空中分解2 #0753の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
私が私自身のことを小説に書こうと思いたったのは、M市の毎年秋に行わ れている「市民文化祭」で、著名な小説家や文化人を集めて、文化講演会が 市民文化センターであるというのを、たまたま「市政だより」で読んだのが 発端でした。もっとも毎年そんな催しがあることさえ、それまで知らなかっ たのですが。これまで小説というようなものをまじめに読んだこともない三 十過ぎの女が、小説を書こうと考えたこと自体が小説のネタになりそうなで きごとじゃないでしょうか。 その日は祭日で、私の勤める学習塾も休みだったもので、その講演を聞き に行く気になったのです。特にその気になった一番の理由は、講師のひとり に近ごろ、彼の奇抜なディスクールが果たして現代のアカデミズムにマッチ するものか、単にマスコミに悪乗りして、ポストモダニズム風なことをいっ ているだけのことか、ということが、派手に取り上げられて、その当の本人 さえ困惑しているのでないか、と思われる人物がいて、興味を引かれたから です。 私には自分でも変だと思う癖があって、自分に全然関係ないことにでも興 味をもつんです。たとえばNHKに「趣味の園芸」という番組があるでしょ う。これまで生き物というようなものは、人間の子供も含めて、なにひとつ 育てたことないのに、私はあの番組を毎週欠かさず見ています。何を見てい るかというと、スタジオのセットを見るのです。観用植物のときは、モデル ハウスでよく見る、張り出し窓のある部屋に吊り鉢や背の高い鉢をあちこち に配置し、菊のときは簀子縁に障子の組み合わせ。特に面白かったのは、シ ンビジウムとデンドロビゥムの手入れを特集したときで、セットは繁華街の 花屋でした。園芸の番組に花屋のセットなんて、面白くもなんともないと思 うでしょう。でも、それがテレビのブラウン管を通して見るととても自然な んです。だからこの番組のプロデューサーはずいぶん賢いひとだなあと感心 しました。視聴者の心理を計算しつくして、あれっと思わせて、それからな るほどとうならせるわけでしょう。それともテレビの世界では陳腐なことな んでしょうか。 ともかく、私はふとその講演会に行ってみたくなり、早めの夕食を駅前の 喫茶店で簡単にすませ、会場の市民文化センターへでかけました。 市民文化祭の共通テーマが「創造性の発見」というもので、なんでそんな 仰々しいテーマが選ばれたのか、ということをあいさつに立った市の企画管 理課の課長さんが説明しましたが、なんでも地方の時代だからもっと地方の 中核都市としてがんばろうというような話しでした。さらに彼は、今度M市 で「M文化」という雑誌を出すことにしたい、ついては市民の皆さんからも 広く原稿を募りたい、今日の高名な講師の先生方のお話しを参考にして、ぜ ひ応募していただきたい。 正直言って、私は講演会に来たことを後悔していました。辰ちゃんとのデ ートをことわって来たというのに、「創造性の発見」とはまったく・・・。 案の定、講演はひどいものでした。少なくとも「趣味の園芸」以上に私の 関心を引くものではなかったことは確かです。しかし考えてみれば、その講 演に触発されて、というよりも、内容に反発を感じて、私も自分自身の小説 を書いてみようという気持ちになったのですから、そういった意味では関心 を持たされたと言えなくもないのです。 「どんな人間も一生に一度はすばらしい小説を書くことができると言いま す。今度の『M文化』では、小説でもエッセーでも評論でも、一番すぐれた 一篇に『M文化賞』が贈られることになっているそうです。そして、その選 考委員に今日の講演者も選ばれているのだそうです。私は小説家ですから、 皆さんに小説を書いてくださいと言います。私たちを楽しませてください。 私たちプロが、あっと驚くような作品を読ませてください」 講演者の一人の流行作家が言った。 そんな心にもないことをよう言やはるわ、と私は聞きながら腹が立ってき ました。あんたはんら、ど素人にわいらの苦労して書くもののまねが出来て かないますかいな、まあ、辛抱して読んでやるよってに、せいぜいくずかご を埋めるぐらいの気持ちで原稿用紙に書きつらねてみなさい、わいらの苦労 が分かるというものだっせ、彼はあきらかにそう言っていた。 「それにM文化賞の副賞は百万円だそうで、それなら私だって応募したいく らいです。でも、投稿規程によると文筆業を生業としているものは資格がな いらしいので、それでも別のペンネームをつかって書くという手もあるなあ と考えています」 聴衆は彼のジヨークに応えてちょっと笑いました。 