空中分解2 #1080の修正
★タイトルと名前
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「最初は自分が得体の知れない病気になったのではないかと疑いました。でも、私には どうしても自分が病気になったとは考えられませんでした。なぜなら声以外のことでは 何も変わっていませんし、店の仲間達ともそれまでとかわりなくうまくやっていました から」 先生、どうなんでしょう、と言うように、彼は私の目をじっと見た。 「そうですね、精神の病気というのは、かならず人間関係の中で問題を起こすのが通常 ですね」 「先生にそう言ってもらって、安心しました。実のところ、今でも、もしかしてという 気持ちもありましたから」 「しかし、それにしても本当に奇妙な体験ですね」 「はい、何といっても、私を不安にしたのは相手が何者かということが、ぜんぜん分か らないということでした。人間を不安に陥れるのは恐ろしい体験なのではなく、何が恐 ろしいのか分からないということなんですね」 「それはそうかもしれませんね。ところで声の主の正体は結局分かったのですか」 そう尋ねた私も、彼の不安感にいつのまにか感染していたのかもわかりません。 カズシが店でいるときだけは、声はしなかったが、いったん店から外へ出るや、すぐ にあの抑揚を抑えた歌うような声が聞こえ始めた。そして、それが止むと、今度は例の 語りかけてくる声に変わる。 そんな状態が三月も続いたであろうか。カズシはいろいろ考えあぐねたすえ、ある週 刊誌の短歌欄の選者をしている歌人に電話をして、自分が何度も聞かされた歌のことを 尋ねてみることにした。あの学習塾の国語教師のように、笑って一蹴されるかもしれな いとは思ったが、ともかく尋ねてみようという気になった。 「何かね、雑誌の取材だったら、アポイントメントをとって家の方に来てくれないか」 歌人の無愛想な返事にたじろいだが、思い切って歌のことをきりだした。 「何だ、君はそんな有名な歌を知らないのか。それは有間皇子の歌で、万葉集の巻二に あるものだ。君ももの書きの端くれなら、それくらいのことは勉強しておきたまえ。と ころでどこの雑誌社と言ったかね」 カズシは答えずに電話を切った。 すぐに区立図書館の所在を調べて出掛けていった。 図書館など学校の図書室以外に入ったことがなかった。 平日の館内は驚くほど静かで、借り出した万葉集のページをあわただしくめくる音ま で、響き渡るかと思えた。東京のど真ん中にこんな静かな時間が流れる場所があること さえ信じられなかった。 あった。 その歌はたしかにあった。 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む そしてこの歌の作者の有間皇子について、その本は長々と注釈を加えていた。それを 読んで、カズシは自分に語りかけてくる声の主は有間皇子であることを確信した。そし て、何故ほかならぬ自分にであるかということも。 彼の父、孝徳天皇は大化改新の一方の主役である中大兄皇子と対立して破れ、難波の 都に取り残され、失意のうちに死んだ天皇だった。有間皇子は猜疑心の強い中大兄から 身を守るため、狂気を装っていたが、結局中大兄の策謀に陥り謀反の罪を着せられて捕 えられ、処刑されたことになっている。 この歌は有間皇子が捕縛され、中大兄らのいる和歌山の牟婁温泉に送られる途中で詠 んだものだというのだ。 この注釈を書いた文学者は、孝徳帝の后であった間人皇后さえも、天皇を見限って中 大兄皇子に付き従って大和の都へ移ったことを取り上げ、もしかして間人と中大兄の間 に男女の関係があったのではという推論を述べていた。 この間人皇后は有間皇子の実の母ではない。かれの母は大化の改新のときの左大臣阿 部倉梯麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)で、有間を生んでまもなく他界している。 これでカズシの謎の大半は解けた。 