空中分解2 #2091の修正
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「教授はどうなさったんですか?」 「そういえば、トイレへいったきり戻ってこないな」 もう一度、時計を確認した。三十分以上が経過している。 「具合でも悪いのかな。ちょっと見てくるから車で待っててくれ」 はい、と答えつつ和明を見送り、車には戻らず玄関で待つ。 青白い顔をして無言の和明がひとり姿を現すまでの十数分は、美貴に百倍でもた りない濃密さの空白を提供した。 「先生はどうしたんです?」 「……先に帰ったんだろう」 ぶっきらぼうなものいいに、美貴の眉はつ、と控えめによせられた。それが美貴 なりにできるせいいっぱいの怒りの表示なのだと、和明は知っていただろうか。 「私にも知る権利はあると思います」 淡々と告げられた言葉に和明が見せた表情の変化は、より直截的だった。けわし く美貴をにらみすえ、口が一瞬叫びの形に大きく開かれる。 が、怒気と難詰の言葉は迸らず、硬直した沈黙のあとには長々としたため息がも れただけだった。 「先生はいなかったよ」乾いた口調には抑揚が完全に欠落していた。「かわりに トイレに大量の汚物が散乱していた。きっと気分が悪くなったのでさきに帰ったん だろう。旅館の者に掃除しておくようにいっておいた」 明白な嘘だった。あるいは、和明流のレトリックといいかえてもいい。たしかに 教授は度の過ぎた飲み方をしてはいた。だが己の醜態をさらすまいと、あるいは迷 惑をかけまいと黙って先に帰るような配慮をする人柄ではない。 「その汚物ですが」われ知らず、ごくりと喉が鳴るのを美貴は抑えきれなかった。 「豆腐を崩したような形状をしていませんでしたか」 和明は重くため息をつきながら目を閉じて首を左右にふってみせた。 「そうだな」力なくつぶやいた。「反吐にしちゃ、白くてやけに上品だったよ」 それきり無言のままのふたりを乗せて、車は河畔の料亭をあとにした。 靖国通りにぬけて新宿の光の塔がビルの谷間に垣間みえてきたころ、重苦しい沈 黙をついて携帯電話の呼び出し音がやにわに耳をつんざいた。 ぎくりと身をふるわせた美貴のとなりで和晃は怒りに近い不機嫌さで電話の送受 器をにらみつけていたが、やがていらだたしげなため息をひとつついてスイッチを 受信にする。 「もしもし」 ぶっきらぼうな呼びかけはやがてきつくひそめられた眉の下に後退していった。 「江多が?」 美貴は不審に目を見開く。グループ傘下の企業のひとつが抱える八王子の研究所 に機械もろとも臨時研究員の名目でおしこんでおいた江多十郎に、何かあったらし い。 「機械のほうはどうなんだ? そのまま? なら、発作的に、あー、なんといっ たかな、コミカ……えー……ああそう、そのコミケとかにでも出かけて、晴海あた りで同類とたわむれてでもいるんだろう。三日? 連中の行動パターンなんぞ知る もんか」 あまりくだらんことでいちいち電話をするな、と珍しく怒鳴りつけながら荒々し い動作で電話をオフにする。 すぐに再び、呼び出し音が鳴りわたった。ぎり、と奥歯をきしらせながら和晃は 携帯電話をにらみつけ、 「いいかげんにしろ」 と吐き捨てて機械をとりあげた。もしもしと応じる声にも不機嫌さはぬぐい切れ ない。くだらない用件だったら一瞬後にはどなり散らしはじめたにちがいない。 かわりに、眉が寄せられた。 9 「浄土――いや、芦屋か」 美貴はぎくりとして目を伏せた。視線を合わせるのが恐かったからだ。が、見る までもなく和晃がどんな表情をしているのかが、手にとるようにわかっていた。 「今さら退くものか。ひき際? 笑わせるな、俺をここまで意固地にさせたのは どこのどいつだ?」 美貴には、恐怖よりは諦念のほうが色濃かった。帰ることなどできないのだろう。 裏界にひそむ強圧者の視線の存在を、知ってしまった今となっては。 「好きにするがいい。