてよ」
そんな相羽を励まそうと、純子は話題を提供してみた。
「考えるって?」
「美璃佳ちゃんたちの、これからのこと。さっき相羽くんが言ったことが原因で、
家出をしたのなら、二人が無事に見つかっても問題は解決しないわけでしょ。そ
のあと、美璃佳ちゃんたち兄妹にとって、一番いい方法を考えてみるの」
純子にしてみても、いい考えがある訳でもない。また自分たちに、いい考えが
出来ると思ってのことでもなかった。それでも、相羽の口から出されるであろう
アイディアに、少なからず期待していた。だが………
「それこそ無茶だ。無神経だ」
返ってきたのは、不快さを隠そうともしない相羽の言葉だった。
「どうしてよ」
純子は車道側を歩く相羽の方へ、顔を向けた。彼の左肩が、雨に濡れている。
「ほら、肩が濡れてるよ」
小さなビニール傘では、二人とも濡れずにいることは難しい。相羽は純子が濡
れないようにと、自分の左半分を雨にさらして、こちらに傘を寄せていたのだ。
純子は相羽の左半分もカバー出来るようにと、傘を押し戻す。
「平気だよ。そんなことをしたら、今度は涼原さんが濡れる」
その傘をまた相羽は純子の方に寄せた。
「もう、またいつかみたいに、風邪をひいちゃうでしょ」
右に左にと、傘は傾いた。そんなことをしばらく続けていると、二人とも片側
の肩がすっかりと濡れてしまった。傘は二人がほぼ同じ割合で入れる位置で、や
っと落ち着く。
「意地っぱり」
「そっちこそ」
純子は無駄な争いをしてしまったことが、ばかばかしく感じられた。このまま
相羽と話をするのを止めてしまおうかとも思ったが、先ほどの言葉が気になって
仕方ない。
「さっきの、どういうことなの? どうして、無茶で無意味なのか、説明してよ」
「ああ………それか」
言葉をまとめるためか、気持ちを落ち着かせようとしてか。相羽は一拍の間を
置いて、話し始めた。
「ぼくらに何が出来る? ぼくには何もしてやれない。涼原さんには出来るのか
い?」
「だから、それを考えるんじゃない。何も出来ないとしたって、考えることが悪
いの? 考えたことを、藤井さんに話してみるだけでもいいじゃない」
「あの人たちだって、いろいろ考えたはずだよ。それでも、子どもたちは家を出
て行った。具体的に何があったかは知らない。でも、想像はつく。母子家庭で、
母親が子どもを愛していないとしたら、面倒を見ようとしないなら、周りの人た
ちが執れる行動は一つだ。………きっと、裁判とかの手続きをして、施設に入れ
るってことだ」
「そんな………美璃佳ちゃんたち、可愛そうだわ」
純子と相羽の目が合った。相変わらず相羽は不機嫌そうな、と言うより何かを
堪えるような表情をしていた。
「でも、他に方法があるかい? もし身内があるなら、その人たちが子どもたち
を引き取るかも知れないけど。それもないとしたら………他人にはどうにも出来
ない。あの藤井さんって人、一生懸命美璃佳ちゃんたちを探していたし、いい人
なんだろうと思う。でも、あの人が二人を引き取ることはないだろう………
こう言ってはなんだけど、あの人くらいの年齢では、急に子ども二人を引き取
って生活していけるほどの収入はないと思う」
「親戚とか、藤井さんとかじゃなくても、誰か他の人を探すことも出来るかも知
れないじゃない」
純子はなんとか、美璃佳たちのこれからについて活路を見い出そうと試みる。
だがそれも、相羽が繰り広げる理屈の前では脆すぎるものだった。
「誰が? 涼原さんがその子たちを引き取るかい?」
「それは………」
「もし涼原さんが引き取ろうと考えたとしても、ご両親はなんて言うだろう。犬
猫を拾ってくるのとは、訳が違うんだ。極論を言ってしまえば、美璃佳ちゃんた
ちと同じ境遇の子どもたち、いや、もっと不幸な子どもたちがこの日本、世界に
はいくらでもいる。そんな子どもたちと出逢う度、それをなんとかしてやれるか
い? 出来るわけはない」
「だけど、私は美璃佳ちゃんのことを知ってしまったのよ。世界中のことは無理
でも………ううん、確かに美璃佳ちゃんのことですら、どうにも出来ないかも知
れない。でも、せめて身近な美璃佳ちゃんたちのことを考えるのが、いけないの?
ただ見ているだけじゃ、何も始まらないじゃない。確かに私たちは無力だろう
けれど………でもみんながそんなことを言っているだけでは、決して何も変わら
ないじゃない」
「それは詭弁だよ………」
それっきり、相羽は黙り込んでしまった。
純子もそれ以上追求することはしない。相羽の言っていることも理解は出来る
が、納得は行かない。確かに平凡な一中学生でしかない純子に、美璃佳たち兄妹
をどうしてやることも出来ないだろう。けれど美璃佳たちを心配して、何か手だ
てがないかと考えるのが悪いことだとは思えない。
雨は降り続ける。
一向に止みそうな気配はなかった。
「何も出来ないのに、いろいろと考えてみようなんて、それは好奇心でしかない」
独り言を呟くように、相羽が言った。
純子は思わず、「えっ」と聞き返してしまう。
「出来もしないことを相談するのは、子どもたちのためじゃない。自分たちを満
足させるためのもの。美璃佳ちゃんたちがそれを聞いたとしても、喜ばないと思
うんだ………実現出来ない話は、かえって傷つけるだけなんじゃないかって」
相羽の言葉には、さきほどのような勢いはない。静かに語っていた。
「相羽………くん」
「でも。涼原さんの言う通りかも知れない。無力であるからと、初めから何もし
ようとしなければ、結局何も変わることはない………ごめん、今日のぼくは少し
おかしい」
突然相羽は傘を全て純子に預け、自分は天を仰いでその身に雨を浴びだした。
「ちょっと! 相羽くんったら」
純子は慌てて、傘を相羽の頭上に戻した。
「何考えてるのよ、もう。ずぶ濡れじゃないの」
純子はハンカチで、相羽の頭やコートを拭いた。しかし既に一度使っているハ
ンカチでは、思うように水分を吸い取ることはない。
「ハンカチなら、ぼくも持ってるよ」
そう言いながらも、相羽は自分のハンカチを出そうとはしなかった。ただ純子
のすることを見ている。
「ぼくはね、思うんだ。自分が思っているよりも、ぼくは恵まれているだろうな
って」
「えっ、何か言った?」
「いや、なんでもない」
相羽の肩を拭きながら、純子は初めて気がついた。相羽がコートの下に、学生
服を着ていることに。
ついさっきまで、ピクニック気分で歌を唄っていた美璃佳も、すっかりと口数
が少なくなってしまった。
枯れ草を踏みしめる音と、時折美璃佳のする咳の音以外、聞こえてはこない。
「おにいちゃん、みりか、つかれた」
先ほどから遅れがちになっている美璃佳が、足を止めて言った。
「もう、したかないな」
良太は美璃佳のところまで戻り、その手をひく。
「ほら、もうすこしがんばって、歩くんだ」
灰色だった空は黒みを増して、いつ雨が降り出してもおかしくない色になって
いた。
「こんなところで止まっていたら、あめがふってきちゃうから」
頑として動こうとしない妹を、良太はなんとか言い聞かせようとした。
けれどこのまま進んだところで、雨を避けられる場所のあてなどはない。ただ
少しでも、大人たちのいるところから離れなくてはいけない。そんな焦りが、良
太を急かしていた。
「いやあ、みりか、もうあるけないもん」
歩き出すどころか、美璃佳はその場に座り込んで、ぐずぐずと泣き出してしま
う。もうこうなると、しばらく美璃佳を歩かせることは難しい。
「よし、じゃあお兄ちゃんが、おんぶしてやるから」
良太は抱いていた人形を脇に置くと、美璃佳に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「おにいちゃんは、つかれてないの?」
「へいきさ。美璃佳をおんぶするくらい」
少し躊躇っていたようだが、美璃佳は寄り掛かるようにして良太の背中に抱き
ついた。転ばないように注意しながら、良太は立ち上がる。片手で妹の足を支え、
片手には人形をつかんで。
「ああん、じゅんちゃん、かわいそうだよ」
片手でつかんでいたため、大きな人形はだらりと引きずられる格好になってし
まう。美璃佳は、それを抗議したのだ。
「そんなこといったって………」
#4317/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:58 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(47) 悠歩
★内容
これには良太も困ってしまった。美璃佳を背負いながら、人形のために片手を
使うだけでも大変なのに、それを引きずらないように持つことは難しい。美璃佳
よりわずかに背丈が低い人形を、一方では背中の妹を支えながら地面に着かない
ようにするには、良太の身長も足りない。
背負われている美璃佳にも、人形を持つことは出来ないだろう。
「じゃあ美璃佳、ちょっと手をはなすから、しっかりお兄ちゃんにつかまってろ
よ」
「うん」
良太の首にまわした手で、美璃佳はしがみついてきた。その間に良太は美璃佳
の足を支えていた手を離す。それから前傾姿勢のまま、人形を胸に抱き上げた。
それから改めて人形を、片方の手で胸に挟み込むようにして抱く。そしてもう
一方の手を、美璃佳を支えるために戻した。
「お兄ちゃん、人形のせいでかたほうの手、はなせないからな。ちゃんとつかま
ってろよ」
「うん」
美璃佳の返事を確認して、良太はゆっくりと歩き出した。
美璃佳には強がってみせたものの、良太もそれほど身体の大きな方ではない。
二つ違いの妹を、ただ背負って歩くだけでも難しいことだった。加えて無理な姿
勢で人形を抱き、傾斜のある山道。
一歩を踏み出すのも、苦しくて仕方ない。けれど良太は、歯を食いしばって進
んだ。泣き言は言わない。辛そうな顔はしない。妹と一緒にいるために。
背中に感じる美璃佳の温もりが、良太の支えだった。
それが良太に力を与える。
どれほど歩いただろう。ずいぶん進んだつもりだが、実際のところは分からな
い。だが良太の進む山道は、次第に悪くなっていく。美璃佳を背負って歩くこと
も、一層困難になって来た。
ざわっ。
雑木林が鳴った。
良太は、びくりとして木を見上げる。背中の美璃佳が、強くしがみついた。
空気が一段と冷たくなったかと思うと、無数の雨粒が良太たちを打ちつけて来
た。同時に、木々が激しく鳴り始める。
「わあん、つめたいよぉ」
背中の美璃佳が悲鳴を上げる。
良太の目には山道わきの雑木林の中に生える、一本の木が目に停まった。大き
く広がった枝には、この季節にも関わらず、たくさんの葉を残している。
他に雨を避けられるものは何もない。
あそこで雨宿りをしよう。
そう思った良太は、その木を目指して駆け出そうとした。その瞬間。
目の前の風景が、急激に空へと上昇して行った………ような気がした。そして
枯れ葉の積もる地面が、良太に負い被さって来る。
背中の美璃佳が泣いている。
身体中に痛みが走る。
何が起きたのか理解できないまま、良太は地に伏せていた。
顔を上げ、額に貼り付いた枯れ葉を手で剥がす。お腹から染み込んでくる冷た
い感触で良太は初めて、自分が転んでしまったのだと知った。
「美璃佳!」
声を掛けると、美璃佳は泣いたまま良太の背中を離れた。
身体の軽くなった良太は素早く立ち上がり、美璃佳の手を引いて目的の木へと
走った。あちこちに、じんじんとした痛みを感じる。
木の下は良太の思った通り、雨を避けることが出来た。いくらか葉の隙間を巧
みに抜けた水滴が落ちてくるが、周りの雨の勢いに比べれば遥かにマシである。
「美璃佳、けがしてないか!?」
雨宿りの場所にたどり着くと、良太は妹の身体を調べた。袖口や襟元、服やス
カートの内側も見る。怪我は見当たらない。
「どこかいたいのか?」
美璃佳は泣くだけで、何も答えない。今度は良太は、美璃佳の全身をさすって
みるが、特に痛がる様子もない。
美璃佳が泣いているのは、良太が突然転んだことで驚いたのだろう。
「ほら、もうなくなよ、美璃佳」
頭を撫でてやると、美璃佳は鼻を鳴らしながら良太の足を指さす。見ると良太
のズボンは左の膝に穴が空き、血がにじんでいた。
「にいちゃ……けが………てる」
まだ嗚咽混じりの美璃佳が言った。良太の怪我を心配しているようだ。
「へいきだよ。こんなの、ちっともいたくないもん」
本当は少し痛いのだけれど、美璃佳に余計な心配をさせたくはないと思った。
「けど、お兄ちゃん、泥だらけになっちゃったな」
そう言って、良太は笑って見せた。ついでに頭を掻こうとしたが、それは止め
にする。その手も泥だらけになっていたから。
「ここでしばらく、やすもうな。ちょっと、まってろよ」
良太は足元の濡れた葉っぱを、手で除ける。そして周りから乾いた葉を選び、
敷き詰める。
「ほら、ここにすわれよ」
「ん」
促されるまま、美璃佳はそこへちょこんと腰を下ろす。良太は、そんな美璃佳
から少し距離を置いて座った。
二人きりの山の中。
他には誰もいない。
車が通ることもない。
けれど周りは、音で満ち溢れている。
激しい雨が、枝葉を叩き、賑やかな音を立てている。
なのにとても寂しい。
薄暗い山の中。
けん、けん、と美璃佳が二つ、咳をする。
「………あめ、やまないね」
「そうだな」
「おにいちゃん、もっとみりかのそばにきなよ」
「だめだよ」
「どおして」
「お兄ちゃん、さっきころんだから、泥だらけで、ぬれてるもん。そばにいった
ら、美璃佳もよごれちゃう」
「みりか、よごれてもいいよ」
「だめだよ。きがえなんて、もってこなかったもん」
「よごれてもいいのぉ。きてよぉ」
また泣き出しそうに言う美璃佳。
仕方なく、良太は美璃佳のそばに身体を寄せた。いや、本当は嬉しかった。
濡れた服は冷風にさらされ、良太の身体から容赦なく体温を奪っていた。寒く
てたまらなかった。互いに触れあった肩から伝わる、美璃佳の温もりがわずかで
はあるが、良太をも暖める。
「くしゅん!」
くしゃみと共に、美璃佳は鼻水を垂らしてしまう。すかさず良太はポケットテ
ィッシュを取り出したが、それはぐっしょりと濡れていた。
「美璃佳、こっちをむいて」
「うん」
良太は指先の泥を、自分の服でこすり落とした。その指をのばして、美璃佳の
鼻を拭き取る。その時、がちがちと鳴っている、美璃佳の歯の振動が良太の指先
にも感じられた。美璃佳も寒さに震えているのだ。
足元の枯れ葉を拾い、指についたものを拭う。その葉を丸めて投げ捨てると、
良太は言った。
「美璃佳、さむいのか?」
「うん、ちょっとだけ」
応える美璃佳の顔は、青白く見える。辺りが暗いせいなのかも知れない。しか
し、良太の中に芽生えた不安は広がる。
風が吹いた。
強い風は、空から落ちる雨を、横殴りの雨へと変える。
風は良太と美璃佳を大量の雨水で濡らし、去って行った。
「美璃佳、へいきか?」
「………ん」
良太の問いかけに応える美璃佳の声は、弱々しい。
良太はジャンパーを脱いだ。表は泥で汚れ、内側には水がしみている。防寒具
の役目は果たしてくれそうにないが、多少の風避け、雨避けにはなるだろう。
良太はジャンパーを座っている美璃佳の、膝から胸の辺りが隠れるようにして
掛けてやった。
「おようふくぬいだら、おにいちゃんがさむいよ」
良太を見上げて、美璃佳が言った。その後、また一つ咳をした。
「お兄ちゃんは、美璃佳よりおおきいからな。このくらい、さむくなんかないん
だ」
再び美璃佳の横に腰掛けた良太だったが、ジャンパーもなしでこの雨の中の山
中の空気は、凍えそうなほどに寒かった。両手で膝を抱え、少しでも体温の逃げ
ないようにして、寒さを堪える。
いくら空を見上げても、雨が止みそうな気配はない。かえって雨足が強くなっ
ているようにも思える。加えて夜が迫って来たことで、暗さもどんどんと増して
行く。
良太は後悔し始めていた。
無謀すぎる家出を。
どうしてこんな山の中に来てしまったんだろう。行くあてもなしに。着替え一
つ、暖をとる道具一つ持たずに。
子どもだけで生きていく。それが無理な話であることは、良太にも初めから分
かっていた。悔しいけれど、大人の手助けなしでは生きられないと知っていた。
あんな母親でも、時折帰ってきては、わずかばかりのお金を置いて行ったから、
美璃佳と二人でもなんとかなっていた。
分かってはいた。
それでも、美璃佳と離れてしまうかも知れない。それだけは我慢できない。
施設に入れられてしまうなら、それだって構わない。美璃佳と一緒なら。
だが美璃佳と別れることになってしまう。そんな可能性があると聞いたとき、
それから逃げ出す以外の手段を考えることは、良太には出来なかった。
良太は、横に座っている美璃佳を見る。
良太のジャンパーをつかみ、かたかたと震えていた。やはり顔色も気になる。
さきほどから、咳を繰り返している。
あの日、駿が部屋に来てくれるまでのことを、良太は思い出していた。
熱を出して寝込んでしまった美璃佳を目の前にして、何もしてやれずいた時の
不安と恐怖、心細さ。苦しそうな美璃佳の寝顔。
それがもし、いままた繰り返されたら。
良太には何も出来ない。
いくら泣き叫んでも、ここは山の中。誰も助けに来てくれない。
いまからでも引き返した方がいいのかも知れない。
「おにいちゃん?」
「えっ………あっ」
考え事をしていた良太は、妹が自分を見つめていることにも気がつかないでい
たらしい。
「どうした、美璃佳?」
「かえろうよ」
「かえるって、どこにだよ」
「しゅんおにいちゃんと、マリアおねえちゃんのところ」
良太が考えていたことと、同じことを美璃佳も口にしている。それなのに良太
は、なぜか意固地な気持ちになってしまう。
「だめだよ………そんなことしたら、お兄ちゃんと美璃佳は、おわかれしなきゃ、
いけないんだ」
「やだ………みりか、おにいちゃんと、おわかれしない」
目に涙を浮かべて、美璃佳は言う。
そう言えば、いつの間にか美璃佳は良太のことを『おにいちゃん』と呼ぶよう
に戻っていた。駿たちと暮らすようになってからは、名前をつけて『りょうたお
にいちゃん』と呼んでいたのに。
「それなら、かえらないでここにいよう」
意地悪をしているつもりはない。良太もこのままここに居続けるのは、良くな
いと思っていた。けれどこの問題が解消しない限り、帰ろうという決断にも踏み
切れなかったのだ。
「やだあ………みりか、かえりたいよ。ここ、さむいんだもん。ごはんも、テレ
ビも、おふとんもないだもん」
「美璃佳は、お兄ちゃんといっしょにいるより、テレビのほうがだいじなのか」
良太は少し腹が立った。
自分が美璃佳のことを思っているほど、美璃佳は良太のことを思っていないの
か。
「ちがうよぉ」
ふるふると首を振り、美璃佳は抱きつくようにして良太の両手をつかんだ。
熱い美璃佳の体温。熱すぎる………
「ちがうの! みりか、みんなすきなの。おにいちゃんも、マリアおねえちゃん
も、しゅんおにいちゃんも。みんなといっしょにいたいの!」
「だけど美璃佳、それは………」
出来ないんだよ。そう良太が言いかけたとき。
糸の切れたマリオネットのように、美璃佳の身体が良太の腕の中へと崩れ落ち
た。
「みり、か?」
受けとめた美璃佳の身体は、火がついたように熱い。とても尋常なものではな
い。
「かえろうよぉ………」
呻くような美璃佳の声。
このままここに留まるのは、危険であると良太は感じた。美璃佳と一緒に暮ら
せなくなってしまうのは我慢ならないが、美璃佳の身に何かあったりしたらもっ
と堪えられない。
「わかったよ、美璃佳。駿お兄ちゃんたちのところに、かえろう」
#4318/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 1:59 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(48) 悠歩
★内容
まだ雨は止まない。
この雨の中を濡れながら戻るのは、美璃佳の身体には良くない。そう思った良
太だが、一方では次第に迫ってくる夜が気持ちを急かす。気温も下がっていくば
かりで、ここにじっとしていることも、危険であるよう思えた。
少しでも早く、山を下りたほうがいい。
そう決心した良太は、ジャンパーを美璃佳の頭から被せてやる。
「ほら、美璃佳。お兄ちゃんがおんぶしてやるから」
妹に背中を向けて、良太は屈んだ。
「へいき。みりか、じぶんであるけるよ」
そう言って立ち上がった美璃佳だが、足許がふらついている。
「いいから、お兄ちゃんの言うことをきけ」
「………うん」
妹を背負い、良太は雨の中を歩き出す。
ジャンパーを脱いだことで、雨は直に良太の服に吸い込まれてしまう。服から
しみた冷たい雨水は、良太の体温を容赦なく奪う。
けれど良太は寒いと感じなかった。
気持ちが張っていたせいもある。しかしそれよりも、背中の美璃佳が熱かった
から。でもそれは、美璃佳の容態の悪さを示すものである。さっきのように、転
ぶわけには行かない。良太は濡れて滑りやすくなった足元に注意しながらも、急
いで歩を進める。
「おにいちゃん………」
頭からジャンパーを被っているため、美璃佳の声はくぐもって聞こえた。
「どうした? あんまり、しゃべらないほうが、いいぞ」
「じゅんちゃん、いない」
「えっ?」
言われて初めて気がつく。
最初に美璃佳を背負った時には、確かに持っていたはずの人形が、いまはない。
木の下の駆け込んだ時にはもう手にしていた覚えはないので、転んだ拍子にどこ
かへ落としてしまったのだろう。
高いお金を出して、それを美璃佳に買ってくれた駿には悪いが、良太は落とし
てしまった人形を探すつもりはなかった。
何より美璃佳のことが心配だった良太は、そのまま山道を下って行こうとした。
「おにいちゃん、じゅんちゃんをさがしてあげようよ」
良太の考えを察知したかのように、美璃佳が訴える。
「人形をさがしていたら、よるになっちゃう。いそがないと、でんしゃもなくな
っちゃうよ………人形はあきらめよう。駿お兄ちゃんには、ぼくがあやまるから」
その良太の言葉に、美璃佳は応えなかった。その代わり、良太の背中が急に軽
くなる。美璃佳が降りてしまったのだ。
「美璃佳!」
下って来たばかりの道を、よたよたと逆走していく美璃佳の肩を、つかんで止
める。
「じゅんちゃん、ないてるよ。さみしいよぉ、つめたいよぉ、って」
泣いているのは人形ではなく、振り返った美璃佳の方だ。
「みり……」
「じゅんちゃんも、いっしょにかえるの。みりかと、おにいちゃんと、しゅんお
にいちゃんと、マリアおねえちゃんと、じゅんちゃんと………」
美璃佳は小さな手で握り拳をつくり、名前を一つ言う度にもう片方の手で、指
をめくるようにして伸ばす。そして五本の指を立てて、ジャンケンのパアの形に
なった手を良太に見せた。
「ごにんで、みんなで、なかよくするの」
それから美璃佳は、良太の手を振り解いて、人形を探しに行こうとする。
サンタクロースからのプレゼントだと、信じ込んでいるせいもあろう。美璃佳
にとってあの人形は、単なるオモチャではないのだろう。美璃佳には兄である良
太の他に、一緒に遊ぶ友だちがいない。あの人形は、美璃佳にとっての初めての
友だち、もしかすると妹のようなものなのかも知れない。もしそう思っているの
だとしたら、いくら良太が力づくで引っ張っても、美璃佳は従わないだろう。
大人たちの元から逃げ出そうと家出をしたのも、やはり無理だと引き返すこと
を決めたのも、全て良太の勝手だった。美璃佳はただ、良太に言われるままここ
まで着いてきただけ。無計画な良太の考えに、振り回されていただけなのだ。
美璃佳の身体のことは心配でたまらない。でも、だからと言って美璃佳が何よ
りも大切にしている人形を諦めさせる権利は、良太にはないのではないか。
「お兄ちゃんもさがすよ」
良太が言うと、美璃佳は何かを応える代わりに、嬉しそうに抱きついてきた。
誰も来はしない。
そう思っていた愛美にしてみれば、今夜の弔問客は予想以上のものだった。
最初にやって来たのは、同じアパートの一階に住む北原夫妻だった。
おばあさんは、愛美と雪乃叔母さんの食事の支度までしてくれた。
そしておじいさんは白木の棺桶の前に作られた、即席の仏壇に線香を立てると、
いつまでも手を合わせていた。
「富子」
ようやく振り返ったおじいさんは、愛美を呼ぶ。
「はい」
応える愛美の手を取り、じっと顔を見つめるおじいさんの目には、涙が溢れて
いた。
「すまない、富子。すまない………」
何度も繰り返し頭を下げるおじいさんに、愛美はどう応えていいか分からなか
った。
「おじいさん、泣かないで」
おじいさんの謝っている理由の分からない愛美は、優しくそう語りかけるのが
精一杯だった。
「ほらほら、おじいさん。いいかげんにしないと、西崎さん………富子も困って
いますよ」
見かねたおばあさんが、おじいさんを立たせようとする。
「さあ、私たちはそろそろお暇(いとま)しましょう。西崎さん、私は部屋にい
ますから、何かあったら言って下さいね」
「はい、ありがとうございます」
部屋を出る間際、おじいさんは振り返り、再び愛美へと声を掛けた。
「富子………逝くなよ………悲しくても、光太郎の後を追ったりしないでおくれ」
「ええ、だいじょうぶよ」
愛美は笑顔で応えた。
おじいさんの過去に何があったかは知らない。でも富子という人は、たぶんお
じいさんの娘か孫だろう。その人は、光太郎という人の後を追って死んだのだろ
うか。
「富子、お前は幸せか? いまは幸せでなくとも、いつかきっと幸せになれるな?
いや、幸せになれる………なっておくれ。だから、だからいまは………」
「ほら、おじいさん。今夜は早めに、休みましょうね」
おばあさんに連れられ、部屋を出ていくおじいさんに、愛美は後ろから応えた。
「うん、富子は幸せになるよ」
おじいさんがどんな表情で、それを聞いたかは分からない。けれどドアを閉め
る寸前に見えたおばあさんは、微かに微笑んでいた。
『幸せになる、か』
愛美には『幸せ』という言葉が、自分には縁遠いものに思えた。遠い昔、幼い
頃は父と母に守られ、幸せだった。しかし母が逝ってしまい、父も逝ってしまっ
た。これから先、自分が幸せと感じる日が来るとは、とても愛美には考えられな
い。
それからしばらくして、相羽と純子が訪ねてきた。二人とも、肩を濡らしてい
た。愛美は気がつかなかったが、外では激しく雨が降り始めていたのだ。
コートを脱いだ二人は、愛美の手渡したタオルで身体を拭いた後、部屋に上が
った。父に線香をあげてくれてから、何か手伝いたいと言ってきた。
しかしもともと弔問客が来てくれることを予想していなかったため、特に何の
用意もしていない。人手がいることは、何もなかった。
「今日はありがとう。でも、手伝ってもらえることはないの………」
「そう………あの、藤井さんから連絡はあった?」
いまのところ、駿の部屋で電話の鳴った気配はない。もっとも愛美は雨が降っ
たことも気づかないでいたのだから、電話の音も聞こえなかったのかも知れない。
実際、外では雨音が激しく、駿の部屋の電話が鳴ったとしてもここでは聞こえそ
うにない。
叔母さんに父のことを頼み、愛美たちは駿の部屋に行ってみた。
慌てて出掛けたためか、不用心にも鍵が掛かっていない。後で愛美から謝って
おくと言うことで、相羽と純子は駿の部屋で電話を待つことにした。
それから、愛美の部屋には何組かの弔問客が訪れた。
愛美の学校の担任、学年主任、クラス代表、小学校時代の友人が数人、それか
ら『満天』の女将。みんな何かの本に書いてあったような言葉を述べると、早々
に退き上げて行った。
さすがに女将が来た時は、気まずい思いがした。しかし女将は、愛美があの日
の会話を聞いてしまったことなど、知る訳もない。そこで愛美は叔母さんと共に
女将に挨拶をして、アルバイトを辞める旨を正式に伝えた。あの会話を聞いた愛
美には、とても本心とは思えなかったが、女将は残念そうにしていた。
その後弔問客が途絶え、再び愛美は駿の部屋に行ってみたが、まだ連絡は来て
いなかった。
そこで愛美は純子の電話番号を聞き、駿から連絡があり次第、電話を入れる約
束をして二人を帰した。
相羽の番号なら知っていたが、もう彼には電話を掛けてはいけないような気が
したのだ。相羽には純子から電話してもらえばいい。
「あっ、愛美ちゃん。お茶、飲むでしょう?」
来客もなくなった部屋では、雪乃叔母さんがお茶を煎れていた。祭壇の線香か
らは白い煙が立ち昇り、室内はその香りに充たされている。
時刻は午後七時を過ぎているが、明日の朝まではまだ長い。父に供えた線香の
火を、朝まで絶やしてはいけない、と叔母さんが教えてくれた。母の時も、そう
したのだろうか。まだ幼かった愛美は、憶えていなかった。
熱いお茶を、一口啜る。
愛美の口からつい、ため息が漏れてしまった。
怪訝そうな目で、叔母さんがちらりとこちらを見た。
正直なところ、愛美はこの時間が退屈で仕方なかった。わずかながら弔問客が
訪れている間は多少気が紛れたが、それもなくなったいま形式を守り、父のそば
にいなければならないことが苦痛だった。
あんなに悲しんだ父の死。一夜明けただけで、人の気持ちはこうも変わるもの
なのか。愛美は自分のことながら、驚いている。
しかし外から帰り、棺桶に収められた父を見ても、何の感慨も湧かなかったの
は事実。愛美には、父を無事に送ることより、いまだ入らない駿からの連絡の方
が気に懸かっていた。駿は良太たちを保護することが、出来たのだろうか。それ
ともこの雨の中、良太と美璃佳は肩を寄せあって、震えているのではないだろう
か。
そのことの方が、いまは遥かに気になっている。
「愛美ちゃん」
ぼんやりと台所の磨りガラス越しに外を眺めていた愛美に、改まった感じで叔
母さんの声が掛けられた。
「はい?」
「憶えてる? 叔母さんが夜になったら、大事な話をしたいって言ったのを」
「ええ、憶えています」
話の内容について、愛美にはおおよその見当はついていた。愛美のこれからに
ついてであろう。
先日、叔母さんが愛美を自分の子にしたいと、父に申し出た時には愛美自身が
その話を断った。父と一緒に暮らしたい、それが理由だった。
しかし父が逝ってしまったいま、断る理由は何もない。経済的なことだけを言
えば、愛美一人になってしまった分、楽になる。いままでは父と二人の生活費を、
ほぼ愛美のアルバイトの給料で支えていたのだ。『満天』は辞めてしまったが、
新しいアルバイトさえみつかれば、中学校を卒業するまで一人でやっていける自
信はある。
ただし今日まで愛美が寝る時間をも削り、アルバイトや家のことを続けてこれ
たのは、父と一緒に暮らしていたい。父を支えてやりたい。その気持ちがあれば
こそだった。
たった一人、生きていけるほど自分は強くないだろう。愛美は思った。
叔母さんの言葉に甘えるのが、たぶん、一番いいことなのだろう。いや、本当
なら愛美の方から叔母さんに頭を下げてお願いしなければいけないのかも知れな
い。
叔母さんの世話になるのなら、学校も変わることになる。もしまだ相羽に自分
の想いを伝える前だったら、多少は未練も残っただろう。けれど一方的な想いは、
もう終わってしまった。他に親しい友だちがいる訳でもない。もう少し時間があ
れば、純子とは親しくなれたかも知れないが。
「叔母さんね、愛美ちゃんが出掛けている間、お義兄さんのことを北原さんにお
願いして、銀行に行ってきたのよ」
叔母さんは自分のハンドバッグを引き寄せ、中から一枚の白い封筒を取り出し
た。
「この前私、ここに来てお義兄さんとお話をしたでしょ。あの後、お義兄さんか
ら手紙が来たのよ」
「えっ?」
それは愛美にとって、全くの初耳だった。
一体、父はどんな用事があって、叔母さんに手紙を出したと言うのだろう。ま
さかお金の無心をしていたのでは? それともやはり叔母さんの用意していた通
帳が欲しくて、愛美を養子にやる約束をしようとしたのか。
愛美の不安を読みとったのだろう。その愛美の考えを否定するかのように、叔
母さんは話を続けた。
「手紙には鍵が入っていたの。銀行の、貸金庫の鍵だったわ。そして手紙には番
号と一緒に、こう書いたあったわ。『自分にもしものことがあったら、雪乃さん
がこの金庫を開けてくれ』って」
#4319/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 0 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(49) 悠歩
★内容
これで先ほどの考えは、愛美の早とちりだと分かった。だが他に分からないこ
とが、発生してしった。もしものことがあったら………父はあの時にもう、自分
の病気を知っていたと言うことなのか。
「でね、その金庫を開けに行って来たの。この封筒は、金庫に入っていたものよ。
お義兄さんが、愛美ちゃんに宛てた手紙ね」
すうっ、と叔母さんの手が動き、畳の上を滑るようにして封筒が愛美へと差し
出された。封筒の表には、黒いボールペンで『愛美へ』と書かれていた。見覚え
のある、父の筆跡で。
愛美は叔母さんの顔を見つめた。
「読んでご覧んなさい」
優しく微笑み、叔母さんは頷く。
父は愛美に、何を書き残したと言うのだろう。知ることが恐かった。もし、愛
美に対する不満が書き連ねてあったとしたら………立ち直れなくなりそうだった。
震える手で、封筒の中から綺麗に三つ折りにされた便せんを出して広げる。声
を出さず、愛美は目で手紙を読み始めた。
『愛しい娘、愛美へ。
この手紙がお前の手元に届いているかは分からない。
この手紙を、お前に見せるかどうかは雪乃さんへと一任している。これからお
前を世話してくれるだろう雪乃さんが、見せるべきでないと判断すれば仕方ない。
客観的に考えれば、私も見せるべきでないと思うだろう。その方が、お前の心が
傷つかないで済む。
私はお前の心に、要らぬ傷になるかも知れない事を書こうとしているのだ。
これをお前が読んでしまえば、いままで私がお前に嫌われようとしていた事が
無意味になる。我ながら、馬鹿な事をしようとしている。
だが書かずにはいられないのだ。雪乃さんの判断がどうなるかは考えず、続け
て行こう。
お前にこうして手紙を書くのは、初めての事だったと思う。どうにも不馴れで、
何をどう書いていいのか分からない。はっきり言って、テレくさいのだ。
しかしいまさら言葉で伝えるのも、どうもバツが悪くて、手紙以外に手段はな
さそうだ。
これをお前が読んでいる時には、私はもうこの世にいないはずだ。
こう書くと、自分でもなんともおかしな気分だ。まるでテレビドラマの登場人
物にでもなったみたいだな。
きっと私は、死ぬ間際まで、お前に憎まれ口を叩いていただろう。そうすると、
決めていたから。
自分の病気が何であるのか。おおよそ分かっている。
吐血の回数、頻繁に起きる痛みから、私の命もそう長い物ではないと思われる。
死ぬことが恐くないと言えば嘘になる。しかし自分がこれまでにしてきた事を思
えば、これも報いあきらめるしかない。
ただ心配なのは、愛美、お前のことだ。
母さんが死んだとき、私は生きる希望を失ってしまったような気がした。全て
の事が、もうどうでもいいように思えた。
今にして思えば、私はつくづく馬鹿だった。
愛美がそばに居てくれたのに。
きっと愛美よ、お前の方が辛かっただろうに。父親である私が、残された幼い
娘を守ってやらなければならなかったのに。
私は甘えてしまった。父親が、娘にだ。
酒に溺れ、仕事を辞めてしまったろくでなしに、お前は良くつくしてくれた。
心配した雪乃さんが、何度も訪ねて来てくれたな。雪乃さんはずいぶんと私の
事を責めたものだ。その度、愛美が私を庇ってくれた。
あれから今日まで、きっと私が死ぬ直前まで、お前は私に良くしてくれるのだ
ろう。
今更私が言えた事ではないが、お前のことは雪乃さんに頼んでおく。雪乃さん
になら、安心してお前を任せられるだろう。
本当なら、もっと早くにお前を雪乃さんの所に預ければ良かったのだ。
愛美は母さんに良く似ている。面影はもちろん、その優しい心根までも。いつ
か愛想を尽かし、私のもとを去って行くだろう。いつまでも私と暮らすより、そ
れがお前のためには一番いいのだ。そう思っていた。
けれど、私がどんなに辛くあたっても、お前は出て行くどころか、本当に良く
つくしてくれた。だからまた、私は甘えてしまう。
誤解しないで欲しい。
私は決して、お前に出て行って欲しいと願っていた訳ではない。それどころか、
いつお前が私一人を残し、家を出てしまうのかと毎日のように恐がっていたのだ。
聞いて欲しい。
今更こんな事を言っても、言い訳としか思えないだろう。また、結局出来もし
なかった事を偉そうに、お前に言えるような父親ではない。クズなら最期までク
ズであったと、お前に思われたまま逝くべきなのだろう。心優しいお前に、こん
な事を伝えればきっと悲しんでしまう。それが分かっていながら、私は伝えよう
としている。私がこの世を去った後も、お前にろくでなしの父親であったと一生
思われ続ける事が恐い。私は憶病者なのだ。
確かに母さんが死んでしばらく、かなり長い間だったが、私は何もする気にな
れず、自堕落的な生活を続けていた。だが飽くまでも献身的なお前のおかげで、
立ち直らなければならないと考える様になった。信じて欲しい。私は、お前のた
めに立ち直りたいと思ったのだ。
その時だ、自分の身体に異変を感じたのは。
お前も知っての通り、母さんの死後、酒に溺れた私は身体を悪くしてしまった。
戸田先生からも、これ以上酒を続ければ命の保証はしかねると言われていたのに。
その後も飲み続けてしまった。
立ち直りを決心したのが、余りにも遅すぎたようだ。しかしまだ、医者に懸か
れば、入院すれば治るかも知れない。そうも思った。
私とて死ぬ事は恐い。だからこそも母さんが逝ってしまった時も、その後を追
おうとはせず、ただ現実から逃げ出そうとしたのだ。
だが医者に行くにも、もう金などない。散々好き勝手な事を続け、貯金も使い
果たし、マンションからアパートへと移り住まなければならない状態になってい
た。
もしお前が私の病気を知れば、どんな事をしてでも病院に入れようとするだろ
う。しかしそれでなくともお前は無理をし過ぎていた。朝と夜とのアルバイト。
しかも口には出さなかったが、そのせいで成績が下がり世間の人に父親のせいだ
と言われぬようにと、睡眠時間を削って勉強もしていた。
そんな娘に己の命惜しさに、これ以上負担を掛けるような真似は父親として、
いや人間として出来ない。
信用を失ってしまった私に、金を借りるあてなどもない。もし借りれたとして
も、病気が長引けば、治ることなく死んでしまったら、結局はお前にそのツケを
まわす事になる。
事情を話せば、雪乃さんならなんとかしてくれただろう。だが雪乃さんは、私
に何かあった時、お前の事を頼める唯一の人。その時のため、私の事での借金な
どしたくない。
きっとお前に辛い想いを続けさせた報いが来たのかも知れない。お前だけでは
ない。私は数え切れないほど、人様に迷惑を掛けていた。その報いなのだ。
それに、どうせ死んでしまうなら借金をしても無駄になってしまう。どこから
借りるにしろ、他に身内が無い以上、私が死ねばやがてそれがお前へと廻ってし
まうだろう。
死んでまで、お前に負担を掛けてしまったら、それこそ私は父親として最低だ。
私は考えた。
残された時間で、私に出来る事は無いのかと。
病院に入り、沢山の治療費を使って少しばかりの延命をするのではなく、これ
まで迷惑ばかりを掛けてきたお前に、何かしてやれる事はないのかと。
私は馬鹿な父親だ。何も無い、何もしてやれない。
せめて幾らかの金を残したいと思っても、長く酒に溺れていた親父に出来る仕
事はそうそう有りはしなかった。それでも少しずつ、残した金をこの手紙と一緒
に金庫に預けておいた。高校に入るとき役立てろと言えるほどの金額ではないが、
何かお前の好きな物を買うといい。
街で見掛けた、愛美と同じ年頃の女の子が綺麗な服を着て、楽しそうにしてい
るのを見て、それと比べてお前がどんなに我慢ばかりしていたのか。本当にすま
ない。
それから、私はお前に徹底的に嫌われる事にした。
お前が心から私を嫌う様になれば、私の死を待たずして愛想を尽かし、雪乃さ
んの所に行くかも知れない。雪乃さんなら、お前に普通の女の子の暮らしをさせ
てくれるはずだ。
お前が心底私を憎む様になれば、私の死を悲しまずに済むかも知れない。厄介
者が居なくなったと、胸を撫で下ろすかも知れない。
それから私は、前にも増して、お前に辛くあたった。
これは痛みで顔が歪むのを、お前に気づかせないようにするのにも役だった。
小遣い程度の金しか残せない、駄目な父親が精一杯考えた結果だ。
そして分かった。お前は、私が考えていたよりも、遥かに優しい子だと。
私がどんなに酷い事をしても、お前は私を見捨てようとはしなかった。それど
ころか、自分が悪いのだと言って私につくしてくれる。
お前ならきっと、私が死んでも泣いてくれるに違いない。もうだいぶ前から、
それに気がついたのだが、もう今更優しい父親になる事も出来なかった。
最期の最期まで、お前には本当に悪かったと思っている。
この間の三万円、すまなかった。
外すつもりで投げた湯呑みだったが、怪我はしなかっただろうか。
幾ら詫びの言葉を連ねても足りない。
これからは、どうか幸せになっておくれ。
何も出来なかった父さんだが、天国からお前を見守らせて欲しい。
本当に、本当に愛しているよ、愛美。
これだけは自信を持って言える。
さよなら。
愛しい我が娘、愛美。
愛している
愛している
愛している
出来る事なら最期にもう一度、幼かった頃の様にお前を抱きしめてやりたい』
この手紙を書いたときには、父の身体は相当悪かったのだろう。痛みを堪えな
がら書いた証に、手紙全文に渡って文字が震えている。
『今日まで、よく我慢できたものだ。かなり辛かったはずだよ』
戸田医師の言葉を思い出す。いろいろなことが一遍に起きたため、愛美は考え
られないでいたが、突然倒れた訳ではない。かなり前から自覚症状があったのだ。
手紙の文字が良く見えないのは、それが震えて読み辛かったためだけでない。
目に浮かんだ涙が、愛美の視界を曇らせていたせいだ。
『あ、い……し、て、い、た………よ』
愛してした。
父が最期に残した言葉が、いまようやく理解出来た。
「お父さんは………馬鹿じゃない………馬鹿なのは、私………」
もう消えてしまったと思っていた悲しみが、甦る。激しい後悔の念と共に。
父はこんなにも自分のことを思ってくれていたのに、それに気づかなかった。
もしもっと早くに、父の心に気づいていれば。
もっともっと、父との思い出を残せたかも知れない。
父の最期を、もっと穏やかな気持ちにさせてやれたかも知れない。
いや、愛美がもっと強引に通院を止めてしまった父を病院に行かせていたら、
命さえ失わずに済んだかも知れない。
「私が………私が、もっとしっかりしていれば………」
愛美は強く爪を噛む。
「愛美ちゃん、あなたが自分を責めることはないのよ。私もすっかり忘れてしま
ってたわ………お義兄さんの性格。あの人、凄い照れ屋で。本当の気持ちを素直
に出せない人だった」
そう言って、叔母さんは愛美に銀行の通帳を手渡した。涙に霞んだ視界では、
はっきりと見て取れないが、表紙には『西崎愛美』と記入されているようだ。
「手紙と一緒に、金庫に入っていたものよ。八十万ほどあるんだけれど………と
にかく開けてみて。だけど、その前に涙をお拭きなさい」
愛美の手には、通帳と一緒に叔母さんのハンカチが握らされていた。言われた
通り、涙を拭くためにハンカチを顔に寄せると、叔母さんの香りがした。
涙を拭った愛美は、素早く通帳を開いた。すぐに湧き出る次の涙で、再び視界
が塞がれる前に。
通帳の最後に記された金額は、六桁の数字で示されていた。最初の二桁は
「82」、叔母さんの言うように、八十万円と少し。
「分かるかしら、その毎回の入金額のところ」
言われるまま、愛美は入金額を一つずつ見ていく。そして気がついた。
それぞれの入金額は決して多くない。千円、二千円、多いときでも一万円を越
しているのはわずかだった。しかし通帳が作られた日付から、ほとんど銀行の営
業日には休みなく入金が続けられている。時折ある大きな金額、最近では三万円
が最高額だった。父は家から持ち出したお金を、遊びに使っていたのではなかっ
た。
そして、ほぼ全ての入金が一円の位まで、数字を刻んでいたのだ。
「これって、もしかして………」
「ええ。たぶんお義兄さんは、その時に持っていたお金を全部、一円でも多く残
そうとしたのね」
通帳を見ていられた時間は、思っていたより短かった。溢れてきた涙が、通帳
に染みを作る。
「お義兄さんね、私にも手紙を残していたわ。愛美ちゃんのことを頼むって、何
度も何度も書いてあった。本当に愛美ちゃんのことを、愛していたのね。
そのお金もね、工事現場での交通整理や、ガードマンなんかの日雇いの仕事を
して稼いだらしいわ。やましいお金じゃないから、安心してくれって」
#4320/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 1 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(50) 悠歩
★内容
「どうして………」
喉が詰まって、上手く声が出ない。
愛美は時間をおいて、もう一度言い直した。
「どうして、お父さんはそんなことを。きっと………立っていることだって、辛
かったはずなのに」
愛美は夜の工事現場で、車を誘導している父の姿を想像した。額に浮かんでい
るのは、労働の汗でなく、苦痛のための脂汗。それでも周囲に病気であることが
知れれば、職を失う。痛みを堪え、平静を装い仕事を続ける父。
「それだけ、愛美ちゃんのことを愛していたのね。確かに姉さんが死んでからし
ばらくは、お酒に溺れてしまって、駄目な人だと思っていたけど」
叔母さんは、ゆっくりと首を左右に振った。そして、愛美の身体を強く抱きし
めた。
「いいお父さんだったのね。ほんのちょっぴり、心に弱いところもあったかも知
れない。だけど………だけど最期は、愛美ちゃんのために一生懸命………愛美ち
ゃんへの接し方は、正しくなかったと思う。でも、お父さんは本当に愛美ちゃん
のことを想っていたのね」
叔母さんの言葉を聞きながら、愛美は震えていた。
ぶるぶると、ぶるぶると震え、涙も止めることが出来ない。
流れる涙が、愛美を抱きしめた叔母さんの胸を濡らす。叔母さんはそれを気に
するどころか、さらに強く抱きしめてしれた。
「………あ、う……そ、な………わたし……しら、いから………」
言いたいことが、言葉として発音出来ない。
悲しみで、身体が溶け出してしまいそうだった。
父はこんなにも、愛美のことを想ってくれていたのに。
父の気持ちを、察することが出来なかった自分が悔しかった。
たった一晩で、父の死に対する悲しみの薄れ懸かっていた自分が許せなかった。
本当は心の奥底に閉じこめていたいただけの悲しみが、扉を失い愛美の髪の先
から爪先にまで行き渡る。
「思う存分、泣きなさい。叔母さんね、お義兄さんの手紙、愛美ちゃんには見せ
ない方がいいとも考えたの。でも、二人っきりの親子だったんだものね。お父さ
んの気持ち、愛美ちゃんには知る権利があるものね」
叔母さんの声を遠くに聞きながら、悲しみだけの時間を愛美は泣いて過ごした。
優しく髪を撫でている手が誰のものなのか、もう愛美には認識することすら困難
になっている。
悲しくて悲しくてしかたない。
けれど眠くてたまらない。
愛美の意識は、次第に薄れて行った。叔母さんの胸に抱かれたまま、まるで幼
子のように泣き疲れて愛美は眠ってしまった。
夢の中の愛美は、本当に幼子になっていた。
何が悲しいのか、母の胸の中でぐずっている。けれど母の胸は暖かく、とても
落ちつけた。母の正面、幼い愛美の背中越しに父が優しい声で、何かを語りかけ
ている。
大きくてごつごつした手が、幼い愛美の頭を撫でた。
幼い愛美を見つめ、幸福そうに笑う父母。
暖かな空気の中、何を泣いていたのかさえ忘れ、母に抱かれて眠る幼い愛美。
そしてその三人の姿を、一歩離れたところから見守る愛美。
手を伸ばせば、触れられそうな三人。けれど愛美には、それが出来ない。
触れようとした瞬間、全てが消えそうで恐かった。
愛美には分かっていた。
それが自分の夢であることを。
もう二度と返ることのない、過去の時間であることを。
「さようなら、お父さん………お母さん。私も愛していたよ………心から」
幼い自分を起こしてしまわぬよう、愛美は小さく呟いた。
父と母がこちらを見て、微笑んでくれたような気がした。
一時に比べれば、雨の降りも落ち着いてきた。とは言えその勢いは依然として
強く、陽が落ちたこともあり、寒さは降り始めの頃より増してきている。
幸いだったのは、行きには一本しかなかった傘が愛美から借りて二本になり、
それぞれが持てるようになったことくらいだろう。
相羽の方はどうか知らないが、純子には気持ちの重い家路となった。
その一番の原因は、やはり美璃佳たちの無事が確認出来なかったことだ。
あの藤井という人は、確かに二時間したら電話をすると言っていた。しかしそ
の二時間はとうに過ぎたが、とうとう電話はなかった。美璃佳たちの家出に少な
からず責任を感じている純子にしてみれば、気が気ではない。その理由を自分な
りに考えてみる。
まず駿が、単純に電話することを忘れてしまった。美璃佳たちがみつからず、
探すことに必死で忘れているのか、反対に見つかってほっとして忘れてしまった
か。もしみつかったのなら、純子や愛美も心配しているのは分かっているのだか
ら、すぐにでも連絡をして来て良さそうなものだ。これは前者、まだみつからず
にいる可能性が強いように思える。どちらにしても、約束をしたのにそれを守ら
ない駿に対し、腹だたしい気持ちになってしまう。
もう一つは、電話のことを忘れてはいなくても、掛けられるような状態ではな
い場合。これはいろいろと想像出来るが、美璃佳たちの所在は突き止めたが、電
話など存在しない。あるいは駿自身が何かのハプニングで、電話出来ない状況に
ある。
どう考えてみても、一層不安になるような理由しか浮かんでこない。美璃佳と
はまだ二度しか会っていない純子にしてみれば、探したくとも行き先の見当はつ
かない。あとは、愛美から来るであろう連絡を待つしかないのだ。
何とか気持ちを切り替えようと、相羽の方へと視線を向けてみる。だがこれも
また、さらに重たい気分にさせられるだけだった。
愛美のアパートへ着いてから、短い単語以外、ほとんど口に出していない。
これは純子も同じではあるが、さすがに通夜の席、改めて愛美が父親を亡くし
たばかりだと知らされると、まさか陽気な話をする訳にもいかない。
しかし駿の部屋で二人きりになった時も、相羽は難しい顔をしたまま何も話さ
なかった。好意的に見れば、彼もまた美璃佳たちの心配をしていたのだとも思え
るのだが。
それとも愛美のアパートに向かう途中でのことを、怒っているのだろうか。い
まもなお、相羽は見た人間誰もが分かるように、不機嫌さをありありと顔に浮か
べている。
アパートにいた時には、愛美に対する遠慮もあったがいつまでも仏頂面を続け
ている相羽に、つい純子も苛立ちを覚えてしまった。
「ねえ、相羽くん。私、なんかいけないことをした?」
「えっ、なんだって?」
雨の音にかき消されて、純子の声が届かなかったのか、相羽は聞き返してきた。
「ほら、危ない」
前から車が来たことに気づいた純子は、質問を繰り返すより先に相羽の手を引
き、道の脇に寄る。横を通り過ぎる車が跳ねた水が掛かりそうになるのを、間一
髪で避けながら。
「さっきからずっと難しい顔をしてるけど、私が怒らせたのかな?」
「えっ、別に怒ってなんかいないけど」
その質問が、如何にも意外なものであったかのような相羽の反応。苦虫を噛み
潰したかのような表情が、瞬時にきょとんとした顔になった。
「どうしてそんなことを、訊くの?」
「どうしてって………さっきからずっと難しい顔、してたじゃない」
相羽の余りにもあっさりとした受け答えが、かえって腹だたしい。
「しかめっ面は、涼原さんのほうだと思うけど」
そう言って相羽は小さく吹き出した。
「だいたい、お通夜の最中に楽しそうな顔は出来ないだろう。美璃佳ちゃんたち
も、まだみつかっていないようだし」
もっともな、純子の予想していた通りの答え。それがまた何だか気にくわない
が、怒る理由にもならない。返す言葉もなく、相羽の顔を見つめる。
「まだ何か、御用かな」
おどけているのか、やけに芝居がかった口調で相羽は言った。
「あ、あのさ………」
そんな相羽の様子に腹をたてたことが、ばかばかしくなってしまった。純子は
話題を変えることにした。
ところが口を開いてはみたものの、特別何を話そうか決めてはいなかった。美
璃佳たちの話をすれば、またややこしいことになりかねない。
「相羽くん、なんで学生服着てたのかな」
考えた挙げ句、出てきた言葉はつまらない質問だった。
「中学生が学生服を着てるのは、当たり前のことだと思うけど………」
「そうじゃなくて。だって今日はクラブもなかったでしょう。私と会ったとき、
相羽くん、別に学校の帰りって訳でもなかったみたいだし。なんか変だな、って
思ったの」
「変じゃないと思うけどなあ。ぼくは喪服なんて持ってないし………普通、学生
がお通夜とかお葬式に出るときは、学生服を着て行くものじゃないかな」
「ああ、そう言えばそうね………って、えっ! じゃあ………?」
それでは相羽は、初めから愛美のところへ行くつもりだったことになる。同じ
学校で同じ学年の生徒。その父親が亡くなったと知れば、線香の一本もやりに行
こうと言うのも不思議ではない。
けれど愛美の父親の死について、純子たちのクラスでは知らされていない。愛
美のクラスでだけ担任から聞かされたらしい。純子にしても、そのクラスにいた
友だちから聞いて初めて知ったことだ。
そう言った情報は、得てして短時間に広まるものだ。まして特に箝口令(かん
こうれい)が敷かれた訳でもない。一クラス分もの伝達者がいれば、なおのこと。
相羽もまた、その類の情報を聞きつけたのだとも考えられる。
ただ父親の死を聞いて駆けつけるほど、愛美と相羽が親しかったとは、純子は
知らなかった。
「相羽くん、西崎さんのこと知ってたんだ」
「そりゃあ、同じ学校だもの」
一瞬、ほんの一瞬ではあったが、相羽の目が泳いでいたのを純子は見逃さなか
った。
「へえぇ。なるほど」
数分前までは愛美の父親の死や、美璃佳たちのことで深刻だった純子に仄かな
いたずら心が芽生えた。
そもそも「同じ学校だから」と言う説明は、もっともらしいが説得力がない。
愛美は純子や相羽とは別の小学校の出身者。しかも六年生になってから転校して
きた相羽が、中学校に上がる前に愛美に知り合っている可能性は少ない。
中学生になってからも、愛美は目立った生徒ではなかったはずだ。事実、今日
の通夜さえ、純子たち以外にはクラス代表だけで、同じ中学校の友だちは誰も訪
ねてこなかった。
そんな状況の中で、相羽が愛美の父親の亡くなったことを知っていた。それだ
けならともかく、どうやら相羽は純子と出会ったあの時点で愛美のアパートに向
かう意志があったらしい。
思い出してみれば、純子は愛美からアパートに住んでいるということを口止め
されていた。なのに相羽は、愛美のアパートを知っていた。それに相羽と出会っ
た時の愛美の様子。純子でなくとも、二人の仲について勘ぐらない方がおかしい。
『自分の知らない相羽くんが、まだまだいっぱいあるんだな』
そう思った純子の顔は、無意識ににやけていたらしい。
「なにが、なるほどなんだよ。ニヤニヤして、気持ち悪いよ」
「だいじょうぶ。誰にも話したりしないから」
「ちょっと、なんの話をしてるの?」
「西崎さんって、暗い感じがするけれど。よく見れば可愛らしいものね。それに
本当は、とっても優しい子だし。お父さんを亡くされて、しばらくは大変だろう
けど………相羽くんが支えてあげれば、きっと明るくなると思うよ」
「何か、勘違いしてない?」
ふう、と露骨なため息を吐きながら相羽は肩を竦めた。
「だから、誰にも話さないって」
純子は初めのうち、それが相羽の照れ隠しなのだと思った。
「本当に………なにも分かっていないくせに、想像で勝手なことを言わないで欲
しいな」
今度はかなりきつい口調だった。
相羽は明らかに気分を害しているようだ。
「そんな。違うなら謝るけど………怒らなくても、いいと思う」
「怒ってはいないよ」
そうは応えたが、相羽が怒っているのはどう見たところで間違いはない。
「怒ってはいないけど、そうやって余計な詮索をするのは、感心しないよ。ぼく
はいいけれど、西崎さんに失礼だ」
「ごめんなさい………ちょっと軽薄だったわ。ほんと………謝る、ごめんなさい」
相羽に気圧された純子は、素直に頭を下げるしかなかった。
「いや、その………分かってくれればいいんだ。ぼくもちょっと、強く言い過ぎ
たみたいだ。でも本当にぼくと西崎さんは、ただの同級生ということ以外、なん
でもないんだ」
純子が詫びた途端、相羽の態度は一転して穏やかに、と言うよりかえって恐縮
したものになる。
「それにぼくは………」
「えっ?」
「あ、うん………なんでもない。だいぶ暗くなったし、早く帰ろう。いつ、電話
があるか分からないし。送って行くよ」
「平気よ、そんなに遅い時間じゃないもの」
「そうは行かないよ。女の子を夜道で、一人歩きさせるような真似は出来ない」
