空中分解2 #0895の修正
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6 一夜が明けた。 外来者を拒む館に、武彦とゆかりが訪れてからの一夜が。 浅い眠りから覚めた千種は、武彦とゆかりがすでに起きていることを知っ て軽い驚きを覚えた。ベランダに肩をならべて、ゆかりの方はいかにも楽し そうになにかと武彦に向かって話しかけている。こぼれるようなその笑顔は、 年相応の無邪気な少女そのものだ。武彦はいかにも眠たげに大あくびを連発 しつつ、しきりに話しかけてくるゆかりに生返事を返している。 のんびりとした光景だ。ここ一年ほどの間、自分たちの家族の中には見る ことのできなかった、他愛のない心和ませる光景だった。 「ごめんなさい、すぐ朝食にしますから」 庭からベランダに向かって呼びかけた時、千種は忘れかけていた溌剌とし たものが湧きあがってくるのを意識し、驚いた。 ずっと昔に置き忘れてきたもののように思えたのだ。自分にも、まだこん な感情が残っていたのか――そう自覚すると、まるで少女時代に戻ったよう に胸が弾んでくる。 「どうぞごゆっくり」 ゆかりの声が、朝の空気の中に涼やかに響きわたった。 それに重ねるようにして、武彦がからかい半分の口調でつけ加えた。 「ご迷惑でしょうが、よろしく。なにしろこいつときたら朝っぱらから人 の十倍は詰めこまなきゃ気が――いて、いてて、よせったら!」 二の腕をゆかりに思いっきりつねられた武彦の発する若々しい声に、千種 は心の底から笑いがこみあげてくるのを実感した。 午前六時。陽光が世界を照らし出そうとする時刻。こんな朝を迎えられた だけでも、よかったのかもしれない。 久方ぶりに、朝食をつくるのに張りが湧いてくる。千種はエプロンをつけ ると、軽やかな足取りでキッチンに向かった。 そして闘いの合図は、朝餉に向けてふるわれる包丁の音が快く響き始めた 頃、電話の音として唐突に鳴り響いたのである。 朝食後、登校する葉子とともに武彦は外出した。中山からなにか新しい情 報が入ったらしく、元町のオフィスで会うことになったというのである。 芦屋川沿いに肩をならべて遠ざかっていく二人の後ろ姿を見送ったゆかり は、千種に朝食の後片付けの手伝いを申し出た。お客様にそんなことはさせ られないという千種にゆかりは、 「いいんです。じっとしてるの、性にあわないし、皿洗いには慣れてます から」 という。 事情を訊くと、兄と一緒にアルバイトをしながら全国を渡り歩いているの だというのである。 「じゃあ学校はどうしてるの?」 手際のよいゆかりの働きぶりになるほどと感心しながら訊くと、少女は寂 しげに笑った。 「学校って、行ったことないんです」 「まあ、どういうこと?」 「詳しいことはお教えできないけれど――学校とか社会とか、そういうも のとはあんまり縁のないところで育ったんです」 そう言ってゆかりは、謎めいた微笑を浮かべた。 実家は意外にも芦屋界隈にある、ということを千種は訊き出したが、なぜ そこに帰らないのかということもゆかりは話したがらなかった。 「あたしにはよくわからないけど、あなたたち兄妹は――ちょっと、あな た、なにをしていらっしゃるんです?」 訊きかけて千種は、寝巻姿のまま所在なげにうろついている秀明の姿を目 にとめた。 「着替えなくてもいいんですか? 会社に遅れてしまいますよ」 「ああ、いいんだ」渋面のままそう答えたのは、感情を顔に出さないため の用心だったのかもしれない。「さっき電話を入れておいた。今日は休む」 驚いて、千種は目を見はる。結婚してこの方、残業や休日出勤はしても欠 勤などただの一度もなかった秀明の口にする台詞とは思えない。 「ま。でも」 「いいんだ。仕事の方は二三日私が欠けてもなんとかなる。どうせこの騒 ぎがおさまるまでは、仕事なんぞ手につきそうにないしな。それに私は、自 分のこの目で決着を見たいのだ」 そう言って笑った秀明の顔を千種は、子供のように可愛らしいと感じた。 