今どこにいる? わざわざ訪ねてくるまでもないさ。俺の ほうから出むいてやる」 その必要はない、と声が聞こえた。 窓の外から。 二人同時に目をむけた。 刃物のように鋭利な三日月が、そそり立つ高層ビルの頭上に輝いていた。背景効 果としては上々だろう。慣性にか灰色のロングコートをなびかせた痩躯の長身は、 《天神》の面とあいまってまるで神話の光景のごとく凛然と宙を浮遊する。 呆然としながらも和晃が電話のスイッチをオフにするのを、視界の片すみに美貴 は留めた。 「臨界、という言葉を知っているか?」 単調な響きの声が車内の二人に呼びかける。 車のスピードは六十キロ前後。信号は遥か先まで花道を開いているが、直立した まま宙をすべる人影に遅延の気配は微塵も見られない。 「踏みこえるのは愚か者の所業だ」 淡々と告げる声音に、 「名まえをきこうか」 応じた和晃の台詞へ美貴は目を瞠る。そこには驚愕と怯えをおし退けてなお湧き あがる、浮遊する《天神》への挑発の微笑があった。 「胆力だな」揶揄するでもなく、痩身の人影は抑揚を欠いた口調で言葉をつむぎ 出す。「恐怖と怯えを自覚してなお、それだけの胆力を絞り出せるのは悪くない。 それだけに情勢を見きわめきれぬその意固地さは惜しまれる」 「利いた風なことを」と鼻に嘲笑をのせた。「きさまらに諭される覚えなどない」 「まさに意固地。人の上に立たんとする者、たとえ幼児の言葉といえどおろそか にできぬもの。常態であればおまえにもそれはできているようだが、窮地に立たさ れパニックに陥り、謙虚さと貪欲さとを手放さざるを得ぬとなれば役に立つ人材と は言いがたい」 ぎらりと眼を剥きつつ、和晃は返す言葉をうしなった。 「まさか……おまえらは……」 「いまさら気づいたか愚か者。おまえの弟はもう少し早い段階でその可能性に思 いいたっていた。そしておまえの父親もまた意固地ではあったがおまえほど救いが たくはなかったぞ」 「親父が?」 途端、和晃は間にすわる美貴をおしのけるようにして身を乗り出した。 「親父殿が? まさかあの変節は?」 「変わり身、というやつよ。忍の素質は備わっている。身は動かずとも用にはた りる。ましてあれだけの地位と発言力。これにわれらの助力を得られれば磐石たり 得るというもの。しかし、その長子がこの低たらくとあらばな」 今度こそ、まごうかたなき驚愕が和晃の満面を占拠していた。魂をぬかれたかの ように眼を剥き口をあけ放った和晃のその表情を、美貴は呆然と見やるほかにすべ はなかった。 この手の無防備な顔を和晃の面上に見たのは、これが初めてではない。まんまと してやられたときに和晃はよくこういう顔をする。問題は――それにつづく反応だ。 常の和晃ならば弾けるように笑いだすか、あるいは唇の端を歪めつつ「やられたか」 とどこか爽快につぶやいてみせる。 その余裕が、今の和晃にはまるで欠落していた。 「しょせん、それだけの器、ということだ」 《天神》のつぶやきが、美貴の思いに裏づけを与えた。 胸に痛みがはしった。正体は知れない。知れないまま、美貴は言葉をさがして胸 奥をさぐる。見出だせたのは、喉もとにいすわったもどかしげな塊だけだった。 ふいに、携帯電話が傍若無人にベルの音を響かせた。ぎくりとしてかたわらの和 晃と、そして宙を舞う《天神》に目をやる。 一回、二回、三回、くりかえされる呼び出し音にもまったく和晃は反応すること なくただただ呆然とするばかり、怜悧な視線を仮面の奥から光らせた《天神》には、 もとより動ずる気配さえない。 なぜ空中に人が浮いているというのに、周囲の車や歩行者が騒ぎださないのだろ う、と痺れた脳髄の奥底でおぼろげに思考がつぶやいた。 受話器にのばした自分の手が激しくふるえているのを、美貴はまるで他人ごとの ように遠く意識する。 スイッチをオンにして耳にあて、しばし言葉をさがした。 「……もしもし」 口をついて出た平凡な応答に、打てば響くようにして若い男の声が返った。 