空中分解2 #1492の修正
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(7) 蘇我赤兄(あかえ)が中大兄皇子のもとに呼ばれたのはその日の うちのことだった。 二人は夜遅くまで密談を交わし、赤兄は皆が寝静まったころ星一 つ見えぬ闇の中に消えて行った。 翌日天皇が湯治に行くことが急に決定され、あわただしく準備が すすめられた。 中大兄皇子も中臣鎌子も、そのほか主だった位の者はすべて随行 するといった前例のないほど大がかりな行幸であった。 有馬皇子はこのものものしい行幸のことを聞いても、それが自分 にとり何か関係のあることとは予想もしなかった。鎌子に話した牟 婁の湯のことで彼が奏上したことかもしれぬ、と漠然と考えたぐら いだった。 行幸が行われ、主だった者がいなくなった都の有間皇子の屋敷を 蘇我赤兄が訪ねてきたのは、秋も深まったある日の昼下がりだった。 彼は細い目をいっそう細くして、舌なめずりせんばかりの狡猾な 笑いを浮かべて言った。 「皇子、今こそ立つべき時ですぞ。天皇の失政は覆い隠すべくもな く、民の不満は日増しに高まり、豪族達は新しい政治を望んでおり ます。天皇や中大兄皇子らのおらぬ今、兵を起こせば必ずや勝利を 得ることができましょう」 皇子はこのとき了解した、彼の巧みな言葉の裏に何が待っている かを。赤兄の巨大な権力を意識した不遜さ、そして何よりも彼が中 大兄皇子の手先になって数え切れぬほどの人々を抹殺してきた過去 が、彼の意図を充分明らかに皇子に教えていた。 いよいよ来るべきものが来たと思った。 それが私に課された運命と人は言え、私はこれを自分の選んだ結 果だと呼ぼう。 私はこういった瞬間を、ちょうど盲人がある日、光明を得て美し い空の深さを初めて見た瞬間のような気持ちで、待ち望んでいたの ではなかったか。 たとえ現実のこの瞬間が苦渋に満ちたものであっても、それを招 来したのが自分自身であったことを私は知っている。 それ故私は自分で選び取らねばならない。 「皇子、どうかご決断ください。すべての民、臣下がそれを待って いるのです」 「明日、あなたの家で返事をいたしましょう」 皇子はぽつりと一語言った。 「それではお待ちしております。だが、よくお考えください。機会 は今だけですぞ。今を逃しては・・・」 「分かっております」 屋敷を辞すとき赤兄はもう一度念を押し、それから思いだしたよ うに皇子の顔を窺いながら言った。 「大伴伊呂麿は身分は高くないが、なかなかの強者、ぜひ味方にし たき男です。一度話しをしておかれるがよいでしょう」 「いや、彼はそのような謀りごとに加えぬほうがよい」 皇子が初めて強い口調で自分の意見を述べたので、赤兄はおやっ と思って皇子の顔を見た。だが、有馬皇子はいつもの穏やかな表情 を変えていなかった。 一人になって皇子は赤兄の言葉を反趨していた。そして、彼がど れくらい自分の言葉で話したのだろうと思った。そのような人間も いる、権力に阿諛し、権力をひたすら支えることに自分の存在価値 を認めようとする人間も。彼は自分の存在を自分で認識しようとは しない。彼は自分のすべてを権力という非人間的な外力に委ねるこ とによって、不安や根源的な疑問から逃れることができる。 だが、ひるがえって私はどうであったろう。私は、人が愛とか友 情とか言うものを信じず、ひたすら自分の存在だけを信じてきた。 私にとっては死さえも自分との関わりの中でしか可能でなかった。 しかし、今一つの大きな力が私を抹殺しようとしている。私がこれ まで懸命に育み、磨き上げてきた存在をいとも簡単に取り上げよう としている。おそらくその後には私の存在の痕跡さえも残らないで あろう。 暮色が濃くなり、物の形が闇の中に溶け込もうとしていた。一方 空には奇妙に明るい青さがあった。 皇子はその深い青さの中に自分が吸い込まれていくような錯覚に 襲われた。 そのとき彼の耳に別れ際の赤兄の言葉が響き、彼は我に返った。 もしかすると赤兄は自分で伊呂麿のもとに行ったかも知れぬ。そ うだとすれば伊呂麿の一途さからして、きっとこの謀りごとに加わ ると言い出すにちがいない。彼のように野心にあふれ、懸命に自分 を生きようとしている者を道ずれにしてはならぬ。 有馬皇子は自分の運命は知っていた。あとは自分の累をできるだ け他に及ぼさないようにするだけだった。そのために赤兄に与える 返事を延ばしたのだ。 しかし、この点については皇子は中大兄皇子のやり口に信を置い ていた。自分を抹殺することが目的であるのだから、賢明な彼は事 件の輪をいたずらに広げることはあるまい。事件を大きくすればす るほど、それに影響されて本当に朝廷を転覆させようとする企てが 起こるやもしれない。だが、私に親しい者数人には連累が及ぶのは 避けられまい。 皇子は伊呂麿に前もって話しておこうと考えた。 都大路はすっかり暗くなっていた。西空には月がかかっていた。 その明かりは黒々と横たわる森や、点々と散らばる民家を照らすに は余りに弱々しく、ただ自分一人静寂の中に輝いていた。 皇子は昔、難波の都でこのような月を何度も眺めて、理由のない 悲しみに襲われ、人恋しくてたまらなくなったころの自分を思いだ した。 今日見る月はなんとあのときの月と違って見えることであろう。 