空中分解2 #0604の修正
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6 【 遠野は北に早池峰山をのぞみ、南東西ともに北上山地に囲まれた盆地で、山 々から流れる水を集めて猿ケ石川が流れ、その流域に耕地が開けました。 平坦の地は標高200メ−トルから500メ−トルの地帯で、その面積はき わめてわずかな、山間の地域に限られています。 気候は大陸性で夏は短く、初霜が早く終霜が遅くて、積雪量は少ないが寒さ の大変厳しい土地で、冷害に見舞われることもしばしばでした。】(注1) * 天保五年(1834)、吉はこの春で16になる。いや、本当は15なのかも知れ なかった。親が「おまえは丑年だ」といえば丑年生まれであり、「寅年生まれだ 」といえば寅年なのである。この土地に限らず東北ではどこでも似たようなもの であった。子供が生まれてから半年以上も出生届をほったらかしにしておくこと など珍しくなかった。ひどいのになると、届を出さない内に病気で死んでしまっ た、ということさえあった。百姓たちにとって、年齢を記憶することなど大した 意味を持たなかったのである。 吉は何年も前から、少年ながらも母親を助け生計の中心であった。なぜなら、 父親は五年ほど前に家を出たきり行方不明になっており、祖父のほかに男手は吉 一人だけであったから当然でもあった。 そして、八幡郷の地主である佐々木の家に小作に出ることに吉の生活の大半が 費やされた。何しろ吉が日雇取りで稼ぐ全てが一家を支えていたのである。 そればかりか、吉は佐々木の家から預かっている三頭の南部駒の世話にあたっ ていた。そして年寄りと母親がわずかばかりの田畑を耕していたから、そちらが 忙しくなればその手伝いもしなければならなかった。 そのうえに牛一頭、ブタ6匹、鶏十数羽を飼っていたから、吉の忙しさは相当 なものである。 そんなにしてまで吉のところで佐々木の家の南部駒を飼うことになったのには 訳がある。行方知れずの父親が若い頃から野良仕事そっちのけで博労(ばくろう ・牛、馬の仲介をする商人)の真似ごとをして小遣い稼ぎをしていた関係で、方 々の馬を預かっていたからであった。父親の家出も博労の仕事が原因であった。 その父親がいなくなってからも、佐々木の家では相変わらず吉のところに南部 駒を預けていた。吉のところが苦しいのを助けてやろうという佐々木の家の温情 だと母親は有難がったが、吉は別な解釈をしていた。 7 ところで、遠野村で馬産が盛んになったのはそんなに新しいことではない。寛 永4年(1627)、八戸より遠野に移封になった南部直栄が、遠野の広大な牧草地 や高原性の気候など、馬を育てるのに適した条件を備えていることに注目、馬産 を殖産振興の一つとして盛んにしたことが始まりであった。そんな話を大慈寺の お尚から聞いたのを吉は覚えていた。 大きな家ではどこでも南部駒と呼ばれる馬を飼っており、吉の爺っこがこども のころ、家の造りも馬産が盛んになるとともに、南部曲がり家といわれる寄せ棟 造りの萱葺き平屋建てのものに変わっていった。もっとも吉の家のような小作の 水呑み百姓は、地主から預かった馬のための厩を増築するのがせい一杯で、母屋 は相変わらず廃屋同然であった。それほどに遠野の人々にとって馬は大切なもの であった。農耕はもちろん、木材などの運搬手段あるいは釜石と盛岡を結ぶ交通 輸送としてさらには現金収入源として貴重な存在だったのである。 大人顔負けの働きをしながらそのうえもう一つ、吉にはしなければならないこ とがあった。大慈寺の和尚が近隣の百姓のこどもたちを集めて開いていた寺小屋 に通うことであった。父親がいなくなってからしばらくして、市次が何かと工面 して寺小屋に席を置くようになったのである。 吉は最年長であったから、ここでも小さい者たちの面倒をみなければならなか った。それでも、女の子や幼子たちはお光が世話をしてくれるのでだいぶ助かっ ていた。 仕事が忙しくなれば何日も休むことがあったが、それでも吉はやめようとはし なかったし、わずかの時間でも暇を見つけては顔を出した。 吉は、とりわけ文字を学ぶことに興味を持った。習字は苦手であったが、読む のは好きであった。一つ一つ文字をつないでいくと、ぼんやりではあったが吉の 知らない世界がそこに現れてくるのであった。 それもこれも和尚のおかげといってよい。と言うのは、和尚は藩士の横川とい う若者と一緒に、婦人や子どもにもおとぎ話や合戦物が読めるようにと、カナに 書き改める作業を進めており、吉の様子を知っている和尚が書換えが出来上がる と誰よりも先に、吉に見せてくれるようになっていたからであった。 