空中分解2 #1708の修正
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★内容(1行全角40字未満、500行まで)
3 くだんの子の名は茂平であると伝承はいう。帰還した当初、茂平は言葉を喪失し ていた。否、応といったもっとも簡単な受けごたえでさえ、その幼い口から発せら れることは耐えてなかった。昼はただ痴呆のようにぽかんと口を開けたままあてど なく村内をうろつき、夜になれば――聞く者の魂を震撼させるような、恐怖に充ち たおぞましい悲鳴を、幾度となく夜明けまでくりかえす。そんな夜昼が一年以上も つづいた。耕作につれだせば一応の働きはする、食も細く飯のたりぬ時も文句をい わない、で、村長も家の片隅に茂平をおいて寝る場所ともうしわけ程度の食は与え ていた。夜毎の叫声だけはかなわなかったが、それにもじきに慣れた。 転回は深い霧のしだく夜、訪れた。 その夜はいつもとちがって、夜毎の悲鳴は村を震わせなかった。春の陽気は日暮 れ前後を境に異様なすばやさで熱を失い、宵闇が山間にわだかまるころには村は凍 てつくような冷気でおおわれていた。どこからともなくわき出した異様な霧は、白 く、濃密に全村を占拠し、底なしの森閑が人びとの聴覚に狂おしくもぐりこんだ。 夜が更けても、その静寂は重くつづいた。いつもの悪夢の叫びがいっかな響いて こないことを不審に思った村長宅の次女、今年九つを数える茂平と同い年の女童が 茂平の眠る馬小屋をのぞきに出たのも、ひとつにはその底冷えのする奇妙な夜がひ どく重苦しく、いつまでたっても眠りの端緒さえつかめないような胸騒ぎを喚起す るがゆえだったのだろう。 村でただ一頭の耕作馬である貧相な痩せ馬が、やはり異変を察知してかぶるると 白い息を吐きつつしきりと足掻く横をすりぬけ、寝わらにくるまった小さな影を手 燭の炎で照らしだした次女は、茂平が小刻みにふるふると全身を震わせているのを 見つける。 「寒いの?」答えはないと知りつつ呼びかけた。「我慢し。こりゃどうにもなん ね」 予想どおり答えはなく、茂平は背中をむけたままただ震えつづけるだけだった。 次女はしかたなく肩をすくめて踵を返し―― 鬼と鉢あわせた。 ぼろぼろの雲水姿からつきでる四肢は丸太のように強靭で、目深にかぶった深編 笠の間から、耳まで裂けて大量の唾液を分泌しつつある牙のはえた口と、赤光爛々 と放つ血に飢えた双眸がのぞいているのを、次女ははっきりと目撃した。 魂切る悲鳴をはりあげ小屋の奥へと走り、茂平にしがみついて化物に背をむけた ままうずくまる。ほかにすべきことを思いつかなかったのだ。 数間の距離を隔てて吐き気をもよおす異臭が鼻先にただよい、それを追うように して荒く不規則な息づかいがしゅうしゅうと聴覚を逆なでた。 それがふいに、ごっ、と一声発し、足を摺る気配がした。恐ろしくてふりかえる こともできず、己が失禁していることにさえ気づかないありさまだったが、背後で なにが起こっているのかはいやというほど察せられた。 疾風のような勢いで鬼は一気に馬小屋に踏みこみ、年老いた耕作馬にかじりつい たのである。痩せ馬の断末魔の悲鳴はやがて弱々しく途切れていき、あとは皮を裂 き、肉を、骨をかみ砕く世にもおぞましい音が延々とつづくばかりだった。 どれだけの時が過ぎたのだろう。悪夢に麻痺した感覚はいつからか外界の感知を 拒否し、ふと気づくと水のように濃い静寂におしつつまれていた。 こそ、とも物音がしない。ふりかえれば血まみれの巨大な口が眼前に裂けている 光景を連想し、次女はいっかなふりかえることができなかった。それでもついに、 そろり、そろりと、透かしみるようにおそるおそる背後をふりかえった。 想像どおりの光景がそこにあった。肉をかみちぎりかみ砕くだけが機能のすべて であるぞろりと並んだ長大な牙の間からは反吐のように強烈な臭気を放つ濁色の涎 がだらだらと滝のようにしたたり落ち、ときおりその黄色の液体を跳ね飛ばしなが ら長大などす赤い舌が蛇のようにぐねりとのぞく。 ひい、と叫んで顔を伏せ、次女はなかば諦めに占められつつおぞましい牙が己の 首筋につきたてられる瞬間を待った。 死の顎は、いっかな訪れようとはしなかった。なおも逃げるどころかふりかえる こともできず、それでも幾許かの認識が外界を知覚しはじめていた。 どこからか、経を唱える声音が、響いていた。声がわりもせぬその読経の音色が、 己がしっかりとしがみついて離さない痴呆の茂平の口からもれ出ていることに気づ き、瞬時、恐怖は念頭から去っていた。 