空中分解2 #2608の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
3 「ちょっと寄っていかない?」帰り道、ハンドルを握りながら美咲はぼくを誘った。 「今は一人暮らしなの」 美咲の母親は、ぼくらが小学校の時に亡くなり、父親は2年前に病死していた。ぼ くは葬式に来もしなかった。 「そうだな。じゃちょっとだけ」 車が美咲の小さなアパートの駐車場に滑り込むまで、二人とも口を開かなかった。 「どうぞ」美咲はドアのカギを開けると、少しおどけてそう言った。「ようこそわ が家へ」 実のところ、ぼくは少し驚いていた。市役所職員の給料がそれほどいいとは思えな かったので、六畳一間くらいのこじんまりとしたアパートを想像していたのだが、美 咲の後について入ったアパートは、かなり広い1LDKだった。しかも、バス、トイ レ付きだ。東京でこの程度のマンションかアパートに住もうと思ったら、月12、3 万は覚悟しなければならないだろう。むろん、光熱費は別にしてだ。 「いいマンションだ」ぼくは社交儀礼でなくそう言った。「高給取りなんだな」 「まさか」美咲は顔をほころばせた。「両親の遺産のおかげよ。何か飲む?」 「うん」 美咲はキッチンに消えた。グラスと氷の触れ合う音が聞こえた。 あまり女性の部屋をじろじろと眺めるものじゃない、とは思ったが、つい部屋の調 度類に目が行ってしまう。きちょうめんな美咲の部屋らしく、きれいに片づいていた。 テーブルの上にも、ほこりひとつない。 「お待たせ」美咲がトレイに、グラスとアイスキューブ、ウィスキー、ペリエなど を載せて戻ってきた。手早く、オン・ザ・ロックを作ってぼくに渡してくれる。 「乾杯しましょうか」美咲は自分のグラスを目の高さにかかげた。 「何に?」 「そうね、私たちの再会に」 ぼくたちは静かにグラスを合わせた。 共通の友人達の告別式の晩だというのに、ぼくたちは早いペースで杯を重ねた。 「でも、美咲は変わらないな」ぼくは、ほんのりと桜色に染まった美咲の頬に見と れながらつぶやいた。「まだ、高校生で通用するんじゃないか?」 「何いってんのよ。せいぜい大学生よ」美咲はぐっと、水割りをあおって、白い歯 を見せた。だが、その笑みはすぐに消え去った。 「でもね」美咲は目をそらして続けた。「マッシュと香苗には悪いけど、靖弘に会 えて、私、すごくうれしかったのよ」 美咲は再会してから初めて、ぼくを名前で呼んだ。十年前と同じように。 「美咲…」ぼくの方に向けている頬で光っているのは涙か? 「ずっと、想い続けてたのよ」美咲は不意に正面からぼくを見つめた。瞳に光があ ふれている。「ほんとは、何度も何度も会いに行こうと思ったのよ。でも、勇気がな かった。拒絶されたら、他に恋人がいたら、結婚してたら…」 「美咲…」ぼくは何を言えばいいのかわからなかった。 「一番こわかったのは」美咲は壊れそうな人形のように震えていた。「靖弘が私の ことを忘れてしまっていることだったわ。し、知らない人でも見るみたいに私を見た らどうしよう、と、いつも…」 気がつくとぼくは、美咲の細い肩を抱きしめていた。しなやかな熱い身体が、ぼく の腕の中で震えている。美咲はぼくの胸で涙を流した。 唇を重ねたとき、ぼくの脳裏に十年前の記憶が閃光のように流れた。薄い唇。固く 閉ざされた瞼。ベッドの白いシーツ。ふるえる白い胸。首にまわされた細い腕。乱れ た黒髪。熱い吐息。甘い涙。 たった1度の体験のはずだった。最初で最後のつもりだった。だが、この夜、友達 の告別の夜に、ぼくは十年前に感じた熱く柔らかい奇跡を、再びこの腕の中に、鮮明 に甦らせた。 目覚めと同時に感じたのは理由のない罪悪感だった。マッシュと香苗に対してか? それとも美咲に対してか?知りたくもない。 ぼくの腕を枕にして、安らかに寝息をたてている美咲のほっそりとした顔を、しば らくの間、飽きもせずに眺めていると、不意にベッドの横に置いてあった目覚まし時 計が鳴り始めた。あわてて、止めようと手を伸ばしたが、すでに美咲は目を開いてい た。 ぼくを見て少し頬を染め、しかし静かに美咲は微笑んだ。 「おはよう」 「おはよう。お前、いつもそんなに静かに起きるのか?」 「そうよ」美咲は白い腕を伸ばすと、的確に時計の息の根を止めた。「ほんとは目 覚ましなんか必要ないのよ。私の体内時計の方がよっぽど正確なの。スイッチが切り 替わるみたいに、午前7時ピッタリに目が開くの」 ぼくはそっと、美咲にキスした。 「仕事の時間か?」ぼくは美咲の前髪を、そっとかきわけながら訊いた。 「ううん」美咲は心地よさそうに目を閉じた。「今日は休み」 「それはよかった」ぼくは布団にもぐりこむと、美咲のきれいな乳房に手をのばそ うとした。 「でも、朝御飯作るね」そういうと美咲は勢いよく跳ね起きた。ぼくの手は空しく、 シーツに墜落した。美咲は軽やかに笑うと、手早くシーツを身体に巻き付けて、する りとベッドから抜け出した。猫のような身のこなしだ。 そのまま、美咲はバスルームに消えた。すぐにシャワーの音に混じって、鼻歌が聞 こえてきた。ぼくは、後を追ってバスルームに入ろうかと思ったが、あまりに悪趣味 なのでやめた。美咲は必要以上にべたべたされるのを好まないのだ。 