CFM「空中分解」 #0951の修正
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ところで、早彦は幽霊を見ていた。研究室の窓辺から戻ってきて、 どのくらいの時がたったのだろうか。容易に寝つかれないので、思 いを決めて肉体と魂の分離の術を試みていたのだった。その程度を、 催眠剤替わりになるくらいのものに控えようと考えていた。寝台の 白いシーツの上で、細い躯を人形のように静かに伸ばし、心臓の上 で指を組む。半覚半睡の状態をめざしながら、夢を見るようなつも りで、ただ意志だけを鞏固(きょうこ)にしていた。やがて肉体の 感覚が失われてゆく。いまだ「「、早彦は考えていた。いま、躯を 脱け出すことも、夢を自在に操ることもできる、と。 幽霊が訪ったのはこのときだった。部屋のドアが鍵のかってある のにもかかわらず、音もなく開き、すでに、その前には、白っぽい、 やや薄汚れた長い布を肩からすっぽり纏(まと)った男が、目を 爛々(らんらん)と光らせて、漂うごとくに佇(たたず)んでいた。 おれの胤(たね)、おれの分身、一族の者よ「「、幽霊は語った。 いや、語ったわけではない。そのような思念を、心と心を結ぶ対話 の術で、早彦に言葉を告げたのだ。 「「おれは十三年前に、悪逆無道の罪人として死一等を与えられ た。爾来(じらい)、悪逆の念としてこの世を呪いつづけていた。 おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った男 だ。おまえの母親は自ら進んで、このおれに抱かれたのだ。 早彦は、忌わしい緊張感などというものに囚われない自分に驚愕 していた。幽霊の語る言葉がよく呑み込めぬままに、ぼんやりと寛 いでいた。なつかしい匂いを嗅(か)ぐような気もした。 その幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われ なかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、物そのものの 性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでい る布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れているせいでもあった。 けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機 械的な顫動(せんどう)を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表 情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自 働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧(おこり)にうち ふるえる瞬間のごとく「「。その繊細さは、早彦の捏造(ねつぞ う)する夢の中の登場人物に共通する、いつでも存在を何か別のも のに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、そ れ以外の部分に濃厚に感じられる存在感「「。表情や仕種の妖異さ、 独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。 見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってきた。それはま さしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。 「「おれが何ものか、おれの本体が何であるか、おまえは見なけ ればならない。おれはありきたりの蒙昧(もうまい)な亡霊どもと は異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真黒 な渦が巻いているように感じられた。至るところで微細なまでに振 動する空気の、その全ての粒子が、早彦の全身の肉襞(にくひだ) に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついていた。幽霊は振り払う ような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂う ように宙を舞った。凍りついた早彦の眸(ひとみ)が布の向こうに 捉えたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空 間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だ けが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま 硬ばって、身動きひとつできないでいる早彦を睨(ね)めつけてい た。 どれほどの長い時間が経過していたのだろう。本当はわずか寸秒 のことだったのかもしれない。浮游(ふゆう)する顔は初めから色 彩を失っていたが、首だけになると、褪色した薄い皮膚はみるみる 涸(ひから)び、ついにはかさかさになって剥落していくのである。 鼻梁や耳朶(じだ)もその形を崩し、軟骨がこぼれ落ちる砂のよう にさらさら音をたてて空中に四散していく。ただひとつ、その姿を とどめているのは、剥き出しになった裸の眼球だった。網目状の毛 細血管に絡みつかれ、燠火(おきび)や鬼火を思わせる血の塊とな って膨んでは萎む眼球が、闇の中で妖しく炯(ひか)っていた。 「「なんというおぞましい事態。死そのものの無機性である頭蓋骨 の中央で、不吉な生を暗示する怪異な二つの眼球の蠢(うごめ)き。 早彦は、睡眠時の瞼(まぶた)の下で活溌(かっぱつ)に跳ね廻る 眼球運動の、見ることへの異様な執着を思い浮かべた。 髑髏(どくろ)は空中の一箇所にとどまることをせず、後方に退 いてはまた早彦の目前まで迫り、まるで球面を無軌道に滑りつづけ るようにして早彦を威圧し、執拗に、見ろ、よく見るのだ、と繰り 返していた。そのうちに、骨の廻転体に象嵌(ぞうがん)されてい る眼球の、青灰色の中心近傍も、どんより濁った暗灰色に変じ、血 脈によって隈取られていた暗褐色の外縁部も、涸(かわ)いた黒い 色へと色調を落としていった。それからしだいに眼窩(がんか)の 闇へと沈んでゆき、そのあたりは落ち窪んだ翳りだけがつづく深い 洞窟を思わせた。 形骸と化した髑髏(どくろ)はそれでもなお飛び廻り、幾度とな く早彦の目の前に迫っては、純白に光る歯ばかり並ぶ口蓋を噛み合 わせ、まるで早彦の細い喉笛に喰らいつこうとでもしているように 見えた。闇に浮かぶ白い髑髏(どくろ)、それは己れの躯を捜し求 めているかのようだった。「「おれは頭蓋骨だけで生き永らえてい るのだ。おれの輪廻転生はこの頭蓋骨に凝結し、おれの呪いも、お れの残虐無比も、ここにきわまっているのだ。髑髏(どくろ)は宙 宇の一点に静止して、闇の根源である暗黒の点のように、そこだけ 無限の深い暗がりをつくり、暗箱の中にしかありえない絶対黒色の 描線で、頭蓋骨の全ての稜線を描き出していた。 「「わが裔(すえ)よ。数万年を古りたわが血の族(うから)よ。 おれたちは頭蓋骨だけで生きている。おれたちの永劫の魂はこの骨 の中に封じられて、決してどこにも去ることはないのだ。おれたち の肉が滅びようと、おれたちは地を充たす地の塩となって、死ぬこ とはない。時がおれたちの味方だ。世界の滅びも、おれたちには無 縁だ。 早彦は、静止したまま地の底から涌き出るような暗い言葉を告げ る幽霊の、いまやただひとつ残された髑髏(どくろ)に、一角獣の ような角が生えているのを認めた。そして、その髑髏(どくろ)が、 研究室に秘匿されていた頭蓋骨そのものであることを理解した。 「「おれたちは純粋に本来的であって、冒されるべきものではな い。なぜなら、わが眷属(けんぞく)は人類の唯一の始源だからだ。 おれたちには全てが許される。わが眷属(けんぞく)は神なるもの さえ凌駕(りょうが)する族(うから)だからだ。 年若い早彦に、幽霊が何を伝えようとしているのかは分かりよう もなかった。だが、なぜか、不思議な感銘を受けていた。数万年を 経た黴臭(かびくさ)い澱んだ空気が体内を侵しているように思わ れた。なつかしい死者たちの塩が、部屋に、体内に充ちている。早 彦は、名づけうべくもない戦慄が兆しているのをおぼろげに知った。 闇の本体と化した髑髏(どくろ)は、全ての暗黒を呼び寄せる動 きを終熄(しゅうそく)させたように見えた。そして、その暗黒自 体がまるで光の性質をもつもののように、漆黒の闇を黒々と燦(き らめ)かせた。次の瞬間、髑髏(どくろ)は周りの何もかをも根底 から破壊するような凄じい速度で部屋の中を疾った。その行手には 光を遮るカーテンと窓がある。早彦は、遮断するあらゆるものが吹 き飛び、大きな爆発音とともに粉々になるさまを予感した。そして、 粉砕時の轟音が耳に達したかのような錯覚に囚われた。しかし、髑 髏(どくろ)は窓に衝突すると同時に、まるで吸い取られるような 具合に、音をたてることもなく、忽然と姿を消したのだった。 呪縛を解かれた早彦は弾かれたように寝台から飛び起きると、カ ーテンをはねのけ、ガラス窓を開け放った。明るく澄んだ朝の光が いちどきに注ぎ込み、地上のいかなるところをも照らし出す太陽が 山の端から眩(まばゆ)い姿を覗かせていた。仰ぎ見れば、広大な 空は、真夏の一日の始まりに似つかわしい、目のさめるような青空 だった。惜しげもなく溢れる早朝の清々しい光の洪水の中で、病院 の窓という窓が空の色を映し、鮮烈な山々の緑を映して輝いていた。 早彦は悪夢から覚醒したような安堵を抱いたが、思い直して身を 乗り出し、階下の一部屋の窓を見やった。光の充ちている世界の中 で、研究室の窓だけが絶対の暗黒を保っていたのだった。 .
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