背後から噴きつけていた狂おしい鬼気が、ぬぐい去ったように消えているのに気 づいたのはもう少したってからのことだ。同時に、まるでなんの気なしにふりむい ていた。 闇にのまれていく雲水の背が、束の間、見えていた。鬼の背とは思えぬ清澄で― ―それでいて哀切にみちた後ろ姿だった。茂平の読経にかぶせるようにして、渋い 男の声が唱和していたような気がする。それきり影は闇にのまれて消え、茂平の読 経はなおしばらくの間つづいていた。 悪夢の一夜は過ぎ、記憶の彼方におしやられていた鬼と聖の物語は再燃した。人 びとはいき会うたびに茂平にむけて一年前なにが起こったのかを質し、ほんのとき おりにだが、茂平がそれに訥々と断片的な情報を開示することもあった。それを筋 だてて組み合わせた伝承は、おおよそ以下のようなものである。 深山に道をなくした茂平は晩冬の夜気に凍えながら奇妙な掘っ立て小屋を見出だ し、戸をたたく。迎え出たのは墨染めも薄汚れたぼろくずのような僧衣の乞食坊主。 茂平は昔日の伝承を想起したものの、このまま山中をさまよいつづけても凍え死ぬ のは必定ゆえ、気の進まぬ体の雲水の招きに応じて小屋に居を定める。寝わらさえ ない粗末な庵にそれでも暖をとるには心強い薪の炎をかたわらに眠りについたとき、 まるで憑かれたように一心に、聞いたこともないような奇妙な調子の経を坊主が唱 しているのを耳にしていた。 目ざめた時も、読経はつづいていた。頭痛がしていた。夜ふけまで山中をさまよ っていた疲れが出たのだろう。起きあがる気力もない。そんな茂平の異変を察して 聖はしばしの間、小屋を後にし、やがて瓶いっぱいの水と何種類かの食用植物、そ れに薪を抱えて戻ってきた。痩せ衰えた棒ぎれのような四肢のどこからそれほどの 力がわきだしてくるというのか、茂平は熱に浮かされて朦朧とした脳内でおぼろげ にそんな感慨を抱いたものだった。 翌朝になっても熱はさがる気配を見せず、具合はさらに悪くなっていた。坊主は 「精がたりないのだな」とぼそりとつぶやき、茂平にむかって、肉がほしくはない か、と訊く。ほしい、と茂平が夢うつつに答えると、「しかしわしは殺生はできぬ」 と坊主は苦しげにつぶやきながら小屋を後にした。 戻ってくるまでに、少しばかりの時間を要した。ぼろぼろの僧衣の足もとからは いまなおぼとぼとと鮮血がしたたり落ち、手には肉きれをいくたりか握りしめて。 獣と格闘して、傷を負ったのだという。 「すぐによくなる」と、驚愕に目をみはる茂平に告げ、調理にとりかかった。鍋 のなかで肉が煮えるころには、言葉どおりあれほど盛大にしたたり落ちていた血流 もぴたりととまっていた。 茂平は朦朧としたまま肉を貪りくらい、力つきて眠りにおちた。翌朝には、ずい ぶんと気分がよくなっていた。それでも大事をとってもう一日、坊主の厄介になる ことにした。坊主は用足しと水くみ、そしてわずかな山菜の採取のときをのぞいて は、日がな一日、あの奇妙な経を唱えつづけていた。 怪異は、三日目の深更に訪れる。が、その前に、茂平にとっては心づよい訪問者 があった。両親とふたりの兄であった。夕暮れすぎ、四人は小屋の灯りを頼りにつ いに行方を喪った茂平を見つけ出したのである。そのまま一夜をその小屋であかし、 つぎの朝に村に帰ることにした。聖はひどく気のすすまぬ様子だったが、すっかり 暮れてしまった深山に親子をほうりだす気にもなれなかったのだろう。結局、六人 はざこ寝で夜をしのぐことになった。煌々と照る満月の下、一家五人が眠りに陥る まで僧の奇怪な読経はとぎれることがなかったという。 目覚めたのは、悪夢にうなされたからだろう。起きあがってみると、悪夢はなお もつづいていた。小屋中に充満したうめき声は、腹わたを喰いちらかされながら死 にきれぬ兄弟たちの哀訴に充ちた苦渋の発露であった。父親は首を残してほぼ残骸 と化し、母は――いうまでもあるまい。鬼に首すじをかじられたまま、息絶えてい たのである。 伝承に聞きおよんでいたとはいえ、茂平は眼前の光景をにわかには信じがたかっ た。化物はたしかにあの乞食坊主の身につけていたぼろぼろの僧衣を着けてはいた が、その四肢はあの痩せ聖と同一人物とは思えぬほど隆々と力に充ち、眼光にもま た狂おしいほどの精気があふれていたのである。 その双眸が、ぎらりと己をにらみつけたとき、茂平は自分の運命を感得していた。 