CFM「空中分解」 #0786の修正
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二 ズリ山の鋸歯(きょし)状の山容によって抉(えぐ)られた七月 の空が、その青さをいよいよ深めようという頃に、早彦はそいつを 見つけた。その日、鶉町の二つの中学の統合が正式に決まり、それ に反対する教職員のストライキが決行されたため、生徒は学校から 午前中に解放されていた。町の人口が減っていることは知っていた が、早彦にはそれが取り返しのつかぬことだという実感はなかった。 それでも、いつもは学校にいて見ることのできない時刻の、活気の 乏しくなった町の姿を知るいい機会だと思って、一度帰宅してから 外へ出てみた。絶頂の時期を過ぎて急速に没落していく炭鉱町は、 そのメインストリートでさえ、近頃、とみに走る車の数が少なくな っていた。けれども、灰色の舗装道路は燦々(さんさん)と降り注 ぐ太陽の光を存分に吸い込み、きらきら輝く光の粒を撒(ま)き散 らしていた。坂になったあたりでは、透明な水のような蜃気楼(し んきろう)が浮かんでは消えしていた。早彦は、その光の交錯する 道に気をそそられて、ぼんやり眺めながら歩いた。気の遠くなるよ うな、午後の緩慢な時の流れが身を浸していた。市街地のこの森閑 さは無窮のもののようにも感じられた。 そいつは隣町行きのバスを、停留所の廂(ひさし)の下で待って いた。そいつは褐色の薄汚れた作業着を着て、だぶついたズボンに 両手を突っ込んでいた。あのときの恰好(かっこう)とまったく同 じだった。「「自転車泥棒、早彦は胸の中で叫び声をあげた。しば らくためらった後、早彦はバス停に近づいていった。 じきにバスがやって来た。そいつは早彦に気づいたふうもなく、 バスの行先を確かめると、車掌からパンチの入った薄紙でできた切 符を受け取り、前の方の座席に坐った。早彦は最後尾の席からそい つを窺うことにした。 市街地の道路を右折して国鉄鶉線の踏切を越えると、両側に石垣 を嵌(は)め込んだ切り通しにさしかかり、その先は急峻(きゅう しゅん)な坂道だった。前にのめりそうな気がして、早彦は前の座 席の背に渡してある手摺を握りしめた。道筋のところどころに小さ な谷が走り、その向こうに町営の焼場と屎尿(しにょう)処理場が 見えた。緑の深い山並が近づいたり離れたりしていた。長い坂を降 りきると、蜿蜒(えんえん)とした道が続く。それにつれて、山肌 が迫りくるような景色は後退し、山間を縫って箱庭のような田畑が 現われる。バスの振動が単調なため、軽い眠気に囚(とら)われな がら、いったいどこまで行くつもりなのだろう、と早彦は思った。 「「自転車で遠乗りしての帰りに、早彦は陸上競技場の跡にさし かかった。そこは一昔も前、炭鉱が好景気を謳歌していた頃に、鉱 山会社が山腹を切り拓いて造ったもので、今は名も知れぬ雑草が生 い繁り、手を加えることもなく打ち棄てられていた。その傍を通る 砂利道も、ほとんど人の行き交うことがなかった。夕陽が沈もうと していたので、早彦はペダルを踏む足に力を入れた。家々の林立す る煙突からゆらめき流れる夕餉(ゆうげ)の烟(けむり)が、山道 の高みから一望すると、細長くつづく町並を霞のように包んでいた。 そのとき、あたりに谺(こだま)する大きな罵声と殴打する音が 涌き上がった。思わずブレーキをかけると、叢(くさむら)の奥か ら白い開襟シャツの若い男が飛び出してきた。しかし男は、早彦に 一瞥をくれることもなく、「おれたちは出ていく。そんなに先のこ とじゃない。こんな煤けたところは沢山だ。いいか、これはおまえ の女房が言い出したことだ。ふん、おまえは一生ここで穴でも掘っ ているんだな」と吐き捨てるように言うと、後も振り返らずにどん どん坂道を下って入った。早彦は自転車を道端に停めてしばらく様 子を窺っていたが、叢の向こうからは誰も出てくる気配がしない。 ただ、噎(むせ)び泣くようなかすかな声がした。早彦は跼(か が)みこむと、丈高い雑草を掻き分けて、その奥を覗いてみた。 くたびれた作業着の中年男が、頬に手を当てて蹲(うずくま)っ ているのが見えた。楕円形をした四百メートルのトラックが草に埋 もれているのとは対照的に、中央にある砂場を中心にした窪地がぽ っかりと地肌を覗かせていた。そこにくずおれた中年男は、自失し たような虚ろな眸(ひとみ)で夕焼けを眺めていた。すでに夕陽は 山蔭に入り、山頂に漂う雲が縁に赤味を残しているだけで、あとは 暮色が濃くなっていた。 森閑とした山の中で、早彦はなおも跼(かが)んでいた。男の人 相がよく分からなくなっていた。まだ泣いているのかとも思ったが、 足を投げ出して溜息をついているだけのようでもあった。男はその うちに奇妙なことを始めた。ズボンのジッパーを下ろすと、股間か ら黒々としたものを取り出すのだった。そして、低い唸り声で、ば かやろう、ばかやろう、と何度も繰り返した。早彦はその黒いもの が膨れ上がっていくのを見ていた。 男は勃起したものを握り、忙しく手を動かし、息を弾ませていた。 月が腐蝕したような色を帯び始め、夜風に山中の草や梢が擦り音を 洩らしていた。雲の間には一つ二つ星が瞬きだした。初夏に入って いるというのに、北国の風はまだ冷たい。早彦は身震いした。山々 の稜線の際に残された仄白(ほのじろ)い光がまったく消え失せる と、妙に澱(よど)んだ色の月が、あたりに朧(おぼ)ろな光を投 げかけていった。 男の股間から、その不吉な月めがけて、夜目にも鮮やかな、白い ものが迸(ほとばし)った。卒塔婆の間をうろつく鬼火のように、 肉体から脱け出ることのできる生命の原型のようなもの、早彦の脳 裡をそんな考えが掠めた。 その瞬間、「誰だ!」という鋭い声が放たれた。男が茂みの向こ うで仁王立ちになって睨みつけていた。早彦は飛び上がってしまっ た。男はズボンに性器を押し込みながら、駈け寄ってきた。その顔 は月の妖しい光に照らし出され、涙の痕跡を貼りつけたまま男の性 器のように赤黒く腫れ上がり、吊り上がった目には、早彦の心臓を つかみとらんばかりの狂暴さが浮かび上がっていた。早彦は山の斜 面を転がるように滑り降りた。 誰も追いかけてこないと知ったとき、早彦は炭塵の流れる黒い川 の畔にいた。息をついて山腹を仰ぎ見ると、人魂のような光が浮か んでいた。そして光が首を振るようにゆらめくと、次第に速度を増 して山腹の道に沿って流れていった。男が早彦の自転車を持ち去っ たのだ。あの光は自転車のランプに違いなかった。 早彦は人けのない木橋を渡りながら、ぬめりを帯びて流れる黒い 川面に、自分の細い影が月明りのために長く伸び、頼りなげにゆら めいているのを見つめていた。
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