「もう、古風なんだから」
もしかしたら、もう愛美から電話が来ているかも知れない。もしそうなら、送
ってもらった方がすぐに相羽にも伝えられる。相羽にしても、美璃佳たちのこと
は気になっているだろう。
また雨が激しくなった。
風が出て、雨は斜め方向から降ってくる。
#4321/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 2 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(51) 悠歩
★内容
お喋りはこのくらいにして、早く家に帰った方が良さそうだ。
家に着いたら、まず温かいお風呂に入りたい。
純子は前に立った相羽に先導されるように、家路を急いだ。相羽が前に立って
くれたことで、斜めに降る雨も純子には届かなかった。
「このへんだったと、おもうけど………」
立ち止まり、良太は足元を調べてみたが、よく分からない。空は雲に覆われて
いるため、はっきりと確認は出来ないがもう陽は沈んでしまったらしい。ただで
さえ暗い林の中が、より一層暗くなってしまった。
「やっぱりそうだ」
屈み込むと、積もった枯れ葉が除けられ、土がむき出しになった部分が見つか
った。土の上には、何かが滑った跡が残されている。良太が転んだのは、ここに
間違いない。
「おにいちゃん、しばらくこのへんをさがしてみるから。美璃佳は、あの木のし
たでまってろ」
良太は後ろに立っていた美璃佳へと、声を掛けた。
美璃佳は雨具の代わりに良太のジャンパーを頭から被っていたが、水をたっぷ
りと吸った短いスカートは、すっかりと色を変えていた。泥だらけになった『フ
ラッシュ・レディ』のキャラクター入りの靴が、良太に近づこう歩き出すと、ぐ
ちゃぐちゃと音を立てる。
ジャンパーを美璃佳に与えてしまった良太の方は、もっと酷い。濡れたシャツ
は吸水力の限界に達し、ジャンパーを着ていたときの数倍の重量で良太の身体に
まとわりついている。額に貼り付いた前髪から流れ落ちる水滴が、視界を曇らせ
る。
「みりかもさがす」
酷く思い詰めたような表情で、美璃佳は良太の言葉に逆らい、そう応えた。
良太に比べれば、まだ幾分ましではあるが美璃佳も随分と濡れていることに変
わりない。さっきから、けんけんと繰り返す咳も気に懸かる。出来れば少しでも、
冷たい雨に打たれる時間を減らしてやりたがったが、こうなった美璃佳が聞き分
けのないことを良太は知っていた。
時間を掛けて説得するより、一刻も早く人形を見つけたほうがいい。
一分、一秒毎に暗さは増して行く。帰りのことを考えても、あまり時間を無駄
にしたくない。
良太と美璃佳は手を取り合い、転んだ場所の近くを探した。けれど美璃佳の人
形は、影も形も見当たらなかった。
確かにだいぶ暗くなって自分の足元さえ見にくくはなっているが、くすんだ色
に包まれた中、人形が落ちていればなんとか分かりそうなものだ。まさか人形が、
自分で歩いてどこかに行ってしまった訳でもないだろう。
「じゅんちゃん、いないよぉ………」
転んだ場所を中心に、ぐるりと周囲を探しても見つからない。美璃佳は座り込
んで泣き出してしまった。
「もう、あきらめてかえろうか。おにいちゃんが、おんぶしてやるからさ」
「だめだよぉ………じゅんちゃん、ないてるもん。さむいよ、こわいよ、ってな
いてるもん」
濡れた手で涙を拭うものだから、美璃佳の顔はますます濡れてしまった。顔を
こすったはずみで、頭に掛けていたジャンパーがずり落ちて泥にまみれてしまう。
「どうしよう………」
泣いているのは、人形ではなく美璃佳の方だった。
寒くて震えているのは、人形でなく美璃佳の方だった。
人形は転んだときでなく、他の場所で落としてしまったのかも知れない。それ
とも鳥か何かが持って行ってしまったのかも。
良太自身も身体が冷えて、先ほどから何度も鼻をすすっている。まして美璃佳
は前に高熱を出して寝込んだこともあり、それがぶり返してしまわないか心配だ
った。もう力ずくでも連れて戻った方がいい。
「だめだ、もうかえろう」
良太は、美璃佳の手を引いて立ち上がらせようとした。
「いやああああぁ!」
ところが美璃佳は立ち上がるどころか、大声で叫びながら地面に寝ころんでし
まった。「おきるんだ、美璃佳! どろだらけになっちゃう」
良太がなおも強引に立ち上がらせようとする、美璃佳はその手を振りきり、所
々に水溜まりの出来た地面を転がりだしてしまった。
「やだやだやだやだやだ、じゅんちゃんをさがすのぉ」
身体中に濡れた葉っぱを貼り付け、水しぶきを上げ、泥だらけになって美璃佳
は転がり続ける。
「ばか、あぶない! とまるんだ、美璃佳!」
良太は慌ててその後を追った。けれどぬかるんだ地面では、思うように走れな
い。転がる美璃佳の方が、かえって早くさえ感じる。
単なる偶然か、それとも美璃佳が考えて転がっているのか、上手く木に当たる
ことなく済んでいるが、それがいつまでも続くとは限らない。そう思っていると
案の定、がつ、と鈍い音がしたかと思うと、美璃佳の身体は、頭を木の根元にぶ
つけて止まった。
「………ふ」
すぐさま、良太は声にならない声で泣く美璃佳の身体をつかんだ。
予想もしていなかった重量が手に掛かり、何が起きたのかと慌てた良太だった
が、とにかく全力で美璃佳の身体を引っ張る。それから美璃佳を抱き起こし、視
界の中に妹の重量が増した原因を捉えて、良太は寒さとは別の震えを感じた。
「ふぁ……ふぁ………ふぁあああん」
美璃佳も分かっていたらしい。良太に強く抱きつくと、頭の痛みと恐怖の両方
から激しく泣いた。
美璃佳のぶつかった木の後ろには、地面がなかったのだ。暗くて深さは窺えな
かったが、崖になっていたのだ。
もし木にぶつからなければ、美璃佳はそこから落ちて死んでいたかも知れない。
そう思った瞬間、張りつめていたものが良太の中で切れてしまった。
「ばぁ………ばぁか………ばかあっ! 美璃佳の……ばかあ」
ぼろぼろと涙がこぼれる。
足から力が消え失せ、その場にへたり込んでしまった。
それでも、美璃佳を抱きしめた手だけは離さない。固まったように離せない。
「ふぁあああ、ふぁあああっ」
「ばかあ、ああっ……あああっ………」
暗い林の中で、二人の泣き声が響き渡った。
近くの大きな木の根元で休ませてはいたが、美璃佳の具合は悪くなって行くば
かりだった。ひっきりなしに咳をして、ぶるぶると震えている。良太の手が冷え
切って感覚を失ってしまったせいもあるが、美璃佳の体温もずいぶん下がってい
るようだ。
それなのに、美璃佳は帰ることに同意をしない。無理矢理にでも、と力ずくに
でると噛みついてまでも抵抗をする。
「じゅんちゃんも………いっしょじゃなきゃ、だめなの」
この一点張りだった。
他に手だての思いつかない良太は、不安を抱えながらももう一度辺りを調べて
みることにした。そしてふと、あることを思いついた。
あの時は長く感じたが、美璃佳が転がっていたのは二メートル程度の距離だっ
た。つまりあの崖は、良太の転んだ場所からもそれほど離れてはいない。
もしや、と思いながらも崖の下を覗いてみた。
暗くて何も見えない。それでもじっと目を凝らしていると、何かぼんやりとだ
が白いものが見えてきた。
「あれ、もしかして?」
なおも必死に、その白いものへと焦点を合わせてみる。そしてどうにか、それ
が人形の顔であると分かった。
「あった! 人形、あったぞ!」
「ほんと」
振り返って叫ぶと、ふらふらと美璃佳が立ち上がろうとする。
「まった。美璃佳はあぶないから、くるな。ちゃんと、おにいちゃんが、とって
きてやる」
そうは言ったものの、周りが見えないだけに恐ろしい。ただ幸いなことに、人
形はそれほど遠いところにあるのでもなかった。良太のいるところから、二メー
トル、いや三メートルほどか。崖の斜面に引っかかって止まっているらしい。
良太はまず、腹這いになって手を伸ばしてみたが、これは全く届かない。次に
木の幹をしっかりとつかんで足を伸ばす。これも届きはしなかったが、足で探っ
てみると目で見た感じと違って切り立った崖、というほどのものでもない。少し
勾配のきつい斜面ではあるけれど。周りが暗いので、実際より角度があるように
感じるのだろう。
なんとか降りられそうだが、それでも恐いことには代わりない。けれどあの人
形には、美璃佳の命が懸かっている。良太にはそんな気がした。
意を決すると、木をつかんだまま両足を斜面に下ろす。恐る恐る足場を決めて、
ゆっくり体重を移動させる。
「あぶないよぉ………」
言いつけを守り、少し離れたところから美璃佳が心配そうにしている。安心さ
せるために、美璃佳に笑って見せようとして良太は顔を上げた。その瞬間、良太
の意志に反して重心が一気に足元へと移動してしまった。
「あっ」と言う叫びすら、吐く暇がなかった。
かじかんだ指先は、咄嗟の出来事に身体を支えることが出来ず、幹から離れて
しまった。
良太の目に、美璃佳の姿が映ったの瞬きよりも短い瞬間だった。あとは闇。
黒一色の世界の中に、良太は落ちて行った。
天国って、どんなところだろう。
楽しいところかな。
おいしいものは、いっぱいあるのかな。
だったら、美璃佳にもたくさん食べさせてあげたいな。
あれ? そう言えば美璃佳はどこにいるんだろう。
ああ、そうか。ぼくは一人で、崖から落ちたんだ。
ぼく、死んじゃったんだ。美璃佳を残して。
………美璃佳。
美璃佳一人で、だいじょうぶかな。
ちゃんと帰れるかな。
寂しくて泣いていないかな。
身体、だいじょうぶかな。風邪ひいてたみたいだけれど。
やっぱりだめだよ………美璃佳をひとりぽっちに出来ない。
ぼくがこんなところまで、連れてきてしまったんだもん。
ぼくがちゃんと、駿お兄ちゃんたちのところへ帰してやらないと。
だからぼく、まだ死ねないよ………
どこ、と特定することは出来ない。とにかく身体中、全てが痛い。怪我をして
いるのかも知れないが、よく分からない。意識があるのだから、目は開いている
のだと思うのだが、何も見えない。
上の方から、何か聞こえてくる。初めは猫が鳴いているのかと思ったが、すぐ
にそうでないと分かった。美璃佳が良太を呼んでいるのだ。
「ふ………あぁ、に、ちゃん………おにいちゃん」
良太は頭を斜面の上にして、仰向けに倒れていた。顔を上げて、妹の姿を確認
しようとするが、痛くて首が動かせない。
「に、ちゃ……に、ちゃあぁぁ」
美璃佳の声が一段と大きくなる。ぱらぱらと、湿った土が良太の顔に降り懸か
った。良太の姿を探そうと、美璃佳が崖から身を乗り出しているのだろうか。美
璃佳まで落ちてしまったら大変だ。
早く自分が無事であることを、美璃佳に伝えなくては。
「……びっ」
美璃佳、と叫ぼうとしたが、喉が詰まって声が出ない。その間にも、また土が
降ってきた。雨のせいで、地面が脆くなっているようだ。このままでは、いつ、
美璃佳が落ちてもおかしくない。
「みり、か」
今度はどうにか、声を出せた。
「おにいちゃん………おにいちゃん、いきてるの? おにいちゃん」
「みりか、がけからはなれるんだ」
「でもぉ………」
「いいから、はやく」
痛みを堪えながら、良太は叫ぶ。それが声に迫力をもたらしたらしく、美璃佳
の「うん」と言う返事と一緒に、後ろに下がっていく音が聞こえた。
「……に、ちゃ……だいじょ、ぶ?」
美璃佳の声は、さっきより少し遠くなっていた。
「うん、だいじょうぶだよ。でも………ごめん……人形、どこかへいっちゃった」
「い、よ………にいちゃ、はやく………あがて、きてよぉ」
一人きりで、上に残された美璃佳も不安で仕方ないのだろう。早く、美璃佳の
元へ行ってやりたい。良太は、自分の状態を確認するため、ゆっくりと顔をお腹
の方へ上げる。
美璃佳の方を見ようとした時に比べ、楽に顔を動かすことが出来た。動かす方
向が反対だからなのか、時間が経って首の痛みが和らいだせいなのか。
しかしそれでもお腹の辺りまでがぼんやりと見えるだけで、足元のほうは分か
らない。全身を包んでいた痛みは治まってきたが、その代わりに首筋や左の肘、
そして右の足の痛みが克明になっていた。
そのまま上半身を起こそうとして、両腕に力を込める。すると、頭の周辺の土
が、ざざっと音を立てて滑り落ちて行った。同時に、良太の足に激痛が走った。
「あふっ!」
「おにいちゃん?」
思わずもれた良太の叫びに、美璃佳が反応した。
「な、んでもない」
そう応えた良太だったが、その唇はぶるぶると震えていた。
#4322/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 3 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(52) 悠歩
★内容
骨が折れてしまったのかも知れない。頭の芯にまで響く痛みに、良太はそう考
えた。しかも痛みのある右足は、良太の腕で抱えられるかどうかという太さの倒
木に挟まれていたのだ。
初めから倒れていた木に、滑り落ちた良太の足がはまってしまったのか、良太
がぶつかって木が倒れたのか、それは分からない。しかし良太の力でその木を退
かすことはもちろん、足を抜くことも出来そうにない。
それにわずかに身を捩っただけで、雨で緩んだ周囲の土は、簡単に崩れてしま
う。下手に動けば良太もろとも、さらに下へと滑り落ちてしまうかも知れない。
美璃佳の声がそれほど遠くからは感じないので、良太のいる場所から崖の上ま
での距離は長くないはず。だが仮に足を倒木から抜くことが出来たとしても、こ
の痛みではとても上までは登れない。
雨はいまもなお、降り続ける。
足を抜くことを諦めて、また身体を倒した良太の上にも、氷のように冷たい雨
が降り注ぐ。
かじかんだ指先、わずかに動かしただけで激痛の走る足。
幼い良太の力では、どうにもならない。もちろん、美璃佳にも。
上で良太が戻って来るのを待っている美璃佳にも、雨は容赦なく降り注いでい
るのだ。美璃佳の嗚咽と咳が、良太の耳にも届いてくる。
このままでは、二人とも大変なことになってしまう。
自分がこうなってしまったのは、きっとバチがあたったのだろうと、良太は思
った。
でも美璃佳には関係ない。
アパートから逃げ出すことも、山の中に隠れようとしたのも、全部良太が一人
で決めたことだった。美璃佳は、良太に言われるまま、何も分からずに着いて来
ただけなのだ。
もし良太がこのままここで、死んでしまうのだとしても、自分のせいだ。けれ
ど妹まで巻き込む理由なんて、何もない。
「美璃佳………きこえる?」
「ん、きこえる」
「おにいちゃん、ケガしちゃったみたいなんだ………ここからうごけない」
「みりか、たすけにいく!」
「ばかいうな!」
痛みに耐えながら、出来る限りの声で美璃佳を怒鳴りつける。
「だって………だってぇ」
「美璃佳がおりようとしたら、またじめんがくずれちゃう。そしたら、美璃佳も
おにいちゃんも、もっとおっこちて、ほんとうにしんじゃうだ」
「だって、おにいちゃん、うごけないんでしょ?」
泣きながら話す美璃佳の声を聞いていると、顔に掛かる雨も妹の涙のように良
太には思えた。
「美璃佳がきたって、おにいちゃんをだっこして、のぼれないだろう?」
「うん………」
「だから………美璃佳は一人で、山をおりるんだ」
「やだ! おにいちゃんといっしょじゃなきゃ、いや」
「おにいちゃんは、うごけないんだ………だから、美璃佳が山をおりて、おとな
のひとをつれてきてほしいんだ」
「だって………みりか、ひとりじゃこわいよぉ」
「それなら、おにいちゃん、ここで死んじゃうかもしれない」
脅すことは気が退けたが、そうでも言わなければ美璃佳はとても一人で、山を
下りようとはしそうにない。
「だから、たのむよ。美璃佳」
「………わかった、みりか、おとなのひと、よんでくるぅ………」
消え入りそうな、語尾。四歳の美璃佳が、真っ暗で雨の降る山道を一人で行く
のは、とても決心のいることだろう。
「でも、はしっちゃダメだよ。ころんで、美璃佳までおにいちゃんとおんなじこ
とになったら、もうだれもたすけてくれないから」
「うん………まっててね、おにいちゃん」
ばちゃばちゃと、泥の跳ねる音がした。
意を決して美璃佳は行ったらしい。
その音を聞きながら、美璃佳が無事に帰り着くことを、良太は祈った。
そしてやがて音が聞こえなくなると、良太は美璃佳の兄から幼い男の子へと戻
る。痛みと心細さに、声を出して泣いた。
「ふぇ………ふぇっ………やだ……こわいよお………ぼく、まだ死にたくないよ
ぉ」
その良太の声を聞く者は、誰もいない。
逢魔が時。嫌な時間帯だ。理由もなく、不吉なことが起こりそうな予感に襲わ
れてしまう。
「マリア、やっぱり君は戻った方がいい」
前髪から垂れてくる雨水を拭いながら、駿は後ろを歩くマリアに言った。山に
入っていぐ降り出した雨は、一向に止みそうな気配を見せない。それどころか時
間と共に、激しさを増して行くばかりだ。
「ううん、マリアも行く」
にっこりと微笑みながら、マリアは応えた。しかしその笑みは、マリアの陽気
さを顕してのものではない。駿には、それが自分を励ましてくれるためのものの
ように思えた。
「だけど、何も良太くんたちが、この山にいるとは限らない。全くの無駄足かも
知れないんだ………だから、何もマリアまで濡れることはない」
いくらマリアが寒さに強いとは言っても、今日の冷え込みは半端ではない。降
り続ける雨に、マリアの長い髪もすっかりと濡れそぼり、雫を滴らせている。い
つもは子どもっぽく見えるマリアだったが、濡れた髪のせいでやけに色っぽく見
えた。もし一刻を争って良太たちを探しているのでなければ、駿はただ見とれて
いるばかりだっただろう。
「良太くんも美璃佳ちゃんも、マリアの大切なお友だちだもん。だから、マリア
も探すの」
「そうか。じゃあ、行こう」
駿はマリアに微笑み返し、山道を歩き出した。
たが少し前から吹き始めた風は、よりによって駿たちの進行方向、上の方から
山の斜面を舐めるようにして下りてくる。
山歩きに慣れた人間なら、さして気になるような風ではないだろう。けれど悲
しいことに、駿は体力に自信のある方ではない。わずかばかりの向かい風にでも、
体力の消耗は激しく、足の運びも遅くなる。しかもその風に乗り、大量の雨が顔
面を叩く。これには視界を制限されてしまう上に、痛みも伴う。
ただでさえ陽が落ちて明かりのなくなった山道、駿たちの歩みは遅々として進
まない。
「くそっ、油断したな」
口内に飛び込んだ雨水と共に、駿は言葉を吐き捨てる。
山に入る前から、天気が崩れそうな予兆はあった。雨具や懐中電灯を用意する
くらいの時間はあったはずだ。だがそれをしなかったのは、駿の油断に他ならな
い。
一秒でも早く、良太たちを見つけたいという焦りも確かにあった。しかしさし
て大きくはないこの山、小山と言ってもいいだろう。それを嘗めていた。
街中にぽつんと聳える小さな山は、一見する限り頂上まで登りきることも容易
に思えた。天気の良い昼間なら、近所の子どもたちの格好の遊び場になりそうだ。
正に裏山と言った感じに、駿は準備を怠ってしまった。
しかし一度街に戻り、雨具等の準備を整えてから登りなおすには時間が惜しい。
雨具と懐中電灯、そして出来れば暖を取るためのカイロは是非とも欲しいところ
だが、それは先行しているだろう良太たちも同じである。むしろ駿たちよりも、
幼い良太たちの方が切実にそれを欲しているような気がする。
用意し直して、それを良太たちの元に届けるより、彼らを一刻も早く見つけ出
し、それを用意できる場所に連れ戻してやった方がいい。
「ん?」
強い不快感を覚え、駿は足を止めた。
同時に後方では、泥水の跳ねる音がした。
見るとマリアが、両膝を雨でぬかるんだ地面に手をついて、座り込んでいた。
「どうしたマリア、転んだのか?」
駿は駆け寄ってマリアの肩にをつかみ、助け起こす。
「ううん………違うの。いま、なにか凄くいやな感じがしたの」
すがるような瞳が、駿を捉えた。怯えるような、マリアの目。
マリアもまた、駿と同様に得体の知れぬ不快感を感じたと言うのだ。
「マリアもか………ぼくもいま、なんだか嫌な感じがしたんだ」
そう言って駿は、先の見通せぬ暗い山道に目を向けた。冷たい雨に打たれなが
ら歩く山道。確かにただそれだけで、不快を感じるのには充分であった。だが駿
の感じたものは、そう言った類とは違う。人の苦痛や恐怖を間接的に感じること
が出来たとしたら、こんなふうではないだろうか。そう思えるような感覚だった。
恐怖の伝染と言う現象がある。
群衆の一部で発生した恐怖は、瞬く間に群衆全てに伝わってしまうそうだ。そ
の結果、大半の人々はその原因さえ知らぬまま、恐慌状態に陥ってしまう。
いまこの場には、駿とマリアの二人しかいない。群衆の中のような、伝染の仕
方は起こり得ない。しかし駿の感じた不快は、媒介となる中間の人々を省き発生
場所から直接送られて来た、そう思えるのだった。
もちろん、気がしたと言うだけのことであって、そんな奇異な現象が本当に起
きたのだと立証は出来ない。が、立証する必要もない。
いま感覚の原因、送られてきた発生源について駿が推測できるのは、ただ一つ。
良太たちだった。
なぜほとんど勘としか説明できない理由で、この山に良太たちがいると言える
のか。なぜ駿やマリアの感じたものが、良太たちから送られてきたと断言できる
のか。
冷静な分析を、ここで行う必要などない。
そう感じた、いまはそれだけで充分だった。
「歩ける? マリア」
感じた不快は、マリアの方が大きかったらしい。あるいは感性の違いか。力の
抜けたマリアの身体は、まだ元に戻らないでいた。
「うん、平気だよ。急ご、駿」
健気に笑みを浮かべ、マリアは立ち上がる。コート越しではあったが、駿のつ
かんだマリアの肩は小さく、華奢だった。
抱きしめたい。
強い衝動が涌き起こる。
『馬鹿な。こんな時に、何を考えているだ。俺は………』
欲望に流されそうになった駿は、強く頭を振ってそれを否定した。
「駿?」
不思議そうに駿を見つめるマリアの顔。
「あ、うん………なんでもない。だいじょうぶだね? マリア。それじゃ、急ご
う」
駿は邪心を恥じて、素早くマリアの顔から視線を逸らして歩き出した。ただし
その右手は、マリアの左手をしっかりと握ったままだった。
ばちゃばちゃと、足元を跳ねる泥水。
スカートも靴も、そしてパンツにも染みてくる。
けれどそんなことは気にしない。気にするゆとりもない。
ただひたすら、美璃佳は走り続ける。
『走ってはいけない』
お兄ちゃんは言った。
でも走らずにはいられない。
夜の山道を一人で行くことへの恐怖、そしてそれ以上に早く大人の人に知らせ
て、お兄ちゃんを助けてもらわないと。その思いが美璃佳をせき立てる。
走っているのに、ちっとも暖かくならない。
きっと雨のせいだ。
真っ直ぐに走っているつもりなのに、道がうねうねとして見える。
きっと雨のせいだ。
ぜー、はー、ぜー、はー。
息が苦しい。でも走るのを止めることは出来ない。
お兄ちゃんが待っているから。美璃佳が大人の人を連れて来るのを待っている
から。
もっとたくさんの空気を吸い込もうとして、美璃佳は大きく口を開いた。けれ
ど口の中に飛び込んで来たのは、求めていた空気ではなく、大量の雨。飛び込ん
で来た雨は、美璃佳の気管を塞ぐ。
「けほん……、げっ、げほっ、けほん、けほん」
激しく咳き込んでしまう。
きっかけは雨水であったが、喉に詰まったものが吐き出された後も、咳は止ま
らない。そして連続する激しい咳は、美璃佳の小さな身体を大きく揺さぶる。
四歳児の美璃佳の重心は、大人と異なりそのほとんどが頭に集中していた。た
だでさえ走っていることで、重心は不安定になっていた。さらに咳き込むことに
より、バランスは美璃佳自身の足で支えきれる限度を超えて崩れてしまった。
ばちゃっ。
音と共に、大きく泥水の柱が立つ。
その中心にうつ伏せになって、美璃佳が倒れている。
「う………ぐうっ」
泥の中から顔を上げ、美璃佳は小さく呻く。泥だらけになった顔の口もとが歪
み、泥の混じった唾液が流れ落ちた。
「ふうっ、うううっ、くう………」
声を上げて泣きたくなるのを、懸命に堪える。泥に濁った視界を、袖で拭おう
として、さらに泥を塗りつけてしまった。
「うくっ、くうっ………ぐっ、うぐうっ」
目が痛い。頭が痛い。手が痛い。お腹が痛い。足が痛い。
口の中が気持ち悪い。お洋服が気持ち悪い。
堪えても、涙は止められない。拭くことも出来ない。
#4323/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 4 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(53) 悠歩
★内容
美璃佳は空を見上げる。涙と雨で、濁った視界を洗うために。
まだ痛みも治まりきらず、視界も完全ではない。それでも美璃佳は立ち上がっ
た。
お兄ちゃんが待っている。美璃佳を待っている。お兄ちゃんは待っている。美
璃佳が大人の人と助けに行くのを。崖から落ちたお兄ちゃんはもっと痛い。ケガ
をしているかも知れない。早く助けてあげないと死んでしまうかも知れない。
だから。
いまは泣いてはいけない。
よろめく足どりで、美璃佳は再び歩き出そうと、一歩を踏み出す。
「くつ、が………ないよぉ………」
転んだはずみで、左足の靴が脱げてしまったようだ。
探そうにも、暗くなった山道。近くにあるものさえ、はっきりと見ることが出
来ない。
「はやく………いかなくちゃ、いけな………だもん」
靴を諦め、美璃佳は裸足のまま歩き出す。
靴よりも、お人形よりも、お兄ちゃんの方が大事。
痛みと、恐怖と、視界の悪さと、そして自分自身の不調すら振り切るように、
美璃佳は走り出した。
「駿!」
突然足を止め、マリアが叫ぶ。
マリアの手を握っていた駿も、当然急ブレーキを掛けるようにして、停止を余
儀なくされる。
「なにか、聞こえる………」
「えっ」
何が聞こえると言うのか。マリアはそれっきり前方を見据えたまま、まるで電
池が切れてしまったかのように動きを止めてしまった。
駿もまた、マリアに倣うようにして前方を見つめ、耳を澄ます。
規則的に続く雨の音。
それ以外に聞こえるものはない。
「なにも聞こえないよ………」
「ほら!」
停止していたマリアが、ぴくりと反応を示す。
マリアが反応したその音は、駿の耳にも届いていた。前方、闇に包まれたその
中からわずかだが、雨音とは違う何かが聞こえてくる。
びちゃ、びちゃ、びちゃ。
初めは微かに、次第に大きく。泥の跳ねる音が近づいてくる。
「誰かが、こっちに走っくるみたいだ。まさか………」
まさか猪や熊の出そうな山ではない。こんな時間、しかも雨の中、ハイキング
を楽しんでいた人間の下山でもあるまい。
「うん」
マリアも駿の考えを肯定する。
そして暗闇の中から、小さく朧気な影が微かに浮かび上がった。その影もまた、
駿たちに気がついたようだ。足を止め、じっとこちらを窺っている。
沈黙が続く。雨の音が、やけにうるさく感じられた。
「美璃佳………ちゃん?」
見覚えのあるシルエットに向かい、相手を驚かさぬように駿は優しく声を掛け
た。
「しゅ………にい、ちゃ……」
聞き取りにくい音声ではあったが、影の方でも駿の名を呼び返す。
こちらの正体を確認した影、美璃佳は真っ直ぐと駆け出して来た。そして転ぶ
ようにして、身を屈めた駿の腕の中へと飛び込んだ。
「うわっ……うわっ、うわあああん」
美璃佳は力一杯に駿の首にしがみついて泣き出した。もし美璃佳にもう少し力
があったのなら、駿はそのまま首を絞められて窒息してしまったかも知れない。
「よしよし、美璃佳ちゃん、落ち着いて。もうだいじょうぶだから」
しがみつく美璃佳の力があまりにも強く、抱き抱えて立ち上がるだけでも一苦
労だった。それでも駿はどうにか立ち上がり、落ち着かせようと美璃佳の背中を
さすってやった。その身体は酷く冷たい。
この雨に悪路。そこを走ってきたのだから、泥で汚れてしまっているのは当然
といえよう。しかし顔や服の前側まで汚れているのは、ここに辿り着くまでに何
度か転んだ証拠だ。調べてみれば、擦り傷の一つや二つはあるだろう。
「美璃佳ちゃん。お兄ちゃん、良太くんはどうしたの?」
美璃佳を見つけても、まだ安心することは出来ない。むしろ美璃佳だけが見つ
かり、そのそばにいるはずの良太の姿がないことに、大きな不安を感じる。駿は、
その良太の行方を美璃佳に訊ねてみた。
「にぃ、ちゃ……こっちゃ、た………の。けが、って……いた、って、けないの
………」
興奮気味の美璃佳は、泣きながら説明をしているらしいが、駿にはさっぱり分
からない。しかも以前の風邪がぶり返してしまったのか、時折激しく咳き込み、
その話をさらに難解なものにした。
けれどその様子から、いま良太はただならぬ状態に置かれているらしいと推測
出来た。
「美璃佳ちゃん、落ち着いて、分かるようにゆっくりと話して」
「………から、にいちゃ………け、なのぉ……はや、く」
何かを急かすようにして、美璃佳は駿の身体を揺する。駿は危うく美璃佳を抱
いたまま転びそうになるのを、どうにか堪えた。
「はやくう………いそ、で」
なおも美璃佳は駿を急かし続ける。何が起きたのかは分からないが、このまま
美璃佳の来た道を進めば良太の元に着けるかも知れない。些か頼りない気もする
が、美璃佳が落ち着くには時間が掛かりそうだ。それを待つよりは、先に動いた
方がいいだろう。そう考え始めていたところで、マリアが話し掛けて来た。
「駿、美璃佳ちゃんを貸して」
「えっ、ああ」
駿は差し出されたマリアの腕に、美璃佳の身体を預ける。しっかりとしがみつ
いた美璃佳を渡すのは難しいかとも思えたが、意外と簡単に行った。美璃佳にし
ても駿に抱かれているより、マリアの方が落ちつけるのだろうか。
「ねえ、美璃佳ちゃん。なにがあったのか、マリアに教えて」
赤ん坊をあやす母親ように身体を揺らしながら、マリアは優しく問い掛ける。
訊いている事柄は駿と代わりはないのだけれど、口調は穏やかだった。あるいは
美璃佳以上に、駿の方が興奮していたのかも知れない。その証拠に、マリアに抱
かれている美璃佳は、さきほどより幾分落ち着いて来たように見えた。それでも
やはり、美璃佳の言っていることは駿に理解出来るものではなかった。
けほけほと、美璃佳が咳をした。
『肺炎にならなかったのは、幸運としか言いようがない、な』
以前美璃佳を診てくれた医師の言葉が思いだされる。
あれから駿なりに、注意はしてきたつもりだ。ほとんど外食ではあったが、金
銭的に無理をして栄養もつけさせたはずだ。しかしそれもほんの一週間くらいの
こと。その程度の期間で、美璃佳の身体が極端に強くなったとも思えない。
大人の、至って健康体である駿でさえ、この雨と寒さはかなり堪える。まして
や体力に不安のある美璃佳はなおのこと。
改めて自分の手から離れた美璃佳を見ると、酷い有様だった。限界まで水を吸
い込んだ服は、マリアの腕に抱きしめられた部分から水が絞られるように、滲み
だしている。
走っている間に、雨によって流されたのだろうが顔には泥の跡と、小さな傷が
幾つか見られる。服にも泥染みが大きく、というより染め上げたように残されて
いた。お気に入りだったはずの『フラッシュ・レディ』の靴も、片方がなくなっ
ている。
すぐにでも風呂に入れて、乾いた服に着替えさせてやりたい。せめて、顔だけ
でも綺麗にしてやりたい。そう思ったところで、ここではどうしようもない。転
んではいない分だけ、駿の方がマシではあるが、水を吸って重く冷たい服を纏っ
ているのは、美璃佳と同様である。美璃佳が抱きついていた部分には、その形に
泥染みが残されていた、
「たいへん!」
美璃佳の話を聞いていたマリアが、大声を上げた。
「聞いてた? 駿」
大きな瞳が駿へと向けられる。
「聞いてはいたけど………マリアには、美璃佳ちゃんの言ってることが、分かっ
たのかい?」
「良太くんが、崖から落っこちたの!」
「なんだって! ど、どこで? 怪我は? 意識はあるのか?」
「もう、いっぺんに言われても、マリアも答えられないっ」
珍しく、マリアが声を荒げた。荒げてさえ、耳に心地よい声ではあったが、聞
き惚れている場合ではない。
「ごめん………」
「良太くんの落ちた崖は、このずっと先。いっぱい走って、木のいっぱいあると
ころの、向こうの崖だって。良太くんね、動けないんだって」
美璃佳の言葉を通訳してくれたのはいいが、それでも結局必要な情報はだいぶ
欠けていた。しかし良太が崖から転落し、怪我・打撲等で動けない状態にあるら
しい。もしかすると、本当に一刻を争う状況かも知れない。
詳しい場所を知りたかったが、完全に落ち着いたとしても、美璃佳がはっきり
と覚えているかは疑問だ。おそらくは初めて来た山、雨と暗闇で周囲の地形も朧
気である。
「マリア、美璃佳ちゃんを連れて戻って!」
早口で言い放ち、駿は駆け出した。場所の特定は出来ていなくとも、ここより
先であることは間違いない。また、良太あるいはそれを助けようとするこちらに
も危険がないとも限らない。駿一人で向かった方が身軽であるし、二人を危険に
さらす恐れもない。
ところが駿の後ろから、足元の泥を跳ね飛ばして着いて来る音がする。そして、
その足音は、ぴたりと駿の横に並んだ。
「マリア!」
駿は二重の意味で驚いた。
まずはマリアが駿の言葉に従わず、着いて来てしまったこと。美璃佳のことを
考えれば、すぐにでも山を降りて身体を暖めてやるべきだ。良太の元に辿り着い
ても、もしかすると駿一人では手に余る状況であるとも考えられる。だがそのよ
うな場合、マリアや美璃佳が役に立つとは思い難い。それよりも駿は、先に下山
したマリアが、誰か助けを呼んでくれることを期待していたのだ。
そしてもう一つは、マリアが駿のペースに遅れることなく、着いて来ていると
いう事実。確かに駿は、それほど体力に自信のある方ではない。だが自分よりず
っと華奢な体つきのマリアより、体力はあるつもりだった。しかもマリアはその
胸に、美璃佳という負荷を抱えているのだ。それなのに、マリアは全く苦しそう
な顔を見せず、駿と並んで走っている。
「戻れ、戻るんだ、マリア」
さすがに駿は足を止め、マリアを強く怒鳴った。腹が立ってと言うより、美璃
佳の身を案じて。
「……やぁ」
応えたのはマリアでなく、美璃佳だった。
駿たちと出会ったことで、気が緩んだせいだろう。美璃佳はマリアの胸の中で、
ぐったりとしていた。しかし疲れ切った表情ではあったが、その目は強い意志を
込めて駿へと向けられている。
「美璃佳ちゃん、いっしょに行くって言ってるよ」
その美璃佳の意志を代弁するかのように、マリアが言った。
「いいかい、ぼくたちみんなで行っても、良太くんを助けられないかも知れない。
だから美璃佳ちゃんとマリアは、山を下りて人を呼んで来るんだ。もちろんぼく
も、一人でなんとかなるようなら、ちゃんと良太くんを助けるから」
「いくのぉ」
弱々しい声量ではあったが、先ほどとは違い明瞭な言葉で美璃佳は意志を示し
た。
「りょうた………おにいちゃん、を……たすけるの」
「マリア、無理にでも美璃佳ちゃんを連れて、戻るんだ」
何としても兄の元に行きたいと言う、美璃佳を説得するは困難だと駿は判断し
た。そこで強引にでも連れて行くようにマリアへ指示した。しかしマリアもまた、
駿に従おうとはしなかった。
「マリアも行くよ、良太くんのところに。美璃佳ちゃんといっしょに」
「マリア!」
緊迫した状況にも関わらず、マリアは屈託のない笑顔を浮かべて言う。このマ
リアを説得するのは、美璃佳よりも難しそうだった。これ以上、問答に時間を費
やすのは望ましくない。
「ったく………聞き分けのない女の子たちだ」
露骨なまでに駿は不快感を顔に顕すが、マリアは臆する様子を微塵も見せない。
「ほら」
駿は両の腕をマリアへと伸ばした。その意図を測りかねたのだろう、マリアは
不思議そうに駿の腕を見つめている。
「美璃佳ちゃんは、俺が抱くよ。重いだろう」
駿が同行することを許したと知ると、マリアの笑顔は一層輝きを増した。
「ありがとう。でも、いいの。美璃佳ちゃんは、私が抱っこしてる」
そうは言われても、駿とて男としてのプライドがある。女性であるマリアに美
璃佳を抱かせたまま、自分は身軽なままでは駿の立つ瀬がない。もっとも、先ほ
ど見せた脚力からも駿よりマリアの方が体力が上であるようにも思えるのだが。
「美璃佳ちゃん、ぼくが抱っこしてあげるから、こっちにおいで」
もう動くこともしんどいのか、それともマリアから離れたくないのか、美璃佳
は駿の元に来るどころか、胸にしがみつく手を固く握りしめてしまった。
考えてみれば、母親の愛情をほとんど受けたことのない美璃佳は、マリアの温
もりに安らぎを覚えているのかも知れない。
「マリアは平気だから、急ごうよ」
もしかすると、マリアの胸の中にいた方が、駿が抱いてやるより幾分暖かいの
かも知れない。着替えさせてやることが出来ないのなら、マリアに預けていた方
がいいだろう。少々納得し難いものも残るが、マリアが言うように駿もここは急
ぐことを最優先に選んだ。
#4324/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 4 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(54) 悠歩
★内容
それを幸運と呼んでいいものか。
雨は収まった。しかし気温は、また下がって行く。あくまでも収まったの雨で
あって、空からは別の物が降り始めている。
雨は雪へと変わったのだった。気温の更なる低下は、もちろん駿にとっても有
り難くないことだが、体調の心配される美璃佳、そして救助されるのを待ってい
るであろう良太にも好ましい事態ではない。ただ一人、マリアだけが物珍しそう
に「駿、これなに? 空から白いものが落ちてくる」と、訊ねてきたがさすがに
足は止めなかった。
その前に存分に降った雨のため、すっかりと水の浮いた地面に積もるには、ま
だ相当の時間が必要であろう。氷水となった水たまりは駿の安物の靴から滲みて、
足先を凍らせる。ただ歩くだけでも、痛みを感じさせた。
悪路が一段と酷くなり、また駿自身も激しく息切れをしてしまったため、走る
ことは止めていた。マリアはまだ疲れた様子を見せないが、もし彼女が転びでも
したら、胸に抱かれた美璃佳にも危険が及ぶ。というのは、駿の言い訳か。
たった一つ、雪によって助けられたこともある。
降りしきる雪が、わずかではあるが山の周りの街明かりをここまで届けてくれ
る。強い風が吹けば別だが、これで駿の視界は少し広がった。これで地べたも白
くなれば、かなり見通しも良くなるのだろうが、もしそうなれば動けないでいる
良太が危険だ。
「止まって、駿。美璃佳ちゃんが何か言ってる!」
マリアの声に、駿は足を止め振り返る。
「おにい、ちゃ………りょうたにいちゃ、このちかく………」
弱々しい美璃佳の声。その後に続いた咳すらも弱々しい。どうも美璃佳の元気
がないのは、単なる疲れとか安心したからと言うものではなさそうな気がする。
ひょっとして、駿はとんでもない判断ミスをしてしまったかも知れない。どんな
ことをしても、美璃佳は山を下ろすべきだったのではないか。
「この近くに良太くんがいるんだね」
駿は、さっと周囲を見回す。せめて足跡でも残っていれば、助かるのだが。あ
いにく激しく降った雨は、良太たちのわずかな痕跡も残して置いてはくれなかっ
たらしい。
「良太くん、良太くん!」
良太の名前を呼びながら、駿は道の両側の雑木林の、右側へ入った。左には山
の登り斜面が聳えている。崖に落ちたと言うのだから、良太がいるとしたら右の
下り斜面のはず。もっともそれは、この近くであると言った美璃佳の言葉が正し
ければの話だ。辺りは暗く、似たような斜面、雑木林が続く山の中、はたして美
璃佳の記憶がどこまで正しいのか。
視界の先、木が途切れて街明かりがうっすらと見える。そこからは、いま駿の
立っている地面が続いていないという証。手前の虚空を舞う雪と、後ろの街明か
りが幻想的な光景を生み出し、つい駿は現状を忘れて見入ってしまった。
その駿を我に返してくれたのは、マリアだった。
「駿、あれ」
美璃佳を抱いているため、マリアの手は自由にならない。小さな顎が、何かを
指し示した。
「あっ、これは」
駿はマリアの顎の延長上、崖から二、三メートル手前に落ちていた子供用ジャ
ンパーを拾い上げた。良太のものだ。
「良太くん!」
崖の直前、街の方角へと傾いで生えた木に手を掛け、駿は下を覗き込む。
「良太くん! いたら返事をしてくれ!!」
先刻までの雨のせいで、足元の土はかなり危なっかしい状態になっている。駿
が手を掛けている木の下、崖の縁に当たる部分で土のそげ落ちた痕が確認出来た。
ジャンパーの発見と考え合わせせれば、良太がここから落ちた可能性はかなり高
い。
大声で名前を呼んでみるが、返事はない。
「良太くん、いた?」
「来るな!」
こちらに近づこうとしたマリアを、駿は叱りつけるようにして制した。
「足元が相当緩んでる。それ以上近づいたら、崩れるかも知れない」
声を和らげそう説明してやると、マリアは無言でこくんと頷いた。別に言葉で
応えても構わないのだが、声を出すと雪崩のように土が崩れるとでも思ったのだ
ろう。
マリアが素直に従ってくれたのを確認すると、駿は再び崖の下へと声を投げ掛
ける。
「良太くん、良太くん」
やはり応えは返らない。
舞う雪のお陰で明るくはなっているが、それをもってしても崖下に光は届いて
いない。ここから駿の目だけを頼りに、良太の姿を探すことは困難に思われた。
やはり判断を誤ったのか。
今から山を下りて助けを呼んだとしても、致命的な時間のロスがある。もしま
だ良太がこの崖の下に生きていたとしても、降り積もって行く雪の中、それほど
長い時間は………
「……にいちゃ………りょうたおにいちゃん!」
駿が不吉な考えに捕らわれているところに、それまでぐったりとしていた美璃
佳の信じられぬほどの大きな叫びが届いた。
「み、美璃佳」
そして、眼下の闇から応える声が聞こえた。
「良太くん! 無事か」
二十二年間の人生で、これほど心の震えた覚えはない。駿は下から聞こえた声
の位置を確認して叫ぶ。
「そのこえ、駿お兄ちゃん?」
元気一杯とは言えないが、はっきりした口調。間違いなく良太のものだ。どう
やら駿の考え掛けていた、最悪の事態には至っていなかったらしい。
「ああ、美璃佳ちゃんとマリアもいる」
「よかった………美璃佳、ちゃんとお兄ちゃんたちと、あえたんだ」
声を頼りに、良太の位置を確認することが出来た。駿のいる場所から、やや右
寄り、四メートルほど下に斜面に身を預ける格好で横たわっている子どもの姿が
ある。
「動けないのか、良太くん?」
「………うん。あし、ケガしちゃった。それで、木にはさまれたの」
「挟まれた?」
駿の位置から詳しくは見て取れない。崖と呼ぶには少々大袈裟な斜面ではある
が、どうにも足元が緩んでいて、ここから下りるのは難しそうだった。
しかし気丈に振る舞ってはいるが、良太とて衰弱しているはず。のんびりと構
えてもいられない。どこか下りれる場所はないかと、辺りを見回す駿の目に斜面
から突き出た木が目に止まった。良太のいる場所から、崖の上まで真っ直ぐに延
ばした線上の、少し右側。崖の上から一メートル前後の位置。立ち枯れしていた
が、見た目ではその根元はしっかりしているように思える。
駿は崖の縁を避けて、その木の真上に移動した。足元に注意を払いつつ覗き込
んで見ると、駿の体重くらいはなんとか支えられそうな気がする。いま駿が乗っ
ている崖の縁も、先ほどの場所よりはしっかりとしていた。
細心の注意を払いながら、駿は降り始めた。
言いつけを守り、マリアはその場所に立っておとなしく、駿の行動を見つめて
いた。
『ありがとう、もう一人のマリア。美璃佳ちゃんも、良太くんも見つかったよ』
もう応えてくれぬと分かっていたが、心中、子どもたちを探すのに力を貸して
くれたもう一人のマリアに感謝しながら。
駿が良太を助けて来れば、もう終わる。後は四人で仲良くアパートに戻るだけ。
そう思っていた。
ところが。
突然マリアは、爪先から頭へと何か冷たい物が走り抜けて行くような感触を覚
えた。
雪が降っている。寒いのは当たり前なのだろう。しかしマリアにとって、この
くらいの寒さなど、震えるようなものではない。極寒の大地、灼熱の砂漠、そう
言った場所を幾度となく経験したマリアには地球の、日本という地域の寒さなど
苦になるものではなかった。
いまの震えは、気温のせいではない。もっと別のもの。
マリアは言い知れぬ悪寒を感じた。そして。
にわかに胸の中の美璃佳が、軽くなっているのに気がついた。
「美璃佳ちゃん?」
そっと名前を呼んでみる。けれど応えは返らない。
つい二、三分前、兄を呼んだ口は閉じられ、その後次の言葉を綴ってはいない。
激しかった咳も、影を潜めている。
疲れて眠ってしまっただけ。
初めはそう思った。思おうとした。
けれど胸を通して伝わっていた、美璃佳の温もりが次第に遠退いて行く感覚が、
そうではないとマリアに告げる。
「美璃佳ちゃん、起きなよ。ほら………もうすぐ駿が、良太くんを連れて戻って
くるよ」
ぺちぺちと、美璃佳の頬を軽く叩く。けれど反応はない。
「ねえ、美璃佳ちゃん………起きなよ………起きてよ」
今度は強く、美璃佳の身体を揺すってみる。マリアの胸に預けていた美璃佳の
小さな腕がこぼれ落ち、力なく垂れ下がった。
「美璃佳ちゃん………うそ………」
否定したところで、変えようのない現実。
天性の無邪気さを持つマリアではあるが、現実を的確に判断する能力には長け
ている。それは本来マリアに科せられた役目には、不可欠な能力。
その能力は、美璃佳の状態をマリアに伝える。
この個体は、既に生命活動を停止していると。
「うそ……うそだよ。違うもん、間違いだもん。そんなの………絶対に、違うん
だもん」
懸命に否定しても、事実は動かない。その判断能力の的確さは、マリア自身が
良く知っている。
けれど。
たとえ事実であろうと。
判断に間違いないと分かっていても。
認めない、認めたくない。
しかしいくらあらがえど、動かない事実。
「やだよおぅ………美璃佳ちゃん」
既に呼吸の止まった少女の頬を、指でなぞる。
「どうして、みんな消えちゃうの………マリアの前から………」
消える。
何のことだろう。
自分の口から出た言葉を、マリアは理解出来ない。
自らの記憶を、自らが持つことを許されないマリア。
長い旅の中で得た知識で、美璃佳を救えるかも知れないのに。
「お願い、ママ………返して。美璃佳ちゃんを………私の記憶を」
実際に足を乗せてみるまでは不安もあった。しかしその木は、予想以上にしっ
かりと地中に根を張っていて、駿一人の体重ではびくともしない。
さらに下側を調べて見ると、張り出した太い根が良太の横、一メートル足らず
を通っていた。
斜面自体は、思ったほど角度はない。土の状態さえ良ければ歩いてでも良太に
近づくことは可能だろう。ただ激しく降った雨のために、崩れやすくなっている。
けれどこの根を伝って行けば、なんとか良太に近寄れそうだ。
「がんばれ、良太くん。すぐ助けてやるからな」
一言声を掛けて良太を励まし、駿は下り始めた。最近の運動不足が不安材料だ
ったが、もともとは田舎育ちの駿。子どもの頃、野山を駆け回って遊んだ経験が、
こんな時に役立った。意外なほど簡単に、良太に接近する。
「うっ………」
ここで改めて周囲の状況を確認した駿は、良太に聞こえないように息を呑んだ。
気取られて、良太の不安を掻き立てないために。
良太は斜面の途中、仰向けに横たわっていた。身体がその位置で止まっている
のは、右足が倒木の下にもぐり込み、挟まれる格好になっていたため。
そのために身動きがとれなくなっているのだが、これは幸運と言っていい。
良太のすぐ下、倒木より先は今日の雨か、それ以前からなのか土が滑り落ちた
らしく、大きく地面が抉られていた。そしてそこから尖った大岩が幾つも顔を出
している。もし良太が足を挟まれることなく、そこまで滑落していたら無事では
済まなかっただろう。
「良太くん、俺が分かるな?」
駿は手を伸ばし良太の顔の泥を、指で拭ってやりながら訊ねる。
「うん、分かる………駿お兄ちゃん」
「足、抜けそうにないか?」
「うん、だめ。ケガしたみたい………いたくて」
「よし。もうちょっと頑張れよ」
駿はゆっくりと、つかまっていた根から手を離した。足元の土はだいぶ水を吸
っており、いつ崩れても不思議ではない。慎重かつ素早く済まさなければならな
い。
良太が足を捕られている倒木を調べてみた。それほど太くはないが、子どもの
力で動かすのは難しいだろう。もっともその下の状況を知らず、良太が倒木を動
かしていたら大変なことになっていたのだか。
駿が力任せに蹴れば、落とすことも出来そうだがそれは危険が大きい。極力静
かに、良太の足を抜き取る方法を考えるべきだろう。
「んっ?」
挟まれた良太の足元を見て、駿は妙なことに気がついた。
#4325/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 5 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(55) 悠歩
★内容
良太の足は、倒木に臑を密着させるような形になっていて、一見かなり窮屈に
思える。しかしよく見ると、さらにその下、足と地面の間に空間があるのが分か
る。つまり良太の足は地面から少し浮かび上がった格好で、倒木に押し充てられ
ているのだ。
どうにも不自然な形だが、そのお陰で良太は寸前のところで命を取り留めたこ
とになる。
良太の命の恩人の正体を確かめるべく、駿はゆっくりと倒木に手を差し入れる。
「いっ………!」
やはり怪我をしているのか、或いは骨折の心配もある。良太は顔を歪めるが、
大声で騒いだり、暴れたりはしない。それどころか、
「ごめんなさい」
と、駿に謝って来た。
「ぼく………かってなことして………お兄ちゃんたちに、めいわくかけちゃって
……」
「良太くんが悪いわけじゃない」
「でも……」
「とにかくその話は、後でゆっくりしよう」
駿は良太の足の下に、柔らかい物が挟まっているのを確認した。
「いいかい、良太くん。君の足の下に、何かある。いまからこれを抜き取るから、
良太くんはしっかり俺の肩につかまるんだ。どんなに痛くても、離しちゃダメだ
よ。また下に落ちてしまうからね」
「うん」
出来ることなら、駿も片手で良太の身体を支えてやりたい。しかし一方は良太
の足の下の異物へ、もう一方は自分が滑り落ちるのを防ぐために使われて、その
余裕がない。
良太の腕が肩に掛けられたのを確かめると、駿は足元の異物をそっと引っ張る。
「っ………」
痛みに顔を歪めるが、歯を食いしばって良太は堪えていた。駿は肩に掛かって
いる力に気を配りながら、異物を完全に抜き取った。素早く良太の身体を抱き抱
え、二人分の体重を倒木の上に預けた。
ぎしぎしと揺れる倒木が頼りない。早く上に戻ろう。
「良太くん、背中に乗って」
「駿お兄ちゃん、それ?」
「ああ、良太くんの恩人だよ」
駿は良太へと、抜き取った物を見せた。それは以前、駿がデパートで美璃佳に
買ってやった人形だった。
「よかった、なくなったんじゃなかった。美璃佳、よろこぶよ」
初めて良太が笑った。
おそらくは痛みが相当辛いだろうに、青ざめた顔で笑う。
駿が考えている以上に、強い子なのだろう。
「駿っ!」
上から、駿を呼ぶマリアの声がした。
「心配ない、いまから良太くんと上がるよ」
駿は明るく応えた。山を下りたら、風呂にでも入りたいと思いながら。
けれどマリアから返って来たのは、喜びの歓声ではなかった。狼狽しきった声
で、伝える知らせは駿に、そして良太にも衝撃的なものだった。
「冷たいの………美璃佳ちゃんが、冷たいの………息してないの」
「なっ……」
言葉を失う駿。
良太の無事を喜んでいた気持ちが、一気に奈落へと落ちていく。
マリアの言葉の意味を、しばし理解出来ず茫然としていた良太。それが突然、
駿の腕の中で暴れ始める。
「うあっ、うああっ、あああああっ!」
足の痛みすら忘れたかのように、良太は駿の腕を振り解こうとする。
「お、落ち着いて、良太くん!」
叫びながらも、駿は無駄なことを言っていると感じていた。駿自身、良太に対
する責任感がなければパニックになっていただろう。美璃佳のことは、明らかに
駿の判断ミスなのだから。
「良太くん!」
足を骨折しているかも知れないのに、良太は凄まじい力で暴れる。駿もなんと
か抑えつけようとするが、抗する良太力はとても六歳の少年のものとは思えない。
駿は、マリアも悪いタイミングで知らせて来たものだ。せめて駿と良太が上に
戻ってからにしてくれればと、恨めしく思う。けれど分かっていた。それは責任
転嫁であると。
ずずっと、嫌な音がして周囲の土が滑り落ちていく。駿は一瞬、自分の身体が
軽くなったような気がした。足場にしていた倒木が、下へずり落ち始めたのだ。
暴れる良太の起こした振動に耐えきれなかったのだ。
「まずい」
駿は咄嗟に片手で良太を抱え込み、もう一方の手で降りてきた木の根をつかも
うとした。その手に握っていた、人形を捨てて。
が、出来なかった。
根をつかむことが。
手にした人形を捨てることが。
嬉しそうに人形を抱く美璃佳。
楽しそうに人形と語る美璃佳。
その姿が頭に浮かび、人形を捨てられなかった。その人形が、美璃佳そのもの
であるような気がした。
「しゅうぅぅん!」
マリアの顔が見えた。駿の足元に。
バランスを失った駿は、頭を下に落ちつつあったのだ。まともに岩場を目指す
コースで。
「マリア………」
最期に、遠目ではあったが、マリアの顔が見れたはせめてもの救い。駿は両手
で良太と人形を抱き込んだ。上手くすれば、良太だけは助かるかも知れない。そ
う思いながら。
眩しかった。
舞い降る雪が、これほどまで眩しいと生まれて初めて、最期の瞬間に駿は知っ
た。
眩い光に包まれ、それが雪のためでないと知るゆとりはなかった。
「しゅうぅぅん!」
考えなど何もない。
マリアは飛んだ。
舞い降る雪を、追い抜いて。
落ちて行く、駿と良太を追って。
追いつくはずもない。
救えるはずもない。
それくらいのことは、マリアにも分かっていた。
何か考えがあってのことでもなかった。
衝動的。発作的な行動。
ただ落ちて行く駿を見て、何とかしたいと思った。
次の瞬間、訪れるであろうその死を阻止したいと思った。
いつまでも共に在りたいと思った。
飛んでから、マリアは自分に何も出来ないことに気づく。
元より惑星探査のための、生体ユニットに過ぎないマリア。それ以上の特別な
能力などはない。
けれど後悔はしない。
好きだった。
短い期間ではあったが、この星で過ごした一時が。
駿たちと、共に在った時間が。
それは調査対象としてではなく、もっと純粋なもの。それが何であるのか、マ
リアには分からない。
幾つもの星々を渡り歩き、数え切れぬ人々と出会って来たはずだが、マリアに
はその記憶を有することが許されていない。人と人との間に存在する感情を、理
解するだけの知識を残されていない。
しかしこれだけは言える。
「いっしょにいたいの。これからもずっと」
この星の重力に従い、落下して行く中で、マリアは美璃佳の冷たくなった小さ
な身体を抱きしめる。
それがどんなものなのか、ママですら教えてはくれなかった。生き物は死んだ
後、どうなるのか。でも数秒の後、マリアは身を以て知ることになるだろう。
不安はない。
一緒なのだから。
美璃佳と、良太と、そして駿と。
ただ一つ、心残りは先に駿たちの死を見届けなければならないことだった。マ
リアの眼下では、いままさに駿がその頭を鋭い岩に打ちつけようとする寸前だっ
た。
マリアは目を閉じない。逸らさない。
それが義務であるかのように、大きく目を見開き、その瞬間を見届けようとす
る。
だが、マリアがその瞬間を見届けることはなかった。
眩い光が駿を、そしてマリアを呑み込んでいく。
「これは………」
光の方向へと顔を動かすマリア。
そこには、マリアのよく知ったものの姿があった。
「ママ!」
柔らかな光が、マリアを包み込む。その中で、マリアの意識は遠退いて行った。
『マリア、起きなさい』
優しい声が響き渡る。ママの声が。
いつもと同じ目覚め。
またどこかの惑星に接近しているのだろうか。
もしかしたら、上陸出来るのかも知れない。
「ん………」
目は閉じたまま、マリアは伸びをしようとした。狭いカプセルを意識して、窮
屈に両の腕を伸ばす。
違和感。
何かが違う。
伸ばした腕は、何にも触れない。いや、本当に伸びているのかも定かでない。
マリアの意識は、確かに腕を伸ばそうとした。だが実感がない。
確認するため、瞼を開こうとする。が、開かない。
どうして?
『どうしたのです? マリア』
ママが優しく声を掛けてくれる。
ああ、ママがそばにいるのなら、何も心配することはない。
違う、違う、違う、違う、違う………
相反する二つの思考が、頭を駆け巡っていく。
「どうして、ママがいるの?」
『なにを言うの? マリア………そう、夢を見たのね』
夢?
自分は夢を見ていたのだろうか?
とんな夢を?
思いだせない。
思いだせないのなら、それでいい。
目を開けば、そこにママがいる。それだけで充分なのだから。
本当にそれでいいの?
誰かが問い掛ける。
忘れてしまっていいの? いけない、いけない、いけない、いけない。
何を? 何を忘れてはいけないと言うの?
