空中分解2 #0504の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
8 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 六月二十四日(土) 雨 今日は何事もなく過ぎた平凡な一日だった。そう書ければどんなにいいだろう。 しかし、この日記に嘘は書けない。かと言って、事実を書く勇気はない。だから これ以上、何も書かないでおこう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 朝から、しとしとと霧のような雨が絶え間なく降り続いていた。梅雨冷えで、 肌寒さを感じるほどだ。 土曜で会社が休みだった牧田は、午前中をパジャマのままでぼんやりと過ごし た。牧田にとって久しぶりにのんびりとした休日だった。 尚子への支払いも済ませ、手術に何の障害もなくなった。確かに、それまでの 蓄えをすべて吐き出すことになってしまったが、金はこれからまた貯めればいい ことだ。 金を受け取った尚子は、前にも増して友紀の病室を訪ねてくれるようになり、 それにつれて友紀の表情にも明るさが戻った。その笑顔を見て、牧田は自分の決 断が正しかったことを実感した。 牧田は午後から病院へ行った。いつもなら夜までいてやるのだが、今日は早め に帰宅することにした。二時頃、友紀のクラスメート数人がやってきて、父親は 邪魔なようだったからだ。 手術さえ成功すれば、また彼女たちと楽しい学校生活が送れるさ。病室を去る とき、娘の友達一人一人の健康そうな顔を見渡して、牧田は思った。 帰宅途中、おもちゃ屋に寄った。友紀へのバースディ・プレゼントを買うため だ。牧田は、いま流行のスノーマンの大きなぬいぐるみを選んだ。あす病院へ持 って行くことにする。 午後五時を過ぎたころ、牧田の家に男が訪ねてきた。初対面のその男は、井上 昭夫と名乗った。松井尚子について話があると言う。 井上は、牧田の出したお茶を一口すすってから、 「あんた、ずいぶんと尚子に入れ揚げてるようだね」 と、にやりと笑った。 井上の真意がわからず、牧田は無言で次の言葉を待った。 「これ、あんただろう」 そう言いながら、井上は懐から預金通帳を取り出し、テーブルの上に投げた。 松井尚子名義のものだった。牧田が「ヤマダイチロウ」の名で振り込んだ一千万 円を含めた残高が、昨日の日付で引き出されていた。 「これをなぜ君が持っているんだ。盗んだのか」 「人聞きの悪いこと言わないで欲しいな。それは尚子がくれたんだよ」 井上の言葉が事実ではないということは、尚子の性格を知り抜いた牧田にはわ かっていた。一度手に入れた金を、そんなに簡単に手放すような女ではない。し かし、そんなことはどうでもいいことだった。それより、井上が訪ねてきた真意 が知りたかった。 「私に用というのは?」 「尚子から手を引いてもらいたいんだ。俺は尚子を手放したくないんでね」 「しかし、金を受け取ったんだろう? それは手切れ金じゃないのかい」 「俺は手切れ金だなんて思っちゃいない。あれは尚子があんたと浮気したことで、 俺が受けた精神的苦痛に対する慰謝料さ」 「浮気だって? よしてくれ。私と彼女はそんな関係ではない」 「いまさら、でたらめ言うんじゃねえよ」 「本当だ。私の娘、これは彼女の産んだ子なんだが、その娘に腎臓移植をしてく れることになっていて、その打ち合せのために何度か会っただけだ。確かに私た ちは元は夫婦だったが、今はそんな感情も関係も一切ない」 井上は牧田の言葉を聞くと、しばらく考え込んでいた。やがて何か結論を得た ように、小さく何度もうなずきながら、含み笑いをした。 「そうか、そういうことか。いや、あいつもたいした悪女だぜ。つまりあれだろ、 あの一千万は腎臓の代金ってわけだ」 「そう、彼女の非情さには私も驚いたよ。実際、金を要求された時には、自分の 耳を疑ったからね。だが、娘が幸せになれるのなら、金など惜しくはない」 牧田がそう言うと、井上の含み笑いが嘲笑に変わった。 「残念だが、娘さんは幸せになんかなれないよ」 「どういうことだ?」 牧田はむっとして、井上の方へ身体を乗り出した。 「尚子が手術室へ入るわけないからさ。賭けてもいい。あいつは手術日前にトン ズラするね」 井上はソファにそっくり返って、何か重大な秘密を暴露する瞬間を楽しむよう に勿体をつけてから、再び口を開いた。 「あんたは騙されてるんだよ。あいつはね、人に腎臓をくれてやることなんかで きないんだぜ。なんせ、自分だって一つしか持ってやしねえんだからな」 牧田は信じられない思いで、いや、信じたくない思いで、井上の言葉を反復し た。 「一つしか持ってない?」 「あいつの旦那が交通事故で死んだだろう。あのとき、あいつも助手席に乗って たんだよ。旦那は即死だったけど、あいつも重傷を負った。片っぽの腎臓がつぶ れちまったとか言ってたな。それで、つぶれた方は取ったはずだぜ。そのとき、 俺も骨折で同じ病院に入院しててね。俺も手が早い方だから、退院するころには まあ懇ろになってたってわけさ」 井上の言葉が牧田の頭の中で、ぐるぐると渦を巻いていた。足元に大きな穴が ぽっかりと口を開けていて、いまにもそこへ落ち込んで行くような気分だった。 