だが、百万円はたしかに魅力だなあと、私はそのときはまだ漠然と思って いました。百万円あればボストンへ行って、二.三週間は滞在できるだろう な、そしてジョーダンの両親や姉の住む家を訪れて、彼のことを聞けるかも しれない。たとえ彼の家族に会えなくても、彼の生まれ育った町を、彼が幼 いときに走り回った通りを確かめるだけでもいい。ああ、百万円か。私はま るで何百人もいる聴衆の一人ひとりにそれを引き当てる可能性があるように 感じました。 「皆さんに小説をうまく書くこつを教えてあげましょう。それはなんでもい いから、読み手を面白がらせることです。そのためならどんな方法を使って もいいのです。原稿用紙に字を書きつらねることだけが小説の方法ではあり ません。これだけ色々な情報の伝達手段があるのです。それらをふんだんに 使えばいいんです。絵だって写真だってビデオだって、あっ、ビデオはだめ ですかねぇ、これは主催者に後で聞いてみなくっちゃ」 でも、もし聴衆の一人が彼を心底面白がらせる小説を書いたら、彼はそれ こそごまめの歯軋り、新しい才能に強い嫉妬をおぼえることでしょう。そん な話しは、あなたが流行作家などという、動いているからどうにか安定して いられる一輪車のような立場から脱しはって、ノーベル賞や文化勲章の候補 にノミネートされるようになったらーーーそれはあなたが一線の作家ではな く遺物のような存在になるということを意味しますがーーーあなたを慕って 作家を志す人たちに言ってあげはったらいいのじゃないでしょうか。私は内 心そう彼に言いました。 こうして私は講演会が終わって駅まで帰る道を、たっぷり食べたにもかかわ らずメインディッシュらしいものは何もでなかった食事のあとのような気持 ちで、ひとり歩きながら、ふと私にだって小説ぐらい書けるわ、と思い付い て、もし百万円もらったらきっとボストンへ行こうと、そこのところだけ奇 妙な現実感を持って考えていました。辰ちゃんに話したら、おまえアホかっ て言われそうな思い付きでした。 私自身の小説を書こうと思っていましたが、いざ書こうとするとどこから 書き始めたらいいのか分かりません。ほら、何か書くということはそんなに 簡単なことじゃないでしょう、そう皮肉にほほ笑んでいるあの作家の顔が浮 かんできて、私はなんでもいい、どこからでもいいから書き始めてみようと 心を決めて、結局私が和也と一緒に京都から四国のAへ移り住んだころのこ とから書くことにしました。 和也と私が同棲し始めたのは、彼がK美大の三年生のときでした。私もK 美大を志望して受験したのですが、二年連続で落ちてしまって、自分の絵の 才能は認めているけど、受験にはもともと向いていなかったのだとあっさり あきらめて、観光で有名な京都のあるお寺の拝観入口の受付をやりながら、 自分ひとりで絵を画いていたころでした。 和也と知り合ったのは、彼が私の勤める寺へスケッチに友達数人とやって 来たときでした。彼らが本堂の前の回廊に座り込んで、スケッチブックにコ ンテを走らせているのを中休みの私が背後から覗いていたら、和也のほうか ら声をかけてきたんです。意気投合というほどじゃなかったけど、なんとな く同棲することになっていました。 和也は大学を卒業すると、仲間三人で南四国のAに行き、そこで自分たち の陶芸の窯を持とうという計画を立てました。私も迷うことなく和也につい て行くことにしました。自分でもそのときの気持ちはよく分からへんのです が、住みなれた京阪神から遠く離れたAという町がなんとなく世間離れした ところのように思われたのと、和也たちの計画が夢に満ちているように感じ られたからなのでしょう。それともう一つ、和也たちに窯を提供してくれる 人というのが、もともとそのあたりの昔からの焼き物の窯元で、彼は今知恵 遅れの子供たちの自立のために彼らに焼き物を教えているが、ついては窯を 提供するかわりに、和也たちもボランティアとして協力してほしい、そうい う条件があったのも私をひきつけた理由かもしれません。 その当時、Aへは国鉄から乗り継いで、古びた二両連結の私鉄の電車が走 っていました。めいめいがリュックを背負い、手には鞄や紙袋を下げてA駅 へ降り立ったとき、私はいまだに日本にこんな寒村が残っているのかと驚き ました。和也たちは二年前から夏休みごとにAに来ていたので、まるで故郷 へ帰ってきた都会の住人のようになつかしそうに周囲を眺めていました。A 駅から海岸沿いに続く道の両側は、トタン屋根の平屋の家ばかりで、その大 部分は漁師の家のようでした。