空中分解2 #2335の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
暑さに襟元を開け、御弁当箱が入ったバッグを膝の上に載せていた。嘔吐物は可愛い 彼女の襟元から流れ落ち、彼女の下着にまで届いたのかもしれない。熱と電車の揺れ。 多分、いつもであったら「熊乃木坂」の洗面所が少し汚れただけで済んだはずなのだが 物事は須らくハズミでうごいて行く。彼女は 「嫌〜っ」 と小声で言ったかと思うと、手で顔を覆って泣くばかりであった。かと思うと、こんな 処でも、漫画雑誌に夢中なOLは、 「キャハハッハ....ギャハハッハ....」 と本で顔を覆いながらも笑い転げているのであった。 人の心配ばかりはしておられない貫一であった。腹の具合は相当微妙な状態である。 「熊乃木坂」まで持つか、が微妙である。グルグル、ゴロゴロと火山性微動を伴いなが ら、間欠的にガスの噴出を伴っている状況であった。 朝の慌ただしさに、胃痛や腸の蠕動の昴進が惹起され、便意を催す方も多い。こんな 日に限って、牛乳をしこたま飲んでいたりするのだ。バンドで教科書らしきハードカバ ーの本を束ねたのを持った大学生風の男が急に本の束を取り落とした。汗か雨かは、定 かではないが、顔は雫が滴っている。目を大きく見開くと、片手で吊革にぶら下がりな がら、膝を折って腹を押えた。かと思うと、はっきり聞こえる音がした。 「ブリッ、ブリッ、バリバリッ」 大きく息をしている。Gパンには黒いシミが滴り落ちてゆく。しばらくして、茶色い塊 がGパンの裾から流れ出した。 もう何もかもない交ぜである。混沌の海の中、皆一つになろうではないか。突然に禿 げたオジサンが歌い出す。カラオケの十八番なのだろう。 「ジョボジョボジョボ......」 もう何も驚かない。ここは電信柱ではない。何もかもがハズミで激しく動いている。 こんな事が起こっているのは、この電車の中だけに決っている。熊乃木坂に着けば、と 皆が思い込んでいる。 熊乃木坂の駅で大抵の人は降りてしまい東京方面へ向かう幹線に乗り換える。輪関内 から矢田までを結ぶ輪矢線と交差している幹線との連絡地点である熊乃木坂は、交通の 要所である。 熊乃木坂の駅の輪矢線のホームは、ゆるやかにカーブしていて、ピッタリと通過列車 によりそうというわけではない。停車している時に、ホームとの隙間が大きな処もあっ て 「乗降時に注意」 との表示も出ている。うっかりすると片足をとられて大怪我する危険もある。 考えてもみれば、スムーズな円弧を描いているホームと連結器でつながれた直線であ るところの列車の間には隙間が出来るのが当然である。大きな処もあれば、ほとんど隙 間がない、といった処もある。 熊乃木坂の駅の輪矢線のホームには、朝のラッシュに限っていえば待っている人は疎 らである。大概の人々は東京方面へ向かう幹線に乗り換えるため、階下のホームへと急 ぐ。さっき到着した列車の人々は、とうに降りてしまった処。駅員さんも誰もいないホ ームへ、コートを着た風采の上がらない太った男が、傘も持たずにやってきた。髪から コートからズブ濡れ。だが、全く気にもしてはいない様子。矢田行きのホームの輪関内 方向の端へと歩いていった。 誰も見ていない。大粒の土砂ぶりの雨に吹き荒ばれているのに、一向に構わぬようで ある。ただただ、列車の来る方向をひたすら見ている。 かたや、冷房の切れた貫一の乗った車両では開いた窓から大粒の土砂ぶりの雨が吹き 込んで来る。たまらずに誰かが窓を閉めたに違い無い。ピタリと風が止まった。糖尿病 患者の尿に特有の甘酸っぱい臭いがするに貫一は気がついた。四十歳以上の日本人の十 人に一人が糖尿病である。この大騒ぎの中に一人くらい居らっしゃっても不思議ではな いと貫一は思った。 「クション....クション....」 黒い綿のコートを着ている若い男は、ひとしきりクシャミをした。飛沫は車両の中に 飛び散ってゆく。かと思うと、咳が止まらない。 「ごふっ....ごふっ....ごふっ....」 結核は減ったとはいえ、根絶された訳ではない。不摂生な若者や抵抗力の落ちた老人 の中では未だ蔓延している疾病である。 「ごふっ....ごふっ....ごふっ....ごぼっ....」 鈍い音がして、男は手で口を覆った。見ると、赤い血を吐いている。貫一のレイン・ コートにも、とばっちりがきている。 血は水よりも濃い。トマトジュースの様に固形成分がたっぷり入っている。ウィルス だの毒素だのも。B型肝炎だってエイズだって滅多な事ではうつらないけれども、大量 に血液に暴露されれば、わかったもんじゃない。 「汚ねぇ....」 思わずつぶやいた言葉に男は顔を赤くした。