月の孤高さをこんなに美しく感じたことがあっただろうか。今私 が月を見ているのではない。私が月に照らされてここにあるのだ。 伊呂麿の屋敷の前に立ったとき、皇子は自分がどうやって彼を納 得させられるかを考えた。自分の真意を彼に理解させることは到底 できまい。かといって、訳も言わずに彼を思いとどまらせることは もっと難しかろう。 皇子が思い迷って、すっかり葉を落として天を指してそびえる銀 杏の大木の下にたたずんでいると、話し声が聞こえてきた。声の主 は伊呂麿の屋敷から出てくるらしかった。 「皇子は決心するでしょうか」 「それは喜んで承知するにちがいない。今彼に手をさしのべる者な どほかにいるはずがないのだから」 その声を聞いて有馬皇子は身を固くした。姿は見えないが、間違 いなく赤兄の声であった。そして、相手は伊呂麿にちがいない。遅 かったのか。 「だが、あのお方はこれまで一度も自分で自分の生きる道を決めた ことがなかった。あのお方には野望もなければ絶望もない。平坦な 日々の毎日があるだけなのです。これまでにだって、もしその気持 さえあれば・・・」 「これこれ、何を申される。帝位を傾けるなどとはゆめゆめ申され てはならぬ」 「は、は、はっ、これは大君にひたすら忠誠を誓ってこられた赤兄 様を前にして、とんだことを申し上げるところでした」 「なあに、私だって忠誠がそれ以上の報われ方をするのでなければ 、自分を空しくするなどといったことはしないさ」 「なるほど」 「そうとも、貴方はまだ若いのだ。たくましく生きなくては。親や 兄弟、友がらにいつまでもかかずりあっていては、いつのまにか彼 らの吐き出す蜘蛛の糸にからめとられて、身動きが取れなくなって しまいますよ」 「それだからこそ、このたびの奸計に一役買って、少しは私も日の 当たるところへ出ようかと思っているのです」 「これこれ、また奸計などと言われる。帝位を傾けようという大そ れた企てを事前につぶそうということなのです」 「いかにも、いかにも、赤兄様の忠誠の心を踏みにじってはなりま せぬからなあ」 二人は親密さとも皮肉ともつかぬ軽口を交わしながら、木々の間 を通り抜けて去って行った。 皇子はしばらく立ちつくしていた。 そうか、伊呂麿は承知の上のことであったか。 皇子の心を世の中のことすべてに対する不信感が満たしていった。 伊呂麿が中大兄皇子の許へ走ったのはいつのことだったのだろう。 私と酒を酌み交わしながら、他方で私を陥れる綿密な計画に加わ っていたのだろうか。 自分と向かい合っているときの豪快な伊呂麿の顔と、先ほど赤兄 と話していたときに浮かべていたであろう狡猾そうな表情が、混ざ り合い打ち消し合って皇子の脳裏を駆け巡った。 間人皇后の愁いを含んだ顔が忽然と浮かんだ。しかし、彼女の目 元は笑いを抑えきれずにいた。彼女の含み笑いの声が聞こえてくる 気がした。 皇子は唇を咬んでじっと耐えた。 耐えることだけが彼に残された道だった。 彼は自分の運命を呪いはしまいとして懸命に耐えていた。 最後の、そして伊呂麿が言うようにこれまで自らの道を選び取ろ うとしなかった自分の初めての一歩を踏み出すまでは、運命に屈し てはならない。そうでなければ私は余りにも惨めになる。 心の中で自分に言い聞かせながらも、皇子はこの過酷な瞬間を今 の自分に乗り切れる余力があるだろうかと、絶望的に問いかけてみ た。 どうせ死を選ぶのなら今でもいいではないか。 彼をこれまでずっと妥協させてきた内なる誘惑の声が囁いていた。 自分が余りにかわいそうではないか。 その声は繰り返していた。 いや、私はもう自らを哀れむことはすまい。そのような言葉がま すます私を惨めにしているのだから。 私は生きよう。自分自身を生きよう。 翌日赤兄の屋敷で彼に対座した皇子の目には、再び静かな湖の色 をした沈んだ光がよみがえっていた。 彼が赤兄の申し出に承諾したとき、天皇への忠誠の証がまた一つ 増える喜びでうかつにも歯を見せてにやりと笑う赤兄を見ても、彼 の決心は揺らぎはしなかった。 赤兄が話す綿密な計画を聞くともなく聞きながら、このような一 瞬がなぜ他の時間と変わりなく穏やかに過ぎていくのだろうと考え ていた。 赤兄の家を出た皇子は、煩わしい仕事から解放された官吏のよう な気持ちで歩いていた。 晩秋の日差しは快かった。 彼は一息深くさわやかな空気を吸い込んだ。 すがすがしい風の吹き渡る一見平和なこの地に、限りない殺戮の 歴史があったことを後世は信じるであろうか。 そのとき一片の雲もない青空に考徳帝が立った。歩を止めて皇子 は父の姿を見つめた。その姿にかつての無能な天皇の虚勢はなく、 父としての威厳と愛情があった。 皇子は呼びかけようとしたが、声がどうしても出ない。 天皇は淋しげにうなずいて再び無限の彼方へ消えて行った。彼は その姿を追っていつまでも立ちつくしていた。 彼の全身は降り注ぐ晩秋の太陽を浴びて輝いている。 大和の空は高く、見上げる者の心をさわやかな大気と一体にする ほど崇高である。 有馬皇子が謀反の罪に問われて藤白の坂で処刑された翌年、つま り斉明天皇の五年に、阿部比羅夫は北方の土地を制圧する勅命を受 けて大和を出発している。 ようやく天皇の威光は日本全土に輝き渡ろうとしていた。 《了》
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