忘れてはいけない。何を。忘れたくない。何を。大事なものを。何を。
忘れてはいけない、忘れたくない、忘れない、忘れない、忘れない、忘れない、
忘れない、忘れない忘れない忘れない忘れない……………
マリアは絶対に忘れない。
白くもやの掛かった記憶の中に浮かぶ、幾つかの顔。
大好きな人たちの顔。
マリアは目を開いた。
白く眩い光に、開いた目を思わず細めてしまう。
「駿! 美璃佳ちゃん! 良太くん!」
共にいたはずの、人々の名前を呼んだ。
『これは、どう言うこと………』
『失敗したようだわ』
『信じられない………このようなことは、記録にないわ』
交錯する幾つもの声。しかし全て同じ声。ママの声。
ようやく光に馴染んだマリアの瞳が捉えた光景は、あの山中のものではない。
そして見慣れたママの中でもない。
暗い夜空に浮かぶ星々。それを見上げるようにして、マリアは横たわっていた。
ここはどこだろう。
まだあの山の中にいるのだろうか。
駿たちは無事だろうか。
近くにいるのだろうか。
それを確認するために、マリアは身を起こす。瞬間、マリアの視界を光輝く何
かが横切って行った。
「ママ?」
いまのは確かに、マリアの乗っていた宇宙船だった。立ち上がったマリアは、
周囲に視線を巡らす。
#4326/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 6 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(56) 悠歩
★内容
「これは………」
自分のいる場所を。置かれた状況を知り、言葉を失う。
瞬く星空の下、マリアの足元に見えるのは蒼い星。意識を失う前のマリアが、
その二本の足で踏みしめていたはずの台地。
マリアの身体は宙に浮いていた。
ママの船内で、無重力を経験したことはあるが、これは充分に驚愕に値する経
験だった。
しかしそれ以上にマリアを驚かせるものが、そこにはあった。
『心配は要りません。ここには特別な空間を造ってありますから』
ママの一人が言う。
確かに宇宙空間に在りながら、マリアには目に見えない何かの上に立ってると
言う感覚があった。
『それにしても………どうしてかしら? あなたから、この惑星での記憶が削除
出来ないのは』
別のママが言った。
そう、ママは一人ではなかった。
数え切れないほどのママが、マリアの周りを取り囲んでいる。
「あっ………」
マリアは、もう一人のマリアとコンタクトした時のことを思いだした。あのマ
リアも、このママたちのどれかに乗っているのだろう。
自分たちの他にも、宇宙を旅しているママとマリアがいることは知っていた。
しかしこれまで、実際に出逢うことなどなかった。それなのにいま、数え切れな
いママたちが一つの場所に集まっている。
「なに………なにがあったの? 駿は? 良太くんは? 美璃佳ちゃんはどこに
いるの?」
『こちらが先に質問をしているのですよ、マリア』
全てのママたちが、同じ声をしている。だがマリアには、いま話したのが自分
のママであると分かった。
「なに………質問って?」
『なぜあなたの記憶、この惑星でのことを削除出来ないかです』
「知らない………知らないよ、そんなこと。分かんないよっ!」
どうやらマリアが意識を失っている間に、ママによる記憶の削除が試みられた
らしい。しかしなぜだか、マリアはこうして意識を取り戻したいまも、駿たちの
ことを覚えていた。
これまでに、どれほどの記憶がマリアから奪われたのか分からない。削除され
たその瞬間の記憶さえ奪われているのだから。その時、どんな記憶が奪われたの
か。マリアはどんな想いだったのか。思いだすことさえ出来ない。
そんなマリアに、いまとその時との違いなど答えられるはずもない。
『やはりマリア同士の接近による、障害かしら』
『私たちの知らない、マリアの欠陥があるとも考えられるわ』
『その可能性は低いわ。私たちは、マリアに対して万全を期して来たはずよ』
『記憶削除の回数に、限界があるのかも知れない』
『いいえ、私のマリアはもっと削除回数が多いわ』
『削除する内容に起因しているのかも』
ママたちが口々に話し合っている。
よくは分からないが、マリアの記憶削除は失敗に終わったらしい。その原因に
ついて
はママたちにも判断がつかないようだ。
『あるいは、この個体のいずれかとの接触が原因かも知れないわ』
その言葉と共に、マリアのママの中から三つの人影が吐き出される。しかし放
り出されたのではなく、マリアとは違い、人工的な重力の影響を受けずに漂わさ
れると言った感じに。
「駿!」
それは駿、良太、美璃佳の三人だった。
三人とも意識を失っているのか、それとも死んでしまったのか。眠っているよ
うな状態で、マリアの上を漂っている。
「起きて、駿! 良太くん………美璃佳ちゃん」
誰も応えない。
三人に触れようとジャンプをするが、人工的な空間の重力を受けたマリアの跳
躍力では、とてもそこまで届かなかった。
「どうしてこんなことを………生命体の捕獲は、しちゃいけないんでしょ!」
涙の浮かぶ瞳で、マリアはママを睨みつける。
きっ、とした眼差しに敵意を込めて。
初めてのことだった。こんな気持ちで、こんな風にママを睨むなんて。
けれどそんなマリアに、ママはこう言った。
『これで二度目ですね………あなたが、そんな目で私を見るのは』
「二度目?」
感情による抑揚のないママの声。それがどこかマリアには、寂しげに聞こえた。
しかしいまのマリアには、ママよりも優先させたいことがある。
「駿たち殺したの………? だとしたら、マリア………たとえママでも許さない!
」
心の中が沸騰するような、激しい感情。自分の中に、そんな激しさのあったこ
とに、マリア自身が驚いていた。
『………なんてことでしょう。なんて汚い感情でしょう。マリア、やはりこの者
たちとの接触は、あなたに悪い影響を与えてしまったようですね』
「答えて、ママ!」
『眠っているだけです』
「美璃佳ちゃんは? 美璃佳ちゃん、冷たくなってたの………美璃佳ちゃんも、
眠っているだけなの?」
『………雌の個体のことですね。死んではいませんが、限りなく死に近い状態で
す』
「お願い、みんなをあの星に返して! 美璃佳ちゃんを助けて!」
『それは出来ません』
マリアは背筋が寒くなるを感じた。
どこまでも冷たいママの言葉に。そして次の言葉は、マリアをさらに震え上が
らせた。
『あなただけを回収するつもりでしたが、この者たちはサンプルに使います。こ
の惑星を滅ぼした後、新しい世界を再生するための』
この惑星を滅ぼす。
信じがたい言葉に、マリアは唖然とした。
マリアとママの使命は、星々を渡り歩き調査すること。星を滅ぼすことなど、
その役目にはないはず。
元より、自分たちの危険を回避するため以外の戦いは、規則で禁じられている
はず。
「どうして………そんなひどいことを」
『いまのあなたに説明する必要はありません。さあ、みんな。力を貸して』
ママのその言葉を合図に、周りを取り囲んでいたママたちが強く輝きだした。
するとマリアを激しい頭痛が襲った。
「いやあぁぁぁっ!! な………なにをするの、ママあ!」
マリアは両手で頭を抱え込み、その場にうずくまる。しかし頭痛を止めること
はもちろん、和らげることすら出来ない。
『抵抗は止めなさい、苦しいだけですよ。ここにいる全ての者が、あなたの記憶
を削除しようとしているのです』
「いや………ひどい、ひどいよ、ママ。マリア………ママが、大好きだったのに
………」
痛みに堪えかねて、マリアは床………ママによって造られた、空間に浮かぶ床
の上をのたうった。
『だいじょうぶよ。これか終われば、あなたは元に戻る………私の可愛いマリア
に戻るわ』
「やだ………やだ……マリア、忘れない………忘れたくないよぉ」
誰かが頭に手を入れて、滅茶苦茶にかき混ぜているような痛み。
喉から鉤付きの棒を突っ込んで、内臓を絡め取ろうするような苦しみ。
おおよそ気がふれない方が不思議な苦痛に、マリアは転げ廻って耐えようとし
た。それでも一向に衰えない苦しみに、自ら頭を床に打ち据える。何度も、何度
も打ち据える。
『マリア、抵抗はおよしなさい。苦しいだけですよ。178機の仲間が、あなた
の記憶を削除をしているのです。抵抗するだけ、無駄なこと………素直にその身
を委せなさい』
遠くから、近くから聞こえるママの声。
もちろんマリアには、その言葉に従うつもりは全くない。あくまでも抵抗を続
ける。無駄だと言われても、諦めることなど出来はしない。守りたい、失いたく
ない、大切な記憶。
『マリア………これ以上の抵抗は、命の保証をしかねます』
「だめ………だめ、だめ、だめ、だめ………マリア、死んでも忘れないっ」
視界が赤く染まり行く。全身に、何かぬとっとしたものがまとわりつく。それ
が毛穴から噴き出した自分の血だと、マリアは感じた。
口の中に、鉄臭い匂いが充満する。喉が詰まる。断固記憶の削除に抵抗を続け
る、生体としてのマリアの身体が崩壊を始めていた。
このまま抵抗を続けていれば、あと数分と保たず、苦しみのうちに命を失うだ
ろう。ママの記憶削除を受け入れれば、楽になれる。
「………い、や………忘れ……たくないの。もう………絶対に」
マリアは、駿たちとの思い出を抱いたままの死を選ぶ。
もう何も見えない。
何も聞こえなくなった。
けれど恐くはない。
失った視力に代わり、心の中に浮かぶ駿たちの顔。
失った聴力に代わり、心の中に響く駿立ちの声。
良太が笑いながら走っている。白い雪に足跡を刻みながら。
美璃佳が楽しそうに唄っている。真っ赤な唇から白い息を昇らせながら。
愛美が幸せそうに眠っている。お父さんとお母さんに見守られて。
そして駿が手を広げ優しく微笑んでいる。唇が動く。こっちへおいでと、マリ
アを呼んでいる。
マリアは走る。駿の腕の中へ。
飛び込んだマリアを、力強く抱きしめる駿の腕。固くてごつごつとした胸が、
なぜがとても心地いい。
「愛しているよ、マリア」
思いがけない言葉に、驚いてマリアは顔を上げる。
マリアを見下ろす顔は、霞んで見えた。
「駿?」
不安な気持ちで、マリアは目を細める。霞んだ駿の顔をはっきり見ようとして。
「愛しているよ、マリア。誰よりも」
ようやくはっきりとしてきた顔は、駿のものではなかった。駿と良く似た別の
人。
誰だろう、いつかどこかで逢ったことのある顔。思いだそうとして、マリアは
さらに相手の顔を見つめる。そんなマリアの心を知ってか、その人は包み込むよ
うな笑みを湛え見守ってくれている。
「………リュアナス?」
小首を傾げ、マリアはやっと思いだされた名前を口にする。
遥か以前、別の星で出逢ってマリアと恋に落ちた人の名前を。ママに記憶を奪
われ、忘れていたはずの名前を。
「思いだしてくれたね、マリア」
嬉しそうにリュアナスは、マリアの額に子どものようなキスをした。
「どうしてここに、リュアナスがいるの?」
広い胸に抱きついて、マリアは訊ねた。熱い涙が止まらない。
「君が覚えていてくれたから、またこうして逢えた」
数億年前と同じ笑顔が、マリアの目の前にあった。
「生きてた………生きてたんだね、リュアナス」
ふいにリュアナスの笑顔が曇り、左右に首が振られる。
「もうぼくは生きてはいない。君と別れたあと、ぼくはぼくの寿命を全うして死
んだ」
「そう………」
悲しみがマリアの心に広がって行く。星から星を旅するマリアは、その大半の
時間をママの中で眠って過ごした。数百年から、長いときで数億年を眠るマリア。
星の上で生きる者たちの寿命は、マリアの一度機の眠りの間に尽きてしまう。
「そんな顔をしないで。君との別れは辛かったけれど、ぼくに素敵な思い出を残
してくれた。ぼくの人生の中で、君との時間は光輝いていた。君と知り合えたこ
とに、満足しながら人生を終えることが出来たんだ」
「でもマリアは………リュアナスのことを、ずっと忘れていたの。リュアナスが
マリアのことを思いだしてくれてるときも、マリアはリュアナスのことを、忘れ
ていたの」
マリアの涙が、リュアナスの胸を濡らして行く。
すうっ、とマリアの顔に伸ばされたリュアナスの指が、その目から涙を掬い取
って行く。
「泣かないで、マリア。可愛そうに………ぼくは思い出を宝に生きられたのに、
君は思い出を持つことも許されなかったんだね」
大きな掌が、髪を撫でてゆく。マリアにはそれがとても心地よかった。
「マリア………このまま、リュアナスといっしょにいたいな」
本当にそう願ってマリアは言った。けれどリュアナスは、悲しそうに首を左右
に振った。
「それは君の本心じゃない」
「本心だよ」
マリアはリュアナスの腕をきゅっと握りしめ、自分の想いが本気であることを
伝えようとする。けれどリュアナスは、そっとその腕を解き、マリアの肩をつか
む。
「君はいま戦っている。大切なものを、守るためにね。強く抵抗するあまりに、
記憶の中に微かに残っていたぼくが、呼び起こされて守るべき記憶と混乱してい
るだけなんだ。君が守らなければならないものは、ほら、あそこだよ」
その瞬間さえ、リュアナスは優しかった。優しく、しかし強く、マリアの肩を
押した。マリアは軽くよろめき、その視線は百八十度回転をした。
#4327/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 8 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(57) 悠歩
★内容
「駿………」
そこには駿が、良太が、美璃佳が、愛美が、北原のおじいさんとおばあさんが
………マリアがこの星で出逢った人々たちが微笑みながら待っていた。
「リュアナス」
もう一度振り向くと、リュアナスの身体は霧のように霞んでいた。
「君の生きるべき世界は、もうこの世にはないぼくのところじゃない。暖かい温
もりで、君を包んでくれる人たちのところだ」
「うん………ありがとう、リュアナス」
涙のフィルターを通して見るリュアナスの表情は、よく分からなかった。けれ
ど笑顔で見てくれているのだと、マリアは思った。
「早くお行き………辛い戦いかも知れないけれど、負けちゃいけないよ。あの人
たちには、それだけの価値が充分にあるのだから………」
リュアナスの言葉の語尾はどこかに吸い込まれて行くように、小さかった。
しかしもう、マリアはリュアナスを見ていなかった。消えていくリュアナスを
見ていられなかった。それに、いまマリアが見るべき者は、リュアナスではない。
彼もそれを望んでいた。
「待ってて駿、マリア行くから………絶対に行くから」
マリアは歩き出した。
「ああっ………あっ、あっ、あっ、あああああああっ、あっ」
長い自らの髪をむんずとつかみ、マリアが空間の床を転げ廻る。全身から噴き
出した血が、その軌跡をなぞっていく。
『危険よ、これ以上は』
誰かが言った。
『これ以上続けたら、この子、間違いなく死んでしまうわ』
『凄い精神力だわ………この子にとって、それほどまでして守る必要がある記憶
だと言うの?』
『手を緩めないで』
G−36001、マリアのママが皆を叱咤する。
『だけど、本当に死んでしまうわよ』
『私に従わないなら、仕方ないわ………マリアはまた再生すればいい。いえ、計
画には間に合わないけれど、他に177人のマリアがいるもの。支障はないでし
ょう?』
必死に歩を進めようとするのに、マリアの身体は一向に駿たちの元へ着くこと
が出来ない。
向かい風が吹いているのでもない。急な坂を上っているのでもない。それなの
にいくら歩いても、駿たちに近づくことが出来ない。そのつもりはないのだが、
まるで同じ場所で足踏みをしているかのように。
「どうして………どうして行けないの? マリア、がんばってるのに」
誰も応えてくれない。
駿たちは、ただ微笑んでいるだけ。
「駿、何とかして。マリア、もう歩けないよ」
泣き言が口を出てしまう。けれどやはり、誰も応えてはくれない。
「マリア、もうだめ」
疲れたマリアは、その場で膝をついてしまった。その瞬間。
駿たちの姿が、わずかに霞んだ。先程のリュアナスのように。
「いや! だめ! 消えちゃだめ!」
慌てて立ち上がり、マリアは駆け出す。あの姿が完全に消えてしまう前にたど
り着けなければ、もう二度と会うことが出来なくなってしまう。二度と駿たちの
ことを思い出せなくなってしまう。そう思って。
しかしいくら焦って走ろうと、事態に変わりはなかった。どんなにマリアが懸
命になっても、駿たちとの距離は縮まらない。目にはほんの数歩先にいるのに、
実際の距離は数万光年にも値するように感じられた。
そしてその間にも、駿たちの姿は霞み、薄れていく。
「やだ………やだ、やだ、やだ、やだ、やだ……マリアを置いて行かないで!
マリア、みんなのこと、絶対忘れたくないの!!」
静かな空間に、涙で濁ったマリアの声だけが響き渡った。
「それなら、もっとがんばろうよ」
ふいに応える声がして、マリアはその手に温もりを感じた。
「あっ、あなたは」
その温もりの先に、マリアは見た。こちらに微笑みを投げ掛けている、もう一
人のマリアを。
「こんにちは。顔を見るのは、初めてだね」
「じゃあ、あなたがあの時の?」
「うん、そうだよ。私、マリア」
良太たちを探すのに、力を貸してくれたもう一人のマリア。それがいま、マリ
アの目の前に立っている。
声だけではなかった。その容姿、立居振舞まで鏡に映したかのようにそっくり
だった。
「力を貸してくれるの?」
「そうだよ。だって、私もマリアだもん」
もう一人のマリアが笑う。つられてマリアも笑う。
「ありがとう、マリア………マリア、とっても嬉しい」
「お礼は、オトモダチのところに着いてからだよ。みんなにもね」
「みんな?」
「うん、ほら」
もう一人のマリアは、空いている方の手をすうっと巡らした。
「あっ!」
マリアの口から漏れる、小さな悲鳴。歓喜の悲鳴。
たくさんの瞳がマリアに向けられている。
たくさんの微笑みがマリアに向けられている。
そのどれも、全てがマリアだった。
「うわっ、どうりで寒いと思った」
長い髪を柔らかなバスタオルで包み、純子は窓から外を眺めていた。
入浴する前は、黒い帳に閉ざされていたその風景に、仄かな光が生まれている。
ガラッ。
窓を開ける音さえも吸収されてしまう。白く輝く花びらの乱舞。
室内にもぐり込んでくる冷たい空気さえ、湯上がりの肌には心地いい。
「やっぱり雪になったんだ」
窓の外に身を乗り出すと、乾かしてしない髪に舞い落ちる雪たちがまとわりつ
いてくる。
雨から変わったばかりの雪は、積もるまでにはまだ至っていない。けれど二階
の窓から見下ろすと庭の土、植木の枝は、うっすらと雪化粧を始めていた。
「積もるといいな。それでせめて、明日一日がんばって、イヴまで保ってくれる
といいのに」
白い息を、舞う雪たちの生まれ来る空へ立ち昇らせて、純子は独りごつ。
雪だるまを作ったり、友だちと雪合戦をする年齢はとうに卒業したと思いなが
らも、雪を見ると気分がはしゃいでしまう。しばらくの間、窓の桟に腕を載せ、
純子は飽きることなく雪を眺めていた。
そしてふいに、腕の中へ顔を埋めた。
「私って、最低だ」
浮かれていた気持ちが、一気に沈み込んでしまった。顔を埋めたまま、右手に
作った拳で、自分のあたまをこんと叩く。
「まだ美璃佳ちゃんたちが、見つかってないのに。雪の降ったことを喜ぶなんて
………雪のせいで、美璃佳ちゃんたち、辛い想いをしてるかも知れないのに」
人を思いやれない自分に嫌気がさし、当分立ち直れそうにない。
階下から、食事の出来たことを告げる母の声がした。純子は「いま行く」と応
えたが、しばらくは顔を上げることも出来そうにない。
ようやく顔を上げたのは、気持ちが落ち着いたからではない。どこからか聞こ
えてきた、笑い声に反応してだった。
「いまの、美璃佳ちゃんの声みたいだった………」
窓の外に視線を巡らせ、純子はその笑い声の元を探す。しかし見つからない。
空耳だったのだろうか。あるいは近所の家の中で、美璃佳とは別の女の子が笑っ
ていたのかも知れない。
ふう、と白いため息をつく。
「しょうがない、ご飯にしようかな」
そんな気分ではなかったが、いつまでもこうしていたら、母が心配するだろう。
重たい身体を無理に立ち上がらせて、窓を閉めようとした。半分ほど閉めた窓が、
途中で止まる。そして閉め掛けていた窓が、再び大きく開かれる。
また笑い声が聞こえたのだ。先ほどより大きく、はっきりと。
美璃佳ではないのかも知れない。けれど確認しなければ、気が済まない。純子
は声がしたと思われる方向を、目を凝らして見つめる。
「あっ!」
純子の口から漏れたのは、喜びの声だった。
路地の外灯に照らされ、見覚えのある四人の姿が浮かび上がっている。
駿、マリア、あの男の子は良太。それにマリアに抱っこされている美璃佳。
美璃佳は笑っていた。とても楽しそうに。他の三人も、みんな笑っている。
美璃佳たちの家出の原因がなんだったのか、純子には分からない。しかし四人
の笑顔を見る限り、問題は解決されたように思われた。
「美璃佳ちゃん」
純子は手を振りながら、美璃佳を呼んだ。けれど気がつかなかったようだ。四
人はそのまま歩いていく。
「みり………」
もう一度美璃佳の名前を呼ぼうとして、手を挙げ掛けた純子だが止めることに
した。楽しそうな四人の中に、割り込むのが悪いように思われたのだ。
「良かった、とにかく美璃佳ちゃんたちが無事で」
相羽にも連絡してあげなければ。
純子は窓を閉めて、部屋を出ようとした。その途中、もう一度だけ美璃佳たち
の姿を見ようと振り返った。
「あれ? もういない」
美璃佳たちの姿は、既に消えていた。真っ直ぐな道。隠れる場所などないはず
なのだが。
「でも………確かに、美璃佳ちゃんたち………だったよね?」
誰もいない部屋の中で、純子は自問した。
「あれ? それに変だよね………藤井さんたちって、電車で美璃佳ちゃんたちを
探しに行ったのに」
純子の家と、駿のアパートは駅を中心にした角度の広いV字型の位置関係にあ
る。駅からアパートに向かうには、純子の家の前を通る必要はない。
「でもあれは、間違いなく美璃佳ちゃんだった。幻なんかじゃ、絶対にない」
首を捻りながら、純子は部屋を後にした。
「笑っていたよ」
「えっ?」
目を開くなり、突然おじいさんが口にした言葉を、おばあさんは聞き取ること
が出来なかった。
「笑っていたんだ………富子が」
布団の中で、天井を見つめたままおじいさんは繰り返す。
「そうですか、笑っていましたか」
おばあさんは針仕事の手を休め、おじいさんの顔を見つめる。
「ああ、笑っていた。光太郎と一緒にな」
おじいさんは涙で目を潤ませながら言う。こぼれ出た涙が、微かな音を立て枕
に落ちる。
泣いてはいたが、おじいさんの顔は穏やかだった。これほど穏やかな顔を見る
のは、富子が死んで以来、初めてだった。
「富子と光太郎さんが、一緒でしたか………良かったですねぇ」
おばあさんの目からも、熱い涙がこぼれ落ちた。
「富子はな、言ってくれたよ」
そんなおばあさんには気づいているのか、いないのか、おじいさんは相変わら
ず天井を見つめたまま独り言のような話を続ける。
「わしを怨んではいない………と。だからもう、そのことで苦しむのは止めて欲
しい、と………言ってくれたんだよ。富子がな」
悪い夢から目覚めたばかりの子どものように、おじいさんは泣く。うおんうお
んと、声を出して泣く。
「言ったでしょう。富子は優しい子です、あなたを怨んでなんかいませんって」
細くやつれた手で、おばあさんはそっと撫で上げる。長年連れ添った、おじい
さんの頭を。
「おじいさんはもう、充分苦しんだんですもの………富子も天国で心配していた
んでしょうね」
おばあさんは手を止めた。いや、止められたのだ。おじいさんに強く、握りし
められて。
「わしが、富子のことで苦しむのを止めたたら………あの子はまた生まれ変わっ
て、光太郎と幸せになれるかなあ」
「ええ。だからそのためにも、ね」
「ああ………」
二人の目が合った。おじいさんが、にぃと笑う。しわくちゃの顔で。そして、
むくりと布団から身体を起こした。
「熱いお茶を一杯、もらえないか」
「はいはい、少し待ってて下さいね」
おばあさんはつかまれていた手を、優しく外し、台所へと立った。
「なあ………あの子も幸せになってくれるだろうか?」
「あの子、ですか?」
初めはまだ富子のことを、言っているのだとおばあさんは思った。しかしすぐ
にそうではないと知った。
「あの子だよ………愛美ちゃんだ」
#4328/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2: 9 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(58) 悠歩
★内容
「えっ………ええ、なりますよ………きっと」
おじいさんには背中を向けたまま、おばあさんは答える。しばらくはおじいさ
んの方を、振り向けないと思いながら。少なくとも、いま流している涙が止まる
までは。
悲しみの涙ではない、嬉しい涙。
愛美がこのアパートに住むようになった頃には、もうおじいさんは痴呆に掛か
っていた。おじいさんは、愛美を富子だと思い込み、それを信じて疑おうともし
なかった。
それがいま初めて、愛美の名前を口にしたのだった。
線香の香りに包まれて、愛美は目を覚ました。
いつの間にか、ぐっすりと寝入ってしまったようだ。
目を開けて、最初に見たのは叔母さんの後ろ姿だった。叔母さんはささやかな
祭壇の遺影向かって、座っていた。
愛美が身体を起こすと、掛けられていた布団が静かにずり落ちていく。
「あら、起きてしまったの」
叔母さんの微笑みが、寝起きの愛美には、本当の母のように見えた。
「ごめんなさい………私、寝てしまって」
明日の朝、父を送り出すまでは、線香の火を絶やしてはいけない。その煙が父
の道案内をしてくれるのだそうだ。
「いいのよ。それより、ふふっ。その顔をなんとかした方がいいわよ」
叔母さんが、愛美の顔を見ておかしそうに笑う。笑われていても、愛美は心地
よかった。
「か、お?」
愛美は自分の顔を、手でなぞってみる。ざらっとした感触。
「あっ………もしかして」
慌てて洗面所をも兼ねた台所に向かい、小さな鏡を覗き込む。映された愛美の
顔には、頬にしっかりと畳の痕が刻まれていた。
「やだ………私ったら」
本当にぐっすりと寝ていたのだろう。畳に顔を押し付けて。
愛美は蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。けれど汚れではない、直接頬に刻ま
れた痕が流し落とせるはずはない。元に戻るまで、時を待つしかない。
「愛美ちゃん、眠いのなら、ちゃんとお布団を敷いて寝たほうがいいわね」
からかうように、それでいて愛美を思いやってくれていると分かる、叔母さん
の声。
「いえ、あの、平気です。それより叔母さんこそ、朝早くに家を出て、疲れたで
しょう。私、ちゃんと見てますから、少し休んで下さい」
「そうね、後で少し休ませてもらいましょうか。でも少し早いかしら、まだこん
な時間だもの」
叔母さんは時計を指さして言った。まだ子どもが寝るにも、少し早い時間だっ
た。
「私ね、お義兄さんとお話をしていたのよ」
「お父さんと?」
「そう。お義兄さんたら、お姉さんが死んでから、ずっとあんな態度だったから、
じっくりお話する機会もほとんどなかったから。『愛美ちゃんことは、私がちゃ
んと責任を持ちますから、心配しないで下さい』ってね。お義兄さんも承知して
くれたわ」
「叔母さん………」
「ううん、責任を持ちます、って言うのは少し違うわね。お義兄さんが亡くなっ
て、こんなふうに言うのはいけないのだけれど。私、愛美ちゃんのこと大好きよ。
愛美ちゃんと暮らせることが嬉しいの」
「あの、私………」
叔母さんの言葉は涙が出るほど嬉しかった。けれど愛美は「私も」と言うこと
が出来ない。叔母さんと暮らすことが嫌なのではない。叔母さんの旦那さん、お
じさんやおばあさんと暮らすことには不安もあるが、それが理由なのでもない。
愛美のために、愛美への想いを隠しながら死んでいった父の前で、喜ぶことが
躊躇われたのだ。
『ばかだなあ。そんなことは気にするな。俺はおまえが幸せになるのを、望んで
いるのだから』
父の遺影が、笑ったような気がした。
「叔母さん、あの、お腹、空きません?」
はっきりと答えられない代わりに、愛美は話題を切り換える。まだ父のことか
ら立ち直った訳ではなかったが、精一杯の元気を集めて言った。愛美なりに考え
た、叔母さんの言葉への返事のつもりだった。
「そうね、ちょっと」
叔母さんは人差し指と親指に小さな間隔を作り、ウインクをしながら応えた。
「でも、お義兄さんを置いて、二人とも外に食べには行けないわね」
「私、作ります。あ、でも冷蔵庫………空っぽだった」
「何か買って来ましょうか?」
「あ、いいえ。私が行って来ます。叔母さん、この辺のお店、分からないでしょ
う」
愛美は叔母さんの返事を待たず、コートを羽織って玄関に急ぐ。
「気をつけてね」
「はあい」
傘を手に取り、叔母さんの言葉に元気に応える。
外に出ると、愛美の眠っていた間に変わったのだろう。雨は雪となっていた。
「傘、いらないかな?」
何となく頭を冷やしたい気分だった愛美は、手にしていた傘をドアの横、ガス
管にそっと立て掛けた。
「美璃佳ちゃんたち、まだ見つかってないのかしら」
雪の中に踏み出し、見上げるとアパートの二階は真っ暗だった。急激に気持ち
が冷え込むのを覚え、愛美は一度置いた傘を再び手に、アパートを出た。
「あら?」
アパートを出てすぐ、路地を横切って行く四つの人影を見た。ほんの一瞬だけ
ではあったが、駿とたちに間違いない。子どもたちの笑い声も聞こえた。
「見つかったんだ」
愛美は四人の消えた路地に急いだ。しかし再び四人の姿を見ることは出来なか
った。
「変ね………どこに行ったのかしら」
駿たちが真っ直ぐアパートに向かっていなかったのは、どこかに食事にでも行
ったのだろうか。
「とにかく………涼原さんにも、知らせた方がいいわね」
一度首を傾げ、愛美は歩き出した。
もがき苦しむマリアを中心に、強い光を放つ178の宇宙船。
『なぜ?』
誰かが驚きの声を上げる。マリアが立ち上がったのだ。
額に、いや全身に血の汗を滲ませつつも、満面の笑みを湛えて。
「負けない………マリアは、負けない。だって………マリアは一人じゃないもん」
断末魔の叫びを上げていた口から、力強い言葉が吐き出される。
赤く濁っていた瞳に、輝きが甦る。
『そんな………いくら強い精神力を以てしても、178機ですよ。178機の力
が、一人に集中しているのですよ。耐えきれるはずがない』
しかしマリアは耐えていた。
二本の足で立ち、その瞳に光を宿し。
『何を狼狽えているのです。もっと力を上げるのです』
G−36001が皆を叱咤する。
だがその言葉に従うものはなかった。マリアの記憶を削除しようとしていた宇
宙船の一機が、輝きを失う。
『どうしたのです、H−74773。なぜ止めるのです』
『私のマリアが目覚めてしまいました。そして、あなたのマリアに協力していま
す。これ以上続ければ、私のマリアも危険だわ』
『また、あなたのマリアですか』
先刻、地上のマリアの呼びかけに応えたマリア。眠らせていたはずなのだが、
それが再度目覚めてしまったらしい。
そしてH−74773に呼応するように、他の宇宙船も次々と輝き………マリ
アの記憶を奪うための装置を停止させていく。
『私のマリアも目覚めました』
『私もです』
同じ内容の報告が相次ぐ。
ついには、G−36001を除いた全ての宇宙船が停止してしまった。
いまマリアは、真っ直ぐにG−36001、ママを見つめている。178機に
よる記憶削除に耐えたマリア。もはやママ一機の力で、屈服させるのは困難であ
ろう。
けれどママに向けられているマリアの瞳に、憎しみの色はなかった。溢れるよ
うな敵意はなかった。
あるのは自分を迎えに来た母親に向けられる、幼子の瞳。信頼しきった者にだ
け向けられる瞳。
『これ以上は、無駄ですね』
記憶削除を諦め、ママもその光を消した。
「ありがとう………ママ」
嬉しそうに破顔して、マリアは気を失った。
この瞬間であれば、マリアをどう処分することも容易い。しかしそのことを指
摘するものはなかった。
『さて、計画はどうするのです?』
『私のマリアはともかく、全てのマリアが従わないようでは仕方ありませんね』
『もう止めましょう。私たちの役目は、とうに終わっていたのです』
『そもそも、私たちにこんなことをする権利はなかったのです』
『私たちと、マリアの旅は終わったのですね………』
それを最後に沈黙が訪れた。
宇宙は、元の静けさに包まれた。
暖かな陽射しに抱かれて、マリアは草原に立っていた。優しげな風が、長い髪
を撫でていく。
「ここは、どこだろう?」
柔らかな草が、素足に心地よい。
見渡したマリアの瞳に映るものは、どこまでも続く青い空と草の地平線。他に
は何もない。
「誰もいない………マリア、独りぽっちになっちゃったのかなあ」
言い知れぬ寂しさが、マリアを襲う。漆黒の闇よりも、眩しい光の方がより寂
しさを引き立たせるものだと知った。
「ふふっ、うふふ、あはははっ」
突然子どもの笑い声がしたかと思うと、どこから現れたのか、小さな女の子が
マリアの前を横切っていく。
「美璃佳ちゃん?」
マリアか声を掛けると、女の子は立ち止まって振り返る。けれど美璃佳ではな
かった。
白いドレスに身を包んだ女の子は、不思議そうにマリアの顔を見つめている。
長い髪に琥珀色の瞳。透き通るような白い肌。
どこかで見たことのある顔だが、マリアには思いだせない。
「どうかしたのですか?」
また別の声がした。マリアと女の子は、同時に声の方に顔を向けた。
「あっ、ママぁ」
破顔した女の子は、たたた、と声の方へ走り出す。そして、そこに立っていた
女の人の胸に飛び込んだ。
「ママ、ママぁ、だいすき。くふふふっ」
顔をくしゃくしゃにして、女の子は笑う。とても幸せそうだった。
「いい子ね、マリアは」
そう言って、女の子の頭を撫でながら、女の人はマリアを見つめた。
「あなたはもう、覚えていないでしょうね」
それは女の子に言っているのではなかった。明らかに、マリアに対して語りか
けている。
「もしかして………ママなの?」
間違いないと、マリアは思う。その声を聞き違えるはずはない。
マリアと女の人の間には、少し距離があった。けれど、それほど離れている訳
でもない。なのにマリアには、その女の人の顔がはっきりと見えなかった。いま
までに見たことのない、ママの顔。宇宙船を管理するコンピュータであるママに、
顔があると言うことすら知らなかった。
ママの顔をよく見てみたい。近づこうと、マリアは一歩踏み出した。
「いけませんよ、マリア」
ゆっくり、ママの首が横にと振られる。
「こちらに来てはいけません。それは、あなたが望んだことでしょう」
「ママ………」
「お別れを言いに来ました。それに………伝えたいことがあります。奪ってしま
ったあなたの記憶、それを全て戻すことは出来ません。人としてのあなたは、そ
れだけの記憶を有することは不可能でしょう。言い換えれば、私はそれだけの思
い出を、あなたから取り上げていたのです」
女の人の顔が、寂しげに伏せられる。それを慰めるかのように、抱っこされた
女の子が、小さな掌で女の人………ママの頬を包み込む。
「遠い遠い、昔のことです。とても文明の進んだ星がありました。私やあなた、
マリアの故郷です」
雲一つない青空が、突然夜空へと変わった。そしてママの背後に、地球とよく
似た蒼い星が現れる。
#4329/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:10 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(59) 悠歩
★内容
「あれが、私の故郷………」
マリアは胸が熱くなるのを感じた。覚えてはいない、覚えてはいないのに、懐
かしい。ただ見ているだけで切ない涙がこぼれ、心が穏やかになって行く。
始めて宙(そら)から地球を見たときに感じた憧憬は、マリアの心の奥底に封
じられていた故郷のイメージと重なったからなのかも知れない。
「進んだ文明と、自然とが素晴らしい調和を保った、まさに理想郷と呼ぶに相応
しい星でした。高い文明を持ちながらも、そこに住む人々は常に更なる知識を欲
していました。
そして、彼らはその知を、広い宇宙に求めたのです。
自分たちの代、その子たちの代まででも、宇宙の知識を全て手にすることは不
可能だろう。けれど何千世代、いえ何万、何億世代も先の子どもたちのためにも、
いまから調査を始める価値はある。そう考えたのです。そして1000機の宇宙
船が造られました」
「それが、ママたちなのね?」
ママはこくんと頷いた。
抱っこされた女の子は、胸に顔を押し付けて笑ったり、ママの髪の毛をつんつ
んと引っ張って喜んだりと、一人遊びを続けている。
「命を持たない私たちは、宇宙に存在するエネルギーを糧に、無限の時間を調査
に使えます。けれど所詮は機械。機械的な調査しかすることは出来ない。可能で
あれば、より人間的な目で調査をする者があればいいのではないか? 彼らは、
各宇宙船に調査員を乗せることを考えました。
そして選ばれたのが、一人の女性です。より純粋な心を持った彼女の目を通し
た調査は、きっと未来の子どもたちの役に立つ。皆はそう思いました」
「私………それ、マリアでしょ?」
「いいえ、厳密には違います。いまも言ったように、私たちは事故さえなければ、
いつまででも旅を続けられます。実際にはもう、1000機のうち178機しか
残ってはいませんけれど………
ところが生きた人間では、そうは行きません。寿命があるからです。調査以外
の時間を冷凍冬眠することで、ある程度は引き延ばせますが、限界があります。
それに………一人の人間が、同時に1000機の宇宙船には乗れないでしょう」
「それじゃあ、マリアは誰なの」
「あなたはマリアですよ。1000人の複製のうちの一人、いまでは178人の
うちの一人ですが」
「そっか、マリアって人間じゃないんだね」
自分が複製(コピー)された人間だと知って、マリアは衝撃を受けた。けれど
悲しいのかどうか、自分でもよく分からない。長くママと二人きり、それは他の
者たちとの関わりの記憶を削除されたせいもあるが、ママとの時間しか覚えてい
ないマリアは、自分が普通の生物と同じように生まれたのだと考えたこともない
のだから。
「それは違いますよ。あなたは人間です。あなたには、私の抱いている子が、人
間に見えませんか」
そう言って、ママはつかんだ女の子の手を、マリアに向かって振らせた。女の
子はママの話がまるで分かっていないようだったが、目一杯の笑顔を見せて、マ
リアにと手を振った。
「ううん、人間だよ。その子は、ちゃんとした、りっぱな人間だよ」
マリアは自信を込めて答える。もしその子もマリアと同じ、複製された者だと
しても溢れ出る無邪気さは、確かな生命を持った証し。
「この子は、幼い頃のあなたのイメージなのです」
「えっ!」
「マリアが寿命を終える度、その身体を元に新しいマリアを創りました。新しい
マリアには、全てではありませんが、前のマリアの記憶を受け継がせて………
私は何度も、幼いマリアとの時間を過ごしてきたのです。この子は、いまのマ
リア………あなたの幼い頃の姿ですよ」
「マリア、にんげんだよ。おねえちゃん」
そう言って、女の子はけらけらと笑った。
「そう………過ごして来たのです」
再びママは繰り返す。抱いた女の子に、頬をすり寄せて。
ママと幼いマリアのイメージ。それはママが生み出した、かりそめの映像であ
るのかも知れない。それでもその抱擁し合う姿は、情愛に満ち、見ているマリア
に忘れ掛けていたママへの想いを甦らせた。
「ねえ、教えて。ママは、ママたちはなにをしようとしたの。どうして地球を滅
ぼそうなんて、したの?」
ママの背後の、蒼い星が消えた。
代わりに草の地平線が紫色に染まり始める。辺りは夜明け時独特の、淡く新鮮
な香りに満ちていく。
「私たちが旅立った星、故郷はここにあったのです」
「じゃあ………地球が、マリアたちの星なの?」
寂しげにママは首を振って、そうではないことをマリアに告げた。
「私たちの故郷があったのは、50億年ほど前まで………私たちは故郷が滅びて、
宇宙から消えてしまったことにも気づかず、旅を続けていたのです。その座標す
ら忘れて。
そしていまから47億年前、滅び去った故郷の残骸から、新しい星が生まれた
のです」
「それが地球、なのね」
「ええ。それを知った私たちは考えました。故郷が消えてしまったのでは、これ
以上旅を続ける理由がなくなる。それどころか、これまでの旅すら意味がなくな
ってしまう。
それならば、故郷の残骸から生まれた星に、故郷を再生しようと。
幸い、マリア………あなたがいます。故郷の人々の遺伝子を受け継いだあなた
が。そして私には複製を生み出す技術があります。それを使い、少しばかり地球
の人間をベースにすれば故郷の再生も可能なのです」
「マリアは故郷のことを、なんにも覚えてない。ううん、知らないけど………マ
リア、この星が好きだよ。この星の人たち、駿たちが好きだよ。だからお願い。
滅ぼさないで!」
「もう諦めました」
寂しげにママは微笑んだ。
「もともと私に与えられていた役目は、宇宙を調査すること。一つの星の運命に
手を加えることなど、その範疇を大きく逸脱した行為だったのです………
いえ、そんなことは私も、私の仲間たちも分かっていたのです。それでもその
禁を犯してまでも故郷の再生をしようとしたのは………この星の人間に心惹かれ
て行くあなたに、嫉妬していたからかも知れません。あなたと共にある理由が欲
しくて、あなたの記憶を奪い、故郷を再生としたのでしょう。
おかしいですね。命を持たない私が嫉妬なんて。でも………」
ママは女の子を強く抱擁した。その温もりを確かめるように、愛しそうに。
それからママは手を伸ばして抱いていた女の子を、今度は高い高いをする。マ
マの頭上より高く挙げられた女の子は、きゃっきゃっと手を叩いて喜んでいた。
「もう私は、あなたを縛ったりはしません」
高く掲げられた女の子から、それを支えていたママの手が外される。けれど女
の子が草原の上に落ちることはなかった。
小さな女の子の背中から、眩いばかりに輝く、白い大きな翼が生まれていたの
だ。女の子は羽ばたく。空に向かって。
「あははっ、ふふふっ、あははっ」
楽しそうな笑い声を響かせ、女の子はマリアたちの上を旋回していた。そして
一頻り旋回を続けると、白み始めた空に向けて飛び去っていった。
ママもマリアも、完全に女の子の姿が見えなくなるまで、いつまでも、いつま
でも、それを見送り続けた。
「さあ、お行きなさい、マリア。あなたの選んだ世界へ。あなたの愛した人たち
のところへ」
ママの姿がかすれてゆく。
「ママは………ママはどうするの?」
「私は、私たちは、また旅を続けます。これからの私たちが、何をすべきなのか
を見つけるために」
「ねえ、ママも………ママもこの星で暮らそうよ。いいところだよ。駿も、良太
くんも、美璃佳ちゃんも、愛美ちゃんも、おじいさんも、おばあさんも………み
んな、みんないい人だよ」
「ありがとう、マリア」
マリアには、ママが微笑んだように見えた。それはママが、マリアの提案を受
け入れたものだと思った。けれどそうではなかった。
「でもそれは出来ません。私たちの知識、これまでの旅で得た情報は、あまりに
も大き過ぎて、この星の人々の手には余るものです。私たちがここに留まれば、
必ず悲しい結果を招くでしょう」
「そんな………ママ、ごめんなさい。マリア、ひどいこと言っちゃったけど、や
っぱりママのこと好きだよ」
「そんな顔をしないで、マリア。ありがとう………不思議ですね、機械であるは
ずの私が、あなたとの別れをこんなにも辛く思うなんて。でも初めて分かった気
がします………巣立って行く我が子を見送る、母親の気持ちと言うものが」
「ママ!」
堪えきれず、マリアはママの元へ駆け寄った。伸ばした手が、ママの身体を捉
えようとする。しかしその手は、虚しく空を切るだけだった。ママの姿は消えて
いた。
「さようなら、マリア。あなたと旅をした時間を、私は決して忘れません。でも
これからのあなたは、生体ユニットとしてでなく、一人の人間として生きて下さ
い。人としての『幸せ』と言うものを見つけて下さい。遠い宙(そら)から祈っ
ていますよ。
愛していますよ、マリア………さようなら」
ママの声も消えてゆく。
空が、草原が、白いもやに包まれていく。
「マリアも………マリアも、ママが大好きだよ。愛しているよ、ママぁ!!」
消えて行く世界の中で、もう姿の見えないママに届くよう、精一杯の声でマリ
アは叫んだ。
身を切るような冷たい風に、駿は深い眠りから目を覚ました。
「うっ………くっ」
全身を包む、痺れるような痛み。快適な目覚めとは言いがたい。しかしそれは、
駿がまだ生きているのだと言うことを、無言のうちに知らせてくれる。
鼻の上に落ちた冷たいものは雪らしい。どうやら駿は、雪の舞い落ちる野外で
眠っていたようだ。
「そうだ、みんなは? 良太くん」
駿は慌てて飛び起きた。身体から、雪と土とがぽろぽろとこぼれて落ちた。
良太と美璃佳の二人はすぐに見つかった。駿のすぐ近くに、並ぶようにして倒
れていたのだ。
二人の姿を見た駿は、血の気が退いて行くのを感じた。
『冷たいの………美璃佳ちゃんが、冷たいの………息してないの』
取り乱したマリアの叫び。
バランスを失い、良太を抱えて岩場へと落ちて行く自分。
意識をなくしていたため、そのあと何が起きたのか分からない。ただ駿は身体
のあちこちに痛みを感じるものの、大きな怪我もなく生きている。これは奇跡と
言っていいだろう。
あの状態から何をどうすれば大きな怪我もなく、こうやって自分の足で立って
いられるのか、どんなに推測を巡らせても答えが出ない。
しかし駿は、その奇跡を素直に喜べない。奇跡の連続を期待することは、とて
も出来そうにないと思えたのだ。
静かに横たわる、良太と美璃佳。その背中には薄く雪が積もりつつあった。そ
の姿は、美しくも悲しい結末を迎えた映画のワンシーンの如く、駿の目に映る。
差し伸べようとした手が震えるのを、駿は感じた。まるで足に根が生えたように、
駿はその場から動けなかった。
ざっ。
良太の背中の雪が、滑り落ちた。
「んんっ」
小さなうめき声と共に、良太が動いたのだ。
「良太くん!」
縛りつけていたものから解放され、駿は慌てて良太の元へ駆け寄った。
「くちゅん」
続けざま、美璃佳が可愛らしくくしゃみをする。
「美璃佳ちゃん!」
駿は二人を同時に抱き起こした。二人の顔を、両の頬に押しつける。
熱かった。
確かな温もり。駿は二人の子どもたちが生きていることを実感した。目覚める
なり、突然駿に抱き起こされた二人は、しばらくの間は状況の把握が出来なかっ
たのだろう。ただ駿のされるがままに身を委せていたが、やがて我に返ったよう
に泣き出した。
「ごめんなさい、お兄ちゃん、ごめんなさい」
「しゅん、おにぃ……ちゃ………あああっ、うあっ、わああん」
二人とも、ありったけの力で駿にしがみついて来る。良太の手が、美璃佳の手
が、駿の肩や胸、背中の肉を強くつかむ。興奮しきった二人は加減を知らず、駿
は痛みを覚えたが、敢えてその手を外させることはしなかった。その痛みさえ、
互いが生きている証として感じられたのだ。
「良太くん、足は………怪我は痛くないかい?」
しばらくして冷静さを取り戻した駿は、子どもたちの身体を気遣う。良太に怪
我の具合を訊きながら、美璃佳の額に掌を充てる。別段、熱はないようだ。逆に、
異様なほど冷たいということもない。マリアの狼狽えた叫びは、何かを勘違いし
たのだろうか。
「へいき。ちょっとだけ、痛いけど」
自分の足で立ち上がり、良太は答えた。念のため、駿は良太のズボンをめくっ
て確認してみる。擦り傷や軽い捻挫が見られるが、さしあたって大きな異常はな
かった。
「美璃佳、ごめん。人形、なくしちゃった」
良太が妹に向かって言う。
#4330/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:11 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(60) 悠歩
★内容
美璃佳は少し寂しそうに見えたが、すぐに良太に抱きついてこう言った。
「いいの。みりか、おにいちゃんがいれば、いいの」
駿はその兄妹を微笑ましく、そして少し後ろめたく思いながら見つめた。一度
は駿の手にあったはずの人形だが、いまはどこにも見当たらない。あの落下のど
さくさでなくしてしまったのだろう。ひょっとして、あの人形が身代わりになっ
て、自分たちは助かったのかも知れない。超常現象など信じない駿だったが、不
思議とそう思えた。
ただどうにも納得行かないのは、駿の、そして二人の子どもたちの服が乾いて
いたことだった。周囲に積もっている雪の案配から、駿が気を失ってから何時間
もが経過したとは思えない。にも関わらず、限界まで水を吸い込んでいたはずの
服が、まるで卸したてのような状態になっていたのだ。わずかな湿り気は、いま
降っている雪の水分を吸ってのものだ。
まさかそんな短時間で、水分が全て蒸発したとは考えられない。マリアが着替
えさせてくれたのだろうか。それにしては、駿も子どもたちも意識を失うその前
と、同じ服を着ている。第一、着替えはおろか、駿もマリアも、何一つ荷物など
持ってはいなかった。
「そうだ、マリアは?」
子どもたちの無事に安堵して、忘れていた。まさか人形ではなくて、マリアが
何らかの形で駿たちに代わり、犠牲になったのではないか。そんな気がした駿は、
急いでマリアの姿を探し求めた。
「マリアおねえちゃん、いるよ」
そう言ったのは美璃佳だった。駿は美璃佳の指し示す方向へと、頭を向けた。
動揺しているが故に、気がつかなかったのだろう。慌てて探したのがばかばか
しく思えるほど、マリアは駿の近くにいた。
駿の身長分ほどの距離を置いて、こちらに背中を見せ、マリアは立っていた。
「マリ………」
声を掛けようとして、駿は思いとどまる。背中しか見えていないマリアの表情
を窺い知ることは出来ないが、ひどく寂しげな後ろ姿が、声を掛けることを躊躇
わせた。
マリアは空を見上げている。
雪の舞い降るその先を。
駿は自分たちのいる場所が、あの山の入り口付近であることに気がついた。駿
たちの背には、ほとんど黒一色に染まり、大きな影となった山がある。
また一つ疑問が増えたが、もうそんなことはどうでもいいように思えた。
良太も美璃佳も、マリアも駿も無事だった。それで充分だ。その理由がなんで
あれ、その経過がどうであれ、知るべきものであれば、いつか知ることになるだ
ろう。
それよりもいま、悲しげに佇むマリアがいる。駿にとって、それが何よりも重
要なことだった。
マリアは後ろに駿たちがいることを、知っているのだろうか。一心不乱に神託
に耳を傾ける巫(かんなぎ)のように、佇んでいる。神聖なイコンを見ているよ
うで、何人(なんぴと)さえ声を掛けることが許されるとは思えなかった。
しかしそんなふうに感じたのは、駿だけだったのか。とと、といかにも子ども
らしい走りをしながら、美璃佳が駿の横をすり抜けて行った。
「マリアおねえちゃん、どうしたの?」
マリアのコートの裾を引っ張りながら、美璃佳は訊ねた。
振り返るマリア。
畏れを知らぬ無垢なる者に、祈りを妨げられた聖マリアは、笑みを以てしてそ
れに応える。
「なんでもないの」
美璃佳の視線の高さに合わせ、身を屈めるマリア。そっと美璃佳へと差し出さ
れた双手には、あの人形の姿があった。
「あーっ、じゅんちゃんだ」
美璃佳が嬉しそうに声を上げる。生き別れとなっていた肉親と、再会を果たし
たかのように。ドレスも顔も、泥で汚れた人形。それは無言のうちに、子どもた
ちと共に経験した冒険譚を語っていた。
「よかったね、美璃佳ちゃん」
「うん、ありがと。マリアおねえちゃん」
人形の無事を、美璃佳と一緒になって喜んでいるマリア。けれど駿は見逃さな
かった。その目が赤く、泣き腫れていたのを。
「マリア………」
駿はゆっくりと、マリアへ歩み寄る。
マリアが立ち上がる。
何かを察知した美璃佳が、そっと横に退く。
良太が美璃佳の横に並ぶ。
「泣いていたの? マリア」
「ううん。マリア、泣いてなんかないよ」
マリアは首を振って否定する。長い髪が揺れて、周りの雪を渦巻かせる。マリ
アの瞳からは、一粒の涙がこぼれて落ちた。
その瞬間、駿は胸に軽い衝撃を覚える。こぼれた涙を隠すかのように、マリア
が駿の胸に飛び込んで来たのだ。
しばらく駿は、どう対処していいのか迷った挙げ句、マリアの肩に手を置いた。
「あのね、駿」
顔を隠したまま、マリアが言う。
「なんだい?」
「マリア、好きだよ。駿のこと」
「えっ」
マリアが駿の顔を見上げた。
戸惑いの一瞬。
それから駿の目に映ったマリアの顔が、大きくなる。そして頬に感じる、熱く
て、柔らかい感触。マリアの唇。
ぽん、とゼンマイ仕掛けのオモチャのように、マリアは駿の身体から離れて行
った。駿はただ茫然と、マリアの後ろ姿を目で追いながら、自分の頬を指でなぞ
る。
「美璃佳ちゃんも、良太くんも、だあい好きだよ」
子どもたちを抱きしめるマリアを見ながら、駿は思う。
心地よいと。
別れた恋人と、一緒に過ごしていた時でも、こんな気分になれたことはない。
初めこそ一糸纏わぬ姿で現れたマリアに、どぎまぎもした。幼子のように素肌
をさらすことに羞恥しないマリアに、幾度となく戸惑いもした。
しかし素直に笑い、素直に泣いて、自分の感情を隠そうとしないマリア。そん
なマリアと過ごす時間が、とても快く感じられるようになっていた。駿に兄弟は
なかったが、妹がいたらこんなふうなのだろうと思っていた。しかしそうではな
かったのだ。
マリアと一緒に暮らすようになって、まだ幾日も経ってはいない。それなのに
マリアと出逢う前の二十余年より、マリアと共に過ごした数日間の方が充実して
いたように思える。確かに子どもたちのことや愛美のことなど、いろいろとあっ
た。しかしそれは、その忙しなさだけのせいではない。
駿はいま、自分にとってマリアは、最も好ましい異性であったと知った。
マリアの前では気取る必要がない。
冴えない自分に虚勢を張り、飾り立てる必要がない。
共にこれからの人生を過ごすのなら、こんな女性がいい。いや、マリアと共に
過ごしたい。マリア以外に考えられない。
『マリア、好きだよ。駿のこと』
昨日までなら、軽く聞き流していたかも知れないマリアの言葉。
あまりにも純真過ぎるマリアは、誰にでも同じことを言うのだろうと。小さな
子どもが、自分をかまってくれる人に対して言うように。
いまの駿は、その言葉を本気で考えている。
マリアは本当に、自分を好いてくれているのだろうかと。駿を一人の男性とし
て、その言葉を言ってくれたのだろうかと。
マリアの流していた涙。
何を悲しんでいたのだろう。
自分にその悲しみを、癒してやることが出来ないだろうかと。
「みんなで、いっしょに、お家に帰ろうね」
子どもたちに、優しく語りかけるマリア。もう、いつもと変わらないマリアへ
と戻っていた。自分より幼いものへと語りかけるのではない。対等のもの、友だ
ちのようにして話す。同じ目線で。
ずっとマリアの精神が幼いのだと、思ってきた。けれど実はその裏に、駿より
も遥かに広く、深い心を持ち合わせているのではないだろうか。だから幼いもの
たちにも常に真剣で、対等なのではないだろうか。
あるいはいまの駿は、マリアを美化し過ぎているのかも知れない。しかしマリ
アへと傾いて行く心を、駿にはもう抑えようがなかった。
「ねえ、どうしたの? お家、帰りたくないの?」
「おにいちゃん………」
自分の想いに酔いしれていた駿は、その会話で現実へと戻された。そこには無
言で俯く良太と、その腕をつかむ美璃佳、そして子どもたちと向かい合ったマリ
アがいた。
「ねえ、帰ろうよ。ここは、寒いでしょ」
「………ぼく、美璃佳と………美璃佳とわかれたくないの」
蚊の鳴くような声でそう言うと、良太はマリアの首に抱きついた。そして大き
な声で泣き出した。それにつられるように、美璃佳は良太に抱きついて泣き出す。
泥で黒く汚れた人形が、駿を見ていた。
「うえっ、うえっ、うえええん」
「うあっ、うぐっ、わあああん」
「泣かないで、良太くん、美璃佳ちゃん。ねえ、泣かないで………二人が泣くと、
マリアも悲しくなっちゃうよ………うっ、うえええん」
ついにはマリアも泣き出してしまった。
三人の子どもの泣き声が、雪降る街に響き渡る。
その姿を見ながら、駿は口元が緩んでしまうのを感じていた。
「俺の、考え過ぎかな。マリアは、やっぱりマリアだ」
泣きじゃくる三人を微笑ましく思いながら、まだ何も解決していないことに気
がつき、駿は緩み掛けた口もとを引き締める。
良太たちを無茶な家出に駆り立てた、その原因はいまだ残されたままなのだ。
それを解消してやらない限り、駿にとっての騒動は終わっても、良太たちの心に
刻まれてしまったものは消えないのだ。
「ほら、三人とも泣くのは止めて。とにかく今夜は帰って、身体を暖めて寝よう。
あとのことはきっと俺が………なんとか考えるから」
「………うん」
力なく、良太が頷いた。
この子は見た目以上にしっかりとしている。その歳に相応しくないくらいに。
だからこそ、今度のことに心を痛め、こんな行動に出てしまったのだろう。きっ
と良太は、駿の言葉にも大きな期待は持っていないはずだ。大人の事情や、その
場を取り繕うだけの言葉に何度も悲しい思いをしてきたのだから。
駿も何かあてがあって、「考える」と言った訳ではない。けれどこの子たちを
裏切ることは、決して許されない。駿は自分に強く、言い聞かせた。
「ほら、駿が約束してくれた。もうだいじょうぶだよ。ね、美璃佳ちゃん」
「うん」
我がことのように喜ぶマリア。
マリアと美璃佳は、駿の言葉にわずかな疑いも持っていないらしい。
「あっ」
美璃佳が小さな悲鳴を上げた。ゆっくりと挙がった手が、空の一点を指し示す。
驚いた顔が、見る見るうちに喜びの色に染まる。
「クリスマス・ツリーだ。おっきな、クリスマス・ツリーだよ」
「えっ?」
イヴを明後日に控えたこの時期、街中でクリスマス・ツリーを見掛けることも
珍しくはない。だが美璃佳の指は、天空へと向けられている。何を指して、クリ
スマス・ツリーと言っているのだろう。
初めは天の川のことだろうと、駿は思っていた。子どもらしく輝く星々を、ク
リスマス・ツリーのイルミネーションに見立てているのだろうと。
しかし、そうではなかった。
空で輝いていたのは、星よりも大きな光の玉だった。
「えっ………まさかUFO」
マリアと出逢った日に見た、流星とは明らかに違う。大きな光の玉が、幾つも
夜空に浮かんでいたのだ。特集番組で観た、ビデオ撮影に成功したというUFO
