CFM「空中分解」 #1345の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
『熱帯魚』 栗田香織 (1) 「温度に気をつけててよ。サーモスタットは一応ついているけど、念のために時々 確かめて。それから餌は一度にたくさんあげないでよ」 玄関で靴を履きながら、哲夫はくどいほど念を押した。 父親と二人だけでのスキー旅行。出発に心浮き立っていると思うのだが、それで もやはりあの熱帯魚のことが気になるらしい。 「はい、はい。何度も聞きました。ちゃんとやれるから心配しないで行ってきてね」 美佐子は哲夫を安心させるように言った。 「おい、哲夫、早くしないか」 外で車のエンジンをふかしながら、島野良夫が大きな声で哲夫を呼んでいる。 「さあ、哲夫君。お父さんが待ってるわ」 美佐子は、哲夫の背中を押すようにして玄関を出た。 セーター一枚のまま外に出たので、冬の朝の寒さが美佐子の痩せた身体の芯まで 忍び込んだ。昨日のクリスマス・イブは雪が降らなかったが、この冷え込みからす ると、今夜はホワイト・クリスマスになるかもしれない。 車に乗り込みドアを閉めながら、哲夫が美佐子を大人びた目で見上げた。 外見は決して大人っぽいとはいえない。同級生の中でも小柄で、顔つきも童顔の 父親に似て子供子供している。 しかし、じっと上目使いで美佐子を見るその目は、妙に老成した感じを与えた。 それはいつも美佐子を不愉快にさせる、あの何もかも悟ったような冷たい目だった。 その目を見ていると、ひょっとしてこの子は私がやろうとしていることを見抜い ているのかもしれない、などと不安になってしまう。だが、そんなはずはなかった。 もし、この計画を哲夫が知ったら、あの熱帯魚を託したまま出かけるはずはないの だから……。 やっと車は出発した。島野の家は、勾配の急な長い坂道の途中にある。 美佐子が坂道を下っていく車を見送っていると、向いの家の主婦、伊沢真智子が ゴミの袋を持って出てきた。 「おはようございます」 と、あくび混じりの挨拶だ。その姿ときたら、くたびれた黒っぽいセーターに、 膝小僧の飛び出したグレーのニットジャージーのスラックス、髪はひっつめて黒い ゴムでくくっている。もちろん、化粧気などない。 「おはようございます」 美佐子はそう挨拶を返しながら、 (年だって私とそう変わらないはずなのに、なんでこの人、もうちょっとおしゃれ に気を使わないんだろう) と、真智子に対するいつもの感想を心の中でつぶやいていた。 「あら、御主人たちスキーなの?」 遠ざかって行く車の屋根に積んであったスキー板に気が付いたのだろう、真智子 はそう問いかけてきた。 「ええ、二学期の成績が上がったら冬休みにスキー旅行に連れて行くって、ずっと 前から約束してたのよ」 「どうしてあなたは一緒に行かなかったの?」 おしゃべりで詮索好きだと評判の真智子は、普段から向いに住む十二歳も年の違 う夫婦のことや、子供と若い継母のなさぬ仲などが気になってしかたがないようだ った。とがった顎を突き出して、探るような視線を美佐子に向けた。 「今が一番大事な時期だからって、お医者さまが……」 「あら、もしかして赤ちゃん?」 「え、ええ」 真智子の視線がチラッと美佐子の腹部に走った。そして好奇心丸出しのその表情 に、あわててわざとらしい笑みを浮かべて言った。 「そう、それはよかったわね。でも……これからあなたも大変ね」 何が大変だと言いたいのか、真智子の考えていることくらい美佐子にはわかって いた。そして真智子がそのことを話題にしたがっていることも。 「うちの伸一が言ってたんだけど、お宅の哲夫ちゃん、あなたのことまだお母さん って呼ばないそうじゃない。『美佐子さん』って呼ぶんですって?」 「そうなの。でも、急に『お母さん』って呼びなさいって言われても無理ですもの ね」 「だってもう半年でしょ。あなただっていけないわよ。いつまでも『哲夫君』なん て、君づけで呼んでるんだもの。せめて『てっちゃん』とか……」 真智子の話はまだまだ続きそうだった。美佐子は、うんざりした気持ちを顔にだ さないように苦労しなければならなかった。 「ごめんなさい。うちに電話みたい」 美佐子はそう言って、玄関に走り込んだ。 「何も聞こえないわよ」 不満そうな真智子の声が追ってきたが、かまわず美佐子は玄関のドアを乱暴に閉 めた。 朝食の後かたづけ、洗濯、掃除と主婦の仕事に追われながら、美佐子は何度も水 槽の前にたたずんだが、まだ実行出来ないでいた。哲夫たちが旅行しているこの四 日間のうちに片付けてしまわなければならない。迷うことはない、簡単なことだ。 掃除機の手元スイッチをオフにすると、居間は急に静かになった。 コポコポというエアーポンプの送り出す微かな音が、その静けさの中で暴力的に 美佐子に襲いかかる。 それが引金になったように、美佐子は掃除機を足元に放り出すと、水槽の裏に手 を伸ばし、保温用のヒーター、サーモスタット、照明用の蛍光灯、エアーポンプ、 すべてのプラグを次々とコンセントから引き抜いた。
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