大きな漁網や太い竹竿、それにブイに使って いるとおぼしい縄を巻き付けた大きな瓶が軒下や道端に無造作に置いてあり ます。裸足で遊ぶ子供たちと彼らを大声で叱る赤ん坊を背負った女、こんな 風景は二十年以上も前に、日本から消えてしまったのだと思っていました。 松林が切れて、道がゆるく曲がって浜から離れだすと家並みの様子が変わっ てきて、いろいろな店が立ち並ぶようになりました。駄菓子屋、金物屋、た ばこ屋、八百屋、そして中には雨戸を立てて民家なのか店なのかわからない 家もあります。このあたりがAの一番にぎやかなところなのです。私たちが 住む家はこの通りから一つ奥の通りに入った借家風の二階建の建物でした。 ここも和也たちに窯を提供してくれる武智さんの持ち家だということでし た。和也と私は同じ棟の一戸をもらい、そしてあとの仲間二人、僚と透が隣 の一戸を使うことになっていました。 こうして私たち四人のAでの生活が始まったのです。私たちの住む家から 仕事場までは、自転車で二十分ほどかかりました。四国山脈から流れ出して きたA川が、海に注ぎ込むまでに堆積した土砂でできた狭い平野に広がるA は、半農半漁の町でした。その町を見下ろす小高い丘陵地に中野原と呼ばれ る、昔から窯業のさかんな部落があるのです。もともと味噌瓶や水瓶など日 用的な焼物を作って、この県の当部一帯に供給してきたとのことで、中野原 焼といえばこのあたりでは名前が通っています。中野原まで行くには、広々 とした田畑の間をくねくねと折れ曲がって続く農道を走り、やがてA川に出 合うと土手沿いに行き、山が迫り出してきたところで橋を渡ります。そこか らはなだらかな上り坂になって、だいぶん息が切れ始めたころにやっと中野 原に着きます。中野原と書いてナカンパルと読ませるのは、この地域が昔は 南方の島々とつながりがあったためでしょうか。明治生まれの老人に尋ねて みたけど、そんなことは聞いたことがないという返事でした。 和也たちはすぐに自分たちの仕事を始めましたが、私のほうは何をしたら いいのか分からないままに、すぐに一ケ月余りがたってしまいました。 はじめのうち私はAに住み馴れたら自分も焼物をやってみようかと思って いました。ところが私たちのスポンサーである武智さんが、私に竹の子の里 のボランティアになってほしいと言いだしました。 「あなたみたいに底抜けに明るい女性に来てもらったら、子供たちは大喜び ですよ。ぜひ手伝いに来てください」 そうおだてられ、なんとなく面白そうなので引き受けたのですが、もしか して和也と武智さんのあいだではそういう取り決めができていたのではない か、という気もします。でも、最初に見学がてら竹の子の里に行ってみて、 私はそこでの知恵遅れの子供たちの生活に興味をおぼえました。 「みんな、今日からわしたちの仲間になってくれる見可子さんや、こんな きれいな人が来てくれるんやから、もっとみんなもがんばらないかんぞ」 武智さんは竹の子の里に来ている六人の子供たちーーといっても、最年長の カッチャンはもう二十五歳ですが、その童顔と甘えん坊の話しかたのため、 十八.九歳にしかみえないのですーーの前で私を紹介しました。 「見可子です。ここではみんな名前で呼ぶようだから、ミカチャンと呼んで ね」 私がそう挨拶すると、いがぐり頭で丸顔、太りぎみのタカオ君が恥ずかし げに顔をそらせたままで 「そりゃあかん、ミカチャンはここにおる子だもん」と言ったので、ほかの 子供と武智さんはどっと笑いました。彼は名前はタカオですが、みんなはタ ドンチャンと呼んでいました。 「どの子」 私が尋ねると、この子や、とタドンチャンは後ろのほうでにこにこ笑って いる背の低い女の子を指差しました。 「何いう名前なの」 「後藤美加です」 「ああそう、そんならあかんわねえ、あなたのほうが先にここにおるんやさ かいに」 「なんや、そのさかいにっていうのは。妙な言葉や」 タドンチャンがそう言ったので、またみんなが笑いました。 タドンチャンは竹の子の里のメンバーの中で、一番よくしゃべる子です。 タドンというニックネームは彼のいがぐり頭と色の黒さから来ているのかと 思ったら、武智さんによると中野原焼とともにこのあたりがかつてはタドン の産地で、その説明を子供たちにしていて、タドンは一度火がつくとなかな か消えないということを話したら、ほかの子供たちが、それなら一度怒りだ すとなかなか収まらないタカオ君みたいだと言いだし、それ以来タドンチャ ンが彼のニックネームになったのだそうです。
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