空中分解2 #1462の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
−5− 憎しみという難題 その日僕は、その日というのはいつだったか知らないが、とにか く夏ではなかったはずだ、あの日僕は、本当に雪でも降るのではな いかとさえ思った。小屋の中に整理された本棚やテーブルやカセッ トや衣装ケースやスタンドが、空空しく視界に覆いかぶさってきた。 布団をはねあげると、僕は悲鳴をあげそうになった。息が白く濁 った。 目覚まし時計はすでに7時半を過ぎていた。今日帰ってきたらス トーブを出そうと決めた。それからカーテンを買わなければならな かった。 窓を全開にしても薄暗かった。水色のシャツがお誂え向きの一日 だった。雨でも降っていようものなら、なおさらだった。 しかし残念ながら、雨が降りそうなのは地味なネクタイの上だけ になりそうな予感がした。 やめておこうかと思いながら、最初に手にしたそのネクタイを首 に巻き付けて、お湯を沸かした。どうせこんなものは何の役にも立 ちはしない。大学の研究室に似た埃ひとつ嫌うあの実験室に着いた ら、すでに習慣になってしまったように知らないうちに放り出して しまうのに違いない。 ふと手を洗い忘れたような気がした。探したが石鹸が見あたらず、 しかたなくママレモンを数滴。 泡を流すと大事なものまで剥がれてしまったような気がした。取 り返そうとしてコーヒーを入れた。灰色のカップの底が透けて見え そうな、丁度いい濃さだ。 このぐらいの色だったらレーザ光の波長はどのぐらいだろうか。 茶色っぽく見えるからといって、もしかしたら炭酸ガスレーザのよ うな緑色の光を発振するかもしれない。あるいは不可視領域の波長 を持ち、やっぱり発振しないのかと勘違いしてがっかりするかもし れない。そのときはもう一度だけ、ミラーの位置を確認することに しよう。 扉を開けて外へ出ると、丁度出てきた工藤に会った。背中を向け て歩いて行こうとする彼に挨拶した。息が白く消えた。 「おはようございます」 「授業ですか」 「いや授業はもうないんです。そろそろ論文でも書こうかなって」 「こんなに早くから学校へ行って」 「研究室に顔を出していると、何だか落ち着くんです」 「わかるような気がするね。僕も同じような気分だった」 「これといって、実験したりすることもないんですけどね」 「一方で、思いきり遊び回ってみたくなったりするんだよね。わ けのわからない不安な気持ちに、けりをつけたくなるんだ」 「やっぱりそうでしたか」 「工学部なんて、そんなものじゃないか」 「ええ、そうみたいです。文系のやつらなんか、クラブ活動する ために大学へ行っているようなもんです。うらやましいのと軽蔑す るのと、半分半分ですよ」 「真面目ですね」 「そういう言われ方は適当じゃないですよ。ただコンプレックス を引きずっているだけですから」 「コンプレックス」 「他の大学に対する、ね」 彼はそれから何も言わなくなった。鬱屈した苦悩や不安を浮かべ ているだろう表情を、僕は見る気もしなかった。 彼はコンプレックスだと言った。お前の求めているのは逃げ道じ ゃないかと、僕は言ってやるべきだったろうか。 しかし彼にとっては、その逃げ道が彼のこれから先のいつでも彼 自身を救ってやるだろうと思って、僕は愉快だった。 横浜で電車を降りるとき、彼は口だけを動かして、じゃあと言っ た。僕はうなづいた。僕は窓から外を見ていた。仕方がなかった。 車両にすし詰めになっている仔羊達の雑多な心が、僕の中に染み込 んできた。こういう場合、誰もが誰もを互いに憎んでいる。 しかし誰も知らなかった。憎むことには敏感になっても、憎まれ ることには不慣れだった。しかも、自分達が最も憎しみを覚えるこ とが許されるのは、いったい一体誰であるのかに気づこうともしな かった。 それならば僕は誰を憎むべきか。とてもじゃないが、そんな難題 に自分一人と首っ引きで取り組んでいるわけにはいかなかった。僕 には、自分の降りる駅の名をずっと口ずさんでいる必要があった。 −6− 問題 僕はカーテンを買わなければならなかった。つけ加えるならば、 ついでに冷蔵庫も欲しかった。頭の中には他のことしかなかった。 他のことというのはつまり、3%の増幅率ということが本当は、 信号光にポンピングスペクトルの裾の強度が重畳されているだけで はないのかという、あの忌々しい室長にどう説明すべきかというこ とだった。 また、そういう考え方ばかりを僕の心の中に植え込んでしまった ことに、あいつは申し訳ないという気持ちを抱かないのか。僕には、 どんなカーテンが僕の小屋に必要かという問題の方がはるかに重要 なのだ。 あるところでは、増幅率3%を得るのに3年を要したと聞いたこ とがある。その後、何%まで伸ばしたのか知らない。とにかく、あ いつにはこのことの意味を説明しなければならないし、僕はカーテ ンを選ばなければならなかったのだから、その夕方は地獄のようだ った。 だから、僕がそのために足を運んだのが高島屋だったか松坂屋だ ったか、おぼえていない。 フロアー担当の彼女が、綾子より美人だったかどうかなんて、ま ったく問題外だ。