恨みを晴らせ、というのは、カズシの父の恨みのことであり、それは多分有間皇子と よく似た境遇のカズシに、有間が自分の恨みを重ね合わせているのであろう。 だが本当に千三百五十年も前の人間の声を聞くことなどありうることであろうか。そ んなことを信じるなんて馬鹿げている。似た境遇の人間など、どこにでもいるのではな いか。 読み終えた本を閉じ、茫然と椅子に座り尽くすカズシにあの声がまた届いた。 「やっと私が誰なのか分かったみたいですね」 「何故なのです、何故私を選ぶのです。私はあなたと立場も思いも違います。私は父の ことでは誰も恨みに思っていません」 「それはそれでよい。だがあなたは私の恨みを晴らさなければなりません」 「そうしないとあなたはいつまでも浮かばれないとでも言うのですか」 「いいえ、私だけの恨みではありません。これからもいつまでも繰り返される恨みなの です。人間がいる限り、はてしなく続く恨みなのです」 「それなら尚更のこと、私が父の恨みを果たすことなど、必要のないことではありませ んか」 「そうなのではありません、あなたが父上の恨みを晴らすということが、この恨みに仕 組まれている結末なのです」 「何と言われようと、私はあなたの言う通りには行動しません。それだけは確かなこと です」 「でもあなたはそうします。結局人間が自分の意志だけで行動できることなど、ほとん どないということをあなたは知るはずです」 カズシはおもわず耳をふさいでいた。だがそれは声を遮るには、何の役にも立たなか った。 「私は二度とあなたの心には働きかけません。でもあなたは私の言ったことを果たすこ とになるのです。私が飲み下すことをためらっていた、しかし最後には飲まずにはすま なかった苦杯を、結局はあなたも飲むことになるのです。私はただそのことをあなたに 前以て知らせておきたかった、それだけの理由であなたの心にはいりこんだのです」 そしてその声は本当に最後のものだった。あれだけカズシを苦しめた声がその時を境 にぱったり止まった。 カズシは有間皇子の言葉を反芻しつつ、自分の体験したことが現実のできごとなの か、自分の想像にすぎなかったのか、考えていた。現実にしては不可思議なことだった し、想像にしてはあまりになまなましいできごとだった。 しかし、三月、四月とたつうち、なまなましさのほうが薄れていき、結局あれは白昼 夢だったのだ、という感じが強くなった。 店の内情にも次第に通じてきて、そうしてみるとささいなことで揺れ動く人間の生き ざまに嫌気が差してきて、そろそろ仕事を変えようかと思ったりするようになった。「 紋白蝶」のママは横浜の一件以来、もうカズシには飽きたのか、店に来てもちょっと作 り笑いはしてみせるが、指名を掛けるわけではなく、最近はいったカズシと同い年のユ ウのほうに執心の様子だった。そんなママに別に腹が立つ訳でもなかった。横顔が菜穂 子に似ていると思ったのはあのときだけで、その後はママの表情に菜穂子の面影は見い だすことはできなかった。 そんなある日、大阪の伯父から父の五回忌の法要をするから帰って来いという手紙が 届いた。自分の父の法要を忘れる奴があるか、という叱責のなかに、なんでこのわしが 弟の死後まで弟の家族の面倒を見てやらないといけないんだ、という気持ちがありあり と表れていた。これを限りにもう父の供養は自分だけでやっていくから放っておいてく ださい、と言おうとカズシは考えた。 今度だけは自分の家でやってやるからという伯父の恩着せがましい言葉を丁重に断っ て、氏寺になっている大阪の寺の一間を借りて法要をすませた。出てきたのはその伯父 と父方の叔母、母方のほうから普段は行き来のない従兄、それと大阪で住んでいたころ のおとなりさんで、父と親しかったたばこ屋の平治さんの四人だけだった。 その席で伯父と叔母がユキオのことを話しているのを耳にした。 「あいつ、今は東京のほうで住んでいるらしい」 「そうでっか、それでほら、あの人、菜穂子はん言いはったかいな、まだ一緒ですか」 「そうらしいですわ、徳市の話では二人でこの夏に家にきよったらしいですわ」 徳市というのはカズシのもう一人の伯父で、ユキオの父だった。 