空中分解2 #1159の修正
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1 その女の横顔を見たとき、彼は何か悪いことでも発覚したときのように思わ ず息をひそめてしまった。女は彼の右七、八メートル先の女の家のと思われる 墓石の前に佇んで、連れである高校生ぐらいの年頃の少年が腰をかがめてかる く合掌しているのを穏やかな顔つきで見下ろしている。女が右手に束ねて持っ た線香のけむりがその横顔に靡き、幾分栗色になった髪のほつれ毛にまつわり ついたとしても、彼は女を見まがう筈はないのである。どちらかというとまる い顔にまるい目。やや赤い頬。 しかし妙なところで遇うものだなーー彼はそう思ってまじまじと女を見詰め ていたが、あまり凝視して気づかれでもしたらと視線をはずした途端に、 「おとうさん、何ぼんやりしてるの。早く線香あげて」 とさっそく彼の妻の声が飛んできたので少しびっくりした。 「……」 「変な顔しておかしなひと」 実際妻は、五歳になる男の子と手をつないで訝しそうに彼を見ている。 彼は、妻から手渡されたけむりの立ちのぼる線香の何本かを墓前に置いた。 ひしゃくで手桶の水を墓石の頭に掛けた。するとだいぶ落ち着いてきたが、 まだ胸の奥のほうがざわついている。 「ねえ、おねえさんはやいのねえ、お墓参り」 後ろから妻が語りかける。 「そうさなあ。車は何なんだろう」 墓地は彼らや姉が住んでいる市から十キロは離れた市の郊外にあった。彼ら 夫婦より早くきたとすると、今はまだ十時前だから随分早く駆けつけてきたこ とになる。 姉がそんなにまめとは知らなかった。車の免許も無いのにどうやってきたの だろう。嫁いで二十五年経つ姉に、そんな几帳面さが備わっているとはどうし ても思えなかった。 「だって、身内のひとは、おねえさんだけなんでしょう」 「そうだよ、ほかに誰もいないよ。うちには親戚が無いんだから」 「じゃあやはりおねえさんよ」 「うん、ま、どうでもいいけど、後でたしかめてみよう」 昨年の暮れに脳溢血で逝った父の卒塔婆がまだ白く真新しい。妙なことには 花筒の中の花もそれ以上に真新しい。造花のことではない。本物の新鮮な活き た花ーーその朝手向けれられたに違いないのが彼たちが墓参りにくる前に、早 ばやと花筒に差し込まれていたのである。 彼は墓前のその花にも意表をつかれたが、やはり今は女のほうが気になって 、妻に気づかれないようにさり気なくまた女に目を向けた。 わずか七、八メートルの隔たりでもその間を人の流れが絶えない。老夫婦が ひっそり通るかと思えば彼たちのような中年のファミリーが気ぜわしく往来す る。墓地には中高年がやたらに多い。そんな人びとの向こうに女がいる。迂闊 にも二十年近い歳月が横たわっているのを忘れていた。 「せいぜい五、六年てとこだ」 彼は胸のうちでそう呟いて、何てことだろう、と改めて目を瞠った。 春の彼岸の中日であった。ようやく春先の冷え込みも底離れがはじまってい た。墓地の周りの樹々にまだ新芽は芽吹いていないが、暖かいやわらかな陽射 しを浴びて生気が確実に滲み出してきた。 「行くわよ、おとうさん」 また妻に言われてしまった。 彼は妻と子供の後を追うように歩き出した。墓地にはどこも線香のにおいが 漂っている。 再び女を盗み見ると、女は墓の前で立ち上がったところであった。そのとき 不意に、女の横顔に笑いをおさえたような不思議な表情が浮かんだ。 彼は狼狽して首を振り、女からあわてて視線をはずすと足早に妻と子供に追 いついて、並んで歩きながら、 「いい日だなあ、きょうは。お天気がいいからいろんな人がきていて、墓参り もにぎやかで……」 と独りごちるようにやや上ずった声で言った。言ってから変な気がして思わ ず妻を見たが、もちろん妻は何の関心を示さなかった。 何もかも知っているんだからーー女の顔に不思議な表情が浮かんだとき、彼 にはそう見えたのだ。そちらが気づく前にこちらは気づいていたのよ。だから とぼけて澄ましていられたの。でも気づかない振りをするってすごく疲れるの よね。そちらの視線が痛いほど躯に突き刺さってくるし、いつまで同じ表情を しているのも変なものだし、しまいには何だかおかしくなってきて……。 不意にそんな気がしたのだ。あの横顔は実に雄弁であった。いやそれだけで はなかった。あの笑いをおさえたような顔は、あれはあのときの顔だ。あんな 顔で彼の顔を下から、彼に抱かれながら眺めていたのだ。 そう思うと、彼は躯の芯がほてってくるのを感じる。 それにしてもあの女の上に歳月の流れが緩慢なのはなぜなのだろう。 彼は奇妙な気がして、女との今は遠い出来事を改めて思わずにはいられない のだ。 「ぼくでよかったら、ご一緒しますよ」 「ほんとう。ね、いつにする」 「いつって……」 彼はまったく冗談のつもりだったのである。女が亭主をあまりこぼすものだ から、つい相槌をうってしまったのである。 女の話によると、亭主は働く一方の堅物で、酒もタバコもやらず、趣味道楽 も無ければもちろん女遊びなぞ到底できそうにない小心な真面目人間である。 1日中得意先を飛び回って、帰ってくればきたでろくに話もしないで仕事を続 け、毎晩九時を過ぎないと夕食にもならない。子供でもいれば気も紛れるのだ ろうけど、私たちには子供もできないし……もう七、八年そうなのよ、と女は 言う。 