止まらない咳にほとばしる、赤いしぶき は前に座っている老婆の顔面を直撃した。が、老婆はピクリとも動かない。息をしてい るなら、肩を見れば僅かでも動いている筈なのにそれもない。目を閉じ、安らかな表情 で座っているだけである。我に帰って貫一は言った。 「何とかしてくれよな....このコート....高かったんだぜ....」 デマカセである。吊しの二着で「ニッキュッパ」とかいう背広しか着ていない貫一が 着ているのは、確か九千八百円のレインコートなのだから。言うんじゃなかった。男の 目つきが変わった。 「悪かったな 俺はエイズだ エイズだ エイズだ エイズだ....」 血のついた手を貫一の顔に擦り付けようとしたので、貫一は思わず手を掴み、そいつ の右腕を後ろ手に捻り上げた。 「えっ!」 「エイズ?」 「うそっ!」 「わかんない!」 「やだ!」 「ほんとぉ〜?」 「信じらんない〜!」 「げっ!」 言葉にならない音声の数々が集まり怒号に変わってゆく。皆、ドアの方を向き、ドア の方を目指す。 はっきり言って、血液を擦り付けられたくらいで感染が成立してたまるものか。とは いうものの、たとえ、それが「感染症の専門医」であったとしても、この暑さと雨粒降 り込む車内では、正しい判断を行い、皆を導けたか、と問えば疑問が大きい。 列車は、とうとう「熊乃木坂」へさしかかった。熊乃木坂の輪矢線のホームの端っこ で独り立っていたビショ濡れの男は、 「トォ〜」 と叫んでは高く線路へと身を踊らせた。入ってきた列車に面と向かってぶち当たった。 「グシャリ」 という鈍い音がしたかしないか、でホームの緩やかなカーブの接線方向へと飛ばされ、 落下しつつホームの縁にぶつかる。ズルズルと滑り落ちる処に列車が過ぎる。 ホームの縁と列車の間に挟まれ、ギリギリと絞り込まれる。ついには首だけがホーム の上に出て、グルグルと列車の進行とともに回転する。割れて血だらけの額で目を剥い た首。わずかに、たった今ホームに出たばかりの駅員さんがそれを見ていた。 とうとう、首はくびり切られて、コロコロとホームの上を転がる。 「キッキッキッ....」 と鈍い音がして列車は止まった。 ドアが開く。我先にと列車から飛び出す人々。勢いたった若い男が「首」に蹴つまず いて背中から倒れてしまった。「首」は勢いよく転がって、階下へと続く階段へと転げ 落ちた。若い男は、後ろから来たOLのハイヒールに腹を踏まれてしまって、腹を抱え て倒れたままになった。 あっという間に列車の中は空になる。後に残されたのは貫一と後ろ手に腕を捻りあげ られた男。そして、座って動かないままの老婆は、ズルズルと滑って頭から床へと落ち た。列車の床は様々な液体、吐瀉物にぬかるみ、その堆く積もった処に老婆の頭は落ち ていった。しぶきが飛び散り、そして、老婆は薄目を開けたように見えたが、それは落 下の反動によるものに過ぎなかった。 時間は過ぎて行く。しかし、いつまで経っても、列車は動こうとはしなかった。 「人身事故が起きましたため、その事後処理のため、発車が遅れ、 大変にご迷惑をかけております......」 そのアナウンスも音声合成であった。人身事故も日常に起きる些末な出来事かと思うと 貫一は何だかゾッとしなかった。怒りより、到着の安堵、そして再び力を得てきた便意 のために貫一は降りる事にした。大事な手提鞄は、そう大して汚れてはいない。 「そのまま動くんじゃねぇぞ」 血を口から流し続けている男の腕から手を離すと、万平は後ろを振り返り振り返りしな がら列車を降りた。 階下への階段をゆっくりと降りて行く。少し歩いて、不便な方の洗面所に寄る。ここ なら混んではいない。血のついたコートはゴミ箱に捨ててしまう。どうせ九千八百円だ し、相当着古していたから。 慌ててトイレの小部屋へと飛び込み、安堵する。寸での処であった。ちり紙は持って いた。が、手を洗おうにも水が出ない。喉が渇いた。汗と小便と排便にて体の中の水分 は抜けてしまっている。 イヤホンがちぎれてしまったラジオがポケットからはみ出している。スピーカーに切 り替えてニュースを聞いてみる。 「今朝、首都圏各地で相次ぐ飛び込み事故が起こり、交通マヒをきたしています」 幹線の方でも「人身事故」にて運転が取り止めになっているという。思わず、貫一は床 に傘の先を叩きつけた。 「くそっ!役員会議に間に合わなかったらどうするんだ!....」 そのまま、顔を上げた貫一の目の前に、見知らぬ少女がいる。さっきの吐瀉物を浴びた 女子高生かなと近づいてみると違う。不思議な事に宙に浮いている。 「うわ〜っ!」 貫一は腰を抜かした。少女は、血だらけの男の「首」を抱えている。
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