「笠森さんだな」低くよく響く、静かな声音だった。「悪いがちょいとそこに浮 遊してる痩せっぽちとかわってくれないか?」 「どちらさまでしょうか?」 と訊きかえしたのは、根ざした疑問を確かめるためではなく、単なる反射行動に すぎなかった。 「浄土武彦だ」 返答に、麻痺しかけていた思考――が完全に硬直する。 痩身の《天神》と和晃に向けて交互に呆然と目をやり――貫きとおすように睨む 視線に身をこわばらせた。 「だれだ……?」 ふるえる声音で、和晃が訊いた。震わせていたのは、待ちこがれたあげくの不安 と恐怖か。 浄土、と口にしきる前に和晃は美貴の手から受話器をひったくっていた。 「会いたい。いまどこにいる?」 数か月も連絡さえなかった恋人からの電話に告げるような熱烈な口調で、ささや きかけるようにして和晃は告げた。 沈黙の数瞬ののちに「わかった」と短くこたえ、和晃は不安の下に不思議に満足 したような顔をしながら携帯電話を《天神》にさしだした。 仮面の下にどのような表情が浮かんでいるのか、もとより推し量るすべもない。 浮遊する怪人は無言のまま、いささかの躊躇もなくさしだされた送受器を受け取っ た。 和晃も美貴も、無言のまま仮面の奇人が携帯電話を耳にあてる奇怪で滑稽な光景 に見入るばかりだった。 「種をまいたのはおまえだ」しばしの沈黙の後に、《天神》は抑揚を欠いた口調 で口にする。「富士の樹海をぬけたおまえが浄土の強弁に庇護された時から、すべ ての歯車が狂いはじめたのだ。システムはすでに変容を開始している。だれにもと めることはできん。だれにも、な」 宣告はしばし途切れ、《天神》は浮遊移動したままゆるりと背後をふりかえる。 視線を追って和晃と美貴も過ぎゆくビル街に視線を馳せたが、街は平穏でなんの変 哲もない夜の顔を灯しているだけだった。 「好きにすればいい」 短く言いおいて、怪人はスイッチをオフにした。口調にかすかに苛立ちがこめら れていた、と感じたのは、美貴の思いすごしだっただろうか。 現代の忍が返してよこす送受器を緊張にみちた面持ちで和晃が受け取るや、仮面 の痩身はばさりと音をたててコートを翻し――声をあげる間もなく街路灯のつらな る彼方に後退して消えた。 しばし声もなく夜に視線をさまよわせ――ふいに和晃は運転席に声をかけた。 「三鷹の別宅にやってくれ」 ショーファーは「かしこまりました」と短くこたえると、おちついた操車で車線 変更にかかる。 和晃は美貴をふりかえり、 「そこに浄土武彦がいる」 と言った。 10 夏の夜に気勢をあげる酔漢の群れをを尻目に街道をよぎり、動物園わきで井の頭 通りにおれた。街路燈に浮かぶ夜の武蔵野をぬけていくつかの道を右に左におれ、 車は別宅の木門前で扉を開いた。 開かれた扉を横にして和晃はしばしのあいだ、腕をくんで目を閉じたまま、まる で眠りこんででもいるように微動だにもせずに時をやり過ごしていた。が、やがて、 決心がついたようにふいにするりと身をすべらせて一挙動で車を降り、門をくぐる。 門内で無言のまま頭をたれる管理人老夫婦に会釈を返しながら美貴は和晃のあと を追った。背後で、ばずんとドアの閉じる音につづいてクラウンが走りだす音が遠 ざかる。 「居間で待っていろ」 短く指示を残して和晃はきしむ廊下を踏みしめ、奥間をめざした。 襖戸を左右に開き、足を踏み入れる。部屋の内部にひとけはなかった。 薄闇のなか手さぐりで電灯のスイッチに手をのばしかけ、 「灯りはつけないでくれ」 静かな依頼に、動作を停止させた。 障子戸を透して月光に、庭木がかすかに揺れている。通りの彼方からときおり響 くエンジンの音。短い夏に生を鳴きあげる無数の虫の、複雑で豊穣なる一季だけの 謳歌。 邸内くまなくいきわたったエアコンの空調が肌ににじんだ緊張の冷汗を吸いあげ るまでには、まだ少しばかり時間がかかるにちがいない。
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