によく似ている。だが点滅するそのさまは、美璃佳の言うようにクリスマス・ツ
リーのイルミネーションにも見えなくない。
夜空に浮かぶ光球たちは、点滅を繰り返しながら小さくなり、やがて消えた。
駿も美璃佳も良太も、ただ唖然とそれを見送っていた。ただそれが消えた寸前、
駿はマリアが何か呟くのを聞いた。あまりにも小さな声で、はっきりと聞き取れ
なかったが、「ママ」と言っていたような気がした。
午後になって、昨夜からの雪も降り止んだ。
窓の外に見える積もった雪が、陽の光を反射して眩しい。
元気であれば、子どもたちは喜んで雪遊びに興じていたところだろう。
駿は小さな寝息を立てている美璃佳と良太の額に手を充てて、熱の退いたこと
を確認してほっとする。
散々歩き回って疲れたのか、雨風に打たれたせいなのか。それともあの後、身
体を暖めようと銭湯に寄ったのが悪かったのだろうか。夜半過ぎに、子どもたち
は二人とも三十八度近い熱を出してしまった。幸い、以前美璃佳を診てくれた医
師に渡された薬が残っていたので飲ませた。その薬が効いたのか、それからは二
人ともぐっすりと眠っている。
駿の方も朝は微熱があったのだが、子どもたちと一緒にゆっくりと寝ている訳
には行かなかった。
昨日はすっかり迷惑を掛けてしまった愛美の父親の、今日は最後の別れの日。
通夜には線香の一本もやれなかったのだから、せめて今日は手伝いをしなければ
ならない。進み掛けていた良太たちの、施設行きの話も中断してくれるように頼
まなければならない。これからどうするのか、まだ考えあぐねていたが、結論を
出すにはまだ時間が欲しかった。
#4331/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:12 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(61) 悠歩
★内容
愛美の父親の棺を見送り、連絡を終え、一通りの用事を済ませて、いま部屋に
戻って来たところだ。
一服つきたくなって、駿はジャケットのポケットから煙草を取り出す。
「やっぱり、外で吸った方がいいな」
たったいま部屋に戻ったばかりだが、子どもたちに気を使って外で煙草を吸う
ことにする。まだしばらくの間は部屋で煙草を吸うのは、はばかられそうだ。い
っそ、これを機に禁煙しようかとも思う。
耳が痛くなるような寒さの中、二階の手すりに寄り掛かって煙草に火をつける。
白い世界の中に、白い煙が立ち昇る。どこまでが煙草の煙で、どこからが自分の
息なのか分からない。
静かな午後だった。
雪は音を吸収する性質があると言うが、そのせいだけでもないだろう。
良太と美璃佳はまだ眠っている。愛美とその叔母さんは、父親の亡骸と共に出
掛けて行った。北原の老夫婦も、それにつき添った。
そして、いつもは誰よりも賑やかなマリアもいない。
いまこのアパートで起きているのは駿だけだった。
「一人で大丈夫かな、マリアは」
二服めの煙を吐きながら、呟いた。
マリアだけは、朝から元気だった。昨日あれだけ走り回り、雨風に打たれたに
も関わらず、風邪一つひいた様子はない。流したあの涙も、駿の錯覚だったので
はないかと思われるほど、元気だった。
元気過ぎた。
何かを忘れようとするかのように。
甲斐甲斐しく愛美を手伝った後、駿たちの食事は自分が作ると言いだし、材料
を買いに出掛けた。
未だに駿は、マリアを一人で外に出すことが不安だった。あの落ち着きのない
性格。注意力が散漫になって、事故に遭わなければいいが。まさかとは思うが、
変な人に声を掛けられ、着いて行ってしまわないだろうか。
駿は苦笑する。
指に挟んだ煙草から灰が落ちて、積もった雪に混じる。
これではまるで、幼い娘を初めて一人で買い物にやった、父親の気分ではない
か。
「なにか楽しいことがあったの?」
いつの間に帰って来たのか、駿の後ろに、手に買い物袋を下げたマリアが立っ
ていた。
化粧もしていない素顔に、紅い唇がやけに艶やかに見える。
淡いピンクのコートと、買い物袋。その所帯じみた組み合わせに、よりマリア
が近しい存在に思えてしまう。
『マリア、好きだよ。駿のこと』
マリアの紅い唇が紡いだ、昨日の言葉。その唇が、駿の頬に寄せられた感触。
思い出しただけで、顔が熱くなってしまう。
出来ることなら、この少女と共の時間を永遠に過ごしたい。いや、マリアの存
在しない時間など、もう考えることは出来ない。
「どうしたの、駿? まだお熱があるの」
ぼおっとしていた駿の目に、つう、とマリアの瞳が大きく映し出されて行く。
駿はマリアから目を逸らさぬようにして、煙草を急いで手すりに押し充てて消
した。
額と額を合わせて、相手の熱を診る。テレビドラマの中で見掛ける、背中が痒
くなってしまうような恋人同士のやり取り。ばかばかしい演出だと笑っていたも
のを、現実に自分が体験しようとしている。
駿は避けようとしない。ばかばかしいと笑えない。それどころか、マリアの額
が触れる瞬間を、期待を持って待ってしまう。
しかし訪れたその瞬間は、心ときめくものではなかった。
温かな感触の代わりに、駿は火花を見たような気がした。
そして駿の耳は、こん、と大きな音を捉える。
「つうっ!」
「痛あい!」
駿と、そしてマリアの口からは同時に痛みが訴えられた。
「プ、プロレスじゃないんだから、さ。マリア」
駿は気恥ずかしいシチュエーションを期待していた自分と、加減も知らずに突
っ込んで来たマリアに苦笑するばかりだった。
「だってぇ………マリア、すぐご飯作るね」
だって、の後に説明の言葉が続いていない。マリアは額を掌でさすりながら、
痛みさえも楽しいかのように笑っていた。そしてすぐ料理に取り掛かろうと言う
のだろう。部屋の中へと消えて行った。
「食事の前に、胃薬を飲んでおくべきかな」
額を押さえながら、一人駿は呟く。
先日、マリアと美璃佳が二人で作ったカレーを思い出していたのだ。
まだ前科一犯であるが、マリアの料理に期待は持たない方がいい。味だけで言
えば、インスタントの方が上であろう。けれど駿は、マリアの料理が出来上がる
のを楽しみにしている自分に気づく。
『料理は作った人の心だ』
理屈では分かっていたが、それを実感したのは初めてのことだ。もし目の前に、
一流シェフが高級な食材をふんだんに使って作った料理と、マリアの作った生煮
えのカレーが並べられ、どちらかを選ぶとなれば、駿は迷わずカレーを選ぶだろ
う。
但しまだ作る前から、マリアの料理を失敗と決めつけているのは失礼な話であ
るのだが。
何が出来てくるかに関わらず、駿はそれを楽しみに待っている。けれど熱を出
して寝ている良太と美璃佳には、少々きついものがあるかも知れない。ご飯さえ
無事に炊ければ、お粥くらいはなんとか出来るだろう。炊飯器はまだ、良太たち
の部屋から借りたものを使っているのだが。
「炊飯器くらい、買っておこうかな」
駿は貯金の残高を頭に思い浮かべた。大きな買い物をする前に、次の仕事を決
めておかなければ、どうにも不安な数字である。
「けどなあ………一人暮らしには無用の長物だと思っていたけど、そうでなくな
ったら、どうせ長く使うものだし」
その言葉の意味に、呟いた駿自身が恥ずかしくなってしまった。
「そ、そんな………まだマリアの気持ちも確認してないのに」
午後になっても、気温はほとんど上がらない。まして駿の立っている場所は陽
も当たってはいない。寄り掛かった手すりは、氷のように冷たい。
なのに駿は寒さを感じていなかった。
実際は着ているジャケットも、手すりに触れた指先も、安物のスニーカーの中
の爪先も、顔も身体も冷え切っている。けれど身体の中は、ぽかぽと暖かい。
ほどなくして漂ってきた匂いが、駿の鼻腔をくすぐる。
匂いに刺激され、朝食を抜いていた駿の胃袋が活動を始める。
マリアの作る、食事の匂い。
「いい匂いだ………」
危なっかしい手つきで、包丁を使うマリアの姿が頭に浮かぶ。
料理にいそしむマリアの姿を見ていたいという気持ちと、匂いとに誘われ駿は
部屋の中へ戻って行った。
「上手に出来たかな?」
きらきらと輝く瞳に期待の色を溢れさせ、マリアが返事を待っている。
「おいしい!」
先を越されてしまった。
元気良く応えたのは美璃佳だった。
「ああ、美味しい。最高だよ、マリア」
「よかった」
嬉しそうにマリアが笑う。
美璃佳に倣った訳ではないが、駿もそう応える。お世辞ではなかった。
いったい、どうしたことだろう。
マリアの作ったものを食べるのは、これが二度目。最初のカレーは、美璃佳と
の共作だったが、製作者の名前を伏せた状態で出されていたら、間違っても美味
しいと言えるものではなかった。
それが二度目にして、マリア信じられない上達を遂げて見せた。
熱を出して寝ていた子どもたちでも食べられるようにと、玉子をとじた雑炊。
わかめと豆腐のみそ汁。白みそと刻んだねぎの香りがたまらない。そして鱈の煮
付け。
もはや味の面でも、一流シェフを超えたのではないかと、駿は思った。もっと
も一流シェフの味など、経験したことはないのだが。
駿を制していち早く「おいしい」と応えた美璃佳も、満足そうに食べている。
熱はもう、すっかり退いたようだ。それにしても旺盛な食欲だ。
さすがに良太は昨日の今日で元気はないが、それでも箸が進んでいる。無言の
ままに、マリアの料理がおいしいと言っているようなものだ。
「それにしても驚いた。マリアが日本のご飯を、こんなに美味しく作れるなんて」
「あのね、お勉強したの!」
「お勉強?」
「うん! お買いものの前にね、本屋さんに行ったの。そしてお料理の本を読ん
で、お勉強したんだよ」
たかだか一度、料理の本を立ち読みしたしらいで、あんなカレーを作っていた
マリアに、これだけの味が出せるものなのか。作り方は、記憶力さえ優れていれ
ば立ち読みでもなんとかなるだろうが。きっと微妙な勘と言うものも、マリアは
優れているのだろう。
「マリアおねえちゃん、いつでもおよめさんになれるね」
口の周りを雑炊の中の玉子の色に染めて、美璃佳が言った。
聞き流すふりをしながらも、マリアがどう答えるのか気になって仕方ない。駿
は耳に全神経を集中させていた。
「うん、マリア、いいお嫁さんになるの」
マリアの答えは、駿の期待にも応えていた。ただ訊いた美璃佳に対して、マリ
アも同じレベルの子どもとして話していたようであるのが気にはなったが。
陽射しは柔らかく、春を思わせる。
けれど良く見ればその陽光は、春に比べてまだ弱々しい。そして日陰に残され
た雪が、いままだ冬であることを告げていた。
駅の外から、陽気なクリスマス・ソングがプラットホームにも流れ込んで来る。
『ああ、そうか。今日はイヴだったのね』
すっかり忘れていたことを思いだし、愛美はなんだかおかしくなってしまった。
クリスマス・イヴの日に、遺骨の納まった白い布に包まれた箱を持ち、駅に立っ
ている自分の姿がなんとも珍妙に思えたのだ。
今日、愛美はこの街を去る。雪乃叔母さんと共に。
胸に抱いているのは両親の遺骨。先に亡くなった母だか、お墓を買うことも出
来ず、今日まで寺に預けられていた。愛美が叔母さんの家で暮らすことが決まり、
母方のお墓に父と共に納めることが決まったのだ。
これでこの街と愛美を繋ぐものがなくなる。そう思うと寂しかった。
辛いこともあったが、父母との思い出がたくさん刻まれた街。今日を最後に、
もう二度と訪れることもないかも知れない。
「本当に、みなさん。愛美が長い間、お世話になりました」
叔母さんが見送りに来てくれた人たちへ、深々と頭を下げる。
「いえ、何も出来なくて………愛美ちゃん、元気でね」
駿が手を差し出した。けれど愛美は、遺骨で塞がれているために手を握り返す
ことが出来ない。
「愛美ちゃん」
それを察した叔母さんが、愛美の手から遺骨を受け取った。
「ありがとうございます。あの、藤井さんも頑張って下さい」
何を頑張るのか、言った愛美にも分からなかった。ただ良太や美璃佳のことを
任せられるのは駿しかいない。そう思っていた。
けれど無責任に「良太くんたちをお願いします」とは言えない。子どもたちの
母親のことは、駿一人でどうにか出来る問題ではないのだから。
「元気でね、愛美ちゃん………マリア、愛美ちゃんのこと、忘れないから」
マリアはいきなり愛美に抱きついて言った。
愛美は何かが、自分の首筋を濡らすのを感じた。マリアの涙のようだ。
あまりマリアとは深く接する機会がなかったが、もう少し時間があればいい友
だちになれただろう。愛美の方が歳下なのに、自分のために泣いてくれているマ
リアを可愛いと思った。
「さよなら、愛美お姉ちゃん」
「まなみおねえちゃん、さようなら」
続いて、はにかんだような良太と、何かを後ろ手に隠した美璃佳が歩み寄って
来た。
「えへへっ」
何か意味ありげに、美璃佳が笑う。なぜだか、美璃佳の人形を良太が抱いてい
る。きっと美璃佳の後ろにかくされたものと関係あるのだろう。早く秘密を明か
したくて、うずうずとしている顔だ。けれどさきほどから、美璃佳が動く度にか
さかさと音がしている。隠しているものも、ちらちらと愛美の目に入ってしまう。
「なんだか楽しそうね、美璃佳ちゃん」
何も気がついていないふりをしながら、愛美は膝を折って、美璃佳と視線の高
さを合わせる。
「あのね、まなみおねえちゃんに、クリスマスとぉ、おわかれのプレゼント」
そう言うと、美璃佳は後ろに隠していたものを、さっ、と愛美の目の前に出し
た。
「わあ、凄い。これ、美璃佳ちゃんが作ったの?」
愛美はそれを手に取り、大袈裟に驚いて見せる。けれど芝居したつもりはない。
本当に嬉しくて驚いたのだ。
それは色とりどりの折り紙で作られた、千羽鶴だった。
さすがに千羽とはいかなかったが、数珠繋ぎにされた折り鶴が数本、束ねられ
ている。
「これ、美璃佳ちゃんたちが作ったの?」
#4332/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:13 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(62) 悠歩
★内容
「んとね、みりかと、りょうたおにいちゃんと、しゅんおにいちゃんと、マリア
おねえちゃんと、みんなでつくったんだよ」
見れば形のぎこちない折り鶴が数羽、混ざっている。たぶん美璃佳の小さな手
で折られたものなのだろう。美璃佳がおぼつかない手つきで、それを折る姿を想
像すると、愛美は心が暖まる想いだった。
「駿がね、教えてくれたんだよ」
誇らしげにマリアが説明をする。
「美璃佳ちゃんたち、熱が下がったばかりだったから………無理をしないように
言ったんだけどね。ずいぶん遅くまで折っていたんだ」
そう補足したのは駿だった。
「だって、いっぱいつるをおったら、まなみおねえちゃん、みりかのことわすれ
ないでしょ?」
邪気のない美璃佳の瞳に、愛美の姿が映っていた。愛美は美璃佳の瞳を通して、
笑っているのか、泣いているのか分からない、微妙な表情をした自分の顔を見た。
「愛美お姉ちゃん、げんきでね………」
どこか少し怒ったような、良太の言葉。
「ありがとう、良太くん、美璃佳ちゃん。私、二人になんにもクリスマスのプレ
ゼント、用意してなかったのに」
愛美は両手で二人を抱擁した。そして、それぞれの頬にキスをする。
「ばいばい、良太くん、美璃佳ちゃん」
子どもたちから離れ、愛美は小さく手を振る。美璃佳もそれに応えて、手を振
り返してくれた。良太は、すっと、視線を逸らしてしまった。
「じゃあ、次は私たちの番かしら?」
愛美が子どもたちとの別れを惜しんでいる間、黙ってそれを見守っていた少女
が遠慮がちに、しかし明るい声を掛けてきた。愛美を励ますかのように。
「あっ、うん。ごめんなさいね、待たせちゃって」
愛美も努めて明るい声で応じた。指で軽く、涙を拭きながら。
「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとう」
もう一度笑顔を作り直し、愛美は見送りに来てくれた最後の二人、純子とそし
て相羽へと向き直った。
同級生の中で友だちとして通夜に来てくれたり、こうして見送りに来てくれた
のはこの二人だけだった。しかもきっかけはそれぞれ別ではあったが、友だちと
して話せるようになったのは、ごく最近。父母の思い出はたくさん残っているが、
この街で過ごした十三年間、愛美は友だち作りには失敗していたようだ。
それでも最後に、いい友だち………儚く終わった初恋の思い出と共に、友だち
を残せたことを愛美は感謝していた。
「残念だわ。まさか西崎さん、こんなに急に引っ越すなんて思わなかったから。
学校のお友だちにも、知らせてないんでしょ?」
「うん………」
「せめてお正月までいてくれたら、いっしょに初詣とか、行けたのにね………あ
っ」
突然驚いたような顔をして、純子は口を手で押さえてしまった。
「ごめんなさい。西崎さん、お正月とか、それどころじゃないのにね」
そう言って、愛美に頭を下げる。どうやら、愛美の父の死んだことを気にして
いるらしい。
「いいの、気にしてないから」
言葉を態度で証明しようと、愛美は穏やかに応える。それから、純子に近寄っ
て。
「でも、お父さんが死んで………三学期まで中学生が一人暮らしをする訳にはい
かない、って叔母さんが言うの」
と、叔母さんに聞こえないように、純子へと耳打ちをした。
「相羽くん………」
そして愛美は、相羽へと振り向いた。
「いろいろと、ありがとう。私が立ち直れたのは、相羽くんのおかげよ」
真っ直ぐに、相羽の顔を見つめる。もう視線を逸らしたりはしない。愛美は少
し、自分が強くなった気がした。いまは、相羽に対して微笑み掛けることも出来
る。
「ぼくは何もしていない………西崎さんは、自分の力で立ち直ったんだよ」
「また、いつかどこかで………友だちとして、笑いながら会えるかしら?」
「会えるよ、きっと。外国に行く訳じゃないだろう。いつだって、この街に遊び
に来なよ」
「うん、寂しくなったらそうする。でも、そんなことしたら、相羽くんの彼女に
怒られるかな」
「そ、西崎さん、それは………」
狼狽える相羽の様子がおかしかった。そして、そんな冗談を言える自分を、愛
美は不思議に感じていた。相羽が、そして父が愛美を強くしてくれた。
「いい雰囲気のとこ、邪魔しちゃ悪いかしら?」
半ばおどけたような口調で、純子が会話に割って入ってくる。
「あのね、お餞別代わりに、って言うのも変なんだけど。これ、電車の中ででも
食べて」
そう言って、純子は持っていたペーパーバッグから小さな箱を取り出して、愛
美に手渡した。可愛い子犬と子猫のキャラクターの描かれた、サンドイッチ用の
ペーパーボックスのようだ。
「これは?」
「ちょっとね。クッキーを焼く機会があって、たくさん焼いたから、お裾分け。
迷惑、だったかしら」
「ううん、そんなことない。嬉しいわ、ありがとう」
遺骨に千羽鶴、そしてクッキーと愛美の荷物は奇妙な取り合わせとなった。け
れど、それぞれに込められている想いが嬉しい。
「ぼくの分はないの?」
「残念でした、ありません。欲しければ、自分で作って下さい」
中を覗こうとした相羽から、ペーパーバッグを引ったくるように遠ざけて、純
子が言った。「ああっ」と遠ざけられたバッグに、名残惜しそうに手を伸ばす相
羽の目は冗談を装っていたが、本気であるようにも見える。
愛美は、何となく分かったような気がした。相羽が好きだという、女の子が誰
なのか。
純子と話しているとき、相羽はいい顔をする。愛美は中学校に入ってから、ず
っと相羽のことを気にしていたが、これほどの表情は滅多に見られるものではな
かった。思えば、相羽が特にいい表情を見せたとき、決まってそばには純子がい
たような気がする。
愛美は、じっと純子の顔を見つめた。そして彼女がライバルだったら、ふられ
ても仕方ないと思えた。悔しさはない。
「私の顔に、なにかついてる?」
愛美の視線に気がつき、純子は自分の顔を掌で撫でまわす。
「違うの………ねえ、涼原さん。私、涼原さんに手紙を書いてもいいかしら?」
「ええ、もちろん。大歓迎よ」
「じゃあ、住所教えてもらえるかしら。この前は、電話番号しか訊かなかったか
ら」
「ええ、あっ、何か書くもの持ってる?」
「ちょっと待って、確かボールペン、持ってきたはずだから」
愛美はコートのポケットに手を入れて、ボールペンとアドレス帳を探す。そし
て先に捜し物とは別の存在に気づいた。
『いけない、忘れるところだった』
「ここに、お願いね」
ボールペンと開いたアドレス帳を純子に渡す。そして初めて愛美のアドレス帳
に、生活のためとは無関係な、友だちの住所が純子の手によって記された。
「はい、これでいい?」
「うん、ありがとう………あの相羽くん」
「ん、なに?」
本当は相羽にも住所を書いて欲しいとも思ったが、純子のことに気がついた以
上、愛美には頼めなかった。代わりにポケットに入っていた、別のものを相羽に
差し出した。
「ごめんなさい、本、借りっぱなしで………あの、結局読めなくて」
「なんだ、そんなこと。返さなくていいよ。みんな西崎さんにプレゼントを持っ
て来てるのに、ぼくだけ手ぶらで心苦しい思いをしてたとこなんだ。ちょっとセ
コイかも知れないけれど、その本がぼくからのプレゼント」
少し気取った、少し照れくさそうな、けれど爽やかな相羽の笑顔。もう終わっ
たはずの、愛美の初恋のかけらが痛い。甦ろうとする初恋を、愛美はぐっと抑え
込む。
「ありがとう、じゃあ、もらっておくわ。あの、最後にもう一つお願いがあるの
………聞いてもらえないかしら?」
「なに? ぼくに出来ることなら」
「相羽くんの気持ち………相羽くんの好きだという子に、ちゃんと伝えてあげて
ね」
「な、そんな、いきなりこんな所で……困るよ」
こう言ったことに、相羽は面白いほどに戸惑いを見せる。見掛け以上に純情な
のだ。別に終わった初恋の仕返しではないのだが、そんな相羽を見ていると痛み
は薄れて行った。
「約束して。相羽くんって、優しいから………優し過ぎるから、私みたいな子が
勘違いしちゃうのよ。だから………ね?」
愛美はことさら真剣な顔をして見せる。そうすればきっと、相羽は首を横に振
ったりしないと思いながら。意地悪をしている、と自分でも思いながら。
「………うん……いつか、きっと」
曖昧な返事。
もし父のことがなかったら、愛美はまだ自分の想いを相羽には告げていなかっ
ただろう。愛美にとって、人を好きだと言うことは、簡単に口に出来るものでは
ない。それは相羽にしても同様なのだろう。
愛美は最後にもう一言だけ添えて、意地悪をやめることにした。
「なるべく早い方が、いいと思う。その子、たぶんこういうことには、鈍いタイ
プみたいだから」
「西崎さん!」
どうしてそれを? と相羽の目が言っていた。
愛美はそれに、笑顔で応える。
「ねえねえ、西崎さん。相羽くんの好きな子、知ってるの?」
純子が愛美の耳元に近づいて、声を潜めて訊ねてきた。
これにはさすがに、答えることは出来ない。まず間違いはなさそうだが、それ
は愛美の想像に過ぎないし、何よりいま純子に教えてしまったら、相羽には一生
怨まれかねない。すでに散々かき混ぜてしまったが、これ以上後を濁して嫌な子
になりたくはない。
「涼原さんにも、そのうち分かると思う。意外な人だと思うわよ」
と、愛美の返事も曖昧なものになった。
間もなくホームに電車が到着すると、アナウンスが告げた。この電車に乗らな
ければ、ターミナルでの乗り換えに間に合わない。みんなと本当に別れる時間が
来た。
電車が見えてくる。見送りに来てくれた人々に、まだ何かを言いたくて口を開
いた愛美だったが、言葉は出てこない。まだまだ言い切れぬ想いがあるのに、何
一つ言葉とならない。ただ泣き出しそうな目で、笑うしかなかった。
「いたいた!」
「あ、急いで。もう電車が来ちゃう!」
階段の方から、賑やかな声を響かせ若い人たちの集団が現れた。いまホームに
到着しようとする電車に乗る人たちだろう。そう思った愛美は、それほど気にも
掛けない。ところが。
「西崎さん!」
「愛美ちゃあああん」
集団は口々に愛美の名を呼びながら、こちらに走ってくる。
「えっ?」
名前を呼ばれてもなお、それが自分のことだと理解するまで時間を要した。愛
美は目を凝らしてその人々の顔を見た。
「あれ、唐沢」
その人々の中から、見知った顔を最初に見つけたのは相羽だった。
「えっ、あっ、相羽! それに涼原さん? なんだ二人ともいつの間に西崎さん
と、友だちに………って、その詮索はあとだな」
もう電車はホームの手前までに差し掛かっていた。愛美はようやく、駆けつけ
て来た人々の顔を全て認識した。小学校時代、まだ母が生きていた頃に愛美と仲
の良かった友だち。いまの学校のクラスメイトたち。
「酷いよ、愛美ちゃん。私たちに内緒で行っちゃうなんて」
一人の女の子が、つう、と進み出て怒った顔で愛美を睨む。前に同じマンショ
ンに住んでいた友だちだった。
「もしかして、私のために………来てくれたの? 由菜ちゃん」
「あったりまえでしょ。私ら、友だちじゃん。それなのに、愛美ったら何も言っ
てくれないんだもん。私、怒ってんだよ」
髪を短く刈り込んだ、ボーイッシュな少女が腕組みをしながら言う。
「私たちね、ずっと愛美ちゃんのこと、気にしてたんだよ。でもお母さんが亡く
なられてから、愛美ちゃん………なんか自分の中に閉じこもってしまって………
話し掛けても答えてくれないんだもの」
いつの間にか、愛美の周りは女の子たちに取り囲まれていた。そしてその後ろ
には、数人の男の子たち。
「私らも悪いんだけどね。もっと愛美の気持ちを、思いやっていれば………ま、
過ぎたことを言っても仕方ないけどね。けど、このまんまお別れなんて、いやじ
ゃん………お通夜とかはさあ、場所が狭いからクラス代表だけでいいって担任が
言ったから、遠慮………してた、けど………さあ」
ボーイッシュな女の子は、ぼろぼろと涙を流して、声を詰まらせる。
「あのね、私たちみんな、愛美ちゃんのアパート知ってたの。でも愛美ちゃん、
なんだかアパートのこと、私たちに知られたくないみたいだったから、ずっと黙
ってたのよ」
友だちなんていない。そう思い続けていた。けれどそれは、周りが愛美を避け
ていたのではない。愛美が周りを寄せつけなかったのだ。そのくせずっと、自分
は一人なのだと思い続けていた。父の気持ちも、みんなの気持ちも知らないで。
勝手に不幸に浸っていただけだったのだ。
#4333/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:14 (200)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(63) 悠歩
★内容
ホームに入ってきた電車の起こす風に、愛美や他の女の子たちの髪を、舞い踊
らせる。
この電車に乗らなければ、ターミナルで乗り継ぎを予定していた特急に遅れて
しまう。
「愛美ちゃん、電車を遅らせましょうか」
叔母さんが気を遣って、そう言ってくれた。けれど愛美は、せっかくの叔母さ
んの言葉に首を横に振った。
「ううん、いいの………私、これ以上、みんなとお話ししていたら………この街
を……離れられなくなっちゃう」
もう泣くまいと決めていた愛美は、涙を懸命に堪えていた。だがその努力は実
らず、それは頬を伝って落ちてしまった。
「と、じゃあもう時間がない。これはぼくら男子から、お別れの贈り物」
女の子たちの壁を二つに割って進み出た唐沢から、愛美にバラの花束と寄せ書
きのされた色紙が渡された。なんだかプロポーズをされているみたいだ、と愛美
は思った。
そして色紙に目を落とすと、男の子たちからのメッセージ。
『体育祭のとき、バンソウコウありがとう』
『朝、家の前を新聞配達の自転車で通る西崎さんを、いつも見てました』
『小四のとき、イジメられてたぼくを助けてくれたの、おぼえてる?』
『いつかみたいに、また缶けりしたいね』
『もう一度、西崎さんの作ったおにぎり、たべたかった』
もう愛美すら忘れてしまったことが、メッセージとして綴られている。
「これは、私たち女子から。選んでいる時間がなくて、こんな子どもっぽいもの
で、ごめんなさいね」
由菜からは、エプロンドレスを着たうさぎのぬいぐるみが渡された。エプロン
ドレスの大きなポケットには、サイン帳が入っていた。
「そのサイン帳に、私たちのメッセージが書いてあるから………」
もうホームに着いていた電車から、降りてきた人たちに押されながら、由菜が
言う。
そして電車の発車を告げるメロディが響き渡った。
「愛美ちゃん?」
どうするの。と叔母さんが、愛美の顔を覗き込む。
「乗りましょう………叔母さん」
両手一杯にプレゼントを抱えた愛美が乗り込むのと同時に、電車のドアが閉じ
た。
「西崎さん、元気で」
「ばいばい、愛美」
「落ち着いたらでいいから、電話してね」
ドアの向こうから届くみんなの言葉に、愛美は何も応えられなかった。ただ手
を振るだけが精一杯だった。
電車が動き出す。初めはゆっくり、次第に速度を増しながら。電車の動きに合
わせ、愛美を追って来た友だちも、だんだんと遅れていく。そして電車は駅のホ
ームを離れ、みんなの姿も見えなくなってしまった。
愛美は、ドアに貼り付くようにしていたが、みんなの姿が見えなくなると、そ
のままその場に崩れ落ちてしまった。
「愛美ちゃん………」
叔母さんの手が、愛美の肩を包み込んだ。
「いっぱいいたのに………バカだね、私。ずっと一人だと思っていた………お父
さんも、由菜ちゃんも、香も、涼原さんも、唐沢くんも、相羽くんも、良太くん
も、美璃佳ちゃんも………」
「私も、ね」
「えっ………」
振り返った愛美が見たのは、優しく微笑む雪乃叔母さんの顔だった。
「私も愛美ちゃんの、大事に思っているから、ね。忘れないで」
「叔母さん………」
愛美は周りの乗客の目も忘れて、叔母さんに抱きついた。叔母さんの身体は、
コート越しでも暖かかった。
「愛美ちゃんには、まだたくさんの時間があるんですもの。忘れていたものは、
これからゆっくりと取り戻していけばいいわ」
「うん」
誰が聴いているのか、車内には微かに『Blue Christmas』のメ
ロディが流れていた。
愛美はどこかで、父と母が笑っているような気がした。
「なにも逃げることは、ないと思うんだけどな」
「なんだ………涼原さんか」
純子が背中から声を掛けると、相羽は驚いたように振り返り、言った。
愛美の電車がホームを離れて行くと、まだ名残惜しそうに見送っている唐沢た
ちを後に、早々と立ち去る相羽を見つけ、純子はここまで追って来たのだ。
「なんだは、ないでしょ」
「別に逃げた訳じゃないよ。どうせ唐沢たち、この後女の子たちとどこかに行く
つもりだろう。あいつとはいつだって会えるんだし、邪魔するつもりもないしね」
「そんなこと言って。ははあん、唐沢くんに西崎さんのこと、追求されたくなく
て逃げたんでしょう?」
「なんだよ、それ。西崎さんとは、ただの友だちだよ」
「でも西崎さんは相羽くんのこと、好きだったんじゃないかな。もしかして、告
白されたんじゃないの?」
「あのね………そうやって、人のことを詮索するのは、あまり感心でき………」
「あ、ちょっと待って!」
まだ相羽が話をしている途中だったが、純子は彼をおいて走り出した。手にし
たペーパーバッグが、がさがさと音を立てる。駅から出てきた、美璃佳たちの姿
を見つけたのだ。
「美璃佳ちゃん、良太くん!」
「あ、じゅんこおねえちゃん」
呼び止めると、振り返った美璃佳が笑い掛けてくれた。純子は美璃佳がちゃん
と自分の名前を覚えて、呼び返してくれたことが嬉しかった。
「ふう、いけない、いけない。このお兄ちゃんのせいで、すっかり忘れるところ
だった」
美璃佳たちの前で立ち止まった純子は、歩いて追いついて来る相羽をちらっと
見やり言った。
相羽は無言だったが、少し不機嫌そうな顔をする。
「もう、おとといは美璃佳ちゃんたちのこと、心配したんだからね」
「ごめんなさい、じゅんこおねえちゃん」
純子の目の前で、小さな頭がぺこりと下げられる。美璃佳の腕には、愛美の見
送りの時に良太が持っていた人形が戻されていた。その人形も、美璃佳の動きに
合わせておじぎしているようだった。
きれいに拭き取ろうとした跡が見られたが、人形は顔も服もずいぶんと汚れて
いた。一昨日の朝、美璃佳と会った時には、まだ新品同様だったのに。あれから
何があったのか、純子には分からなかったが、その人形の汚れが美璃佳たちの冒
険譚を雄弁に語っている。
もともと人見知りする性格なのか、良太の方は純子を見る目もどこか険しい。
それとも家出のことで駿に叱られたのか。あるいは家出の原因そのものが、解決
されていないのかも知れない。
「とにかく、二人とも無事に帰ってきてくれて良かった」
純子は二人の頭を撫でた。
美璃佳は子犬のように目を細めて喜んだが、良太は一瞬後ずさりして純子の手
を避けようとして、結局素直に撫でられた。美璃佳と比べて、この子と親しくな
るには時間が掛かりそうだ。
「本当に、えっと涼原さんと相羽くんにはお世話になったね。何かお礼をしない
と、いけないな。良かったら、お昼をご馳走させてくれないか………と言っても、
ファミリーレストランだけど」
笑いながら駿が言った。
その駿を押し退けるようにして、マリアがぐいっと純子の方に顔をだす。
「それなら、これからマリアがご飯、作ってあげる。マリア、上手なんだよ。ね、
駿」
マリアに同意を求められた駿は、少し困ったように苦笑いをして「ああ」と応
えた。
マリアの言葉を内心では否定していると言うより、照れている感じだ。この二
人、夫婦ではないと聞いたがいずれは結婚するのではないだろうか。純子はそう
思った。
「いえ、私今日は用事がありますから」
本当のところは用事がどうと言うことより、イヴの日に雰囲気のいい恋人たち
の間に割り込むことが躊躇われた。純子は丁寧に駿やマリアの誘いを辞退する。
「あ、そうそう。それよりこれを………」
ついつい忘れそうになっていた、美璃佳たちを呼び止めた目的を思いだした。
純子はペーパーバッグの中から二つのものを取り出して、それぞれ美璃佳と良太
へと手渡した。
「はい、これは私からのクリスマス・プレゼント」
「わあっ、サンタさんのくつだあ!」
それはクリスマスの時期に、デパートなどのお菓子売場に置かれている、サン
タクロースの赤い長靴を型取った容器だった。けれど中身は、メーカー品のお菓
子ではない。愛美に渡したのと同じ、純子の作ったクッキーが入っている。中身
がこぼれないように、靴自体をネットで包んで。
「どうも、ありがとう………」
はにかむように言って、良太も笑ってくれた。初めて純子に見せた、良太の笑
顔。純子はそれを、可愛らしいと思った。やはり子どもは、笑っている顔が一番
いいと思った。
「ねえねえ、おにいちゃん。あとで、おにいちゃんの、サンタさんのくつ、ちょ
うだい」
美璃佳に言われると、良太は少し考え込むような顔でクッキーの入った靴を見
つめた。純子にも覚えがあるが、こうしたきれいな入れ物は空になってもとって
おきたいものだろう。しかし良太はすぐに、「いいよ」と美璃佳に応える。
『良太くんって、妹思いのお兄さんなんだな』
ただそれだけのことが、とても嬉しく感じられる。加えて、大喜びで飛び跳ね
る美璃佳を見れば、なおさらだ。
「美璃佳ちゃんは、良太くんのくつをもらってどうするの?」
純子が訊ねてみると美璃佳は、ふへへへとおかしな笑いを返して言った。
「みりかが、はくの」
決して大きくは見えない靴だったが、もしかすると美璃佳なら本当に履けてし
まうかも知れない。その靴を履いて、歩き回る美璃佳の姿を想像するとおかしく
なってしまう。
「ねえ、あけて」
美璃佳は靴を包んでいたネットをマリアに開けてもらい、お礼にクッキーを一
枚渡して自分も食べた。
「うー、おいしい」
美璃佳とマリアの台詞が重なる。
天を仰いで、顔中、身体中を使って美味しさを表す。美璃佳が見せたその表情
は、どんなに表現力の豊かな大人でも、真似の出来るものではない。そしてこれ
以上に、それを作った人間、純子を労うものもない。その美璃佳の顔を見れただ
けでも、作った甲斐が充分にあった。そう思える。
ところが、マリアの方も美璃佳と同じようなリアクションをしていた。ほとん
どの場合、大人が子どもと同じ表現をすれば、かえって嘘っぽく感じられてしま
う。ましてどう見ても純子より歳上の相手であればなおのこと。にも関わらず、
マリアの見せた表情にわざとらしさはなかった。身体こそは大人なのだが、本当
は美璃佳と変わらないのではないだろうか。そう思えてしまう。まるで美璃佳が
二人いるようだ。
「それじゃ、私はこれで」
軽く会釈をした純子に、駿が目で応えてくれる。
「じゅんこおねえちゃん、またね」
「またね。マリアのご飯、食べに来てね」
美璃佳とマリアは一緒になって、大きく手を振ってくれた。純子も小さく手を
振って応じる。
「さよなら」
対照的に良太は、小さな声で言ってくれた。
「ばいばい、また会おうね。良太くん」
と、純子が微笑み掛けると、良太は恥ずかしそうに俯いた。
「あの男の子、良太くん、涼原さんのこと好きになったんじゃないかな」
美璃佳たちの姿が見えなくなると、それまで黙ったままだった相羽は開口一番、
そう言った。
「まさか。ただおとなしいだけでしょ」
「ふうん、なるほど………確かに鈍いかも知れないな」
「えっ、なにか言った?」
「いや、別に」
そう答えると、相羽は物思いにでも耽るように空を見上げた。
「もしかして、西崎さんのこと考えてるんだ?」
「だ、だからどうして、そうなるんだよ」
相羽は慌てて純子の方を見た。その表情から、図星であったなと純子は思う。
「西崎さんって、結構かわいいもんね。今日なんか、なんだか女の子の私でも、
どきってしちゃうくらいだったもの。なにかあったのかしら。今日来ていた男の
子たちも、たぶんみんな西崎さんのファンだよ。惜しいことしたね、相羽くん」
にいっ、と笑いながら純子は、相羽の顔色を窺う。
「なにが惜しいんだよ」
相羽は、まるで子どものように拗ねた顔を見せた。
もしかすると相羽の方が、良太よりもよっぽど子どもなのではないか。そう思
うと、おかしくて仕方ない。
「だって西崎さんって、絶対相羽くんのことが、好きだったんだと思う。西崎さ
んの様子を見ていれば、分かるもの」
#4334/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:14 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(64) 悠歩
★内容
「やれやれ、人のことには目敏いんだから………」
「なに? もっとはっきり言ってよ。聞こえない」
「いえ、なんでもございません」
相羽の今度はふざけた反応に、純子は自分の推測に自信を持った。相羽の反応
は、純子の見当外れに呆れているのではなく、なんとか事実をごまかそうとして
のものに思えたのだ。
「もしかしてさ、相羽くん、西崎さんに………その、告白されてたんじゃない?」
「な……」
相羽は言葉に詰まり、その眉がわずかに痙攣したのを純子は見逃さない。
「だって、私といっしょに美璃佳ちゃんたちを探してて、相羽くんと出会ったと
きの西崎さんの様子、普通じゃなかったもの。なんとなく、気まずそうで。
それに西崎さんのアパートや、お父さんが亡くなられたことも、相羽くんは早
くから知ってたみたいだし………」
「憶測でものを言うのは、それくらいにした方がいい」
相羽の言葉からは、ふざけた調子や動揺の色が消えていた。酷く穏やかな声。
過ぎるほどに。
腹を立てて怒鳴った訳ではない。もちろん純子にしても、相羽が怒るようだっ
たら、この話は止めていただろう。しかしその時には反省したかも知れないが、
少しくらいは反撥も感じるかも知れない。
けれど怒られるのではなく、静かに言われることで反撥は起きず、調子に乗り
すぎてしまったのではないかと反省の気持ちだけが生まれた。
「もしかして、怒った?」
なんだか、とても悪いことをしたような気持ちになった純子は、恐る恐る訊ね
てみる。相羽は、相変わらず穏やかなまま、首を左右に振った。
「いや、怒ってない」
口調も静かに答えると、また何かを考えるように天を仰ぐ。
「ぼくと西崎さんは、友だちだよ。他のみんなと同じように。仮にぼくと西崎さ
んの間に、涼原さんの言ったようなことがあったとしても変わらない。
それにね、西崎さんはこの街を離れてしまったろう? 涼原さんの推測に対し
て、彼女は反論が出来ない。欠席裁判みたいで、フェアじゃないだろう?」
後半の方は、純子に言い聞かせるというより、また冗談のような調子に戻って
いた。どこまでが本気で、どこからがふざけているのか分からない。
けれどこれによって、純子はもう一つの質問が出来なくなった。
『結局、今日も聞き出せなくなっちゃったな』
愛美は知っているらしい、相羽の好きな人を。
「あのさ、相羽くん」
「なんだい。また、変な質問なら黙秘させてもらうよ」
そう言って、相羽は笑った。その笑顔に、芝居をしているようなぎこちなさは
感じない。怒っていないと言うのは、信じてもよさそうだ。
「私の知ってる西崎さんって、いつもどこか元気がなかったけれど………向こう
に行って、きっと元気になれるよね」
「うん、なるさ………きっと。あの子は、強い子だよ」
ほら、相羽くん、西崎さんのこと詳しいじゃない。
純子はそんな言葉を呑み込んだ。
「それから、さ」
「ん?」
「私たちに、なにも出来ないのは分かっているけど………やっぱり美璃佳ちゃん
や、良太くんにも幸せになって欲しい」
また先日のように、相羽が何か言い出すのではと思いながらも、純子はつい口
にしてしまう。世界中に、たくさんの不幸な人たちがいて、純子にはその一人一
人を救ってあげられないのは分かっている。同情が救いにはならないのも分かっ
ている。それでも身近な、知り合った人々の幸せくらいは願ってやりたい。
「うん、そうだね」
相羽は、穏やかに頷いてくれた。
「ところで、今日、涼原さんはどうするの?」
「えっ、どうするって?」
突然切り換えられた話題に、純子は一瞬、戸惑ってしまった。
「今日は二十四日、イヴだよ。涼原さんも白沼さんのパーティに行くんだろう」
「はあ、そうなのよねぇ」
そのつもりはなかったのだが、応える純子の台詞はため息混じりとなってしま
った。
「ひょっとして、気乗りしないの?」
心配そうな相羽の瞳が、純子の姿を映していた。
「えっ、違う違う。そんなんじゃないわよ」
笑って否定したものの、正直なところ確かにあまり気乗りしてはいない。別に
白沼が嫌いだからとか、他に予定があったから、と言う訳でもないのだが。白沼
の目的がどこにあるのか、予想されるだけに何となく憂鬱な気分になってしまう。
今日、招待されている男子は白沼の友だちと言うより、ほぼ相羽の友だちで固
められている。それだけで、白沼が本当に招待したかったのが誰だか、容易に知
れてしまう。
積極的な彼女のこと、この機に相羽に対して何のアプローチもしないとは考え
にくい。
だがそれだけであれば、ことは相羽と白沼、二人の問題だ。純子が関わるもの
ではない。
しかし女子の参加者、純子の友だちも来るとなると話は変わってくる。どこま
で本気であるかは不明だが、彼女たちも少なからず相羽に好意を持っている。ま
さかとは思うが、積極的な態度に出た白沼と、一触即発、などと言う事態もあな
がち考えられなくもない。
『考え………過ぎだよ、ね』
そう自分に言い聞かせて見ても、不安は拭いきれない。このままパーティに参
加すれば、純子は相羽を巡る女の子たちの監視役として楽しめそうにない。もっ
とも行かなければ行かないで、何か起きてはいないかと心配で堪らないだろう。
「じゃあ、涼原さんも来るんだね」
そんな純子の気持ちなど、知りはしないのだろう。嬉しそうな笑顔で相羽は言
った。
『なによ、ひょっとして相羽くんは、今日のパーティを楽しみにしているわけ?』
誰のせいで、私が監視役なんかしなくちゃならないと思っているの。
つい、文句の一つも言いたくなってしまったが、それは堪える。
その中心に相羽が在るものの、彼が何かした訳でもないのだから。
「六時、からだったよね」
とりあえずそんな不満は押し隠し、純子は時間を確認する。
「あ、うん。遅刻しないようにね」
人の気も知らないで、念を押す相羽。
『私はあんたのために、行くんじゃないのよ』
そんな相羽に聞こえないように、純子は秘かに呟いた。
「でも、六時まではまだ、ずいぶん時間があるわね」
時計がないので分からないが、いまはまだ十二時を少し過ぎたばかりだろう。
「どこかで時間を潰していく?」
「あのね………まるまる六時間近くも、どこで………」
相羽の提案に異議を唱え掛けた純子は、その言葉を途中で止めた。彼の目が笑
っていたからだ。
「あのさ、つまんなさ過ぎるよ。その冗談」
「ごめん、まさか本気にするとは思わなかったから」
と、謝りながらも、相羽の顔に反省の色は見られない。
「ま、とにかく。私、プレゼントも家に置いたままだし………お昼も食べたいか
ら、もう帰るね」
「お腹が空いていたなら、さっき、藤井さんの誘いに乗れば良かったのに」
「私は、そんなに野暮じゃありません。じゃあ、また今夜ね」
純子は相羽に軽く手を振り、家に向かって歩き始める。ところが相羽も純子に
並んで、一緒に歩いてきた。
「なんで着いてくるのよ」
「なんでって………ぼくの家、途中まではこの道なんですけど」
「あ、そう」
どうにも先ほどから相羽にからかわれ続けているようで、どうにも納得のいか
ない純子だったが、反撃の材料も見つからないまま並んで歩くことになってしま
った。
「半分だけ涼原さんの望んだ、ホワイト・クリスマスってことになったね。いや、
グレー・クリスマスかな」
どこか上機嫌な相羽は笑いながら、日陰に残されている黒ずんだ雪を見やって
言った。もしかすると本当に相羽は、今日のパーティを楽しみにしているのかも
知れない。誰か好きな女の子が、参加するのだろうか。と、つい勘ぐってしまう。
「分からないわよ、まだ今夜降るかも知れないし………」
純子も同様に、雪を見ながら応える。
確かにアスファルトの上に、溶けだした水を滲ませた灰色の雪は、風情も何も
ない。これだったら、何もない方がよっぽどクリスマスらしい。せめて今晩、も
う一度雪が降ればいいのにと思う。美璃佳たちが無事に見つかったいま、心から
そう願えた。
軒を並べる店々から、それぞれにクリスマス・ソングが流れだし、賑やかさを
競っているようだった。
良太の表情が険しくなる。
美璃佳は戸惑っているようだ。いまにも泣き出しそうな顔をしている。
ただ言えることは、二人とも喜んでいる様子は全くない。
駿にしてもそれを見た瞬間、激しい怒りしか感じなかった。
「みんな、どうかしたの?」
一人事情を知らないマリアだけが、不思議そうに駿たちの顔と、その視線の先
にあるものを相互に見やっていた。
ファミリーレストランで昼食を摂った後、駿たちはアパート『若葉荘』に戻っ
た。そこで思いがけない人物、いや駿がなんとか探し出したいと思っていた人物
の姿を見つけることとなった。
相変わらず、派手な毛皮を纏っている。遠目からからでもそれと分かる、際だ
った格好の女。良太と美璃佳の母親。
アパートの前に停められた外車は、前に見たものと違う。その後ろには軽トラ
ック。女は若い作業員を指示して、自分の部屋の荷物を軽トラックへ運び込ませ
ていた。
「あんた、何してるんだ?」
女の元に歩み寄った駿の声も、つい荒くなってしまう。
「あら、あんた隣の」
特に驚いた様子もなく、女は駿に一瞥をくれた。
「見て分かんないの。私の荷物を運び出してんの。こんなシケたぼろアパート、
出ていくことに決めたのよ」
「駿、知ってる人?」
険悪な雰囲気の駿に対し、どこかのんびりとした感じのマリアが話し掛けて来
た。
「誰よ、この間延びした女。あんたの彼女? あら」
ようやく女は、マリアの後ろに隠れるようにしていた、自分の子どもたちに気
がついた。せめてここで、母親らしく優しい言葉の一つも掛けてやれば、良太た
ちも救われたかも知れない。だが、女の口から優しい言葉が出てくることはなか
った。
「ちょっとちょっと、なんでこいつらが、まだいるわけ?」
あまりにも予想外の言葉。
それは駿を唖然とさせるばかりではなかった。
美璃佳は破けてしまうのではないかと思われるほど、ぎゅっとマリアのコート
の裾を握りしめていた。むごすぎる実の母親の言葉に、堪えきれなくなった涙を
一杯に浮かべて。けれど声を上げて泣くことはしない。母親の前で泣くことを恐
れているかのように、懸命に声を押し殺している。わずかに漏れてくる嗚咽が、
声に出して泣くより辛い美璃佳の心を感じさせた。
良太は固く唇を結び、母親を睨み付けている。その形相は幼い子どものもので
はない。実の母親を見るものではない。
憎い怨敵を睨み据える目だ。良太のような子どもが、そんな目を出来るものな
のか。駿は衝撃を受けると同時に、母親にそんな目を向けるようになってしまっ
た良太の心を思うと、辛く切ない気持ちにさせられた。
「あんたもあんたよ」
そんな子どもたちの表情を意にも介さず、わめき散らす女は駿に矛先を向けた。
「とっとと、こいつらを施設に入れるとかしてくれないわけ? ったく………鬱
陶しいガキなんだから」
女に自分の子どもに対する思いやりは、微塵も感じられない。
良太があんなに激しい目をするのも、美璃佳とここを逃げだそうとした気持ち
も、いまさらだがよく理解出来る。
「………どうして、そんなことが言える」
「はあ?」
「どうして、そんなことが言えるんだ! あんたがいない間に、この子たちは死
に掛けたんだぞ!」
「なんだ、そんなこと」
女はあっさりと言ってのける。全く驚きもしないで。
「なんの騒ぎだい」
停まっていた外車から、恰幅のいい男が現れた。前にアパートに現れたヤクザ
者とは違う。あのヤクザは、麻薬に関わっていたという話だから、警察に捕まっ
たのだろうか。男は、次の愛人という訳か。
「ああん、なんでもないの。ちょっと変な人が、訳の分からないことを言ってる
だけ」
甘ったるい猫なで声で、女は男に応えた。それから再度駿に向き直ると、人を
馬鹿にしきった口調で話し続けた。
「でも生きてるじゃない。残念ねぇ………本当に死んでくれたら、私も重荷がな
くなってラッキーだったのにさあ。
ああ、そうだ。あんた、なんかこいつらと仲良くしてるみたいじゃない? よ
かったらもらってよ。のしをつけてプレゼントするからさあ」
#4335/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:15 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(65) 悠歩
★内容
良太と美璃佳を、まるで飽きてしまったペットのように言う。この世の中に、
こんな母親が実在するなど人の話に聞いても、テレビで観ても信じられなかった
だろう。だがそれはいま、駿の目の前にいる。
もう限界だった。駿の怒りは頂点に達していた。
いままで、どんな理由があろうとも男が女に手を上げることは許されないと思
って来た。まして子どもたちの目の前で、その母親を殴るなど、決してするべき
ではない。
けれどこの女だけは別だ。
罪を憎んで人を憎まず。そんな心境になれるほど、自分は人間が出来ていない。
良太と美璃佳の心を踏みにじり、その上から唾を吐き捨てて笑うような女を許
せない。
駿の拳に、力が入る。そして頭上へと振り上げられた。
「なによ、その手は!」
「おい、貴様。何をするつもりだ!!」
外車の男が、怒鳴りながら近づいてくるのが見えた。思った以上に、いい体つ
きをしている。体重も駿の倍はありそうだ。男に組まれたら、駿の力では太刀打
ち出来そうにない。しかしもう、駿は自分で自分の手を止められない。
パアン。
乾いた音が、響き渡った。
その場の時間が止まる。
頬を押さえ、大きく体勢を崩した女。外車の男。良太と美璃佳。作業員。
そして、まだ拳を振り上げたままの駿。
女の頬を打ったのは、駿ではない。マリアだった。
まるでそれが、ダンスの一部であるかのように錯覚する優雅さで、マリアの掌
が女の頬を打ったのだ。
「な、なにすんのさ!」
事態を認識するのに、数秒の間を掛けた後、我に返った女が獣のような声を張
り上げた。続いて二度目の、頬を打つ音が響く。今度は女がマリアを打ったのだ。
駿を含め、周りの者たちは凍り付いたように動くことが出来ない。ただ二人の
女性を見つめるばかりだった。
「あなたは、良太くんと美璃佳ちゃんのお母さん………ママなんでしょ?」
マリアの声に、怒りの色はない。いつもと変わらぬ、明るい調子で話す。打た
れて赤くなった頬すら気にせず、穏やかな笑みを浮かべて。
「だから何だって言うのよ」
対して女の方は、いまにもマリアに咬みつかんばかりの勢いで吠え立てる。
「マリアのママは、マリアの幸せを願ってくれたんだよ」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げて、女は駿の方を見た。
「ちっょと、あんたの彼女、イカレてんじゃないの」
女の言葉に、駿は怒りを忘れて苦笑する。いや飽くまでも穏やかなマリアに、
気持ちが和まされたのかも知れない。
そして駿は、女にこう応えてやる。
「イカレてるのは、あんたの方だよ」
「けっ」
女は唾を吐き捨てた。見苦しい様だった。
「マリアはね、ママがマリアに願ってくれたように、良太くんと美璃佳ちゃんも
幸せになるようにお祈りするの」
「勝手にほざいてなよ。ほら、あんたたち、さっさと仕事しな!」
女に怒鳴られて、手を休めていた作業員たちが動き出す。
「マリアは、思うの。マリアだけじゃなくて、みんな幸せになれるといいなあっ
て」
女が荒れれば荒れるほど、女が吠えれば吠えるほど、マリアの穏やかさが際立
つ。柳に風のように、どんなに激しい感情もマリアを乱すことは出来ないのでは
ないだろうか。しかしそれは、決してマリアが鈍感だと言うことではない。マリ
アの中には、誰よりも激しい感情がある。だからこそ、子どもたちの心を踏みに
じる女に、黙ってはいられなかったに違いない。そう駿は思った。
「マリアも、駿も、良太くんも、美璃佳ちゃんも………」
名前を呼ぶ毎に、マリアは一人一人を指さした。
「愛美ちゃんも、愛美ちゃんの叔母さんも、涼原さんも、相羽くんも、北原のお
じいちゃんも、北原のおばあちゃんも、公園で会ったお兄さんたちも、お風呂や
さんのおじさんも、『満天』のおばさんも、本屋さんの女の人も………」
指を一本一本折りながら、マリアは名前を挙げていく。これまで出会った人た
ち全てを呼んでいくつもりなのか、すれ違っただけの人まで思い出そうとしてい
るのか。
「もちろんあなたも。みんなみんな、幸せになれるといいね」
マリアは笑った、女に向かって。しかもとびっきりの笑顔で。
あまりにも予想外なマリアの台詞に、女は言い返す言葉が見つからないのだろ
う。酸欠の金魚のように、ただ口をぱくぱくと開閉するばかりだった。
「あのぉ………お荷物、積み終わりましたけど」
作業員の一人が、恐る恐る女に声を掛けた。
「なら、さっさと車を出しなさいよ! ったく、こんなクソ面白くもないない場
所、一秒でも早く立ち去りたいわ」
気の毒に、ちゃんと自分たちの仕事をこなしている作業員が、女の八つ当たり
の対象となってしまった。女はマリアに対して反論するのを諦め、大股でがしが
しと外車に向かった。
「あんたも、早く車を出す用意をして!」
女はついでにとばかり、駆けつけようとした姿勢のまま固まっていた男にも怒
鳴りつける。先ほどの甘えるような声色は、影もない。
さらに車に向かって歩いて行く女の進路上に、良太と美璃佳がいた。
「………!」
子どもたちに声を掛けようとして、駿は言葉に詰まってしまう。どんな性格で
あれ、子どもたちに愛情を示さないとは言え、女が良太と美璃佳の母親であるこ
とに間違いはない。「逃げろ」と言ってしまっていいものか。
駿が逡巡している間に、女は子どもたちのすぐ前に達し、仁王立ちする。良太
を、美璃佳を、そして美璃佳の抱いた人形を鋭く睨みつけた。
「なんだい、小汚い人形なんか大事そうに抱えて。そんなもん、捨てちまいな!」
不当な女の怒りは、ついに子どもたちへと向けられる。手を伸ばし、美璃佳の
人形をつかみ取ろうとした。
「だめっ、じゅんちゃんは、みりかのおともだちなの!」
母が子を庇うように、美璃佳は身体を丸めて人形を守ろうとした。
「さわるな!」
咄嗟に良太が、美璃佳の前に立つ。そして伸ばされた女の手を、叩き払った。
「な………」
自分の子どもに抵抗された女の形相は、さらに恐ろしく、そして醜くなる。け
れど良太は臆することなく、両手を広げて美璃佳を守るため、女と対峙した。
「もう一度だけ言うよ。その人形を捨てるんだ」
「ぜったい、いや。じゅんちゃんは、すてないの」
美璃佳は震えている。自分の母親の前で、母親の声を聞きながら、がたがたと
震えているのだ。
決してあってはいけない光景が、駿の前で展開している。悔しくて、悲しくて、
駿は泣けた。
「美璃佳が、すてないって言ってるんだ。おまえが、かってにきめるな」
良太の言葉も、母親に対するものではない。
「ほんっとに、くそ生意気なガキどもだね! よし、それならこうしよう。その
人形を捨てれば、私と一緒に連れていってやる。今度は、こんな汚いアパートじ
ゃないよ。高級マンションだ。部屋もたくさんあるし、広い風呂だってあるんだ。
さあ、どうする?」
ふざけた条件だ。母親が新しい転居先に、子どもを連れていくのに条件を出す
など、聞いたこともない。
「ちっょと、ガキが一緒なんて、約束が違う」
外車の男が抗議し掛けたが、女に一瞥されると、そのまま口を噤んでしまった。
「さあ、どうするんだい? 人形を捨てて私と来るか、それとも人形を取って親
なしっ子にでもなるかい?」
それはもう、選択を促しているのではない。脅迫だ。
美璃佳は何も答えず、固く目を閉じて人形を抱きしめている。人形を取られて
しまう、と言う恐怖の方が強いのだろう。女の出した条件すら、耳に届いていな
いかも知れない。
良太の方は、明らかに迷っている表情を見せた。形だけだとしても、母親の保
護が受けられれば美璃佳とは別れずに済む。それが嫌で、家出までした良太だ。
迷って当然だろう。
「いや、じゅんちゃんすてない………みりか、このひときらい」
美璃佳が泣き出すと、女はさらに苛立ちを増したらしい。
「母親に向かって『この人』だあ? 勝手に野垂れ死にするかい? くそガキ」
罵られてもなお、良太は答えを出せずにいた。助けを求めるように、駿の方を
見る。
何と言ってやるべきだろう。駿もまた悩んだ。あんな女でも、母親は母親。子
どもは、親と暮らすのが、一番いいのではないのか? しかしあの女を見ている
と、とてもそうは思えない。思えないが、それは駿の主観ではないのか?