「それで、東京のどこにいますねん」 「なんでも板橋の高島平という大きな団地に住んでいるらしいですわ」 「そうでっか、まだ一緒にいますのか、とんどに別れたかと思いましたのになあ」 「案外本気だしたんやなあ」 二人はカズシが自分たちのほうを見ているのに気付いて、顔を見合わせると黙ってし まった。 「そうですか、ユキオさんたちも東京にいるんですか。久し振りに会ってみたいなあ」 カズシがそう言うと、叔母は、そうやなあ、短い間やったけど菜穂子さんはあんたの お母はんやったもんな、と急いで言った。 「電話番号、分かるでしょうか」 カズシはできるだけ自然な口調になるように気を付けて言った。 「そりゃあ、徳市伯父に聞けば、きっと分かるやろ」 「徳市伯父さんにはご無沙汰ばかりしていて、用事のあるときだけ電話するのは気が引 けるな」 「よっしゃ、ほなわてがそれとなく聞いておいてあげるわ」 叔母がそう言ったのでほっとした。 「そのときは二人を殺そうというはっきりした気持ちがあったのではないのですが、 二人が自分のすぐ近くでいるのだと思うと、どうしても彼らの様子を見てみたい、とい う衝動が起こってきました」 カズシは自分のそのときの気持ちを確かめようとするかのように、ゆっくりとしゃべ った。 「でもあなたの話を聞いていると、ユキオさんと菜穂子さんがむつまじく生活している ことを聞いて喜んでいないように聞こえますね」 私は少し意地のわるい質問をしてみた。 だがカズシは表情ひとつ変えずに、 「さあ、今となっては、そのときの自分の気持ちははっきりしないのですが、ただユキ オと菜穂子は先生が言われるように、なかむつまじい暮らしをしていたわけではないの です」 「はあ・・・」 「私が彼らの家の電話番号を知って、それを使って彼らの住所を探り当てたときも、二 人は近所になりふりかまわず、大喧嘩している最中でした。高層のビルの立ち並ぶ団地 の三階で住んでいましたが、彼らの声は下の道から彼らの部屋を見あげていた私の所ま で聞こえてきました。おかげですぐに二人の部屋の位置が分かりました」 「それじゃあ、やっぱり彼らを訪ねていったのですね」 「ええ」 カズシは何度か菜穂子たちの団地に出掛けていったが、家へは行かなかった。ただ彼 らがどんな生活をしているかを知りたかっただけだった。そして、次第に彼らの暮らし ぶりが分かってきた。ユキオには定職はなくて、水商売、パチンコ店、ホテルのフロン トマンなどを転々としているらしいこと、菜穂子のほうは昔の古巣にかえって錦糸町あ たりのバーで働いているとのこと、子供は作らない主義なのか、できると菜穂子がはた らけないから困るからかいないらしいなどといったことが分かった。 彼らはほとんど毎日のように派手な喧嘩をした。むしろ二人でいると喧嘩しない時間 が少ないのでないかと思われるくらいだった。同じ棟の住人には有名なのか、喧嘩の最 中に下を通りかかった主婦たちが顔を見合わせて、困ったものね、というような笑いを うかべて過ぎていった。 カズシは地下鉄の三田線に乗るたびに、何のために自分は彼らの住んでいる団地に行 っているのか、我ながら不思議に感じていた。だが、店が休みの月曜日になると高島平 のほうに足が向いている。 高島平の団地の高層ビルが自殺の名所であったことは聞いていた。たしかにあそこは ひとに、死んでもいいな、という気を起こさせる何かがあるとカズシは思う。人間が「 究極の家畜」という存在になったら、つまりそれは機械や制度の中で人間が人間でなく なる時代がきたらということだが、という仮定を現実のものにしてみせる何かがあるの だ。 本当なら二度と行きたくない場所なのに、カズシは毎週のように出掛けていく。 そして、とうとうカズシは菜穂子に会ってしまった。 菜穂子の部屋のある棟に向かっていて、駅の前の商店街でぱったり彼女に会ってしま った。 だがそのようになるのを心のどこかで期待していたのではないか。 あとになってカズシはそう思った。
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