空中分解2 #0694の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
蜘蛛の地下鉄 青木無常 ぼくはいつもより遅い時間の地下鉄に乗った。いつもならこの時間は混ん でいるのだが、その日は土曜日のせいか車内は意外に空いていて、つり革に手をのば している人の姿も心持ちまばらだった。 ぼくは扉の脇に鞄を置いて、読みかけの文庫本をひらいた。 車内アナウンスが単調に駅名を告げる。通勤途上のサラリーマンたちが、せまい車 内で新聞や実用書をひろげている。だれもが、いつもどおりの仏頂面や眠たげな顔を していた。いつもとおなじ駅にとまり、いつも乗る顔ぶれが乗ってきた。 新聞やテレビのニュースとは無関係に、なにもかもが順調に、退屈にくりかえされ ていた。あるいは、ここにいる人びとのうちの何人かは、ささやかな変事を抱えてこ の通勤電車に乗りこんでいるのかもしれない。上司との対立の予感や決断を迫られつ つある重大な経営危機、ひそかに胸に秘めた禁煙の決意、昨日わたしたラブレターの 顛末、提出期限の迫ったレポートについて。だが、それは些細な、個人的なできごと だ。 そう、きわめて些細なできごとだった。 乗り換え駅が近づいてきたので、ぼくは小説を閉じて学生服のポケットにおしこみ 、鞄を手にとった。そのとき、鞄がやけに重いような気がしたのをおぼろげに覚えて いる。 扉が開き、ぼくは降りる――べつになんでもないことだ。が、変事はこのとき起き た。 ほんの些細な、取るに足りないできごとだ。が、考えてみるとどうにも奇妙に思え てならない。 一本の蜘蛛の糸が、ぼくの鼻の頭にひっかかったのだ。 プラットホームに足をおろしながら、ぼくは反射的に鼻の上にくっついた蜘蛛の糸 に手をやっていた。得体のしれない感触。たしかに、まとわりつく不快きわまりない ものがあるのに、実体などまるでないかのように手応えがない。まるで顔面の皮膚の 上に解けて同化してしまったようだ。ぼくはしばらくのあいだ、鼻の上をつまんだり こすったりしながらもどかしさに悩まされていたが、階段を登っているうちにいつの まにか気にならなくなっていた。べつに異様な体験でもない。蜘蛛の糸にひっかかる ことも、取れたのか消滅してしまったのかよくわからないうちに気にならなくなって いたことも。 学校についてからも、とくに変わったことはなかった。日常の平和で平凡なくりか えしに熱中していたせいか、朝のささやかな一件はぼくの頭の中からきれいに拭い去 られていた。 帰途、地下鉄を降りる段になって、やっと朝の不可解なできごとを思い出した。 地下鉄というのは、何人もの人間が同じドアを乗り降りしているものだ。たとえ蜘 蛛が明け方に扉のところに巣を張ったとしても、そんなものがいつまでも残っている はずがない。事実、ぼくの目の前で何人かの人間がその扉をくぐって乗り降りするの をぼくはたしかに目にしている。ぼくの身長だって、人並み程度だ。どう考えても、 妙だった。 あれはなんだったのだろう。ぼくの顔の上にふわりとひっかかって、いつのまにか 消えていたあれは、蜘蛛の糸ではなかったのだろうか。 でも、そんなささやかな疑問も、やはり家へ帰る途中ですっかり雲散霧消してしま い、そのまま何週間かは忘却の彼方にしまいこまれたままだった。 だが、潜在意識の水底から浮かんできた気泡が不意にぱちんと弾けでもしたかのよ うに、ある夜、ぼくは奇妙な夢を見た。 いつものようにぼくは地下鉄に乗っている。 車内は、しとしとと降りそそぐ霧雨に濡れそぼっていた。夢中によくある不整合。 傘もなくぼくはずぶ濡れになっていた。そしてどうしてか、ぼくの頬には雨でないも のが流れていた。泣いているのをひとに気取られないから、雨が降っているのはとて もありがたいことのような気がしていた。 電車がとまり、ぼくは扉の前に立つ。降りようとすると、目の前に雨の雫をいくつ もつけた蜘蛛の巣が張ってあった。どうしようかと迷っていると、だれかがぼくの背 中をぐいと押した。 よろめきながら倒れこみ、ぼくは蜘蛛の糸にからめとられてしまった。 上の方から、糸に震えが伝わってくる。見上げると、大きな赤い色の蜘蛛がぼくの ほうにむかって降りてくるのが目にはいった。 虹色の光を放つ巨大な体躯。 蜘蛛は八本のながい脚を交互に動かしながら、ゆっくりと近づいてきた。 頭部にならんだいくつもの複眼が、プラットホームの灯火に照り映えて、キラキラ と虹色の輝きを放っていた。 発射を告げるブザーの音が耳に届く。どこか遠い、別世界から響いてくる音のよう な気がした。 実際、その音は別世界からの音だった。夢という世界とは別の、現実という世界か らの耳障りな目覚まし時計の音。 夢の記憶はしばらくのあいだ頭につきまとって離れなかった。どこか妙に生々しく 、それでいて妙にぼんやりとしたつかみどころのない記憶。まるで、あの蜘蛛の糸の ように。赤い巨大な蜘蛛の姿と、扉から降りる瞬間にひっかかってきた糸の不快な感 触だけが、いつまで経っても鮮明だった。ぼくは気持ちのすっきりしないまま、地下 鉄の乗り降りをくりかえした。 そして、暗闇の底でじっと息を殺して待ち受けていた異変は、まったく唐突に、そ して思いもよらなかった形で、貌を現したのである。 いつもどおりの運航をつづけていた通勤電車のなかに、耳障りな急ブレーキの金属 音が響きわたり、地下鉄は激しい震動とともに大きく傾く。それから、ごつんという 鈍い衝撃とともに、横倒しに脱線したのだ。
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