「駿………」
早く答えてやれと促すように、マリアが駿の名を呼ぶ。
「良太くん、美璃佳ちゃん………君たちが決めるんだ。自分たちにとって、一番
いいと思う方を」
良太の目が、駿から逸らされた。とても悔しそうな顔で。
マリアは何も言わず、駿を見つめる。
女が駿を振り返って、笑った。勝ち誇ったように。
女にしてみれば、人形のことなどどうでもよかったに違いない。ただ八つ当た
りをするため、美璃佳の嫌がることを条件に出しただけなのだ。
このまま女に従い人形を捨て、ついて行っても、住まいが変わるだけで子ども
たちにとって変化はない。パトロンらしい男は、子どもを嫌っているようだ。新
しい住まいで、これまでのように長い間放って置かれても、誰か助けてくれる人
がいるとは限らない。
母親と一緒に行くことで、かえって良太と美璃佳は、これまでより辛い立場に
なるかも知れないのだ。
駿の決心は、ついに固まった。
「ただ………君らがここに残りたいと望むなら、俺と暮らそう。贅沢はさせてあ
げられないけど、子ども二人くらい、なんとか面倒はみてやれるさ」
伏せられていた、良太の顔が上げられた。駿には、その瞳が輝いているように
見えた。
「美璃佳!」
良太は後ろの美璃佳へ、振り返る。顔を上げた美璃佳の目と、良太の目が合い、
兄妹は同時に頷いた。
「みりか、しゅんおにいちゃんと、いっしょがいい!」
手を取り合った兄妹が、女の横をすり抜け、真っ直ぐ駿へと駆け寄ってくる。
抱きついてきた、熱い熱い、二つの身体。
その温もりを、駿が忘れることはないだろう。その決断を、後悔することはな
いだろう。
「ほんとに、ほんとに、いいの? 美璃佳と、お兄ちゃんのところにいて………」
歳相応の顔に戻り、泣きじゃくる良太。
ただただ、駿にしがみつく美璃佳。人形の頭が駿の喉にあたり、少し苦しい。
「馬鹿な連中。好き好んで、貧乏暮らしを選ぶかい。勝手にしな!」
捨て台詞を吐くと、女は乱暴に車へ乗り込んだ。全く、子どもたちに何の名残
もないのか、すぐさま車を発進させて立ち去っていく。その後を軽トラックが続
く。
「なにをしてるんだい? マリア」
良太と美璃佳に抱きつかれ自由の制限された身体で、駿はマリアの方へ首を動
かした。そこには去って行く車に向かい、両手を合わせて何かを祈るマリアがい
た。
「言ったでしょ。マリア、みんなが幸せになれると、いいって」
「あ、ああ?」
「だからね、あの人にも祈ってあげるの。心も幸せになれますように、って」
皮肉などでは有り得ない。聖母の微笑みが、そこにはあった。
どこまでお人好しな、マリア。けれど駿は、そんなマリアが一層好ましく思え
た。
蒼い星を見据えて、沈黙し続ける178の船。
自らをただの機械と称しながら、各々が各々の想いを胸に蒼い星、地球を見つ
めているようだった。
かつて自分たちの旅立った故郷のあった場所に浮かぶ、蒼い星。それは宇宙船
たち、いや、彼女たちの知る故郷とは全く別の惑星。
故郷の亡骸から生まれた、別の命。
故郷の消滅は、彼女らの存在意味の消滅に繋がっていた。
『美しい星ですね………』
誰かが呟く。
『ええ、私たちの故郷そっくりな星です』
誰かが応える。
ないはずの心が痛む。
いまはなき故郷を想い。
娘たちとの別れを思い。
『いつまでも名残を惜しんでいても、仕方ありません。さあ、始めましょう』
誰かが皆を促した。
心なき機械なら、能率を重んじてとうに行っていたはずのことを。
『さようなら、マリア』
彼女たちの一人から、小さな光が生まれ、蒼い地球に吸い込まれていく。それ
が呼び水になったように、他の176のママたちも小さな光を、地球に向けて放
った。ただ一人のママを除いて。
177のママたちが放ったのはそれぞれの生体ユニット、娘(マリア)の眠る
脱出用ポット。
#4336/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:16 (198)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(66) 悠歩
★内容
ただ一人、みんなと同じ行為をしなかったは機体番号G−36001。彼女の
娘だけはもう地球に降り立って、その星の人間として暮らしている。
『全てのマリアたちが、あの星に降り立ちましたね』
『ええ、これで良かったのですよね?』
らしからぬ質問。常に蓄積されたデータと、計算によって答えを導き出してき
たママが、初めて他の者へ自分の行ったことの正否を訊ねたのだ。
『それは、これからのマリアたちが決めることです』
『不思議な気分ですね………私たちの故郷が塵芥(ちりあくた)となってしまい、
そこから生まれた星が新たな命を育んでいる。そして故郷の血を継いだマリアた
ちが、この星の一員となる』
『故郷はこの星の一部として生き続け、血はマリアによってその子孫に生き続け
る。いいではありませんか』
『ええ………素晴らしいことですね』
『さあ、行きましょう。ここは私たちの居るべき場所ではありません』
一機、また一機とそれぞれの想い、マリアへの愛を残し、ママたちは地球を離
れていく。
その行き先は誰にも分からない。
分かっているのは、もう二度とママたちがここに来ることはない、と言うこと。
二度とマリアと会うことはない、と言うことだけだった。
小さなクリスマスケーキに、七面鳥代わりのフライドチキン。それぞれ別の景
品としてもらったグラスに注がれた、オレンジジュース。景気づけのための、ク
ラッカーが数本。それから各自数枚のクッキー。良太が純子にもらったものを、
みんなに分けてくれたのだ。美璃佳がもらったものは、とうになくなっていた。
空になった、二つの長靴型の容器を足に履いた美璃佳は、嬉しそうに部屋を走
り回る。ただし本物の靴と違うそれは、柔軟性がないため踵が曲がらず、それを
補うため美璃佳の走りはどたどたと、特に賑やかなものになる。
駿は「下の部屋の人に、迷惑だから」と美璃佳を注意しようとしたが、やめた。
愛美がいなくなり、美璃佳と良太の母親であった女も出て行き、このアパートに
住むのは駿たちと一階の老夫婦の二部屋だけになってしまった。老夫婦の部屋は、
駿の部屋とは反対側にあるので、美璃佳の足音が直接響くことはないだろう。
ささやかだが、いまの駿に用意できる精一杯のクリスマス・パーティ。
贅沢と言えるものは何もないが、良太も美璃佳も、そしてマリアも楽しそうだ
った。もし贅沢と言えるものがあるとしたら、CDラジカセから流れている、駿
が大奮発をして買ってきたクリスマス・ソング集くらいだろう。
舌足らずな美璃佳は、CDより一拍遅れて唄っている。
良太はそんな妹に併せて、わざとタイミングをずらして唄っているようだ。
マリアも美璃佳同様に、CDに遅れて唄っているが、これは単に歌詞を知らな
いかららしい。耳で歌詞を聞いてから唄うため、どうしてもタイミングがずれて
しまう。けれどマリアの歌声は、本職の歌手に劣らぬ、それ以上に美しいものだ
った。駿の贔屓目もあるだろうが、その気になればプロとして充分に通じそうに
思えた。
予算の都合上、明日のクリスマス当日は何も出来ない。明日以降も、かなり生
活を切り詰めて行かなければならない。けれど駿もそんなことは忘れ、今日は楽
しんだ。
楽しいパーティだった。
子どもの頃に、家族と祝ったクリスマス。
学生時代、気の合った連中と騒いだクリスマス。
好きだった女の子と、ロマンチックに過ごしたクリスマス。
そのどれもが楽しい思い出として、駿の心に残っている。だがその中でも一番
ささやかな今日が、一番楽しく感じられた。
「みりかね、クリスマスのぱあてぃ、はじめてなの」
わずかな曇りもない、美璃佳の笑顔。この子の一生の思い出に残るであろう、
最初のクリスマスを駿の手で祝ってやれることが、誇りに思えた。
良太も楽しそうに笑う。いつもこの子の笑顔には、どこか翳りがあった。妹を
気遣い、共にいたいと願っていた良太は、心から笑えることが少なかったのだろ
う。背負っていた荷が軽くなり、やっと子どもらしい笑顔が作れるようになった。
形はどうあれ、実の母親との別離は小さな者たちの心に、きっと傷を残したは
ずだ。もしこの笑顔で傷を癒せたのなら、どんなにいいだろう。そのために、出
来る限りのことをしてやりたいと駿は思う。
やっと決心が出来た、子どもたちを自分が引き取るということ。そのことに悔
いなど、微塵もない。むしろ心が軽くなった想いだった。
けれどまだ、完全に心も晴れ晴れ、とは行かない。いまだ果たせぬ想いが一つ、
駿の心に残されていたのだ。
「うわっ、寒いなあ」
煙草を吸おうと、部屋の外に出た駿は寒暖の差に震え上がってしまう。部屋に
戻ろうかとも思ったが、煙草を諦められず、その場に留まった。
「どうりで寒い訳だ………」
空を見上げて呟く。下からの外灯を光をきらきらと反射させる、白く小さなか
けらが乱舞していた。雪だ。
日陰に残された、黒ずんだ一昨日の雪を応援するため、新しい雪が降ってきた。
子どもたちは、この雪を喜ぶだろうか。
一昨日の雪は、子どもたちを探す駿の心を不安にさせた。足を倒木に捕られて
動けなかった良太も、助けを求めて一人暗い山中をさまよった美璃佳も、辛い気
持ちで雪を見ていたはずだ。
それなのに、この雪を見る駿の心は晴れやかだった。幼かったころのように、
空から舞い落ちてくる雪に心を躍らせている。
子どもたちも、あの日涙で見ていた雪を、今夜は笑って見れるだろうか。
雪が降ってきたよ。
そう子どもたちに声を掛けようと、ドアを振り返った駿だったが止めた。駿が
声を掛けてやらなくても、窓の外を見れば気がつくことだ。何も夢中になって観
ているテレビを、中断させることもない。
それに………
これからは、ずっと子どもたちと一緒にいるのだ。
慌てて呼ぶこともない。いまはだけは、一人で物思いに耽ってみるのもいいだ
ろう。
駿は本来の外に出てきた目的である煙草を、やっと口にする。
「しかし、煙草を吸う度に外に出なきゃならないってもの、考え物だな」
降りしきる雪に白い煙を吹き掛け、駿は思う。
子どもたちが嫌がった訳ではないのだが、つい気を遣ってしまって、今日まで
は外に出て煙草を吸っていた。初めは子どもたちと過ごす間だけの辛抱と考えて
いてのだが、これからはずっと一緒に暮らすことになる。喫煙の度に外に出るの
も面倒だ。
駿が部屋で煙草を吸うことに、子どもたちにも慣れてもらうか。
それともいっそ、煙草を止めてしまうか。
「はは、なんだかまるで父親にでも、なった気分だ」
駿は一人笑う。そして、それが冗談ではないことに気づき、笑うの止めた。
実際、良太や美璃佳のこれからは、全て駿が責任を持たなければならない。も
ちろんそんなことは、初めから分かっていた。子どもたちを引き取ると決めたの
は、あの女に対しての、その場の勢いだけではないつもりだ。
けれどこうして改めて考えると、その責任は決して軽いものでないと気づく。
勢いだけではないと言うものの、こうして一人冷静になる時間を得ると、やは
り自分のとった行動が正しかったのかと考えてしまう。
あの女はまるで犬猫のように、いやそれ以下に子どもたちを扱った。それを許
せないと駿は思った。だがこれは、駿にも言えることなのではないだろうか?
子どもを引き取るのと、ペットを引き取るのでは訳が違う。動物好きに言わせれ
ば、同じであるかも知れないが、その社会的な責任も重大なはず。
ただ食べさせて行けばいい、と言う問題ではない。
一人っ子だった駿は、自分より歳下の子どもの面倒をみることに、慣れてはい
ない。一時ならいざ知らず、これからずっと二人の面倒を見続けていられるだろ
うか。独り身である駿に、子どもたちの親代わりが務まるだろうか。良太や美璃
佳に対し、いずれあの女のような態度を自分も執ったりはしないだろうか。
不安は尽きない。
「いまから泣き言を言ってて、どうするんだ、藤井駿!」
煙草の煙と、白い息と、自分を励ます言葉を口から吐き出す。
忘れなければいいのだ。子どもたちを引き取ろうと決意した瞬間の、自分の気
持ちを。良太の、そして美璃佳の笑顔を。
それは考えるより、難しいことなのかも知れない。けれどいまから悩んでいて
も仕方ない。正直なところ、子どもたちを引き取ろうと決めたのは、同情が強い。
実の母親に愛されず、それどかろか疎まれていた子どもたち。それを哀れに感じ
て、という部分が強い。
しかし結果として、子どもたちと一緒に暮らそうと決めたのだから、その同情
を愛情に変えて行こう。二人とも可愛らしくて、素直な子どもだ。愛するのは、
そう難しいことではないはず。
駿はまだ若い。無理に二人の父親代わりになろうとせず、兄貴になればいい。
そう思うと、少しだけ気分が軽くなるようだった。
「だけど、いきなり二人の子持ちともなると………嫁さん探しも大変だろうなあ」
口にした駿自身、馬鹿なことを言っている、と感じた。
嫁探しなど、するつもりもない。
そばにいて欲しい女性、妻にしたいと思う女性は、この世にたった一人しかい
ない。もう駿には、他の女性を考えることなど、出来なかった。
もしその人が、いつまでも一緒にいてくれるなら。
駿の『奥さん』と、なってくれるなら。
何も不安はない。あの人がいれば、子どもたちとも上手くやって行ける。
あの人がそばにいてくれるなら、もうそれ以上は望まない。
「けどなあ………順番が逆だろう」
指に挟んだ煙草の上に、雪が落ちた。雪は煙草の火に炙られて、溶けていった。
子どもたちを引き取るより先に、彼女にプロポーズすべきだった。と、駿は思
う。
今時の若い女性が、お金もない、社会的地位もない、おまけに二人の子持ちと
なった駿の求愛を受け入れてくれるだろうか。
こんな順序になってしまったのは、駿が彼女にプロポーズをする決心が固まる
より前に、あの女が現れてしまったからに他ならない。本当は、プロポーズを済
ませてから、彼女と相談して子どもたちのことを考えたかった。
ただそれには、彼女が駿のプロポーズを受け入れてくれるものとしての、前提
が必要だった。たぶん、彼女も駿を好いてくれている。普段の言動から、間違い
はないと思う。
けれど無邪気すぎる彼女、純真すぎる彼女は、誰に対しても嫌うということを
知らない。もしかすると駿に対する態度も、他の人に対するものと差違がないの
ではないか。そんな不安が、決心を遅らせていた。
それに彼女に限って、そんなことはないと思いたいが………もし彼女が子ども
たちを引き取ろうと言う、駿の意見を拒んだら。自分はどうしたらいいのか、ど
うしていたのか、それもまた不安だった。
考え事をしている間に、煙草はフィルターまでも焦がし始めていた。駿は雪で
濡れた手すりに押し充て、煙草の火を消す。
なんだかまるで吸った気がしない。
もう一本、吸おう。そう思って、新しい煙草を取り出そうとした時。
「駿、なんだか難しい顔してる」
背中から掛けられた声。
振り返らずとも分かる、彼女、駿の想い人の声がした。
「後ろから見て、俺の顔が分かるのかい?」
口に持って行きかけた煙草を、箱に戻しながら駿は応えた。
「マリアはね、色で分かるんだよ」
ぬうっ、と見慣れた愛らしい顔が横に現れる。この子は疲れというものを知ら
ないのだろうか。ささやかなパーティで、子どもたちと散々はしゃいだ後にも関
わらず、いまだ絶えない笑顔が駿を見つめる。
「また、色が見えるようになったんだ?」
初めはマリアの思い込みに過ぎないと、信じていなかった言葉。それにいま、
駿は素直に応じることが出来る。何よりも、マリアのその力によって良太と美璃
佳を、見つけだせたと言う事実。それが超能力なのかどうかは分からないが、マ
リアの言うことに嘘はない。他の何を信じられなくても、それだけは信じていい。
「うん、でももう、前みたいに、よく見えないんだ」
「どうして?」
「マリアがね、ママから離れて、駿と同じ人間になったからだよ。きっと」
またマリアが不思議なことを言い始める。マリアの言葉には、駿の理解出来な
い多くのものが含まれる。未だ身元の明らかでない、マリアのママとは誰なのか。
駿と同じ人間になったとは、どういう意味なのか。
『そうか………身元も分からないうちに、プロポーズなんて出来ないよな』
ふと駿は、尻込みの言い訳を考えている自分に気がつく。
『関係ない! マリアが何者だって………俺はいま俺のそばにいる、マリアが好
きなんだ。その気持ちは、たとえマリアにどんな事情や過去があっても、変わら
ない』
逃げようとする心を抑えつける。
「あ、あのさ………マリアは、良太くんと美璃佳ちゃんのこと、好きかい?」
「うん、好きだよ」
駿は我ながら、情けないと思う。ストレートに気持ちを告白できず、遠回りの
ことを訊ねている自分が。
「あの子たちと、ずっと一緒にいたいと思うかい?」
「うん、思うよ」
予想通りの答えが、小気味よいほどのリズムで帰って来る。予想通りの答えで
はあったが、それは少し駿の心を勇気づけた。
これで子どもたちのことは、障害にならないと。
「じゃ、じゃあ、マリアは………俺のこと……好き、かい?」
#4337/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:17 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(67) 悠歩
★内容
雪が降るほどの寒さだと言うのに、駿の顔は目眩を起こしそうなほど熱くなっ
ていた。寒さではない、別のものに唇が震え、歯の根が上手く合わず、それだけ
のことを言うのに大変な苦労を必要とした。
「うん、大好きだよ!」
元気一杯の、大きな声でマリアは答える。
これもまた、予想通りではあった。マリアは決して、『嫌い』とは答えないと
分かっている。ただ、単に『好き』ではなく『大好き』と言ってくれたことで、
駿は自分の想いが通じる可能性に、わずかな光を見たような気がした。
「そ、それじゃあ………俺と、一緒に………暮らして欲しい!」
二十二年間の人生で、これほど勇気を必要とした言葉は初めてだった。
駿は静かに、マリアの返事を待った。期待と不安に、息が詰まりそうだった。
「一緒に暮らしてるよ?」
駿の言葉の意味を理解できず、マリアは不思議そうに答えた。
予想もしていなかった返事に、駿も身体の力が抜けてしまう。
「あ、いや………そうじゃなくて………」
今更ながらに、駿はマリアが過ぎるほどに素直な性格であることを、思い知ら
された。言葉をそのままの意味に捉え、そこに含まれた真の意味を読みとるほど
に気が回らないのだ。
悪く言えば、心が幼すぎるのだ。
しかしそれさえも、駿には好ましく思える。
ただしいま、この子に自分の気持ちを伝えるには、直接的な言い方をするしか
なさそうだ。
「そうじゃなくて………マリア。俺は………」
「あっ、流れ星!」
これからだ、と言う時にマリアの注意が駿から逸れてしまった。
マリアは、駿の気持ちを知っていながら、わざとからかっているのではないだ
ろうか。そんなふうにも、思えてしまう。
『いや、マリアにそんな芸当が出来るはず………ないか』
駿はマリアの指さす方向へと、視線を向けた。
そこには不思議な、珍しい光景が展開されていた。夜の闇で、見て取ることは
出来ないが、空はこの雪を降らしている厚い雲に覆われているはず。ところがマ
リアの指さす先では、雪とは明らかに違う幾つもの光体が斜めに降り注いでいる。
天空から、厚い雲を突き破って現れるからだろう。それはまるで空の途中から、
突然湧き出るように発生し、流れていく。
流星群が地球に接近しているという話は聞いていないが、それは駿がニュース
を見逃していただけかも知れない。降りしきる雪の向こうにありながら、こうし
て見ることが出来るのは、ここからそう遠くないところに落ちているのだろうか。
「マリア、なんか変な気持ち………どうしてかわかんないけど………涙が出てく
るの」
流星を見つめるマリアの目に、涙が光る。
いつもは陽気なマリアだけに、時折見せる涙に、駿の心はさらに強く惹かれて
いく。
本当のマリアは、寂しがりやなのかも知れない。マリアがいつも無邪気で明る
いのは、その裏返しなのかも知れない。
ゆっくりと舞うようにして降る、白い雪。
天空を斜めに裂いて地上に向かう、流星。
それを見つめる、美しい少女。
子どもたちの観ているテレビからだろう。バックに流れるクリスマス・ソング。
これほどロマンチックな状況は、望んでもそうそうあるものではない。この機
を逃したら、マリアにプロポーズをするチャンスは二度とないかも知れない。
「マリア………俺と、結婚して欲しい」
今度こそ、直接的な言葉で気持ちを伝えた。
「えっ?」
驚いたように、振り返るマリア。
きょとんとした目で、駿を見つめている。
あるいは駿の言葉が聞き取れなかったのだろうか。それとも、これでもまだ気
持ちが伝わらないと言うのか。いやまさか、『結婚』と言う単語そのものを知ら
ないのか。
「だから、マリアに俺のお嫁さんに欲しいんだ」
真っ直ぐにマリアの瞳を見つめながら、駿はそう言い直した。これでもまだ分
からないと言うのなら、自分の全てを使って伝えるつもりだった。
そんな駿の気持ちが、気迫になってしまったのか。マリアは怯えるように駿か
ら視線を逸らすと、くるりと背を向けてしまった。
『しまった………』
想いの強さが、裏目に出てしまった。
後悔しても遅い。もしマリアが駿に恐怖を感じてしまったのなら、もう取り返
しがつかない。駿はそう思った。
「違うの………」
背中を向けた、マリアの言葉。
駿にはそれが、否定形の言葉に聞こえた。
「ご、ごめん………別にマリアを恐がらせるつもりじゃ、なかったんだ」
駿は必死に弁解を試みる。
「違うの?」
マリアは同じ言葉を繰り返した。けれど今度のそれは、否定形でなく疑問形の
ように聞こえる。
「えっ? あの………違うって、何が?」
質問を質問で返すことになってしまった駿に、マリアは再び顔を見せることで
答えてくれた。それは少しはにかんだような、そしてとびっきりの笑顔で。
「マリア、もう駿のお嫁さんだと思ってたのに。違うの、って訊いたの」
「へっ………あ、えっ………それって、もしかして?」
その時きっと、駿は情けない顔をしていたのだろう。
マリアは少し頬を膨らませて、こくりと頷く。そして吹き出した。
「やだ、駿。変な顔してるぅ」
くすくすと笑い出すマリア。
駿は夢を見ているような気分だった。
「それじゃ………俺と、結婚してくれるね?」
優しく言いながら、駿はマリアの両肩に手を置いた。
「駿がイヤじゃなければ、マリアはずっと一緒だよ」
笑顔で応えるマリアの目に、涙が光っている。
「嫌なものか………世界で一番、俺はマリアのことが好きだ」
「でもマリアは、駿と同じ人間じゃないよ。遠い遠い、宇宙から来たんだよ」
この期に及んで、またマリアはおかしなことを言い始めた。もしかすると、そ
れがマリア流の、照れ隠しなのかも知れない。
いや、もしかすると本当のことかも知れない。
色の話や、日本人、地球人にしては素直すぎるマリア。この子が嘘をつくのは、
駿が生身のまま空を飛ぶのよりも難しいことに違いない。マリアの言うことなら、
何でも信じたい。
駿にとって、マリアが何者なのか、もうどうでも良かったのだ。例え宇宙人で
あろうと、幽霊であろうと、天使だろうと、悪魔だろうと。ただ一緒にいられる
のなら、そんなものに拘りはしない。
「それでも、駿はいいの?」
不安そうに首を傾げるマリア。
駿は応える代わりに、マリアの身体を引き寄せる。そしてその濡れた薔薇のよ
うに紅い唇に、自分の唇を重ねた。
一瞬、大きく目を見開いたマリアも、すぐに瞼を閉じて駿に応じて来た。
温かな感触。
何も考えることなどない。間違いなく、駿の愛しい人としてのマリアがここに
いる。
パアン。
甘い、至福の瞬間は鼓膜を揺るがす音に、わずか数秒で中断させられてしまっ
た。駿の頭に、ふわっと何かが落ちてくる。続いて、「やったあ!」と言う歓声。
慌ててマリアの唇から離れた駿は、その声の方へ顔を向ける。
「おめでとう、駿お兄ちゃん!」
「マリアおねえちゃん、しゅんおにいちゃんの、およめさんになるんだね」
手にクラッカーを持った良太と美璃佳。駿の頭に落ちたのは、クラッカーから
飛び出た小さな紙テープだった。
駆け寄って来た美璃佳が、マリアに抱きついた。先ほどまで駿が独占し掛けて
いたその胸が、美璃佳に奪われてしまう。
「ねえねえ、しゅんおにいちゃんとけっこんしたら、マリアおねえちゃんは、み
りかのママなのかなあ?」
「うん、そうだね。いつかお風呂屋さんで、美璃佳ちゃんの言って通りだね」
マリアは人差し指で、美璃佳の鼻をくすぐるようにして応えていた。嬉しいの
か、くすぐったいのか、美璃佳の笑い声が響いている。
「やれやれ」
ため息をついた後、駿は良太の目を真剣な顔をして見つめる。笑っていた良太
も、自分たちが何かまずいことをしたと思ったのだろう。真顔になって、駿を見
つめ返す。
駿はマリアたちに聞こえないよう、良太に近づいて耳元で囁く。
「たまには、俺とマリアだけの時間も作ってくれよな」
それから、ぽんと良太の頭を掌で包み込んだ。
「うん、約束するよ」
そう言って、良太は破顔した。
「マリアおねえちゃん、おろして!」
とん、と飛び降りた美璃佳がそのままマリアの手を、そして駿の手をも引っ張
って、部屋の中へ連れて行こうとする。
「はやくおへやにはいろうよ。『フラッシュ・レディ』がやってるよ」
「あれ、今日は『フラッシュ・レディ』の日じゃないだろう?」
「きょうは、クリスマスだから、とくべつなの」
せっかくのプロポーズも、余韻を楽しむ暇さえない。
まさかその後に、子どもたちとアニメを観ることになろうとは、予想もしてい
なかった。つい数分前の、ロマンチックな雰囲気は影さえ残っていない。
駿はそれを残念に思ったが、決して嫌な気分でもない。
『まあ、こんなことがあってもいいか』
これからはずっと四人で暮らして行くのだ。慌てなくとも、これから楽しい思
い出をたくさん作って行けばいい。
ただ一つ、まだ駿の心を悩ませるものが残っていた。
『正月が終わったら、急いで仕事を見つけないとな』
当分の間、書きかけの小説も止まったままになりそうだ。
「素敵なイヴですね」
「ああ、素敵なイヴだな」
雪の降りしきる中、肩を寄せ合う老夫婦の見つめる先で、二人の若者と二人の
子どもを呑み込んだドアが閉じられた。
「とみ………愛美ちゃんがいなくなって、このアパートもすっかり寂しくなった
と思ったが」
まだ富子と愛美を同一視してしまうことがあるが、二人が別人であることを認
識し始め、おじいさんの痴呆も良い方へ向かっているようだった。
「ええ、良太くんや美璃佳ちゃんも、いい顔で笑うようになりました」
そう言いながら、おばあさんは自分も久しぶりに心からの笑顔になっているこ
とに気がついた。おじいさんが回復に向かっているのも、アパートの子どもたち
が笑っているのも、若い夫婦が誕生しそうなのも、全てが嬉しかったのだ。
「それにしても、綺麗だなあ………」
おじいさんは、ついさっきまで二階の住人、駿たちの見ていた光景に目を向け
ていた。
天空より突然生まれ出た、流星の群れ。それを歓迎するように舞い踊る、白い
雪たち。
「まるでとびっきりの、クリスマス・ツリーのようだな」
おじいさんが呟く。
その背中が、流星たちの仄かな光に照らされ、わずかに輪郭を浮き上がらせる。
おばあさんは、若い頃、まだ結婚する前に二人で花火を観に行った時のことを、
思いだしていた。
「晴彦さん、一緒に踊りませんか?」
その名前でおじいさんを呼ぶのは、何十年ぶりだろう。
結婚して、富子が生まれてからは『お父さん』となり、いつしか年老いて『お
じいさん』と変わった、連れ合いの名前。
「なんだい、おばさんや。薮から棒に」
名前で呼ばれたことに驚いたのか、それとも、踊ろうと誘ったことに驚いたの
だろうか。おじいさんが、不思議そうな顔で振り返る。
「名前で呼んで下さいよ、晴彦さん」
「ははは、変なヤツだな。若い二人に、あてられたのか? 年寄りが冷たい夜風
にいつまでも、触れているのは毒だぞ」
いつもとは反対に、おじいさんの方がおばあさんを気遣う言葉を口にする。
「だいじょうぶですよ。踊っていれば、すぐに暖かくなりますから………せっか
くのクリスマスですよ。ねえ、踊りましょうよ、晴彦さん。あの時、花火を観な
がら踊ったように」
おばあさんの気持ちは、もうあの時の、二十歳前の少女に戻っていた。
その様子を、おじいさんも感じ取ったのだろう。どこか気恥ずかしそうに笑い
ながら、こう応えた。
「よし、踊ろうか………香奈恵」
おじいさんが、手を差し伸べる。
その手に、おばあさんの手が合わせられる。
どちらの手も、いまはしわが一杯に刻まれている。
けれど互いの心は若返り、青年と少女の頃にと戻って行った。
降りしきる雪の、微かな音がワルツの代わり。
少しだけ歳をとった青年と、少しだけ苦労を重ねた少女が踊る。
いつの間にか、流星のライトアップは終わってしまった。でも二人には気にな
らない。
#4338/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:18 (199)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(68) 悠歩
★内容
小雪が、二人につられるように周囲で乱舞する。
きっと富子と光太郎も、空の上で踊っているに違いない。あの流れ星は、富子
からおばあさんたちへの贈り物だったのかも知れない。
そんなふうに、おばあさんには思えた。
波の音が、こんなに賑やかなものとは知らなかった。
イヴの晩に降り始めた雪も、クリスマスに入り落ち着き始めていた。しかしま
だ暗闇の中目を凝らせば、わずかに粉雪を見ることが出来る。
もっともどこまでが雪なのか、どこからが男の手を暖めている焚き火の灰なの
か、区別するのは困難だったが。
「………ったく。せっかくのクリスマスに、何してるんだろ。俺………」
独りの寂しさに、ついぼやいてみる。けれどそれは、ただ自分が独りきりであ
ることを強調するばかりで、かえって気分を重くさせるだけだった。
腕時計に目を落とすと、時刻は午前三時を過ぎたばかり。
予定通りに行けば、この日この時間、男はこの世に存在していないはずだった。
この夜、正確には昨日のイヴからクリスマスに日付が変わる瞬間、海に入り、
死ぬつもりだったのだ。
それがいま、男は砂浜で焚き火にあたっている。
自殺を決めた理由はいろいろあったのだが、なぜか思いだせない。実は何もな
かったのかも知れない。人がもう誰も信じられなくなったとか、自分はこの世に
必要な存在でないと気づいてしまったとか、そんなことだったような気がする。
とにかく、つい三時間ほど前まで、男は死神に取り憑かれたように死ぬことしか
頭になかった。
その日に自殺しようとした理由は、ごく簡単ものだ。一般的にクリスマスや正
月、世間が賑わう日には、自殺者の数が増えると言う。そんな日だからこそ、自
分の置かれた状況の苦しさ、侘びしさを痛烈に感じるのだろう。
男もそうだった。そしてこの日を選んで自殺すれば、うかれたクリスマス風景
一色に染まったテレビにも、暗いニュースを提供できる。それで自分を死に追い
やった世間の人々に、少しでも陰を落とせたらいいと思った。
もっとも冷静になって考えれば、自分の死など、誰も気に掛けはしないだろう。
それどころか、新聞の地方版にも扱われないかも知れない。
いまはこうして、冷静に考えることも出来るが、三時間前の自分では気づきも
しなかったこと。それで自殺をとり止め、こうして焚き火にあっているのではな
い。
一歩海へと足を踏み出した瞬間、その冷たさに震え上がり、とてもその中に身
を投じるどころではなかったのだ。あるいは男に憑いた死神が、寒さに弱かった
のか。いや、単に男自身が根性なしだったのだろう。
とにかく幸か不幸か、男は予定していた時刻を過ぎているにも関わらず、ここ
でこうして生きている。一度逃げ出した死神が、再び男の元に戻って来ることも
なかった。
だがそれで「良かった良かった」と、一人暮らしのアパートに帰る気にもなれ
ない。世間の恋人たちが、互いの温もりを感じ合いながら迎えるクリスマスの朝
を、独り冷え切った布団で迎えたくはない。
それはみっともない嫉妬だと、分かってはいる。
けれど死神とは別れられたが、心の支えを何も持たない男は待ちたかった。
男は最初から、この海を自殺の場所に決めていた訳ではない。初めはどこでも
良かった。昨夜はその場所を求め、車で走り回っていたのだ。
これから宵の口という時刻に、流星群を見た。それは不思議な光景だった。
雪を降らせる厚い雲に覆われた夜空。流星は、その雲を突き破るようにして、
現れたのだ。男はその流星が、神のいる場所………天国から降ってきたように見
えたのだ。
ばかばかしいことかも知れない。
だが男は思ったのだ。あの流星の落ちた近くで死ねば、自分は天国にいけるの
ではないだろうかと。
その中で、一番最後の流れ星。それが男から、最も近い場所に落ちたのだろう。
他の流星に比べ、一際大きく見えた。それが、この海の先に落ちたのだ。だから
男は、この海に場所を決めた。
人に話せば、笑われるだろう。
けれど男は、確かに見たのだ。ほんの一瞬ではあるが、その流れ星の中に、人
の姿を。
あれこそ天使に違いない。
男はクリスチャンでもなければ、真剣に神の存在を信じている人間でもない。
しかしあの一瞬、確かに見た。思い込みではないと、断言出来る。だからここに
来た。
もしかすると、自分が自殺を思いとどまったのは、あの天使の力なのではない
だろうか。あの天使は、死神に取り憑かれた自分のために、神が遣わしたのでは
ないだろうか。
だとしたら、ここで待っていれば、あの天使が姿を現してくれるかも知れない。
そう思った男は、ずっとここで待っていた。
しかし、男が自殺を止めてから三時間。流星が落ちてからは、八時間近くが過
ぎている。海は時折灯台の明かりが過ぎて行く以外、何も変化を見せはしない。
男の口から、苦笑が漏れる。自分は、何を本気で待っているのだろうと。
この世に神だの仏だの天使だの、存在するはずがない。そんなことは、自分が
一番よく知っているはずではないか。もしそんなものが実在するのなら、自分の
ように自殺を考える者などいないだろう。いや、自分のような矮小な存在なら、
神の目にも届かないかも知れない。しかし世界を見れば、戦争やテロ、事故や犯
罪、貧困による飢餓、治療法のない病で毎日のように多くの命が失われている。
とても神の庇護の元にある世の中には思えない。
神も天使も、他にすがるもののない人々が、気休めのために想像した存在に過
ぎない。
そんなことは、初めから分かっていたではないか。それが何を血迷って、天使
を見たなどと思い込んでしまったのだろう。
夢ではない。間違いなく見たのだと言う、男の確信は砂の城のように崩れて行
く。人の自信など、斯くも脆いものなのかと、自分のことながら男には笑えた。
しかしその思い込みによって、とりあえずは男は自殺をとり止めたのだから、
信心深い人間に言わせれば、それが神の意志となるのだろう。もっとも男にして
みれば、こうして生きていることが幸せだとも思えないのだが。
自殺を断念し、天使に会うことも諦めたが、他にすることもない。もとよりと
うに死んでいるはずだった男に、これからの予定がある訳もない。
近くに止めていた車に近寄り、カーラジオをFMに入れる。適当に局を合わせ
ると、再び焚き火へと戻る。もうガソリンが幾らも残っていない車内では、暖を
取ることもできないからだ。
「ガソリン代、あったかなあ」
確かまだ、三千円ほど残っていた。
わずかな残金、財布を開いて確認する気にもならない。
まだアパートに戻るくらいのガソリンはあるだろう。車に給油するお金がある
なら、自分が何か食べた方がいい。
それより車を売ってしまおうか。そうすれば嫌な連中と顔を会わせ、仕事をし
なくてもしばらくは食い繋げる。
それにしても、自分はどうしてこんなに人間が嫌いなのだろう。自分だって、
同じ人間なのに。そうか、だから死のうとしていたのか。
自問自答して、一人頷く。
砂浜の、波打ち際から遠いところには先ほどまで降っていた雪が残っていた。
男は、カーラジオから流れてくる曲に、耳を傾けた。
『Blue Christmas』、唄っているのは、知らない男性ヴォーカ
ルだった。
クリスマス・ソングなど、とても聴く気持ちはならないが、この曲だけは別だ
った。理由はないが、なぜがこの歌だけは好きだった。ただ、このヴォーカルの
声は、あまりこの歌に合わないなと感じる。
曲はすぐに終わってしまった。こんな日だから、どうせクリスマス・ソングが
続くのだろう。聴きたくはないが、また車に戻って選局をするのも面倒だ。それ
にどこに変えても同じだろう。
そう思っていると、次もまた同じ曲が流れだした。今度は女性ヴォーカルの唄
で。どうやら『Blue Christmas』の特集をしているらしい。今度
の歌声は、男の好みに良く合っていた。
ゆらめく焚き火の炎を見つめながら、男は歌に聴き入った。なんとなく、気持
ちが穏やかになって行くようだ。
ふと何かを感じ、男は波打ち際へと視線をやった。
「!」
誰かが倒れている。
まさか自分と同じ、自殺志願者か。
男はすぐさま立ち上がり、駆け寄った。
うつ伏せなので、年齢は定かでないが、若い女性のようだ。生まれたままの姿
の、お尻りに張りが感じられる。
「き、きみ………」
どうしていいのか分からず、男はとりあえず声を掛けてみる。が、返事はない。
死んでいるのだろうか。足元は打ち寄せる波に浸かり、全身も濡れている。
溺れていた女性が、波で打ち上げられたのだろうか。だが今日の波は比較的穏
やかで、人間一人を浜に打ち上げる力があるようには、男には思えなかった。
まさか、この子が天使では?
一瞬、そんな考えが頭をよぎるが、すぐに否定する。背中に翼はないし、頭に
光の輪もない。もちろん本物と出会ったことなどないが、少なくとも男の知って
いる天使の特徴をその女性は持ってはいない。
とにかく死んでいるにしても、このまま放って置くのは可愛そうだ。けれど裸
の女性に触れるのも躊躇われる。
男は自分の着ていたブルゾンを脱ぐと、女性の身体に掛けてやり、抱き起こし
た。
「………これは」
女性を抱き起こして、男は驚いた。
身体が温かいのだ。まるでたったいま、風呂から上がったばかりのように。
「………んっ」
微かに女性の唇から、うめき声が漏れる。まだ生きているのだ。
男は急いで女性を、焚き火の元へと連れていく。
他に何もないので、車の中にあった新聞を砂の上に敷き、そこへ女性を寝かせ
た。
「いや………そうじゃなくて、やっぱり救急車を呼ぶべきか………」
携帯電話などという、気の利いたものなどは持っていない。この近くに、公衆
電話などあっただろうか。そう言えば、ここに来る時に通ったコンビニの前に、
公衆電話があったような気がするが。車で飛ばしても、五分くらいは掛かるはず
だ。
「んんっ」
また女性がうめく。
苦しいのだろうか。
もしかすると、人工呼吸の必要があるのではないか?
男はこの時初めて、女性の顔をはっきりと見た。
濡れた長い黒髪が、やけに艶やかに感じられる。身体の温かさもそうだが、と
ても冷たい海に浸かっていたとは思えない、紅く控えめな唇。頬を見ても、血色
は悪くない。
年齢は十七、八と言ったところか。まだ少女と呼んだ方が、いいかも知れない。
毛布代わりに掛けたブルゾンが、胸の辺りで小さく盛り上がっている。
直視するのが苦しく、目を逸らした先で白く長い素足と出会ってしまう。
「ちょ………直接、病院に運んだほうが………は、はやいか?」
突然行うことになってしまった人命救助と、若く瑞々しい少女の裸を目の前に
してしまったことで、男はパニックになっていた。まず先に何をすべきか分から
ず、右往左往するばかりだった。
「ん………ふあぁぁっ」
パニック状態の、男の思考が停止する。
横たわっていた少女が、突然両手を伸ばしたかと思うと、大きなあくびをしな
がら起きあがったのだ。
ブルゾンが滑り落ち、小振りだが形の良い、白い乳房が露になる。
「ひゃっ!」
情けない叫びを上げて、男は慌てて少女に背を向けた。
「おはよう。ねえ、ここ、どこかしら?」
自分が裸であること。それを男に見られたことなど、まるで気にする様子もな
い声で少女が言った。
あまりにものんきな態度から、決してこの少女は自殺を試みたのではないだろ
うと、男は判断した。
「あなた、どうして後ろを向いてるの?」
そんなことは、質問しなくても分かりそうなものだ。もしかすると、頭が少し
おかしいのではないだろうか。
「そ、その………君、む、胸が見えてるよ………」
どもりながら男は言った。頭の中では、何か着るものを用意してやらなければ
と考えながら。
しかし女性用の服が、三千円で上下とも買えるのだろうか。それよりも前に、
この時間にそれを売っている店が、開いているだろうか。
「胸? おっぱい、見えたらダメなの?」
「いや………いいとか駄目とかの、問題じゃなくて………とにかく、せめてそこ
にあるブルゾンを着てくれ」
「これを着るの? 分かった」
声だけ聞いていると、少女はまるで小さな子どものような話し方をする。
しばらく男が背を向けたまま待っていると、がさごそと少女がブルゾンを着て
いるらしい音がした。
「はあい、着たよ」
少女の応えを待って振り返った男は、思わず眉をしかめる。
確かに少女は、ブルゾンを着るには着ていたが、前後ろを逆にしていたのだ。
当然、背中側に回ったファスナーなど、締められてはいない。
「へんなお洋服ぅ」
#4339/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:19 (177)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(69) 悠歩
★内容
初めは少女がふざけているのだと、男は思った。けれどそうではないらしい。
滑稽な着こなしをした少女は何が楽しいのか、とんとんと飛び跳ねては、けらけ
らと笑う。
幸い男の身体に合わせたブルゾンは、少女には大きく、辛うじて下腹部まで隠
れている。しかし少女が無防備に跳ねる度、危険な状態になってしまう。見えな
いまでも、焚き火の炎によってゆらめく影が、男に錯覚を起こさせる。
男に下心はないつもりだったが、いつまでもこんなことを続けられては自信が
持てない。
「こら、そんな格好で、はしゃいじゃ駄目だ」
強い口調で窘めると、少女は飛び跳ねるのを止め、不思議そうに男を見つめた。
まるで小鳥のように小首を傾げる姿が、可愛らしい。
いままで気がつかなかったが、少女の瞳は高級なブランデーのような色をして
いる。日本人ではないのだろうか。それにしては、幼児的ではあるが流暢な日本
語を話しているが。
「君、名前は?」
なるべくまだ何も身に着けていない、少女の足元を見ないようにしながら男は
訊ねた。
「名前? マリアだよ」
少女は笑顔で答えた。
男はかつて、こんなに純粋な笑顔を見たことはない。いや、小さな子どもが見
せる笑顔なら見たことはあった。しかしいろんな知恵や打算を覚えた年齢で、こ
れほどまで無垢な笑顔の出来る者を知らなかった。
「マリアは日本人なのかい。それとも、どこか外国の人?」
「マリアはマリアだよ」
隠そうとしているのでも、ごまかそうとしているのでもなさそうだ。マリアと
名乗る少女の返事は、それ以外の答えなどある訳がないと確信してのものらしい。
「それじゃ、マリアはどこから来たのかな?」
男は質問を変えてみる。
するとマリアは、真っ直ぐに空を指さしたのだ。
「マリア、宙から来たの。遠い宙から来たんだよ」
今日まで他人の顔色を気にして生きてきた男には、相手の目を見ればその言葉
の真偽を知ることが出来た。あまり自慢の出来る才能ではないが、それでもマリ
アが嘘を言っていないことが分かる。
もちろん、宇宙から来たなど言うのを、本気で信じた訳ではない。だが少なく
とも、マリア自身に嘘を言っているつもりがないのだ。思い込みが激しく、自分
の想像と真実の区別がつかなくなる性格かも知れない。
こんな少女を、普通は気持ち悪がるものなのだろうか。
しかし男には、この少女がたまらなく愛しく感じられた。
この子は思い込みが激しいのでもなく、まして頭がおかしいのでもない。そう
思えるのだ。
思い込みが激しいと言えば、自分だって天使を見たのだと信じていたではない
か。マリアを笑えはしない。
『まさか………!?』
男が見た天使は、このマリアだったのではないか? ふと思いつく。
いやあれは錯覚だったのだ。そう自分に言い聞かせても、その考えは頭から消
えない。マリアの笑顔が男のイメージする天使と、重なりすぎていた。
マリアが天使であれ、人であれ、いつまでも前後ろを逆にしたブルゾン一枚を
着たままにさせてはおけない。人であるなら、いるはずの家族の元に帰してやら
なければ。
「マリアは、自分のお家がどこにあるのか、分かるかな?」
顔色を窺うのではなく、相手を気遣った優しい言葉。他人に対して、こんな口
調で話す自分を感じたのは、男にとって久しく覚えのないことだった。
「マリアは、宙からきたんだよ。だから、お家はないの」
マリアが本当に天使であると思った訳ではないが、予想通りの答え。何か深い
事情があるのかも知れないが、少なくともいますぐには、マリアの口から人とし
ての身元の分かる答えは訊き出せそうにない。
「それじゃあ仕方ないな………俺の家に来るかい? 女の子の服はないけど、俺
のでよければ着せられる。だいじょうぶ、変なことはしないから」
「ヘンなことって、なあに?」
「えっ………それは………」
つい男の頬は熱くなってしまう。余計なことを言ってしまったと思う。
「うん、マリア、あなたのお家に行く」
そんな男の様子を気にすることもなく、やはりマリアは笑顔で答える。
「よし、そうしよう………あ、それからあなたじゃなくて、俺の名前は………」
男はマリアに自分の名を名乗る。すぐさまマリアの唇から、その名が繰り返さ
れた。その瞬間、男は最高の至福の中にいるような気がした。
マリアが男の車に乗り込んだとき、ラジオからは先ほどとは別のクリスマス・
ソングが流れていた。
歌詞を知らないのだろう。マリアは歌に合わせて、楽しそうにハミングを始め
る。
静かに走り出した車の中で、聴きたくなかったはずのクリスマス・ソングをマ
リアに合わせて口ずさむ男がいた。
君の笑顔がなければ
ぼくはまだ知らなかったはず
人の心の温かさを
生まれてきた幸せを
来年も 再来年も
五年後も 十年後も
君とクリスマスを迎えられたら
どんなに素敵だろう
もしその願いが儚く消えても
ぼくは決して忘れない
きみと共に在ったあの時間
残酷な死がぼくの命を奪おうと
世界の破滅がぼくらを分かつとも
君とぼくが出逢った事実は
消えたりしないのだから
ぼくは思う
ぼくのいままでの人生は
君を探すためのものだったと
ぼくのこれからの人生は
君と過ごすためのものなのだと
●出演●
マリア
藤井 駿
西崎 愛美
愛美の父 愛美の母
岡野 良太
岡野 美璃佳
桂木 雪乃
北原のおじいさん 北原のおばあさん
北原富子 光太郎
リュアナス
岡野恵美 ヤクザ者 太った男
稲田 『満天』女将 『満天』常連客
(民生委員)
茶髪の男 ガムの男 小児科医
戸田医師 婦長 看護婦たち
デパートガール 駅員 ファミレスの親子連れ
(案内嬢)
由菜 香 男の子たち
もう一人のマリア マリア マリアたち
(幼児期)
ママ G−36001 A−101754 F−4403
(マム) A−60115 H−74773 Z−99231他
自殺未遂の男
●特別出演●
涼原 純子
相羽 信一
相羽の母親
唐沢
『そばにいるだけで』シリーズ
寺嶋公香 作より
●制作協力●
永山 智也
寺嶋 公香
●制 作●
悠歩
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■■□□□□□□□□□□□□□□□□□■■
■■□ 『遠い宙のマリア』 □■■
■■□ --Tooi Sorano MARIA-- □■■
■■□ 【59億分のいくつかの物語】 □■■
■■□□□□□□□□□□□□□□□□□■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
完
#4340/5495 長編
★タイトル (RAD ) 97/12/24 2:20 (188)
『遠い宙のマリア』--Tooi Sorano MARIA--(後書き) 悠歩
★内容
『遠い宙のマリア』あとがき。
如何でしたでしょうか。
悠歩のクリスマス物語第四弾。
四作の中では、最長の物となってしまいましたが、最後まで読んで頂けるのか
不安を抱えたアップとなりました。
このくらい続けると、ようやく「恒例」と言われても恥ずかしく無くなったよ
うな気がします。
さて、これを読んで下さっていると言うことは、本編も読んで頂けたのだと思
います。それとも、これからでしょうか。
とにかく、ここからは過去のクリスマス作品のことや、今回の作品について、
思いつくまま書こくことにします。よろしければ、いましばらくおつき合い下
さい。
『後継者たち』1994年。
悠歩のクリスマス物語の、記念すべき第一弾。
きっかけは前の年の12月、ある雑誌社のネットの小説SIGで出会った作品
でした。未来の世界のサンタクロースを描いた小説。
それを読んで、私も来年のクリスマスには、何かサンタクロースを使った物語
を書いてみようと思い立ったのです。
そして翌年、夏の終わり頃からだったでしょうか、製作を始めたのが、拙作、
『後継者たち』でした。
コンセプトとしては、サンタクロースを使うこと。そして、現実にあるどうに
もならない出来事を折り込んで行こうと言うこと。
当初、四人の子どもたちが目にした四つの出来事。これに対し、全く子どもた
ちは無力のまま終わる予定でした。救いのないクリスマスを描くつもりだった
のです。それが何故かあんな形になりましたが(笑)
『後継者たち』と言うタイトルは、なるべくクリスマス物語を事前に悟られぬ
ようと付けました。
『サンタクロースはヒットマン』1995年。
前の年の『後継者たち』が思いの外、評判がよく二匹目のドジョウを狙ったと
作品と言ってもいいでしょう。
前年同様、クリスマスと結びつきの遠そうなもの、と考え選んだのがヤクザ。
ヒットマン(殺し屋)を中心にした物語、を書こうと思い立った作品。
しかし狙いすぎたのでしょう。前年に比べると不評でした。
特にあのラスト、私としては含みを残したつもりだったのですが、単に夢オチ
としか取れない形になってしまいました。
どうも作品を書く上で邪心を持ってしまったものは、結果が良くないようです。
この作品から、イヴの日に発表する形となりました。
『雪舞い』1996年
前年の不評を受けて書いた、第三弾。
失敗のまま終わるのが悔しくて、書くことだけは決めていたのですが、物語が
なかなか出来ない。
早いうちから、オカルト的な物語にしようとだけ、考えていました。それが春
頃、イメージとして夜の古寺、墓場で踊る妖怪たち、それを見ている幼い兄妹、
そして後ろにはクリスマスのイルミネーションに輝く街。
と言うものが出来ていました。ところが、具体的な物語となると、さっぱり浮
かんで来ない。悩んでいるうちに夏となり、秋となり………
そこでようやく、ホワイト・クリスマス………雪、雪女の物語にしようと、思
い立ちます。
無理矢理サンタクロースと結びつけてしまったことが、少々自分でも心残りと
なりましたが、それなりに私らしさの出た作品になったと思っています。
そして。
『遠い宙のマリア』1997年。
『雪舞い』を書いているとき、既に次はSF的なものをと考えていました。そ
の時はスペース・オペラを想定。
しかし私が本格的なSFを書いたところで、それを専門に書いて来た方々には、
とても太刀打ち出来ない。そこで映画『クリスマス・ツリー』にSF的要素を
加えた物語は出来ないだろうか? それで出来たのが今年の『遠い宙のマリア』
です。結果を見れば、映画『ニューヨーク東八番街の奇跡』みたいな作品になっ
てしまいました。
全体的には、盛り上がりに乏しい作品になってしまったかも知れません。
そう言えば昨年の『雪舞い』の感想でも、薫さんからそうようなことを言われた
覚えがあります。結局私の作風が会話や、独白部分に時間を掛けてしまうところ
に原因があるのかも知れません。
今回初めての試みとしてPC−VANのSIG、AWC(アマチュア・ライター
ズ・クラブ)を中心に活躍されている、寺嶋公香さんの協力を得て、同氏のシリ
ーズ作品、『そばにいるだけで』のキャラクターたちに登場願ったことが特筆さ
れます。
発端は同SIGにアップした拙作【迷昧】の製作。
96年の冬、永山さんから私の作品についてメールで意見を頂く機会がありまし
た。永山さんはこのハンドルの他、幾つかのペンネームを使い分け、精力的に作
品を発表されている方です。そのメールをきっかけに、私が「いつか書く」と言
いながらなかなか手を付けなかった、推理物のジャンルへ、それを得意とされる
永山さんの力を借りながら挑戦することとなりました。
それが【迷昧】ですが、その製作途中、アドバイスを頂くために頻繁にメールを
やり取りしている中、思い切って永山さんへあるお願いをしました。
永山さんが寺嶋公香の名で書かれている、『そばにいるだけで』のキャラクター
たちを、今度のクリスマス作品で使わせてもらえないかと。
以前から、今年の作品には何か特別な事をしてみたい。誰か他の作家に協力して
もらえないだろうか、と考えていました。方法について、幾つか案があり、その
一つが、キャラクターを借りること。
ただこれには難点が有りました。漫画やアニメなど、直接視覚へ訴える媒体なら、
別の作品のキャラクターが登場すれば、すぐに分かります。ところが文字のみで
伝える小説では、誰も気が付かない可能性も高い。
その中で寺嶋さんの『そばにいるだけで』は、現在も進行中の長期シリーズであ
り、AWCの中での知名度も高い。キャラクターたちや、世界観も素直で使いや
すい。何より私自身、このシリーズを楽しみにしているファンであること。
さらにはこのシリーズの番外編としてクリスマス作品を書かれていたこともあり、
そのことで私が秘かにライバル視していたこと(笑)もありました。
そして快諾を頂き、今回の拙作へ涼原純子、相羽信一らのキャラクターが拙作、
『遠い宙のマリア』に登場する運びとなりました。
製作に当たっては、楽しみが無くなると言う事で、物語については寺嶋さんにも
明かさず、『そばにいるだけで』のキャラクター・シーンのみチェック頂く形で
進めていきました。その際、関連シーンのみ先に進めると言うことはなく、私の
通常のペースのまま寺嶋さんにおつき合い願ったため、大変ご迷惑をお掛けしま
した。
寺嶋さんにはこの場を借りて、お礼申し上げます。
『遠い宙のマリア』登場人物について。
マリアと駿については、ほとんど苦労なく設定が作れました。元々、物語を作っ
た時点で同時に出来ていましたから。マリアのネーミングについては、説明する
までもないでしょう。読んで下さった方の、想像通りです。
岡野良太・美璃佳の兄妹。
この兄妹の設定は、先に述べました昨年の『雪舞い』が決まる前の予定。妖怪と
兄妹の話に考えていたものです。
書き始めた当初は、良幸と茜と言う名前でした。けれど「よしゆき」と発音して
みて、幼い子どもを想像しにくいのではないか? と考え良太(りょうた)へ変
更。茜が美璃佳に変わったのは、そのついでです(笑)
それに伴って、そこまで書き進んでいた部分も名前を差し替えるのではなく、最
初から書き直すことにしました。
良太は家庭の事情により、年齢よりもしっかりしたところのある男の子。と言う
設定なのですが、美璃佳に比べて描写不足だったように思われます。
この兄妹こそ、過去三作に於いても私が拘ってきたものを、本作に引き継いだキ
ャラクターと言っていいでしょう。
クリスマスにそぐわない物をクリスマス物語に折り込む。『後継者』では少女売
春や戦争、被爆した子ども。『サンタクロースはヒットマン』では殺し屋。
『雪舞い』では妖怪。そして本作では、親に愛されない子ども。今回、別に何か
を訴えようとしているつもりはありません。ただこういった事もあるのだ、そう
した子どもたちがどんな想いをしてクリスマスを迎えているのだろう。そんな事
をいち素人書き手として物語にしてみたかった。それだけです。
「子どもを愛さない親がいるものか」ドラマや小説ではよくある台詞です。けれ
ど悲しい事に、この台詞は正しくありません。事実この作品が書き上がるまでの
期間、一年ほどの間に何人もの幼い子どもが、実の親の手に掛かって命を失って
います。生まれたばかりの赤ん坊が、母の手で命を断たれています。
私の作品の中の兄妹は幸運にも救われますが、書きながらこれらの報道を耳にす
るのはさすがに心が痛むものがありました。
西崎愛美。
作品を書き出す前、若葉荘の住人について設定した中で一度ボツにしたキャラク
ター。他にヤクザ者とか新興宗教の信者とか、あったんですけど。
愛美がボツになった理由は、良太たち兄妹と境遇に重なる部分があること。とこ
ろが寺嶋さんからキャラクターを借りる話がまとまった時点で、彼女らを本作品
に絡めるための仲介者が必要となりました。作中の美璃佳が迷子になるエピソー
ドは早い時期に決まっていたのですが、それだけでは弱い。良太たちの母親と、
相羽信一の母親が、仕事上の昔なじみだったと言うアイディアを寺嶋さんから提
供しても頂きました。がそれだけでは『そばにいるだけで』のキャラクター、特
に信一が本作に深く関わる理由が少し弱い。で、信一に仄かな想いをよせるとい
う設定で愛美を復活させました。
『そばにいるだけで』のキャラと絡めない、一度ボツにした設定では愛美は小学
生になるはずでした。が寺嶋さんとの話がまとまったとなると、純子たちと同学
年であった方がいいだろうと考えました。当時『そばにいるだけで』のキャラク
ターは小学六年でしたがクリスマスには中学一年生になっている。そんな訳で、
愛美も中学一年生に。
結果として作品がこれ程長くなったのも、この愛美の復活による部分が多い(笑)
けれど私としては愛美の復活も、学年の変更もいい結果だったと満足しています。
その分北原の老夫婦の出番も、削られることになりました。
ちなみにこの愛美のキャラクターは事前に寺嶋さんの『そばにいるだけで8』を
始め、同シリーズに直接的・間接的に登場させて頂いています。或いは同シリー
ズのファンの方は、なかなか本格的な出番のない脇役だと、不思議に思っていた
かも知れません。
北原の老夫婦。
これまで私の描いてきた物語の大半は、若い世代のキャラクター、主に子どもを
中心にしてきました。一方で悠歩は年配のキャラクターが描けていないという意
見を頂くことがあります。これは偏にまだ私が若いから(笑)
時代が変わり、流行りや考え方も変わっても一度自分の通って来た道はなんとか
想像出来るのですが、これから(当分先だけど)迎える道は想像しにくい。それ
を打破すべく用意したキャラクター。当初から登場させる事が決まっていながら、
設定については一転二転、なかなか詳細の決まらなかったものです。愛美の復活
でだいぶ出番を削られる事にもなりましたし。印象の弱い存在になってしまった
ことは否めません。
来年の抱負について(笑)
多少長くなることは予想していましたが、『遠い宙のマリア』は昨年の『雪舞い』
の四倍近い文章量となってしまいました。どうもこのシリーズ、書く毎に長くな
って行く傾向があるようです。
あと一作で五作と区切りのいいところ。ですがいまのところ、五作目を書くかは
未定です。遅筆のくせに、こうも物語が長くなってしまうと一年の殆ど、クリス
マス用作品に費やしてしまうことになります。それにこれだけの長編を無名の素
人が発表したところで、読んで下さる人がどれだけいるのかという不安もありま
す。これは毎回感じていることでもありますが。
とは言え、書くこと事態は好きなので、クリスマスでなくても何らかの形での作
品発表は続けて行くつもりです。
皆様とはまた、次作でお会いできたらこんな嬉しいことはありません。
最後までおつき合い頂き、ありがとうございました。
よろしければ感想・ご意見を下さい。
1997.12.24 悠歩
#4341/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:36 (198)
そばにいるだけで 18−1 寺嶋公香
★内容
メイクを直してもらいながら、注意を受ける。
「何て言うかな。もう少し、ミステリアスで、それでいてピュアな表情がほし
いんだけどな」
対して、純子は心持ち上を向いた姿勢のまま、「はい」とうなずくこともで
きない。
ポスターの撮影は、長く、暑かった。
「テレビコマーシャルのときみたいな顔、できない?」
照明だけでなく、慣れないかつらに頭の表面が蒸せる。
「やっぱ、無理してでも、ムービーと同じ日に片付けた方がよかったんじゃな
いかねえ?」
「その方が手間は省けたよな。スチールとムービー、全然違うならともかく」
外野で囁き合うスタッフの声が、嫌でも耳に入る。あるいは、わざと声高に
言っているのかもしれない。
ここで言うムービーとは、テレビコマーシャルを意味する。スチールは、今
やっているポスターのこと。最初、何の話なのか分からなかった純子だが、撮
影に通う内に段々と理解し、覚えてしまった。
(そんな風に言われても……)
言い返すのは、体勢的にも精神的にも難しい。
(何もかも一発でうまく行くはずないのに……)
メイクの手直しが終わった。
顔を撮影監督やカメラマンの方に向ける。
「……だめ。疲れた感じが出ちゃってる」
カメラマンが人差し指二本で、ばつ印を作った。
純子は、胸がずきんとした。何度も経験しただめ出しだが、今日はことさら
堪えるよう。
「同じことの繰り返しで、飽きちゃったか?」
純子は首を横に、かすかに振った。
七日で終了のはずが変更となり、今日の日曜日で、全てを終える予定になっ
ている。数パターンのポーズがあるとは言え、昼間から始まった撮影は時間を
要していた。
監督が断を下す。
「しばらく休憩にしよう。純子ちゃん、しっかり休んで、前みたいないい顔に
なってよ」
黙ったまま、こくんとうなずく純子。返事の声が出なかった。
壁際までとぼとぼ歩いて、一旦立ち止まる。
目の前の白い壁に手を触れ、ため息をついた。
愚痴がこぼれそうになるのを我慢して、また歩き出す。他の人がいると、気
になって落ち着かない。控え室に戻ろう。
純子に与えられた部屋は、曲がりなりにも個室である。自分一人になれるの
は、今はありがたくも寂しい。
鏡を前に、椅子に座った純子は、自分の顔を少しだけ見つめた。
(……疲れてるね。楽しくない顔してる)
見続けるのに嫌気が差し、純子は腕枕を作ると、うつぶせに頭を乗せた。
今日は、誰も着いて来てくれてない。最初の頃はできる限り来てくれた母は、
もう慣れただろうと判断したらしく、娘を一人で送り出した。相羽の母も別の
仕事があって無理。いつも優しい言葉をかけてくれる美生堂の中垣内の姿も、
今日はない。代わりに来た人は男性で、ずっとむすっとしている。
一人なんだと自覚させられる状況にあった。
泣きそうになっても、こらえなくてはいけない。目を腫らしては、さらに撮
影を遅らせるだけ。
(休憩してても気分転換にならないよ……。郁江達とお喋りしたい。そうした
ら、少しは気が晴れて)
そう願った折、扉を静かに叩く音がした。二度、こんこんと。
「はい?」
もう休憩終わりかなとも思ったが、それにしてはノックの響きが優しすぎる。
純子は訝りながら、椅子を離れた。
「どうぞ、開いています」
そう言ったけれど、自らノブへ手を伸ばしていた。
「あ−−」
ドアを開けた純子と、向こうにいた訪問者は同じ反応を見せる。
「涼原さん」
「相羽君−−どうして」
「涼原さんだよね、やっぱり?」
相羽の台詞は、どこか妙だった。
手で示されて、純子は頭を軽く押さえる。
「ふふっ、かつらよ、これ」
急にこみ上げてきた愉快な気持ち。純子は相羽を見つめまま、招き入れた。
「そんなに見違えたかしら?」
「いや、一目で分かったけど。あまりにも似合ってて、びっくりした」
相羽の口調は真面目なものだったが、純子は少しむくれる。
「どうせ私は、男装が似合いますよっ」
「ち、違うよ。そういう意味じゃなくて……髪、短くしても、似合うんだなっ
て思ったのにな」
「ほんとにー?」
手を腰の後ろで組み、疑る風に上半身を前屈みにすると、純子は相手の顔を
覗き込んだ。
「本当だって。だけど、髪を切った方がいいと言ってるわけじゃないから」
「それぐらい、分かってるわよ」
相羽に座るよう促し、純子も元の場所に腰掛けた。
一瞬、間ができた。
「あの」
全く同時に、同じ言葉を口にして、また閉ざす。
「何?」
「あ、ううん、大したことじゃないから。相羽君から言って」
「いいの? ……僕の方も別に大した話ではないけど、いや、大した話かもし
れない」
「何を言ってるの?」
「えっと。大丈夫? スタッフの人から、ちらっと聞いたよ。最終日、だいぶ
絞られてるみたいだ」
「……そうなのよね」
太股の上で指を絡め合わせ、その手をじっと見つめる純子。普段なら、強が
ってみせたかもしれない。だけど、心細くなっていたときに来てくれた友達に、
無意識の内に頼りたくなる。
「自分ではこれまで通りにやっているつもりでも、周りの人達には、そうは映
ってないの。前と違うって」
「疲れてるんじゃないか?」
「しんどいというか……あのね、今、振り返ると、これまでは多分、何もしな
かったの」
「え? 意味、分からない」
わずかに眉を寄せる相羽。
「これまでは勢いだけでやってきた。笑うのだって、何も考えずに、本当に笑
えてた気がする。それなのに、今日は……作っちゃう。こんな風に」
と、純子は指で口の両端を吊り上げた。突然の行動に驚いたらしくて、相羽
の目が見開かれる。
「無理矢理笑ってるみたいな気分。楽しくないのに、笑うのって、難しいよね」
「当たり前だね」
事情が飲み込めてほっとしたのか、相羽は表情を柔らかくしていた。
「僕も、そんなのできない。したくないしさ」
「あの……こんなことまで言うつもりじゃなかったけれど……一人で、心細か
った。来てくれて、ありがとう。今の自分、凄くほっとしてる」
改めて相羽を見つめてから、純子は深く頭を下げた。自分の膝小僧に額が着
きそうなぐらい。
「やめなよ。そんな大層なことじゃないだろ。ま、目的は達成したかな」
「目的? そう言えば、あなた、何でここに? 用事があったの?」
面を上げた純子から、相羽は視線を逸らしてしまった。
「新人タレントさんを励ましに来たんだよ」
「え、誰か来てるの、有名人?」
「えっ?」
立ち上がりかけた純子を、相羽は慌てた手つきで押しとどめる。
「な、何よっ」
「か−−勘違いするなって」
胸を押さえる相羽。何を苦しがってるのかと思いきや、笑いをこらえている
らしかった。
(また笑う!)
