空中分解2 #2069の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
フランス語専攻の恋人は情報工学専攻の僕に、ラテン語、ヘブライ語、スウェー デン語やフィンランド語を、僕に入門書を見せては得意げに使う。そんな時の幼 い表情は、僕だけのもの、と思うとただ嬉しく思えて仕方がなかった。たとえ彼 女の話す言葉自体は僕にはちんぷんかんぷんで面白くなくても、彼女の顔さえ見 ている事ができれば、僕はそれで嬉しかった。彼女はいつも神秘的で、僕は聖域 に踏み込もうとはしなかった。 二人の間に誕生日のプレゼントが行き来するようになって、三度目、彼女は僕 の誕生日に一冊の本をくれた。ヒエログリフ入門。僕は少し、困った顔をしたか もしれない。彼女は今までにない程うっとりとした瞳でその本を見つめ、私とお 揃いよ、と言った。いつの間にか僕は彼女に約束をしていた。それは、やがて彼 女と、ヒエログリフで文通をする、という内容なのだった。服のお揃いなら着て 歩く事ができても、本のお揃いを表すにはそれしかない、と僕は思ったのだろう か。 ヒエログリフ。古代エジプトの、象形文字。あの、鳥やライオンの絵が漢字の へんとつくりの如くに組み合わさっている文字。語学がからきし苦手な僕は、英 語よりもコンピューター言語の方が得意な程だ。その日から毎晩その本を読もう と思って取り組んでは、数頁で投げるか眠るかでほとんど進まず、覚えるのが苦 手な僕にはとうとう致命的な程に記憶を必要とする箇所にぶつかった頃には、一 週間位経っていたろうか。本の一番最後に彼女からの手紙が挟まっている事に気 付かなければ、きっと彼女に謝って文通の約束を取りやめていただろう。 正直、その手紙を見た時は意外だった。僕が文通の話をした時は少し驚いた風 で、むしろ、僕にはできないと思っている表情さえ見て取れた気がした。けれど それは、僕が彼女と同じ事を思い付いた事の驚きだったのかもしれない。彼女は 僕にこの本をプレゼントをする前に、手紙を書ける位には習得していたのだろう。 そして既に、メッセージを用意していてくれた。それならば、引くに引けない。 諦めないぞ。どうにか習得しよう。そう決意して、もう一度本を開いた。 本を開く度、ヒエログリフを見る度、何かいつも妙に興奮した気分になる。語 学嫌いの僕でさえなのだから、彼女の熱心さは。想像に難くない。けれどこの興 奮は何かを見る時に似ている。ぼんやり眺めていて、思い出した。これは、架空 の宝島、そしてその宝のありかを示す、暗号で書かれた架空の宝の地図。暗号。 そうだ、暗号に似ている。かなり単純だ。語彙数も少ない。それならこれは、コ ンピューターに覚えさせれば、読む事も書く事も可能だろう。 その事を思い付いてから僕は肝心の手紙は最後と決め、基本プログラムをつく り、データを入力し始めた。覚える義務はコンピューターが背負うし、データだ と思えば読む事がとても楽なのでもう挫折はしない。数日徹夜をした朝に、とう とうできあがった。 さあ、これが、僕への彼女からのメッセージだ。僕の愛しい宝の地図を解読だ。 白い封筒から、もう一度ヒエログリフの文字列がひしめく便箋を引き出した。一 行目を入力、コンピューターのキーを叩く、これで答が出てくる筈だ。 コンピューターのディスプレイは、表示される筈のない文字を表示した。 該当する単語がありません。 そんな筈はない。プログラムの途中で間違いがあったのだろうか。二度、三度、 やはり出てくるのは、僕が用意した愛想のないエラーメッセージ。諦めて、二行 目、三行目。 該当する単語がありません。 そして、四行目以降は、意味の通じないランダムな単語の羅列。僕は、呆然と した。そして、彼女の部屋に電話をした。この時僕は正直言って、彼女のヒエロ グリフの語学力よりも、僕のコンピューターのプログラミング能力の方を信用し ていた。 電話口の彼女は、いつもと違ってよそよそしく、一番違った事は無遠慮な時間 帯での電話の主を詮索するバリトンが響いた事だった。誰か、居る。 彼女は、まるで不勉強を咎められた子供のように、力なく不満げな声で少し言 い渋ってから、大きなため息をついて急にはっきりとした語調でこう言った。 それが、あなたへの、気持ち。 それが、あなたとの、関係。 僕はおそろしい事を聞いた気がして、即座に受話器を置こうとした、もっとお そろしい事を聞いてしまう前に。尚も続ける彼女の声が、がちゃんと僕が受話器 を落とした音にかぶさるように響いていた。 翌日、人づてに彼女に新しい恋人ができた事を聞いた。 僕は彼女の事を知らなかった。彼女も僕の事を知らなかった。 だからこそ尊敬できると思っていたのに。 近いと信じていた人が、一番遠かった。その事に先に気付いたのはきっと、彼 女だったのだろう。そしていつもラテン語、ヘブライ語、スウェーデン語やフィ ンランド語を、僕の前で使ってみせたのだろう。僕は絶対、ベーシックやパスカ ルやC言語の話をしなかったのに。でもそれなら、僕はいつも、何を話していた だろう。何だったかな。思い出せない。きっと多愛もない事、そう、ランダムな 単語の羅列。僕と彼女は、間違った組み合わせ。彼女は、架空の宝島。嘘付きな 地図。 僕は彼女の事を知らなかった。彼女も僕の事を知らなかった。 そして何一つ共通して理解するものがなかったのかもしれない。 ようやく僕は、電話を切る間際に否応なく耳に入ってきた言葉、聞こえなかっ た振りをしていた言葉を、そろそろと思い出す。 さようなら。 僕も君にヒエログリフで手紙を書こう。 さようなら、と。 1992.7.30.29:20 終 楽理という仇名 こと 椿 美枝子
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