空中分解2 #1653の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
よし、ちょっと待ってくれ、と店番がひきとめた。これがラスト・プライスだ。 これでどうだ。電卓に示された数字は、先の数字よりももう少し低いものになって いた。なるほど、と俺は納得する。帰るフリをするのもひとつの手段なのだ。 が、Kの愁眉はまだ開かない。まだ高いから、とふたたび帰りかけると、店番は 奥から一冊のノートを取り出してKの目の前に広げてみせた。商品台帳の類らしい。 俺はこの品物をこれだけの値段で仕入れた。だからこれ以上値段をさげてしまって はもうけがない。この値段がラスト・プライスだ。嘘じゃない。 これでは双方納得せざるを得ない。それでもKはなお慎重だ。やはりまた後でき てみる、という。俺たちは礼をいって店を後にした。店番ももう引きとめようとは しなかった。どうやらほんとうにあの数字が相場だったようだ。実際、この曼陀羅 という奴はけっこう高いシロモノだ。 またしばらく行く。小ぶりの広場に、やはり露店がひしめきあっている一角で立 ちどまる。香辛料を見たいというKが積み上げられた野菜や篭いっぱいの黄色い粉 を珍しげに物色するのを尻目に、俺は周囲を見まわした。ひっきりなしに人が行き 交う小路のわきに、寺のようなものがある。そういえばこの街の道中、コンクリー トの小さな屋根に覆われた地蔵らしきものがあるのをあちこちで見かけた。街の要 所にはかならず小さめの広場があり、そこにはアパートと同じくらいの高さの尖塔 が建っている。そしてこれも必ず、神さまを祭っているらしいその尖塔の階段状の きざはしには、ところ狭しと男やこどもたちがのんびりと腰をおろし、雑談に興じ ているのだ。塔の根もとではこれもたくさんの物売りが山積みに商品を積み上げて 客を待っている。気安いのはいいが、この連中、神さまを崇拝するという感覚の持 ちあわせがないのかなあ。 などと思いながらあたりを眺めまわしていると、Yが俺の注意をうながす。傍ら の寺を指さし、「鐘を鳴らしてる」という。見ると、いそいそと行き交う人びとの うち何人かが寺のわきを通りすぎる際に、軒先に吊された小さな鐘をカンとひとつ、 立ちどまりもせず慣れた様子で打っ叩いていく。いきあたりついで、という感じだ が、日本で地蔵にちらりと手をあわせていくのと同じような感覚だ。どうやらこの 地でも宗教は息づいているらしい。 さらに奥へと進む。と、「コニチワー、ニホンジン、オンリーミルダケネー」と すりよってくる妙な奴がいる。指さす建物の、二階の軒先から何本かの棒がつきだ していて、そこに大量の民族衣裳やカバンが吊り下げられていた。ヤクのセーター なら同じように展示されているのを今までに何箇所かで見かけたが、ここにさがっ ている衣裳は洒落ていて胡散臭げで、いかにも俺好みだ。ちょっと見ていこうと一 階の露店に歩を向けると、店番こっちこっちと建物の入口の方を指さす。どうやら 店は屋内にあるらしい。 入口は腰をかがめてくぐらなければならないほど丈の低いものだった。このあた りの建物は概してこういうつくりだ。通路になった内部も洞窟のように低く、かが んでちょっと進むとすぐに中庭に出る。昔の日本の、こどもの遊び場か、あるいは 時代劇に出てくる井戸端、といった雰囲気の小さな中庭だ。婆さんがひとり、なに やら手仕事しているのをちらりと見た。四囲は石づくりで無数の梁がわたされた、 ビルともアパートともつかぬチープなつくりの住居。 服売りは中庭に出るとすぐにくるりと踵をかえして別の入口をくぐり、頭に気を つけろと注意を投げかけつつずんずん進む。階段を昇る。ここも天井が低い。通路 や入口に限らず、この建物全体の設計理念が個々の空間をできるだけコンパクトに、 効率よく使用することにあるということがその原因らしい。やがて俺たちはひとつ の部屋にたどりつく。