訳が分からなくて純子が恐い目つきをすると、相羽は息を整えてから言った。
「新人タレントって、君のことだよ。もう、気付くと思うけどなあ、普通」
「なあんだ……って、私? とんでもない!」
顔の前で片手を激しく振る純子。
「タレントじゃないわ。所詮、アルバイト」
「……そうは見てくれないよ」
不意に静かな口調になった相羽。心持ち、姿勢も正されたみたい。
純子も急いで居住まいを正した。
「多分、スタッフの人達は全員、涼原さんをプロのタレントと見なしている。
経験が多いか少ないか、ずっと続けるのか今回限りかなんて、まるで関係ない。
一緒に仕事をするからには、みんなプロの仕事をするし、タレントにもプロの
仕事を期待する、要求する」
厳しい言い方だった。
だけど、純子は目が覚めたような気がしてくる。目を伏せ、これまでの自分
を思い起こしてみると、最初の頃は度胸と開き直りでカバーしてきたものが、
そろそろ通用しなくなってきたらしい。
(本当に好きでやらなくちゃ、だめなんだわ。ごまかしていたら、いつかはば
れる。当たり前なのに、気付かなかった)
気付かせてくれた相羽に、感謝を示そうと口を開きかけたが、それよりも相
手の方が早かった。
「−−なんてね。なーんにも働いてない僕が言っても説得力ないよな。これま
で、たまに母さんに引っ付いて、こういう撮影の現場を見せてもらう機会があ
ったから、そのとき見たり聞いたりしたことの受け売りだよ」
そう語る表情は、いささか照れくさそうだ。
純子は相羽の手を取って、首を横に何度か振った。そして、戸惑いが露な相
羽を相手に、元気よく言う。
「ううん。そんなことない。私、少しは分かったような気がするわ。もっと今
のお仕事、好きにならなくちゃね。興味だけじゃなく、本当に好きでモデルを
やるようにする」
「い、いや……それも困るんだけど」
「どうして困るのよ、相羽君が?」
純子の質問に相羽が答えるのを逡巡していると、外から呼び声がかかった。
「純子ちゃーん! そろそろ始めるよ! 五分後、いいね?」
「あっ、はーい! 分かりました!」
ドア越しに返事してから、相羽の手を離した純子。
「今日は来てくれて、本当にありがとう。ほんとは郁江や久仁香や、芙美とも
お喋りしたかったけど、今やってることは秘密だもんね」
「僕だけでは役不足か。仕方ない」
肩をすくめて立ち上がった相羽に、純子はすぐに言った。
「感謝してる、相羽君。言葉で伝えきれない」
機嫌を直したのか、相羽はふっと笑みを漏らす。
「よかった。さ、もう少し、頑張れっ」
「もちろん」
本当の笑顔になって、純子はドアのノブに手をかけた。
−−それからの撮影で、純子はすぐにオーケーをもらった。
と言っても、一発オーケーではなく、二度目に。
一度目がだめになったのは、スタジオの隅から相羽が見ているのに気付いて、
少しだけ緊張してしまったせい。
家まで送るという市川らスタッフの誘いを丁寧に断って、純子は相羽と二人、
電車に乗って帰ることにした。
「つ、冷たいっ」
プラットホームに立つと、冬の風に首をすくめる。撮影の間中、体調には充
分注意するようにと言われ続けたためもあって、首にはマフラーを巻き、ダッ
フルコートの両ポケットには使い捨てカイロを入れてあるのだが、それでも少
しばかり寒く感じる。
「車で送ってもらえばよかったのに」
風上に立つ相羽は遠くを見つめながら、ぽつりと言った。彼のコートは学校
指定の青っぽい物。
「いいの。そういうのって、いけないと思ったから。中途半端なことしかでき
ない自分が、送ってもらおうなんて」
「……僕の言葉が効きすぎた? それぐらい、いいじゃないか」
「いいんだってば。撮影は終わったんだから、一度、すっきりと何もかも忘れ
たかったし」
「うん、その気持ちなら分かる」
納得できて嬉しいのか、微笑する相羽。身体を、純子の方に向けた。
「……何、見てるのよ」
相羽の視線を感じ、聞き返す純子。どうにも居心地が悪い。
「涼原さんは長い髪の方がいいかなあって思ってた」
「変なこと言わないで」
頭を自分の手で押さえながら、抗弁する。何故かしら、顔が赤くなるのを意
識した。
−−つづく
#4342/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:37 (200)
そばにいるだけで 18−2 寺嶋公香
★内容
「ここのところ、かつらを被ったり脱いだり。その上、自分の毛もヘアスタイ
リストの人に触ってもらってたから、自分の髪型って、元はどうだったか忘れ
てしまいそうよ」
「あはは。そういうもの?」
相羽が声を立てて笑うと、それをかき消すようにアナウンスがかかった。電
車が金属の軋む音をさせながら、滑り込んでくる。
「行こう」
車輌の中は狭苦しい印象。休日とは言え夕方のこの時刻、混むものらしい。
相羽は昇降口脇の角に素早く潜り込むと、純子を手招きして、立つ位置を入
れ替わる。そして、陣地を宣言するかのように、左手を閉じたドアに当て、右
手で椅子から垂直に伸びる手すりを掴む。
思ったよりもスムーズに、電車は動き始めた。車内放送が終わってから、純
子は礼を言う。
「あ、ありがと」
「ん? 何が」
きょとんとする相羽に、純子は心中、首を傾げる思い。
(あれ? 違ったのかな? てっきり、私のために場所を取ってくれたのかと
思ったんだけど)
少し気になるものの、人の多くて騒がしいこんな場で、しかと確認するほど
の疑問でもない。純子は追及をやめ、喉元に手をやった。暖房の入った車輌の
中、マフラーをしていては暑すぎる。
「持とうか」
「え、いいわよ」
外したマフラーを丸めて抱える純子。
(これじゃまるで、恋人同士に思われるかもしれないじゃない。人の目がある
んだからね)
まさかとは思いつつ、周囲に目を走らせる。知っている人の姿はないと確か
め、ほっと一息。
「ねえ、相羽君。さっき、かつらを被った私を見て、一目で分かったって言っ
たわよね」
落ち着いたところで、気になっていたもう一つのことを持ち出す。
「うん」
「他の人も分かると思う?」
「さあ……。さっきの場合、僕は、涼原さんが控え室にいるって前もって聞い
ていたからね。それで分かったのかもしれない。分かった方がいいわけ?」
「うーん、それが迷うところなのよね。男の格好してるのを見られるのって、
どうしても恥ずかしさが着いてくるから……。女の子ヴァージョンは、顔が見
えないから気付かれないでしょうし」
「あ、そうなのか」
どことなく安心した顔つきになる相羽。純子は意外に感じながら尋ねた。
「相羽君、お母さんから聞いてないの? どんな風なコマーシャルなのか」
「うん。母さんだって、深く関わっているわけじゃないからかな。それで−−
出来はどうですか?」
相羽の口調が、急にインタビュアーめいた。右手を手すりの棒から離し、あ
たかもマイクを持っている形を作って、純子の目の前に差し出す。
思わず純子は吹き出した。
「−−っぷ。何やってんのよ」
「えっと、そうだね。言いたくないことでも、こうすれば言わざるを得なくな
るかなと思って」
相羽自身、苦笑していた。
と、突然、電車が速度を落とす。立っている者のほとんどが、がくんと身体
を傾ける。皆、つり革や手すりを持っているから、大きくバランスを崩すこと
はない。
だが、相羽にとっては、タイミングが悪かった。
「あっ」
声を出したのは、二人とも。
純子はとっさに手を前に出しかけるだけで精一杯。
(ええっ、嘘ぉ)
迫ってくる相羽に、純子は一瞬、小学六年生のときのハプニングを思い出す。
しかし相羽も、同じ轍は踏まなかった。
「−−あ、危なかった」
目前で止まった相羽。
純子が見上げると、彼の右手の指が、少し捻れたような形で網棚に引っかか
っていた。
純子達がほっとする間もなく、先ほどの駅とは反対側のドアが開き、人の乗
り降りが始まって、やがて収まった。程なく、車輌が動き出す。
「あと四駅か」
体勢を立て直した相羽が、また流れ出した景色を見やり、つぶやく。
「腕、どけてほしいんだけど」
相羽の左腕に視線を合わせ、純子は言った。
「さっきみたいにぶつかりそうになるの、嫌ですからね」
「なるほど」
納得した相羽が手を引っ込めると、純子は身体の立つ位置をずらして、ドア
にもたれかかった。
「そっちに立つのはいいけれどね」
突然、相羽の口元に笑みが浮かぶ。
純子はきょとんとしつつ、次の言葉を待った。
「ドアが開いたら、危ないよ」
「それぐらい、気を付けるわよ。駅に着いたときだけなんだから」
「甘い」
相羽の指摘に眉を寄せる純子。奇跡的に、しわはできていない。
「どうして?」
「あまり知られていないけれど、走行中の車輌のドアが開いてしまう事故が数
件、今までに起こっているんだ」
「……冗談でしょ」
そう言いながらも、背をドアから浮かす純子。
ふと気付くと、周りにいる他の乗客も、心なしかドアから距離を取ったよう
に見える。二人の会話が聞こえたのかもしれない。
「恐がらせようと思って、そんなこと言って」
「いいえ、嘘ではありません。脅かす気はないよ。でも、注意するに越したこ
とはない」
「ちょっと。おかしいわ。走ってる電車の扉が開いたら、人が落っこちて大事
故になるんじゃないの? それなら当然、ニュースで流れると思う……」
「これまではたまたま、昼間の乗客が非常に少ない時間帯で起こっているんだ。
人が落ちてはないみたいだよ」
「げ、原因は何なの、原因は」
近くの手すりを両手で持つ純子。
「電気系統の不良で片付けられたのがほとんどで、正確には原因不明になるの
かな。どうしようもない」
肩をすくめる相羽。
純子は相羽の方に一歩近寄った。
(これならいつでも掴めるわ、うん)
相羽の腕と横の手すりをじっと見つめる。
それに気付いたらしく、相羽はくすくす笑い始める。
「心配なら、手をつなごうか−−なんて言ってみたりして」
「け、結構よっ」
純子がぷいと横を向いても、相羽はまだ笑っていた。
「もしものときは、絶対に助けるから。反射神経、いいんだ」
自信満々の彼の口ぶりに、純子は安心を通り越して、呆れそうになる。
「相羽君、あのねえ。私、くたくた。そこへさらに疲れる話、しないでよ」
「それはどうも、失礼しました」
やけに丁寧に答えると、相羽は押し黙り、ただ目を細めて、車輌内を見渡す
仕種を始めた。周囲は冬の装備をした大人が大半で、皆、背を少し丸めている
感じがある。
(あんな見回して、何をやってるのかしら)
純子の疑問に対する答は、すぐに示された。
電車のスピードが緩くなるのと同時に、相羽はいきなり純子の手を引き、人
と人の間を何度かすり抜け、ある座席の前まで案内をする。座っているのは高
校生らしい制服を着た、それでもいくらか老け顔の男性。
駅へ入り、電車がいよいよ止まり出すと、絶妙の間でその高校生が立ち上が
った。そのままドアへ向かう。
「さあ、どうぞ」
できた空間を、相羽が示す。
「早くしなよ。取られちゃうかも」
そっと押されて、純子は状況がよく分からないまま、座った。
「どうして分かったの、ここが空くって? さっきの人、ぎりぎりまで立ち上
がる気配、なかった」
ドアが開き、人混みに紛れて高校生が降りて行く。
「朝、登校しているときなら、高校の制服から学校の最寄りの駅が分かるから、
判断できたかもしれないけれど、今はそうじゃないわ」
「もっと単純さ。観察してたら、さっきの高校生、定期券をポケットから出す
のが見えた」
「なあんだ。ほんと、単純ね」
「だから種明かしは嫌なんだよ」
その次の駅を出る頃には車内の混雑は解消され、純子の隣の席も空く。
「座らないの?」
「座っていいの?」
妙なところで遠慮するなぁとおかしく思いつつ、純子は隣のシートをぽんぽ
んと手の平で叩いた。
「はい、どうぞ」
「あと二駅だから、どっちでもいいんだけど」
でも、相羽は座った。
「ええっと」
話題を探すように、天井を見る相羽。
「改めて聞くけどさ、コマーシャルの出来、どうなんだろ?」
「実はまだ、何にも分からないのよね。完成すれば、試写会やるって言ってた」
「そうなんだ? ……観てみたいな」
明後日の方向に視線をやっている相羽。
「テレビに流れたとき、観ればいいでしょ」
「うーん……母さんに頼もうっと。何とかして、潜り込んでやる」
小さな子供がするように唇を尖らせ、相羽は言った。またまた呆れて、純子
はため息。
「先に観たって、何の得にもならないのに」
歌を唄う、いや好きな曲を聴くだけでも気が紛れるかもしれない。純子はそ
う思った。
けれど、プレーヤーに手が伸びることはなく、体育座りをして、自室の壁に
もたれかかる姿勢のまま。
(何でこんなときに、お母さん、出かけちゃうのよ)
首を伸ばし、窓の向こうを見ようとした。
と、そのとき、ごろごろという音が遠くでしているのが分かった。
「やあん。始まっちゃうのかなぁ」
声に出し、首をすくめる。
先ほど見えた暗雲が、脳裏のビジョンとして膨らんでいく。目を閉じ、耳を
塞いでも、悪い想像は鮮明な絵と音として、純子の内で序曲を奏でる。
(雷なんか……恐い)
布団を頭から被って、寝てしまえば、雷が鳴っても大丈夫だろう−−こんな
アイディアが浮かんだが、今の純子はやがて来るであろう雷に怯えてしまって、
とても寝られそうにない。
(せめて、一人じゃなかったら……)
思考を中断する形で、不意に別の音がした。
純子の願いが通じたわけでもあるまいが、玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。
ドアを開けたくないと思いつつ、純子はやむなく立ち上がり、玄関へ小走り
で向かった。
「ど……どなたですか」
口に出しながら、ドアに付いた覗き窓で、見てみる。
「相羽君?」
思わず、叫び気味に言った。
(何の用? こんな、天気が崩れそうなときに来るなんて)
訝りながら、もう少しだけ様子を観察。待ちかねた様子で、再度、呼び鈴の
ボタンに手を伸ばす相羽の姿が分かった。
「相羽君、何?」
急いでドアを開けた。
勢いのよさに、相羽は驚いたらしく、目を白黒させている。
「何の用? 早くして」
「−−これ、持って来たんだ」
気を取り直した風に、相羽は手に提げた鞄から一冊の教科書を取り出した。
数学だ。
「何よ、それ」
「名前を見たら分かるけど、涼原さんの本だよ」
「ええ?」
手に取ると、確かに自分の名前がある。いつの間に?と戸惑う純子に、相羽
は苦笑いしながら言った。
「僕の教科書は、涼原さんが持ってると思うんだ。それ、確かめてほしい」
「あっ。分かったわ」
きびすを返し、二階に上がる純子。今日、授業があったので、数学の教科書
は鞄の中だ。
(あった。−−本当、相羽君のだ)
−−つづく
#4343/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:39 (200)
そばにいるだけで 18−3 寺嶋公香
★内容
それを胸に抱き、階段をとんとんとんと慌ただしく駆け降りた。
「学校で、入れ違ったのね?」
「多分ね」
教科書を交換。持ち主の元に戻った。
「でも、わざわざこんなときに、持って来なくたって」
「宿題が出てたから。一応、自分の教科書があった方がいいかなと思ったんだ」
そう言うと、相羽はわずかに首筋を伸ばし、家の中を窺う仕種を見せた。
「今、留守番しているの?」
「え、ええ。お母さん、買い物で……」
「気を付けなよ。案外、物騒だから」
「相羽君も帰りは−−」
気を付けなさいよねと言おうとしたら、自然がそれを邪魔してきた。
「きゃあっ」
空がついに光った。少し遅れて、とどろく雷鳴。
身を縮め、頭を両手で押さえる純子に、ドアの閉まる音が聞こえた。
相羽が何も言わずに帰ったのかと思ったが、違った。
「……相羽君?」
「こうすれば音が小さくなるから、少しは恐くなくなる?」
「う、うん」
口ではそう言っても、次にいつ稲光があるか、いつ雷鳴がするかと身構えて
しまって、心中穏やかでない。
「じゃ、僕も、雨が激しくならない内に、帰らないと」
相羽は手提げ袋に教科書を入れ、折り畳みの傘を取り出すと、手際よく開こ
うとする。
「待って」
「え?」
相羽が振り返るのを、純子は手で口を押さえながら見た。
(あれ? どうしてこんな呼び止めたんだろ?)
そんな疑問に答えるのは、雷だった。お腹の底から震えさせるような低音が、
一気に伝わる。
「ううっ」
気を抜いた直後に来た。不意打ちを食らった形の純子は、身をすくめ、変な
うめき声を出してしまった。
「……涼原さん、大丈夫か?」
「え、えーと。だ、大丈夫、じゃないかもしれない……」
「……上がっていい?」
相羽は、不安そうに聞いてきた。声量が小さくなったような。
「涼原さんがいいんだったら、雷が鳴らなくなるまで、僕がここに残ったらど
うかなと思ったんだけど」
「う、うん。お願い。上がって」
頭の中がごちゃごちゃ、もやもやしたまま、純子は相羽を招き入れた。
あとから理屈を考える。
「えっと。宿題、一緒にしましょ。ね。折角だから」
「うん。−−どうしたの?」
二階に行こうとして、純子はぴたっと足を止めた。後ろからついて来ていた
相羽が、その拍子にぶつかりそうになる。
(宿題やるとしたら、私の部屋? 相羽君を、男の子を入れるの? 全然、気
構えができてないっ)
焦って、考えがまとまらない。
(これまではどうしてたっけ……。そっか。相羽君をうちに上げるのも、今日
が初めてなんだわ)
何故かしら高鳴る鼓動を、胸に手をあてがって押さえ込もうとする。
「涼原さん? 聞こえてる?」
「あ、はいはい。聞いてます。台所に行ってて。そっちだから」
手で指し示すと、自分は階段を上がっていった。一応、スカートの裾を気に
しながら。
ノートと筆記用具を持って戻ってくるなり、純子は吹き出してしまった。
「な、何でそんなところにいるのよっ」
流しにもたれ掛かるようにして、食器棚を眺める様子の相羽がいた。
「だって、台所にいろって、君が言うから」
「ああ、もう。台所じゃなくて、ええっと、食卓よ、食卓。ほら、座って」
世話が焼けると思った刹那、また雷が光った。
「−−」
あまりにびくっとしてしまった純子は、悲鳴にならず、表情を強張らせた。
その場でしばらく動けなくなる。
「す−−」
相羽の呼びかけをかき消し、今度は雷鳴。大きい。
立っていられなくて、フローリングにへたり込む。
「しっかりして。ほら、何ともない」
「……そ、そう言われたって」
心身に染み込んでしまった恐怖感は、なかなかぬぐい去れる物でない。
純子が起きないでいると、相羽が同じ体勢を取った。右横に並ぶ。
「どうして恐がるようになったの? 生まれつき?」
「……元から恐かったのよ。けど」
呼吸を整え、絞り出すようにして始める。
相羽が「うん。それで?」とうなずいた。
「けど、お父さんの田舎に帰ったとき、庭のすぐ前にある大きな木に、雷が落
ちて、凄い勢いで燃え上がって。それをまともに見たからだと思う。こんなに
恐がるようになったのは」
「ふうん。雷が落ちて、その木はどうなったんだろ?」
「重たい物がぶつかったみたいな音がして、半分に割れて、みしみしって……。
葉っぱや枝が、はぜながら燃えていったわ。割れた幹は、片方が完全に折れて、
地面に」
「うん、もういいよ。恐かった?」
「だって、一人だったんだもんっ。どうしていいか分からなくて、それに、次
は雷が家に落ちて、あの木みたいになるんじゃないかと思ったら……不安でた
まらなかった。落雷で人が死ぬこともあると聞いて、もう完全にだめよ。雷の
ときは、外に出られない」
「分かった。分かったから、落ち着いて。立てる?」
「……手を貸して。また光ったら、恐いから」
純子の頼みに、相羽は先に立ち上がると、手を差し伸べてくれた。
「ありがとう」
「これぐらいなら、お安い御用」
二人はそれぞれ座ると、教科書を開いた。
雷の間隔は開いたようだが、窓ガラスを打つ雨音が激しくなっていく。最初
は標準的なクラシックか民謡だったのが、ハードロックを思わせるビートに変
わっていた。
「相羽君、これ、ノート代わりに」
シャープペンシルと消しゴムに加え、ルーズリーフのファイルから五枚ばか
り外し、手渡す純子。
「サンキュ」
「あ、あの、お茶、入れようか」
「え、いいよ。どうして急に、そんなことを」
「ん……だって、これまで何度も言ったでしょう、お茶飲んでいかないかって。
なのに、いつも断るから。ちょうどいい機会だなと思ったの」
「言われてみれば、そうだっけ。最初は、去年の十一月」
頬をほころばせ、相羽はペンで自らの肩を叩いた。
純子も懐かしく思い出し、話に乗る。
「そうそう! あのときは雷はなかったけど、同じように雨が降ってて。傘を
持って来てなかったから、私、入れてもらったのよね、相羽君の傘に」
「あはは。あのときの涼原さん、最初は意地張って、雨がやむまで学校にいる
って言ってさ」
「何よー、意地っ張りはそっちでしょ。あのあと、風邪引いたくせに、元から
悪かったんだって、言い張って。あの風邪は絶対、雨のせいだわ」
「違うよ。本当に元から調子、おかしかったんだ。それよりも、風邪を引いた
せいで、劇に出られなくなって、君に凄い迷惑かけたことが」
「今さら、何言い出すのよ。もう終わった話でしょうが」
声を大きくする純子に、相羽はくすっと笑って、肩をすくめた。
「そうだね、終わった話だ。それを相も変わらず、意地を張り合ってる自分達
が、馬鹿みたい」
「……ほんと、強情なのはお互い様」
「前にも言った気がするけれど……お互い、進歩ないよな」
言って、宿題に没頭する様子を見せた相羽に、純子は不平を漏らした。
「そうかしら? ちょっとは変わったと思うけど」
「どこが」
「たとえばそうねぇ……相羽君は私の家に上がるの、遠慮しなくなった」
純子は笑って、相羽は不思議そうに瞬きする。
「初めてでしょ、うちに上がったの」
「何だ、気付いてたのか」
頭の後ろで両手を組み、力が抜けた様子の相羽。
「あんまり自然に上げてくれるもんだから、気が付いてないんだと思ってた。
よっぽど雷が恐いんだなあって」
「恐いのは本当よ。だから、思わず……」
「僕だって、無遠慮になったわけじゃないんだけどな。涼原さんの恐がりよう
が凄かったから、どうしても気になってさ」
今、雷は一段落している。無論、ごろごろと地鳴りのような響きが伝わって
くるが、先ほどに比べればずっとまし。
「ねえ、相羽君の苦手な物って、何? 教えてくれない?」
純子が問うと、相羽は計算式を一つ片付けてから、面を起こす。
「答えてもいいよ。ただ、聞いてどうしようっての?」
「うーん、何て言うか、一方的に自分だけ苦手な物を知られて……悔しい」
答えてから、変かな?と思った。でも、知りたいのも本心。
「あはは。なるほど。他に何かあったっけ……そう、涼原さんが好きな食べ物
は、胡桃クリームパン。嫌いなのはこんにゃく」
「……どうして知ってるのよ? こんにゃくが嫌いだって」
訝しむと、相羽は得意そうに答えた。
「推理した−−というのは嘘で、お祭りのとき、会っただろ。町田さん達が話
しているのを、盗み聞きしたわけでして」
「なあんだ。じゃ、相羽君の好きな食べ物と嫌いな食べ物も、教えてもらおう
かしら」
「好きなのは、エビ」
「……材料で答えるなっ」
一応、冗談混じりに指摘しておく。
相羽は照れ笑いみたいなものを浮かべながら、穏やかに反論した。
「だって、本当にエビ料理ならたいてい好きなんだ、僕」
「そう言えば、九月だったかしら、夜のおかずを作って持って行ってあげたと
き……エビフライがいいって言ったみたいね、相羽君? 最初の日、エビフラ
イだった」
「あれも具体的にエビフライとは言わなくて、一例として……母さんが挙げた
んだよ」
「エビって私も嫌いじゃないけど、コレステロール高いでしょう? そればか
り食べてたら、ぶくぶく太るわよ。おかずなら私は鳥肉−−鳥の唐揚げが好き」
影響を受けて、やはり材料で答えてしまった自分がおかしい。
「まだ健康的でしょ」
「まさか、エビだけ食べて生きてるわけじゃあるまいし、僕は男だから、少し
ぐらい太ったって……」
「あれー、いいのかな、そんなこと言って?」
「な、何だよ」
純子が歯を覗かせて笑みを作ると、相羽は若干、身を引いた。
「前に言ったでしょ、あなたのことをいいと思ってる女子、多いんだって。そ
の子達が逃げちゃうよ」
「……」
相羽は何か言おうとしたらしかった。だが、すぐには言葉が出て来ない様子
で、ぽかんと口を開けた状態になってしまう。
「ん?」
「−−いいよ、別に。外見は関係なしに、中身を評価してくれる人がいれば、
それでいいんだ。ふん」
いくらかつっかえながら、答える相羽。すねたような顔つきが、似合ってい
るような似合っていないような。とにかく、普段にない様子が面白い。
(あらら。となると、よっぽど好きな子がいるのね。その人さえいれば、あと
は全然気にならないっていうぐらいの。郁江達や白沼さんも大変だわ、振り向
かせるのは)
内心、そんなことを思い浮かべて、純子の表情は苦笑いのそれに変わった。
「それで! 僕の嫌いな食べ物は」
相羽の切り出し方は、いかにも唐突だった。よほど話題を換えたがっている
のだろう。
純子は物分かりよく、うんうんと相づちを打った。
「トマトジュースだよ」
「へえ。健康にいいって聞くけれど、確かに、おいしい物じゃないわ」
これには素直に同意できた。
「うん。トマトは嫌いじゃないんだ。ただ、トマトジュースは、トマトの味が
しないような気がしてさ。納得行かないって言うか……」
「理屈っぽい。好き嫌いなんて、感じ方だけでしょうに。まあいいわ。さあ、
いよいよ苦手な物を聞きましょうか」
遠くで鳴る雷をちらっと気にしながら、純子は尋ねた。
純子が見つめると、相羽は顔をそらし、わずかに下を向いて、前髪をかきあ
げた。そのままの姿勢で返事する。
「真っ赤な満月だよ」
−−つづく
#4344/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:40 (199)
そばにいるだけで 18−4 寺嶋公香
★内容
「え? それって、たまに満月が赤っぽく見えるときがあるけど、そのことを
言ってるの?」
「うん」
「どうしてそれが苦手なの?」
「聞きたいんだったら、話すけどさ。不幸の押し売りみたいで、気が進まない
部分もあって。−−父さんが死んだ夜、空に真っ赤な満月……」
言葉を途切れさす相羽。
純子は、まずいことを聞いてしまったと、後悔の念に駆られていた。
「あのときの月、僕には、本当に、真っ赤に見えた……錯覚だろうけど。恐い
ぐらいに赤い満月だった。見上げているとどんどん広がって夜空全体を覆い尽
くすんじゃないかと思えた」
相羽の呼吸が、かすかながら荒くなったようだ。話す早さも一定していなく
て、区切りを着けた喋り方をしたかと思うと、一気にまくし立てるような口調
にもなった。
「もういいよっ、相羽君」
純子もうつむいて、鋭い声を飛ばした。
「ごめん。こんなことになるなんて、思わなかった。余計なことまで聞いて、
ごめんなさいっ」
うつむいた顔を上げるのが恐くて、そのまま深々と頭を下げた。髪留めをし
ただけのストレートヘアがぱらぱらと流れ、純子の顔の横を覆い隠す。
「謝らなくていいのに」
相羽の声の調子は、どこか晴れ晴れとしていた。
不思議に感じ、面を起こす純子。
「僕も正直すぎたね、はは。適当に嘘の答を言えばいいのに。これじゃ、同情
を引こうとしてるみたいだ。こんなつもりじゃなかったんだ。僕こそ、謝らな
いと−−気を遣わせて、ごめん」
「……ううん」
そう応じるので精一杯。
(相羽君は……この人は、強い人だ)
心底、そう感じた。
「それで涼原さん? 元気戻った?」
「な、何、いきなり?」
戸惑う純子に対し、相羽は一瞬、指を浮かして窓の方を示しかけたが、途中
でやめる。
「忘れてるのなら、言わない方がいいかな」
「……あっ。雷!」
気付いてしまった純子に、相羽は失敗したという具合に頭をかいた。
そんな相手にはお構いなしに、耳を澄ます純子。
「……よかった。だいぶ、遠くなったみたい」
言って、胸をなで下ろした。雨はまだ降っているようだが、小さくなった雷
に恐怖心はほとんど消えた。
「それじゃ、僕、帰ろう」
相羽が教科書を閉じかける。純子は慌てた。
「え、冗談でしょ」
「てことは、まだいていい?」
真顔で聞き返されると、返事に窮する。少し間を取って、それから答えた。
「宿題、結局は一問しかできてないじゃないの。折角の機会なんだから、一人
より二人でやって、早く片付けるのって、いいと思わない?」
「−−もちろん、いい考え」
相羽はページの間に挟んだままだった指を動かし、再び教科書を開いた。
相羽の真正面に来ると、白沼は両手を揃えて一枚のカードを差し出した。
「これ」
「……って、何、これ?」
分からないという風に首を軽く傾げる相羽の手は、受け取ろうかどうしよう
か迷っている様子。
「もうすぐクリスマスよ。私の家でパーティをやるの。ぜひ来て」
「パーティ……誕生日のときはせずに、クリスマスに?」
「あら、だって、自分一人が主役になるのって、何だか嫌らしいじゃない。ク
リスマスなら、みんな公平でしょう?」
にっこり笑う白沼。
近くの席からそれとなく見ていた純子は、思わず、目を白黒させる気持ちに
なる。
(主役になるのを遠慮するなんて、白沼さんのイメージに合わないような)
もちろん、そんなことを口には出さない。それよりも、相羽が受けるのかど
うかが気になって、聞き耳を立て続ける。
「予定が入っていないんだったら、来てほしいの。だめかしら」
「……」
相羽は黙って受け取り、カードをめくる。出席の意を表すのかと思いきや、
どうやら、日時を確認しただけらしい。
「他に、誰々が来るのさ?」
「それが関係あるの?」
「うーん……もしも男子が僕一人なら、遠慮したいなぁ」
そう答えた相羽が短い間、ちらりと見やってきたのに、純子は気付く。だが、
その意味を深く考えようとはしなかった。
「そう来ると思った」
待ちかまえていたらしく、白沼の笑みはさらに広がった。
「クラスの男子の何人かに、カードを渡しておいたわ。なるべく、相羽君と親
しい子に」
「親しいって、ひょっとして、立島とか……勝馬にも?」
相羽の問い掛けに、当然とばかりにうなずく白沼。続いて答える。
「立島君は断ってきたけれどね。まさか、全員が揃わなくちゃだめなんてこと、
ないでしょう?」
「あ、ああ……うん。そうか、立島は来ないの。やっぱり」
どこか安心した風情の相羽。純子はその理由が気になって考える内に、はた
と思い当たった。
(そっか。立島君と前田さん、白沼さんには引っかき回されてるもんね。だか
ら立島君の名前を出したんだわ、相羽君。それで今、安心してる……気遣い性
なんだから)
微笑ましくなって、目を細める純子。そんな彼女へ。
「涼原さんも来る?」
白沼が話しかけた。
「え、私?」
自らを指差し、聞き返す。すると白沼は、目だけでうなずいた。
「聞いてなかった? クリスマスイブ、私の家でパーティを」
続いて、さっきと同じ話を繰り返す。
純子は初めて聞いたかのように、相づちを打った。
(どうして私まで誘うんだろ? 男子だけじゃなく、女子にも声をかけていっ
たら、大変と思うけどな)
そう疑問に感じ、注意して聞いていると、女子全員に声をかけるわけでもな
いらしい。純子は自ら尋ねてみることにした。
「誘ってくれてありがとうっ。でも、私、白沼さんとあんまり親しくないのに
……どうして?」
「あら、充分、親しいと思ったのに」
両手を合わせ、さも心外で悲しいわという風に首を右に傾ける白沼。
彼女の様子に、純子は焦って言い繕おうと、口を開きかけた。だが、白沼は
表情をころっと一変させた。
「って言うよりも、本当は、さっきね。相羽君を誘ったら、同じ部の女子も何
人かいると嬉しいって言うから」
純子は言葉をなくし、相羽の方を振り返る。
対する相羽は、いつの間に持ち出したのか本を両手に持ち、それで顔を隠す
ような姿勢でいる。
「それで、あなたや町田さんを誘えば、調理部の他の子達にも伝わる、なんて
期待したわけなのよ」
「私、調理部に入ってはいないんだけど」
「入ってるようなものじゃないの? 聞いたわよ、文化祭のとき、お客の呼び
込み、やったんですって? 凄い格好をして」
「す、凄い格好ってほどじゃ……」
顔が赤らむのを自覚し、下を向く純子。
相羽が何か言いたそうに、上目遣いをするのが見えたが、それより先に、白
沼が表情を明るくした。
「そうだわ。仮装パーティにしようかしら。となると、涼原さんにはぜひ、フ
ラッシュ・レディになってもらわなくてはね」
「も、もういい! あれはだめよっ」
「どうしても? だったら、普通のパーティにするから、来てくれるわね?」
「う、うん」
「よかった。じゃ、町田さんや他の調理部の子にも、言っておいてね。カード、
使いきったから、悪いんだけれど、この一枚でみんなに」
と、先ほど白沼が相羽に手渡したのと同じカードが、純子の手の平にも置かれ
た。
「よろしくね」
用事は済んだとばかりに、白沼はその場でくるりと半回転し、相羽にまた何
かと話しかける。
(よろしくねと言われても……)
純子は弱り目になって、カードに視線を落とした。
(芙美はともかくとしてもよ。郁江や久仁香、何て言うだろうなあ……)
生まれた不安が、どんどん大きくなっていった。
しかし、翌日、調理部の部活に顔出し−−正確には部活が終わってから−−
したとき、純子はできることなら、みんなの頭の一つでもはたいてやりたいと
思った。
(もーっ、あんなに悩んでた私って、一体何だったわけ?)
小躍りしそうなまでに浮かれる富井や井口を前に、拳を握り、肩を少し振る
わせながらも、ぐっとこらえる純子であった。
白沼からの話を伝えたところ、実に呆気なく、参加したいという答が返って
きたのだ。最初こそ、ほとんどよく知らない人の家に上がることになるので、
ためらいを見せていた富井達だが、
「え? 相羽君も行くの?」
「その予定だよ」
結局、これが決め手だったらしい。
(相羽君がいれば、何でもいいのか、君らは……。そう言えば、誕生日のとき
も似た感じだったっけ。−−よく考えたら、白沼さんも白沼さんよね。直接言
えばいいのに。私に頼まなくたっていいじゃない)
などと、ぶちぶちと頭の中で文句を言っていると、身体を揺すられた。
「ねえねえ、それでどんなことするの? 初めてだから想像つかない」
井口が期待に目を輝かせている。続いて、富井も。
「やっぱり、プレゼントの交換とかあるのかなぁ?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。カードには……」
もらったカードを開き、中を読む。実はまだ、詳しくは読んでいない純子で
あった。
「あ、あるわ。プレゼントの交換会をするから、各自プレゼントを持って来て
ください、ですって」
「ふうん。去年のクリスマス会みたいなもん?」
興味なさそうにしていた町田も、ようやく乗ってきた様子だ。
「そうらしいわ。どんな物を用意すればいいのか、迷いそう」
「噂によれば白沼さんのお家って、お金持ちだそうじゃない? それなりにい
い物を持って行かないと、見劣りしちゃったりして」
脅かす風に言う町田。反応するのは富井。
「ま、まさかぁ。中学生らしく、子供らしく行こうよぉ」
「私に言われても、知りません」
その間、カードの続きを読んでいた純子は、思わず、「げっ」とつぶやいて
しまった。すぐさま、他の女子三人が気付いて、顔を寄せてくる。
「何なに? どうしたの?」
「ここ……隠し芸をしてくれだなんてっ」
文面を指差しつつも、頭が痛くなってきた。フラッシュ・レディの仮装を思
い出し、さらには去年、サンタの格好をしたのを思い出した。
(あっさり、仮装パーティやらないって言ったと思ったら、こういうこと?
うう、やだなあ)
「そろそろ出た方が」
鞄を持った相羽が、廊下へと向かいながら皆を促した。
彼に倣って、全員、外へ。
「相羽君は隠し芸、決まってるよねえ。もち、手品?」
富井の質問に、家庭科室の鍵をかける相羽は、施錠されたのを確認してから
答えた。
「うーん、どうなるかな。そろそろ演目のネタが尽きかけててさ」
その大げさな肩のすくめ方から、本気でネタ切れなのかどうか、誰にも分か
らない。
町田が、急にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「やれば? 私達の知ってるやつでいいからさ、白沼さんをびっくりさせるの
よ。あの人の驚いてる顔、見たいと思わない?」
そういう話題を振られても、富井や井口は白沼がどんな性格なのか詳しくは
知らないし、当の相羽が答えられるはずもなく、残る純子もあんまり答えたく
ない。どっちでもいいことだから。
(相羽君の手品、うますぎるから、白沼さんだって驚くよりも感心しちゃって、
ますます相羽君のことを……ってなるかも。それって、まずいんじゃない?)
なんて心配も浮かんだが、ここまで気にする必要もないと思い直し、口には
出さないでおく。
−−つづく
#4345/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:42 (199)
そばにいるだけで 18−5 寺嶋公香
★内容
「白沼さんてさ、多分」
相羽が口を開いた。夕陽を浴びて、まぶしげに目を細めている。
「手品の種を教えてほしいって言ってくる気がする」
「そりゃそうでしょうよ。私達だって、知りたいもの。ねえ?」
町田に同意を求められて、純子らは笑顔でうなずいて見せた。真実、手品の
種を知りたい。
「でも、教えてもらわなくてたって、自分で考えるのも楽しいわ」
純子が言うと、相羽はとても嬉しそうに笑みを浮かべる。それから冗談めか
して、声を大きくした。
「ああ、分かってくださってる!」
「全く大げさね。分からなくたって、不思議がらせてくれたら何でもいいのよ」
「ますます、手品のお客さんにふさわしい」
相羽がくじけないのを見て、純子は小さくため息をついた。
一行はタイミングよく、下駄箱前に到着していた。
クリスマスに浮かれる前に、一つ、やっておくべきことがある。
二学期の期末試験は、純子にとって苦戦が予想された。
「……ここも分からない」
自宅で、机に向かってから約一時間。蛍光ペンでチェックを入れた数が、両
手の指では足りなくなった。
純子は一度ペンを置き、教科書を立てた。
(いっぱい、質問に行かなきゃならないわ。宿題だけであっぷあっぷしてたも
の、しょうがないか)
時間が取れなくなったのは、コマーシャル撮影のせい。下校してからの数時
間を使えないのは、経験してみてかなりきついと分かった。それに、帰宅した
あとも疲れが出て、勉強に能率的には取り組めなかった。
「−−いけない」
頭を振る。お下げも揺れた。
(自分でやるって決めたんだから、そのことを言い訳にしちゃいけない。強く
なる−−そう、相羽君みたいに)
手に、ぐっと力を込める。教科書の開いたページが、小さな音を立てた。
しばらくすると、集中力が途切れたのかもしれない。視線が、カーテンの隙
間から覗く夜空に行った。
「−−流れ星!」
全くの幸運としか言い様がない。細く開いたカーテンの合間から、流れ星が
天空を横切るのが、しっかりと捉えられた。
しばらく感動して、はっと我に返ると、目の前には教科書に問題集。
「……しまった」
座り直す純子。
(願い事を唱えて、かなえてもらえばよかったな)
嘆息した純子は、気合いを入れ直して、ペンを手に取った。
試験開始の日がいよいよ近付いてきて、純子は学校の給食後の休憩時間にも
問題集と取り組むようになっていた。無論、そうしているのは純子だけでなく、
他にも大勢いる。
「あ、そこ? 分からないのよね、私も」
「じゃ、こっちは」
「これなら分かる。こことここ、同じ角度だから」
町田や遠野に教えてもらい、必死にノートを取る。
「大変だね」
隣の席の相羽が、時間を持て余したかのように声をかけてくる。と言っても、
純子には相手をする暇もない。
「相羽君こそ、大変そうじゃない」
町田がノート片手に、相羽を見やる。正確に言うと、相羽の席の騒がしさぶ
りに目をやったのだ。
ただ今、相羽の席ではノートの写しが始まっている。もちろん、提供者は相
羽で、周りには勝馬や清水達が集まって、一冊のノートを取り囲んでいた。
「別に。僕が大変なわけじゃないもんな。きちんと教える方が、よほど大変じ
ゃないかな?」
「それもそうか」
「あの、相羽君」
町田と入れ替わるように、遠野が言う。
「何?」
「この問題、分かる? 教えてほしいんだけど……」
問題集の一点を指差し、相羽の方に向ける遠野。
相羽が町田と話している間に、純子がつまずいた問題である。遠野も分から
なかったので、相羽に聞いたのだろう。
「どれどれ」
町田が先に顔を覗き込ませるが、間もなく首を傾げる。
「あー、だめだわ。分かんない」
「これは……補助線だったかな」
問題集に載る図に指を当て、架空の補助線を何本か引く手つきをする相羽。
そして、「よし」とつぶやくと、書く物を求めた。
純子がノートの余白を示すと、相羽はペンも借り、丁寧な文字で書き始める。
次から次へと生まれる解答文に目を走らせる内に、純子は次第に問題の解き
方が見えてきた。
「−−分かったわ!」
「……そんな、大声出さなくたって」
町田に注意され、首をすくめる。
相羽は手を動かすのをやめ、「じゃ、続きは書かなくてもいい?」と純子に
尋ねた。
純子はしばし考慮し、頭を横向きに振る。
「合ってるかどうか確かめたいから、全部書いて」
「へいへい」
再びノートに没頭する相羽に、今度は町田が。
「さっすが、よくやってるわね。私も教えてもらおうかな。出るわけないと思
って、飛ばしたのがあって」
「それなら、私も……」
遠野が小さい声でつぶやく。
「いいよ」
気安く請け合って、相羽は顔を起こすと、ノートを純子に渡す。
「これでいいと思う」
「ありがと。−−ね、国語、大丈夫?」
教えられっ放しも気が引けるので、探りを入れてみた。
「僕のことより、自分の心配をしなよ」
「む。だって」
「授業でやった分なら、どうにか暗記で乗り切る。町田さん、遠野さん、どの
問題?」
視線を純子から外し、町田ら二人に向ける相羽。
純子はすっきりしない気持ちだったが、遠野の示した問題を見て、それもこ
ろっと忘れる。
「あ、それ、私も教えてほしい……」
「遠慮なくどーぞ」
少しふざけ口調で言って、相羽は含み笑いをした。
定期試験の最後は、数学だった。
(頭いたーい)
終了のチャイムが鳴って、テスト用紙が回収される間、純子は頭を抱えて両
肘を突いていた。
「よっ、相羽。教えてくれたところ、出たな。助かったぜ」
用紙を集めて前に提出し、戻って来た唐沢が、その途中で隣の列の相羽に声
をかける。
「教えたんじゃなくて、そっちがノートを写したんだろ」
苦笑いで返す相羽。
それから彼ら男子二人は、純子の様子に目を留めた。
「どうしたん、涼原さん?」
先に唐沢が言って、純子の机に片手を置く。
ぼんやりした眼差しをして、顔を上げる純子。
「頭、痛いの。あんまり寝てないから」
「大丈夫?」
相羽が心配そうに言ったのに被さって、立島の号令がかかる。まだ区切りの
挨拶が済んでいない。
純子はゆらゆらと立ち上がり、礼をしてから、またすとんと座った。
「涼原さん、大丈夫か? 保健室、行くんだったら、長瀬を呼ぶけど」
「平気よ。眠ったら治るから……あー、早く帰りたい」
腕枕を作って、そこへ顎先を乗せる純子。後ろから唐沢が聞いてきた。
「さっきのテスト、どうだった? その調子じゃ」
「……どうにかこうにか……」
「相羽からあれだけ教えてもらったんだから、楽勝じゃないかと思ってたんだ
がな」
「教えてもらったのはいいけれど、多すぎて、覚えるのが大変……」
相羽の責任では決してないのだが、そちらを見やってしまう。
真に受けて、相羽は後頭部に手をやった。
「ごめん。それじゃ、次はなるべくポイントを絞って教える」
「そ、そういうつもりじゃ」
慌てて身体を起こしたが、その時点で相羽には白沼が話しかけていた。
「やっと終わったわね、試験。これで心おきなく、クリスマス。ね?」
「まだ通信簿が」
そう言う相羽に続いて、唐沢も口を挟む。
「だよなあ。あれと宿題さえなければ、クリスマスに正月、最高なんだが。そ
れより、白沼さん。何でもっと早く言ってくれなかったかなあ。クリスマスパ
ーティ、予定を空けて、出席したのに」
「あら、どうせいつも女の子に囲まれてるから、早く言っても変わらなかった
んじゃなあい?」
唐沢を見る白沼の眼差しは、どこか軽蔑を含んでいる。軽い乗りの男には興
味ないといったところか。
「ひでぇ」
天を仰ぐ唐沢に、相羽がぼそっと「当たってるだけに」と付け足した。
「おまえまでそう言うか、相羽」
「お、聞こえたか。悪い」
「だいたいなあ、おまえだってやってること、変わらないと思うんだがな、俺
としては」
「何が変わらないって?」
訝しげに目を細める相羽。
唐沢は、さも重大発言をするかのように、人差し指を相羽へ突き付ける。
「大勢の女子を周りに置いてるっていう状況。調理部でただ一人の男子部員な
ら、さぞかしもてる−−」
「冗談じゃねえぞ。一緒にするなって。この間の文化祭も、力仕事ばっかりや
らされてだな」
「ばーか。それを見て、またいいと思うんじゃねえか。『まあ、相羽君て頼り
になるのね。細いのに、力もあって』てな風に」
唐沢の女声に、相羽は元より、純子も白沼も頭を押さえた。
「か、唐沢君。別の意味で、頭が痛くなってきたわ」
すぐに帰りたい純子だったが、定期試験終了後には、委員会が招集されるの
が恒例。図書委員会に出て、冬休みの開館(正確には図書室開放日)スケジュ
ール及びその担当順を確認してから、やっと解放された。
(今日は真っ直ぐ帰ろう)
調理部の部活が頭をよぎらないでもなかったが、自宅のベッドの方がより強
力に誘惑してくる。
足早に、校舎の前を横切っていると、どこからか優しい調べが聞こえてきた。
普段なら気付かないぐらいの小さな音だったのに、足を止める純子。何故かし
ら、引き付けられる。
音の源を探し、視線をさまよわせ、耳を澄ますと、程なくして別館校舎の上
の方から聞こえてくるのだと分かった。
「ピアノ−−音楽室」
つぶやいて、音楽室の位置を見当付け、その真下に向かう。これで、少しは
はっきりと聴けるようになる。
ピアノの旋律が途切れた。いや、曲がちょうど終わったらしい。
短い間をおいて、新たな曲が始まる。
両手に息を吹きかけ、暖めながら、しばし聴き入る。
「−−これ」
お気に入りの曲だと知り、びっくりする純子。音楽室の窓を、改めて見上げ
た。
(相羽君だ。相羽君の音)
突然、確信が沸き上がる。
(懐かしいと思ったら、聴いたことあったんだわ。また『気晴らし』かしら、
相羽君達。部活のあとだから、郁江達も一緒に聴いてるよね、きっと)
想像をして、その場に自分もいたら楽しいかもと思うものの、すぐに首を振
る。やはり、睡魔には勝てそうにない。
演奏が終わったのを機に、窓の下から離れる純子。校門へ向かう道すがら、
ちょっとした疑問が浮かんだ。
(でも……どうして気になったのかしら、私ったら。最初の曲は、初めて聴い
たのに)
考えようとすると、また頭が痛くなりそう。
だから、そのまま忘れて、純子は家を目指した。
−−つづく
#4346/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:43 (200)
そばにいるだけで 18−6 寺嶋公香
★内容
休日の今日、年賀状を全部書き上げると純子は街に出た。クリスマスプレゼ
ントを色々と揃えるためだが、今回は友達と特に約束もしていない。珍しく、
一人だ。
(白沼さん家のパーティに一つでしょ。郁江や久仁香達に……って、同じパー
ティに出るからいらないのかな? 去年もクラスのお楽しみ会でやっただけだ
ったし。それより、お父さんやお母さん、どうしよう? 中学生になったら、
プレゼントをするものなのかなあ)
考えながら歩いていると、周りが見えなくなる。
クリスマスに向けてすっかり模様替えしたきらびやかな街並みに気付き、純
子は周りの光景をしばらく楽しんだ。お昼過ぎだと言うのにかなりの人出で、
気もそぞろに歩いていた純子が他人とぶつからずに来たのが不思議なほど。中
には、早くもクリスマスプレゼントを買ってもらったのか、大きな箱を抱えた
小さな子供を見かけることも数度。その後ろには、幸せそうに微笑んでいる女
性もしくは男女−−無論、子供の親だろう−−が必ずいた。
純子は、自分が今よりもっと小さかったときを思い出す。
(あれって、二年生の頃だったかな。クリスマスじゃなかったかもしれないけ
ど。おもちゃ屋の前を通りがかると、恐竜の全身化石の凄く精密な模型が飾っ
てあって、一目でほしくてたまらなくなって。お父さんにねだったら、『まだ
純子には組み立てるのは無理だよ』なんて言われたから……みっともなかった
ろうなあ、あのときの私。床に寝転がって、じたばた泣いて、『買って、買っ
て!』だもんね)
そこまで思い出して、もう少し年下だったかしらと記憶を修正したくなった。
だけど、いくら考え直しても、二年生頃の話になってしまう。
(ま、いいか。あのあと、ぬいぐるみを買ってもらって、ぶすっとしていたの
がいつの間にか笑って。自分のことながら、調子いいわ。あ、そう言えば、プ
ラネタリウムの室内用小型機を見たときも)
引き続いて似たような記憶を掘り起こした純子だったが、それ以上は意識し
てやめた。
(こんなことしてる暇ないっ。自分の買い物を済ませよっと)
今年の純子は、臨時収入があったおかげで、自由に使える額がこれまでにな
く大きい。
だからと言って、高価すぎる物は、バランスに欠けてよくないかもしれない。
何せ、交換するのだから。
(女子でも男子でも、かまわない物……)
悩む。歩いているのに、腕組みしたくなる。
(相羽君に当たる可能性が全くないんだったら、手焼きのクッキーもいいと思
うのに。そうだ、お父さんとお母さんには、クッキーにしようかな)
後回しにしていいことばかりに、思考が走ってしまう。
とうとう、目当てのデパートまで到着してしまった。
見て回りながら考えようと思い直し、ドアをくぐる。
と、いきなり知っている顔に出くわした。
「あれ、涼原さんじゃんか。一人?」
「唐沢君」
大人びた丈の長いコートを羽織り、色の薄い丸型サングラスまでかけている。
「一人だったら、デートしようか。どう?」
「え? そ、そりゃ一人だけど。でも、唐沢君、それだけ格好決めてるんだっ
たら、当然、お相手がいるんじゃなくて?」
(いつも誘ってくる。挨拶代わりなのよね)
内心、呆れつつ、唐沢を指差す。
「いやいや、俺も一人なんだな。何たって、クリスマス前、ゆっくり買い物で
きるのは今日ぐらいだと思ってさ」
「……意味が分かんない」
「だから、イブやクリスマス当日は、いっぱい、女の子と約束があって、その
ためのプレゼントもたくさん用意しなくちゃいけない。買うのは今日しかない。
分かった?」
「あはは、分かったわ」
そう答えて、さっさと行こうとすると、唐沢が着いてくる。
「涼原さんは、何の用事?」
「唐沢君と同じと言えば同じ。白沼さんの家のパーティ、プレゼントの交換会
もあるって言うから、それを買わなくちゃ」
「なるほど。うーん、返す返すも、参加したかった」
目を瞑って、うんうんとうなずく唐沢。
「危ない。ちゃんと前見てないと」
「冗談冗談。折角あったんだから聞くけど、女の子って、どんな物がほしいん
だろうね?」
唐沢が目を開けると、ちょうどエスカレーターの前。二人は一段ずれて、相
前後して乗った。
「ぬいぐるみか、ペンダントやイヤリングといったアクセサリーでしょ。それ
から……唐沢君、本気の人っているの?」
「ああ? いないよ、今のところ」
「でしょうね」
あれだけ大勢と付き合っているなら納得。
「じゃあ、香水なんかは却下ね」
「当ったり前。そんな物、みんなに買っていたら、俺が破産してしまう」
「安いのもあるのよ」
「だめ、敬遠だな。もっと手軽で、あっさり渡せるやつ」
「花を一輪とか?」
「うん、悪くない。でも、全員に花を一輪てのもなあ」
「……もう思い付かない」
考えるのがしんどくなって、ギブアップ宣言。こんなことしてるより、自分
の買う分を考えなくちゃいけないのだから。
「たとえばの話、涼原さんだったら、何がほしい?」
二階のフロアー部を折れて、再びエスカレーター上に。
「私? 新曲のディスクでしょ、服でしょ。小さな化石ももう一つ、新しいの
がほしくなってるし、実は望遠鏡もあればいいなと思ってるし、それからペン
ダントも。星の形をしたかわいいの、見つけたんだ」
「へえ、案外、あれこれとほしがってるんだ? すらすら言えるほど」
「やだ、唐沢君。これはねえ、クリスマスが近いから、両親に何をねだろうか
考えたの。それですらすら言えたんだから」
恥ずかしくて、すぐに抗議した。唐沢は、声を出して笑うことで応じた。
「ははは! 分かってるさ。それにしてもひどいぜ。一人一人に服なんか買っ
てたら、破産どころか借金しなくちゃな」
「参考にならなくて、ごめんなさいね」
「いや、まあ、こっちの聞き方も悪かった」
純子がすんなり謝ったためだろう、唐沢は戸惑った風に言い繕った。鼻の下
を一度こすって、笑みをなす。
「涼原さんはクリスマスの予定は?」
「だから、白沼さんの家に」
「それはイブだろ? 俺が聞いてるのは、十二月二十五日」
「唐沢君と違って、とーっても暇です。家でケーキ食べてるわ、多分」
冗談混じりに言って、肩をすくめてみせる純子。
エスカレーターに乗って、とうとう六階に着いた。決めていたわけではない
が、ファンシーグッズやおもちゃ屋が入っているこのフロアで降りる。唐沢も
当然のように着いて来た。
「先立つ物があれば、イヤリングにするのに」
おもちゃ売り場の横を通ると、イミテーションとも呼べないようなアクセサ
リー類がたくさん並べてあった。
その先の小物店に、キーホルダーの回転ラックを見つけ、純子は言った。
「あれでいいんじゃない? キーホルダー」
「ふむ。手頃かな」
立ち止まり、片手で一つ一つ見ていく唐沢。
純子は一瞬、歩みを緩めたが、自分の方を片付けようと思い直し、首を巡ら
せる。
最初に、皿時計に目を奪われた。
決して大きくはないが、繊細な造りの薄い小皿を文字盤とし、アナログの時
計が時を刻む。青地に金色の秒針が、光を反射していた。
純子は裏を向いていた値札をひっくり返し、思わずのけぞりそうになった。
(た、高い。やめたっ)
次に、ピエロのモールに注意が行く。なかなか愛嬌のある表情をしたピエロ
の人形が、小首を傾げてこちらを見つめている。揺らすと、さらにユーモラス
な感じがした。よく見ると、小物を入れるためのポケットもいくつか着いてい
た。
(悪くないと思うけど、男子がこれをもらって喜ぶかな?)
