空中分解2 #0729の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
1 男とたった二人でデ−トするなんて、芙美子にとっては生まれて初めてのこと であった。物事にはこだわりのないさっぱりした性格で、その上物おじしない肝 っ玉のすわったところもあるくせに、なぜかそっちばかりは晩稲であった。 そわそわした気持ちの半面、漠然とした不安が時間と共にじわじわと自分を包 みこんでいくのを芙美子は感じ取っていた。 しかし、それも生まれ持った性分で跳ね返すのは造作のないこととのんびりし た気持ちもあったし、何しろ言い様の無いうれしさがより支配力を強めつつあっ た。 二日ばかり前であった。突然の電話がデ−トの申し込みであった。 女友達に顔だけ貸してと言われて二、三回出た飲み会で知り合ったグル−プの 一人が、会社をやめて田舎に帰ることになり、その送別会をやるから芙美子も出 てくれと頼まれたのが一週間前のことで、その送別会には、芙美子と同じ会社の 浜崎という中年の男も出席すると聞かされていた。 一年ほど前のことになるが、田舎に帰るという若者と知合いだという浜崎と、 偶然飲み会で一緒になった時、芙美子は声も出なかった。 というのも、特徴的な浜崎の顔立ちとその声は、芙美子に入社の時に誰よりも 早く顔と名前を覚えさ、そんなことで芙美子は、なんとなく親近感を持って浜崎 を見ていたからであった。 飲み会の帰りの度に、同じ会社の人間でもあり、帰る方角が同じということも あって、電車の中などで雑談を交わすことが何回かあり、職場でも近い存在に感 じられるようになっていた。 もっとも、浜崎がたまたま芙美子の職場に入ってくることがあっても、目が合 えば「よおっ」という具合いに片手を上げるだけで、わざわざ芙美子の席まで来 るようなことはなかったし、芙美子の方から席を立つこともなかった。 ところが、つい二ケ月前のことであった。コピ−機のところで一緒になり、雑 談をしているうちに、こんど九州に出張に行くから何かおみやげを買ってきて上 げるよ、などと浜崎が言い出した。ふざけて芙美子も、私は出身が九州だからあ れを食べたいな、などと言った。 驚いたことに、浜崎は芙美子の言った通りのものをおみやげだと言って届けて くれた。 そんなこともあって、久しぶりに浜崎に会えるのを、芙美子は楽しみにしてい たのであった。それが急に中止になってしまった。 少しばかり落ち込んでいたところに、浜崎から、せっかく予定を空けておいた のだし、もし君さえ良かったら何か美味しいものでも食べに行かないか、と突然 言ってきたのである。 2 デ−トの約束の当日、昼をすぎ、まもなく退社の時間だというのに浜崎からな んの連絡もなかった。 「あいつ」 芙美子は、下司な言葉と同時にメモ用紙に「浜崎」と書いて、それに思きりバ ッテンをつけた。いらだつのには、少しばかり理由があった。 九月も末というのに、毎日あたたかい日が続き、芙美子はデ−トに着ていく洋 服を選ぶのに心底困り果てた。 新調するのにも時間がなかったし、その時間のないことがある意味では救いの ようでもあり、それでいてそうではない、といったなんとも自分の気持ちを見つ けかねる半端なものがあった。 結局、二年ほど前に作ったきりその後一度も腕を通したことがなかったキュロ ットのツ−ピ−スに決めた。箪笥の片隅にぶら下がっていた防虫剤臭いそれは、 芙美子の弾んだ気持ちとは少しも似つかわしくない色調のものであった。後で考 えても芙美子には、なぜそんなものを選んだのか少しも思い出せなかった。 そのツ−ピ−スのことである。実はそれを買った時、芙美子は他に気に入った 洋服があったのだが、店の娘が「お歳の割にお若く見えます」などと余計なこと を言って芙美子を怒らせてしまい、どうでもいいツ−ピ−スを買う羽目になって しまったのである。どちらかというとのんびりした性格の芙美子がそんなむしゃ くしゃした気持ちになったのには何か訳があった筈であるが、今ではそれを思い 出すことができなかった。つまらない買物をしてしまった、という自己嫌悪だけ が残った。