空中分解2 #1199の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
心の中に、どんなに時間が流れ去っても色の褪せない写真があった。さらにその 一枚のスナップの中には、三つになる彼がいた。彼の隣りにはまだ若い彼の母親が いて、古いバス停に置かれた長椅子をはさんで二人が立っていた。モノクロームが 天気の状況さえ殺してしまっている。撮影したのは、おそらく彼の父親だったろう。 彼も彼の母親も、笑ってはいなかった。 彼は隣りの女を母親と思っていなかった。それから、そのアングルを決めてファ インダーを覗く男も父親と思っていなかった。彼は肉親を知らなかった。 母親は長靴を履き、寒そうに安物のオーバーを着ていた。 彼が彼自信をよく観察しようとすると、三才になる彼は視線の中心から逃げて行っ た。見られることを極度に嫌っていて、彼はいつでも途中であきらめてしまった。 なぜその写真が撮られたのかを、彼は知っていた。何日も降り続けた雨があがり、 家の周囲が泥に変わった頃に突然その不幸がやってきた。その日まで、彼は父や母 という概念を知らなかった。 おじちゃん、おばちゃん。そう、しばらくは呼び続けた。彼にとっての大人達だっ た彼の祖父母は、妙によそよそしくなり、声をたてずに笑った。 「東京さ行ったら、ちゃんと言えるようになっから、大丈夫だ。心配すっことね」 祖母が他人に言うのを、黙って聞いていた。彼は数時間後にはその他人に連れら れて、バス停に立っていた。 赤い長靴を履いていた。彼にはそれが気に入らなかった。物心ついてからずっと その長靴だった。無理に履かされ、手を引かれ、腹を立てていた。 「どこさ行く?」 何度か尋ねた。女も男も、答えてくれたという記憶がない。彼はバスに乗り込む と不安になった。知っている場所、知っている人々が遠くなった。彼には自分の身 におこりつつあることが信じられなかった。 嘘つきばかりの保育園に入れられた。煤けた街の埃っぽい地区にあった。夕方に なると金網にしがみついて、誰もいなくなった庭を逃げ出したくなった。逃げ出せ なかったのは、いつでもタイミング良く母親が迎えに来たからだった。 昼間は嫌われ者だった。男の子でも女の子でも、かまわずに殴り飛ばした。何が 気に入らないのか、決して口にしなかった。無言でいることに苛立つと、言葉にな らない奇声を発して暴れまわった。年を取った数人の保母に押さえつけられ、どれ ほど叱られても、彼の所業は直らなかった。そういった毎日に、泣くこともなかっ た。 昼寝の時間には、布団を何枚も掛けられ動けなくされた。部屋の中に誰もいなく なり静かになると、彼は何度か体を揺すって布団を抜け出し、黙って保育園を逃げ た。 家とは反対の方角へ歩き続け、彼はその場所を見つけた。 そこでは空気が透明だった。彼の背丈より高い花壇が広がり、公園の中がどれだ けの広さなのか予想もつかなかった。草や木は、陽の当たる加減で光る輪郭を装っ ていた。 森の奥を辿り、彼は川を見つけた。幅が身長の倍ほどしかない小さな流れだった。 道らしいところを辿り、行き止まったのがその流れの途中だった。流れていること さえ気づかないほど緩やかに、底の浅い小川の水は流れ続けていた。 太陽の色が濃くなってきはじめた頃、彼は笹の葉を一枚、手に持っていた。埃さ えついていない、すべすべした葉だった。それを丁寧に切り、折り、立派な船を作っ た。 水辺にしゃがみ込んで、その小さな笹船を浮かべて手を離した。ゆっくりと流れ 始め、少しずつ調子をあげ、じきに遠くなってしまった。彼は黙ってしゃがんだま ま、笹船の流れ行く先を見ていた。ふと優しい気持ちが湧いてきた。父母である他 人に連れられてこの街へやって来てから、彼は初めて泣いた。 それから少しして、保育園の近くのアパートへ越した。父親と母親との言い争い が増えた。小さかった彼にも、ぼんやりわかった。彼自身が連れられて、父親と二 人でその女のアパートへ行ったことがある。 眠い目をこすりながら、母親に手を引かれてホームに立っていた。その訳も彼に はわかっていた。彼を起こしながら母親が、帰ろう、と囁くのを聞いた。 汽車が入ってきて、扉が開き、母親が左腕を引いた。瞬間、右腕が強い力で引か れた。振り返ると父親が息を切らしていた。どこへ行くんだ、と言う父親の低い声 が聞こえた。左腕を離さない女は、答えずに涙を流した。 「この子は置いて行け」 「連れて行きますから」 「ボク、ボクは父さんと一緒にいるよな?」 「一緒に帰ろう、ボク」 彼は下を向いて答えなかった。どちらにも、答えるつもりはなかった。 アパートに三人で戻ってからも、父親は彼にだけ話し続けた。母親は黙って窓の 外を見ていた。あきらめて、彼をじっと見つめたあと、父親はどこも見ずに言った。 「一緒にいてくれないか」 力ない、哀願するような声だった。母親が洟を啜り始めた。父親は、彼の手を痛 いほど握りしめて泣いた。彼は二人に対して同じように優しい気持ちになり、言っ た。 「泣かないで」 それでも、父も母も泣き続けた。彼は疲れて眠ってしまうまで、繰り返した。 長いあいだ、夕陽は竹薮の中に沈むのだと思っていた。