CFM「空中分解」 #0778の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
大晦日の激しい雪降りの晩に、鶉町を大火が見舞った。洗炭場の 電気系統の事故が原因でガス爆発が起こり、その火が積み出しを待 つ貯蔵炭の小山を次々と襲い、一夜にして一帯の炭鉱関係の工場群 が灰燼(かいじん)に帰したのであった。燃え上がった炎は吹雪の 中を渦を巻いて中空に立ち昇り、雪を呑み込み、町の空全体を赤々 と染め上げた。降りやまぬ雪が、横殴りに吹きすさぶ風が、その勢 いになお力を与えているようにも思われた。濛々(もうもう)たる 烟(けむり)はその色を闇に削がれがちだったが、それでも中天の 高みに至ると、厚い雲を摩するように猛々しく伸び上がり、夜より 暗い色になって空を蔽った。すさまじい炎と舞い狂う火の粉に照ら し出された雪と冬空は毒々しいまでに紅蓮に染まり、その中をおび ただしいサイレンの音が駈け抜けていった。 数多くの怪我人が出たため、炭砿病院には収容しきれず、鶉町の 市街地にある幾つかの個人病院にも怪我人が運び込まれた。それぞ れの病院には患者の家族や同僚も詰めかけたが、除夜の鐘の鳴り終 わる頃には、ほとんどの人が病院を引き揚げていった。だが、家路 を急ぐ人々の顔には依然として北の空を染める炎の色が蔽いかぶさ り、どの表情にも始まったばかりの新しい未来への不安を表わす陰 翳(いんえい)が映し出されていた。 矢継医院でも、ようやく表玄関に鍵が掛けられた。油烟(ゆえ ん)や石炭の粉に汚れた雪が、押しかけた人々の着衣や靴から溶け 出し、泥濘(ぬかるみ)のようになっていた廊下も、もうすっかり 拭き清められていた。看護婦が二人居残ることになり、二階の詰所 で仮眠をとっている。また、入院患者のために設けられた娯楽室で は、安否の気遣われる重傷者の家族が毛布にくるまって蹲(うずく ま)っていた。 先ほどまで騒然としていた一階は、人の気配も失せて、静まり返 っている。廊下の奥にある手術室の術中を示す赤ランプは消え、た だ一つ、裏口にある非常口を表わす緑の表示燈だけがぼんやり点っ ていた。しかし、手術室の両開きの重いドアは開け放たれたままだ った。死者を閉じ込めてしまわぬようにとの配慮でもなされていた のだろうか。手術室の明り採りの高窓から、建物の外にある水銀燈 の光が、降り続く雪の乱反射がもたらす妖しい効果によって、いっ そう青みを帯びて入り込んでいた。 手術台の上で横たわる死体が、その光の中にあった。腹部を白い 布で蔽われただけの骸(むくろ)は、凍りつくような寒さの中で丸 裸だった。アルコールで全身を拭われ、火傷による激しい爛(た だ)れも、熱を失ったせいか肌に吸い込まれ、動かぬ体は滑らかな 鉱物でできているように見えた。数十年、筋肉労働だけに打ち込ん でいたのだろう、老人の年には不釣合な逞(たくま)しい裸体だっ た。いま、老人の死んだ肉体は、瞼(まぶた)を閉じられて、蒼白 な光と静謐(せいひつ)さに支配された闇の中にぽっかりと浮かん でいる。そしていつのまにか、手術室の両開きにされたドアの傍に、 青白い顔をした少年が立っていた。 矢継早彦「「、矢継医院の跡取り息子である。彼は、病院の二階 にある勉強部屋から、院長宅の側の階段を廻って、誰一人としてい ないこの一階へ降りて来ていた。そして、ここで、生まれて初めて 死体を見た。 その死体は白蝋のような青白い艶を帯びて横たわっていた。手術 室の中は外燈の光がわずかに注ぐだけの暗闇だった。そこに、まる で造りもののような、感傷など寄せつけぬ明瞭な死の形があった。 綺麗だな、と思ってから、ふとあたりを見廻した。けれども、ここ にいるのは確かに早彦だけだった。 早彦は足音をたてずに死体のそばに進み寄り、胴体を蔽っていた 布を恐る恐るつまんだ。それは、死の秘密を嗅ぎとろうとしてのこ となのか、あるいは得体のしれないものに唆されてでもいるためな のか、早彦自身にも判断がつかなかった。 火傷の痕がへこんだといっても、近くで見ると酷く醜悪で陰惨な ものだった。そればかりか、蛋白質の焼ける異様な臭いさえ残され ていた。腹部の方は大した傷も見当たらず滑らかだったが、右の脇 鬱血(うっけつ)して膨らんだままの性器が垂れ下がっていた。白 髪混じりの頭部の毛の半分は脱け落ち、地肌が焼け爛(ただ)れ、 顔の皮膚も引き攣(つ)れていた。それでも、瞑目した老人の表情 は穏やかなものに見えた。 早彦は手を伸ばして、老人の閉じられた瞼(まぶた)に触れてみ た。それは酷寒の冬そのものを一点に集めたかのような、驚くべき 冷たさだった。あわてて手を離すと、死体の瞼(まぶた)がずり上 がった。瞳孔を開いたまま、死体の眼球が早彦を睨(にら)み据え た。 そのとき、骨の鳴る音がした。鈍いけれどもよく響く音だった。 そして同時に、死体の腕がバネ仕掛のように折れ曲がった。 早彦は背筋を氷の牙によって噛みつかれたような悪寒を感じ、思 わず後退った。そのまま手術室を飛び出すと、大きな足音をたてさ せながら真暗な廊下を駈けていった。 手術室のドアの蔭に、矢継院長が立っていた。息子の走り去った のを確かめると、手術室の中に入り、死後硬直の始まった老人の腕 を、ぱきんぱきんという音をさせながら凄じい力で折り曲げ、胸元 で合掌させるのだった。
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