衣裳をつりさげた棒の突き出ている、あの二階の位置に相当 するようだ。 そこは店、というよりは倉庫兼休憩所、といった雰囲気の小部屋だった。曼陀羅 屋と同様、ベンチが入口わきに横たわり、真ん中はゆったりとスペースをとってい るものの、四囲の壁戸棚やテーブル上に無数の衣裳がひしめきあっているため実に 雑然としている。衣裳売りのほかに男がひとり、テーブルの後ろで所在なげに佇ん でいる。 「チョッキを見せろ。VEST、VEST」というと衣裳売り、心得たとばかり に戸棚から数点のチョッキを取りだしてくる。気に入ったデザインのものをひとつ 選び、これに合った上着とズボンも見せろと要求する。この時点で俺の態度は実に ぞんざいになり変わっており、「ちょっと気安すぎるよ、あれじゃ店の人怒っちゃ うよ」とKやYに心配されるほどであった。 ひとそろいの衣裳を試着してみる。黒を基調にした山岳民族風のナリだ。「ティ ベタン」の衣裳だと店番が説明する。チベット人のことらしい。ちなみにこの店番、 今まで会った中でも奇妙に日本語がうまい。俺も半分がた日本語をまじえて、交渉 開始。ところがこの男、根気がないのか意外と早いタイミングで「ラストプライス」 を口にした。さして安い値でもない。 「そうか、それがおまえのファースト・ラストプライスだな。じゃあ俺も第一の 最終値段だ。これでどうだ?」と切りだすと、ファースト・ノーノーと笑いながら 抗弁を試みるのだがしばらく押すとやっぱりまた少し値が下がる。「おまえ、ふざ けんじゃねえよ。そんな大金ぼったくるつもりか? 観光客だと思ってあんまりな めちゃあいけないよ、なあ、おまえ」これではたしかに気安すぎるわ。 この時点で俺は、自分の読みちがいに気づいて少々焦っていた。たいした値段じ ゃあるまいと二階くんだりまでほこほこ連れられてきたのだが、桁がひとつ上だっ たのだ。ルピーでそれだけの持ちあわせはないしドルで払う気は毛頭なかったので、 非現実的な安値で相手をあきらめさせてしまおうという腹で、「ラストプライス」 の十分の一を主張していた。だが値下がりのペースは遅々として進まない。なによ り、くだんの衣裳が妙に気に入っていた。 とうとう値段が固定された。まだ手の出ない金額だ。あきらめることにした。 「OK、だが今ルピーのもちあわせがない。また後でくるからよろしく頼む」と帰 ろうとすると、ま、ま、ま、という感じでなおもひきとめようとする。こっちは駆 け引きじゃなくて本当に金がないのだからと言ってもなかなか離してくれない。手 持ちは幾らぐらい出せるんだ? じゃあそれだけでいいからとりあえず置いていっ てくれ。残りは後でいい。と、ずいぶん無警戒なことをいう。こりゃチャンスだ。 手つけだけおいて後は知らぬ存ぜぬで通すか、とちらりと思ったものの、こういう やり方は好みじゃない。おまえそりゃちょっとよくないよ、日本人正直だ信じてる なんつってるけど、どこの国の人間だって悪い奴は悪いんだよ、俺が残りの金払い にこなかったらどうすんの、いったい、え? それでも衣裳売りは、いやあなたは いい人だ間違いない信用できるとくりかえす。 お金貸してもいいよと口添えするYとKを制止してなおも押し問答をつづけるう ち、ついに男は手の内をあかした。具体的には、ポケットからサイフを取り出して 中身を開陳してみせたのである。お察しのとおり、中はみごとにカラッポ。金がな いのだ、昼飯も食えない、残りの金は後でもいいから、手持ちだけでもおいてって くれ。ときた。 これはもう手持ちの金額でラストプライスとしてよし、という意味なのだなとな かば了解はしていたのだが、こうなると却って男の態度が塩らしく思え、よし、こ こで清算してしまえとYとKからルピーを借り受け、全額耳そろえてわたした。く だんの衣裳がひどく気に入っていたこともあり、どうも気分がすっきりする。 