そしてもう一つ、それほどまでして寺小屋に通うのには吉本人もそれとは気が つかない訳があった。佐々木の家の末娘のお雪も大慈寺の寺小屋に通ってきてい た、ということである。 吉は、お雪の顔を見ただけで自分が顔を赤らめるのがわかった。道でお雪を見 かけようものなら、わき道へ入りこんだり後戻りするなどして顔を合わせない工 夫ばかりするのであった。 8 正月を迎え、雷にうたれた妹の傷も快癒した頃、吉は八幡郷の地主である佐々 木の家に年始の挨拶に出かけた。本来、戸主が出向かなければならないのだが、 吉のところは父親が行方知れずであったし、もう何年も挨拶に顔を出していなか ったことから、回りの者の勧めで吉が代役を務めることになったのである。 その日、吉は太市や長次たちと連れだって出かけた。母親が、初めて年始に行 くのだからといって、父親の残していった着物を繕って着せてくれた。着物の丈 は吉には短いほどであった。いつのまにか父親を駕していたのである。 そんな母親の心遣いにも関わらず、吉は心が弾まなかった。むしろ、自分はこ の世で一番みじめな人間ではないだろうか、そんな気持ちが心をいっぱいに塞い でいた。なぜなのかは、自分でもわからなかったが、お雪と顔を合わせるだろう ことと思いあわせると一層厄介なことであった。 吉は知っていた。 こどもたちの父親の行方を尋ねる疑問に対し母親は、父は盛岡のセリ駒市に行 く途中盗っ人に襲われ行方知れずになったのだ、と繰り返した。しかし、半年も するとウワサは吉の耳をも叩いた。吉の父親は博労の仕事でちょくちょく盛岡に 行くうちに、城下の遊廓で知り合った女と懇ろになり、ついにその女を連れて逃 げたというのである。 それを聞いたとき、吉は家族を捨て家を捨てた父親の行動が理解出来なかった。 それでも二年、三年するうちにぼんやりと父親の失綜の意味がつかめてきた。そ して、それと同時に憎悪の感情も育っていった。憎む、という感情を知ったとき、 吉はあまりの恐ろしさに震えたのを覚えている。 父親に対する訳もない憤りが飽和状態に達した時、吉は「あの人はいなかった のだ」と言い聞かせることでかろうじて自分をとどめることが出来た。 それなのに、なぜいま父親の代理ででかけようとする時になって、心が乱れる のか。吉はいらだつ気持ちを抑えることが出来ない不安に襲われていた。 それでも太市たちが誘いにくると、吉は大人しく付いていった。 吉たちは表で挨拶をすませると台所に招かれ、そこで大人たちは酒と御馳走を 振舞われた。吉にも脚のついたお膳が用意された。吉は初めて見る脚のついたお 膳に言われぬ感情の高ぶりを感じた。二時間ほど賑やかに会食が続けられたが、 吉にとって、それは長いようでもあり短いようでもあった。長次はすっかり酔っ たのか吉にも酒をすすめ、断わられると大きな声で絡むのだった。吉は助けを求 めるように回りを見渡したが、大人たちは長次を煽るばかりであった。 ぐでんぐでんに酔っぱらった長次を太市と吉が担ぐようにして連れだしたのは それからしばらくしてからであった。大人たちはおみやげを手に振舞いは陽気そ うに見えたがどの足取りも同じように重そうなのを、吉は見逃さなかった。そし て、長次が泣いていたのも知っていた。 結局、お雪は台所には一度も顔を出さなかった。長次を送りとどけ、太市らと も分かれて一人になった吉は、自分の気持ちを持て余すばかりであった。 遠野が突然の寒波に襲われ、多くの犠牲者を出したのはそれから二日ばかり後 のことだった。 9 大慈寺の一隅にある番太小屋で開かれた寄り合いに、吉も出た。市次がむりや り連れだしたのである。 主な顔ぶれは、白岩の秀助、東館の五兵衛、同じく佐助、土淵の弥吉、そして 青笹の庄一、それに長次と太市らであった。いずれも20代の若者であった。た だ一人、東館の五兵衛だけは30を越していた。 その東舘の五兵衛が寄り合いをリ−ドした。彼は古老たちとのパイプ役も努め ていた。同じ世話役格の喜善は、上郷の地主の息子のくせに新しいことがなんで も好きな若者とみえて、寄り合いと聞くとどんな席にも顔を出していた。その日 も彼は大慈寺に顔を出した。少しは金回りの良い彼の参加は、何かと歓迎すべき 存在であった。 吉はこの喜善が好きであった。いや、その行動力に憧れていたと言った方が良 い。 ひとしきり雑談が済んだあと、土淵と青笹では大雪で家が何軒かつぶされけが 人が出たこと、その際馬や牛が何頭か死んだこと、また白岩や上郷ではあまりの 寒さに年寄りが何人か倒れたことなどが、それぞれ報告された。 