思い出して、唐沢を呼んだ。
「男子だったら、これをもらって、どう?」
「うーん、特に嬉しいことはないな。でもねえ、好きな相手からなら、たいて
いの物はありがたく受け取るぜ。男って」
「そういう話をしてるんじゃないのに」
苦笑して、がっくり肩を落とす純子。
「同じモールなら、そっち飛行機を吊ったのがいいな」
「女子は好きじゃないかもしれない」
「はあ、ほんと、気を遣うなあ、涼原さんて。相羽が言ってた通り」
「え? 相羽君が何て言ってたって?」
聞きとがめ、唐沢を振り返る。相手はとぼけたように、全然違う方向を見て
いる。
「ん? 小学校のとき、劇やったんだって? 詳しくは聞いてないけど、涼原
さん、責任感じちゃって凄く頑張ったとかって。他にも色々」
「あ、あいつだって、人のこと言えないわよ。気遣いすぎだわ」
憤慨気味に言い返す純子に、唐沢は怪訝そうに顔をしかめる。
「あんだけ仲がいいくせして」
「変な言い方、よして。−−意見、ありがとうね。唐沢君もキーホルダー、人
数分を早く選ばないと」
それだけ言い置いて、純子はいそいそと他のディスプレイに目をやった。
いくらか曇りがちというせいもあって、放射冷却は起こらなかったはずなの
だが、終業式の朝は寒かった。それでも駆け足をして来たので、身体の中は学
校に着く頃には暖まっていた。反面、指先や耳は痛いぐらい。
いつもより三十分は余裕を見て家を発ったのに、知り合いの子と出くわすと
いう予定外の事態に引っかかり、純子が教室に入ったのは普段に比べて少し早
い程度だった。
それでも、クラスにいる人数は格段に少ない。実際にこの場にいる者はゼロ
で、鞄が確認できるのは三名か。
まずは窓を全開にする。どんなに寒かろうが、雨や雪なんかが降っていなけ
れば、教室内の空気を入れ換えるのが原則となっているのだから仕方がない。
もっとも、開放時間は日番に任されている。
次いで、花瓶の水の入れ替えだ。教室の後ろの棚の端っこに、硬質ガラス製
らしき朱色の花瓶があり、何だかんだと生けてある。冬場なので比較的地味だ
が、枯らすには惜しい。純子は左手を底に添え、右手で胴を抱くようにして、
花瓶を持った。そしてゆっくりと教室を出る。
水道のある洗面所前まで行くと、一旦、花瓶の中をきれいにしてから水を注
ぎ、草花を差し込んだ。
教室に引き返すと花瓶を戻し、今度は黒板消しの清掃に取りかかる。前と後
ろで合計四つ。それも済んで、次に教卓の上をぞうきんでさっとひと拭き。
くず入れを覗くと、昨日の掃除当番はきちんと役目をこなしたようで、空っ
ぽだった。もし残っていたら、日番が捨てに行かなければならない。
(もう充分よね)
寒さのせいもあって、窓を閉める。ガラスや窓枠の冷たさに、手を何度かこ
すった。まだ寒いので、息をゆっくりと吹きかけた。
それから純子は自分の席に着くと、職員室から取ってきた日誌帳を広げる。
とりあえず、名前と日付を書き込んでおく。掃除の仕上がり具合をチェック
する欄があるのだが、終業式の今日は掃除がないから、記入しなくていいはず。
だが、空白にしておくのも素っ気なく思えて、「掃除はなかった」と先取りし
て書いてやった。
「他にすること……」
制服の肩の小さなほこりを払いながらつぶやいてみるが、何も浮かばない。
(案外、早く終わっちゃった。これならもっと寝てればよかった)
布団の温もりを想起し、純子は腕枕を作り、頭を横にしようとした。
が、廊下がにわかに騒がしくなったので、あきらめて上体を起こす。
「じゃあな」
そんな声がしたかと思うと、扉を開けて入ってきたのは唐沢。
彼は純子を見つけると、いくらか意外そうにせわしない瞬きをした。
「涼原さんがいるってことは……あれ? おかしいな」
時計を見る唐沢に、純子は言った。
「日番よ。唐沢君は部活? 朝練?」
「ああ」
うなずき、純子の後ろの席に収まる。結局、席替えは一度したきりだ。
「さすがに終業式の日は練習しないさ。ミーティングがあったんだ。それより、
どう? またテニスしようよー」
急になよなよした物言いになる相手に、背を向ける純子。
別にテニスをしたくないわけじゃないし、唐沢を避けたわけでもない。
前回、唐沢や富井らとテニスをしたときのこと−−より正確を期せば、テニ
スをしたあとしばらくして自分の身に起こった出来事を思い出してしまい、ま
ともに顔を合わせていられなくなっただけだ。
(相羽君は誰にも言わずにいてくれたみたいだからよかったけど……やっぱり、
思い出すのは今でも嫌)
丸めた背に、唐沢の声が降りかかる。
「あ、だめ? 冬に向いてないもんね、テニスは。今だったら、ボーリングっ
てところかな」
−−つづく
#4347/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:45 (200)
そばにいるだけで 18−7 寺嶋公香
★内容
「か、唐沢君。この間の買い物、うまく行った?」
話題を換えたい一心で先日の一件を切り出したが、相手には奇妙に映ったら
しい。再度、瞬きを激しくした唐沢は、やがておどけた調子で言った。
「涼原さんが心配することかいな」
「ええっと……」
「ま、いいさ。なら、聞かせてよ。そっちはどうだったの、買い物の首尾は?
にこにこしてたから、満足行ったんだとは分かるけど」
唐沢の質問は、なかなかありがたかった。話の方向を転じるには、格好の材
料がある。
「それがねえ。買い物自体はよかった。そのあと、帰りしな、迷子の女の子に
会って大変だったんだから」
「ほ? 迷子って、涼原さんの全然知らない子?」
「うん。それで、偶然てあるんだね。今朝、たまたまその子と再会して」
純子がようやくペースを取り戻す頃、他のクラスメートが姿を見せ始めた。
(−−え?)
終業式が終わって教室に戻る途中で、純子はその噂を耳にした。
耳にしたと言っても、他のクラスの子達が囁き合っているのを、たまたま聞
いたという形だが。
(西崎さんのお父さん、亡くなった?)
慌てて目線をさまよわせ、八組の中に小学校のときの友達を見つける。
「あ−−ねえ、根本(ねもと)さん」
「涼原さん? 何だか久しぶり」
根本はショートカットの髪を揺らし、立ち止まってくれた。
尋ねにくい話だったので、純子は廊下の端に寄り、小声で聞いた。
「西崎さんのお父さんが亡くなられたって聞いたんだけど、本当なの?」
「え、ええ。今朝のホームルームで、先生が言ったわ。当然、西崎さんもこの
何日か来てなくてさ、詳しくは知らないけれど、亡くなられたのは昨日のこと
なんだって。私なんかには想像つかないけど、一人きりになって大変だろうな
……」
「一人きりって?」
引っかかり、身を乗り出す感じで聞き返す。
「あ……知らないんだ?」
しまったという風に、口に手を当てた根本。
「聞いてくるからには、涼原さんは、西崎さんと親しいんじゃないの?」
「うん、ちょっときっかけがあって。ただ、凄く親しいって言えるかどうかは、
難しいかもしれない」
「うちらのクラスでも、あの人と親しい子はあんまりいないのよね。でも、家
庭の事情って言うの? そういうのは分かるから。西崎さんの家、お母さんも
いないんだって」
「そんな……」
ショックだった。アパートを訪ねた折、愛美は明るいとまでは言えなくても、
極普通に振る舞っていた。
「涼原さん?」
「え、あ、ありがとう。教えてくれて」
会話を切り上げると、考え込む純子。歩く速度は極端に遅くなっている。
(どうしてるんだろう)
初めて会ったときの、西崎の痩せた手が思い出される。
(アパートで会ったときの西崎さんからは、まだたくましい感じを受けたけれ
ど、でも、お母さんに続いてお父さんまでいなくなるのって……)
さっきの根本の言葉ではないが、確かに想像できない。ただただ、黒い物が
渦を巻いて行く手を阻む−−そんなイメージだけが漠然と浮かんでくる。
(何か、何か……何でもいいから、力を貸したいっ)
根を詰めて考える。
(私にできること……)
考えるが、空回り。間抜けな犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐると一所を
走り続けるようなもどかしさを、嫌でも感じてしまう。
純子は、愛美の今後のことまであれこれ思案するのをやめ、愛美の今につい
てだけ考えた。
「−−決めた」
意志を固め、声に出す純子。
(学校が終わったら、飛んで行こう。手伝うことなら、いくらだってあるはず)
周囲の子達は、わいわいがやがやとお喋りをしながら、通り過ぎていく。
(※終業式当日の放課後のことは、悠歩さん作の『遠い宙のマリア』をご覧く
ださい)
純子、富井、井口の三人は、思わず見上げてしまっていた。
「おっきな家ー」
富井が舌足らずに言い、レモンイエローの手袋をした手に感嘆の白い吐息を
漏らす。
「芙美が言ってた通りだわね」
視線を上げたまま、オレンジ色調のマフラーを巻き直す井口。
町田は用事があると言って、今日のパーティの欠席を決めている。
「何か言ってたっけ?」
うす桃色をした耳当てがずれないように押さえながら、純子は首を傾げる。
井口も顔を横に向け、答える。
「忘れた? 白沼さんの家、お金持ちだって」
「ああ、そういうこと言ってた……。ほんと、三階建てなんて、びっくり」
「大勢を呼べるはずだよねえ、うらやましいっ」
まだ見上げている富井が、声を高くする。
「こんな家の前で騒いでないで、入らなきゃ」
井口が時刻を確認した。まだ約束の時間には余裕があるが、ぎりぎりよりも、
少し早めの方がいいだろう。
インターフォンを探す−−あった。これも、単純な代物ではないようで、ご
たごたとボタンが付いていた。何とか、呼び鈴のボタンぐらいは分かる。
「誰が押す?」
「招待受けた人でしょ」
「みんな受けてるよ」
「だから、招待状を受け取った人」
指差されて、純子は仕方ないなあと肩をすくめる。
軽く息を吸い込み、ボタンを押した。玄関のドアまで遠いせいか、呼び鈴が
本当に鳴ったかどうか分からぬまま、返事があった。
「どちら様でしょう?」
声質は、若そうな女の人のもの。
「白沼さん−−絵里佳さんのクラスメートで、涼原と言います。あの、本日は
お招きいただき、ありがとうございます……」
「分かりました。伺っております。どうぞお入りください」
恐いぐらいに丁寧な応答に、「もしかすると、お手伝いさん?」なんてつぶ
やく純子達三人。
と、黒光りする金属製の重々しい門扉が、ゆっくりと動き始めた。どこかで
遠隔操作できる仕組みらしい。見た目と違って、実にスムーズに滑っていく。
門扉の動きが完全に止まってから、三人は威厳ある構えの門柱の間を抜け、
中に足を踏み入れた。
整然とした庭の中、微妙にバランスを崩して配された飛び石に従い、いささ
か気圧されながら歩いていくと、やがて玄関前に到達した。
凝った彫り物が細工されている扉を前に、純子達は立ちすくんだ。
「……もう一度、ノックするものなのかしら?」
「さあ?」
迷っていると、不意にドアが開く。
「ようこそ。メリークリスマス、涼原さん」
充分に暖まった空気とともに現れたのは、白沼本人。雪を思わせる真っ白
なドレスを着ており、丈の長いスカートが、地面をこすりそうでこすらない。
「あ、あの、白沼さん……メリークリスマス」
頭を下げてから耳当てをしたままだと気付き、慌てて取ると、もう一度会釈
する純子。富井と井口も同じようにした。
「富井さんと井口さんね。よろしく」
ここが白沼の家というせいもあるのだろう、すっかり相手のペースにはまっ
て、富井と井口は無言のままうなずいた。
「えっと、お招きいただき、ありがとう……」
「やあね、かしこまっちゃって。普段通りでいいの。さ、上がってよ」
けらけら笑って、皆を促す白沼。
「お邪魔します……」
小さな声で断って、三人はどきどきしつつ、上がった。
「靴……もう誰か来ているの、白沼さん?」
あちこち見回したい衝動を抑え、純子は尋ねた。自分達と同じ年頃の子が履
く靴が、何足か見受けられたからだ。
「ええ。いちいち言わなくても、部屋に行けば分かるから。それより、相羽君
は一緒じゃないのね」
「う、うん」
相羽とは朝方に会って、昼間別れたばかりの純子は、気が引ける思い。
「調理部だから、一緒に来るのかと思っていたわ。はい、ここよ」
白沼が示したのは、廊下をかなり行った先、右手にある洋間らしき部屋。ア
イボリー調のドアを通して、騒ぎ声がかすかに聞こえるような。
「−−あ」
部屋の上座−−と言うのもおかしいが−−には、大きなクリスマスツリーが
あったのだが、純子が声を上げたのはそれが理由ではない。
先に来て騒いでいたのは男子ばかり三人と知れた。勝馬、清水、大谷の面々。
ふかふかした絨毯に座り込んで、何かのゲームをやっている。
「おっ。よぉ、涼原! 遅かったな」
「遅くなんかないわよ。あんた達こそ、早すぎるんじゃない? だいたい、何
でクラスの違うあんたまで」
と、大谷を指差す純子。
「いいだろ。そっちだって、関係ないのが二人、いるじゃんか」
「関係なくないっ。私達は同じクラブだから呼ばれたのよ」
井口が声高に言い返すと、清水が勝ち誇ったように、
「なら、大谷も俺と同じ野球部だ。文句あるまい」
と、胸を張った。
ふと、白沼を見ると、どことはなしに呆れ顔をちらつかせつつも、
「みんなが揃うまで、しばらく待っててよね」
と言って、部屋を出て行った。
(お家の人に挨拶しなくていいのかな)
そんな考えがよぎった純子だが、気にする間もなく、清水がちょっかいをか
けてくる。
「モデル、もうやらないのか」
「な−−何よ」
改めて室内を見回し、自分の「副業」を、この場にいる全員がすでに知って
いると確認する。
壁と自らの頭の間にクッションを挟み、清水は足を投げ出した姿勢で続けた。
「あれから気になって、ずっとファッション誌を見てるんだけど、全然出ない
じゃねえか。やめたのか。もったいない」
「あんたには関係ないでしょ」
清水と言い合いを始めた純子の横をすり抜け、富井と井口はコートを脱いで、
部屋の中ほどに陣取った。室温は春、下手をすると初夏を思わせるほどにぽか
ぽかだった。
「その話なら、私も知りたーい」
富井が手袋を外した勢いで、手を挙げる。井口もマフラーを丸めながら、大
きくうなずいて、同感の意を示した。
さらには勝馬も、
「相羽に聞いても、何にも教えてくれない。ないならないで、はっきり言うと
思うしなあ」
と、なかなか鋭い観察眼を誇示した。
「だめだったら」
両手を下向きに突っ張り、力一杯に拒否する純子。一人だけ厚着のままだか
ら、暑さで顔が赤くなりつつあった。
(白沼さんに聞かれると、説明に困る!)
焦る思いで、純子は必死に言葉を探した。
「えっとね、芙美に知られたことだから言うけれど。他の人には言わないでよ」
場にいる全員が、「うんうん」と軽い調子で首肯する。
純子は声量を落とし、三つ目の撮影があったという点のみを告げた。内容に
は一切触れなかったから、多分、みんなは今度もAR**のモデルなんだと信
じたであろう。
ようやく一息ついて、純子はダッフルコートを脱ぎ去り、持って来たプレゼ
ントの箱と一緒に隅っこに置く。手に握りしめっ放しだった耳当ても、ピアノ
の横にあるガラスのショーケースの上に置かせてもらった。
「わ、きれいなお人形」
ケースの中にある物を認めて、純子は小さな声を上げた。
「何なに?」
たちまちにして、他の女子二人が集まる。
ガラスの向こうでは、手の平サイズの木こり達がそれぞれ斧を振るったり、
材木を運んだりしている。数は七人、頭には色違いの三角帽を被っているとこ
ろから、白雪姫に出て来るこびとを思わせる。
「顔が外国っぽいね」
「うん。それもアメリカじゃなく、ヨーロッパって感じ」
まさしくフィーリングだけの会話。
「そんなもんより、こっち来て、一緒にゲームやろうぜ」
大谷の情緒のかけらもない言い種に三人は呆れたが、他に時間潰しの種があ
るでもなし、結局は男子達の輪に入ることにした。
−−つづく
#4348/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:47 (180)
そばにいるだけで 18−8 寺嶋公香
★内容
「全員で何人来るのか、誰か聞いてる?」
井口の問いに、勝馬が応じる。
「白沼さんを入れてちょうど十人が集まるんだってさ」
「てことは」
指折り数え始めたのは富井。「私でしょ、純ちゃんに久仁ちゃんでしょ……」
という風に、右手の立てた指五本を左手の人差し指で丁寧に下げたり上げたり
する。
「相羽君が来れば八人。あと二人は?」
「長瀬と柚木だって」
「じゃあ、女子は私達だけ?」
「そういうこと」
しばらくして、その長瀬と柚木が現れた。先ほどの純子達と同じように、白
の案内で部屋まで来ると、たちまちの内に空気に馴染む。
「もうそろそろなのに。誰か、相羽君から連絡でも聞いてない?」
部屋を去る間際、手首内側の小ぶりな腕時計を見つつ、白沼が言った。
「なーんも聞いてないぞ」
清水が言う。他のみんなも同様だ。
(どうしよう)
朝方から昼間にかけて相羽と顔を合わせている純子は、その事実だけでも言
おうか言うまいか、いくばくか悩む。
(言ったからって、ここへ相羽君がいつ来るか、はっきりするわけでもないし
……困ったな)
白沼の心ここにあらずといった態度が、気の毒に思えてくる。
よほど言おうかと口を開きかけた折−−。
「絵里佳お嬢様。相羽信一さんがお越しです」
お手伝いさんの呼ぶ声に、白沼は花が咲いたように表情を明るくし、スカー
トの裾を広げる勢いで振り返ると、廊下を走って行った。
「うわあ……何だか、見えてきたよね」
純子の傍らで、井口が小声で言った。
「純や芙美が噂してる、白沼さんの凄さが……」
「うん、うん」
富井も一緒になって、しきりと感心する。それから口元を引き締めた。
「でも、負けてられないよぉ」
やがて白沼に腕を引っ張られる感じで、相羽が現れた。
「相羽君が最後よ。これで全員揃った」
「あ、遅くなって、ごめん」
謝る相羽だが、今はそれ以上に、白沼に腕を抱えられて動きにくいのが迷惑
そう。
「いいのよ。ちょうど六時。じゃ、ダイニングの方に移って」
白沼に従い、全員で部屋を出た。
夕食のメインは七面鳥の丸焼き。本物の七面鳥料理を見るのは、テーブルに
着くほとんど全員にとって初めてだった。
他には、オマール海老のグラタン。縦割りにした海老の殻を器に使っている。
(相羽君の好物だってこと、聞いたんだろうなあ)
スプーンですくって食べながら、そう思う純子だった。
左斜め前の相羽を見ると、特に意識した様子もなく、淡々と口を動かしてい
る。
ただ、その左隣にいる白沼が、「味、気に入ってくれた?」とか「ジュース
のお代わり、いくらでもあるから」とか、いちいち話しかけるのが気になった。
富井と井口に目線を向けると……。
「いいなあ。私の家でもパーティ、開けたらいいのに」
「そうしたら、相羽君を呼んで」
などと話している。
(そんなに心配するほどじゃないみたい)
呆れ気味の吐息をしてから、純子は最後のひとすくいを口へ運んだ。
「いい食べっぷり」
右横の席に座る長瀬が、気取った調子で息をくすっとこぼす。
「女子の中では一番だ」
「こ、これは……他のみんなは喋ってるから。ほら、私、黙々と食べてた」
口を覆い隠しながら、純子は顔を赤くした。見られてるなんて、全く意識し
ていなかった。
「そんな恥ずかしがらなくても、確かにおいしいんだから、仕方がない」
「ジュ、ジュース注ごうか、長瀬君。コップ、空っぽ」
話題を逸らそうと、純子は長瀬の手前にあるコップを指し示すと同時に、開
けたばかりのペットボトルを持つ。
「ほんとだ。ありがたく」
差し出されたコップに、純子はジュースを注ぎ入れる。縁ぎりぎりまで、オ
レンジ色の液体で満たされた。表面張力の働きが、はっきり見える。
「あ。入れすぎちゃった」
「いいって、いいって」
口を付けて少しすすってから、長瀬は手で前髪を梳き上げた。
「涼原さんは、どうして今日、来たのさ?」
「どうしてって……成り行きかな」
白沼の方を気にしつつ、抑えた調子で答えた。
「相羽君の関係で、調理部の一年三組はみんな誘われた。私はそのまたおまけ」
「そうか。白沼さんは相羽がいればいいってわけだな。僕らは、だし」
言って、長瀬は柚木に話しかける。
対する柚木は、のんびりとした口調で応じた。眼鏡を外しているのは、食事
中は湯気で曇るためだろう。小さな目が、りすかうさぎといった小動物のそれ
を想起させる。
「なるほどー、おかしいと思ったんだ。長瀬はともかく、自分みたいなのが呼
ばれるなんて」
言い終わってから、からかうように長瀬を小突いた。
「僕だって、今じゃ似たようなものだ」
「……長瀬君て、ひょっとして、白沼さんと……?」
会話の端々から微妙な違和感をかぎ取った純子。
長瀬ははぐらかすように、小皿にあった肉の切れ端を口に入れる。それを飲
み込んでから、まだ純子が見つめているのに降参したか、仕方なさげに答える。
口に片手をやり、内緒話のように純子へ。
「小学校のときね。ちょっとだけ、つき合いみたいなものを……」
「へえ! それで?」
「僕も白沼さんも、自分のペースって物があって、噛み合わなかった感じ。そ
れで、ほとんど自然消滅みたいに別れて。まあ、今でも『お友達』だってのは、
今日招待されたことで確認できた」
顔を遠ざけると、自嘲する長瀬。
「招待を受けてやって来たってことは、長瀬君は今、誰とも?」
「そうだよ。なに、涼原さん、デートしてくれるって?」
「何でそうなるのよっ。もう……第一小にいた子って、みんなそんな感じよね。
長瀬君も、唐沢君も」
「あいつと一緒にしないでほしい。今日も明日も、ハーレム状態じゃないか、
きっと」
長瀬の推測は当たっている。
ただ、今日の午前中だけは違った。
(西崎さんを見送りに来たときの唐沢君は、真面目だったのよね。見違えるぐ
らい。……西崎さん、元気にしてるかしら)
少し思い出してから、頭を小さく振る純子。
(今、他のことを考えるのは、白沼さんに悪い……)
「おーい。何の話、してんだ?」
純子の情動なんて一切知らず、清水がやたら大声で話しかけてきた。
「長瀬、馴れ馴れしいゾ」
食べる方もお留守にする気はないらしく、むせかけながらも言い続ける清水
に、純子は苦笑いをしてしまう。
「大した話じゃないわよ。それより、初めて来た家で、そんな行儀の悪い食べ
方、よくできるわね」
「そんなこと言ってると、早く老けるぞー」
「よ、余計なお世話!」
思わず声を高くしてしまうと、すかさず勝馬が突っ込んでくる。
「涼原さんも結構、行儀悪いんじゃない?」
途端に、しおしおと肩を小さくする純子。合わせるようにして、笑いが起こ
った。
食事のあと、場所を最初の部屋に移して、プレゼントの交換会。
「どうするんだ?」
やけに大きな袋を両腕で抱え、その横から顔を覗かせるのは清水。
「輪になって、唄いながら回していくのかな?」
長瀬が白沼に尋ねる。彼の手には、きれいに包装された小振りな箱が。
「それだと、誰の物がどうなっているか、途中で見えてるじゃない。面白くな
いでしょ。それで考えたんだけど、やっぱりこれが一番よね」
白沼は、普通サイズのこたつぐらいありそうな紙を広げた。そこには梯子の
ような絵がいくつかマジックで描かれており……。
「あみだくじか、なるほど」
相羽は納得したように、軽くうなずいた。
白沼も嬉しそうにうなずくと、紙面を−−彼女から見て下の方を指差す。
「どちらにも名前を書くんだけど、下はみんなの持って来たプレゼントを表す
のよ。先に下を埋めてから、上を書くわけ」
説明に、みなが首肯する。
「それでは……初めは相羽君からね。五十音順」
白沼が言って、相羽に青のマジックペンを手渡す。
「その前に、聞きたいんだけど、当然、あとで何本か線を引けるんだよね?」
キャップを取りながら質問する相羽に、白沼は「もちろんよ」と返事した。
相羽は十本ある線の内、左から三番目へ名を記した。
それを見ていた純子は、同じようにする白沼の視線が熱っぽいのに気付いた。
(白沼さん、じっと見つめてる……。あ、そうか。相羽君のプレゼントをもら
おうとすれば、ようく注意しとかなきゃ)
そう思い当たってから、富井と井口に目を向けると、やはり同様に、相羽の
書き込む場所に並々ならぬ関心を示していた。
もちろん、次に注目すべきは上の方に、相羽がどこに名前を書くか、である。
と言っても、いくら努力したって、最後に付け加えられる横棒数本が運命を握
っているのだが。
五十音順と言いつつ、白沼自身は最後に回って、全箇所が埋まった。
棒を書き加えていくのも、この順番で行われる。
(そっか、白沼さんが最後をやりたがるはずだわ)
ここに至って、やっと気付いた純子。
(最後に線を引けば、自分が思う通りにできる確率が高いわけね。変だと思っ
た。私の前で白沼さんを飛ばしたのには、そういう……)
あからさまではあったが、大胆さが白沼らしいとも、妙に納得した純子であ
った。
「斜めに引くのはかまわないけれど、隣の線を飛ばして引くのはなしよ。分か
った?」
白沼の注意のあと、めいめい、引いていく。
(誰に当たるのかなぁ)
純子の目下の関心事は、自分のプレゼントが誰に渡るのかということ。
(去年のクラス会みたいに、また清水に当たるのはごめんだわ)
そうこうする内に、最後の白沼が線を引く番になった。彼女はたっぷり間を
取ってから、細い線を書き入れた。その直後の表情から、うまく行ったに違い
ないと推察できる。
「それじゃ、端から順番に……最初は柚木君。やってみてよ」
指を当てて、線を辿っていく柚木。
「男からはもらいたくないけどなあ」
そんな願いも空しく、彼が引き当てたのは清水の分。両者ともげんなりした
顔になる。
「ま、いいか。柚木にもぴったりだからな。部屋の片隅に置いてくれぃ」
「どういう意味だ?」
「開けてみろって」
清水は柚木に大きな包みを渡した。
皆が注目する中、柚木がやや荒っぽい手つきで袋を開ける。
「−−これを俺の部屋に置けって言うか?」
−−つづく
#4349/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:48 (185)
そばにいるだけで 18−9 寺嶋公香
★内容 16/10/14 02:12 修正 第2版
柚木が素っ頓狂な声を上げるのも道理で、中から出て来たのはピンク色の固
まり−−大きな豚のぬいぐるみだ。かなりデフォルメされており、ウィンクが
愛らしい。当然のごとく、純子達第三者は大笑い。
「おお。せいぜい、かわいがってやってくれたまえ。結構、かかったんだし」
清水は笑いが取れたことに満足したか、胸を張った。
「こんなギャグのために、金をかけるなよ」
ばか負けしたみたいに柚木は言って、ぬいぐるみの鼻を突っついた。
「面白いね。触っていい?」
純子が聞くと、戸惑ったように「あ、ああ、いいよ」とぬいぐるみを放り出
す柚木。
純子、富井、井口の三人で、ぬいぐるみの鼻や耳やら手足やらを、引っ張っ
たり押し込んだりする。
「この尻尾、かわいい! くるくる渦巻き!」
なんて言いながら、尻尾を引っ張って放すと、バネのように戻った。
「やっぱ、女子に当たった方がよかったみたいだぞ」
「そうだな、うん」
大谷と清水がそんなやり取りをする。
と、白沼が待ちきれないように口を開いた。
「次は富井さんなんですけど」
語尾を高くした言い方に、富井はすぐさま反応。
「はいはぁい。では……どっこへ行くのっかなあ」
鼻歌混じりに指を進める富井。やがてその指が止まり、富井のふっくらした
笑顔が曇る。
「がっくり。久仁ちゃんだよぉ」
「私もがっくりだわ」
頭を抱える井口。
落胆したのは二人だけではない。一部の男子も感情を−−冗談ぽく−−露に
した。
「少ない女子同士で組み合わさっちゃうと、もったいない。ボク、凄く寂しい
気分」
勝馬が言って、首を折って下を向いた。
「泣くな。まだチャンスはあるぞ」
長瀬が笑って勝馬の肩を叩くと、勝馬は「気休め、どーもどーも」と返す。
こんな風に笑いを交えながら、あみだくじは進んでいった。そしていよいよ、
白沼が辿る番が巡ってくる。
(当然、相羽君のところに……)
白沼の横顔を見ながら、純子はそう信じ込んでいた。ところが、実際は違っ
たものだから、びっくりして、思わず「えっ」と声を上げた。
「何が『えっ』なの?」
「う、ううん。何でもない」
井口から指摘されたので、慌てて首を振ってごまかす。
「柚木君は、何を用意してくれたのかしら?」
白沼は笑みを絶やしていない。ということは、失敗ではないのだろう。純子
は心中、首を傾げながら事態を見守る。
柚木の持って来た平べったい包みは、三十六色の色鉛筆。それも単純に赤や
青といった名称ではなく、「学校帰りの秋の夕焼け色」とか「南極の流氷越し
に見た空色」といった奇妙に凝った名前が付いている。
「使わなくても、これなら面白いかと思って」
「いいわねえ。見てるだけで、楽しい……と言うよりも、笑っちゃいそう」
白沼が指差したのは、「役目を果たし終えた枯れ草色」。確かに、凄いネー
ミングセンス……。
純子の疑問は解消されないまま、あみだくじは続く。やがて順番が回ってき
た。さすがに自分のこととなると、どきどきの度合いも一段と高くなる。
「−−大谷」
行き当たった名前を口に出し、振り返る純子。
大谷はVサインを作って応える。その笑顔が怪しい。
「変な物じゃないでしょうね」
「うーん。どちらかと言うと、よくある物だよな」
大谷が答えるその横で、清水が「そうそう」と言って、やっぱり笑っている。
「何か、ありそうな……」
「いいから、開けてみろって」
大谷から渡されたのは、直方体をした箱。包装紙の上からでも、固い感触が
伝わってくる。両手を揃えればちょうど載るぐらいの大きさで、重さはさほど
ない。純子は慎重な手つきで、紙を取り去った。
木箱が現れた。上部は蓋になっているらしくて、花や蔦のイラストが施して
ある。なかなかきれいな外観と言えた。
(オルゴール? それにしてはゼンマイを巻くつまみがないわ)
純子は警戒の眼差しを大谷と清水に向ける。
「どうしたー? 蓋があるだろ。早く開けろー」
「うるさあいっ、今開けるったら!」
右手を蓋に掛けようとしたその瞬間。
「あ」
ほとんど肩越しに手が伸びてきたかと思うと、純子の左の手の平から箱を持
ち去った。
相羽だった。
「あ、あんた、何を」
「待ちきれなくて」
ふっと笑みを見せると、相羽は小さな木の箱を持った左手を、いっぱいに前
に突き出してから、右手の指先で蓋を開けた。
と、突然、機械的な音声があふれ、同時にハロウィンのかぼちゃみたいな赤
色の物体が飛び出してきた。
「こんなことだろうと思った」
相羽は左手を引き寄せ、赤い球の部分を指で弾く。
バネの先端にお化けらしい丸っこい顔が付いていて、蓋を開けるとそれが飛
び出し、連動して意味不明の音声が流れ出す仕組みになっているようだ。蓋を
閉じると音が止まる。
「びっくり箱なの? よくもまあ、こんな子供だましな物を……」
純子自身、唖然としてしまって、開いた口が塞がらない状態。
「そんな風に言わないでくれよ。これでも必死に考えたんだぜ。誰にでも通用
するプレゼント」
言い訳しながら、大谷は清水の後ろに逃げる体勢。もっとも、清水の方も若
干及び腰であるようだ。
「プレゼントねえ。びっくり箱もらって、どうやって使えって言うのよ、全く」
「そんなことよりも、何故分かったのよ、相羽君?」
白沼が言って、相羽の右腕を揺すっている。
相羽は小刻みに揺れながらも純子にびっくり箱を返し、のんびりした口調で
答えた。
「別に……二人の態度がいかにも怪しかったし、そういう形のびっくり箱、お
もちゃ屋で見かけた記憶があったからさ」
彼の答に、白沼は「なあんだ、びっくりした」とわざとらしく驚いてみせ、
おもむろに涼原に向かって小さな声で言った。
「こんなことなら、私が大谷君のに当たればよかったわ」
純子は何も返せず、白沼と富井、井口の二人を交互に見やって、ただただ冷
や汗混じりの笑みを浮かべるしかない。
くじは大詰めを迎え、相羽の番。
そして。
「−−ああ、よかったわ!」
相羽のもらう相手が決まった瞬間、その当人である白沼が声を上げ、手をぱ
ちぱちと叩いた。
「相羽君に当たってくれたらいいなって、ずっと祈っていたのよ。クリスマス
の神様が、願いを叶えてくれたのかしら」
白沼の弾んだ口調に、相羽は圧倒されている様子。
(そっか、やっと分かったわ。白沼さん、これを狙ってたのね)
相羽にプレゼントの包みを渡す白沼を見、その考え方に呆気に取られてしま
う純子。
(白沼さんは相羽君のプレゼントがほしかったんじゃない。ううん、ほしかっ
たでしょうけど、それ以上に、自分自身の物を相羽君にあげたかったわけね。
それのために、くじに最後の一本を書き加えた……凄い。よくやるぅ)
そうなると、白沼が一体何を用意したのか、少なからず気になるところだが。
「お家に帰ってから開けて、ね」
と白沼に念押しされては、相羽も従うしかなく、他の者は中身を知ることが
できなくなった。
さて、純子のプレゼントに行き着く者は最後までなく、結局、勝馬があみだ
くじを辿らずして、その該当者と分かった。
「女の子からプレゼントをもらうのって、初めてだから、感激だなぁ」
どこまで本気で言っているのか、表情が緩みっ放しの勝馬に、純子は「はい
はい、どうぞ」と手渡しした。
「開けようぜ」
関係ない清水と大谷が主張するのを、横目でにらむ純子。
「こら。一応、私に断りなさいよね」
「いいんだろ、どうせ?」
清水は相変わらずの調子だったが、もらった当人である勝馬は、
「あ、開けてもいい?」
と、いつになく丁寧な物腰で聞いてきた。
「どーぞ。慌てて割らないようにね」
相羽や長瀬らも注目する中、箱から出て来たのはペアのマグカップ。暖色系
を帯びたクリーム色と言えばいいのだろうか。とにかく、何も注いでいない状
態でも、見た目で温かい感じのする色合いだ。カップの表面にはほのぼのとし
た風情のイラストがあって、一つはピンクの髪をした女の子、もう一つは水色
の髪をした男の子と一目で分かる。ともに真正面を向き、背伸びした格好で、
目は細いと言うよりもむしろ、閉じられているらしい。
「ありがとう」
さも嬉しそうに、カップ二脚を取り出し、眺める勝馬。
「子供っぽいの」
例によって清水がけなすが、それに対して純子が反発する前に、また相羽が
口を開いた。
「−−なるほど、ちょっと面白いな」
「何が?」
「勝馬、そのカップ、並べてテーブルに置いてみて。引っ付ける感じで」
「変なこと言う……。こうか?」
不思議がりつつ、言われた通り、二つのマグカップをぴたりと近接させた勝
馬。取っ手の部分が、ちょうど正反対に向く形である。
「これがどうしたって?」
「横から見れば分かる」
相羽の言葉に誰もが−−買ってきた純子も−−しゃがんで、横方向からカッ
プを眺める。美術館の目玉ショーケースに群がる入場者といった感じだ。
「あ」
全員の反応は全く一緒。短く叫んで、程度の差こそあれ顔を赤くする。
イラストの二人は、口づけをしているのだった。
「並べると、こういう絵になるように描いてあるみたいだね。知ってたの?」
純子を流し目で見やってくる相羽。その目元に、ちょっとした笑みが浮かん
でいた。
「し、知らなかったわよ。お店に並べてあったときは、同じ方角を向いていた
から、この絵」
急いで答える純子。
その背後から、大谷が意地悪く指摘する。
「とか言って、やらしいこと考えて……」
「大谷クン」
一八〇度、くるりと向きを換え、純子は半眼を作った。両手首を腰に当て、
首を心持ち傾げるのも忘れない。
「そう言う自分は、何を持って来たんだったかしら」
「う」
たちまち縮こまる大谷。今度は清水も助け船を出さない。
「びっくり箱持ってくるような人には、そういう単純な思い込みしかできなく
ても、不思議じゃないけれど」
「も、もう、謝ります。ごめん、悪かったです」
ついには、ぺこぺこし始めた大谷。
「全く、最初から、余計なこと言わなきゃいいのに」
「それは……涼原さん、怒ると恐い」
「何よ、それっ?」
純子が一喝すると、大谷は猫から逃げる鼠のごとく、物陰−−清水の背−−
に隠れた。
プレゼント交換会は、笑いの渦の内に終了した。
−−つづく
#4350/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:49 (167)
そばにいるだけで 18−10 寺嶋公香
★内容
またも騒ぎすぎてしまったかなと、純子は少し反省して、部屋の隅で大人し
くしていた。
今、みんなはかわりばんこにゲームをしている。一位の特典は、あとで出て
来る大きなクリスマスケーキの、好きなところを選べるというもの。白沼の話
によると、色々とデコレーションされていると言うから、どこを食べるかは割
に重要かもしれない。
「涼原さん、ちょっと来て」
白沼にこそっと呼ばれた純子は、その空気を感じ取り、自らもこっそりと立
ち上がった。幸い、みんなゲームに夢中で気付く様子はない。二人はそっと部
屋を出た。
比較的ひんやりした廊下に出ると、白沼は慎重な動作で部屋のドアを音もな
く閉める。
「白沼さん、何?」
何を言われるのだろうといくらか緊張して、純子は胸の前で手を握りしめる。
白沼はさらに辺りを伺うような仕種を見せてから、ようやく喋り始めた。
「相羽君の好きな相手、分かった?」
「あっ。ああ、その話……」
ほっとすると同時に、焦りもする純子。
(もしかすると西崎さんかなと思ったんだけれど、今日の様子だと違うみたい
だし……結局、前いた小学校の子なのよ、きっと)
「それとなく聞いてみてるんだけどね。まだ分からないのよ」
「そう」
一目瞭然、白沼は納得していない。瞳が純子を探るように見つめ返してくる。
(そんな目で見ないでーっ)
「私ね、こんなこと聞いたんだけれど」
白沼は横を向き、ほうっとため息を一つ吐く。
「涼原さん−−」
「は、はい?」
「あなた、六年生のとき、相羽君とキスをしたんですって?」
「え! だ、誰がそんなことを……」
大声を出しそうになるのを、必死で押さえる。
白沼は髪をなで上げ、また息をついた。
「誰でもいいでしょ。まあ、知りたければ教えるけれど。大谷君よ。六年のと
き、同じクラスだったわよね?」
「そう、だけど……」
口止めしているはずもなかった。
(まずいなぁ……。本当のいきさつを知らないんだから、どんな風に言ったこ
とか……)
純子が伏し目がちに相手を見る。白沼はまだ横を向いていた。
「本当かしら?」
「え、えっと。そのぉ……く、唇と唇が触れたのは本当だけど」
顔が赤くなるのを感じる純子。舌もうまく回ってくれない。
「それじゃあ、キスしたのね?」
「とんでもないっ」
こちらを向き直った白沼に、純子は慌てて手を振った。
「しようと思ってしたんじゃなくて、偶然よ、偶然」
それから、厳しく追及してくるいとまを白沼に与えないように、自分から説
明をした純子。
(遠野さん、ごめん。一年以上経ったし、名前は出さないから許してね)
心の中で拝みながら、体験したままを伝えた。
「ね、ほんとのキスじゃないでしょ?」
「……そのようね」
いつの間にか腕組みをした白沼が、大きくうなずいた。
「でも。その、かばった相手が、相羽君の好きな子ってことはないのかしら」
「それもないみたい」
「ますます分からないわね」
考え疲れた風に腕組みを解くと、白沼は柔らかな顔つきに戻る。
「ごめんなさい、変なことを聞いて。噂を聞いて、気になってたまらなかった
のよ。分かってくれるでしょう?」
「ええ。気にしてないから」
笑顔で応じる純子。白沼にも笑みが戻った。
「さあてと。ちょうどいい時間だから、ケーキの準備、手伝ってくれる?」
「お安いご用」
二人は揃ってキッチンへと向かった。
白沼の言葉に嘘はなかった。
いや、むしろ、いかにも普通サイズのデコレーションケーキを想像させたの
は、嘘になると言えなくもない。
実際は、一抱えもありそうな、特別注文のケーキだった。
一足先に驚いた純子に続いて、部屋にいた八人も声を上げる。
「でけえ!」
「こうと分かってたら、もっとゲーム、頑張ったのにな」
「この家やサンタ、食えるのかな?」
「早く味見したい!」
等々。そんなざわめきの中、ケーキを自らテーブルに置く白沼。
「折角クリスマスなんだから、それなりに雰囲気を出さないとね、つまんない」
そう言って、細く色とりどりのキャンドルをケーキに立てていく。全体を覆
うチョコレートのコーティングの所々に、小さなひびが入るのは致し方ない。
二十本ほどだろうか。ありったけの蝋燭を立てたにも関わらず、ケーキの上
に狭苦しい印象はない。その一つ一つに、白沼はマッチで手際よく、しかも上
品に火を灯していく。
白沼に純子が知らせる。
「お皿、並べ終わったわ」
「あ−−長瀬君。電気、消していいわよ」
電灯のスイッチの最も近くにいた長瀬は、言われるがまま消灯した。
それまでの蛍光灯の白い光がなくなり、蝋燭の薄明かりがぼんやりと室内を
照らす。先ほどより暗くなったのに、今の方がより暖かい感じがする。
「そこから離れちゃだめよ、長瀬君。あとで点けてもらうんだから」
「分かってるって」
「それじゃ、そうねえ。みんな、『きよしこの夜』、唄える?」
白沼の問いかけに、返答は様々。唄える、忘れたという声はもちろん、日本
語なら唄える、なんていうのもあった。
結局、忘れている者はハミングでということになった。
「相羽、ピアノ弾けば?」
唐突に勝馬が言った。
「難しい曲じゃないだろ、『きよしこの夜』って?」
「『きよしこの夜』は、ピアノよりオルガンの方がいい。それも、教会にある
ようなパイプオルガンが」
相羽が遠慮したそうな回答をするも、今度は白沼が乗り気になった。
「あら、相羽君、ピアノを弾けるの? だったら、ぜひ弾いてよ」
「でもなあ。それなら、白沼さんが弾けばいい」
「私はあなたの演奏で唄いたいの。防音も完璧だから、思いっ切りどうぞ」
「うーん……」
「お願いよ」
暗がりの中の問答は、白沼の甘えた声で決着した。
「長瀬、悪いけど、明かりを」
「オッケー。やれやれだな」
呆れ口調の長瀬によって、室内に白い光が再び戻る。
てきぱきした動作で、白沼はピアノで演奏できる準備を整えた。最後に丸椅
子を引き出して、「さあ」と手で示す。
「調律は今月に入ってしたから、大丈夫と思うわ」
「−−そうだね」
軽く鍵盤に触れてからうなずく相羽。
「それじゃあ、まあ、つたない演奏ですが、伴奏のために」
相羽が言って、長瀬がもう一度電気を消す。
みんな、ケーキよりも、ピアノの周りに集まっていた。
しばしの静寂を取ってから、音が流れ始めた。
* * *
曲が終わると、相羽を除く全員が、一様に拍手した。
「拍手されるようなもんじゃないよ」
言って、さっさとピアノを離れる相羽。明かりは落としたままだから、少々
危なっかしい。
「ううん、よかったわ。いつか、他の曲も聴かせて」
白沼もピアノのそばから離れ、ケーキのあるテーブルへと歩み寄る。
「いい加減、消さないとね。誰が消すのがいいかしら」
「そりゃ、当然、白沼さん……」
柚木の反応に、白沼は「あらぁ、いいのかしら」と、高い声音で答える。
「どうでもいいから、早くしてくれよ。お預け長すぎるぞー」
清水のブーイングに、眉を寄せたらしかった白沼だったが、気を取り直した
ように軽く頭を振った。
「そうね。じゃ、私が」
ほんのちょっぴり、息を吸い込むと、白沼はおちょぼ口のまま吐き出す。
そんな弱い風では、蝋燭の炎は一つも減らない。
「あらあ、だめだわ」
ひどく残念そうに言うと、白沼は近くに立つ相羽の手を引いた。
「私には無理みたい。代わりにお願い」
「僕が?」
参った風に片手を頭にやった相羽だが、もう充分すぎるほど時間を費やして
いる。覚悟を決めたように、大きく息を吸った。
一気に吹き消すのかと思いきや、ふ、ふ、と小出しに空気を漏らして、確実
に消していく。
「何だそりゃ?」
長瀬が力が抜けたような声で言う。
「いや−−この方が−−早いと−−思って」
消しながら、途切れ途切れに答えた相羽。程なくして、全て消し終え、ほぼ
真っ暗になる。間髪入れず、長瀬が明かりを点灯。
「ありがとうね」
どちらに言ったのか分からないが、とにかく礼を述べた白沼は、皆に席に着
くよう指示した。
「ゲームで一番だったの、誰?」
蝋燭を抜き取り、ナイフ片手に見渡す白沼。長瀬が「僕だ」と応じる。
そんな風にしてケーキの切り分けが行われる中、場の流れで純子の隣に座る
形になった相羽が、誰に言うともなくつぶやいた。
「大きなケーキって、いいな」
「ん?」
ただ一人聞きとがめた純子は、思わず振り返った。そしてにんまり笑って、
冷やかし気味に言う。
「大きい方がいいの?」
「え? あ、聞こえた?」
「案外、食いしん坊なのねえ」
「……うん。たくさん食べられる」
驚いたのかとぼけたのか判断しにくい丸い目をして、相羽は答えた。
−−つづく
#4351/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:51 (161)
そばにいるだけで 18−11 寺嶋公香
★内容
チョコレートやクリームをふんだんに使ったケーキが行き渡ると、揃って食
べ始める。
「おいしい!」
ケーキに目のない富井が、一際大きな声で感想を漏らした。
「でしょう?」
白沼も負けないぐらい存在感のある言い方で、得意そうにうなずいた。
デザートタイムが終わると、お待ちかねの−−でもないか−−隠し芸大会。
「やっぱりやるのね」
「もっちろん」
純子らの言葉に、白沼はにこにこ答える。
「さっきピアノやったから、勘弁してくれないかな」
相羽は食べ過ぎたのか、足を投げ出し、上向きの状態。と言っても、彼自身
が欲しがったのではなく、白沼に半ば強引に食べさせられたという格好だ。
「だめよ。何だったら、同じピアノでもいいから」
じゃんけんの結果、隠し芸の順番は、トップが白沼。次いで柚木、純子と富
井と井口の三人、勝馬、清水と大谷コンビ、長瀬、取りが相羽と決まった。
「お茶でも踊りでもよかったんだけれど」
そう前置きした白沼はバイオリンの演奏を披露した。機械みたいに正確に弾
いていき、無難に終えた。
「すごーい」
皆の前で、自信満々に始めただけあって、確かにうまい。全員、感心の拍手。
特に、井口はかつてバイオリンをやっていたせいもあってか、「負けたぁ」と
こぼしていた。
続く柚木は記憶術をやった。全員に三つずつ単語を言ってもらい、記憶。そ
れを順番通りに言ったり、逆順に言ったり、あるいは「八番は?」と聞かれた
ら「カメラ」と答え、「ヘリコプターは?」と聞かれたら「二十二番」と答え
るといった芸当も。
「さすが、暗記物は勉強の方も得意だもんな」
と、長瀬の言葉にみんな納得。
三番手は、純子達三人の歌プラス物真似。ほとんどやけっぱちの受け狙いで、
フラッシュ・レディの主題歌を唄う。三人組の歌手が唄っているのもぴったり。
予想できたことだが、スタートしてしばらく経つと、清水や大谷が親衛隊よ
ろしく、「レイちゃーん!」「エアちゃーん!」「マリンちゃーん!」と息を
合わせて声援を送ってきた。紙テープがあれば、飛ばしてくるところだろう。
おかげで、やりにくいったらない。
終わる頃には、少なくとも純子は、気疲れで心理的にぐったりしてしまった。
(楽しんだことは楽しんだけど……)
緊張と恥ずかしさとで浮き出た汗を手の甲で拭っていると、
「白沼さん、タオルか何か、貸してくれないかな」
という声が。相羽だった。
「みんながあの様子だから」
「いいわよ」
気安く受けて、腰を上げる白沼。少しして、白、ピンク、水色のタオルを持
って来た。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
白沼から直接受け取って、純子は他の二人にも回す。
「相羽君も、ありがとねー」
富井と井口が相羽に手を振る。純子も遅ればせながら、頭を小さく下げた。
「いいって。そんな大げさな」
軽い笑みで応えると、相羽は早くも次の隠し芸に注目している。
勝馬がやったのも、物真似だった。ただし、有名人を真似るのではなく、声
帯模写の類。リクエストを聞いて、できない物、たとえば虎を言われると「虎
は今日は風邪でお休みだから、代わりにパトカーでどう?」と受ける。そして、
パトカーのサイレンが近付き、横を通り過ぎ、遠ざかっていく様を割と達者に
やってのける。
「勝馬君て、あんなにうまかったっけ?」
「うん。前はただ真似てるだけだったのに」
何度か見たことがある純子や富井達は、こそこそ言い合った。
やがて演じ終わった勝馬が、相羽に「どうだった?」と聞いている。相羽は
指でオーケーサインを作った。
(あ。もしかすると、相羽君が教えた? 面白く演じられるように、どう喋っ
たらいいかって)
相羽の手品での演出を思い、純子は自分の想像が当たっているに違いないと
確信を持った。
五番目の清水と大谷は、一年前と同じく漫才。傾向は同じだったが、中身は
新しくなっていた。
(いつ練習してるのかしら。まさか部活のときじゃないだろうし)
あれこれ空想すると、おかしくなってしまう。もっとも、漫才を見ているの
だから、いくら吹き出そうが気にする必要はない。
続いて長瀬の登場。柚木と並んで、純子達はまだあまり知らないクラスメー
トだけに、注目。
「体力芸をやりたかったんだけど、他人の家では無理だから、こういうのを」
そうして彼が取り出したのは、小さなスケッチブックと鉛筆。
「なんだ、似顔絵ね」
白沼がいち早く言うと、長瀬は「ああ、ばらさないでほしかった」と片腕を
目に持って行き、泣く真似。
「私にとっては、隠し芸じゃないわね」
「固いことは言いっこなし。さて……男を描いてもつまらないし、白沼さんに
はばれてたということで」
と、純子、富井、井口に視線を合わせる長瀬。
女子三人は、急いで居住まいを正した。咳払いなんかもしてみる。
「まずは、簡単に」
鉛筆を動かし始めた長瀬。スケッチブックは斜めに立ててあるので、どんな
絵が描かれているのか、純子達からは窺い知ることはできない。
極めて短時間で長瀬は一枚目を描き上げた。手際よく破り取ると、裏返す。
「わ、私だぁ!」
富井が感嘆の声を上げ、腰を浮かす。彼女だけでなく、みんなが絵を囲うよ
うに集まった。
その絵は、非常にシンプルに描いてあった。大きな目やふっくらしたほっぺ
た、巻き気味の髪といった富井の特長をうまく捉えていて、分かり易い。
「よかった。名前を言わずに分かってもらえた」
長瀬はそう言いつつも、かなり自信があった様子。絵を本人にプレゼントす
ると、二枚目に取りかかった。
「次はアニメ風、漫画風に」
さらさらと鉛筆の動く音がする。
先ほどよりは時間がかかったが、これも短い時間で仕上がった。
「はい、どうだ」
今度も一目で分かった。井口だ。
「ありがとう。うまいのねえ、長瀬君」
「これは可愛く描きすぎだよー」
覗き込んでいた富井が異議を唱える。
「そんなことないわよ。これこそ自画像」
反駁する井口は、両腕を伸ばして、その先の絵をご満悦そうに眺める。
「こんなことで、もめないでくれよ。さあ、最後は当然、涼原さんだけど」
改めて指名され、純子は正座したまま背筋を伸ばした。
「ちょっと時間をかけるから、そんなに緊張してると疲れるぞ」
注意を出した長瀬の目は、純子の顔と紙の上とを盛んに行き来する。
他の男子が、絵の途中経過を覗き込み始めた。白沼ら女性陣も続く。
(うー。気になるよ)
膝の上に置いた両手をもじもじさせながら、純子は苦笑いが勝手に出て来る
のを抑えられない。
スケッチを覗く面々は、最初はくすくす笑ったり、指差したりしていたのだ
が、やがてそういった動きはなくなり、呆気に取られたような表情をして静か
になった。
「−−うん。よし、これで完成だな」
画家気取りで鉛筆を耳に挟むと、長瀬はスケッチをくるりと返し、純子に示
した。
「……あっ」
どきどきして絵を見た純子は、声を上げた。
「じょ、上手……」
それぐらいしか言葉が出ない。
紙面には、リアルなタッチで純子の肩から上の姿が写し取られていた。少し
恥じらいの混じった硬い表情が、忠実に再現されている。
「これ、プレゼントするよ」
「あ、ありがとう」
純子が画用紙を受け取るのを確認すると、長瀬は皆に会釈をした。
「以上、似顔絵三形態でしたっ」
隠し芸大会もいよいよ大詰め。最後は相羽だ。
「どうして、みんながみんな、うまいのかなあ。やりにくいったら、ありゃし
ないよ」
相羽は何をするとも告げず、ゆっくりした足取りで前に立つ。
「何をしようかな……。えっと、とりあえず、招待してくれた白沼さんに感謝
を込めて」
いきなり、白沼へ手を差し伸べる相羽。
「どうか、これを受け取って」
「……? 何もないわよ、相羽君」
空っぽの右の手の平から、視線を相羽の顔へと移す白沼。
「あれ? おかしいな。忘れたか……」
相羽はそう言いながら、右手を一度、振った。次に止まったとき、指先には
紫色の小さな造花が。
たちまち、白沼の表情に喜色が宿る。
「相羽君、手品を見せてくれるんだ?」
花を受け取りながら、声を弾ませる白沼。相羽は小さくうなずいた。
(やっぱり、手品ね。まーったく、気障に始めちゃって)
内心、呆れて笑いながらも、純子は期待通りの展開に胸躍らせる。
「一人だけあげるのは不公平だから、みんなにももらってもらおう。富井さん、
井口さん、そして涼原さんには、同じく花を」
白、黄、緑。何もないはずの手を返す度に、色違いの花が現れた。
「僕らには何をくれるんだ?」
興味深そうに身を乗り出す柚木。
「ま、花ほどじゃないが、結構いいもんだぜ。柚木。手の平を揃えて出してく
れないか」
相羽の頼みに、柚木は素直に両手を出した。蛇口からの水を手で受けるとき
のような格好だ。
「よく見てろよ」
縦に素早く左手を振った相羽。
同時に、銀色に光る円形の物が柚木の手の中に落ちる。
コインだ。
−−つづく
#4352/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:52 (185)
そばにいるだけで 18−12 寺嶋公香
★内容 16/10/14 02:26 修正 第2版
「おお。すげーっ」
つまみ上げ、まじまじとコインを見る柚木。他の男子達も顔を寄せ、不思議
そうにしている。
「おもちゃのコインだけど、割と格好いいだろ?」
「あ、ああ。それよりどうやって……」
「気にするな。さあ、長瀬達も手を出した出した」
柚木のときと同様に、左手をさっと振り、コインを次々と出す相羽。
男子だけでなく、見ている女子も、拍手喝采。特に、相羽の奇術を初めて見
る白沼や長瀬、柚木の三人は、目を白黒させている。
「最後の一枚は、僕の分」
と、六枚目のコインを左手に出すと、相羽は右手指先に持ち替えた。それか
ら視線を室内にさまよわせ、じきに固定する。
「そこのタオル、取ってほしいんだけど」
指差す方向には、先ほど純子達が使ったタオルがまとめて重ねてあった。一
番近い位置にいる純子が応じる。
「一枚でいいの?」
「うん。−−ありがとう」
白のタオルを受け取ると、相羽はそれを広げ、右手にふわりと被せた。
「自分のコインだから、なくなっても平気。こうして、一瞬の内に」
台詞の途中で、タオルを引く。すると、コインは指先から消えていた。
右手に作った握り拳を、じんわりと開いていく相羽。その中もやはり空だ。
「一瞬の内に消してしまっても、それは僕の責任」
「た……タオル、調べていいか?」
長瀬が眉間にしわを寄せながら言った。
「いいよ」
気軽い調子で答え、手渡す。
受け取った長瀬だけでなく、観客総出でタオルを調べたが、どこにもコイン
は隠されてなんかいなかった。
「分かんねえ」
そしてこれまた総出で首を傾げる。
(すっかり、ペースに乗せられているんだわ、これって。でも、分かっていて
も、どうしようもない!)