初めて知り合ったころ、秀明はいつもこんな顔をして明日や将来のことにつ いて語っていたことを思い出していた。 家族に笑顔が戻りつつあった。 だが、真の闘いもまた、これから始まるのであった。 「日付を見ると、除霊の当日だな」 茶封筒から取り出したコピーをざっと眺めわたしながら武彦がつぶやくの へ、中山秘書はうなずいてみせた。 「社長の遺品を整理している時に出てきたものです。会社まで持ってきた ところを見ると、よほど気になっていたんですね」 昨夜遅く、柳瀬の遺品を整理するつもりで訪れた中山朋子が机の一番上の 引き出しに見つけたのは、南条隆行に関する詳細な資料であった。南条邸全 般にわたってレポートされた前の資料とちがい、これは隆行個人に関する報 告である。警察顔負けの調査のあとが、私立探偵をやっているという旧友の 柳瀬に対する並々ならぬ友情を物語っていた。 そして、いま武彦の眼前にすわる有能な個人秘書の表情にも、同種のもの が見出だされた。泣きはらしたようにその美しい目を赤く腫れさせている。 徹夜で、柳瀬の遺品を整理していたのかもしれない。一見、その美しい顔に はなんの感情も現れてはいなかったが、能面のような無表情や淡々とした口 調は、社長秘書の鉄面皮などでは決してなかった。 「ふうん。妾がいた、と。……母親の姓……なるほど」 資料を眺める武彦の双眸が光を帯びた。 「お役に立ちますでしょうか」 中山の真摯な問いかけに、武彦は静かにうなずいてみせた。 内々の話で武彦も詳しくは知らなかったのだが、中山朋子は柳瀬と結婚す ることになっていたらしい。中学生になった柳瀬の一人息子からも深い親愛 を勝ち取ることができ、後は祝福されて式をあげるだけだったはずだ。 「よろしくお願いいたします」表情を表に出さないまま、中山は深々と頭 をたれた。「あの人は、死ぬには早すぎました」 声に微かに苦渋がにじんでいた。 「そうだな」 武彦は、遠い目をしてつぶやくように言った。 「かたきは、とらせてもらうさ」 校舎裏の、猫の額ほどの雑草生い茂る空き地で、葉子が数人の女子生徒に 取り囲まれているのを、曽根純一は物陰からなすすべもなくただ見ていた。 陰湿ないじめの光景を前にして、曽根は救援にかけつけるだけの気力がま るで湧いてこないのに苦々しい思いを噛み締めていた。 「やめろ」と喉まで出かかった声も、踏み出しかけた足も、すべて怯懦に 裏切られていた。 葉子を囲む女子生徒のうち何人かは、中学時代からよく知っている顔だっ た。人前ではお嬢様然とした顔をしていながら、影では一端の不良を気取っ ている。噂では、背後にヤクザが控えているという。中学時代、同じような 場面に出くわしたことが何度かあった。囲まれていたのは、男子生徒だった。 曽根自身も、一度だけその被害者になりかけたことがある。手を出される には至らなかったが、かわりに恐怖を刻印された。もう関わりたくない、す んでのところで偶然通りかかった教師に助けられる形となったその時に曽根 が抱いたのは、そんな逃げ腰の思いだった。 それがいま、目の前で起こっていることを看過する理由にはならないこと は、よくわかっている。 なにより、葉子を助けてやりたかった。 だが、どうしても足がすくみあがって動こうとしないのだ。 葉子とはそれほど親しい仲ではない。いや、口をきいたことさえない。ま わりにひとけのない朝、一度だけおはよう、と声をかけたことがあるくらい のものだった。 その時の葉子の戸惑いの表情と、そしてそれに続いて浮かび上がった笑顔 とを、曽根は今でも忘れられない。 今ここでいつものように見ないふりをやりすごしてしまっては、もうあの 笑顔は二度と見られない。そう思うといてもたってもいられないのだが、依 然足は頑固に現状維持を主張していた。
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