空中分解2 #2310の修正
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★内容(1行全角40字未満、500行まで)
12 ひどく疲れていたわりには、少ししか眠らなかったらしい。目覚めて反射的に時計を 見ると、午前5時14分だった。 大きく伸びをして、強張った身体をほぐした。あくびをしながら窓の外を見た。 普通なら空が白んでいてもいい時刻なのに、真夜中とほとんど変わらない。相変わら ず空には成層圏まで続いているのではないかと思わせる厚い黒雲が垂れこめ、ひっきり なしに雨を地面に叩きつけている。 カウンターの上には眠る前に開けて、そのままにしてあった缶コーヒーがあった。私 はそれをつかんで、250ミリリットルをほとんど一息で飲み干した。ひどく喉が乾い ていた。 大きく息をはき出すと、暗い店内を見回した。阿部を縛って、転がしておいた片隅を 見やると、身じろぎひとつしない身体があるのがわかった。少しほっとして、カウンタ ーの裏側をのぞき込んだ。 心臓が止まった。 のりちゃんの姿はなかった。 かすかに残っていた眠気が一瞬で霧散した。慌てて立ち上がって、ろうそくに火をつ けた。店内の限られた範囲が光の中に浮かび上がった。倒れたテーブルや散らばった調 味料の瓶、壊れた椅子、こぼれたソース。しかし、のりちゃんの姿はどこにも見えなか った。 あせる心を落ちつけて、ろうそくをテーブルの一つに立てた。別の一本に火をつけ、 ゆっくりと歩き始める。 始めに事務室のドアを細目に開けて中を覗いた。大宮の裸の死体が床の血だまりの中 に転がっている。血の匂いがツンと鼻を刺激した。微かな吐き気を感じてきたので、ド アを閉めた。 レジの裏、トイレ−紳士用も含めて−の中、狭い清掃道具入れ。そういうありきたり な隠れ場所にはいなかった。まさかと思って、冷凍庫や冷蔵庫も開けたがもちろんいな かった。倒れたテーブルの陰は全て見て回ったが、見つからない。 最後に阿部が倒れている場所を見た。阿部は仰向けになって気絶したままだ。 すぐにきびすを返しかけたが、何かが心に引っかかった。もう一度、阿部にろうそく を近づけた。阿部の顔がはっきり見え、同時にこの男がもはや蜂の恐怖に二度とおびえ ることがないのがわかった。 阿部は大きく目を見開き、明らかに恐怖とわかる表情を張り付けたまま死んでいた。 口を開けているところを見ると、死の直前に絶叫したようだが、それなら何故私はそれ を聞かなかったのだろう?そもそも、この男はどうして死んだのだろう? 再び蜂の幻覚を見たのだろうか。敵意を持って襲いかかる蜂の大群を。私が両手両足 を縛ったために、逃げ出す事も反撃することもできずに、恐怖のために死んだのだろう か。 その時、私は今まで見落としていたものを見つけた。 阿部の両耳から太い針金が生えていた。片方は固まりかけた血が付着している。反対 側の端は直角に短く曲がっている。 厨房にあったグラスかけの一部である。厨房で料理をしているとき、長いグラスがい くつもこれにかかっていたのを見た憶えがある。 何があったかは明確だ。誰かが厨房に入り、グラスかけから針金を一本外す。それを 身動きのとれない阿部の耳に差し込んだのだ。抵抗したような跡がないので、気付いた 時には手遅れだったに違いない。声を出さないように、タオルか何かを口に詰め込んだ 上で実行したのだろう。 私がやったのでないことは私が知っている。私が夢遊病を発病したという少ない可能 性を除けば、残るは2人。被害者自身は両手両足を縛られたまま。他殺に見せかけた自 殺という真相はほとんどありえない。 「のりちゃん?」私は無人の店内に呼びかけてみた。自分の声が震えているのがわか った。 返事は返ってこなかった。ろうそくの揺れる光の中には、テーブルや椅子が無慈悲な 顔で転がっているだけだった。 私は外を見た。するとさっきは目に入らなかったものが見えた。 のりちゃんは白い裸身を雨にさらしながら駐車場に立っていた。こちらに背を向けて 何かを見降ろしている。アスファルトの上に見えるのは見覚えのあるレインウェアとヘ ルメット? あけみさんだ! 