父親のあとを追って、そ の影から飛び出してみるまで知らなかった。彼女は何も尋ねなかった。 母親はまだ歩くこともできない小さい弟を膝に乗せ、黙って茶碗を見つめるだけ だった。 怒鳴り合うことも、黙り込むこともない、冷ややかな争いが続いていることに気 づいていた。いつでも弟を抱いている母親より、どんな時にも笑いながら頭を撫で てくれる父親がいたから、彼女は泣かずにいられた。 「おまえは、ここに残りなさい」 最後に静かに父親が言った。彼女に対してだったのか母親に対してだったのか、 誰にもわからない。広い肩を扉にぶつけ、よろけるようにして出ていった父親は、 二度とそこへ戻らなかった。彼女は、理由を知りたいとも思わなかった。 父方の祖父母が女のところへ訪れたのは、それからもっと日が長くなってからだっ た。窓の外から二人を見つけると、彼女はカバンを背負ったまま離れ、陽の落ちる まで帰るまいと思った。竹薮ではなく喧騒のなかへ陽が沈み、家々が明かりを灯す 頃、再び窓の外に立っていた。 女は一人で、黙ったまま弟を抱いていた。弟は静かに眠っていた。そのまま目を 覚まさなければいいと、彼女は願いさえした。膝の赤ん坊を座布団に寝かせ、女は 箪笥から薄い本を取り出す。無表情で中から写真を選びだし、終わると残りを引き 出しに戻す。赤ん坊のそばに腰を下ろし、取り出した写真を一枚ずつ破り始める。 16枚に切り裂かれた写真が卓袱台の上にばらまかれる。すべてを同じ調子でし終 えても、女の表情は変わらなかった。 中に入り、カバンを置いて卓袱台のそばに座る頃、女は台所で夕飯の支度を始め ていた。紙屑になってしまった女の過去は、すでに始末されていた。 布団に入っても眠れなかった。生活の音も、弟の泣き叫ぶ声も、女のため息もな かった。不安も悲しみも怒りも、湧いてこなかった。彼女の寝ている向こうの明か りの中で、彼女に血を分けた女が、静かだった。 家中の明かりが消され、彼女の隣りで身動きする女を感じていた。 「眠れないの?」 女が小声で言う。 「うん」 「お父さんに、会いたい?」 彼女は答えなかった。 「会いたいでしょう?」 怒っているのか、面倒がっているのか、女の声には表情がなかった。 「そばにいてあげてね」 女はそれきり口を開かなかった。言葉の意味を考えているうちに、彼女は眠って しまった。 体に絡み付くような気持ちの悪い雨が降った日だった。女は弟を抱き、彼女の手 を引いてそこを訪れた。色黒で物静かな、雨雲のような男がいた。その父親は、女 ではなく彼女だけを見つめて笑った。短い言葉が続く。 一日が終わるまで、四人は家族のように見えた。男は彼女に話しかけ、女は男に 笑って見せた。彼女は、言葉を失いつつあった。 街中の他人に愛敬を振りまく弟を抱き直し、女は長いこと男を見つめたあとで、 彼女に向かい、 「帰って来ちゃ、だめだからね」 と、彼女が予想していたとおり、本物の感情なのかどうかわからない微笑ととも に、そう言った。彼女は同じ微笑を浮かべ、首をがっくりと動かすようなしぐさで うなづいた。 男は初めて女を見つめ、ゆっくりと言った。 「おまえの強さが、必要だったんだ」 女は一瞬青ざめ、雨音に消えそうな声で言葉をつないだ。 「こんなもの、いらないのよ」 女が本当に捨てようとしたものを、彼女は覚えておこうとした。 彼女は女になることを恐れていた。父親と生活することが、自分の中に母親と同 じものを残したままにするような気がした。子供でなくなってしまったことを知っ た日、男は静かに笑った。彼女は捨てようとした。自分のためでも、男のためでも なく、あの女のために捨てなければならないと思った。 「お父さんは、どうして何も言わないの?」 冷ややかな言葉で責めた。ずっと持ち続けてきた、彼女の中の母親を、こうして 捨ててしまいたかった。 「何を言えばいい?」 男の微笑には終わりがなかった。 「どうして、お母さんじゃなくて、あたしなの?」 男は雨雲に似た表情で、長いこと黙り込んだ。膝の上で組んだ彼女の手が震える。 何も答えないでほしい、と彼女は思った。湯呑みの中身が空気と同じ温度に落ち着 く頃、男がゆっくりと言った。 「許してほしいなんて言わない。お母さんは、そんなふうに言った」 「そんなこと聞きたいわけじゃない」 彼女は結局耐えられなかった。自分の中に残っていた血液を感じることに吐き気 を覚えながら、涙を流すことしかできなかった。 「どうして、あたしをそばに置いたの」 彼女の声が遠い昔話しに変わる。男の表情がまったく動かなくなる。 「お母さんが、好きだった。おまえよりもずっとずっと、好きだったんだ」 「それなら、どうして手放してしまったの」 男はため息をひとつ洩らして、雑音のように言う。 「おまえにはわからない」 「ちゃんと言ってよ。わかるように教えてよ」 男はそれきり、口を閉ざしたまま時間の中に体を埋めてしまった。 (つづく)
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「空中分解2」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE