#2745/3137 空中分解2
★タイトル (RMM ) 93/ 1/25 19:32 ( 26)
今はただ 椿 美枝子
★内容
今はただ
椿 美枝子
今はただあなたを
見ていたい
車窓に流れる
景色より
あなたと瞳を
交えたい
今はただあなたを
確かめたい
揺らぐ列車の
心地より
あなたと指を
交えたい
今はただふたり
老木のように
からまるひとつの
老木のように
1993.1.16.17:15
#2746/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 1/26 13:35 ( 88)
続続続続続続続続続 【聖戦の道】押せば進むよよい車の巻
★内容
続続続続続続続続続 【聖戦の道】押せば進むよよい車の巻
一方通行の大義を貫いて、凱旋行進せんとした友人Pの自動車は、
人間どもの意地と面子の対決にあきれ果てたかどうしたか、エンジ
ンがうんともすんともかかってくれません。
==========================
Pは、小声で弱気に言いました。
『あれ、積んでないんだ。あのブースターちゅうたっけ、電力を
吸い取る道具...』
こ こいつは、いまさら相手の誰かに頭下げてバッテリーに電気
を注入して貰おうと考え始めたのか。今までのくそ意地はどうなる
のか。
笑いもんになるだけやないか。
『ばかたれ、いまさらあいつらに頭下げられるか。おそうぜ。降
りて押そう。そっちの方がまああだましや...』
『そ、そうやな...』
幸いなことにオートマチック車でなかったので、うんとこしょ、
やっとこしょと押せば、進むよ便利な車、額に汗してさあ押そう
二人で車を降りて、ひた押しに押しました。
車というのも、動かなければ、ただの無意味な鉄塊です。Pは運
転席のハンドルを維持しながら、僕は後部に回ってひたすら押しま
す。
重たい、きついと愚痴はこぼせません。
沿道から、僕らの『悲惨な勝利のありさま』を無言でじっと見送
る、幾多のドライバーたちの視線を感じました。
誰も手伝ってはくれません。ざまあみろと思っているのか。はた
また『譲り合いの精神を欠いた傍惹無人の振舞いの、あれが悲惨な
末路だ』と、南無阿弥陀仏。手を合わせているのか、それはうかが
いしれません。
半分は恥ずかしいので、なるたけ急ぎ足に、押しました。
道路が比較的平坦だったので、思うよりも快調に、この忌まわし
い一方通行の道を抜けでて、広い場所に出ました。
僕らの通過を見送ると前後して、渋滞していた車両は順次、消え
て行きました。この日のできごとの発端になった(本人にはその自
覚は最後までなかったかもしれません)タクシー運転手も、このト
ラブルの劇的幕引きを演じた「国産高級乗用車」もすでに、姿はあ
りません。
さらに後続する車両も、なにごともなかったかのようにその場所
を通過して行きます。パトカーも、そうして強力な友軍だったベン
ツ560SELもいなくなりました。おっさんはどうなるのか。い
ささかは気がかりです。
ほどなく僕らは、近くのガソリンスタンドから、別の車を乗り付
けてもらって『電力を吸い取って←あれをなんというのかわからな
い』エンジン
を起動させて、当初の目的地へと前進しました。
長かった道のり。『不二屋/ぺこちゃんハウス**店』にはPの
婚約
者が、待っていました。
『遅かったねー』
テーブル上の彼女のアイスコーヒーは、すでに氷だけになってい
ます。
『バッテリーとまっちゃってね』
説明が面倒なためか、無用な心配をかけまいとしたか。Pはそれ
だけ言うなり、『俺は、帰ったらビール飲むから、水でいいです』
とでかい声で店員さんに『注文』しました。
(以上完結)
#2748/3137 空中分解2
★タイトル (CKG ) 93/ 1/26 19:37 (185)
●連載パソ通小説『権力の陰謀』 27.真相
★内容
兼高技研鰍フ仕事が終わった後、信一は引き続きその会社と取り引きすることも考え
たが、諸事情によりそうはならなかった。 それで、今度は自分で会社を経営する道も
考え、実際にそのために準備もし始めた。 しかし、採算を検討した結果、断念せざる
を得なくなった。 そして、再び社員または契約社員の道を目指した。 ほとんど門前
払いであったが、面接まで行く場合もあった。 ところが面接先へ出向く時にも、車中
や街頭等での工作者の暗躍は相変わらず執拗に続いた。 その日に一言でもそれと分か
ることを言われれば、信一は、20年前から続いているそれを思い出さざるを得なかっ
た。 だから、張り切って出かけても、暗い気持ちに変わることが度々あった。 それ
に、何かその面接の相手の態度に不自然さを感じた。 何かを言い含められているかも
知れないと思った。 パトロールカーの出現や工作者の暗躍が続く信一には、そう思う
ことは何の不自然さもなかったのだ。
一家の生計は、妻の僅かなパート収入と残り少なくなった貯金の取崩しでどうにか維
持していた。 信一は、たとえ今後運良く仕事にありついたとしても、また、同じ目に
会うだろうと思った。 何せ、何の理由もないのにやられていることなのだから、何も
ないのに、これでもう終わるということも考えられないからだ。 信一にとり思えば長
く苦しい20年間だった。 当然のことながら、自分に起こっているこれが何なのかは
何度も考えてきた。 だが、システムエンジニアとして、息付く暇もなく忙しく過ごし
てきたから、まとめて深く考える余裕はなく、従って、その答えも分からなかった。
しかし、信一はとうとう完全失業状態になり、いよいよ追い詰められた。 だから、
20年前から始まったその忌まわしい過去を、当時、苦悩しながら記した日記帳を紐解
き振り返ったのだった。
まず、一つ一つの事実や状況を整理した。
1.自分に対する苛めは帝都に入ると同時に始まった。 また、入る前から策謀さ
れていた可能性がある。
2.帝都には差別されている村(係)があり、自分は最初そこに配属された。 差
別とは給与と予算と人が不当に少ないから超多忙なことと、苛めの対象になっ
ていたこと。
3.管理職試験や昇任試験による実力主義は、こういう差別により不公平・不公正
となり、名ばかりとなっていた。
4.職場では自分を失脚させるためとしか考えられない、罠も含む圧力が掛けられ
た。
5.罠の後、苛めは一層酷くなった。
6.苛めは大気汚染課異動後、次第に組織化し、エスカレートして行った。
7.苛めは、訓練と思わせたり苛めと思わせたりや、色々な理由を交互に浴びせる
という揺さぶり戦法で行われ、絶対に理由を知られないように行われた。 こ
のことは、帝都退職後も同じだった。
8.自分は心身の限界まで追い詰めれ衰弱し、自分を守るため退職した。
9.苛めは退職後も続き、表と裏からの工作により、次々に会社を追われた。 会
社への通勤途上の帝都職員・帝都警察等による嫌がらせがあった。 また、ど
の会社も自分に不当で過重な負担を負わせることにより、自分を失脚させた。
また、顧客は仕様をなかなか提示しなかったり、後で仕様変更を連発すると
いう手口で、自分を痛め付けた。
10.就職先の会社へは、自分が帝都で何か非常に悪いことをしたように、また、辞
めさせる理由があったように言い触らされていた。
11.潟Iープン・アーキテクチュアでSEとして最後までやれなかったことも苛め
の理由に使われたこともあった。
12.昭和58年6月以後は帝都警察も加わり、次第に県警・帝都消防署・県消防署
も結託して行った。 また、遠い旅先にもパトロールカーがそれと分かるよう
出現した。 つまり、広域の官庁に指令が回っていた。
13.帝都警察等による嫌がらせは休日や失業しているときも行われ、現在も続いて
いる
14.結果からして、この家はかなり前から盗聴・監視されていた。(帝都に入って
から、または昭和54年11月頃から)
15.帝都警察の公聴課に電話し、このことを相談しようとしたが、「警察がそんな
暇あるわけない」と言われ、それ以上の話は聴いて貰えなかった。
16.帝都弁護士会へ相談に行ったが、そんなことは有り得ないと、まともに聴いて
貰えなかった。
17.現在、自分は転職歴が増えることで社会的信用をなくし、また、年齢や不景気
も手伝い、再就職できなくなった。
そして、信一は更に考えた。 「彼らは私が過激派か何か危険な人物でないことを知
っている。 精神異常者でないことも知っている。 また、犯罪歴がないことも知って
いる。 大人しい性格の人物であることも知っている。 それにも係わらず、何故、こ
の自分がこんな目にあうのだろう。 誰が見ても何の理由もないのに。 ということは
、自分の身に起こっているこれはただ事ではない。 普通でない常識的でない何かだと
いうことが分かる。 しかも、これは正義のなせる業でもないということが分かる。
では、一体これは何だ。」と。
そして、そこに当時気づかなかった恐るべき権力の陰謀が隠されていることを発見し
たのだった。
良い人間は、帝都の中の差別村に入れられて、一生出世できないようにされる
か、または、私のように差別村にはまらないと、集団暴行で追い出されてしまう
。 だから、帝都には自浄能力がないのだ。 帝都にふさわしい人間とは、それ
が仮に不正なことであっても、黙って上司に服従する人間なのだ。 だから、良
心とか、真面目とか、社会に対する奉仕心とかとは無縁なのである。 かえって
邪魔なのである。 そして私を追い出すときに、ついでに皆を参加させ、その訓
練をしたのだ。 管理職はその指導的能力を問われ、その部下は絶対服従を強い
られる。 職員は一度でもそれらしい行動を差別者に対して取れればよしとされ
るのだ。 それができないお人好しは差別者と同じ道をたどるのだ。 帝都はこ
のように、ファシズムさながらのやり方で、悪徳官僚の権力の独占を維持、拡張
するのだ。
そして、私が帝都を退職した後のそれは、差別の帝都内から社会への拡張であ
った。 だが、本質は社会の差別を帝都内にも適用していたということだ。 そ
れはまた、帝都の特別の内情の発覚を防ぐという意味も含んでいた。 「攻撃は
最大の防御なり」を実行していたのだ。 かくして帝都は、退職後も私に対して
圧力・工作をし続けたのだ。 私は退職後はその真相を知ることも、名誉を取り
戻すことも、まったく諦めていた。 だが、帝都は万が一の危険性を恐れたのだ
。 だから、完璧に私の社会的地位や信用を奪うまで、私が完全に無力化するま
で続けたのだ。 私が段々我慢強くなるに従い、次第にその手口をエスカレート
させ、最後にはまったく職に就けないようになるまで、私が社会的に死ぬまで。
私を社会の差別者に仕立て揚げようとしたのだ。 これが私の20年間のとて
つもない不幸な運命の真相である。
また、このことから関係官庁では、次のような思想のもと、工作がなされていたこと
が推測できた。
1.目的
各行政機関の職員が一致団結し、差別者と呼ぶ標的に対して監視・尾行・
工作・迫害等の妨害を行なうことを通して、組織の命令指揮系統を機能させ
、組織力の維持・強化のための訓練を行なう。 また、職員に対して絶対服
従の精神を身をもって体験させることを目的とする。 犯罪を侵していない
人間に対しての工作ということで、究極の命令ということになり、これに従
うことができれば、他のどんな命令にも従わすことができるということが確
かめられる。 このとき、ある範囲の民間人も巻き込んで同様のことを行な
わせ、権力の民間への浸透も謀る。 これに従わないものは、差別者と同様
って、権力の独占の維持・拡張を行なう。
2.目標
権力が法的責任をとられることなく、差別者という標的を社会的に完全に
抹殺すること。
3.参加官庁
差別者の居住地域及び行動範囲地域の全官庁職員。 差別者の条件が良け
れば、出張による訓練も行なう。
4.差別者の選定
大人しく、気弱で、潔癖で、孤立する、苛めやすい人間を対象とする。
ただし、頭の悪い鈍い人間は、面白みがなく訓練教材には適さないので除外
すること。
5.用済み差別者の扱い
差別者が社会的に完全に死に、用済みになった場合には最低限の生活保護
を与える。
6.後継差別者の選定
差別者は訓練教材として絶えず必要であるから、直ちに後継者を探すこと
。 差別者の子息は、その反撃を封じ込める意味でも有力な後継であるから
大事に育て、条件に適合すれば選定対象とする。
ここで、もし訓練中にそれが発覚または訴訟対象になり、権力の維持に危険が出てき
た場合には、次の三段階の無力化のための手段を取るであろうことが推測できた。
差別者の反撃を無力化する手段
強力である場合には、第二または第三の手段を取る。 これには危険が伴うが、
同時により高度な訓練対象にもなるので、留意して対応すること。
・第一段階 証拠がないのだから、官庁総ぐるみで口裏を合わせ、知らぬ存
ぜぬで押し通す。 または、差別者を気違い扱いして不問に伏
す。
・第二段階 架空の罪をでっち揚げるか、または、裏工作による圧力で罪を
犯させ、刑務所にぶち込んで口を封じる。
・第三段階 稀に第二段階が上手く行かない場合には、事故に見せ掛け殺す
か、または、殺し屋等に頼んで暗殺する。 または、坂本弁護
士一家のように、この世から跡形もなく消し去るという非常手
段を取る。
かくして、信一は20年間に渡り権力拡張の手段として使われ落ちぶれた。 そして
、日本の民主主義はまた腐敗の度を深めたのだ。
ヨウジ
初版 92-11-18
改訂1 93-01-26
#2749/3137 空中分解2
★タイトル (CKG ) 93/ 1/27 18:48 ( 26)
●連載パソ通小説『権力の陰謀』 28.公表
★内容
信一は陰謀の真相を突き止めた後も再就職に勤めたが、景気は一層悪化し、特にコン
ピュータ業界は空前の不況となって行った。 この状況では、陰謀がなくなっても再就
職は困難であろうことは分かっていたが、工作者の暗躍が続く限り、自分の未来の可能
性はないだろうと思った。 そして、「何の理由もないのにやられていることは、何も
しないで終わることもない。」と、心に強く思った。
その後、今にも決まりそうな仕事が2〜3あったが、結局決まらなかった。 理由は
不明だが、陰の動きがあったことは感じていた。 経済的にも、いよいよ崖っ縁に立た
たされた。 信一は帝都知事に出した3回目の最後の陳情書の中で言った、それを実行
するときが来たと思った。 証拠も残さず裏でやられて来たことは、それを表に出し社
会的に問題にすれば、公正なやり方でその真相が明かにされ、罪を侵していない自分が
助かるだろうと常々考えてきた。 しかし、いきなり報道機関に訴えると、取り上げら
れないか、または事前に根回しされ、気違い扱いされ、政治的に無力化されるだろうと
考えた。
そこで、信一は自分のこの20年間を小説にし、大手パソコンネットのHOPE−N
ETの掲示板に載せることを思い付いた。 これなら合法的なやり方で、まず自分が健
康な精神の持ち主であることが証明され、なおかつ無力化されずに、自分の身の上に起
こっていることを最後まで公表することができると考えたのだ。 ありのままの20年
間の自分と自分の回りで起こったことが明らかになり、もしも誤解があったならそれが
解け、不正な行いは正され、奪われていた自分の人権は回復するだろうと考えたのだ。
こうして、信一の最初で最後の抵抗が始まった。 それは、平成4年11月4日のこ
とであった。
ヨウジ
初版 93-01-27
#2751/3137 空中分解2
★タイトル (CKG ) 93/ 1/28 12:12 ( 60)
●連載パソ通小説『権力の陰謀』 29.結末
★内容
信一には富も学歴も何もない。 あるのは20年前と同じ純真な心と正義感と、そし
て、あれから養った真理を見つめる目だけである。 それから20年間の苛めに耐える
ことによって備わった忍耐力である。 そして、失ったものは計り知れない程大きく、
言葉にはできない。
民主主義は勝ち取るまでの道程は遠く困難であったが、それをまた持続させるのもま
た困難であることを知るべきだろう。 社会的地位の高い者は勿論、一般市民も、社会
をもっと問題意識を持って良く見詰め、不正を絶対に許してはならない。 一つの不正
を許せば、不正はどんどん拡大し、後で取り返しの付かない不幸な結果を招くことにな
るのである。 つまり、一つを見逃すことは全てを失うことにつながるということであ
る。
また、法律には反していなくても、皆で民主主義憲法の精神を守るよう、たゆまぬ努
力をすべきである。 一つ一つの小さな積み重ねによってのみ、それは達成される。
差別者を生け煮えとして民を権力に従えさせ、組織力・結束力・統率力を高めるとい
う方法は、独裁国家のそれと同じである。 つまり、差別者の存在を容認することは独
裁国家への道を開くことになる。 また、人道的な観点からも考えて欲しい。 その被
害者の身になって考えたなら、とても容認出来るものではない。 どうして、昨日まで
の肉親や友や隣人に、いや、他人であっても同じ人間にそのような酷いことができよう
か。 そういう人間としての自然な感情を、権力がことごとく抑圧するなどということ
は、絶対にあってはならないことだ。 また、そこまで国家全体を統率する必要などな
いはずだ。 軍隊のように組織力を必要とする特定の機関に必要なだけだ。 だから、
この風習はずっと昔の時代錯誤の風習であり、現代では本当は必要のない風習のはずだ
。 従って、この風習は政府によって即刻終わらせるべきものだ。
日本は国連の一員として南アフリカの人種隔離政策に反対する一方、国内にこのよう
な差別の風習を容認・推進するという相矛盾する政策を取っていることになる。 今後
、日本は国連における重要な地位を目指しているのだから、このような風習は払拭すべ
きだ。 そして、近代国家日本は堂々と世界に羽ばたくべきだと思う。
信一には富も学歴も地位も何もない。 だから、法と正義を信じるよりない。 全て
の人は法の下に平等であり、人が人を裁くのではなく、法が人を裁くという民主主義の
原則は、一人一人の心の中にある正義によって、必ず守られると信じるよりない。 一
番大切なことは、必ずそうなると信じ、絶対に諦めないことだと思ったのだった。
もし、この信一の願いが権力や社会に通じ、差別から開放されるなら、信一には僅か
な希望が持てるだろう。 信一を取り巻く社会の状況は、決して20年前より良くなっ
てはいない。 むしろ、あらゆる条件が悪化している。 だが、昨日まで信一に重く覆
いかぶさっていたものはなくなるのだ。 何も取り柄もない信一だが、信一の努力を妨
げるものは何もなくなるのだ。 だから、少しは人並みの幸福が得られる可能性もある
だろう。 決して楽観出来る状況ではないが。
だが、信一が考えた通りの真相であり、それが徹底した思想のもと行われているので
あれば、信一の行く手はより一層困難なものとなるだろう。 人生の終末は間近という
ことになるだろう。 これこそ『権力の陰謀』の最終目標であるわけだ。 つまり、標
的は信一、そしてその目的は、権力の独占の維持・拡張なのである。 そして、新たな
標的が作り出される。 次はあなたかも知れない・・・
「一生やることに決めた」「一生良くならなければいいんだ」
「一生やることに決めた」「一生良くならなければいいんだ」
「一生やることに決めた」「一生良くならなければいいんだ」
・ ・
・ ・
・ ・
ヨウジ
初版 93-01-28
#2752/3137 空中分解2
★タイトル (MEH ) 93/ 1/29 0:37 ( 54)
放屁論93 クリスチーネ郷田
★内容
昨年度の放屁学会の報告書を掲載してから1年が経った。あれから1年、現在の
放屁学は波乱と混乱に満ちている。
これは「放屁学の危機」と呼ぶに足るものであり、まさに激動の時代が始まったと
言って良い。いや、言わなくても良いのであるが、まあそんなニュアンスで受け取っ
ていただければ間違いない。いや、ちょっとだけ間違いがあるかもしれないが、細
かい事はあまり気にしなくてもいい。いや、気にしていいかもしれないが、あまり
深く考える必要はない。いや、必要はあるかもしれないが。……などといつまでも
連鎖反応していると、本気で脳味噌が足りないと思われかねないのでやめる事にし
た。
ヘオヒルト・ブッヘ会長率いる「放屁学会」は、放屁学の基礎をゆるがす「超難問」
をある人物に提示された。
その人の名は、チェコスロバキア出身の放屁学者、ブーデルである。
ブーデルの唱えた「定理」は、現在ではブー完全性定理として知られている。ここ
で、ブー完全性定理について少し触れてみたい。
(この部分は読み飛ばしても内容を理解できるので、放屁学の初心者はとばしてし
まってかまいません。)
まず、ブーをA、プーをB、ビチビチをCとする。
プーはブリブリのピー倍と仮定する。
また、スーはプーより臭い。
においの定数をXとするとき、ABCはともにプースカに含まれる。
であるからして、プリプリはブーであり、プースカはブリブリである。
<証明終わり>
ここでブーデルが何が言いたいのかわかる人は少ないであろう。彼の理論はあまり
に難解なので、完全に理解できる人は世界でも数人であると言われている。ヘオヒ
ルトはこの難問にどう対応していくのだろう。
「ブーデルの定理は今世紀の大問題である。この問題は今世紀中に解かねばならな
い」
ヘオヒルトはマラチューセックス工科大学の「放屁学」の授業中、こう語ったと言
う。
「ともかく、放屁学の基盤部分がぐらつきはじめたのは事実だ。我々の学んだ放屁
学の根底をくつがえす、大事件だ。」
古代ギリシャの時代から続く、伝統あるブークリッド放屁学。そして非ブークリッ
ド放屁学、プーマン放屁学に続いて現れたブーデルの理論。
革新的なこのアイデアは哲学をはじめとする各会に波紋を投げかけた。
ちなみに、私の所属する手淫学会でもこの問題はとりあげられており、今さらなが
ら事態の重要さに驚いている。
ブーデルはこう語る。
「私もプースカがブリブリであると言う結論を出した時、「そんな馬鹿な!!」と
思いました。しかし、やはり結果としてプースカはブリブリであると言わざるを得
ないのです。この事柄に関しては私も頭を悩ませているのですよ。」
#2753/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 1/29 4:10 (109)
☆変な女からの電話☆ ワクロー3
★内容
仕事がくそ忙しい時間に電話がかかってきた。それも自分の部で
はなく隣の部にかかってきたというのだから、なんということか。
取り次いでくれた人がこう言った。
「それが、ちょっと変な電話なんです」
「なに、それ」
「年が30代の人で****(僕の本名)さんいますか?。そうかか
ってきているんです」
「なんじゃ、そりゃ」
僕の本名はありふれた名前なので、同じ会社に同姓が六人いる。
しかし、その中で30代といえば僕しかいない。
「女性なんですけど、なんか変。とにかく代わってもらえません
か」
隣の部の人が僕を案内して受話器を手渡す。とにかく時間がない。
電話なんぞに応対している暇はないのだが、気になるので出てみる。
「はい。代わりました」
「****さんですか?」
「そうですけど。どなたですか」
僕の質問には答えずに、いきなり自分の質問を継いでくる。
「先週の金曜日に高宮駅でお会いした****さんですよね」
「金曜日ですか。何時ごろ?」
「夜です。午後八時から」
まったく心当たりがない。その日は仕事をしていたので完全にア
リバイがある。名前違いで別の****ではないのか。
「違いますね。人違いでしょう、僕は金曜日会社で仕事していま
した。高宮には行っていません」
きっぱり答えたので電話を切り上げようとしたら、すかさず
「あ、やっぱり、そうでしょ。だって話し方が似てるもん」
と言われてしまってすっかり調子が狂ってしまった。似てるもん、
といわれても困る。
「残念ですが、人違いです。会社には****という名前の人がたく
さんいますから、僕でなくてほかの****さんの可能性はありますが、
少なくとも僕でないのは確かですね」
「けっこう冷たい言い方するんですね」
つめたいもなにもない。ああー、はよう切り上げないと、時間が
なくなってしまうではないか、暇なときなら、なんぼでも相手をし
よう。相手を捜してやってもいい。しかし、今だけは勘弁してもら
いたい。あと15分しかないのだから。
「あの。いま忙しいんです。申し訳ないけど、切っていいですか」
「本当にあの時の****さんじゃないんですか?話し方が本当に似
ているんです」
「その高宮で会った****さんは、自分で****会社の****と名乗っ
たんですか」おせっかいにも尋ねてしまった。
「はい。そういいました」
「名刺とか貰いましたか?」
「いいえ」
「その日会ったのが初めてだったんですか」
こうなりゃ、やけ糞である。どんどん聞き出したる。
「はい。駅で会って、お茶を飲んで」
「会ったその日にですか。そりゃ、ナンパされたということです
ね」
「はあ、そうですね」
そうですねーじゃないよー。俺はあんたをナンパもしてないのに、
なんでそのとばっちりをかぶって、電話で時間つぶさないかんねん。
誰か****の名前でもって、こいつをナンパしやがったのかな。
「とにかく僕じゃありません。その日は仕事でしたから」
「あやしいなあ」
あ、あ、あのねえ。残り時間が十分を切る。最も忙しい時間に机
の前を離れているので、遠くから上司の視線を感じるではないか。
もう、これ以上は相手はできん。
「それで、申し訳ないけど、いまとっても忙しいんです。とにか
く僕ではないことだけは、はっきりしています。他の****さんたち
は、みんな40代以上なので、あなたが捜している****さんは、う
ちの会社にはいないと思いますが。それじゃ、また」
いつもの癖で、それじゃ、また。なんて言ってしまって、電話を
切った。
あー、なんてえ変な一日なんだ。変な女だったなー。誰だろうな、
けしからんナンパ野郎は!
変な電話で変な女だったなあ。一日たって再び会社にやってきて、
机につくなり思い出していると、隣の部の人が僕を大声で呼んでい
る。
「****さーん、電話ですよー」
ふと、いやな予感がした。
(以下次回)
#2755/3137 空中分解2
★タイトル (KCF ) 93/ 1/30 3:17 (138)
掲示板(BBS)最高傑作集26
★内容
みなさん、こんにちわ。掲示板(BBS)最高傑作集1〜25をご覧になっ
ていただけたでしょうか。今回はその続きとなります。以下の作品は私が11
月19日から12月12日にかけて掲示板に登録したものです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
こんな辞書見たことありますか。[11/19]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
先日私は、とあるアメリカ人とダ−ウィンの「種の起源」について英語で討
論しました。彼はハ−バ−ド大学の大学院で生物を専攻しただけあって、私の
「種の起源」に対する独自の解釈に対しても一歩も譲ることなく反論してきま
した。私自身、理論では勝ったと思っているのですが、「insect=虫」という
単語をど忘れしてしまい、結局は論争に負けてしまいました。その後すぐ、私
たちの激論を英語もわからずに隣で聞いているふりをしていた日本人が英和辞
典を持っていたのでそれを借りて、あのアメリカ人は虫のことを延々としゃべ
っていたんだとわかって、本当に悔しい思いをしました。彼は辞書を私に貸し
たことをすっかり忘れてしまったのか、すぐにどこかへ行ってしまいました。
ふと気づくと「insect」という見出し語の上に小さな虫が「押し花」のよう
に張り付いていたのです。私のフランス語の辞書も、閉じるとき偶然虫がはさ
まれ、「押し虫」になってしまった虫が数匹います。しかし、「ver、insecte
(虫)」といった語のペ−ジにはなく、まったく関係ないところに張り付いて
います。せめて、「eau (水)」という単語の部分に虫がくっついていれば、
これがほんとの「水虫だ!」と友達に威張って優越感に浸ることができ、フラ
ンス語の勉強にも張りが出たのですが、残念ながら私は辞書を閉じる時そこま
で気を配りませんでした。
彼は虫を「insect」の部分に故意にはさんだのか、それとも偶然その虫が
「insect」の部分に張り付いたのかわかりません。そこで、同じようなのがな
いか数ページめくってみました。しかし、残念ながら「ant (蟻)」には、
「押しあり」はいませんでしたし、「cockroach (ゴキブリ)」には「押しゴ
キブリ」もいませんでした。無駄だと思ったのですが、一応念のため私は
「elephant」を調べ、「押し象」がいないことも確かめておきました。みなさ
んの中に「melon (瓜・うり)」を引いて、「押しうり(押売)」がいなかっ
たか確かめたのかと冗談を言う人がいると思いますが、私はそんなくだらない
ことはしてません。
「なんだ偶然の一致か」とあきらめかけていたとき、とあるページに人間の
股間部にしか群生していない毛が一本はさまれているのに気付きました。彼は
英和辞典をどのように利用していたのでしょうか。私はそこの毛のことを英語
で何というかわからなかったので、利用方法はどうあれ、これも偶然にはさま
れたものだと思ってました。しかし、私はそのページに「pubic hair(陰毛)」
という単語を見つけてしまったのです。どうもこれらは偶然の一致ではないの
ではないかと私は再び疑問に思い始めました。そこで私は「非常にいやらしい
単語」なので少しばかし気が引けたのですが、思い切って「あれ」を引いてみ
ました。(別に「あれ」だからと言って、「that」を引いて、関係代名詞の意
味もあるんだなと学んだわけではない。)その英単語はみなさんも数百回、数
千回と引いたことがあるはずで、みなさんはその意味をそらで言えるのは当り
前で、詳細な図を描いて解説することができる人もいると思われます。ところ
がどうしたことでしょう。彼の辞書では、「あれ」の載っているはずのページ
が開かないのです。糊で張り付けられているようでした。
結局、虫の件は彼が意図的にやったのか、あるいは偶然そうなったのかを彼
に聞きませんでした。しかし、意図的にしろ偶然にしろ彼の辞書は非常にしゃ
れてると思いませんか。
○コメント
「私の友人の下半身は非常に過敏なため、その人の英和辞典は世田谷区の電話帳
よりも厚い。」という意味深なメールをいただきました。神田の古本屋で見つけ
てみたいものです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
公衆便所の話パート14 [12/12]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
みなさん、こんにちわ。先日、新宿の居酒屋で飲み過ぎ、帰りの電車の中で
吐きそうになったのですが、何とかこらえてアパートに帰り、すぐさま共同便
所に駆け込み、便器の中に顔を突っ込みながら思う存分吐いている時に、前に
便所を使った奴が流し忘れていることに気付いたフヒハです。大でした。他人
が用を足したものにあれほど顔を接近させたのは、下北沢のドーナッツ店のト
イレで用を足した後、水を流すためレバーをひねったときに手に何かくっつい
たので、何かなと思ってにおいをかいで以来1週間ぶりのことでした。
さて、今回の講義はトイレの流し忘れについてです。公衆便所に入って、
「さあぶっぱなすぞ!」と気合いを入れて便器にしゃがんだときに、先客の忘
れものが便器内に大胆に横たわっていることがよくありますね。このような時、
「ばかやろう!流し忘れやがって。」と、流し忘れた本人ではなく、便器内の
流し忘れられた物体に向かって怒鳴りながらレバーをひねる人がいますが、ま
ったく大人げないことです。怒鳴られた物体には責任はないのです。ここはひ
とつ、レバーをひねった直後、水とともに流れていく不幸な物体に向かって、
「あなたのせいじゃないのに、かわいそう。さよなら。」と一言かけるほどの
いたわりがあってもいいじゃないですか。ただし、「さようなら」の後に「じ
ゃあまたお会いしましょう。」と付け加える必要はありません。
流し忘れるような奴の残したものに限って、水を流したときに、素直に全部
流れてくれないもので、一部が便器にへばりつき、あくまでも自分の存在をア
ピールし続けるようなことがよくあります。そんなのは無視して、用を足して
しまえばいいのですが、前に便所を使った奴が残したものと自分のものが直接
触れ合うのは、なんとなく気が引けます。でも、前に使った人が自分の好きな
人であるとわかっている場合は問題ありません。手も触ったことがない場合は
嬉しさひとしおです。しかし、実はその人は確かにトイレには入ったのですが、
便器は使用せず手だけ洗って出てきていた場合にはかなり問題が残ります。あ
なたの好きな、手だけ洗って出てきた人の前にトイレに入った人は、顔を合わ
せただけで吐き気をもよおした奴で、実際にはそいつのものとはつゆ知らず、
そいつと落下物のランデブーを行ってしまうのです。
また、高校生で化学が得意な人は「格好の研究材料だ!」などと訳のわから
ないことを言いながら、流し忘れられていた他人の物体を翌日学校へ持って行
きます。午前中は6時間目の化学の時間が待遠しく、授業中なんとなく落ち着
きがなくそわそわし続けます。やっと4時間目が終わり昼休みになると、「化
学の鬼」と呼ばれているその高校生は、化学の授業を待ちきれず、前日トイレ
で採取した標本をこっそり自分の机の上に広げてしまうのです。クラスメート
は昼食の時間であるので弁当を食べていますが、研究熱心な彼は昼飯など眼中
にありません。彼の机の上から発散されるにおいのためか、みんなは、自分の
お母さんが作るいつもと変わらない弁当であるのに、「今日の風味はどこか違
う」とくちぐちに言います。そのうちに「化学の鬼」のところへ友人がやって
きます。友人は、「お!おまえ変わったおかず持ってんじゃん。」と言って自
分のハンバーグと交換するよう申し出ます。もちろん、「化学の鬼」は自分の
貴重な研究材料をハンバーグなどと交換するようなことはしないのですが、友
人が親友だったため半分こします。
私は、今昼食中で、ハンバーグを食べながらワープロを叩いてこの文章を作
成しています。さすがの私でも、これ以上ハンバーグを食べながら文章を続け
ることができません。大変申し訳ないのですが、この続きは後日カレーライス
を食べているときに書かせてもらいます。
○コメント
その日のハンバーグを食べ残してしまったのはもちろんですが、残飯入れに捨て
たときのハンバーグには、胃、のどを通って口から出てきた一風変わったソース
がかかっていました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
シックスナインの本当の意味 [12/12]
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数字の6、9
PS:みなさんの中には、このようなメッセージを嫌いな方がいらっしゃるかも
しれませんが、私自身は大好きです。
PSS:「私自身は大好きです」というのは、このようなメッセージであって、
「私はシックスナインが大好きです」とはひとことも言ってませんので勘違いし
ないでください。私が大好きな数字はファイブエイト(5、8)です。
○コメント
「わきの下と股間にはエイトフォー(制汗デオドラント)!」とだけ書いてある
意味不明のメールをいただきました。痛そうな感じがします。
これで終わりです。掲示板(BBS)最高傑作集27をお楽しみに。
#2756/3137 空中分解2
★タイトル (WJM ) 93/ 1/30 10:13 (147)
記憶力 κει☆彡(けい)
★内容
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頭の釘に引っかからずに
スッテンテンとおっこちた
昔の事は忘れる
今日の事も忘れる
腹を抱えて笑った意味さえも
そして君に向けて思った事も
不安になった事はありません?
どうして人は忘れるんだろう
神様は設計ミスをしたのかな
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
君はまさか記憶力なんていう能力はあればあるほど良いと思ってい
るんではないだろうね?
また「覚えたことを決して忘れない」とかいう薬や機械が発明され
たのなら、どんな事をしてでも手にいれたいとまで思っている人が
いるかも知れないな。
もしかしたら、そういう製品が出回る時代がくるかも知れない。
ああ、でも僕は言っておいてやる。
そんなバカで愚かな考えは今すぐドブ川へ投げ捨てた方がいい。
この俺が言うのだから間違いない。
無いと言うのも困るかも知れないがバツグンに良すぎると言う事は
その何倍も困る。
それは言葉に言い表せないほど.......
俺は今ビルの屋上にいる。下を眺めると車が走っているのが見える。
空は晴れているが星などはこの大都市からでるネオンの輝きのため
一つも見えない。ただ三日月は一つ寂しくひっそりと浮いている。
こんな所で何をしてるって?
飛び降りようとしているんだよ。あまり高くはないが死ぬには充分
だろう。なぜって?
記憶力がバツグンにいいからさ。
どういう事か説明してくれって?
ああいいだろう。どうせ時間はいくらでもあるしな。
俺はその日映画の台本を覚えようと懸命だった。
映画初出演で主役だった。この映画でデビューする予定だった。
密かに10年後の自分、映画界の大物と呼ばれる自分を想像して
にやける事もあった。台本の暗記にとりかかるまでは。
俺は自分の記憶力のなさにつくづく嫌になっていた。
手に持っていたグラスを床にたたきつけたほどだ。
なにしろ、昨日覚えた台詞でさえ、一日経つと殆ど頭から落ちてい
る。昔からこの記憶力のなさのため苦労した。
高校受験の時なども、カンニングをしなかったら受からなかっただ
ろうと思う。
俺はその言いきれないほどムシャクシャする気持ちを少しでも落ち
つかせようと外に出た。
商店街の裏通りに何気なく入ると、どこか気を引く古本屋があった。
その本屋の建物はボロが来ていてお世辞にも綺麗とはいえない。
しかし珍しい本が置いてあった。
「空を飛びたい人のために」「1時間いきを止める方法」
「超能力者になれる」「視力10.0」など書いていけば、きりが
ないだろう。
うさん臭いとは思いつつも、そのなかで俺は「覚えたら忘れない」
という本を手にした。
その時は藁にもすがりたい心境だったのだ。
ベッドの上でその本を必死になって読んだ。
初めは何気なくだったが、その本の書き方と本からでる不思議な感じ
のためいつしか夢中になっていた。
そしていつの間にか眠ってしまっていた。
翌朝コンポから流れてくる音楽で俺は目を開けた。
閉じられた本が目の前にる。
本を読んでいて、そのまま寝てしまったようだ。
眠い目を擦りながら即席ラーメンを作る。
俺は街に出て初めて自分の頭の変化に気が付いた。
今朝自分が何時に起き何時に飯を食ったか。
また食った即席ラーメンの蓋にはなんと書いてあったかが
すべて鮮明に思い出せるのだ。こんな不思議な感じは初めてだった。
おそらく君も体験したことがないだろう。いや絶対にないはずだ。
急いで家に戻り映画の台本を眺めた。すべて覚えられる。
べつに覚えようと努力する必要など無くただ眺めるだけで良いのだ。
頭がパンクするんじゃないかと不安になったが、
そんな不安はすぐに消え去った。
人間の脳はそのぐらいでパンクしてしまうようなちゃちっぽい物
じゃないのだろう。
その日から俺のすべてが変わった。少し表現が古いかも知れないが、
人生バラ色ってやつだ。
俺は映画出演を断わった。
日本一の大学を受けてみようと思ったのだ。幸いまだ若い。
3浪した者と同じだ。
2カ月ほどしかなかったが、ありとあらゆる参考書を買ってき
それらをすべて覚えた。すこしも苦にならなかった。
ただ眺めているだけでいいのだから。
しかし3日も経つと、この能力のため苦しみ始める事になったのだ。
一度覚えてしまったことは絶対に忘れられない。
とても嬉しい事、楽しい事などいつでもその時の気持ちが衰える事
無く思い出せるのだが人生いいことばかりじゃない。
どちらかというと悪いことの方が多いものだ。
ひどくこの能力で苦しむことになったのは
いつものように即席麺を作っていて、沸騰した湯で火傷をした時だった。
水ぶくれになった手を見る度にその時の傷みが思い出されるのだった。
いつまでたっても、忘れられない.....
次に今までつきあっていた彼女に屈辱的な振られ方をした時。
早く忘れたい、早く忘れたいいくら願っても忘れられない。
まだまだあるが、これも挙げていくならば切りがないだろう。
そう俺はその切りがないほどの辛いことを一生忘れることができない
のだ....
これからどれだけ辛いことに会うだろう、どれだけ恐い目に会うだろう。
どれだけ泣きたくなるような事があるだろう。
どれだけ嫌なことがあるだろう。
それら全てが忘れられないのだ.....
考えた事は死ぬまで忘れる事はない。
ここ数日俺は笑った事がないんだぜ。笑えるわけない。
どうだい俺がどうして飛び降りるかわかったろ?
誰がいったい俺を止められる? 誰もいないだろう?
ふっ。それじゃ話はこのぐらいで アバヨ人生。アバヨ苦しみ。
「おい大変だっ! 人が飛び降りだぞっ!」
誰かが大声を上げた。
男は叫びながら落下していった。よほど恐かったのだろう。
しかし男は小雨が降ってきたというので傘をさしていた女性の上に落ち
全身血みどろになりながらでも奇跡的に一命を取り留めた。
病院。
目がさめたその男の叫び声がする。
「ひっ恐い恐い! 頼む誰か俺を殺してくれ!なあ早く!ああああ!」
狂乱的な叫び声はいつまでも途切れる事がなかった。
男はそれから何度も自殺をはかったがことごとく失敗した。
精神病院。
マドの無い部屋でのたうち回る患者に医者さえも悲しげに首を振る。
精神安定材はまったく効かない。
頭を打ちつけてまで死のうとするので医者は仕方無しに手足をしばった。
人間忘れるという事ほど大切な事はないんじゃないだろうか。
1992.02.17
remake 1993.01.13
Keiichiro☆彡
#2757/3137 空中分解2
★タイトル (UYD ) 93/ 1/30 13:50 ( 77)
タイガース日記1/30 KEKE
★内容
今日からタイガース日記を書くことにする。実はこの企画は井上
一馬というひとが書いた『ジャイアンツ日記』からいただいたもの
だ。天牛書店で千円で買ってきた『ジャイアンツ日記』を読んで感
心したので、さっそうそのいただきをやることにしたのだ。
といっても、彼はジャイアンツの全試合に帯同しているので、そ
れだけ書くネタが豊富である。私はときどき甲子園にいくほかはテ
レビ桟敷で観戦するしかないのだから、おのずと密度の差がでてし
まうことはさけられないであろう。端的にいって書くことがない、
ということがおきる可能性がある。そこで、私の場合は、タイガー
スのことばかりでなく、自分のこと、あるいは社会のこと、テレビ、
ビデオ、映画のこと、など、ま、ありとあらゆることを書くことに
した。要するに、この1993年という年が私にとってどのような
年であったか、自分自信に確認したいという、そういう気分で、こ
のタイガース日記を書いていきたいと思うわけなのだ。メインはあ
くまでタイガースのことだけれど、その他のことも遠慮なく書くの
である。
さて、今現在の私から説明しておきたい。今私がいる部屋はどん
な部屋か。私が住んでいるのは、大阪の北部の千里ニュータウンで
ある。そのなかの府営団地の二階にいる。部屋は3部屋である。も
ともと2DKだったのだが、数年前に建てましされて3DKになっ
た。風呂と奥に6畳間ができたのである。我が家は3人である。私
と母と弟。母は数年前に定年退職して今は年金暮らしである。弟は
パチンコ屋の店員をしているのだが、この一月いっぱいでやめて、
また我が家に帰ってくることになっている。そうなると無職の男が
ふたりもいることになるわけで、どうなっておるのだこの家は、と
いいたくなるであろう。
さて弟が帰ってくると、部屋の割り振りの問題が生じる。弟は、
以前いたときは奥の一番いい部屋にいたのだが、現在はその部屋は
母が使っている。なにしろ新しくてきれいな部屋だから、だれもが
その部屋をほしがっている。母と弟の闘いはどっちが勝利するか見
当がつかないが、いずれにしろ私には関係ないはなしである。
私がいるのは道路に面した6畳である。今までは真ん中の6畳も
私が使っていたのだが、これからはその部屋は弟か母の部屋になる
ので、この部屋だけが私が使える部屋になる。
6畳といっても、団地のそれはひどく小さい。畳の規格がちいさ
くなっているので、そうなるのだ。東京で住んでいたころの四畳半
とどっこいどっこいではないだろうか。この部屋にあるものを列挙
してみる。まずは窓際にでんと机がある。引き出しもなにもない、
かなり大きな机である。近所の家具屋で特売のときに買ってきたも
のである。それでも5万円した。イスも同じく5万円。5本足のな
かなかいいイスで、何時間書いていてもどこも痛くならないという
すぐれもの。机の右にはテレビとステレオがある。テレビは9イン
チのコンパクトなもの、ステレオはミニコンポである。実はこれは
弟のものだったのだが、5000円で分捕ったものである。定価は
8万円くらいしたものだから、もうかった。机の左にはプラスチッ
クの3段のチェストがある。そのさらに左には本棚がふたつ。ひと
つには百科辞典と司馬遼太郎全集がおさめてあり、もうひとつには
種々雑多の本が雑然と並べてある。それから組立式のラックがひと
つある。ここには現在読んでいる最中の本や雑誌などが並べてある。
押し入れのなかには本が山ほど詰め込んである。これらを全部捨
ててしまったらさぞさっぱりするだろうと思うのであるが、なかな
かその勇気がでない。読んだ本というものはもう脳味噌の一部とい
うかんじである。本を捨てることは、自分の脳味噌の一部を捨てる
ことと一緒だという感覚があるからであろう。その押し入れの前に
フトンがたたんで置いてある。押し入れにいれようにもそのスペー
スがないためである。また、寝転がったときにちょうどソファのよ
うになって便利であるということもある。
暖房はガス温風機を使っている。すばやく暖かくなるので大変便
利である。冷房はとなりの部屋のクーラーに頼っている。夏になる
と隣とのフスマを開け放ち、冷風をもらうのである。
一番大切なことを書き忘れていた。机の上のものである。もちろ
ん机の上には我が家で一番大事なもの、一番高価なものが置いてあ
る。マックである。マックSE。30万円したもんね。それが今で
は生産中止になっている。値段も中古で5万円だ。ああ無常。マッ
クのとなりにはYHPのデスクライターというプリンタがある。さ
らに電話とモデム。以上が私の部屋の主な装備である。
今年のタイガースはいい。おそらく優勝を争うだろう。大いに期
待してシーズンを待つ私であった。
#2758/3137 空中分解2
★タイトル (TEM ) 93/ 1/30 16:41 ( 77)
詩集「うそもほんとうも」 うちだ
★内容
「誰にも言わない」
どうしようもなく簡単に恋をする
たとえば それは二〇秒で終わる
一寸の虫にも五分のたましいがある
くるしんでも誰にもわからないから平気
文字があらわすもの
文章のしめすもののどれもこれも
言葉になって 嘘になる
誰にも言わないでほんとうにしよう。
とおくでブレーキの音 みえない事故と
いくつかの日常茶飯事
海までの 距離はとおくちかく
私はひとり 部屋にいて 部屋にいる
ただ気持ちはほんとう。
誰にも言わないでほんとうにしよう。
「あの夏の」
指先に昨夜の花火の焦げたにおいが残っている。
夢じゃなくて良かった。
昨日 寒くて息が白いのに 夏の残りがあるからと
ふたりで花火をした。
しんきくさい線香花火なんかじゃなくてね。
だって冬の空のほうが 空気が澄んでいて花火にお似合い。
ただそんな理由 私たちにたいした理由なんてないね。
すぽん すぽん すぽん すぽん すぽん と5連発花火に
しゅうしゅう吹き出すドラゴン。手にも花火を持ちながら
こんなにたくさん残ってたんだね とふたりは笑って
それから
奇麗だね 奇麗ねぇ と 見上げていれば
ふたりの会話の無さも 救われるような気がしていた。
夏の夢の続きに 目の醒めるような爆竹
朝の光りに 目の奥の花火の残像も消える。
いつか終わるお祭りは ほんとうに奇麗。
もうすぐ冬がくる。
あの夏には戻れないけど 来年も夏はくる。
どちらにも 進むことができる。
それでも今はここにいるから。
指先に昨夜の花火の焦げたにおいが残っている。
夢じゃなくて良かった。
「僕の世界はとじていく」
つるつるの手触り きっと忘れる
大いなる計画 “僕の世界はとじていく”
君のセリフ 「きれいなまま このまま
残しておいて ときどきは
つるつると
てのひらでころがすように」
気持ちのいい笑顔で さよならをした
いつだって 君より楽しくしてた僕。
いつだって 悲しいのは僕。
かわいそうな君 悪魔のような君。
君のセリフ「永遠に慕うか そのまま忘れるか
気持ちのいいほうに私も1票」
嘘もほんとうも ふりかえれば横たわり
ちゃんと殺してこないから 先行きの邪魔をして
僕の世界はとじていく
#2759/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 1/31 1:56 (119)
☆変な女からの電話☆2 ワクロー3
★内容
じつは、変な女性からの変な電話は2日間にわたってかかってき
たのです。2日目は、比較的暇な時間にかかってきました。
前日と同じ電話にかかったので、昨日僕を呼びに来てくれた隣の
部の人がまたもや、取り次いでくれました。その彼がひとこと余計
なことを僕に言った。
「ほんとに知らない人なんですか?実は知っている人だったりし
て」
「あのねー」
怒るぞ。
「でも、やっぱ、どっかおかしいですよ。しゃべり方が思い詰め
てて恐いもん」
「恐いもん、を俺にまわすな!」
電話が保留になっていて相手には聴こえてないので、言いたい放
題である。
2日連続して取り次いでくれた隣の部の人は、いっそ会ってみた
らどうですか。人違いだとはっきりするし、などと言っている。こ
のさい、徹底的に追究するべきだ。とも言った。
覚悟を決めて電話にでる。きょうはまだ時間があるので、どうに
でも対応できる。
「はい****(僕の本名)ですが」
「きのう電話したものです」
「あなたが捜している****さんは、見つかりましたか」
ここで沈黙されてしまった。本当に思い詰めているのか。。こわ
いぜ〜
「あの。。もし、もし」
返事がない。
「あの。どうしました。もし、もし」
返事がない。やっぱ、恐くなった。関わらない方が身のためと言
うべきか。はよ切ろう。
思った途端に返事がある。
「会ってくれませんか、いま、天神なんです」
ぎょえー。心臓に悪い。今、天神だって〜。会社をどこで調べた
んだ。まったく意表をつかれてしまった。しかし、幸いなことにい
まから仕事がある。仕事をたてに、いや、じっさいこれから席を外
せないのだから、それを堂々たる理由にして、申し出を拒否するこ
とにする。
「今から仕事なので、ちょっと席が外せません。申し訳ないけど」
「じゃ、いつならいいんですか」
こ、こまったやつだなー。
「あの、昨日もお話したとおりに、僕はあなたが捜している****
ではないことは、はっきりしています。だからお会いしてどうなる
んですか。どうにもなりゃあしませんよ」
「話し方が似ているんです。ものの言い方とかが。それでお会い
して、確かめたいんです」
あ、の、なー。僕は知らんちゅうに。
「あなたが確かめたいのは勝手ですが。。」ボクニハ、ナンノ、
カンケイモナイ。そう続けようと思ったら、すざましい気合いで
「じゃ、会ってください」と口を挟まれた。
僕が絶句したので、さっきからかなりの関心を持って電話のやり
とりを聞いているギャラリー(隣の部の人々)が、色めきだった。
僕の心の中で葛藤が起きる。この女、こわい。でも、見てみたい。
恐いけど。いったいなんなのだ。9日、その日は休みだ。昼間、高
校時代の友人Wと会うことになっている。あいつなら。あいつがい
るなら、けっこう楽しめるかもしれない。そんな算段が素早く頭を
駆け巡った。
かといって、相手の土俵には乗れない。
きょう直ちに会うつもりはない。
「いいでしょう。そんなに言うのでしたら、お会いします。こち
らから連絡しますので、連絡がとれる電話番号を教えてください。
それと、日にちは9日の昼しか空いていません。僕にも、その日は
いろいろ用事があるので、場所は天神で構いませんね」
今度は相手がたじろぐ番だった。
「ええ。。いいです。天神ですね。9日は学校があるので、午後
2時以降だったら。久留米から来るので、できれば3時くらいがい
いです」
久留米。福岡市内ではないのか!それなのに、きょうはわざわざ、
天神まででてきてしまったのか。ちと、恐すぎる情熱かな。相手は、
安心したのか自宅です、といって電話番号を告げ、いないときは留
守番電話があるのでそれに録音してくれ、と答えた。話しは淡々と
まとまり、そうして僕の方から電話を切った。
このように、2度目の電話を収拾した僕が、受話器を置いた途端
に、周囲から質問攻めにあったのは、言うまでもありません。
会うんですか。やばいですよ。かわいい娘だったりして。イヤ、
それは絶対にないね。こりゃー大変だぞ。あぶないやつだったらど
うするんだ、まあ、とことん探求するのもおもしろい。結果は報告
しろよ。もとはといえば、ここがおまえに取り次いでやったんだか
らな。
あのなー。取り次いでくれと頼んだ覚えはないぞ!とはいいなが
ら、帰宅してからさっそく友人Wに電話して、9日当日の作戦を練
っているのであります。
(以下次回)
#2760/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10: 5 (142)
月夜話、其之四 「 小さな冒険 」 (1/3) ■ 榊 ■
★内容
夏休みに入って間もないとある夕方。
食事の後片づけもおわり、自室の部屋に戻り机についた舞姫<マイヒメ>は、学校
に体操着を忘れていることに気がついた。
「いけない。早くとってきて洗濯しなくちゃ」
滅多なことでは失敗をしない舞姫だが、この程度の忘れ物をときどきしてし
まう。自分の頭をぽかっと叩くと、すぐに気を取り戻して部屋をでた。思い立
ったら行動するあたりは神無月家の特徴のようで、そのまま舞姫は階段をとっ
とっとおりていく。玄関につくと、靴をはき紐をきゅっと縛った。
「あれ? 舞姫さん、お出かけですか?」
舞姫にこんな律儀な敬語をつかう住人は、つい最近この家に居候することに
なった芳春<ヨシハル>しかいない。テレビを見ていたようで、台所から萌荵<モエギ>
と一緒にひょっこり顔を出していた。
「あっ、うん。学校に忘れ物してきちゃった。取ってくる」
「今からですか? もう、暗くなりますよ」
夏とはいえ、もう闇があたりを覆う時間になっていたが、靴をはき終えた舞
姫はすっくと立ち上がると首を横にふった。
「この街で私を襲う人はいないわ」
姉の萌荵がうんうんと首を縦にふる。舞姫自身の要因も含め、姉妹、知り合
いの要因も含め、舞姫に手を出せる人はそうはいない。
そういえば以前、母親と一緒に買い物をした帰りに、その財布をバックごと
盗んだ人がいたが、横にいた舞姫が持っていた大根を相手の頭に投げつけて捕
まえ、4才にして警察官に褒められたことがあった。「物をぶつけて褒められ
たのは、あれが生まれて初めてね」と、後になって舞姫は言ったものである。
「それに、まだそんなに遅くないわ。いってきますっ!」
短いきれいな髪をさらっとなびかせて、舞姫は飛び出していった。
「あっ、僕もいきます」
つい体が動いてしまう芳春を見て、萌荵は嬉しそうはやしたてた。
「二人でいってらっしゃぁい! 遅くなってもいいわよぉ!」
「うるさいわね! 萌荵っ!」
「萌荵さん、いってきます」
「気をつけてね」
萌荵に見送られながら、二人は夏の夕闇の中へ飛び出した。
この街は、少し変わっている。
見た目にはほとんど他の街と変わらないのだが、ときおり不思議なことが起
こる。座敷童子や河童を子供が見たと言うと、「小さい頃は、見えるものよ」
と親が答えるような、そんな不思議なことがそこらに転がっている。占い、祈
祷師、お祓い、神社、巫などが多いのはその副産物みたいなもので、神無月家
も古くからある名家だった。
夜が近くなり、街が青一色に染まるとき。外の大気は、まだ体の中から暑く
するような熱気を含んだ中、舞姫と芳春はすぐ近い学校までの道を、二人っき
りで歩いていた。
「舞姫さんは、更紗<サラサ>さんのように何かできるのですか?」
芳春は、神無月家三姉妹の長女の名を出した。以前、この人に母親を降霊し
てもらったことがあった。
「あの時みたいな?」
「はい」
「基本的にああいうことができるのは、更紗だけ」
ちらっと流し目をする舞姫の顔は、笑っていた。その美しい笑顔が自分に向
けられたものかと思うと、芳春はちょっと嬉しくなった。
「でも、偉大な守護霊のついている萌荵とは違って、私はちょっとだけ護身術
程度のものは教えてもらっているけど、使ったことがないわ」
「そうなんですか?」
「だって、そんな術が必要だったこと、芳春君はある?」
自分の名前を初めて呼ばれてどきっとしたが、何もなかったように装う。
「ないですけど」
「私も同じよ。私だけ特別ではないわ」
芳春はふうんとうなずいた。
「更紗は特別だけどね」
相変わらず十分に皮肉が込められているようなので、芳春は少々方向を変え
た。
「萌荵さんには、強い守護霊がついているのですか?」
「あの人は、霊にも好かれるのよ」
舞姫の表現は何となく萌荵にぴったりと合うような気がして、芳春はちょっ
とだけ笑った。
「ただ、あんまり強い霊が周りをおおっているから、萌荵は霊感っていうのが
ないの。更紗がいないと、幽霊とか見えないんだって」
「そうなんですか」
「でも、その方が幸せよね」
舞姫と話すと一つ一つが新鮮に聞こえて、芳春は思わず感心するように深く
うなずいてしまう。そして舞姫はその姿を見て、微笑んだ。
夏の夜道は暖かくて、お湯の中を歩いているような不思議な浮遊感がある。
銭湯に行った帰りに、まだお風呂の中に入っているようなあの温かい感じ。
蹴った石の音が、冬に比べて、まるく響きわたる。
ちょっと汗ばむくらいなのに、ふと駆け出したくなるようなアスファルトの
道を、二人は笑いながら歩いていた。
いつも通っている学校はもう、目の前にあった。
ちょうどその頃、校舎の中でちょっと不思議な起きていた。
3階の廊下に、ゆらゆらと陽炎のように大きな「顔」が浮かんでいた。
小学生ぐらいの大きさのただの「顔」は、髪の毛がほとんどなくて不要なほ
ど目を大きく見開いていた。
口をむっと曲げ、浮かんだままゆっくりと廊下を渡っていく。
それが自然なことのように、ゆったりと。
正門は閉まっていたが、裏門の横にある教員用の小さな門は開いて、二人は
その門をくぐって学校の中へ入った。
「実は、以前も入ったことがあるの」
「学校にですか? 恐くなかったですか?」
「別に。でも、その時は萌荵がついてきてくれたけど」
学校はかなり静かだった。虫の鳴き声も聞こえない。ただ、ひとつの外灯が
校舎の大きな壁を照らしだしていた。
舞姫にとっては芳春が横にいて、芳春にとっては横に舞姫がいる。大きな闇
と静寂は心の中にわずかな不安を作りだすが、舞姫と芳春はそれよりも大きな
安心感に包まれていた。
恐さを紛らわせるような口笛も吹かず、かといって沈黙してしまうでもない。
大きな静寂を壊さないように、二人は静かに語り合いつつ、校舎のあいだの小
道を歩いていた。
大きなコンクリートの壁。そして、グラウンド。背の高い外灯が、二人の影
を小さくまとめる。
視界の端に、ちょっと欠けた月がゆらゆらと、雲の中に身をまかせていた。
ウサギ小屋を曲がると、そこには大きな校舎が広がっていた。その校舎の片
隅には、開け放たれた扉があった。
「よかった。やっぱり開いてた」
二人はそうして、暗い校舎の中へ入った。不思議とどちらからともなく、声
をださなくなった。
外よりも暗い闇も、目がなれればそれほど困ることはなかった。入ったすぐ
の階段を2つ、3つ上がっていく。毎日歩いている階段は、夜はまた静かない
つもと違った様子でそこにあった。
ちょっとだけ息が上がりかけてきた3階で廊下へわたると、一本の長い道は
窓からの月明かりで美しく浮かび上がっていた。
「……きれいね」
静かな一言はあたりにしんっと広がり、心の中へとどいた。
そして、横を見る。舞姫の横顔をのほうがずっときれいだと、芳春は思った。
廊下を歩き、二つの目の教室に入る。舞姫の机は窓側の後ろの方の席だった。
机の横にかけてある体操着のはいった袋を手にとり、ほっとしたように舞姫は
抱きしめた。
月がかげったのと、舞姫の動きが止まったように見えたのが、だいたい同じ
時だった。
「舞姫さん?」
.......ァ...
様子がおかしかった。目がうつろで、何も見つめていなかった。
そして、何かを唱えていた。
...ァーマァ...シャダ..
芳春は見た。
教室のちょうど反対側の壁から、何かがとおり抜けてくるのを。
「顔」
ただの、大きな「顔」。
その「顔」が、口をかっぽりと開けた。
芳春の背中の毛が、立っていく。
こわい。
心臓がトクンっと音をたてた。
#2761/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10: 9 (160)
月夜話、其之四 「 小さな冒険 」 (2/3) ■ 榊 ■
★内容
「顔」の大きな口のなかに歯のようなもの、唾液のようなものが見えたと思
ったときには、すでに「顔」は凄いいきよいで向かってきた。
ぐん、ぐん、ぐん、と大きくなっていく。
そして、来た。
舞姫が振り返る。
「カンマンっ!!」
すごい風が、吹き荒れた。
あたりの席がいくつか跳ね上がり、芳春の服と髪がびゅっとはためいた。
「う゛っぃぃぃぃぃあぁ!!」
叫び声。
「顔」が粘土細工のようにへこんでいく。
そして、いくつかの塊となって飛び散った。
「芳春君、こっち!」
舞姫がぐんっと袖をひっぱる。
やっと意識を取り戻して、二人は教室から駆け出していった。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、という足音と胸の、トクン、トクン、という音が
一致するほど走った。
さっきよりもずっと暗い廊下を、すべるように走り抜けていく。
廊下を突き当たり、階段をかけ降りていく。
転びそうで、もどかしくて、二人で信じられないぐらい階段を飛び降りてい
く。
最後のおどり場をまわると、あの扉が当然のように閉まっていた。
かすかな不安。
扉をのぶをひねっても、押しても、引いても、ぶつかっても、扉は開かなか
った。
「駄目、開かないっ!」
「鍵は?!」
「それが開いてるみたいなのっ!」
舞姫の一言がいいもいえぬ不安になり、芳春は泣き出したい気持ちになった。
それでも必死にこらえて、あたりを見渡した。
「窓っ!」
二人は急いですぐ近くの教室に入り込み、窓に駆け寄る。
芳春が、もどかしく鍵を回して開け、窓を開けようとするが、たてつけたよ
うにピクリとも動かなかった。
「芳春君、どいてっ!」
振り返ると、舞姫が椅子をかがげて立っていた。
芳春が横にとびき、椅子が窓にぶちあたる。
「きゃっ!」
有り得ぬことだが、椅子の方がはね返り、ガラスは微動だにしていなかった。
「舞姫さんっ」
倒れこむ舞姫にかけより、抱き起こす。
「大丈夫。芳春君、おねがい、ここら辺の机をどけて………」
「うん、分かった」
座り込んだままの舞姫を中心にして、芳春は必死に机をどかしていく。
転がる机もあるが、気にせずどんどんと外にはじき出していく。
舞姫はふらりと、立ち上がった。
瞳を閉じ、ふるえる手で自分の足元にゆっくりと円をかく。
「芳春君、来てっ!」
動かしかけの机をほっぽり、舞姫のもとにかえると、「もっと近寄って」と
いわれ触れあうぐらいに近寄った。
今まで見た中でいちばん真剣な表情で、何かを呟く舞姫。
その呪文が終わったかと思ったら、崩れるように床に座り込んだ。
「舞姫さん」
「……この円から出ないように座って」
どうしていいか分からなかったが、あきらめて、膝を触れあわせるぐらい近
い位置に芳春は座った。
「この円の中にいれば、安全だから」
それを聞いて、少しだけ安心した。
心臓だけは信じられないぐらい早さで、トクトクトク、と音をたてていたが、
それがほんの少しずつ、もとの早さに戻っていく。
少しずつ、立っていた毛がもとに戻っていく。
でも、舞姫はさっきから下を向いていた。
「舞姫さん?」
舞姫はピクリとも、動かなかった。
「……舞姫さん?」
おそるおそる手をのばして顔を触ろうとしたら、その手にぽたりと何かが落
ちた。
水……涙っ!!
「恐いの。こんなこと始めてだし、こういうときに限って更紗は仕事でどっか
いってるし」
芳春はあわてふためいた。
舞姫さんが泣いている。それだけで、「顔」があらわれたとき以上のパニッ
クになってしまった。
どうしたらいいのかまったく分からないくせに、鼓動だけは信じられないぐ
らい大きく早くなっていく。
「萌荵はいないし、お父さんもお母さんもいないし、私ができるのはここまで
だし。これがもう、精一杯なの。これ以上、何もできないの」
ぽたり、ぽたり、と涙が膝に落ちる。
芳春はさっきまで舞姫がどんな時でも強い人なのだと、思っていた。
サ゚して今、やっぱり誰でも恐いのだと、気づいた。
舞姫は、那チ別な人でないことを、体で知った。
おそるおそる、顔にふれた。
触った瞬間、ぴくっと舞姫の体がふるえる。
「舞姫驍ウん……」
驚いた瞬間に、涙は止まった。
それでも、しばらくは相変わらず下を向いたままだった。
「そうね『舞姫』だものね。『姫』の名がつくからには、泣いては駄目よね」
一度、舞姫は顔をふると、はぁーっと深呼吸をする。
そして、ゆっくりと顔をあげる。
少しずつ見えてくる、顔。
眉、瞳、鼻、口。
涙に洗い練゚ャされた顔はいつもよりもずっと真摯で、まるでせ驍ケらぎのように
澄んで綺麗だった。
窓からの淡い光に映し出される、舞姫の姿。
芳春は、いままで味わったことのない、胸の苦しさを感じた。
そして、舞姫はにっこりと笑う。
極上の笑顔で。
あたりは、またあの静けさを取り戻していた。
なるで何事もなかったように。
月は相変わらず雲に隠れていて、うっすらとした光だけが机の転がった教室
を照らしていた。
つぃっと舞姫が床に書いてある円をなぞる。
「この円の中にいる限り、霊には見えないんだって」
舞姫はもう、すっかり落ちついていた。
声も、水のように穏やかで、澄みきっていた。
「力が続いてるばらくの間は安全。その間にきっと助けが来るはずだから」
「しばらくって、どのぐらいですか?」
「30分弱」
長いとも、短いともいえる。
「もし助けが来なかったら?」
舞姫の手が止まった。
芳春ははっとした。舞姫も不安なのだ。聞いてはいけないことだったのかも
知れない。
舞姫は、振り返り、微笑んだ。
「分からない」
我慢した笑いなのはすぐにわかって、芳春は後悔した。
ぎゅっと握った舞姫の手が小刻みに震えているのを見ると、もう芳春は恐ろ
しい「顔」のことなどどこかにいってしまった。
「えっ、えっと………僕、今まで幽霊ってあまり恐くなかったんです」
舞姫の震えがぴたっととまり、潤んだ瞳が芳春を見た。
少し色っぽくてドキッとしてしまったが、教壇の前で作文を発表する少年の
ように、一生懸命、続きを語りだした。
「怪談とか聞いても恐くなかったし、実際に見たこともなかったし。でも、一
つだけ恐いものがあったんです」
芳春が指を一本たてる。
舞姫が「……なに?」と聞いて、瞬きをしたとき、残りの涙が頬を伝わった。
「えっと、ほら、指がチョキをしている怪獣」
「もしかして、バルタン星人?」
最近、ウルトラマンも再放送していて、舞姫もその名前を知っていた。
でも、それにしても、バルタン星人とは。
それを聞いて、舞姫はやっと微笑んだ。
「はい、床屋で髪を切っている時に漫画で読んだんですけど、主人公の周りの
人がすべてバルタン星人になっちゃうという話だったんです」
「すべての人が?」
「うん、八百屋のおじさんも、知り合いも、家族も」
「ふぅーん」
「それで、なんか恐くなっちゃって。家にいたとき、暗闇からバルタン星人が
出て来るんじゃないかって、すごく恐い日が何度かあったりしました」
舞姫がくすくすと笑いだして、芳春は飛び上がるように嬉しくなった。
ひとしきり笑うと、舞姫は「……もっと何か話して」と呟いた。
優しい瞳。
幸せに包まれたような、優しい笑顔。
芳春は今度は自信を持って、話すことができるようになっていた。
「むかし力が弱くて、持ったもの何でも落としちゃった頃があったんです。そ
れで、アイスクリームを買ってもらったんですけど、そのまま落としちゃって。
泣いて、泣いて、泣いたら、新しいのをまた買ってくれたんです」
「良かったじゃない」
「でも、また落としちゃって」
今度は、声をだして笑った。
教室がほんの少しだけ、明るくなったような気がした。
#2762/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:12 (166)
月夜話、其之四 「 小さな冒険 」 (3/3) ■ 榊 ■
★内容
「舞姫さんは、何かないのですか?」
「私?」
うーん、と何か考える。
「私はあまり無いけど………お父さんとお母さんが神奈川の方に引っ越しちゃ
った時、私は更紗や萌荵と一緒に残ることに決めたんだけど、お母さんが心配
しちゃってね」
静かに、静かに、舞姫は語った。
「料理の真似ごととか、洗濯をしたりして、『お母さん、私でもできるよ。心
配しなくてもいいよ』って言ったんだけど、本当にいなくなったらすごく寂し
くって」
芳春は真剣に聞いていた。
「何度も更紗に、『お母さんどこ? お父さんどこ?』って聞いて、困らせた
ことがあったなぁ」
髪をかき上げると、ちょっとだけ寂しそうな笑顔が見えた。
「いるときは分からなかったのに、いなくなって初めて今までそこにいたんだ
って気づいて。いるわけが無いって知っているのに、いろんな部屋を開けて調
べちゃったりしたの」
「僕も、どの家にでもお母さんがいるって知ったときは、どこかに隠れてるん
じゃないかって探したときがありました」
「タンスの中とか?」
「ごみ箱の中とか」
舞姫はまた笑った。
「その時は真剣だったんですけど………」
うん、と舞姫はうなずいた。
二人の間だけで、なごんだ雰囲気が流れた。
振りむけば、静かに広がる教室があるというのに。この学校のどこかにいま
だ、「顔」がいるというのに。
そう芳春が思ったとき、舞姫が抱きついてきた。鼓動が一気に跳ね上がる。
「まっ、舞姫さん」
「……来た」
説明はそれだけで十分だった。
思わず体中の筋肉がかたくなった。
あたりを見渡すが、そこは変わらず静かな教室だった。
違う。
床から、何かが出てきた。
ぎゅっと舞姫の体をつかむ。
ところどころが欠け、焼けただれた「顔」が、ぷかりと浮かんでいた。
すぐ目の前に。
芳春は目をつぶった。
恐い。
恐い!
舞姫をくだけるほど強く、抱きしめた。
息などしていないようなのに、すぐ耳元で聞こえるようだった。
たれる涎。
ぎらついた歯。
もとのままの片目。
目をつぶっていても、あともう1cmのところまで来ていることを、肌で感
じる。
かっぽりと口をあけ、ほんの一口で飲み込んでしまう。
そう思っていたが、けっきょく何も起こらなかった。
永遠のような時がすぎ、気づいてみれば「顔」はいなかった。
もうそこは、静かなままの教室だった。
「もう大丈夫みたいです」
「うん……」
舞姫はそぅっと、離れた。
それでも、二人はしばらく落ち込んだように口を閉ざした。
早く、誰か助けにきて。
そうでないと、食べられてしまう。
残り時間は、ほんのわずかしかなかった。
「誰もこないわね」
芳春は何も言えなかった。
「もうすぐ、この円の効力もなくなるわ」
「はい」
「でも、最後まで頑張ってみるから、信じてね」
「何か手があるのですか?」
「他にもいくつか知ってる呪文があるから、それを唱えてみる。なにも効果が
ないと思うけど」
芳春は少し不安になったが、「顔」よりなにより、舞姫が泣いてしまうこと
の方が嫌だった。
「僕も頑張ってみます」
「うん」
舞姫はそう言って、何かを呟いた。
「4つ、かな思い出せるのは。この円が壊れる瞬間に合図するから、私から離
れてね」
「はい」
舞姫が顔をあげた。
やっぱり、今にも泣き出しそうだったので、芳春はまた慌ててしまった。
「あっ、あの。たぶん呪文、効くと思います。それに、危ない時になったら、
誰か助けに来てくれるかも知れませんし………ウルトラマンみたいに」
舞姫はぷっと吹きだした。
泣きながら、笑いながら。
ぼたぼたと涙をこぼすと、やっと落ちついて笑ってくれた。
芳春はほっと安心した。その時、舞姫が近寄ってきた。
これ以上近寄れないところまできて、そして、額にそっと唇が触れた。
温かな、柔らかな感触。
「有り難う」
とくん
一回だけの鼓動。
そして、今までいちばん強く、大きく、早く、鼓動が鳴り響いた。
「こわれたわ!」
もう恐いものは何もないっ!
芳春は舞姫から離れると、椅子の一つをつかんだ。
どこからか、叫び声が聞こえる。
二人を見つけたらしい。
風が吹いてくる。
廊下から。窓から。
叫び声が大きくなる。
すぐそこにいる。
廊下を。そして、すぐそこに。
来たっ!
舞姫が必死に、いくつかの呪文を唱える。
「顔」は一瞬ちゅうちょしたようだが、呪文が意味をなしていないことをし
ると、ゆっくりとさぐるように舞姫に近寄っていった。
まだ舞姫は、呪文を唱えていた。
かぱりと口が開く。
「顔っ! こっちに来い!」
芳春の声に反応して、「顔」の瞳がぐるりとこちらを向いた。
そしてもう一度、舞姫を見つめる。
芳春を見る。
そして、芳春の方に向かってきた。
どうやら万が一、舞姫からさっきのようなものを受けるよりは、芳春の方が
いいと思ったらしい。
教室の反対側へ逃げた芳春は、もう一度、椅子を構える。
「顔」が再び口をかぱりと開け、そして向かってきた。
芳春は必死にその口の中に椅子を投げ込み、横に逃げた。
ぐしゃっ
振り返ると、もうすぐそこに顔があった。
ぱっかり開けた口には、ひん曲がった椅子があった。
なす術はもうなかった。
食べられるっ!
その時、すべてが白く輝いた。
まばゆいばかりまでの光。
ほんの一瞬のできごと。
光が消えたとき、「顔」はもうどこにもいなかった。
二人はもたれ掛かるように寄り添いながら、家路についていた。
外はもうまっくらで、今になってやっと月が明るく光っていた。
歩いている人が見えたときは、嬉しくて涙が出そうだったけど、二人はただ
もう寄り添って歩くぐらいしかできなかった。
「最後に唱えたのは、どんな呪文だったんですか」
芳春は、これだけは聞いておきたい思って、呟くように聞いた。
「最後のはね………霊を呼ぶ呪文」
「え?」
「だから助けてくれたのは、何かの霊なの」
どんな霊がいったい助けてくれたのだろう。
あの明るい光。
すべて包み込むような、温かい光だった。
たぶん霊に好かれているのは、萌荵だけではないのだと、芳春はふと思った。
家につき、玄関を開けると、出てきたときと変わらない土間があった。
あたたかい、住み慣れた家。
「舞姫?」
食堂からタオルをかぶった萌荵が、顔をだした。
そして、二人を見て目をまん丸に開く。
「……どうしたの、二人とも」
そう言って、軽い足どりで二人のもとに来て、そして頭にかけていたタオル
で二人の顔をおおった。
タオルは温かくしめり、ほんのりとリンスの香りがした。
そのタオルでごしごしと顔を拭かれた二人の子豚は、やっと子供ように泣き
だした。
わんわんと泣くと、萌荵が優しく抱きしめてくれた。
月夜の晩の、そんなお話。
#2763/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:15 (143)
月夜話、其之五 「 一生懸命 」 (1/2) ■ 榊 ■
★内容
眠っていた芳春<ヨシハル>の頭の中に流れてきた歌声は、夢の中のものではなかっ
た。その出所を求めるように目が覚めると、しばらくぼうっとした頭は天井の薄
暗いようすを浮かび上がらせることしかできなかった。やがてはっきりしてくる
と、その静かな歌声が窓の外から来ていることが解った。
子守歌のような、若い女の声。まだ少し眠い体をおこした芳春は、窓際まで歩
いていき、網戸ごしに庭をながめると、いつものように欅の近くにすわる更紗
<サラサ>と、それに向かいあうか細い少年の姿がみえた。
とても、とても細い少年で、どこかおぼろげに光っているようにも見えた。何
となく気になって、芳春はその声につられるように、そっと庭に出てみることに
した。
からん……と音をたてながら下駄をはくと、芳春は裏口から庭に出た。夜の庭
は静かで、風が草をさらさらと撫でる音と、みぃーみぃーと小さく鳴く虫の声、
そして、更紗の消え入りそうな歌声だけが、庭に満ちていた。
ちょっと欠けた月と外灯にてらされた緑の芝を、芳春はしゃらしゃらとかき分
けて歩いていく。それにつれて、あの細い少年は立ち上がり、やがて、煙のよう
に輪郭をなくしていくと、そのまま消えていってしまった。更紗の元についたと
きには、もう、その痕跡すらそこには無かった。
「起こしちゃった?」
更紗は虫を驚かさないように、静かな声で語りかけてきた。
長く、少しウェーブのかかった茶褐色の毛。そして、無邪気な笑顔。ちょっと
とぼけたようだが、長女でありこの家の当主でもある、いつもの更紗がそこにい
た。
「やっぱり今の幽霊だったのですか」
「うん。つい最近、病気で死んじゃった男の子。たった今、成仏しちゃった」
そういえば、ちらっとだけ見えたその幽霊の横顔は、何となく嬉しそうだった。
あれが、霊の成仏するときの様子だったのだ。芳春はぺたんとそのばに座り込む
と、あたりを見回した。
さら、さら……さら
草がこすれあう。樹木が揺れて葉がかさなりあう。
空を見上げると、大きくて真っ白な月と、たくさんの星。
静かな、夜の庭。
「もしかして更紗さん。いつも、こんなことをしていたのですか?」
「芳春ぅ、もしかしたら、私がいつも遅くまでただ堕眠をむさぼっている思って
いたのぉ?」
芳春はこっくりとうなずこうとして、あわてて首を横にふった。
「この野郎ぉ、いい度胸だ」
更紗はにじり寄ると、逃げだそうとする芳春を抱きかかえ、わき腹をくすぐっ
た。
「あはは、更紗さん! ごめんなさいぃぃっ!」
「よろしい」
夜のせいか、更紗の攻撃はすぐにやんだが、静かなムードは吹き飛ばされ、い
つものペースになっていた。
うぅ、わき腹がこそばゆい。
「どうも、勘違いしているみたいね。ちゃんと説明しておくけど、私の本業は小
説家なのよ」
「え?」
「誰も認めてくれないけど、お祓い屋が副業、小説家が本業。別にぐうたらした
くって、副業の請求額をこんなに高くしたわけじゃないのよ。本業をしっかりや
りたいから、依頼数を少なくしたかっただけ」
「そっ、そうなんですか」
「あ、疑っているな」
更紗がまたわき腹をくすぐる用意をしたので、芳春は思わず必死に首を横にふ
った。
「いいわよ、どうせ副業の方が収入が大きいから、そう思われるのよ」
「どんな本を書かれているのですか?」
最近、話を横にそらすのが上手くなってきたなぁ、と芳春は心のなかで呟いた。
「幽霊の人の話。こうして座っていると、成仏できない人がいろいろ話しかけて
きてくれるのだけれど、それを小説化しているの」
「………」
「生きている人に聞いて欲しい、いろいろなことを私に訴えに来るの。全国から。
それをまとめて小説にしているのだけど………あまり売れないのよぉ」
「どっ、どうして売れないのですか?」
「解っているんだけど、文才がないのよ、わたし。夢かなって、本は出している
けどね」
ちょっとだけ伸びをして、更紗は立ち上がり、ジーンズについた土や草を軽く
はらう。
「芳春ちゃん、お腹すいちゃった。一緒に食べにいこ」
「こんな夜中にですか?」
「私にとってはこれからが夕食なの」
昼食が朝食になっているのだから、なるほど一食ずつずれているらしい。辞退
するかを考える間もなく更紗にせかされ、芳春はけっきょく一緒について行くこ
とになってしまった。
寝巻きを着替え、芳春は更紗の待つ車庫に向かった。車庫には大きな車とバイ
クがそれぞれ一台ずつ、置かれていた。エンジンがかかっているのはバイクの方
だった。
「………まさか、バイクでいくのですか」
「もちろん、バイクでいくのよ。はい、ヘルメット」
一抹の不安。それでも、大きめのヘルメットをかぶると、更紗にひょいと持ち
上げられて、タンデムシートに乗せられた。二人乗り用のステップはあるものの、
ぎりぎり足がつく程度で心もとない。たんっと更紗が前に座ると、赤ちゃんをお
ぶうときのようなベルトがまわされ、いちおうは固定された。
グローブをはめ、ゴーグルをつけると、軽くアクセルを回す。ぶぉんと、軽快
な音と振動が伝わる。
「じゃあ、いくよ」
ぎゅっと更紗の体をつかむと、それを合図にして黒い機体はゆっくりと動きだ
した。
芳春にとって、24時間レストランにつくまでは、必死に更紗に抱きつくこと
と、信号の度に深呼吸することぐらいしかできなかった。15分ほど走ったのか、
気づいてみればバイクはレストランからの明かりに照らされた、思いのほかこみ
あった駐車場についていた。
ライトが消え、ふぉんと言う音のあとバイクはもとの静けさを取り戻した。ふ
たたび抱きかかえられてシートから降りると、やっとヘルメットを取ることがで
きた。
「ぷはっ」
「ご苦労さま。ちょっと恐かった?」
優しい姉のように、笑いながら更紗が聞いてきた。どうもこの人は、からかう
ことで相手に愛情をあらわす人のようだ、と芳春はため息とともに考えた。だか
ら、憎むことができない。
はたから見れば親子のような二人組は、明るい店内に入っていった。中はこん
な時間だと言うのに賑わい、夜の喧噪を作り出していた。更紗と芳春は、ウェイ
トレスの後について、4人用の窓際の席についた。
芳春はジュースとケーキを、更紗はツナサラダとハンバーグのセットを頼むと、
やっとひと心地ついて、二人はどちらからともなくため息をつく。
外を見ると、ときおり通る車のランプが広い国道に流れている。それでも動い
ているものはそれぐらいで、すべての店はきっちりと閉まりきり、闇の中にとけ
こんでいるようだった。そして少し遠くにある信号だけが、黄色い点滅を繰り返
している。
店内は主はカップルや、何かのグループらしき青年集団だったが、なかには中
年の二人組や勉強している若者もいた。広いレストランの席は6割がた埋まって
おり、前後の席もそれぞれカップルと女だけの4人組が座っていた。
「いつも、ここにいらっしゃるのですか?」
「私はそんな不良娘じゃないぞ。いつもはだいたいは、舞姫が作りおきしておい
てくれたものを食べている。まぁ、ときおりはこうして外で食べているけど」
ふぅんとうなずいている間に、早くもジュースとケーキ、それにツナサラダが
来たので、それぞれほうばり始めた。
「しっかり説明しておくけどね、だいたいいつもあんな感じで幽霊とお話してい
るの。朝の夜明けとともに眠って、昼頃起きる。だいたいいつもこのパターン。
そして昼間は主に本を読んだり、小説を書いたりするのが毎日の日課」
そこに宴会やら、飲み会が入るわけですね、と言いかけてやめた。最近、舞姫
に似てきたかも知れないと思う芳春であった。
「昔は、この幽霊とお話するのが嫌でね。私の方が悩みを誰かにぶつけたいのに、
夜中になるといろんな幽霊が私のところに来て、訴えてくるの。それで、ちょっ
とぐれちゃった」
そう言って更紗は笑ったが、芳春は笑うことはできなかった。
更紗は、小さな時から跡継ぎとしての教育はされてはいた。それでも、普通の
人間であることにかわりのない更紗は、恋や友情、学業などに悩んでいた。それ
なのに、夜になると容赦なく幽霊があらわれ、呪いの言葉、悲しみの言葉、後悔
の言葉、辛い言葉をはきかけてくる。布団をかぶっても、枕で耳をおおっても聞
こえてくる声から逃れることができない毎日がすぎれば、ちょっとぐらいぐれて
も誰も文句は言わないだろう。
辛かった、逃げたかった。すべての業から逃れたいと思ったが、やがてその苦
しみを素直に受けとめられるようになった時、更紗は後をついだのだった。
言葉の裏に含まれたそんな一生懸命の奮闘は、雰囲気だけしか芳春には通じな
かっただろうけど、そのうち解ってくれるかも知れないな……と、更紗は考えて
いた。
芳春は解ってかどうか、ふうん……と呟いてふと外を見た。
#2764/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:19 (147)
月夜話、其之五 「 一生懸命 」 (2/2) ■ 榊 ■
★内容
ぱらん、ぱっぱっぱっ
数台のバイクと単車が、窓の外を通り過ぎていく。暴走族とか、最近では「ロ
ーリング族」などと呼ばれる集団は、かなりけたたましい音をたてていた。
「やあねぇ」
「うるさいわよね」
その声は更紗の裏に座っていた、女4人組から聞こえてきていた。少々派手な
女子大生か、OLと思わせる集団だった。その声を聞いて、ほんの少しだけ更紗
の顔から笑いが消え、静かに水をこくりと飲むと外を見つめた。
「あの人達は確かに、他人に迷惑をかけているけど、その事実を知っている。他
人に迷惑をかけていないと思って、人を傷つけていることに気づかない人と、そ
れほどかわりはなんてないと思う」
後ろの人に聞こえているかどうか解らないが、明らかにその人達に対しての言
葉のようだった。
「あの人達はああするのが普通だったり、楽しかったり、ほかのことから逃げた
かったりしてやっているのだけれど、そういう風にはとれないものかなぁ」
更紗はかつて、暴走族との交流もあった。それで知ったのは、相手もやっぱり
ごく普通の少年少女達でしかないということだった。別にかわいそうでもなけれ
ば、恐そうでもない、いきがっているけど、ほとんどは優しい。
確かに迷惑はかけている。でも、誰もが人に迷惑をかけている存在だというこ
とを知り、そして、遠くに存在するように見える彼らのことも、やはり同じなの
だと思う人が一人でもいないものなのだろうか、と更紗は思うのである。
知性とはすなわち、相手のことを思う想像力と、先を読む思考力のことではな
いのだろうか。
「心との戦いにはぬくぬく育った人達よりは、よっぽど一生懸命に生きているん
だけどね」
暴走族は、しばらくしてふたたびガラスの前を通り過ぎていった。その時、更
紗が大きく手を振ると、向こうからも手を振りかえしてきてくれた。店内はちょ
っとびっくりしたように、更紗のもとに視線が集中した。
「知り合いでもいらしたのですか?」
「いないよ」
「じゃあ何で」
更紗はにっこり笑った。
「やってもらうと、嬉しいのよ」
バイク乗りは、旅先でよく他のバイク乗りにピースサインをおくって、挨拶を
交わす。それはけっして礼儀ではなく、お互い共感して交わしあうもので、その
一瞬だけ孤独から解放され、すっかり嬉しくなる。
更紗の行動はそんなところらしいが、芳春にはまだ少し理解し難かった。
やがて外はもとの静けさを取り戻し、店内も喧噪を取り戻した。ただし、4人
の女組の声だけは静かになっていた。
更紗に賛同して声をひそめた子。恐いと思った子。言い分に怒った子。
いろいろいるのだと思う。
でも、いろいろな人の気持ちを考えて欲しい。
いま人が増え、情報が増え、横にいる人のことを考える暇がなくなってきたか
ら。
更紗はそのことが言いたくて、小説家になったのだから。
お腹も満足して、二人は帰路についた。
バイクが走り出してもさっきほどは恐くなく、芳春はあたりを見回すぐらいは
できるようになった。そうなると、灰色のアスファルトがすごい勢いで流れてい
くのが見えた。そして、外灯がひとつ、またひとつと遥かうしろへと通り過ぎて
いく。
「更紗さぁーん!」
一回目は更紗にとどかなかったが、二回目の呼びかけには気づいてくれた。
「なに?」
速度が少し落ちて、風の音が優しくなった。
「今日の男の子はなにを、伝えに来たのですか!」
「えっ、なに? あの幽霊のこと?」
「そうです!」
「あの子はね、筋ジストロフィーで指一本動かすことのできない子だったんだっ
て! それで両親に、看護婦さんに、医者に迷惑をかけるばかりの存在だから、
早く死にたいってそればかり考えていたんだって!」
バイクは町並みを抜け、山あいのワインディングロードへと移っていた。他に
車もなく、バイクもなく、優しくなった風の流れに身をまかせながら、カーブを
ゆるやかに抜けていく。
ぶろろ、と一定の振動も気にならず、いつしか空を飛んでいるような気持ちに
なってきた。林がすごいいきおいで抜けていくのに、星はいつまでも目の前に光
っている。そして、ほんの少し、更紗から柔らかな石鹸のような匂いがした。
「だけれども、指一本動かせないから自殺することができない。それで考えたす
え、食べることを拒否したんだって。点滴とかで栄養は補給されるけど、体はみ
るみる衰弱していって、本当にそのまま死んでいくはずだったらしいの」
カーブを曲がると、そこからはずっと下りの道となった。そして、光の粒が眼
下に広がった。自分の住んでいる街。自分の育った街の、あたたかい家の光。長
くゆるやかになった下り道が、ずっとその街へ吸い込まれるように、長く、太く、
続いていた。
「ある日、いつものように必死にスープをお母さんが飲ませようとしていたのを、
ただ固く口も目も閉じて反抗していたんだって。でもとうとう、お母さんがこら
えきれずに泣き出してしまったの」
静かに、子守歌のように更紗の声が流れゆく。ただもう眠たくて、意識だけは
っきりしているのに、夢の中にいるようだった。
光が不思議なほど柔らかく、アスファルトを照らしている。きれいな、きれい
な路面。
「その涙がぽたりと顔に落ちたときに、もうこれ以上お母さんを苦しめることは
できない、そう思って、一口だけスープを飲んだんだって。そうしたら、お母さ
んが、そんな大声のあげたことのない人なのに『看護婦さぁーん! この子が、
この子が飲んでくれたの!』って叫んで、みんなで喜んでくれたんだって。その
時にね、何の役にもたたない自分でも、生きているだけで周りの人が喜んでくれ
るんだ、無駄な人間ではないんだって、気づいたんだって。それを他の人にも伝
えたくて、私のところに来たの」
世の中に何の役にもたたず、むしろ迷惑ばかりかけている人間でさえ、無駄な
人ではないのだと言うことを、伝えたい。
かかわっている人がいるのなら、生きて。
頑張って。その時がくるまで。
一生懸命生きていれば、きっといつか何かを得ることができるのだから。
家についたとき、芳春は眠りについていた。
夢を見るような、安らかな寝顔で。
すべてのことを、その小さな胸にひめながら。
更紗は微笑み、二人を縛っていたロープをほどくと、芳春を優しく抱きかかえ
た。
月夜の晩の、そんなお話。
------- 後書き -------
今回は少々ボルテージが低いかも、とも思ったのですが、しょうがない。
どうしても起承転結のととのった「物語」と言うよりは、「日記」ものを
書きたいらしいのです。でも、その中でも凄いものを、鮮明に頭の中に残
るようなものを書きたいのですが……なかなか上手くいかないものです。
今の理想は、芥川龍之介氏の「トロッコ」と「蜜柑」なのですが、試験
的な試みも読み返してみればまぁったく効果をはっきしていない。頑張っ
てやる。
それでも、この作品は、作品化したかった。
ここでお断りしなくてはいけないのですが、最後にでてくる「筋ジス」
の少年の話ですが、学陽書房出版・関根正明著「『教師を辞めたい』とき
に」に書かれていた話をもとに書かれた実話です。この本の価値を下げる
行為ではないと思っているのですが、何らかの問題が生じた場合は、すべ
ての責任は僕にありますことをここに明記しておきます。ただもう、本当
にこの体験談を少しでも多くの人にちらっとでも読んでもらえればなぁ…
…と思い、作中に取り入れました。
そして、暴走族に手を振る行為は、僕の後輩がじっさいにやって見せ、
少々ショックを憶えたものをもとに書いています。寂しいのでしょうね。
心のどこかは。
更紗のいろいろな設定が出てきましたが、これはまたきっと、これから
の話に関係してくることでしょう。
もういまさら遅いのですが「月夜話」と言う題の由来は、「月夜の晩に
読んで欲しい、そんなお話」なのです。だから別に、作品中にかならず月
夜の晩が関係してくるような規則はまったく作る気はないのですか、でも
実際に月夜の晩がよく出てくるだろうな、とは思っていました。好きです
から。
そして、日記のような、よくある話をいろいろな事件とからませながら、
真剣にみつめ、書き続けていきたいと思っています。
そんなたわいもない作品ですが、次を待って下さる人がいれば、これ以
上の喜びはありません。(^_^)
それでは、また。次の作品で。
#2765/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:22 (165)
月夜話、其之六「 三人の少年と合宿 」 (1/3) ■ 榊 ■
★内容
八月の終わり。みんみぃんから、つくつくほうしへと、蝉の鳴き声も季節
の変化を告げていた頃、神無月家のお屋敷はいつになく騒がしかった。大き
な家の中ごろにある道場で合気道の合宿が開かれるため、参加する子供とそ
の両親が庭に集まっていたからである。
その合宿に参加する人数は十五人とそれほどの規模はではなかったが、小
学生から高校生まで幅広い年齢の男女が入り交じり、仲の良い兄弟姉妹が集
まったような賑わいをみせていた。ある者は自分一人で元気に訪れ、まだ幼
い子は両親に連れられてくる。大きな庭はいつになく人で溢れていた。
一人旅行かクラブなどの合宿で、だいたいの子供は初めて親と離れる経験
をする。親から引き離された子供は、大方ものすごい不安や寂しさにさいな
まれるのだが、そこで見る世界は今までとはまったく違っていて、やがて親
から離れた自分というものに慣れてくる。子供は「自立」という言葉を、そ
うして体で憶えはじめるようである。
小学二年生の「康助<コウスケ>」という男の子は、おかっぱの頭とぷっくらと
した容姿をしていて、まだ幼稚園のような幼さを全体的に残していた。ちょ
っと気の弱い子供で、別れようとする両親の姿を見て、泣き出しそうなぐら
い顔をゆがませ、眉間にしわをよせていた。
「康助、じゃあ私達は帰るからね。頑張るのよ」
そう言い残して、両親はいっそ潔いほどそのまま帰ってしまうと、康助は
すっかり泣く機会を失ってしまったが、相変わらず寂しさを必死に耐えてい
るような表情をしていた。やがて、あきらめたがついたのか、とぼとぼと道
場に向かって歩いていった。
やはり同じ小学二年生の「翼<ツバサ>」という男の子は、反対に元気一杯で、
親と離れられることがいかにも嬉しそうに笑っていた。親はちょっと心配そ
うな表情をしていたが、子供に説得されて、そのまま家へ帰って行った。
「やっと行った。せいせいした」
と言うと、少年は道場に向かって走って行った。
二人は同じ小学2年生の、はじめて親から離れた子供達だった。
一般の小学生の参考にはならないが、神無月家三姉妹の末妹「舞姫<マイヒメ>」
はその頃、食事の用意でおおわらわしていた。もっとも、手ではなくもっぱ
ら口が動かすのに苦労をしていたのだが。
合宿参加者15人+先生1人+扶養家族3人。合計19人分の食料を作ら
なくてはいけなくて、台所には手伝ってくれる母親や近所の奥さんがひしめ
き合っていた。その中央でいつもの黒い脚立の上に立ち、
「あっ、村上くんのお母さん。魚のはらわたお願いしまぁす! 木村さんの
お母さんは、パセリの方を!」
という調子で、気を許すと井戸端会議をはじめてしまうお母さん達を、必
死にとりまとめている。メガホンでも欲しいものだわ、と舞姫は心の中だけ
で呟いた。
「舞姫ちゃん、えらいわねぇ。料理から洗濯までこなしちゃって。うちの子
にもすこし見習わせたいわ」
「でも、いつかは憶えることですから、急がなくてもいいんじゃないですか?
今は他のことを吸収する時期だと思いますし」
「そうね。でも、舞姫ちゃん、成績もいいんでしょ?」
「でも、可愛げがありません」
みんないっせいに笑った。
「なに言ってるの。こんなに可愛いのに。本当に私の子と交換したいくらい
だわ」
舞姫は微笑みでこたえ、そしてそっとため息をついた。自分はそんな良い
子ではないと思っている舞姫は、褒められると何となく疲れてしまう。それ
に、それでもやっぱり自分の子が一番なのだろうし。
いくつかそんなたわいもない話を交わしていたが、その中でひとつだけ舞
姫の心に残る話があった。普段から無口なとある母親が、ふと舞姫に変わっ
た質問をしてきた。
「舞姫ちゃん、御両親は元気?」
「はい。元気ですけど」
「相変わらず仲がいい?」
「うっとうしいぐらい」
「そう、いいわね」
その母親はそういってまた黙ってしまった。
「何かあったんですか?」
話すことが気が向かないようで、しばらくは何もいわなかった。
「……あのね。高坂さんのところ、とうとう別居したの。妹が嫁いでいるか
ら、心配で」
それきり、また黙ってしまった。
親の方は知らないが、その一人息子はこの合宿にも参加していて、舞姫も
良く知っていた。昔から暗くて落ちついた雰囲気の子(といっても、舞姫よ
りはずっと年長なのだが)だったのだが、最近はまたとくに暗さに磨きがか
かってきたなぁ、と思っていたところだった。
それでも、合宿にはしっかり参加しているし、今もきっといつものように
練習をしているだろう。
子供でも悩みありね……と、舞姫はふと道場の方をながめた。
合気道の先生は、「甲斐武人<カイ タケヒト>」という60をこえる老人ではあ
るが、いまだ髪も黒々としていて、それらしい雰囲気は微塵も見られない。
いつでも真剣な表情と優しい笑顔しか見せぬこの先生は、小さな子供からも
好かれている。隣街に住んでいるため、普段は週に一回しか教えることがで
きない。そこでこうして、夏の休みを利用して毎年合宿が行われるようにな
ったのだった。
練習という割には過酷さはなく、一人一人に丁寧に教えてくれるだけであ
る。それでも子供達ははしゃぐこともなく、この時間だけは真剣に先生のい
うことに耳を傾け、いわれるように一生懸命からだを動かしていた。
ただそれでも、「ご苦労さま、今日はこれまで」、という先生の静かな言
葉が、相変わらずいちばん好きなのだが。
練習が終わり、わぁ、と歓声が上がり順番に着替えたり、お風呂にはいっ
ていったりする。道場はすぐに夕食の用意がならべられ、外は夕方を迎えよ
うとしていた。年の幼いものから、親にいたるまでみな均等に働いて、夕食
はすぐにととのった。
「高坂健士<コウサカ タケシ>」はその時、ぐうぜん神無月家に居候している芳春
<ヨシハル>の隣に座った。
「久しぶり。本当にここにお世話になってるんだね」
健士に話しかけられ、芳春はちょっと恥ずかしそうに笑い、うなずいた。
二人は遠縁の親戚の間柄で、ふだんは無口な健士も芳春は話のしやすい相
手だった。どうも芳春とは精神的な波長が似ているようで、ぜんぜん緊張し
ないせいだと健士は思っている。
「萌荵さんとか、舞姫ちゃんとか。みんないい人ばかりだからね。居心地が
いいだろう」
「うん」
「いいなあ」
二人の間はそう多くの言葉を必要とせず、それだけの会話だけで十分満足
してしまった二人は、目の前にある夕食を食べることに専念することにした。
ただ時折、健士はその箸の動きを止め、ぼぉっとしている時があった。芳春
もそのことに気がついたが、とくに聞き出すことはしないことにした。
「芳春、ちょっと二人で話をしたいんだけど」
食べ終わり、芳春が食器を片づけて部屋に帰ろうとしたとき、思いきって
健士は芳春に声をかけた。芳春は一度首をかしげたが、すぐににっこり微笑
んで「いいよ」と答えた。
「ついてきて」、芳春にいわれて連れていかれたのは、2階からさらに梯子
を上ったところ、つまり屋根の上だった。そこだけ平らになっていて、芳春
は体育座りをして、健士はあぐらをかいて並んで座った。
平らな部分はそんな広くなくて、ちょっとおっこちそうな気がして、健士
は下の方をちらっとながめた。庭の芝がすこし遠くに見えるけど、そんなに
恐さは感じなかった。それよりも、あたりの景色のほうが目についた。
ちょうど目の前には海が広がっていて、かなり黒くなった海面が広がって
いた。海は真っ黒なわけではないのに、もしかしたら月が入ったらすべて飲
み込んでしまうかな、と思えるような深い色合いをしていた。
あたりはもうだいぶ夜になり、まだ幾分青さを残した空にはてんてんと星
が瞬きはじめていた。いっとう明るい星はたぶん水星で、太陽がそのかけら
を落としていったみたいに、見上げたあたりで光りかがやいていた。
下からは、みんなの声が聞こえてくる。ちょうど道場の真上にあたるらし
いが、こちらの声は聞こえないはずだ。ちゃんと芳春は気を使ってくれてい
た。
「どうぞ」
「うん、いいところだね」
「悩んだらここに来るといい、って更紗さんに教わったんだ」
「なるほどね」
健士は話し始めようと思ったが、しばらく黙って目の前にある空と海をな
がめることにした。こんな光景はしばらく見ていなかったし、そしてこれか
らも見れるかどうかは解らない。当たり前すぎる光景は、気にしないと見落
としてしまうものだから。
心が落ちついて、気持ちの整理がついて、そして健士は語りだした。
「親が別居したんだ。とうとう」
「うん」
「仲が悪いのは昔からだったけど、別居するほどとは思っていなかった」
「うん」
「どうすることもできないのは知っているけど、辛くて誰かに聞いて欲しか
ったんだ」
二人の間に沈黙がおりた。でも、緊張感はなく、こうした沈黙がどちらか
と言えば心地よいものでさえあった。この頃になると、海風もちょっとは涼
しくて、二人の間を通り抜けるのが気持ちよかった。そして、とにかく誰か
に聞いてもらえた解放感から、健士はいくぶん気持ちがすっきりするのを感
じていた。
別に芳春に相談もちかけたわけではないことは、二人とも了解していた。
芳春はそれほどの人生をまだ経ていないのだからしょうがない。ただこうし
て、信頼できる人に聞いてもらいたかっただけなのだ。
友人でもなく、親でもなく、先生でもなく。信頼する、血のつながりのあ
る誰か。家族の秘密を打ち明けるのに、芳春は一番いい相手だった。そして、
本当に少し楽になり、健士はそれで満足だった。
「親が両方そろっているというのも、大変だね」
芳春がふと、呟いた。健士はその言葉を聞いて、芳春の母親は彼を産んで
すぐ亡くなった事実を今更おもいだし、そして、自分がすべての不幸を背負
っているような気持ちになっていたことを、少しだけ恥じた。
「後免。母親がいるだけ、まだ僕の方がましかも知れないね」
「そんなことないと思う。だって、僕はいま幸せだから」
「そう」
「うん」
「……有り難う、話ができて良かった」
健士は本当にそう思った。
二人の横顔に、やがて月のひかりが投げかけられ始めていた。
#2766/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:25 (148)
月夜話、其之六「 三人の少年と合宿 」 (2/3) ■ 榊 ■
★内容
毎年、合宿の恒例行事は、夜中におこなわれる怪談大会と花火大会だった。
今年も寝る用意のできた子供達は、円を作り明かりを消して、怪談大会を始
めていた。
べつに強制はしていないので、怪談が恐い人達は違う部屋で別の話で盛り
上がるのだが、つい見栄をはって怪談の方に顔を出してしまった人の中には、
年長のお兄さんお姉さんと一緒にひとつの布団にくるまなければ眠れなくな
ってしまう子もでてくる。
今年も、何人かの女の子が舞姫の部屋へいって盛り上がっている様子だっ
たが、怪談の方もいつにない盛り上がりを見せていた。
「ある高校でおきた話なんだけど、漫画を描いている人がね、夜中まで部室
に残っていたんだ。どうしても原稿を描きあげなくちゃいけないらしくて、
やむなく泊まったのだけれど、その部室はかならず幽霊がでるって有名だっ
たんだ」
中学3年生、普段はどちらかといえば静かな少年だが、こと幽霊に関して
は右にでるものはないと言われていて、この怪談大会にはもはや欠かせない
存在になっていた。彼の話は話し方も間合いもよく、けっこう恐い。
寝巻きになって円をつくる女の子の中には、枕をぎゅっと抱きしめる姿や、
となりの子の服を離さない子も見られた。
「その幽霊と言うのが毎回決まっていて、首のない幽霊がドアを叩くんだっ
て」
女の子が、ひっ、と言って横の子の肩に目をふせた。
「その昔、ものすごく絵の上手い人がいて、等身大の人物像を描いてこの部
室に残していったんだけど、何代目かの人がその顔が気に入って、顔の部分
だけ切りとって家に持ち帰ってしまったらしいんだ。その幽霊は、その顔を
もとめて、部室にさまよいでるようになったんだって」
少年の口はよりいっそう、静かに真剣味をましていった。
「それでその子は、描きあげたらすぐに家に帰ろうと思っていたんだけど、
ついつい遅くなってしまって、気づいたら夜中の2時になっていたんだ。
『あっ、もうあの幽霊のでる頃だ』と思ったとき、ドアがドンドンと叩かれ
た。もし部員や用務員のおじさんだったら、そのまますぐに入ってくる。幽
霊がきたってすぐに解った。それで無視し続けたんだけど、ドアの音がどん
どん大きくなっていく。開けて入ってくればいいのに、ドアの叩く音だけが
どんどん大きくなっていく。ドンドンッ!! ドンドンッ!!……って。し
ばらくは耐えていたんだけど、ドアの音はもう耳を必死に閉じていても耐え
られないほど大きくなっていったんだ。出口は一つしかない。もうその子は
逃げ出したくなって、とうとう自分でがらってドアを開けた。……………そ
して、そこに立っていたのは、首の断面がきれいに見える幽霊だった」
一人二人、泣き出してしまった。
翼でさえだいぶ元気をなくしていたが、逆に康助はいくぶん平気そうだっ
た。
健士は隣の同じクラスの女の子に抱きつかれた。女の子はすぐに気を取り
戻して、「あっ、後免」と顔を赤くして離れる。健士が「大丈夫?」と訪ね
ると、その女の子はさらに顔を真っ赤にしてぶんぶんと顔を縦に振った。健
士にはその反応がどんな意味を持っているかは解らず、すぐに元のように顔
を戻した。
ちなみに、芳春と萌荵はいたって慣れた様子であった。このぐらいは、日
常茶飯事とでもいいたげである。
「その子はもうたまらなく恐くなって、その幽霊を押し退けるようにして外
に飛び出して、死にものぐるいで家に帰った。そして、二度と泊まる人はい
なくなったんだって」
一時間ほども続いた怪談大会もこの話でお開きとなり、年長組は幼い人達
を便所に連れていき、わいわいと騒ぎながらも道場でみんな眠る用意を始め
た。
「康助くん、一緒に眠らない?」
たぶんこの子は一人では眠れないだろうと思った、合宿参加メンバーでは
年長組になる萌荵<モエギ>は、自分から声をかけた。こういう子は、まだ自分
からは誘うことができないはずだから。
康助はちらっと萌荵を見て、少し考えるように下を向き、やがて首を横に
振った。やっぱり恥ずかしいらしい。
「うん、解った。じゃあ、一つだけいいこと教えたげる。眠れないときは、
無理に眠ろうとしないこと。その方があとでよく眠れるの。お休みね……」
こくんと康助はうなずくと、萌荵は微笑んで、代わりに別の女の子に声を
かけにいった。その女の子は恥ずかしそうにうなずいて、二人は一緒の布団
で寝ることになった。
そして、闇が訪れた。
2時間後、やはり康助は眠れなかった。
どうも布団の居心地が悪くて、落ちつかない。でも、怪談のせいではない
ようだった。自分でも意外なのだが。
今ではもう、ぱっちりと目を開けてしまっていて、しばらくは眠れそうに
なかった。萌荵の「無理に眠ろうとしないこと」という言葉を頭の中で反復
すると、康助はむくりと体をおこした。
庭に面するカベは障子になっていて、月明かりがその白い紙をとおして道
場の布団の群れを照らし出していた。布団はぴくりと動きもせず、青や赤の
色彩をいろどっている。障子の方に目をやると、白いスクリーンとなった障
子には、庭の木々のこまやかな葉の様子が揺れながら映し出されていた。
だれ一人おきていない。自分一人しか意識がない。でも、それはあまり寂
しいものではなかった。耳をすませば、庭からかすかな虫の鳴き声も聞こえ
てくる。
ちーーーぃ、ちーーーぃ……りりりり………
「……なんだ、やっぱりお前も起きていたのか」
横で寝ていたはずの翼が声をかけてきた。彼も眠れなかったらしい。翼の
場合は、あの怪談の話が頭のなかから離れてくれなくて、どうしても眠れな
かったのだが、恥ずかしくてそんなことは言えなかった。ただ二人して、外
を見つめた。
「ちょっと、外にでようか」
「うん」
そのまま寝てもしばらく寝つけないだろうと思い、翼はせっかくだから外
にでて涼もうと考えた。他の人を起こさぬように布団の間をそぉっとすり抜
け、障子までたどりつくと自らその障子を音をたてぬように開けた。
そして、閉めた。
「どうしたの?」
不審に思った康助がそうたずねたのだが、振り返った翼の顔はかなり深刻
なものだった。眉をよせ、泣き出してしまうのを必死にこらえているような
表情だった。
「ゅっ……ゅぅ霊……」
「えっ、幽霊?」
康助はいたっておとぼけた様子で聞き返すと、障子をあけ外を見渡した。
そして欅の下に、更紗<サラサ>と幽霊らしきぼんやりとした光をみた。しかし、
それほど恐くはなかった。むしろ、翼が恐がっている様子をみて、少しだけ
勇気がでて、「更紗さんがいる。行ってみよう」と言い出した。この神無月
家の長女である更紗は、霊能力が非常に長けた人物であることはふたりとも
よく知っていた。
それでも、翼には恐いようで、「やだっ! 恐い!」と体一杯に拒絶をし
めす。
「じゃあ、僕一人で行ってくる」
康助は戸惑いもせず、外にでていってしまった。翼はそのままじっとして
いたが、一人でいる方がもっと恐いことに気づくと、康助のあとを追って飛
び出していった。
庭にでると虫の鳴き声が、よりいっそう大きくなる。そして、風が吹いて
いた。芝生がゆらゆらと揺れるなか、二人は寄り添うように更紗のもとへ近
付いていく。
更紗がすぐにこの幼い冒険者達に気がつき、手招きして呼び寄せる。二人
は霊を避けるように遠回りして、更紗の近くへよっていった。
「そんなに恐がらなくてもいいから。近くにいらっしゃい」
そう言われても、近寄れるものではなかった。
「この幽霊、見える?」
かなり奇妙な質問に、二人はこくんとうなずいた。
「どんなふうに?」
「ぼんやりと光ってしか……」
「かっ、顔が見える!」
「やっぱり見え方が違うのね」
更紗がうなずくと、その光はすぅっとかき消す雲のように輪郭をなくして
ゆき、そしてなくなってしまった。二人の少年はぼうぜんとして、その一部
始終をぽっかり口をあけたまま見つめていた。
「いっちゃったの?」
康助の声は落ちついていた。横にいた翼は、小刻みに体がふるえているよ
うで、合宿に参加するときとはすっかり逆の立場になっていた。
「うん、成仏しちゃった」
「じょうぶつ」
「神様のところへ帰っていった、ということ」
康助はこくんとうなずいた。真剣な眼差し。更紗はふふっと笑うと、その
細い指をゆっくり空に向かってあげていった。その指先を追うように顔をあ
げていくと、漆黒の闇に広がる星たちが視界一杯に映し出された。
ざわっ……! ざわっ……!
広い庭を、二度ほど大きな風が駆け抜ける。そして少年たちをとりまき、
去っていった。木々がまるで笑うかのように、さざめく。
寂しいような、きれいなような、二人はじんっとする不思議な気持ちに包
まれて、恐さはもうどこかへいってしまっていた。
#2767/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:28 (117)
月夜話、其之六「 三人の少年と合宿 」 (3/3) ■ 榊 ■
★内容
小さい頃というのは、どうしたものか辛いと思っても、辛い、とそれだけ
で終わってしまう。もっともっと大きくなると、「もう、やめてやる」とか、
「今までで一番つらい」とか、他の気持ちが心にわいてきて、実際よりもも
っともっと辛くなってしまう。
「辛い」ことに対して本能的に「辛い」と思う以外の、余分な知恵がその
時にはなかったためらしい。知恵というものは、生きていくうえに非常に大
切なものではあるが、先入観をもたせる余分な側面も持っているのだと知っ
たのは、ずいぶんあとになってのことである。
そんなわけで、次の日、少年少女達は無邪気に午前中の練習に励んでいた。
親の別居の辛さも忘れ、怪談の恐さも忘れ、親と離れている寂しさも忘れて、
ただもう一生懸命に相手に向き合っていた。
もともと合気道というのは、「盾」と「矛」でいえば「盾」にあたる武術
で、防御の術なのである。そしてさらに「気」の概念や、人間の構造の概念
を取り込むことによって、小さな力で大きな力を受け流すことができる武術
になっている。だからこそ、女、子供にも有効な数少ない武術として、世間
にも受けとめられているのである。
朝の練習が終わると、昼食になり、そしてその後は昼寝の時間になる。小
さいときに何よりも大切なのは、睡眠だとよくいわれる。何しろ、起きてい
る間は頭も体もめいいっぱい動かしまくっているのだから、休む時間だって
たくさんいる。夏の昼過ぎは暑いが、風通しのよいすだれのかかった道場は、
すごしやすい程度にすずやかで、みんなは心地よい眠りをしばらくとった。
そして、午後の練習、夕食。その日も烏の鳴き声とともに終わろうとして
いた。
夕食をかたずけた後、萌荵はひとりの女の子に声をかけられた。
「なに?」
「ちょっと相談にのってほしいんです」
中学2年生の、ちょっと大人っぽい顔立ちをした綺麗な女の子だった。昨
日、怪談大会の時に健士に抱きついてしまった子で、あの時のように顔を少
し赤くしていた。
萌荵の部屋へいき、二人っきりになっても彼女はしばらく何も言わず、た
だ座り込んでいた。
「健士くんのこと?」
萌荵が単刀直入に口にすると、彼女はびっくりしたように顔をあげ、そし
てこっくりとうなずいた。
学校にいるとき、健士は他人という存在でしかなかったのに、一緒に合気
道をやり始めてから、いつも一生懸命で、格好よくて、何となく一人でたえ
ている健士にひかれる自分に気がついた。
そして昨日、彼が横に座っているだけで心臓が信じられないぐらいドキド
キして、抱きついてしまってからはもう、彼の顔も見られなくなっている。
「どうしたらいいのかな……」
萌荵は優しい笑顔で、この恋する女の子に近付いた。
「これから、二度と顔も合わせないでいることはできる?」
女の子はまたびっくりしたような顔をして、そしてぶんぶんと顔を横にふ
った。
「ずっと、仲のよい友達でいられる?」
ちょっとだけ考えて、やっぱり首を横にふった。
「じゃあ、告白する?」
これにも、激しく首を横にふった。
「友達でいるのが、この中ではいちばん楽みたいね。でも、いつかは自分の
思いを知ってほしい」
女の子は真剣な瞳で、じっと萌荵を見つめた。
「好きという気持ちって、凄いよね。大きくて、溢れてきそう」
女の子はこっくりとうなずいた。
「だから友達でいれば、きっとその溢れる思いは言葉や態度にのって伝わる
はず。その時に相手をしっかり見つめて、相手の気持ちと自分の気持ちを考
えて、自分が後悔しないようにね」
女の子は少しだけ微笑んで、またうなずいた。萌荵はつられて微笑んで、
くしゃくしゃと女の子の髪をかきあげた。
「友達になるのには、ちょっと勇気が必要だけど、できる?」
「頑張ってみる。有り難う、萌荵さん」
うん、と静かにうなずいた。
二人が降りていくと、もう庭では花火大会が始まっていた。外は夕暮れす
ぎ、薄紫の色に染め上がり、その中で花火だけが明るく光りかがやいていた。
縁側でたたずむ人は西瓜<スイカ>をほうばり、種を一生懸命とっている。女
の子達だけで輪をかこみ、小さな花火の火をつけるところもあれば、年長の
男が大きな花火に火をつけ、大空に光の花をあげていた。
その光に浴衣姿の子供達や、草木や、家がうかびあがる。子供達の顔はど
れも、花火を一心に見つめる笑顔ばかり。子供の中には、その花火をふりま
わして闇のキャンバスに絵を描く子もいたり、いっぺんにいくつもの花火に
火をつけてみせる子もいた。
健士は小学生たちにせかされて、花火の先に火をつけていた。
「ほら、いってらっしゃい」
萌荵に背をつつかれて、女の子はゆっくりと健士の近くによっていった。
花火をとり、火をつけてもらい、二人でじっとその花火を見つめていた。
一人、二人と小学生が離れていき、そしていつのまにか健士と女の子は二
人っきりになっていた。ずぅっと、ずぅっと二人きりで、じっと静かに花火
を見つめていた。ときおり、本当にときおり言葉を交わして、また花火を見
つめる。それだけなのに、二人はずっと離れずに、二人でいた。
一人で完全な人はいないのだから、二人で少しでも補いあってほしい。一
人で完全ならば、一人で生きていけばいいのだから。健士は親の別居による
気持ちを、相手に少し持ってもらえばいいし、女の子の重すぎる「好き」と
いう気持ちを、相手に少しあずかってもらえばいい。そして、お互い気持ち
を軽くして、一人でいるより二人であることが自然であればいい。
そうして二人は、ずっとずっと花火を見つめていた。そして、たくさんの、
たくさんの煙が空に舞い上がり、雲にけぶる月が咳をしないかと、二人はち
ょっと心配をしたのだった。
次の日、朝の練習が終わると、短い合宿は終わりを告げた。
親が迎えにきて、誰もが懐かしさと寂しさのために、親に抱きついた。
翼はなかなか親がこないので、やきもきしていた。やっと現れた母親に抱
きつくと、むしろ親の方がすっかり当惑している様子だった。そして、泣き
ださんばかりの息子の頭を優しく撫でてやっていた。ほんの少し、親の愛す
る気持ちが解ってくれたみたいで、親はホッとしているようだった。
康助は、やがてやってきた父母をみると、駆け寄っていったが抱きつきは
しなかった。そして「すごく楽しかった」というのだった。父と母はお互い
に顔を見合わせ、少し大人になった息子にちょっと嬉しさと、そして寂しさ
を味わっている様子だった。
寂しさを強く乗り越えてくれたことは、親にとって嬉しいことだった。で
も、それはどんどん離れていく息子を見ることで、親の方が寂しくてなって
息子の頭をそっと撫でた。
「寂しさ」と「愛する」気持ちを、どうしたらいいかを知ることによって、
少しずつ大人になっていくような気がする。
あの時の気持ちはだんだんと別のものに変わっていくけれども、あの大き
さと、純粋さを、今になっても忘れることができない。
寂しさに泣いた、あの夜のことを。
月夜の晩の、そんなお話。
#2768/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:30 (118)
月夜話、其之七 「 かみなり、ごろろ 」 ■ 榊 ■
★内容
夏も終わりかけ、最近は雨が降ることが多くなってきていた。季節の変わり
目はひと雨ひと雨ごとに何となく肌寒くて、だんだんと秋が近付いてくるのを
感じやすい。そんなときの雨は、だいたいしとしとと静かにふるか、今日みた
いに雷を伴う大雨のことが多いようだ。
どん がら がら
太鼓のような音が空にひびく。そして、どんどん暗くなる空から、大粒の雨
が降り始めた。外にいた人が逃げる間もなくびしょぬれになるほど、すごい勢
いで雨粒が増えていき、いつしかあたりは雨一色になっていた。
家の縁下でたたずんでいた更紗<サラサ>と芳春<ヨシハル>は、いきなり降りだした
雨にびっくりした。暗い雲が立ちこめたかと思うやの、すさまじい雨である。
ざっ ざぁ ざぁぁ
目のまえには桜が3本、緑のいろを濃くした葉が雨粒をいっしんに浴びてい
た。葉にたまった雨粒が、ぽとぽとぽとと下にはえる苔に落ち、そして土にし
みこんでいく。
「すごい雨ですね」
もうすぐ10才になる芳春が呟く。いつもより大きな声で言ったはずなのに、
雨の音にすぐにかき消されてしまった。
「静かでいいわね」
22才の更紗は、吹いてきた風に髪をなびかせ、落ちついた口調で呟く。そ
んなに大きな声ではなかったが、きれいな声ははっきりと芳春の耳にとどいた。
しかし、静かとはとても言えない。雨の音、雷の音で、声を張り上げなくて
はいけないというのに、と感じた芳春は聞き返さずにはいられなかった。
「静かですか?」
「自然の音以外、なにもしないじゃない」
芳春はくるりとあたりの音を聞きわたす。
家の中には他に人はいなくて、物音一つしていない。車の音も、人の足音も、
話し声も、虫の声さえも聞こえない。雷雨のやかましさに慣れてくると、芳春
はあまりにも静かな気がしてぶるっと身震いした。
更紗は、涼しげなワンピースの裾と、少し色の落ちた茶褐色の髪とを風にな
びかせながら、ちょっと笑みさえ浮かべ空を見つめていた。
こんな時、更紗がとても落ちついているのを見ると、芳春は本当に落ちつく
ことができる。昔、まだこの家に居候していなかったとき、芳春はたいがい大
きな家で一人しかいなくて、雷の時は恐さのあまり、布団の中で泣き続けてい
た日があった。
たった一人の存在がこれほど安心感を与えるのかな、と芳春はちらりと横の
更紗を見た。
「あっ、落ちた」
「えっ」
どぉぉん おん! と地響きにも似た音が体を揺らすと、芳春は胸がきゅう
といたくなってしまった。やっぱり恐い。そうだというのに、更紗はすっかり
嬉しそうに、
「ねえねえ、何かうきうきしない?」
という。芳春はつい、大きな声で「しませんっ!」とこたえた。
手をぎゅっと握る芳春を見て、更紗はちょっと笑い、そして迷惑なことに、
芳春をからかいたい気分にかられたようだった。
「昔ねぇ、芳春君ぐらいの年頃の子供達が遠足に出かけたの。そうしたら急に
曇りだして、雷になってしまって、先生達は急いでみんなに金属をとるように
指示したんだって。その時ある子がね、『せんせいっ! これも取るんです
か!』って自分のバッジを高々と持ち上げたの」
更紗はそう言いながら、自分の手をあげた。芳春は気が気でなくて、大きな
瞳を潤ませていた。雷がもうすぐそこまで来ている。
「そうしたら、その手をあげた子に、どっかぁぁん!!」
ひときわ大きな雷が、すぐ近くのビルの避雷針に落ちた。芳春はあまりの音
に耳に手をあて、つぶった瞳からは涙がこぼれ落ちた。本当に恐かったらしい。
いつまでも、おんおん、と雷の名残音がこだましている。そして、あたりの
景色はいっそう灰色の世界につつまれ、水を含んだ土の香りがあたり一面に広
がっていた。
雨はもう、滝のように流れ落ちている。バケツで水を落としたって、こうは
なるまい。
更紗はきゅうに芳春がかわいそうになった。まさか本当に泣いてしまうとは
思っていなかった。
「ごめんっ! そんなに恐かった?」
「少し……」
「ごめんね。ちょっと、からかいたかっただけなんだけど」
更紗は、両手で芳春を抱きしめた。ふわっとした雲の中に飛び込んだような、
芳春は気持ちがした。
「安心して、落ちた場所から70メートル以内は、もう安全なんだって。それ
に、電気の通りやすさに関係なく、高い場所にあるものに落ちる性質があるか
ら、この家は大丈夫だし。あとね、あとね」
「……更紗さん、もう大丈夫です」
「そう?」
自分から離れた芳春の顔は、真っ赤に染まっていた。甘い香と柔らかい肌に
抱きしめられていることが、ひどく恥ずかしいことのように芳春は思えたらし
い。
母親に抱きしめられたことがないのに、もう恥ずかしい年なのかな、と更紗
はちょっと残念に思い、芳春の頭をくしゃくしゃと撫でた。
少し、雷の落ちた光と音の差がひろまってきた。もう雷は通り過ぎていった
ようで、雨もゆるやかになりつつあった。
「ほら、向こう側、もう晴れてきてるよ」
芳春はそちらの方向を見て、言葉もなくうなずいた。雨雲の端がしだいによ
ってくるのが見える。
「…………」
上空には、すごい風が吹いているようだ。雲の群れが来たときと同じように、
あっという間に流されていく。そして見えたのは、太陽からの眩しい光りと、
きり雨だった。
「にわか雨になった」
「『にわか雨』は、正しい表現じゃないなぁ」
「どうしてですか?」
「『にわか雨』は『にわかに降り出して、すぐに止んでしまう雨』のことであ
って、『晴れているのに雨が降っている天気』のことを厳密には、さすわけじ
ゃないから」
「じゃあ、どうやっていうのですか?」
更紗の得意げに笑った横顔に、さぁっと陽光がさした。眩しいほどの肌の色
に、芳春はちょっとだけ目を細めなければならなかった。
「狐の嫁入り」
「きつねのよめいり?」
「そう」
二人はふたたび雨ふる晴れた空を見つめた。
その遥かとおく、かすかに見える山の中で、あのすました顔をした狐達が結
婚衣装を身にまとい、幸せな行列をくんでいる様子を思い浮かべると、芳春は
さっきまでの気持ちが雲といっしょに流れさり、何となく嬉しい気持ちになっ
た。
狐の花嫁の笑顔に、この晴れた空とかすかに降る雨が、ものすごく似合って
いるような気がするのだった。
山奥のふかい緑のあぜ道を歩く、狐の嫁入り。
更紗にもう一度だきしめられ、自分の母もそうしてお嫁にいったのだろうか、
などということを芳春は思い出していた。
晴れた空の下の、そんなお話。
#2769/3137 空中分解2
★タイトル (ZQG ) 93/ 1/31 10:32 ( 96)
<お題> 雪月花。 【惑星人奈宇】
★内容
今日は2月5日、旧暦の1月13日です。満月に行われる月花祭は、もう間近で
す。楽しみの少ない村の人達は「がっか、がっか」と言って、冬の終りを告げる月
花祭を心待ちにしています。昨日までの雪は嘘のように去り、雲間の空にはくっき
りと月が輝いています。時々降った雪が木々の枝に留まり花が咲いているようです。
今日のように時々太陽が輝き心憎いほどに気持ちいい日は、朝からそわそわそわ
そわしていて落ち着きが有りません。春男は早速安男に「夕方兎狩りに行かないか、
山の麓に兎が跳ね回っているのを見た人が居るんや」と電話した。安男は「勿論行
くよ」と最初は言いました。でも今は冬なのです、とても網をしかけて雪原を地上
のように楽々に走り回れるとは思えません。安男は長々と電話で話し合った末に兎
狩りの提案を断りました。
兎狩りの提案を断られた春男は仕方がないので、2月7日に行われる月花祭の準
備をすることにしました。月花祭とは、旧暦の1月15日夕方から夜にかけて無病
息災を願って行われる一種の火祭りのことです。山のように雪を積み上げ、中をく
り貫いて作った「かまくら」の中で家族一緒に今年一年の安全を祈願し、餅を食べ
酒などを飲んで祝います。祈願の後、かまくらの外に枯木などを集めて作った薪に
火をつけます。そして不用になった正月用の締め縄や飾り物、それに祈願を書いた
短冊などを燃やします。
もう既にかまくらは大体出来上がっていた。後残されているのは、蔵の奥に仕舞
ってある七輪や飾り物などを持ち出して、かまくら内に据え付けたり飾り付けをす
ることです。飾り付けは女の役目です。
「美加あ、飾り付けをしてくれやあ」
「お母さん、糊がねえ、糊がねえんにゃあ、何処に仕舞ったのやあ」
美加は台所に方へ行ってしまった。
春男は最初に七輪と炭それに練炭をかまくらに運びこんだ。
かまくらの大きさは大体家族5人が七輪を囲んで餅や欠き餅、ぜんざい、甘酒な
どを食べられる広さである。
満月の当日、晴れれば月花祭です。でも雪が降ることが有ります。雪が降って月
を見れなくなって仕舞った時のことを雪月花祭と呼んでいます。春男はなるべく晴
れて月を見ながらの月花祭に成って欲しいと願っています。晴れれば私達若い衆は
酒を飲んだり爆竹をならしたりして思いっきり楽しめるからです。
とうとう2月7日になった。朝から晴れていた。美加はかまくら内に差してある
竹や木に大きな花を幾つも付けた。夕方には春男も仕事から帰ってきて、食器や餅
それに酒やビールを運び込んだ。
「おおおう、大丈夫、今夜は多分、雪は降らないだろう、青い空で一杯だ」
今夜のように晴れると雪が凍り付きますので、昔ポリポリと音をさせて白い平原
を田圃や川の区別無くして歩き回ったことが思い出されます。春男は晴れた日の身
体に染み込むような寒さが好きなのです。
夕方に成った。
丸くて大きな月が東の空に上がってきた。
「お兄ちゃん、甘酒とぜんざい出来たよ」
「今行く、カラオケ・セットを持ち出すのを手伝えや、俺は電話機持ち出すでえ」
春男は電話機を使って安男とカラオケ大会をするつもりでいる。電話機をかまく
ら内に持ち込むと、早速安男に電話した。美加はぜんざいを茶碗に入れたり酒の準
備をしています。そのうちに、父母それに、おばあちゃんも出てきた。かまくら内
で七輪を囲んで座り、まず、酒を杯一杯ずつ飲みます。そして軽く目を閉じ、それ
ぞれが好きな内容で自分の願いを声に出して一斉に言って、祈願を終えます。
パチパチ、パチパチパチパチと、手を叩き、大笑いをして最初の行事を終えます。
祈願の後、春男は餅だけで無く酒も飲み始めた。母や美加の作った料理が美味し
いのも手伝って、コップに三杯程飲んだ。そのうちに顔も赤くなってきた。
「そろそろ、カラオケ始めるぞう」
春男は安男に電話し、打ち合せどうりに歌い始めた。
「津軽海峡 ふゆげしき・・・・・・ 」
「あんこ つばきの・・・・・・ 」
「美加、歌えや・・・」
美加は受話器を受け取り耳にあててみた。
「春男のは酷い、こちらまで酒の匂いも、届いてるう、美加ちゃんに代わってえ」
「美加だよう、今からマドンナ、歌うざあ」
「ライ・・イザァ・・ミステリ・・・エブランマスタンダロン・・・」
美加が歌い終ると、春男は再び歌い始めた。
「イエスタデ・・・イエスタデ・・・オロマイトラシイムソラウエ・・・」
やがて7時になった。そろそろ村の若い衆が集まり爆竹をならして、お互いのか
まくらを訪問しあう時間である。春男も表に出てかまくらの前に積み上げて作った
薪に火をつけた。この時にはもう既に月の姿は無く、ほんの僅かだが雪が降り始め
ていた。
ひらひらひら、ひらひらひらひらひら、雪はゆっくりと舞い降りていた。
「お兄ちゃん、来たよ」
美加の声に顔を向けると、向こうから松明をともした一団が近付いて来るのが見
えた。春男と美加は短冊や飾り物を火の中に投げ入れ、更に時々薪も焼べたりして
炎を大きくした。
「ガッカガッカ、ガッカガッカ、ガッカガッカ」
松明を持った若い衆は隣の家まで近付いてきた。
「ガッカガッカ、ガッカガッカ」
その中に「ゆきがっか、ゆきがっか」と叫んでいるのも聞こえた。
−−−−− 完 −−−−−
#2770/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:33 (154)
月夜話、其之八 「 大切に 」 ■ 榊 ■
★内容
芳春へ
今日は芳春に憶えておいて欲しいことを思いだしたので、その話をしたいと思
う。話の内容はだいぶ難しいだろうし、解らない漢字も多いとは思うが、それが
わかる年になってから読んでもらえばいいとも思っているので、気にせずに書か
せてもらう。
そして、この手紙をどう受け取るかは、全て芳春に任せたいとも思っている。
破り捨ててもいいし、忘れてしまっていもいい。ある意味で、これから伝えよう
と思っていることは父親のエゴであるから、一切の強要をするつもりがないのだ。
全ては芳春の好きなようにして欲しい。
君が生まれたときのことだ。
君が今まさに生まれようとしている時、私は仕事をしていた。
私は、仕事をしている最中はそのこと以外に頭が働かない方なので、実のとこ
ろ君が生まれそうだと連絡を受けるまで、まったくそのことを忘れていた。だが、
連絡を受け仕事を早々に終わらせてからは、今度は君と妻の安否で頭が一杯にな
っていたことを憶えている。
君が生まれたのは隣街の赤十字病院で、駅の比較的近くにある大きな病院だっ
た。私はすぐさま電車に飛び乗り、その病院へと急いだ。
その時の気持ちを何といったらいいのか解らない。
期待といったらいいのか、不安といったらいいのか。
だいぶ昔の話になるが、私にはもう一人の弟が生まれるはずだった。
君の祖母がもう40を過ぎた頃のことだ。
やはりあの時も同じように連絡を受けて、病院へ兄とともにかけつけた。父
(君にとってはお祖父さんか)は私達よりも早く病院につき、すでに扉の前の椅
子に座り込んでいた。
兄に連れられた私はその父の様子をみて、ただならぬことが起きていることが
すぐに解った。
かなり遅い時期のお産は胎児にも母体にもよくない。もしもの可能性が高い、
と話には聞いていたが、その言葉の意味が解らなかった。だが、父の姿をみて初
めて体で理解した。
こんなに父は小さかったのだろうか。
こんなに非力そうだったのだろうか。
そして、私達が見ていることに気づきもせず、父は椅子から降りて正座をする
と、ぴったりと額を床につけ祈り始めた。
その真剣な様子に心臓をつかまれたような思いがして、兄と私はただその場に
立ちつくした。
お産を見た経験は後にも先にもそれっきりだったので、私はお前がちゃんと生
まれてくるのだろうか、とても心配だった。
駅を降りると、不思議なほど足が早くなっていた。病院は歩いて5分ぐらいの
ところにあって、急いでも急がなくてもそれほど変わりのない所にあるのだが、
だからこそ走らずにはいられなかった。
革靴というのは走るのには向かないものだということを、あの時はあらためて
思い知らされた。走り込むたびに靴が外れそうになってしまうのだ。風に流され
てあちこちに移動するネクタイを何はともあれ後ろに流し、私はけっこう一生懸
命走った。
そんな私を、道ばたを歩く若い人達が、不思議なものを見るような目をしてみ
つめているのだ。息がきれ、体も汗ばむほどに動かしていたが、頭だけは妙に冷
えていてその時の様子を何かの絵を見つめるように憶えている。
病院にかけこみ、入ったすぐの所にある受付で場所をたずね、廊下だけは走ら
ずに分娩室へ向かった。
お産はまだ終わっていないようで、部屋の外で私は待たされた。だが早産では
なかったことに私は妙にほっとした。早産は流産につながる印象がやはり、根強
く私にはあったらしい。
そして、椅子に腰掛け、私は君が生まれてくるのを待つことにした。
あの時の気持ちというのは面白いものだな。心は妙に冷静なのだ。というか、
大したことはあまり考えられない。くだらないことが浮かんでは消え、そしてど
ちらかというととても冷静なのだ。
ただ、足は貧乏ゆすりしているし、煙草を吸おうとして、分娩室の前だと思っ
てやはりやめにして、そんなことを限りなく繰り返していた。自分でも落ちつい
ているのか、いないのか、とても解らなかった。
そして、子供を持つというのは、どういう意味なのかと考えだした。
君が生まれるということは、まだ私にとっては、他人が家族の一員となるのと
あまりかわりのないものだった。少しショックかも知れないが、血のつながりと
いうものが、あまり私には実感ができなかったのだ。ただ、なるべく自由に、私
のように束縛されないように育てることができれば、とだけはその頃から強く考
えていた。
しばらくはそんなことを取り留めもなく考えていたのだが、君はなかなか産ま
れてこなかった。私はしだいに焦り始めていたが、その一方で、いやお産とはこ
のぐらい時間がかかるものではないのか、とも考えていた。
だが、それは全くの無知だった。
私がそうして扉一枚外で考えているとき、お前と妻は必死に戦っていた。
あとで医者に聞いた話によると、もともとお前はなんら問題なく出産されるは
ずだったのだという。体つきもけっして大きくはないし、妻も帝王切開しなけれ
ばいけないほど華奢というわけではなかった。
だが、なかなか産まれてこない。
医者は特に問題はない、少し時間がかかっているだけだと思っていたらしいの
だが、予想をはるかにこえ、お前は産まれてくる気配すらなかった。
これ以上は危険だと察知した医者は、すぐに帝王切開に切り替えるよう看護婦
に言いわたしたその瞬間、お前の母の様態が急変した。
母体を助けるための処置と、帝王切開が同時に行われた。
その慌ただしい様子は私にも知れたが、私は単純にももうすぐ産まれるためな
のだと、納得していた。妻が生死の瀬戸際にいたというのに。
母の様態は、生命を司っていた糸が緊張の連続に耐えられず切れてしまったよ
うに、急速に死へと向かっていた。痙攣が始まる、全身にチアノーゼが起こり始
める。転げ落ちる命を止めることは、誰にもできなかった。
奇しくも、お前が産まれたのと母の命が絶えたのは、同じ時だったという。お
前が母体の中からすくい上げられ、へその緒が切れ、泣き始めたその瞬間、母の
心臓は停止した。
やっと聞こえたお前の声に、私はなんとも言えない感慨を覚えていた。
大きく、高く、響きわたる声。
何かを作りだしたような、何かから解放されたような気持ち、叫び声。
やがて、君は保育器のガラスの中に入れられた姿のまま、私の前にあらわれた。
看護婦の真剣な眼差しなど気づきもせず、私は真っ赤な顔をした君を見た。
嬉しい。
心から、嬉しいと思った。
だが、そんな思いを無視して、保育器は去っていってしまい、代わりに待って
いたのは、気まずそうな表情をした医者だった。
その時の気持ちを、君は解ってくれるだろうか。
衝撃というのはね、どうやら、大きすぎるとなかなかやって来ないものらしい。
ひどく冷静で、頭の中は海の底に広がる世界よりも、もっと静かだった。
その頭が、医者からの言葉を静かに受けとめていく。
説明が終わり静かになったとき、私は扉の向こうへ歩きだした。
とびらを向こうは、違う世界だった。
母はね、真っ白だった。
雪のように真っ白で、君が出てきたところだけ少し赤かった。
看護婦の人にすぐに押し出され、もと座っていた椅子にすべてを任せて寄りか
かるしかなかった。
でもね、相変わらず頭は冷静だったのだよ。
何も頭の中に浮かんでこなくて、ただ何故こんなに冷静でいられるのかと、さ
らに深く落ち込んでいたのだ。
1時間ほども何も考えずに座り込んでいると、看護婦がベッドを用意したから
少し休むといい、と優しく声をかけてくれたのをきっかけに、私はやっと歩き出
した。
どこを歩いたのかは、未だにはっきりと覚えていない。
ひどく冷静なくせに、何も考えられない。出口がどこにあるのか解らないのだ。
ふと気づくと、横のガラスの向こうに、君と同じような保育器の中に入った新
生児達の姿が見えて、私はそのガラスに顔をつけた。
君には悪いが、君が保育器とともに去ってからこの時に至るまで、私は君のこ
とをすっかり忘れていた。
だがガラスに顔をつけたとたん、みんな顔は同じように見えるのに、君がどれ
なのか何故か解った。
そして、見つめていたら、涙が溢れたきた。
ただもう溢れてきて、一生分の涙が流れるかと思った。
君が産まれるというのは、こういうことだったのだ。
ぼやける視界の向こうで、私はひたすら君だけを見つめ続けたのを憶えている。
私は生きなくてはならない。
柔らかな君の命を守るために、私は生きなくてはならない。
そして、君のために生きることに、ほんの少しの義務と、なぜか誇りを感じる。
だから、生き続けて欲しい。
こんな手紙に縛られてはいけないが、だが父と母の君への気持ちは、できるこ
となら忘れないで欲しい。
君を、掛け替えのないものとは言わない。
何よりも大事なものとも言わない。
君は産まれたその時から、私達の所有物ではなく、ひとりの人間となったのだ
から。
父は君と友達になりたいと思っている。
いちばん長い時を過ごすことによって、他の誰にも共有できないものをもつ友
達になりたいと思っている。
だから、君はいつでもひとりの人間として、沢山の人と接して生きて欲しい。
そして、全ての人を大切に。
自分を、大切に。
#2771/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:36 (122)
月夜話、番外編 「秋の夜長に」 ■ 榊 ■
★内容
十月の初めにしてはいくぶん寒い夜のこと。芳春の部屋に置かれた炬燵はもう
すでに電気がつけられていた。
芳春にあてがわれている部屋は、とても広い。さらにすきま風もあって、部屋
の中はだいぶ寒いかった。
更紗のお古の半纏を着て、炬燵に足をつっこむ。万全の体勢をととのえて、芳
春は眠たくなるまでの時間を勉強にあてていた。
夜の十時過ぎ−−この頃になるとあたりはもの凄く静かになっていて、鉛筆の
カリカリする音だけが聞こえてくる。
秋の夜だけは、きっとほかの季節よりも長いのじゃないかな、と思ってしまう
のは、こんな瞬間である。
そして、そんな静かな時にはたいてい、更紗が邪魔をしに来るのだった。
「炬燵に入れさせてぇ!」
ノックと同時に扉が開き、パジャマ姿の更紗が飛び込んできた。芳春の向かい
側を陣取ったかと思うと、体まで炬燵にもぐりこむ。
「うぅん、ゴロゴロ」
芳春が、「ねぇこぉは炬燵でまぁるくなるぅぅ」という言葉を思いだしている
と、ぴょっこりと更紗の顔があらわれた。
「芳春君、なにしてるの?」
「あっ……寝るまでのあいだ、勉強をしようかと思って」
「勉強? 健康的じゃないなぁ」
芳春はおもわず苦笑した。
「じゃあ、何が健康的なんですか?」
「誰かの家に遊びに行ったり、ファミコンしたり、漫画読んだり、舞姫と恋を語
らったり」
ちょうどその時、舞姫が大きな盆を持ってあらわれた。その盆の上には、二組
の紅茶がほのかな湯気をあげていた。
「誰が恋を語るって」
「あら、舞姫ちゃん。聞いてたの?」
「聞こえただけよ。余計なことは言わないの」
「照れちゃってっ!」
更紗がぽんっと舞姫の肩をたたく。いつもなら舞姫が反撃に転じるのだが、今
日は静かだった。そっと、芳春の前に紅茶をおくと、ほのかな甘い香りが漂った。
「あっ、いつもすみません。言っていただければ、僕も手伝うのに」
「いいのよ、私にとっての気晴らしだから」
舞姫はそう言って、もう一つの紅茶を自分のもとに置き、盆を机からおろした。
そして、一瞬の沈黙。
「……私のは?」
更紗の問に、舞姫は冷たく一瞥する。
「働かざるもの食うべからず、よ」
「働いて食わしているのは私じゃん?」
「学生は勉強が仕事。しかるに更紗はいま何をしているの?」
「うっ……」
芳春も二人の問答には慣れてきて、くすくすと笑いながら、口をつけた紅茶を
そっと更紗の前に置いた。
「更紗さん、良かったら少しどうぞ。美味しいですよ」
「優しさが心にしみる。少しだけいただくわ」
舞姫が作ってくれた紅茶は、ダージリンのミルクティー。しかも水をいっさい
使っていない牛乳だけでこしたものだった。
普段ならちょっとくどいかも知れない紅茶も、こんな寒い夜にはちょうどいい
甘さと濃さになっていた。
「インド風ミルクティーよ。頭を使うと、お腹がへるからね」
ちょうどその時、ドアがノックされた。
かちゃりとドアが開くと、萌荵がひょっこりと顔を出した。短い髪の下で瞳が
優しく笑っている。
何かと芳春が思うと、ドアの影から電話が出てきた。
「芳春くん、お父様からお電話」
萌荵はそう言うと中に入ってきて、そっと芳春の耳元に受話器をあててくれた。
しばらく聞いていなかった父の声と、二こと三こと言葉を交わすうちに、萌荵
は炬燵に入りこんでいた。
三人の瞳が見つめる暖かな視線と雰囲気につつまれながら、芳春は嬉しそうに
電話口にむかって語りかけていた。
舞姫が電話の邪魔をしないように、自分の紅茶をそっと萌荵に渡すと、萌荵は
にっこりと微笑んで口をつけた。
電話が切れる。あたりは夜らしい静寂を取り戻したが、前よりはずっと温かか
だった。
「お父さん、何だって?」
「今度の授業参観。遅れるかも知れないけど、必ず来るそうです」
「良かったね」
「はい」
四人はお互いに顔を見合わせて、微笑んだ。
部屋もだんだんと暖かくなり、萌荵は換気のために少し窓を開けた。
その隙間から冷たい空気が入りこんでくる。
胸を冷たくする空気は、吸い込むと意外にも甘い温かな香りがした。
金木犀の香り。
紅茶の香りと重なって、それは不思議な温かな匂いとなってあたりを漂い始め
ていた。
その空気を胸にいっぱい吸い込んだとき、ふと更紗が呟いた。
「そういえば、芳春君が来てもう三ヶ月もたつのね」
「そうですね。本当にお世話になってばかりです」
芳春はあらためてまわりを見渡す。
「舞姫さんには、いつも食事を作ってもらって有り難うございます」
「どういたしまして」
舞姫は、可愛らしく首をちょこっと曲げておじぎした。
「萌荵さんには武道の相手をしてもらって、だんだん力がついてきました」
萌荵は、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇねぇ、私は?」
更紗の言葉に開いた芳春の口は、何かを言おうとしたまま止まった。
しばらくの静寂が続き、そして舞姫と萌荵が腹をかかえて笑いだした。
「いいんだ。どうせ私なんか、単なる邪魔者だもんね」
「そっ、そんなことありません。ただ、どういったらいいのか解らなくって」
誰よりも感謝をしているのに、芳春にはどうしても言葉が見つからなくて、更
紗をなぐさめるしかなかった。
そのとき舞姫は、更紗がいてくれたおかげで寂しくはなかったのよ、と芳春の
言いたかった言葉を正確に把握していた。
舞姫の両親が引っ越してしまったとき、更紗の邪魔なほどのちょっかいがどれ
ほど寂しさを紛らわしたか。
そして、芳春が父から離れて暮らすことになっても、それほど途方にくれるこ
とがなかったのも、やはり更紗がいてくれたからなのだろうな、と舞姫は思って
いるのだった。
とは言っても、舞姫は口に出して更紗を褒めようとは、まったく思っていなか
った。
そうして、舞姫と萌荵は笑い、芳春はすねてしまった更紗をなぐさめ続けるの
であった。
空には満ちた月。
金木犀には橙色の花。
月からの冷たい光を一身に浴び、
金木犀はいつまでもほのかな香りを漂わせていた。
月夜の晩の、そんなお話。
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At my room where it smells Kinmokusei.
Produced By Kyouya Sakaki
B.G.M. Baby-Face "I give you my love"
#2772/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:40 (167)
京夜日記、其之九 「 死体解剖 」 ■ 榊 ■
★内容
医学を志すものにとって一番興味深く、そして恐ろしくもあるのは、間違いな
く「死体解剖」だと思う。死体を腑分けし、その隅から隅までものぞく。生と死
との直面。すべての真理がそこにある気さえする。
僕はこの経験を通して、自分が変わってしまうかも知れないことが、恐ろしか
った。生と死を目の当たりにして、果たして今の自分のままでいられるだろうか、
それが心配だった。死体そのものに対する恐怖はなかったものの、そんな真理に
対する恐怖はかなりひどいものがあった。
解剖の日が間近に迫っていることに気づいたのは、なんとその前日になってか
らで、それまでは一度も思い出しもしなかった。
「ああ、そうだ。明日がそうなんだ」
まるで他人ごとのようにうなずいて、そしてふと自分がまったく恐れも好奇心
も抱いていないことに気がついた。
いつもと同じように、明日が当然のようにやってくる。そんな気持ちと、同じ
だった。
ただ、「みんなはどうしているかな」とだけ呟いた。
眠れない人がいるかも知れない。
そうだ、明日からしばらく肉が食べられなくなるかも知れない。
そんなことを考えていたが、しばらくするとすべて忘れた。
当日。
学内の坂を下り、地下一階にあたる広い教室に入る。何本もの蛍光灯に照らさ
れて、室内は意外に明るかった。その中にたたずむ25体の御遺体は高い金属の
ベッドの上に横になり、白いシーツと透明なビニールがかけられていた。
僕の位置は部屋のいちばん奥にあり、早々と御遺体の周りにつくとしばらく呆
然とながめていた。黙祷……の気持ちにいちばん近いと思う。心が何も考えるこ
とをせずに、ただ視点だけがビニールの下に透けて見える、白い布に形どられた
御遺体を見つめていた。
人の形をとった、当然のように動かない人間。モノに近い気持ちで見つめてい
たのか、人間に近い気持ちで見つめていたのかは、判然としなかった。
一緒に解剖をする仲間達が集まると、合図と同時にビニールと布をゆっくりと
取る。
どこかで、ほんの少し悲鳴に近い言葉がもれた。
92才の女性の御遺体。
全体的に赤茶けていたが、いまにも動き出しそうな体。
だけれども、僕の心は何も感じていなかった。
昔、知り合いの人が亡くなって、葬式にでたときもそうだった。
死が実感できない。
恐くも、寂しくも、何ともないのだ。
自分は何と薄情な人間なんだと、その時はひどく自分が恥ずかしかった。
やがて好奇心の方が先行していき、実習書どおりに御遺体の皮を剥いでいった。
抵抗はあるものの、誰もがそれを実行することができた。
面白いことに、女の方が意外に平気な人が多いことに気づいた。顔を青くして
いるのは、だいたい男だ。
それでも驚くほど、ほとんどの人は平然としている。多分、医学を志した時点
である程度の覚悟と、何度なく聞かされた噂である程度の免疫ができているせい
だろう。
そして、憶えることは予想以上に多い。
神経一本、筋肉一つに名前がある。骨一本に数十個の名前がある。役割、意義
も同時に憶えていたら、一つの辞書が確実に出来上がる量を、僕たちは半年で憶
えなくてはならない。
数日もすると、もはやほとんど抵抗もなく、好奇心と、必死と、仕事をこなす
ような倦怠感を感じながら、それでも一回の機会しかないことを胸にして一生懸
命やっていた。
死とは何だろう。生とは何だろう。
解剖を進めている間、幾度となく心のなかで呟いた。
解剖を進めれば進めるほど、御遺体はモノとなっていく。
ただ、あまりにも精巧にできた仕組みと、御献体なさってくれた気持ちに対し
ては、畏敬の念を憶えずにはいられないが、切りとられた脂肪や筋肉からもはや
それほどの感慨も受けることはない。
いったいこれのどれが、命を育むものなのだろう。そして、死とは何だろう。
目の前にあるものが死なら、机も鉛筆も死だ。
死とは何だろう。生とは何だろう。
そして、どんどんと無感動になる自分が、情けなかった。
時がたつにつれて、平気でとんでもないことができるようになる。
御遺体の頭と体と足に3分割し、内臓を手づかみで取り去る。
それを全員がこなす。誰もできない人はいない。
人間とは、そんなものなのだろうか。
「世にも奇妙な物語」が恐くて見られないと言っている女の子が、平気で心臓
を取り出す。
自分は人を殺せないと思っていたが、あるいは平気で殺せるのかも知れない。
心底、自分が嫌だった。
そんなある日、ふとある小説の一節を思いだした。医者でもあった森鴎外は、
その体験をつづった「カズイスチカ」と言う短編を書いているのだが、その小説
の最後の部分である。
主人公である花房<ハナブサ>がまだ医学士の頃に、いくつか出会った「興味深い」
患者について書かれたものであり、話はどちらかと言えば学者的な冷静さと「興
味深い」雰囲気をだしていた。
ともすれば、ひどく非人間的で生理的に好かなくもあったが、いまの自分にひ
どく似ているような気がして、そのまま抵抗なく読み進めていた。
その最後に不思議な女の患者が家に訪れてくる。いくつかの医者をまわったが
原因が解らず、ここに来たのだと言う。腹にしこりがあり、癌ではないかと先に
医者には言われたらしい。
花房はそれでもいたって冷静に、そして体をあらわにすることに患者が羞恥心
を抱いてることを承知だと言うのにそれに気づかないふりをするなど、やはりひ
どく相手を人間として扱わない行為が目についた。苛立ちもしたが、しかし、自
分のしていることと何の違いがあるだろうと思うと、なにも言えなかった。
さらに先を読む。
花房は聴診器を体の数カ所にあてると、さっさと診察を終えてしまった。そし
て横にいた助手に答える。
「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」
生理的腫瘍?
何の病名か解らない助手に聴診器を渡し、花房はこういった。
「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母胎
の心音よりは度数が早いからね」
それはつまり、胎児がそのお腹の中にいると言うことだった。
ふいに、今までの薄雲がかった嫌な雰囲気が晴れていくのを感じた。
「よくはなして聞せてやってくれ給え。まあ、套管針(腹に針を刺し、癌による
腹水を取ること)なんぞ立てられなくて為合わせだった」
笑ったのか、笑わなかったのかは書いていない。
ただ、生命の誕生に気づかぬ患者に対して、医師はひとりその命の息吹を感じ
ていた。
解剖とは、限りなく死に近付くことで、生を知ることかもしれない。
誰もが解らぬ生命の誕生を、医師はわずかな知識をもっと知ることができる。
生と死を、知識として知ることによって。
そしてはじめて、解剖に人間らしさがもどってきた。
実習も終わりに近付いたある日、献体を希望する人達との懇談会があった。
人の役にたちたいと心から願っている人。
早く死にたいと呟く人。
信じられないぐらい若い人。
御遺体とまったく姿の変わらない人。
そして全ての人が、いずれあの台の上に乗る方達だった。
次の日の実習で、先生に「昨日の方達が、こうして御献体なさるわけですね」
と聞くと、「そうだよ」と素直に言われてしまった。
あの人達が、生きている人達が、この台の上の死体となる。
「じゃあもしかして、知っている方が台の上に乗っていたりとか」と聞くとや
はり、「そうだよ」と涼しげに言われてしまった。
「お酒を一緒に飲み明かした方達が、こうして台の上にのっている場合もあった
よ。だから、不真面目に実習をされるとちょっと怒ってしまうね」
ちょっとどころではすまない気がして、ただ御献体して下さった方に深く深く
感謝と懺悔をした。
大学の教授が亡くなったとき、ぜひ息子に解剖して欲しいと希望して、実際に
息子が父の死体を解剖した例があるという話を聞いた。
父はどんな気持ちだったのだろう。
息子はどんな気持ちで、メスを握ったのだろう。
御遺体を見ると、その生活が偲ばれる。
脂肪が多い方は、それなりに裕福で大事にされていたのだろう。床ズレがある
方は、体が不自由で寝たきりで死を迎えたのだろう。
死に顔。病気。変異。義眼。
その一つ一つを知っていく。
父が死してはじめて、息子は父の生を知ったかもしれない。
そして我々は全ての解剖を終えた。
もはや台の上には何ものっていない。
御遺体を焼却して、身内の方へお返しする日はもうすぐやってくる。
言葉では語ることのできない感謝と懺悔とを、献体して下さった方と親族の方
へ。
沢山の知識と、沢山の経験。
いろいろな人の思い。
その全てがこの頭の中に刻みこまれながら、
しかし、当初恐れていた自分に、全てに対して無感情な自分に、変わることは
なかった。
#2773/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10:41 ( 61)
京夜日記、其之拾 「方言」 ■ 榊 ■
★内容
大学2年生の夏休みのことである。
僕は友達に誘われ、筋ジストロフィーの方々のお世話をする旅行に、ボランテ
ィアとして参加した。もっともその活動内容は「ボランティア」という言葉ほど
格好のいいものではなく、ほとんど力仕事のようなものだった。大した知識はな
いが筋力はあまっていた僕にはうってつけといえばうってつけの旅行であり、今
でもいろいろとその時の経験が記憶に残っている。
その中の出来事のひとつ。参加した子の「方言」が何となく忘れられず、今こ
うして日記を書いている。
重度の筋ジスになると、寝返りをうつことができないため、夜はつきっきりで
誰かが寝返りをうたせなくてはいけない。4人1組で2時間の当番制で、そうし
て、筋ジスの少年達の寝床で座っていた時のことである。
割り当てられた4人はそれぞれほとんどお互い知らない者同士で、最初は自己
紹介ののりで話し合っていたのだが、そのうち郷里はどこかという話になった。
「私は四国なの。だから、こっちに来たときは、口が開けられなくてこまっちゃ
った」
長い髪の女の子が、なぜかちょっと恥ずかしそうに打ち明けた。きれいな顔立
ちで、優しい感じの笑顔をする。
「何故ですか?」
隣に座る生真面目な男の子がそう聞いた。言葉遣いまで妙に丁寧だが、非常に
活動的であることは他の3人もよく知っていた。
「だって方言がでちゃうもの」
「四国に方言なんてあったの?」
短い髪のちょっと活発そうな女の子が、何となく嬉しそうににじり寄ってきた。
この子は根っから明るく、目につく子だなと思っていた。
「けっこうばりばり」
「へえ」
「それで一生懸命なおして家にかえったら、今度は標準語を使って笑われちゃっ
た」
そう言って、髪の長い女の子は笑った。
会話の途中で筋ジスの子が痛がりはじめ、寝返りをうたせるとやがて部屋はま
た静かになった。だいたい1時間に1度ほど痛がる。大した苦労ではなかったが、
両親はこれを毎日やっているかと思うと、頭の下がる思いだった。
「ねえ、さっきの話。なんて言ったの?」
「え? うーんとね……雨が降り始めたんで、『あっ、雨が降ってる』って言っ
たの。そうしたら、『なに、すかしとぉ!』って」
何となくその場面が想像できて、波のさざめきのようにみんなで静かに笑った。
窓ガラスの前で呟いた彼女、そしてそれをからかう友人の姿。そんなところだろ
うか。
「四国ではなんと言うのですか?」
「んっとね」
長い髪の女の子はちょっとだけためらった後、静かにこう言った。
「『雨がふっとぉ』」
静かになった部屋に、しとしとと雨の音がしたような気がした。気のせいであ
ることは確かなのだが、他の人もその音が聞こえたらしく、しばらく誰も口を開
かなかった。
「………へぇ。なんか感じでるね」
「やっぱり、『方言』っていいですね」
そう言われると、彼女はまた恥ずかしそうに笑った。
その時の、『方言』の持つ独特のあたたかさと、あの雨の音を、いまだに忘れ
ることができない。
ところで、わが郷里「名古屋」のもっとも特徴的な『方言』は、
「どぇりゃあ〜でいかんわぁ!」(たいへん〜で困る)
という。
少々情緒に欠けるが、好きな言葉の一つになっている。
#2774/3137 空中分解2
★タイトル (TEM ) 93/ 2/ 1 0:22 ( 38)
奥様は魔女 うちだ
★内容
私は桜台郊外の、とある住宅街に夫と二人で暮らしております。今の夫とは五
年前に見合い結婚を致しました。私の口から申し上げるのもナンですが、夫は
ほんとうに誠実で非のうちどころのない人です。物腰が優しく、私の父母から
も信頼されております。一流会社に勤務しており、私は生活の不自由など感じ
たこともございません。そう、まったく非のうちどころのない夫でございます。
それが癪に障る、と言うならばそれは世に言う贅沢というものでございましょ
う。言いません。
例えば私が日曜日に友人と遊びに行くと言います。夫が「行くな」と言えば、
私は行きません。でも夫は「行っておいで」と笑って許してくれます。私は理
解のある夫だと感動したものです。例えば私がお買い物に出ようとした時に雨
が降りだしたならば夫は「車を出そうか」と申し出るでしょう。降りだした雨
に困る私は夫のその言葉に甘えてまいりました。最初のうちは夫のそんな優し
さや心遣いに感謝したものです。
でも近ごろはさすがに鈍感な私も気付いたのです。夫の慈愛に満ちた言葉は
たんなる私の思い込みであった、と。いえ、言い直すならば夫の思い込みでご
ざいます。「行っておいで」とほほ笑みながら夫は理解ある夫を演じてきまし
た。私は永い間その言葉が心の奥底から出ているものだとばかり思っていたの
です。夫は「車を出そうか」と言いながらその実、面倒だと思っていたのです。
できれば私に「ありがたいけど、自分で行くから」と言ってほしかったのです。
なんということでしょう。それでは「たんと召し上がってください」と薦めな
がら台所へまわると「あの客よく食うよ」と陰口をたたくようなものではあり
ませんか。それならそうとちゃんと言えばいいのです。どうして思ってもいな
いことを言うのでしょう。確かにそういった性質の方も世の中にはいらっしゃ
います。そのような事はきっととりたてて言うような類いのことではないので
しょう。そうでしょうとも。ただ、人によって我慢できないことの種類はまっ
たく違います。
我慢できない・・・・・とはいえ私もこの程度のことで夫と別れようとは夢に
も思っておりません。だから私は今日もこうして夫のために夕餉の支度をする
のです。今日の献立は鷄の空揚げと里芋の煮物と温野菜のサラダです。温野菜、
とは茹でた野菜のことです。生野菜のサラダより、温野菜のサラダのほうが体
に良いと申します。サラダにはにんじんと芽キャベツとコーンと卵と、虫の涌
いたブロッコリーを黙って茹でて出しました。夫はそれをおいしいそうに食べ
ています。味の濃いドレッシングソースをかけたので気づかないでしょう。
別に命に別条ございません。だから私はほほ笑んでいるのです。
おわり
#2775/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:31 (199)
Yの殺人 1 平野年男
★内容
*登場人物
畑洋二 (はた ようじ) 畑恵美 (はた えみ)
畑菊子 (はた きくこ) 畑百合子(はた ゆりこ)
畑孝亮 (はた こうすけ) 畑昌枝 (はた まさえ)
畑譲次 (はた じょうじ) 朝原育美(あさはら いくみ)
神尾友康(かみお ともやす) 神尾留依(かみお るい)
日熊一多(ひぐま いちた) 石橋昭 (いしばし あきら)
淵英造 (ふち えいぞう) 小室二郎(こむろ じろう)
鳥部竜雄(とりべ たつお) 片倉優右(かたくら ゆうすけ)
流次郎 (ながれ じろう) 平野年男(ひらの としお)
吉田 (よしだ) 浜本 (はまもと)
一九八八年、春先であった。
紅く昏い空間を、影が落下して行く。見ている者がいたならば、それは非常
にゆっくりとした光景と映っただろう。
影はしかし、見られることなく、自然の法則に従って、アスファルト道路に
激突した。何度かリバウンドを繰り返した後、勢いをなくしたスプリングウォ
ームのように、影はその場で動かなくなった。代わりに、影の中からは、赤い
液体がさらさら流れ出し始めている。
夕日を借景とし、何とも言えぬ美しさと醜さを、影は創り出していた。
畑洋二の死がその家族に伝えられたのは、同じ日の夜遅くだった。
「死んだ」
畑恵美は、年代物の揺り椅子に腰掛けたまま、相手の言葉をそのまま口にし
た。椅子の揺れはそれでも、常に一定であった。
「はい。幽霊マンションの廊下、あるいは屋上から落ちた様子で、即死だった
ようです。遺体が身につけていた名刺等から、こちらに伺ったのです。大学教
授ということで、そちらにも連絡を入れましたが」
刑事は、眼前の老女が畑家の気丈な女主人で、株のやり手だと知っているた
めらしく、上滑りな口上抜きに、事務的に事実を伝える。
「遺体の身元確認を、と思いまして、ご足労願えますか?」
「分かりました。朝原さん、すぐに子供達に知らせて。早く」
恵美にこう命じられた家政婦は、すぐに電話のある方を向いたが、その動き
が止まった。
「百合子お嬢さんは今夜、コンパで、一次会の会場しか存じ上げておりません
が」
「ああっ! なるべく努力なさい! とりあえず、孝亮だけはつかまえてちょ
うだい」
申し訳なさげな朝原の声にいらいらしたのか、恵美は声を大きくし、手すり
にかけていた手に力を込めた。
「はい」
短く答えてかけて行く家政婦を見やってから、刑事は口を開いた。
「今夜は、このお屋敷には、お二人だけで?」
「そうです。長女の菊子は旅行がちですし、次女は先ほど耳にされた通り、遊
び歩いている始末。孝亮は一家団らんとかで、嫁に孫と連れだって、昼から出
かけていましたから」
「確認は、どうされますか? こちらとすれば、できればお二人くらいはお願
いしたいのですが」
「私は一人で大丈夫です」
「いえ、身元の確認に万全を期すためで、他意はありません。息子さん、孝亮
さんですか? その人と一緒が妥当ですかね」
「……任せます」
ちょっと考えてから、恵美は答えた。
結局、孝亮らの家族が、行き着けのレストランへの連絡で呼び戻されたのは、
刑事の訪問から、軽く一時間経過していた。二人の娘の方はと言えば、長女は
連絡はついたものの、すぐには帰れない状況であり、次女は心配していた通り、
連絡さえつかなかった。
「昨夜は、本当に、ご協力ありがとうございました。心から……」
吉田刑事がその先を続けようとしたところ、畑恵美に遮られてしまった。
「形ばかりの悔やみなんていりません。どうか、捜査とやらを続けて下さい」
場所は、畑屋敷の玄関先。幸いにしてと言うべきか、畑家の主の死が表面化
した翌日は、日曜であった。比較的裕福な家族が集まっているこの一帯は、そ
れこそうららかな休みの朝を迎えていた。
そんな時間にはまるで似合わない、無粋な用件でやって来た吉田刑事は、昨
夜の内から前もって、畑家の人間全員を足止めしておくよう、目の前の女主人
に頼んでおいた。
「長女の菊子は、三十分もすれば戻って来るでしょう。次女の百合子の方は、
まだ見つかっておりません。全く、どこへ行ったのか」
恵美の口ぶりが独り言めいてきたそのとき、家政婦の朝原が駆け足で家の中
から出て来た。
「やっと分かりました。お友達の家に泊まられていまして、昨晩は連絡を入れ
る時間がなかったと……」
「そんなことはどうでもいんです! すぐに帰って来るよう、強く言ってやり
なさい!」
「それはもう、伝えてあります」
家政婦の声はしかし、小さくなりつつあった。恵美の勢いに圧倒されている。
「では、刑事さんをお迎えして。改めて紹介して差し上げるのです。私は部屋
にいますから、二人が帰って来たら、呼びなさい」
「はい。では、刑事さん……」
さっさと屋敷内に戻った恵美を見送ってから、朝原は、吉田刑事を促した。
黙って会釈し、彼女の後について行く吉田。
広間に案内されると、昨夜見た顔やそうでない顔があった。吉田刑事は、勧
められるがままにソファに腰を下ろし、部屋にいる全員を見回した。
「紹介は勝手にやりますので、退がって下さって結構ですよ」
吉田は、そう朝原に伝えた。
「そうですか。あ、あの、刑事さん。コーヒーと紅茶、それとも何か冷たいお
飲物がよろしいでしょうか?」
「ああ、どうも。お気遣いなく」
「いえ、お出ししませんと、奥様がうるさく言われますので」
「はあ。厳密には、もらってはいけないんですがね。では、そうですな。コー
ヒーをブラックで」
その答を聞くと、家政婦はパタパタとスリッパの音を立てて、出て行った。
「それでは、改めて……。こちらの御主人である畑洋二さんが亡くなられた件
で、少し調べさせてもらっています、吉田と言います」
こう言ってから、再び吉田は居間を見回した。
「昨日はどうも。私、洋二の息子の孝亮と言います。知らせを聞いたときは、
ちょうど家族団らんの真っ盛りでして、あまりの落差にちょっと疲れていまし
て。こんな顔で失礼します」
そう言った男の顔は、確かにみっともなかった。元はいいのだが、両目の下
に大きな黒々とした隈があり、疲労の深さがはっきりと分かる。体格はよく、
肉体的には健康そのものといった印象だけに、一層滑稽だ。
「あ、できれば、ご職業なんかも教えていただきたいですな」
「えー、スポーツインストラクターをやっています」
「と、言いますと?」
「私、母からお金を借りて、スポーツジムを始めました。そこで、ウェイトト
レーニングを主に教えています。夏には水泳やスキューバダイビングなんかも
教えます」
「ほう。そうなりますと、奥さんの方は」
「エアロビクス等の、美容と健康によい運動を教えておりますわ」
吉田がみなまで言う前に、孝亮の妻、昌枝が答えた。自信を持って答えただ
けに、年齢の割には若々しい肌をしている。夫の様子とは対照的だった。
「それはそれは。ですが、確か、お子さんがいると伺いましたが、そちらの方
で大変でしょう?」
「いいえぇ。譲君は、手の掛からない子でして。淵先生か小室さんがいてくだ
されば、まるで心配いらないんですの」
昌枝はそう言って、自分の子供の方を振り向いた。
大きなソファに体を埋めるようにして、眼鏡をかけた利発そうだが、生意気
そうでもある男の子がいた。小柄で色の白いその子は漫画を読んでおり、見た
目はガリ勉という感じだ。スポーツが得意な両親を持つとは思えない。
「ちょっと待って下さい。そう一度に名前を出されますと、混乱しますので。
譲君はちゃんとした名前だと、なんて言うんでしたっけ。昨夜お伺いしたのに
忘れてしまって」
「譲次、ですわ。譲るに次と書いて。小学校三年生です」
「あ、そうでしたそうでした。それから、淵先生とか小室とかおっしゃったの
は?」
「淵栄造さんといって、譲君の家庭教師を頼んでおります、大学院生ですの。
義父の教え子さんという縁で」
言い終わった昌枝の後を継ぐ形で、今度は孝亮が口を開いた。
「小室といいますのは、私の友人です。玩具メーカーの男で、よく商品を譲次
にもって来てくれるんです。譲次の奴、『しましまのおじさんが来た!』と言
っては、喜んじゃって、父親として嫉妬したくなるぐらいですよ」
「しましまのおじさん?」
「ええ。小室はいつも、横に縞の入った服を着て来るんです。季節に関係なく」
「ははあ。分かりましたが、そのお二人は、ここには来られてませんよね?」
「はい、今は。ひょっとしたら、淵君は来るかもしれませんが。連絡は行って
いるはずですから」
「分かりました。では、次はあなたのお名前を」
吉田は、端の席にいる女性に声をかけた。昨晩は見られなかった顔である。
「……」
しかし、その女性は答えなかった。ずっとうつむきがちにしていたのだが、
吉田の声に一度、はっとしたように顔を上げ、すぐにまた下を向いてしまった。
今の年齢の半分ぐらいの頃ならば、その美しさに目を見張ったであろうが、今
は彼女の雰囲気が、それを思い返すことさえ拒絶していた。それほどの、一種
の緊張感のような物が、彼女の周りにはあった。
「聞こえませんでしたか? あなたですよ」
吉田がやや腰を浮かせ加減にすると、ちょうどそのとき、家政婦の朝原と、
女主人の恵美が入って来た。
「やっと娘達が帰って来まして……。すぐに顔を出せると思います」
恵美がそう言っている合間に、朝原はトレイに載せてきた飲物を、各自の目
の前のテーブルに置いて行く。
吉田はまた座り直してから、こう言った。
「今、こちらの方に名前を聞こうとしていたのですが、答えてもらえんのです
よ」
「まあ! なんてことを!」
女主人が、いきなり金切り声を上げたので、吉田は正直、驚いてしまった。
最初は自分が何か悪いことを言ったのかと思ったが、そうでないらしいことが
次第に理解できた。
「孝亮に昌枝さん! どうして気を利かせないの! この子は初めての人は駄
目だって知っているんだろうに!」
矛先は、息子夫婦に向けられていたのだ。
顔を見合わせる孝亮に昌枝。しかし、こんな中でも、譲次は本を読んでいる
だけだった。
「お母さん。それなら、お母さんか育美が側についてやりゃあいいじゃないか。
俺達はこんな大人のお守をする義務なんてないんだ」
孝亮の言葉は、まるでさっきと違っていた。育美というのは、家政婦の下の
名前らしい。自分の名前に反応した朝原は、飲物を置き終わると、さっと一礼
をして、部屋から出て行ってしまった。
「そうですわ、お義母さん。こちらは譲次で手一杯ですのよ」
「昌枝さん、あなた、いつも手が掛からないって、譲ちゃんのことを自慢して
いませんでしたかね!」
気取った口ぶりの昌枝を、恵美が一喝した。
「刑事さん、すみませんでした。この子は留依と言います。私と前の夫との間
にできた子供で、四十になるのよね、留依?」
そう呼びかけられた先の女性は、かくんとうなずいた。
「前の夫と言われますと、畑洋二さん?」
「いえ、違います。洋二の前に結婚したことがありましたの、私。神尾友康と
いう名前です」
「失礼ですが、どんな経緯で別れられ、その子供さんがここにいるのですか?」
「友康とは死別したのです。私が二十八でしたから、友康は三十八のときでし
た」
いらいらしていた気持ちが収まったのか、女主人はようやく腰掛けた。
「どうしてお亡くなりに?」
「交通事故です。トラックに跳ねられて、即死だったと当時、聞きました」
当時というと……。吉田刑事は頭の中で計算する。この女主人・恵美が確か、
六十三才だから、二十八のときってのは、三十五年も昔か。
「留依は生まれたときから、身体が弱く、そのため、家に閉じ込もりがちでし
た。体力の方はだいぶ人並に近付いているそうなんですが、性格が内向的にな
りきってしまっていて、他人、特に初対面の人とは私か朝原さんか、医者の石
橋先生が間に入らないと、ご覧の通りになってしまうんです。この子を、私が
再婚するからといって、放っておける訳がありません」
恵美の口調は、最後には英語の構文を訳すようなところがあった。
「……ちょっと、途中で悪いのだが、刑事さん。吉田さんと言ったかな?」
「はあ?」
突然の呼びかけに、吉田はまたびっくりして、声の方を向いた。視線の先に
は、白髪と黒い髭がアンバランスな実年男性がいた。かなりがっしりした身体
つきだ。
−続く
#2776/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:35 (200)
Yの殺人 2 平野年男
★内容
「私は、弁護士の日熊一多という者だが、そこまで根掘り葉掘り聞かれるとは、
どういうことでしょうな。ただの自殺を処理に来て、しかも自己紹介の段階で、
そこまで聞く必要があるとは思えんのだが」
「弁護士の方でしたか。こちらの畑家の顧問弁護士となるのですかね?」
「そんなところです。で、こちらの質問には答えてもらえんのですかな?」
日熊は、強く言い切ると、髭を一撫でした。どうするのかと思ったら、髭が
濡れないようにコーヒーを口に運んだのだった。
「実は、少し不審な点もありますので、詳しく話を伺っているのです」
「不審な点と言いますと、何ですかな?」
「それは申し上げられません。もし、刑事事件になった場合、こちらの有力な
資料となるやもしれませんからな。ただ、一つだけ申しますと、畑洋二さんは
遺書を身につけておらず、また飛び降りたと見られる場所にも、それらしき物
は見当たらなかった。この点があります」
「なるほど」
「ついでに日熊さん。あなたが故人の頼みで、遺書なり何なりを預かっている
ということは、ありませんかね?」
「いや、ないな。遺書を作りたいとか、そういう相談さえ、受けたことはなか
った。こちらの恵美さんの分なら、きちんと預からせてもらっていますが」
「ほう。本当ですか?」
吉田は、確認のため、恵美の方を見た。
「ええ。お金のことはちゃんとしておかないと、いけませんからね。遺言書に
私の気持ちを込めたのです」
遺言書という言葉に、息子夫婦が反応した。が、すぐに関係ないといった体
を繕おうとしているようだった。
と同時に、二人の女性が入って来た。
一人は化粧は一切していなくて、毅然とした態度と表情が印象的だった。次
に目が行くのは、その背の高さで、ハイヒールでも履いているのではと考えて
しまう。その高い肩の辺りで、揃えられた黒髪が揺れていた。グレーの地味な
洋服は、旅行から帰ってのち、着替えた物だろう。
もう一人は、薄くではあるが化粧をしていて、それが少し乱れていた。短く
束ねた髪も、ここに一本、そこに一本という感じで飛び出している。こちらは
普通の身長で、目につくのは疲労の色ばかりだ。手に、氷の入った透明なコッ
プを持っている。
「遺言書の話なんかしてるの? 無意味よぉ。死んだのはお父さんの方でしょ
う? あっちには財産なんてこれっぽっちもないんだから。そればかりか、何
の得にもならない研究で、お金を食いつぶしていただけ」
そう言って、彼女はコップを口に運び、咽を鳴らして氷水を飲んだ。
「百合子! この大変なときに、なんてことを言うの! だいたい、あんたは
いつもだらしなくて、行き先も告げないで」
「ま、まあ。待って下さい、畑恵美さん。こちらは、娘さんの百合子さんの方
ですね?」
「そうよ、あたしが百合子。あんたは?」
女主人が答える前に、畑百合子は手近なソファに座りながら、自分で言った。
そんな百合子の口調に、内心、腹を立てながらも、吉田は感情を抑えて言っ
た。
「刑事です。あなたの父親の件で調べている」
「あれえ? あたし、眠たくってよく憶えてないけど、お父さんは飛び降り自
殺したって聞いたわよ。どうして刑事がいんのよ? あたしの聞き違い?」
「百合子、やめなさいよ」
たまりかねたように、もう一人の女性が言った。百合子を黙らせておいてか
ら、彼女は吉田の方に向かって言った。
「妹は、大学も四年だというのに、父の死に接してこんな態度でいられるなん
て、おかしいでしょう? 畑の血が、こんな極端な人間を生み出すんです」
「あなたは、畑菊子さんですね?」
「そうです。旅行先で知らせを受けたときは、何か悪い冗談だと思いましたけ
ど、こうして刑事さんがおられるということは、事実なんですわね?」
「残念ですが」
「それで、父はすぐに死ねたのでしょうか? 苦しまずに……」
「そうだったと思われます」
「よかった……」
心の底からほっとした様子の菊子。それから、朝原に促されて、やっと腰を
下ろした。
「えっと、確認しておきたいんですが、これでとりあえず、関係者全員となり
ますかね?」
吉田が尋ねると、恵美が無言でうなずいた。
「それともう一つ。長女の菊子さんは詩人をしておられる。次女の百合子さん
は、美大の四回生」
この問いかけに、「そうです」と「そうよぅ」という答が返ってきた。
「色々と予備知識にないことを聞かされ、混乱しとりますが、要点だけ聞かせ
てもらいます。昨日の夕方、午後四時から六時頃までの間、どこで何をしてい
たのか、はっきりと言える方は、おっしゃってください」
全員が黙り込んだ。
「……不審な点とか言ってましたが、刑事さん。それは事故死の可能性を検討
しているのではなく、洋二が殺された可能性を検討しているのね?」
ようやく口を開いたのは、女主人の恵美だった。
「そうなりますかね」
「……私達は、折角の土曜日でしたから、譲次が帰って来るのを待って、昼か
ら遊園地に出かけました。な、譲次?」
父親の声に、初めて話の輪に入ってきた譲次は、簡単にうなずくと、すぐに
また本の世界に戻ってしまった。
「奥さん、それで間違いありませんか?」
「ええ。夜にはレストランの方へ行ってましたし。何でしたら調べて下さい」
昌枝はそう言ってから、遊園地やレストランの名前を口にした。
吉田は念のため、それらをメモし、他の人間に目を合わせた。
「私は能登の方を巡っていたところでした。今朝一番に引き返して来たんです」
それから、菊子の言ったホテル等をメモする吉田刑事。
「あたしは言わなくても分かってるよね?」
「いえ。だいたいは聞いてますが、ちゃんとしたことを、本人から聞かせても
らいたいですな」
「面倒だなあ。夕方っていったら、ちょうどボーリングしてた頃かな。プール
バーは夜になってからだったから。証人て言うの? アレならたくさんいるわ
よ」
同様に、メモを取る吉田。
「私は、ずっと家におりました。土曜なので、何もすることがなかったんです」
「土曜なので、と言うのは?」
「土曜日曜は、株は動きませんから」
「なるほど。では、証人となるのは、家政婦の朝原さんだけ。そうですか?」
「そうです。朝原さん、間違いないね?」
「は、はい。奥様も私も、ずっと家におりました」
多少どもりつつ、家政婦は短く答えた。
「留依さんはどうなんですか?」
吉田は、恵美に聞いた。
「留依は夕方、そうですわね、五時まではいました。けれども、五時を少し回
ったぐらいで、時間ができたと言って石橋先生が来られ、治療を兼ねて食事に
連れて行ってもらったはずです。そうよね、留依?」
「……うん……」
初めて声を出して、意志を表した留依。ようやく、刑事の存在にも慣れてき
たらしい。
「それで昨夜は、この家におられなかった訳ですか。石橋という医者とは、ど
んな関係ですか?」
「留依が成人してからと言ってよいでしょう。それまでは色々な医者に診ても
らっても駄目だった留依が、少しでも喋るようになったのは、石橋先生のおか
げなんですの。全く、よくしてくれる先生で、留依のことを親身になって考え
て下さってます」
四十の女性に対して親身になるというのは、どういうことだろうかと思い巡
らせた吉田だったが、それを脳裏から振り払って、次の相手に目を向けた。
「さあ、後は、日熊さんだけですな」
「何? 私も答ねばならんのか?」
「念のために」
「弁護士の私を疑うのか?」
髭を震わせながら、白髪の紳士は感情を露にした。
「ですから、一応です」
「ふむ……。遺憾だが、客観的なアリバイはない」
「アリバイとまでは言ってませんが」
「同じだ。ともかく、私は一人で仕事をしていたのだ。日中、方々を駆け回っ
てな」
日熊の答に黙って二度うなずいてから、吉田は次の質問に移った。
「これからが今日、最も重要な事項となるんですが、心して聞いていただきた
い。畑洋二さんが自殺する理由はありましたか?」
また誰もが口をつぐんだ。何かを言いたそうなのだが、畑恵美の顔色を伺う
ようにしたかと思うと、すっと横を向いてしまう。
そんな部屋の雰囲気を感じ取ったか、恵美自身がゆっくりと口を開いた。
「……言いにくいことですが、ありました。その理由は私にあると言えるでし
ょう。先ほども申しました通り、私は再婚の身です。神尾友康と死別してから
一年で、洋二を養子に迎えたのですが、夫婦としての感情がお互いにあったの
は初めの十年だけだったと思います。それも、子供を作ることで辛うじて保た
れていた関係です。それから二十年以上、私は友康と洋二の違いをあからさま
に口にしてけなしてきました。特に、洋二の何の役にも立たない実験とか研究
とかを、非難し続けてきました」
「実験というのは?」
「ああ、御存知かと思いましたの。洋二はナントカ心理学を専門としている教
授なんですよ。詳しいことは知りませんけど。それの研究に、無駄金を費やす
ことが、私には我慢できない。もっと、有用な用途があるのにねえ」
「そんな言い方はないと思うわ、お母さん」
女主人に面と向かって反駁したのは、娘の菊子だった。
「お父さんはお父さんなりに、自分の仕事に一生懸命だったわ。それを承知し
て、お母さんも一緒になったんじゃなかったの?」
「最初だけね。だけれどもね、あの人がみるみる内向的になっていくのを見て
いたら、誰でも嫌になるものよ」
「まあまあ。いさかいは困ります。つまり、何ですな。恵美さんが洋二さんを
圧迫していた、とでも申せばいいんですかね?」
「構いません。精神的虐待とまで言う人がいたわね」
「なるほど。それが原因で、洋二さんは自殺した。この可能性は皆さんが認め
るところですな?」
吉田が見回すと、誰もがうなずいているのが分かった。
「充分すぎるくらい、可能性は高いわぁ」
百合子に至っては、こうまで言い切ってみせた。
「では、自殺という線で固めていいようですね。遺書の捜索に、捜査員をよこ
すかもしれませんが、自分はここらで引き下がるとしましょう」
「おや? あんた、自殺と判断するには不審な点が、いくつもあるような口ぶ
りだったが?」
「なに、はったりに過ぎません。ああいう言い方をすれば、他殺の場合、動機
がちらほらと見えることがあるんでしてね」
吉田はにやりと笑うと、自分の分のコーヒーを飲み干した。それが辞去の合
図となった。
誰もいない、金曜日の雨の夕方。
白黒の縞模様をした服を着た男が、空き地で倒れていた。うつ伏せに倒れて
いるので、その顔はよく見えない。雨は、男の身体の上に、絶え間なく降り注
ぐ。
空き地の土は、赤茶色。それを乱すのは、男の身体の下から広がる赤。先ほ
どまで、どんどんその領域を広げていた赤も、今は止まった様子だ。
雨足は一定。淡々と、しかし大量の水を、男に含ませていっている。
「死んでいたのは、小室二郎、玩具メーカーの社員です。財布にあった免許証
で分かりました。現在、確認をしているところでして。財布の中身や金品は手
着かずみたいですから、強盗の類じゃないでしょう。
第一発見者は、雨が弱まった頃を見計らって、自動販売機に煙草とビールを
買いに出たところ、空き地で人が倒れているのを見つけたと言ってます。午後
八時前後だと言ってますが、まあ、詳しいことは直接、聞いてみて下さい。
それから、奇妙なことが一つ。被害者はうつ伏せに倒れていた訳ですが、そ
の背中一面に、泥が塗られた様子なんですね。倒れた拍子になんかじゃなく、
作為的に」
「ふむ、泥がな……。ご苦労さん。で、死因なんかも聞いてるか?」
吉田は、先に到着していた浜本刑事を労うと、続けて聞いた。
「ええ、大ざっぱなところは。死因は首んとこ、頚動脈ですか、そこをすっぱ
りとやられてました。傷の角度から、後ろからやられた可能性が強いとのこと
です。
死亡推定時刻は、雨の影響で、まだよく分からんそうですが、午後四時から
七時三十分までの三時間半に収まるんではないかと。
足跡は、雨のため、すっかり流されています。普段でさえ、人通りの少ない
道のようですから、雨の日に起きた事件となると、目撃者捜しは大変になりそ
うですねえ」
「泣き言を口にするんじゃない。とりあえず、聞き込みに行ってくれ。わしは
第一発見者と会ってから、追っかけるからな」
「はい」
元気よく答えると、浜本は手帳を仕舞い込み、暗がりに向かって歩き出した。
吉田の方は、第一発見者の姿を求め、見回した。
−続く
#2777/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:38 (176)
Yの殺人 3 平野年男
★内容
「こちらです」
顔は見えないが、聞き覚えのある声がした。そちらへ行くと、記憶にある若
い警官が立っていた。畑洋二の墜落死事件を処理する際に、見た顔だった。
「ご苦労」
それだけ言って、吉田は、所在なさげに立っている青年に目を向けた。パジ
ャマのような上着に、ジャージを履いていた。靴はサンダルのようで、いかに
も、ちょっと出かけただけで、巻き込まれてしまったという容貌。
「寒くないかね? 今まで車の中で待ってもらっていたようだが」
「まあ、大丈夫……」
もごもごと口を動かす青年。
相手はそう答えたものの、吉田はやはり気の毒だと思い、パトカーの中に青
年を招き入れた。吉田自身は一端、出て、自動販売機を捜したが、冷たい飲物
ばかり売っていたので、結局、手ぶらで車内に戻った。
青年は、近所の木造アパートに住む大学生で、あまり有名でない私大に通っ
ていた。前もって浜本から聞いていたように、青年はアパートで簡単な夕食を
取った後、丁度、雨が上がりかけていたので、ビールと煙草を買いに出たとの
ことであった。傘をさす必要はないぐらいだったから、持って出たのは金だけ
だったと言う。
「何時ぐらいだったんだね、アパートを出たのは?」
「うんと……」
青年は不精髭を気にしているのか、しきりに手を顎にやりながら、もごもご
と答えた。
「さっきも聞かれたんだけどぉ、はっきりしないんすよ。何となく、窓見たら、
雨上がってらって感じ」
「テレビか何か見てなかったのかね? この番組が終わった頃だったから、何
時ぐらいだっていう風にだ」
「野球がないって分かったから、ぼーっとしか見てなかったなあ」
青年の様子を見て、吉田はあきらめ加減になった。通報時刻から考える方が、
早そうである。
「じゃあ、話を換えよう。いいかね、君は空き地に遺体を見つけた後、すぐに
通報したのかい?」
「……いや。ひょこひょこって、側までよって、じぃっと見ちまったから、結
構、時間、食ったかもしんないっす」
「何分間ぐらいだね、それは」
「……十分……かなあ。色々、考えたし」
「考えた? 何をだ?」
「面倒に巻き込まれるのって、面倒だなあってさ。で、電話しようかどうしよ
うか、迷って、結局、友達に自慢できるなって思って、したんで」
青年は、変な言い回しをだらだらと続けそうだった。だから、吉田はここで、
完全にあきらめた。死亡推定時刻を少しでも縮められないかと願ったが、この
線では無理のようだ。
「ああ、分かった分かった。長い間、引き留めて悪かったね。もう、帰ってい
いよ」
青年は、黙ってドアを開け、外に出た。
(今年は、昭和で言えば何年だったかな)
とぼとぼと歩いて行く青年の後ろ姿を見送りながら、吉田はそんなことを考
えていた。青年の学生証を、頭に思い浮かべながら。
(あいつ、二十歳になってるのかね。ま、ごたごた言ってもきりがないが、せ
めて、警察の前では考えろよな)
「では、亡くなった小室さんは、当日、こちらを訪ねられていないんですな?」
吉田は、再び訪れた畑邸にて、今や未亡人となった畑恵美に聞いていた。小
室の遺体が発見された空き地が、畑の家に程近かったことがなくても、吉田は
聞き込みに来ていただろう。小室が一人暮しで、ふた親とも一昨年に亡くして
いたせいもある。
偶然にも、またも日曜日に重なっていたので、場には、畑屋敷にいる全員が
集まっていた。ただし、女主人の孫である譲次は遊びに出していたし、例の弁
護士、日熊もいなかった。
「はい。間違いありません」
恵美は、さほど感情を感じさせぬ、抑揚のない言い方をした。
代わって、畑昌枝が応対を始める。
「あの日、小室さんは、私達と夕食をご一緒することになっていました。です
から、時間を見計らって、こちらに来ることにはなっていたんですが……」
「正確には、時間を決めてなかったんですね?」
「その通りです」
「で、小室さんが現れないのを、どう感じましたか、あなた方は?」
「最初は、遅れているな、ぐらいにしか考えていませんでした。でも、午後八
時を回った時点で、これはあんまりだと思いまして、電話を入れました。でも、
出られなくて、お仕事で忙しくて来れなくなったのだろうと思いまして、私達
だけで食事をいただきました」
「ふむ。電話は、小室さんの自宅に入れられた?」
「そうです」
「小室さんの方から、電話が入ったなんてことも、なかったんですな?」
「ありませんでした」
単調に答えていく昌枝。身内の者が亡くなったのと違い、落ち着いた答え方
だ。と言うよりも、むしろ、突き放して喋っているように見受けられる。
「家族の皆さんの他には、食事に行かれたのはいませんね?」
「いいえ。朝原さんがいます。この娘だって、立派な家族ですから」
今度は恵美が言った。朝原が聞いていたら恐縮し切ってしまうだろう。
「それに譲次の先生も。何と言ったかしら」
「いやね、お母さん。淵英造さんよ。あの日、七時からいたじゃない」
名前を忘れてしまったらしい女主人に代わって、長女の菊子が答えた。
「ほう。朝原さんはともかく、淵さんまでとは」
「それが淵さんも畑の人間になるかもしれないのよ、刑事さん」
少しばかりふざけた口ぶりで、次女の百合子が言った。
「と言うと?」
「お婿さんとして入って来る訳。相手は姉さんなのよ」
「何をペラペラ喋るの、百合子」
怒ったような声を出した菊子は、それから顔を赤らめた。
「本当ですか?」
吉田は百合子の方に視線を投げかけた。ついでそれは菊子に戻る。
「お付き合いをしているのは確かですが、まだ結婚するだの何だのという話に
はなっていません。あの方、父が亡くなってから特に優しくしてくれますし…
…。あ、これは余計なことでしたわ」
口元を押さえた菊子。割合に本気だなと吉田は感じた。
「分かりました。では、これは皆さんにお聞きしたいんですが、小室さんを恨
んだり妬んだり、つまるところ、彼を殺すような人がいましたか?」
吉田は、個別にしてもよい質問を、敢えて全員のいる場所で行った。何故な
ら、職場で聞き込んだ小室の評判も、一つに集中していたからだ。
「小室は、そこそこに陽気で、そこそこに控え目で、人当たりのいい奴だった。
あいつを殺そうなんて考える人物が、いるはずがない」
これが、最大公約数的なものだった。そして、これは畑屋敷内でも同じであ
った。
「恨むなんてなあ」
一通り、同じ様な答が出揃ったところで、畑孝亮が、改めて口を開いた。
「有り得ない。あったとしたら、そいつは逆恨みってもんですよ。あまりに人
当たりのいい小室を羨ましく思って……」
「そんな理由で、人を殺すような方をご存知でしたら、教えていただきたいで
すがね」
吉田は、やや皮肉っぽく言った。そうして、続ける。
「それから……。小室さんの遺体には、少しばかりおかしな状況があったんで
すが、泥がね。泥が、彼の背中一面に塗りたくられていた」
「『どろ』と言いますと、あの土をこねた」
「そうです。何かお心当たり、ありますか?」
だが、返答は沈黙だけだった。最初から明確な解答を期待していた訳ではな
いが。
「では、これは小室さんの職場でも聞いたことなんですが、彼に特定の相手は
いましたか?」
「いやあ、見たことありませんね。どうもあいつ、非婚主義だったみたいで」
「結婚するしないと、女性の有無は関係ないと思いますが、孝亮さん?」
「言われてみりゃそうですけど、見たことないものはないんです」
すねたような物言いをする畑孝亮を見て、吉田はこの線も駄目かと思った。
「そもそも、小室さんとはどういう関係で知り合ったんですか?」
小室と畑家のつながりは、孝亮が友人だということが主であるから、自然と
質問は畑孝亮に向けられる。
「簡単です。大学時代の友人てやつで、卒業以来何年間か会っていなかったの
が、ええっと六年前でしたか、ばったりと再会しまして。親交の復活となった
んです。うちの譲次はその頃からよくなつきましてね。小室も玩具メーカー勤
めだけあって、嫌な顔一つせず……」
「では、小室さんとは同じ大学の出身ですか?」
「ああっ、いいえ。言い方がまずかったな。大学時代、知り合っただけで、大
学そのものは別です。僕は体育大学、彼は理工系の大学でした」
さすがに懐かしむ口調の畑孝亮。
「その頃の友人なんかで、今も付き合いのあるような人もいませんかね?」
「いないでしょう。少なくとも、僕の方にはいませんから、小室にもなかった
んじゃないですか」
「そうですか」
もう質問することもなくなったので、吉田はとりあえず辞去することにした。
小室二郎殺しの鑑識結果が出たにも関わらず、捜査の方は容疑者さえも浮か
ばない有様だった。
死亡推定時刻は当初の午後四時から午後七時半までが、午後五時から午後七
時までに絞り込めた。が、目撃者の方は事件当時の雨のためか皆無であった。
凶器は未発見のまま。恐らく、カッターナイフ状の鋭い刃物で、背後から切
られたと思われる。犯人は被害者の背後に立っていた可能性が強いため、返り
血はほとんど浴びなかったと考えられる。また、犯人の身長は被害者より高い
か、低くても同じぐらいはあっただろうと推定された。
ここまで分かっていながら、被害者に殺される動機がないため、容疑者がま
るでリストアップできない。故に、アリバイ調べも身長の調査もできないこと
になる。
人違い殺人や巻き込まれ殺人の可能性が指摘された。
「どういうことだ? 言ってみろ」
薄々言いたいことは感じていたが、吉田は浜本を促した。
「人違い殺人は文字通り、別の人と勘違いされて殺されてしまった場合です。
雨と暗さで間違えたと……」
「しかし、小室は歩いて畑家に向かっていた状況だぞ。その遺体が空き地にあ
るってことは、犯人が空き地に被害者を呼び込んだんだろうよ。だったら、人
違いなんて起こるはずないと思うが」
「そうでした。では、巻き込まれ型です。何か見られては困る場面を目撃され
た犯人が、被害者を殺した場合となります」
「割といいかもしれんが、ならば聞こう。現場周辺で別の事件が起こってもお
かしくないな、その状況なら。だが、別の事件の通報はなかったぞ」
「……例えばですね、自分の車の中で男が女を無理矢理犯そうとします。その
場面を通りかかった小室が見てしまった。見られたことを知った男は逆上し、
車を出て小室を追っかけて殺した」
「ふむ。有り得んとは言わん。しかし、逃げる者が袋小路の空き地に入るかな。
すぐ側には知合いの家、畑屋敷があるんだ。そちらへ走るのが自然だと思う」
「では、警部の意見は?」
「やはり……畑の人間が絡んでいるんだと思う。あれだけ近くにいたんだ。本
当はあの日、訪ねて来た小室を何かのトラブルで殺してしまい、それを隠すた
めに空き地に放ったとか、そんなとこを考えている」
方針が決まった。とにかく、畑家の人間全員のアリバイと身長を調べ上げ、
検討すること。自殺したとされる畑洋二の死について、何もないか調べ直す。
この二点である。
−続く
#2778/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:41 (172)
Yの殺人 4 平野年男
★内容 03/06/10 00:04 修正 第2版
畑家の人間の身長は、孝亮夫婦の経営するスポーツジムに記録があったので、
さほど不自然さなしに知ることができた。神尾留依や家政婦の朝原育美のもあ
ったのは助かった。また、畑家によく出入りしている人物の身長は別口で調べ
た。小室二郎のと合わせ、以下にそれらを示す。
年齢 身長(cm) 備考
畑洋二 58 169 学者。死亡(飛び降り自殺?)
畑恵美 63 155 その妻。資産家
畑菊子 28 171 長女。詩人
畑百合子 22 160 次女。美大生
畑孝亮 33 180 長男。スポーツインストラクター
畑昌枝 31 163 その妻
畑譲次 9 135 その長男。小学三年生
神尾留依 40 152 恵美とその前夫との娘。自閉症気味
朝原育美 20 159 家政婦
淵英造 23 180 大学院生。洋二の研究室所属。譲次の家庭教師
日熊一多 53 170 弁護士
石橋昭 47 164 医者
鳥部竜雄 63 166 洋二の友人
小室二郎 34 170 孝亮の友人。死亡
表中、説明を要するとしたら、鳥部竜雄なる人物についてであろう。この男
は畑屋敷のすぐ近所に家を構える独居老人。漁師だったが事故で足が不自由と
なったため、隠退し年金生活を送っている。畑洋二が健在の頃は、よく屋敷に
も出入りしていたのだ。
先の「被害者の小室よりも背が高い」条件を満たすのは、全く同じ日熊を筆
頭に畑菊子、畑孝亮、淵英造の四人となる。ほぼ同じ身長の持ち主まで列挙す
れば、鳥部竜雄も入れていいかもしれない。同じ身長というのは境界が曖昧だ
が、元々犯人の身長にしても推測なので、全面的に信頼する訳にはいかない。
次に各人のアリバイである。事件当日の午後六時以降、神尾や朝原を含む畑
家の人間は小室を屋敷で待ち、八時過ぎにあきらめて食事に出かけ、九時半に
揃って帰宅している。家政婦も合わせ身内の証言ばかりだが、食事をしたレス
トランでは大家族の食事ということで記憶している者が大勢いた。要するに、
八時以後はまずアリバイがあると言えたが、肝心の五時から七時は何とも言え
ないのである。
淵は七時に畑家に車で到着するまでは、大学で資料をあさっていたと言った。
大学を出た時刻が同じ日の五時五十分で、これは大学関係者の証言がある。自
宅に一度帰ってまた出たんだとすれば、ほとんど時間的余裕はない。しかし現
場のすぐ側を通っている訳であり、全くの不可能と言い切れない点もある。
日熊は同じ事務所の仲間の応援のため、裁判での証拠調べ等で色々な人々の
間を訪ねて回っていたと言うのだ。これには同行した者がおり、死亡推定時刻
に対するアリバイが成立した。
石橋の場合、三時半に病院を閉めてからずっと家にいたと言っているが、こ
れは家族の証言しか得られていない。他人の証言としては、看護婦の一人が午
後五時四十分に病院を出るまで何度か石橋を目にしている。
鳥部は独居老人とあって他人と顔を会わせる機会が少ないためか、曖昧だっ
た。多分、家で飯を食っていただろうというのが彼の申し立てだ。食事も前日
までの買い置きで事足りたので、買物に出かけてはいない。足が悪い鳥部は、
雨でなくてもあまり外出しないようだ。
遅くなったが被害者自身の行動である。これがまた不明瞭で、午後五時ちょ
うどに退社した後がまるで分からない。当日の小室の言動に、別に不自然な点
はなかったそうである。
要するにアリバイが成立したのは日熊だけで、ほとんど容疑枠は絞れなかっ
た。身長だけで枠を絞るのは早計というものであろう。
「まだ何とも言えんな。畑洋二の件を調べ直しを兼ねて、もう一度全員を訪ね
てみるか」
吉田は書類を閉じた。
淵英造を訪ねた吉田刑事は、大学の施設のきれいさにちょっと驚かされてい
た。これまでは他の者に行ってもらっていたのである。
「時間通りですね」
淵に言われて通された部屋も、研究一筋のむさくるしい場所を想像していた
が、それは外れていた。きちんと整頓された室内に本棚。白い壁が見え、カー
テンが陽光の中で翻っている。唯一、机の上で数冊の本が踊っていたが、これ
は研究のためだろう。
「どうぞ」
お茶が差し出された。
「本来なら助手、それも美人女性がやってくれるんですが、あいにく、今は一
人でして」
軽く笑い声を上げる淵。大学院生などと聞いていたものだから、色の白い、
眼鏡をかけた気難し屋を考えていた吉田だったが、これも外れていた。額を隠
し加減の前髪、切れ長の目、通った鼻筋と今風の若者そのものだ。どこかで遊
ぶ暇もあるらしく日焼けしている。
「早速ですが淵さん、畑洋二さんの亡くなった日のことを思い出してもらいた
いのです」
「またアリバイ調べですか? 教授は自殺だったと聞きましたが」
「いえいえ。当日の洋二さんの行動に、何か変わったところは見られなかった
かということです」
「あの日は土曜日でしたね。土曜は不規則なことが多いですから、あまり覚え
ていませんが……。何も目についた点はなかったと思いますね」
考える様子を見せた淵は、まもなくそんな判断をした。
「洋二さんと最後に会われたのは?」
「教授とは……」
淵は畑洋二のことを教授と呼んでいた。
「昼をご一緒しましたから、正午までは確実だ。ええっと、そうだ。午後一時
半に僕の方が調べ物があって学内の図書館に出向きました。だから、それ以後
は教授とは会っていません」
「あなたの方は、それからどうしました?」
「……やはり、アリバイですね」
「いや、そういう訳じゃ」
気付かれずに誘導尋問するには手ごわい相手だ。
「いいんですよ。それが刑事さん達の仕事ですから。これまで否定してちゃ、
思うように捜査できないでしょう?
そうですねえ、図書館にいたことは周りの人や係の人が覚えてくれていると
思います。目当ての本を借りる手続きをして、図書館を出たのはいつだったか
……。小一時間もいたかな。二時半から六時までは研究室にいたと記憶してい
ます。もちろん、研究仲間と一緒にです。で、帰宅したのが七時前だったかな。
独身なものですから、食料を買いに寄ることが多いんです」
「あ、もう結構です。畑洋二さんの個室と呼べるような物はあったんですか?」
洋二の死亡推定時刻を過ぎたため、吉田は淵の行動を聞くのは打ち切り、質
問の傾向を転じた。
「もちろん、ありました。教授・助教授に限らず、ここでは非常勤講師の方に
まで個室が割り当たるようになっています」
「先日、うちの若い者がそちらを調べた折、何も出なかったんですが、淵さん
から見て何かなくなった物や増えていた物はありませんかね」
「そう言われましても、自分は院生の一人に過ぎませんから。そんなに記憶に
残るまで部屋にお邪魔していた訳じゃ」
「ですが、あなたは洋二さんのお孫さんの家庭教師をされてるでしょう?」
「それはそうですが、研究の片手間程度です」
「畑の家に出入りするときに、小室さんに会われたことはありませんか?」
「この間、亡くなった方ですね。以前もお答えしましたが、何度かはあります。
でも、それほど詳しく知り合った訳でもないですから」
「そうですか。では、畑菊子さんについて、どう思われます?」
「質問の意味が測りかねますが……」
「懇意にしているという話を小耳に挟みましたんでね」
「ははん。そういう意味ですか。ううん、まあ、好意を持っているというのが
偽らざるとこですかね。菊子さんがどう思われているかは知りませんが。これ
が何か?」
「ふむ。いや、どうも、時間を取らせました」
そう言い置いて、吉田は研究室を後にした。
石橋病院は閑散としていた。精神科の病院とはこんなものであろう。イメー
ジは白。壁も塀も何もかもが白く、日差しをまぶしく返している。
「流行っていないのはいいことです」
言葉とは裏腹に面白くなさそうに言ったのは、院長の石橋昭。痩せた中背の
男で、神経質そうな顔をしている。だが、眼鏡の奥の二つの目は、優しげに笑
っている。
「畑洋二さん、ご存知ですね?」
「ええ。それが」
穏やかな声だ。見た目と声の優しさとのギャップで、患者の心を開かせるの
か。吉田は素人考えを起こした。
「彼が亡くなったとき、神尾留依さんとご一緒だったそうで、そのときのこと
を繰り返しになると思いますが、お話し願えませんか?」
「あの日は五時十分にお屋敷へお邪魔して、神尾さんを連れてすぐに出ました
ね」
「何時ぐらいです、出たのは?」
「五時……二十分になっていたでしょうかね。とにかく、そんなに時間を置か
ずに出ましたよ。それから彼女の行きたい場所を聞きまして、燈台を見たいと
言われたので慌てましたね。道路地図を広げて捜しましたら、案外近くにある
もので、車で四十分ぐらいかかって到着しました」
そう説明しながら、医師は地図を引っ張り出してきて、海辺の燈台を指し示
した。
「すみませんが、そこに行った証はありますか?」
「心外ですなあ、そんな風に言われるのは。まあ、いいでしょう。スタンプが
あります。燈台近くの記念館みたいな建物で、スタンプを押して来ましたから」
また説明しながら、石橋は空白にスタンプの押されたパンフレットを持ち出
してきた。スタンプには日付が入っており、当日のものに間違いなかった。
「言っておきますと、その日付は係の人が設定し、観光客が勝手にいじること
はできませんよ」
「なるほど。燈台にはどれくらいいました?」
「一時間弱かな。あまり覚えてないが、その後に食事に行きましてね。そこに
着いたのが七時過ぎでしたから、そんなものでしょう」
「食事はどこで?」
「カトレヤとかいう名前の店だった。落ち着いた雰囲気の店で、他に客は二組
いただけだった。そこで食事をしつつ、神尾さんの精神をほぐすような会話を
心がけましたよ。これが八時半までです。時計を見て店を出ましたから、確か
です」
「それからがちょっと理解できなかったんですが……。この間の質問では、神
尾留依さんが帰りたがらなかったので、病院の方に泊めたとなってますが」
「そのままの意味です。まだ彼女には不安定な部分がありまして、突如として
突拍子もないことを言うことがある。あの日もそれで、家に送ろうとしました
ら、帰りたくないと言いました。これまで何度かこんなことがありましたから、
私はそのまま言葉を受け入れ、私の病院の方へ連れて行きました」
「畑さんの方で、それは認めてもらっているので?」
「はい。全面的に治療を任せてもらっておりますから」
「ふむ。分かりました。最後に、畑洋二さんの死について、何か」
「何かと言われましてもねえ。私が診ていたのは神尾留依さんだけですから、
洋二さんの精神分析まではできません。あまり顔を会わせたこともありません
でしたしね。まあ、奥さんに押さえつけられていたみたいですからな。抑圧さ
れた部分が悪い方向に作用してしまったんじゃないでしょうか」
石橋の意見を聞き終えると、吉田は挨拶をし、病院を離れた。
−続く
#2779/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:44 (156)
Yの殺人 5 平野年男
★内容 03/06/10 00:07 修正 第2版
「鳥部さんは洋二さんとは親しかったそうで」
吉田は今にも海の匂いが漂って来そうな家を訪ねていた。元漁師の鳥部達雄
の家である。
「親しいだけじゃ言葉が足りんな。大の親友だった」
鳥部は怒ったような自慢するような声で言った。そうして片足を引きずりな
がら椅子に腰掛ける。
「ほお、そうですか。で、その大親友が亡くなったときに、ご自身は何も知ら
ずにこちらで横になっていたというのは、残念でしょうなあ」
さすがに正面切ってアリバイを聞く訳にも行かず、吉田は考え考え喋りかけ
る。
「ん、そうだな。野球なんてどうでもいいのにな。ついテレビを見ちまってた。
何で死んだんだろうな、あいつ。刑事さん、知らないかね?」
「それをお聞きしたくてお邪魔させてもらったんですが。どうでしょう?」
「ううん。分からねえ。自殺する前に相談をくれてもいいんじゃないかなあ」
「自殺かどうか、怪しいとしたら、どうです?」
「うん? 何だって? 自殺じゃないってことはどういうことだ?」
「はっきり申しますと、殺されたのではないかと」
「そんなはずはないねえ。あいつが、洋二が自殺するのは変だが、殺されると
なるともっと変だ。あいつを恨むような奴はいねえ。何ちゅうのかね、勉強ば
っかしてて」
「学究の徒ですか、それとも学者肌……」
「そんなとこだ。そんな生真面目な奴で、ちょっとは煙たいとこはあったかも
しらんが、殺すようなこっちゃないな。何だっけ、今のかみさんの前の旦那の
子供をちゃあんと受け入れて、心の広いもんだ」
「神尾留依さんのことですね」
吉田は相づちを打ちながら、次に何を聞くべきか考える。考えている内に、
この老人が犯人であるはずがないと思った。こうして目の前で見ると、鳥部の
足は相当悪い。こんな身体で畑洋二をビルから突き落としたり、雨の中で殺人
を犯せるはずがない。
「えっと、あなたは畑の他の人達とはうまく行っていましたか?」
「どうかねえ。そこそこ親切にされてたけど、やっぱり、どこか嫌われてたん
じゃないかねえ。洋二が死んだのだって、すぐには知らせてくれなかったしな」
「そうですか。では、最後に、洋二さんと知り合ったのはどんなきっかけがあ
ったんで?」
「きっかけかあ……。どうだったかな。忘れちまってるな、いかんいかん。二、
三十年ほど前だったよな、多分。まだ漁をやってた頃だ。船酔に関係して何か
研究してたんだな、洋二は。それでわしのとこに調べに来てたんだ。そうだそ
うだ。何かうまがあったんで、それから友達付き合いだ。あの頃は名前も畑じ
ゃなかった」
話が長くなりそうな雰囲気だったので、吉田は相手の話を遮った。そしてそ
れを辞去の挨拶とした。
「どうもありがとうございました。もし畑洋二さんが殺されたのだとしたら、
必ず犯人を捕まえます」
全員を訪ね直したが、成果は以前と変化なかったようだ。それと言うのも、
畑洋二の死が自殺なのか他殺なのか、それとも事故死なのか決定できないのが
大きかった。事故死の可能性は薄い。わざわざ初めてのマンションに足を運び、
そこで事故死するのはおかしいからだ。
だが、自他殺の判定は着かない。幽霊マンションだけあって目撃証言も乏し
く、畑洋二が何も遺していないことも困難さに拍車をかけていた。
「女主人の前夫の神尾友康関係で何かないか調べてみましたが、何も出ません
でしたしね」
吉田の同僚・浜本刑事が言った。
「そうだな。娘の留依も人間関係だけで言えば怪しいんだが、実際は畑洋二は
実の娘と同じように扱っていたみたいだ。
今度の二つの変死は、他殺にしては共に動機が不明瞭なのが最難関だ。小室
は全然殺されるような点のない人間だし、畑洋二の件はほとんどの関係者にア
リバイがある。ないのは誰がいた?」
「待って下さい、今、調べますから」
浜本は書類の山の中から、表としてまとめた物を見つけ出した。
「鳥部老人と弁護士の日熊ですね。あと、畑恵美と朝原育美がお互いの証言で
屋敷にいたことになっていますが、これを疑うかどうか……」
「あの二人には足がないからな。車でも転がせりゃ別だが。弁護士には小室殺
しでアリバイがあるし、鳥部老は足が悪くてとても殺人なんてできるとは思え
ない。こりゃあ、畑洋二の方は自殺だったと判断するしかないか」
「つまり、連続殺人としてみるのではなく、小室の事件だけを考えるんですね」
「そうだ。そうなると、動機は依然として不明だが、アリバイの点で少しはす
っきりするだろう」
「はあ。ですが、弁護士以外には誰もアリバイがありませんからね、小室殺し
では」
確かにそうであった。ほとんどの関係者にアリバイがないのだ。
「こうなると、彼の出馬を頼むか」
吉田は思い切ったように言った。
「彼とは?」
「彼だよ。探偵の流次郎」
吉田は一種、畏敬の念を抱きつつ、その名を口にした。
流次郎。この名を耳にした人は多かろう。「文庫本殺人事件」や「小学校殺
人事件」、「不思議荘の殺人」といった難事件を解決した彼は、その意志とは
無関係に有名になりつつあった。吉田も数々の事件で流の知恵を借りている。
警察がパトカーで探偵事務所に乗り付ける訳にも行かないので、捜査用の普
通車を使った。事務所が見通せる道に出ると、事務所横にバンが停車されてい
るのも目に入った。流の車だ。うまい具合いに在宅しているようである。
「流さん、久しぶりです」
流次郎探偵事務所と書かれた扉を押すと同時に、吉田はそんな言葉を飛ばし
た。背後には浜本刑事が続く。見ると、受付の流秋子の机に両手を突っ張って
話し込んでいる流次郎がいた。鋭い目がほんの少し優しくなったかと思わせる
程度で、以前のまま。長い足も高い鼻も、長髪さえも変わっていない。
「おや、吉田刑事じゃないですか。どうしました?」
「邪魔ではないですかな?」
「とんでもない。依頼でしたら受付を通して下さいよ」
真面目すかして言った流はひとしきり笑うと、どうぞとばかりに吉田と浜本
を奥の部屋に招き入れた。
「東さん達はどうしてます?」
腰掛けながら、吉田は流の部下のことを尋ねた。
「ちょっと雑事を。有名になったからと言って離婚騒動の依頼がなくなる訳は
ないですし、断わる理由にもなってませんからね。で、東達にやらせてるんで
す」
「もう一人、平野年男先生はどうしてます?」
今度は、流の探偵譚を物語にしている作家のことを聞く吉田刑事。「先生」
という呼び方は、もちろん冗談である。
「締め切りってやつですよ。暇になれば姿を見せるでしょうねえ、次のネタ捜
しのためにも。さあ、いい加減、用件を話してもらえませんか」
「う、うむ。実は」
吉田は畑洋二が死んだ事件と、小室が殺された事件を続けて聞かせた。
「畑洋二氏が転落死したのは割と大きく報道されましたから、僕も知ってます
よ。そうでしたか、あの畑家に関係のある人物が、屋敷のすぐ近くで殺されて
いたんですか」
聞き終わった流は、まずは簡単に述べた。
「で、何が問題なんです?」
「先ほども言いましたが、畑洋二の死が自他殺の判定ができないこと。小室殺
しについての動機が皆目見当がつかないこと。それから、小室の背中に泥が塗
りたくられていたことが大きな問題ですかね」
「ふうむ」
文字にするとおかしいが、こう流はため息をついて考える風にしている。
「まだ手を着けたばかりで不確定なことしか言えませんが、最初にある点を確
かめておきたいのです。と言うのは、ある人物のアリバイなんですが……」
「アリバイでしたら、全員のを言ったでしょう、さっき」
流の言葉に対し、ややいらいらした口調で吉田は応じた。
「いえ、僕が聞きたいアリバイは入ってない」
「誰なんですか、それは?」
「小室二郎」
探偵・流はきっぱりと言った。
「何だって? 小室は被害者だ。死んでいる」
「落ち着いて下さい。小室が畑洋二の事件に関係している可能性を追及したい
んです、僕は」
そう説明されて、吉田はようやく相手の言いたいことが呑込めた。
「そうか! 小室が洋二を殺した可能性が皆無とは言い切れない」
浜本も感心したように叫んだ。
「分かりましたよ、流さん。ハナから言ってくれれば分かったのに、人が悪い
ですな」
「そんなことより、事件がこれで終結するのか、それともまだ続きそうなのか、
そこについても警察の意向を聞きたいな」
「いや……そんなこと、考えてもみませんでしたなあ。何かの理由で畑の人間
の誰かが小室を殺したんだとしたら、殺人が続くことも有り得るかもしれませ
ん」
「最近の連続殺人犯は、予告状を出してはくれませんからね」
皮肉っぽく言った流は、さらに質問を続けた。
「淵なる大学院生と畑家の長女とはどの程度なんですか? 結婚するとしたら、
畑に嵐をもたらす要因となるでしょう?」
「言われてみりゃ、そうですな。さあて、色恋沙汰となると、見た目だけじゃ
分かりませんからな」
「他の畑の人はどう思ってるんです?」
「わしらが至らないところばかり突いてきますな。そうですな、妹の百合子は
あっけらかんとしていてどうでもいいみたいな雰囲気でしたが、他はどうだろ
う」
吉田の言葉を継いで、浜本が口を開く。
「畑孝亮・昌枝の夫婦は、淵を好ましく思っているようです。まあ、息子の家
庭教師として見た場合だけかもしれませんが。女主人の畑恵美はどうでしょう
ねえ。かなりしつけに厳しそうな一面を見てますが、大学院生なら娘の相手と
してはまずまずでしょうし。職が安定していないのが引っかかる程度で」
「何も浜本さんが心配することはないでしょう」
と、おかしそうに笑う流。その笑みが消えぬ内に、彼は言った。
「とにかく、畑屋敷の皆さんに会ってみたいですね。聞くと見るとで大違いと
言いますしね」
−続く
#2780/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:47 (200)
Yの殺人 6 平野年男
★内容
私こと平野年男は、締め切りに追われた驚異の日々をやっと切り抜け、どう
にか安寧の時間を得ることができていた。そこでという訳でもないが、久々に
流の事務所を訪ねてみることにしたところ、吉田刑事も一緒になって、何やら
興味深そうな事件を抱えているようではないか。これまで流の記述役を務めて
きた私は、いてもたってもおられなくなり、すぐに同行を希望した。
「締め切りはいいのかね?」
流は言ってくれたが、それこそ余計な心配というものだ。
「構わん構わん。当分、原稿の依頼なんてないさ。あったとしてもそれぐらい、
今度の事件のネタで乗り切れる」
「他人の不幸を商売にするのは感心しませんな」
吉田刑事が低い声で言った。だが、他人の不幸を商売にという点では、警察
だって探偵だって同じではないか。
「まあ、遅ればせながらのワトソン役の登場となる」
「探偵にワトソンですか。役者が揃った訳ですな」
ドジな刑事もね。思わずそう言いそうになった私だったが、何とか口に出さ
ずにすんだ。いかんいかん。仕事を上げて、気分がハイになっている。
そうこうしている内に、浜本刑事の運転する我々の車は、目的とする畑屋敷
にたどり着いた。時刻は午前八時ジャストである。
畑屋敷はとんがり屋根をいくつか持った典型的な洋館といった趣で、古めか
しい感じがした。窓ガラスは全部がステンドグラスのようだし、屋敷の壁を蔦
が覆っているところ等もいかにも、である。
大きな門を通り抜けた先、重々しい色つやの扉があった。それとは不釣合い
な呼び鈴を、吉田刑事が押して、来訪を告げた。
「まあ、早かったですのね、刑事さん!」
家政婦らしい若い女性が、そんな声を上げた。どうしたというのだろう。
「は? 早かったとはどういう意味ですかね? 今日、ここを訪ねるとは連絡
していませんが」
「あ、え? それじゃ、まだ何もご存知ないのですか?」
取り乱したような声になる女性。態度も、ほっとしたものからおろおろした
ものに逆戻りした観がある。
「冷静に、朝原さん。何かがあったんですか? ゆっくりと説明して下さい」
吉田刑事は、子供に言い聞かせるようにする。
「はい……。あの、奥様がお亡くなりになったんです。それも、どうやら殺さ
れたようなのです」
「何? 奥様って、畑恵美さん?」
「そうです。それでつい先ほど、警察にお電話を入れたところだったんです。
その電話を終えた直後に、刑事さん達が見えられたから……」
「なるほど。現場はどちらで?」
「こちらです。奥様の寝室です」
屋敷内に入りながら、吉田刑事は質問を継続した。
「今、家には誰々がいるんです?」
「譲次ぼっちゃんは小学校に行かれました。孝亮さんと昌枝さんは事務の開館
時間が九時ですから、その準備に……。他の皆さんはまだ」
「そうなると四人だけか。恵美さんのことをどなたかに知らせましたか?」
「動転しちゃってたんですけど、とりあえず菊子お嬢さんに」
「そうですか」
ようやく現場に到着した。入口に髪の長い、背の高い女性が立ちすくんでい
る。彼女が長女の畑菊子なのだろう。
「あ、育美さん。もう刑事さんが……?」
小さい声が聞こえた。
「いえ、あの、吉田さんは偶然、来会わせたそうです」
「吉田さん。そちらのお二人は、新しい刑事さんですか?」
菊子の言葉が、吉田刑事に向けられた。お二人とは、私と流のことだ。
吉田刑事は、我々の正体を明かすべきかどうか迷っていた様子だったが、
「こちらは私立探偵の流次郎さんに、作家の平野年男さんです。事件解決に力
になってくれるとこちらで判断した次第で」
と、きちんと話してくれた。
「ご迷惑でしたら、帰しますが」
ここまで呼んでおいて、それはないだろうと言いたくなる。幸い、畑菊子は
我々の介入を拒否しなかった。
「畑菊子です。どうか、母をあんな目に遭わせた犯人を見つけて下さい」
流と私は、順に名乗って頭を下げた。次に家政婦の朝原育美とも紹介し合っ
た。それが終わると、吉田刑事が口を開いた。
「ところで朝原さん。百合子さんと留依さんはどうしてますか?」
「留依さんにはショックが大きいと思いましたので、お知らせしないまま、お
休みになってもらっています。百合子さんは元々、十一時にお起こしする約束
でしたし、どうしようかと考えているんですが」
「母親が死んで、知らせないままというのも何ですな。菊子さん、あなたの方
から穏やかに伝えてくれますか」
「分かりました」
ぐっと堪えるような仕草をしながら、彼女は強くうなずいた。そのまま場を
離れようとする菊子に、吉田刑事が慌てて聞いた。
「あ、菊子さん! あなたが部屋の入口に立ってから、どなたも近付いてませ
んね? 室内はそのままの状態ですね?」
「はい、そうです」
しっかりとした声が返ってきた。
「よかった。では、朝原さん。最初に発見したのは、あなたですか?」
「は、はい」
「そのときの様子を話して下さい」
「あの、奥様はいつも朝七時になるとご自分から目を覚まされ、起きてらっし
ゃるんです。たまには遅いときもありましたけど、それが普通でした。それで、
今朝も七時三十分を回った頃からちょっと遅いなと思いましたが、それでも食
事の仕度なんかをしていました。その内、菊子お嬢さんが起きて来られ、奥様
の姿が見えないことを珍しがられましたので、さすがに私も心配にな鳧ました。
それで八時五分前くらいでしたか、奥様の寝室のドアをノックしました。お返
事がありませんでしたので、何度かノックを繰り返しましたが、やはりありま
せん。ドアを押すと、開いていましたので、中に入ると、あの様なことに……」
思い出したのか、家政婦は震えが来ていた。
「恵美さんを起こしに行ったとき、菊子さんも一緒だった?」
「いえ、お嬢さんはキッチンで朝食をお召し上がりになっていたはずです」
「そうですか。続けて」
「奥様は額の辺りから血を流しておられて、意識がないようでした。近寄って、
亡くなられているのが分かりましたから、もう息が止まりそうになって。悲鳴
を上げたかもしれませんが、覚えていません。キッチンの方に走ろうとしたら、
菊子お嬢さんが向こうから来ました。それで事の次第をお伝えすると、菊子さ
んは、自分が奥様のお部屋を見ておくから警察へと言われまして、私が電話を
したんです」
家政婦がここまで話し終えたところで、玄関の方が騒がしくなった。
「どうやら、正式に呼ばれた方が来たようですな」
「警部、僕らは消えておいた方がいいかな」
吉田刑事に流が聞いた。
「いや、もう構わんです。どうせ合同捜査になるのは見えているし、流さんに
協力を頼むってのも皆が知るところですからな。勝手に現場をいじらなかった
のも、向こうに悪い印象を与えぬためで」
そうして、吉田刑事と浜本刑事は家政婦をともなって、玄関に向かった。
「仲々、気を遣ってくれるな、吉田刑事も」
「君の名前があってこそだと思うぜ」
そんな話をしていると、鑑識らしき人が大勢上がり込んで来た。邪魔になら
ないよう、廊下の隅に退いておく。
「片倉警部補、こちらが流次郎探偵。こっちが作家の平野年男さんで」
目の小さな中年男の手を引くようにして、吉田刑事が私達の方を手で示した。
軽く頭を下げられたので、私達も男に礼を返す。
「流さん、平野さん。こちらは片倉優右警部補」
「無理を言いまして」
流が言いかけると、
「いえいえ。こちらに向かう前から、吉田警部が畑家の事件に関わっていると
伺ってましたから、ひょっとしたらと思っていました。少しでも早い事件解決
のため、尽力させてもらいますよ」
と、片倉刑事は真面目そうに応対した。
「まあ、流さんも、鑑識の場は遠慮してもらいましょうか。後で知らせるんで、
待っといて下さい。その間、浜本と一緒に屋敷の人達に顔を合わせておくのが
いい」
吉田刑事はこう言うと、片倉刑事と共に現場に入って行った。
我々は言われた通り、紹介を兼ねて事情聴取に立ち会うことになった。
「家政婦に言って、全員に広間に集まってもらってます」
広間には四人だけがいて、かえって寂しい感じがした。揺り椅子が一つある
が、これは女主人の物だったそうで、今は少しも動いていない。
「えー、皆さん。こちらは今度の事件解決に大いなる力となるでしょう、探偵
の流次郎さんと平野年男さんです」
浜本刑事は大げさな紹介をする。私も探偵と思われるような言い方をしたの
は、わざとだったようだ。
「探偵? そんな人がいるの、日本に」
やや不良っぽい女性が、小馬鹿にした口ぶりで言った。妹の畑百合子だろう
と見当をつけたら、果たしてそうだった。
「百合子、口を慎みなさい。すみません、流さん、平野さん」
真にすまなさそうに菊子が言った。
「えっと、菊子さんと朝原さんはもういいですね。あちらに座っているのが、
神尾留依さんです」
紹介されて、私達が頭を下げても、相手の女性はおびえたようにするだけで、
なんら反応がない。
「留依お嬢さん、何でもないんです。こちらの方達は、捜査のことでいらした
だけですから」
家政婦がなだめるように言っても、黙ったままである。
「いつ来ても、あの調子なんです。私らでもほとんど話を聞き出せない。家政
婦か死んだ女主人か医者の先生を通してでないと、喋らない」
浜本刑事が耳打ちしてくれた。
「聞いていた以上ですね。精神の不安定さ」
私は率直に述べた。
「菊子さん。ちょっと」
浜本刑事は畑家の長女を呼びつけると、小声で聞いた。
「恵美さんの死は、伝えました?」
「ええ。百合子は伝えても、あの通りです。留依さんにも伝えましたが、ショ
ックが大きくて、ちょっと混乱しているのです。兄には電話で知らせましたか
ら、すぐにこちらに来るでしょう」
「なるほど。もう結構ですよ」
刑事は菊子に戻ってもらうと、全員を見回すと、大声で言った。
「昨晩、最後に恵美さんを見たのはいつか、順に話してもらいましょうか」
「あたしは昨日、夕方からコンパだったから、出かけるときに見た切りよ。帰
ったのは夜の十一時だったかな。そのときだって、お母さんの顔は見ないまま、
寝ちゃったから」
「ふむ。またコンパですか」
「いいでしょ! これでも早く帰った方なんだから」
百合子はヒステリーを起こしたように高い声を出すと、椅子から立ち上がっ
た。と思ったら、すぐにまた腰掛ける。よく分からないが、この次女にも精神
的不安定なとこがあるんじゃないだろうか。
「私はずっと家におりましたけど、部屋にこもって原稿を書いていましたから、
あまり母を見てはいません。確か、夕食のときと母が眠る前に挨拶をしたとき
ぐらいでした。母が眠ったのは午後十時十分ぐらいだったかしら、育美さん?」
菊子は家政婦に同意を求めた。朝原の方は、黙ったままうなずいた。
「それから私は、午前二時ぐらいまで原稿を書いていました。眠ったのはその
後です」
「参考までに、何の原稿です? 詩だけで何時間も費やすとは、我々素人には
思えませんので」
「詩でも時間を取ることはありますけど。昨晩書いていたのは、評論です。詩
を中心とした文芸評論を、ある雑誌から頼まれていましたので」
「なるほど、分かりました。では、朝原さんも」
浜本刑事は、矛先を家政婦に向けた。
「私も菊子お嬢さんと同じく、お休み前の奥様を見かけました」
必要最小限のことだけ話すと、若い家政婦はまた黙った。
「朝原さん、留依さんは大丈夫ですか?」
「さあ……。あまりいいとは思えませんけど。石橋先生を呼んではどうでしょ
う?」
「石橋? ああ、精神科の先生ですか。いいでしょう。その先生に間に入って
もらって、まとめて話を聞くことにします。電話、頼みますよ」
「はい」
小さく返事すると、朝原は立って部屋を出た。
入れ替わるようにして来たのが、体格のいい男と肌のきれいな女だった。
「母が殺されたって、本当なのか?」
部屋に入るなり、誰に聞くともなく怒鳴った男。
「あ、孝亮さんに昌枝さん。まま、落ち着いて、座って下さい。お子さんには
知らせました?」
「あ、はい。昌枝が学校に電話しましたから、もうすぐしたら帰ると」
「それは結構。ちょっと紹介しておきたい人がいるんです。こちら……」
また紹介が始まった。浜本刑事も大忙しである。繰り返しが過ぎると思うの
で、ここは省こう。
「探偵? そんなのに頼らなくては、あなた方は犯人を逮捕できんのですか?」
当の探偵がいるのもお構いなしに、紹介を受けた孝亮夫婦は露骨に嫌な反応
を示した。
−続く
#2781/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:51 (196)
Yの殺人 7 平野年男
★内容
「警察のやり方に口は出さんでほしいですね。それより、最後に恵美さんと会
ったのはいつですか?」
浜本刑事も多少、言葉が乱暴になっている。
「……」
黙って思い出す風の二人。やがて口を開いたのは、妻の方だった。
「多分、夜九時前に、お茶を一緒に飲んだのが最後だったと思います」
「ほう、お茶を。どなたがいました、その席には」
「私達と譲君、それに淵先生です。家庭教師が終わった頃合で、義母を入れて
の休憩みたいになったものですから」
「いつまで続きました?」
「九時二十分ぐらいでしたかしら。淵先生がおいとまするということで、自然
と」
「恵美さんはどうされたんです、その後?」
「先生を見送った後、部屋に行ったみたいですわ。私達は、家族三人で使って
る大きめの部屋にいましたので、よく知りませんけど」
「なるほど。それ以後は見ていない? なら結構です」
しばしの沈黙。それを破って部屋に入って来たのは、家政婦。それに吉田刑
事らが続く格好となった。
「あの、石橋先生は都合が悪いので、明日になると。それから弁護士の日熊さ
んにお電話入れたところ、すぐにいらっしゃるということでした」
「そうですか。分かりました。警部、どうでした?」
浜本刑事は忙しく身体の向きを転じながら、口を動かしている。
「大ざっぱだが、推定時間、出たぞ。午前一時から三時の間だろうということ
だ」
吉田刑事は全員に聞かせるためか、大声で言った。
「この時間にアリバイのある方、いらっしゃいますか?」
と、吉田刑事は見回すようにした。
しかし、こんな夜中が犯行時刻では、アリバイがあるとは思えない。容疑の
枠を絞れないだろう。案の定、誰も申し立てはしない。
「では、このハーモニカに見覚えのある方、いますかな?」
と言ってから、吉田は鑑識員の方を見た。鑑識員はビニールに入ったハーモ
ニカを掲げて示した。少し大きめの物のそれには、うっすらとではあるが血ら
しき痕がある。
「……それ、父が」
震える声があった。菊子である。
「父と言いますと、畑洋二さん?」
「そうです。父が大事にしていた物です」
「どこにありました?」
興奮した調子で、吉田刑事が続けた。
「父の部屋です」
「その部屋には鍵は?」
「いいえ。父が死んでから開け放したままです。あの、そのハーモニカがどう
したんでしょう?」
「現場に落ちていたんですよ。しかも、どうやら凶器として使われたらしい」
その瞬間、場の空気が奇妙なものとなった。ハーモニカが凶器? 何という
奇怪な凶器だろう。何のためにこんな楽器を凶器に……?
「自由に出入りできるんでしたら、どなたでもこれを手に取ることができたん
ですね?」
「いえ。ハーモニカ自体は、ガラス戸の付いた棚に入れてあって、その戸に鍵
がかけられていましたから」
この菊子の証言も、新たなざわめきを起こすのに充分であった。
「何ですと? その鍵、どなたが持っているんです?」
「分かりません。少なくとも、私は知りません」
菊子は他の人々を見渡した。誰も知っている、持っているとは言わない。
「父が保管していたはずですよ、鍵」
畑孝亮が言った。刑事の質問が、この長男に向けられる。
「どこにです?」
「それは分かりませんが、父が死んだときにちょっと捜してみましたが、見つ
からなかったので、あきらめてました」
「ふうむ」
途方に暮れた感じの吉田刑事に、流が声をかけた。
「吉田さん。とにかく畑洋二の部屋を調べることですよ。問題の棚の鍵がどう
なっているのか」
「あ、そうだ。忘れとったわい。えっと、浜本、頼む」
命じられた浜本は、飛んで行くように立ち上がった。すぐに戻って来る。
「鍵は開けられていました。ガラス戸そのものは破損してません」
「どういうことだ……。皆さんの中のどなたかが、鍵を持っているはずじゃな
いですか!」
怒鳴ってみても、答は引き出せないままだった。それどころか、神尾留依が
おびえてしまって、泣き叫び出してしまったのだ。
「ああ」
どことなく間の抜けた声を出しながら、家政婦が駆け寄り、なだめるがうま
く行かない。
「刑事さん、お部屋にお連れしてよろしいでしょうか?」
「もちろん、構いませんとも。こちらが悪かったんですし」
さすがにばつが悪くなったらしく、吉田刑事は手で頭をかきながら、許可を
出した。
「もう、いつまで閉じ込めとくつもり? 夜中に死んだんじゃ、どうしようも
ないでしょ。あーあ、外泊してくりゃよかったわ」
百合子が憎まれ口を叩いている。それを無視して吉田刑事は、
「死因ははっきりしていませんが、ハーモニカで殴ったぐらいで死ぬとは思え
ません。恵美さんは心臓が悪かったんでしょうか?」
と続けた。
「母は、年齢の割には気丈でしたが、それ故に自分は若いんだと思い込むよう
なところがありましたから、身体に少し負担がかかっていたかもしれません。
普通にしていればいいものを、無理して動くとこがあったと言うか……」
ゆっくり、ぼそぼそと話し出したのは、畑孝亮。健康面については自信を持
っているはずだが、言いたいことが多すぎるらしい。
「つまり、心臓は悪かったんですな?」
「そうです」
「それは、例えば急激なショックを受ければ、死ぬことも考えられるほどです
かね?」
「どうせ、私が言っただけじゃ信用できず、後で調べるのでしょう」
孝亮はふてくされたような言いぐさだ。
「そうおっしゃらずに」
「……有り得るとしか言えません」
「そうですか。どうも。そうなるとですな、犯人が寝室に忍び込み、恵美さん
をハーモニカで殴り殺そうとする。その傷自体は致命傷ではなかったが、ショ
ックで心臓に負担がかかり、死に至ったと考えられますね」
ショック死か。それにしても、犯人がハーモニカを凶器とするのは分からな
い。心臓が弱いからってショック死が確実に起こるとは限らないのに。だいた
い、最初からショック死を狙ったのなら、凶器を現場に残すはずがないし、本
当に殴りつけることもおかしい。
「ハーモニカに指紋はありましたか?」
流が聞いた。
「いや、なかった。ぬぐい取られた痕跡があったね。そうそう、皆さんの指紋
を後で取らせてもらいますよ。現場の部屋にある指紋を一つ一つ調べなくちゃ
ならんですからな」
吉田刑事はいい機会とばかり、そう宣言した。不満そうな顔をする者はいた
が、それを口に出す者はいなかった。
「おっと、大事な質問を忘れていた。恵美さんは寝るとき、鍵をかけられて寝
ますか?」
「かけていました」
答えたのは菊子だ。
「ですが、私達の誰が行っても、たいていは鍵を開けてくれましたから、あま
り関係はないと思いますけど」
「いや、どうも。そういった判断は我々の方でしますから」
それをもって、団体での事情聴取は終わった。
この後、被害者の孫である譲次が帰って来たり、弁護士の日熊氏が来たりで
慌ただしかったが、すぐに遺言の公開とはならないこともあって、私や流は退
去することにした。
二日後、吉田刑事が一人で事務所を訪ねてくれた。もちろん、事件の情報を
もたらしてくれるのだろう。
「どうでしたか?」
事務所を閉店状態にして、奥の部屋で話を聞く体勢に入る。テーブルには三
つのグラスが置かれている。
「まず、死亡推定時刻と死因については、あの日にお話したのと大差なしです」
「では、ハーモニカが凶器なのも間違いないと」
私は、気になっていたことを聞いた。
「そうですな。付着していた血液は、畑恵美のと一致しましたし、傷の具合い
やハーモニカのへこみ具合いを見ても、まず間違いないでしょう」
「事件関係者のアリバイはいかがでした?」
今度は流。
「まあ、死んだ時間が時間でしたからねえ。ないのがほとんどでしたが」
「そんな言い方をするということは、アリバイの成立した者がいたんですね」
「そう。淵英造の唯一人が。進めていた研究が一段落したとかで、打ち上げみ
たいなもんですな。それに行っていて、夜遅くまで飲み歩いた挙げ句、友人の
家に行っての徹夜麻雀だったそうで。普段は研究ばかりしていても、遊ぶとき
は我々なんかと一緒ですな。ま、外部の者が屋敷に忍び込もうとすれば、相当
の苦労がいりますよ」
「と言いますと?」
「意外と不用心でしてね。二階の窓は鍵をしてないそうでさあ。開閉するのに
いちいち鍵をかけていたら面倒だってんでしょう。ですから、全くの不可能で
もないんですよ、外部から入るのは。でも、二階に上がるのがしんどい。隣に
家なんてありませんからな。広い敷地のどまん中にある屋敷だ。梯子か爪の付
いたロープがいります。壁を蔦が這い回ってますけど、登るには弱いもんです。
あるいは、敷地内の大木に登って思い切り跳躍して……いや、これは冗談です」
「畑屋敷の人には誰もアリバイがないんですか? 時間的なものじゃなくても
いい。例えば、畑孝亮、昌枝、譲次の親子三人は一緒の部屋で寝ていたから、
夜中に起き出せば誰かが気付くとか」
「それがね、やっぱり金持ちは違いますなあ。あの家族のための部屋がある上
に、それぞれ個人の寝室があるんです。だから寝るのは別々でして」
「ははん」
何とも言えぬ声を上げる流。私だってあっけに取られてしまう。
「で、犯人の奴、衣服に血を付着させるような間抜けはしなかったみたいで、
誰の服からも被害者の血が出るなんてことはなかった。
被害者の部屋に指紋はべたべたとあったんですがね、全員のがあったもんだ
から、何にもなりゃしない。まあ、ドアのノブはぬぐわれた跡がありましたが。
さて、財産分与ですが」
吉田刑事はいよいよだという風に、ここで言葉を区切った。グラスを口に運
び、喉を鳴らす。
「ちょっと複雑でして、神尾留依を誰が世話するかで変わってきます。
まず、神尾留依を引き取るのを全員が拒否した場合。留依に全財産の1/2、
長男・孝亮に全財産の1/6、長女・菊子に1/6、次女・百合子に1/6。
この場合、家政婦の朝原の希望があれば、留依の世話をしてもらい、留依の財
産は医師・石橋昭と朝原の共同管理とする。と、こうなってますな。
次に長男が留依の世話する場合。孝亮には全財産の1/3、留依にも1/3、
菊子に1/6、百合子に1/6。
長女が世話をする場合。菊子に1/3、留依にも1/3、孝亮に1/6、百
合子にも1/6。
もうお分かりと思いますが、次女が世話する場合。百合子に1/3、留依に
も1/3、孝亮は1/6、菊子も1/6です。
なお、神尾留依の世話を複数名が希望した場合、その優先順序は長女、長男、
次女の順にあるとするんだそうです」
「神尾留依さんの世話は、いついつまでというような期限はある?」
「いや、ないみたいですな。ああ、留依が完全に回復すれば、留依に渡った財
産から養育費を除いた財を留依の物としつつ、その養育義務の放棄を認めると
いうような一文もありました」
「それはちょっと、不平が出そうな遺言ですね。最低でも1/4がもらえると
期待するもんでしょう、人間てのは。それがまあ、1/6程だ。かりに留依さ
んを預かって多くもらっても、養育費がいくらかかるか分かりゃしない。まか
り間違えば、自分の分を食いつぶされてしまうかもしれない」
「案外、流さんも計算高いんですな」
感心したように言う吉田刑事。
「いや、今のは畑の人間になったつもりで言ったんですよ。誤解してほしくな
いな」
流は顔を赤くしながら、弁解した。
「ところで吉田さん。僕が気にしていた点、どうなっています?」
「気にしていた点?」
「忘れてたんですか? 淵英造と菊子の仲とか」
「ああ、思い出しました。聞いて下さい、流さん。どうやら二人、結婚するみ
たいですね」
「ほう」
−続く
#2782/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:55 (188)
Yの殺人 8 平野年男
★内容
「どちらがプロポーズしたかなんて分かりませんが、相思相愛らしいです」
吉田刑事は説明を続けた。
「財産分与と関係があるようでしたか?」
「ははあ、そいつは我々の方でも考えましたよ。淵が財産目当てで結婚するっ
て言い出した状況を。そんなことはないみたいで、たまたま時期が重なったん
じゃないですか。それに、淵にはアリバイがある。財産をすぐに欲しくて女主
人を殺したなんてのも考えられない」
「すぐに独立することはないんでしょう?」
「そうみたいですね。相続税やら財産の処分やらで、簡単には行かんのでしょ
うなあ」
「他の畑の人達は、どう思っているんですかね?」
「さてねえ。結果的に相続者の婚姻に無関係でしたからな、遺産分けは。平穏
なままじゃないですか?」
「そうですか。では、やはり神尾留依さんを誰が世話するかで、違ってくる訳
ですね。どうなってます?」
「孝亮は拒否の意向みたいですな。やはり家族がいますと、受け入れにくいも
んでしょう。菊子は、畑の連中の内ではよくできた人間ですから、個人的には
引き受けたいみたいですが、淵とのこともありますから、迷っているようです。
百合子は最初から拒否。これだけははっきりしてました。財産も欲しいが世話
に拘束されるのはまっぴらって具合いで」
手振りをまじえて説明してくれる吉田刑事。熱心なものだ。
「全員が拒否となると、家政婦の朝原さんでしたっけ。彼女と医者の石橋さん
とやらがいい目を見ますね」
「そうなりますか。いくら留依の世話を見るったって、元から石橋は世話を見
てきた。それどころか、留依に対して親身になっていましたから、子供を引き
取る感覚かもしれませんしな。もし、遺言書の内容を知っていたのだとしたら、
石橋への容疑は深まるんですがね」
「仲々面白い考えです。そう、遺言書の内容を知らなくても、おおよその見当
は付くと思いませんか? 全員が留依の世話を拒否する可能性は割に高いし、
その場合、留依は多額の財産を持ってどこかの世話になる。ここまで考えられ
れば、石橋医師−−言いにくいですね、この言い方−−医者の石橋さんは自分
に世話役が回って来ることを想像できたかもしれない」
流の推理は、曲解だと言い切れない部分があると思えた。石橋なら、積極的
に畑恵美を殺す動機があるかもしれない。ひょっとしたら、日熊弁護士と裏で
通じているとか、家政婦の朝原といい仲になっているとか。
そんな考えを巡らせていると、流がまた別のことを言い出した。
「そうだ。小室二郎の畑洋二事件に関するアリバイ、どうでした?」
「ああ、それもありましたな。なにぶん、死んでしまった人間のアリバイを調
べるんですっきりしませんが。えっと、これだこれだ」
手帳を繰っていた吉田刑事の手が止まる。
「畑洋二が転落死した日、小室は午後五時半までは会社にいたというアリバイ
がありました。証人もいくらでもいます。が、それ以後はないんで、結局はア
リバイ不成立となりますな。畑洋二の死亡時刻は午後四時〜六時と推定されて
いますから、ぎりぎりで間に合ってしまう」
「こんな推理はどうかな」
私は思い付きを口にすることにした。
「一連の事件が同一犯人の手によるものだとすれば、三つともにアリバイがな
いのは鳥部老人だけになる。でも、この人は足の悪さとかを鑑みて、犯人では
なさそうなんでしょう?」
「そうですな。特に今度の畑恵美殺しでは、二階から忍び込むのが一番無理な
人だ」
「ここで、自殺か他殺か不明な畑洋二氏の件は切り離して、二つの殺人事件に
限定します。小室氏の事件でアリバイが成立したのは日熊弁護士だけ、女主人
の事件では淵英造だけでした。
アリバイがない人達の中で犯行が不可能と思われるのは、さっきも言いまし
たように鳥部老人。それに神尾留依さんも無理だと思う。誤解されると困るん
だけど、精神不安定の彼女が何かの拍子で殺すことはあるかもしれない。でも、
そんな彼女が計画的に殺人を行えるかとなると、疑問でしょう?」
「そうですな」
吉田刑事が同意したのに対し、流は黙ったままだ。私はともかく、続ける。
「次は動機の点です。小室氏を殺すような人は見あたらないということでした
が、それでは話が進みませんので、本当に彼を殺さないと断言できそうな者を
除外してみます。
まず、『しましまのおじさん』と言って小室になついていた畑譲次は除ける
でしょう。元々、小学生が計画殺人をするとは思えませんからね。
譲次の両親はどうでしょう? 息子の相手をしてくれるのは好ましいと思う
でしょうが、その他の面ではどうだったか? でも、逆に考えれば、嫌に思っ
ているのなら子供に近付けさせないでしょう。となると、好ましく思っていた
と考えていい」
「それには異論があるな」
流がやっと口を開いた。ずっと黙っていられたことが不安だった私は、彼に
反論されたことを不平に思うよりも、嬉しく思った。
「どういう点で?」
「例えばだが、何かをネタに小室が孝亮達を脅迫していたとする。それで手に
した金の一部を譲次へのおみやげとしていたら、どうだろう? 夫婦にとって
実際は顔を見るのも嫌という状況になるね。事実はどうか知らないけれどね」
「……なるほど。警部、実際はどうなんでしょう?」
「そんなことが分かっていれば、とっくにお知らせしてますよ。まず、小室の
評判からして考えられないと思いますな」
「じゃあ、二人は除外できるとしたいなあ。この線で続けますよ」
二人の聞き手は、黙ってうなずいた。
「残る菊子、百合子、朝原、石橋の四人は何とも言えませんから、次の恵美殺
しの動機で考えます。恵美が死ねば財産が入ると分かっていたのは、菊子と百
合子です。朝原、石橋の二人は入るかどうか、想像の域に過ぎなかった。です
が、これだけで後者二人を除外できません。もしかすると遺言書の内容を知っ
ていたことも考えられますから。警部、菊子の書いていたという原稿は、どん
な物なんですか?」
「手書きの原稿で、筆跡は本人の物に違いなかった」
「分量は?」
「原稿用紙三枚ですが、内容は濃いみたいですな。頼まれた二日後に上げるに
は、あれぐらいの時間が必要だそうで」
「内容で、特徴的なことはありませんでした? 当日以後でないと書けないよ
うな文章があったとか」
「いや、そんなものはなかったみたいですよ。そういったのに詳しい奴がいま
してね、警察にも。そいつが言うには、今月に入ってからなら、いつでも書け
た内容だと」
「そうですか。じゃ、この線ではアリバイ証明にならないと……。では、身長
を導入しましょう。警部、身長的に犯人の条件を満たしていそうなのは、誰で
したか?」
「日熊、畑菊子、畑孝亮、淵英造の四人に、鳥部を入れるかどうか、ですな」
「その四人と今まで述べてきた推理で残った四人を比べ、重なっているのは唯
一人、畑菊子だけです」
これが私の結論だった。
「一番、まともそうな人間が残りましたな」
吉田刑事が言った。私は付け加える。
「まともだからこそ、計画殺人をしたとも言えませんか?」
「それはどうか、分かりませんが」
言葉を濁す刑事。
「流、君はどう感じてる?」
「うん……。意外にうまく、一人に絞り込めたね。推測だけでこうなるとは」
「そんなことは聞いてないぜ。菊子が犯人だという考えを、どう思うかって聞
いているんだ」
「それには何のコメントもしようがないが……。質問していいかな? 小室氏
が殺されたとき、彼の背中には泥が塗りたくられていたということだが、それ
をどう解釈するんだ?」
そうだ、それがあった。
「……手形を残してしまったから、それを隠すために泥を塗ったんじゃないか」
「そうかね? それなら手形の部分だけを泥で汚せばいい。何も一面に塗りた
くることはない。少しでも早く、犯人は現場から離れたがっているはずだろ?」
言われてみれば、その通りだ。
「次、ハーモニカを凶器とした理由を述べよ」
「それは……」
絶句してしまう。分からない。
「他にも疑問点がある。小室は何故殺されねばならなかったのか? 遺産の相
続者が犯人としても、急いで殺す必要があったのだろうか? 犯人は洋二氏の
部屋の戸の鍵をどうやって手に入れたのか? 等々……」
指摘されて、まだまだ謎があることを痛感した。
「吉田警部、僕ら、もう一度畑屋敷に乗り込んで、少し調べさせてもらいたい
んですが」
「流さん達が単独で乗り込まれては、まずいでしょうな。わしがつき合いまし
ょう」
「どうもすみません」
そういう訳で、再度、畑屋敷を訪れることになった。
「現在の屋敷の主人?」
流の質問を受けた畑家の人々は、考えても見なかったことに戸惑っている様
子だ。対象は畑孝亮、菊子、百合子の三人。
他の人はと言うと、小学生の譲次は学校、神尾留依は石橋医院へ行っており、
不在。弁護士は書類整理の関係か、ここのところ毎日の来訪らしい。淵も来て
いた。
「一応、年齢から言うと、孝亮兄さんになります」
菊子は兄の方を向いた。孝亮としても、まんざらでもなさそうである。
「でもぉ」
鼻にかかった声は百合子。
「留依さんの養育義務の順序、菊子姉が先だったよね」
言われてみればそうだ。何故だか知らないが、あの順序は菊子の名が先にあ
った。
「それは多分、母が家族のある兄さんのことを思って、そんな順序にしたんじ
ゃないかしら」
菊子が言った。
「では、あなたには主としての自覚はないと」
流が聞くと、菊子は、
「それは、何か文書の形ではっきりとその旨が記されてあったとしたら、自覚
も持てますけど、今の状態では、孝亮兄さんを主にと考えるのが妥当でしょう」
と答えた。
「そうですか。では、次にお願いなんですが……。皆さんの部屋を見させてい
ただきたいんです。もちろん、吉田刑事も同行の上です」
「それは……」
反論したそうなのは、畑恵美の子供らだけでなく、昌枝や朝原も同じだった。
しかし、警察の意向とあらば、どこか強制的な響きを持って聞こえるのか、面
と向かって拒む者はなかった。
刑事が厳しく言った。
「凶器の探索もしなくちゃならんですからな」
「どうです、主人となった孝亮さん?」
流は面白おかしい調子で、畑孝亮に聞く。
「……しょうがないでしょうな」
彼は、せいぜい威厳を保とうとするかのような答をした。
部屋は寝室を兼ねた場で、どこも同じ造りになっていた。例外は、孝亮家族
のための部屋で、そこは大きめなのだ。
部屋は、菊子の部屋から見ることになった。彼女から申し出があったのだ。
ドアの外では、部屋の主と淵英造が寄り添うようにして、こちらを伺っている。
詩人の部屋らしいと言うべきか、飾り気はあるものの派手ではない。くすん
だ色調が多い。南の窓際にきれいに仕立てられたベッドが、その反対側に机が
ある。机の上はきちんと整頓されているが、ほんの少し、雑誌の類が出ている。
吉田刑事から後に聞いたところ、婚約者と似ているそうである。
部屋の内装をくどくど描写してもしょうがない。流の考えはともかく、私に
とって肝心なのは小室事件の凶器に例の鍵だ。実は警察が散々捜して行ったそ
うなのだが、再捜査の名目で入れてもらった訳である。
私は菊子が犯人でないかと考えているのだから、ここが勝負だ。そう意気込
んだが、結果は不調。何の収穫もなかった。
「納得いただけました?」
「はい。ご迷惑を」
吉田刑事が言うと、
「いえ。それがそちらのお仕事ですもの。いいんです」
と、菊子は優しい言葉を返してくれた。先入観は禁物だが、彼女は犯人では
ないだろう。私は考えを訂正し始めた。
−続く
#2783/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 9:59 (199)
Yの殺人 9 平野年男
★内容
それから順に、昌枝、孝亮、譲次、神尾留依、朝原、百合子の部屋と見て回
ったが、これまた不発で、成果は全くなかった。考えてみれば、犯人には時間
的余裕があったのだから、どこかに隠すなり処分するなりしたことは、充分に
考えられる。
念のため、各部屋で目についたことを記すと、孝亮や昌枝の部屋は意外に荷
物が少なかったこと。これはスポーツジムの方にも置いているからだろう。ま
たスポーツマンらしく、どちらにも室内で運動するための器具があった。
譲次の部屋は子供らしく、テレビゲームの機械や漫画の詰まった本棚があり、
またベッドの枕が変な形だと思ったら、睡眠学習機能の付いた物だった。家庭
教師の他にここまでするとは、嫌な世の中だ。
留依は四十という年齢からすると考えられぬ程、子供っぽい部屋だった。花
の柄を基調としたカーテンや壁紙、絨毯はピンク色である。壁には留依自身の
手による物らしい絵がいくつかあった。
朝原の部屋も、他の人と同じ広さであった。家政婦だと差別していないとい
うことなのか、単に部屋がこれしかなかったのかは分からない。割に恵まれて
いるらしく、化粧品なんかが豊富に揃っていた。
百合子の部屋は、あんな遊び歩いているようでも、やはり美大生だと思わさ
れる絵が、何枚もあった。描きかけのもある。他には仲々いいオーディオ設備
一式があった。防音がしっかりしているから、ある程度の音でも大丈夫なそう
だ。
さて、流の提案で、畑恵美や洋二の部屋も見ることになった。
「流さん、ここは散々、調べ尽くしましたよ」
吉田刑事が、恵美の部屋の前で言った。
「あなた方警察が調べた後で、この部屋に隠すというのは、うまい着想だと思
いませんか? 洋二の部屋だって同様です」
と、意気楊々とした歩調で、部屋に入る流。しばらく三人で捜してみたが、
ここもだめだった。にも関わらず、流は自信満々である。
「洋二の部屋は、期待できますよ」
学者の部屋は、ほこりを被ったようで、時間を感じさせられた。
「平野君、吉田刑事。あそこを見て」
流が指さしたのは、何冊もの専門書が並べられた本棚の一角。五段ある棚の
一番上に鍵があったのだ。犯人がなでたらしく、そこの板のほこりが一部、取
れている。
「これは、ひょとして……」
「そうです。ここのガラス戸棚の鍵に違いありません。犯人が隠したんですよ。
至急、鑑識の人に来てもらうといい」
吉田刑事は流に言われ、慌てて部屋を飛び出して行った。
「さあ、希望が湧いてきた。この調子だと、小室殺しの凶器も見つかるかもし
れない。余計な箇所に触らずに、静かに、しかし注意深く捜すんだ」
言われるまでもない、私は興奮を押さえつつ、目を皿のようにしていた。
さっき鍵の見つかった本棚は、180センチほどの高さがあったので、最上
部を見るには流でもちょっと辛い。そのため、踏台を朝原家政婦に持ってきて
もらい、見てみたが、ほこりがあるだけだった。
机の上にもうっすらとほこりが積もっているが、怪しい点はない。こうなる
と、机の引出しぐらいしか見ていない箇所はなかった。が、そこを触ると指紋
が消えてしまうかもしれないので、やめておく。
それでも見張りのために立っていたら、吉田刑事が取って返して来た。
「いやあ、手間取ってしまいました。興奮して、説明の手際が悪くなっちまい
ましたよ。もうすぐ、来ると思いますよ」
久々に事件の進展があったためか、上機嫌な刑事だった。
「最初から鑑識を連れて来ればよかったのに。僕らを信用してくれなかったん
ですか?」
皮肉を込めて流が言うと、吉田刑事は黙って頭に手をやった。
鑑識到着後、自由に探索を進めた結果、大いなる収穫があった。
まず、問題の鍵は、ガラス戸棚の物に間違いないことが分かった。スペアで
はなく、元のオリジナルだということも、家人によって証明された。が、指紋
は畑洋二以外のは採取されず、その指紋のかすれ具合いから、犯人が手袋を着
用していたと考えられた。
机の引出しからは、全く予想外の物が発見された。原稿用紙の束である。最
初、それは研究論文か何かだと考えられていたのだが、中身は違った。
「推理小説?」
畑屋敷で待たせてもらっていた私達に、吉田刑事が知らせてくれたのは、本
当に意外な報告であったと言えよう。
「ええ。ワープロ原稿で、書きかけみたいですが、まず、推理小説に違いあり
ません。タイトルからして『畑屋敷の惨劇』でそれっぽいですし、冒頭、『私』
なる人物による殺人への決意が書かれています。畑洋二やら恵美やらが出てく
る実名小説ですが、内容は空想でしょうな」
「その原稿、見せてもらえますか?」
「指紋なんかの調べが終われば、構いません」
原稿の内容は後で示すとして、他に洋二の部屋から発見された物として、空
のガラス瓶がある。空と言っても見た目だけで、検査の結果、毒物のヒ素が内
面に付着していた。
「恐らく、畑洋二が小説のためか、本気で毒殺するためかは知りませんが、大
学から持ち出したのでしょうな。今、調査中です」
それが吉田刑事の言葉であった。
ここで見せてもらった原稿の全部を、以下に記そう。この全てが事件解決に
必要だった訳ではないので、全てを読む必要はない。特に必要なのは「あらす
じ」の部分である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
畑屋敷の惨劇
畑洋二 49 老いたる学者
2畑恵美 54 その妻。資産家
畑菊子 19 長女。大学生
畑百合子 13 次女
4畑孝亮 24 長男。スポーツインストラクター
3畑昌枝 22 その妻
1神尾友康 64 恵美の先夫
神尾留依 31 恵美と友康との娘
鳥部竜雄 49 洋二の友人
日熊一多 44 弁護士
石橋昭 38 医者
畑屋敷の惨劇 不時綾人
−−−−この作品を、愛する孫に捧げる
***********************************
私は一つの決意をした。
彼らを殺すのだ。
このままでは、彼らは、私の愛するものを亡きものとしてしまうに違いない。
また、彼らは、私自身さえも脅かしかねない。私は私が愛するものを護るため、
彼らを殺す。何を迷うことがあろうか。
私は万全の計画を立てた。これを忠実に実行すれば、間違いなく彼らの命は
この世から消え去り、そして私の身の平安も保たれる。
だが、この計画を始動させる前に、一人の男を殺さねばならない。彼が生き
ている間は、私は殺人計画を実行に移すことはできない。殺人計画のための殺
人。奇妙な話だが、これを成し遂げない限り、私の計画は水泡に帰す恐れがあ
る。彼さえいなくなれば、私の計画は、本当の意味で完全なものとなるのだ。
あの、よこしまな男さえいなくなれば。
彼と私の間には、何の関係もない。故に、単純な殺害方法でも、私が疑われ
ることはない。私はただ、確実に彼の息の根を止めるだけでいいのだ。それは
カミソリ一本でも、充分であろう。
そして今、私は彼を殺した。誰にも分からないように。これで、私の真の狙
い、彼らを殺す計画は安泰というものだ。完全犯罪となろう。
私は私が愛するものを護るため、彼らを殺すのだ、たった一人、全く無関係
とも言える犠牲者を出すことが、遺憾ではあるが−−。
「おじさん、ごめんなさいね」
31にもなるのに、まだ子どものような言葉遣いをする。そんな神尾留依の
声の質は、まだ声変わりしていないように聞こえた。
「父は齢を重ねる度に、いやらしい性格になってしまって」
「いやいや、恵美も悪いんだ。あれが私に飽きて、また友康さんに走ったとし
ても、友康さん自身に責任はない。あるのは私や恵美の方だ」
畑洋二は自嘲するかのごとく、笑った。
「ですが、私を連れて来るというのは、少々、行き過ぎだと思います。父は私
を連れて来ることで、おじさんに嫌がらせをしているみたいで……」
「それはあるかもしれないな。友康さんに非があるとしたら、そこか。だが、
当の留依さん、あんたがちゃんとしておるから、こちらは何にも気にしていな
いよ」
「そうおっしゃってくれますと、気が休まるのですが」
不安げと言うか、申し訳なさそうな表情をする留依。大きな瞳以外、これと
いった特長のない顔で、器量もさほど良いとは言えないのだが、その瞳が醸す
彼女の心情が、美しく見えるときがある。
「おっと、誰か来たみたいだ」
不意にベルがなり、洋二は玄関に向かった。いつもなら娘の百合子や菊子が
帰ってきている時間だから、彼女達のどちらかが応対に出るのだが、今日はど
ちらも遅い。仕方がないといった風情で、洋二は眼鏡をかけ直してから、ドア
を開ける。
「お、竜さんか。何だ?」
「いや、別に何だってほどのもんじゃない。だが、昼間からまた、神尾の奴が
来てる見たいじゃねえか。奥さんと出かけちまったようだが、ちょっと、問題
だよ」
竜さんと呼ばれた男は、親しい仲らしく、洋二に言葉をかけた。えらの張っ
た顔にある二つの眼が、好奇心と老婆心を持ち合わせて光っているみたいだ。
そんな無遠慮な口のきき方をする竜さん−−鳥部竜雄に対し、洋二はややき
つい口調で応えた。
「ちょっと。今、留依さんもいるんだ。そういう話は」
「あの、私、もう失礼しますから。どうぞ、お話を。父が戻ってきましたら、
私は先に帰ったと言い渡して下さい」
「ああっと、別に」
そう洋二が言おうとしたときには、もう神尾留依は玄関で靴を履き、ドアの
外に出て行ってしまった。
洋二と鳥部はとりあえず、家の奥に移動した。洋二が黙ってウイスキーのボ
トルを示すと、鳥部は「いや。コーヒー、もらえるかな?」と答えた。
やがて洋二がコーヒーを二つ持って来ると、鳥部に向かい合う格好で座る。
「……悪いことしたかな」
コーヒーカップを手にしたまま、鳥部の動きが止まった。先のことを思い出
したのか、さすがに気まずそうに彼が言うと、洋二は当り前だという顔をしな
がら、自分でいれたコーヒーをまずそうに口に運んだ。そしてそれは言葉にも
なって現れた。
「当り前だ、竜さん。もうちょっと気遣いというものをだな」
「待て。その前に、おまえさんの甘さは、端から見ていて歯がゆいぜ。いくら
婿養子だからってな、奥さんにあんなに奔放にされることはないんだ。別れた
亭主とよりを戻す気か何か知らないが、おまえには何のやましい点はないんだ
ろ?」
「あ、ああ」
「じゃあ、もっと強く出ろよ。いくら資産家のお嬢さん育ちだからって、こい
つはひどい。神尾の旦那も、どうかしているよな。どういうつもりで、こちら
に通っているんだろうねえ」
「それは分からんが……。僕が恵美に強く出れないのは、君も知っているだろ
う。向こうが、研究費を全面負担してくれているんだから」
洋二は力なく言った。凡庸な学者である彼にとって、研究費を出してくれる
スポンサーには頭が上がらない。彼自身は心理学の教授として大学で教鞭を取
っており、それなりの収入はあるのだが、恵美の資産にかなうはずもない。
「おかげであくせく働かなくて、研究に打ち込める。唯一の仕事・講義がなけ
れば、平日も休みになる」
「なんだい、それなら俺も同じだ。自営業ってやつだからな、こっちは」
高笑いしながら、鳥部は言った。高くもない背を折り曲げるようにして笑う。
もちろん、自営業だからといって、勝手に休めるわけではないのだが。
「冗談はともかく、本当に一度、がんと言わなきゃいけないや。いざとなりゃ
あ、なんて名前だっけな、あの弁護士の先生と」
「日熊先生のことかね」
洋二は、畑家の顧問弁護士を務める男の名を口にした。
「そうそう、日熊先生と相談してだな、神尾に手を引かせるべきだ。それくら
いしないと」
「ああ、考えておくよ」
「時に、娘はどうしたい?」
「唐突だな。あまりコミュニケーションがないんで、よくは知らないんだが、
学園祭か何だかの準備で、どっちも忙しいみたいだ」
「そうか、そんな時期か。大学も中学も、よくよく遊べる所だな。孝亮君はど
うした?」
「あいつは、勝手にスポーツプラザとかを作って、ぼちぼちやっているんだろ
う。知らない間に嫁まで見つけて来る奴だ。うまい具合いにやって当然かね」
孝亮は、洋二と恵美の間にできた最初の子供だった。洋二も恵美も持ち合わ
せていない、運動神経の良さが彼の最大の武器で、スポーツはだいたい何でも
こなした。
−続く
#2784/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 10: 2 (199)
Yの殺人 10 平野年男
★内容
そういうわけだから、両親とも情緒的に食い違うのか、体育大学卒業と同時
に独立−−しっかりと恵美から資産をおすそわけしてもらいながら−−し、結
婚も電撃的にやってのけた。ただ、電撃的というのは、両親からみた場合であ
ろう。孝亮としては、自然の成行きとして、昌枝夫人と結婚したに違いない。
以来、孝亮と洋二とは疎遠になっていた。どちらかと言えば、洋二の方が一
方的に遠ざけていたのだが。
「はは。相変わらず、嫌っているみたいだな」
「いや、許すかもしれない」
「どういう風の吹き回しだい?」
「……孫ができるらしいんだ」
「と言うと……昌枝さんがおめでたか?」
「らしいねえ。はっきりと言っては来ないんだが」
「そいつはやっぱり、めでたいな。おじいさんになるわけか」
「そうさ。だから、ここらで許す度量があっていいんじゃないかと思ってな」
「そりゃ、いいと思うけど。息子夫婦とどうこう言う前に、奥さんの方を何と
かしろよ。独り者の俺だって、気にならあ」
それからしばらく、同じ内容のことをしゃべってから、鳥部は帰った。
洋二は友人を見送る−−隣に住んでいるのだが−−と、カップにわずかに残
っていたコーヒーを飲み干し、自ら研究室と呼んでいる書斎に入った。やりか
けの心理学研究の計画書類を眺めたが、何かもやもやした物があり、集中でき
ない。
「何とかしろ、か……」
洋二は、自分に向けてその言葉を吐いた。
その時、表で騒がしい車の音がした。神尾友康が畑恵美を連れて戻ってきた
のだ。
「お帰り」
そう努力しているのか、洋二は恵美に無表情に言った。
「神尾さん、娘さんは先に帰りましたよ。電車だと思います」
「……そいつはどうも。では、ここいらで帰らせてもらいますか」
神尾友康は、64という年齢に似合わない、若い声で応えた。白髪やしわは
目立つものの、肌の張り自体は衰えている様子はなく、男前の面影も残してい
る。
「来週も、ですか」
「どうだろう。そうだね、いいかもしれないな」
そして恵美に眼で合図を送るような仕草を見せ、神尾は帰って行った。
後に残ったのは、気まずさも薄らいだ日常的な風景であった。夫婦は無言で
すれ違うと、一人は台所に、一人は書斎に足を向けた。
「もう、孝亮達を許してはどうかな」
皿をかちゃかちゃさせていた手を止め、洋二が言った。
この突然の夫の言葉を、恵美は訝しく思った。夕食時に夫婦で会話を交わす
など、久しぶりであった。
「どういうことかしら?」
「どういうって、別に何もないよ。ただ、孫もできることだし、これを潮に、
元通りに」
「私は構いません。元々、そんなに孝亮とはどうということでなかったのです
から」
「じゃあ、パーティを開こう。孫の誕生の後がいい」
「パーティ? あなたからそんな言葉が出るとは思ってもみなかったわ」
「そうかな。それで家族だけでなく、親しい人にも来てもらおう。迷惑になら
ない人、そうだ、僕は鳥部君だな、やっぱり。君は誰がいる?」
「……そうねえ……。友康さんね」
言い終わると同時に、恵美は洋二の顔を見た。反応をうかがっているのだ。
恵美の予想に反し、洋二は、あっさりと受け止めた。
「いいね。それなら、留依お嬢さんもだね」
「……そうね」
「うん、楽しみだ。やっぱり、料理が大変だろう。君にも頑張ってもらわない
とね。アメリカなんかだと、簡単でいいんだけど、日本人というのは、パーテ
ィと聞くと、豪勢な料理しか思い浮かべないから」
いつになく饒舌な夫を、妻はますます訝しげに見つめた。
「研究の方は、いいの?」
「そりゃあ、何とでもなる。君がいつも言っているように、クダラナイ研究だ
からな」
「ふうん……。じゃ、やりましょ」
楽しみだわという顔をしてみせ、恵美は笑った。
孝亮と昌枝の子供、恵美や洋二にとっての孫が生まれたのは、そんな話をし
てから丁度一週間目のことであった。
事前に連絡をしておいたので、パーティの日もスムースに決まり、赤ん坊の
誕生から一ヶ月目の最初の日曜となった。
朝からパーティの準備で、畑家の調理場はてんてこまいの状態であった。普
段は滅多にキッチンに立たない恵美も、今日ばかりはお手伝いと共に働いてい
る。
「あ、神尾さんが来たみたいだ。恵美、出るの?」
「今、手が放せないの。上がってもらってて頂戴」
「分かった」
洋二が玄関まで出て行くと、神尾友康と留依が車から降りてきたところだっ
た。
格好つけたがりなのか、友康は羽織袴という出で立ちだ。背筋をしゃんと伸
ばして無理をしているようだ。
留依は普段の地味な格好に比べると、幾分派手な、うすい桃色のドレスを着
ている。化粧もしているらしく、いつもとは格段に美しさが違う。大きな目と
釣合が取れるよう、口や鼻といった点を強調させると、こうも変わるのか。
「や、洋二さん。お孫さんの誕生ですな。おめでとう」
「いやあ、あなたより早くおじいさんになるとは思ってもいませんでしたよ」
「確かに、留依も早くいい人を見つけて、結婚して、赤ん坊の一人や二人、こしらえて
もらいたいね」
「お父さんっ」
留依は恥ずかしげに言った。年齢から言うと、そんな恥ずかしいとかいうも
のではないのに、顔を赤らめてさえいる。
「いや、理想が高いのもよいが、ここは一つ、早く結婚するべきだよ」
洋二は軽く笑いながら、留依に話しかける。
「いい人、いるのでしょう」
「そんな……。私、何も取柄ないし」
「何を言うかと思えば。磨きをかけたら、この通り、留依さんはきれいなもん
だ。まずはその美しさで男を引き付けなさいな」
「そんな……」
同じ台詞を繰り返そうとした留依。
それではきりがないと思ったのかどうか、洋二は二人を邸内へ招き入れた。
恵美という女の元の夫と現在の夫の話にしては、随分と明るい話題で話が弾ん
だと言えた。
そこへやって来たのは、鳥部竜雄。彼は神尾親娘に軽く挨拶をすると、洋二
に向き直った。神尾親娘は場を離れ、奥に行く。
「いよいよじいさんか。まずはおめでとう、ははは!」
鳥部の言葉に、洋二は苦笑い。
「本当に許すことにしたんだな、孝亮君らを。まあ、それで正常、普通の親子
だ。時に、孫の名前は誰がつけるんだい?」
「一応、孝亮に昌枝さん、それに私ら夫婦の意見もいれて、となってるね。だ
が、やはり、親が命名するものだろう」
「はあん。そういや、赤ん坊って男か女か聞いてなかったな。どっちだ?」
「男の子さ。1度、病院に見に行ったんだが、そりゃかわいいね」
「何を言ってやがる。赤ん坊の頃なんてのはなあ、誰だって一緒、猿といい勝
負に決まってる」
「そりゃ確かにそうだ」
こうして大笑いしていると、また玄関からお呼びがかかった。
「おっと、ついに主役の到着だな」
そう言って、元気よく立ち上がった洋二は、鳥部を残して玄関に向かった。
ドアを開けると、赤ん坊を腕に抱えた、髪をまとめた女と、その肩に軽く手
をかけた男が立っていた。
「よく来たね、孝亮、昌枝さん。本日はあなた達二人、いやいや、赤ん坊もい
れて三人が主役だ」
「どうも、わざわざ、こんな事までしていただいて、ありがとうございます」
昌枝は赤ん坊を抱いたまま、身体を二つに折った。
「久しぶりですよね、お父さん」
孝亮の方は、少し照れ笑いらしきものを顔面に浮かべつつ、洋二に話しかけ
た。
「何が久しぶりだ、こいつ。この前、病院で会ったぞ」
「いや、この家で会うのが久しぶりだってことで」
「それもそうだな」
「ところで……、神尾さんが来ているそうですが、お母さんとは、どうなって
いるんです?」
孝亮の質問に、洋二は顔をしかめた。
「おまえ達は、そんなつまらんことに心配をかけんでいいから。さ、とにかく
入りなさい」
そう答えておいて、洋二は二人を促した。
「みんな、だいたい、食べ終わったようですね?」
興奮しているためか、うわずった調子で、洋二はそう言い、テーブルを見回
した。
「最初にも言いましたが、本日はご出席、ありがとうございます。えっと、二
人に聞いたところ、名前が決まったということで、ここで発表してもらいます」
「それでは……」
促された孝亮は、懐に入れていた和紙のような物を取り出し、ひろげた。『
譲次』とある。
「命名、じょうじ。譲るに次ぐと書きます」
「ふうん。いい名じゃないか。なあ、譲次ちゃん?」
ややおどけ加減に鳥部が言うと、母親に抱かれた赤ん坊は、「ABAB」と
意味不明の反応をした。
「いや、結構結構。うーむ、留依が生まれたときのことを思い出すなあ」
分かっていて言っているのか、神尾友康はそう言い放って、手を叩き始めた。
それを感じ取ったか、洋二の妻・恵美も口元に笑いを浮かべている。畑の娘二
人は、呆れてしまっていた。神尾留依が父親を止めようとするのだが、友康は
構わないでいる。
場を取り繕うように、洋二は大きな声で言った。
「では、最後にこの子に祝福する意味で、乾杯といきましょう。恵美に菊子、
百合子。運んで来ておくれ」
素直に席を立った娘二人と違い、妻は主導権を握っている洋二を気に入らな
いらしく、じらすようにゆっくりと行動をとった。それでも、奥から娘達の呼
ぶ声がすると、さっさと動き出す。
「おお、来た来た」
菊子が運んで来たお盆からグラスを一つずつ取り、洋二は招待客に回して行
った。赤い液体の入った小さなグラスが、全員の手に行き渡る。
「それでは、
あらすじ
第1の犠牲者、神尾友康。パーティの席上での毒殺が望ましいが、毒の混入
方法を思い付かない。毒自体は大学から洋二が盗んだものとすればよいが。毒
を捨てて、パーティの帰り、刃物で襲うか?
第2の犠牲者、畑恵美。洋二の最大目的。■器で殴り殺すのがいい。最も恐
怖を感じさせる殺害方法だと考える。
ここまでで、当然ながら、疑われるのは洋二。証拠はないものの、警察の追
及は急。これをたえる様子を書く。読者にも洋二がえんざいだと思わせる風に。
第3の犠牲者、畑昌枝。容疑を他に向けるため。女なら、老いた洋二にも締
め殺せようから、絞殺とする。
第4の犠牲者、畑孝亮。服毒自殺に見せかける。遺書を書かせる方法に難。
ワードプロセッサーですませるか。孝亮を犯人のように見せかけ、事件は一応
の幕となる。
最後の章で真犯人・洋二の告白となる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
これが全てである。お分かりのように、まだ何も起こらないところでぷつん
と切れていて、あらすじが継ぎ足されてあった。学者にしてはよく書いている
方だと思うが、漢字の使い方がやや変わっている。ワープロの変換に任せたよ
うなところがある。あらすじの一部がかすれている(注:■器)のは、印刷の
ときに失敗したのだろう。
途中で終わっているのは、気力が続かなかったこと、研究が忙しかったこと、
毒殺トリックを思い付かなかったこと等が考えられる。
「実名を使っているのは、本気で恵美を殺すことを考えていたからかね」
「しかし、神尾友康が健在な点や、神尾留依がまずまず普通の女性として描か
れている点が、完全な虚構と感じさせるな。時代も数年前のようだし」
「ふむ。愛する孫に捧げるとは、どういう意味なんだろうな。作中に譲次は赤
ん坊として登場してるが」
そんな問答を流と交わした。この時点で警察の調べはすんでおり、原稿から
は畑洋二の指紋だけが検出されていた。
「畑洋二が実は生きていて、殺人計画を実行に移しているなんてことはないよ
な」
事務所で私は、流に聞いた。足を組み直してから、彼は答える。
−続く
#2785/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 10: 5 (200)
Yの殺人 11 平野年男
★内容
「面白い考え方だけど、作家の発想だね。畑洋二が死んでいるのは間違いない
んだ。ただ、これを参考に誰かが殺人を行ったとは考えられなくもない。問題
は小室だ。小室は小説には登場していない。犯人は神尾友康の代わりに、小室
を殺したのか? 何とも馬鹿げている」
彼の言葉はそこで途切れたので、私は質問を再開した。
「洋二が小説を書いていることを知っていたのは、菊子だけだったって?」
吉田刑事に教えられたことである。警察が原稿について畑屋敷の人々に聞い
たところ、菊子が答えたそうだ。
「生前、そう、今から一年前でしたか、父は私に小説の書き方とワープロのこ
とを聞いてきました。私は元来、詩人ですし、手書きなのでそれほど答えられ
なかったんですが、父には参考になったようでした。小説の内容を訪ねると、
父は秘密めいた笑みを浮かべていただけでした……」
ワープロは研究室に設置されている物と判断された。印刷の字体も一致した。
「時々、教授は遅くまで残って何か印刷していることはありましたが、まさか
推理小説だったとは……」
というのは、淵英造の弁。
流が受けた。
「また菊子が怪しいって言うのかい?」
「いや、違うさ。小説のことなんか、大事だとは思いもしないだろうから、話
していなくても当り前だと思うけど」
「内容についても、洋二の創作だということが明らかになったじゃないか」
その通りである。同じく大学の洋二の個室から、手書きのあらすじが発見さ
れたのである。大学ノートの隅に書き残されたそれは、ワープロ印刷で発見さ
れた内容とは若干違うものの、ほとんど同じであった。相違点は畑孝亮や昌枝
を殺さずにおいて、事件は迷宮入りになる点だけである。筆跡も洋二本人のも
のと確認されている。
「吉田刑事がお見えです」
受付の秋子さんが言ってきた。その後ろから、吉田刑事が続く。
「いやあ、あれだけの発見をしながら、どうもうまくないですな。犯人が分か
らんのは変わらない」
ぼやき加減の刑事。
「流さん達はどうです?」
「同じ……」
と答えようとしたら、流が遮った。
「解決に近付いた気がしますよ。証拠はないんですが、ある一人が、犯人像と
して固まりつつあります」
「え?」
私と吉田刑事は、同時に声を上げていた。
「だ、誰なんだ?」
「その前に警部。何か新しい情報があるんじゃないですか?」
「そ、そうだった。毒の件ですが、やはりあれは、畑洋二がこっそりと持ち出
した物らしいですな。大学の薬学・医学関係の部署をあたったところ、小量の
ヒ素が消えてました」
「なるほど。それだけですか? それじゃ、僕の推理を聞いてもらいたい。本
来、証拠もない内に推理を他言するのは気が進まないんだが、あまりに信じら
れない結論なので、他の人の意見が聞きたいんだ」
それはこちらとしても、望むところである。
「まず、畑洋二の死。あれは何の疑問の余地もなく、自殺でしょう。小室殺し
の方の動機のなさがクローズアップされてばかりだったが、畑洋二を殺す者に
ついても、動機が見あたらないのは同様です。妻であり、実質的な畑家の主た
る畑恵美に圧迫される毎日を過ごし、その歪んだ精神を妻と前の夫を殺す小説
を書くことで解消しようとしたが失敗した男が自殺したのです。遺書を書くの
もためらわれるほどの自殺の動機でしょう」
「ま、一男児としては、恥ずかしいかもしれませんな」
年寄りらしい意見を吉田刑事が口にした。
「それからどのくらいの間があったかは分かりません。ある人物が、畑洋二の
部屋で問題のワープロ原稿を発見、それを読んだのです。読んだ人物が内容を
曖昧に理解しただけで、実行に移したんです」
「曖昧ったって、まともな人間なら、充分に理解できる内容だったぞ。それに、
あんな中途半端な計画を実行するとは思えない」
私が反論した。すると、吉田刑事も応援してくれた。
「平野さんの言う通りだ。いくらヒ素が用意されてあったとしても、殺人を実
行するとは……」
「まあ、聞いて下さい。犯人は、ヒ素を殺人に使用していない。それなのに瓶
は空っぽになっていた。これは何を意味しているんだろう?」
尋ねられても、私には分からなかったし、刑事にも分からなかったようだ。
「それは置いといて、小室殺しの凶器を考えてみよう。身発見の凶器だが、カ
ッターナイフ状の物と考えられている。それなら、剃刀も当てはまるんじゃな
いだろうか? ここでの剃刀は漢字じゃなく、カタカナだと思ってほしい」
カミソリ? つい最近、その言葉を目にしたような。
「次、小室氏はいつもどんな服を着ていたか? 警部、どうです?」
「あ、うん。そうだな、しましま模様だと聞いたが」
「そうです。横にしまの入った服。これを『よこしま』だと解釈する人がいた
としたら?」
よこしまという言葉もどこかで見たぞ。そうだ−−。
「流! 君は原稿のことを言ってるんだな。剃刀にしてもよこしまにしても、
あの小説の冒頭に出てきた言葉だ」
「見事だ、平野君。ここのフレーズを思い浮かべてくれ」
流は警察からもらったコピー原稿の一部を示した。
「『……彼さえいなくなれば、私の計画は、本当の意味で完全なものとなるの
だ。あの、よこしまな男さえいなくなれば。
彼と私の間には、何の関係もない。故に、単純な殺害方法でも、私が疑われ
ることはない。私はただ、確実に彼の息の根を止めるだけでいいのだ。それは
カミソリ一本でも、充分であろう……』とあるね。どうだろう? 見事に一致
している。これを読んだ犯人は、横にしま模様のある服を着た人物を、カミソ
リで殺すことを決意したのだ。もし、続く原稿の第一の犠牲者が、現実にはい
ない神尾友康氏でなかったなら、こうした間違いも起こらなかったかもしれな
い。だが、犯人は小説と現実を混同し、訳が分からなくなった挙げ句に、小室
といういけにえを見い出したのだよ」
何ということだ。殺される動機がなかったはずだ、小室は。これも一種の巻
き込まれ型と言えようか。
「空の瓶はどんな意味があるんですかな?」
「同じですよ、吉田刑事。原稿のあらすじに、『毒を捨てて刃物』云々とある
でしょう。これを素直に受け止めると、ヒ素を捨ててから剃刀を手にするとな
りませんか?」
「なるほど。しかし」
刑事がまた口を挟んだ。
「どうですかな、流さん。そんな理解力のない人間がいるでしょうか? 私に
は考えられない」
「どうしてどうして。いるものですよ。少なくとも三種類は考えられます。ま
ず、日本語を習いたての外国人。間違える可能性はある」
なるほど。でも……。私が口を開こうとしたら、流が続けてくれた。
「でも、そんな外国人は事件の関係者にはいないから、これは除外だ。次に精
神に異常のある人。これは判断が難しいが、一人いる。神尾留依はどの程度の
理解力があるのか。精神状態によって理解力に変化が起こるのか。誰も正確に
は知らない。でも、可能性はあります」
「では、君は神尾留依が犯人だと言うのか?」
「待ちたまえ、平野君。三つ目がある。三つ目は、まだ読解力が発展途上にあ
る子供が読んだとしたら、だ」
「何だって?」
またも私と吉田刑事は、同じように大声を出していた。
「つまり、畑譲次……」
「そうなるね」
こともなげに答える流。
「しかし、あの子は勉強家のようだぜ。いくら小学校低学年だって、分かるん
じゃないか?」
「勉強と言っても色々ある。あの子がしていたのは、暗記中心だと感じなかっ
たか? 睡眠学習用の枕があったんだぜ」
ふむ、思い当たる。
「家庭教師がついてたんだから、暗記だけだとは言わないが、あの漫画とかゲ
ームを見ていたら、それほどではないんじゃないかな、本を読む能力は」
「確かに……。小学三年生がよこしまの正確な意味を知らなくてもおかしくな
いし、仮名書きのカミソリなら読めますなあ」
吉田刑事が、感心したように言った。
「さあ、以上から、犯人は神尾留依か畑譲次でないかと思えてくる。ここで僕
は、推理を放棄したくなったよ。どちらにしても、いい結果は待っていそうに
ないからね」
流は疲れたような目をし、喋るのを休止した。そしてやがて、決心したかの
ように口を開く。
「もう一つ、この二人のどちらかが犯人ではないかと思える傍証を出そうか。
畑恵美殺しにおいて、犯人はハーモニカを使った。どうしてだろう? ここで
も原稿が役に立つんだ。ここを見て」
流はあらすじにあった「■器」の箇所を指で押さえた。
「分別のある者なら、これは『鈍器』ではないかと類推できると思う。物語は
推理小説なんだから。だが、そうでない者には何を考えるだろう? 『食器』
か『楽器』を真っ先に思い浮かべるんじゃないだろうか?」
そうか……。声も出なくなるぐらい、意味が通って行く感覚に酔う。
「食器は、人を殴り殺すにしては、すぐに割れてしまいそうだ。じゃあ、楽器
だろう。そう考えて洋二の部屋を見回してみると、ハーモニカがある。ああ、
これが凶器なんだ……と犯人は考えたんじゃないだろうか。鍵はうまいことに、
机の引出しからでも発見したのだと思う」
「ど、どちらが犯人だと考えているのだ、君は」
どもりながら、私は聞いた。吉田刑事も息を飲んで、答を持っている。
「状況だけ見ても、明かだろう。譲次だよ」
何という……。正しくこれは「Yの悲劇」ではないか。
「雨の日に限らず、どちらが自由に歩き回れるかとなると、譲次の方だ。留依
は常に見守られているはずだからね。小室を殺せるとしたら、譲次の方じゃな
いか。そう思ってあの泥の謎を考えてみたんだ」
背中一面に塗られた泥。この謎も解いたと言うのか。
「あの日、『しましまのおじさん』が来ることをあらかじめ知っていた譲次は、
時を見計らって外に出、小室を待ち伏せした。彼の姿を見つけると、譲次は子
供らしく、『おんぶしてよ!』とねだったんじゃないかな。雨とは言え、子供
好きだったらしい小室はそれを拒まず、傘を片手に譲次を背負う。このときの
体勢を考えてみてほしい。譲次の手は小室の肩から首にかけてあるはずだ。小
室は無防備。子供の手でも、剃刀があれば簡単に殺せるとは思えないだろうか」
「そうか!」
「これなら返り血も付かない。全くもって、うまい方法を考えたものだ。いや、
考えたんじゃないのかもしれないが。
で、泥だ。雨の日に小さな子供をおんぶすると、どうしても泥が背中に付着
するんじゃないだろうか。それも靴の先だけが服に当たるだろうから、ちょん
ちょんて感じで、二箇所、点のように泥の印ができると思う。これをそのまま
にしておいたら、すぐに子供の犯行だと分かると気付いたんだ、あの子供は。
この辺、割に頭がいいね。そこで譲次は全面に泥を塗ることを考え、実行した」
簡単なことのように説明する流。だが、ここにたどり着くのは並み大抵じゃ
ないと思う。思いたいのだ。
ここで、吉田刑事が発言した。
「一つ、疑問がありますぞ。指紋です。その程度の読解力の犯人が、どうして
指紋のことを知っていましょう」
「多分ね、潔癖性がなせるわざだと思うんです」
「潔癖性?」
「今の子供は極端なきれい好きというか、汚い物事を嫌うタイプがいる。それ
に近かったんじゃないだろうか、譲次は。それならほこりまみれの部屋にあっ
た原稿を盗み読むにしても、古びた鍵を手にするにしても、血が付いた凶器を
持つにしても、手袋をしてやったとしてもおかしくない」
これを聞いて、ふむ、とうなる刑事。
「あ、今、思い出したんだが、一つ、説明を忘れていたよ。譲次を犯人と考え
るもう一つの理由だ。後になって鍵が見つかっただろう、洋二の部屋から。あ
のときのことを覚えているかい? 鍵の見つかった場所のほこりは、かすれて
たね。鍵のあった棚の高さは、本棚全体が180センチだからせいぜい150
センチぐらいだろう。大の大人が犯人だとしたら、そんな棚に鍵を置くのにほ
こりに触れるだろうか? むしろ、鍵が前からあったと見せかけるためにも、
そっと置くはずだ。それなのにかすれているのは、犯人の身長が低く、手がや
っと届く位置だったんじゃないか。そう考えたんだよ。この条件を満たすのも、
小学生の譲次しかいない」
「状況証拠としても弱いですが、筋道は通ってますなあ」
すっかり感心し切った様子の吉田刑事。
「警部も納得してしまいましたか。平野君はどう思う?」
「同じだよ」
「ううん、そうか。畑譲次が犯人。この子供がどうして原稿を実行に移したの
かは分からないが、結論を受け入れざるを得ないようですね」
「いつか、菊子が言ってましたよ。『畑の血がこんな人間を』って。あれは百
合子のふざけた態度を説明したものでしたが、他の場合にも言えるんじゃない
ですか。神尾留依に顕著なように、精神にやや欠陥のある人間が出やすい血筋。
そういうもんがあるんじゃないんですか」
「仲々、大胆な意見ですね。でも、ないとは言い切れない。とにかく、今はこ
れ以上の犯行を重ねないようにすることです。まさかとは思うが、原稿に操ら
れて自分の両親を殺すなんて悲劇だけは避けないと」
そうだ。このままでは不安である。すぐにでも畑屋敷に向かわないと!
−続く
#2786/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 93/ 2/ 1 10: 7 (130)
Yの殺人 12 平野年男
★内容
幸い、変事は起こっていなかった。と言って、子供が殺人犯人である疑いが
あるなんて、この段階で言えるはずもない。現在、なすべきことは再び凶器捜
しである。「カミソリ」を捜すのだ。
譲次は学校に行っている。そこで、それとなく譲次の部屋を中心に捜すが、
この間見つからなかった物が今日になって見つかるはずもない。そう思ってい
たのだが……。
「ありました!」
不意に声を上げたのは、若い刑事の一人だった。見ると、彼の手は指紋を消
すまいとつまむような格好で、剃刀を持っていた。
「よくやった。どこで見つけた?」
「ベッドの下であります」
吉田刑事の質問に答えた若者は、その場を示した。子供用の小さなベッドの
下に、この剃刀が。こびりついている黒い痕跡は血か。
「何だって?」
この発見に、とんきょうな声を出したのは、意外にも流であった。
「どうしたんだ? 何も驚くことはないじゃないか。君の推理通りだぜ」
「おかしい。この間、徹底的に調べたときには、そこにはなかった……」
流は考え込んでしまう。それを見かねてか、吉田刑事が言った。
「子供の浅知恵ですよ。前にも同じことをしてるじゃないですか。ほら、一度
調べた部屋に物を隠すというのは。あの子供だって、我々が調べたからこそ、
安心して凶器をベッドの下に隠したんでしょう。それまでどこにあったかは知
りませんが」
「いや、ちょっと黙って下さい……。ぼ、僕はとんでもない思い違いをしてい
たらしい。しかし、実行犯は子供に違いない……。どう考えたら……いいんだ
……。ん?」
うなっていた流は、急にある一点を見つめたようだった。その視線をたどっ
てみると、どうやら譲次のベッドのようだ。それも枕の付近か。
「そうだ! 吉田警部! あの家庭教師、淵は何の研究をしていたんです?」
「え、え? えっと、よくは知らんですが、心理学とか」
流の勢いに、思わず身を引く吉田刑事。
「そうでしたよね。だが、手遅れかもしれないな。それでも、やってみる価値
はある」
すると、流は何を思ったか、問題の枕に手を伸ばし、探り始めた。
「何をしているんだ?」
「スイッチだよ。睡眠学習用の枕なら、どこかにテープレコーダーのスイッチ
があるはずだ。それでテープの内容を聞きたい。お、これか」
スイッチをひねったようだ。が、ボリュームが小さいらしく、はっきりとは
聞こえない。流はさらに手を動かし、ボリュームを大にしたらしい。すぐに音
が大きくなった。
それは、諺の繰り返しであった。一つの諺を三度言ったら次の諺に移る。譲
次の声が、それを繰り返していた。
と思っていたら、不意に音が途切れた。代わって、どこかで聞いたような大
人の声が。
「……父親の残したお話の通りにするんだ。次は畑昌枝を殺せ、畑昌枝を殺せ、
畑昌枝を殺せ、畑昌枝を殺せ……」
囁くような声は、淵英造の声だった。
「危うく、事件の裏を見逃すところだったよ」
事務所に戻った流は、改めて反省するように言った。警察で最後の推理を披
露した折も、反省しきりだったのだ。
「まさか、音によるサブリミナル効果の研究を、淵がしていたなんてね。心理
学とは広範囲に渡っていると、痛感させられたよ」
流の言う通り、淵英造は音声の繰り返しによって、人はその心理にどのよう
な影響を受けるかという研究をしていたのだ。
普通、サブリミナル効果と言えば、一連の映像の中の一コマに、全く別の絵
を差し込むことによって、人間の潜在意識に影響を与え、絵の物を無意識に求
めるようにさせるというようなことが知られている。
淵は音でそれを試していたのだ。畑洋二の紹介で家庭教師を引き受けた彼は、
畑譲次が催眠学習も取り入れていることに興味を持った。そこで、それにセッ
トするテープに細工をし、どのような効果があるかを調べていたのだ。最初は
「家庭教師の先生に会ったら、鼻の頭を触ること」といった些細なことから始
めたのだが、どうも効果が出たり出なかったりではっきりしない。
そんな折、淵は洋二の自殺を聞かされ、何の気なしに、洋二の個室を調べて
みた。そこであのワープロ原稿を発見したのだ。そう、あれは元々、畑屋敷の
洋二の部屋ではなく、大学の洋二の部屋にあった物だった。続いて手書きの原
稿も発見。そこで、淵はある恐ろしいことを考えた。この文章をあの子供に読
ませ、その上で音の影響を試したらどうなるだろう、と。
早速実行に移した淵は、家庭教師をしている合間に、色々と細工が可能だっ
た。何気なく原稿のコピーを「置き忘れ」たり、それをまた持って行ったり…
…。
その効果は突然、現れた。偶然、淵が畑家の人達と食事をすることになって
いたあの日、彼は屋敷への道の途中で、空き地から子供の影が出て来るのを見
た。その直後、空き地を除いてみると人影が倒れている。小室だった。となる
と、これは譲次が殺したんだと直感した。しかし、どうして小室を殺したのか
分からない。「小説の通りにしろ」とテープに吹き込んでおいたのだから、当
然と言えば当然なのだが、そこまで気が回らない。とにかく、まだ実験を続け
たかった淵は、犯人の証拠を消そうと考えた。見ると、剃刀が落ちている。こ
れを拾う。次に小室の背に着いた泥にも気付いた。泥を背中一面に塗ったのは、
淵だったのだ。
「譲次が塗ったのだとしたら、ここだけ急に閃いたみたいで、どうもすっきり
しなかったんだ」
とは、流の言葉である。
さて、それだけの細工をしてから淵は何食わぬ顔をし、畑屋敷へ向かった。
譲次が小室を被害者として選んだことを解明しようとした淵は、今度ははっ
きりと「畑恵美を殺せ」と吹き込んだそうだ。彼女が死ねば、菊子とうまく行
きつつある自分にも恩恵があるに違いないと踏んでいた淵。その甲斐あってか、
思惑通りに譲次は恵美を殺してくれた。ところが、また不可解なことになって
いた。ハーモニカを凶器としたのだ。これも不明だったが、犯行の決め手とし
てはガラス戸棚の鍵の方が重要そうである。そこで、淵は鍵を隠すことを譲次
にそれとなく暗示したのだ。
犯人の淵は、ここまでの研究・実験はまあまあ、うまく行っていたとしてい
る。だが、彼にはまだ確かめたいことがあった。肉親を殺すという道徳心とサ
ブリミナル効果は、どちらが強いのかという点である。実は、洋二の原稿のあ
らすじの内、畑孝亮と昌枝を殺す設定は、淵が付け足したものだったのだ。
仲々これは、譲次も実行しない。そろそろ潮時だと考えていた淵は、いつで
も譲次に全ての罪を着せることのできるように、あの子のベッドの下に拾って
おいた剃刀を入れたのだった。
「しかし、研究熱心だったのか、それとも菊子さんとの色恋沙汰に気を取られ
たか、テープの始末を延ばし延ばしにしていたのが、奴の敗因さ」
流は言い切った。
「本当に、あんな簡単に、音声によるサブリミナルってできるのかねえ? 可
能だとしたら、そら恐ろしい」
私は、心の底から漏らした。
「僕は専門家じゃないけど、ある程度は進んでいるらしい。しかし、それも凄
い技術者と機械があってこそだよ。今回、淵のような若いのがうまく行ったの
は、譲次の方にも理由があったと思っているんだ、僕は」
「どういう理由だい、流?」
「それこそ、『畑家の人間の血』さ。精神的に不安定な人間を生み出し易い血
統がもしあるのだとしたら、あの譲次にそれが表れたんじゃないか? つまり、
暗示にかかり易い精神構造の持ち主……」
流はしばらく黙ったかと思うと、不意に明るい声になって続けた。
「何にしても、あの子のしたことは、本質的には罪ではないさ。自意識の喪失
下での犯罪は、罪とされない。万が一にも罪になるとしても、それを罰してど
うなると言うんだろうね。今、あの子に必要なのはそんなことではなく、精神
の安定なんだから」
「そうだな。神尾留依も母親を失ったショックから、早く立ち直るといいな」
そう考えていると、ふと、思い出したことがあった。少し、心が痛む。
「結婚まで誓った相手が犯人で、菊子さん、ショックだったろうな」
思わず、さん付けで言ってしまう。
「そりゃそうだろうが、おや。君、いっときは彼女が犯人だって言ってなかっ
たかね?」
「そんなこともあったかな。そんな、いじめないでくれよ」
「まさか、君。ひかれているんじゃないのか、彼女に?」
「馬鹿言わないでくれよ!」
自分の顔が赤くなるのを感じた。久しぶりだ、こんな感覚は。
「強がり言うもんじゃない。正直にならないと、君の精神も圧迫を受けるぞ。
それにだ、なぐさめるとしたら、今が絶好のチャンスだよ」
他人事だと思って気軽に言う流を、私は恨めしく見つめた。
−終
#2787/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/ 1 20:39 ( 64)
☆変な女からの電話☆3 ワクロー3
★内容
「そりゃーねー、あれだよ。ろくなことはないよ」
友人Wに電話すると、たちどころに返事があった。僕ももちろん、
そうだとは思う。思うけれども、こころのどこかで期待もしている。
それもまた現実です。まるでテレビドラマみたいな出会いになるの
ではないか。学生みたいだったし、案外かわいいのではないか。中
学生だとやばいけど、高校生でもやばいかな。短大か大学生くらい
だったら、まあいいか。9日が近付くにつれて夢を膨らませるくら
い構わないのではないか。勝手に夢を膨らませてしまった。
「おまえも暇人だなー、まーいいよ。俺も暇だし。夕方までなら
つきあうよ」
もともと、久しぶりに会おうか。Wとはそういうことだったので、
目的などない。天神で2時間ばかりお茶を飲むついでに、変な電話
女と僕とが会うことを見物することは、Wにとっても格好の暇潰し
にはなるはずである。
「で、おりゃーどげんしとこうか。おまえと並んですわっとくや
?どげんするや?」
どげんしたものか。迷っているとWが自分で決めた。
「俺があとから遅れてはいっていくけん、それまで話しよけばよ
かろう。約束の時間より10分くらい遅れて行く。おれは」
で、遅れてきて隣にいきなりやってくるのか。
「状況ばみて、適当に考える。やばそうなやつだったら隣に直接
座るけん。相手も一人とは限らんしな。お前が言うごと、男が脅し
あげにくるかもしれんしな」
僕はぶるっと身ぶるいした。
Wは柔道二段である。心強い。金鷲旗柔道大会にも出場したこと
がある。もっとも金鷲旗大会は、福岡県下の高校だと、予選なしで
どんな弱い学校でも出場だけならできるので、あまり自慢にもなら
ないが。少なくとも将棋二段の僕よりは腕力があるので心強いので
ある。
というように話しはまとまり、僕は変な電話の女性の家に電話を
した。彼女が言ったとおりに、留守番電話が僕の声を受けたので、
緊張しながら、9日の場所と時間を指定した。不都合な場合には、
そちらから喫茶店に直接電話するよう、店の電話番号を伝えておい
そうして運命の9日。僕は指定した喫茶店に急いだ。変な電話を
会社にかけてきた女はいったい、どんなやつなんだ。高宮駅で
*****の****と名乗った男からナンパされたと主張する女。名前が
同じで、しかも話し方が似ているという理由だけで、是が非でも僕
と会おうという強引なやつの顔は、どんなだ。年齢は、職業は、趣
味は、信条は、服装は、持物は、好きなものは、嫌いなものは、現
在熱中しているものがありますか、その理由を述べよ、なにもかも、
ナニモカモ、なにもかもきいてやる〜
好奇心の鬼となって喫茶店のドアを開けました。
(以下次回)
#2788/3137 空中分解2
★タイトル (RMM ) 93/ 2/ 1 23:53 ( 79)
お題>「指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱」椿 美枝子
★内容
「これ、やっぱりお受け取りできません。」
私の前には婚約者、テーブルの小箱は誕生石の指輪。そしてここは古ぼけた喫
茶店、婚約者が未だただの恋人だった頃、二人でよく来た店。
「ふうん。どうして。」
意外にも落ちついた声で婚約者は指輪の箱を開けアクアマリンを眺め自らの薬
指にはめてみている。何を考えているんだろう。この人はいつもこうだ、間が抜
けている。
「結婚、出来ません。」
はっきり言った方がいい。その方がいいんだ。二人の為だ。
「ふうん、どうして。」
さほど表情を変えずに婚約者は今度は指輪を小指にはめてみている。信じられ
ない。我慢できなくなって、声を荒げた。
「あなたが私の何を知っているというの。」
声を荒げる時があればそれはいつも私の方。
「知らない。教えて。」
ようやく指輪を箱に納め突然私の眼を見て、微笑。嫌な奴。私はため息をつい
て話し始める。
「それなら、お姫様の話。聞きたい?」
「うん。聞かせて。」
幸せそうな顔をした。私より端正なその顔を歪ませてやる。
「むかし、顔はきれいでも口汚いお姫様がいました。話す度、口からカエルやヤ
モリが飛び出してくるの。忘れちゃったけれどそういうお話。童話だったと思う。
今から私が話すこの先は童話じゃないからね。そのお姫様はやがて、正真正銘カ
エルかヤモリになっちゃうの。どっちでもいい。でも、私はカエルは嫌いだから
ヤモリにしておく。そしてね、もうお姫様はヤモリなんだって事を知らない婚約
者がアクアマリンの指輪を持って婚約しようっていうの。ヤモリになったお姫様
は、指輪のサイズが合わないし指輪を返すの。そして婚約者にさようならを言う
の。」
「そうか、それが、僕だね。」
嬉しそうな顔の婚約者。何が嬉しいんだろう、この人は。
「そうよ、それが、あなたよ。」
会見はこれで終わった。言うんだ、席を立って、さようなら、と。それで全て
が終わるんだ。式に伴う煩雑な事を、もう考えなくていい。この人の事を、もう
考えなくていい。
「それなら、僕は知ってるよ。」
婚約者は相変わらず落ちついた口調。
「何を。」
苛立つ私。
「君がたまには口汚い事も、君の指輪のサイズも。」
そう言って私の手をとって、左手の薬指に指輪をはめた。
違う。それだけじゃない、私は醜い。
例えば、あなたの端正な顔を憎む。あなたの優しい性格を憎む。あなたの優秀
な頭を憎む。それらは私より優れているから。あなたの全てが。だから、私は、
醜い。
言ってしまおうか。それができれば苦労はしない。そしてわたしは今日も言葉
を飲み込んだ。おそらくもうすぐ二人が一つの家に住む。
また機嫌損ねたみたいだ。大体、彼女の口がやけにしおらしく丁寧になる時は
危ないんだ。ほら、滅多にしないくせに指輪なんか持ってきて。それにしても、
細い指してるな。あ、指の細さじゃないんだ、関節の細さなんだ。俺のは出っ張っ
てるからな。薬指じゃ第二関節の手前で止まる。小指で挑戦。ああ、結婚できな
い、って、彼女のこういうのはまともに取り合ってはいけない。小指だと丁度い
いな。いかん、少し興奮している。こういう時はストレスの種を取り除いてやる
しかない。どうぞ話して下さいな。お姫様の話? また訳のわからん事を。なん
だって。あ、口汚いって? いや、それほどでもないと思うけれど、そう言うと
逆効果だし。でも素直に肯定すると怒るんだよね、私やっぱりそんなに口汚いの
ね、とか言ってさ。半分ぐらい否定しなくては。それにしても青白い肌だな、ア
クアマリンがよく映える。ヤモリって、こんな色じゃないよな。彼女がヤモリな
ら、俺は何だっていうんだろう。
全く、一体、いつになったら気付いてくれるかな。例えば、弛緩させると怒っ
た表情になってしまう俺のこの顔に。裏表があって底意地が悪く歪んだ俺のこの
性格に。独創性のかけらもない俺のこの頭に。ようやく気付いてくれた頃には、
けれども、もう遅い。二人は一つの家に住む。俺の事を嫌いにならないといいけ
れど。まだ、本当の姿は、さらせない。俺は彼女の事を、好きなんだから。俺こ
そヤモリだとしても、気付かせる訳にはいかない。
ヤモリが指輪を呑み込む、そしてそれは吐き出されない。
例えば吐き出されたとしても、それは今ではない。
1993.2.1.23:25
終
楽理という仇名 こと 椿 美枝子
#2793/3137 空中分解2
★タイトル (TEM ) 93/ 2/ 2 9: 1 ( 14)
お題>指輪を飲み込んだヤモリの憂欝(番外)うちだ
★内容
ファンの間ではどちらかゆうと評判はよくないのだけれど、ケイトブッシュの
「ドリーミング」というアルバム、私は大変気に入ってる。あれは変だ。
だいたいA面の1曲目にあんな不安をかきたてるような曲を入れちゃう心理っ
て理解しがたい。全体的に“何かコワイ”のである。そこがイイんだけど。
これを制作したころ、彼女は精神のほうを病んでいたという噂もなんとなく頷
ける。で、そんな「ドリーミング」のジャケット写真。
ケイトブッシュの口の中に指輪がある。
指輪というのはホラ、何となく、何かありそうだ。飲み込んだのが空き瓶とか
輪ゴムだったらきっと、ヤモリもそんなに憂欝にならなかったのにね。
ではまた
#2794/3137 空中分解2
★タイトル (ZBF ) 93/ 2/ 2 11:34 ( 98)
お題>「指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱」 久作
★内容
●
それは、美しいヤモリだった。細かい鱗に覆われたスレンダアなボデ
ィはグレイに輝き、白色光を受けては、七色に反射した。ナンとも言え
ない曲線を描きスボマッテいく頬の上には、いつもパッチリ開いた眼が
ヌメヤカに輝いていた。オス達は彼女を崇拝し、下僕のように、ひれ伏
した。彼女は、松本家の縁の下に住んでいた。昔、庄屋屋敷だっただけ
あって、縁は高い。
松本大輔は結婚指輪なぞ本当はしたくなかった。しかし妻の恵子は、
大輔が指輪をしていないのを見ると、不機嫌になる。どうやら恵子は、
愛を目に見えるモノに投影する種類の女らしい。大輔は恵子の前でだけ
指輪をはめる。会社に行く途中に胸ポケットに落とし込み、仕事をする。
勿論、大輔は恵子を愛していた。ただし、大輔の愛し方で、だった。大
輔は会社から帰ると、いつものように玄関の前で指輪をはめようとした。
●
ヤモリは庭の井戸に住む若いイモリに恋をしていた。水中で鍛え引き
締まった腹は赤く、鮮やかだった。イモリが井戸の縁から這い降りる時、
チラリと見せる赤い腹がヨク見えるよう、ヤモリはいつも一番外側の柱
の根元に陣取っていた。そしてイモリから自分がヨク見えるように。ヤ
モリは自分がイモリを見つめるだけでなく、イモリに自分の美しい姿を
見てもらいたかった。いや見せつけようとしていた。
大輔は胸ポケットに指を入れた。しかし指輪は見つからなかった。ハ
ンカチを引っ張り出した。プラチナの結婚指輪はクルクルと回転しなが
ら微かな音とともに地面に落ち、夕陽を受けながらコロコロと庭を転が
っていった。大輔は、それと気付かず、ポケットの底を引き出し、ハン
カチをヒックリ返し、足元を見つめ、振り返った。指輪は無い。大輔は
戦慄し。恵子の顔が浮かぶ。大輔は指輪を求めて車へと戻って行った。
●
ヤモリはオレンジ色に輝く輪が転がって来るのを見た。吸い込まれそ
うに見とれた。輪は徐々に減速し、赤い光をユラめかせながらクネり、
ヤモリの眼の前で、パタリと倒れた。ヤモリは鼻先でつついてみた。固
いが微かに肉の臭いがした。あまりウマそうではない。しかし、美しか
った。ヤモリには、それで十分だった。ヤモリは思い切り口を開け、輪
を飲み込んだ。
大輔は車のシートのすき間に指を突っ込み、足元のカバアを外し、地
ベタに這いつくばり玄関まで四つ足で歩いてみた。指輪は無かった。立
ち上がりパンツの膝を払った。無性に腹が立ってきた。指輪如きで大の
男が何をしているのかと情無くなった。大輔は決然と扉を開け、家に入
った。恵子はスグに指輪が大輔の指にないことを気付いた。問い詰めよ
うと構えた恵子に大輔はゾンザイな口調で、無くした、とだけ言った。
●
指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱は、もう三日も続いていた。誇らしげ
に、そして少し恥ずかしげに井戸に向かっていた例の場所には姿が、見
えない。ヤモリは穴の中に篭っていた。指輪を飲み込んだセイで彼女の
自慢 のプロポオションが崩れた。元来ヤモリはスレンダアなものだ。
その腹の一部が、指輪を飲み込んだセイで真ん丸に膨れている。こんな
姿はイモリに見せたくなかった。誰にも見せたくはなかった。
恵子は大輔が指輪を失くしてから口をきかなくなっていた。食事も作
るし風呂も沸かす。しかし寝室は別だった。大輔の意地は限界に近付い
ていた。恵子の笑顔を見られないのは辛い。大輔は素直に謝ろうかとも
思ったが、取り付く島がない。大輔は否定的ではあれ自分も指輪に拘っ
ていたことに気付いた。大輔は花束を買って帰った。自分でもクサイと
思ったが、恵子の使う言語に合わせねば、対話が成立しない。
●
ヤモリは空腹だった。痩せた腹に指輪の形がクッキリと浮きでている。
ヌメやかに七色の光を放っていた鱗は渇きかけていた。ヤモリは無性に
イモリに会いたくなった。穴から這い出し、いつもの場所へと向かった。
指輪が張り出した部分が地面に擦れ、薄くなった肉を痛めつける。足が
重い。自分の醜い姿を思い出し、陰に潜んで井戸を見守った。霞む意識
の中で、ヤモリは見事な赤腹が宙に舞ったのを見た、ような気がした。
恵子は花束に目が眩んだワケではなかったが、大輔を許した。恵子も
指輪一つで愛を失ったのではない。意固地な大輔に腹を立てていたのだ。
大輔が折れれば、怒っている必要もない。恵子は許した証に笑顔を見せ、
その日は大輔とともに寝た。単純に、許したから寝た、というのではな
い。恵子にとっては表情や行為は伝えるべき意味が内包されているメデ
ィアだった。恵子は、自分が大輔を許したことを、伝えた。
●
ヒッソリと息を引き取ったヤモリの亡骸を無数の蟻が分解し持ち去っ
た。数時間のうちにヤモリは再び美しい姿となった。真っ白な骨の塊と
なったヤモリに抱えられるように、ギラギラと輝くプラチナの指輪が転
がっていた。幾日かが過ぎた。骨は黄色く土ぼこりに塗れたが、指輪は、
輝いていた。飼い犬がソレを見つけた。光り物を見つけた犬は喜んで口
にくわえ、他の宝物と一緒に埋めようと庭の隅に駆けていった。
庭の隅では恵子が草をむしっていた。駆けてきた飼い犬が勢いよく穴
を掘り始めた。浅い土の中からは瓶の王冠や小さな鉄板・・・、光り物
が幾つも顔を出した。飼い犬は、その上に、くわえていたプラチナの指
輪を落とすと、再び埋めた。恵子は飼い犬が去った後、指輪を掘り出し
ソッとスゥエットの袖で拭い、右手の薬指を立て指輪をあてがった。ス
トンと指の根元まで落ちた。イモリが恵子の視界を横切っていった。
(終わり)
#2795/3137 空中分解2
★タイトル (ZBF ) 93/ 2/ 2 18:36 ( 85)
「よく・ある・話」−舟− 写愚
★内容
ステブネ
打ち上げられし 廃舟に 北風の吹く
空腹だった。垢に塗れたセエタアを冬の風は素通りする。寒い。もう
一日、何も食っていない。河口の工場からはドス黒い煙がたち上ってい
る。人けのない川端の道。ガアドレエルから見下ろすと、河原に廃舟が
打ち上げられている。どこをどう彷徨ったのか。水苔とカキで覆われた
側面が寂しくトゲトゲしい。水を吸い乾きボロボロに朽ちた体は、不思
議に原形をとどめている。
アイツに捨てられた。新しい男が出来たのだと言う。予感はしていた。
アイツは軽い気持ちで俺と付き合っていた。俺は本気だった。あれから
俺はコンビニをハシゴして夜を過ごした。自分の部屋に帰る気はしなか
った。アソコにはアイツの存在が染みついているような気がして。「寒
いから気を付けてね じゃっ さよならぁ」。自分の部屋から俺を送り
出すアイツの声は、いつものように明るく屈託がなかった。
河原に降りて舟を見つめた。妙に気を引く舟だった。俺は友達に会っ
たように明るい気持ちになった。乗ってみた。木の体は湿っていたが、
柔らかい感触だった。座ってさっき買ったワン・カップの焼酎を開ける。
甘いアルコオルの臭いが鼻をくすぐる。ひと口飲むと、胸の辺りに温か
さが広がった。手で口を拭う。無精髭がザラつく。ふた口目で酒を飲ん
でいる気になってきた。
空はピンクに輝きだしている。正面の海に、赤く真ん丸い太陽が、沈
もうとしている。すごくイイ気分だった。何がドウでもヨクなっていた。
舟の中で横になった。少し寒かったが、一度横になると何をするのも億
劫で、そのまま体を丸め眠りに落ちていった。
咳込んで、目が覚めた。いつのまにか舟は半ば沈んでいた。潮が満ち
てきたらしい。俺の体も半ば水につかっている。体を起こそうとしたが
足の感覚がない。それならそれでイイや。もう何をするのも面倒だ。真
上には奇麗な星たちが輝いている。舟はユックリ沈んでいく。顔が水面
から出ているだけの格好になった。舟は沈むのを止めた。ちょうど力が
釣り合ったのだろう。眠たくなってきた。まぶたを閉じると、アイツの
顔が浮かんできた。ニッコリと笑っている。「寒いから気を付けてね」
か・・・。ワケもなく笑いが込み上げてきた。
ウトウトしているとゴツンと衝撃があった。反射的に目を開けると、
ガアドレイルが目の前にあった。頭の中が空白になった。俺は最後の力
を振り絞って腕を伸ばし、道路の端に手をかけた。
「ねえ 今日が何の日か覚えてる」
「んー ええと 結婚記念日じゃないし 誕生日でもないし・・・
何の日だったかなぁ」
「忘れたのぉ ほら あの日 ビショ濡れになったアナタが
アタシの部屋に来て・・・」
「あ ああ そんなコトもあったね」
「あったね じゃないわよ
ビショ濡れになって部屋に入ってきて
いきなりアタシを抱きしめて・・・」
「い いいじゃないか 昔のコトだろ」
「ふふふ そして 『俺を捨てないでくれ』って言って失神したのよ
覚えてるでしょ」
「あ ああ・・・」
「あれから アタシ お風呂沸かして温めて 大変だったんだからね」
「ん んん」
「あれで アタシ 思ったの
この人にはアタシが付いてなきゃ ダメだって ねえ 聞いてる」
「あ ああ」
「もお 新聞なんかで顔を隠して・・・」
「いってきまぁす」
「あ 勇太くん いってらっしゃい 車に気を付けるのよ」
「あ 俺も そろそろ会社に・・・」
俺は妻の想い出話から逃れるために、いつもより十分早く家を出た。
団地の階段を駆け降り、息子の勇太に追い着いた。
「勇太 お父さんが車で幼稚園まで連れてってやる」
「本当っ わあい」
勇太をチャイルド・シートに乗せて車を出した。暫く通らなかった河
端の道。干潮のようだ。広い河川敷には殆ど水がない。勇太は熱心に外
を見つめている。
「ああー ボロっちい舟ぇ」
勇太の悪態に視線を河原に向けると、あの舟が十年前の姿のままに打
ち上げられていた。俺は何というコトもなく勇太に話しかけた。
「お母さん 今はデブリングだけど十年前は奇麗だったんだぞぉ」
勇太はキョトンとコチラを向いた。
「ふうん・・・・・・ お父さん お母さんのコト好き?」
「ああ 大好きさ」
俺は躊躇なく答えた。
「よかったぁ」
俺と勇太はスッキリとした冬の朝日の中、顔を見合わすと、腹の底か
ら笑いあった。
(お粗末)
#2796/3137 空中分解2
★タイトル (UYD ) 93/ 2/ 2 21: 1 ( 22)
タイガース日記2/2 KEKE
★内容
いよいよキャンプインである。我が阪神タイガースも、亀山の負
傷ということはあるにせよ、まずは順調にキャンプにはいった。今
年のタイガースは期待できる。何といっても投手陣がしっかりして
いる。これは大きい。打撃はみずものだからあてにはならないが、
投手はそう大くずれしないから頼りになる。去年のあのリーグ一の
投手陣がそのままでも強力だし、さらにパワーアップしていれば、
もう天下無敵である。少なくとも優勝争いに食い込むことは間違い
ない。今年もテレビを見るのが楽しみだ。
大スポ(東京では東スポ)をみると、小泉今日子ヘアヌードか、
と書いてある。いやあ、いよいよあのキョンキョンのヘアが見られ
るのかと思うと、今からドキドキする。出版されたら買ってきて、
さっそく一発ぬかなけりゃならんな。誰とはいわんが、私とナニを
したさる女にはヘアがなかった。あるべきものがないというのは、
何とも変な感じだね。彼女のその部分を子細にながめると、ぽわぽ
わとうぶ毛みたいなものが生えているだけで、つるりとしている。
まるで幼女とナニしているみたいで、奇妙に興奮したものだ。本人
はかなり気にしているみたいなので、私が秘策をさずけてやった。
おーい絵理、今でも毛生え薬あそこにせっせとすり込んでいるのか
あああ。
..
#2805/3137 空中分解2
★タイトル (RJM ) 93/ 2/ 3 23:17 ( 64)
『しっちゃん その6』 スティール
★内容
きょう、天皇のお子さまのこうたいしの、お誕生日だったそうです。TVで、
やってました。
お子さんが言うには、奥さんは、我がままで、『てぃふぁにぃ〜』で、いっぱ
い買い物するような人は困るそうです。お母さんは、『いぎりすの、だいあなひ
のような人は困るってことね』と、言っていました。『だいあなひ』というのは、
いぎりすの外人の、おくさんです。何年かまえに、お姉ちゃんが、いっしょうけ
んめいになって、見ていました。『てぃふぁにぃ〜』というのは、きっと、いぎ
りすの、おもちゃ屋さんか、本屋さんか、なにかのでしょう。
きょう、バイオリンの、おけいこに行くときに、お母さんといっしょに、だい
あなひについて、話しました。
しっちゃんは『だいあなひって、そんなにお金を使うの?』と、言いました。
お母さんは、『てぃふぁにぃ〜、だからねぇ〜』と言っていました。『だいあな
ひって、そんなに、いっぱいお金使うの?』と、しっちゃんは聞きました。『やっ
ぱり、使うんじゃない』と、お母さんは、言いました。しっちゃんは、『だいあ
なひって、なんで、そんなにいっぱい使うんだろう? へんな名前だからかなぁ
? しっちゃんなんか、67185円もあれば、全部買えるのにね?』と、しっ
ちゃんは言いました。お母さんは『その、六万いくらって、なに?』と、しっちゃ
んに聞きました。しっちゃんは答えました。『このまえ、しっちゃん、ほしいも
の、ぜんぶ、いくらで買えるか、計算したさぁ〜。そしたら、67185円だっ
たさぁ〜』と、言いました。そうしたら、お母さんは、なぜか、笑いました。お
母さんは、笑いすぎたせいか、車をぶつけそうになりました。とっても、こわかっ
たです。
バイオリンから、帰ってから、しっちゃんは、自分のもっているお金を、リビ
ングの机のうえで、一枚ずつ置いて、数えました。五百二十円ありました。お年
玉をもらってから、一カ月くらいしか、たっていないので、ふだんよりは、たく
さん残っています。しっちゃんのおこづかいは、いつも、二、三日で、なくなっ
てしまいます。
しっちゃんは、心の中で、(だいあなひに、負けないぞs)と、おもいました。
しっちゃんは、カミとエンピツを出して、けいさんしました。毎月もらう、お
こづかいと、がんたんにもらう、お年玉の量をどんどん足していきました。いつ
のまにか、お母さんが、となりに来て、みています。お母さんは『しっちゃん、
何してるの?』と、聞きました。しっちゃんは、『しっちゃん、お金、ためるさぁ
s きっと、小学校を卒業するころには、たまるとおもうさぁs』と、言いまし
た。お母さんは、『あぁ、また、おこずかい、ためるけいさんしてるの〜』と、
言いました。しっちゃんは、『しょうだよ』と、いっしょうけんめい、けいさん
しながら、答えました。お母さんは、『で、いくら、たまったの?』と、言いま
した。しっちゃんは、机の上のお金を、もう一度確認してから『五百二十円s』
と、答えました。でも、もしかしたら、お母さんに、五百二十円を取られるので
はないかと、不安になりました。お母さんは、『しっちゃん、去年も同じこと、
してなかった』と、しっちゃんに聞きました。そういえば、そうでした、しっちゃ
んは、去年も同じことをしていました。お母さんは、『結局、ぜんぜん、たまら
なかったんじゃない』と、言いました。しっちゃんは、『でも、去年より、お金、
増えたよ』と、言いました。お母さんは、『でも、それって、しっちゃんがもらっ
た、お年玉でしょう』と、言いました。しっちゃんは『しっちゃん、今年こそ、
一円も使わないで、お金をためるんですs』と、しっちゃんは、力強く、言いま
した。お母さんは、『明日あたり、デパートでも行くと、危ないとおもうけどなぁ
』と、言いました。しっちゃんは『えっ、明日、デパートに行くのs』と、言っ
て、それから、うれしくなって、『うれしぃ〜なぁ〜』と、何度も言いながら、
部屋中を何度も跳び回って、よろこびました。お母さんは、『あっs また、しっ
ちゃんの、デパートにささげる原住民ダンスが始まった』と、机に、顔をつけた
まま、おなかをおさえて、笑いながら、言いました。しっちゃんは、『でも、しっ
ちゃん、がんばって、ぜったい、お金、ためるさぁs』と、言いました。でも、
お母さんは、『さぁ、もう、そろそろ、夕食のしたくをしなきゃs』と言って、
もう、しっちゃんのおはなしを聞いてくれません。(もうちょっとお話ししてあ
げようかなぁ)と、おもいましたが、はやく、ごはんが食べたいので、話をする
のはやめて、本を読みました。
でも、きっと、(67185円をためて、お母さんとお姉ちゃんと、だいあな
ひ、に見せびらかしてやるぞs)と、しっちゃんは、心の中でおもいました。
#2806/3137 空中分解2
★タイトル (RJM ) 93/ 2/ 3 23:23 ( 55)
『しっちゃん その7』 スティール
★内容
こんにちは、しっちゃんですs きょうは、この前の続きのお金もうけの話を
します。
まだ、ないしょのはなしですが、しっちゃんは、みどりのおばさんに、目をつ
けています。なんとなく、かんたんそうな、お仕事だと、おもいます。しっちゃ
んのばあいは、みどりのお子様と、言われるかもしれません。ちょっと、恥ずか
しいかもしれませんが、お金をためるためなので、しょうがないです。同じクラ
スの友達に『あ〜、しっちゃん、あんなこと、やってる〜s』と、指さされて、
言われないかぎり、きっと、きっと、恥ずかしくないとおもいます。それに、仕
事がおわったら、そのまま、学校に行けるので、とても便利だとおもいます。
この前も、電信柱のうしろから、じ〜っと、観察していました。やっぱり、とっ
ても、らくそうです。その日はおもいきって、話しかけてみました。
『おばさん、おはようごさいますs』と、しっちゃんは、とても元気よく、言い
ました。おばさんは、
『おはよう、今日は早いのね。いつもは、チコク、ギリギリに走ってくるのにね』
と、言いました。
しっちゃんは、心の中で(しつれいなs)と、おもいました。でも、しっちゃ
んは、そんなことは気にしないで、みどりのおばさんに、しっちゃんが、ききた
いことを、聞きました。
『おばさん、いつ、死ぬんですか?』と、しっちゃんは聞きました。おばさんは、
いっしゅん、『いったい、なにを言ってるんだろう?このガキは』と、いう顔を
しました。うちのお母さんも、よく、こういう顔をします。しっちゃんは、みど
りのおばさんに、しっちゃんが、次のみどりのおばさんの地位をねらっているこ
とを、気づいたのかなと、おもいました。しっちゃんは笑ってごまかすそうとし
て、にかっ、と、笑って、『いつ、死ぬんですか?』と、もう一度聞きました。
そうしたら、おばさんは、きゅうにやさしい顔になって、しっちゃんの頭に手
をおいて、『まだ、こんな子供なのに、かわいそうにね。いつも、チコクしそう
になって、走ってたから、転んで、頭でも、強く打ったんだわ』と、言いました。
しっちゃんは、ここで、負けてはいけないとおもい、『おばさんが死んだら、
みどりのおばさんは、しっちゃんが、やるs』と、おばさんを、おどしました。
おばさんは、とってもうれしそうに、涙ぐんだので、しっちゃんは、てっきり、
みどりのおばさんが、みどりの地位を、しっちゃんに、ゆずってくれるんだと、
おもいました。でも、おばさんは言いました。
『おばさんが、死んでも、別なおばさんが来て、やってくれるから、心配しなく
てもいいのよ』
しっちゃんは、(このばばぁ、ひとすじなわでは、死なないな、かなり太いロ
ープじゃなきゃ、ダメだな)、と、おもいました。
しっちゃんは、『だめだぁs しっちゃんが、みどりのおばさんをぉ、やるん
だぁs』と、叫びました。
『おばさんは、ずっと、死なないから、心配しなくてもいいのよ、ぼうや』と、
おばさんは言いました。
『しっちゃん、女の子ですs いちおう』と、しっちゃんは、また、叫びました。
ちょうど、そのとき、学校の始まりのあいさつの、ベルが鳴りました。しっちゃ
んは、(しまった、また、ぶったたかれるs)と、おもって、いっしょうけんめ
い、教室に走っていきました。でも、また、チコクして、先生に、ぶったたかれ
て、ろうかに立たされました。
しっちゃんは、ろうかに立たされながら、燃えました。(きっと、近いうち、み
どりのおばさんになるぞs)と、心の中でちかいました。えへへへへs
#2807/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/ 4 4:14 (161)
お題>指輪を飲み込んだヤモリの憂欝 ワクロー3
★内容
ちょ、ちょっと来てよ。
夜中にいきなりたたき起こされた。寝ぼけ眼で上半身だけ起きる
と、隣で寝ていた優子がベットの下を指さしている。
ちょっと、これ、見てよ。
メガネをとってかける。優子の身体越しに、指さしたところを見
る。ベッドの下のフットランプの近くに、そいつがうずくまってい
た。小型の爬虫類だ。
なんだ。ヤモリじゃねえか。どうかしたんだよ。
部屋の中にいたのよ。
いたのよじゃ、じゃねえよ。気持ち悪いから外に出せよ。
それがさ。
どうしたんだよ。
暇だったからね。いたずらしたのよ。
なにがだよ。
さっき手でつかまえてさ。
おまえよく触れるな。平気なのかよ。
優子は虫とか爬虫類とかを苦にしないたちので、俺は日頃から辟
易している。俺はどちらも大嫌いではないが、彼らとは好んでつき
合おうとは思っていないからだ。
つかまえてさ。食べるかと思ってさ。あなたの指輪食べさせたの
よ。無理やり。そしたらさ、食べちゃってさ。入っちゃったのよ。
おなかのなかにあるのよ。指輪が。
ななななななななななな、なにいいい!俺は飛び起きた。さっき
まで優子と『生殖を目的としない交尾』をしていたばかりなので、
俺は下半身が丸出しである。
おおお、お前、俺の指輪。やもりの腹の中に押しこんじまったの
かよ。
押しこんだんじゃなくてさ。口の中に入れたら飲み込んじゃった
んだよね。こいつが。
こいつがじゃ、ねえよ。出してくれよ。
優子は余裕である。ここさ、ちぢんじゃってるよ。
そう言いながら、俺の生殖器官を指で弾いた。冗談をやっている
場合か。そろそろ、家に帰らないとならない。指輪しないで家に帰
ったら、やばいではないか。
取り出してくれよ。
どうやってさ。さっきからさ、こいつ苦しそうだから吐かしてや
ろうと思うんだけど、もう、おなかの奥まではいっちゃっててさ、
吐けないみたい。
考えただけで俺の方が吐きそうだ。自分が巨大な指輪を飲み込ん
で胸が悪くなっているような錯覚に陥って、胸がむかむかする。時
間を見る。午前3時だ。そろそろ帰らないとまずい。4時までには
いったん帰宅しないとな。
どうしよう。俺は優子に泣きついた。
出そうか。
頼む。。。でも、でなかったんだろ。
出なかった。
じゃ、どうやって出すんだよ。
落ち着きなさいよ。
うん。
じゃ、えーと。私のバックからカッター持ってきて。
え。
カッターで、どうするのさ。
切るのよ。
切るの?ヤモリのおなかを?
そうよ。それしか方法ないもん。帰りを急ぐんでしょ。
俺の露出した下半身が以前に増して縮みあがった。
だってよう、それじゃ、ヤモリ死んでしまうだろ。おなか切って
指輪とったらさあ。吐き気がしてきた。
だって、しかたないもん。
おまえ気持ち悪くないのか。
気持ち悪いよ。ヤモリのおなかの中なんか見たくないわよ。あな
た切って自分で出す?
考えただけで卒倒しそうだ。
ヤモリはといえば、さすがにじっとしている。彼も気持ちが悪い
のだろう。盛んに口を開けたり閉じたりしているが、巨大なものが
腹部におさまっているので重たいのか身動きもしない。
じゃ、私、やってくる。こうしていてもきりがないでしょ。おさ
かなと思えばいいのよ。
いいのよ、じゃねえよー。魚だっておなかを切って、内臓ぶりぶ
り出てきたら俺は卒倒する。魚よりもかなり小さいとはいえ、相手
はかつて人類よりも長く地上を支配していた、爬虫類のはしくれで
ある。生きながらに腹を割かれる無念というものもあるであろう。
彼女は右手にヤモリ。左手にキティちゃんのカッターを手にして、
バスに向かった。彼女が立ち上がった。交尾したときのまま、全裸
である。
やがて何度も水を流す音が聞えて来た。あの水の音とともに惨劇
が終わったのか。ぼんやりと待っていると、彼女が戻ってきた。そ
うして
はい、ヤモリの死体!といってベットの僕の方にほうり投げてく
れた。
ひ、ひ、ひひひーひえー。後ろにのけぞる情けない俺。半分にち
ぎれたヤモリの肉体は下半身であれ、上半身であれ受け取りたいと
も思わない。
小さくぽたっと音がしたそれは、よく見ると俺の指輪だった。
指輪だけよ。ばかね。半ちぎれのヤモリなんか。見せるはずがな
いでしょ。優子は悠然とそういうと、
ああ、あー、気持ちが悪かった〜。
一言いうなり、さっさ、さっさと服を着はじめた。それにつられ
て俺も服を着て、やがていっしょに部屋を出た。
その時、今後俺はこんなおそろしいやつと疑似生殖行為を共にす
ることはできない。固く決心したはずであった。しかし会社に行っ
て澄ました顔で受付に座っている優子を見ると、劣情を催してしま
うのは現実である。
そうして実は今夜も優子と俺は双方の生殖器官を露出しつつ交尾
する。憂鬱な現実を少しでも心地よいものにしたいので。
子供できたらどうする?
優子にしては、やなことを言ったので、僕は言ってやった。
キティーちゃんのカッターでお前のおなかを切って取り出したる。
#2808/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/ 4 4:20 ( 79)
☆変な女からの電話☆4 ワクロー3
★内容
運命の9日。僕は自分で指定した喫茶店に入りました。店内はま
ばらに客が座っているだけです。それらしい人がいるかどうか。す
ぐに捜しました。
女性。学生というのだから比較的若いはず。ああいうアプローチ
の仕方をしてくるので粘着かつ激情的な女性、思いつめやすいタイ
プ。僕は勝手にイメージを描いていました。
★胸がきゅうううううううううううううううう★
この日。僕は約束の店にやってくる途中の天神の横断歩道で、い
ぜん会社にアルバイトに来ていた女の子とばったり会って、おたが
い
『あああー ひさしぶりですー』
『げんきやった〜?』
と声をかけあったのでした。20歳になったばかりのこの娘から、
視線を浴びてしまうと、ほとんどヒヒジジイになったような気持ち
になってうっとりとしてしまい、その後一転して初恋に陥った小学
生のガキみたいに、なんちゅうか、胸がきゅうううううううううう
ううううううううううううううううううっと、きゅううううううう
ううううううっと、するんですよね。
半年前に、帰宅する地下鉄の中でばったり出会いお茶して以来、
そしてまたきょう、ばったりと半年ぶりに出会うなんて、なんちゅ
ーすばらしい一日なんだろう。そう思ったりしたわけです。
ところが、僕は喫茶店で電話女に会わなければならない約束があ
った。しかし、約束があたればこそ、こうして胸がきゅううううう
ううううううううっとなっているわけですし、ああーせっかくまた
会ったのに約束が〜。まるで関脇琴錦のような、さもしいふたまた
男の心境になっていたのですが、やはりここは。決断をつけないと
いけません。
『きょうは、用事があるとよー。またいつかばったり会ったら、
お茶飲みに行こうねー』
空虚な約束を投げかけて、約束の喫茶店に急いだ。そんな伏線が
あったのです。
★20分過ぎても現れず★
きょうは、何かよかことがある気がするばい。胸もきゅうううう
ううううううっとしたしな。うん、きっとええことがある。自分の
確信ほどあてにならないものはこれまでからして分かっていたはず
ですが、思わず期待してしていたのです。
約束の時刻になりました。それらしい女性は見かけません。店内
にはけっこう客が来ていましたが、女性客は4人連れの年配の主婦
とおもわれる一団だけです。あとは残らず男です。
定刻5分過ぎ。やってきません。10分過ぎ。サラリーマン風の
2人連れが来ただけです。15分過ぎ。友人Wがやってきました。
目線を合わせただけで、比較的近くの席に座ります。17分過ぎ。
僕は店の時計をみつめました。
(以下次回)
#2809/3137 空中分解2
★タイトル (RJM ) 93/ 2/ 4 20:31 ( 88)
『しっちゃん その8』 スティール
★内容
こんにちは、しっちゃんですs きのう、うちのネコのジョバンニが、死にま
した。とっても悲しかったです。
何週間も前から、からだのぐあいが、とても悪くて、一週間ほど、入院してい
ました。しっちゃんは毎日なんとなく、さびしいし、(ジョバンニ、大丈夫かな、
死んだりしないかな)と、心配でした。ジョバンニも、一週間も、入院していた
ので、きっと、さびしかったと、いうものでしょう。
お母さんやお姉ちゃんたちといっしょに、しっちゃんも、二回ほど、ジョバン
ニのおみまいに行ってあげました。
一回目に、おみまいに行ったときには、しっちゃんたち一行をみると、ジョバ
ンニは、しっぽを、いっぱい、ふって、喜んでいました。(てつのオリの中に入
れられて、よっぽど、さびしかったんだなぁ)と、しっちゃんはおもいました。
でも、そのときは、しっちゃんたちは、ジョバンニをつれて、帰ることが、でき
ませんでした。しっちゃんたちが、帰るときに、ジョバンニは、なんども、鳴き
ました。いっしょに、つれて、帰ってあげたかったけれど、ジョバンニは、まだ、
病気が、なおっていなかったので、いっしょに、つれて、帰ることが、できませ
んでした。しっちゃんは、いっしょうけんめい、鳴いている、ジョバンニを見て、
(とっても、かわいそうだな。よっぽど、さびしいんだな)と、おもいました。
二回目に、おみまいに行ったときには、なんと、ジョバンニは退院できました。
しっちゃんは、お姉ちゃんといっしょに、手を取り合って、よろこびました。ジョ
バンニは、おもったよりも元気そうで、しっちゃんは(きっと、もう、なおった
んだ)と、おもいました。みんなで、かわりばんこに、ジョバンニを抱いてから、
ジョバンニを車に乗せて、うちに帰りました。
でも、ジョバンニは、まだ、なおっていませんでした。うちに帰ってきても、
あまり、元気がなく、エサも、ぜんぜん食べません。ジョバンニは、毎日、毎日、
弱っていきました。しっちゃんとお母さんとお姉ちゃんの三人は、いつものよう
に、毎日、うひょうひょしていましたが、でも、心の中では、きちんと、ジョバ
ンニのことを、心配していました。
でも、ジョバンニは退院してから、数週間で、死にました。いまはやっている、
イタめしとかいう、スパゲッティの『イタリアン・トマト』という店で、ばんご
はんを食べて、それから、きっさてんに行って、チョコレート・パフェを食べて、
帰ってきたら、ジョバンニはピアノ・ルームで横に倒れて、死んでいました。
ジョバンニは、横に倒れて、口から、黄色の水を出して、死んでいました。な
ぜだか、わからないけれど、目は、パッチリと、開いていました。まだ、からだ
は、少し、あたたかかったけれど、ジョバンニのからだは、コチンコチンに、固
くなっていました。手も足も首も、全部コチコチでした。あとで、持ち上げたら、
そのままのカチカチの姿勢で、持ち上がりました。いつもなら、そこで、みんな
笑ってしまうんだけど、でも、そのときは、みんな、泣いていました。しっちゃ
んも、ひさしぶりに、めそめそ泣きました。いっぱい、泣きました。すてネコだっ
た、ジョバンニを、しっちゃんが拾ってきてから、まだ、何年もたっていないの
に、死んでしまいました。ネコはもっと、何年も生きているはずなのに、おかし
いなあと、しっちゃんは、おもいました。三人で運んで、しんぶんしをしいた、
しっかりしたダンボールの箱に、入れました。それから、なぜか、押し入れにあっ
た、なんかの草のような花を入れました。ジョバンニの目は、パッチリと開いて
いて、生きているときと、たいして、変わらないみたいでした。
しっちゃんと、お姉ちゃんは、天国のジョバンニに、手紙を書きました。しっ
ちゃんは、ジョバンニが、死んでも、天国で、くじけないようにと、『こんど、
生まれるときは、カッチョいい、しっちゃんの足をかじらない、凶暴じゃない人
間に、生まれるんだぜs ぶいsぶいs』と、ジョバンニが、今度、人間に生ま
れたときの、そうぞう図と、いっしょに書いて、ジョバンニのダンボール箱に入
れました。
お姉ちゃんは、もうちょっと、テレビのドラマで、やっているような、ロマン
チックなことを書いていました。そのわりには、じまんですが、しっちゃんより、
字がヘタでした。『でも、お姉ちゃんは泣いていたから、しっちゃんよりも字が
ヘタだったんじゃない』と、お母さんは、あとで、言いました。しっちゃんは『な
んだぁ、しょうだったのかぁ〜s』と、あとで、なっとくしました。
そのよるは、ねるまえに、ジョバンニのことを、考えました。しっちゃんと、
ジョバンニとの、たのしい、おもいで、は、いっぱいあります。ひるは、よく足
をかじられたけれど、よるは、お母さんとしっちゃんと、ジョバンニと三人で、
よく寝ました。おふとんに、入るまえにも、ジョバンニのからだに、さわってか
ら、ねました。ジョバンニを、ジョバンニの、いちばん、すきだった、ストーブ
のまえに、おいていたので、ジョバンニのからだは、まだ、あったかでした。お
ふとんに入ってから、しっちゃんは、また、泣きました。泣いているうちに、い
つのまにか、ねていました。
その次の日は、日曜日だったので、みんなで、山の下のほうにある、墓場に、
うめに行きました。墓場のまわりの空き地に、穴をほって、うめようと、みんな
でしましたが、うまくいきません。それで、はちうえとかに使う、土を、買いに
行きました。土のふくろの中の土を、ジョバンニが入っているダンボールの箱に、
いっぱい、かけました。ぜんぶ、かけても、まだ、たりなかったので、また、土
を買いに行きました。そうやって、二回目にやっと、土にうめることができまし
た。
『また、おぼんと、おひがん、に、みんなで、こようねs』と、お母さんは言い
ました。しっちゃんは、『うんss』と、言って、大きく、うなづきました。
こうして、ジョバンニをきちんと、うめることが、できました。ジョバンニが、
死んじゃったのは、悲しかったけど、でも、うめると、なんとなく、すがすがし
く、すっきりした気分です。ジョバンニも、こんなに、まちのけしきが、上から、
よく、見える、仲間のお墓もいっぱいある、さびしくない、墓場にうまって、とっ
ても、うれしいと、おもいます。
きのうも、今日も、とってもかなしかったけれど、でも、今日は、ちょっぴり、
ホッとした、すがすがしい、安心した気分です。
ジョバンニは、天国に行ってしまったので、さびしいけれど、しっちゃんは、
天国のジョバンニに負けないように、これからも、おもしろ、おかしく、生きて
いきたいとおもっています。
では、みなさん、今日も、とっても、元気な、しっちゃんでした。
#2810/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/ 5 2:25 ( 81)
☆変な女からの電話☆5 ワクロー3
★内容
人を待つ時間というのは、普段よりも長く感じるものです。
定刻20分過ぎ。友人Wは、しきりにこっちを見て『こないみた
いなー』という表情です。来ないのか。ふざけた野郎だ。あ、女だ
から野郎じゃねえか。ふざけた女だ!
★登場!変な電話女★
とかなんとか、心の中で悪態をつぶやいていると、定刻22分過
ぎ。店に入ってきた人がいました。一人です。手に紙袋を持ってい
ます。分厚い手編のセーターを着ています。セーターの柄が真紅と
濃紺の格子縞です。けっこう目立ちます。服装には頓着しないタイ
プのようです。身長は165センチというところか。
店内を素早く見渡します。どきっとします。見つかったらどうす
ればいいんだ。発見されたようです。一人で座っている男は僕と友
人Wしかいません。僕は目印の茶色の鞄を横に置いていましたので、
それを確かめると迷うことなく僕の席までやってきました。
年齢は。。。20代なのか。おそらく、そうだと思います。どん
な声を出すのか。緊張していたら電話と同じ声と話し方だったので
安心しました。
『****さんですか』
そうです。答えると相手はたたみかけてきました。
『やっぱり違っていました。どうもすみませんでした。で、こう
してお会いしたのも何かの縁だと思うんですが、私、いま学校でち
ょっとした調査をしていまして、協力していただきたいんですがよ
ろしいですか。あ、そんなにお手間はおかけしません。ほんの15
分くらいで済みますから。はい簡単です』
あ、あのな。
『えーと、筆記用具をお持ちですか。なければ今おかしします。
あっと、さっきのことろで芯がおれてしまって。えっと、すみませ
ーん。ボールペンでもなんでもいいんですけど、書くもの貸してく
れませんか』
世話しげなやつでした。僕に話しかけつつ、傍らを通過した店員
さんにもう頼みごとをしている。僕は断固として彼女のしゃべりを
阻止しないといけないと思った。
ね、ちょっと。人違いは、それでいいですが、あなたいっつもこ
んな方法で自分の調査の相手を捜しているわけですか?
『気になります?』
なるに、きまってんだろー。彼女の顔を正面からみた。確信に満
ちた顔をしている。これは、はっきりしている。心に前衛的な宗教
を抱いている人の顔である。今まで街でいくらでも見たことがある
ぞ。なんだ。そうだったのか。手の込んだことをしやがって。
鈴木とか、佐々木とか、高橋とか、田中とか、適当にでかい会社
に電話して適当に呼び出して、網にかかったやつをこうして呼び出
して、アンケートから人生論、人生論から入会勧誘、入会から幹部
への道というばら色の未来がひらけてくるてえ寸法だったのか。
★変な電話女は宗教勧誘女だった★
いったん状況を把握したら、あとは僕が手慣れているので楽なも
のだ。
どの戦法を使って対処するか。主導権は僕にある。しかし怒りに
任せて、逆襲をするには、今の僕にはパワーがない。電話の主に対
して、この数日間こだわりを持って運命的なものを感じていただけ
に、失望があまりに大きくて、怒れないのだ。期待してしまった自
分があほだった。情けない。
(以下次回)
#2811/3137 空中分解2
★タイトル (PPB ) 93/ 2/ 6 1:33 ( 57)
いれずみ 遊 遊遊遊
★内容
層雲峡観光ホテルに大型トラックがついている。ホテルの正面玄関にはふさ
わしくない宅急便のトラックである。後部のハッチから、作業員たちがリレー
で荷降しをしている。大量の荷物はロビーの一画に山積みされていく。あとか
ら到着した観光バスの客たちは、けげんな顔をしてホテルに入っていく。ロビ
ーは喧騒につつまれていた。女子高校生たちとその荷物の大群で埋まっていた。
「横浜華麗短期大学女子高校」の500人の修学旅行である。
食堂も、売店も女子高校生が占拠しはじめた。ホテル中がワーワーキャーキ
ャーという黄色い歓声で埋まってしまった。他の観光客たちは小さくなってい
る。
湯に入る時間になった。
脱衣場の入り口に級長の当番が立ち、10人づつ入湯を許可している。
湯槽の入り口では副級長の副当番が
「11班がはいるから、第7班の10人は、スグ、出てください!」
と、どなっている。
大きな湯槽も、はちきれそうな60人の若い肉体でいっぱいになった。一般
客のおばさんたちは押し出されそうになっている。ワーワーキャーキャーの歓
声とピチピチの肉体の躍動には、おばさんたちは勝てない。
Y子もその中にいた。だが、彼女だけは、かたくなにひざを閉じ、厚いタオ
ルで前を隠している。彼女の内股には「横浜華麗」のいれずみがはいっている
のだ。
あいつにやられたのだ。Y子は17才でもうお嫁にはいけないからだにされ
ていた。あいつがやくざだとは知らなかった。
Y子は希望の高校を受けさせてもらえなかった。カネを積めば入れる「横浜
華麗」に押し込まれたようなものだ。彼女は2年になって荒れはじめた。学校
は休まないから親は知らないが、シンナーも吸った。酒も飲んだ。男を何人も
しった。男たちからカネをもらうようになった。あいつは、誰よりも多額のカ
ネをくれた。
転落に時間はかからなかった。あっという間だった。いつの間にか、Y子は
あいつのものになっていた。Y子にいれずみがはいった。あいつは、それを仲
間たちに吹聴し、誇示してまわった。逆になった。あいつはY子にカネをせび
るようになった。次第に大きなカネになった。家からはもう持ち出せない。あ
いつから逃げ出そうとして、Y子は何度もヤキをいれられた。もう学校どころ
ではなかった。
何度もそれらしい理由でカネを持ち出しているのに、学校には行っていない
ことが親にばれた。Y子は窮地にたった。あいつはそんなことにはおかまいな
しにカネをむしり取っていく。彼女は死のうと思った。誰にも相談できなかっ
た。
あいつの舎弟のK男がなぐさめてくれた。K男も落ちこぼれである。
「Yちゃん、俺がなんとかするよっ、修学旅行ならおおっぴらに兄貴から離れ
られるじゃあないか、行ってきなよっ、その間に俺がなんとかするから……」
ひょろひょろのK男のことばにY子はしたがった。まだ、退学にはなってい
ないのだ。いっときでも、あいつから逃げられる。あとのことは考えずに……
湯の中で、彼女はそっと股間のいれずみをさわってみた。
横浜では、K男があいつらの袋叩きにあっていた。
Yちゃんのいれずみが消えるといいな………と願いながらK男は死んだ。
1993−02−06 遊 遊遊遊(名古屋)
#2812/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/ 6 2:58 (144)
☆変な女からの電話☆6 ワクロー3
★内容
★変な電話女は宗教勧誘女だった★
アンケートだけなら、お答えします。ただし住所と連絡先を記載
するのが絶対に必要なら、最初からお断りします。
『じゃ、アンケートだけでいいです』
では。応じることにした。用紙をちら、とみると質問は7つあっ
た。宗教勧誘に関する部分は最後の質問と相場が決まっている。
『仕事や家庭生活で悩みはありますか』
あります。悩むことばかりですね。
彼女の目が輝いた。
『日常生活は充実していますか』
充実しています。充実しすぎてくたくたです。
彼女の目が失望した。
『独身の場合にお聞きします(勝手に判断して質問した)。あな
たにとって理想の異性とはどんな人ですか』
一言じゃ、無理ですよ。
『一言でなくても構いません』
★人の意見をしっかりきけよ〜★
こいつ、アンケートをしているわりには、メモの取り方がいい加
減。どのみち相手は宗教勧誘に持って行くのが目的なのでアンケー
トはどうでもいいことは分かるけど、露骨すぎるぞ。僕のご意見を
なんだと思っているのか。
理想ですか。本当のことを言っていいんですか。
『はい』
人には言わないでくださいよ。
『はい』
リプトン紅茶のTV-CMに出ている女優の鈴木京香さん。ああ
いう人がいいですねー。見栄えがするし。あ、ほら去年やってて視
聴率があがらなかった朝の連ドラの、ほら『君の名は』で真知子さ
ん役やってた女優ですよ。
そしてですね。外見は鈴木京香で、性格が良くて、あと、僕を殿
様みたいに大事にしてくれる人。いつも尊敬してくれて、どんなだ
ぼらふいても、ニコニコしててくれるひとがいいですね。できれば
50になってもふけないで、どこにつれていっても『あげなよかお
なごば奥さんにしてうらやましかー』とか、言われたいですね。家
事なんかももう完璧にこなしてくれて、靴下も履かしてくれて、お
風呂にも入れてくれて、えーと
あ、表情が変わらないので恐い。怒ったのだろうか。
★勝手に期待するのが悪いよ★
『この世の中に科学では割り切れないものがあると思いますか』
思います。
彼女の目に希望が宿った。
『奇跡を信じますか』
信じます。
彼女の表情がゆるんだ。
『信仰に関心がありますか』
ついに来たな。アリマス。
彼女の目が、かつてないほどに輝いた。
『いままで質問した内容について研究しているサークルがあるの
ですが、興味がありますか』
いいえ。
彼女の目が なぜ、と聞いていた。
ありません。
『信仰に関心があるのでしょう?』
彼女は助け船を出してきた。
あります。
じゃあ、なぜ。出会いを断ち切ろうとするの。彼女の目がそうい
っていた。仕方無いので本当のことを説明した。
信仰には関心がありますが、あなたの信じている宗教ではなく、
真宗に関心があります。それ以外の宗教には、関心がありません。
そういう意味です。うちは真宗のお寺の檀家ですから。
★彼女との決別★
すべては、終わった。彼女は最初の約束に反して、僕の本名と住
所、電話番号のいずれかを書くように、執拗に迫ったが最初の約束
通り拒否した。
会社にでたらめな電話を入れて、出てきた相手を呼び出して宗教
を勧誘するという、手口があまりに巧妙で人を馬鹿にした、この女
性のやり口は感心できなかった。ひどい。休日の一日、どんなに楽
しみにこの時間を待っていたことか。楽しみな時間を想像した自分
が惨めだった。
行きづりの男に遊ばれて、あわれにその面影を追う、不器用で不
細工でも執念ある女性がここに来ると僕は信じていたのに。
すべてが終わり、僕は一方的に席を立った。
『行こうぜ』
友人Wに声をかけて店を後にした。本来なら支払う必要もないの
だが、宗教勧誘無差別電話女の注文した果汁100パーセント葡萄
ジュースに免じて、その代金も合わせてレジで支払った。なぜなら、
そのジュースは、僕も大好きなジュースだったからです。
僕は急に無口になり、友人Wも、僕の失望が分かるのか無言で隣
を歩いた。そうして僕は、イムズの地下への入口のところで、Wと
別れて一人で家路についたのでした。
(以上完結)
#2813/3137 空中分解2
★タイトル (STA ) 93/ 2/ 7 0:44 (155)
『荻窪で1.3kgのカレーに惨敗した』 とてちてた
★内容
とてちてた実話シリーズ【1】 『荻窪で1.3kgのカレーに惨敗した』
とてちてた
その日、カレーなど食べる気は全然無かったのだが、
匿名希望のH君と、あるてんぷら屋の洗い場のバイトの面接で、
荻窪までやってきたのだが、無惨にも断られてしまい
余りにも納得がいかなっかたので、とりあえずぶらぶらと放浪の旅に
でたのだが、さすが荻窪。始めてきたせいか、何もないのである。とりあえず
少し腹が減っていたので、タコ焼きが一箱10個入で200円だったので、
1箱ずつ買ってどっかで食う事にした。
「おじさん。タコ焼き1箱。」「はい2箱ねー。毎度ー。」
ん? なんだなんだ!? あっけにとられてしまった。俺は確かに「1箱」
と言ったのに「2箱」なのである。
H君はすぐに気づいたらしく、注文をしなかった。
「ねぇねぇ、俺は確かに1箱っていたよね。」
「うんうん。あーやって有無を言わさず、倍売ってるんじゃないの。」
あーこわいこわい。これがタコ焼きだからいいものの、これが
「味噌煮込み定食ご飯大盛りねー。あ、ビールもね。」
だったらどうするのであろうか。果ては、
「おやじさん! テンプラそば定食に、コロッケと肉入れた奴一人前ねー。」
「はい毎度!23人前ねー。」なんて事になったらどうすればいいのだろうか。
バルタン星人になって、分身して全部食べなくてはいけないのだろうか。
でも、そんなことはできない。嗚呼。どうすれば…どうすれば…。
*****
まあいいや。タコ焼きは買った。そーしたら、やっぱりドリンクは必需品。
僕は、午後ティーミルクティー。H君は、デカビタC。
デカビタCといったらあのサッカー選手がCMの最後に「ばぼらー」ってさ
けんでるやつである。あの「ばぼらー」と聞こえる言葉はいったい何といって
いるのであろうか。「ばぼらー」なのか「だばだー」なのか、はたまた「びび
でばびでぶー」なのか。それとも…、やめよう。キリがない。
そんな事はどうだっていいのである。とにかくそのタコ焼きを食う場所を探
し歩いていると、その商店街通りの名前が「教会通り」だったので、
「これは、教会でタコ焼きを食うしかない!」
と、H君が言った。別に反対する理由はないので、
とにかくその通りを歩いて行けば教会に着くだろうから、
ひたすら歩いたのである
ところが何という事であろうか、いつのまにか「教会通り」は、
ぱったりと無くなってしまったのである。どこにもない。
辺りを見回しても民家民家民家。教会などどこにもないのである。
途方に暮れて歩いていると、神の救いか、
公園があったのでそこで食う事にした。
この公園には、主がいるらしい。あ、別に危ない人がいるわけじゃない。
この公園に犬を連れ込んだり野球をしたりすると、
馬場さんがおこるよおこるよーと看板に書いてあるのだ。
どうやら飯は食ってもいいらしいので、ブランコで食う事にした。
さあ食い終わった。え? 味? 感想?
グルメ本じゃないのだ。そんなことはいい。
*****
さて、駅の方へ歩く事にした。その途中で何とまぁ。
私の入りたい会社の1つでもある「東亜プラン」があるではないですか。
もう、感謝感激無病息災天下太平色即是空って感じである。
東亜プランが、自社ビルを持っていると言うのは聞いていたが、まさか1階
がスーパーになっているとは思わなかった。ちょっとスーパーの看板が、
木などで死角ゾーンになっていたので、
「ん? スーパー ダイヤ?」
「いや、スーパー ダイキ?」
「あぁ、スーパー ダイキチ!」
と、H君は、2回も間違っていたので、めちゃめちゃくやしがっていたのだが、
僕はそのとき感動の嵐だったのでほとんど気に止めていなかった。
感動の余り近づいて、中には「伊東園」の自販機がある事を確認し、おもわず
「あぁ。このごみ箱は、社員の人が…」と言いながら、
ごみ箱に触って、また新たな感動でいっぱいになってしまったのである。
*****
さて、前置きが長くなってしまった。
問題のカレー屋である。店の名を言っておこう。
「カレーならココ一番や! カレーハウスCoCo壱番屋」
とても恥ずかしい名前である。はじめ、ここを通りかかったときに目につい
たのが「納豆カレー ¥550」である。
「おおっ。何と気持ち悪そうでマズそうなのだろうか。」
こういった物は、食べないでまずいなんて言ってはいけないのだが、
これだけは別だ。何てったって、辛くて茶色い物が粘つくのである。
おまけに玉ねぎや、ニンジンなどが一緒にネバネバと…うおぉぉぅ!!。
やめておこう。気持ち悪い。
「あっ。この下にある、挑戦者求むってなんだ。」
「このカレーを全部食えば、タダだって。」
「おおーっ!!」
やるしかない。
いや、やらなくてはならない。これは天からの使命なのだ。
こういった大喰い物のコツを聞いた事がある。
人間は、満腹感を味わうまでにとても時間がかかるそうなのだ。
だからゆっくり食べてると少ししか食べていなくても
満腹になってしまうそうである。だから急いで食べた方が良いそうなのである。
さて、注文である。
「この、1300g。お願いします。」
冷静に言った。
「1300g挑戦しまーす。」
大声で叫ぶのである。周りの客がみんな見ている。あー、みないでみないで。
H君は、ビーフカレーを注文していた。
「それではルールを説明します。」
うすら笑いを浮かべながら、店員が説明し始めた。
「20分以内に全部食べてください、途中で席を立ったり、一粒でも残したら
失格となります。ルーは、いくらでもおかわりができますので、お声をかけて
ください。」
説明が終わると、うすら笑いの店員は去っていった。
「本当に全部食えるの?」
と、H君がいった。
「大丈夫。絶対食べれる。」
*****
とか何とかいっているうちに、問題のカレーがやってきた。
すごいすごい。ご飯が山脈のように高く盛ってある。
中森明菜もびっくりである。
はたして本当に食えるのだろうか。いや食わなかったら1400円も払わな
くてはいけないのである。でも、1300gもある。
ピンとこないかもしれないが普通のカレーは300gで、
大盛りでも400gである。つまり、普通盛り3杯分と
大盛り1杯分のカレーなのだ。ちなみにこの量はご飯の量の事である。
「それでは、スタートです。」
うすら笑いの店員は、タイマーをそばに置いて去っていった。
おーおー。食える食える。とりあえず順調に半分ぐらいまで進んだ。
時計を見る。
「よーし。まだ6分しか経っていない。このペースでいけば15分以内
で食える!。」
「すごいすごい!」
そこで僕は、確信したのであった。絶対食える!。
4分の3ほど食べた頃であろうか。男(私) の体に異変が現れた。
その男(私)にとんでもないほど急激に、
満腹感が襲ってきたのであった。何という事か、
あと一杯分ぐらい残っているのだ。男に許された時間は10分である。
なんとかなるだろうか。ひとすじの冷汗が男の額に流れる。
9.8.7...4.3分前になった。
残すところ、スプーン4杯分ぐらいであろうか。だが、もうその男は、
この19年半の人生で最高値に達するほどの
胃の負担を味わってしまっているのである。
「そんぐらい食っちまえよ。あとちょっとだ」
H君が言った。まさに人ごとである。
そのとき思ったのである。
ああ、あのときタコ焼きさえ食わなければ...。
ピピピピピピピピピ...
無情にもタイマーが鳴り響いた。
時間切れである。
「ハイ、 残念でした。」
うすら笑いの店員はそー言ってタイマーと引換に
1400円と書かれた伝票を置いてったのであった。
「あーくやしー!」
「もーちょっとだったのにね。」
その日、家に帰ってからもゲップがカレー風味していて気持ち悪かった。
でも、いずれ絶対に再挑戦するのだ。その時、また書こうとおもう。
とてちてた
#2814/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 93/ 2/ 7 6: 0 (160)
児童読物「みじかなものではあるけれど」(1) 浮雲
★内容
*
「じゃあ、あしたまで考えてくるように。いいわね。できたら、からだのことと
か、食べ物のことなど、みじかなもので暮しの中や社会に役立つものについての
くふう、発明、発見などにしたらどうかな」
5年3組の担任のキューリー夫人が、みんなの顔を撫で廻した。
「ちえっ」
ゴジは、小さく舌を打った。考えることが苦手というより、大嫌いだった。第
一、暮しの中で、という意味が分からない。
スルメは、きょうどうしても見たいテレビ番組があったので、キューリー夫人
の気まぐれにどんなに腹が立ったことか。
イヤンは、ただただゴジとスルメが頼りであった。
学校からの帰り道、とうぜんにも、宿題のことが話の中心になった。
「おれ、考えつかないよ、なんも」
ゴジが、道端の石ころを思いっきりけとばした。
「ぼくだって、そうだがね」
スルメが、いつものネチッとした調子で口をひんまげた。
「こ、こまるべした。したこと言われたら」
イヤンが、あわてて口をはさんだ。
「なに甘ったれてんだよ。自分のことは自分でしろよ」
ゴジが、偉そうに言った。
「ちょ、それにしても頭にくんな。おれ、へのことでも考えてやろうかな」
「へ?」
スルメが、顔をしかめた。
「おならだよ」
「へえ」
イヤンである。
「ああ、あ。言うと思ったよ」
「いいから、続き」
「ああ、兄ちゃんがさ、いつだったか、へはガスだからうまくすればエネルギー
になるって言ってたんだ。からだに関係あるし、みじかな話だろ」
「うーん。でも、へがガスってはなしはどうかな。たしかにくさいけど、へのガ
ス中毒って聞いたことないがね」
「それはあれだよ。量が少ないからさ。ちっちゃな部屋かなんかで、大勢でへを
したら、死ぬかもしんないぞ」
ゴジは、ついむきになってしまう。
「うん、賛成。たしかめてみたらいいべした」
イヤンは、本気である。話のはずみ、っていうものが分からないからこまる。
「いつ、どこで、だれが、地球が何回まわったとき」
ゴジがイヤンをにらみつけた。
「し、したから、いまから、ゴジんちで、三人して」
「なんで、おれんちなんだよ。そんなにやりたきゃ、イヤンのとこでやれば」
ゴジは、すっかりむくれている。
「イヤンのとこなら、だれもいないしね」
スルメまでそんなことをいう。たしかに、イヤンの両親は共稼ぎだし、姉さん
もブラバンの部活で帰りが遅い。
「わ、わかったよ。おれんちでいいよ。したども、いいだしっぺはゴジなのにな」
イヤンは、ぐずぐず言いながらも、その口元はだらしなくゆるんでいた。
「いいから、いいから」
ゴジの調子よさといったらない。
*
「まず、元をこさえなくちゃ」
イヤンの家に着くなり、ゴジが目を細めた。
「なんだべした、それ」
イヤンが、まのびした顔をいっそう長くした。
「だから、ばかすかへが出るように、食べるんだよ、いろんなものを。なあ、ス
ルメ」
「あ、ううん」
ゴジはすまして言ったが、笑いそうになるのをこらえているのは、鼻がひくつ
いているのを見てもわかる。
「スルメよ、何がいいと思う」
「そうだね、やっぱり繊維食物かな」
「なんだい、それ。たかがへだぜ」
難しいはなしが嫌でへのことを言い出したというのに、いやんなるなあもう、
ゴジの顔はそう言っていた。
「たとえば、ゴボウとかサツマイモとか、それから・・・」
「へへへ、おれ、知ってるよ」
イヤンがニタつきながら口をはさんだ。
「あのさ、ビタミンブーってんだろ」
そして、きひひひひ、と笑った。
「ああっ」
ゴジとスルメも、あいそ笑いをするつもりが、頬がひきつっただけであった。
「で」
ゴジがあごをしゃくった。
「ぼくも、それぐらいしか分からないよ」
「ふーん。繊維食物ねえ」
ゴジは、大きなため息をついてみせた。イヤンが、心配そうにゴジとスルメの
顔を見比べている。
「チョコレートとかポテトチップはどうだ。ぽてとなんか同じイモの仲間だろ」
ゴジが、ごしごし頭をかいた。
「うん。ポテトチップはいいかも」
すかさず、スルメが答えた。
「イヤン、ポテト、あるかな」
ゴジの声は、どこかよそ行きである。
「し、したら探してみる。サツマイモもか」
「イモはいらねえよ」
「うん」
イヤンが部屋を出ていくと、ゴジとスルメは、どちらからともなく顔を見合わ
せた。
「ぷふっ。スルメよ。チョコレートも、への原料にばっちりだということにしよ
うぜ」
「いいよ。ジュースやくだものもね」
スルメは、ねちっとした目を細めた。
それにしても、氏より育ち、というが、まったくである。もっとも、ゴジとス
ルメの場合は、研究熱心のあまり本性を見失ってしまった、ということかも知れ
ないが。いえ、ホント。
*
「これしかないけど」
イヤンは、ポテトチップ2袋と、かっぱえびせん1袋、ポッキー1箱、そして
あれほどいらないと言ったのにサツマイモを持ってきた。
「へえ、」
ゴジとスルメは、思わず声を上げた。イヤンにしては、ずいぶん気が利くでは
ないか。もっとも、ゴジとスルメは、イヤンがただいやしいだけだとしか考えな
かったが。
「イヤンよ、わがままいって悪いんだけどさ、これ、なに」
ゴジは、生のサツマイモを指さした。
「姉ちゃんが、このあいだ石焼きイモを買ったとき、生だったみたいよあれ、だ
っておならが出てしょうがないもの、とかそんなこと言ってたはんで」
「だから」
「生で食ったら、もっとききめがあっぺかと思って」
「りくつはそうかも知れないけど、生では食えないがね」
さすがに、スルメは頭からやりこめるようなことは言わない。
「じゃあ、あれだ。イヤンがサツマイモを食えば。生の効果もたしかめられるし
さ。一石二鳥つうわけだ」
ゴジが、親切心や研究心からそう言っているのかどうかは、だいぶあやしい。
「じゃ、さっそく」
ゴジは、もうポテトの袋に手をのばしている。スルメも、まけてはいない。ひ
とりイヤンだけが、さて、どうしたものかと、思案顔で生のサツマイモをながめ
ている。
「いいから、イヤンもポテト食えよ」
さすがに気が引けたのか、ゴジがポテトの袋を回してよこした。
「そんでさ、場所はどこにするつもりだよ」
「ここは、ちょっと広すぎるな」
スルメはぐるりと首をめぐらした。
「イヤンよ、どっかいい場所ないのか」
「あ、うん」
イヤンは、ポテトを食べながら、まだサツマイモに気をとられている。皮を剥
いたら食べられるかも知れない、そんなことを考えているのに違いない。
「やっぱり、あそこしかないか」
ゴジには考えがあるらしい。こんなことになると、頭が働く。
「あそこって」
「だからさ、試験なしで私立中合格ってやつだよ」
「なに、それ」
さすがのスルメも、ピンとこない。
「推薦だよ」
「えっ。あ、そうか。わかったよ。でも、ぼくはいやだよ、あそこだけは」
「な、なんだよ。おれさも教えろよ」
イヤンは、ようやくサツマイモから目を離した。
「いいよ、わかんなくても」
ゴジは、いやに冷たい。
「たのむから、教えてけろ」
イヤンは、スルメの方を見やった。それを見て、ゴジがすかさず言った。
「なあ、チョコあるか」
うまい。絶妙のタイミングである。
「あ、あるけど」
そういうと、イヤンはすっと立って、部屋を出て行った。だれも持ってこいと
も言わないのに。
「やっぱり、トイレはいやだよ」
イヤンがいなくなると、スルメが口をとんがらかした。
「なにいってんだい。あそこが一番だよ、実験には」
「それは分かるけど、三人一緒に入るなんてさ」
スルメは、おおいやだとばかりにからだを震わせた。無理もない。
「これだけ食っておいて、いまさらそれはないだろ。イヤンのことを考えてやれ
よ」
それは、スルメの言いたいセリフだった。ゴジの持っているポテトチップの袋
は、ほとんどからっぽであった。
− つづく −
2/6
#2815/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 93/ 2/ 7 6: 1 ( 91)
児童読物「みじかなものではあるけれど」(2) 浮雲
★内容
*
「ほら、チョコ」
「お、サンキュ」
ゴジは、言うが早いか、チョコを開けにかかった。
「ねえ、まだ食べる気なの」
スルメが、あきれた、というようにタメ息をついた。
「とうぜんだろ。でっかいやつをかますには、無理しなきゃ」
何が、無理なもんか。スルメは口をひんまげた。
「ほら、みんなも食えよ」
ゴジは、どこまでも調子がいい。
「なあ、なあってば、さっきのこと教えるやくそくだべ」
イヤンが、甘えるように言った。
「なに、それ」
ゴジは、ポツキーの箱を開けにかかっている。
「したから、私立中学のはなしだべした」
「ああ、あれ」
スルメが、チョコの箱についていたベルマークを引きちぎりながら、うなずい
た。
「推薦入学、つまり水洗トイレということだよ」
「水洗トイレがどうしたの」
イヤンは、まだピンとこないらしい。でも、あとでわかることだが、仕方のな
いことだった。
それから一時間もたったろうか、三人がトイレに入りこんだのは。
「あっ、ああ」
トイレのドアを開けたとたん、スルメが大声をあげた。それは、悲鳴といった
方がよかった。
「やだよ、ぼく。だから反対だって言ったのに、もう」
スルメの顔は、ほとんど泣きそうであった。
「おお、こりゃあ、やばいわ」
さすがのゴジも顔を曇らせた。
「なにが」
イヤンは落ち着いたものだ。
「お、おまえんち、まだボットンだったのか」
ゴジが、なんとも言えない顔をして、イヤンと便器をかわるがわる見くらべた。
「おい、だれかもう<へ>こいたか。いやにくせえぞ」
「いやだよ、もう」
スルメの気持ちは、痛いほど分かるというものだ。小学生が三人一緒に、用も
ないのにボットン便所の中に入りこんでいるのが、まず普通じゃない。いや、用
はあるのだ。もちろんそっちの方じゃないが。
「早く終わらせて出ようがね」
スルメは、鳴き声だ。
「そんなこといったって、急には出ないさ。もう」
ゴジも、たまらなくなってきたらしい。
「おい、イヤンどうした」
イヤンの顔色が悪いのに気がついて、ゴジが声をかけた。
「腹の調子が」
「おかしいのか」
「うん」
「なんかへんなもの食ったんだろ」
「さっき、サツマイモを」
「なにっ」
ゴジが、目をむいた。
「まさか、生のやつを食ったんじゃ」
スルメが、信じられない、というように肩をすくめた。
「ああ、チョコをとりにいったとき、ちょっと」
「けっ」
しょうがないなあ、ゴジとスルメは、あきれるばかりであった。
「あちちっ」
とつぜんだった。イヤンが声を上げてお尻を突き出したかと思ったら、続いて
、
「ブッ、ブリブリ・・・」
という、腹に響く音が便所震わした。
「わあっ」
ゴジとスルメが同時に叫び声を上げた。
「く、くせえ」
ゴジとスルメが先を争って便所から出ようとした、それがいけなかった。
「あっ」
スルメが、足をとられてバランスを失うと、便器のふたに片足をのっけてしま
った。そして、まるで神の教示でもあったかのように、イヤンの足は、便器のふ
たを押しのけ、するりと中に入り込んでしまったのであった。
「ひっ、」
スルメが必死でゴジにしがみついたからたまらない。勢いあまってひっくり返
ったゴジは、便器に頭をぶつけると、そのまま、うーんとくぐもった声をあげ気
絶してしまった。
さあ、大変。スルメが、いっそうわめきたてながら、ばたばたやるものだから
、ボットン便所につっこんだ片足が゛中味゛をかき混ぜる結果になり、臭いのな
んのって、言語道断とはこのことか。
イヤンは、なんとかスルメをひっぱり上げようとしたが、せまいうえに、ゴジ
がじゃまになって、なかなかうまくいかない。
わめき散らすスルメ、パンツを汚したのも忘れてあせるイヤン、便器に頭を打
ってのびているゴジ、そして、スルメの足でかきまわされて眠りをさました排せ
つ物たち・・・。
*
筆者の住むH市は、人口25万人の中都市であるが、下水道の普及率は、わず
かに20%足らずであるとか。
− おわり −
2/6
#2816/3137 空中分解2
★タイトル (WJM ) 93/ 2/ 7 14:20 ( 83)
教室には春の日差しが柔らかに κει☆彡
★内容
コツコツと黒板を打つチョークの音。先生の低い声は廊下に響く。
字はお世辞にも綺麗とは言えない。
崩れた字を見にくそうに生徒達が必死でノートに写す。
板書の量が多い先生だった。
今日は朝から天気が良くて春の日差しは柔らかに木の机に落ちて
いる。
僕は窓際だったからその日差しを黒い制服によく受ける。
ポカポカとした暖かさが体だけではなく心にまで染み渡るような
気がしていた。光を受けるのは一部なのに熱は全身をくまなく走
りめぐる。
長い冬を思い出せば春の日差しが一層心地よく感じられた。
空がうっとりするほど澄んでいて、僕はそれだけで何かしらいい
事が起こりそうな静かに胸踊る期待を感じていた。
光は僕の回りを楽しげに舞っていて、包み込むその感じは軽い綿
のようだった。
時折先生の声が止むと教室は暖かい静けさに包まれて春の香りが
耳にはいるだけ。
そういうのに埋もれてながら僕は君を眺めていた。
同じクラスだと知ったとき目を閉じて希望に満ちた今年を想像し
た。
その興奮はベッドの中で更に強まり、楽しげに話す僕らを考える
だけでなかなか寝つけないほどだった。
朝、部屋の窓から見える嬉しげに咲き始める色とりどりの花さえ
も太陽にあざやかに映し出されていて満足そうだった。
君の授業態度は驚くほど真剣で、真顔の眼差しを先生に向ける。
おおらかに流れる片雲と君ばかりみている僕とは大違いだね。
君の後ろ姿は一見同じようだが、見慣れた僕には一秒前の姿とは
まるきり違って見える。
想像が一人歩きしたりする時もあってどれだけ見つめても見飽き
る事はなかった。
肩までの髪がとても綺麗で近くに来たとき思わず手が延びそうに
なる。
理性がそれをとめるんだけど、たまに危ないときもあって、どう
せ君は笑って許してくれるだろうからと思ったりもする。
結局まだ一度も会話をした事がないのは、君が不思議な波長を漂
わせているんで近くにいるだけで僕の胸が踊りすぎて言葉が出な
いため。
僕が友達と話しているときも君が近づいただけで、友達の会話は
うわの空でしか聞けない。
話しのネタはいろいろと考えているんだけど、なかなかうまくい
かない現状がもどかしい。
窓をなにげ無しに開けると心地よい風が吹いて僕のノートを一枚
めくる。
顔が出るぐらい開けられた窓から入り込む風は、自由な空気を十
分に含んでいる。
青空に浮かぶ片雲にのってどこか見知らぬ外国へいきたい。
隣に君がいればそれだけで何年でも幸せで平安な日々が続くと思
う。
ライバルは当然多くて、僕は競争しなくてはいけないようだ。
宿題を見せてと近寄るお調子者に君がノートを貸すときや、君の
前の席である山田が振り返って冗談を言い君を笑わせているのを
見たときなんか、僕に言い切れない焦りと不安が襲い、何もでき
ない自分に腹が立ちさえする。
でもたまに君も僕をみているような気がする。
ふと君に目を移すと君は慌てたように目をそらしたりしない?
君の微笑みはとても上品で、いつもミストがかかっている。
それは胸が強く締め付けられるほど可愛い。
その雰囲気はしばらく僕の心に余韻を残す。
向けられる相手が僕ならば僕はそれだけでどれほど一日が弾む事
だろう。
一緒に並ぶ僕らを想像するのは楽しく、それはいつまでも絶える
事を知らない。
最近特に楽しみにしているのが夢で、夢の中で君は僕に都合のい
い事ばかり口にする。
入学したときから僕の事を好きだったなんていくら何でも都合が
良すぎるよね。
その時先生が僕の名前を呼んだ。
慌てて口にしたのはチンプンカンプンな答えでクラスが笑った。
そして君も僕の方を振り向いた。
Keiichiro☆彡
#2817/3137 空中分解2
★タイトル (TEM ) 93/ 2/ 7 15:39 ( 41)
お題>指輪を飲み込んだヤモリの憂欝 うちだ
★内容
「ねえねえ、屋森くん。『部屋とYシャツと私』の歌詞でさぁ、女の人が死ぬ
間際に、男の人に「俺も死ぬ」と言ってねってゆうトコあるでしょ?
あれって“嘘でもいいから俺も死ぬと言ってね”って意味か、“本気で俺も死
ぬと言ってよね!?”って意味かどっちで歌ってると思う?」
「・・・・いいから歌えって。美知子の番だ」
:
:
:
「なあ美知子、さっきの質問の答えは?」
「は?」
「・・・・・・・さっき『部屋とYシャツと私』歌う前に俺にきいただろ」
「それがどうかした?」
「あれってどっちが答え?」
「・・・・それは私が屋森くんに質問したんでしょ」
「いや〜。やっぱ、そういうことは女のほうが分かるんじゃないの?」
「屋森くん、知りたい? だったらねぇ」
「だったら?」
たしかこれは忘年会の二次会で俺と美知子とほか数人でカラオケへ行ったとき
のことだ。「だったら」のあと、美知子は笑って答えなかった。別に答えが知
りたいからってプロポーズしたわけじゃないぜ(高砂殿のCMじゃないんだか
らさ)。俺のほうはそのとき美知子と結婚まで考えてなかったんだ。
でも俺は結局、美知子と結婚することになった。彼女の腹の2カ月目になる子
供(まあそれが結婚の理由だが・・)と給料3カ月分のエンゲージリングの支
払いを抱えながら、来月にイキナリだ。まあ、案ずるより産むが易しってコト。
人間ってうまく出来たもので飲み込んじゃえばあとは成るようになっていく。
“キャベジン”は胃で効くし、夕飯は便になる。毒飲めば死ぬだろうし、昨日
飲んだ茶は小便や汗になるだろう。もうすぐ俺はパパになり、美知子はママに
なる。生活ってそういうもんさ。じゃあ例えば飲み込んだものが消化できない
ものだったら? 胃袋に残るのか? それとも便に混じってそのまま出てくる
のか? 今考えたって仕方ないことではあるが。・・・・どっちだ?
そういえば、あの質問の答えは未だにどっちだったのか分からない。
でも美知子の場合は俺より長生きするんじゃないだろうか。
おわり
『部屋とYシャツと私』を知らない人も大丈夫かな。
結び方がゴーイン・月並みでごめん。
#2820/3137 空中分解2
★タイトル (LYB ) 93/ 2/ 8 0:49 ( 54)
お題>指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱:鞘野一馬
★内容
〜 指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱 〜
由美子は、その絵の前で立ち止まった。
しばらく見つめては、首を傾げる。
「どうしたんだい? なんだかこの絵が気に入ったようだね」
耕平は、由美子の肩に手を置いた。
「気に入ってるんじゃなくて、気になってるの」
「だろうね」
そう言って耕平は微笑んだ。
小さな個展であった。K・ヤンデルーというアメリカの若手芸術家の作品を
展示している。まだマイナーな絵描きだが、一部の人には妙にウケるというタ
イプだった。
その作品群の中に、妙な絵があった。いやこの人の作品は「水泳するネコの
挫折」とか「全力疾走のコアラの退屈」といったヘンな絵ばかりである。その
中でも由美子の足を止めさせた絵は、本当に妙だった。絵のない絵なのである。
やたら立派な額の中、真っ黒の油絵の具を塗りたくり、ご丁寧にも左官の仕
事のように、コテできちんと表面をならしてある。
真っ黒なだけの絵。その題名は「指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱」だった。
「あたしね、この絵からすごーく深いメッセージみたいなものを感じるのよ。
それでいて、同時に何も意味を持ってないんじゃないかって気がするの」
要するに「なんだかわかんない」と言いたいわけだ。
「これだったらさあ『闇夜のカラス』って題の方が合ってると思うけど」
見たまんまだ。
「僕はこの作品のこと、少し知っているよ」
「ほんと! 教えて」
由美子は、目を輝かせた。この表情を見ると、本当に由美子と付き合ってよ
かったと実感する。
「この絵はね、実はちゃんとした絵を描いてあるんだ。その絵の上を、黒い絵
の具で覆ってある」
「どんな絵が描かれてるのかしら。『指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱』か、興
味あるなあ。耕平さんは知らないの?」
「いろいろな人が本人にきいてみたらしい。でも教えてくれないそうだよ。死
ぬまで誰にも喋らないってさ」
「ええー、つまんない」
口をとがらせる由美子。石があったらぽーん、と蹴っていただろう。
「でも、この絵の意味は教えてくれたんだ。その人」
「え? どうゆうこと、それ」
絵を描いた。すぐに黒く塗りつぶした。その下の絵は、誰にも教えずに墓ま
で持って行くそうだ。
このことにどんな意味があるのか。
「この絵の題名は何だった?」
「何度も言ってるくせに。『指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱』でしょ?」
「そう、隠された下側の絵とかけてあるんだ」
「まだ分からないなあ」
由美子は首をひねる。
「どちらもね。『本人にしか分からない』だってさ」
− おわり −
鞘野一馬(さやのかずま) 〜LYB07051〜
文中の個人名・団体名はフィクションです。念のため。
#2821/3137 空中分解2
★タイトル (RMM ) 93/ 2/ 8 1:11 (130)
遺書 椿 美枝子
★内容
一
父がながらえぬと聞き、初めて家庭を取り繕おうと考えた。それ迄、家庭とい
う概念すら、私には存在しなかった。あるのは、唯、私と母との間柄のみであっ
た。
二
或る作家は養子に出され、生みの母親の発狂に脅かされて育った。或る作家は、
生みの親に構われず乳母や叔母に育てられた。
三
私に父は二人居る。「父」と「お父様」であり、「お父様」は祈りの際に「天
のお父様」と呼ばれるその傍らに居て私の声を聞いているであろう筈の遠い人と
なっていた。
四
夭折するしか、ない。
常にそう思っていた。
五
その作家達は私であり、記憶の無い「お父様」はいつしか彼らの顔をしていた。
私は黒を好む様になった。彼らも遠い人であったから。彼らは私であったから。
六
心から感動した時、思う。何事も成し得ない心持ちの時、思う。ああ、この侭
死なせて下さい。死をねだりながら涙がこぼれ落ちる、想いはこんなに純粋なのに。
七
希死は、心の純粋さ故か。それとも唯、逃避故か。許して下さい、私はこれ以
上傷付きたくないのです。もう、疲れてしまったのです。私に生産は無く、傷付
ける事ばかりで、その事が私自身を傷付けて久しいのです。ですから、どうか、
許して下さい。
八
お母様は私を甘やかせては下さいませんでした。物心付かぬ内にあなたが御許
に召されてから、今の父になる迄の間、お母様は大学で研究をなさっていました。
私はおじい様とおばあ様に育てられました。
夜だけは、疲れて帰っていらっしゃる来るお母様と親しく話す事が出来ました。
安息日だけは、難しい御本を片手のお母様に色々尋ねる事が出来ました。
お母様の居ない普段の娯楽は足し算や引き算、童話の黙読、自然と覚えたアル
ファベット、お母様は私を賢いと誉めて下さいました。けれど、気のせいなのか
も知れませんが、なにやら、お母様は私の事を余り良くよく理解せずに優しくし
て下さっていたような気がしてなりません。ですから、私は、お母様に甘えた記
憶がないのです。いえ、記憶がないだけかもしれません。
九
父が死んだ。
その死の瀬戸際迄、病院の集中治療室で、私は死を予期した顔の父を欺き通し
たし、それは我が家の無言の掟であった。
その為、私は父に謝る事が出来なかった。
その為、私は父に礼を言う事が出来なかった。
これから死ぬ事の怖さを誰にも共有して貰う事が許されず、父は、寂しく怯え
ながら死んで行った。
十
父は私を「金喰い虫」と呼んだ。
けれど「金喰い虫」の存在を許す事が父の唯一の愛情表現であったと気付くの
は余りにも遅すぎた。父はそれ程その言葉を憎しみを込めて呼んでいた。私は喰
えない芸術を志し、父の娘である私の姉二人はそれぞれ父の圧制から逃れる為、
早々に自立を志した。残ったのは、姉達より金のかかる、道半ばの私だけであった。
ある時、これ迄父に使わせた金を全て返す、と心に決めた。全て計算し、気の
遠くなるような返済計画を建てていた。
返せなかった。
十一
父がながらえぬと聞き、初めて家庭を取り繕おうと考えた。けれど、姉達は既
に巣立っていた。父と母と三人で辛うじて取り繕う時間は、奇妙に歪んで不器用
に乾燥していた。微笑みを浮かべたまま自室に戻ると知らずため息が出た。そし
て涙が出た。
十二
希死には二つあると思うの。
社会的な希死と、排他的な希死と。社会的な希死は手段としての死、排他的な
希死は目的としての死、それぞれ希死の理由が違うと思うの。前者は視野が広く、
後者は視野が狭い。不純と、純粋。純粋よ。逃避かどうかは、次元が違う。選ぶ
物が死である時と、死しか見えないのとは違うでしょう。そういう事。病気かど
うか、そうね、それも次元が違うわ。死を考えた後、現実を考えてもいけない。
希死は、その瞬間に於いてのみ、純粋たり得るのよ。死にたいのと死ぬのは違う、
だから誰かに死にたい等と言っては、いけない。目の前の死しか見ずに、黙って
死ぬの。それがきれい。
死にたい、というのは、それは止めて欲しい人の言葉。
十三
恋人が私に話し掛ける。御免ね、僕、死にたいんだ。でも、線路に、飛び込め
なかったんだ。さっき。
私は、振られたと思った。
彼が一時的にでも、私の居るうつせみを捨てたのならば、恋は終わった、と。
もう、おしまいね。さようなら。
そうして私も死にたくなった。
十四
父の前で、死ぬかも知れない等と思わないで、と微笑んで見せた。
恋人の前で、死にたい等と思わないで、と泣いて見せた。
どちらも同じ事だ、偽っている。父は、目前に死を探知していた。恋人は、目
前の死を選ばなかった。
恋人を前に私は、微笑むべきだった。
父を前に私は、泣くべきだった。
十五
誰かが、これを、読んでくれます様に。遺書を書いて、ふと気付いた。もう、
希死は純粋ではない。
十六
希死が、純粋でなくともよい。薄ら汚い現実に鈍感になってもいい。人を傷付
けてもいい。堕落してもいい。罪を犯してもいい。
どうか、許して下さい。
私にはこれしか方法がないのですから。
生きていたいと思えるなら。
十七
本当に
こんなに
かなしい時に
母の差し出す
林檎と柿
食べる事を
望む訳でなく
食べねばならぬと
口へ運ぶだけ
十八
私は美しく演じる事が出来ない。
汚く、何があっても、生きて行く。
198*.
1993.2.7.23:00
終
楽理という仇名 こと 椿 美枝子
#2822/3137 空中分解2
★タイトル (NKG ) 93/ 2/10 0:13 (146)
微笑み世代/スマイル・ジェネレーション(前) らいと・ひる
★内容
昼休みのお食事といったら、購買部のマロンパンとミックスサンドにパックの牛乳。
今日は天気がいいから、中庭の芝生の上で食すのがツウってものなのよね。
いつもの仲良しグループ、ユミ/【三浦有魅】とノンコ/【坂上紀子】とミリィ/
【楢崎美鈴】とわたし/【朝倉杏子】の四人。みんなでわいわい騒ぎながら食べるの
はとても楽しいものだ。
でも、こんな楽しさもあと半年足らず。わたしたちの目の前にはそれぞれの未来が
待っている。このままずっと一緒にいられればいいのにね。
「ノンコの卵焼きって、どうしても真似できないんだよね」
ユミは、隣のノンコの弁当箱から卵焼きを一つ自分の口へと放り込み、その味をか
みしめながら首を傾げる。
そう。ノンコが作る卵焼きは、普通のものとはひと味違う。見た目は変わりないの
だが、その美味しさはわたしたちの真似できるようなものではないようだ。
「そうそう。わたしとかが作るとさ、絶対甘くなっちゃうんだよね」
わたしもノンコの卵焼きを一つちょうだいする。
「砂糖と塩の加減が難しいのよ」
ノンコはそう言って人差し指を口にあてる。真面目に考える時のこの子の癖。
「ノンコって卵焼き一つとってみても、その道を極めてるからね」
わたしは半分ジョークでそう呟く。
「それは確かに言えるかも。ミリィもそう思わない?」
ユミは向かいに座るミリィをこづく。
「……へ?」
ミリィはわたしたちの話など、うわの空って感じで間の抜けた返事をする。
「だめよだめよ。ミリィのオツムの中は憧れの人のことでいっぱいなんだから」
事情をよく知るわたしは、ミリィの顔を見ながらついつい笑ってしまう。
「ああ、例のあの人ね。ミリィも一途だからね」
ユミも事情を知っている為、クスクス笑い出す。
「え?ミリィに好きな人ができたの?ねぇ、どんな人?」
ワンテンポ遅れて、ノンコが口を挟む。
そういや、ノンコは一緒に城高の学園祭行けなかったもんね。
「それはね、ミリィの口から直接聞いたほうがいいかもよ」
わたしは思わず吹き出してしまった。
「そうそう、素敵なお姉さまらしいわ」
ユミもクスクス笑いだす。
「やだぁ、ミリィったらそっちの気があったの?」
ノンコは苦笑いしながら、ミリィを見つめる。
「……綴さん」
ミリィは空を仰ぎながら憧れの人の名を呼ぶ。
「だめだこりゃ。完全に自分の世界にはいちゃってる」
あきれたようにユミがつぶやいた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
8つ離れた姉を呼ぶわたし。
記憶の断片に映るは7才のわたしと15才の姉/晶子。
「どうしたの杏子?」
優しい声で問いかける姉の笑顔はとても心地良かった。隙間だらけのわたしの心
を包みこんでくれるようなそんな感じだった。
「あゆみちゃんたちがいじわるするの」
その頃、近所に住んでいた市川あゆみちゃんは、おとなしい性格だったわたしを
ことあるごとにいじめた。だけど、今考えてみればわたしにも原因はあったようだ。
7才の頃のわたしは、うちべんけいで、他人からみればかなり無愛想な子だった。
親からもかわいくない子だと、半分冗談まじりで言われていたぐらいだ。
「あゆみちゃんが……あゆみちゃんが……」
涙で曇る視界。そこでわたし記憶は途切れた。
目が覚めた時、わたしは布団の中でうっすらと泣いていた。
お姉ちゃんのことを思い出すのは久しぶり。3年前に関西の方に就職してからそち
らへ行ったっきり。仕事の都合なのか、帰ってくるのは正月を過ぎた1月の下旬。
よほど向こうが気に入ってらしく、電話すらたまにしかこない。
しかし、夢に見るなんてどうしたんだろう。
まだ、完全に目覚めない頭でそう考える。
「なんか忘れてる気がする」
わたしは誰もいない部屋でそうこぼした。
「おはよう」
ぽんと肩を叩いてユミが姿を見せる。
「あ、おはよう」
わたしは気の抜けたような返事をする。
「どうしたの?元気ないじゃん」
「そっかなぁ?単に寝起きが悪いだけよ」
「なんか悪い夢でも見たの?」
ユミがわたしの顔を覗きこむ。目鼻だちはキリっとしていて、女の子らしいかっこ
よさを持つ子である。とはいっても、わたしはミリィのような趣味はない。恋愛に関
してはノーマルなはず。
「うーーーーん」
ユミの顔を見ながら考え込む。
「なにうなってるのよん」
ちょっと首を傾げるおちゃめなユミ。
「久しぶりにお姉ちゃんの夢みたんだ」
「それで?」
「泣いちゃったの」
無表情でそうつぶやく。
「そのお姉ちゃんに、いじめられたの?」
「ううん。」
夢の出来事を思い出しながら首を振る。
「じゃあ、なに?」
ユミはじれったそうにわたしを見つめる。
「んーとね……あれ?どういう夢だったっけな?」
記憶の断片に靄がかかって、説明できなくなっていく。
そんなわたしにあきれたのか、ユミはさっさと歩き始める。
「そこで一生悩んでなさい。あたしゃ、遅刻に付き合わされたかないからね」
カツンカツンといい音をたててユミは先を行く。
「ちょっと…待ってよ!ユミ!!」
わたしたちの教室からは高等部の校舎が見える。が、そのままストレートに高等部
へ進学できる生徒は全体の半分にすぎない。成績順に分けたCクラス以上の生徒しか
推薦はとれないのだ。わたしたちのDクラスは、ぎりぎりの線で切り落とされる。
あとは、一般受験で再びチャレンジするしか手はないのだ。
だけど、ユミもノンコもミリィも付属の高等部へと進学するのをあきらめているよ
うで、このまま四人で仲良くいられる時間もあとわずかしかない。
いつまでも一緒にいたいけど、わたしはどうしても付属の高等部へ行きたいのだ。
それはもう、意地を越えた憧れがそこにある為である。
「ねぇ、お昼食べよう」
ノンコが甘ったるい声でわたしに擦り寄ってくる。
「え?あ、うん」
4時限目に配られた模試の結果用紙を見ていたわたしの声はちょっと暗い。わたし
の夢の実現率40%。憧れにはほど遠い。遠すぎてめまいさえ起きそうである。おま
けに食欲はあまりないし、大好物のマロンパンも食べる気になれず購買部へ行く気力
さえない。
「アンコ。最近、元気ないね」
いつもはとろいノンコでも、わたしのことは気にかけてくれる。うれしいんだけど
ね、それに応える元気が今はない。
「ハーイ!お弁当いきませう」
ユミがわたしの背中にのしかかってくる。……う、重い。
「アンコ、食欲ないみたいなの」
ノンコが心配そうにユミに告げる。
「模試の一つや二つ、気にしていてもしょうがないって。たとえ結果が悪くても」
う、グサっときたぞ。
「そうよ。お腹が減ってると、どんどん気分が滅入っちゃうよ」
ノンコもユミに同調して気楽に言う。
「もう、このさいあきらめてみんなで城高いこうよ。あたしたちの学力ならみんな入
れるしさ」
ユミの、そのなにげない一言にわたしはカチンときた。
「そりゃ、このままみんなと離れるのは嫌よ。でもね、わたしは進学したいの。せっ
かく付属の中学に入れて、一般の人より有利なんだから、そのチャンスを無駄にした
くないの。ユミみたいに、気楽に進路変更できるほど、わたしはノーテンキじゃない
のよ!」
わたしは感情の高ぶるまま言葉を吐き出した。後で思えば、この時のわたしがどれ
だけ醜いものだったか。
「ごめん。ちょっと軽はずみな意見だったわね」
ユミは素直に謝る。この子は自分が悪いと思えば正直にそれを訂正する。わたしみ
たいに変に意地になったりしない。とってもいい子なんだけどね。
でも、わたしの感情は治まらりきらず、言葉はどんどんエスカレートしていく。
「謝るくらいなら、そんなこと言わないでよ。わたしだって一時期すごい迷ったんだ
から……迷ったすえの解答なんだから」
机をバンと叩いて立ち上がると、わたしはそのまま教室から出ていった。
泣いてはいなかった。涙なんかこぼれなかった。
ただ、感情の高ぶるまま、それを悪い意味で素直に行動に移すだけだった。
泣けなかった。
自分に悔しくて。
(後)へ
#2823/3137 空中分解2
★タイトル (NKG ) 93/ 2/10 0:16 (198)
微笑み世代/スマイル・ジェネレーション(後) らいと・ひる
★内容
おまえは、かわいくない。
昔、そんなことを言われた記憶がある。
鏡を見ながら、ふと、そんなことを考え始めた。
「かわいくないよね?」
と、自問する。前髪が少しうっとおしい。
右手で前髪をかきあげると、あまり自信のないオデコが見える。
そういや、お姉ちゃんってオデコを出すのが好きだったな。
『髪の毛で隠すのって好きじゃないの。自信があるわけじゃないけど、わたしの顔は
純粋に人にさらしたいからね』
お姉ちゃんはたしかそう言ってた。笑顔が映えるのもその為だったかも。
そういや、わたしはなんでもお姉ちゃんとは正反対だったな。性格も、趣味も、髪
型も。
前髪垂らす方がわたしは好きだけど、時々うっとおしくなることもある。
人見知りが激しくて、泣き虫なわたしを変えてくれたのは、やっぱりお姉ちゃんだっ
たのかな?
いつからだろう?わたしに人並みに友達ができたのは。
「おはよう」
挨拶をかけてくるユミに向かってわたしは不機嫌に挨拶を返す。頑固に意地を張り
つづけてもしょうがないことはわかっている。だけど、感情がうまくコントロールで
きない。無愛想な顔で彼女の横を早足で通り過ぎる。
無責任な話だけど、わたしの感情はわたし自身の制御を離れてしまっている。自分
でもどうしていいかわからない。暴走し続ける感情を止めるすべはないようだ。
ただ、時間が解決してくれるのを待つしかない。しかし、時間と引き換えにもっと
大事なものを失ってしまうかもしれないが。
校門の前まで来て、わたしは校舎を見つめる。一瞬、エスケープという言葉が脳裏
をかする。だが、それは現実を前に完全に打ち消された。
休むわけにはいかない。それは、感情を越えた何かがわたしの身体を動かしていた
のだ。
教室に入る。いつもの雰囲気。
でも、何かが違う。
わたしに気を使っているのか、わたしを恐れているのか、ユミとノンコとミリィは
近づこうとしない。それはそれで正しい選択だと思う。わたしはこれ以上醜い姿をさ
らけ出したくないから。
もう何も考えたくない。
嫌なことは忘れて勉強に集中したい。
たとえ、何を失っても、わたしは……………………
雨が降る。
食欲のないわたしは、教室を出て階段の踊り場の窓から一人静かに雨を眺めていた。
「硫化硫黄物……だっけ……試験に出るかなぁ、酸性雨のこと」
わたしはひとりごちた。
しばらくぼんやりしていたわたしは、ふと人の気配を感じて後を振り返る。
「アンコ。…らしくないよ」
微笑みながら優しい声でそう語りかけてきたのはノンコだった。
「ノンコ」
わたしはぼーっとしながらノンコを見つめる。人懐っこい瞳。ちょっととろい所も
あるけど、気はいい子。
「笑ってよ、アンコ。そんな不機嫌な顔似合わないよ」
ノンコの口調はあくまでも優しさを保ち続ける。
「ほっといてよ」
口から勝手にこぼれてしまう。ほんとは言いたくないのに。この子に八つ当たりし
ても何も解決しないことはわかっているのに。
「ユミも反省してるみたいだし、わたしも謝る。ゴメン」
なんでノンコに謝らせてしまうのだろう。悪いのはこの子じゃないのに。
「関係ないの」
それでもわたしは、意地を張りとおす。
「関係ないなら、元のアンコに戻ってよ」
「元も何もないわ。これが本当のわたしよ。無神経でかわいげのない嫌な奴よ。いま
までのわたしの方が偽りだったのよ。本当はもっと醜くて、いやしくて……」
わたしは自分で言った言葉に落ち込んでいく。今までの自分は偽りだったというこ
とを証明するかのように、自己非難の言葉はあとを絶えない
「そんなことないよ。アンコはあたしたちの知ってるアンコよ。それが偽りだなんて
……そんなことないよ」
「わたしはもうだめよ。もう」
なんだかやるせない気持ちでわたしはノンコに背を向けた。
どうしてこんなに意地になるのか、自分でもよくわからない。どうして、感情が制
御できなくなったのか。
もしかしたら、みんなへの甘えの裏返しなのかもしれない。優しさに甘えて、それ
で何かを紛らせようとしている。
そう。
みんなとはもうすぐお別れ。
いつかはみんなバラバラになるって、わかってたつもりなのに。
「ごめん、ノンコ。……でもね、今はほっといてほしいの」
やっと出た言葉。
ほとんど素のままの、感情すら込められない冷たい科白。
「なんか嫌なことがあったんなら、いつもみたいに愚痴にしてあたしたちこぼしてい
いんだよ。みんなさぁ……」
「ほっといてって言ったでしょ!」
ノンコのいつものとろい口調がわたしの感情を逆撫でする。思わず振り向きざまに
彼女をにらむ。
「アンコ。忘れちゃったんでしょ?」
泣きそうな顔をしてノンコがそうつぶやく。でも、わたしにはなんのことだかわか
らない。何を忘れているのだろう。
「アンコが教えてくれたんだよ」
泣き顔にするまいとわざと作り笑いを見せるノンコの姿はけなげでもある。
でも、わたしなんか教えたっけ?
……わからない。もう、どうでもいいそんなこと。
わたしは無言でノンコの脇を駆け抜けていく。
一人寂しく家路を歩くわたし。
いつもはミリィが一緒なんだけど……そういや、彼女も少し前までは進学組だった
んだっけ。わたしなんかと違って、親に付属高への進学を決められていた。
かわいそうなぐらい抑圧されちゃって、一時期ノイローゼ寸前までいってたみたい。
でも、憧れの人が現れたことで、それが強さにつながっていったのよね。
今じゃ、親を説得して城高を受験するらしいけど。
安易だとは思わなかった。わたしだって付属高への進学は城高を受験するミリィと
似たようなものだもの。
わたしが付属高へ行きたいのは、お姉ちゃんへの憧れ。
お姉ちゃんが卒業した付属高へ通うことがわたしの第一の目標。
わたしを変えてくれたお姉ちゃんに……あれ?
結局、昔のように嫌な子に戻っちゃったのよね。
みんなに嫌な思いをさせちゃって。
ノンコのこと傷つけちゃっただろうな。
なんで、あんなこと言ったんだろう。
やだ。
わたしがお姉ちゃんに憧れていたのは何のため?
いまさら自問しなくてもわかってるはずでしょ?
でも、どうしてみんなに優しくできなくなっちゃったの?
いままで、少しくらいの傷なんて苦痛に感じなかったのに。
お姉ちゃん。
わたし、どうすればいいの?
多分、夢の中だと思う。
わたしの目の前にわたしがいる。
まだ幼い、かわいくないわたしが。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん」
いつものように泣きながら家の中をさまようわたし。
「杏子。そんなに泣いたらきれいな顔が台無しよ」
お姉ちゃんの優しい声が背後から聞こえる。
「お姉ちゃん」
ハンカチで幼いわたしの涙を拭きながら鏡台の前へと連れていく。
もうかなり古びた三面鏡。祖母が使っていたという由緒あるもの。
鏡に映る幼いわたしはどこか無愛想で、かわいげがない。
幼いわたしはそんなことを自分でも承知してか、下を向いたまま鏡を見ようとしな
い。
「杏子。お姉ちゃんが、幸せになれるおまじない教えてあげる」
ふわっと、わたしの頭に手をのせるお姉ちゃん。
「おまじない?」
幼いわたしは好奇心まるだしでそうつぶやく。
「そうよ。これを毎日繰り返せば、今よりずっと幸せになれるのよ」
お姉ちゃんの語り口は、幼いわたしにしてみればとても魅力的で、なんでも叶えて
くれる魔法の呪文のようにも感じていたのだろう。
「ねえ、教えて教えて」
さっきの泣き虫はどこへやらって感じで、幼いわたしはすっかりお姉ちゃんの魔法
の虜だ。
「教えてあげるから、鏡に映った自分の顔をよく見て」
幼いわたしは、ためらいがちにちらりちらりと鏡を見だす。
「そんなんじゃだめよ。真正面向いてちゃんと見なさい」
「わたし、お姉ちゃんみたいにびじんじゃないから」
幼いころから、自分に負い目を感じていたわたし。
「あら、杏子はお姉ちゃんの妹でしょ。姉妹なんだから杏子も美人に決まってるじゃ
ない。さあ、鏡を見て笑ってごらん」
「できないよ」
「何か楽しいことを思い出して、笑ってごらん。一番いい笑顔を鏡に映してごらん」
幼いわたしは不器用にニッと笑う。だが、あまりいい笑顔とはいえない。
「無理してなんか笑えないよ」
「初めは作り笑いでもいいのよ。そのうちだんだん、心の底からいい笑顔が作れるよ
うになるの。一種のイメージトレーニングなんだけど……あ、杏子にはちょっと難し
かったかな」
「いめえじとれいにんぐ?」
「簡単に言えば、お・ま・じ・な・い」
お姉ちゃんは茶目っ気たっぷりにそう説明する。
「わたしもお姉ちゃんみたいになれる?」
幼いわたしの目は輝いてた。理想そのものであるお姉ちゃんを見ながら育ったわた
しは、ずっと憧れを抱いていたのだ。
「なれるよ。うん」
お姉ちゃんの笑顔には偽りはなかった。この笑顔は本物で、今までずっと追い続け
ていた理想なのだ。幼いわたしと心がシンクロする。
うれしい時だけじゃない。悲しい時だって、とっておきの笑顔を持ちつづけていた
い。そう誓ったあの日。
そうだ……忘れてた。
急激に目覚めたわたしは、ベッドからばさっと起き上がる。
「……思い出した」
記憶の断片をつなぎ合わせながら、ひとりごちた。
わたしが変われたのは、あのおまじないのおかげ。
こんな大事なことを忘れてしまうなんてどうかしてる。
心に余裕がなくなる時こそ、あのおまじないが役に立つのに。
憧れを変形させて意地になって固執していたわたしは、その本質さえ忘れていた。
付属高に入れなくなって、お姉ちゃんへの憧れは達成できるはず。
もう少し、余裕を持たないとね。
そうだ。明日、一番でノンコたちに謝らなくちゃ。
いつかはバラバラにならなくちゃならないけど、わたしにとって大切な友達だもん。
こんなかたちで失いたくない。
ごめんね、ノンコ。
ごめんね、ユミ。
ごめんね、ミリィ。
みんな大好きだよ。
END
#2824/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/10 1:53 ( 70)
【軍艦島は接吻の彼方に】その1 ワクロー3
★内容
《20代おんな心の謎》1 探検気分の4人連れ
長崎市の南に、野母という細長い半島が伸びています。
半島に沿って南に車を走らせると、運転席側の窓ごしに、海に浮
かぶ軍艦島が見えてきます。
その島は、昭和40年代の初めまでは、人口四千人が住むひとつ
の町でした。明治の初期、無人島だったその島に、良質の石炭が出
ることがわかりました。以来「石炭を採掘する島」としてぞくぞく
と人が渡って行ったのです。
南北でわずか300メートル、東西100メートル足らずの島は、
やがて石炭を採るための、巨大な基地と化して行きました。周囲を
埋め立てコンクリート防壁で囲み、狭い敷地を活かすために、大正
年代から戦中戦後にかけて、コンクリート製の炭鉱施設や高層住宅
が、狭い島にびっしりと建設されました。
施設の建設にともない、もとは長崎沖に浮かぶちっぽけな島に過
ぎなかった自然島は、コンクリート建造物で徹底的に塗り固められ
ました。採掘した石炭を船に積み上げる巨大なガントリークレーン、
貯炭施設、石炭搬送用のベルトコンベア、それに働く人々のための
小、中学校、病院、神社、銭湯、病院、プール、映画館、マーケッ
トなど、人が生活するためのあらゆる施設を備えた人口島と化した
のです。
その賑わいぶりは、昭和30年代には、頂点に達します。しかし、
この奇怪なコンクリート要塞のような島は、石炭産業の斜陽と共に
没落の歩みを急ぎました。昭和43年。軍艦島の存在そのものだっ
た三菱端島抗が閉山になったのです。
ちっぽけな島に、ぎゅぎゅうに四千人もの人間が生きていた島は、
ある日を境として、建造物そのままにして捨てられたのです。
建設したばかりの小学校体育館、人々の信仰を集めた神社、すべ
てはそのままでした。数年を経たずして一人残らず島を離れて行き
ました。
野母半島から眺めると、島は、高層建築物の廃墟を、今も島いっ
ぱいに背負っています。その姿はあたかも、古めかしい軍艦が波を
けたてて海上を進んでいるような姿です。今は一人の人間も住んで
いない捨てられた島。その光景を見ていると、山奥の廃村とは、一
味異なった凄ましさが感じられるのです。
その夏。軍艦島に行こう、と口を開いたのは、友人のSでした。
Sはその島に行って「絵を描きたい」といいました。「あと二人を
連れて来る」とも言いました。
野母半島の中程に、川原という小さな漁港があります。軍艦島に
四千人の住人が島にいたころは、長崎港から島へ定期船が出ていた
のですが、もちろん今では、船は往来していません。島に渡るには、
瀬渡し船に頼むしか、方法がないのです。船は、その小さな漁港か
ら出るのでした。
午前4時半、漁港の入り口に車を止めると、Sの車はすでにそこ
で待っていました。
彼が連れてきた二人の女性。そのうちの一人こそ、僕がこうして、
8年も経ってから、パソコン通信で、思いをたぐってみたくなるよ
うな少女でした。ここでは、とりあえず「画学生」とでも古めかし
く呼んでおきます。
(以下次回につづく)
#2825/3137 空中分解2
★タイトル (RJM ) 93/ 2/10 22:56 (112)
ぶら下がった眼球 第一章 スティール
★内容
第一章 『記憶』
宇宙空間の中で、私は、戦闘機に乗っていた。私の乗っている戦闘機は、どうや
ら、すごいスピードで、進んでいるようだ。それを操縦していたのは、紛れもなく
私だった。ふと、コックピットの中から、外を見てみると、廻りには、私のものに、
よく似た戦闘機が、たくさん、飛び交っているのが、見えた。
突然、私の手元のあたりから、声がした。
『ヘンリー! 危ない! よけろ!』
という絶叫が、私の耳に響いた。
と、思った瞬間、私の戦闘機に物凄い衝撃が走った。どうやら、他の戦闘機に追
突されたようだ。私の頭は、前の金属盤に叩きつけられた。
衝撃で、左の眼球が飛び出した。私の体のあちこちが、ぐしゃぐしゃになってい
た。しかし、左の眼球が飛び出した苦痛が、あまりに大きく、私の、すべての神経
は、左の眼球に集中した。左の眼球は、何かで、ぶら下がっていた。右の眼球で、
それを見ていることに気付くと、私は、その事実に震えた。その長く苦しい感覚は、
時間にすると、ほんの一瞬の出来事だった。それでも、私は、なんとか、戦闘機を
操縦していたようだ。どうやって、操縦していたのかは、よく、わからないが。
私は、左の眼球の、死ぬほどの痛みに耐えつつ、ぶら下がった、それが、落ちな
いように望み、かつ、願った。それは、ちょっとでも、触れると、落ちそうであっ
た。私は、全身から、汗や血が吹き出しているのを感じていた。まるで、この世の、
すべての恐怖や不安が、私を襲っているようだった。私は、脅えていた、まるで、
親に捨てられた幼い子供のように。無駄だとは、うすうす知りつつも、私は、それ
から、もがいた。そうすれば、何かから、逃れられるように、私は、思ったのだ。
時間の流れは、とても遅く、私の永遠は、外界の一瞬のように思えた。私は、絶叫
しようとしたが、声が出なかった。
そこで、私の悪夢は終わった。私の目が覚めたのだ。全身が、汗びっしょりになっ
ていた。私の脳裏には、いまの現実の記憶が甦ってきていた。ここは、宇宙旅客機
の中で、私は、地球での会議に招集され、地球に向かっている中途であった。
それにしても、リアルな夢だった。私は、なんとなくだが、切実な不安にかられ、
トイレに駆け込み、鏡で自分の顔を見てみた。黒い眼に、黒い毛髪、いつものと同
じく、私の顔があった。私は、どこにも持っていきようのないような不安に駆られ、
手で、顔のあたりを撫で廻していた。
数分後、私は、シートに戻り、3Dビジョンを観ることにした。なぜ、あんな夢
を見たのだろうか? きっと、宇宙旅客機に乗ったせいで、勝手に、体が反応して、
あんな夢を見たに違いないと、私は、そう考えた。
3Dビジョンの、ひとつのプログラムが終わらぬうちに、旅客機は、定刻どおり
に、宇宙ポートに着いた。ここで、少しの間、待って、私は、地上行きのエアバス
に乗り換えなければならなかった。
私は、この宇宙ポートで、同じ会議に出る友人と、待ち合わせをしていた。彼と
は、もう長らく、会っていなかった。もっとも、私は、この五年ほど、たった独り
で宇宙を漂っていたのだが。ともかく、私は、彼と行き違いにならないように、眼
を凝らして、ロビーのほうを見た。会議の前に、私は、できれば、彼と情報交換も
したかった。
到着ゲートを出たところで、彼は、すぐ、見つかった。それは、彼の、黒くバカ
でかい体は、やたらと目立っていたためだろう。彼は、いきなり、私を抱き締めた。
私は、彼の大袈裟な抱擁を恥ずかしく思ったが、彼と同じくらい、懐かしかったの
は、事実であった。念のために、付け加えるが、私は男で、彼との肉体関係は、ま
だ、なかった。きっと、これからもないであろう。
『いやぁ〜! ひさしぶりだな! ヘンリー!』
『まったくだな! モーゼル!』
『何年振りになるかな!』
彼は、やたらと、声が大きい男だった。
『もう五年になるかな!』
『また、組めるといいがな!』
『ここに居れるなら、なんでもやるさ。ど田舎で、バクテリアの採集なんて、もう、
嫌だ』
『今度の計画を知ってるか?』
『いや、知らない。マル秘だからな、男色以外の男には』
『どうやら、次の計画は、バビロン計画らしいぜ!』
『バビロン計画って、あのバベル博士の、バビロン計画か?』
『そうだ、そのバビロンだ。バベル博士が死んで、十数年か中断されていたが、ま
た、新しく、再開したらしい』
『それで、バベル博士の教え子を、会議という名目で集めたのか』
『招集の目的は、会議じゃなく、人材のスカウトのようだぜ! だが、俺は、あれ
は、まったく、意味のない計画だ!』
『おそらく、他の奴らも、まったく、同じことを言うだろうな』
『あれは、呪われた計画だ、バベル博士も、しくじったぜ!』
バビロン計画とは、我々の恩師であるバベル博士が、生前に、推進していた人工
人間製造計画であった。人間とまったく同じものを造ろうという計画だったが、し
かし、最初から、最後まで、トラブルが絶えなかった。あの当時から、無意味な計
画との批判が強く、また、結果もよくなかった。人間と同等の能力を持ったコピー
のようなものを創造しようという計画であったが、学会からは『赤ちゃんを造った
ほうが早い』と、皮肉られたりもした。
もう、ロボットやアンドロイドは、街中に氾濫しており、その状況下で、さらに、
人間を生産しようという考えも、理解されなかった。自然の摂理に反するという批
判や、人権問題などの点から、各種の団体からも、攻撃に晒された。
我々、バベル博士の教え子も、『人間を超えた、超人類を造ろうというのならわ
かるが、人間と同じものを造るというのは、いったい、どういう目的なのか?』と、
博士に尋ねたのだが、バベル博士は、我々の問いに、とうとう、答えなかった。
結局、計画で造り出された人間は、ロボット以下の知能しか、持ち得なかった。
造り出された人工人間にとっては、明らかに、不幸な悲劇であり、それと同時に、
計画の完全な失敗を意味していた。これによって、博士の輝かしい業績は色褪せ、
彼の学者生命は、終わったのだった。『不幸な人間を創造する学者』という汚名を
着せられて・・・。
その後も、バベル博士と、数名のスタッフで、博士の個人的な研究は進められた。
だが、博士の、突然な急死により、計画は頓挫したままで、終わってしまった。博
士の死因は、突然の発狂による、心臓麻痺だった。これも、博士の印象を、一層悪
いものにした。あのころは、博士の死は、実は、自殺によるものではないかと、陰
で、まことしやかに、囁かれたものだった。
ひところの回想から戻った私の心には、疑問符だけが残っていた。バベル博士の
行動を、疑問に思ったのだ。
『それにしても、なぜ、博士は、あんなことをしたのだろう?』
『さぁな? そう、きっと、例の預言のせいじゃないかな?』
最近、いろいろな預言が当たっているという風聞が流れていた。バビロン計画の
再開も、そのひとつのように、私には、思えた。
#2826/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/10 23:33 (191)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 序章〜第2章 リーベルG
★内容
序
人類が、いまだ歴史も伝説もその遺産として築きあげていない時代、地球の支配者
であった種族は大いなる戦いの果てに破れ去り、あるものは幽閉され、あるものは追
放され、地球の支配権を放棄することとなった。しかし、<旧支配者>の下僕たちは、
その多くが逃亡に成功し、自らの主君の解放と統治の再来を願い、闇の中で邪悪な活
動を開始した。 ジャカリチャーチ
古来より人類の賢者たちはこの危機を察知し、邪狩教団を結成した。その秘かなネ
ットワークは事実上、全世界に及んだ。邪悪な<旧支配者>の復活を妨げることだけ
が、彼らの唯一の目的である。数え切れない国家や文明や戦争が歴史に爪痕を残し、
そして消えていく中で、邪狩教団はそれを冷ややかな目で見守りつつ、全人類の命運
を賭けた戦いを秘かに、しかし激しく繰り広げていた。
1
「今回は楽な任務だ」
邪狩教団のタイラント長官は、シティホテルの405号室で、ハミングバードこと
木下玲子にそう言った。
玲子は無条件に喜んだりはしなかった。もちろん、タイラントが嘘を言わないこと
はよく知っていた。ただ、この無愛想な男は時々、故意にか無意識にか省略の罪を犯
すことがあるというだけのことだ。
玲子はこの部屋にいる3人目の人間に目をやった。タイラントは充分に存在感のあ
る男性だが、ダブルベッドに腰掛けて一心にテレビを見ている、プラチナブロンドの
少年の前には、かすんでしまっている。もっとも本人は全く気にした様子もないが。
最初にこの部屋に入ったとき、玲子の視線は真っ先にこの少年に引きつけられた。
プラチナのしずくから作られたような髪、雪のような白い肌、深海の宝石のような青
い瞳。映画かマンガの中でしか、目にしたことがない美少年だったが、しかしそれだ
けならば玲子の関心をそれほど長くつなぎとめておくことはできなかったに違いない。
玲子が興味を持ったのは、少年が発している高貴な雰囲気だった。プリンス、とい
う称号がこれほどふさわしい少年は、他に類をみないであろう。玲子はタイラントか
ら、カインというコードネームを知らされたとき、妙にがっかりしたものだ。
少年の方は玲子に一片の興味も示さなかった。玲子に神秘的な青い瞳を向けた時間
は、1秒の数十分の1以下。天使が通り過ぎる時間もなかった。あとは、ずっとテレ
ビに向けていた。
タイラントの声が玲子を現実に戻した。
「軽井沢の別荘地に教団員がいる。戦闘要員ではなく、教団の研究者だ。コードネ
ームはブランデーワイン」
タイラントでも『指輪物語』を読むのかしら、と玲子はあらぬことを考えた。教団
員のコードネームはタイラントが決めるのだが、タイラントには当人の容姿や性格や
能力を、コードネームに反映させようという意志が全く見られない。玲子のコードネ
ームにしてもそれは言える。実は玲子はあまり歌がうまくないのだ。
「何の研究をしているんですか?」
「火に属する<従者>の研究だ。召喚の方法、水や風に属する<従者>との相克、
出現地域、能力。他にも同じ様な研究をしている者は世界中にいるが、彼は特異な存
在だ。何故なら」タイラントは玲子の瞳をじっと見つめた。「彼は<従者>と人間と
が共存する可能性を探っていたからだ」
沈黙が訪れた。玲子は驚愕を表現している彫像のように凍りついていたが、ようや
く言葉を出した。
「共存?」
タイラントは無表情に頷いた。
「<従者>と?」
タイラントは無表情に頷いた。
玲子は数瞬、辛辣な表現を探し、結局ありふれた言葉を吐いた。
「正気なんですか?そのブランデーワインさんは?」
「彼は優秀な物理学者だ」タイラントは(玲子の見間違いでなければ)ため息をつ
いた。「ブランデーワインがそれを考えていることがわかったのは2カ月前だ。温厚
な性格で、ハエやカでも叩きつぶすのをためらうような男だ。遠回しに<従者>との
共存などありえない、と伝えたのだが…」
タイラントは珍しく語尾を濁した。要するにその忠告だか、警告だかは無視された
ということだろう。
「それで、私は何をすればいいんですか?」玲子は訊いた。「殴りつけてやめさせ
るとか?」
「君達は」タイラントは複数を表す代名詞を使った。「ブランデーワインの別荘に
行くんだ。研究がどのくらい進んでいるのか、調べてきてもらいたい。そして、研究
の中止を勧告するのだ」
「どうして、研究報告を出させないんですか?」玲子は疑問を発したが、すぐに解
答に思い当たった。「無視されたんですか?それも?」
タイラントは頷いて肯定した。玲子はもうひとつの疑問を発した。
「私たちといいましたね?つまり、あの子と?」玲子は親指で肩ごしに、カインを
指した。
「そうだ。一緒に行ってくれ。というより、今回の主役はカインの方だ」
「彼は?」玲子は質問の後半を省略したが、タイラントにはそれで通じた。
「カインは<巫女>一族なのだ」
玲子は新たなる驚きを持って、カインを見つめた。
<巫女>の一族。それは邪狩教団における最も神聖なる人々である。古代、邪狩教
団が誕生する以前、暗躍する<従者>の影に対抗するひとつの一族がいた。彼らには
血族のみに伝わる力、すなわち<従者>の邪力を消滅せしめる霊力が備わっていた。
その一族は自らを<巫女>と呼んでいた。
一族の誰一人として、いつ<巫女>一族が誕生したのか知っている者はいない。彼
らは歴史が始まる時、すでに地上に立っていたのだ。<旧支配者>と戦い、勝利し、
邪神を封じたとされる<旧神>が地球を去るとき、地上に残ることを選んだ神々の末
裔だとも言われている。
<巫女>一族は、何千年も一族以外の血を、その聖なる血筋に加えることがなかっ
た。遺伝学からいえばとっくに生物としての活力を失って、身体的欠陥や能力の低下
が見られるはずだが、並外れた強靭な遺伝子を持っているのか、何らかの未知の力が
働いているのか、<巫女>の人間はみな健康と長寿を保っている。
<巫女>の一族は邪狩教団の存在の基盤となっている。例えば、<従者>に対して
効果がある五芳星形の石や、メダリオンは<巫女>一族の手によってのみ作ることが
できる。これがなければ教団の戦士たちは、<従者>に対して著しく不利であること
は間違いない。玲子も何度かメダリオンに命を救われている。しかし、実際に<巫女
>一族の人間と会うのはこれが初めてだった。
「そうだったんですか」玲子は小さな声でいった。
「カインはまだ若い。一族でも最年少だ。外で任務につくのはこれが初めてだ。し
かし、力はある。彼の言葉にならブランデーワインも耳を傾けるだろう」
「<巫女>の言葉を軽んじる者はいない、ですね」玲子は呟いた。そして、カイン
の冷たい横顔に声をかけた。
「よろしく、カイン」
カインは玲子を完全に無視した。テレビのニュースを食い入るように見つめたまま
視線を動かそうとしない。玲子は少々むっとしたが、何とか自分を抑えつけてタイラ
ントに向き直った。
「いつですか?」その声は相当とがっていた。タイラントは内心でおもしろがって
いたとしても、表面上それを伺わせるようなことはない。すぐに、まじめな声で答え
た。
「2時間後だ。迎えをやる。詳しい資料はこれだ」タイラントは数枚のプリントア
ウト用紙を玲子に渡した。玲子はそれを受け取ると、一礼して部屋を出た。
まあ、<巫女>の一族といっても人間である以上、年端もいかない少年の人格が完
璧であるはずもない。それにしてもいろんな意味で厄介な任務になりそうだった。狭
いエレベータの中で玲子はため息をもらした。
2
玲子はヘリが完全に着地するのを待たずに、ハッチから飛び降りた。柔らかい草地
にきれいに立つと、ヘリのパイロットに手を振った。パイロットはすぐに機体を上昇
させ、あっという間に西の空に消え去った。
秋がそろそろ終わろうかという季節だった。避暑の客はとっくに都会に帰り、スキ
ー客がやってくるには早すぎる。鮮やかな紅葉は、すでに大部分が地面で乾いた音を
立てていた。風は冷たく、夜は寒くなるであろうことを想像させた。
ヘリの爆音が再び近付いた。カインの乗ったヘリである。ヘリは静かに着地し、エ
ンジンを停止させた。中から人間が降りてきたのは、ローターが完全に停止してから
である。
玲子が見守る中で、カインが士官学校の生徒のような白い軍服に身を固めて降りて
きた。背中に羽根が生えていれば天使のように見えたかもしれない。
カインは玲子をちらりとみて、すぐに無視した。玲子は腹を立てようとしたが、ヘ
リから降りた次の人間を見て、そんなことはたちまち忘れてしまった。
20代後半くらいの女性が優雅に草の上に降り立った。カインと同じ様なプラチナ
ブロンドだが、カインが天使だとすると、こちらは女神だ。姿形だけならば、玲子も
それほど見劣りするわけではないが、その自然な気品は玲子が100人いても太刀打
ちできそうにない。
カインが冷たい表情を崩さないのに対して、この女神は暖かい太陽のような、慈愛
に満ちた微笑みを浮かべていた。玲子は身体の芯が暖かくなるのを感じた。カインと
同じ<巫女>一族であるに違いない。
神々の末裔。玲子はその言葉を思い出し、真実であっても不思議ではないと思った。
女性は風に舞う薄い純白のドレスだけを身につけていたが、夏の陽射しを身体いっ
ぱいに浴びているような顔をしていた。暖かい笑顔で、カインに何か告げており、少
年の方も神妙に頭を下げながら耳を傾けている。日本語ではないようだが、気まぐれ
な風に邪魔されて玲子にはよく聞き取れなかった。
突然、カインが片膝をついた。女性の方はどこからか一振りの短剣を取り出した。
真剣な顔で何かを唱えながら右手を短剣にかざしていたが、やがておごそかに鞘から
刃を抜き放った。
予想したような銀色のきらめきはなかった。刃はくねくねと曲がっており、全体に
複雑な象眼模様が施されている。玲子は知らなかったが、それはマレー半島で使われ
るクリスと呼ばれる短刀によく似ていた。しかし、人間にではなく<従者>に対して
のみ有効な武器なのであろう。刃の所々に浮き彫りになっている五芳星形からも、そ
れがわかった。
カインが立ち上がった。女性は刃に軽く口づけをして祝福を与えると、元通り鞘に
おさめてからカインに手渡した。カインが短剣を腰につけると、女性はつとかがんで
少年の上気した頬に口づけをした。それから二人は軽く抱擁し合った。
玲子は自分が目撃しているのが、<巫女>の初陣の儀式なのだと気付いた。<巫女
>の一族の子供は、一定の年齢までいろいろな場所で修行を積むという。それはチベ
ット山中の寺院であるとも、極地の氷の中だとも言われている。むろん、文明社会と
隔絶しているわけではなく、普通の社会生活も営みながらである。そして、時が来れ
ば最後の通過儀礼として、簡単な任務が与えられる。それをやり遂げれば一人前だと、
一族に認められるのである。
カインと話していた女性の視線が玲子に止まった。女性は笑みを浮かべて、玲子を
差し招いた。玲子は心臓が急激に跳ね上がるのを感じながら、ゆっくりと歩みを進め、
女性の前に立った。
膝まづくべきだろうかと悩む前に、女性の口から明瞭な日本語が流れた。
「はじめまして、戦士ハミングバード。わたくしはこれの姉です。本来の名前はお
互いに明かさないことになっていますので、ソーマとお呼び下さいな」
それはインド神話に登場する月の神の名であった。玲子はこの女神に、俗なコード
ネームをつけなかったタイラント長官のセンスを少し見直した。
「はじめて御意を得ます、ソーマ」教団の暗黙の了解として、コードネームにミス
ターなどはつけないことになっている。「お目にかかれて光栄です」
「弟をよろしくお願いします。未熟者ですけれど、足手まといにはなるようでした
ら、容赦なく叱ってやってくださいましね」
玲子が返答に窮していると、ソーマは軽やかな鈴の音のような声で笑った。カイン
は顔を伏せていた。傲岸な少年も、美しい姉の前では人形のようにかしこまっている。
恐怖によるものではないことは言うまでもない。
「さあ、ハミングバードにご挨拶なさい」ソーマはカインに促した。カインは渋々
といった感じで、玲子にしなやかな手を出した。
「よろしく、頼む。ハミングバード」
玲子はにっこり笑ってカインの意外に暖かい手を握った。本当は少年の頑固さに、
声を立てて笑いたい気分だった。ソーマに比べればまだまだ一人前ではないのだ。
「よろしくね。カイン」
ソーマは再び暖かい笑みを浮かべた。
「それでは二人とも頑張って下さいね」そういって細い手を振ると、優雅な足どり
でヘリに乗り込んだ。待機していたパイロットが、一流ホテルのドアマンのようにう
やうやしくハッチを閉めた。まもなくローターが回転を始め、ヘリはゆっくりと上昇
し、すぐに飛び去った。
ヘリが見えなくなると、名残惜しそうに見送っていたカインの表情から、少年らし
さが跡形もなく消え失せた。
「何をぐずぐずしてるんだ?」カインは氷のような声で玲子を促した。「さっさと
ブランデーワインとやらの所に行こうじゃないか」
玲子は神妙な顔で頷いた。内心は、少年が必死で虚勢を張っているのがおかしくて
チェシャ猫のようなニヤニヤ笑いが浮かんで来るのをこらえていたのだが。<巫女>
の一族として、この少年が認められるまでは長い時間がかかりそうだった。ソーマの
ような真の高貴さと気品を一目見れば、カインのそれは表面的なものにすぎないとわ
かる。
「こっちね」玲子は暗記した資料から記憶を引き出して、ブランデーワインの別荘
がある方向へ歩き始めた。
#2827/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/10 23:37 (160)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第3章 リーベルG
★内容
3
資料によれば、ブランデーワインは42才の大学教授である。33才のとき、最初
の妻と死別。以後、独身だったが、2年前に突然結婚した。相手は学生で22才だっ
たという。この記録を読んだとき、玲子はさすがにあきれたものである。ただし、妻
も邪狩教団の団員であるので、それほど不思議ではない。妻のコードネームはスワン。
ブランデーワインと同じく研究者である。二人の間には、1才になる女の子がいる。
2カ月前、ブランデーワインは突然、タイラントの元にシングルスペースで100
ページ以上の英文レポートを送りつけてきた。それには<従者>との共存の可能性に
関する考察が、細かく述べられていた。タイラントはさすがに驚き、控えめに意見を
伝えた。<従者>と、つまり<旧支配者>との共存はありえることではない、という
内容だった。
ブランデーワインはそれに腹を立てたのか、プッツリと音信を途絶えさせてしまっ
た。タイラントは再三にわたって、コミニュケーションをとろうと努力したが、全て
徒労に終わった。ブランデーワインは完全にそれを無視したのだった。定時連絡すら
よこさなくなってしまった。
とうとう、タイラントは誰かを派遣して、事態を進展させようとした。折しも、<
巫女>一族から、試練の任務を与えてくれるよう要請があった。タイラントはこれ幸
いと、カインにブランデーワインの研究を評価する任務を与えることにしたのである。
玲子はたまたま、最も近い位置にいたために白羽の矢を立てられたのだ。
たしかに、と玲子は考えた。楽な任務には違いない。本来、戦闘要員である玲子が
遂行する任務ではないだろう。玲子の役割はカインがこの試練(というには易しすぎ
るが)を、無事に終了できるのをサポートすることだった。甲子園大会の始球式を見
守る大会役員みたいなものだ。
成功するに決まっているんじゃないかしら、と玲子はカインを皮肉な目で見た。カ
インのやることは、ブランデーワインの研究を評価して、研究の是か非かを判断する
だけだ。 レーゾンデートル
もちろん、<巫女>一族が<従者>との共存などという、邪狩教団の存在意義を根
底から覆すような考えを認めるはずがない。これに関しては、学問や表現の自由など
入り込む余地はないのだ。従って、カインはブランデーワインに研究の中止を告げる
だろう。
ブランデーワインが素直に従えば、それでこの件は終わる。カインの勧告を拒めば、
ブランデーワインははっきりとした研究中止命令を受ける。もし、その命令に従う意
志がなければ、ブランデーワインは邪狩教団を去らなければならない。その際には、
教団に関する全ての記憶を消されることになる。
ヘリが着陸した地点は人目につかない場所だったため、ブランデーワインの住んで
いる別荘までは、2キロほど歩かねばならない。カインはむっつりとした不機嫌そう
な顔で玲子の後を歩いていた。玲子は試しに声をかけてみた。
「カイン、あなたは今いくつなの?」
答が返ってくるまでに、玲子は鼓動を100回ほど数えることができた。
「12だ」
タイラントに負けないくらい無愛想な声である。玲子はさらに攻撃をかけた。
「今までどんな修行をしてきたの?」
「君には想像もつかないようなことさ」今度は即座に応えがあった。人を見下すよ
うな響きがこもってはいたが。
「きれいな人ね」玲子は、主語をわざと省略した。カインの目が急激に光を帯びた。
少年は鋭い口調で問い返した。
「姉上のことか?」カインは玲子の返事を待たずに続けた。「そうとも、世界で一
番きれいな人だ。優しくて、清らかで、暖かい人だ。姉上のためならぼくは喜んで命
を捨ててみせる」
「崇拝しているのね」
玲子の口調にからかいは全く含まれていなかったが、カインは射抜くような視線を
向けた。
「もちろんだ。ぼくにとっては<旧支配者>も<従者>もどうでもいい。ただ、姉
上のために、奴らと戦う修行をした。姉上の笑顔のためだけに」
少なくともこの少年は素直だ、と玲子は考えた。自分を装って他人と接するという
ことは憶えなかったらしい。今の時代にあって、貴重な存在であるかもしれない。だ
が、時には邪悪な<従者>との虚々実々の駆け引きが必要な<巫女>一族としては、
どうなのだろう。
不意にカインが思いもよらない反撃に転じた。
「君は誰のために戦っているのだ?ハミングバード」
沈黙が玲子の答だった。黒い瞳に、言葉以上に雄弁な光が浮かんだ。
「訊いてはいけないことだったのか?」カインは不思議そうに玲子の顔を覗きこん
だ。玲子は小さく首を振った。
「私の両親は<従者>に殺されたわ」氷のような声をカインは聞いた。「何の罪も
ない、善良な市民だったのに。そのために戦っているの」
「ふん」というのが、カインの反応だった。「どちらも利己的な理由で戦っている
わけだ。人類のため、地球のためなどと大義名分を掲げる奴よりは立派だな」
はたして誉められているのか皮肉を言われているのか、玲子には分からなかったの
で、都合のいい方に解釈することにした。それっきり二人は目的地に着くまで沈黙を
守った。
その別荘は30年以上昔に建築され、改修も改装もほとんど行われなかったため、
荒れ放題という印象を受ける。別荘に通じる道が一本しかなく、舗装もされていない
こともあり、地元の人間もここには近付こうとはしない。もちろん、これは苦心して
そのように見せかけてあるだけで、一歩別荘の中に足を踏み入れれば、最先端のコン
ピュータに制御された研究設備に取り囲まれることになる。
表札はなかった。玲子は巨大な玄関の扉の前に立つと、壊れかけた(ように見える)
インターホンのボタンを押した。ドアを通してチャイムの音が微かに伝わってきた。
玲子は一歩下がって待った。
なかなか応答がなかった。玲子がもう一度ボタンを押そうかと考え始めた時、イン
ターホンからひび割れた声が響いた。男の声だった。
『どなたですか』
「長官の使いの者です」玲子はあらかじめ伝えられた通りに答えた。
カチリという微かな音とともにドアの電子ロックが解除された。
『入りたまえ』
玲子とカインは広々とした玄関ホールに入り込んだ。通るときドアを見ると、確認
できただけでも8種類の電子的/機械的警報装置が設置されていた。この様子だと、
窓や屋根、下水道などにも残らず同様の警報装置が張り巡らされているのだろう。よ
ほど重要な研究を行っていたに違いない。少なくともブランデーワインがそう思って
いたことだけは間違いない。
カインは相変わらず口を開こうとしなかったが、好奇心は隠せず、豪華な別荘の内
部を見回していた。本物の暖炉、ふかふかの上等なソファ、ホームバー、大型テレビ、
ビリヤード台、通信端末などが効率よく配置されてあった。玲子は自分のワンルーム
バストイレ付きのマンションと比較しかけて、空しくなった。
それにしても、この豪華な別荘の主人はどこにいるのだろう。玲子がそう思った途
端、悲鳴のような声が別荘中に響きわたった。
「逃げて!早くここから逃げて!」
玲子とカインはそれぞれの身体を緊張させた。反射的に戦闘体勢をとる。玲子はメ
ダリオンを握り、カインは剣の柄に手をかけた。
再び同じ声が響いた。
「逃げて!に…」
悲鳴が唐突に断ち切られた。同時にそれを発した人間が2階に現れた。ピンクのセ
ーターとスカート姿のまだ若い女性である。ほっそりとした顔の半分を恐怖にひきつ
らせていた。残りの半分は後ろから伸びた手で隠されている。背後に彼女より頭ひと
つ高く、白衣を着て黒ぶち眼鏡をかけた男がニヤニヤ笑いながら立っていた。
間違いなくブランデーワインとスワンだ。玲子はカインの瞳を捉え、カインも同じ
ことを確認したことを見取った。
「ようこそ、我が同志よ」ブランデーワインは高く通る声で二人に挨拶した。嘲笑
が混じるのを隠そうともしなかった。
「これは何の真似なの、ブランデーワイン!」玲子は叫んだ。
「君はハミングバードだな」ブランデーワインは玲子をじろじろと見つめた。「優
秀な戦士だそうだが、私の隙を狙っているならやめた方がいい」
ブランデーワインは妻の身体ごとわずかに向きを変えた。玲子はスワンの背中にリ
ボルバーの銃口が押しつけられているのを見た。すでにハンマーが上がっており、ブ
ランデーワインが気まぐれに指を動かしただけで、強力な破壊力を持つ357マグナ
ムがスワンの心臓をあっさり消滅させてしまうだろう。
「というわけだ、お嬢さん。そのメダリオンはしまっておいてもらおうか。ところ
で、そちらの素敵な銀色の髪の坊やはどなたかな?」
ブランデーワインの視線をカインは平然と無視した。ブランデーワインの嘲笑が一
瞬だけ硬直した。
「君のような戦士がいるとは知らなかった。察するところ、君は<巫女>の一族で
はないかな、ん?その腰の剣は<巫女>一族だけが帯びることを許された聖剣だな。
頼むからそれを抜いたりしないでくれ。柄から手を放しておくんだ、坊や」
カインの瞳に明らかに怒りの炎が燃え上がった。しかし、スワンの怯えた瞳を見る
と、無言で右手をゆっくり開いて柄を放した。
「どういうつもりなの、ブランデーワイン」玲子は詰問した。「スワンはあなたの
奥さんで、仲間でもあるのよ。冗談はやめにして」
「仲間?」ブランデーワインは自分が押さえている女性をちらりと見ると、高らか
に短く笑った。「そう確かにこの女は仲間だった」
ようやくその時になって玲子は、自分の警戒本能がかすかに反応しているのに気付
いた。瘴気が感じられる。もちろんその源は2階に立っている男からだ。
「まさか…」玲子の呟きを、ブランデーワインの哄笑がかき消した。
「やっと気付いたようだな」 イーヴル・サイン
突然、放射能汚染されたドブ川のように強烈な邪悪な瘴気が屋内に満ちた。全ての
装いをブランデーワインが脱ぎ捨てたのである。外見上は全く変化がない。しかし、
そこに立っているのはまぎれもなく…
「<従者>!」玲子は反射的にメダリオンを投じようとして、あやうく思いとどま
った。ブランデーワインは再び嘲笑を高らかに響かせた。
「愚かな人間どもよ。この肉体の男はな、とっくの昔に私がいただいた」<従者>
はコルトパイソンをちらつかせて、玲子とカインを牽制しながら言った。「この男の
知識もな。おかげでお前達を呼び寄せることができた」
玲子は心の中で、タイラントを罵った。教団の誇る情報網を持ってしても、この事
態を察知する事すらできなかったのだ。
「私たちに何の用があるというのよ?」玲子はようやく冷静さを取り戻した。
「大したことではない。ちょっとしたゲームを楽しむだけだ。そうそう、自己紹介
が遅れて申し訳ない。私の名は、ツオ・ル。偉大なる炎の神、クトゥグァ様に仕える
者だ」
ツオ・ルが邪神の名を発音した途端に、周囲の温度が一気に数十度も上昇した。<
旧支配者>の名は、それだけで空間に干渉し、物理的な影響を及ぼす。
玲子はカインをちらりと見た。カインはツオ・ルを睨みつけていたが、<従者>の
隙をうかがうとか、弱点を探っているといった様子はまるで感じられなかった。
−少しは恐怖とか、不安とかを感じているのかしら?玲子は考えながら、目立たぬ
ように、腕時計に擬されている送信器に触れ、エマージェンシー・シグナルを発信し
た。世界中のどこにいても衛星中継によって確実にタイラントに届く。
「ゲームですって?」玲子はいぶかしげに訊いた。
「その通りだ」その言葉と同時に、玲子とカインの立っていた部分の床が一瞬で消
滅した。言葉を発するまもなく、二人は床に吸い込まれていった。後にはツオ・ルの
悪魔的な哄笑だけが残った。
#2828/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/10 23:42 (196)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第4章 リーベルG
★内容
4
玲子とカインは暗闇の中を10メートルあまり落下した。玲子は落ち始めた瞬間に
プラーナを発し、底との距離を正確に掴み、猫のような身のこなしできれいに着地し
た。落ちたところはコンクリートの床のようだった。
何の前触れもなく照明が点き、3メートル四方くらいのドアも窓もない部屋を照ら
しだした。カインはと見ると、玲子の後ろに平然と立っていた。どのように着地した
のかはわからないが、この少年もただの人間ではないのだ。
玲子は部屋を調べようと足を踏み出した。その瞬間、胸が悪くなるような哄笑が部
屋中に反響した。 ジャカリチャーチ
「これからゲームをしようじゃないか、邪狩教団の戦士たちよ」その声は壁に埋め
込まれたのスピーカーから発せられていた。「ルールを説明しよう」
玲子達の正面の壁が、突然左右に開き始めた。
壁の向こうは同じような狭い部屋だった。二つの部屋の間は、おそらく最高の強度
を持つ、防弾/強化ガラスで遮られていた。
玲子は息を呑んだ。部屋の中には数人の若い男女が押し込まれていたのである。全
員、衣服を着けていなかった。すでに監禁されて何日にもなるらしい。全員がぐった
りして座り込んでいた。
床には水差しや鳥の骨などが乱雑に転がっていた。コンクリートの床の一部に血の
しみがあった。玲子は一瞬どきりとしたが、ニワトリの羽根が散らばっているのを見
て、何があったかを推察した。ツオ・ルは彼らを生かしておきたかったが、食物を調
理する手間をかけようとはせず、ニワトリを生きたまま与えたのだろう。さらに<従
者>が考慮しなかったことに、人間の生理現象がある。部屋の隅には大量の糞尿がぶ
ちまけられていた。二つの部屋は完全に気密構造になっているらしかったが、そうで
なければ鼻をつままなければならないほどの悪臭に襲われたことだろう。しかし、部
屋の中の男女は、もはやそれも気にならなくなっているらしい。
玲子の頭の中が怒りで真っ白になった。一挙手でメダリオンを取り出すと、渾身の
力をこめて遮断ガラスに投じた。9ミリ弾に匹敵する破壊力だったが、メダリオンは
ガラスの表面で空しく乾いた音を立ててはね返された。玲子は駆け寄って、ガラスを
両手で何度も殴りつけた。拳が裂け、血が滲み出した時、後ろからカインが玲子の怒
りに震える肩を、そっと掴んだ。
「もうやめるんだ、ハミングバード」
その声は超人的なまでに抑制されていたが、かすかに語尾が震えていた。玲子は息
をつくと、無益な攻撃をやめた。
ガラスの向こうの男女は、今の騒ぎに対してほとんど反応しなかった。一番近くに
いた女性がのろのろと顔を上げたが、その瞳にはもはや知性が宿っていなかった。一
体、どれくらい監禁状態を続ければ、人間がここまで無気力になるのだろう。玲子は
新たな怒りが押し寄せてくるのを感じたが、ぐっと感情の爆発を押さえつけた。
「この人間達は秘かに狩り集めてきたのだ」再びスピーカーからツオ・ルの声が流
れた。笑いをこらえているような口調だった。さっきの玲子の爆発をどこからか見て
いたのだろう。「遊びに来た学生もいれば、人目を忍ぶ不倫のカップルもいる。そん
な人間が、他にも100人以上いるのだ」
「何が目的なの」玲子はガラスの向こうの男女から目をそらして訊いた。
「今、お見せしよう」
その声と同時にガラスの向こうの部屋の壁の一角が開き、ツオ・ルが現れた。ブラ
ンデーワインの肉体をまとってはいるが、もはや人間らしく見せようとする努力は完
全に放棄していた。ガラスで遮られていても、その邪悪な瘴気が痛いくらいに玲子の
本能をを刺激した。玲子は拳を握りしめ、叫びだしたい衝動に耐えた。
ツオ・ルの姿を見ると、床に座り込んでいた男女のぼんやりした顔に恐怖が浮かん
だ。理由はなくとも、本能的に邪悪な瘴気を受けているためである。精神が白紙に近
い状態であるが故に、なおさら鮮明に感じるのだろう。
ツオ・ルはもはやスワンを押さえてはいなかった。右手には先ほどのコルトパイソ
ン357ではなく、ダーツガンを持っていた。
「スワンはどうしたの」玲子の問いに、ツオ・ルは肩をすくめた。
「まだ、生きている」嘲笑まじりに答えると、邪悪な笑いを顔中に浮かべた。「さ
あ、一人選ぶがいい」
「なんですって?」
「この中から一人選ぶのだ」ツオ・ルはおかしくてたまらないといった様子で繰り
返した。「ちょっとしたデモンストレーションをお目にかけよう。その対象をそちら
に選ばせてやる」
玲子は絶句した。それを見て、ツオ・ルは大笑いした。
「さあ、どうした。一人選んでくれ」
「その人をどうするの?」
「それは選んでからのお楽しみだ。さあ、時間稼ぎをしても何にもならないぞ」
玲子は躊躇った。この<従者>が何をたくらんでいるのかしらないが、邪悪な目的
であることは間違いない。玲子が選んだ犠牲者を、どのような運命が待っているのか
想像したくもなかった。
「できないわ」玲子は首を振った。
「選ばねば全員を対象にするぞ。選べば、その一人で終わりだ」
玲子は、ガラスに隔てられた部屋の中にうずくまる人々を見た。男が2人。女が3
人。合理的に考えれば、一人を選んで残りを助けるべきかも知れない。しかし、玲子
は、「小の虫を殺して、大の虫を生かす」ということわざが大嫌いだった。
「できないわ」玲子は力なく繰り返した。
「そうか」ツオ・ルの顔が邪悪な喜びに歪んだ。「では、そちらの坊やに選んでも
らおうか」
玲子はカインを振り返った。指名された金髪の少年は、氷のように冷たい怒りをこ
めて<従者>をにらみつけた。しかし、カインは玲子よりはるかに冷静だった。白い
指を上げると、一人の女性を指した。
「カイン!」玲子は思わず叫んだ。
「そうか、あの女だな」ツオ・ルの右手がさっと上がり、ダーツガンの引き金を引
いた。銀色のダーツが発射され、恐怖に震えている若い女性の右の乳房に突き刺さっ
た。
その女性は弱々しい悲鳴を上げて、ダーツを払いのけた。それは床ではね、遮断ガ
ラスの近くまで転がってきた。玲子はそれを見た。アンプルと注射針が一体となって
いる。針が目標に突き立つと、ガス圧でアンプルの中の薬品が注入される仕組みであ
る。
玲子の視線が、今ダーツを受けた女性に向いた。まだ、二十歳を過ぎてはいないに
違いない、痩せこけた身体が小刻みに震えていた。寒さのせいではない。注入された
何かが彼女の肉体に影響を及ぼしているのだ。
「何をしたの!」玲子は絶叫した。「何をしたのよ!」
「黙って見ていろ」ツオ・ルは楽しそうに遮った。
突然、女性は絶叫し、身体をかきむしりながら床に転がった。ダーツが刺さった乳
房は不気味な灰色に変わっていた。それは見る間に胸全体へ、そして首から顔へと広
がりはじめた。手が灰色の部分をかきむしると、その部分は乾いた泥のようにボロボ
ロと崩れ落ちた。
空気を求めるように口が大きく開かれ、舌がだらんと垂れ下がった。不意に絶叫が
止んだ。喉の奥から何かが押し寄せて声帯を塞いでしまったのだ。鮮血が口から流れ
たかと思うと、げふっという音とともに血の固まりが吐き出された。それはコンクリ
ートにぶつかり、ぐしゃりとつぶれた。ぐずぐずになった内臓だった。続いて、眼球
が眼窩から外れ、視神経を引きずりながら床に落下した。
耐えきれずに玲子は膝をついた。こみあげてくる嘔吐感を懸命にこらえる。カイン
は、よほど強靭な精神をもっているのか、まばたきもせずに自分が指名した女性の異
様な変貌を凝視していた。
もはや床に転がって痙攣するだけとなった哀れな犠牲者は、全身をおぞましい灰色
に変化させていた。玲子は瞳に涙をにじませながら、うす笑いを浮かべているツオ・
ルにかすれ声で叫んだ。
「これがお前のいうゲームなの!」
しかし、ツオ・ルは首を振って、指さした。
「まだこれからだ」
玲子が目を向けたとき、びくん、と床に転がっている肉体がはね、立ち上がった。
同時に強烈な瘴気が、その崩れかけた身体から放たれはじめた。唖然として見守って
いた残りの4人の男女は、怯えの色を浮かべて、かつての同室者を見た。
両腕に肉が盛り上がった。同時に指が伸び、鈎爪が生えた。開いたままの口の中で
は、鮫のようにするどい歯が生え始めていた。やせ細った両足にも、急激に筋肉がふ
くれ上がっている。彼女の肉体が急速に再生を始めているのだ。しかし、それは元の
ような人間の身体ではなく、何か全く別の邪悪な存在に変換されている。
頭髪が残らず抜け落ち、かわりに鬼のような角が2本、急速にのびた。ひとつ残っ
た目は、血の色に変わり、邪悪な知性をきらめかせた。すでに変身の苦痛はなくなっ
たらしく、自分の新しい身体を、試すように動かしている。
一人の男が耐えきれず悲鳴を上げた。
不意にそれは動いた。思いもよらぬ敏捷さで、その男に近付くと、鋭い鈎爪の生え
た右手で喉を切り裂いた。絶叫と返り血を意にも介さず、牙が首筋に食い込み、首の
筋肉を頚動脈ごとちぎりとった。それは飢えを満たすように肉を喰いちぎり、血をす
すり、男の身体をむさぼり始めた。
「よし、やめろ」ツオ・ルが指を鳴らした。その途端、人間だった悪鬼は血と内臓
をすするのを中止して、従順な犬が飼い主の命令を待つようにしゃがみこんだ。しか
し、真っ赤な舌で口のまわりをなめながら、残った左目をいやらしく動かして、恐慌
の叫びを上げている3人の男女をもの欲しそうに、ちらちらとみていた。
「この女に注射したのは、我が主人の細胞を培養したものだ。結果はごらんのとお
りだ。我々の兵士がひとり誕生したのだ。私はこれをアスラと名付けた」ツオ・ルは
得意気に説明をはじめた。
ツオ・ルは人類よりも古い<従者>の一族に属していた。その一族には太古から伝
わる石版があり、それは<旧支配者>が戦いのときに流したとされる邪悪な血が染み
込んでいた。何千年もツオ・ルの一族は、その石版を崇めてきたのだが、20世紀に
なり、分子生物学が発達すると、人類社会に秘かに潜入していたツオ・ルは、それを
最も邪悪な目的に利用することを思いついた。
「私は石版から<旧支配者>の遺伝情報を取り出した。何十年もかけてようやく増
殖に成功したのだ。
最も、苦労したのはふさわしい設備を備えた研究施設を手に入れることだった。民
間の施設は設備不足。軍や政府の施設はさすがに侵入が難しい。だが、かなり前から
この研究所のことは我々の情報網に探知されていた。小賢しいお前達の教団の情報も
得る必要があった。この男はまさにうってつけだったよ」
人間の体内に入った細胞は、猛烈な勢いで増殖を開始する。赤血球を飲み込み、白
血球の攻撃を打ち破り、神経細胞を一瞬で破壊する。そして、宿主を死の一歩手前に
追いやると、おもむろに破壊活動から生産活動へと転ずる。ただし、それは悪性腫瘍
のような生産活動である。数分でそれは完了し、強靭な生命力に満ちたアスラへと生
まれ変わるのだ。
「やがてこのアスラが大量に地上に解き放たれれば、どのような地獄が地上に再現
されることか!」ツオ・ルは、ほとんど恍惚となって叫んだ。「実に楽しみではない
か!偉大なる炎の神、クトゥグァよ!」
地獄の炎がそのまま地上に出現したかのような高熱が再び通り過ぎた。玲子は長い
髪を押さえながら、ツオ・ルを睨んだ。
「長官のもとに送った、ふざけたレポートは何のため?」
「ああ、それはもちろん、誰か邪狩教団の人間が必要だったためだよ、お嬢さん」
「やっと、本題に入れたわね」玲子はツオ・ルの演説を皮肉った。ツオ・ルは定ま
った肉体を持たない<従者>らしいが、その性格はブランデーワインのものだったか
もしれない。まれな例だが、宿主の精神力が<従者>の予想を越えて強力だった場合、
両者の精神は融合してしまうこともある。
「教団の人間がどうして必要なの?」
「こいつらを地上に送り出すには、訓練が必要なのだ」ツオ・ルはしゃがみこんで
いるアスラの頭を撫でた。「君達はそれにうってつけだ」
「何が言いたいの?」玲子はいやな予感を押さえつけて訊いた。「私たちにその哀
れな人たちに、戦闘訓練を施せと言うの?」
「いやいやいや」ツオ・ルは笑いながら首を横に振った。「もちろん、そんなこと
は考えていないよ。君達はこいつらと戦ってくれればいいのだ。ああ、念のために言
っておくが、手加減する必要は全くないよ。そうでなくても、アスラ達が手ごわいこ
とは保証する」
玲子は冷笑を浴びせた。
「あんた、ばっかじゃないの?」
「どういうことかな」ツオ・ルは少しも動じた様子を見せずに訊いた。
「私たちが、戦った相手を殺してしまえば、訓練にも何もならないじゃないの。元
は人間だからといって、私が慈悲を見せると考えているなら大間違いよ。犠牲者の魂
を救うためだけにでも、確実に死を与えるから」
ツオ・ルは感心したような表情で、うなずいた。
「戦士にしては頭がいいな。そのことなら心配はいらんよ」
玲子は疑問を口にしようとしたが、ツオ・ルは面倒くさそうに手を振った。
「さあさあ、時間の無駄だ。早速、戦いを始めようか。そこでは狭いだろうから、
場所を移ってもらおう。念を押しておくが、スワンとその子供の命が、私の手に握ら
れていることを忘れないことだ」
玲子達の部屋の壁の一部が音もなく開いた。玲子が覗きこむと、そこは下りの階段
になっていた。
「そこを降りるんだ。暗いから足元に気をつけてな。どうせならベストの状態で戦
ってもらいたい。足などくじかれてはたまらん」
玲子はカインを見た。カインは肩をすくめて、顎をしゃくった。玲子はおそるおそ
る階段に足を踏み入れた。その時、ツオ・ルの声が呼び止めた。
「そうだ、忘れるところだった。ハミングバード。君の送信機と受信機をそこに捨
てていきたまえ。時間稼ぎをされるといかんから言っておくが、さっき君が発信した
エマージェンシー・シグナルは届いていないよ。この屋敷は、私が設定した周波数以
外は、あらゆる電波を遮断する構造になっているのだ」
わざわざツオ・ルを喜ばせるのもしゃくなので、眉ひとつ動かさなかったものの、
内心で玲子はひどくがっかりした。敵はブランデーワインの知識を残らず自分のもの
にしており、従って邪狩教団のことも知り尽くしている。援軍の望みが断たれたこと
を噛みしめながら、玲子は腕時計とイヤピースを床に放り投げた。
「よし、行きたまえ」楽しそうにツオ・ルがうながした。玲子は階段に足を踏み降
ろした。数歩遅れて、カインも続く。数段降りると、背後で重い石の扉が閉じ、冷た
い暗闇が玲子とカインを包み込んだ。
#2829/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/10 23:47 (197)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第5章 リーベルG
★内容
5
<旧支配者>は肉体を持たない。彼らの本質が、いわゆる霊なのか、異次元のエネ
ルギーなのか、それとも人間を嘲笑する大宇宙の悪意なのか、多くの賢者や魔導師や
科学者が考察を重ねてきたが、全くわかっていない。
わかっているのは、彼らが邪神として地上に君臨するときは、仮の肉体をまとうと
いうことだけである。その姿は、およそ地球の進化論にも生物学の常識にもあてはま
らない、巨大でおぞましいものになる。
従って、仮に核兵器でその肉体を蒸発させたとしても、本体には傷もつかない。<
旧支配者>の本体は、太古に封印された時空連続体にあり、地上に現れるのはその強
力な魔術がもたらす影であるのだから。彼らは、地上の肉体を失えば、また作り上げ
るだけのことだ。
しかし、<旧支配者>が使った肉体は、本体の影がそれを捨てた後でも、危険な存
在である。一度、<旧支配者>の影響を受けた肉片は、ガン細胞のように邪悪な増殖
を繰り返すし、人間の体内に入れば、肉体ばかりか魂までも危険になる。もっとも、
大抵は自らを制御しきれずに共食いの果てに全滅する。
ツオ・ルが行ったのは、強靭な生命力で太古から残っていた<旧支配者>−正確に
は彼らが使った肉体−の血を遺伝子工学を利用して、活性化したことである。その細
胞は充分な邪力を持っている。ツオ・ルの望みのままに、人間を変化させるには、そ
れほど困難なことではなかっただろう。それは科学ではなく、魔術の分野になるが。
玲子が秘かに恐怖を感じているのは、ツオ・ルが太古からの魔術と、現代の科学の
両方を使いこなす、新しいタイプの<従者>であるらしいということだ。科学の方の
大部分はブランデーワインの知識だったとしても、それを有効に活用しているという
ことは単純な相手ではない。冷酷で、危険なやつだ。何としても、ここを脱出してタ
イラントに知らせる必要がある。
玲子とカインが降りている階段は、ゆるやかに螺旋を描きながら地の底へと続いて
いた。渡された資料にはこのような階段は記されていなかった。ということは、ツオ
・ルがブランデーワインを乗っ取ってから作り上げたに違いない。その証拠に両側の
壁面の所々に得体の知れない模様が描かれている。明かりがあれば、クトゥグァ信仰
の印が浮かび上がるのだろう。
不意に、暗闇の中で右手をとられて、玲子は声をあげそうになった。後ろをついて
来るカインが、そっと握ってきたのである。もし、第3者が見ていたら、暗闇を不安
に感じた少年が、それをまぎらわそうとしたのだと思ったことだろう。しかしカイン
は決して臆病な少年ではなかった。幼くとも、<巫女>の一族なのだ。
−ハミングバード。ぼくの言葉が聞こえるか?
心の中にカインの声が流れ込んでいた。玲子も応答を返した。といっても、答を考
えただけだが。
−ええ、テレパシー? マインド・コミュニケーション
−違う。何と言ったらいいのかな。心 の 接 触かな。
−この状況をどう思う?
−とりあえず、相手の言いなりになるしかないだろうな。
夜目のきく玲子が振り返っていたら、カインがいまいましげな顔をしているのが見
て取れただろう。玲子は思わず唇に笑いを浮かべた。
−そうね、スワンと子供が人質にとられている以上は仕方がないわね。
−本当にそう思うか?カインは意外なことを言った。玲子は驚いて問い返した。
−え、どういうこと。
−2カ月も<従者>と同居するなんてことが、耐えられると思うか?
−私ならとっくに、逃げ出すが、狂うか、自殺するかしてるわね。玲子は認めた。
−または、寝返るか。カインは玲子が考えなかった可能性を上げた。
−まさか!あ、でも考えられるわね。むしろ、ブランデーワインと同時に、スワン
も乗っ取ったとする方が自然ね。だとすると、私たちがツオ・ルとやらを倒すのに躊
躇する理由は何もないということになるのかしら?
そのとき、玲子は子供のことを思い出した。
−まだ子供がいたわね。
−そうか。1才の久美だったな。どこにいるんだろう。
−殺されてはいないと思うけど。それがわかるまではどうしようもないわね。
−見捨てていっても、構わないと思うが。カインの反応は冷たかった。玲子は激し
く反論した。
−それでも、人間なの!あなたのお姉さんが聞いたらなんて言うかしら?
カインは沈黙した。痛いところをつかれたらしい。
−あなたはさっき、相手の言いなりになるしかない、といったわね。玲子は荒い口
調で詰問した。でも、スワンが実は敵で、子供は見捨てても構わないと思っていたの
なら、言いなりになる理由がないじゃないの。
−ツオ・ルの本当の目的が何だかわからないからだ。カインはぼそりと答えた。
−どういうこと?
−やつの本当の目的は、あのアスラの訓練より、別にあるのじゃないか?
その時、前触れもなく玲子の眼前が光に変わった。カインは手を放し、接触は途切
れてしまった。数段先で階段は終わっており、自動的に扉が開いたのである。二人は
光の中に足を踏み入れた。
そこはアリーナだった。直径30メートルほどの円形のステージがあり、周囲は高
い壁になっている。その向こうには石段で作られた客席(?)が並び、そこに座って
いるのは、玲子達が先ほど見たのと同じようなアスラ達だった。その数はおよそ、数
百匹。すさまじい瘴気が二人を包んだ。
滅多に物おじしない玲子も、さすがに圧倒されて一歩後退した。しかし、背後の扉
はすでに固く閉ざされていた。その年齢にしては冷静すぎるカインも、反射的に剣の
柄に手をかけた。
アスラ達は不気味な沈黙を守っていたが、おぞましい赤い目で玲子とカインを見つ
めている。明らかに肉食獣が夕食を見る視線だった。
カインが玲子の注意を客席の一部に向けた。反対側の最前列にツオ・ルがニヤニヤ
笑いながら、座っていた。隣には恐怖の表情のままのスワンがいた。スワンは両手で
赤ん坊を抱えていた。
玲子はカインと視線を交わした。カインの目の中に同意を読みとった玲子は、思い
切ってはったりをかますことにした。
「もう、下らない芝居はやめにしたらどうなの」ことさら嘲笑の響きをこめて言い
放つ。「スワンも仲間だってわかってるのよ」
その言葉が届いた途端に、ツオ・ルはスワンと目を見交わした。が、次の瞬間、ツ
オ・ルは高笑いした。
「さすがだな。ハミングバード。それともそこの坊やの知恵かな。まあ、遅かれ早
かれわかるとは思っていたが」ツオ・ルがうなずくと、スワンは変貌した。外見上の
変化はないが、まぎれもなく邪悪な瘴気を発している。
「自己紹介させていただくわ」スワンであった女は誇らしげに言った。「キオ・ル
よ。別に女ではないのだけど、この身体は居心地がいいのでね」
「その子を放しなさい、といっても無駄でしょうね」
キオ・ルは高い声で笑った。つい、さっきまで恐怖におびえていた仮面は跡形もな
く消えていた。
「この子は大事な人質ですからね。この子の命が惜しくないならば、遠慮なく私た
ちを殺して下さってもかまいませんことよ。ほほほ」
言葉は上品だったが、玲子は嫌悪感以外を感じなかった。何か痛切な皮肉を投げか
けてやろうと思ったが、ツオ・ルが遮ったために果たせなかった。
「さあ、戦いをはじめようか」ツオ・ルは指を鳴らした。1匹のアスラが客席から
ステージにひらりと舞い降りた。これも、人間の犠牲者が<旧支配者>の邪悪な細胞
によって、悪鬼に変化させられた姿なのだろうか。
「ルールは簡単」ツオ・ルは楽しそうに告げた。「どちらかが死ぬまでだ。最初は
1対1で戦ってもらおうか。お嬢さん、君から始めるかね?」
玲子は無言で進み出た。アスラは低くうなると、じろじろと玲子を見た。
「試合開始だ!」ツオ・ルが宣言した。
前触れもなく、アスラが跳躍した。幅跳びの世界記録保持者でもかなわないような
距離を、軽い筋肉の収縮だけで縮めたのである。玲子が見かけ通りの平凡な女の子で
あれば、何が起こったのか理解しないうちに命を落としていただろう。
しかし、玲子の動きはそれを遥かに超越していた。玲子は、アスラが動き出した瞬
間に、その方向やスピードをプラーナによって、予測していたのである。体重移動だ
けでアスラの攻撃を回避した玲子は、メダリオンで敵の頭部をこすった。途端に邪悪
な細胞が激しい拒否反応を起こし、煙を立てて溶解し始める。浮き彫りになっている
五芳星形に秘められた古く強い力が、強靭な<旧支配者>の細胞に致命的な一撃を与
えたのだ。
アスラは頭から煙を上げながら、なおも戦意を喪失せずに、鈎爪の生えた長い腕を
振り回した。再びそれをかわした玲子は、回避行動をそのまま攻撃に転じた。長い脚
に体重をのせ、さらにプラーナで加速し、アスラの傷を負った頭部に叩きつける。角
が折れ、頭骨が微塵に砕ける手応えがあり、アスラはコンクリートの上に倒れた。
拍手が起こった。玲子は息も乱さずに振り向いて、ツオ・ルを睨んだ。
「いやいや、大したものだ」ツオ・ルは余裕たっぷりな笑いを浮かべている。
「この程度じゃあ、訓練にはならないわよ」玲子はわざと侮蔑的な態度をとった。
「そうかな。まあいい。それでは坊や、君の番だ」ツオ・ルは、今の短い戦いを他
人事ように眺めていたカインを指した。カインは何事によらず、他人に指図されるこ
とが大嫌いなようだったが、あえて何も言わず進み出た。
「<巫女>の一族には、私も初めてお目にかかる。その戦いぶりをとくと拝見させ
ていただこう」ツオ・ルは指を鳴らして、別のアスラを下に降ろした。
カインは夏の夜の蚊でも見るような視線を、そのアスラに向けた。剣を抜こうとも
しない。アスラはわずかにとまどったように首をかしげたが、赤い目をぎょろりと動
かすと、いきなり飛びかかった。
次の瞬間に起こったことを正確に理解したのは、カインとその対戦相手だけだった
に違いない。動態視力に優れた玲子ですら、無意識に記憶した映像をスローで呼びも
どさなければならなかった。
アスラの胴は両腕ごと、真横に両断されていた。カインは稲妻も顔負けのスピード
で剣を抜き放ち、敵をバターのように簡単に斬り裂くと、何事もなかったかのように
鞘に戻したのである。残像すら残さない、それは神技だった。
4つの肉片に分断されたアスラの身体の切断面からは、わずかに煙が立ち昇ってい
る。しかし、血は全く流れ出ていない。瞬間的に体液が凝固してしまったのだ。
玲子は寒気を感じた。この少年は12才で、初陣なのである。これが経験を積めば、
どうなるのだろう。玲子は心から、カインが敵でなくてよかったと思った。
さすがのツオ・ルも、わざとらしい拍手をするのを忘れて、しばらく呆然としてい
た。だが、カインが床に転がった邪悪な肉片を見向きもせずに、元の場所に戻り始め
ると、ようやく我に返ったように叫んだ。
「素晴らしい!これほどとは思わなかった。君を寄越してくれたタイラント長官に
感謝しなければなるまいな!」
何とも大げさな奴だ、と玲子は考えた。確かにアスラは並の人間よりは、力と敏捷
性において勝っているかもしれないが、例えば玲子のように天性の素質を持ち、訓練
された人間にとっては、それほど恐ろしい相手ではない。もちろん、1対100とな
ると、おのずから話しは変わってくるが。しかし、厳しく訓練された軍隊ならば、そ
れほど苦戦することはあるまい。玲子はかつて戦ったことがある特殊部隊と、アスラ
とを頭の中で戦わせてみて、そう結論を下した。
「さあ、選手交替だ」しかし、ツオ・ルはそのようなことは少しも心配していない
らしく、陽気に叫んだ。玲子はひょっとして、この<従者>が頭のいい危険な相手だ
と考えたのは、過大評価もいいところだったのではと思いなおしながら、進み出た。
すでに、別のアスラが仲間の死体を踏みつけて待ち受けている。
玲子が相手を見据えると同時に、アスラは飛びかかってきた。玲子は先ほどの相手
と同じように体をかわし、簡単に相手の背後をとった。メダリオンを相手の無防備な
後頭部にふりかざす。
その直前、玲子は何かを探知した。鍛えぬかれた反射神経が、ぎりぎりで攻撃を中
止させて、回避行動をとらせる。距離をおいてから玲子は、相手の腕が完全に背中の
方向に曲がり、自分の顔面を攻撃していたのを認めた。あのまま攻撃していたら、よ
くて相討ちになっていただろう。玲子は心の中で冷や汗をかきながら、繰り出される
敵の鈎爪を避けて、身を沈めた。
アスラはそれを追って、太い足を振り回した。玲子はそれを受け流して、相手の懐
に飛び込むと、メダリオンで相手の胸板に直線を描き、つばめのように離れた。アス
ラは煙を上げる胸の肉をかきむしっていたが、やがて苦痛に耐えかねたように崩れ落
ちた。玲子は右足を苦しむ敵の頭に叩きつけ、楽にしてやった。
「油断したわ」玲子は苦笑しながら、カインに言った。だが、少年は真剣な顔で否
定した。
「違う。やつらは記憶を共有しているんだ」
玲子は愕然として、振り返った。記憶のフィルムを巻き戻して、今の戦いを再検討
する。1度目の戦いと2度目の戦い。自分の攻撃/回避パターンはほぼ同じだった。
しかし、相手の反撃は…。
「まさか。偶然じゃないの?敵にも個性があるだろうし、能力の違いだって…」
カインは無言で玲子を押し退け、進み出た。玲子はカインが2度目の敵と対するの
をじっと見守った。
今度は、かろうじて玲子にも、カインの電光のような剣の動きが視認できた。もっ
とも、それは残像であったかもしれない。驚嘆するに値する剣技である。
しかし、さらに驚くべきことが起こった。何と、敵のアスラはそのきらめきのよう
な剣筋をかわしたのである!
玲子は声も出せなかった。プラーナで加速された反射神経をもってしても、始めて
で、あれをかわすのはほぼ不可能に近いだろう。こうして、何度か観察してからなら
ば、10回に1回くらいは逃れえるかもしれないが。
カインはそれを予期していたらしく、全く慌てる様子も見せなかった。くるりと宙
で剣を返すと、華麗なステップを踏んで、相手の側面にまわりこみ、あっさりと首を
斬り飛ばした。
わかったか、というようにカインは玲子を見た。玲子はうなずいた。ツオ・ルが、
死んだアスラを少しも惜しまない理由が分かった。1匹が倒れても、その体験は他の
全てのアスラに引き継がれるのである。そういう能力があるなら、最後の1匹になっ
たとしても、そのアスラの細胞を人間に注入すれば、同じ記憶と能力を持ったアスラ
が誕生するに違いない。
「さあ、次が待っているよ。お嬢さん」ツオ・ルは揶揄する口調を崩さずに、玲子
をうながした。玲子はため息をつくと、新たなる敵に向かい合った。つまり、2度と
同じ攻撃のパターンは通用しないということだ。しかも、倒すに従って強い敵をわざ
わざ作り上げることになる。手抜きをするにしても限度がある。
絶望の淵を覗きこんだような気分が玲子を包んだ。アスラが狡猾な動きでじわじわ
と近寄ってくる。
#2830/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/10 23:51 (152)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第6章 リーベルG
★内容
6
2時間以上が経過した。玲子とカインはそれぞれ30匹以上を倒したが、同時に同
じ数の攻撃パターンを相手に盗まれていた。1匹倒すごとに、より多くの時間がかか
り、反撃の数も増えている。当然、疲労も増す。
疲労が重なっては訓練にならんからな、とツオ・ルが一時休憩を宣言した。それほ
ど極端に身体が疲れているわけではないが、玲子は座り込んだ。むしろ、精神的な負
担の方が大きかった。
「プロレスラーや拳法家じゃあるまいし、そんなに攻撃の型がたくさんあってたま
りますかってのよ」荒々しく毒づいてみても、空しいだけだった。
「ぼくはあと、20や30くらいは剣の型を知ってるが」さしものカインも焦燥を
隠せないようだった。「奴らはまだ、200匹以上いる」
「しかも、戦えば戦うほど、強く、速く、狡猾になっていくんだから手に負えない
わね」玲子はいまいましげに吐き捨てて、キオ・ルと何かを話しているツオ・ルをに
らんだ。「いちかばちか、ツオ・ルとキオ・ルを攻撃して、子供を救い出すというの
はどうかしら」
「それができればとっくにそうしているよ」カインは周りを埋めつくしているアス
ラの群れを見回した。「少しでも、奴らを攻撃する素振りでも見せようものなら、た
ちまち全部のアスラが飛びかかってくるに決まってる。そうなったら勝ち目はない。
ぼくの剣でも、同時に斬り倒せるのはせいぜい10匹くらいだ。君はもっと少ないだ
ろう?ハミングバード」
玲子は腹を立てる気にもなれなかった。
「今、必要なのは援軍だ」カインは続けた。「何とか外に連絡しなければ」
「通信機は上にあるし、この別荘は電波を遮断するんでしょう」
しかし、玲子は不意に考え込んだ。
カインがさりげなく、手を触れてきた。
−どちらかが、奴らを足止めしている間に、片方が外に脱出すればどうだろう。
−通信機は多分、あの部屋に転がったままよね。それを拾って、一歩でも外に出ら
れれば。
−下りてきた階段を戻るしかないな。問題はこの厚い石の扉を開ける方法だが。
−焼夷カプセルをもってるわ。ひとつだけだけど。うまく、場所を選べば開閉機構
を溶かせるかも知れない。
−子供はどうする?
−もちろん、助けるわよ。考えがあるの。
ツオ・ルの大声が、二人の声なき会話を遮って響いた。
「そろそろ、試合再開といこうか、戦士たち?」
玲子は進み出ると、唇を嘲笑の形にゆがめて、言った。
「まだるっこしいわね。こんな間抜けな化け物たちじゃあ、交番のお巡りさんが一
人いれば、皆殺しにできるわよ。時間の無駄ね。1対2でやりましょうよ。ちょうど
いいハンデだわ」
ツオ・ルは探るようにじろじろと、玲子とカインを見ていたが、やがて愉快そうに
笑いだした。
「大した自信だな、え?お嬢さん。早く数を減らそうとしているなら、無駄だとい
っておくぞ。だが、まあいい。希望通り、1対2でゲームを続けようか。いずれそう
しようと思っていた」
ツオ・ルは指を2回鳴らした。2匹のアスラが、ステージに下りた。
玲子はメダリオンを、軽くつまむように持った。現代の冶金学では決して造り出す
ことができない金属は、30匹以上の邪悪な血を吸っている。別に敵に対する効果が
薄れるわけではないが、何となく気分が悪くなるのは否定できない。
1対2のパターンはアスラたちにとっても、未経験である。格闘戦において、1対
複数という状況が、必ずしも複数の側に有利だとは限らない。よほど、密接に連携が
とれていないかぎり、互角あるいは不利にもなりかねない。それは訓練によって獲得
しなければならないものである。
それがわかっているのか、いないのか、アスラたちは適当な距離をおいて玲子を見
つめていたが、左にいたアスラがいきなり飛びかかってきた。それにつられたように、
右のアスラも半歩遅れて跳躍する。
意外なことに、玲子は2匹に背を向けた。鋭く跳躍すると、空中で焼夷カプセルを
取り出した。玲子のプラーナにのみ反応して、瞬間的に数千度の高熱で発火する、小
型の武器である。自分が降りてきた石の扉の前に降り立つと、素早く信管を作動させ
て、扉の駆動機構があるとおぼしきあたりに叩きつけ、カインに叫んだ。
「目!」
扉の表面に白熱の光球が生まれた。直視すれば、水晶体に焼き付きが生じるだろう。
カインは玲子の警告を理解して、顔をそむけている。しかし、玲子を追ってきた2匹
のアスラは、顔を鈎爪の生えた手で覆って、ぞっとするようなうなりをあげている。
玲子は素早く駆け寄った。気配を感じたのか、アスラたちはやみくもに腕を振り回
している。それをかいくぐると、相手の懐に風のようにもぐりこんだ。そして、敵の
強靭な筋肉に覆われた太い腕を握ると、体をひねって投げ飛ばした。柔道の一本背負
いの要領である。柔道の専門家が見れば、型もタイミングもとても及第点には達しな
いものだっただろう。しかし、そのスピードには驚嘆したに違いない。
アスラの身体は驚くほど長い距離を飛び、計算された正確さで、唖然としているツ
オ・ルに向かった。さすがに意表をつかれたツオ・ルは、それでも一瞬後には冷静に
コルトパイソンを抜くと連射した。強力な357マグナム弾は、貫通こそしなかった
ものの、アスラの身体に圧倒的なエネルギーをぶつけた。急速に運動エネルギーを減
殺された肉体は、ツオ・ルの前の壁に激突したが、その直前、アスラの身体が二つに
分裂し、何かが鳥のように空中に躍りでた。
それが、まぎれもなく玲子であるのを知ったツオ・ルは、驚愕の咆哮を上げた。玲
子は、すでにメダリオンを両手から放っていた。再びコルトパイソンのトリガーが絞
られた。メダリオンは一瞬後にはただの金属の塊となって、遠くへ飛ばされた。しか
し、キオ・ルの方は、子供を抱えていたこともあり、それを避けることができなかっ
た。メダリオンは、邪狩教団のスワンのものであった額に食い込んだ。
人間の声帯からは絶対に出せないような、呪詛に満ちた絶叫があらゆる音声を圧し
て、アリーナに満ちた。玲子のつま先がきれいな弧を描いて、キオ・ルの喉にたたき
こまれた。キオ・ルの腕の力が弱まり、玲子は易々と子供を奪い取った。
キオ・ルの頭部はすでに、沸騰したようにぶくぶくと泡をたてて、熔け始めていた。
地上の肉体に宿っていた<従者>は、必死で宿主の身体の崩壊を防ごうとしていたが、
もはや手遅れだった。人知を越えた強力な力が、呪われた肉体を引き裂き、本体を攻
撃しているのだ。瞬間的にすさまじい瘴気を発しながら、その邪力は急速に消滅して
いった。
もちろん、玲子はそれを見届けてなどいなかった。子供を大切に抱えると、カイン
の方へ走った。アスラたちは一時的にうろたえて右往左往しているが、ツオ・ルが命
令を発した途端に、一斉に襲いかかってくるだろう。
石の扉は、玲子の焼夷カプセルによって、半ば以上溶解していた。カインは開いた
穴に手を突っ込んで探っていたが、すぐに中の何かをへし折った。ガチャリと小さな
音が鳴り、石の扉全体が数ミリ動いた。カインは隙間に指を入れると、華奢な見かけ
からは、想像もできないほどの力で、重い扉をこじ開け始めた。
「ングルウンル!イグルウンル、ゲフルング!」玲子が、扉と格闘しているカイン
のもとに着いたとき、ツオ・ルが叫んだ。その命令を耳にしたアスラたちは、先を争
ってアリーナに飛び降りると、玲子達に向かってきた。カインは、それを聞くと扉と
の力比べを放棄して、素早く剣を抜き放つと、玲子の前に立ちふさがった。
「開けてくれ!」一声怒鳴ると、カインは素早く、8音節からなる呪文を唱えた。
そして、剣を斜に構えると、そのまま、凍りついたように静止した。
殺到してくるアスラの動きが急停止した。何かを恐れるように目をそむける。うな
り声をあげ、牙をむき出しながらも、見えない壁に隔てられているように、ある一定
のラインより踏み込もうとしない。
玲子は扉の隙間に手をかけて、渾身の力で押し広げ始めていたが、背後から暖かい
波動を感じて振り向いた。それは玲子に背を向けたカインの全身から、ゆるやかに発
していた。ツオ・ルやアスラたちから発する瘴気がドブ川の臭いだとすれば、カイン
の波動は、春の暖かい陽射しの中で咲き誇る花の香りのように、優しく、おだやかな
心にしみとおる匂いだった。
アスラたちは、その波動を恐れているのではなかった。かつて人間だった時の、記
憶と呼ぶにはあまりにもはかない、魂の奥底にある何かを揺さぶられ、悲しみを誘わ
れているのだった。<旧支配者>の細胞の呪縛と、ツオ・ルの邪力によるコントロー
ルが、一時的にせよ無効になっていた。
玲子は身体に残っていた疲労が、嘘のように消えていくのを感じた。細胞の隅々ま
で、プラーナがみなぎっているようだ。扉にかけた手に力をこめる。抵抗を示してい
た重い扉も、ようやく人間がひとり通れるぐらいに開いた。玲子はカインを振り返っ
て、息を呑んだ。
ツオ・ルがコルトパイソンに弾丸をこめなおしたところだった。銃を軽く振って、
シリンダーをおさめると、銃口をカインに向けた。その顔には人間には浮かべようが
ない、邪悪な笑いが浮かんでいた。
メダリオンが地下の重い空気を切り裂いて飛んだ。
ツオ・ルが、まさにトリガーを絞ろうとした瞬間、メダリオンがコルトパイソンを
直撃した。それは、357マグナムにも匹敵する破壊力を見せ、シリンダーの前部に
食い込み、精密な機構を完全に破壊してしまった。さらに破片がツオ・ルの手に食い
込み、<従者>は悲鳴に近い咆哮を上げて、リボルバーを投げ捨てた。
ツオ・ルの手から、煙があがっている。メダリオンの破片にこめられた力が、邪悪
な細胞を侵食し、溶かしているのである。ツオ・ルは左手で手刀をつくると、うなり
声とともに、熔け始めた右手首に叩きつけた。右手の先はすっぱり切断され、どす黒
い血がほとばしった。ツオ・ルは再び咆哮した。本来、自分の肉体ではないのだが、
長い間宿っているために、痛覚を共有してしまったのだろう。
「貴様ら、もう許さんぞ!」ツオ・ルはわめいた。まがりなりにもかぶっていた紳
士的な仮面は跡形もない。「肉体と魂と両方を残酷な拷問にかけてやるからな」
<従者>はアスラをかきわけて進み出ると、もの凄い形相でカインに相対した。カ
インが形作っている、一種の力場に踏み込むことはさすがにできなかった。だが、邪
力は相当なものであるらしく、その力場をじりじりと押し戻し始めた。アスラたちも
それにつれて、少しずつカインに対する包囲の輪を縮めていく。
「カイン、行くわよ」玲子は、床に寝かせてあった子供を抱き上げると、敵をせき
止めている少年に叫んだ。だが、少年は振り向きもしないで答えた。
「行け、ハミングバード。ここはぼくが食い止めている。早く連絡を」カインの白
い首筋には、うっすらと汗が浮かんでいた。どんな魔術を使っているのか不明だが、
相当、肉体に負担をかけているようだ。だが、カインは不敵な笑みすら浮かべて、2
00匹以上のアスラに、短刀一本で立ち向かい、恐れる色も見せなかった。
「カイン」玲子はもう一度叫んだが、理性はカインが正しいことを告げていた。カ
インが一瞬でも術を途切れさせれば、たちまちアスラの大群が、二人をずたずたに引
き裂いてしまうだろう。交替することができない以上、玲子が急いで脱出して援軍を
呼ぶしかない。
「すぐ戻るわ」玲子はカインの背中に言った。
「早く行くんだ」カインは冷静に答えたが、不意に年齢相応の声で付け加えた。「
姉上に伝えてくれないか。ぼくは…」
「いやよ」カインの死の覚悟を冷たくはねのけて、玲子はきびすを返した。「言い
たいことがあるなら自分で言うのね」
暗い階段を登り始めるとき、玲子は涙をふいた。
#2831/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/10 23:55 (192)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第7章 リーベルG
★内容
7
心を怒りで燃やしながら、暗闇の中を幼子を抱いて駆け上がる玲子は、不意に前方
に瘴気を感じて、足を止めた。呼吸を整え、慎重に前方をプラーナで探る。数匹のア
スラが、壁のくぼみに潜んでいるらしい。ツオ・ルの命令で先回りしたか、アリーナ
にいなかったアスラだろう。
常なら敵が動くまでじっと待っただろうが、今の玲子は少し急いでいた。加えて、
抱いている子供のこともある。今は眠っているが、いつ目をさまして泣き出すかも知
れない。玲子はメダリオンを取り出すと、アスラが潜んでいる場所に鋭く投じた。
闇の中にアスラの叫び声が反響した。一匹に命中し、残りがうろたえて飛び出すの
がわかった。アスラがどれほど夜目が効くのかわからなかったが、玲子は構わず突進
した。
当てずっぽうに腕を振り回し、仲間同志傷つけ合ったりしているアスラたちに比べ
て、玲子の攻撃は的確かつ決定的だった。腕の中に子供をかばいながら、しなやかな
脚を魔法の杖のように振り回して、アスラたちの頭部を壁面にたたきつけて、粉砕し
た。アスラたちは恐慌の叫びをあげながら、次々に倒れていった。玲子とカインとの
戦いで得た記憶を共有していても、このように狭く、相手の姿が視認できない場所で
は、ほとんど役に立っていなかった。
いくつかの邪悪な死を置き去りにして、玲子は階段を駆け上がった。すぐに階段は
終わった。扉の輪郭が隙間からもれる光に浮き上がっている。玲子は開閉機構を探し
て、扉の周辺を調べ始めた。
カインは剣を斜に構えて、悠然と立っていた。しかし、わずかながらツオ・ルと名
乗る<従者>の邪力が勝っていると見えて、<巫女>の少年の力は次第に押し戻され
ていた。すでに、カインは心ならずも後退しており、背中は壁に張りついている。ツ
オ・ルは狡猾にも、わずかに邪力の攻撃の方向をずらしていくことで、カインを扉か
ら少しずつ遠ざけてしまっていた。 デッドライン
カインを中心に半径10メートル足らずの半円のラインが、現在カインの死線とな
っていた。それは、時が無慈悲に進行するたびに少しずつ、小さくなっていく。
「<巫女>の一族といっても、そんなものか」ツオ・ルはあざ笑った。「楽になっ
てしまえ。え、坊や」
カインは返答しなかった。澄んだ瞳に氷のきらめきを浮かべて、相手を見返すだけ
だった。
「その健闘を称えて、命までとろうとは言わないぞ、坊や」ツオ・ルは再び、嘲笑
に満ちたえせ紳士ぶりを取り戻していた。「アスラとなって、我が兵士となるのだ。
さぞかし、素晴らしい兵士が誕生することだろう。お前に大佐の位を与えてやっても
いいぞ、どうだ?」
カインは口を開いた。瞳には苦痛でも怒りでも恐怖でもなく、苦笑まじりのユーモ
アの色があった。
「腐った息をこれ以上吐くなよ、下種野郎。ぼくを正面から倒す自信がないのなら、
素直にそう言ったらどうなんだ。お前のような無能な将軍気取りの間抜けは見たこと
もない。お前なんかに指揮されるアスラたちも気の毒に、と言うほかないな」
美しい唇から静かにつむぎだされる罵声を聞くと、ツオ・ルは顔色を変えた。アス
ラたちも敵意のうなり声を高めた。カインはかまわず続けた。
「お前が何かの役に立つとしたら、その汚い身体を切り刻んで、そいつらに喰わせ
てやることくらいだ。どうしてさっさとそうしないんだ。そいつらも、さぞ喜ぶだろ
うに。腐肉の晩餐と、無能な主人の支配から逃れたことをな。お前の主人だって、今
頃どこかの宇宙でお前の無能さを、無限の深淵に向かって毒づいているだろう」
玲子がその場にいたら、カインの思いもかけぬ毒舌に驚くとともに、カインに対す
る評価を改めたに違いない。しかし、その場の聴衆は誰一人として、カインの表現力
を評価しなかった。
ツオ・ルの形相が一変した。眼球が飛び出し、鼻孔が大きく開き、血管が顔中に浮
きだした。<従者>の怒りが宿っている肉体に影響を与えているのだ。手首から先が
ない右手を振り回して、ツオ・ルはわめいた。
「黙れ、小僧!貴様には死よりつらい運命を与えてやる。何億年も暗い牢獄に閉じ
こめて、正気を保たせたまま、毎日いたぶり続けてやるぞ!我が偉大なる主に誓って
そうしてやる。私はこの侮辱を忘れんからな!」
「侮辱というのは、根拠のないことで不当にあげつらわれることを言うんだ」カイ
ンは、ツオ・ルの怒りなど少しも恐れてはいなかった。「ぼくが、お前に言ったこと
は、正しいことばかりではないか。お前は間抜けで、無能で、腐った愚か者だ」
「死ね!」たった今、死よりつらい運命を、と叫んだ舌の根も乾かぬうちに、ツオ
・ルはわめいた。邪力が増大し、カインのデッドラインが数センチ内側に押し戻され
た。カインは無言でそれに耐えた。冷たい汗が、一筋首筋を伝って背中に流れた。
次第に焦燥に駆られながら、それでも超人的な冷静さを保ちながら、玲子は扉の表
面を、少しずつ指で探っていた。おおよその見当はついていた。この階段を降り始め
るとき、部屋からもれるかすかな光で、扉の構造を素早く見ておいたからである。
やがて玲子はあたりをつけた。メダリオンを取り出して、扉の表面に傷をつけた。
そして、一歩下がると、傷を狙って加速された鋭い蹴りを正確にたたきつける。堅固
な扉の表面に、わずかに亀裂が入った。続けて数度、打撃を加える。少しずつ、破片
が飛び散り、ついに小さな穴が扉に開いた。
扉は厚さ5センチほどの、石畳を2枚合わせた構造になっていた。接触しているの
ではなく、数センチ隙間が空いていて、扉の開閉機構が収まっている。玲子は、自分
があけた穴をのぞき込んだ。狙い通り、油圧装置のポンプが何本も走っているのが見
えた。
急いで、長い髪の毛を数本引き抜く。指で寄り合わせて1本にすると、プラーナを
注入した。すぐにピアノ線のような強度を得た髪の毛は、玲子のコントロールに従っ
て、穴からするりともぐりこみ、ポンプにしっかりとまきつき、結び目を作った。玲
子は勢いよくそれを引っ張った。
ピシリ。小さな音が闇に響いた。ポンプが折れたのである。扉全体がガタンと揺れ
ると、数センチの隙間を作った。玲子は先程と同じように、隙間に指を入れると押し
広げ始めた。
貴重な数分を費やして、とうとう玲子は、子供を抱いて通れるだけの隙間をこじあ
けた。最初に落とされた小さな部屋は、照明が消されていた。哀れな男女が監禁され
ていた隣の部屋の中は空になっている。玲子は、心ならずも捨てたイヤピースと腕時
計を探して、床に視線を這わせた。
それは部屋の中央に落ちていた。玲子は身をかがめて、援軍を呼ぶ魔法のアイテム
を拾い上げた。
次の瞬間、上から数匹のアスラが飛び降りてきた。
普通の人間なら、不可視ではあるが、息がつまるほど強烈で邪悪ななエネルギーを
感じたに違いない。すでにカインが背をあずけている壁のみならず、地下のアリーナ
全体が2つのエネルギーを受け止めかねて、微細に震動を始めていた。
ツオ・ルは無限の邪力を有しているように思われた。おそらく、例の<旧支配者>
の細胞を自分自身にも取り込んでいるのだろう、とカインは推測した。人間が体内に
入れれば、激烈な反応を起こすのだが、<従者>ならば充分にそれをコントロールで
きるのだ。
剣を握る手が震えているような気がした。12才の少年としての体力が限界に近く
なっている。少し前までは邪魔に思えた背後の壁がなければ、とっくに力つきていた
だろう。
「上が騒がしいな。あれはお前の仲間が殺される音だぞ」ツオ・ルがほくそ笑みな
がら言った。
カインもその音には気付いていた。頭上から、微かに何かが床にたたきつけられる
ような、ドスンという音が連続して聞こえている。
「バカも休み休み言え」カインは体力の減少を悟られぬように言い返した。「のろ
まなお前のアスラなどに、ハミングバードが負けるわけはないだろう。それより、今
のうちに降参したらどうだ。命くらいは助けてやってもいいぞ」
ツオ・ルは大笑いした。
「虚勢を張るのもいい加減にしたらどうだ、坊や。そろそろ体力がなくなっている
んだろう。援軍を期待しているのなら無駄だぞ」
「どういうことだ」
「すでに周辺の森の中に、アスラを配置してある。少々の援軍など、あっというま
に八つ裂きにしてくれるわ」
カインは答えなかった。外見は平静で、唇には嘲弄が浮かんでいたが、心の中は絶
望が支配権を確立しようとしていた。もともと、援軍が到着するまで自分の力が持続
するとは、思っていなかった。ハミングバードが長官に連絡するまでの時間を稼げば、
あとは死力を尽くして脱出を試みるつもりだった。幸い、ツオ・ルはハミングバード
より、カインの力を高く評価したらしく、ここで足を止めることに成功している。上
にも当然、何匹かアスラがいるだろうが、それを切り抜けるくらいはハミングバード
に期待してもよかろう。
しかし、ツオ・ルの邪力は予想をはるかに上回るほど、強力だった。さらにハミン
グバードは子供を抱いたまま、アスラの攻撃を切り抜けなければならないし、上に戻
ったところで、送信機が無事に転がっていないかもしれない。ツオ・ルが真実を述べ
ているなら、この別荘の周辺にはアスラが配置されているらしい。ハミングバードは
一歩外に出た瞬間、通信を送る暇もなく、攻撃されるかもしれない。
カインは目を閉じ、美しい姉の顔を思い浮かべた。
玲子の周りに飛び降りたアスラは5匹だった。だが、幸いなことに同時に着地した
わけではない。チームワークという点では、まだまだ学習の必要がありそうだ。だが、
玲子がその時間を与えるつもりがなかったことはもちろんである。
最初に着地したアスラは、足が床につかないうちに、玲子の鋭い蹴りを腹部に食ら
って吹っ飛んだ。飛んだ先は次のアスラがちょうど着地した場所だった。2匹のアス
ラはもつれあって、床に転がった。
玲子は子供を抱いたまま、くるりと向きを変えた。そのまま、3匹目のアスラの顔
面にまわし蹴りを放った。訓練の成果を見せ、アスラはそれをかわした。しかし、続
いて飛んできたメダリオンまでは回避できなかった。胸の中央をメダリオンの力で破
られ、アスラは身の毛もよだつ咆哮を放って、床に崩れ落ちた。
残る2匹は、ほぼ同時に、それも玲子の左右に別れて着地した。鋭い鈎爪が両側か
ら突き出される。玲子はしなやかな身のこなしで、それをよけると片方のアスラの腕
をつかんで、振り回した。玲子の体重の2倍はあろうかと思われるアスラの身体は、
紙風車のように回転し、もう1匹に激突した。
玲子は素早く距離をおいていた。そして、助走をつけると、お互いの身体をもぎ放
そうとしている2匹のアスラに走った。それを見たアスラが破壊力を秘めた鈎爪を振
り回す。だがすでに、玲子は跳躍していた。
攻撃のためではない。玲子のつま先は、アスラの角の生えた頭を一瞬踏んで、さら
に高い跳躍力を得ていた。怒り狂ったアスラが高く腕をふり上げたが、玲子の身体は
届かない高さにあった。
空中で送信機を口にくわえた玲子は、ぎりぎりで、自分が落とされた床のへりをつ
かんでいた。冷静な観察者がいたとしたら、玲子に鳥の翼が生えたように錯覚したか
もしれない。
片手には子供を抱えたままである。玲子の体重は48キロ前後。子供の体重を加え
れば、50キロを越す。玲子の、細い右腕一本で支える重量としては、決して軽いと
はいえない。だが、玲子は少しづつ腕を曲げて、自分と子供を持ち上げ始めた。
足元では2匹のアスラが、玲子の足をめがけて跳躍しては、空しく空を掴んでいた。
玲子はそれに、かけらほども興味を示さず、命を賭けた懸垂に全力を傾注していた。
やがて、上半身が床の上に出た。玲子は、子供をそっと床に置き、久しぶりに左腕を
解放すると、両手を使って一気に身体を床の上に投げだした。
しばらくは荒い呼吸を沈めるだけで何もできなかった。玲子は無防備に床に転がっ
ていたが、ようやく立ち上がるだけの力が戻ってくると、子供を抱き上げた。あれだ
けの騒ぎをくぐり抜けて来たにもかかわらず、子供は熟睡していた。薬物を投与され
ているのかも知れない、とも思ったが、とりあえずどうしようもない。静かにしてい
てくれるなら助かるのだ。
警戒しながら、急いでドアに走る。当然、ドアは閉まったままだった。玲子はいら
いらしながら、ドアを調べた。電子ロック方式のドアであるらしい。のんびりと解錠
しているひまはない。玲子は周りを見回して、豪華なソファに目を止めた。
駆け寄って子供を寝かせると、ソファを持ち上げる。樫でつくられたスウェーデン
製の最高級のソファだったが、玲子が重視したのはもちろん値段ではなく、重さの方
だった。
ドアまで3メートル。玲子はソファを持ち上げたまま走ると、運動エネルギーをソ
ファの重量に乗せて、ドアにたたきつけた。
戦いに勝利したのは、ドアの方だった。ソファは見事にバラバラになって、玄関ホ
ールに散らばった。製作者が見たらさぞかし嘆くだろう。ドアの方は、小揺るぎすら
しなかった。
玲子は別のソファを持ち上げようとした。だが、不意に自分の額を叩いた。
「私ったらバカみたい」
つぶやくと、離れたところにある窓に歩み寄った。人間が通るには小さすぎるので
無視していたのだ。だが、考えてみれば、玲子が外に出る必要はない。送信機が外に
あれば、エマージェンシーを送れるのだから。
「慌てるとロクなことがないわね」言いながら、暖炉のそばに立てかけてあった火
かき棒を握り、窓に振り降ろした。それは強化ガラスだったが、玲子が地下で殴った
ような強度は有していなかった。強化ガラスは日光の照射を連続して受けると、次第
に劣化していくのだ。玲子が数度、打撃を加えるとあっさり割れた。
通常のガラスのような蜂の巣状にではなく、プラスティックのように裂けていた。
玲子は裂け目に火かき棒を突っ込むと、押し広げた。送信機のスイッチを確認して、
そこから放り投げた。
その瞬間、タイラント長官は玲子とカインに緊急事態が発生したことを知ったはず
だ。援軍が到着するまで、どれくらいだろう。玲子はその時間を30分と見積もった。
どんな非戦闘的な任務でも、援軍は常に用意されている。もちろん、シチュエーショ
ンによっては派遣できないときもあるが。
そこで、玲子はカインのことを思い出した。目的は果たしたのだから、助けに行か
なくてはならない。だが、今来た道を戻るのは、賢明ではないだろう。
玲子は再び、子供を抱き上げた。そして、下に降りる別の道を探し始めた。
#2832/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0: 0 (198)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第8章 リーベルG
★内容
8
どうも、この建物は気に食わない。広い1階を歩き回りながら、玲子は考えた。も
ちろん、邪狩教団の研究員の身体を乗っ取った従者の巣に対して、玲子が好意をもつ
べき理由はどこを探しても見当たるはずかない。しかし、玲子が神経を苛立たせてい
るのは、別の理由によるものだった。
別荘の間取りは、事前に玲子が暗記した設計図と比べて大幅に変更が加えられてい
た。あの地下のアリーナもそうだが、1階のロビー、リビング、キッチン、書斎など
を注意深く観察すると、外部からの侵入を阻止する仕掛が一つならず備えてあった。
例えば、書斎の窓は外側と内側に赤外線警報装置が蜘蛛の巣のように張り巡らされて
いたし、それを何らかの方法でくぐり抜けたとしても、4方向からの監視カメラが死
角のないように侵入者を捉えるようになっている。さらに玲子は、目立たぬようにカ
モフラージュされた対人レーザー照射装置を発見した。破壊力はないが、侵入者を失
明させるには充分である。おそらく、カメラからの映像をコンピュータが解析して、
巧妙な侵入者の顔面を正確に狙撃するのだろう。侵入者が赤外線暗視装置をつけてい
ても、一瞬で灼き切ってしまう。
リビングの奥の書棚に隠されたドアを開いた玲子は立ちすくんだ。そこには、広い
床を埋め尽くすように様々なコンピュータが設置されており、100以上のディスプ
レイが様々な情報を表示していた。液化窒素で冷却されたスーパーコンピュータや、
数百ギガのディスクユニット、バックアップテープユニット、外部リンクモデム、空
調設備などコンピュータに疎い玲子でさえも、この部屋だけで億単位の金がかけられ
ていることがわかった。
これが玲子の心の中枢を刺激している疑問だった。つまり、膨大な金と資源が惜し
げもなく投入されているのだ。ツオ・ルの一族が人間社会にどれほどの勢力を伸ばし
ているのか知らないが、これだけの設備を整えるには並大抵の資力では駄目だ。そし
て、そのような金の流れがこの別荘に集中しているならば、邪狩教団の情報網に探知
されずにいるのは不可能、とは言わないが相当に困難である。教団の有する潜在資金
は、一国の国家予算にも匹敵するのだ。唯一、考えられる可能性は、邪狩教団を上回
る資金源で、情報の流れそのものを変えてしまうか、消してしまうことである。
玲子は首を振った。それはどう考えても<従者>の力では困難に思えた。
まあ、そのような心配はタイラントにまかせておくとしよう。今ごろ、タイラント
が元のブランデーワインと、この別荘に関するあらゆる情報を手にしていることを、
玲子は確信していた。抜け目のないツオ・ルのことだから、別荘の外にもアスラを数
匹潜ませていることだろうが、邪狩教団の戦闘部隊はただの軍隊ではないのだ。
玲子は、コンピュータシステムを見回して、この高価なハードウェアを破壊してい
くべきだろうか、と考えた。だが、世界最高のハッカーであるカサンドラが、ここの
システムに侵入を開始しているかも知れない、と思い当たって、それは断念した。
それにしても、地下に降りる道はどこにあるのだろう。
玲子の冷静で正確な観察力を持ってしても、それは発見できなかった。階段かエレ
ベータか、何らかの手段でツオ・ルは下に降りているのだ。今の所、一階には豪華だ
がありふれた調度類に囲まれた部屋と、外に通じるドア、2階に通じる階段くらいし
か見つかっていない。玲子は、腕の中で静かに眠っている子供を次第に重荷に感じな
がら、玄関のロビーに戻ってきた。
「ひょっとして、外にあるのかしら?」玲子は呟いた。反射的に、暗記した別荘の
見取り図が、コンピュータ処理された3D映像のように脳裏を回転した。だが、すぐ
その行為の無意味さに気付いて思考を中断した。玲子が持っている情報の半分は、も
はやカビが生えているのも同然である。やはり自分で調べなくてはなるまい。
玲子はドアに近付き、ふと足を止めた。耳を澄ます。
小さく、規則的な、ドラムを連打するような音が聞こえてくる。それは次第に大き
くなり、やがてはっきりとヘリの爆音となって、玲子の耳を打った。
「教団の援軍!」歓喜の表情を浮かべながら、玲子は窓に近寄った。すでに表は闇
に包まれている。
少し離れた、別荘の狭い庭の上空に、兵員輸送ヘリがホバリングしているのが目に
入った。強力な探照灯で、地上を照らしているが、着陸する気は最初からないらしい。
ハッチが開き、ジャングル迷彩服に身を固めた兵士が2人、飛び降りた。両手にしっ
かりとライフルらしきものを握っている。兵士達は半円を描くように四方を確認する
と、ヘリに合図を送った。すると、待ちかまえていたように、10人以上の兵士が次
々と飛び降りて、円陣を作った。
「教団の戦士達じゃないわ…」玲子は呟いた。
ヘリは最後の一人を吐き出すと、そのまま上昇し、闇の中に消えて行った。最後の
一人は指揮官であるらしく、何か叫んだ。たちまち、兵士達は展開した。玲子は人数
を数えた。指揮官を含めて21名が、慎重に周囲に気を配って、銃を構えている。お
よそ1個小隊といったところか。
一体、何者なのだろう?玲子は、ややこしい事態を、さらにややこしくしそうな謎
の部隊の出現に頭を痛めた。全員が、ノクトビジョン(赤外線暗視装置)ゴーグルで、
顔を覆っているので、はっきりわからないが日本人であるらしい。指揮官は190セ
ンチ以上ありそうな大柄な男で、口髭を生やしていた。時折、ヘッドセットのピック
アップに、短く何かを命令している。この男だけが、銃器を装備していなかった。
不意に、闇の一部分が分離したように、数個の影が四方から小隊に飛びかかった。
外に伏せられていたアスラたちである。夜をつんざく奇声をあげ、不届きな侵略者達
に襲いかかったのである。玲子とカインのおかげで、その動きは相当素早くなってい
た。おまけに、闇の中である。アスラ達の体温は低く、ノクトビジョンでは捉えるこ
とが困難であるに違いないことも、玲子は知っている。
しかし、謎の小隊は自分達が何と戦うのか、あるいは玲子以上に熟知していた。
同時に、数発の銃声が闇を切り裂いた。銃弾は魔法のように正確に、アスラ達の頭
部に吸い込まれ、次の瞬間、血と脳漿を飛び散らして爆発した。間を置かずに第2弾
が胸部で炸裂し、ほとんど上半身を吹き飛ばしてしまった。襲いかかった、数匹のア
スラは数秒で全滅した。
玲子は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。この連中は、上品な軍用のメタルジャ
ケットなど使用せず、ハンティング用のダムダム弾か、それに類する凶悪な弾丸を、
まるでエアーガンでも撃つように易々と使いこなしているのだ。通常の軍隊で支給さ
れる弾丸は、標的を高速で貫通して行くだけだが、ハンティング用のダムダム弾は、
比較的低速で、命中と同時に弾頭を炸裂させ、筋肉、骨、血管をズダズダに引き裂い
てしまう。強靭なアスラといえども、これではひとたまりもない。記憶を共有してい
ても何の役にも立たないだろう。
このような破壊力を持つ弾丸は、銃の機構にかかる負荷が巨大なものになるので、
連射は当然できない。だが、この兵士達は半数が発射している間に、半数が次弾を装
填するという、訓練されたチームプレイを見せて、その弱点をカバーしていた。明ら
かに、彼らは人間と戦うための軍隊ではない。
さらに数匹のアスラが、確かにスピードアップした跳躍力で襲いかかったが、あっ
さり撃ち倒された。そのたびにズダズダに裂けた肉片が、辺り一面に飛び散った。
やがて指揮官らしい男が立ち上がり、右手で何かの合図を出した。小隊は素早く、
円陣を保ったまま、別荘の入り口に接近し始めた。
玲子は慌てて窓から離れると、隠れ場所を探した。キッチンへ通じるドアを開けて、
中に誰もいないことを確認すると、するりと滑り込みドアを細目に開けて、様子を窺
った。腕の中の子供は、死んだ様に眠りこけていた。地下で、ツオ・ルを食い止めて
いるカインが連想され、玲子は身を焼くような焦燥感に包まれた。
ドアや窓には、様々な警報装置が設置されている。あの小隊がそれをどうやって回
避するのか、と玲子は興味を持って見守っていたが、彼女の被観察者達は最も直接的
で、効果的な方法をとった。
短い爆発音が響き、同時に別荘全体が小さく震動した。玲子は爆発音の方向に目を
やった。玄関のドアから少し離れた壁が崩れ落ちていた。C4をセットして、壁を破
壊したらしい。黒煙もおさまらぬうちに兵士達が、油断なく互いを援護しながら突入
してきた。隠されていた警戒装置が作動し、カメラアイが兵士達を捉えたが、たちま
ち銃火が走り、沈黙してしまった。
最後に指揮官が悠々と壁の穴をくぐって、登場した。どこにも階級章らしきものは
ついていないが、この男が指揮官であることを玲子は全く疑わなかった。自衛隊のよ
うな「実戦を知らない兵隊」などでないことも、実戦向きにしなやかに仕上げられた
筋肉や、油断のない豹のような足どりをみれば察しがついた。
指揮官は素早くロビーを見回した。そして、ノクトビジョンを顔からむしりとって、
何かを探るように周囲の観察を続けた。
明らかに日本人らしい。指揮官の険しい瞳の色は黒だった。30代前半くらいだと
玲子は読んだ。危険な獣のような精悍な細めの顔つき。短く刈り上げた髪。薄い唇は
固く結ばれていた。全体的にあさ黒く日焼けしている。
タイラントに知らせなくては、と玲子は思ったが、実際それを実行するのは非常に
困難だった。玲子の送信器は先ほど、エマージェンシーを送るために窓から放り投げ
てしまったのだ。玲子は他に送信の手段を持っていなかった。玲子は頭を抱えた。
すっかり忘れていた腕の中の子供がくしゃみをしたのは、まさにその瞬間だった。
玲子の顔から血の気が引いた。くるりと身を翻して、奥に逃げ込もうとしたが、大
声がそれを制した。
「動くな!」
続いて、銃声が2発、室内に轟いた。恐ろしい破壊力を持つ弾丸が、正確にキッチ
ンのドアの蝶番を吹き飛ばした。薄いドアはあっけなく、粉々になってしまった。続
いて、飛んできた兵士たちが銃の狙いを、動きを止めた玲子にぴたりと定めた。
指揮官が近付いてきた。右手で何かの合図をする。兵士達は、銃口を下げた。
「君は邪狩教団の戦士だな」
指揮官は低い声で玲子に言った。それは質問ではなく、確認にすぎなかった。指揮
官の男は、知っているのだ。玲子は心の中の驚愕を表情に出したりしなかったが、子
供を抱える腕が少し震えるのを抑えることはできなかった。
「あなたは何者なの?」玲子はどうにか平静な声を発した。「ここに何の用?自分
たちが、家宅不法侵入罪を犯していることを知ってるの?」
指揮官は思いがけず、ニヤリと笑った。
「下らん芝居はやめたらどうだね?我々は君が、邪狩教団の戦士であることを知っ
ている。この別荘が<従者>に乗っ取られた教団の研究員のものであることを知って
いる。<従者>の名前はツオ・ルとキオ・ル。炎の邪神クトゥグァに仕える奴らだ」
「キオ・ルは滅びたわ」玲子は何気ない口調で言った。「私が倒したの」
「ほう」指揮官は楽しそうに笑った。「それは素晴らしい」
「あなたはどこの誰なの?」玲子は再び質問を繰り返した。「何の用があってここ
に来たの?」
「何の用だと思うかね?」
「ツオ・ルを倒しに来たの?」自分の願望をこめて、玲子は訊いた。それならば、
この油断のならない兵士たちを敵に回さずにすむ。しかし、男の笑い声はあっさり、
その希望を打ち砕いた。
「違う」指揮官の手の中に魔法のように、黒光りするハンドガンが出現した。チェ
コ製のCZ85。銃口はしっかりと玲子を狙っている。
「何をするのよ」玲子は、全身の筋肉をさりげなく緊張させて、戦闘に備えながら
訊いた。
「その子供を床に置け」指揮官は笑いの切れ端を唇に残したまま、玲子に命令した。
「床に置いて下がれ」
「いやよ」玲子は拒否した。その言葉が消えないうちに、半円形に玲子を包囲して
いた兵士達が銃口を玲子に向けた。玲子は銃そのものよりも、機械仕掛のロボットの
ような、一糸乱れぬ動きに何故かぞっとするものを感じた。
「子供を床に置け」静かな声で、指揮官は繰り返した。殺気が全身から発している。
玲子があくまで抵抗するとあれば、実力で排除されるだろう。玲子は反撃か、逃亡の
隙を窺ったが、そんなものはどこにも見い出すことができなかった。
「10秒だけ余裕をやる」相変わらず唇に歪んだ笑いを浮かべながら、指揮官は告
げた。「子供を置いて下がらなければ、お前を殺して奪い取る」
「待って!」玲子は叫んだ。
次の瞬間、玲子は強烈な瘴気を感じて、思わず息をつまらせた。それが自分の腕の
中から発しているのを知って、驚愕する間もなく、子供は玲子の腕の中から飛び出し
ていた。
「!」
銃声が轟いた。
幼児の身体は、空中で銃弾に捉えられ、引き裂かれた。しかし、あっさり肉片と化
したかと思われた幼い肉体は、奇怪な変貌を遂げていた。背中が破れ、コウモリのよ
うな翼が伸びた。虫も殺さぬ可愛らしい顔は、耳まで裂け牙を剥きだした口と、ギラ
ギラと赤く光る巨大な眼球に変わった。
翼を持つ怪物は、天井の高い1階のロビーを旋回し、銃弾を回避した。そのまま、
階段の方へ飛び去ろうとしたが、指揮官の命令で発射された弾丸が、翼を撃ち抜いた。
可聴域すれすれの高い声を発して、怪物は空中でよろめいた。すかさず、銃火がそれ
を追う。怪物のおぞましい肉体は、再びちぎれ飛んだ。怒りと苦痛で、血と体液をま
きちらしながら、怪物は最後の力を振り絞って、指揮官に向かって跳躍した。兵士達
は少しも慌てず、三たび銃声を轟かせた。今度こそ、呪われた肉体は生命力を失って、
ボロくずのように床に落ちて、豪華な絨毯を汚す汚物となった。
玲子は、さすがに口を開けたまま、血と銃声に彩られた数秒間を立ち尽くすだけだ
ったが、銃声の反響が止むと戦士としての本能が、反射的に戦闘体勢をとらせた。そ
れを見て、指揮官は口を開いた。
「慌てるな。君に危害を加えるつもりはない」
玲子は相手を見返しただけだった。そのような言葉を無条件で信じるほど、お人好
しでも、世間知らずでもない。しかし殺気が嘘のように消えているのには気がついた。
「我々はツオ・ルに用があるだけだ。君には用がない」
「<従者>なんかに、何の用があるの?」玲子は訊いた。「それに、どうして子供
のことがわかったの?」
指揮官は床の肉片にちらりと目をやった。
「わかったのではない。最初から知っていたのだ」再び、指揮官はニヤリと笑った。
「邪狩教団の戦士ともあろうものが、気付かなかったとはな」
玲子は少し赤面した。同時に、改めて恐怖が戻ってくる。あの子供は明らかに、<
旧支配者>の細胞を体内に注入されていたらしい。だが、アスラ化しなかったのは、
ツオ・ルがそう意図したからだろう。邪狩教団の内部に送り込むためだったのかも知
れない。敏感な玲子から、瘴気を完全に隠しとおしていたのだから、その目論見はひ
ょっとしたら、成功しただろう。この指揮官が現れなければ。
「ツオ・ルなら地下にいるわよ」玲子はそっけなく言った。「仲間が食い止めてい
るの。ツオ・ルに用があるなら、彼を助けてからじゃないと駄目よ」
指揮官は軽く笑った。だが、目は厳しく光っていた。
「よかろう。では、地下に行こう。君も一緒に来るかね?どうせ、降りる方法も知
らんのだろう?お嬢さん」
「ハミングバードよ」ぶっきらぼうに答える。「あなたは?」
「そうだな。とりあえず、大佐と呼んでくれ」
#2833/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0: 5 (162)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第9章 リーベルG
★内容
9
銃声がこだまととなって、地下のアリーナまで響いてきたとき、そこで繰り広げら
れている力と力の衝突は、勝敗が決しようとしていた。
カインはかろうじて聖剣を身体の前に構えてはいるものの、少し前まで全身から発
していたオーラのようなパワーは夕暮れの残光のように消えかけていた。少年は片膝
を床につき、肩で大きく息をしていた。深海を思わせる瞳の光だけは失っていないも
のの、額に玉のような大粒の汗が光り、体力が底をついていることは明らかだった。
「騒がしいな」カインとは反対に、余裕たっぷりにつぶやいた<従者>、ツオ・ル
は、カインを圧倒的な邪力で押さえつけたまま、近くのアスラに命じた。
「おい、5人ばかり連れて上を見てこい」
命じられたアスラは、仲間を引き連れてカインを包囲している輪から抜け出して行
った。それを見送ったツオ・ルは、上機嫌でカインを嘲弄した。
「お前の仲間がやってきたらしいな。だが、残念だったな。お前が仲間と再会する
ことは2度とありはしないのだからな」
カインは返事をしなかった。汗が一筋、青白い頬を伝って流れ落ちた。
ツオ・ルは人間の外見をかなり失いかけていた。手首から先がない右手の切り口か
らは、粘液にまみれた触手のようなものがシュルシュルと数本のびていたし、片目は
巨大に膨れ上がり破裂しそうだった。髪の毛は邪力が増大するに連れて少しずつ抜け
落ち、顔の表面にも火傷のような紫色の斑点がところどころに浮いていた。鼻からも、
血と粘液が流れている。<従者>の本体の力に、元邪狩教団の研究員ブランデーワイ
ンの肉体が耐えきれず、少しずつ崩壊しているのである。もちろん、ツオ・ル自身が、
人間の見せかけをもはや必要としていないせいもあった。
−そろそろ、限界か…。カインは心の中で呟いた。
実のところ、カインは最後の切り札を持っていた。しかし、それは文字どおり最後
のであって、生か死かの選択を迫られているときにしか使わないように言われている。
一歩間違えば、確実に命が失われる危険な術だった。
それを使うべきときが来たのだろうか?カインは、むしろ冷静に自分自身に問いか
けた。もちろん、初陣で使うとは思っていなかった。それどころか自分がその術を使
う時が来るとすら、考えてはいなかった。<巫女>の一族の中でも、この術を使って
生還した例はそれほど多くない。技術や霊力よりも、強運と幸運が必要な術であるの
だ。経験の少ないカインが使うのは、文字どおり生か死かを選択することに等しいか
もしれない。
−姉上…
カインは呟いた。美しい姉の顔を思い浮かべる。何故か、同時にハミングバードの
顔が浮かんできて、驚いた。先ほど見た躍動感にあふれた玲子の戦いの情景が、脳裏
を横切って消えた。カインは苦痛を一瞬忘れ、唇に笑みを浮かべた。
「何を笑っている!」いぶかしげにツオ・ルが叫んだ。「何がおかしい!」
カインは疲れた目を大きく開いて、醜いツオ・ルの顔を見た。心は決まった。
「おい、<従者>!」嘲りをこめて、カインは澄んだ声で叫んだ。「お前の首は必
ずぼくがとってやる。憶えておけよ!」
「戯言を…」怒りに満ちたツオ・ルの声が、驚愕で途切れた。包囲しているアスラ
達も一斉にどよめいた。
カインが構えを解いたのである。ゆっくりと剣を握った腕を下ろす。とまどったよ
うに、ツオ・ルの邪力が揺らいだ。
次の瞬間、カインは一瞬の躊躇いもなく自分の左胸を刺し貫いた。うめき声ひとつ
あげなかった。暖かい鮮血がほとばしり、服と床を染めた。
カインは最後に凄みのある笑いを浮かべてツオ・ルを嘲笑すると、ゆっくりと座り
込んだ。右膝を立て、左足を投げだし、両手はだらりと垂らし、プラチナブロンドの
頭はがくりと下がった。左胸に短剣を突き刺したまま、カインは動かなくなった。
一人の若い兵士が、腰を落として銃を構えた低い姿勢で、2階へ続く階段を上って
いる。このポイントマンの動きは素早いが、充分に慎重で、さらに後方数メートルで
銃を構えた兵士によってカバーされている。ある地点までの安全が確保されると、小
隊の残りが移動する。その間、数人の兵士が隊の後方を警戒する。
玲子は指揮官−大佐−と共に移動しながら、この部隊が非常に優秀な戦闘集団であ
ることを、まざまざと見せつけられた。全員が感情というものを、少なくとも任務中
はどこかに置いてきているらしく、真剣そのものといった顔で行動していた。無駄口
ひとつ叩かない。実は全員サイボーグなのだ、と言われたとしても、それほど疑問に
思わなかったに違いない。
小隊は人数を減らしていた。3人が大佐に命じられて、どこかへ消えて行った。玲
子は中の一人が、アタッシュケースに似たデータ通信端末を持っているのを見て、さ
っき見たコンピュータルームに向かったのだと想像した。
ようやく階段の安全が確保された。すでに数名が階上で、警戒体勢をとって後続を
援護している。玲子は大佐と並んで階段を駆け上がった。
「地下に降りるエレベータと階段は、2階にその入り口がある」大佐は玲子に説明
した。「もちろん、我々が使うのは階段だ。エレベータは電源を破壊して、使用不可
にしてしまう」
「C−15確保」兵士の一人が短く報告した。敬礼はしない。大佐が頷くと戻って
いく。続いて、別の兵士が報告する。「C−38、C−40、リンク」
大佐と兵士達の会話は終始、こんな調子だった。玲子には何のことやらさっぱりわ
からないが、大佐はもちろん理解している。どうせ、訊いても無駄なことは分かって
いるので、玲子は無関心を装ったが、心の中は好奇心ではちきれそうだった。
邪狩教団の存在を知るものは、世界中にそれほど多くはないはずだった。中には自
分が団員であることを知らない者すらいるくらいなのだ。わずかに、限られた国家の
首脳、学者、法王が、教団と<従者>の存在を知っている。しかし、彼らは常に教団
によって監視されており、外部に事実を公表しよう、などと考えると、すみやかに記
憶の操作を受けることになる。
玲子も、邪狩教団の正確な規模や本拠地、勢力など正確なことは知らない。タイラ
ント長官は、必要のないことは団員に全く知らせない。万が一、どこかの諜報組織の
手に団員が落ちた場合、尋問されても知らないことは答えようがないからである。ま
た、他ならぬ<従者>側に、その正確な実体をつかませないという予防の意味もある。
ところが、この部隊は明らかに邪狩教団の正確な実像を掴んでおり、また<従者>
の存在も知っているらしい。ツオ・ルとも何か、関わり合いがあるらしいが、それだ
けでも容易ならざる存在である。何となれば、邪狩教団の膨大な情報網を持ってして
も、ブランデーワインとスワンが<従者に>乗っ取られたことも、アスラのことも知
り得なかったからである。この点に関しては、この部隊を動かした者は、邪狩教団を
出し抜いたことになる。そして、タイラント長官を出し抜くのは、想像以上に困難で
あるのだ。
玲子が平凡な見かけよりずっと精密な頭脳をフル回転させている間にも、小隊は2
階の広い廊下を進んでいた。2階には客室が並んでいる。ポイントマンが、その客室
のドアを一つ一つ細目に開いて、ミラーで室内を確認する。続いて数人の兵士が中に
突入し、室内を制圧する。一つの客室が完全に安全であることを大佐が確認してから、
動いているので全体の歩みはのろいし、常に兵士達は緊張を強いられる。だが、敵地
において、緊張感を維持できない兵士は、遅かれ早かれ死神に手首を引っ張られるこ
とになる。
やがて、一行は廊下の端にある客室にたどり着いた。セミダブルのベッドと、ドレ
ッサーが置いてあるだけの、どちらかといえば簡素な部屋である。4人の兵士が室内
に入り、残りは廊下に残って警戒にあたっている。事前に充分なブリーフィングを行
ったらしく、大佐が命じるまでもなく、兵士が2人進み出るとドレッサーを壁から動
かした。すると壁に、重そうな鋼鉄の扉が現れた。
「あれが地下へ通じる階段なの?」玲子は大佐に訊いた。
「そうだ」大佐は玲子をじろりと見た。「まだ、ついて来るのか?」
「もちろんでしょう。何か不都合でもあるの?」
「いや」目をそらす。「足手まといにならんでくれよ」
腹を立ててもよかったのだが、玲子はそうしなかった。カインのところに戻るまで
は、表面的だけでも友好関係を崩したくはなかったのだ。
当然のことだが、扉にはカギがかかっていた。跳弾の危険があるため、銃で破壊す
るわけにはいかない。危急の際であれば、あえてその危険を冒してもいいが、今は駄
目だ。大佐はそう考えたらしく、一人の兵士が扉を調べていた。
ふと玲子は眉を寄せた。敏感な第六感を何かが刺激したのだ。玲子は扉に注意を向
けた。正確には、その向こうに、である。微かな、本当に微かな瘴気が漂ってくる。
玲子はプラーナを発してみた。殴りつけられたような衝撃が返ってきた。
間違いない!玲子の手にメダリオンが現れた。アスラが接近しているのだ。
玲子は警告しようと口を開いた。だが、それより早く大佐が叫んだ。
「離れろ!」
扉に取り付いていた兵士は、手にした数本の道具を捨てて、ものも言わずに飛び退
いた。同時に重い扉が、もの凄い勢いで内側に叩きつけられ、アスラが数匹、咆哮を
あげながら室内に飛び込んで来た。
玲子はすでに部屋から飛び出ていた。廊下で警戒にあたっていた兵士が銃を構えた
が、気にも止めずに身構える。
室内で続けざまに落雷のような音が轟いた。ガラスが砕ける音が聞こえ、照明が消
えた。アスラの咆哮、兵士の靴音がたて続けに廊下を震動させる。
大佐が廊下に飛び出してきた。廊下にいた兵士に命じる。
「斉射しろ」
玲子が驚いたことに、兵士達は微塵も動揺を見せずに、その命令を実行した。兵士
達は素早く集まり、開いたままのドアに銃口を向けると、一斉に発砲した。続いて、
角度を変えて、第2射。狭い室内を破壊力をこめた稲妻が飛び、アスラたちと残され
た兵士たちを平等に切り裂き、血と肉を粉砕した。
大佐は良心の呵責など薬にしたくもない、といった顔でC4に2秒にセットされた、
起爆延期ヒューズを埋め込んでいた。玲子がその意図を察して制止しようとしたとき、
大佐はリングを引き抜くとアンダースローでそれを室内に放り込んだ。
罵る間も惜しんで、玲子は床に身を投げた。銃を構えていた兵士たちも、とっくに
伏せている。
数瞬後、激しい爆発音が全員の聴覚を支配した。熱い爆風が廊下に噴き出し、絨毯
を焦がし、吹き抜けになっている天井の採光窓のガラスを粉々に吹き飛ばした。それ
でも爆発力はかなり正確に計算されていたらしく、被害はほとんど室内に限定されて
いた。
怒りよりも恐怖を感じながら、玲子は跳ね起き、おそるおそる室内をのぞき込んだ。
すでに、数人の兵士が銃を構えて飛び込んでいる。
室内は分裂病患者の内的世界を現実化したような有り様だった。ベッドとドレッサ
ーは、完全に粗大ゴミ以下の存在と化しており、元の面影すら残していない。内装材
は一部を残して燃え尽きて、漆喰と構造材が剥き出しになっていた。部屋中に人間か
アスラの焦げた肉片が散らばっている。一人の兵士の首がドアの近くの壁に叩きつけ
られたまま、半分以上熔け落ちながらも、かろうじて原型をとどめていた。玲子はこ
み上げてくる嘔吐感と必死に戦った。
「2班、先頭。3班、後方警戒」
大佐が命令する声が耳に届き、玲子は顔をあげた。発作的に何か激しい言葉を浴び
せてやろうと思ったが、機先を制して大佐が言った。
「大丈夫か?これから突入するが、残るか?」隠してはいたが、声に嘲りが含まれ
ていた。玲子は、拳をきつく握りしめた。
たった今、自分の手で4人もの部下の命を奪ったことなど、気にもとめていない。
玲子はそれを本能的に知った。虚勢や見せかけではなく、そもそもそのような感情を
持っていないのだ。生まれつきそうなのでなければ、よほど生存競争の激しい環境に
身を置いたことがあるのだろう。玲子は背中に氷の塊をつっこまれたような気分に襲
われた。
「行くわ」玲子は短く答えた。今回は楽な任務だ、などといったタイラント長官を
心から恨みたい心境だった。今、玲子が望むのは、カインとともにこの呪われた別荘
をさっさと立ち去ることだけだった。
大佐は獰猛な肉食獣のように歯をむき出して笑うと、合図を出した。4人の兵士が
壁の入り口から階段に突入していった。すぐに援護のチームが続く。玲子は大佐とと
もに、その後を追った。
#2834/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0:10 (199)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第10章 リーベルG
★内容
10
ツオ・ルは、カインが動きを止めた後も、警戒してしばらく近寄ろうとはしなかっ
たが、少年の呼吸が完全に停止しているのを知ると、顔中を口にして高笑いした。
「死におった!」広いアリーナ全体にその声は響きわたった。「かなわぬとみて、
自分で息の根を止めてくれるとはな!手間が省けたわ!<巫女>の一族といっても、
こんなものか!ぐががががががが!」
ツオ・ルは、非人間的な笑いをおさめると、アスラ達に命令した。
「それ、そいつを食ってしまえ」
しかし、カインの身体に殺到したアスラは、酢でも浴びせられたように弱々しく唸
り声をあげて、その周りをうろうろするだけだった。カインの胸に刺さったままの聖
剣から、依然として霊気が放たれていて、邪悪な存在であるアスラ達を寄せ付けない
のだ。それを知ると、ツオ・ルはアスラ達を押し退けて進み出た。
「どけ、ふがいない奴らだ」
ツオ・ルはカインに近付いた。邪力を発して、霊気を相殺しながら。右手から伸び
た触手が聖剣に触れようとした。
激しい爆発音と震動が地下を揺るがした。アスラ達は不安そうにざわめいた。ツオ
・ルは振り向いて、上を見上げた。
「くそ、何をやっておるのだ!」怒りで顔がますます崩れていく。「上を見てこい
!さっきの奴らは何をやっているのだ!」
その時、聖剣がカインの胸から飛び出した。
同時に圧倒的な霊気が、ツオ・ルの邪力を津波のように押し流した。それに触れた
アスラ達が一斉に恐怖の叫びを発した。
「ばかな!」ツオ・ルは強烈なパワーで床に叩きつけられてわめいた。
剣は明らかに自由意志を持って宙を飛び、アスラの群れの中に突入した。たちまち、
数匹が首を吹っ飛ばされて倒れた。アスラ達は恐慌の叫びをあげながら、逃げまどっ
た。それらを剣は、情け容赦なく後ろから斬り倒していく。
「そうか、わかったぞ!」ツオ・ルがうめいた。「幽体離脱か!」
カインの最後の手段がこれだった。カインのアストラル・ボディは今、少年の身体
を離れていた。ただ、それだけならば、実用性に乏しい芸にすぎないが、カインを訓
練した<巫女>一族の師範は、剣に宿る魔術を教えたのである。
剣は、血に飢えた猛獣のようにアスラを斬りまくった。アスラ達は、カインとの戦
いの記憶のおかげで、そのスピードを捉えることはできたかもしれないが、人間が握
っていれば決して不可能な動きで襲いかかる剣をよけることはできなかった。
それでも、アスラ達は逃げながらもその動きを少しずつ学習していた。だが、せっ
かく剣を回避しても、反撃すべき相手の身体が存在していないのではどうしようもな
い。おまけに、周囲には恐慌に襲われた仲間が右往左往しており、お互いの動きを邪
魔し合っている。 アストラル
さらに肉体の束縛を逃れたカインの霊体は、生身で操るよりも遥かに強大な霊力を
発揮していた。その力はツオ・ルの邪力と同等か、それ以上だった。剣から発する波
動は次第に強くなっていき、アスラ達は近寄ることも、剣を直視することもできなく
なっていた。それどころか剣が触れただけで、その醜く強靭な身体は、ぶくぶくと泡
立ち、溶解しはじめた。
みるみるうちに、数を減じていくアスラの群れを見ながら、ツオ・ルは立ち上がっ
た。剣がそれに気付き、アスラ達をはねとばすように突進してきた。
ツオ・ルは手近のアスラの首筋をつかむと、剣に向かって突き飛ばした。剣は正面
からアスラの胸に突き刺さった。アスラがぞっとするような絶叫を発し暴れ回った。
剣は崩れ始めたアスラの胸から離れようと、左右に動いた。その隙にツオ・ルはアリ
ーナの壁を飛び越えると、石段を驚くほどの早さで駆け上がり、何かを叫んだ。壁の
一部がスライドして、人間が一人通り抜けられる幅だけ開いた。
剣はようやくアスラの身体から離れて、矢のような勢いでツオ・ルに向かって飛ん
だ。だが、その時ツオ・ルはドアをくぐり抜けていた。再び、壁が閉じる。一瞬の差
で、剣は間に合わず頑丈な石の壁にぶつかって、はねとばされた。
聖剣はしばらく迷うように、壁の前に漂っていた。が、不意にあきらめたように方
向を転じると、相変わらず狂乱しているアスラ達に向かった。
「んがひー!」
「あふー!」 シンフォニー
たちまちアスラ達は、意味をなさない恐怖の叫びで交響曲を奏でた。カインの剣は
それに混じった不協和音のように、呪われた肉体を屠っていった。隅の壁にもたれた
少年の冷たい身体は、それを楽しむように沈黙を守っていた。
階段を降りた先には、洞窟のような場所が続いていた。機械で掘削したらしい。壁
に数メートル毎にハロゲン球使用の照明が設けられており、足元を照らしていた。
玲子たちが立っている場所から、20メートルほど先で洞窟は左に折れ曲がってい
た。ポイントマンの兵士が素早く走り、ミラーで曲がり角の行く手を覗いた。手を振
って合図する。小隊は静かに、だが速やかに移動した。
「この先に何があるの?」玲子は大佐に訊いた。答を期待してはいなかったので、
大佐が口を開いたときには少し驚いた。
「おれもそれを知りたいんだ」その声には微かに緊張が感じられた。
一行は曲がり角を曲がった。いくつか電子警戒装置があったが、兵士たちによって
あっさり潰された。玲子は、この謎の部隊が自分の味方であるとは一瞬たりとも考え
なかったが、それでも敵地を進むときの同行者としては、この上なく信頼できる連中
であることは認めざるを得なかった。しかも、明らかに<従者>との戦闘を想定して
訓練されているらしい。
玲子はさっきの客室での戦闘を思いだした。大佐は、扉を開けもしないうちに、ア
スラが接近していることを知った。<旧支配者>の下僕の接近を知る方法は、いろい
ろある。実際、人の数だけあるといってもいい。
たとえば玲子はプラーナと呼ぶ、一種の生体エネルギーをレーダーのように発振す
ることでそれを知る。カインは<巫女>の一族の血で、それを感じる。ただの人間で
も訓練すれば、<従者>の発する邪悪な瘴気(イーヴルサイン)を感じることはできる。だが、
玲子やカインにはかなわない筈なのだ。
洞窟はゆるやかな下り坂になっており、何度か直角に折れ曲がっていた。すでに小
隊は数百メートルを進んでいた。玲子は、大佐に関する詮索を中断して、無意識のう
ちに記憶していた洞窟を、頭の中で図式化してみた。それは正方形の螺旋上になって
いた。しかも、その一辺は少しずつ広くなっていた。つまり洞窟は四角錐の表面をな
ぞっている形に掘り抜かれていることになる。さらに正方形の各コーナーは正確に東
西南北の各方位を指していた。
さっきから玲子は瘴気を感じていたが、それは降りるに従って次第に強まっている
ようだった。この洞窟の終点が、さっきのアリーナだとすれば、そこにツオ・ルがい
ることになるので、別に不思議ではない。大佐の顔を窺ったが、玲子と同じように瘴
気を感じているのかどうかを、その平静な表情から推し量ることはできなかった。
小隊はまた、曲がり角に近付いた。先頭を進むポイントマンが、慎重に向こう側を
窺う。兵士の行動は、それまでとは違っていた。手を振って前進の合図を送るかわり
に、駆け戻ってきて、壁に扉があると報告したのだ。
「開けられそうか?」大佐は訊いた。
「やって見ます」兵士は角を曲がったところで、しゃがみこんだ。集団の先頭を進
んでいたチームが、その周囲で援護のために銃を構えた。
長く待つ必要はなかった。ガチャリと、何かが外れる音がし、電子ロック機構が地
面に転がった。兵士は、慎重にドアを押した。
ドアの向こうに広がる光景を目にした瞬間、全員が呼吸を忘れて凝固した。無感情
そのものだった兵士たちの何人かが、あえぎ声をもらすのが玲子の耳に入った。もっ
とも、玲子はそんなものに全く注意を払っていたわけではない。
そこは一辺が100メートル以上ある巨大なプールだった。深さは1メートルほど
で、底から30センチぐらいまでゲル状の液体がたまっていた。そして、その中に沈
んでいるのは、おびただしい数のアスラだった。
ざっと見ただけでも、千匹以上のアスラ達の身体は、浸っている液体にゆっくりと
緩慢に溶かされていた。すでに強靭な皮膚はふやけ、所々が破れて、赤黒い内臓が露
出していた。それでも、生きている証拠に、何匹かが時折、思いだしたように弱々し
く腕や脚を動かすのが見えた。しかし、その動きによって皮膚が破れ、太い骨からぬ
るりと肉が離れていくと、醜い顔を歪めることによって苦痛を表すのだった。
さらにおぞましいことには、アスラ達の崩れかけた肉体は互いに融合していた。そ
れは全く不規則で無秩序な融合状態だった。腕と腹、脚と顔、背中と背中。ありとあ
らゆる身体の部分が接着し、解け合わさっていた。
茫然自失の状態から立ち直ったのは、玲子が一番早かった。プールから目を外らし
て、周囲を見回す。壁は、高い天井に近付くにつれてその幅を狭くしていた。ピラミ
ッドの内部のような場所である。
玲子達は今、北東を向いた一辺にいた。その左の辺、つまり南東を向いた辺の中央
に、同じ様なドアがあった。その反対側、つまり玲子達の右、北西の辺には何もない。
そして、プールの反対側の壁、南西には巨大なドアがあり、固く扉を閉ざしていた。
人間が通るには大きすぎる。象やキリンでも、まだ余裕がある。ティラノサウルス・
レックスなら頭をかがめずに通れるだろう。玲子はドアを見つめた。あのドアが、何
かのサイズに合わせてあるのなら、そいつと対面したくはない。
不意に玲子の全身が総毛立った。プールの液体が、風もないのにぞわりと波だった
のである。そして、その一部が突然、盛り上がったかと思うと、触手をのばすように
びゅっと飛び上がると、玲子達の方に鋭い勢いで飛んできた。
ほとんど本能と反射神経だけで玲子は身を沈め、それをかわした。それは意外な粘
着性を見せ、一人の兵士の顔にびちゃりと巻き付いた。
同時に、数人の兵士が銃を向けて、一斉に発射した。強烈な破壊力を持つ弾丸は、
液体の触手に命中したが、何の被害ももたらさずにそのまま貫通していった。液体は
不幸な兵士を易々と持ち上げると、戻って行った。
兵士の身体はプールに飲み込まれた。顔から液体が離れ兵士は恐怖の叫びを上げた。
「うぎゃああああああああああ!ああああああ!」
周囲から液体が蟻の大群のように、兵士の身体を覆い始めた。兵士は手足をばたば
たさせて、逃れようともがいたが、液体の力は想像以上に強いと見えて、次第に抵抗
力を奪われていった。口に液体が侵入し、兵士は絶叫をやめたが、その顔に浮かんだ
恐怖は消えなかった。
恐るべき液体には、麻酔作用か何かがあるらしく、兵士の動きは次第に弱々しくな
っていき、ついに膝をついた。すでに、迷彩服は引き裂け、露出した皮膚を液体がむ
さぼるように溶かし始めていた。
その時、大佐が無言で銃を抜いた。
一瞬、狙いを定めて素早く2発撃つ。銃声が反響し、弾丸はプールの中の兵士の額
と、心臓を正確に撃ち抜いた。兵士の身体は液体の中に倒れ込んだ。
「これは一体何なのだ」大佐は銃をしまうと、振り返って玲子に訊いた。
「知るもんですか。あなたはツオ・ルと親しいんでしょう?それなのに、これが何
だかわからないの?」玲子は少し皮肉をこめて答えた。
「別に親しいわけじゃないさ。それにおれだってこんなものは初めて見るんだ」
玲子は兵士が倒れた場所を見た。兵士の身体は無数のアスラと静かに融合し始めて
いた。嫌悪感が沸き起こった。今すぐ、焼き払ってしまいたいくらいだ。
「あの液体は、明らかに意思を持っている」大佐は考え込むように言った。「あれ
が<旧支配者>の細胞だとは考えられないか?」
実は、それは一番最初に玲子の頭の中に浮かんだ考えと同じだった。
「すると、ツオ・ルがアスラを作ったのは、それを培養するためだったのかしら」
「闇の軍団を作り上げると言っていたがな」大佐は顔をしかめた。
「やっぱり親しいんじゃないの」
「馬鹿をいえ」大佐は吐き捨てるように言った。
「何度も訊いたけど、また訊くわよ」玲子は正面から大佐を見つめた。「一体、あ
なたたちは何者なの?どうして、ツオ・ルを知ってるのよ?」
大佐が口を開いたとき、洞窟の奥から何かの音が響いてきた。たちまち、兵士達が
展開して銃を構える。大勢の足音のようだ。となると、その正体は一つしかない。
果たして、大勢のアスラが走ってくるのが目に写った。
「変ね」玲子は口の中でつぶやいた。アスラたちは、攻撃のために突進してくるの
ではなく、まるで何かから逃れるように、悲鳴とも唸りともつかぬ声を上げながら、
走っているようだった。
アスラの集団の先頭が、20メートルまで接近した瞬間、小隊は同時に発砲した。
洞窟に鼓膜が引き裂けるほどの轟音が反響し、数匹のアスラの頭が瞬時に吹き飛ばさ
れた。だが、アスラ達は怒りの叫び声を上げたものの、なおも突進してきた。
再び、小隊は発砲した。前よりも多くのアスラの頭部が破裂した。しかし、その時
には数匹のアスラが硝煙をかいくぐるように、接近していた。
「ひごうるるるぅおおお」
牙の並んだ口から粘液を垂らしながら、1匹のアスラが銃を構えている兵士の懐に
飛び込んだ。兵士達の予測を越えた敏捷性である。100匹以上のアスラの犠牲の上
に獲得したスピードだった。アスラは目にも止まらぬ勢いで腕を振り、鋭い鈎爪で兵
士の喉をかき切った。
兵士達の銃は圧倒的な殺傷力を持っていたが、アスラは兵士の数十倍を数えること
ができた。玲子に言わせれば、可愛げがないということになるのだが、兵士達は恐れ
る色も見せずに整然と、少しずつ後退して距離を保ち、なお有利を保っていた。が、
それも次第に危うくなっている。弾幕をかいくぐって飛び込んできたアスラが、銃弾
を浴びてズダズダに引き裂かれる前に、兵士を一人づつ道連れにしているからである。
玲子は兵士達とともに後退しながら、カインの身を案じていた。アスラ達がこれほ
どまでに恐れる対象として考えられるのは、玲子や大佐達を除けば、カインしかいな
い。つまり、それはカインが今なお健在であるという証なのだが、プラチナブロンド
の髪の少年の姿は見当たらなかった。
「くそっ!」大佐が冷静さの仮面をかなぐり捨てたように吐き捨てた。大佐の目の
前で、また一人の兵士がアスラの鈎爪に目をえぐり取られて倒れたからである。すで
に戦っている兵士は8人と、大幅にその数を減らしていた。アスラ達はパニック状態
に陥っていたが、後退するということを全くしなかった。小隊はC4や手榴弾をはじ
めとする様々な破壊力のある兵器を装備していたが、狭い洞窟内では心ならずも火力
制限をしなければならなかった。後先のことを考えずに、爆発物を使用する馬鹿がい
ないのはさすがというべきだが、彼らがこれほど弾丸を無駄にしない優秀な部隊でな
ければ、とっくに全滅していたに違いない。
玲子は戦いには参加せずに、ずっと兵士達の後ろに位置していた。自分だけが安全
な場所にいることに後ろめたさを感じないわけではなかったのだが、恐ろしい銃弾が
飛び交う中に飛び出して、自分の四肢とメダリオンだけで戦う気はそれ以上になかっ
た。銃を借りても、玲子の腕では役に立たないだろう。
不意に玲子はさっきの扉の方を振り向いた。今、小隊はちょうど扉の真横に位置し
ていた。プールの南東に位置している扉が、激しく開いたところだった。ドアを開け
た者の姿が、光でシルエットとなっている。そこから流れてくる瘴気はアスラたちと
は比較にならないほど強大だった。
「ツオ・ル!」玲子は叫んだ。
#2835/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0:14 (198)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第11章 リーベルG
★内容
11
空中を縦横無尽に飛び回りながら、血と肉片を大量生産していたカインの剣は、よ
うやく飽食したようにその動きを止めた。すでにアリーナの中に生きているアスラの
姿は絶えていた。200匹以上いたアスラは、カインの剣に斬り倒されるか、逃げ出
してしまっていた。
それを確認すると、剣は壁にもたれている少年の身体に近付いた。開いた左手に、
柄が滑り込んだ。その瞬間、魔術は解け、剣に宿っていたカインの霊体は、本来の身
体に帰った。
しばらく何も起こらなかった。だが、数分が経過すると、血が凝固していた胸の刺
し傷がゆっくりと脈動し、冷たい血が再び流れ始めた。指がぴくりと動き、剣を握り
しめる。固く閉ざされていた唇が開き、浅く、かすれたような呼吸が洩れた。青白く、
死人のようだった頬に、雲がたなびくように血の気が戻ってきた。
瞼が開き、光に戸惑ったようにすぐ閉じられた。少し、間をおいておそるおそる、
慎重に瞳が現れた。
少年はかすかにうめいた。12才の若い肉体は全身が炎のような熱を発していた。
のろのろと右手が上がり、左胸にあてられた。口の中で何かを唱える。傷にあてられ
た掌がぼうっと淡く暖かい光を発した。
微速度撮影された映像のように傷口の細胞が復活し、損傷した血管が塞がっていっ
た。だが、同時に激甚な苦痛を伴うと見えて、カインは歯を食いしばって絶叫をこら
えていた。別に誰も見ていないのだから、我慢する必要もなさそうなものだが、弱み
を見せるのは、相手が自分自身であっても徹底的に忌避するのだ。
ようやく傷がある程度塞がった。カインは力を抜いて、驚異的な治療をやめた。
2、3度深呼吸をしてから、ゆっくりと壁につけた背中をずり上げていく。長い時
間をかけて、立ち上がると壁にもたれたまま、服のボタンを外して、左胸の傷を調べ
た。剣は左胸の皮膚と筋肉組織を突き破り、肋骨の間を抜け、左肺に大穴をあけ、肩
胛骨のすぐ下から飛び出した。致命傷となってもおかしくはないが、そうはならなか
ったのだ。 ・・・・・・ ・・
「ふん。心臓が左にあったら死んでいたところだ」カインは呟いた。心臓は右胸で
しっかりと搏動を続けていた。
<巫女>の一族はみな、内臓諸器官の位置が左右逆転している。それが一族の持つ
聖なる古い力と何か関連があるのかどうかは、本人たちも知らない。だが通常、内臓
全転移症という症例には、臓器の奇形が伴うのが普通だが、<巫女>の一族は長寿と
健康を保っている。
カインはボタンをかけると、しばらく壁にもたれたまま、目を閉じて口の中で何か
を唱えていた。体力の回復のためのエネルギーを、常人には窺いしれぬ深淵から呼び
出すための魔術である。
やがて、開かれた瞼の奥では、深青の瞳が元通りの光が放っていた。カインは剣を
握り直すと、ツオ・ルが逃げて行った方に向かって歩き始めた。
玲子の叫び声を聞く前に、大佐は振り返っていた。CZ85が握られていた。
「貴様ら、よくもやってくれたな!」ツオ・ルはわめいた。その声は大量のアスラ
が浮かんでいるプールを越えて、玲子達のところまで届いた。
「荏室大佐!邪狩教団と<ホロン>が結託していたとは知らなかったぞ!よくも今
まで、わしをたばかってくれたな」
「黙れ!」大佐はCZ85の引き金を絞った。ツオ・ルの額に穴が開き、後頭部か
ら血と脳漿が噴出した。だが、<従者>は意に介さず、わめくのをやめもしなかった。
「これで、わしの研究も終わりだ。だが、貴様ら<ホロン>の目論見も終わりだ。
わしを利用したつもりだろうが、そうはいかん。本当はもう少し、アスラを強力にし
てからにしたかったが、今、ここで見せてやる!」
その時、周囲の銃声が止んだ。6人の兵士が駆け寄ってきた。ようやくアスラが尽
きたのである。7つの銃口がツオ・ルを狙った。玲子もメダリオンを握りしめた。だ
が、2つの扉の距離はおよそ70メートル以上あった。メダリオンを投じても、正確
に命中させることができる自信は、玲子にはなかった。
ツオ・ルは両手を激しく動かして、複雑な印を結んだ。玲子の記憶が高速で検索さ
れて、あるパターンと合致することを発見した。まぎれもなく、炎の邪神クトゥグァ
召喚の印だった。この<従者>は、<旧支配者>を地上に召喚しようとしているので
ある。
だが、その宿り先は?<旧支配者>は肉体というものを持たないので、この時空連
続体に降臨する際には仮の肉体が必要である。定まった形はないとされている。ただ、
<旧支配者>の宇宙的な力を収めきれるには、ある程度の大きさを必要とし、さらに
受け入れの下地がなければならない。例えば、邪悪な者が邪悪な目的で創り出した肉
体であるとか。アスラのように… エムロ
玲子は足元を見た。同時に、ツオ・ルに荏室と呼ばれた大佐も同じ事を考えていた
らしくプールを見た。
無数の、融合したアスラ。
邪力が増大していた。ツオ・ルの身体のあちこちが、連続的に小さく破裂して、粘
液にまみれた触手が蠢いた。人間の身体が邪力を受け止めきれずに破壊している。逆
に体内の<旧支配者>の細胞は、悪性腫瘍のように激しく増殖して、邪悪な姿を表し
ている。
止めなくては。玲子は思ったが、距離が遠すぎる。ツオ・ルとの間には、プールが
横たわっており、そこに一歩でも足を踏み入れれば、あの哀れな兵士と同じ運命を辿
ることになるのだろう。
「あいつを撃つのよ!」玲子は大佐に怒鳴った。「早く!」
大佐は我にかえったように、命じた。
「撃て!」
6つの銃口が火を噴いた。
だが、それはわずかに手遅れだった。ツオ・ルの周囲には邪力による、見えない壁
が形成されていて、弾丸はその表面を滑るように、ツオ・ルから反れ、壁で炸裂した。
ツオ・ルが立っているドアの輪郭は、邪力によって形がゆがみ、長方形から歪んだ半
円形に変貌していた。さらにプールの液体もその邪力に敏感に反応し、ぞわぞわと波
打つように蠢いていた。
「射撃を続けろ」大佐は命じておいて、玲子に向き直った。「銃では駄目だ。この
アスラたちが<旧支配者>の肉体となるなら、これを焼いてしまえばどうだろう」
「そうね」玲子は同意した。「何で焼くの?」
「C4がかなりある。国会議事堂をきれいに吹っ飛ばせるほどだ」
そのとき、洞窟の壁に設置されていた照明が揺らいで、ふっと消えた。同時に兵士
たちが発砲をやめた。
「どうした」大佐は叫んだ。「撃ち続けろ!」
「銃が作動しません」兵士が青い顔をして報告した。
「何だと…」大佐は自分のCZ85のトリガーを絞った。ハンマーは下りたが、弾
丸は発射されなかった。これほど熟練した兵士が残弾数を間違えることは有り得ない。
するとカートリッジのパウダー(炸薬)が発火していないのだ。
何かが起こっている。玲子ははっきりと恐怖を感じた。想像を絶する何かが進行し
ているのだ。
「ツオ・ルの邪力が電子装置や機械装置に影響を及ぼしているんだわ」玲子は大佐
に言った。大佐は驚きの色を浮かべて、玲子を見た。
「時計を見てみなさいよ」玲子は言った。玲子自身の送信器内臓の腕時計は別荘の
外に投げてしまったのだ。
大佐は左手首のデジタル時計を見た。それは動いてはいたものの、でたらめな記号
をめまぐるしく表示しているだけだった。ICが狂っているのだ。
「ノクトビジョンが機能不良」
「通信システム作動しません」
兵士が次々にネガティブな報告をもたらした。
「人間の生理機能には影響がないようだな」大佐は唸った。
「今のところはね」玲子は冷たく答えた。「それより、何とかツオ・ルを止めない
と、地上に暗黒が広がることになるのよ」
ツオ・ルの高い声が全ての音と声を遮って響きわたった。
「時は至った。フォーマルハウトは地平に昇った。いざ、わが主よ。地上に君臨し、
暗黒の炎であらゆるものを灼きつくしたまえ!」
ツオ・ルは高々と触手に覆われた両手を上げた。そして、人間には発声不可能な声
でおそるべき呪文をゆっくりと詠唱しはじめた。
ふんぐるい むぐるうなふ
「洞窟を回って、あいつのすぐそばまで行くのよ」玲子は叫んだ。「殴りつけてで
もあいつを止めないと!」
くとぅぐぁ ふぉおまるはうと
「全員、進め。全速力!」大佐は命じた。
んぐあ ぐあ なふるたぐん
玲子と大佐、それに率いられた6人の兵士は洞窟を駆け出した。夜目のきく玲子が
先に立った。
いあ! くとぅぐぁ!
ツオ・ルの声は洞窟全体に響いていた。玲子は走りながら、記憶のページをめくっ
て、クトゥグァの項を開いた。この召喚の呪文を3度唱えると、クトゥグァは地上に
降臨する。おそらく、あの巨大な扉が、クトゥグァの幽閉されている次元と、この次
元との通路になっているのだろう。ツオ・ルが呪文を終えたとき、あの巨大な扉が開
き、<旧支配者>が出現し、プールに用意されたアスラたちの融合した肉体に宿るの
だろう。
ふんぐるい むぐるうなふ
そうなったら、誰にも、たとえ邪狩教団が全力を尽くしても、それを封じる手段は
ない。教団の使命は、<旧支配者>の復活を妨げることであって、それと戦うことで
はないからである。<旧支配者>そのものと戦うことなど、<巫女>一族であっても
不可能である。クトゥグァは地上を蹂躙し、太古の魔術と暗黒の力で、想像を絶する
災厄をもたらすだろう。そのうち、どこかの国家が耐えかねて核兵器を使用するまで
それは続く。
くとぅぐぁ ふぉおまるはうと
熱核兵器は確かに、肉体を消滅させることはできるかもしれないが、<旧支配者>
の本体はさっさとそれを見捨てて、元の次元に戻って、再び長い眠りにつくだけのこ
とだ。そのあと、世界は悪くすると熱核戦争に突入するかも知れない。多分、邪狩教
団も消滅し、<従者>たちは核の冬を喜んで迎え、いずれ<旧支配者>がもっと簡単
に再臨する。かくて人類の歴史は終焉の鐘を鳴らすことになるのだ。
んぐあ ぐあ なふるたぐん
空気には腐臭が漂い、帯電しているように髪の毛がびりびりと震えた。温度が上昇
している。邪力が増大し、洞窟の壁全体が微かに震動しているようだ。
いあ! くとぅぐぁ!
2回目の詠唱が終わった。一行は角を曲がった。ツオ・ルは50メートル先だ。玲
子はメダリオンを持ち直した。そのとき、闇の中から、アスラが2匹出現した。ツオ
・ルの強大な邪力に隠れて、感知できなかったのだ。牙をむき出して、そいつらは襲
いかかってきた。
ふんぐるい むぐるうなふ
玲子は1匹目の突進を回避した。コンバットナイフを抜いた兵士達が、そいつに立
ち向かった。2匹目は鈎爪の生えた手を振り回し、玲子を翻弄した。確かに強くなっ
ている。玲子はフェイントを繰り返し、何とか相手にメダリオンを叩きつける隙を求
めて、激しく動いた。
くとぅぐぁ ふぉおまるはうと
玲子は1匹目の突進を回避した。コンバットナイフを抜いた兵士達が、そいつに立
ち向かった。2匹目は鈎爪の生えた手を振り回し、玲子を翻弄した。確かに強くなっ
ている。玲子はフェイントを繰り返し、何とか相手をやり過ごして、ツオ・ルにメダ
リオンを叩きつける隙を求めて、激しく動いた。だが、その焦りがわずかに動きを鈍
らせた。常ならば問題にならないほどのミスだったが、鍛えられたアスラ相手には致
命的だった。太い脚が跳ね上がり、玲子の右手をかすめた。手首が切り裂かれ、メダ
リオンが指から離れて落ちた。
んぐあ ぐあ なふるたぐん
詠唱が終わってしまう!後1節、ツオ・ルが呪文を発すれば終わりだ。玲子はアス
ラの攻撃を回避しながら、心の中で悲鳴を上げた。どこからか大佐が敏捷な豹のよう
に、間に割り込み、ナイフを一閃させた。アスラの太い猪首から、血が噴き出した。
玲子はメダリオンを拾い上げて、ツオ・ルに向き直った。
そのとき、カインが現れた。
少年は一瞬で全ての状況を把握した。助走もつけずに跳躍すると、無防備に立って
いるツオ・ルの脳天に剣を叩きつけた。
剣はツオ・ルの頭を真二つに割、背中まで切り裂いた。瞬間的に邪力が増大し、近
くにいたカインのみならず、玲子や大佐、兵士とアスラが地面に叩きつけられた。
間に合った!玲子は素早く身を起こしながら、心の中で叫んだ。だが、それは間違
いだった。上半身を両断されながら、ツオ・ルは立っていた。そして、その切り裂か
れた身体から最後の1節が高らかに響いた。
いあ! くとぅぐぁ!
#2836/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0:18 (165)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第12章 リーベルG
★内容
12
その瞬間、あらゆる時と事象が凍りついた。
玲子、カイン、大佐、兵士達、アスラ。そこにいた全ての者が動きを止め、南西の
対岸にある巨大な扉を凝視した。次に何か起こるとしたら、そこしかありえなかった。
不意に巨大な扉の輪郭がぼやけた。目の錯覚ではない。巨大な一枚板の石の扉は、
スライドするのではなく、ゆっくりと消えかけていた。
不意に肩に手をかけられて、玲子は文字どおり飛び上がった。カインの碧眼が玲子
を見つめていた。
「まだ、邪神は出現していない」カインは静かに言った。「あの扉が完全に消滅す
るまで、まだ少し余裕がある」
「どうしようというの」玲子は訊いた。
「ぼくが扉を閉じる」カインは扉に近寄った。「だが、手伝いがいる」
カインは剣を目の前に持ち上げると、何かを唱えた。続いて、鞘をベルトから外す
と同じように、持ち上げて呪文を唱えた。
「持っていてくれ」カインは玲子に鞘を渡した。そして、目の前のプールを見た。
「駄目よ」玲子は慌てて制止した。「身体が熔けてしまうわ」
カインはわかっている、というように頷くと、剣を目の前にかざした。そして、呪
文を唱えると、プールに突き立てた。
「邪悪なる汚れをまとう者たちよ。聖なる剣の前から退き、道を開けよ!」
プールの液体とその下のアスラの肉体は、ざわざわと蠢き、ついでモーゼの奇跡の
ように、両側に割れた。南西の巨大な扉まで1本の細い道まっすぐ伸びている。。
「ハミングバード」カインは玲子を呼んだ。「鞘をここに突き立てていてくれ」
玲子は言われたとおり、カインが剣を突き立てている場所の隣に鞘を立てた。カイ
ンが剣を抜いても、両側の敵意ある液体と肉の複合物は押し寄せてこなかった。
「何があっても、この鞘から手を離さないで」カインは頼んだ。「あそこで、扉を
閉じる魔術を使った後では、この道は維持できないかもしれない。そのために、鞘を
残しておくんだが、これは立てておかなければならないんだ。でも、ここには固定で
きるようなものがないし、このプールに満たされている邪悪な奴らに隙をみせるわけ
にはいかない。生身の暖かい血の通った人間がこの鞘を握っている必要があるんだ」
「わかったわ。離さないわ。気をつけて」玲子は何とか微笑みらしきものを浮かべ
た。
カインはきびすをかえすと、剣を正面にかざして扉に向かって、可能な限り早足で
歩いて行った。玲子の握っている鞘から離れるにつれて、道の幅は狭くなっていて、
扉の下では片足がおけるだけにすぎない。
巨大な扉はプールから1メートルほど上に位置していた。すでに、扉の輪郭は消滅
し、全体が薄く消えかかっていた。
すでにツオ・ルは崩れ落ち、邪力は消え失せていた。だが、今、別の邪力が扉の方
から感じられていた。ツオ・ルなど比較にならないほど宇宙的な穢れに満ちた力が。
それを感じただけで、玲子の両足は震え始めた。
カインは扉の下にたどり着いた。
剣を持ち上げると、宙に五芳星を描いた。そして、剣を目の前にかざすと口の中で
呪文を唱え始めた。その格好は地下のアリーナでアスラの大群を食い止めた時と、同
じだった。だが、今度止めなければならないのは、それより遥かに巨大な相手なのだ。
扉はほとんど消えかけていた。カインの額に汗が浮かんだ。魔術はほとんど効果を
表していない。本来なら、<巫女>の一族の高僧が数人がかりで行う魔術だった。カ
インは初陣で、しかも負傷し、疲労している。
そのとき、死んだと思っていたツオ・ルがゆっくりと身体を起こした。ほとんど元
の姿を保っていない。カインの剣に斬られた部分は、ぶくぶくと泡立ち、解け始めて
いる。邪力も遥かに弱まっている。だが、最後の執念で身を起こすと、右手をカイン
に向けた。
「死ね!」
邪力が塊となって宙をとび、カインの背を直撃した。前方に全神経を集中していた
カインはよろけた。積み上げた精神集中と、魔術の累積効果が一瞬で消え失せた。ツ
オ・ルは一声、笑い声を発すると崩れ落ちた。ほとんど瞬時に、その身体はわずかな
腐肉と腐汁を残して消滅した。
次の瞬間、扉が完全に消滅した。
全ての目が扉の奥に集中した。
はじめは何も見えなかった。扉の奥には深宇宙のような闇が広がっているだけだっ
た。ただし、星の輝きは見えない。ただ、底知れぬ暗黒だけがどこまでも永劫に続い
ていた。
やがて、何かが見えた。闇の中にきらめく一点の炎。それは次第に大きくなってい
き、こちらに向かってくる。
そして、突然それは扉の入り口に出現した。
恒星の中心部よりも熱く、しかし生命を育む暖かさや、星の世界への憧れを呼び起
こす美しさとは、全く無縁の存在だった。まぎれもなく邪悪な炎だった。いや、あま
りに異質すぎて、人間の限られた認識能力ではそれの本質を完全に理解することは、
1万年かけて進化したとしても不可能だったに違いない。いかなる科学も宗教も芸術
もそれの一端すら表現し得ることは永遠にかなわず、ただ、畏れ、ひれ伏し、許しを
乞うことだけが許された全てだった。神や悪魔という分類ですら、それを収めるには
全く矮小すぎた。宇宙が人間に悪意を持って生み出した存在、いや宇宙の意思そのも
のが、万物の霊長などと思い上がった人類に与えた容赦のない一撃。
それが出現した瞬間に、6人の兵士は自らの精神の制御を失った。処理しきれない
膨大な宇宙的な情報を流し込まれて、オーバーフロー状態になってしまったのである。
脳細胞は負荷に耐えかねて破裂し、耳や、鼻、口、目から血を流して、兵士達は即死
した。
玲子もクトゥグァの本体が出現した瞬間に、凍りついた。だが、兵士達と同じ運命
をたどることはなかった。情報に触れた途端に、訓練された制御機能が作動し、精神
のジャンクションを切り替えて、受け取った情報をそのまま流してしまったのである。
複雑にからみあった理性と、感情が完全に切り離され、玲子はロボットのように生き
ているだけの存在になっていた。だが、おかげで発狂することもなければ、ショック
死することもなかった。カインに託された鞘もしっかり握ったままである。
荏室大佐も扉の入り口で同じように凝固していた。明らかに、精神を切り離す術を
こころえているらしく、目はうつろで焦点があっていなかったが、それが故意に<旧
支配者>の存在を無視するためであることは明らかだった。
そして、カインはなおも立っていた。彼だけが、明確な意識を保ったまま、かつク
トゥグァの存在の影響を受けていないただ一人の人間だった。カインはツオ・ルの執
念の一撃で、背中から血を流していた。だが、ほとんど気にも止めず、剣を構え、邪
神の実体化を防ごうと全力を傾注していた。
巨大な扉の入り口では、燃えさかる炎が蠢いていた。クトゥグァの本体である。カ
インはそれを見ていたが(ただし、あまり正面からでなく)、自分が見ているものが
実際とかけ離れた虚像であることは承知していた。カインの精神は無意識のうちに、
情報のインプットを絞りこんでいたが、それでもなお<旧支配者>の存在は、異質す
ぎた。人間の脳は、それをかろうじて、「炎の塊」と解釈しているに過ぎない。
プールの中のアスラ達の呪われた身体が、<旧支配者>の君臨を知って歓喜に波打
った。中央付近が盛り上がり、小山となった。アスラの身体で構成された巨大な肉塊
は、何かの像を形作ろうとしていた。みるみるうちにそれは、寄り合わさり、深く融
合し、おぞましい形に変わっていった。巨大な触手と、感覚器官のない顔。カインは
一瞬だけ振り向き、すぐに目を外らした。それは数10メートルを越えて、なお盛り
上がり続けていた。
カインは力を抜いた。この上は、力を蓄えて、形をなしつつある肉の塊に、一気に
ぶつけるしかない。今はまだ、<旧支配者>は実体化していないため、こちらの次元
に影響を与える魔術を、直接使うことはできない。だが、本体があの肉体に宿れば、
こちらの次元に属する存在となり、その強大な古の魔力を行使することが可能になる。
そうなってからでは、全てが終わりである。
ツオ・ルが施した魔術が、次元を超えた<旧支配者>の影響力で強化され、肉の塊
はますます高く、大きくなっていった。じきにプールに浮かぶ全てのアスラの身体が
集合して、ひとつの怪物に変わる。そのとき、クトゥグァがそれに宿り、恐るべき邪
神が地上に君臨するのである。
カインは持てる力を剣に集めた。後のことは全く考えていない。自分の生命力の全
てを注ぎ込んだ。自分の貧弱な力で、魔術で結合された巨大なアスラの集合体を、果
たして打ち破れるかどうか、自信はなかった。だが、他にできることはないのだ。
像が完成に近づいたようだ。カインは顔色ひとつ変えなかったが、心の中では、絶
望が渦巻いていた。とても、見込みはなさそうだ。自分の力を精一杯放っても、触手
を1本吹き飛ばせるかどうか。
扉の方から、待ちかねたように光の触手が伸びて、肉の像に吸い込まれていった。
カインは最後の一撃を与えるべく、剣を構えた。<旧支配者>の本体が、像に宿る直
前まで力を蓄えつつ待って、可能な限り最大限の力を叩きつけるつもりだった。妖し
く輝く光は、どんどん像に吸い込まれていき、今や全体が淡い輝きを放っていた。
−姉上!力を…
カインは心の中で絶叫すると、力を解放しようとした。
その時、巨大な肉の塊の一部が、結合力を失ってぼろりと崩れ落ちた。カインは力
を解き放つのをやめて、それをみつめた。あれほど、強固に融合していたアスラ達の
解けかけた身体が、ひとつひとつ外れ、ぼたぼたとプールに落ちていった。
カインはあっけにとられて、それを見つめた。知らぬ間に、剣を持つ手が垂れてい
る。
急速に、巨大な肉の像は崩壊していった。声なき呪いの絶叫を放ちながら、アスラ
達は離れ、プールに落ちては、液体の中でのろのろと蠢いた。大部分は四肢のどれか
が欠け、皮膚も剥がれ落ち、内臓がはみ出していた。
不意にカインはその理由に思い当たった。
「早すぎたのか…」
ツオ・ルはアスラをクトゥグァの宿る肉体を作るために生み出した。だが、それは
まだ、未完成品だったのだ。本当は、もっとじっくりアスラを育てて、より強靭な、
より邪悪な生物として完成させてから、<旧支配者>を召喚するつもりだったのだろ
う。わざわざ、タイラント長官のもとに、愚にもつかぬレポートなどを送って、教団
員をおびき寄せたのも、そのためである。つまり、アスラの訓練のために、戦士が必
要だった、といったツオ・ルの言葉は真実だった。だが、強力な地下の軍団を作り、
地上を蹂躙すると言ったのは違っていた。もっと後の段階で、それも実行したかも知
れないが、真の狙いは<旧支配者>の強力なエネルギーが宿ることができる、強い生
物に育てることにあったのだ。
予定より早く<旧支配者>を受け入れることになった仮の肉体は、それに耐えきれ
なかった。結合していた魔術を操っていたツオ・ルが消滅してしまったことも、その
一因だったかもしれないが、クトゥグァの一部が入り込んだだけで、はじけ飛んでし
まったのである。
炎があきらめたように、扉の方に戻って行った。カインは扉に向き直ると、肉の像
にぶつけるつもりだった力を、封じ込めの魔術に使った。素早く、呪文を唱え、剣で
五芳星形を描く。
「古の精霊よ、扉を閉ざせ。邪悪な魔術よ、退け。穢れた存在を、深淵の中に封印
せよ!大いなる印よ、今こそその力を顕せ!サブル エル ロシフォルラート!サブ
ル エル ロシフォルラート!力と光よ、真理を照らせ!」
たちまち、扉が実体を持ち始めた。物質がどこからともなく出現し、はじめはうっ
すらと影のように、続いて堅固な石の扉に変わっていった。それに従って、<旧支配
者>の宇宙的な力も次第に遠のき、ついには感知できないほどになった。
とうとうそれは完成した。まるで千年の昔からそこにあったように、揺るぎない厚
い一枚の石の扉は、その向こうに広がる異なる次元への通路を塞いでいた。その通路
を開いたのはツオ・ルの魔術であり、それを維持していたのは、<旧支配者>の力だ
った。そのどちらもが、この世界から消えた今、通路は閉じられてしまったはずであ
る。カインはそのことを確信していたが、それを確認するためにもう一度扉を開ける
つもりはなかった。それは別に魔術を使うまでもない。超音波か何かを使って、扉の
向こうがただの壁か、何の変哲もない通路になっているのを調べればいいのだ。教団
の誰かがやってくれるだろう。
カインが振り向くと、あの巨大な肉の像はすでに影もかたちもなく、おぞましいが
ほとんど無害なアスラたちの、半ば崩れかけた身体が、プールに浮いているだけだっ
た。カインは、<旧支配者>の力のおかげでほとんど閉じかけていた、液体を切り開
いた道を改めて広くすると、無表情な顔で鞘を握っている玲子の方に歩き始めた。
#2837/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0:22 (190)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第13章 リーベルG
★内容
13
頬を軽く叩かれて玲子は意識を取り戻した。正確には、カインが軽く刺激を加えて、
外れた精神のジャンクションを接続しなおしたのだ。
「…痛いわね」玲子はぼんやり呟いて、視線をさまよわせたが、不意に意識をはっ
きりさせ、同時に恐怖を浮かべた。
「カイン!邪神が!」
「わかってるよ」カインは想像もできないほど優しく言った。まるで、玲子が12
才の少女で、カインが年上の青年であるかのようだった。「上がろう」
2人はプールから上がった。玲子は鞘をカインに返した。洞窟の照明は再び点いて
いた。
「ねえ、一体何がどうなったの?」玲子は知りたがった。カインは度重なる戦いで
汚れてしまった聖剣を、きれいなハンカチで丁寧に拭いながら簡潔に事情を話した。
「そうだったの」玲子はため息をついた。「私は何の役にも立たなかったわね」
意外にもカインはその言葉を肯定する代わりに、慰めといっても差し支えないこと
を言った。
「ツオ・ルがあそこまで追いつめられたのは、君のおかげでもある」カインは剣を
鞘に戻した。「どうやってここまで来たんだ?」
「ああ、ええと上でこの人に会って…」玲子は大佐を探した。大佐は、扉の影で胎
児のような格好でうずくまっていた。本能的に<旧支配者>の宇宙的なエネルギーを
直視しない場所に非難したのだろう。玲子は、そこに行くと、大佐の手をとって軽く
プラーナを送り込んだ。大佐の身体がぴくりと痙攣し、目が開いた。
「う…。ああ、君か。一体どうなって…」
大佐の声をカインの鋭い声が遮った。知らぬ間に玲子の後ろに立って、大佐を睨ん
でいたのだ。 ・・
「きさま、荏室少佐!ここで何をしているんだ!」
「カイン、知ってるの?」玲子は驚いて訊いた。
大佐はカインを目にすると、にやりと笑って答えた。今まで、精神を閉じていたと
はとても思えない。 ・・・・・・・・
「やあ、久しぶりだな。エクベルファード、いや、カインか。今は大佐だよ」
「お前が大佐だろうと、二等兵だろうとどうでもいい。ここで何をしているんだ」
その声には隠しきれない憎悪がこもっていた。玲子はぞっとしながら、あっけに取
られて、二人を見ていた。
「任務なんだ」大佐は立ち上がると銃を探した。CZ85はカインの足元に転がっ
ていた。大佐は肩をすくめると、それを拾うのをあきらめた。
「<ホロン>のか?」カインは詰問した。玲子はツオ・ルがその固有名詞を口にし
たのを思いだした。
「<ホロン>って何なの?」玲子はカインに訊いた。カインは吐き捨てるように答
えた。
「世界で一番、汚らしい奴らが作っている組織だ」
「そんなにひどいことを言わなくてもいいじゃないか」荏室大佐は倒れている兵士
たちを見回した。「あーあ、こいつらの訓練には4年もかけたのにな。また、新兵か
ら育てにゃならんとは」
「お前もそこに転がしてやってもいいんだぞ」カインは剣の柄に手をかけた。
「わかったよ。あんたと戦うつもりはないんだ。おれはさっさと帰りたいだけだ」
「帰る前に話せ。ここに何の用があったんだ」カインの声は静かだったが、それは
俗に言う嵐の前の静けさ、というやつだった。荏室大佐にもそれは充分わかったらし
く、降参したように壁にもたれると、言った。
「ツオ・ルに用があったんだ」
「どんな?」 ホロン
「実は、ツオ・ルにここの事を教えたのは、うちなんだよ」
数瞬の沈黙の後、玲子が口を開いた。
「つまり、ブランデーワインとスワン、それに1才の子供を<従者>に売り渡した
というの?」
「まあ、言葉を飾らずに言えばそうなるかな」荏室大佐は悪びれずに言った。
電光のようなスピードで玲子の右手が飛び、大佐の頬をひっぱたいた。洞窟にぱし
んという小気味のいい音が響いた。カインですら、それを予測することも、動きを目
にすることもできなかった。大佐は自分が易々と他人に接近を許したことが信じられ
ない、と言った顔をしていた。
「自分が何をしたのかわかっているの?」玲子は爆発した。「ブランデーワインと
スワンはいいわよ。彼らは教団の人間で、常に危険にさらされていることは承知して
いたし、覚悟もあったでしょうから。でも、1才の女の子に一体、どんな罪があった
というのよ!」
「別に、おれ自身がそうしたわけじゃない」荏室大佐は後ろめたさを感じて、とい
うよりも、玲子をなだめるために言った。「ツオ・ルに教えたのは、他の誰かさ」
「そんなことが言い訳になると、本当に思ってるの?」玲子はなおも、まくしたて
ようとしたが、カインは手振りでそれを止めた。
「それから?」氷のような声でカインが促した。「何のためにそうしたんだ」
「ツオ・ルはどこか、アスラの研究をできる場所を探していた。一方、<ホロン>
の方はアスラが欲しかったんだ。何のためか、訊きたいだろうから言うと、おれたち
を使うわけにはいかない戦闘のとき、送り込む優秀な部隊が欲しかったのさ。それが、
人間だろうと、アスラだろうと何でもよかったんだ。だが、言っておくが、<ホロン
>も<旧支配者>のことは充分、承知している。まさか、ツオ・ルが<旧支配者>復
活のためにアスラを生み出し、強化しているとは思わなかった。上層部が望んでいた
のは、<従者>をコントロールしながら、利用することだったんだからな」
「ここの改造に秘かに手を貸したのも、お前達だな」
「資金と、掘削機械や建築材料を提供しただけだ。何を作るのは言わなかった。<
ホロン>としては、アスラという狂戦士が安定して供給されるならば、金に糸目はつ
けないつもりだったのさ。 ジャカリチャーチ
一番苦労したのは、他でもない邪狩教団に、探知されないことだったそうだ。おた
くらの情報網はとてつもなく優秀だからな。そのために随分、金をつぎ込んだ」
「アスラの元の人間もあなたたちが与えたの?」玲子が低い声で訊いた。まだ、怒
りが収まっていない。大体、玲子とカインがこんな苦労をしなければならないのも、
元はといえば、この男の属する組織のせいではないか。
「いいや。だが、黙認していたのは確かだ。最初は浮浪者やなんかを捕まえていた
らしい。そのうち、避暑客や通りすがりのドライバーをアスラを使って、誘拐させる
ようになった。アスラの訓練も兼ねてな。ただ、それだけじゃ、あれだけの数をそろ
えるのは無理だから、最後にはアスラに生殖能力を持たせたらしい。おれは実際にみ
たわけじゃないが、アスラは雌雄両体でセックスなしで、子供を生める。妊娠期間は
人間の10分の1で、子供が成長するスピードも数週間くらいらしい」
「今日は何をしに来たんだ」
「ここ、数週間ツオ・ルも、キオ・ルも連絡が取れなかった。おれは様子を見てこ
いと命令されたんだが、ツオ・ルが裏切った可能性もあるので、指揮下の部隊を連れ
てきた。案の定、着陸した途端に攻撃して来たよ。撃退してやったがね」
「わかった」カインは柄から手を離した。「今日は殺すのはやめておいてやる。さ
っさと帰れ。銃を拾うな。丸腰で帰れ。途中でアスラの生き残りにでも出会ったら、
素手で切り抜けるんだ」
「ひどい奴だ。一体、おれが何をしたって言うんだ」荏室大佐は悲しそうに言った
が、目には自信が宿っていた。どうせ、身体のあちこちにいろんな武器を隠し持って
いるに違いない、と玲子は考えた。
「一緒に行くかね?」荏室は訊いた。
「お前はこの洞窟から上がれ。ぼくたちは別の道から行く」
「はいはい。わかりましたよ。それじゃ、またな。さよなら、お嬢さん」
「2度と会いたくないわ」玲子は答えると、背を向けた。それは切実な希望だった
のだが、残念ながら実現しなかった。玲子は時を経て、再び荏室と出会う事になる。
玲子とカインが歩き始めたとき、後ろからためらいがちな声が呼び止めた。
「待ってくれ、カイン」
カインは振り返った。
「何だ」
この男には似つかわしくないことに、荏室はしばし躊躇って、それから言った。
「姉さんは元気か?」
「お前の知った事じゃない」カインの瞳に怒りの炎が燃え上がった。「2度と姉上
のことを口にするな。穢らわしい」
言い捨てて、カインは荏室に背を向けた。玲子を促して歩き始める。玲子は最後に
一度だけ振り返るとカインの後を追った。荏室は失恋した中学生のように立ち尽くし
ていた。
玲子とカインは、ツオ・ルがやってきた通路を逆にたどった。カインはここに来る
途中に、庭の倉庫に出るらしい階段を見つけていた。しばらく、どちらも口を開こう
としなかったが、玲子はとうとう好奇心に負けた。
「カイン、ひとつ訊いてもいい?」
「駄目だ」にべもない返答だった。玲子は内心たじろいだが、聞こえなかったよう
な顔をして続けた。
「あの荏室大佐とは前からの知り合いなの?」
返答は不機嫌を極めたものだった。
「君の知った事じゃない。ハミングバード」
玲子は少しむっとして言い返した。
「知る権利があると思うわ。私には」
実は玲子自身、そんな権利があるとは思っていなかった。だが、カインは内的世界
でどのような結論を出したのか、その権利を認めた。
「他言しないと誓ってくれ」
「神かけて誓うわ」玲子は厳かに誓った。自分が無神論者であることをわざわざ言
う必要もない。
「あいつは、<巫女>の一族の血をひいているんだ」
玲子は絶句した。カインは恥じるように口をつぐんでいた。何度か、口を開閉させ
て、ようやく玲子は疑問を口にした。 イーブル・サイン
「み、<巫女>の一族!?確かに、ただ者じゃないとは思ったし、邪悪な瘴気を私
以上に敏感に感知してたけど。でも、大佐はホロンとかいう組織の一員なんでしょ?
<巫女>の一族の者がどうして、外部にいるの?」
「それは少し複雑なんだ」カインはため息をついた。
二人は、洞窟の途中にある階段を昇った。確かに、まっすぐ庭の方に出ている。し
ばらくして、カインは口を開いた。
「<ホロン>というのは、組織だと言ったが、その実体はないに等しい。その始ま
りは相当古い。わかっている限りでは中世ヨーロッパの封建社会の時代にそれはすで
にあった。その時は、もちろん<ホロン>という名前ではなく、別の名前だった。
それは、錬金術師達が協議して生まれたらしい。最初の目的は、純粋に科学知識の
広範な交換の会だった。また、科学を敵視する教会勢力からの迫害を逃れるための、
団結でもあった。
その集団は歴史の中に確実に存在していたにもかかわらず、浮上することはなかっ
た。邪狩教団とよく似ているが、違うのはその集団が次第に、知識とそれによって得
られる富の独占への道を選び始めたことだ」
「時の権力者と手を結んだということ?」玲子は口を挟んだ。カインは頷いた。
「そうなったのは、神の名のもとに科学を弾圧した中世の教会が主な原因であると
言われている。多くの暗闘があり、時には放火や殺人、拷問などが応酬された。とう
とう、錬金術師たちは科学知識という人類の宝を手土産に、権力者の保護を求めたん
だ」
玲子は黙って耳を傾けていた。
「この段階で彼らは過ちを冒した。権力者−国王や封建領主たちは、確かに教会か
ら、錬金術師達の知識を保護したけれど、彼らが望んだように、その知識を大衆に広
げようとはしなかった。それを独占し、自らの権益を守るために使ったんだ。
数世紀後、錬金術が科学と名を変えていた時代には、権力者たちの間には、知識独
占のための秘密結社が生まれていた。権力者の心理構造というものは、数千年前から
ほとんど変わっていない。つまり、知識の可能性というものを知っていたんだ。それ
は、権力者自身に利益をもたらすこともあるが、逆に大衆を抑圧や隷属から解放して
しまうかもしれない。
秘密結社の目的は、すぐれた発見や発明がなされる度に、それをコントロールする
ことだった。そして、自分達がそれによって充分甘い汁を吸えるのなら、慎重に世の
中に広める。逆に自由と平等をもたらすような知識ならば闇に葬ってしまうか、搾取
のシステムを変更してその知識に対応させるまでおさえておく。そんなふうにして、
一部の権力者が全人類の叡智を餌に肥太っていくなかで、大衆は、自分達がどれほど
貴重なものから遠ざかっているのかも知らないまま搾取され続けた」
「教団はそれに干渉しなかったの?」
「邪狩教団の目的は、<旧支配者>の復活を妨げる事であって、不幸な民衆を助け
ることではないからな」カインは冷たく言った。「両者の利害が対立したとき、勝利
を収めたのは必ず教団だったそうだ。だが、基本的には教団は不干渉だった」
「そう」玲子は寂しげに呟いた。「さっきの話を続けて」
「その秘密結社は、それでも何度か壊滅したことがある。教会勢力に滅ぼされたこ
ともあれば、ルネッサンスの前に自滅したこともある。人類の知識の発展、とりわけ
西欧科学文明の発達は、結社の小癪な妨害などはねのけてしまった。
しかし、彼らは必ず違った名前で復活した。最近では頻繁に消え失せ、忘れたころ
に出現する。相変わらず結社の活動目的は、富と知識の独占にあるんだ。その活動範
囲は全世界の経済、軍事、科学技術、宗教に及んでいる。
1963年、結社は一人の政治家を暗殺した。軍縮を試み、科学の発展を願い、確
固たる信念と、立派な哲学を持っていた男だ。彼が死んだことでベトナム戦争は泥沼
化し、世界は熱核戦争の危機におびえることとなったんだ」
玲子の脳裏にその政治家の名が浮かんだ。有名なアメリカ合衆国の大統領である。
「その直後、結社は姿を消した。目的を果たして、闇に潜ったんだ。その後、84
年に<ホロン>として、どこからともなく現れたんだ。そのときすでに、<ホロン>
は<旧支配者>に関して、かなりの知識を持っていた。明らかに<従者>を軍事的に
利用しようとしていたんだ」
#2838/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/11 0:26 (168)
邪狩教団 第2話 炎の召喚 第14章 リーベルG
★内容
14
二人は倉庫の中に出た。倉庫の中は、いくつも棚が作ってあり、日曜大工道具や、
芝刈機、何かのエンジン、バケツやホースといった、どこにでもありそうなものが転
がっている。ドアは外から鍵がかかっていたが、玲子は壁の一部が隠し扉になってい
るのを発見した。
外に出ると、玲子は思いきり伸びをして、しなやかな身体をリラックスさせた。カ
インはおもしろくもなさそうに周囲を見回していたが、やはり外に出てほっとしてい
るようだった。
そろそろ、夜明けが近い時刻になっているはずだった。雲一つない空には、信じら
れないほとたくさんの星が瞬いていた。冷たい夜風が玲子の長い髪を優しく撫で、乱
していった。肌寒さを感じたが、玲子はプラーナで身体を暖めようとはせず、夜に包
まれるすがすがしさを存分に満喫した。
「何とか今日の語学の授業には間に合いそうね」とてつもなく日常的なことを玲子
は呟いた。
「カイン。ハミングバード」
声がかかる前に、二人は振り向いていた。若い男が立っていた。革のジャンバーと
黒いジーンズという軽快な服装だった。栗色の髪と、鳶色の瞳。俳優のような整った
顔立ち。すらりと長い足。玲子はその男をコードネームで知っていた。
「ハイ、ロミオ」
「無事でよかった」ロミオは玲子の手を取った。「心配してたんだよ。東洋一の美
人が危険だと聞いてね」
「はいはい、ありがとうね」玲子はさりげなく手を取り戻した。「相変わらずね。
ジュリエットは?」
「あいつなら、向こうで後始末をしてるよ。得体の知れない化け物が何匹も襲いか
かってきたんだ」
「アスラというのよ」
「へえ。ま、とにかくここに着いた途端に、そいつが10匹以上現れたんだ。話が
通じそうな相手じゃないし、焼き尽くしてやったよ」
玲子は頷いた。ロミオと、ジュリエットというコードネームを持つ女性の戦闘要員
は数万度の高熱を発する能力を持っている。玲子は何度か、彼らと一緒の任務を遂行
したことがあり、その威力のほどは熟知している。
「こちらはカイン。<巫女>一族よ。カイン、こちらは教団の戦闘要員でロミオ。
もうひとり、ジュリエットという女性とコンビを組んでるの」
カインはうなずいただけだった。ロミオは自分より顔の綺麗な男には、無条件で敵
意を抱くとい仕ト\通り、そっぽをむいた。天性の女たらしなのだ。玲子自身、何度も
口説かれたことがある。そのたびに撃退したが。
「長官と連絡を取りたいの。送信機を貸してくれない?」玲子はロミオに言った。
ロミオは頷いて、自分の腕時計を外しながら言った。
「君の送信機は、窓の外に落ちてたよ。ぼくらが到着したときには、あの化け物に
踏まれたかなんかで、壊れてたけどね」
回線はすぐ、つながった。玲子はイヤピースを耳にはめた。
「ハミングバードです」
『<ホロン>の部隊はどうした』長官の第一声がそれだった。いつものことなので、
玲子は今更怒る気にもなれなかったが、それでも一言、言わずにはいられなかった。
「私たちの安否を気遣う一言くらいあってもよさそうなものじゃありませんか?」
『ああ、大変だったな』義理が9割といった感じで長官は言った。『それで、<ホ
ロン>の部隊はどうした』
「一人を除いて、全滅しました」玲子はあることに思い至った。「まさか、はじめ
から知っていたんじゃないでしょうね!」
『知ったのはついさっきだ。その一人はどうした?』
「さあ。撤退したんだと思いますが」
『<従者>は?』
「滅びました」
『よろしい』タイラントの声には、それと注意していなければわからないほどの満
足感が混じっていた。『カインにかわってくれ』
玲子はイヤピースと送信機をカインに渡した。カインはそれを受け取ると、玲子に
背中を向けて長官と、何やら小声で会話を始めた。玲子が所在なげにそれを眺めてい
ると、誰かが近づいてきた。
「あらハミングバード。久しぶりね」
ジュリエットだった。美しい金髪と、蠱惑的な肢体を持つグラマラスな美女である。
ルージュをひいた唇。天性の媚を持った瞳。小生意気な妖精のような鼻。本人も自分
が美しいことを充分に心得ているが、かといってそれを誇示したり、また嫌みに謙遜
してみせたりはしないので、高慢な印象を与える事はない。うす汚れたセーターとジ
ーンズも、彼女のセックスアピールをいささかも損ねてはいない。
「ハイ、ジュリエット。いつも素敵ね」玲子はお世辞でなくそういった。二人の年
齢はジュリエットの方が、一つか二つ上であるだけだが、玲子はいつも圧倒されてし
まう。ロミオとジュリエットが並んでいると、これほど美男美女という形容詞がぴっ
たりくるカップルも珍しい。もっとも、そんなことを口にすれば、二人とも顔をしか
めて否定するに違いない。この二人がコンビを組んでいるにもかかわらず、仲が悪い
のを、玲子は知っていた。
「そっちは終わったのか?」ロミオが険悪な口調で言った。
「とっくに終わったわよ。あんたみたいにぐずじゃないのよ」答えたジュリエット
の言葉も、とげだらけだった。
「ぐずとはなんだ。のろま」
「何よ。****の☆☆☆☆!」ジュリエットは、玲子が思わず顔を赤らめてしま
うな卑猥なフォーレター・ワードを吐いた。ロミオも負けずに言い返した。
「何だと!この○△×♀!」
「♂@£◇!」
「∴&§♂!」
玲子はあきれながらも、楽しく二人の罵りあいを聞いていた。地下で、非人間的な
ものに直面し過ぎたので、久しぶりに生き生きとした人間の営みに触れたのが、うれ
しかった。たとえ、それが聞くに耐えない罵詈雑言であったとしても。
カインが通信を終えて、3人の方にやってきた。さすがにロミオとジュリエットは
口をつぐんだ。最も、険を含んだ視線をぶつけあってはいたが。カインは送信器とイ
ヤピースを、ロミオに返して言った。
「あと、5分でヘリが到着する」
ジュリエットが進み出て、カインに色気たっぷりの挨拶をした。
「初めまして、<巫女>のカイン。ジュリエットです」
カインは冷たい一瞥をくれただけで、それを黙殺した。ジュリエットは少し、顔色
を変えたが、肩をすくめて歩きだした。ロミオはそんなパートナーを冷笑すると、後
に続いた。ヘリが下りられる地点まで少しあった。
玲子はカインと並んで歩き始めたが、小声で訊いた。
「それで、荏室大佐はどうなっているの?」
カインは唇に100キロの石の塊がぶらさがっているような、重い口調で答えた。
「<ホロン>は、何とかして<従者>をコントロールしたがった。それには<巫女
>の血が絶対に必要だ。そこで、10年ほど前、ある戦いに紛れて、<巫女>の一族
の女性を拉致したんだ。むろん、薬物で眠らせてだ」
カインは怒りをこらえるように拳を握りしめて、続けた。
「その女性は、<ホロン>が選んだ男に犯され、やがて妊娠した。男の子が生まれ
たが、母親となった<巫女>の女性は死んだ。逃亡を防ぐために、薬物を連続的に投
与されていて、衰弱していたんだ。
子供は健康だったが、<ホロン>が期待したほどの<巫女>本来の力を発揮するこ
とはなかった。外部の血を混ぜたのだから当然だ。そこで、<ホロン>はその男の子
を、<巫女>に送り込んだ。どうして、そんなことができたのかは、ぼくにはわから
ない。邪狩教団と<ホロン>との間に、ある種の不可侵条約のようなものが結ばれた
とも聞いたが、詳しいことはわからない。とにかく、何年かの間、その男の子は、ぼ
くと一緒に修行をした。ぼくたちは、まあ親しいといってもいいくらいの仲になった
んだ」
カインは沈黙した。玲子はしばらく待ったが、カインは物思いに沈んでしまったよ
うに口を閉ざしていた。とうとう、玲子は静かにうながした。
「それから?」
カインは夢から醒めたように、玲子の顔を見ると、平静な声で言った。
「それがあいつだよ」
再び、沈黙が訪れた。だが、今度のそれは、熱くはちきれそうな何かを秘めた、爆
発寸前の状態が、かろうじて均衡を保っているのにすぎなかった。それをはじけさせ
たのは、玲子だった。
「あいつって、荏室大佐のこと?」
カインは頷いた。
「だって、あの男はどう見ても30を越えてたわよ!」玲子の声は知らず知らずの
うちに高くなっていた。前を行くロミオとジュリエットが、罵声をぶつけあうのを中
断して振り返った。玲子は、何でもない、というように手を振ってから、小声で訊い
た。
「あの男は実は10才だったというの?」
「原因はわからないが、その男の子の成長は異常に早かった」カインは荏室という
固有名詞を使うのをかたくなに避けていた。「むしろ老化が、というべきかな。母親
に投与された薬物のせいかもしれないし、<巫女>と普通の人間との混血が原因かも
知れない。とにかく、男の子は一族と共に暮らした5年間で、通常の20才を越える
くらいの肉体的な成長を遂げたんだ」
「それなら、あっという間に老人になるんじゃないの?」
カインはかぶりをふった。
「次第に成長のスピードは緩やかになっていった。ぼくがあいつと別れたときは、
ほとんど目立たないほどだった」
「別れた?」
「<ホロン>があいつを呼び戻したんだ。<旧支配者>関係の任務を与えるために。
その後、一度だけ訪ねてきたとき、あいつは少佐だった」
玲子は言うべき言葉を見いだすことができなかった。カインは平静さを装っている
が、固く握りしめた拳がそれを裏切っている。
「これだけだ」カインはきっぱり告げると、これ以上は何も話すつもりはない、と
でもいうように、さっさと先に立って歩き始めた。
玲子は心にかかっていた質問を、ついに発することができなかった。カイン、荏室
大佐は何故、あなたのお姉さまソーマの名前を口にしたの?
だが、カインの拒否は奇妙な安堵をもたらしたことも確かだった。それは、玲子が
するべきではない質問だった。玲子は自分がその答を、本当に知りたいのかどうかす
ら分かっていなかった。
カインは玲子の前を傲然と歩いていた。その背中は世界の全てを拒否しているよう
に、寂しげで、はかなげに見えた。玲子は足を早めて少年と並ぶと、そっと手を握り
しめた。少年はそれを拒まなかった。暖かい手が、優しく握り返してくるのがわかっ
た。二人はそのまま、無言で歩を進めた。
やがて、前方に爆音が轟き、闇を切り裂いて2機のヘリが出現した。ロミオが、ラ
イトで円を描いてパイロットに合図する。しばらく、ホバリングしたあと、ヘリは草
の上に、お互いに少し離れて着陸した。1機のハッチが開き、誰かが降り立った。女
神のようなソーマの優しい微笑みが月明かりに照らされて、カインを待っていた。
カインは玲子の手を離して、振り向きもしないでそちらに歩きだした。年に似合わ
ず冷酷な少年にふさわしい仕草だったが、指と指が離れる最後の瞬間、玲子はカイン
の心の声を確かに聞いた。
−ありがとう、ハミングバード。
なぜカインがそんなことを言ったのか、玲子にはわからなかった。だが、その不器
用で暖かく素直な、少年らしい感謝の言葉は、玲子の心を優しく柔らかく満たしてく
れた。とりあえずはそれで充分だった。玲子はいずれまた、この少年に会えることを
確信していた。
カインがソーマの腕の中に飛び込んで行くのを見ながら、玲子はもう1台のヘリに
向かって歩きだした。高空には月と星。地上にはそよ風と草の香り。冷たい空気には、
微かに夜明けの匂いがただよっていた。
邪狩教団 第2話 炎の召喚
了
1993.2.10
#2839/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/11 15:10 ( 72)
【軍艦島は接吻の彼方に】その2 ワクロー3
★内容
《20代おんな心の謎》2 逆風ついて船は出るよ
Sが連れてきた「画学生」は、不思議なブレスレットをつけてい
ました。僕は、自己紹介を始める前に、そのブレスレットについて
質問をしていました。
「変わったブレスレット・・」
「・・・」
何も答えはありませんでした。
そのかわりに、「画学生」は、手にしたスケッチブックごしに、
小さな笑顔をよこしてくれたのを今でも鮮明に思い出すことができ
ます。
Sは、その「画学生」と、もう一人の女性を僕に紹介しました。
もう一人の女性は、ライツ=ミノルタというこだわりのカメラを手
にしていたので、ここでは仮に「カメラ美女」とでも、呼んでおき
ます。
二人とも、福岡市内の芸術系大学に通っているSの同級生という
わけでした。軍艦島に行く、と持ちかけたら、二人は、即座に同行
を申し入れたそうです。
夏とはいえ、車を出ると、海からの風は強烈で、冷たく感じます。
夜明けまでには、まだいくらか時間がありました。
Sの手引で、瀬渡しをしてくれる人を訪ねて、集落の中に歩いて
行きました。
「カメラ美女」は、今らか思うと、記憶が曖昧なのですが、ライ
ツ=ミノルタにレンズとしてはわりと半端な40ミリレンズだけを
つけていて、それ以外のカメラ機材を持っていませんでした。素人
目には、それで写真がとれるんだろうかと、半分彼女の腕を疑問視
したほどの軽装でした。
「画学生」はスケッチブックだけ。Sは、ニコンF3を中心とす
る大装備のカメラ機材一式。僕は、何も持って行かなかった。万一
に備えて、食料をかなり持ってはいました。
Sは、僕らを待たせて、瀬渡しの人物とかなり長い間、話をしま
した。
「風が強いので、船は簡単には出せない」
そういう船頭さんを、慎重に説得しているのが聞こえました。結
局、規定の料金に一人千円を上乗せする条件で、話はつきました。
時刻は午前5時に近づいていました。浜に出ると遠目に軍艦島の
島影が見えています。それは、思ったよりも間近に迫って見えまし
た。
冷たい、誰も住まなくなった軍艦島。廃虚の軍艦島。捨てられ
た軍艦島。
小さな島にあれほど多くの人間を抱いていたのに。今は誰もいな
い軍艦島。
僕ら4人は、心のどこかで、ひそかにこの寂しい島のことを思い
続けていたのかもしれない。今思うとそんな気さえするのです。
そして、今はどうなんだろう。ちかごろ僕は突然に、思い出すこ
とがあるのです。軍艦島のこと。そして「画学生」のこと。
8年という歳月は、記憶をたどるには、まだまだ生々しい時間な
のかも知れません。
(以下次回につづく)
#2840/3137 空中分解2
★タイトル (AKM ) 93/ 2/11 15:12 ( 86)
【軍艦島は接吻の彼方に】その3 ワクロー3
★内容
《20代おんな心の謎》3 廃虚の島に到着
風が強い日でした。海上はうねりもあります。
夜が明けてきて、海の色と港の周囲の景色がはっきりとして来ま
した。
「迎えは、夕方4時。海がこんなだから、波が高いと午後7時く
らいまでもようを見る。どっちにしても、午後4時には、海岸の船
から見える場所にいてくれ」
瀬渡しのおじさんは、あっさりと、そう言いました。
夜が明けてるに伴い、空がみるみる晴れわたって来ました。快晴
です。港の両側に迫っている山肌に、樹木が茂っていました。どの
葉も、海風に強烈にあおられているのが見えました。
「木の葉が、みんな腹(裏側)をみせとるだろ。風が強いんだ。
こんな日は波が高い」
瀬渡しのおじさんは、繰り返しのようにいいました。
その間にも、軍艦島は、間近に迫ってきます。天候が急変したら、
きょう一日、帰れなくなるかも知れない。そんな予感もしました。
しかし、船で進んでいるときには、帰れない心配よりも、軍艦島
に無事にたどり着けるだろうか。そっちのほうを心配していました。
船が進んで二十分くらいたつと、島は僕らの視界いっぱいに広が
るほどになりました。間近にみる島は、島というよりも、巨大な要
塞。巨大なコンクリート建造物に見えました。
港を出て30分が過ぎました。船は、島に取り付くきっかけを探
るために、速度を落としました。
「そこが桟橋跡なんやが、コンクリートが腐っていて、危ない。女もお
るこっちゃから、裏に回るか」
瀬渡しのおじさんは、そう言って、軍艦島の北側に船を向けまし
た。
軍艦島は、定期航路があった時代でさえ、しけで船が接岸できな
い日が多かったと聞いていました。これほどの晴天でも、わずかな
風波で、船が接岸できないのです。
「カメラ美女」は、いつのまにか、さかんにシャッターを切り始
めていました。ライツ=ミノルタは、ちょっと見ると安物のカメラ
のように頼りなげなので、まるで写真を撮影している緊迫感があり
ません。船のへさきに腹ばいになって、島の全景を撮影している
「カメラ美女」の姿はこっけいですらありました。Sは、そんな
「カメラ美女」に、何かさかんに声をかけていました。
軍艦島の正面防壁が日の出直後の太陽光線を強烈に反射していま
した。「カメラ美女」のファインダーに写っているのは、まばゆく
輝く 軍艦島の姿だったでしょうか。
船は右へ右へと回頭します。強烈な日の出の光線は、次第に届か
なくなって、島の裏側の陰気な荒れた肌のコンクリート護岸が目に
入ってきました。
表の「腐った桟橋」よりも、さらに貧弱な「桟橋」が見えました。
あそこに接岸するのかと思うと心細いほどです。
いよいよ上陸。
Sは搖れる船から、器用に桟橋に降り立つと、まず船首のロープ
を手に持ち、最初に「画学生」を、ついで「カメラ美女」を、さら
にS自身のカメラ機材を持った僕を、誘導して、桟橋から島の中へ
と誘いました。
ロープを最後に船に投げ返しました。
「じゃあな。夕方4時だぞ。表のほうだぞ」
念を押したおじさんの声は、船とともに桟橋を離れ、たちまち遠
くに消えて行きました。
(以下次回につづく)
#2841/3137 空中分解2
★タイトル (RJM ) 93/ 2/11 21: 8 (119)
ぶら下がった眼球 第二章 スティール
★内容
第二章 『 計 画 』
『じゃあ、本題に入ろうか?』と、我々を集めたと思われる、その男は、そう言っ
た。歳は、四十前後といったところか、背は人並みだが、体のがっしりした男だっ
た。しかし、私の見たところでは、ただの軍人にしては、少し、目付きが悪すぎる
ような気がした。私は、直感で、彼をスパイか何かではないかと、疑った。彼は、
その目をぎらつかせながら、皆を見渡していた。しかしながら、なぜか、他人に不
快感を与えるような感じはしなかった。それは、彼が持つ、気品というか、優雅さ
というか、その種の貴族的な雰囲気がもたらすものなのであろうか?
その男は、二、三度、咳払いをしてから、私たちに、話を始めた。その口ぶりは、
我々に対する話や説明というより、演説のような感じだった。
『やぁ、諸君、自分は、コーチェフ・ストラフスキー大佐だ。こうして、君らと会
えたことを、たいへん、嬉しく思っている。今回、諸君に集まってもらったのは、
ほかでもない、ある計画の推進のためだ。その、ある計画とは、私の恩人であり、
諸君らにとっては恩師であるバベル博士の、バビロン計画だ』
バビロン計画と聴いた我々の中では、一瞬、軽いどよめきが起こっていた。彼は、
それを、目で制しながら、言った。
『諸君らも知っているように、我々の宇宙における活動のすべては、公式には、軍
の活動とされています。つまり、君たち科学者も、宇宙で活動するときは、広い意
味での軍人ということになります。ただ、研究開発部門は、形態としては、公社と
いう形を取って、大幅に民間の資本を導入し、現在では、実質的に民間企業と変わ
りないところまで、到達しています。
研究開発公社の前総裁は、今は亡きバベル博士の初期の教え子であり、友人でも
ありました。そのことは、みなさんにも、周知の事実であると、思います。博士の
死後も、前総裁の指示で、バビロン計画は、公社ではなく、軍直属のスタッフの手
によって、秘密裏に推進されてきました。バベル博士によって、バビロン計画は、
99%まで完成したはずなのですが、その後、十年以上も、まったく、進展が見ら
れません』
私は、軍のスタッフの無能さに、内心、吹き出していた。完成した99%ではな
く、その残った1%にこそ、人間の本質が隠されているのだ。おそらく、これから、
我々に協力を求めるのだろうが、バビロン計画のこれまでの経過から考え併せてみ
ても、自ら、志願してまで、計画への参加を望む者は、私以外には、そうはいない
だろうと、私は思った。
案の定、大佐は、私の予測したとおり言葉を、我々に伝えた。
『そこで、上層部の提案により、バベル博士の教え子の中から、協力してもらうも
のを募ることにしました。定員は、一名です』
会議室に、軽い嘲りと、そして、笑いの渦が起こっていた。バベル博士の惨めな
末路を、ここに居る皆が知っていた。それから、軍の冷たさも。
『軍の威信をかけた、我がバビロン計画の新スタッフ募集を始めるにあたって、ま
ず、一番良い条件から、先に言いましょう。報酬は、今の年棒の二十年分です。但
し、これは、バビロン計画が成功すればの話で、もしも、失敗に終われば、通常の
給料だけしか、支払われません。それと、研究の場として、スペース・ラボラトリ
ー・シップ(宇宙研究船)である、最新鋭のノア6号が提供されます。この、ノア
6号は、計画に参加してくれた方のご希望があれば、五十年の無利子ローンで譲り
體nし致します。船は、新品の物で、研究機材も、最高の物をお望みの通り、準備し
て、無料で差し上げましょう』
確かに、破格の条件だった。これだけの好条件であれば、希望者が出るかもしれ
ない。大佐は、かなり、物分かりの良い人物のようだ。大佐は、手元のメモに目を
落として、一息ついてから、また、話を始めた。
『バビロン計画の概要ですが、これは、ここにいる方々に、改めて説明する必要は
ないでしょう。バビロン計画は、基本的に、機密事項ですので、この場で、おおっ
ぴらに、詳しいことまでは言えません。希望者とは、個別面談を行います。バビロ
ン計画が、どこまで、進捗して驍「るかも、そのときに、詳しく説明することになる
るナしょう』
大佐のその言葉を聞いて、私は、いくぶんか、不安になった。私のほかにも、誰
か希望者が出るかもしれない。私の不安をよそに、大佐は、相変わらず、落ち着い
た口ぶりで、説明を続けていた。
『希望者は、すぐにでも説明できるような、簡単で、明瞭なプランを持って、秘書
を通して、自分の部屋まで来てください。私は、明確なプランを望んでいます。バ
ビロン計画のことは、事前に連絡していなかったので、皆さんのほとんどが、まっ
たく準備していないことと、思います。しかしながら、いささか失礼ですが、ここ
で、この私を納得させうるだけのプランを持ち合わせていない者は、私の期待に応
えることはできないだろうと、私は確信しています』
いつの間にか、我々を取り巻いている、場の雰囲気は、いくらかの興奮を含んだ
緊張したものに変わっていた。大佐の話は、それで終わった。だが、我々の興奮は、
それだけでは、収まらなかった。多くの者が、レストランやカフェに場所を変え、
ランチをほおばったり、コーヒーを啜りながら、バビロン計画の失敗の原因につい
て、口から泡を飛ばして、激論に熱中していた。もちろん、私とモーゼルも、その
中の一組になっていた。
『軍に置いておくには、惜しい男だな』
と、私の隣に座っていたモーゼルは、大佐について、そう、言及した。
『まったくだな! モーゼル』
それは、私も同感だった。ただ、モーゼルは、私とは違って、彼の個人的な趣味
から、大佐に興味を持ったのかもしれないが。
『でっ、応募するのかい? ヘンリー』
『ああ、策がある』
『お前も、物好きだな。大佐に、一目惚れでもしたのかい。だが、確かに、条件は
いいから、挑戦する価値は十分あるな』
『衛星軌道に乗りながら、地球を毎日見下ろせるのが、気に入ったのさ』
『人間嫌いのお前が、地球のそばに居たがるのも、まったく、おかしい話だがな』
『地表で暮らすのと、上から見下ろすのとは違う。地球を、上から見下ろすと、な
んだか、自分が偉くなったような気がする』
実のところ、私は、ずっと以前から、バビロン計画に、興味を持っていた。バビ
ロン計画こそが、長年の私の夢を叶えてくれるはずだと、私は、ずっと、信じてい
たのだ。バビロン計画に志願するのにも、きちんとした理由があった。しかし、そ
れは、誰にも、言いたくないことだったので、ここでは、何も言わなかった。バビ
ロン計画に深い関心を抱いていた分だけ、私には、バビロン計画に参加したいとい
う気持ちを持ち合わせていた。私は、自分が疑問に思っていたことを、モーゼルに、
率直にぶつけてみることにした。
『モーゼル、バビロン計画の失敗の原因をどう思う? 俺が思うに、バビロン計画
で造られる人体は、もう完璧なんだ。問題は、どうして、失敗するのかということ
だ』
『要するに、あとは、脳のプログラムだけだろう。聞いた話じゃ、脳のコピーや、
脳細胞からの培養とかの方法も却下されたらしい。ほんとうに何も無いところから、
プログラミングなんかしてたら、何十年かかるか、わからんぞ』
『それじゃあ、その対策は?』
『造ってからの、教育期間をもっと長く取るか、それとも、脳に植え付けられる記
憶の量が、もっと多くするか、どっちにしても、その線じゃないのかな?』
モーゼルも、他の人と同じような過ちに陥っていると、私は思った。が、その感
情を、態度には、出さなかった。何かをごまかすように、私は、ボーイを呼び、熱
いスープを頼んだ。
#2842/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 93/ 2/12 6:15 (121)
児童文学探訪「へちまのたね」(1) 浮雲
★内容
*
いま、日本の児童文学は危機にある、といわれています。
第一に、子どもたちがそれを読まない(したがって売れない)。
第二に、すぐれた作品が書かれない(したがって読まれない)。
第三に、誰のために(というよりも、誰に向かってというべきだが)書くのか
、つまり読者対象があいまいになっている。
第四に、すぐれた評論・研究がない。
などに集約されるようです。
まず、三番目の問題について考えてみようと思います。
児童文学は、その名の通り、子どもたちを読者にした文学であることは言うま
でもありません。ところが、最近、「おとなのための童話」ということばが聞か
れるようになりました。おとなのこころに棲む「児童性=こどもごころ」に訴え
ようという意図によるものです。ですから、モチーフやテーマは、子どもたちに
理解されようがされまいが、問題にはされなくなります。
このような動きに対して、それを児童文学の発展とみる向きと、そうではなく
、一種の拡散状況であり、いわゆる境界線があいまいになりつつある他の文学(
芸術)と同じ問題としてとらえるべきだ、という見解とが交錯しています。
また、後者の立場をとる人たちにとっては、「おとなのための児童文学」では
なく、「童話」という掲げ方についても、異論があるようなのです。
もしそれが、「童心主義」への舞い戻りであるとすると、ある意味では保守回
帰にもつながり、憂うべきことだと懸念されているのです。
そこで、「童話」と「児童文学」は、どう違うのか。そのことを見ていきまし
ょう。
*
日本において、それまでのお伽噺や絵草紙から抜けでて、「近代童話」と言わ
れるものが確立されたのは、明治の後半から大正にかけての鈴木三重吉による「
赤い鳥」だというのが定説になっています。
俗悪な大衆文化から純真な子どもたちを護れ、これが三重吉らの掲げたコンセ
プト(基本理念)でした。いわゆる「童心主義」とよばれるものです。
しかし、明治から大正にかけて、「富国強兵」の矛盾のたかまりとともに、人
権意識や労働運動が高揚する中にあって、小川未明や浜田広介らは、「童心主義
」が何も解決しないことを知らされたのでした。しかし、未明は、代表作「赤い
ろうそくと人魚」に端的にみられるように、個人を描くことでは従来の「童心主
義」を越え、文学的な発展を示したものの、一般に「象徴童話」と呼ばれる方向
へと筆先を向けたのでした。それは、時代を生きる子どもたちの生き生きとした
生活や人間性を、生きた過程そのものとして描写するというよりは、人間として
あるべき姿(=結論)を提示したものでした。暗い生活から逃れる方法について
触れずに、一気に安住の地を作品世界に求めたのです。理想主義的な傾向を強く
持ち合わせていたのは、そのせいでもあったのです。
また、昭和はじめに隆盛をみた「プロレタリア児童文学」は、直接子どもたち
に訴えようとして点では画期的ではあったのですが、子ども=労働者予備軍、と
いうとらえ方が強く、文学としては底の浅いものにとどまったのでした。
*
戦後直後、「近代童話=象徴童話」は、平和と民主主義を旗印に、いつときの
隆盛を誇りましたが、朝鮮戦争と前後して、世に氾濫しばめた、いわゆる「通俗
読物」によってことごとく退けられてしまったのでした。多くの童話作家たちは
、「俗悪な通俗読物」を非難しましたが、それよりもなによりも、子どもたちが
「おもしろさ」を選んだ結果だというべきでしょう。
食うためにエネルギーの大半を費やし、一方で戦争の恐怖を拭い切れていない
当時にあって、うわついた理念をふりかざすだけの「よい子童話」が振り向かれ
なかったのは、当然といえば当然のことでした。平和と民主主義というまったく
新しい旗を掲げながら、その子ども像は旧態依然とした「童心主義」から抜けで
ていなかった、そのことの結果でもあつたわけです。
また、当時わずかではありましたが、すぐれた児童文学作品が書かれましたが
、そのほとんどが児童文学作家ではなかったことに注目すべきでしょう。(「ノ
ンちゃん雲に乗る」「ビルマの竪琴」「二十四の瞳」など)
そうした中、「通俗小説」に負けない児童文学は「近代童話」からけつ別する
ことからしか生まれない、と考えがえる人たちが現れました。そして生まれたの
が、「現代児童文学」と呼ばれるものだったのです。担い手たちは、大学のサー
クルや同人誌を中心にした、若い人たちでした。古田足日、山中恒などなどです。
そして、現在の日本の児童文学の主流は、この「現代児童文学」の流れを汲む
ものといってよいでしょう。
もっとも、「象徴童話」が、完全に壊滅したわけではありません。ある意味で
は、一方の旗頭として、現在も確固たる位置を占めていることは否定できません。
それは、「近代童話」からけつ別しよう、という問題提起が十分に論議されな
いままこんにちに至っている、という証でもあり、それが現在の「低迷」の遠因
でもあるといってよいかと思います。
こうして、概括してみると、「おとなのための童話」とは、「近代童話」が現
代に蘇ったものをさすように思われがちですが、そうではありません。まったく
異質なものです。
ですから、おおざっぱにいうと、日本における児童文学の流れとしては、大き
く三つに分けることができると思います。
1)「近代童話=象徴童話」の流れ。
2)「近代」童話からけつ別した「現代児童文学」の流れ。
3)おとなの児童性に向けて書かれる「童話」の流れ。(新しい流れ)
こんにちの日本における主流は、1)と2)ですが、そのいずれもが、低迷に
あえいでいることは、冒頭にのべたとうりです。
では、3)だけが活況を呈しているのかというと、残念ながら、いまから三十
年前に「近代童話」に「さよなら」を告げた「現代児童文学」が持っていたよう
なエネルギーはみられません。むしろ、日本の児童文学の危機の裏返し、という
ことができるのではないでしょうか。
このことについては、おいおいくわしく見ていくこととして、先に進みましょ
う。
*
子どもたちは、なぜ本を読まなくなったのでしょう。それについて、「日本児
童文学」という月刊雑誌におもしろいはなしが紹介されていました。
あるPTAでの集まりに出席したお母さんたちのあいだで、子どもたちはなぜ
本を読まなくなったのかという話になったというのです。要約すると、
1)読んでも読まなくてもよい本ばかりだから。
2)塾や勉強で忙しくて、本を読むひまがないから。
3)ほかにおもしろい遊びがたくさんあるから。
などの意見が出されたのですが、1)のお母さんは、重ねて「本は楽しくない
」と断言したのです。
この逸話には、いろいろ重要な問題が含まれています。
なにかというと、マンガやTVに犯人を押し付ける風潮がひところありました
が、それでも最近はそのような乱暴なことを言う人は少なくなりました。でも、
3)の発言をしたお母さんの頭には、そのことがかすかに残っていたのかも知れ
ません。
ところで、問題は「おもしろい本がない」というところにあります。つまり、
くだんのお母さんは、客観的な事情に原因をなすりつけるのではなく、児童文学
の質=作品、にその原因を求めたのです。読者である子どもたちを忘れ、ひとり
よがりな、閉じられた世界の物語を書いていやしないか、現実の世界から遊離し
たところでふんわり甘いだけの世界を描いてやしないか・・・、そのことをつき
つけたのではないでしょうか。
そのお母さんは、こうも言っています。
「よい本があったら、どんどん読むわよ。だってさ、子どもたちは本を読みた
がっているのよ。どんな子どもだって、もっと強く優しく賢くなりたいのよ。
つまりもっと人間らしい人間になりたがっているのよ。それは昔も今も、変
わらないのよ。だって子どもだって人間だもの。」(93年2月号)
−つづく−
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参考文献
「現代児童文学論」古田足日 くろしお出版
「日本児童文学」93年2月号 文渓堂
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#2843/3137 空中分解2
★タイトル (RDF ) 93/ 2/12 13:46 ( 25)
天奏のものがたり PART2 「被崎騒動」 月境
★内容
CHARACTEA
天奏 被沙 智可の双子の兄。天奏の嫡男。智可を溺愛する。
天奏 智可 被沙の双子の弟故に、12歳まで存在を隠され城の外で女の子とし
て養育されていたが、そのことが兄に知れ、その兄のたっての願い
で城ににあがり、二の君となった。被崎速騎とは幼友達の間柄。
神月 宗春 天奏の殿様の腹心。
神月 明 智可の小姓。宗春の養子。
智 天奏の忍び
被崎 速騎 智可が美濃の城下町に住んでいた頃の幼友達。今は城持ちの若君。
藤綺 竜可 速騎の直属の臣。
在元 可継 速騎の直属の臣。
西原 許信 速騎の直属の臣。
小原 許信 天奏の間者。
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