Kが俺の買った衣裳と同じ柄のおもしろい形をした肩かけカバンを購入し、店番 はモノをパッキングしはじめた。「あんたたちいい人だから、これはオマケだ」と、 首からぶらさげるのにちょうど具合のよさそうな紐つきのサイフを一緒につつんで くれる。俺たちは素直に喜びながら店を後にした。 さらに通りをしばらく進むと、街の様子がかわってきた。道幅が少し広くなり、 周囲の店も露店が姿をひそめてショーウインドウ式の普通の商店が立ちならんでい る。バザールの区画はどうやらこのあたりで終わりらしい。通りを一本かえて逆方 向に進んでもよかったのだが、なんとなくそのまま進む。大通りに出た。車がひっ きりなしに行き交っている。このあたりのランドスケープは、日本のちょっとした 街とまるで変わらない。 その通りをしばらく進んで、右におれてみた。昼さがり、ぶらぶらしながら宿に 戻るにはちょうどいいころあいだ。 と、YとKになにやら髭の男がつきまとっている。さてはまたもの売りかバクシ ーシの類かと警戒心が首をもたげかけるのだが、その男、妙に身なりが小ぎれいで 態度も洗練されている。 しばらく静観を決めこんでいると、Kがきらきらと目を輝かせてやってくる。 「宝石屋なんだってー」なるほど、納得した。しかもこの男、その上音楽をやって いて数種類の楽器をひきこなせるという。「音楽家か。じゃあなんか弾いて聞かせ てくれよ」と、ジゴロっぽい髭ヤサ男に少々挑戦的な気分をかきたてられつつ言っ てみると、もちろんいいとも、まずは宝石を見にきてくれとくる。Kの瞳はすっか り少女漫画だ。しかたがない。宝石のことはよくわからんが、興味もあるしな。 という経緯で大通りへ戻る。男はクリシュナと名乗った。わかる人にはすぐわか るインドの超人気ものの神さまの名前だ。あまりに人気がありすぎて、男性名とし てありふれるほど使われているという。しかしこのクリシュナは、実にこのダンデ ィで強力な神の名が似合う容貌とものごしだ。糞、おもしろくねえ。 しばらく進むと、JEMSと看板の出た宝石屋の立ちならぶ一角にたどりついた。 そのうちの一件の扉を開き、ここが俺の店だとクリシュナは俺たちを手招く。 小ぢんまりとした店内、正面のガラスケースをメインに無数の宝石がディスプレ イされている。多少の狭さをのぞけば、日本の宝石屋と雰囲気はあまり変わらない。 どこの国でも女は同じらしい。クリシュナが椅子を用意してここにすわれとさし示 す。ガラスケースのむこうに男がもうひとり。こっちの奴は、そのへんの露店の店 番とかわらない。ほっとした。これ以上ヤサ男のお出ましは願い下げだ。 紅茶はどうだと勧めるのでOKぜひにもと答えると、クリシュナはおもむろに店 外に顔を出し、なんだか所在なげにそこに立っていた小汚い爺さんになにやら指示 を与えはじめる。なんだろう、あの爺さん。小間使いらしいが、どうひいき目に見 てもこの店の雰囲気にはそぐわない。 しばらく待て、といってクリシュナもガラスケースのむこうに腰をおろし、説明 を加えつつKとYの眼前につぎつぎと宝石を展開しはじめた。秘蔵の品はディスプ レイせず、紙にくるんで奥のケースにしまわれているらしい。Kは開陳されたそれ らの品に完璧に魅入られている。ふだんからなんにでも興味を示す元気印の娘だが、 目の輝きがちがう。光ものに弱いのだ。弱点めっけ。しかしこの弱点、あまり利用 価値なさそうだけど。 そのうち紅茶が出てくる。ほっとすんなあ。ごくごく。うまい。ここらへんの文 化圏は紅茶がメインだそうで、どこで飲んでも紅茶はすごくおいしい。そのかわり コーヒーはどこで飲んでもインスタントだ。ああ、それにしてもうまいなあ。ごく ごく。とか思ってたら、尿意をもよおした。 クリシュナ、すまん、トイレはどこだ? ん? ああ、あの爺さんが案内してく れるのか。すまんすまん。あ、そっちね。はいはい今いきますよ。 と爺さんに先導されてビルの裏手にたどりつく。? ここでしろって? ……な るほど立ちションしろってのね。