その時のことを思いだしたことに、芙美子はタメ息をつかなければな らなかった。 そんなことも知らないで、なんといういい加減な男だろう。芙美子は腹だたし さの原因を浜崎のせいにした。 「よおし」 断わってやれ。そう思って芙美子が電話に手をかけた時だった。 芙美子に向かって手を振らんばかりにして、浜崎が職場に入ってきた。あまり のタイミングに芙美子は、ぼうぜんとするばかりであった。 「きょう、行ける?」 芙美子のすぐ隣に若い男たちがいるのも構わずに、浜崎は大声であった。芙美 子があわてて席を立とうとする前に、 「溝の口の改札六時でいいか」 向い側の席にいる女性に右手を上げて合図を送りながら、浜崎はこともなげに 言った。 何人かに声をかけ浜崎がいなくなった後、へえっ、という驚きの視線が八方か らつき刺さるのを、芙美子は一身に受けた。 3 芙美子は、十分ばかり前に約束のところに着いた。改札を出ながらそれとなく 眼を配ってみたが、浜崎はまだのようであった。 その駅は、私鉄とつながっているため同じ会社の連中も結構乗り降りするとこ ろであった。そんなせいでもなかったが、芙美子はなんとなく物陰に身を寄せる ようにして立った。 自分の腹の中がそのまま表情に表れているに違いないと想うと、顔を上げられ なかった。顔見知りの者が今にも声をかけてきやしないかと、そんなつまらない 心配にドキドキする自分が不思議ですらあった。 五分もしないうちに、次の電車が着いた。改札口から溢れ出してくる人波の中 に浜崎の姿はなかった。 次の電車だろう。間違いない、そう思った時だった。芙美子は、「あっ」と口 の中で叫んだ。一瞬のうちに、不安が芙美子の全身を駆け抜けた。下腹部にあの 独特の痛みがやってきたのである。 「うっ」 止めていた息を吐き出したとたん、二つ目の小波が押し寄せた。冷たいものが 脇の下を流れ落ちた。 また電車がホ−ムに入ってきたが、芙美子はそれどころではなかった。下腹部 の変調はテンポを早めこそすれ、回復の兆しは皆無であった。 どちらかというと、芙美子は便秘気味であったが、たった一度だけ、学生の頃 にちょっとしたことで下痢に襲われたことがあった。その時は、四日間も言い様 の無い苦しい闘いを経験させられた。 一日に何回もトイレに通わされ、その度に小水のような便が便器を汚し、しま いには、キリキリと下腹部が痛むだけで何も出なくなってしまったのであった。 学生の頃に経験したそれとまったく同じ前兆の到来に、芙美子は全身を棒のよ うに硬くした。 どうしよう。芙美子はしゅん巡した。その時だった、浜崎が明るい顔を改札口 に見せたのは。なんという間の悪さであろうか。三つ目の小波が下腹部を揉みこ むように刺してきた。 「うっっ」 額に脂汗が浮きだすのが分かった。芙美子は、思わず左手で下腹を抑えつけた。 「へえ、」 浜崎は、何に感心したのか距離をおいて立ち止まると、芙美子の全身をねめ回 すように眼を上下させた。さすがの浜崎にも、芙美子の着ているものがいつもと は違った「よそゆき」に写ったのである。 「おやおや」 例の飲み会でも、芙美子はいつもざっくりとした着流しの感じのものばかりで 顔を出していただけに、キュロットのミニはさすがに浜崎を驚かした。 しかし、芙美子はそれどころではなかった。額にぷつぷつと米粒ほどの汗が吹 き出していた。 浜崎もさすがに芙美子の顔色の悪さに気がついたようであったが、それも洋服 に合わせた化粧のせいだろうと、合点したのか、 「待ったろ?」 軽く詫びると、先にたって歩き始めた。 ま、まってよ。芙美子は叫びたい思いであった。その日に限り、人の流れはス ム−ズで、信号も待ってましたとばかりに次々に青になっていく。浜崎は、後ろ も見ずにどんどん先を急いでいる。どこかお目当てがあるらしかった。 持つかな、芙美子は恐る恐るといった調子で浜崎の後を追った。 「ここでいいかい」 やっと浜崎がふり向いた。 店先のネオンサインの点滅に照らされた芙美子の顔は、きっと醜くゆがんでい たに違いなかった。浜崎は、芙美子の返事も待たずに店に入っていった。そこは 、芙美子も知っている店であった。入口に大きな赤い張灯がぶら下がっていた。 