空中分解2 #0947の修正
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* 明け方、部屋に帰りついて冷たいふとんに入ると、芙美子はきまって木曽路の ことを思いだした。 わずか二週間足らずで逃げ出すようにして出てきたのに、木曽路の小さな店や そこの気さくなママの顔が写真でも見るようにはっきりと思いだされた。 芙美子は、どこへ行っても誰よりも辛抱強く、愚痴もこぼさなかったから、ど の店でも大切にされた。それに、待遇や仲間付き合いのことでもめごとを起こす こともなかったし、どこでも必ずすぐに馴染みの客が何人か出来た。 そんな芙美子が、思いたったように店を突然やめるのには、あるきっかけがあ った。 誰かに情が移ったかな、と思ったらもうだめだった。特に、他人から情をかけ られるのが、なんとも煩わしく、そう思うと息苦しくさえなった。 木曽路のあの小さな店を捨てたのも、店の人や客たちの芙美子に寄せる情を感 じとったからであった。 店の者や朋輩たちが意地の悪い連中であればあるほど、芙美子にとっては居心 地が良かった。 (勝手にすれば) と割り切ると、気持ちがいいほどさっぱりするのであった。 それなのに、木曽路の小さな店は一人残らず人が好く、客の中年連中はそれに 輪をかけたお人好しばかりであった。木曽路の自然に抱かれ、解放感にひたる一 方で、心を締め付けられるような窮屈さに息苦しさを覚える、といった妙な気持 ちが同居していた。 それまでは、芙美子にとっては、酒なんて吐くために飲むようなものでしかな かった。 しかし、木曽路の小さな店で飲んだ酒は、芙美子の手足の先まで染み渡り、し びれるような甘ささえ教えてくれた。 いやいや飲む訳ではなかったから、抑えようとすればそれが出来たにもかかわ らず、芙美子は違った意味で毎晩のように深酒を重ねたのだった。 それまでの自分の生きざまと、木曽路の自然と、そして店での出来事の間には 目の眩むような落差があった。それを少しでも埋めようとして、芙美子は酒を飲 んだ。飲まずにはおれなかった。 * 木曽路の小さな店にきてから十日ほどもたった頃であったろうか。店が休みの 日だった。芙美子は、赤沢美林に出かけてみようと思いたった。ジ−パンをはき 、スニ−カ−のひもをきつく縛ると、駅に向かった。 ところが、駅前でバスを待っているうちに、芙美子は妙な気持ちに囚われはじ めた。 そのうち、胸がぐいぐい押し付けられるような不快感に襲われたかと思うと、 額に脂汗がにじんでくるのが分かった。 いけない、部屋に戻ろう、そう思って歩き始めたとたん、周囲の山並がぐぐっ と盛り上がったかと思うと、次の瞬間には芙美子に覆いかぶさってきた。 「あ」 小さく叫び声を上げた。手を差しだしたが空をつかむばかりで、よろよろと足 がもつれた。 気が付くと、駅員たちの休憩室のようなところに寝かされていた。 「ふっ」 起き上がると、ため息をついた。 どうしたのだろう。貧血なんて起こしたことは一度だってなかったのに。芙美 子は少しいらだった。 それにしても、あれは幻覚などではなかった。周囲の山々がそろって襲いかか ってきたのを、この目ではっきり見た。芙美子は、ひとりうなずいた。 それから芙美子は、駅員たちに礼を重ねると、自分の部屋に向かった。足元だ けをみつめ、決して顔を上げようとはしなかった。 部屋に入るなり、芙美子は声を出して笑った。 (柄にもないことを思いついたりするからよ) 「いやだいやだ」 声を荒げると、スニ−カ−を壁に投げつけた。 * 芙美子は、夢をみていた。 「ね、お願いっ」 自分の叫び声で目が覚めた。 「あ」 夢か。それにしても、忘れよう二度と思い出すまい、そう誓ったはずだったの に、そのことを夢にみてしまった。 「ちくしょう」 悔しかった。芙美子は、自分の弱さに歯ぎしりしたいほどの嫌悪を感じた。 「ちくしょう」 芙美子はもう一度口にした。気持ちがいっそう高ぶるばかりであった。両手で 髪をわしづかみにすると、指にからめぎりぎりと引っ張った。そんなことをして も少しも慰めにはならなかった。ス−パ−のビニ−ル袋を耳元でカソコソカサコ ソやられたときのようないらだちを抑えることが出来なかった。 芙美子は、ふいに布団を蹴り、洗面所に走った。化粧棚の中から剃刀を取り出 すと、刃先を左手の手首にあてがった。息を詰めると、皮膚に刃をのせた。 「うぐぐ」 喉の奥から、汚いうめき声がもれた。 この項おしまい
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