それでも、疾風の勢いで鬼が小屋をかけぬけ、眼前に血にまみれた牙が開示され たとき、糸のように細い生への兆が茂平の口をついて出た。夢うつつに日がな一日 耳にしていたあの経文が、いまだ幼い声音で朗々と夜の闇の底に響きわたったので ある。 鬼はそれを耳にしたとたん、凍りついたように硬直し、にわかに鳴声をあげつつ 煩悶しはじめた。苦しみもだえて小屋内をころげまわる鬼を横目に、茂平は這うほ うの体で小屋を後にし――半月近くも山中をさまよったあげく、魂をぬかれた状態 でついに村に帰りついたのである。 その後、霧のしだく晩、あるいは煌々と満月の照り映える深夜、鬼は思い出した ように村を訪れた。が、茂平から教わったあの奇妙な経文を村人が口にすると鬼は ふと聖の顔を取り戻し、哀切に充ちた鳴声を人びとの耳に残して山へ帰っていくの だというのである。 さらにいまひとつの伝承を加えて、この物語は終わる。すなわち茂平はその後、 半痴呆のような状態のまま百五十年もの長寿をやり過ごし、そして――山に消えた。 今なお、その生死は定かでない、と古老は伝える。 4 「なんとも血なまぐさい話だなあ」武彦の話を聞きおえたとき、草柳はあきれた ように口を開いた。「しかし、なんでまたそんな話のためにこんな山奥にまで踏み こんできたってんだ、あんたたちァ? 村のもんの制止をふりきってまでよ」 もっともな疑問だ、とでもいうように武彦は炉をはさんでうなずいてみせた。 「事情があってよ」と手すさびに薪をくべつつ「俺たちは不死の伝説をさがして 巡り歩いてるんだよ」 「フシ?」 訊きかえす草柳に、ゆかりが薄く微笑んでみせる。 「不老不死の不死」 「ああ……なるほど」 ぱちり、と火が弾けた。 枯れ枝の先で灰をかきまわしつつ、武彦が言葉を継ぐ。 「俺たちが最初に聞いたのは、このあたりに二百年生きた長寿の男がいたって部 分だけでな。まさかこんなすさまじい話が出てくるとは思っちゃいなかったんだ」 「ははん。なるほどね。しかし、なんでまた、その、不死なんぞを」 質問に瞬時、硬直した沈黙が流れ――兄妹はちらりと視線を交わしあった。 そして武彦が冗談めかして、 「俺の妹は不老不死なのさ」 と言った。 惚けたように両目をみはる草柳に、武彦はにやりと微笑いかける。 「それより、あんたこそこんな草深い山ンなかでなにしてるんだよ」 ああ、と、なおも狐につままれたような顔つきで草柳はうなずき、一拍おいて、 照れたように後頭部をぼりぼりとかき始めた。 「なに、俺は実は一年前の夏あたりから、ここらの山ん中で暮らしてるんだ」 「なんでまた」 と武彦もまたつられたように後頭部をかきむしりながら訊く。向かいあう二人の 男のうしろ頭から、同じような猛烈な勢いで白い破片が舞いあがる光景を見て、ゆ かりが情けなさそうな顔をする。 「いや、それがな。もうすぐ文明は滅びちまう……とかな」 「は?」 と、今度は兄妹が惚ける番だ。 「いや……まあ、馬鹿なこと考えてると思うだろうがな。要するに、もうすぐ文 明が滅びちまう、とするだろう」 「……うん」 「そうしたらまあ、日本人みたいな、都市でしか生きられないような人種はいっ ぺんでくしゃくしゃになっちまうだろう?」 「……まあ」 「だからそういう時にそなえて、その、なんだ。大和民族の血を絶やさぬために だな。いきなり文明が滅びちまっても生きられるように、俺はいまから訓練してる と、そういうわけだ」 言って、照れかくしのためかふんぬと胸を張る。全然成功していない。 あきれたように己を見つめる兄妹に、草柳はその場をごまかそうとしきりに笑い ながら、 「ところで、その、なんだ、あー、さっきの話のつづきなんだがな。えー、例の その、鬼になっちまった坊主の名前をきいてないな。なんてんだい? 名前は伝わ ってなかったんだっけ」 「いいや……」 「ほう。なんてんだい? 教えてくれよ。そんな顔してないでさ」 「……与阿弥てんだ……」 「ほう。与阿弥ね。与阿弥、と……」 その時ふいに、草柳は眼前のふたりの視線がすでに自分に向けられてはいないこ とに気がついた。 自分の背後――小屋の入口方向に向けられたその二対の視線が、緊張に充ちてい ることを感じて、草柳はある予感に胸しめつけられながら、ふりむいた。 もはやそれを僧衣とは呼べまい。それと知っていて、かろうじて墨衣とわかるぼ ろを肩にひっかける形で、痩せこけたその男はうっそりと、まるで無表情にそこに 佇んでいた。
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