正月とはいえ、たしかに異常な寒波と大雪であった。古老たちでさえ、こんな 大雪は初めてみた、と眼を剥くほどであった。枕元に置いた湯呑の水が、朝起き てみるとすっかり氷になっているのに、寒さには慣れっこの吉もびっくりした。 布団の衿も吐息が凍ってパリパリになった。炉端の火を絶やさずにいてそんな有 様であった。 そして、残念なことに吉のところでも鶏が何羽か犠牲になった。 「ほかのところや城下の方はどうなんだべ」 東舘の佐助が誰に聞くというでもなく口に出した。 「む。村役の話っこでは、松崎や附馬牛の方が被害が大きいらしいっけ。馬っこ など寒さでだいぶお陀仏になったそうだ。何しろふいだったはんで、どこも同じ だが、北の方は少し雪っこが多くて。家もつぶされたとこがあったもな」 「せば、人も死んだべが」 「朝起きたれば、はあ、布団の中で死んでたっけさ」 「なんとむごいこと」 「昼間寄っていった行商の話っこでは、はあ、藩の方では赤子一人やられた者は いねはんで、用意のいいごどだ」 普段は物静かな青笹の庄一が語気を荒げて話す様子に、吉は驚かされた。 「町方では、花巻や釜石にでかけたっきり戻ってこないのがいるって話だっけ」 白岩の秀助が身を乗り出すようにして言った。 大人たちの話を聞いているうちに、吉はこんどの突然の寒波で大変な被害が出 ていることが分かってきた。そしてもうひとつ驚かされたのは、武士やその家族 たちには何一つ被害が出ていないことだった。なぜだろう。吉は大人たちの話に 耳を傾けながらもそのことばかりが気になった。 「しかしまあ、これでいつもの冬に戻ってもらえれば、それに越したことはねえ」 喜善が言った。小屋の雰囲気を明るくさせようという、彼らしい考えだった。 「いや」 それまで一言もしゃべらなかった太市が口を開いた。みんなの顔が太市の方を 向いた。 「どう考えても普通でねえ。安心っこするのは早いべ。それに藩の奴らに一つも 被害がねえってのも解せねえ」 「うむ。俺も太市の考えに賛成だ」 東舘の五兵衛が相づちを打った。 「どういう話っこだ。はあ、見えるようにしゃべれ」 喜善が五兵衛に噛みついた。 「まあ、待ってけろ。それより一つ、困っている人たちが沢山いるはんで、はあ 、まず助けられる工夫っこせねば」 市次が割って入った。喜善は振り上げたこぶしのもって行きようがない、とば かりに照れ笑いをしたが、誰も見ている者はいなかった。 その日の寄り合いの事は、すぐに代官所の知るところとなった。代官は、 「藩に批判的な若い連中が寄り合い、強訴を企てようと計った疑いがある。首謀 者らの動向に十分注意を要する」 と、藩に提出した報告書に記した。これを受けて、藩が即座に密偵を放ったのは 言うまでもない。 10 それから何日か過ぎ、各地の被害の様子が伝えられると、盛岡や花巻では遠野 など比べようもないほどの大被害が出ていることが分かった。盛岡近郊の湯治場 で有名な繋は、ほぼ壊滅していた。犬一匹生き残っていないという。 そのほか、南部藩の各地では交通が寸断され、消息のつかめない村落が数え切 遠野藩は、藩内の窮状に対しては具体的な救済措置を一つとしてとらなかった のに、盛岡には莫大な金銀と人手を出した。 当時、遠野藩1万石の名君といわれた南部弥六は家老の新田小十と共に前年の お家騒動に破れ、鍋倉城を追われて福泉寺に幽閉されており、藩政は弥六の叔父 南部土佐が執っていた。土佐の政治は百姓や町人にとって過酷なものであった。 それは南部弥六らを追い出した自分に向けられている領民の眼に不信の念が宿 っているのを、土佐自身良く知っていたことの裏返しでもあった。そうであれば なお、土佐にとっては、城下や領内の窮状よりも盛岡の方に関心を向けなければ ならなかったのである。 「お家騒動がまだ尾を引いている証拠だな」 市次はそんなことを吉の耳元でささやいたものだ。 無惨な爪痕を残して寒波が去ると、遠野にはいつもの冬が戻ってきた。吉は、 やっぱり喜善の言うとおりだったと何か誇らしくさえ感じた。 二月に入ると、誰も正月のことなど思い出す者はいなかった。吉も南部駒の世 話のかたわら、和尚から借りた戦記物を読むのに忙しい毎日を送っていた。 ところが、梅の花が咲き出した頃東北地方に、再び異常気象が襲いかかってき た。盛岡や花巻では、毎日のように地鳴りが続き人びとを不安に陥れた。 そして二月末、急に気温が上昇しにわかに雪解けがはじまった。 つづく
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