要するにトイレないのね。わかりました。 カトマンズには公衆トイレというのがほとんどない。そういう概念自体がもとも となかったそうだ。むしろ他人が使用した場所に不潔感さえ感じるという。まあ確 かにそれはそうだが。しかし、そのへんで糞小便たれ流して手も洗わずに物を売っ たりしているわけだな、屋台や露店の連中は……。まあいいか。……ははは。 宝石屋に戻ると、Kの選定はいよいよ大詰だ。いくつかの宝石にしぼりこんで、 ひとつひとつ見比べる。スターサファイア。青い石に、光をあてると六つの手をも つ星型の反射が走る。四つ手のものは少しグレードが下だ。小ぶりだが、ものはい い。ついにひとつを選んだ。ピアスに加工するという。片耳だけ。なぜ両耳つくら ないんだと不思議がるクリシュナともう一人にひとつだけでいいと納得させつつ、 値段交渉に突入する。でもなんでひとつだけなんだろうな。片想い、という意味が あると自ら言っていたと思うんだけど。 値が張るせいか、交渉はドルですすめられる。俺はここでは完全に単なる傍観者 だ。うーん、場ちがいだなあ。ディスプレイをあちこち物色してみるが、よくわか らんけどあまり食指を動かすようなものは見あたらないなあ。お、でも、クリシュ ナが首にしているネックレスはすごくお洒落でかっこいいぞ。うーん、あれほしい なあ。そうこうするうち交渉もまとまり、受けわたしの段取りが決められた。金曜 日の昼、場所はこの店。 今夜シタールの演奏を聞かせてやるがどうだ、というのを今日は疲れているから と断り、帰途につく。少し残念だ。クリシュナはちょっぴり気障で多少気にいらな い部分もあるが、シタールのライブには死ぬほど興味がある。 歩いているうちに、どうも妙なところに出てしまった。坂がある。ホテルからこ っち、坂を昇った覚えはないからまちがいなく道に迷っている。Yはさっきから写 真を撮りまくっている。現地の人、とくにこどもの写真が多い。資料として利用す るといっているが、もともとこどもが好きみたいだ。おっさんおばさんは照れてい やがるし、こどもなどはちゃっかり撮影料よこせと言い出す奴までいるのだが、な んとも仲良くやっている。道をきいてみると、このへんは複雑だからタクシーをひ ろったほうが早いという。忠告に従うことにした。 タクシー、といっても「なんたら交通」といった具合に頭に目印をのっけてるわ けじゃない。ナンバーで区別できるらしいがよくわからないしベビタクのが安いだ ろうしで、黒いちっこいのを捜した。ダッカとちがってリクシャやベビタクは少な く、拾える場所もだいたい決まっているのでまた少し歩くことになる。 坂を下ったあたりでベビタクをつかまえ、ラトナ公園までたどりついた。もう日 はすっかり暮れている。商店はまだまだにぎやかだが、周囲は闇に包まれている。 公園からホテルまでの道がまた少し曖昧なので、屋台に毛がはえた程度のお菓子売 りの店先で店員に道をきいた。親切にくわしく教えてくれる。このあたりも実に気 安く親切だ。仕事があるだろうにちっとも迷惑そうな顔をしない。 住宅地らしい小路をさし、ここを進めという。行きには通らなかった道だが、近 道なのだろう。夜は真っ暗になるから、女だけのときはタクシーを使ったほうがい いぞ、と店員は親切な注釈までつけてくれた。 教えられたとおりの道をいくと、たしかに住宅街だ。タメルやラトナ公園の周囲 とはちがって、閑静でおちついた雰囲気がある。そして薄暗く、少し寂しい。タメ ル地区では祭りの馬鹿騒ぎでか、外国人の女が通っていると見ると建物の屋上から 水がふってきていたのだが、ここらではそういうこともない。少しばかり上流の人 間が住んでいる場所なのだろう。 小路から建物を透して、月が見えていた。いい月だった。
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