ぼくはもう一度、布団をかき集めて、目を閉じた。 少し、うとうとしたらしい。優しく揺り起こされて、しぶしぶ目を開くと、トース トとベーコンのいい匂いが鼻を刺激した。美咲は明るいレモンイエローのスウェット の上下を着て、エプロンをかけていた。 「朝御飯ができたわよ」美咲は歌うように告げた。「御飯とお味噌汁じゃないけど、 トーストとベーコンとスクランブルドエッグとコーヒー。トーストとベーコンはカリ カリ、卵はほくほく、コーヒーは熱々よ」 食事はおいしかった。美咲が作ってくれたという点を差し引いてもおいしかった。 あえて、難点をつけるならサラダがなかったことだ。生野菜がきらいなのも変わって いない。 「いつも、こんなに食べるのか?」ぼくはテーブルに並んだ、あんずのジャムやマ ーガリンを指さした。「よく太らないな」 「見かけより苦労してるのよ。太ってる暇なんかないわ」そう言いながら、美咲は 厚切りのトーストにジャムをたっぷり塗って、かじりついた。昨夜の、ぼくの胸の中 で涙を流した少女は、朝の光とともに蒸発してしまったらしい。ぼくも負けずに、テ ーブルの上の料理の征服に取り掛かった。 食欲を満たすと、皿を流しに片づけて、二人ではしゃぎながら洗った。それから、 コーヒーを煎れ直して、テレビを前にぼんやりくつろいだ。相変わらず、海外で円売 りが続いていて空前の円安になっているという内容を、どこかの経済学の教授が話し ていたが、ぼくはほとんど聞いていなかった。美咲はぼくにもたれかかっていた。昨 日の男のことを思い出したのは、そのときだった。 「そうそう、忘れてた」ポケットを探ると、昨日、柳瀬という男から渡された封筒 が入っていた。封を切って見ると、B5のコピー用紙を小さく折り畳んだものが入っ ていた。 「何、それ?」美咲が訊いた。ぼくはコーヒーカップを置いて、それを広げた。 そこには見覚えのある字が並んでいた。 『靖弘、お前がこれを読んでいるということは、おれはもうこの世にいないは ずだ。おれの死因が、何なのかはわからんが、事故か何かだったら、おれは殺さ れたものだと考えてくれ。言っておくが、冗談ではないからな。確かな根拠があ るんだ。おれが嘘を言わないことは、少なくともあまり言わないことは知ってる だろう? おれは何かに巻き込まれてしまった。それが何だかおぼろげにわかってきたが、 言う訳にはいかない。定倉原発に関係があることだけは伝えておこう。だが、お 前を巻き込むことになるかも知れないから、これ以上は言えない。 おれは最後の抵抗をしてみることにしたが、覚悟はできている。香苗には定倉 市を離れるようにいったが、拒否された。気の毒だが、もう手遅れかもしれない。 できれば香苗だけは助けてやりたいが。 これは柳瀬という男に託しておく。おれに劣らず優秀なエンジニアだ。柳瀬も また、抵抗をしている。何にとは訊くな。柳瀬はお前に助けを求めるかもしれな いが、関わり合いになるな。すぐに定倉市から出るんだ。 いっそ、こんな手紙を書かなければいいのにとも思う。だが、誰かひとりぐら い、おれがおとなしく事故死したのではなく、戦いながら死んでいったことを知 っていてくれる人間が欲しかったんだと思う。最後のわがままだな。 全てが笑い話だったということになればいいんだが。 念を押しておくが、おれの本当の死因を探ろうなんて考えるなよ。絶対にだ。 最後にお前と一杯やりたかった。美咲によろしくな。あいつはずっとお前を待 っていたんだぞ。 マッシュ』 自分の顔から血の気が引いているのがわかった。美咲の顔も蒼白だった。ぼくは手 紙を何度も読み返した。なごやかな朝のひとときは、跡形もなく吹き飛んでいた。 「靖弘…」美咲の手が熱にうかされたようにふるえていた。ぼくは、同じようにふ るえる手で、美咲の白い手を握った。 「殺された、だって」ぼくはぼんやりとつぶやいた。「殺された…」 「まさか…」美咲の頭も、半分以下の回転数に落ちているらしい。「香苗も…」 ぼくは、美咲が冗談でしょう?と笑い飛ばしてくれるのを待っていた。だが、ぼく らはどちらも、マッシュがこれほど悪趣味な冗談をいう人間ではないことを知ってい た。あいつが、自分の死にジョークを持ち込むなら、棺桶の中に花火を入れておく程 度でとどめておくだろう。 どれくらい呆然としていたのかわからない。ようやくぼくの灰色の脳細胞がショッ クから立ち直って、活動を再開した。 「とにかく、あの柳瀬という男に会ってみよう」 「でも、書いてあるわよ」美咲もはっきりした口調を取り戻していた。「おれの本 当の死因を探ろうなんて考えるなよ。絶対にだ」 「そうだけど、このままにもしておけないだろう」 「そうねえ」美咲はためらいがちに同意した。「確かにこのままにはしておけない わね」 「だろ?今日、大東電力事務所に行ってくる」 「私も行こうか」 「いいよ。美咲は待っててくれ。ぼく一人の方が、相手も話しやすいだろうし」 美咲はうなずくと、テーブルの上からシビックのキーを取りあげて、ぼくに渡した。 「車を使っていいわよ。私はお洗濯でもしながら待ってるから」心配そうな表情が 浮かんでいた。「お昼には戻ってきてね」
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