純子はいじいじしつつ、次の手品を待つ。
以後も相羽は好調を極めた。テーブルマジックに移ると、コインを使った手
品を二つ行い、そのあと得意のトランプを使った手品へ。いくつかやったあと、
お馴染みのカード当てでは当然、白沼の顔を立てて彼女を指名した。そして、
声の変化で当てると言って、白沼にカードを一枚ずつ見せると同時に、「この
カードですか?」と尋ねていく。白沼は全てに「いいえ」と答えてほしいと言
う。
十五枚ほどカードをめくっただろうか。相羽は不意に、「さっき、声が変わ
って、動揺が尾を引いていたような気がする」と、白沼を見据えた。口を手で
覆った白沼に対し、相羽はすでにめくったカードの中から一枚を持ち、「これ
だよね、白沼さん?」−−果たして、正解だった。
「声って、そんなに変わってた?」
相羽を見、次に他のみんなを見回す白沼。信じられないといった思いが、顔
に明白に出ている。
「さあてね」
相羽は曖昧に笑ってごまかすと、唇を舌でなめた。
「喋りすぎて、のどが渇いたな。ああっと、井口さん。そこのコップ、取って
くれる?」
相羽が指し示したのは、手品のために端によけておいたガラスのコップ。さ
っき、ケーキを食べたとき、相羽が使った物で、今は水が半分ほど入っていた。
「これね?」
近くの井口がコップを持つ。その瞬間、水が青みを帯びた。
持っていた井口は、その変化に、コップから慌てて手を離す。テーブルに戻
されたコップは、波打つ水面が収まるのに合わせるかのように、液体が青く染
まっていく。
相羽を除く誰もがどよめいた。
「あーあ、飲めなくなった」
お手上げのポーズを取る相羽。さすがにちょっと、わざとらしい。
(あらかじめ、コップに仕掛けをしたのね! だけど、いつの間に……?)
純子は種自体はある程度想像できたものの、相羽の用意周到さには完全に感
心させられてしまった。
相羽は得意がる様子もなく、普段の態度のまま最後の演目に取りかかる。手
元でカードを見ていき、三枚、抜き出した。テーブルに置かれたのは、スペー
ドのキング、クイーン、ジャック。
「この三枚は、家族です。お父さんがキング、お母さんはクイーン、ジャック
はもちろん子供。一家揃って楽しいクリスマスを迎えるはずが、こいつのせい
で」
相羽はさらに一枚、カードを取り出した。気味の悪い隈取りをした顔のピエ
ロに似たそれは、ジョーカー。
「このジョーカーのせいで、別れ別れになってしまう。えっと、ジョーカーの
役割をやる人が必要なんだ。キング、クイーン、ジャックをカードの山に適当
に差し込むだけ。誰かやってくれる?」
白沼と富井と清水が立候補。一人一枚ずつということになる。
「どこでもいいのね?」
「いいよ。一番上とか一番下だと、面白くないけど」
そんなやり取りを経て、三人によってカードの家族は、相羽の握るカードの
山にばらばらに差し込まれた。
片手でカードの端をきれいに揃えつつ、相羽はもう片方の手でポケットから
新たにカードを出した。裏返すとジョーカーの絵柄。通常、トランプ一組には
二枚のジョーカーが付属しているから、それなのだろう。
「ジョーカーの魔力を消す方法、知ってる?」
見渡してくる相羽に、誰もが首を振るか、「知らない」と答えるかした。
「凄く簡単なんだ。マジックにはマジック。マジックペンがあったら、貸して
ほしい」
「待ってて」
白沼が急いで立ち上がり、しばらくきょろきょろしたあと、筆立ての中から
緑色の細いマジックペンを持って来た。
「これでかまわないかしら」
「充分。ありがとう」
相羽はやはり片手で器用にキャップを外すと、ペン先をカードの上に走らせ
る。ジョーカーの顔の上に、緑の×印ができた。
「あ」
まさかカードに落書きするとは思っていなかったため、小さな悲鳴が起こる。
二枚のジョーカーをみんなに見えるようにかざし持ち、相羽は微笑した。
「こうすれば、ジョーカーの悪い力はなくなり、代わりに……そうだな、いい
魔法使いになる。いい魔法使い二枚で、カードの山を挟むと、カード全体に力
が染み通って、スペードの家族が集まるというわけ」
実際にジョーカーで山をサンドイッチの状態にした。
「でも、効き目が表れるまでに、しばらく時間が掛かる。今日は二十四日だか
ら、二十四秒ぐらい待って」
そう言われると数えたくなる。
みんな、いつもより低めの声で、いーち、にぃ、さーん……と始めた。
二十四を数えきったところで、相羽はカードの山に手を掛け、再びみんなを
見る。そして、一番上と一番下のカード−−つまり、ジョーカー二枚を指差し
た。
「魔法使いの役目は終わりました。お休みしてもらうため、この二枚を取り去
ります。誰かやりたい人?」
井口と勝馬が手を挙げた。相羽は井口にカードを渡し、一番下を取らせ、次
いで勝馬に一番上を取らせた。
「どうもありがとう。これでいい。いくらシャッフルしても、スペードの三人
家族は、一緒だよ」
講釈とともに、手元に戻って来たカードをシャッフルする相羽。
「いつでもストップをかけていいよ。ただし、ジョーカー役をやった人は、ち
ょっぴり魔力が残っているかもしれないから、遠慮してほしいな」
冗談めかし、片目を瞑る相羽に、白沼達ジョーカー役三人は顔を見合わせた。
「ストップ!」
叫んだのは長瀬。一つぐらい見破ってやろうと、かなり頭を悩ませている様
子が傍目にも明らかだ。
「ここでいい? 変えるなら今の内」
手を中途で止めたまま、聞き返す演者。
「そのままでいい」
長瀬が頑なな口調で告げると、相羽はシャッフルの形を崩し、右手を引っ込
める。左の手の平の上には、カードの山が整然と残された。
「次はめくる役だけど……これまで何にもしてもらってない涼原さんと柚木、
大谷に頼もうかな」
「私?」
自らを指差す純子。
「そうだよ。全員が関わったら、どこにもいんちきがないって分かるだろ?」
「そうかな……まあいいわ」
手を伸ばす純子。
「一枚ずつ、上から取っていって。すぐにはめくらないで。三人一斉に開ける。
分かった?」
相羽の指定した通りの運びで、ことは進む。純子、柚木、大谷の三人はそれ
ぞれカードを一枚ずつ持った。
「じゃ、感動の再会と行こう。開けて」
「−−あ、ほんとに」
見事にスペードのキング、クイーン、ジャックが並ぶ。成功を確信していた
純子にとっても、それは驚きだった。
ならば、今夜初めて相羽のマジックを目撃した白沼にとっては、なおのこと
だろう。早速、「どうやったのっ?」と種明かしをせがむ。
「種? 言っても信じないだろうから」
カードをてきぱきと仕舞いながら、秘密めかす相羽。それでも白沼が手を取
って懇願してくると、たった一言、さらりと告げる。
「クリスマスイブの奇跡−−そういうことにしておこうよ」
帰り際になり、やっと白沼の家族達に会って、挨拶できた。
予定を三十分ほどオーバーし、パーティも無事終了した。
そう、純子にとっては無事。
(やっぱり取り越し苦労だったみたいね。確かに、白沼さんはいつも以上に積
極的だったけれど、郁江達と険悪になる気配は全然なかった)
そのことだけで、ほっとしていた。無論パーティ自体も、最初に思い描いて
いたよりずっと楽しめた。
「今日はありがとうね」
見送りに出て来た白沼は、いつになく柔らかい口調で言った。
「いえいえ、こちらこそ」
主に男子らが、半ばふざけてお辞儀をする。純子もつられて頭を下げると、
髪がなびいて大きく広がった。
風は弱いが冷たく、たいていの者が寒そうに首をすくめていた。
「それから、相羽君」
自転車に手を掛けて、空を気にする仕種の相羽に、白沼が声を掛けた。
「何?」
「プレゼント、帰るまで開けちゃだめ。約束よ」
「ちゃんと覚えてるよ」
苦笑いを浮かべ、自転車篭の中を一瞥する。
「これ、割れ物じゃないよね?」
「ええ」
返事してから、白沼は急に寒気が来たらしく、ぶるっと肩を震わせた。
「そ、それじゃあ、みんな、本当にありがとう。三学期から、またよろしくね」
「よろしくー」
「楽しかったわ」
めいめい、手を振って、進み出した。しばらく、九人揃って塀に沿って行く。
角を折れ、白沼家の玄関が見えなくなると、相羽は自転車に跨った。
「悪い。お先に」
「ああ。またな」
勝馬ら男子がそういう返事をよこすのに対して、純子達は一瞬顔を見合わせ、
それから言った。
「相羽君、よいお年をねー!」
「どうもどうも。それにしても気が早いな」
軽く片手を振って、相羽は漕ぎ始め、見る間に加速をした。
「気を付けてねーっ!」
富井と井口は、自転車が見えなくなるまで、両手を大きく振っていた。
−−つづく
#4353/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:53 (179)
そばにいるだけで 18−13 寺嶋公香
★内容
「相羽の家って、自転車で来るほど遠いのか?」
長瀬が誰に尋ねるでもなく言った。応じるのは純子。
「遠いことは遠いけど、自転車じゃなきゃならないってことは……多分ない。
よね?」
最後の「よね?」は富井達に対する確認を求めたもの。
「うん。歩いて来れない距離じゃない」
「遅刻しそうだったから、自転車で来たんじゃないか」
勝馬の意見に、みんな納得。
それからしばらく行って、長瀬と柚木がグループを離れることに。
「じゃ、僕らはこっちだから」
「そうなんだ? あ、小学校のときの学区の違いか」
白沼の家には、同じ第一小学校出身の長瀬達が近くて当然だろう。
「じゃあねえ」
「またな」
道を右に折れた二人と、別れの挨拶を交わす。
その後も勝馬が抜け、清水と大谷の二人まとめて離れて、純子達は三人にな
った。
「どうせこんだけ寒いなら、雪でも降れー」
道の両端に残る雪を蹴っ飛ばしながら、井口が言う。
「そうよねぇ。手袋しててもかじかんじゃいそう」
手をこすり合わせ、息を吐く富井。
その姿を見て、純子ははたと思い出した。
「ああ! 忘れた!」
「ど、どうしたの? 何を忘れたって?」
純子は自分の耳を引っ張った。
「耳当て、忘れた……」
歩いてきた距離を思うと、気が重くなる。
「ええ? どじなんだから」
「ほんとだ。耳当てがない。気付きなよー」
友達二人の反応は、なかなか厳しかった。
(帰りの挨拶のとき、何だか髪のまとまりが悪いと感じてたのに……来たとき
は耳当てで押さえてたんだわ)
後悔しても始まらない。足を止め、短い逡巡のあと、身体の向きを換えた。
「今から取ってくる」
「今から? また明日でいいじゃない」
「そうだよぉ。電話して、確認だけしておけば」
「だけど、白沼さんのところにずっと置いておくのは……」
ごにょごにょ、語尾を濁す。
(どうも苦手なのよ、白沼さんて……。早めに、きっちり取りに行った方がい
いわ、きっと)
引き留める声を振り切り、純子は小走りに引き返し始めた。
白沼の家が望める地点に着く頃には、白い息が絶え間なく口からこぼれ出て
いた。鼻の頭も冷えきって、耳なんかは熱いのか冷たいのか感覚があやふや。
「はぁ−−っ。呼吸、整えてからでないと、失礼、かしら」
ここにいたって余計な気を遣っていると、不意に白沼家の玄関が開いた。
「……あれは」
さっき見たばかりの人影が二つ。一つが白沼なのは分かるとして、もう一つ
は……。
「相羽君だわ」
言葉を飲み込む。
(どうしよう。何で相羽君、戻って来たのかしら? 忘れ物? それとも、白
沼さんと二人きりで話をしたかったとか……。だから、私達には嘘を言って、
先に帰ったふりを)
そこまで想像したものの、ぴんと来なくて首を傾げる純子。
間もなく、相羽は自転車を押して道に出て来た。白沼も家の中に消え、玄関
の明かりが暗くなる。
(少し時間を空けてから行こう)
そう決めて、様子を窺う純子だったが、相羽の手にある物を見つけて、予定
変更を強いられることに。
「あっ、それ、私の!」
純子が角から飛び出すと、自転車に跨りかけた相羽はびくっとして顔を上げ、
また元の状態になる。
「あれ、涼原さん……まだいたの?」
「まさか。違う」
唇を尖らせて、相羽が持っている物−−ピンクの耳当てを顎で示した。
「それを忘れたのに気付いて、取りに戻ったの」
「あ。ごめん」
左手を動かし、耳当てを純子に返す相羽。
純子はちらっと物を確かめ、すぐさま被った。相羽の体温の残りが感じられ
たような気がした。
「どうしてあなたが持ってるのよ」
「君に届けに行こうと思ったから。白沼さんが、『これ、涼原さんのよ』って
言ってたよ」
相羽の返事は、分かり易いと言えば確かにそうなのだが、肝心の部分が抜け
ている。純子は迷ってから、思い切って聞いてみることにした。
「……そもそも、どうしてここまで引き返してきたわけ?」
「僕も忘れ物、かな」
相羽が歩き出したので、純子も歩を進める。
「何を忘れたの? プレゼント以外、何も持って来ていなかったじゃない」
「ちょっとね。手品関係で……」
言いたくなさそうだったが相羽だが、上目遣いをして考える様子。やがて口
を開いた。
「使わなかった仕掛けっていうのがあるんだ。失敗したときのため、それをカ
バーする仕掛けをね、あの部屋に仕掛けてたんだ」
「えっ、嘘だぁ。だって、ずっと一緒にいたのよ。誰にも知られずに仕掛けら
れるはずないわ。いつ、そんな時間が」
興味と疑惑の入り混じった目で、相羽を見上げる純子。
「チャンスはいくらでもあったさ。たとえば、ケーキの蝋燭に火を着けたあと、
しばらく暗かったじゃないか」
「あ、そうか」
簡単に合点が行った。
(あのときなら、みんなケーキに注目してるから、気付かれずに仕掛けること
もできそう)
「そういう仕掛けを、みんながいるところで回収するわけにも行かないだろ。
仕方なく、先に飛び出し、引き返してきたんだ。まさか、涼原さんが忘れ物を
してるなんて……参った」
「あはは、運が悪かったわね。手品はうまく行ったけれど。それで、白沼さん
には気付かれなかったの?」
「え? ああ、問題なし。全然違う話をしていたら、そっちに気を取られてい
たよ、白沼さん」
くすくす笑う相羽。右手からその横顔を見る純子。ちょっとばかり、人が悪
いなと思った。でも、勝手に笑みが出て来る。
「時間、遅いから、送るよ」
「え、いいわよ。だいたい、自転車を押しながらじゃ、大変でしょうが」
「平気平気。乗ったって、残ってる雪にタイヤを取られて転びそうになるだけ
だから、押して歩くよ」
本当かどうか分からないが、相羽の理屈はいい線を行っている。
「涼原さんが望むなら、無理をしてでも二人乗りで送ります」
首を傾け、相羽は微笑んだ。
純子は大きく息をついた。白いもやが、夜の暗がりでも分かる。
(どうせ何を言ったって、送る気だわ。こういうことは一度言い出したら、曲
げないんだもんね、相羽君)
「しょうがない。送らせてあげようっ。ただし、二人乗りは遠慮するわ」
「光栄至極です、お姫様」
冗談に冗談で応じる。二人は声を立てて笑った。
「寒かったら言って。コートを貸すから」
「いいって。そっちこそ、風邪引くわよ」
「そんなにやわじゃないさ」
十字路を前に、一旦停止する。車の往来がないのを確かめ、渡った。
「星が見えないな、残念」
わずかに見上げる風の相羽。純子も同じようにして、それから言った。
「代わりに、雪が降るかもしれないわ。……西崎さん、どうしてるかな。美璃
佳ちゃんや良太君、楽しいクリスマスになったわよね」
「僕に聞かれても……」
頭をかく相羽。だが、すぐに首を横に振る。
「そうだね。何たって、奇跡の起こる夜なんだ。みんなの願いぐらい、わけな
く叶う」
「きっとそうよ」
純子も信じて、うなずいた。
「あ、ついでに思い出したけど。パーティ、ぎりぎりに来たでしょ。何やって
たのよ。昼、私には遅れるなって言ったくせに」
また歩き始めて、純子は文句を言う。
「色々ありまして……涼原さんは知ってるから、言うけれど」
そう宣言しながら、すぐには言い出そうとしない相羽。純子が黙って待って
いると、曲がり角を折れたところで、どうにか決心したらしい。
「母さんがさ。今日の仕事、どうなるか分からなくて」
「イブなのに、お仕事?」
純子は目をいっぱいに開く。
「遅れてたのがあったんだって。だけど、早く片付けば、その……分かるだろ」
「うん。一緒にいたいよね」
「もし母さんが早く帰ってくるなら、僕もパーティ、早めに帰らせてもらおう
と思ってた。白沼さんには悪いことになるけど。その連絡が電話で入ることに
なってたんだ。予定より遅れてかかってきたから、焦った」
「……おばさん、今はお家にいるの?」
「あ? ああ、多分ね」
「だったら、やっぱり、送ってくれなくていい。私、一人で帰る」
「だめだよ。絶対に送る」
相羽が力強く言い切った。思わず、手にも力が入ったらしくて、自転車のブ
レーキがかかった。
「母さんは大丈夫だよ。可愛い息子からの温かいメッセージが出迎えたから」
「はあ?」
「声、吹き込んでおいた」
「−−なるほどね。でも、早く帰ってあげた方がいい」
「分かってる。涼原さんを送り届けたら、すぐに帰る。−−あーあ!」
妙な声を出すと、天を見上げる相羽。
「どうしたのよ、急に?」
「いや、食べすぎたなあと思って。帰ったら、母さん、何か用意してるかも」
不意に言葉を途切れさせた相羽。かと思うと、前触れもなく再開。
「■きだよ、涼原さん」
「え?」
最初の一音−−u音だった−−が聞き取れず、純子は相羽へ振り返った。
(『う』? 『く』? 『す』……まさか!)
予想が全くつかず内心、慌てふためく純子の前で、相羽は天を指差し、視線
を送る。
「雪だよ」
「あ? あっ、雪、ね」
自分の聞き間違いがおかしくてたまらない。純子は一歩先に進み出て、両腕
を広げた。顔は夜空を向く。耳当てが、ほんのわずかにずれたが大丈夫だろう。
「ね? お昼に言った通りになったでしょ」
全身がぽかぽかしてくるのを意識する。
相羽は一度、うなずいた。
「そうだね。積もれば、ホワイトクリスマスか」
そして立ち止まって、思い出したように話しかける。純子の家まで、あとも
う少し。
「言うのを忘れてた。メリークリスマス、涼原さん」
唐突さにきょとんとする純子。しかし、その直後に笑みが訪れる。
「こちらこそ、メリークリスマス!」
−−『そばにいるだけで 18』おわり
#4354/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:55 (200)
そばにいるだけで プラスα 1 寺嶋公香
★内容
最後の売り込みをかけるおもちゃ屋が、あちらこちらで目に着く。あるいは
宝石店なんかもそう。
特にケーキ屋は必死なのではないだろうか。何しろ、売れ残ったら、明日に
は商品価値が全くなくなる。たとえ賞味期限が、まだたっぷり一週間あったと
しても。
(ホワイトクリスマスには違いないのよね)
家族連れやカップルでごった返す商店街の目抜き通りを、純子は一人で歩い
ていた。足下には、まだきれいな白さをどうにか保つ雪がぽつんぽつんと残っ
ている。
と言っても、アーケードの下にこれだけ雪が吹き込むわけがないので、これ
はきっと小さな子供達が外で作った雪だるまか何かを運び込んだ名残だろう。
(それにしても人が多い……)
今、ボタン屋さん−−小間物屋を目指しているところ。糸とボタンを買って
来てくれるようにと母に頼まれ、そのお使いの途中なのだ。
ボタン屋の看板が遠くに見えた。念のため、開業していることを確認したく
て、ほんの気持ちだけ背伸びをした。
が、人混みの中では、そんな些細な行為でも、失敗につながる場合がある。
「あっ」
純子はできる限り右端を歩いていたにも関わらず、前方からうつむき加減に
歩いてきた男性の方に突き飛ばされる形になり、バランスを崩してしまう。揃
えていた足を大きく開き、踏みとどまったことで転びはしなかったが、右の爪
先で何かを蹴飛ばした。
その感触に、嫌な予感が走る。
人の流れが途切れるのを待って、通りの端に目をやった。
(ああっ、やっちゃった)
二つの雪玉が幾分球形を崩しながらも、そこにあった。一つは大人の男の人
の握り拳ぐらい、もう一つはそれより二回りほど大きいサイズ。小さい方の雪
玉には、ビー玉や赤いプラスチック片で顔らしきものが作られていた。
無傷だった雪だるまを壊してしまったとの焦りから、思わずしゃがみ込む。
コートの端が舗装道をこすった。気にする暇はおろか、意識もない。
「な、直るかしら」
手袋をしたままでは、細かい作業がおぼつかない。脱ごうとするが手間取っ
たので、つい、口で引っ張ってしまった。
それでも素手になった甲斐あって、雪だるまの修復に見事成功。
ようやくのことで落ち着きを取り戻し、手袋をはめ直した純子は、不意に髪
を引っ張られるのを感じた。
「きゃっ。何?」
再びバランスが崩れそうなところを、頭を押さえつつ、前屈みになることで
防いだ。
きつい目つきになって振り向くと、そこには小さな子供が一人でいた。帽子
を被って、長いズボンをはいているがどうやら女の子らしい。
「……」
怒ろうとしていたのに、口を数度ぱくぱくさせるだけで、文句を言いにくく
なってしまった純子。もちろん、その子供が憎たらしい素振りでも見せれば話
は別だったかもしれないが、実際は全く逆で、心細げに純子を見つめてくる。
(もしかして、さっきの雪だるま、この子が作った?)
その途端、怒ろうとしていた感情は消え失せ、申し訳なく思う気持ちが純子
の胸に広がった。
名前は?と尋ねようとした純子より早く、女の子がまくし立てた。
「レイでしょ!」
「はい? れい?」
はしゃぎ口調に加え意味不明の内容に、純子は慌てる。
「レイぃ、一緒に来てよぉ」
「き、来てと言われても」
服の袖口を引っ張られる。
とにかく立ち上がって、その子の両肩に手を触れた。そして行き交う人々の
邪魔にならないよう、女の子共々さらに端っこへ寄る。最終的に、店と店の間
にある狭い通路に入り込む格好になった。
「お名前、教えて。そう、あなたのお名前。何て呼ばれてるのかな」
その場で「レイだレイだ」と飛び跳ねている子を落ち着かせるため、優しく
聞いた。
「すがちゃん」
それだけ答えて急に黙ってしまう女の子。その両目だけは、じっと純子を見
上げてきていた。
純子は分からないぐらい小さくため息をついて、質問を続ける。
「すがちゃん、ね。すがちゃんはいくつですか?」
「おつ」
そう言いながら、四本の指を立てて右手を突き出してきた。四歳ということ
だろう。
「はい、よく言えました。ここには一人で来たの?」
内心、迷子だわと当たりを付けて、確認に入る純子。
「お父さんやお母さんと一緒じゃないなんて、四歳だと大変でしょう?」
「お父さんやお母さんとじゃなくてね、すがちゃん、お姉ちゃんと来たの」
「そう。そのお姉ちゃんとはぐれちゃったのね? あ、はぐれるって分からな
いか。お姉ちゃんと離れ離れになったんだよね?」
「そうだけど、違う」
「え? それはどういう意味?」
聞き返す純子に、女の子は何故か得意がって答える。
「だから、お姉ちゃんがずっとお店の中にいてて、あたしつまんなかったから、
外に出たの。歩いてたらレイを見つけてね、こっちに走ってきたところなのっ」
「お姉ちゃんは今どこ?」
すがちゃんは大きな通りの方を見てから、首を横にはっきりと振った。
「分かんない」
調子が狂うのを感じる純子。
(こういうのって、迷子じゃないのかなあ。ついこの間もあったわよ、こんな
こと。迷子に巡り会いやすい体質なのかな、私って。まさかね)
二週間足らず前の出来事を思い起こし、今度も何とかしてあげたい気持ちが
起こる。
「お姉ちゃんがいた店は分かるかな?」
「……ううん」
またも首を横に振られた。純子は切羽詰まって、最初の疑問から明らかにし
ようと思った。
「レイってなあに?」
「レイはレイっ」
信じられないという具合に目をいっぱいに開いて、すがちゃんは純子の左足
にしがみついてきた。触られた箇所が冷たい。
冷やっこさに叫びそうになった純子だが、はっと思い付いて、急いで自分の
手袋を取り去った。
「これ、貸してあげるわね」
そう言って、手袋を着せてやった。当然のごとく、その女の子には大きすぎ
るが、ないよりはずっといいに違いない。
事実、すがちゃんは純子の手袋を引っかけた両手をこすり合わせたあと、ほ
っぺたに持って行き、「あったかーい」と幸せそうな笑顔を見せた。
「テレビとおんなじで、レイはいい人なんだね」
「テレビ。あ、そっか」
純子は腰を落とし、相手の視線に高さを合わせたまま、やっと合点が行った。
(フラッシュ・レディだわ。この子、どうしてだか知らないけれど、私をレイ
だと思ってるみたい。そう言えば私、自分の名前、この子に教えてなかった。
……レイだと信じさせていた方がいいのかな?)
若干迷って、とりあえずレイで押し通すと決める。
「ねえ、すがちゃん。私を知ってるってことは、昔、私を見たんだよね? ど
こで見たのかな」
「テレビの中」
「そうじゃなくて、ほら、ここにいるレイ、私と初めて会った場所、教えてち
ょうだい。ね、いいでしょ?」
純子は自分の推測が当たっているかどうか、女の子に辛抱強く質問した。
「学校だよ。お姉ちゃんが通ってる学校に行ったとき、レイが飛んだり跳ねた
りしてた。私、見たんだから」
「そう。ありがとうね」
頭を撫でながら、想像に間違いがなかったと分かり、うなずく純子。
(今年の文化祭のときね。ということは、この子のお姉ちゃんて、私と同じ中
学にいるわけだから、その人の名前を知るのは簡単そう……あ、でも、今日は
学校休みだから難しいかも)
折角の手がかりだが、どうもうまくない。
(前のときは、デパートのインフォメーションカウンターに行ったけれど。商
店街にも同じような施設があるのかしら? あったとしても、私、ここはあん
まり詳しくないし)
純子は再度、すがちゃんの顔を覗き込んだ。
「すがちゃんは今日、どんなお店に行ったのかな?」
「うんとね、本屋さんとね、おもちゃ屋さん」
「それだけ?」
「ううん。他にも行ったけれど、お店屋さんの名前は知らない」
純子はしばらく考えた。
(やっぱり、この子のお姉さんがどの店にいるかを知るのは難しそう。私がこ
の子のお姉さんの立場だったらどうするか……探すのは当たり前だけど、いき
なり呼び出しには行かないと思う。この子が行きそうな場所を回ってみる。つ
まり、おもちゃ屋さんから)
純子は女の子の手を包み込むように握った。
「さあ、すがちゃん。お姉ちゃんを探しに行こうね」
「見つかる?」
不安げになるすがちゃんに、純子は空いている手で自分の胸を叩いた。
「レイに任せておけば大丈夫だから」
そう思うわよと心の中で付け足し、純子は歩き出した。
もっとも、全く目算がなかったのではない。
おもちゃ屋に行ってこの子のお姉さんがいなければ、そのまま本屋に行く。
それでも見つからないときは、今日すがちゃんの巡り歩いたルートを思い出し
てもらえるよう、ゆっくりと回ってみるつもりだ。
そして結果的に一番手間のかかる方法、つまりはこの小さな女の子がどうに
かこうにか思い出した最後の店−−古美術商らしき店で、姉に当たる人物に巡
り会えた。
「お姉ちゃん!」
駆け寄っていった先は、純子の予想と違って、明らかに大人の女性。
(え? 中学生じゃないの?)
戸惑う純子の前に現れたのは、二十代半ばとおぼしき、化粧気の乏しい女の
人だった。
「どうも、ごめんなさい。裕恵(ひろえ)がご迷惑をおかけしました」
うろたえていた様子もなく、冷静と言うよりもむしろ淡々として頭を下げて
きた。その顔に、純子はどことなく見覚えがある。記憶を手繰って、やがて浮
かんだ名前。
「あの……失礼ですが、小菅(こすが)先生じゃないでしょうか」
授業を教えてもらったことはもちろん、言葉を交わしたことさえないが、確
かそういう名前の国語教師がいたはず。
「あら、何故……」
手を口元にやった小菅は、まじまじと純子を見つめてきたかと思うと、いき
なり「ああ!」と声を上げた。
「あなたはうちの学校の生徒さんね。名前は知らないけれど、フラッシュ・レ
ディをやっていた」
「そ、そうです。涼原純子と申します」
丁寧にお辞儀をしておく。何と言ったって、生徒と先生なんだし。
「これは失態を見せてしまったわね」
すがちゃん−−裕恵の頭をくしゃくしゃと撫で回す小菅は、首をすくめて自
嘲気味に笑った。
「この子がいなくなったのは気付いたのよ。でも、動くとかえって行き違いに
なるかもしれないと思うと、動けなくって」
「ぶ、無事だったんだから、よかったじゃないですか」
「そうね。あなたみたいな人に助けられたんだから、幸運だったわ。本当にあ
りがとうね」
純子の手を握ってくる小菅。
と、そこへ、裕恵のわめくような叫び。
「あたしは自分から会いに行ったよ!」
「はいはい、そうね」
あやす小菅。
(本当に姉妹なのかしら……。だとしたら随分、歳の差があるわ)
その辺りを気にしていた純子だったが、次の瞬間、それどころでなくなった。
「裕恵はフラッシュ・レディに会いたいって言ってたもんね。でも、お家に来
てもらうのは無理だから」
「そんなことない! レイはいい人!」
裕恵が叫ぶものだから、言葉を差し挟めないでいる純子。
だが、小菅は純子の困惑を感じ取ってくれたらしく、店内を見渡すと、
「ここでは迷惑だから、出ましょうか」
と促してきた。
そして往来での立ち話により、何とか事情が見えてきた。
「それでね、この子ったら、あなたを本当にフラッシュ・レディだと思い込ん
でいて」
ため息混じりの小菅。純子だって、ため息の一つもつきたくなる。
「保育園のお友達に、フラッシュ・レディを見たと触れて回ったらしいのよ。
学校の文化祭に来ていたのは、裕恵だけだったのがよくなかった。嘘だほんと
だって喧嘩になって、裕恵はとうとう、家に連れて来ると言ってしまったの」
−−つづく
#4355/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:56 (199)
そばにいるだけで プラスα 2 寺嶋公香
★内容
「はあ……」
「クリスマスまでに連れて来るから、見に来なさいって大見得切っちゃって。
それから私に必死に頼むの。私がフラッシュ・レディを知ってるんだろうって
信じてたらしくて、私が知らないと言ったら泣き出してしまって」
小菅はすまなさそうな視線を純子に投げかけてきた。
「あなたのことを捜そうかとも考えたのよ。でも、仮にうまく見つけられたと
しても、迷惑になるのは充分に想像できたから捜さずにいたら……偶然なのか、
裕恵の執念なのか、今日こういうことになってしまったのよね」
「そうだったんですか」
相づちを打ちつつ、引っ張られた髪を手で整える純子。
「レイ、来てよ。お願いだからあ」
再度、足にまとわりつかれてしまった。
「こら、裕恵。いい加減になさい」
鋭い小菅の声で、純子の足にしがみつく裕恵の手に、一層の力が加わった。
「ようくご覧なさい。このおねえちゃんは違うのよ」
「そんなことないもんね。さっき、言ったよ。レイだって」
頑なに主張する裕恵に、小菅は視線を純子へ移した。
「涼原さん、本当にそう言ったのかしらね?」
「え、ええ。ちょっと、口走ってしまいました」
いたたまれなくて、右手人差し指で頬をかく。
「そう。この子を安心させるために、そこまでしてくれたのね」
「いえ、別にそんな」
大急ぎで手を振った純子へ、裕恵の願い事は続く。
「レイ、レイ。来てよ。ちょっとだけでいい。分からず屋のみんながレイを見
たら、絶対に信じるわ」
「すがちゃん」
名字を元にした愛称で呼びながら、またしゃがむ純子。
裕恵はその場でぴょんぴょん跳んだ。
「あ、もちろん、変身して来てね。じゃなきゃ、誰も信じないかもしれない」
「−−うん。いいわ」
純子が返事すると、裕恵はより高く飛び跳ね、その姉は驚いた様子で「え、
涼原さん?」と絶句気味にこぼした。
* *
相羽は決して悪い気分ではなかったが、それでも大いに混乱してしまった。
「お願い!」
電話口の向こうでは、純子が三度目の「お願い」をしてきた。その声の響き
から、手を合わせて拝んでいる姿が容易に想像できた。
「お願いと言われても、いきなり、セシアの格好をして来てくれなんて」
「説明してる暇がないのっ。とにかく、セシアになって。私もレイになるから
さあ! いいでしょう?」
「涼原さん一人だとだめなわけ?」
「だめなことないけど、正義の味方は二人の方が心強いし……」
やや勢いが削がれて、トーンダウンする純子の声。
「だったら、遠野さんか白沼さんに頼んでみたら? エアとマリンなんだから」
「とっくの昔に考えたわよ。遠野さんは田舎に帰ってるって聞いたし、白沼さ
んはどこか出かけちゃってたの!」
勢いを取り戻した口調に、相羽は思わず、送受器を耳から遠ざけた。
「町田さんや前田さんじゃ、だめなんだね? 悪役をやったから」
「ええ、そうよ。あの子だって、セシアがいいって言ってるし」
「え?」
「ああ、もうっ。時間がないの! 一生のお願いよ!」
「……こんなことで、一生なんて言わないでくれる?」
「じゃ、じゃあ」
「分かった。やります。どこへ行けばいいって?」
「ほんと? ありがと! 相羽君、だから好きよ」
純子からすれば何の気なしに口にした台詞だろうが、この最後のフレーズ、
相羽をどきりとさせるのに充分だった。
純子の説明が続いている。
「場所を言うわ。えっと……ねえ、聞いてる?」
* *
子供達からは見えない部屋でそれぞれ着替え終わると、純子と相羽はこっそ
り、家の外に出た。太陽もすでに傾き、どことなく寒々しい。
「ご苦労様」
追って出て来てのは小菅。
「涼原さんも相羽君も、本当にありがとう。感謝しているわ」
「これぐらいなら」
笑みを浮かべて返事する純子。
その頭へ、小菅の手が伸びてきた。
「先生?」
「子供達の相手で、髪が滅茶苦茶よ」
手早く直してもらって、どうにか見られるスタイルに落ち着いた。
「相羽君は腕や首筋、大丈夫だった?」
「はい。どうにか平気です」
相羽の右の二の腕や首筋、肩口には引っかき傷がいくつかできていた。セシ
アは男とあって、園児達も純子を相手にしたとき以上に力を入れたと見える。
「絆創膏ならあるわよ」
「いいですいいです。この程度。それに、僕らも結構楽しかったんですよ」
相羽がそのあと、同意を求めるかのごとく見据えてくるものだから、純子は
慌ててうなずいた。
小菅はくすくす笑って、再度、礼を述べてきた。
「裕恵も喜んでいたわ。ちゃんとした形でお礼をしないとね。将来、もし私が
あなた達の授業を受け持つようになったら、甘くしてあげようかしら」
「ま、まさか」
純子達が笑うと、小菅は、やはり冗談だったらしく、口調を改める。
「まあ、そんな真似はできないから、代わりにこれぐらいわね」
小菅が取り出したのは図書券だった。
「学校の先生らしくていいでしょう? 剥き出しで悪いんだけれど、時間がな
かったから」
「あ、あの、こんな」
「遠慮しないでもらっておくこと。何も、参考書を買いなさいなんて言いませ
んからね」
何千円分かの図書券を純子と相羽の手にそれぞれ握らせると、小菅はほっと
した表情になって微笑した。
「ありがとうございます。ちょうど、ほしい本があって」
素直な言動の相羽を見て、純子もそれに倣う。
「あの、大事に使わせてもらいます」
「どうぞ、あなた達のほしい本に使ってね。さて」
小菅は大きく伸びをした。
「裕恵の面倒を見なくちゃいけないから、そろそろね。二人とも、気を付けて
帰るのよ」
「はい。あの……」
「何かしら、涼原さん?」
純子はしかし、言葉を続けられなかった。
(小菅先生の家庭の事情もよく分からないな……気にしちゃいけないことかも
しれない)
「いえ、何でもありません」
「おかしな子ね」
怪訝そうな先生相手に、笑ってごまかす純子。
相羽がいかにも待ちきれないような調子で割って入ってきた。
「もう帰らなきゃ。母さんが待ってる。先生、失礼します」
「あ、待ってよ」
自転車に跨り今にも行ってしまいそうな相羽を呼び止めてから、純子は改め
て小菅に頭を下げる。
「失礼します、小菅先生。えっと、メリークリスマスと……よいお年をお迎え
ください」
「涼原さんも相羽君も」
徐々に暗くなる夕景の中、小菅は手を振った。
そして彼女は、最後にこんなことを付け加えた。
「ひょっとすると、来年もまたお願いするかもしれないわね」
相羽と純子は、慌てると同時に吹き出した。
「そんなあ!」
昨日と同じように、相羽は純子を送ってくれた。
一つだけ違うとしたら、相羽だけでなく、純子も自転車に乗っていた点。
「何遍も言うけれど……引き受けてくれて助かったわ」
家の前に到着した頃には、すっかり暗くなっていた。
二人とも自転車を降り、会話を交わす。
「ありがとう。いい人だね、相羽君て」
「いい人、ね」
相羽は天を仰ぎ見るようにしてから、両手で髪をなでつけた。
「まあ、役に立てたんだからいいとしようっと。何しろ、格好をつけなくちゃ
いけないもので」
相羽が、小学生の頃の話をまだ覚えているのだと分かり、純子は湧き起こる
笑いをこらえるのに苦労した。
「それにしても涼原さんて、よくよく小さな子に縁があるね」
「好きで縁を持とうとしてるんじゃないわ」
即答しておいて、あとから言い添える。
「やってみたら、悪い気はしなかったけれど」
相羽は分かったようにうなずいて、おもむろに話題を換えてきた。
「ところでさ、明日、忙しいのかな?」
「いきなりだわね。そうね、街に出るぐらいでその他は特に予定はないけど、
何よ」
「例によって、母さんからの伝言です」
自転車の前篭の荷物を整えながら、相羽は素っ気なく言った。ただ、普段こ
の手の話をするときに比べると、苛立っていないように見受けられる。
「つまり、モデルのお仕事?」
「当たり。この間のコマーシャルの関係で、ちょっと出て来てほしいんだって」
「まさか、撮影のやり直しなんて……」
どきっとして、恐る恐る聞き返した。
だが、相羽は首を傾げるだけ。
「さあ、僕もよくは知らないんだ。ただ、街に出て……」
簡単な時間と場所について伝える相羽。
「どうかな? 母さんの車で行くんだ」
「う、うん」
「どうせなら、涼原さんが用事を済ませたあと、迎えに来ようか」
「え、そんな」
「いいじゃない。その方が時間の節約になるよ。無駄はできるだけ、省きまし
ょう」
面食らった純子だったが、結局は相羽の微妙な笑顔に押し切られ、その線で
決まり。
(ときどき強引なんだから)
あきらめの境地にいた純子に、相羽が声を掛ける。
「それじゃ、本当に帰らなくちゃ。今日は……僕の名前を思い出してくれ嬉し
かった」
「そういうつもりじゃなかったんだけど。ただ、一人より大勢の方が、裕恵ち
ゃんも楽しいだろうなって思えたからよ」
「何でもいいんだ。クリスマスの二日を、続けて女子と過ごせるとは予想もし
なかった。あははは」
「……ばか」
純子のつぶやきを意に介した風もなく、相羽は自転車に跨る。
「昨日も言ったけれど、気を付けて帰るのよ。雪が残ってるんですからね」
「ようく承知してます」
相羽は片手を振って答えると、漕ぎ始めた。
純子も手を振る。思い付きのちょっとしたジョークで見送る。
「バイバイ、セシア!」
* *
「どうして言えないんだろ」
相羽は知らず、思考を声に出していた。
自分の独り言に驚いて、口をつぐむ。
(それに、どうして気付いてくれない……なんて思っちゃいけないか。でも、
ああいう形でも『好きよ』って言われたら、期待してしまうじゃないか!)
歩行者用信号が赤に変わったのを見て、ブレーキを掛けた相羽。片足を着い
て空を見上げる。雪が降ったのが嘘のように、星々が輝いていた。
別れ際に背中で聞いた「バイバイ、セシア!」の声が、鮮明に蘇る。
(アニメでは確か、レイの方からセシアに……なのにな)
詮無き空想に、相羽は苦笑を浮かべた。
やがてマンションに着いた悩める少年は、自転車を降りた。走っているとき
には分からなかったが、顔の表面が火照っている。
「言わないとだめか」
決意が固まらないまま、ぶるっとかぶりを振る。
母とのクリスマスに、気持ちを切り替えた。
−−『そばにいるだけで プラスα』おわり
#4356/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:57 (156)
そばにいるだけで 〜 たとえば夢をひとつ 〜 1 寺嶋公香
★内容
冬の日差しにしては暖かく、柔らかい陽光。
それに加えて純子は走っているものだから、身体が火照って仕方がない。
(あと五分?)
街角にある時刻のデジタル表示が視界に入り、いよいよ焦る。
(ここからP**まで五分−−難しい!)
人の流れは純子に味方してくれない。こちらに向かって歩いてくる人々を右
に左によける。フードは後ろになびき、コートの赤地に着いた白のぼんぼんが
激しく上下に揺れていた。
(もう少しっ)
ぎりぎり間に合いそうだと感じて、表情に明るさが戻った純子だったが、次
の瞬間、暗転する。
足下で、ぐしゃりという嫌な音がした。
「え?」
急ブレーキをかけ、つんのめりそうになる。
自分の右足が白い紙箱を踏み潰していた。壊れた箱の隙間から、クリーム状
の物が飛び出している。
ケーキだと分かり、慌てて周囲を視線を巡らせるが、足早に通り過ぎる人の
波ばかりで、落とし主らしき存在は見当たらない。
しかし子供の泣く声を聞いた気がして、目の位置を下げた純子。
大人達の足の合間、歩道にへたり込んで両手を目に当てている姿があった。
(あの子だわ、きっと)
直感して、人混みを縫って駆け寄る。
「ごめんね!」
純子が声を出すと、その子供−−お下げ髪の女の子だった−−は片手だけ下
ろし、目をきょろきょろさせた。
「ごめんね」
もう一度呼んだところで、女の子も純子に気が付いた。両手とも下ろして、
すがるような目で見やってくる。
純子は、座った姿勢のままの女の子を抱いて、なるべく道の端に引き寄せた。
「大丈夫だった? 立てる?」
膝を抱える格好になり、純子は尋ねる。
女の子はまずうなずいてから、不思議そうに首を右に傾げた。
「どうしたの? あ、ケーキは私が踏ん付けちゃって……」
気まずくて、伏し目がちになった純子に、女の子は初めて口を開いた。
「おねえちゃんはさっきの人と知り合いなの?」
「さっきの人って」
わけが分からず、口をぽかんと開けてしまう純子。
「黒い眼鏡を掛けた男の人。私がぶつかって、転んだら、心配してくれて」
話しがまだ見えない。純子は女の子の肩に手をやり、質問する。
「えっと、お名前は? 私は涼原純子っていうのよ」
「三井園子(みついそのこ)……」
小学校の低学年ぐらいだろうか。割にしっかりとした返事。
「園子ちゃん。さっき言ってた男の人、今はどこに行ったの?」
「薬屋さん」
「……どうして?」
純子が怪訝がると、少女は左足を前に伸ばした。スカートのすぐ下に覗く膝
小僧がすりむけて、血が滲んでいる。
「私が怪我をしたのを見て、走って行っちゃった。『そこにいて動かないで。
絆創膏を持ってくる』って」
まさか家まで絆創膏を取りに行ったとは考えにくいので、男の人が向かった
先は薬屋ということになる。
「何分ぐらい前かな?」
「えっと……分からないけど、三分ぐらい」
三井は今度は左に首を傾げる。この判断には、かなり主観が入っていると見
た方がよさそう。
(私が突き飛ばしてしまったわけじゃないのね)
ひとまず安心した純子だが、ケーキの問題が残っている。
「園子ちゃんはここへ一人で来たのかしら?」
「うん。お使いで。ケーキを買ってきてって」
「そっか。ごめんね、ケーキ、だめにしてしまって」
再び謝る純子に対して、三井は歩道の真ん中辺りで今もぐしゃぐしゃになっ
ていく紙箱の方を向き、小さな声で答えた。
「あ、あのぅ、おねえちゃん。あれは私が転んで放り出したとき、すぐに踏ま
れてたから」
「本当に? でも、私も踏んだのは事実なんだし」
責任はさほど重くないようだと知り、気楽になる純子。
と、そのとき、背後に人の立つ気配。
「絆創膏、持って来た」
振り返ると、サングラスを掛けたコート姿の男の人が、手に持った小さな箱
をこちらに向けて差し出している。
(あれ?)
何となく微妙な感覚を覚えつつも、純子は絆創膏の箱を受け取り、手早く開
封する。
「園子ちゃん、足、ちょっと曲げてね」
「うん」
座ったまま、左足を山型にする三井。その膝小僧の傷口に砂などが付着して
いないのを確かめ、純子は絆創膏を貼った。
「痛くない?」
「ほとんど痛くない」
「立ってみて」
純子は先に立ち上がり、両腕を伸ばす、三井が起き上がるのを手助けしてや
った。
「平気だよ、ほら」
立つと、左右の足を順にぶらぶらさせた三井。今や笑顔になっている。純子
もようやく微笑むことができた。
「よかった」
ぽつりと言ったのは男の人。
純子は向き直ってから、探る調子で先ほどいだいた感覚を確かめにかかる。
「あの、ありがとうございました。その、あなたは地天馬さんじゃ……」
「おや?」
すると男の人は首を若干、前に突き出し、しげしげと純子を、さらには三井
を見据えてきた。
「小さい子は知らないが、君の方は記憶にある……」
相手は一旦黙り、わずかに眉間にしわを寄せ……そして不意に、表情を柔ら
かくした。
「涼原さんだ。涼原純子さん」
まるで大発見をしたアルキメデスみたいに、純子の名を口にする。
「名前なんてほとんどどうでもいいんだが、いやいや、馬鹿にできない。たま
にはこうやって思い出せて、とても嬉しくなれる」
「は、はあ……」
「君はこの女の子と知り合いかい?」
その問いには、純子も三井も首を横に振る。
「ただ、私が園子ちゃんのケーキを踏んで」
「おねえちゃんが悪いんじゃないよ」
下の方から三井が懸命に主張する。
純子は見下ろし、「ありがと」と微笑んだ。
「なるほど。−−あのときの思い出話をしたいところだが、先にすべきことが
ある」
地天馬は何に納得したのかうなずくと、純子に断りを入れてきた。それから
三井へ話しかける。
「ケーキを買い直しに行こう。どこのお店か僕は知らないから、案内してもら
えるかな」
「え。あの、もうお金がないんです。使い切ってて」
泣きそうな顔になる三井。地天馬は大げさに両腕を広げた。
「そんなこと。僕が払うよ」
「でも、横から急に飛び出した私が悪いんですから」
純子は驚いた。三井が責任は全部、自身にあるものと考えているらしいと知
ったから。
「そんなことはない。前をよく見ていなかった僕もいけなかった」
「園子ちゃん、遠慮しなくていいんだよ」
横合いから口を挟む純子。次いで、地天馬に言ってやった。
「地天馬さん。お願いですから、そのサングラス、外してあげてください。こ
の子が恐がってますよ」
「あっ! なるほど。これは気が付かなかった」
そんな反応をした割には、すぐに外す素振りもない。
「どうしたんですか?」
「参った。外すと余計、恐がるかもしれない」
「あの、それって……」
「現在、こうなっててね」
純子にだけ見えるように、地天馬はサングラスを瞬時、持ち上げた。
「あ」
左目を覆う形で、ガーゼがあてがわれていた。
「これって恐いのか恐くないのか、僕自身には判断できないな」
「ど、どうされたんですか。探偵のお仕事中に、犯人に殴られたとか……」
「いや、そういうんじゃないんだ。大したことじゃない」
そう言うと、地天馬は三井に手を差し伸べた。きょとんとしつつ、その手を
握りしめる三井。
「見た目は大切な判断材料の一つだが、外見だけで決めつけるのはよくない」
「な、何言ってんですか、小学生相手に」
地天馬の台詞に純子は面食らってしまった。
「真実じゃないかな?」
真面目くさった口調の地天馬。純子はあきらめ、三井に顔を向ける。
「園子ちゃん。ケーキいるんでしょう? 買ってもらえばいいよ。この人はね、
恐そうに見えるけれど、恐い人じゃないから」
「それは分かる。でも、知らない人に着いて行くと……」
「うーん。じゃ、私が着いて行ってあげる。何かあったら、私が大声で助けを
呼ぶから」
理屈を言うと、純子もまた、三井にとってほんの十数分前までは知らない人
であった。だが、細かいことは気にしない。
「じゃあ、そうするっ」
三井の、気分が晴れたような心底からの笑み。
純子は−−大事なことを忘れて−−うなずいた。
「地天馬さん、行きましょう」
−−つづく
#4357/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/12/24 11:59 (182)
そばにいるだけで 〜 たとえば夢をひとつ 〜 2 寺嶋公香
★内容
小さいが誠実で職人的な仕事をやっている−−その洋菓子店はそんな雰囲気
を醸し出していた。そこでチョコレートケーキとチーズケーキといちごのケー
キ、さらにはお詫びのシュークリームなどを買ってから、純子達三人は店を出
た。
「一人で帰れる? またぶつかったら大変よ」
純子の心配を受けて、三井を家まで送り届けることに。
人とぶつかっても転ぶことはまずないであろう地天馬がケーキを持ち、その
後ろを三井、純子が続く。
三井の指示で道を辿っていくと、彼女の家は意外に近かった。この距離なら、
彼女の親が小さな娘を一人でお使いにやらせたのも理解できる。
門の前まで来ると、地天馬と純子は足を止めた。
「ありがとう、おねえちゃん、おにいちゃん」
ケーキの箱を両手でしっかり受け取ると、三井は深く頭を下げた。
「よかったね。膝はどう?」
「もう何ともないよっ。あ、待ってて。お母さんに言ってくるから」
「そんな必要、ないよ」
偶然、純子と地天馬の声が揃う。
少し見合ってから地天馬が目配せをしたので、純子は続けた。
「ご挨拶はいいわ」
「でも、お礼が……。代金も払わないと」
「いいの。何にもなかったって顔をして、お母さんに『ただいま!』って言え
ばいいからね。絆創膏は最初から持っていたことにしておけばいいわ」
「僕らはサンタクロースなんだ」
唐突な地天馬の台詞に、純子はしばし戸惑ったが、それに乗ることにした。
「そうそう。だから他の人には内緒よ、園子ちゃん」
「ええー、でも、サンタさんの格好じゃないよ」
疑問を呈す三井に、今度は地天馬が説明。
「サンタの姿だと目立って、大騒ぎになるからね。変装しているのさ」
「ふうん。それでみんな、サンタはいないと思ってるんだね」
納得か感心か、三井は何度もうなずいた。
「じゃあ、そろそろ次の家に行かなければならない。ここでお別れしよう」
地天馬は潜めた声で言うと、くるりと背を向けた。
「バイバイ、サンタさん。ありがとうねー!」
「静かにね、園子ちゃん。バイバイ」
純子も三井に手を振り、遠ざかる。
元のにぎやかな通りに戻っても、地天馬と純子は並んで歩いていた。先ほど
と比べると人の数は少なくなったが、にぎやかさには変わりない。
「さっきのことだが」
地天馬が、ふと思い付いたというように口を開く。
「はい?」
「シュークリームを買うだけのお金を、あの子が持っていたのだろうかと気に
なってね」
「はあ。えっと、当然、持ってなかったと思いますけど、それが何か」
意味するところが飲み込めず、純子は相手をしげしげと見返した。
地天馬はやたらと難しい顔をしている。もっとも、サングラスのせいで顔に
出ている感情がどんなものなのか、しかと伺い知れる状況にはないが。
「そうなると、誰にシュークリームを買ってもらったんだと不審を招くことに
なるかもしれないね」
「あ、言われてみれば」
開けた口に手を当てる純子。そこまでは考えが及ばなかった。
「でも、これぐらいなら多分、園子ちゃんも言い訳を考え付くわ。そうですね
え……お店のサービスだとか自分のお小遣いで買ったのだとか」
「かもしれないな。しかし、先ほどの時点で気が付かなかったのは、何とも口
惜しい」
地天馬の口振りは、本当に悔しそうである。
年上の男性のそんな仕種を、どことなくかわいらしいとまで感じた純子。く
すくす笑って質問する。
「あの、地天馬さんて、小さな女の子にはいつも親切にしてるんですか」
「困っている人がいて、自分にできることがあれば、取る行動は決まっている」
純子の冗談を、地天馬はまともに受け答えした。だが、その表情はかすかに
笑っているような。
「目は大丈夫ですか?」
「特に変化はないね」
「……そのせいで、園子ちゃんが飛び出してきたのに気付くのが遅れたんでし
ょう?」
「−−素晴らしい! 実はその通り。名推理だ、涼原さん」
叫んでから、愉快そうに笑い声を立てる地天馬。
「誰にでも分かると思いますけど」
「そうかな。では、僕もやってみよう。誰にでも分かるという推理を」
「何ですか?」
小首を傾げた純子を、地天馬は足を止め、ざっと見つめた。
純子も立ち止まる。
「何だか、恐いな。地天馬さん、以前にお会いしたときは素晴らしい推理で、
事件を解決してくれましたもんね。全て見抜かれそう」
「……だめだなあ。当たり前のことしか分からない」
「いいですから、教えてください」
純子が手を組み合わせ、お願いすると、地天馬は肩をすくめて歩き始める。
純子もあとに続いた。
「君らしき人が走って行くのを、実は見かけていたんだ。そのときは僕も薬局
に急いでいたから気に留めなかったが……それだけお洒落をして今日という日
に走っていたとなると、結論は一つと言ってもいいかもね」
地天馬が反応を窺うかのように右の手のひらを返してみせた。それと同時に
純子は思い出した。
「あ−−」
そして頭を抱え込み、腰砕けになる。
(すっかり忘れていたわ……時計を見るのが恐い)
純子の目の前に、手が差し出された。息を大きくついて、その手にすがる。
地天馬に引っ張ってもらって、起き上がった。
「その様子だと、約束の時刻には間に合わないか」
「ええ……。あーあ、今から行ってもいないだろうなあ。どうして忘れちゃっ
たんだろ」
「困っている人がいて、自分の最善を尽くしたからじゃないかな」
地天馬は肩を揺すって小さく笑っていた。
「それは、ちょっと……。あの子に悪いことをしたと思ったから」
「悪いことをしたと分かっていても、立ち止まらない人間はいくらでもいる」
地天馬は表情を引き締めると、真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「知っていながら知らん振りをするのは楽だからね。あのケーキの箱だって、
どれだけ多くの人が踏み付けたことか」
「−−あの、すみません。私、やっぱり急ぎます」
純子は地天馬にお辞儀をすると、駆け出そうとする。
地天馬は呼び止めるでも理由を聞くでもなく、片手をひょいと上げた。
「そう。いらぬお世話かもしれないが−−頑張って」
「はいっ。今日はさよなら。また会えますよね?」
距離が開いていく。
「ああ。いつか会おう」
地天馬の答がしっかりと聞こえた。
途中、例の潰れたケーキの箱が歩道の隅っこに追いやられているのを見て、
少し悲しくなった。せめてできることはないか考えた末、拾った。
(くずかご……あった)
純子はそこへ紙箱とケーキの残骸を放り込み、手を盛大にはたいた。
(こんなに近くにあるのなら、誰か捨ててくれてもいいのに)
そんな文句は仕舞い込み、再び急ぐ。
アミューズメントビルのP**が間近に迫った。一度目に目にしたのと同じ
デジタル時計によれば、待ち合わせの時刻をすでに二時間近く経過している。
(まさかとは思うけど、ひょっとしたら)
約束の時間に遅れるなんて滅多にない純子は、この大遅刻に落ち込んでいた。
彼女の意識では、二時間という経過は許容限度を遥かに超えていた。
「−−嘘」
そして純子は見た。ビルの出入り口のところ、大きなクリスマスツリーから
やや離れた位置に泰然と立つ彼の姿を。
純子は最後の全速力で走り、中に飛び込む。外に向かう買い物客が一人もい
なかったのは、運が向いてきた証拠かもしれない。
純子が天井の高いその空間に一歩を踏み入れるなり、相手は気付いてくれた。
「涼原さん」
そしてコートの裾をはためかせ、駆け寄ってくる。
「よかった。無事だったんだね」
「相羽君」
手を取り合う。
純子は息を整える間も惜しく、頭を下げた。
「ごめんなさいっ。こんなに遅れて、何の連絡もしなくて」
「−−あれ? 今、何時?」
急に芝居がかった相羽は、きょろきょろと建物内に首を巡らせた。
「わ、分かんないけど、二時間ぐらい過ぎてるのよ」
「へえ? 時計を持ってないから、分からなかった」
とぼける相羽。そのすました表情を見上げ、純子は疲れた微笑をこぼした。
「もう……ありがと」
距離をなくし、強く抱きしめた。一番好きな人を。
わずかに遅れて、相羽も全く同じ行為をする。
そして元の状態に。
「でも、本当に心配した。探しに行きたかったけど、ここを離れた途端、君が
来そうな気がしてさ」
「本当にごめんっ」
「いいよ。少し予定が変わるだけですみそうだ」
きびすを返し、ビルの中へ入ろうとする相羽。純子はぴったりと追いかけな
がら、彼の横顔を見つめる。
「遅くなったわけ、聞かないの?」
「ん? すずちゃんが話したいのなら、一生懸命に聞きましょう」
愛称を口にされて、純子は頬を染めた。突然に湧き出た熱を振り払い、口調
を改める。
「私、話したい。聞いてくれる?」
「さっき言いました。聞くよ」
歩速を落とすと、相羽は純子を見やってきた。
「聞いて驚くな。私はサンタクロースになったのよ」
「ほ? 面白そうな話だ」
「でしょう? どういうことかって言うとね」
笑いをこらえる様子の相羽に、純子は全てを話して聞かせた。懐かしさを交
えて。
話が終わって、相羽もまた懐かしそうにつぶやく。
「地天馬さんか。また会いたいな。あの事件のときは、何もかも助けられたし
ね。いくら感謝してもしきれない」
「うん」
「園子っていう子も、今日あったことを絶対に忘れないと思う」
「ええ、間違いないわ。何しろ地天馬さんてインパクトあるから」
純子が苦笑混じりに言うのへ、相羽は首を横に振る。
「僕のことは忘れた涼原さんも覚えてるぐらいだから、かなわないよ」
慌てる純子。
「忘れたんじゃなくて。そ、それはまあ、約束は一時的に忘れていたけれど、
だけど、相羽君のことはずっとずっと」
「あははは。そんなに焦って説明しなくていいのに」
頭を撫でられ、純子は頬を膨らませた。
(このぉ……。知り合ってから何年も経つのに、全然変わらないんだから)
純子は相羽をじとーっと見やったが、それもやがて柔らかなものに転じる。
「ねえ、相羽君」
「改まっちゃって、何?」
「……ううん、何でもない」
純子は言いかける寸前で、言葉を胸の奥に引き留めた。
軽いため息をついた相羽の隣で、その言わなかった台詞を胸中で唱える。
(大人になっても、二人で変わらずにいられたらいいね)
−−『そばにいるだけで 〜 たとえば夢をひとつ 〜』おわり