私は駆け出した。叩きつけるようにドアをガラス戸を開き、雨の中に飛び出した。 あけみさんはうつ伏せに倒れていた。のりちゃんは何の感情も表さずにそれを眺めて 立っている。私はあけみさんを抱きかかえた。 「あけみさん!しっかりしてください」私は呼びかけた。あけみさんの美しい顔は血 の気がなく、死人のように真っ青だった。 私の呼びかけに応じて、あけみさんは目を開いた。しかし、その瞳が見ているのは、 私ではなく、そばに立ち尽くしているのりちゃんでもなかった。 「…ごめんなさい」あけみさんは誰かに謝った。「私をゆるして、けんいち…」 消えそうな声でそれだけ口にするとあけみさんは力を抜いた。 「あけみさん?」私はおそるおそる呼びかけた。返事はなかった。あけみさんは私の 腕の中で静かに息絶えていた。 私は悲しみが押し寄せてくるのを待った。それは確かに心に打ち寄せたが、予期した ほどの激しさではなかった。心のどこかに、再び生きてあけみさんを見る事がないとい う確信に近い予感を持っていたのだろうか?憶えていない夢の中で、この状況を何度と なくシミュレートして、無意識のうちに防壁を築き上げていたのだろうか? 周りを見回したが、あけみさんが乗っていった自転車はなかった。どこまで行けたの かは判らないが、私には想像もつかない何かが起こり、必死で歩いて戻って来て、ここ で力尽きたのだろう。 のりちゃんは時が止まったような無機質な光を瞳に浮かべ、無言で立っていた。完全 にその精神が破綻しているであろうことを、私は悟った。少なくとも2人の人間に身体 を奪われ、2人の人間の命を奪ったのである。彼女を正常に戻すのは私では無理だ。肉 親や恋人の暖かい愛情と、設備の整った病院の優秀な医師の力が必要である。 「のりちゃん」それでも私は声をかけてみた。「あけみさんを中に運びたいの。手伝 ってくれない?」 少女は完全に私の言葉を無視した。ひょっとすると聞こえなかったのかもしれない。 私はあきらめて、あけみさんを抱き上げた。あけみさんは私よりやや小柄だったが、一 人で運ぶのは骨が折れた。ほとんどアスファルトの上を引きずるように中に運んだ。 いったん、あけみさんの遺体を入り口に横たえると、倒れたテーブルからテーブルク ロスを外して床に敷いた。遺体からレインウェアとヘルメットを取り去って、もう一度 持ち上げ、テーブルクロスの上にそっと横たえた。 それからろうそくを探した。私がさっき点けたろうそくは見つからなかったので、カ ウンターから新しい1本を取ってきた。火を点けると、あけみさんの遺体の脇にそれを 立てた。 私は遺体に手を合わせて、あけみさんの冥福を祈った。最後に口にした「けんいち」 という人物が彼女の夫か、恋人か、または子供かは知らないが、その人のところへ行け るようにと。 のりちゃんのことを思い出した。あのまま外にいては風邪を引いてしまう。私は外を 見た。 駐車場には誰もいなかった。 大宮の言葉ではないが、いい加減にうんざりだ。誰かがいる筈の場所を見ると、必ず 姿を消している。理不尽な怒りを感じながら、私は再び外に出た。 ほんの短い時間だった。最後にのりちゃんに声をかけてから、10分も経っていない 。それなのにのりちゃんは跡形もなく消えていた。 私は国道まで歩いた。左右を見渡した。どちらの先にものりちゃんの姿は見えなかっ た。もし、国道の両側に広がる林の中に入って行ったのなら、探しようがない。何より も自分の意志で姿を消したのなら、自分から戻ってくるのを待つしかない。投げやりだ と思ったが、私は捜索をあきらめて店内に戻った。 カウンターに座り込んだ。全身ずぶ濡れだが、寒いとは思わなかった。ジャケットは 防水加工が施してあるので、それほど濡れていない。Gパンはたっぷり水を吸っていて 下着までしみこんでいる。しかし、脱いで乾かそうとは少しも思わなかった。恥ずかし いわけではない。ただ、何があってもすぐに動けるようにしておきたかったのである。 とうとう一人になってしまった。
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