僕は少なくとも、退っ引きならない難題をぱさつ いた頭の中に二つも抱え込んでいたのだ。 ぶらんこのカーテンを物色しながら、この中には僕の必要とする 明快な答はないに違いないと考えた。僕の前を、めざわりな例の室 長のように彼女はついて回り、確か、どんなお部屋ですかと尋ねた ような気がする。僕は、寒い部屋なのですと答えたような気がする。 その時の彼女の表情だけはよく覚えている。数日後の室長がするは ずのと同じ表情だった。 彼女によくわかってもらう気はなかった。よくわかってもらうた めでなく、僕は黙って歩いた。結局僕が選んだのは、フロアーの一 番奥にぶらさがっていたやつだ。小屋の窓の寸法はまるで覚えてい なかった。彼女の笑う声を無視して適当な長さで適当な幅を買った。 何年か前に同じような失敗をしたことを思い出し、汗が出た。それ も無視した。 次のフロアーは電気屋だった。僕はしばらく洗濯機の前に立ちつ くしていた。自分の欲しかったのが、掃除機だったか洗濯機だった かと考えた。 レジの前で頭を掻いていた男が笑っていた。工藤だった。彼は朝 と同じ格好でさらに今何かを買ったあとだった。その包みを顔の前 で振って笑っていた。 「やあ」 「カセットテープを買ったんです」 「僕は何を買いに来たんだったか忘れてしまった」 「じゃあ冷蔵庫でも買ったらどうですか」 「そうか」 「冗談ですよ、冗談」 「いや、僕は冷蔵庫を買いに来たんだ」 彼は笑って買い物にしばらくつき合うと言った。煩わしいと思い ながら、僕は少し落ち着いていた。落ち着いて蓋付きのスクラップ の品定めができた。彼は一つひとつに冷静な寸評をつけ加え、まっ たく僕にぴったりのやつを選んでくれた。 つまり彼はここへ来て、何一つ迷いを持っていなかった。客観的 に自分の内部と議論している様子を僕に語ってくれたのだった。い わば彼は冷蔵庫だった。彼は冷蔵庫の前に立ち、冷蔵庫になってし まうことができるのだった。彼ならコンピュータになることさえで きるだろうと思った。 出し抜けに、室長のぴかぴか光ったポマード漬けの頭を思った。 あいつをレーザ光源に変えることができるなら、何を犠牲にしても 惜しくない。僕自身が増幅器になってしまってもいい。基板内部に 観念的にだけ作り出される反転分布になり、あるいは適当な屈折率 分布を作り出す色素になり、あるいは細胞でもいい。最終的には思 考能力を持たない細胞だけの固体素子になるのだ。 僕は少し興奮していた。方法論さえ見つけ出したような気がした。 街は、街というより夕暮れは、再び夏の終わりのような熱気が満 ち始めていた。誰もが必死に自分の手元にそれをくくりつけようと もがいていた。 歩きながら無意識にネクタイを締め直した。それがそこにあるこ とを確かめてみるためだけの意味のない繰り返しだ。 彼が話し始めた。 「渋木さん、今日の新聞読みましたか」 「いや読んでない」 「高校生がクラスの女の子を刺し殺したんだって。三面記事です けどね」 「それで」 「交際を申し込んで断られたんだということです」 「幼稚な話だ」 「それが実は、田口さんのとこの高校らしいんですよ」 「田口さんのところの」 「ええ。二人とも田口さんの教え子なんですよ」 「いつ」 「一昨日です。田口さん、昨日帰って来なかったでしょう。いろ いろあったみたいですよ」 「僕はあまり会わないからわからないけど、田口さんてどんな人」 「よく知りません。あの人、なんかこう、じめじめしたところが あって、つき合いにくいですよ」 「おばさん連中の勝手な井戸端会議みたいだけど、あの先生にし てあの生徒ありってところか」 「そうかもしれないですね。しかし、やっぱり同じ下宿の数少な い住人ですから、何かしなくていいんでしょうか」 「何かって」 「力になれることないですかね」 「身内に不幸があったとかじゃないんだから、力になるというの はおかしいね」 「挨拶に行って何か言ったりしない方がかえっていいですかね」 「そうだと思うよ。中傷だと誤解されるのも迷惑な話だし、かえ って向こうも居づらくなるかもしれない」 「ええ」 「こういう場合、教師も加害者の一人ってことになるし。特別田 口さんに何か言ったりしない方がいいだろう」 教室の中の喧騒を無視して体当たりをくらわす学生服と、脇で蝋 人形のような表情そのままにつっ立っている彼の姿を思い描くのは 簡単だった。生徒も教師も寄ってたかって、今回の不始末の責任は すべてお前にあると彼を責めている様子も。彼はそれらに例の調子 で、はい、と答えるだろう。 それとも、血液の通わぬ冷たい目をぎらりとさせ、そうですか、 と言うだろうか。どちらもありそうでどちらもなさそうにも思えた。 ただ彼にとっては、自分の意志と関わりなく注目されるいいチャ ンスに違いない。そういう意味で、彼は幸せなのだ。彼は自分の幸 せについて、笑ってみるだろうか。 僕は頭の中で、笑った拍子にぼろぼろと崩れ落ちる彼の顔が浮か んで、冷たい気分になった。僕らは無言で身震いした。 (つづく)
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