そして続く井上の言葉は、打ちひしがれた牧田になおも追い打ちをかけた。 「こんなこと娘さんには知られたくねえだろうな。どうやら娘さんは、母親の愛 情を信じている様子だし、事実を知ったら悲しむだろうねえ」 言葉は同情的だが、成行きを面白がっているような表情を隠そうともしていな かった。 確かに友紀の耳には絶対に入れたくない話だった。最初から手術なんかできや しないとわかっていながら、実の娘をだしにして金を巻き上げようと企んだ母親。 そんなことを友紀が知ったら、牧田は考えただけでも背筋が寒くなった。 友紀はこんどこそ、自分自身の存在を否定してしまうかもしれない。それは自 殺という形になって現れるかもしれないし、でなければ精神の崩壊という形をと るかもしれない。どちらにしても、牧田にとっては地獄の苦しみを味わうことに なるだろう。 なんとかしなければならない。もし尚子が姿を消してしまったら、友紀は絶望 する。友紀を絶望させずに、尚子の存在を消してしまうことはできないか。 −−消してしまう? 牧田の心の中で何気なくつぶやいた言葉が、妙に生々しい感触で響いた。そう だ、消してしまえばいい。そういう運命をたぐり寄せるような、ひどいことをし てしまったのは、誰でもないあいつ自身なのだから……牧田は殺人の正当性を自 分に言い聞かせた。 そして秘密を守るためには、この井上という男も生かしておくことはできない。 「一つお願いしたいことがあるんだが……」 まだにやにやしている井上を、じっと見据えて牧田は言った。 「このことは誰にも内緒にしておいて欲しいんだ。もちろん、友紀にも絶対に知 られたくない。ただでとは言わない。それなりの口止め料を払う」 「また、えらく話が早いじゃないか。そっちから言い出してくれれば有難い。貰 うものを貰えば、絶対に喋らないと約束するぜ」 「小切手でよければ、いますぐに持って来るが……」 「ああ、結構だ」 「じゃあ、ちょっと待っていてくれ」 牧田はそう言うと、居間を出て二階の寝室へ行った。寝室のクローゼットの中 からネクタイを一本取り出し、ズボンのポケットに押し込むと、階下へ降りた。 井上はドアに背を向けてソファに座っている。テレビをつけて、その画面に見入 っているようだった。 牧田は足音を忍ばせて、井上の背後に近寄った。そしてすばやくその首にネク タイを巻き付け、一気に両手で引き絞った。 「ああ、牧田だ。いま、井上っていう人がやってきてね。因縁をつけられて困っ たよ」 牧田は足元に転がったままの井上の死体を見降ろしながら、送話口の向こうの 尚子に淡々とした口調で言った。 「君の預金通帳を持っていたので、なんだか心配になって電話したわけだが、変 わりはないかい」 「もう、いまの私の姿を見せてあげたいわ。青あざだらけよ。あの野郎、昨日や ってきて、むりやり部屋に上がり込んだのよ。それからはもう殴る蹴る。あんた のことを誤解しててさ。おまけに通帳と印鑑を見つけられちゃって、慰謝料に貰 っておくなんて言って。何が慰謝料よ。泥棒じゃないの。銀行に連絡できないよ うにって、後ろ手に縛り上げて行くのよ。やっとのことで解いて銀行に連絡した ら、もう降ろされた後だったわ」 「ふうん、ひどいやつだな」 「昨日からずっと捜してたのよ。アパートにも戻ってないし、車もなかったわ。 お金はどうしたのかしら。絶対に取り返してやるんだから。どこへ行くか言って なかった?」 「ああ、今夜会うことになっている。金をゆすられたんだ。臓器売買のことをネ タにね」 「あたしは喋ってないわよ」 「手術のことは私が話した。君との関係をしつこく聞かれたのでついね。それで 一千万の金の意味を推理すれば、すぐにわかることだ。大した金額ではないので 払うつもりだ。君が金を取られようがどうしようが、私には関係ない。ただ、君 に気持ちよく手術室へ入ってもらうためには、私も協力して金を取り戻してもら った方がいいような気がしたので、連絡したんだが」 「助かったわ。警察に届けるわけにもいかなくて、困ってたのよ。絶対行くわ。 場所と時間を教えて」 「作戦を練る必要があるから、途中で落ち合って行こう。そうだな、いつかの新 宿の中華料理の店、あの前で待っていてくれれば、車で拾っていく。時間は八時 だ」 「わかったわ」 牧田はそっと受話器をおろした。尚子は金を取り戻すことに気を取られていて、 井上が事実をばらしているという可能性には気付いていないらしい。 牧田はとりあえず、井上の死体をキッチンの床下収納庫に隠した。尚子の方を かたずけてから、どこかへ移すつもりだ。 床下収納庫は母の希望で、普通より大きめに作ってあった。母の生前は大活躍 したそれも、主婦のいなくなった牧田家では、調味料や缶詰などを買い置くとい う習慣がないので、いつも空っぽのままだった。 膝を抱え込むような格好に井上の身体を折り曲げ、収納庫に押し込んで、きっ ちりと蓋をしめてから、牧田はダイニングルームの椅子に腰をおろした。じっと 目を閉じ、ここからの計画を綿密に組み立てる。 この計画でどうしても避けて通れないことに考えが及んだとき、牧田はぶるっ と身震いした。 −−死体を切り刻む? この私が? 牧田は自分が、後戻りのできない狂気の世界に、足を踏み入れてしまったこと を感じていた。
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