どこにも出かけるわけでなし、たまあには息抜きでもしないと、このまま齢 だけは確実にとっていくのかと思うと……。 妙に実感がこもっていた。彼は、だからどこか温泉にでも出かけたらと調子 を合わせたら、温泉もいいけど一人じゃねえと女は言ったのだった。 「……いつでもいいですよ、奥さんの都合のよいときで」 「じゃあ、次の週末はどうかしら」 「でも奥さん、家を空けられるんですか。旦那に何て言うんですか?」 彼は半信半疑であった。瓢箪から駒が出たとはこういうことを言うのだろう 。 「それは大丈夫よ。クラス会とか何とか言ってうまくやるわよ」 「何か変だなあ」 「こわいんでしょ」 「いや……ぼくは童貞じゃないもの」 「やあね、勘違いしないで」 女の顔が心なしか赭らんだ。もともと頬の赤い女だから上気したような顔に なった。まるい目がいたずらっぽく笑っている。 そのころ彼は二十三歳の独身。女は……女の齢は訊かなかったが、二十二歳 で結婚したのだそうだから三十歳前後といったところか。 子供を産んだことのない女の肌は、張りがあって瑞々しかった。豊かな乳房 と強靱な腰回りは、まるで画家がキャンバス上に描く裸婦像であった。 若い彼は、けっきょく我武者羅に突き進んで簡単に終わってしまう。一と呼 吸置いて雰囲気を愉しむ余裕など、気持としてはあっても無理というものなの だ。 「こうしないとね、うちのひと怒るのよ」 再びはじめたとき、彼の下で女はそう言うと、自分の腰で大きな円を描くよ うに持ち上げてきた。同じようにゆっくり回転させながら腰を沈める。そんな 動きもしかし、四、五回繰り返すとぴたりとやめてしまった。 「もっとサービスしてよ」 味を覚えた彼が催促すると、 「厭、疲れるから」 とすねたように言って少し笑っている。女は全身汗ばんでいるのに普段の表 情をくずさない。それどころかかえって笑いをおさえたような顔をして、まる で彼のひたむきさを愉しむように下から眺めている。 「ねえ、何ともないの」 彼は訊かずにはいられない。 最初はそれでも目を閉じて、そのことに懸命に専念する様子であった。女の 顔にひたむきな真剣さが現れていた。けれども呼吸のみだれることも、吐息の 一つもついに口から洩れない自分に気がついたのか、女は二度目は傍観者の態 度をとり続けていた。 「駄目ねえ、私って」 「旦那とするときのようにしてよ」 「厭、ほんとうは私、あまり好きじゃないのよ。怒られるから仕方なくしてい るだけ」 「そんなことだから、赤ん坊ができないんだよ」 「そうよね、私って駄目なのよね」 不意に女の顔がゆがんだ。一瞬目がゆらめくように膨らむと、涙があふれ出 た。 彼は女の急変ぶりに困惑する。女とはかくも簡単に涙が出せるのか。そんな に造作もなく傷ついてしまうということか。 「ねえ、もうやめて。このまま寝ましょう、お願い」 彼は片づかない気持であった。そして、この温泉旅館に着いて、夕飯前に一 と風呂浴びるため女と一緒に風呂に入ったときのことを考えた。 女は前こごみになって左手で下腹部を、右手で両の乳房をしっかりタオルで 隠して入ってきたのであった。 「一緒に入ることになったらどう仕様かと思ったの。タオルを二つ持ってきて よかったわ」 それから二カ月ぐらい経ったある晩、彼は今度は女の家に泊まることになっ た。 食料品の小売・卸をしいてる女の店には毎日日掛けの集金に通っていた。彼 は当時にしてはまだめずらしかった超高級自動秤を日掛け販売する会社の集金 業務をしていたのである。 「毎日ご苦労さま。何軒ぐらい回るの、一日に」 「六、七十軒です。県下一円だからけっこう疲れますよ。夕方になると背中から 腰が棒切れのような感覚になって」 実際三五〇CCのバイクで二〇〇キロ近く走行するのは楽とは言えなかった 。モーターリゼーションという言葉がまだ生まれなかった時代だから同じ年頃 の若者たちには羨ましがられたが、春夏秋冬に亘り風雨を問わず毎日となると さすがに遊びの気分だけではオートバイに乗れない。 「ね……疲れ直しにいいこと教えてあげようか」 「何ですか?」 「あのねえ、今夜うちの旦那がいないの」 幾分真面目な顔をした女を、彼は黙って見詰めた。キャンバスの裸婦像が脳 裏に甦った。 「同業者の旅行で一と晩家をあけるのよ。それで……」 「また浮気ですか」 「浮気じゃないもの。本気だもの」 「本気にしちゃあ、不真面目だったなあ」 「だって私……感じないんだもの、仕方ないのよ」 「そう思いこんでいるからじゃない。そう言うよ、よく」 「ううん、でもいいの」 女は心なしか淋しい顔をした。しかしすぐくりくり目をうごかして、今夜必 ず泊りにきてねと弾んだ声を出したのだった。 あの悦びがほとんど無いようなのに、なぜ誘うのかわからないのである。そ れに、やはり女の旦那を意識しないわけにいかない。最近、それは女と温泉に 行った後だったが、心ならずも旦那と短い言葉を交わした。先方から秤屋さん はまだ独りなんだろうと話しかけてきたのだ。仕方がなく、いいひとがいたら お願いしますと一応調子を合わせておいた。 すると旦那は何を思ったのか、 「おんなは見掛けだけじゃわからんからねえ。うちの女房なんか、何て言った らいいのか……」 そう言うと、一と息入れた。だが彼に背を向けたまま商品の棚卸しの手を休 めない。 彼は、一瞬息をのんだ。 .. G
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