とにかく早くトイレに行きたかった。芙美子は、文字どおり飛び込むように入 口をくぐった。とんでもない形相になっているに違いなかった。なぜなら、その 時、それまででもっとも大きな波が押し寄せてきていたからであった。 浜崎に声をかける余裕すらなかった。芙美子は、トイレめがけて走った。 4 女性用トイレかどうか確かめた記憶はない。スカ−トをおろしたことさえ覚え ていない。水洗の音にまぎれて、あの独特の騒音を散らしながらそれは白い便器 を汚した。 「ふぅっ」 冷たい汗が脇から横腹につつ−っ、と伝い、脂汗が頬を流れた。首すじの痛み を知ったのは、一息ついた後のことだった。 しばらくして、不安と足のしびれを残しながら、芙美子はトイレを出る決心を した。 そうだ、浜崎はどうしたろうか。急にいなくなったので、怒っているに違いな い。それとも、ちゃっかり好きなものでも注文しているだろうか。 店の中に、浜崎の姿はなかった。いったい私はトイレにどのぐらいしゃがんで いたのだろう。そんな計算をする余裕が芙美子に戻っていた。 店の者に、浜崎の人相を説明して所在を確かめてみたが、相手は笑いを噛みし めるだけで少しも要領を得なかった。 結局、芙美子は一人でその店を出なければならなかった。それにしても、浜崎 はどこに行ってしまったのだろうか。自分を捜してそこいらを歩き回っているの だろうか。 「あ−あっ」 芙美子は、思わず舌を打った。連れの女性を見失うなんて、なんというドジな 男だろう。 「んにゃろ」 それからアパ−トに帰るまで、芙美子は二度ばかり駅のトイレにかけこんだ。 デ−トをしくじった若い女が、下痢に悩まされて臭いうす汚れた駅のトイレに二 度もしゃがみこみ、その度に小水のような便で便器を汚さなければならない惨め さ。 「くそっ」 芙美子は、自分を笑った。 やっとの思いで部屋にたどりついた芙美子は、夕食を食べ損ねたことも忘れて いた。自分の部屋で使い慣れたトイレを使うことが出来る、そう思うと不思議な ことに下腹部の痛みはどこかに行ってしまったかのようであった。 脂と汗でからだ中がべとついていたが、シャワ−を浴びるのも億劫になり、芙 美子はトイレ臭い洋服を脱ぎ捨てると、ブランデ−をストレ−トであおり、ベッ トにもぐりこんだ。 「ああ」 なんという間抜けな話だろう。あす、なんと言って浜崎に頭を下げたらいいも のだろうか。許してくれるだろうか。口では「気にしていないよ」などと言って くれるかも知れないが、もう二度とデ−トの話はないのに違いない。 「ああ」 ため息をついては、芙美子はまた同じことを考え、そしてまた大きなため息を つくばかりであった。 夜中、芙美子は二度ばかりトイレに起きた。それからは奇妙な夢をみせられ、 ウトウトしているうちに夜が明けてしまった。 朝、鏡の中の芙美子は、思った通り無惨のひとことに尽きた。ため息をつきな がらもシャワ−を浴びたあと、いつものように身支度を整え、いざ出かけようと いう時、また腹痛が襲ってきた。さすがに芙美子もげっそりした。そんなことに お構い無く小波がいくつも折り重なるようにして迫ってきた。 会社に着くまで、何回トイレに行かなければならないだろう。 「てやんでぇ」 こうなったら、居直るしかない。芙美子は、遅刻覚悟で部屋を出た。這ってで も行って、浜崎に頭を下げなければならなかった。 ところが驚いたことに、浜崎はその日から外国出張に出た、というのである。 二カ月も日本を離れるという前夜、わざわざ芙美子と食事をしようとしたのには 何か特別の意味があったのに違いない。それなのに、あんなことになるなんて。 芙美子は、胃の辺りが思いっきり縮んでいくような重苦しさを覚えた。 下痢は四日目には大方治まったが、食事がのどを通らない日がそれから四、五 日続いた。 十日後、体重計はちょうど十キロ減っていることを芙美子に教えた。 「林さんのことなんですけど、どこか具合いが悪いみたいですよ」 同僚の女子社員が心配して、上司に相談した。 「ああ、病気だな、あれは。でも医者にかかっても治らんよ」 おわり
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